A北斎案内板を見ながら歩く北斎ゆかりの両国コース  

コース 踏破記  

今日は、すみだウォーキングマップ2020年版で二番目のコースである墨田区の「A北斎案内板を見ながら歩く北斎ゆかりの両国コース」を歩きます。北斎の案内板や住居跡を巡り、ついでに吉良邸跡と回向院にも立ち寄ります。最初に歩いたのは2022年の3月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年6月に改めて歩きました。

A北斎案内板を見ながら歩く北斎ゆかりの両国コース

すみだ出身の世界的な絵師・葛飾北斎の生誕の地があり、エリア内には様々なゆかりの地があります。

「A北斎案内板を見ながら歩く北斎ゆかりの両国コース」の歩行距離は約4.3km(約6、200歩)、歩行時間は約1時間、消費カロリーは約190Kcalです。

スタート地点:JR両国駅西口
ポイント1 北斎案内板 新柳橋の白雨 御竹蔵の虹
ポイント2 旧安田庭園 北斎案内板 駒止石
元禄年間に造られた大名庭園。園内には北斎が絵の題材とした駒止石があります。
ポイント3 すみだ北斎美術館
すみだ出身の世界的な絵師・葛飾北斎の作品が見られます。
ポイント4 榛稲荷神社
晩年の北斎は、娘のお栄とこの辺りに住んでいたと伝わっています。
ポイント5 吉良邸跡(本所松坂町公園) 北斎案内板 新坂浮世絵忠臣蔵第十一段目
赤穂浪士の討入りで知られる吉良上野介の屋敷跡。北斎も討入りの場面を描いています。
ポイント6 両国橋 北斎案内板 両国納涼一の橋弁天
北斎は、納涼の人々でにぎわう両国橋の様子を描いています。
ポイント7 回向院
境内で北斎が巨大な絵を描く大パフォーマンスを行ったと言われています。

ゴール地点:JR両国駅西口


スタート地点のJR両国駅西口から歩き始めます。



国技館通りに面して横綱像が建っています。この通りには何カ所か横綱像があって、未使用の白板があることからこれは一番新しいようです。手形のレリーフは「白鵬」と「鶴竜」の2枚ですが、どちらも顔立ちが似てないように思います。



国技館は普段は閉鎖されていますが、日によって一部の施設が開館されることがあります。



2025年6月に再訪した時は、開館日だったようで中に入ることができました。若い力士さんも行き来していて、海外からの観光客が珍しそうに写真を撮りまくっていました。



柵の外からは見えませんが、櫓太鼓の傍に大きな石碑が建っています。天皇で最初に蔵前国技館で本場所を観戦したのは昭和天皇で、昭和三十年(1955年)夏場所10日目の戦後初の天覧相撲でした。行幸の際に詠んだ御製の記念碑が蔵前国技館に建立され、現在は両国国技館に移設されています。

御製

   ひさしくも
      見ざりしすまひ(相撲)
         人びとと
   手をたたきつつ
      見るがたのしさ

昭和三十年五月、天皇陛下親しく蔵前国技館に行幸。はじめて国民と共に本場所を観覧あらせられた。陛下は終戦時国民を想い、「五内為ニ裂ク」と仰せられた。又日常国民の上に御心の安まる間とてもない。然るに御観覧中は椅子を進められ、拍手を送られ大衆も之に和するという光景を現出したのであった。天皇が一般国民と一つになって我國の國技たる相撲を御覧になった和やかな情景は戦前には見られないことであった。陛下がお喜びになったことが新聞・ラジオ・テレビジョンによって傳えられるや國民全体はまた心の底から喜んだのである。これは其時の御製であって翌年正月初めて發表せられたものである。我國相撲道の發展興隆期して待つべく大日本相撲協會の光栄まことに大なりと言うべきである。


注記:「五内(ごだい)」とは、「五臓」と同じことで、心臓・肝臓・肺臓、腎臓・脾臓の五つの内臓を指します。天皇の終戦の詔書の中で「非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク」とあります。「思いがけない最期を遂げた者、またその遺族のことを考えると、身が引き裂かれる思いがする」との意味です。



石碑の建つ植え込みの中には「さざれ石」が展示され、案内板が立っています。

国歌 君が代に詠まれている さざれ石

此石は学名を石灰質角礫岩と云う石灰質の石が雨水に溶解し其石灰分をふくんだ水が時には粘着力の強い乳状体となり地下にて小石を集結して次第に大きくなる。やがてその石が地上に出て国歌に詠まれている如く千代八千代年をへてさざれ石が巌となりて苔のむすという景観実に目出度い石である。全国至る処石灰質の山に産ずる石であるが特にこの石は国歌発祥の地と云われる岐阜県揖斐郡春日村の山中にあったもので其集結過程の状態が此石を一見してよく知ることが出来る。繁栄と団結、平和と長寿の象徴を賛歌しためでたい石であります。




相撲博物館に入ってみます。向かい側には力士専門の診療所があります。相撲取りには怪我が多いですからね。



館内には大相撲に関連した様々な資料が展示されています。



国技館の歴史を解説した展示があります。初代の国技館は明治四十二年(1909年)に回向院境内の中に建てられました。しかし、戦災により焼失しました。

炎上する旧両国国技館

昭和二十年(1945年)3月10日の東京大空襲によって、旧両国国技館は炎上し、両国周辺の相撲部屋も焼失した。

Kokugikan was damaged in the Great Tokyo Air Raid on March 10, 1945. Many sumo beya were also burned down.




二代目国技館は浅草蔵前に建てられ、昭和二十四年(1949年)から工事が始まり、仮設として本場所が行われていた蔵前国技館は昭和二十九年(1954年)9月に完成し、同時に相撲博物館も開館しました。

二代国技館(蔵前国技館)

戦後、国技館がGHQに接収されたため、新たな会場を浅草蔵前に建てた。田中実の設計により昭和二十四年に着工し、翌二十五年から二十八年の本場所は、建設途中(仮設)の国技館で興行。昭和二十九年9月に開館。敷地面積約17、800u、鉄筋コンクリート地上2階建ての純和風造りで、収容人員は約11、000人。博物館、教習所、診療所なども併設。昭和五十九 年9月場所まで本場所が行われた。現在、跡地に東京都下水道局事務所が建っている。

Second Kokugikan Hall (Kuramae Kokugikan)

After World War II, with the first Kokugikan hall taken over by the Allied forces, the Nihon Sumo Kyokai sought a new center for ozumo at Asakusa's Kuramae district. Construction started in 1949 based on the design by Minoru Tanaka. Gand sumo tournaments from 1950 to 1953 were held at the temporary structure of the Kokugikan hall being built. The hall was opened in September 1954. With a site area of approximately 17,800sqm. the 2-story reinforced concrete building was a pure Japanese-style architecture, and could hold around 11,000 persons. The Sumo Museum, Sumo Training School, Sumo Clinic, and other facilities were also co-located. Tournaments were held here until the September tournament in 1984. Today, a branch office of Tokyo Metropolitan Government's Bureau of Sewerage stands on the site.




現在の三代国技館は、昭和六十年(1985年)に開館しました。

2025年 国技館開館40年

昭和六十年(1985年)、両国国技館が完成。実に39年ぶりに本場所の舞台が両国に戻った。初日には天覧相撲が行われるなど、大変な盛り上がりを見せた。現在の国技館では、1980年〜1990年代に横綱千代の富士が活躍し、近年は朝青龍や白鵬をはじめ、外国出身力士が土俵を席巻したことも記憶に新しい。令和七年(2025年)で開館40年を迎えるが、これからもさまざまな力士が登場し、相撲の歴史が築かれていくだろう。

The current Kokugikan opened in Ryogoku, 1985. It will celebrate its 40th anniversary in 2025. Many more rikishi will continue to make sumo history here.




開館式では、千代の富士と北の湖による「三段構え」が披露されました。

三段構え
千代の富士と北の湖
昭和六十年(1985年)1月9日

両国国技館の開館式で三段構えを披露した58代横綱千代の富士(1955年〜2016年)が、一月場所で優勝。一方、北の湖は場所中に引退した。

At the opening ceremony of the Kokugikan in 1985, Yokozuna Kitanoumi and Chiyonofuji performed the 3 ancient basic forms of sumo.




上棟式で使用された工具が展示されています。

両国国技館上棟式工具

昭和五十九年(1984年)4月27日に上棟式が行われた。春日野理事長(元栃錦)らによって最後の鋲が打たれた。

Tools used in the present Kokugikan construction ceremony in April 27,1984.




売店は正面入り口の左側奥にあります。



店内には、所狭しとお相撲グッズとかお土産品が並んでいます。



意外とお菓子類が多いですね。Tシャツは着るには大き過ぎますから、部屋のお飾りですかね。



売店の向かい側の稲荷門脇に小さな神社が2社並んでいます。



左が豊国稲荷神社で、右が出世稲荷神社です。両社とも、国技館の移転の度に遷座してきました。力士たちの開運・出世・興行の成功祈願や勝利祈願のために祀られたもので、まるで双子のように同じ鳥居・手水舎・狛狐・社殿が並んでいます。国技館の隅にあって目立ちませんが、相撲好きの方には魅力溢れる聖地となっています。



国技館の外柵の前に案内板が立っています。忠臣蔵に架空の人物が登場していたとは知りませんでした。

忠臣蔵
Site of Tawaraboshi Gemba’s stable
俵星玄蕃の道場跡

宝蔵院流の槍の名手、俵星玄蕃は忠臣蔵に登場する架空の人物で、彼の道場は、本所横網町のこの辺りにあったとされています。上杉の家老・千坂兵部が二百五十石の高禄で、吉良家に召抱えようとしますが、赤穂浪士の世を忍ぶ苦心に同情を寄せた玄蕃はこれを断りました。屋台の夜なき蕎麦屋「当たり屋十助」に姿を変えて吉良邸を探っていた赤穂浪士・杉野十平次の前で、「のうそば屋、お前には用の無いことじゃが、まさかの時に役に立つかも知れぬぞ見ておくがよい」と、槍の技を披露しました。討入り当夜、助太刀に駆けつけると、杉野に会い、たいへん驚き、吉良邸外の守りを固め、本懐成就に協力したとされます。




天水桶は神社などで見かけますが、これはその市中版で雨水を貯めて再利用する装置だそうです。

天からの恵みを集めて活かす「両国さかさかさ」天水収穫装置

雨を「よける」のではなく「集めよう」。都会ではとかくやっかいもの扱いされがちな雨。しかし、雨なしには草花も育ちません。雨はありとあらゆる生命の源です。大地を潤し、緑を育み、地下水となります。豊かな地下水は湧水となり、川に豊かな流れをもたらします。コンクリートやアスファルトが目立つ東京のまちも、実は空と大地の間を循環する雨によって支えられているのです。雨は、天水。天からの恵みの水。この装置は、天水をもっと大切に、もっと有効に活かすシンボルとして、大地から空に向けて広がる「逆さ傘」をコンセプトに作られました。下部は、この逆三角屋根に降った雨を貯める容量約600lのタンクになっています。貯めた雨水は、付近の花壇への水やりや打ち水などに活用します。「歩道の緑地」という都市の公共空間で、天からの恵みを集水・貯留・活用し、大地に戻す−。市民と企業と行政との協働による、天水を活かしたまちづくりへの実践です。

天水の収穫と活用
空から降る雨は、命の源。くらしの中で、街並の中で、天からの恵みである雨を有効に活用することは、これからますます深刻化するといわれる都市の環境問題、洪水・渇水や大地震などの自然災害への備えとして、私たちひとり一人が取り組むことのできる解決策のひとつです。墨田区から、全国そして世界へと広がりつつあります。

雨の恵みプロジェクト
ライオン株式会社とNPO法人雨水市民の会は、2008年より協働で「雨の恵みプロジェクト」を推進しています。まちのなかで雨水を貯留、浸透及び利用する意義を探求し、社会への普及を目指して活動しています。

両国駅花いっぱい運動
ライオン社員のボランティアグループ「花ボランティア」は、両国駅周辺の環境美化を目的に、2005年から両国駅周辺の花壇やフラワーポットに草花を植え育てる「花いっぱい運動」をしています。タンクに集めた雨水は、これらの草花への水やりに活用します。

間伐材の活用
天水も緑も循環資源です。森の管理には間伐とその有効利用が欠かせません。この装置には山梨県、栃木県の間伐材を使用し、製作過程での環境配慮にも努めています。

(ライオン株式会社では2006年より森林環境と水環境の保全を目的として、山梨県内で「ラ イオン山梨の森」活動を行っています。)




ポイント1 北斎案内板 新柳橋の白雨 御竹蔵の虹

北斎の最初の掲示板が立っています。

葛飾北斎 新柳橋の白雨 御竹蔵の虹 −絵本隅田川両岸一覧−

狂歌絵本「隅田川両岸一覧」三巻のうち、中巻の一枚です。にわか雨に降られ、傘を持った人々が新柳橋の上を走っている様子が、隅田川の対岸から描かれています。白雨というのは天気雨のことです。左奥の橋は御蔵橋で、幕府の材木蔵であった「御竹蔵」の入堀に架かっていました。奥一帯の「御竹蔵」には当初は建築用の資材が保管されていましたが、現在の猿江公園の材木蔵に移されるようになると米蔵として使用され、本所御米蔵と称されました。その広大な敷地は、現在の国技館、江戸東京博物館などがあたります。

Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River:
Shinyanagi Bashi no Hakuu Otakegura no Niji
(Sudden Rain at the New Yanagi Bridge/Rainbow Above Bamboo Warehouses)

One of the prints from the second of the three-volume comic tanka picture books, Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River. This print shows a scene of people with umbrellas crossing the New Yanagi Bridge during a light shower, and it is drawn from the opposite side of the Sumida River. The term "sudden rain" refers to an unexpected shower. The bridge on the far left is the Mikura Bridge. It spans the entrance to the Otakegura bamboo warehouses, where the Shogun's timber was stored. The area behind the Otakegura warehouses was used to store building materials at that time, but it became a rice warehouse when it moved to the timberyard located in the present-day Sarue Park, and became known as the Honjo Rice Warehouse. This normous estate is now occupied by the Ryogoku Kokugikan, the Edo Tokyo Museum and other facilities.




