B北斎が描いた隅田川沿いの名所を歩く  

コース 踏破記  

今日は、すみだウォーキングマップ2020年版で三番目のコースである墨田区の「B北斎が描いた隅田川沿いの名所を歩く」を歩きます。北斎の案内板を探しながら隅田公園の遊歩道から墨堤通りに入り、白髭神社と法泉寺に立ち寄った後、東白髭公園の隅田川神社と木母寺を経て鐘ヶ淵駅に至ります。最初に歩いたのは2022年の3月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年6月に改めて歩きました。

B北斎が描いた隅田川沿いの名所を歩く

北斎が絵の題材とした様々な名所があります。案内板の絵と実際の場所を見比べてみるのも一興です。

「B北斎が描いた隅田川沿いの名所を歩く」の歩行距離は約4.9km(約7、000歩)、歩行時間は約1時間15分、消費カロリーは約220Kcalです。

スタート地点:都営浅草線本所吾妻橋駅出入口A19
ポイント1 牛嶋神社
本所の総鎮守。かつて近くに住んでいた北斎が「須佐之男命厄神退治之図」を奉納したと伝えられています。
ポイント2 三囲神社
隅田川沿いの名所の1つで北斎の作品にも描かれています。
ポイント3 北斎案内板 新板浮絵 三囲牛御前両社之図
北斎案内板 新浮世絵 三囲牛御前両社之図
ポイント4 北斎案内板 須佐之男命厄神 退治之図
北斎案内板 須佐之男命厄神 退治之図
ポイント5 白鬚神社
かって神社の鎮守の杜は名勝地として知られ、北斎もその作品に描いています。
ポイント6 北斎案内板 白鬚の(きじ)松 今戸の夕(けむり)
北斎案内板 白髭の(きじ)松 今戸の夕烟
ポイント7 法泉寺
新田義貞ゆかりの寺。北斎がこの寺を訪れる参拝客の様子を描いた「寺島法泉寺詣」は区の指定有形文化財になっています。
ポイント8 北斎案内板 寺島法泉寺詣
北斎案内板 寺島法泉寺詣
ポイント9 隅田川神社
かつては「水神社」と呼ばれ、雪景色の名所といわれていました。
ポイント10 北斎案内板 雪月花 隅田
北斎案内板 雪月花 隅田
ポイント11 木母寺
この寺に伝わる「梅若伝説」を題材にして「梅若の秋月」が描かれました。
ポイント12 北斎案内板 梅若の秋月
北斎案内板 梅若の秋月
ポイント13 北斎案内板 隅田川関屋の里
北斎案内板 隅田川関屋の里

ゴール地点:東武スカイツリーライン鐘ヶ淵駅西口


スタート地点の都営浅草線本所吾妻橋駅出入口A19から歩き始めます。



本所吾妻橋駅から三ツ目通りを北に進み、源森橋で北十間を渡ります。北十間川が隅田川から分岐する地点に源森川水門があります。北十間川は、総延長3.24kmの荒川水系の一級河川であり、江戸時代初期に開削された運河です。川の名称は、本所の「北」を流れる川幅が「10間」の川であることに由来します。以前は大横川の分流点より西を源森川(別名:源兵衛堀)、東を北十間川と呼んでいました。水門の名前もかっての呼び名の源森川に因んでいます。

源森橋

源森橋の名前の由来は、現在の枕橋(本橋から約二百メートル隅田川寄りの橋)、古くは源森橋と呼ばれていたものが、明治初期に枕橋に正式決定されたことから、本橋を源森橋と呼ぶようになったことによるものである。その昔、現在の枕橋(旧源森橋)が関東郡代であった伊奈半十郎により中之郷瓦町(現在の吾妻橋地区)から新小梅町(現在の向島地区)に通ずる源森側(現在の北十間川)に架けられた。また枕橋(旧源森橋)北側にあった水戸屋敷内に大川(隅田川)から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。この二つの橋(旧源森橋、新小梅橋)は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるようになった。その後、水戸屋敷内への堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅し、残った旧源森橋は明治初期に正式に枕橋と呼ばれることになり、旧源森橋の東側にあった本橋を源森橋と公称した。現在の源森橋は、昭和三年に架設した鋼橋(上路式アーチ橋)が約八十年経過し、老朽化したため、平成十九年三月に鋼橋(鋼床版鈑桁)に架け替えられたものである。




源森橋はスカイツリーの絶好の眺望ポイントのひとつです。



「東京ミズマチ」は、2020年に東武鉄道の高架下を利用してオープンした複合商業施設です。北十間川の親水テラスに面し、川面を眺めながらゆったりと食事できるレストランもあります。



隅田公園は、関東大震災の復興公園として整備されました。

関東大震災 復興大公園
隅田公園

関東大震災(1923年9月1日)では、火災が鎮火した要因の一つに公園緑地や広場が焼け止まりとして機能したことがわかり、公園設置の重要性が高まりました。震災復興公園として、国は「水辺の公園」の隅田公園、「工業地の公園」の錦糸公園、「商業地の公園」の浜町公園、これら3か所の大公園を整備しました。また、東京市は52か所の小公園を整備しました。大公園は、園内周囲を緑陰樹で囲み、散策や休養をしやすいように整備されたほか、園内の一角に運動施設(水泳場、競技場、運動場等)も設置され、広く一般に利用されました。墨田区には、大公園が2か所(隅田公園、錦糸公園)と小公園が6か所(当初8か所の内2か所が廃園)あります。隅田公園は隅田川を挟んで現在の墨田区と台東区にまたがって整備されました。

The Great Kanto Earthquake of 1923 Large Reconstruction Parks
Sumida Park

Following the Great Kanto Earthquake (September 1, 1923), it was found that open spaces and greenery in parks played a major role in helping to extinguish the post-earthquake fires that ravaged the city by acting as firebreaks, which in turn elevated the importance of establishing parks. The national government subsequently developed three large parks as part of reconstruction efforts: Sumida Park along the banks of the Sumida River, Kinshi Park in an area that was mainly industrial at the time, and Hamacho Park in a commercial district. Similarly, the then City of Tokyo also developed 52 small parks. Surrounded by shade trees, the large parks were designed with strolling and relaxation in mind. Also featuring athletic facilities such as pools, sports grounds, and playgrounds, the parks are widely used by the public. There are two large parks (Sumida Park and Kinshi Park) and six small parks (originally eight, but two have been closed) in Sumida City. Sumida Park was developed across the Sumida River, spanning the current Sumida City and Taito City.




開園当初の案内板の内容も添付されています。長くなりますので文字起こしはしませんが。



隅田公園は、関東大震災後の帝都復興事業により、錦糸公園・浜町公園と並ぶ「三大震災復興公園」のひとつとして整備されました。昭和五十年(1975年)に東京都から墨田区に移管され、昭和五十二年(1977年)には区政施行30周年を記念して大改修が行われました。令和七年(2025年)に完了した再整備第二期工事では、震災復興時の楕円園路の再現や、ひょうたん池の拡張による日本庭園の景観向上を通じて、歴史的・文化的価値を最大限に活用し、老朽化した施設の更新や園路の見通し確保といった安全面の改善も図り、公園のさらなる魅力向上を目指しています。

震災、戦災そして再整備

大正十二年(1923年)9月1日の関東大震災で水戸徳川家の小梅邸は崩壊・焼失し、昭和五年(1930年)、跡地は震災復興局によって隅田公園として整備されました。隅田公園は、隅田川の両岸(本所側・浅草側)に展開し、本所側には三列の桜並木をもつ公園道路と旧小梅邸の園池を取り囲む園路と広場等が整備されました。 震災復興を代表する隅田公園も第二次世界大戦の東京大空襲によって焼け野原になり、大勢の方がこの地に仮埋葬されました。昭和三十三年〜昭和三十六年(1958年〜1961年)、公園は東京都によって復旧整備され、昭和四十六年(1971年)には公園道路上に首都高速道路が造られました。昭和五十二年・昭和五十三年(1977年・1978年)、東京都から移管を受けた墨田区は区制30周年記念事業として公園改修をし、さらに今回(平成三十年〜令和二年(2018年〜2020年))は小梅邸や震災復興公園の遺構を保存・活用しながら、浅草と東京スカイツリーを繋ぐ回廊の拠点として再整備されました。

"Earthquake, War Damage, and Redevelopment"

The Koume Residence of the Mito-Tokugawa family collapsed and was destroyed by the Great Kanto Earthquake on September 1, 1923. In 1930, the site was developed as Sumida Park by the Earthquake Reconstruction Bureau. Sumida Park was developed on both banks of the Sumida River (Honjo side and Asakusa side). On the Honjo side, a park road with three rows of cherry blossom trees, as well as a garden path and open space surrounding the garden and a pond of the former Koume Residence were constructed. Although Sumida Park was the epitome of reconstruction from the earthquake disaster, it was burnt down by the Great Tokyo Air Raids during World War II, and many people were temporarily buried here. From 1958 to 1961, the park was restored and repaired by the Tokyo Metropolitan Government. In 1971, the Shuto Expressway was constructed above the Sumida embankment. In 1977 and 1978, Sumida City, which was entrusted with the development of Sumida Park from the Tokyo Metropolitan Government, renovated the park as a commemorative project for the 30th anniversary of the city. Furthermore, currently, from 2018 to 2020, by preserving and utilizing the remains of the Koume Residence and Sumida Park that had been restored after the earthquake disaster, it is undergoing redevelopment to serve as a base for a promenade that connects Asakusa and Tokyo Sky Tree.




公園の東の縁に、小説家の堀辰雄の案内板があります。

堀辰雄ゆかりの地

堀辰雄は明治三十七年(1904年)、麹町平河町(現在の千代田区平河町)に生まれました。二歳のとき、母志気に連れられ向島小梅町(現在の向島三丁目)に住む叔母の家に移りました。その後、明治四十一年に母が彫金師上條松吉と結婚し、向島中ノ郷町三十二番地(左図@)で暮らしはじめます。 更にその二年後には大水の影響で新小梅町二ノ四(同A)に移り、ここから牛島尋常小学校(同A)に通います。府立第三中学校(現在の都立両国高校)を卒業した辰雄は、室生犀星の紹介により同校の先輩である芥川龍之介を知り、文学的影響を受けます。関東大震災では九死に一生を得ますが、母を亡くしました。大正十三年(1924年)四月に父松吉が隅田公園東隣の新小梅町八番地(左図B)に住居を新築し、辰雄が結婚して軽井沢へ赴く昭和十三年(1938年)まで父と共にそこで暮らしました。辰雄の夫人多恵氏は随筆「蓮の花」の中でこの家を懐かしみ、「あの竹の植わっていた小さい玄関−辰雄はそんな自分の家を「雀のお宿」と呼んでいた」と記しています。 人生の過半を向島で過ごした辰雄は、「墓畔の家」や「幼年時代」などの作品に、当時の墨堤や近隣の寺社の様子を記しています。「神社の境内の奥まったところに、赤い涎かけをかけた石の牛が一ぴき臥てゐた。私はそのどこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった。」(「幼年時代」)とあるのは、牛嶋神社境内の撫牛のことです。昭和初期の文学の傑作として高い評価を受けた「聖家族」をはじめ、「風立ちぬ」「美しい村」など愛や生死をテーマとする作品を残し、昭和二十八年(1953年)に没しました。




堀辰雄の案内板の隣に、巨大な石碑が建っています。二峯先生とは、幕末から明治時代初期にかけて活躍した書家の高林二峯です。篆額「二峯先生之碑」は勝海舟の揮毫になるものです。

二峯先生之碑

二峯先生とは、幕末から明治時代初期にかけて活躍した書家の高林二峯のことです。二峯の生涯を称える内容が刻まれたこの碑は明治三十年(1897年)八月十六日に二峯が没した翌年の三月、円通寺(押上二)に建碑され、のちに現在地に移設されました。二峯は、文政二年(1819年)九月三日に上野国後閑村(群馬県安中市)に生まれました。生誕地より望める妙義・榛名の二山にちなみ二峯と号しました。幼少より書の才を現わし、天保十四年(1843年)には幕末の三筆と呼ばれた巻菱湖に師事しようと江戸に出ました。しかし、菱湖はすでに亡くなっていたので、二峯は中国の古筆の研究を進めやがて独自の書法を確立するに至ります。二峯の書は向島百花園の「しのふつか」、「きゃうけん塚」などの碑でも見ることができます。碑文を担当したのは長男の寛です。五峯と号し、父の書風を受け継ぎ、さらに中国の書に近世の諸流を学び、独特の書風を打ち立てました。篆額「二峯先生之碑」は勝海舟(勝安房)が受け持ちました。建碑の中心となったのは、今泉雄作です。東京美術学校(現在の東京藝術大学)創立者の一人で、二峯の弟子として文峯の号を名乗りました。庶務を担当した佐羽喜六は十一才で二峯に入門した後、桐生の豪商に婿入りして佐羽氏を継ぎ、桐生の近代織物業の発展に力を注ぎました。裏面に刻まれる建碑寄付者の中には、二峯の出身地とゆかりのある前橋市長竹内勝蔵や貴族院議員江原芳平などの名も見られます。