その横にベンチが設けられていて、背もたれの壁の上には北斎の浮世絵が3枚貼られています。



両国の夕涼み風景が描かれています。

両国夕涼

夕涼に花火見物を楽しむ人々と両国橋や一之橋の情景です。

Evening Cool at Ryogoku

This print depicts people enjoying an evening of fireworks at Ryogokubashi Bridge and Ichinohashi Bridge.




冨嶽三十六景の中の一景です。

冨獄三十六景 御厩川岸より両国橋夕陽見

夕暮れ時でシルエットになった両国橋や富士山を描いています。

Viewing Sunset over the Ryogokubashi Bridge
from the Ommayagashi River Bank, from the series Thirty-six Views of Mount Fuji

This print depicts Ryogokubashi Bridge and Mt. Fuji silhouetted at sunset.




両国花火大会が描かれています。

新板浮絵 両国橋夕涼花火見物之図(部分)

両国橋で花火を上げる景色を、隅田川の西側から描いています。

Watching Fireworks in the Cool of the Evening at Ryogokubashi Bridge,
from the series Newly Published Perspective Pictures (part)

Fireworks at Ryogokubashi Bridge, depicted from the western side of the Sumida River.




ベンチの背もたれに、北斎が描いた絵の素材となるスケッチが貼られています。



かなり漫画チックな描き方ですね。

「北斎漫画」(部分)

世界的に有名な絵手本で、海外では「ホクサイ・スケッチ」として親しまれています。全十五冊、総図数は約三千九百図にのぼり、人間や自然、神仏妖怪など、ありとあらゆるものが描かれていて、「絵の百科事典」と呼ぶにふさわしい内容です。

Sketches by Hokusai (part)

The Hokusai Manga, known internationally as "Hokusai's Sketches," is a world-famous collection of sketches of various subjects by the Japanese artist Katsushika Hokusai. Subjects of the sketches include humans, nature, gods and the supernatural. There are roughly 3900 images in this set of 15 volumes, which are worthy of being called the "Encyclopedia of Pictures".




交差点の角に石碑が建っています。「花の生涯」は、1963年4月7日から同年12月29日までNHKで放送された大河ドラマ(放送当時は大型時代劇と称した)の第1作です。原作は、舟橋聖一が1952年から1953年まで毎日新聞紙上で連載した歴史小説「花の生涯」で、幕末の大老井伊直弼の生涯を描いた作品です。

舟橋聖一生誕記念碑

作家舟橋聖一は明治三十七年(1904年)12月25日に、本所区横網町二丁目二番地に生る。作家、國文学者として盛名高く、数々の名作を遺すも、その七十二年の生涯は権威に屈せず、市井の文人、文学者として独自の風格を以て貫かれている。代表作の一つ、「花の生涯」は井伊大老の生涯を綴った醇たる逸品であるが、文学者、文化人として、前人未踏の道を歩いた作者の人生行路もまた、そのまま花の生涯と呼ぶにふさわしいものである。
                                       井上靖




ポイント2 旧安田庭園 北斎案内板 駒止石

旧安田庭園の西門から園内に入ります。旧安田庭園は、常陸国笠間藩主本庄因幡守宗資により元禄年間(1688年〜1703年)に築造されたと伝えられ、かつては隅田川の水を引いた汐入回遊式庭園として整備されました。明治維新後は旧備前岡山藩主池田侯の邸となり、次いで安田善次郎氏の所有となりました。安田氏の没後、大正十一年に東京市に寄附されました。関東大震災・太平洋戦争を経て東京都から墨田区に移管され、全面的改修を行って復元した後、一般に開放されました。現在は、ポンプを使用して人工的に潮入が再現されています。

旧安田庭園の沿革

元禄年間(1688年〜1703年)に、 徳川五代将軍綱吉の生母である桂昌院の実弟で、後の常陸笠間藩5万石の藩主、本庄因幡守宗資が下屋敷として拝領し、この庭園を築造したと伝えられている。中央に「心」字をかたどった池を配し、かつては隅田川の水を引き入れ、潮の干満によって変化する景観を楽しむ、いわゆる潮入り池泉廻遊式庭園である。明治になって旧備前岡山藩主池田章政侯爵邸となり、明治二十四年(1891年)には、安田財閥の創始者である初代安田善次郎の所有となった。安田翁の逝去後、故人の遺志により大正十一年(1922年)に家屋及び庭園は、東京市に寄付された。大正十二年(1923年)9月1日の関東大震災により壊滅的な被害を受けたが、残った地割り石組みを基にして復元工事が行われた。旧安田邸跡地は寄付者の名を冠して「旧安田庭園」と命名され、昭和二年(1927年)に民間篤志家の寄付による和風庭園として都内初の一般公開となった。昭和四十二年(1967年)、東京都から墨田区に移管されたのを機に、全面的な改修工事を行い、昭和四十六年(1971年)に新装開園し、現在に至っている。明治時代の文献の中で記載されている姿を今日までよくとどめており、清澄庭園に匹敵する明治時代の代表的庭園の一つであることから、平成八年(1996年)、東京都の「名勝」に指定された。

THE HISTORY OF KYU-YASUDA GARDENS

In the Genroku Era (1688 - 1703), a feudal lord in the later Hitachi-Kasama Clan of 50,000 koku, Honjo Inabanokami Munesuke, who was a younger blood brother of the biological mother (Keishoin) of Tsunayoshi Tokugawa, the fifth shogun, received this land from the Bakufu as a suburban residence and is said to have constructed this garden. This garden has a pond in the shape of the Japanese character "kokoro" (heart) at its center and uses a system known as shioiri by which the pond is fed from the Sumida River, so the water level in the pond rises and falls with the ebb and flow of the river's tide. After the Meiji Restoration, it was the home of the Lord Ikeda Akimasa of the late Bizen-Okayama Clan and, then, in 1891, it became the property of Yasuda Zenjiro, founder of the Yasuda Financial Group. After Zenjiro's death, as specified in his will, the garden and house were donated to Tokyo City in 1922. However, on September 1 of the following year (1923), the grounds were almost completely destroyed by the Great Kanto Earthquake. The City began re-construction. "Kyu-Yasuda Gardens". work on the garden, using as a base the ishigumi stone formations, which fortunately remained, and then named the gardens after the donor -- In 1927, it was opened to the public as the first Japanese garden, donated by a private charitable person. Taking the opportunity of its jurisdiction transfer from the Tokyo Metropolitan Government to Sumida City in 1967, it was fully re-constructed and, in 1971, it was completely restored to the original condition of former times when it was called a "distinguished garden". In 1996, this garden was designated a Metropolitan Place of Scenic Beauty as a typical garden of the Meiji Era.




旧安田庭園の中央には、「心」を模した池が広がっています。



かっては、池の水は隅田川から引き込まれていました。

潮入りの再現について

江戸時代、この庭園は隅田川の水を引き入れた池を配し、潮の干満によって変化する景観を楽しむ技法を設けた「潮入り池泉廻遊式庭園」として造成されました。その後、水位調整のための水門は、昭和三十年代までの隅田川の水質環境の悪化や、出水対策のための堤防補強に伴って昭和四十年頃には、閉じられ、導水溝も埋められ、図の位置に往時の姿をとどめる遺構として水門跡が現状のまま保存されています。墨田区では、昭和四十六年に本園北側に約750uの貯水槽(貯水槽量約800トン)を地下に造り、池と貯水槽に水を移動させることにより、人工的に干満を表現する潮入りを再現しました。写真1は満潮時(午前9時)、写真2は干潮時(午後3時から4時)の写真で、1日で30cmの変化が見られます。干潮時には、一部池底の飛石が露出し、歩行が可能になります(図参照)。




水門跡は、西門から入った左手隅に保存されています。

水門跡

江戸時代にこの庭園が造成された折、隅田川から水を引き込み、潮の干満によって池の水位を上下させ、それとともに見え隠れする岩や護岸、浮沈する島等の景観変化を楽しむという技法がとられました。これは「潮入」と呼ばれるものです。この水門は、潮入池の水位調整のために造られたものでしたが、昭和三十年代までの隅田川の水質環境の悪化や、出水対策のための堤防補強に伴って、昭和四十年頃には閉じられ、導水溝も埋められてしまいました。潮入の池は、都内ではほかに浜離宮庭園や旧芝離宮庭園、清澄庭園などでも採り入れられていましたが、現在も目にすることができるのは、浜離宮のみとなりました。墨田区では、潮入の再現を図るため、昭和四十六年に本園北側に約七百五十平方メートルの貯水槽(貯水量約八百トン)を地下に造り、池と貯水槽に水を移動させることにより、人工的に干満を表現する潮入を再現しました。本園の水門は、現在では当初の機能を失ってはいますが、往時の姿をとどめる遺構として現状のまま保存されています。




公園の東南角に大きな石が顔を出しています。

両国物語 駒止石

三代将軍家光の寛永年間の半ばにあたる八年(1631年)に秋の台風に見舞われ隅田川は大洪水となりました。本所側の被害は特に甚大で、これを憂慮した家光は、その状況を調べさせよう としました。しかし、あまりの濁流に誰もが尻込みをする中、旗本阿部豊後守忠秋が進み出て、現在の柳橋の辺りから、馬を乗り入れました。忠秋は、馬を巧みに操って川を渡り、被害状況を調べて回りましたが、その際、馬を止めて休憩したところが駒止石です。当時、この辺りに住んでいた人々が忠秋の徳を敬い、この地に駒止稲荷を祀りました。




園内にはありませんが、国技館通りの歩道の脇に、もうひとつ北斎の浮世絵を紹介する掲示板が立っています。駒止石の絵と解説のようです。

葛飾北斎 駒止石 −馬尽−

文政時代(1818年〜1830年)の正月の配り物として摺られた「馬尽」シリーズの一枚です。手前側に駒止石、一番奥には雪を頂いた富士山が描かれています。寛永八年(1631年)の初夏、暴風雨で隅田川が氾濫し、あたり一帯が大洪水に見舞われた際、三代将軍家光が本所地区の被害状況調査を命じたところ、旗本阿部豊後守忠秋ただ一人がその濁流を馬上巧みに渡河し忠誠心を示したという逸話があり、その際に馬を繋いだのが「駒止石」です。当時は椎の木屋敷の前の隅田川岸にありましたが、現在は旧安田庭園内で見ることができます。

Uma-Zukushi: Komadome-ishi (Horse Series: Hitching Stone)

One of the Horse Series that were printed to hang during the New Year period in the Bunsei Era (1818-1830). A stone for hitching horses is located at the front, and the snow-covered Mt. Fuji appears in the background. The Sumida River overflowed owing to a violent rainstorm in early summer 1631, and the third Shogun, Iemitsu, ordered a survey to be carried out to assess damage inflicted on the Honjo district when the entire area was flooded, and it is said that only Tadaaki Abe, a direct retainer of the Shogun, displayed his loyalty to the Shogun by skillfully crossing the turbid waters alone on horseback to carry out this order. The hitching stone shown in this print is said to be the stone to which he tied his horse during this. This bank of the Sumida River was located in front of the Shiinoki Mansion at that time, and the former Yasuda Gardens can be seen from this point today.




神社名は確認できませんが、恐らく駒止石の近くにあることから、これが駒止稲荷なのでしょう。



旧安田庭園を出た交差点の角に、本所七不思議のひとつ「椎の木屋敷跡」の案内板が立っています。

椎の木屋敷跡

本所七不思議の一つ、「落ち葉なしの椎」があった松浦家という大名屋敷は、この辺りにありました。庭には立派な椎の木がありましたが、この木から葉が落ちるのを誰も見たことがありませんでした。その噂はたちまち江戸中に知れ渡り、松浦家は「椎の木屋敷」と呼ばれるようになりました。もともと椎の木というのは常緑樹で落ち葉は少ないものですが、それでも一枚も落ち葉がないということが不思議です。大名屋敷という庶民からすれば特別の場所であったために、このような伝説が広まったと考えられます。




旧安田公園の東門の交差点向かいに、横網町公園があります。横網(「よこずな」でなく、「よこあみ」と読みます)町公園は、東京市が陸軍の被服廠(ひふくしょう:軍服などを作る工場)が移転した跡地を買収し、公園として造成を進めていましたが、その最中に発生したのが関東大震災です。まだ空き地状態だった被服廠跡地には周辺の人たちが家から布団や家財道具を持ち出し、続々と避難してきました。ちょうど昼時であったことと、台風の余波で強風が吹いていたこともあり、各所で火災が発生しました。やがてこの被服廠跡にも強風にあおられた炎が四方から迫り、その火の粉が持ち込まれた家財道具などに燃え移りました。激しい炎は巨大な炎の竜巻・火災旋風を巻き起こし、一気に人々を飲み込みました。この地だけで3万8千人もの命が失われました。関東大震災で亡くなった人々の霊を弔慰するため、四十九日に相当する大正十二年10月19日に、この地において東京府市合同の大追悼式を挙行したのがこの公園の歴史を刻む最初の出来事でした。当初「大正震災記念公園」と仮称された公園でしたが、昭和五年(1930年)に慰霊堂(当時は震災記念堂)や鐘楼・日本庭園が完成し、9月1日に横網町公園として開園しました。翌年の昭和六年には復興記念館も完成し、現在の横網町公園となりました。

横網町公園

昭和五年(1930年)、関東大震災の身元不明の遺骨を納め、霊を祀るため創建された慰霊施設。「震災記念堂」と称していましたが、戦後、東京大空襲の身元不明の遺骨を合せ納め、「東京都慰霊堂」と改称されました。隣接して復興記念館があります。

Yokoamicho Park

This facility was constructed in 1930 to memorialize the victims of the Great Kanto Earthquake of 1923. A museum commemorating subsequent recovery and reconstruction efforts in the city is located adjacent to the park.




西門から公園に入ります。公園の案内図があります。

横網町公園

関東大震災(大正十二年・1923年)や、東京空襲(昭和十九年〜二十年・1944年〜1945年)による悲劇を、記憶・伝承し、その犠牲になった多くの人々を慰霊する公園です。

Yokoamicho Park

This park is dedicated to the remembrance of the many victims of the Great Kanto Earthquake (1923) and the Tokyo Air Raid (1944-1945), to commemorate and preserve the memory of these tragedies.

東京都慰霊堂

関東大震災、および東京空襲の遭難者、16万人余の御霊を慰霊する施設です。昭和五年(1930年)に建てられました。堂内には絵画等の展示もあります。どなたでも入堂できます。
入堂無料、9時〜16時30分、年末年始は閉堂

Tokyo Metropolitan Memorial Hall

Built in 1930, this hall is a memorial for more than 160,000 lives lost during the Great Kanto Earthquake and the Tokyo Air Raid. Paintings and other archives are on display in the hall, and it is open to the public.
Free admission, open 9:00 am to 4:30 pm. Closed for the New Year's holiday.

復興記念館

関東大震災からの復興事業を記念するために昭和六年(1931年)に建てられました。関東大震災、東京空襲の被害や復興に関する資料を展示しています。
入館無料、9時〜16時30分(入館)、毎週月曜日(祝日の場合は翌日)および年末年始は休館

Great Kanto Earthquake Memorial Museum

This museum was built in 1931 to commemorate the reconstruction project following the Great Kanto Earthquake. Documents and other materials related to the damage caused by the earthquake and the Tokyo Air Raid, as well as to the ensuing reconstruction, are on display.
Free admission, open 9:00 am to 4:30 pm (entry). Closed on Mondays (if a national holiday, closed the following day) and for the New Year's holiday.





南側の奥に、関東大震災により亡くなった児童の慰霊碑が建っています。

震災遭難児童弔魂像

大正十二年(1923年)9月1日の関東大震災により東京市(当時)の小学校児童約5千人が亡くなりました。この死を悼み、冥福を祈るため、全市学校長等が弔魂碑建立を計画し、寄付を募りました。その寄付金により、彫刻家小倉右一郎氏に製作を依頼、昭和六年(1931年)5月16日に除幕式が行われました。その後、像部分は、昭和十九年(1944年)、金属回収のため撤去されましたが、昭和三十六年(1961年)、都は、小倉右一郎氏の高弟である、津上昌平、山畑阿利一両氏に製作を依頼し、往時の群像を模して再建されました。

台座の裏面には次の言葉が記されています。

大正十二年九月一日の大震火災の為に我が東京市小学校児童の死亡せし者無慮五千人其の惨状言語に絶せり学校長等深く之を哀み之を悼み相議りて当時幸に難を逃れ生を全うせる都下の学童をして此の不遇の霊を慰め不幸の魂を弔はしめむことを企画し第五回の忌辰に際して之を発表するや忽ちにして学童の共鳴する者十八萬二千二十七名に及び其の醸金一萬四千六十六圓四十七銭に達せり乃ち小倉右一郎氏に託して震災記念堂の傍に此の群像を建設し保存資金を添えて之を財団法人東京震災記念事業協会に寄附し永く当時を追憶し其の冥福を祈らむとす




慰霊碑の脇がスカイツリーの絶景スポットだそうです。



震災遭難児童弔魂像の先に、幽冥鐘の堂が建っています。文中の王一亭は、清朝末期に活躍した中国の実業家・書画家・銀行家・政治家です。上海を中心に活動した一方、中国同盟会にも参加した革命派の人物でもあります。画家としても優れた業績を残し、仏教徒としての活動も顕著でした。

幽冥鐘の由来

この梵鐘は、関東大震災により遭難した死者を追悼するため、中国仏教徒から寄贈されたものです。震災の悲惨な凶報が伝わった中国では、杭州西湖の招賢寺及び上海麦根路の玉仏寺で、それぞれ念仏法要が営まれ、中国在留の同胞に対しても参拝を促しました。また、各方面の回向が終わった後は、「幽冥鐘一隻を鋳造して、之れを日本の災区に送って長年に亘って撃撞し、此の鐘声の功徳に依って永らく幽都の苦を免れしめむ」と宣言しました。その後、中国国内で鋳造し、杭州から上海・横浜経由で大正十四年(1925年)11月1日、記念堂建設地(横網町公園)に運ばれました。この鐘を安置する鐘楼は、昭和五年(1930年)8月31日に現在地に完成し、同年10月1日「梵鐘始撞式」を行いました。なお、これら一連の事業の遂行にあたっては、上海の王一亭氏の特段のご尽力がありました。




公園の中央に聳える東京都慰霊堂は、建築家伊藤忠太の手によるものです。

東京都慰霊堂由来

この堂は、大正十二年(1923年)の関東大震災の後に、東京市内で災害の最も悲惨であったここ被服廠跡に、遭難死者のご遺骨を納める霊堂として建てられ「震災記念堂」と名付けられました。そして、遭難者の霊を祀り、その加護によって今後このような災害の起こらないことを祈願するため、毎年9月1日の震災記念日に慰霊大法要を執り行い、併せて「焦土のなかから東京を復興させた官民の熱心な協力」の思い出をあらたにしようとしたものです。ところが、その悲願も空しく、21年を経た昭和十九年(1944年)の冬から、首都東京は戦争により空からの爆撃を受けて、関東大震災の数倍もの惨禍を被りました。そこで、この戦災遭難者の霊と御遺骨を併せてこの堂に奉安し、昭和二十六年(1951年)9月に名称を「東京都慰霊堂」と改め、最も被害が大きかった東京大空襲の日の3月10日にも毎年東京都慰霊協会主催による慰霊大法要が行なわれるようになりました。

*利用時間   9:00〜16:30(年末年始休み)
*施設概要   施工日   昭和五年(1930年)4月30日
        構造    鉄骨鉄筋コンクリート造
        延床面積  1、470u 最高高さ 40.9m
        設計者   伊東忠太
        納骨数   震災 58、000体、戦災 105、000体




慰霊堂の由来碑が掲げられています。

震災記念記・東京都慰霊堂 由来記

顧れば、大正十二年九月一日突如として関東に起った震災は東京市の大半を焦土と化し、五万八千の市民は業火のぎせいとなった。このうち最も惨禍をきわめたのは陸軍被服廠跡で、当時横綱町公園として工事中であった。与論は再びかかる惨禍なきことを祈念し、慰霊記念堂を建立することとなり官民協力広く浄財を募り、伊東忠太氏等の設計監督のもとに昭和五年九月この堂を竣成し、東京震災記念事業協会より東京市に一切を寄付された。堂は新時代の構想を加味した純日本風建築の慰霊納骨堂であると共に、広く非常時に対応する警告記念として、亦公共慰霊の道場として設計された。三重塔は百三十五尺、基部は納骨堂として五万八千の霊を奉祀し、約二百坪の講堂は祭式場に充て、正面の祭壇には霊碑霊名簿等が祀られてある。爾来年々祭典法要を重ね、永遠の平和を祈願し、「備えよつねに」と相戒めたのであったが、はからずも昭和十九・二十年等にいたって東京は空前の空襲により連日爆撃焼夷の禍を受け、数百万の家屋財宝は焼失し、無慮十万をこえる人々はその難に殉じ、大正震災に幾倍する惨状を再び見るに至った。戦禍の最も激じんをきわめたのは二十年三月十日であった。江東方面はもとより、全都各地にわたって惨害をこうむり、約七万七千人を失った。当時殉難者は、公園その他百三十か所に仮埋葬されたが、同二十三年より遂次改葬火葬しこの堂の納骨堂を拡張して遺骨を奉安し、同二十六年春戦災者整葬事業を完了したので東京都慰霊堂と改め永く諸霊を奉安することになった。横綱公園敷地は約6、000坪、慰霊堂の建坪は377坪余、境内には東京復興記念舘中華民国仏教団寄贈の弔霊鐘等があり、又災害時多くの人々を救った日本風林泉を記念した庭園及び大火の焔にも耐え甦生した公孫樹を称えた大並木が特に植えられてある。




復興記念館内には、関東大震災と太平洋戦争で生み出された数多く展示品が並べられ、日本が被った悲惨な実態が間近で見られます。

東京都復興記念館案内

震災復興記念館は、大正十二年(1923年)9月1日に発生した関東大震災の被害や惨状、その後の復興事業を伝えるため、昭和六年(1931年)8月18日に開館しました。館内には震災復興を祝って昭和四年(1929年)9月に開かれた帝都復興展覧会の展示品、絵画や写真・図表・被災資料及び市民からの寄贈品などが展示されています。震災から立ち直った東京は、太平洋戦争末期の空襲で再び焼け野原となりました。そこで戦後、戦災関係資料の展示が追加され、「東京都復興記念館」と名称を変更しました。今では震災・戦災の記憶とともに、昭和初期の都市計画や街づくりを伝える貴重な展示施設となっています。




1階には、関東大震災に関する多数の資料・遺品が展示されています。



2階には、太平洋戦争に関する多数の資料・遺品が展示されています。

戦災展示コーナー
はじめに

この戦災展示コーナーでは、昭和十九年(1944年)から終戦までの主に東京空襲の歴史とその関係資料を展示しています。これら展示品を通して私たちは、東京空襲の歴史的事実と、今日の日本の平和と繁栄が、多くの人々の尊い犠牲の上に築き上げられているということ知ることができます。そして、この歴史的事実を教訓として次の世代に語り継ぎ、平和が永く続くことの大切さを学ぶことができます。二度とこの悲惨な体験を繰り返さないことを願い、空襲の被害実態をあらわす被災品や遺品を展示するとともに、空襲並びに戦時下の様子を伝える様々な写真やパネルを展示いたしました。




各コーナーには資料や当時使われていた防護服などが陳列されています。



復興記念館横の広場には、関東大震災で焼け爛れた多くの遺物が展示されています。

横網町公園復興記念館
(震災記念屋外ギャラリー)

大正十二年(1923年)9月1日午前11時58分に発生した関東大震災の被害は、死者及び行方不明者10万6千人余、負傷者5万2千人余、家屋の損害は69万4千戸余にも達した。ことに家屋の密集した東京の下町では、地震後発生した大火災による猛火、熱風により、諸々の建築物はもちろん多くの人々が焼死し、その光景はさながら地獄絵の如く惨たんたるものであった。当「震災記念屋外ギャラリー」は、その震災による被災品を展示することにより、過去におきたその惨劇を後世に伝え、二度と同じような不幸がおこらないことを深く願って建造されたも のである。

YOKOAMI OPEN GALLERY

The Great Earthquake which occurred in the Kanto region on September 1, 1923, brought unprecedented damage mostly to the cities of Tokyo and Yokohama as well as other places. Especially in congested down town (Shita-machi) housing areas, the Sumida river was buried with many corpses. The Yokoami Open Gallery was constructed in the hope that such a disaster should never be repeated and to make future generations aware of this tragedy by displaying fragments and remains of the damage.




一番手前は自動車のシャーシの残骸です。日本で車両番号第一号という記念すべき車両ですが、見る影もありません。

自動車の焼骸
Remains of a Burnt Car

自動車のボディが焼失し、シャシーだけが残ったもの。この自動車は車両番号第一号という古い歴史を持ち、銀座の明治屋商店で震災直前まで使用されていたという。




次は発電機でしょうか、鉄の塊としか見えませんね。

百馬力電動機
Burnt Electro−Motor

大日本麦酒株式会社吾妻橋工場内で焼損した、100馬力の電動機。




釘が溶けて鉄の塊になっています。

洋釘の焼塊
Mass of Melted Nails

深川区清澄町倉庫に貯蔵してあった樽入りの釘が、火災による高熱のため溶解し、ひとつのかたまりとなったものである。




印刷機は未だ原形を留めています。

印刷機
Burnt Printing Machine

当時、神田区(現在の千代田区)美土代町にあった三秀社印刷工場内で、火災により焼損した印刷機である。




天水桶は裂けて下部の一部だけが残っています。

天水桶
Burnt Rainwater Tank

湯島聖堂に備えつけてあった天水桶(雨水を貯める桶)が猛火により焼損したものである。




鳥居は石で出来ていますので焼けることはないのですが、地震の揺れで倒壊したのでしょう。

鳥居の柱
Broken Torii Pillar

浅草区(現在の台東区)駒形にある桜守稲荷の境内にあった鳥居が、激震により倒壊してしまったものである。




建築材とは思えませんね。

花崗岩
Wreckage of Granite

日本銀行の建築材として使用されていた花崗岩の残がい。震災の猛威は頑強な建築物をも破壊してしまったのである。




アメのように曲がっているとはこの状態ですね。

鉄筋コンクリート柱
Wreckage of a Concrete Pillar

東京の中でも悲惨を極めた地域のひとつであった、麹町区(現在の千代田区)丸の内の内外ビル玄関脇の破損した柱である。




魚雷は暴発しなかったのでしょうか?