隅田公園のある風光明媚な向島界隈には著名な文人が多く住んでいました。



案内板には、富田木歩・堀辰雄・佐多稲子が紹介されています。

向島界隈に暮らした文人たち

向島界隈には、明治以降多くの作家が住まいを構え、またこの地を訪れて向島での暮らしやその魅力を作品に残しました。俳人の富田木歩はこの地で生まれ、関東大震災(大正十二年【1923年】)で被災し、逃げ切れずに26歳で生涯を終えるまでこの地で過ごしました。両足が不自由で小学校に行けない中、「いろはがるた」や「めんこ」などで文字を覚えたと言われています。度重なる洪水被害や父の死去などにより生活が困窮する中で俳句を知り、俳句を通して新井声風という生涯の友を持ち、およそ二千句を残しました。さて、後ろを振り向いてみてください。堀辰雄の旧居跡がその辺りにありました。牛嶋尋常小学校(※1)から府立第三中学校(※2)に学び、中学校の先輩である芥川龍之介を師と仰ぎ、文学的な影響を多大に受けたといいます。「幼年時代」や「花を持てる女」には、幼いころに暮らした向島の風景が抒情的に描かれています。佐多稲子は、転居により11歳で牛嶋尋常小学校に転入したが、家計を支えるために1か月ほどで通学をやめ、キャラメル工場、料亭、メリヤス工場などで働き続けました。その時の経験が作品作りにつながっているようです。数々の文学賞を受賞した作品(小説)の始まりは、「キャラメル工場から」でした。戦前から作家として、また婦人活動家として活躍し続け、平成十年(1998年)に94年の生涯を終えました。その他にも、隅田公園の周りや向島には多くの文人が暮らしており、この地を訪れて作られた作品もあります。公園内外を散策しながら、その文人たちに思いを馳せ、折を見てその作品に触れてみてはいかがでしょうか。

※1:現在の区立言問小学校に併合
※2:現在の都立両国高等学校

"The writers who lived in the Mukojima area"

After the era of Meiji, many writers built their houses in the Mukojima area or visited the Mukojima area, and they recorded the life in Mukojima or its charm in their works. A notable haiku poet, Moppo Tomita was born in this area and had lived in this area until he passed away because of the disaster known as The Great Kanto Earthquake that occurred in the 12th year of Emperor Taisho' s reign (in 1923). He was unable to go to elementary school because he had difficulty walking, so it is said that he learned letters with "irohagaruta" or "menko". He discovered haiku while financially struggling with the death of his father and frequent damage caused by flooding. During this time and through haiku, he encountered Seifu Arai who became his best friend. Tomita created about 2,000 haiku. Then, please look back. The dwelling site of Tatsuo Hori, another celebrated writer, was around in the area behind you. He studied in Ushijima Jinjo elementary school and (prefectural 3rd) junior high school. He was literarily influenced by his junior high school' s upperclassman named Ryunosuke Akutagawa who he admired greatly. In his works "Yonenjidai (=childhood)" and "Hana wo Moteru Onnna (=a woman bringing a flower)", he lyrically described the scenery of Mukojima in where he lived in his childhood. Ineko Sata entered Ushijima Jinjo elementary school when she was 11 by the change of the address. However, she quit school shortly thereafter to support her financially struggling family. She worked in a caramel factory, a Japanese restaurant, and a knitting mill. These experiences influenced her later literary works. She achieved a lot of literary awards starting with "Kyarameru Kojo kara (From the Caramel Factory)". Sata achieved success as a writer and a female activist before the war. She died at the age of 94 during the 10th year of the Heisei era (=in 1998). As you can see, many writers used to live around Sumida Park and in the Mukojima area, and while visiting this place they wrote some literary pieces. While strolling in and outside the park, please consider these writers and experience their works.




ポイント1 牛嶋神社

隅田公園(南側)の北端に面して牛嶋神社があります。墨田区の案内板には次のように紹介されています。

牛嶋神社

本所牛嶋の総鎮守社。境内には「なで牛」があり、心身快癒の祈願物として信仰されています。また、5年に1度の大祭では、鳳輦(牛車)を中心とする古式豊かな行列が、氏子五十町安泰祈願巡行を行います。

Ushijima-jinja Shrine

The precincts of Ushijima-jinja Shrine, the head Ushijima-jinja shrine, include a statue known as Nadeushi, or the "Touching Cow", which visitors touch while praying for physical and emotional healing. Once every five years, a procession incorporating a number of ancient rites centering on an elaborate ox-drawn cart winds its way through the surrounding area to pray for the peace and safety of its residents.


牛嶋神社は、貞観年間(859年〜879年)頃に慈覚大師が一草庵で素盞之雄命の権現である老翁に会い、牛御前と呼ぶようになったと伝えられています。かつては隅田公園の北側にありましたが、公園の工事のため昭和七年に現在の場所に移りました。本所の総鎮守として知られ、9月15日には例大祭が催されます。

牛嶋神社

貞観二年(860年)に慈覚大師が、御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請創祀したと伝えられる本所の総鎮守。関東大震災で焼失する前は墨堤常夜燈の東側にあった。昭和七年(1932年)に隅田堤の拡張により、現在の場所に再建された。本殿の左右に、牛神が奉納されている他、建長三年(1251年)には牛鬼が社中を走り回り、落として行った牛玉を神宝としたという伝承も残る。また境内には、江戸中期から後期の国学者・加藤千浪の碑や江戸落語を中興したといわれる立川(鳥亭)焉馬(1743年〜1882年)の「いそかすは 濡まし物と 夕立の あとよりはるゝ 堪忍の虹」の狂歌碑などがある。5年に一度の例大祭は、牛が引く鳳輦を中心に古式ゆかしい祭列が、向島から両国に広がる氏子の町内を2日かけて巡り、本所2丁目の若宮公園内にある御旅所で1泊する。返礼の町神輿の宮入れは50基が連なる都内最大の連合渡御となる。

Ushijima Shrine

This is the head shrine of the Honjo neighbourhood, founded circa 860 AD by the great Buddhist leader Jikaku. Legend has it that in 1251 the shrine was visited by a bull demon which dropped a knot of hair as it ran around the shrine, and the knot was enshrined as a sacred treasure. The legend is commemorated in the statues of cattle deity that flank the main shrine building.