魚形水雷
Burnt Torpedo

東京高等商船学校(現東京商船大学→東京海洋大学)内で焼損した魚形水雷(魚雷)の残がいである。




横網町公園を出て、横網町公園前交差点を東に向かい、鍵型に曲がって南方向に進みます。通りの左側に、ベランダのないマンション風の建物があります。八角部屋は、平成四年(1992年)5月場所限りで引退し、以降は九重部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっていた年寄八代八角(元横綱北勝海)が平成五年(1993年)10月に北勝力ら内弟子4人を連れて分家独立する形で創設されました。同時に、十八代陣幕(元横綱北の富士)・十代君ヶ濱(元関脇北瀬海)・十代谷川(元幕内白田山)・九代錦戸(元幕内富士乃真)という当時の九重部屋に部屋付き親方として在籍していた年寄全員も移籍しました。部屋の建物は、八代の師匠である北の富士がかつて利用していた旧井筒部屋〜九重部屋のものを譲り受けて一部改装した形となっていて、北の富士が日本相撲協会を退職した後も令和六年(2024年)に死去するまで部屋建物の最上階に居を構えていました。現在までに、関脇北勝力・隠岐の海や小結海鵬など9人の関取を輩出していて、四股名には師匠の現役時代の四股名から「保志」「北勝」「海」の字が付けられた力士が多くいます。部屋の関取の隠岐の海の縁から、隠岐諸島出身者には「隠岐」の字が四股名に付けられています。



八角部屋の直ぐ近くに、背中合わせの格好で錦戸部屋があります。

相撲部屋 錦戸部屋(高砂一門)

師匠は十代・錦戸将斗(元関脇・水戸泉)。高砂部屋に所属していた水戸泉は、幕内最高優勝一回、殊勲賞一回、敢闘賞六回の成績を収め、大関候補として期待を集めていましたが、度重なる怪我に襲われ、夢を果たすことなく、惜しまれつつ、平成十二年(2000年)九月場所十二日目の相撲を最後に、三十八歳で引退しました。引退後、年寄・錦戸を襲名し、高砂部屋付き親方として後進の指導にあたっていましたが、平成十四年(2002年)十二月、高砂部屋から分家独立、錦戸部屋を創設しました。現役時代、大量の塩を撒くことで人気を博し、イギリス巡業で「ソルトシェーカー」と紹介されたのは有名な話です。大量の塩を撒くことで知られた元関脇・水戸泉ですが、新十両の頃は、一回目から大きく撒いていました。その後、制限時間いっぱいの時にのみ大きく撒くようになりましたが、一回に撒く塩の量は何と六百グラム、呼び出しさんは、塩の補充におおわらわでした。




ポイント3 すみだ北斎美術館

緑町公園に隣接して、「すみだ北斎美術館」があります。現代的で斬新な外観は付近の建物とは一線を画しています。美術館の建物は大きな1棟ではなく、スリット(切れ目・隙間)による緩やかに分割された建物とすることで、周辺の下町市街地のスケールとの調和が図られています。スリットは、地上階部分ではアプローチの空間となっていて、周辺地域のどこからでもアクセスすることができます。



緑町公園には多くの案内板が立っています。墨田区の観光案内紹介のパネルの隣に、葛飾北斎生誕地の案内板が立っています。

葛飾北斎生誕地(墨田区亀沢付近)

宝暦十年(1760年)九月二十三日、本所南割下水(墨田区亀沢)付近に生まれた北斎は、浮世絵の役者絵を出発点として、狩野派、光琳派、大和絵など、さまざまな流派の技法を学び、新しい画風をどんどん確立させて、多くの名作を遺しました。代表作「冨嶽三十六景」は、天保二年(1831年)から天保四年(1833年)にかけて制作。とても七十歳を過ぎてからの作品とは思えません。八十歳を過ぎても創作意欲は衰えず、死の床に就いた嘉永二年(1849年)、「あと十年、いや五年でよいから生きさせてくれ、そうすれば真の画工になれる」といって息を引き取ったといわれています。常に新しい画法に取り組んできた北斎らしい臨終の言葉でした。




墨田区の観光案内紹介の中で、今回のコースで訪れる名所・旧跡を抜き出してみます。最初は「両国国技館」と「すみだ北斎美術館」です。

両国国技館

大相撲の殿堂。昭和六十年(1985年)、新国技館として蔵前から両国に復帰。1月、5月、9月に本場所を開催。相撲博物館が併設されており、相撲の歴史を体験できる(場所中以外は無料)。雨水は地下のタンクに貯められ、飲料以外の用途に使用されています。

Ryogoku Kokugikan (Sumo Hall)

Sumo tournaments are held every January, May, and September at this arena. The new Kokugikan was built in 1985 to return the tournaments to the historic Ryogoku location after a time in Kuramae. The stadium houses the Grand Sumo Hall of Fame and Museum (free admittance, except when tournaments in session). The rainwater is collected in a tank placed at the basement to use in the facility.

すみだ北斎美術館

すみだで生まれ、その生涯のほとんどをすみだで過ごした、世界的に有名な浮世絵師・葛飾北斎(1760年〜1849年)。北斎を区民の誇りとして永く顕彰するとともに、新たな文化創造の拠点として、平成二十八年(2016年)11月に開館した美術館です。

The Sumida Hokusai Museum

Katsushika Hokusai (1760-1859) is a world-renowned ukiyo-e artist who was born in Sumida and who spent almost his entire life in the area. Opened in November 2016, the Sumida Hokusai Museum is a museum dedicated to the artist, and one which is intended to permanently celebrate him as an honored citizen of Sumida City as well as to function as a new focal point for the creation and nurturing of culture.




「本所松坂町公園(吉良邸跡)」と「旧安田庭園」と「横網町公園」です。

本所松坂町公園(吉良邸跡)

忠臣蔵で知られる赤穂義士の討ち入りがあった吉良上野介義央の上屋敷跡。当時の86分の1の大きさながら、園内には吉良上野介の首を洗った井戸を再現し、吉良上野介を祀った稲荷神社が残されています。

Honjo-matsuzakacho Park (Site of the former residence of Kira)

The site of Kira Kozukenosuke Yoshihisa's mansion, which was raided by the 47 ronin as described in the classic tale of Chushingura, also includes a reproduction of the Kubiarai-no-ido Well where the ronin washed Kira's head after the raid.

旧安田庭園

江戸時代の丹後宮津藩主、本庄因幡守屋敷跡で、隅田川を利用する(現在は人工)、潮入り回遊式の庭園。明治二十二年(1889年)、旧安田財閥の安田善次郎の所有となり、大正十一年(1922年)に東京市に寄贈されました。区立公園として無料開放されています。

Kyu-Yasuda Gardens

This is a circuit-style garden that used to bring seawater through the Sumida River (currently by artificial means). The garden is located in the remains of the residence of Honjo Inabanokami, the domain head of Tango Miyazu. It came into the hands of Zenjiro Yasuda of the former Yasuda Zaibatsu in 1889, and was donated to Tokyo City in 1922. It is now open to the public free of charge as a ward park.

横網町公園

昭和五年(1930年)、関東大震災の身元不明の遺骨を納め、霊を祀るため創建された慰霊施設。「震災記念堂」と称していましたが、戦後、東京大空襲の身元不明の遺骨を合せ納め、「東京都慰霊堂」と改称されました。隣接して復興記念館があります。

Yokoamicho Park

This facility was constructed in 1930 to memorialize the victims of the Great Kanto Earthquake of 1923. A museum commemorating subsequent recovery and reconstruction efforts in the city is located adjacent to the park.




「回向院」です。

回向院

明暦三年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院。振袖火事で知られる明暦の大火の犠牲者10万人以上の無縁仏供養碑や、鼠小僧の墓があります。また、明和五年(1768年)に境内で初めて勧進相撲が行われました。

Ekoin Temple

This old temple of the Pure Land School of Japanese Buddhism (Jodo-shu) is the site of a memorial to more than 100,000 victims of a great fire in the seventeenth century as well as the grave of Edo-period folk hero Nezumi Kozo.




「芥川龍之介の文学碑」です。

芥川龍之介の文学碑

両国は芥川龍之介の成育の地です。文学碑には、芥川龍之介の代表作「杜子春」の一節が刻まれています。

Literary monument of Akutagawa Ryunosuke

Ryogoku is the breeding place of AKUTAGAWA Ryunosuke. On the monument, a paragraph from “Toshishun”, his representative work is engraved.




すみだ北斎美術館と緑町公園のある場所は、江戸時代に弘前藩津軽家の大名屋敷がありました。藩主からの依頼により、北斎は屏風に馬の絵を描いて帰ったというエピソードが残されていることなどから、この場所は北斎とゆかりの深い土地であるといえます。

津軽の太鼓・津軽家上屋敷跡

南割下水に面した弘前藩主・津軽越中守の上屋敷には、火の見櫓がありました。通常、火の見櫓で火災を知らせる時は板木を鳴らしますが、この櫓には板木の代わりに太鼓が下がっていて、その太鼓で火事を知らせていました。なぜこの屋敷の櫓だけに太鼓が許されていたのかは誰も知らず、不思議なこととされていました。これが本所七不思議の一つ「津軽の太鼓」の話です。七不思議とはいいますが、伝説なので伝わり方によって話もまちまちで、話の数も七つと決まったわけではありません。この「津軽の太鼓」には「越中守屋敷の火の見櫓の板木を鳴らすと、奇妙なことに太鼓の音がする」という話も伝えられています。




此の地には、江川太郎左衛門の屋敷もあったようです。「前」と付いていますので、津軽家上屋敷の前にあったのかも。

江川太郎左衛門屋敷跡前

江川太郎左衛門は、伊豆韮山を本拠地とした幕府の世襲代官で、太郎左衛門とは江川家代々の当主の通称です。なかでも有名だったのが、三十六代の江川英龍(1801年〜1855年)です。彼は洋学の中でも、とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、日本に西洋砲術を普及し、韮山に反射炉を築いて江戸防御のため、江戸湾内に数ヶ所あった砲台(お台場)を造りました。また、日本で初めてバンを焼いた人物だともいわれています。この屋敷は、代官の役所も兼ねていて、土佐国中濱村の漁師で、嵐で遭難し、米国の捕鯨船に救われ、ほぼ十年振りに帰国した中濱萬次郎を敷地内の長屋に住まわせ、英語を講義させたといわれています。




北斎は本所南割下水付近に生まれたとありますが、南割下水とは掘割の一種です。

南割下水

明暦の大火後に、幕府は本所深川の本格的な開発に乗り出します。まず着手したのは、竪川、大横川、北十間川、横十間川などの運河と掘割の開削と、両国橋の架橋です。掘割の一つが南割下水で、雨水を集めて川へ導くために開削されたものです。北には(現在の春日通り)北割下水も掘られました。幅は一間(約1.8メートル)から二間足らずで、水も淀み、暗く寂しい場所でしたので、本所七不思議の「津軽屋敷の太鼓」「消えずの行灯」「足洗い屋敷」の舞台にもなりました。昭和初期に埋め立てられましたが、この付近で葛飾北斎が生まれたところから、今では「北斎通り」と名を変えています。また、この辺りには、三遊亭円朝や歌舞伎作者の河竹黙阿弥も住んでいました。




現在の北斎通りは、かっての本所南割下水の跡を辿っています。

本所割下水

割下水とは、かつてここを流れていた下水の呼称です。1650年代末以降の本所開拓の中で開鑿(かいさく)された下水で、かつてはその両側に道がありました。あの有名な葛飾北斎も、割下水付近の住人だったようです。この付近は、いわゆる本所七不思議の舞台の一つとして知られてきましたが、特に近年は葛飾北斎ゆかりの地として有名になっています。割下水は昭和初期に暗渠(あんきょ)となり、平成二年から五年にかけての歩道整備を経て現在のような道路となりました。平成六年8月以来、「北斎通り」の名前で親しまれています。

"WARI-GESUI" (divided-sewage) is the name of a sewage which was used to run around this area. It was the sewage canalized as a part of reclaiming of Honjo area in late 1650s and there used to be pavements on both sides. It is said that the famous Katsushika Hokusai was also a resident of neighbor of the WARI GESUI. This neighborhood, which had been known as one of the so-called Seven Wonders of the Honjo, became famous as the Land of Katsushika Hokusai in recent years. The sewage had been rebuilt as under drain or closed conduit in the early Showa era and further developed as the sidewalk as current through pavement engineering from 1990 to 1993. It has been known as Hokusai Street since August 1994.




当時の地図を見ますと、赤丸の「現在地」から大横川と交差して東方向に真っ直ぐに本所割下水が延びていることが分かります。南北に通る道路には橋が架けられていましたが、「青芽橋」もそのひとつだったのでしょう。



ポイント4 榛稲荷神社

緑町公園から京葉道路に出て緑一丁目交差点を右折しますと、みずほ銀行の裏手に榛稲荷神社があります。この辺りは、かって榛馬場と呼ばれた馬場のあったところで、東西102間(約185m)・南北12間(約22m)ありました。馬場を囲む土手に大きな榛があったところから、この名がつけられたのでしょう。この馬場は本所に住む武士の弓馬の稽古を目的としたもので、この馬場の傍らに祀られていたのが榛稲荷神社です。



榛馬場跡の案内板が立っています。

榛(はんのき)馬場跡

この辺りには、榛馬場と呼ばれた馬場がありました。本所に住む武士の弓馬の稽古のために設けられ、周りを囲む土手に大きな榛(カバノキ科の落葉高木)があったところから、そう呼ばれたようです。勝海舟の父小吉の著書「夢酔独言」の中にも、子どものころの回想として、榛馬場のことが出ています。馬場の傍らに祀られていたのが、この榛稲荷神社です。天保八年(1837年)に亀沢町の若者が奉納した木造朱漆の奉紙立が、震災、戦災を逃れて今でも保存されています。葛飾北斎も娘のお栄といっしょに稲荷神社脇に住んでいたことがあります。

奉紙立=正式の食事の時、膳の盛り物の周囲に、紙をさまざまな形に折って立て る器。




葛飾北斎住居跡の案内板も立っています。

葛飾北斎住居跡

この辺りには、江戸時代に武士が馬術を訓練するための馬場が設けられていました。東西約185m、南北約22mの広さがあり、馬場を囲む土手に大きな棒があったので「榛馬場」と呼ばれました。馬場に祀られていたのが「榛稲荷神社」です。本所(現在の墨田区南部)に生まれた絵師葛飾北斎は、この稲荷神社のすぐ近くに住んでいたことがありました。北斎は九十歳で没するまで常に新しい技法を試み、「冨嶽三十六景」に代表される錦絵だけではなく、肉筆画も手がけ、数多くの作品を生み出しました。榛馬場の辺りに住んでいた当時の様子を伝えるのが、「北斎仮宅写生」(露木為一筆)です。絵を描く老いた北斎と娘の阿栄が描かれています。阿栄も優れた絵師でした。その暮らしぶりを飯島虚心は「蜜柑箱を少しく高く釘づけになして、中には、日蓮の像を安置せり。火鉢の傍には、佐倉炭の俵、土産物の桜餅の籠、鮓の竹の皮など、取ちらし、物置と掃溜と、一様なるが如し」(「葛飾北斎伝」)と記しています。北斎がこの地に暮らしたのは天保末年頃(1840年頃)で、八十歳を越えていたと思われますが、絵を描くこと以外は気にも留めないような暮らしぶりが見てとれます。北斎は生涯で九十回以上も転居を繰り返したとされていますが、居所のすべてが正確に分かっているわけではありません。榛馬場の北斎住居跡は、ある程度場所の特定ができ、絵画資料も伴うものとして貴重な例です。また、幕末明治期に活躍した政治家勝海舟もこの近くで生まれ育ちました。海舟の父、勝小吉の自伝「夢酔独言」の中にも、榛稲荷神社についての思い出が記されています。

Site Associated with Katsushika Hokusai

Katsushika Hokusai (1760-1849) is a famous Edo period ukiyo-e artist. He is particularly well-known for his series of prints, The Thirty-six Views of Mount Fuji. Hokusai's daughter, pictured here with her aged father, was also a talented artist. This reproduction drawing entitled "Hokusai's Temporary House" was made by Tsuyuki litsu, one of Hokusai's disciples, and he wrote that the house was near by the Hannoki Inari Shrine. It is said that Hokusai moved more than ninety times among his life. While the locations of most of his homes are unknown, we have been able to identify that Hokusai lived in this area for a while. Katsu Kaishu (1823-1899) was a late Edo and Meiji period statesman. He was also born and raised in this neighborhood.




案内板には挿絵が添えられています。這いつくばって絵を描く北斎と、それを眺めるお栄の姿が見て取れます。



榛稲荷神社の縁起書を記した石碑が建っています。


古く此の地一帯を榛馬場と称し、此?神祠を榛稲荷社と称し奉れり。関東大震火災の折り、社殿並に其の榛樹炎上消失す。神殿復興起工?際、旧蹟地より古碑を發掘す。碑文に、

   和銅二年
   總國當亀澤村
   亀澤稲荷神社

とあり、往昔斯く奉称せしも後或は榛稲荷神社と称し奉れるものなく、大東亜戦争必勝を祈願し奉り東京都の実現を紀念すると共に其の事由を後世に傳へむと敬神講員一同相議りて之れを建つ。




両国三丁目交差点で京葉道路を渡ります。両国小学校の敷地の角には、芥川龍之介の作品である児童文学の「杜子春」の一節と龍之介の自署を刻んだ文学碑が建っています。この碑は、平成二年(1990年)に両国小学校の創立百十五周年を記念して建立されました。両国小学校(当時は江東尋常小学校と呼ばれていました)は芥川龍之介の出身校です。

芥川龍之介 文学碑

芥川龍之介は、明治二十五年(1892年)三月一日、東京市京橋区入船町に新原敬三、ふくの長男として生まれました。辰年辰の日辰の刻に生まれたのにちなんで龍之介と命名されました。生後七ヶ月の時、母ふくが突然発病したために、本所区小泉町十五番地(現両国三丁目)に住んでいたふくの長兄芥川道章に引き取られ、十三歳の時芥川家の養子となりました。芥川家は旧幕臣で江戸時代からの名家で、道章は教養趣味が深く、文学、美術を好み、俳句や盆栽に親しむとともに南画をたしなみ、一家をあげて一中節を習い、歌舞伎を見学するなど江戸趣味豊かな家庭でした。本所は龍之介の幼児時から少青年期までの大事な時期を育くんだ場所で「大導寺信輔の半生」「本所両国」などの作品にその一端を見ることが出来ます。龍之介は明治三十一年回向院 に隣接する江東尋常小学校付属幼稚園に入園、翌年同小学校(現両国小学校)に入学しました。明治三十八年(1905年)府立第三中学校(現両国高等学校)に入学、同四十三年成績優秀により無試験で第一高等学校第一部乙類に入学しました。その後大正二年東京帝国大学英文科に入学、同五年卒業しました。東大在学中、夏目漱石の門に入り同人誌「新思潮」「新小説」に優れた短編を発表して文壇に華やかに登場しました。

この文学碑は龍之介の代表作の一つである「杜子春」の一節を引用したものです。この両国の地に成育し、両国小学校で学んだ近代日本を代表する作家、芥川龍之介の人生観を学び氏の文才を偲ぶものとして両国小学校創立百十五周年の記念事業として、平成二年十月に建立されたものです。




「杜子春」は鈴木三重吉が創刊した童話・童謡雑誌「赤い鳥」の大正九年(1920年)七月号に発表されました。中国・唐代の伝奇小説を下敷きにし、仙人になろうとしてなり得なかった男の数奇な運命を平易な文章で描いています。現在でも中学校の国語教科書によく採用されていますので、読んだことがある人も多いでしょう。

芥川龍之介文学碑

−−−お前はもう仙人になりたといふ望も持ってゐまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから後、何になったら好いと思ふな。」「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」杜子春の聲には今までにない晴れ晴れした調子が罩っていました。」
                                    「杜子春」より




両国小学校の敷地内に2基の錨が展示されています。

錨の由来

この錨は日露戦争(1904年〜1905年)で活躍した日本海軍の駆逐艦「不知火」のものである。この艦は英国ソーニー・クロフト社製造・起工明治三十一年・進水三十二年・三百二十六トン・(艦長63.5メートル・5470馬力・30ノット・火砲六門・発射管二基・煙突二基)の構造である。錨の裏側にあるアルファベットと1898の刻印は錨の製造年と推定される。猶この錨は両国一丁目の鉄鋼業岡田商事(旧岡田菊治郎商会)が軍艦の解体作業で得たのを昭和の初年に江東(現両国)小学校に寄贈したものである。




ポイント5 吉良邸跡(本所松坂町公園) 北斎案内板 新坂浮世絵忠臣蔵第十一段目

吉良邸跡は現在本所松坂町公園になっています。

本所松坂町公園由来

この公園は「忠臣蔵」で広く知られる、赤穂義士の討入があった、吉良上野介義央の上屋敷跡です。その昔、吉良邸は松坂町一・二丁目(現、両国二・三丁目)のうち約8,400平方メートルを占める広大な屋敷でしたが、年を経て一般民家が建ちならび、いまではそのおもかげもありません。昭和九年三月地元町会の有志が、遺跡を後世に伝えようと、旧邸跡の一画を購入し史蹟公園として、東京市に寄付したもので、昭和二十五年九月墨田区に移管されました。周囲の石壁は、江戸時代における高家の格式をあらわす海鼠壁長屋門を模した造りで、園内には、元吉良邸にあった著名な井戸や稲荷社などの遺蹟があり当時をしのばせております。また内部の壁面には義士関係の記録や絵画が銅板で展示されております。




本所松坂町公園の前には立派な板碑が建っています。「赤穂義士遺蹟 吉良邸跡」と読めます。

忠臣蔵(Site of former residence of lord Kira)
吉良邸跡

吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西七十三間・南北三十五間で、面積は二千五百五十坪(約8400平方メートル)だったとされています。吉良上野介が隠居したのは元禄十四年(1701年)三月の刃傷事件の数ヵ月後で、幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ、代わりにこの本所ニツ目に屋敷を与えています。現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の八十六分の一の大きさに過ぎません。この公園内には、吉良上野介座像、邱内見取り図、土地寄贈者リストなどの他、吉良上野介を祀った稲荷神社が残されています。




入口を入った左手に、境内社のような感じの小さな稲荷神社があります。吉良邸の屋敷神ということではなかったようです。

松坂稲荷大明神由来

「松坂稲荷」は「兼春稲荷」と「上野稲荷」の二社を合祀したものです。「兼春稲荷」は徳川氏入国後、現今の社地たる松坂町方面に御竹蔵を置かれし当時、其の水門内に鎮座せしもので元禄十五年の赤穂浪士討入り後、吉良邸跡へ地所清めのために遷官(宮?)され、昭和十年に既存の「上野稲荷」と合祀され、当本所松坂公園開園とともに当所に遷座されました。




園内の隅っこには首洗いの井戸があります。雪が降っていたとの話もありますので、首を洗った義士もさぞ冷たかったことでしょう。



正面中央には、吉良上野介の座像が置かれています。結構穏やかな表情をしていますね。愛知県幡豆郡吉良町の華蔵寺に吉良上野介が50歳(1691年当時)の頃に自から作らせた木彫の座像が現存し、それを基にして型や大きさを全く同じにし、衣冠も当時の色を再現したとのことです。

吉良上野介義央公座像建立の経緯

平成二十一年六月、吉良邸跡保存会の会合で、吉良上野介像を製作、園内に設置しようとの提案があり、当両国三丁目町会長市川博保氏、吉良邸跡保存会長山田繁男氏及び両国三丁目町会顧問岡崎安宏氏の三者で検討、その結果、時代の推移と共に吉良公への歴史的認識とその評価が変わってきたこの時期に、大変に意義あることと考え、製作を決定する。岡崎安宏氏の知人で横浜在住の造形作家米山隆氏に製作を依頼し、製作に当っては岡崎安宏氏が監修、企画協力を山田繁男氏が担当する。愛知県吉良町に吉良家の菩提寺華蔵寺があり、1690年頃吉良上野介五十歳の時、自らが造らせたと言われている寄木造り(檜材)の座像が現存している。姿・形についてはこれをモデルに、そのほかは愛知県歴史編纂委員会の調査資料を参考にする。吉良上野介の位は従四位上なので束帯は黒、後襟袍の下に緑・藍・紅・白の襟があらわされている。表襟は白色で、左手に太刀、右手に朱塗り平板の笏(しゃく)を持ち正面で足裏を合わせて座す。頭部に巾子冠を被り、頭髪は黒一部白髪である。据え付けた台座は御影石を使用する。本像制作に当たって、両国三丁目町会・吉良邸跡保存会・東京両国ライオンズクラブが資金提供を行い、平成二十ニ年十二月十二日に墨田区へ寄贈する。また、本像の上屋については、愛知県吉良町(現西尾市吉良町)が、吉良上野介義央公座像建立に感銘をうけ建設し、様式については、園内の修景に配慮した銅葺屋根、無垢の木材を用いた温かみのある設えとする。平成二十三年三月に吉良邸跡保存会を通じて墨田区へ寄贈する。




正面右手には、葛飾北斎が描いた「新板浮絵忠臣蔵 第十一段目」の討ち入りの絵と共に、解説文が記されています。

新板浮絵忠臣蔵 第十一段目

「元禄赤穂事件」を描いたシリーズの一枚です。当時の人形浄瑠璃や歌舞伎の演目にも盛んに取り入れられた「仮名手本忠臣蔵」の大詰め、吉良邸への赤穂浪土討ち入りの場面が浮絵の様式で描かれており、軒先や建物のラインが奥行を感じさせます。赤穂浪士に囲まれて孤軍奮闘しているのは、吉良側の剣豪・小林平八郎と思われます。この夜吉良上野介を護って討ち死にした小林平八郎は、自分の曾祖父であると、北斎自ら語っていたそうです。

A print from the series depicting the Genroku Ako Incident. This uki-e print depicts the climax of Kanadehon Chushingura, which was performed frequently in puppet shows and Kabuki at that time, showing the forty-seven Ronin raiding the Kira Residence, and the lines of the building's eaves and the building itself express a deep perspective. The person putting up a solitary fight against the forty-seven Ronin is Heihachiro Kobayashi, one of the Kira master swordsmen. It is said that Hokusai used to speak of Heihachiro Kobayashi, a man who bravely died protecting Kozukenosuke Kira that night, was his own grandfather.