本殿前には全国的に珍しい三輪鳥居(三つ鳥居)が建っています。

墨田区登録有形文化財
牛嶋神社社殿・牛嶋神社神輿蔵

牛嶋神社は、元来弘福寺の西隣(向島五丁目)に所在しましたが、関東大震災後、帝都復興計画事業に伴い区画整理が実施された際、当地に遷座しました。その際新築されたのが、現在の社殿と神輿蔵です。

@−墨田区登録有形文化財「牛嶋神社社殿」
本殿、幣殿、拝殿から成る木造複合社殿で、地元の棟梁石川梅吉によって建築され、昭和七年(1932年)に竣工しました。最奥に位置する本殿は入母屋造・銅板瓦棒葺(正面三間、側面三間)で、組物は禅宗様を基調としています。板支輪や蟇股等に亀や鯉、鶯などの彫刻が施されており、全体的に装飾性が高い建築となっています。また、中央に位置する幣殿は両下造・銅板瓦棒葺(正面三間、側面五間)、最前に位置する拝殿は入母屋造・銅板瓦棒葺(正面七間、側面四間)となっており、拝殿正面にはそれぞれ三間の向拝と千鳥破風が取り付けられています。この建物の特徴は、基礎に亀腹を捺すコンクリート造の布基礎です。これは、地震による建物倒壊の危険を緩和する効果をねらったものと考えられます。

A−墨田区登録有形文化財「牛嶋神社神輿蔵」
境内東辺縁部に建てられています。正面二間の切妻造妻入の建物の両側に、幅五間の切妻造の建物が接続した鉄筋コンクリート造の建物です。昭和初期の建物とみられています。この建物は、参道から見る外観を木造瓦葺風に仕立てることで境内景観の統一を図る一方、耐震・耐火性も合理的に満たすよう工夫されたことがうかがわれます。これら二つの建物は、伝統的な建築形式に近代技術を調和させた優れた近代神社建築と評価され、平成三十年十一月八日に墨田区登録有形文化財に登録されました。




境内の「撫牛」は自分の悪い部分と牛の同じ部分を撫でると病が治るという信仰で、肉体だけでなく心も治るという心身回癒の祈願物として有名です。

(墨田区登録文化財)
撫牛

撫牛の風習は、江戸時代から知られていました。自分の体の悪い部分をなで、牛の同じところをなでると病気がなおるというものです。牛嶋神社の撫牛は体だけではなく、心も治るというご利益があると信じられています。また、子どもが生まれたときよだれかけを奉納し、これを子どもにかけると健康に成長するという言い伝えもあります。この牛の像は、文政八年(1825年)ごろ奉納されたといわれ、それ以前は牛型の自然石だったようです。明治初期の作家、淡島寒月の句に「なで牛の石は涼しき青葉かな」と詠まれ、堀辰雄は「幼年時代」で「どこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった」と記すように、いつも人々に愛されてきました。




境内の入口脇に石碑が並んでいて、その中に江戸落語を中興したといわれる鳥亭焉馬の狂歌碑があります。

<墨田区登録文化財>
烏亭焉馬「いそかすは」の狂歌碑

「いそかすは(がずば) 濡れまし(じ)物と 夕立の
  あとよりはるゝ 堪忍の虹」    談洲楼烏亭焉馬

この狂歌碑は裏面にあるとおり、初世烏亭焉馬自身が文化七年(1810年)に建てた碑です。江戸落語中興の祖と称された烏亭焉馬は本名中村利貞、字は英祝、通称は和泉屋和助です。寛保三年(1743年)生れ、本所相生町五丁目(現 緑一丁目)の大工の棟梁で、狂歌や戯文をよくする文化人としても有名でした。談洲楼の号は五世市川団十郎と義兄弟の契りを結んだことから団十郎をもじったもの、また竪川に住むことから立川焉馬、職業が大工であることから「鑿釿言墨曲尺」とも号しました。元禄時代にひとつの話芸として確立された落語も、その後衰えていきましたが、天明四年(1784年)に向島の料亭武蔵屋において、焉馬が自作自演の「噺の会」を催し、好評を得たことから江戸落語が盛んになっていきました。寛政末年頃には現在の落噺の形が完成し、明治に入って落語という呼び方が定着しました。文政五年(1822年)八十歳で亡くなり、本所の最勝寺に葬られました。
(現在は寺・墓共に江戸川区平井に移転)。




奈良時代には、この地には牧場がありました。

江戸・東京の農業 浮島の牛牧

文武天皇(701年〜704年)の時代、現在の向島から両国辺にかけての牛島といわれた地域に、国営の牧場が設置されたと伝えられ、この周辺もかつては牛が草を食んでいたのどかな牧場で、当牛嶋神社は古代から牛とのかかわりの深い神社でした。大宝元年(701年)大宝律令で厩牧令が出され、平安時代までに全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、天皇の意思により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置され、この付近(本所)にも官牧の「浮嶋牛牧」が置かれたと伝えられています。時代は変わり江戸時代、「鎖国令」が解けた事などから、欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増えることとなりました。明治十九年の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、本所区の太平町、緑町、林町、北二葉町と、本所でもたくさんの乳牛が飼われるようになりました。とりわけ、現在の錦糸町駅前の伊藤左千夫「牛乳改良社」や寺島の「大倉牧場」は良く知られています。

THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Ukishima Dairy Farm

In the era of the Emperor Monmu (701-704), national cattle farms were said to have been established in the area of so-called Ushijima (Cow Island) which is from Mukojima toward Ryogoku at the present. Since 701, as many as 39 national and 32 Imperial cattle farms were established throughout Japan. Here, in Honjo, was also one of the national farms called 'Ukishima Dairy Farm'. With the introduction of western civilization in the late Edo Era and the resulting increase in demand for dairy products, there were at the peak time a number of dairy farms in Honjo area at the beginning of Meiji Era. Herds of cattle were lazily grazing over the pastures around this shrine.




公園の中央にはひょうたん池があります。ひょうたん池の中央にある中島は、よく見ると「亀」のように見えます。日本庭園によく見られる不老不死を願う施主の気持ちが表れている石組です。



墨田区側の隅田公園は、言問橋を挟んで南北に分かれています。言問橋の下にはアンダーパスがあり、橋を横断する必要はありません。隅田公園は桜の名所として知られていますが、それには長い歴史がありました。

隅田公園の歴史は植桜の歴史
隅田公園の歴史解説

“隅田堤(墨堤)の桜”は八代将軍吉宗の時代に木母寺に植えられ、花見の名所として地元有志に受け継がれて南に延びていき、明治時代には枕橋にまで到達しました。関東大震災(大正十二年【1923年】)ではほとんどの桜が消滅しましたが、幅員33mの3列の桜並木(ブールバール)を有する日本初のリバーサイドパークとして、昭和六年(1931年)に隅田公園が整備されました。その後、防潮堤の嵩上げや首都高速道路の建設などで昭和四十年(1965年)代に公園の姿は大きく変わりましたが、それらの植桜の営みを引き継ぎ、平成になると桜を愛する人々の寄付によって生育環境の改善を図るとともに、園内に新たな桜を植栽しています。現在も地元有志による桜の保全活動が続けられており、1キロに及ぶ桜の景観が楽しめる公園として、次代に守り伝えようとしています。

"The history of Sumida Park is interwoven with
the cultivation and establishment of cherry blossom (sakura)"
Sumida Park History Description

The cherry blossom of Sumida Tsutsumi (Bokutei), referred to as Sumida Tsutsumi (Bokutei) no sakura in Japanese was planted at Mokuboji Temple during the reign of the eighth shogun (1684-1751), Tokugawa Yoshimune. Local volunteers established the cherry blossom of Sumida Tsutsumi as a cherry blossom viewing spot, and extended them to the south, the cherry blossom finally reaching Makurabashi by the Meiji era. In 1923, during the 12th year of Emperor Taisho's reign, the Great Kanto Earthquake destroyed most of the cherry blossom. Sumida Park was built in the 6th year of the Showa period (1931) as the first riverside park in Japan. Three lines of cherry blossom on the boulevard extend 33 meters wide. The rise of seawalls and the building of the Metropolitan Expressway, during the 40th year of the Showa period (in 1965), greatly changed the figure of the park. However, local volunteers who had taken over cherry blossom planting worked to beautify the Park again. Entering the Heisei era (around 1989), donations by people who love cherry blossoms I have improved the growing environment and promoted the planting of cherry blossoms in the park. Local volunteers are still working diligently to protect and pass down the tradition of cherry blossom planting and viewing in the park, which has resulted in a beautiful cherry blossom landscape extending over 1 kilometer.




ポイント2 三囲神社

三囲神社(みめぐりじんじゃ)は見番通りに面していてコース上にはありませんが、立ち寄ってみます。墨田区の案内板には次のように紹介されています。

三囲神社

元禄六年(1693年)の江戸かんばつの折、俳人・宝井其角が句を詠み奉納すると、翌日大雨が降ったと伝えられています。境内には、「雨乞いの句碑」があります。また、隅田川七福神の恵比寿・大国神が祀られています。

Mimeguri-jinja Shrine (Sumidagawa-shichifukujin)

Haiku poet Takarai Kikaku is said to have dedicated a reading of his poem here as an offering during the Edo drought of 1693, triggering a great rain the following day. The shrine's precincts include a haiku-inscribed statue memorializing this event. The shrine is dedicated to Daikokuten (the god of wealth, farmers, agriculture, rice, and the kitchen) and Ebisu (the god of fishermen, good luck, and workingmen), two of the seven gods of fortune associated with the Sumida-gawa River.


三囲神社の創立年代は不詳ですが、当初は田中稲荷と称していました。言い伝えによれば、近江国三井寺の僧源慶が当地に遍歴した際に小さな祠のいわれを聞き、社壇を改築しようと掘ったところ壺が出土しました。その中に、右手に宝珠を、左手にイネを持ち、白狐に跨った老爺の神像がありました。このとき、白狐がどこからともなく現れ、その神像の回りを3度回って死にましだ。これが「三囲」の名称の由来とされています。元禄六年(1693年)に起きた旱魃の際、俳人宝井其角が偶然当地を訪れました。地元の人々の哀願により、この神に雨乞いする者に代わって、「遊(ゆ)ふた地や 田を見めくりの 神ならは」と一句を神前に奉ったところ、翌日になって雨が振りました。このことから三囲神社の名は広まり、松阪の豪商・三井氏が江戸に進出した際に守護神として崇め、越後屋の本支店に分霊を奉祀しました。元々は牛嶋神社の隣にありましたが、洪水で流され、隅田川に堤が築かれることになった時に南へ少し移動しました。その堤のために、対岸から見ると鳥居が堤から奇妙に頭だけ出しているように見え、浮世絵などに好んで描かれました。

三囲神社

弘法大師が祀ったという田中稲荷が始まりとされる。当時は、現在地より北の田んぼの中にあった。文和年間(1352年〜1356年)に近江の三井寺の僧である源慶が社を改築した折、土中から白狐にまたがる老翁の像を発見。その像の周りをどこからともなく現われた白狐が、三度回って消えたという縁起から「三囲」の名がつけられた。三井家は江戸進出時にその名にあやかって守護神とし、平成二十一年(2009年)に三越池袋店の閉店に伴い、シンボルだった青銅製のライオン像が境内に移設された。日照りが続いていた元禄六年(1693年)、俳人宝井其角が能因法師や小野小町の故事に倣い、「ゆたか」を頭字に詠みこんだ

   「ゆふだちや 田を見めぐりの 神ならば」

の句を献じたところ、翌日には雨が降り評判になったという話が伝わっている。

Home to the guardian deity of the Mitsui family
Mimeguri Shrine

This shrine was choosen by the great merchant family Mitsui when they started operating in Tokyo. "Mimeguri" means "three times around". It derives from a 1300s legend about a priest Genkei in West Japan who witnessed a magical white fox running around a recently unearthed sculpture of an old man mounted on a white fox three times, and then disappearing.