その隣には、殿中松の廊下での刃傷事件の様子を描いた絵もあります。討ち入り後の引き上げの様子を描いた絵もあります。両国橋の渡橋を拒否された時のものでしょうか?



吉良邸跡(本所松坂町公園)と道路を挟んだ反対側に、赤い鳥居が目を惹く飯澄稲荷神社があります。飯澄稲荷神社は、本所松坂町と吉良邸の屋敷神・地域神として祀られているそうです。



飯澄稲荷神社の左隣に、大川屋があります。大川屋は、明治二年(1869年)に当地が本所松坂町と呼ばれていた頃に開業しました。大川屋のある一帯は、忠臣蔵の舞台である吉良邸があった場所です。代々の主人が職人に徹し、味ひとすじに江戸のお菓子を作ってきました。銘菓「隅田川もなか」「忠臣蔵の吉良まんじゅう」などは時代を超えて永く愛されている商品です。また、年に一度12月に開催される元禄市で販売している限定のお菓子「松坂もち」を始め、季節感を演出した生菓子も好評です。



葛飾北斎と赤穂浪士との意外な接点が書かれた案内板が大川屋の前に立っています。

絵画と文学
鏡師中島伊勢住居跡

中島伊勢の住居は、赤穂事件の後、町人に払い下げられ、本所松坂町となったこの辺りにありました。伊勢は、幕府御用達の鏡師で、宝暦十三年(1763年)、後に葛飾北斎となる時太郎を養子とします。北斎の出生には不明な点が多く、はっきりとしたことは判りません。中島家はこの養子縁組を破綻にし、実子に家督を譲りますが、北斎はその後も中島姓を名乗っていることから、中島伊勢の妾腹の子だったという説もあります。飯島虚心の「葛飾北斎伝」によると、北斎の母親は赤穂事件に登場する吉良方の剣客、小林平八郎の娘で、鏡師中島伊勢に嫁いでいるとしています。この話は、北斎自身が広めたようです。




一の橋通りの手前、回向院の裏手に大徳院があります。大徳院は、貞享二年(1686年)に江戸幕府から現在地を拝領し、高野山金剛峰寺直末一等格院金剛格大徳院したといわれています。江戸における高野山大師信仰の中心で、高野山を開いた弘法大師の大と徳川家の徳を合わせて大徳院の寺名が名付けられ、徳川家の位牌所・祈願所でした。明治十八年に高野山別院としての機能を高野山東京別院に返上し、現在は一地方寺院として活動しています。御府内八十八ヶ所霊場第50番札所です。

大徳院

大徳院は高野山真言宗のお寺です。総本山は文禄三年(1594年)、和歌山県の高野山に 徳川家康によって開かれました。高野山を開いた弘法大師の大と、徳川家の徳をとって「大徳」と称しました。それ以来、徳川家の勢力を背景に、全国に末寺ができましたが、大徳院は、高野山金剛峰寺の諸国末寺の総触れ頭として、寛永年間(1624年〜1639年)、神田紺屋町に屋敷を拝領し寛文六年(1666年)本所猿江に移転の後、貞享元年(1684年)二月、千二百坪の土地をこの地両国に拝領し、移転しました。本尊は薬師如来で、俗に「本所一ツ目の寅薬師」といわれ、眼病治癒に効き目があったことで信仰されていました。また、宝暦年間(1751年〜1764年)に開かれた御府内八十八札所の中の第五十番になっています。




「与兵衛鮨発祥の地」と書かれた案内板も立っています。昭和の始めまで営業していたんですね。

与兵衛鮨発祥の地

この横町の左手に、江戸握り鮨発祥といわれる与兵衛鮨がありました。文政の初めに、初代・小泉与兵衛(1799年〜1858年)により大成されました。小泉与兵衛は、霊岸島の生まれでしたが、次々と商売を替えて、本所で暮らすようになりました。その頃に、大阪風の押し鮨にあきたらず、これを江戸風に鮮度を保ち、手早く作る方法を工夫しました。始めは、毎日岡持に鮨を入れて売り歩きましたが、評判を呼ぶようになり、屋台を出し、後には店舗を開くほどになり、殺到する注文に追いつけない繁盛ぶりだったと伝えられます。当時の狂歌にも「鯛比良目いつも風味は与兵衛ずし買手は見世にまって折詰」などと人気のほどを伺うことができます。また、食通の武士の注文に応じて与兵衛が創案した「おぼろの鮨」も大変な人気となりました。屋台で山本のお茶を出したことも人気に拍車をかけました。以後、昭和五年に惜しくも廃業しました。




元町は、回向院の門前町として栄えていたそうです。

元町跡

両国橋の東詰めにあった町名です。現在の両国一丁目あたりで、この一帯で最初に拓かれた町屋なので元町といいます。町内は四つに分かれていますが、総坪数は三千二百六十三坪でした。寛文十一年(1671年)の切絵図には回向院門前に「ちゃや」、竪川沿いに「ざいもく」などの記載があり、門前町として賑わっていたことがうかがわれます。十万人を超える死者が眠る回向院には、墓参のため、身分や年齢を問わず、多くの人々が訪れ、両国橋から回向院に向かう通りは、回向院の参道として、おおいに賑わっていました。




春日野部屋があります。

春日野部屋(出羽海一門)

師匠は十一代・春日野清隆(元関脇・栃乃和歌)。大正十四年(1925年)五月、第二十七代横綱・栃木山(八代・春日野剛也)が、出羽海部屋から分家独立し、創設しました。昭和三十四年(1959年)十月、八代・春日野の死去に伴い、部屋所属の第四十四代横綱・栃錦が現役のまま九代・春日野を襲名、部屋を継承し、昭和三十五年(1960年)、現役を引退するまでの間、二枚鑑札で部屋経営にあたりました。また、九代・春日野は、昭和四十九年(1974年)から同六十三年(1988年)まで日本相撲協会理事長を務めました。平成二年(1990年)一月、九代・春日野の死去に伴い、部屋付の中立親方(第四十九代横綱・栃ノ海)が部屋を継承、十代・春日野晃将を襲名しました。平成十五年(2003年)二月、十代・春日野の定年退職に伴い、部屋付の竹縄親方(元関脇・栃乃和歌)が十一代・春日野を襲名し、部屋を継承、今日に至っています。




駐車場のフェンスの前に案内板が3枚立っています。



大山詣での講中の人たちが両国橋の袂で体を清めたのだそうです。昔は隅田川も清流だったのでしょう。

石尊垢離場跡

石尊とは、神奈川県伊勢原市にある大山のことです。山頂の阿夫利神社は、商売繁盛と勝負事に御利益があるので江戸中期、江戸っ子が講を組み、白衣に振り鈴、木太刀を背負った姿でお参りに出かけました。出発前に水垢離を取り、体を清めました。その垢離場が旧両国橋の南際にありました。川の底に石が敷いてあり、参詣に出かける者が胸のあたりまで水につかり「さんげさんげ、六根罪障、おしめにはったい、金剛童子・・・」などと唱えながら、屈伸を行い、そのたびにワラで作ったサシというものを流したのです。その賑わいは、真夏の海水浴場のようだったとされています。




吉良邸討ち入り後の赤穂浪士は、広小路で休息したと伝えられています。

赤穂浪士休息の地

元禄十五年(1702年)十二月十四日、赤穂浪士は本所二ツ目の吉良邸に討ち入り、主君である浅野内匠頭の仇討ちを成し遂げました。これが世に言う赤穂事件で、芝居などで「忠臣蔵」と呼ばれるようになりました。赤穂浪士が討ち入り後、泉岳寺への引き揚げ前に休息をした場所がここにあった広小路です。吉良家への応援に駆けつけて来るであろう上杉家の家臣たちを迎え撃つ心算であったとの説もあります。休息後、大名との無益な衝突を避けるため、登城路になる旧両国橋を渡らず、一之橋、永代橋を経由して、泉岳寺へと引き揚げました。




旧両国橋は現在の地点より50mほど下流に架かっていたそうです。

旧両国橋・広小路跡

旧両国橋は現在の両国橋の下流約五十メートルのこの辺りに架かっていました。完成は万治二年(1659年)十二月。明暦三年(1657年)の大火が大災害となったため、幕府が防災上の理由から架け、武蔵と下総の国を結ぶ橋なので、両国橋と呼ばれました。橋の上は、四方が眺望できる絶景の場所で、近くは浅草の観音堂、遠くは常陸の筑波山まで見えたようです。橋が架かったことで交通の要衝となるとともに、橋の袂には火除け地としての広小路が設けられました。西側(日本橋側)は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が立ち並び、東側は「向こう両国」と呼ばれ、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街となりました。寛保二年(1742年)の調査では一日に二万人以上が往来したとされています。




更に3枚の案内板が重なるようにフェンスに掛けられています。



「駒留橋跡」の案内板です。

駒留橋跡

駒留橋は、この辺りにあった旧両国橋北側の入り堀に架かっていた長さ二間半(約4.5メートル)、幅三間(約5.4メートル)の小さな石の橋で、藤代町と両国広小路を結んでいました。その堀の幅はもっとも広いところが四間(約7.2メートル)で、奥に行くほどだんだんと狭くなっていました。本所七不思議の一つである片葉の葦が生えていたので、別名、片葉堀といわれ、盛り場の近くにありながら、夜になると寂しい場所でした。両国の繁華街がもっとも賑やかになる時間帯でもこの橋の周りは森閑としていたと伝えられています。そのせいか、夜になると、橋詰にあった自身番(町内の私設交番)の前に夜鷹が集まり、道行く人の袖を引いていたようです。




「藤代町跡」の案内板です。

藤代町跡

かつてこの辺りにあった町名です。その由来は・・・。享保年間(1716年〜1735年)、紀伊生まれで麹町に住んでいた毛利藤左衛門は、自分の支配地である西葛西領猿江村の入り堀二万五千坪を自費で開墾し、「毛利新田」と呼ばれていました。しかし、これが幕府の貯木場として、残らず召し上げられ、その代わりにこの土地を賜ったのです。藤左衛門が代りに賜ったことから藤代町と呼ばれています。回向院や向島に通じる要衝だったため、商家が軒を並べるかなり賑やかな場所で、本所の入り口にふさわしい繁華街でした。




「片葉の葦」の案内板です。

片葉の葦

駒留橋が架かる入り堀に生える葦は、同じ方向にしか葉を出さなかったことから、片葉の葦と呼ばれていました。入り組んだ地形の風の吹き込み方が影響していたと考えられますが、当時はそれが、本所七不思議の一つとされていました。その由来は・・・
昔、本所横網町に住んでいた留蔵という男が、三笠町のお駒という娘に惚れました。留蔵はお駒を自分のものにしようと、あの手この手で近づきますが、お駒は一向になびきません。腹を立てた留蔵は、お駒を殺害し、片手片足を切り落として堀に投げ込みました。それ以来、ここに生える葦は、すべて片葉になったというものです。当時葦は吉原の語源となるほどこの辺りにはたくさん生えていました。




両国橋児童遊園にやってきました。両国橋は江戸時代に隅田川で2番目に架けられた橋で、その当時は武蔵国と下総国のふたつの国をつなぐ橋だったので、いつしか「両国橋」と呼ばれるようになりました。人が集まる場所でしたので、両国の花火が打ち上げられるようになったといわれています。両国橋の親柱には人工衛星の形をした大きな石球が置かれています。これは地球儀をイメージして作られたのだそうです。



ポイント6 両国橋 北斎案内板 両国納涼一の橋弁天

公園の西の端に、北斎の案内板が立っています。葛飾北斎は、生涯の殆どを墨田区で過ごしました。といっても、一箇所に定住していたわけではなく、生涯に93回も転居したそうで、一日に3回引っ越したこともあるといわれています。北斎が転居を繰り返したのは、北斎が絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたからです。最終的に、93回目の引っ越しで以前暮らしていた借家に入居した際、部屋が引き払ったときとなんら変わらず散らかったままであったため、これを境に転居生活はやめにしたとのことです。案内板に北斎が描いた両国橋近辺の浮世絵の解説が記してあります。

すみだが誇る世界の絵師 葛飾北斎 が描いた風景をたどろう
両国納涼 一の橋弁天 −絵本隅田川両岸一覧−

狂歌絵本「隅田川両岸一覧」三巻のうち、中巻の一枚です。納涼の人々で賑わう、昼間の両国橋の様子が描かれています。手前は当時、江戸屈指の盛り場であった両国広小路であり、掛け小屋や茶屋などが並んでいるのがわかります。絵本ならではの横長の構図が、この絵の大きな特徴と言えるでしょう。真ん中の上方に見える小さい橋が、今の竪川(両国一丁目と千歳一丁目)に架かる一之橋。森のあたりが一の橋弁天で、現在の江島杉山神社です。右の三角の建物は幕府の御船蔵です。

Trace the footprints of KATSUSHIKA HOKUSAI, a world class painter of SUMIDA.
Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River: Ryogoku Noryo Ichinohashi Benten

One of the prints from the second of the three-volume comic tanka picture books, Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River. This print is a depiction of a crowd of people enjoying the evening coolness on Ryogoku Bridge before it gets dark. At the forefront is the Ryogoku Main Street, a prominent amusement area during the Edo Era, and makeshift theaters and tea houses, etc., can be seen side by side. The main feature of this print is probably its size, which is wider than it is high as is typical with picture books. The small bridge that can be seen higher up in the center is the Ichinohashi Bridge, which spans the present-day Tatekawa River (Ryogoku 1-chome and Chitose 1-chome). The area around the forest is Ichinohashi Benten, which is currently the Ejima Sugiyama Shrine. The triangular building on the right is the Shogun's boathouse.




両国橋児童遊園には、その他にも案内板や石碑が置かれています。奥の巨大な石碑には「表忠碑」と彫られ、日露戦争での戦没者を奉った慰霊碑です。満州軍総司令官大山巌元帥陸軍大将の筆になるものです。



両国橋を架橋した際に川底に打ち込まれた「百本杭」について記した案内板が立っています。土木機械のない時代、流れの急な河川に長い橋を架けるのは大変な工事だったことでしょう。

両国橋と百本杭

両国橋の風景を持徴づけるもののひとつに、百本抗があります。昭和五年(1930年)に荒川放水路が完成するまで、隅田川には荒川・中川・綾瀬川が合流していました。そのため隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して、川岸が浸食されました。両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には、数多くの杭が打たれました。水中に打ち込んだ抗の抵抗で流れを和らげ、川岸を保護するためです。夥しい数の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになり、その光景は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになりました。江戸時代の歌舞伎では、多くの作品の重要な場面に「両国百本抗の場」が登場します。「十六夜清心」でも、冒頭に「稲瀬川百本杭の場」がおかれています。稲瀬川は鎌倉を流れる川の名ですが、歌舞伎の中では隅田川に見立てられることがあります。観客は「百本杭」という言葉から、この場面が実は隅田川を舞台としていることに気づくのです。百本杭はそれほど人々に知られた場所だったのです。また、明治十七年(1884年)に陸軍参謀本部が作成した地図には、両国橋北側の川沿いに細かく点が打たれ、それが百本抗を示しています。明治三十五年(1902年)に幸田露伴は「水の東京」を発表し、「百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出でたるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本抗の辺はまた特に深し。ここにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり」と富士見の渡の南側から見られた様子を綴っています。このほか、本所向島に親しんだ多くの文人が、百本杭と往時の記憶について書き留めています。しかし、明治時代末期から始められた護岸工事で殆どの抗は抜かれ、百本杭と隅田川がおりなす風情は今では見られなくなりました。




挿絵と当時の写真の切り抜きです。



案内板の左隣に、両国橋の由来が書かれた石碑が建っています。



碑文は殆ど読み取れません。

両国橋

両国橋の名は、武蔵と下総との二国を結ぶ橋であるところからこう呼ばれたが、正式の名は、ただ”大橋”であった。しかし新大橋なども造られたため、両国橋が正式の名となった。江戸一の大火である明暦の振袖火事(1657年)では、橋がなくて逃げられず多数の死者が出た。そのため、大火のあと、この橋が架けられた。回向院は、その人々を弔うために建てられた。のちに勧進相撲がもよおされることとなったのである。この橋が架かったため、本所・深川が江戸の新市街として発展することとなった。橋詰の両側は、賑やかな遊び場としても開けた。幕末からは川開きの花火もあって、江戸の市民には喜ばれた。現在の橋は、昭和七年(1932年)に完成した。




その左側のもうひとつの石碑に刻まれている「日の恩や 忽ちくだく 厚氷」は、忠臣蔵四十七義士のひとりであり、討ち入りの日を決定する重要な情報を入手したと言われる大高源五の句碑です。大高源五は俳人でお茶も嗜むことから、吉良上野介義央の在宅の日の情報を上野介のお茶の師匠でもある山田宗偏から入手しました。その際に詠んだとされる辞世の句と言われています。



公園の隣のビルに、「山くじら ももんじや」の看板が掛かっています。「山くじら」とは、猪の肉の隠語です。肉食が禁じられていた江戸時代後期、猪の肉を食べさせる店では「山くじら」という看板を出し、動物の肉を大っぴらに食べさせていました。また、ももんじや(屋)とは、江戸時代の江戸近郊農村において、農民が鉄砲などで捕獲した農害獣の猪や鹿を利根川を利用して江戸へ運び、その他、犬や狼に狐・猿・鶏・牛・馬などの肉を食べさせたり、売っていた店のことをいいます。



お店の前に墨田区の案内板が立っています。格子越しに中を覗いてみますと、猪君が鉤に逆さ吊りされています。お店の飾りのようにも見えますが、フサフサとした毛皮を見ると本物のようです。衛生上問題ないのでしょうか?

江戸の味 ももんじや (Momonjiya)

享保三年(1718年)創業の猪料理店です。「ももんじ」とは「百獣」のことで、四つ足の動物の肉を扱う店を「ももんじ屋」と総称しました。現在は、この「ももんじや」を店名にしていますが、正式には「ももんじやの豊田屋」です。しかし、屋号の豊田屋はどこにも掲げられていません。もとは漢方の薬屋でしたが、薬の一種として出した猪が人気商品となり、料理店へ転身しました。猪の肉は、冷え性や疲労回復に効果があり、肉食が禁じられた江戸時代でも「山くじら」と称して食べられていました。猪は丹波や鈴鹿などから仕入れたもので、味噌仕立てのすき焼にします。その他、鹿刺し、狸汁など、他ではめったに味わえない珍しい肉料理が味わえます。




ポイント7 回向院

両国二丁目交差点に面して、円筒を半分に割ったような形の屋根が特徴的な回向院の山門があります。

回向院(Eko−in Temple)

明暦三年(1657年)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は十万人以上、未曾有の大惨事となりました。遺体の多くが身元不明、引取り手のない有様でした。そこで四代将軍コ川家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。有縁・無縁・人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震・関東大震災・東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者・遊女・水子・刑死者・諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。




参道の入口横には回向院の由緒を記した案内板が立っています。鼠小僧次郎吉の本来の墓は南千住の小塚原回向院にあり、両国の墓は明治時代に建てられた供養墓となっています。鼠小僧次郎吉は鈴が森で獄門(斬首刑)になったそうですが、なんで小塚原刑場近くに墓を作ったのでしょうかね?ちなみに、江戸時代の刑場は北に小塚原刑場、南に東海道沿いの鈴ヶ森刑場(南大井)、西に大和田刑場(八王子市)があり、三大刑場といわれました。鼠小僧次郎吉の墓のすぐ隣に「猫塚」と書かれた碑があります。名前のとおり、猫の供養のために建てられた塚です。「猫に小判の話」とは、「文化年間、日本橋に住む時田半治郎という人がいて、家計が窮迫したうえに病気となって苦しい毎日を送っていたところ、日頃かわいがっていた猫が小判をくわえてきて長年の恩にむくいた。それ以来、時田家の家運が次第に開けて、病気も治り家運が挽回し繁栄していった。時田家では、この猫を徳として感謝していたが、猫が死ぬとその霊を回向院に埋葬し、墓を建てた」というお話です。

諸宗山 回向院

明暦三年(1657年)江戸大火(振袖火事)に依る死者10万八千余人を弔うために建立された。

安政大地震(1855年)の死者二万五千人余を初めとして、江戸府内の無縁佛・天災地変に因る死者も埋葬され、近くは大正十二年の関東大地震の死者十万余人の分骨も納骨堂に安置されています。

江戸時代の雰囲気を伝える史蹟記念碑墓地がある。
 明暦三年 大火石塔
 安政二年 大地震石塔
 鼠小僧次郎吉墓
 水子塚 (寛政五年)松平定信建立
 猫に小判の話 猫塚
 勧進相撲発祥の地記念 力塚
 呼び出 定火消墓 木遣塚
 諸動物供養塔
 竹本義太夫墓
 岩P京傳・京山・加藤千陰墓




回向院の境内には、かって大鉄傘と愛称された旧国技館がありました。収容人数一万三千人のドーム型建物を造ったほどですから、境内は相当に広かったのでしょう。隣接する両国シティコアビル中庭にある駐輪場には、タイルの色を変えることによって土俵跡が分かるようになっています。

旧国技館跡

旧国技館は、天保四年(1833年)から回向院で相撲興行が行われていたことから、明治四十二年(1909年)に、その境内に建設されました。建設費は二十八万円(現在の価値では七十五億円程度)です。ドーム型屋根の洋風建築で、収容人数は一万三千人でした。開館当時は両国元町常設館という名前でしたが、翌年から国技館という呼び方が定着し、大鉄傘と愛称されました。しかし、東京大空襲まで、三度の火災に見舞われるなど御難統きで、戦後は進駐軍に接収されました。返還後は日大講堂として利用されていましたが、昭和五十八年(1983年)に解体されました。左手奥の両国シティコアビル中庭の円形は、当時の土俵の位置を示しています。




大鉄傘については、もうひとつの案内板が置いてあります。明治時代にこのような巨大で難しい構造の建物を建てたのは信じられませんね。

旧国技館(大鉄傘)跡

旧国技館は、江戸時代以来の相撲興行の歴史を刻む回向院の境内に、明治四十二年(1909年)に竣工・開館しました。1万3千人を収容する当時最大規模の相撲常設館で、設計は、日本銀行本店や東京駅の設計で著名な辰野金吾と葛西萬司が手がけました。日本初のドーム型鉄骨の建物であったことから、大鉄傘とも呼ばれました。開館当初は両国元町常設館が正式名称でしたが、翌年から国技館という名称が定着しました。開館後は菊人形祭りや講演会などを開催するイベントホールとしても利用されました。この建物は、大正六年(1917年)の火災と同十二年(1923年)の関東大震災、そして昭和二十年(1945年)の東京大空襲などで被害を受けましたが、そのたびに修理され、昭和五十八年(1983年)に老朽化に伴い解体されるまで使用されました。ただし、相撲常設館としての役割は、横綱双葉山の引退披露大相撲として開催された昭和二十一年(1946年)秋場所を最後とし、その後はメモリアルホールと称してプロレスやボクシングなど格闘技の試合会場として使用されました。また、昭和三十三年(1958年)以降は、日本大学講堂として使用されました。なお、旧国技館の解体後、地元の方々が台東区の蔵前国技館に移転していた本場所の誘致に尽力され、昭和六十年(1985年)1月に現在の両国国技館が開館しました。旧国技館の跡地は、現在複合商業施設となり、その中庭にはタイル貼りでかつての土俵の位置が示されています。

Former Site of Kokugikan (Sumo Arena)

Sumo bouts were held at Ekoin Temple during the Edo period. In 1909 the sumo arena later known as Kokugikan was erected on this site, under the name Sumojosetsukan. This domed, steel framed, Western style building was known as Daitessan. Rebuilt numerous times, Kokugikan was in continuous use until its final demolition in 1983.