神社の石垣には、三越の創始者だった日比美勲の歌が彫られています。

日比翁助 石垣の歌碑

   いしがきの 小石大石持合ひて 御代は
      ゆるがぬ 松ヶ枝の色          日比美勲

日比翁助は号を美勲と称し、三越呉服店の会長・わが国近代的百貨店の創始者であった。茲来百年、松を新たに植え、旧観を復した。




鬼平犯科帳でも登場しています。

三囲神社(三囲稲荷社)

三井家(越後屋)が江戸進出時に三囲の名にあやかって守護神としました。港区にあった三井八郎右衛門邸が小金井市の江戸東京たてもの園に移築される際には、屋敷神であった顕名霊社、三角鳥居、家紋の入った水鉢などが寄贈されました。鬼平犯科帳にも数回、登場しますが、特別長編「迷路」の「妙法寺の九十郎」には、三囲稲荷社は、大川の堤の道を一段下った鳥居から田圃の中を松並木の参道が東に伸びた先にあり、境内は広くはないが、美しい木立と竹林に囲まれ、本社は立派なものであると、当時のたたずまいが描かれています。




言問橋手前から堤防上の遊歩道に入ります。ここから桜橋までの区間が「墨堤の桜」と呼ばれる最も桜並木が美しいところです。隅田公園開園時の様子が記されています。

隅田公園の開園
日本初のリバーサイドパーク

大正十二年(1923年)9月1日に発生した関東大震災の直後、時の内務大臣後藤新平の指揮の下で作られた「帝都復興院(復興局)」によって、公園・街路を含む東京の抜本的な都市改造が計画されました。その中に計画された隅田公園は、規模を縮小しながらも言問橋の架橋や東武鉄道の浅草乗り入れ等の事業とあわせて一大開発として整備されました。日本初のリバーサイドパークとして市民にウォーターフロントを開放するという、東京にとっても日本の公園史上でも画期的な公園として実現されました。昭和六年(1931年)の開園には、昭和天皇の記念来訪や、大勢の市民がお弁当を持って詰めかけるといったお祭り騒ぎだったと伝えられています。

The opening of Sumida Park - The first riverside-park in Japan

Right after the Great Kanto Earthquake on September 1 1923 (Taisho 12), the Home Secretary, Shinpei Goto established "Teito-Fukkoin (revival office)" in order them to make a plan for a radical reconstruction of Tokyo including parks and streets. Redevelopment of Sumida Park was a part of the plan. Although the size of the park was decreased, a series of redevelopment was carried out as a whole large project including a construction of "Kototoi Bridge", and a connection to Asakusa station of Tobu Line. This park opened waterfront to citizens as the first riverside-park in Japan, and was very unique in the history of the park design to Tokyo. In 1931 (Showa 6); the emperor in Showa visited the park on the opening day and citizens crowded into the park carrying their lunch packs. like merry-making.




隅田公園の設計思想についても記されています。

開園当初の隅田公園
写真に見る昔の隅田公園

隅田公園は隅田川を挟んで、本所区(現墨田区)と浅草区(現台東区)にまたがっています。本所側は、水戸徳川家小梅邸の敷地を活用した庭園と墨堤の桜並木を活用した遊歩道の整備を行いました。近代都市計画の手法により江戸の堤、河川沿いの桜並木の復活という点では、日本の伝統的なランドスケープ(風景)と西洋の近代的都市計画技術の合体が見事に成功した有意義な事業でした。また公園のデザインはシンプルかつ上品で控えめなものであり、デザイン思想の点で今日学ぶべき所が多くあります。

The beginning of Sumida Park - the early Sumida Park in pictures

Sumida Park locates on the both sides along the Sumida River in Honjo city (current Sumida city) and in Asakusa city (current Taito city). The developments of a garden and an esplanade were carried out on Honjo side. The garden used the site of Mito Tokugawa Koume residence, and the esplanade utilized the scenery of a row of cherry trees in Bokutei. It was a fruitful project that the integration of Japanese traditional landscape and the technique of modern Western city planning were succeeded. This integration revived the banks of the river and a row of cherry trees. The design of the park was simple, elegant, and modest. There are a lot to learn in current design thought.




鬼平情景にも「みめぐりの土手」として登場します。

みめぐりの土手

「大川の隠居」に登場します。大川(隅田川)の土手のうち三囲神社の鳥居の貫から上が川面から見える辺りを指したようです。作品名になった大鯉が現れる直前の場面で、舟から暮色に沈む風景を描写しています。土手の奥には長命寺、寺嶋のくろぐろとした木立が望まれ、目を転ずると浅草寺の大屋根が月光をうけている。このような内容ですが、両岸の寺社の位置関係がよく分かります。竹屋の渡しで結ばれたこの流域からは鬼平犯科帳には三囲神社、対岸の待乳山聖天をはじめ料亭、船宿が多く登場します。「大川の隠居」では平蔵が友五郎を誘って、山谷堀の今戸橋近くの船宿(嶋や)に上がります。杯を交わしながら、平蔵が亡父遺愛の銀煙管に煙草を詰めるところで実に小気味のよい結末となります。




三囲神社の鳥居は堤の下に建っていますが、それでも鳥居の上部は対岸から眺められたのでしょう。

<墨田区登録文化財>
堤下の大鳥居と竹屋の渡し

隅田川七福神めぐりや桜の花見など、墨堤の散策は行楽好きの江戸市民に人気がありました。そのランドマークのひとつとされたのが三囲神社の鳥居で、堤下の大鳥居として親しまれていました。土手の下にあったにもかかわらず、対岸からでも鳥居の貫より上が見られるほどの大きなもので、桜の咲く頃に花に囲まれて見える様はたいへん風情があり、歌舞伎の背景や多くの浮世絵などの題材として描かれています。現在のものは文久二年(1862年)の建立です。三囲参詣には吾妻橋を利用する場合と、隅田川を舟で渡る方法とがありました。渡しは、ちょうどこの大 鳥居がある土手下辺りの岸と、浅草山谷堀入口の待乳山下とを結ぶもので、竹屋の渡しと呼ばれていました。竹屋の渡しの名は、山谷堀側の船宿「竹屋」に由来します。墨堤側には「都鳥」という掛茶屋があり、舟を出してもらうために「たけやー」と呼びかける女将の美声が参詣客の評判であったとも伝えられています。昭和五年(1930年)、言問橋の開通により、この渡しは廃止されました。




ポイント3 北斎案内板 新板浮絵 三囲牛御前両社之図

葛飾北斎が描いた三囲神社の境内図の案内板が立っています。

新版浮絵 三囲牛御前両社之図

版元・伊勢屋利兵衛から板行された「新板浮絵」の一枚です。浮絵とは西洋の遠近法を取り入れた浮世絵技法の一つで、手前が浮き上がって見えることから名づけられました。文化(1804年〜1818年)中期、葛飾北斎50歳頃の作品とされています。手前に鳥居のあたまだけ見えているのが特徴的な三囲神社は隅田川沿いの名所のひとつで、かつて田中稲荷と呼ばれ毎年2月の「初午の祭り」には多くの人出がありました。寛政十一年(1799年)のご開帳は特に盛大で北斎も作品を奉納したと伝えられています。画面左奥には牛御前(現牛嶋神社)も描かれています。

Shinpan Ukie Mimeguri Ushi no Gozenryousha no Zu

A print from the Shinpan Ukie series printed from the original Iseya Rihee woodblock. Ukie, which means "floating picture," are prints using the ukiyoe techniques to which Western styles of perspective have been added, and they are so named as the foreground seems to stand out as if floating. Katsushika Hokusai created this print between 1804 and 1918 when he was around 50 years old. Only the top of the torii gate can be seen in the foreground, but the impressive Mimeguri Shrine was a famous place along the Sumida River, and many people attended the "Hatsuuma Festival", which was known as Tanaka Inari, held in February every year. This was particularly popular in 1799, and it is said that Hokusai donated this work to it. [Ushi Gozen] (currently Ushijima Shrine) is written at the back of the left-hand side of the print.




桜橋にやってきました。

◆桜橋

【橋長】 169.5m   【取付部 6.0m】
【幅員】 12.0m
【構造】 連続鋼X形曲線箱桁橋

桜橋は、台東区今戸と墨田区向島との間で、隅田川両岸の“隅田公園”を結ぶ、隅田川では最初の、そして唯一の歩行者専用橋です。橋の創架は昭和六十年(1985年)、隅田公園の施設の一つとして、台東区と墨田区の共同事業で架橋されました。形状は平面のX字形の特異な形をしています。花見のシーズンには、両岸の桜を楽しむ多くの人がこの橋を渡ります。

◆墨堤桜並木

“墨堤の桜”は四代将軍徳川家綱の時に始まりますが、本格的に墨堤に植えられたのは、享保二年(1717年)八代将軍徳川吉宗の命によるものです。以来数時にわたり、多くの人々の努力でこの事業は受け継がれ、木母寺、寺島村境から三囲・牛嶋両社を経て、徳川水戸藩邸前・枕橋まで連なったものです。平成十六年度から墨田区側の隅田公園では、この桜の保全と品種の異なる桜を植えて開花期間を長くする新たな桜の名所づくりを、広く住民から寄付を募り住民参加型としての「墨堤の桜の保全・創出事業」を行っています。




桜橋はX字型の人道橋で、昭和六十年(1985年)に架橋されました。



左右の歩道が交わる広場の両端には、架橋10周年を記念して設置された巨大な石碑が建っています。シルクロード画家で知られる平山郁夫氏が原画を担当し、二羽の鶴をモチーフにしたレリーフが埋め込まれた「瑞鶴の図 双鶴飛立の図」です。



桜橋の架橋に合わせて、ワシントンのポトマック河畔から桜の木が里帰りしました。

桜橋とポトマック帰りの桜
ワシントンからの贈り物

台東区と墨田区は隅田川を挟んで相対していることから、昭和五十二年に姉妹区協定を結びました。この記念事業として、両区にまたがる隅田公園に歩行者専用の橋を架けることを計画し、昭和六十年に桜橋が完成しました。この架橋に際して、アメリカ合衆国ワシントンD.C.より桜がとどきました。ワシントンD.C.のポトマック河畔の桜並木は世界の名所のひとつになっています。この桜は明治末期頃、当時のタフト大統領夫人が東京を訪れた際に向島の桜に魅せられ、是非ワシントンに植えたいという希望に対して、当時の尾崎行雄東京市長がプレゼントしたものです。約70年の時を経て、その桜の子孫が再び向島の地に戻ってきました。

Sakura Bridge and cherry trees back from Potomac - as a present from Washington D.C.

In 1977 (Showa 52), Taito-city and Sumida-city made a sister-city agreement since they are facing over the Sumida River. As a commemoration project, construction of a bridge for pedestrians along Sumida Park was planned and "Sakura Bridge" was completed. In constructing this bridge, some cherry trees were sent from Washington D. C. The cherry trees of Potomac riverside of Washington D. C. is one of the famous place in the world. The end of Meiji era, Mrs. President Taft visited Tokyo. She was fascinated with the cherry blossoms in Mukojima, and hoped to plant cherry trees in Washington D. C. In response to her wish, Mayer of Tokyo city, Yukio Ozaki presented it to Washington D.C. After about 70 years, the posterity of cherry trees has returned to the ground in Mukojima.




常夜灯が保存されています。

墨田区指定有形文化財
石造墨堤永代常夜燈

石造墨堤永代常夜燈は、高さ五メートルを超え、琴柱状の脚が特徴的です。天辺の宝珠部分には牛嶋神社の社紋があり、基台上段には同神社の地位を表す「本所惣鎮守」の銘が彫刻されています。また、石組基壇には「永代常夜燈」の銘と「石工宮本平八」の名前を刻んだ石製プレートがはめ込まれています。東京府文書によれば、この常夜燈は、江戸近郊の名所の演出にあずかってきた牛嶋神社の氏子十七名、具体的には植半や八百松、武蔵屋など有名料亭の主人たちの発意によって設置されたようです。明治四年(1871年)の牛嶋神社の臨時祭に併せて奉納されたもので、元来は墨堤から牛嶋神社旧地(弘福寺西隣)へ下りる坂の頂にありました。設置当時、この付近は夜になると真っ暗だったそうで、常夜燈の火が貴重な明かりとして利用されたことがうかがわれます。発起人十七名が東京府へ提出した設置許可申請書にも、この付近を通行する人々の役にも立つはずだとの思いがしたためられています。この常夜燈は、設置以来、墨堤を代表する風物詩の一つとして絵画にも描かれるなどしてきました。平成二十八年七月二十一日、墨田区指定有形文化財に指定されました。

Treasury stone night-light at the banks of the Sumidagawa river

This lantern is one of the cultural properties in Mukojima being famous for its cherry blossoms, built by parishioners of the Ushijima-jinja shrine in 1871.




もうひとつの案内板が立っています。

常夜燈と渡し舟
隅田川の水運と向島風情の象徴

この常夜燈の置かれている場所は、かつて牛嶋神社の境内地でした。牛嶋神社は隅田公園の整備とともに現在地に移転しましたが、この常夜燈だけはここに残されました。それは墨堤における重要な目印であったためです。この付近にはかつて「竹屋の渡し」が設けられ、春の花見や夏の花火見物、明治に入ってからは向島の花柳界へと遊興客を数多く運んできました。まだ照明が発達していないこの時代にはこの常夜燈の明かりが非常に重要な役割を果たしていました。また、明治の画家達は墨堤の桜とこの常夜燈を好んで組み合わせることにより、向島の風情を描きました。当時の向島の格好のシンボルとしてその姿を今に伝えています。

Joyato and ferryboats - water transportation of Sumida River and the symbol of Mukoji taste

The place where put this "Joyato (night-light)" was precincts of Ushijima shrine once. Although Ushijima shrine was relocated to its present location with construction of Sumida Park, only this "Joyato" was left behind here because it was an important mark in "Bokutei". "Takeya-no-watashi (ferryboat)" was set up this neighborhood once, and many visitors were carried to sightseeing areas. They enjoyed cherry blossom viewing at spring, fireworks at summer, and Karyukai (the world of geisha girls, women with refined manners) in Mukojima in Meiji era for instance. This "Joyato" was very important role then because lighting technologies had not developed yet. In Meiji era, many painters preferred to express the taste of Mukojima by painting the matching of cherry blossoms in "Bokutei" and this "Joyato". It remains its figure as the suitable symbol of Mukojima in those days.