境内には、相撲に関した様々な石碑が建っています。

相撲関係石碑群<力塚>

墨田区と相撲の関わりは、明和五年(1768年)九月の回向院における初めての興行にさかのぼります。以後、幾つかの他の開催場所とともに相撲が行われていました。天保四年(1833年)十月からは、回向院境内の掛け小屋で相撲の定場所として、年に二度の興行が開かれ、賑わう人々の姿は版画にも残されています。明治時代に入っても、相撲興行は回向院境内で続いていましたが、欧風主義の影響で一時的に相撲の人気が衰えました。しかし、明治十七年(1884年)に行われた天覧相撲を契機に人気も復活し、多くの名力士が生まれました。そして、明治四十二年(1909年)に回向院の境内北に国技館が竣工し、天候に関係なく相撲が開催できるようになり、相撲の大衆化と隆盛に大きな役割を果たしました。カ塚は、昭和十一年に歴代相撲年寄の慰霊のために建立された石碑です。この時にこの場所に玉垣を巡らせ、大正五年(1916年)に建てられた角力記と法界万霊塔もこの中に移動しました。現在は、相撲興行自体は新国技館に移りましたが、力塚を中心としたこの一画は、相撲の歴史が七十六年にわたり刻まれ、現在もなお相撲の町として続く両国の姿を象倣しています。




力塚碑の背後に、江戸時代以来勧進相撲興行の場となった施設の歴史を記した「回向院相撲記」なる石碑が建っています。

回向院相撲記

江戸勧進相撲が記録で判明した最初の場所は貞享元年(1684年)深川八幡宮境内である。其後 新材木町杉森稲荷・浅草御蔵前八幡神社・芝神明社・本所回向院・市ヶ谷八幡宮・芝西久保八幡宮・市ヶ谷長龍寺・深川三十三間堂・本所一ッ目八幡宮・茅場町薬師・芝愛宕山・神田明神と転々したが天保四年十月(1833年)から明治四十二年(1909年)六月に国技館が建設されるまで七十六年間に亘って回向院境内が本場所の開催地となっていた。其後昭和二十九年九月蔵前国技館完成とともに財団法人日本相撲協会はこの地を去るに當り力塚は残して永く先人の徳を慕い且大相撲回向院時代を偲ぶため力塚修復祭祀に際し之を記す。




境内に案内板がずらりと並んでいます。



左端は、「石造明暦大火横死者等供養塔」の案内板です。供養塔は、明暦三年(1657年)1月に発生し、江戸市中の繁華街を焼いた明暦の大火による焼死者・溺死者を始めとして、入水者・牢死者・行路病死者・処刑者・その他の横死者に対する供養のために造立されました。

東京都指定有形文化財(歴史資料)
石造明暦大火横死者等供養塔 一基

明暦三年(1657年)一月、江戸市中の繁華街を焼いた有名な明暦の大火による焼死者・溺死者をはじめとして、入水者・牢死者・行路病死者・処刑者その他の横死者に対する供養のために造立されたものである。もと、回向院本堂の向って右に存した三仏堂の前に建てられていたが、堂舎の位置がその後移転したにもかかわらず、この供養塔の位置はほとんど動いていないものと思われる。総高3.05メートル、延宝三年(1675年)頃建立された。願主は回向院第二世住持信誉貞存。

Tangible cultural property (Historical Material)
Sekizo Meireki Taika oshisya-to Kuyoto

This is a tower built for victims of the Great Fire at Meireki time. It was built around 1675 by the petition from the second chief priest of Ekoin Temple, Shinyo Teizon. There used to be many fires in Edo. Since merchants, who account for a half of the population in Edo, were crammed into limited areas, a single fire could cause serious damage. The Great Fire at Meireki time is a common term for three fires that occurred consecutively from January 18 to 19. Most of the city center at the time (current Chiyoda and Chuo wards) was affected by the fire and tens of thousands of people were killed. The main stone is in rectangular shape and all four surfaces were chamfered. On top of the main stone, a coping stone with bargeboards on all four sides, and houju (sacred gem) are placed on. Two lotus-shaped base and two square pedestal stones are at the bottom. The total height is 305cm (coping stone 68cm, main stone 162cm, lotus-shaped base and pedestal stones 75cm). The tower was originally built in front of Sanbutsu-do hall at the right side of the main hall of Ekoin Temple. Later the halls were moved but it is assumed that the location of the tower has not been moved. In Ekoin Temple, there are many other memorial towers for the neglected. In the east side of the main hall, many memorial towers and gravestones of the famous can be seen.




供養塔自体は、境内の奥にまとめられた石碑群の前列右端(案内板の左横)にあります。



加藤千蔭墓の案内板です。お墓自体は、鼠小僧次郎吉の墓の裏側にあるそうですが見落としました。加藤千蔭は江戸時代中期の歌人・国学者で、碑面には草書体の美しい文字で「橘千蔭墓」と陽刻されています。加藤千蔭は文化五年の正月に「橘千蔭」と自筆した紙を回向院の住持に託し、その年の9月2日に没しました。墓碑の「橘千蔭」の文字は本人のものといわれています。

東京都指定旧跡
加藤千蔭墓

江戸中期の国学者、歌人。芳宜園と号し、千蔭は名。耳梨山人、逸楽窩、江翁などとも号していた。通称加藤又左衛門といい、能因法師の末裔だという。父は江戸の与力として八丁堀に住み、千蔭は父から歌を学んだ。また賀茂真淵に師事し、のち父の職を継いだ。天明八年(1788年)病気のため職を辞し、学問研究に専念した。老境に入っていよいよ研さんを積み、著書は世に千蔭本と呼ばれて流布した。博識をもって世に知られ、かつ著書「万葉解」は高く評価されて幕府から賞されたという。また、絵を建部綾足に学び人びとは争ってこれを求めたという。文化五年(1808年)九月二日歿。年七十五。著書には「万葉集略解」「万葉新採百首」「香取日記」その他多い。



墓碑はネットからの転載です。


岩瀬京伝墓の案内板です。お墓は、加藤千蔭墓の前にあります。墓碑裏面の碑文は弟の岩瀬京山が撰文し、墓碑銘も自撰自書しました。

東京都指定旧跡
岩瀬京伝墓

江戸時代の著名な戯作者。名は醒、字は酉星。京橋南伝馬町に住んでいたため号を京伝とし、愛宕山の東に当ることにちなんで山東といった。彼は深川木場の質屋に生まれ、若くして浮世絵を北尾重政に学び、北尾政演の名で黄表紙のさし絵などを描いた。「御存商売物」が蜀山人に認められ、「江戸生艶気樺焼」によって一躍黄表紙作家として広く知られるようになった。さらに「令子洞房」で洒落本作家としての地歩を築いたが寛政三年(1791年)風俗を乱すものとして手鎖五十日の刑に処せられ、以後読本作家に転じた。著書には「仕懸文庫」「孔子縞于時藍染」「心学早染草」「傾城買四十八手」「近世寺跡考」「骨董集」その他多い。文化十三年(1816年)九月七日歿。年五十七。




岩瀬京山墓の案内板です。岩瀬京山は岩瀬京伝の弟にあたり、お墓は兄の岩瀬京伝の墓の右横にあります。

東京都指定旧跡
岩瀬京山墓

江戸時代の著名な戯作者である山東京伝の弟で同じく戯作者である。名を百樹といい、字を鉄梅といった。鉄筆堂は号で、通称は利一郎、のち京山と改めた。はじめ篠山侯に仕え、のちこれを辞して兄京伝の業を継ぎ、やがて剃髪して涼仙と号した。著書には「稗史小説」「蜘蛛の糸巻」その他がある。安政五年(1858年)九月二十四日流行病コロリ(コレラ)にかかって歿した。なお、兄京伝の墓を建てたのは京山である。半居士、覧山の別号がある。




回向院の境内には、様々な動物の慰霊碑や供養碑があり、動物供養の発祥寺ともいわれています。境内の中央に聳える白い建物は、馬頭観世音菩薩像を安置する馬頭観音堂です。徳川四代将軍家綱の愛馬が亡くなった際に回向院に葬ることになり、その供養のために二世信誉貞存上人は自ら馬頭観世音菩薩像を刻みました。その像が安置されているのが馬頭観音堂です。病気平癒などにご利益があるとして信仰を集め、江戸三十三箇所観音参り第4番札所となっています。



境内の猫ちゃんとしばし遊びます。警戒心が全くないですね。



境内中央の石碑群の中に、海難事故による溺死者を埋葬供養した「石造物海難供養碑」が幾つか建っています。

<墨田区登録文化財>
石造海難供養碑

回向院は、明暦の大火を契機に開かれた寺院で、様々な災害による犠牲者を弔う供養碑が多く建立されています。それらの中に六基の海難供養碑を見ることができます。六基のうち三基は伊勢白子(現三重県鈴鹿市)関係の碑です。江戸時代の白子港は木綿を主力商品とした伊勢商人の物資輸送の拠点として繁栄していました。

@「南無阿弥陀仏」海上溺死群生追福之塔
文政十年(1813年)に菱垣廻船十組問屋が建立。安政大地震で倒れたのち安政三年(1856年)に再建。正面の名号は増上寺六十六世大僧正冠譽の揮毫を碑刻したものです。

A「溺死四十七人墓」
明治二年(1869年)、函館戦争の援軍として横浜から出港した肥後熊本藩(現熊本県)のお雇い蒸気船が上総川津村(現千葉県勝浦市川津)の沖で沈没し二百六十余名が亡くなりました。そのうち、富岡文吉らが知る四十七名を供養するために建立しました。

B「南無阿弥陀仏」勢州白子参州平坂溺死者供養塔
文化十一年(1814年)江戸大伝馬町太物問屋仲間が白子、平坂(現愛知県西尾市平坂町)二港に属する溺死者のために建立しました。名号は徳本の書です。台座部分には中村仏庵の撰書により、天明二年(1782年)の大黒屋光太夫の一件から、文化十一年に至る海難小史が綴られています。

C「紀州大川徳福丸富蔵船溺死人之墓」
安政四年(1857年)四月二十日に紀州大川浦(現和歌山県和歌山市大川)の富蔵船の乗組員七名が江戸から帰郷の途上、遠州相良沖(現静岡県牧之原市)で溺死しました。彼らを供養するために、江戸の樽廻船問屋井上重次郎と酒問屋、荒荷方の荷受人たちが世話人となり建立しました。

D「勢州白子三州高濱船溺死一切精霊」
寛政元年(1789年)、三河平坂の施主が建立した帆掛船型の碑です。帆の正面には犠牲者七名の戒名と俗名が、帆の裏面には白子の大黒屋光太夫と高浜の弥兵衛船の死者が一切精霊としてあわせて供養されています。

E勢州白子戎屋専吉船溺死者等供養塔
文政八年(1825年)の伊豆神津島(現束京都神津島村)沖の溺死者のために建立されました。のちに、天保、安政の遭難者名を追刻しました。



時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は江戸時代より盛んでした。

<墨田区民俗文化財指定>鼠小僧供養墓

碑の正面には「天保二年八月十八日」 「俗名 中村 次良吉之墓」
「教覚速善居士」「道一書」
裏面には 「大正十五年十二月十五日 建立」
左側には 「永代法養料金 五拾圓也 細川 仁三」と刻まれている

鼠小僧は寛政九年(1797年)生まれの実在の盗賊であり、「武江年表」によると天保三年(1832年)八月十九日に浅草で処刑されている。「甲子夜話」によれば、武家屋敷にのみ押し入ったため庶民からは義賊扱いされていると記されている。後に幕末の戯作者河竹黙阿弥が、権力者である大名家に自在に侵入し被権力者側である庶民に盗んだ金を配るという虚構の鼠小僧を主人公とした作品を世に送り出したことから人気に火がつき、演劇界においては現在まで続く当り狂言の一つとなった。明治十二年一月の「朝野新聞」によると歌舞伎の一門の一人である市川団升が狂言が当った礼として碑と永代供養料十円の寄付を行うほどの熱の入れようであったと伝えており、施主として刻まれ、墓の横にも石灯籠を寄進している。細川仁三とは市川団升のことであるとみる説もある。文学界においても茶川龍之介が「戯作三昧」・「鼠小僧次郎吉」・「復習」と三度題材に取り上げるなどとしており、虚構の鼠小僧の人気は高い。江戸時代、犯罪者には墓を作ることが禁止されていた。しかし歌舞伎や狂言での成功によって、祈願対象物としての墓の必要性が生じ、この供養碑が作られたと思われる。

*他方、供養墓の前にある小さな供養費は正面に供養墓同様「教 覚 速 善 居 士」と刻まれているが、別名「欠き石」とも呼ばれるものである。鼠小僧の墓石を欠き、財布や快に入れておけば金回りが良くなる、あるいは持病が治るとも言われ、成就した人々の奉納した欠き石は数年ごとに建て替えられ続け、現在までに数百基にも及んでいるという。発生時期は不明であるが、明治十八年(1885年)に初演された河竹黙阿弥の「四千両小判梅集」には台詞の中でこの信仰の事が触れられている。

「この供養碑は変貌著しい墨田区と歌舞伎とのかかわりを示す資料でもあり、そこにはまた庶民のささやかな幸福追求の対象物としての価値も含まれる」



長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在も特に合格祈願に来る受験生方が後を絶ちません。



鼠小僧供養墓の左隣に、文化十三年(1816年)に建立された猫の報恩伝説で知られる「猫塚」もあります。ちなみに、別の本では次のように記述されているそうです。

両替屋に通っていた魚屋は、いつもそこの飼い猫に魚肉を与えていました。ところがある時、魚屋は病気で商売に出られなくなってしまい、お金が無くなり困っていましたが、誰かが2両置いていってくれたため、なんとか食いつなぐことができ、やがて病気も治ったといいます。再び両替屋に出かけてみると、そこに猫がいません。理由を尋ねると、猫が小判をくわえて逃げるところを家の者が見つけ、殴り殺してしまったということです。魚屋は猫が自分のところにお金を届けてくれていたと知り、猫の死骸をもらって回向院に葬りました。それが猫塚として今に残っているということです。

猫の恩返し(猫塚)

猫をたいへんかわいがっていた魚屋が、病気で商売ができなくなり、生活が困窮してしまいます。すると猫が、どこからともなく二両のお金をくわえてき、魚屋を助けます。ある日、猫は姿を消し戻ってきません。ある商家で、二両くわえて逃げようとしたところを見つかり、奉公人に殴り殺されたのです。それを知った魚屋は、商家の主人に事情を話したところ、主人も猫の恩に感銘を受け、魚屋とともにその遺体を回向院に葬りました。江戸時代のいくつかの本に紹介されている話ですが、本によって人名や地名の設定が違っています。江戸っ子の間に広まった昔話ですが、実在した猫の墓として貴重な文化財の一つに挙げられます。




ゴール地点のJR両国駅西口に戻ってきました。



ということで、すみだウォーキングマップ2020年版で二番目のコースである「A北斎案内板を見ながら歩く北斎ゆかりの両国コース」を歩き終えました。次はすみだウォーキングマップ2020年版で三番目のコースである「B北斎が描いた隅田川沿いの名所を歩く」を歩きます。




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