ポイント4 北斎案内板 須佐之男命厄神 退治之図

葛飾北斎の絵が解説されています。

須佐之男命厄神退治之図

葛飾北斎晩年期の傑作といわれている、縦1.2m余、横2.8mに及ぶ大きな板絵です。北斎は弘化二年(1845年)頃、牛嶋神社(現在向島1丁目)付近に住んでいたと伝えられ、「須佐之男命厄神退治之図」を奉納しました。この作品は悪病をもたらす厄神たちに今後は悪事を働かないように須佐之男命が証文を書かせている場面を描いたものです。画面右下には「前北斎卍筆 齡八十七歳」の落款があります。残念ながら大正十二年(1923年)、関東大震災で消失してしまいましたが、現在は原寸大の復元パネルが牛嶋神社の社殿に飾られています。

Susanoo no Mikoto Yakujin Taiji no Zu (Killing the God of plague)

This is said to be Katsushika Hokusai' s masterpiece created near the end of his life. It is a large picture drawn on a board 1.2m in height and 2.8m in width, and it is said that Hokusai created it around 1845 while he was living near the Ushijima Shrine (currently Mukojima 1-Chome), and it was dedicated to Susanoo no Mikoto Yakujin Taiji no Zu. This work depicts a scene in which Susanoo no Mikoto is writing a letter to the god of pestilence imploring him not to spread disease in the future. The seal of Zen Hokusai Manji-Hitsu(signature), 87 Years Old is located in the bottom right-hand corner. Unfortunately this picture was destroyed during the Great Kanto Earthquake of 1923, and a restored version of the panel in the same dimensions is currently displayed in the main building of the Ushijima Shrine.




墨堤通りが大きくカーブして隅田川の堤防沿いから離れる所に、「長命寺桜もち」で知られる「山本や」があります。「山本や」の桜もちの由来は、創業者の山本新六が享保二年(1717年)に大川の土手の桜の葉を樽の中に塩漬けにして桜もちを考案し、向島の名跡・長命寺の門前にて売り始めました。その頃から桜の名所だった隅田堤(墨堤通り)は花見時には多くの人々が集い、花見客に桜もちが大いに喜ばれました。これが江戸に於ける桜もちの始まりです。「もち」は小麦粉製の薄皮、「小豆」は北海道産、「葉」は西伊豆の松崎産オオシマザクラという創業以来変わらない素材と製法で作られています。



長命寺桜もちのお店の脇に案内板が立っています。

三浦乾也 旧居・窯跡

天賦の才に恵まれ、若くして乾山6代を襲名した。陶芸家としての道を歩む一方、谷文晁に絵を習い、小川破笠が編み出した破笠細工の蒔絵も学び、彫刻も手がけるなど、多芸多才の士としても知られた。嘉永六年(1853年)、32歳の時に人生最大の転機が訪れる。黒船来航である。驚愕した乾也は、幕府に造艦を建白、雄藩にもその必要性を説き回った。これが認められ、翌安政元年(1854年)、勝海舟とともに長崎で建造技術の習得を命じられ、伝習所に赴く。安政三年、仙台藩に造艦惣棟梁として招聘され、洋式軍艦「開成丸」を見事進水させ、一躍名を知られるところとなる。この功業により厚遇され、同藩には万延元年(1860年)まで滞在した。この間、焼物の技術も伝授し、地元の陶工にも影響を与えた。明治に入って居を東京に移し、近県で創窯、焼物の復興にも努める。明治八年(1875年)、54歳で向島長命寺に移り、境内の一隅に築窯し、根付、印籠、帯止めなどの創作に励み、特に簪の珠は「乾也玉」の名で流行した。

三浦乾也

文政四年(1821年)〜明治二十二年(1889年)。徳川の御家人の長男として江戸の新両替町(銀座)で生まれる。幼くして伯母夫婦に引き取られる。養父井田吉六は将軍家斉に召され、庭焼を行うほどの高名な陶工であった。12歳でその 手ほどきを受け、15歳で終生の師と仰ぐ乾山焼5代西村(みゃく)庵(あん)に入門。吉六とともに修行。24歳で乾山6代を襲名。江戸焼物を代表する陶工として活躍、68歳で没す。

A potter who also mastered the art of shipbuilding
Residence of Miura Kenya

Miura Kenya (1821-1889) studied under Kenzan pottery master Nishimura Myakuan from the age of 15, and at 24 took up his former master's post. In 1854 he went to Nagasaki to learn shipbuilding together with Katsu Kaishu, and by 1857 he had completed a Western-style battleship, the Kaisei Maru in Sendai Clan.




巨大な石碑が建っています。

墨田区登録有形文化財 墨堤植桜之碑

晩年この近所に別荘を設けた明治期の著名な実業家、大倉喜八郎は、墨堤の桜をこよなく愛していました。しかし堤の上は山中とは違い、周りに樹体を保護する樹々がなく、桜樹は風や砂塵にさらされ短命でした。このためしばしば補植が行われてきたものの、墨堤にはどうしても樹勢が衰えた株や枯れ朽ちた株が目立ち、喜八郎が別荘を設けた頃には、特に江戸時代の古木はほとんど失われていました。そこで喜八郎は墨堤の桜を再生すべく知友成島柳北と図り、墨堤の桜の保護に尽力し始めていた同人サークル(白鴎社)や地元の人びとに協力を求め、明治十六年(1883年)十月に一千株の補植を実現させました。ここに立つ石碑は、右様の成事を記念して、明治二十年(1887年)五月に墨堤言問亭(当時は言問團子屋とも)の側に建立されました。元来柳北に建碑の意思があり、彼がそれを果たさぬまま没したことから、安田善次郎が喜八郎たちに呼びかけ、遺志完遂を図ったのでした。そして水難を避けるべく明治二十九年(1896年)八月に安全の場所に移され(移設地は未詳)、四代将軍徳川家綱の命による播種に端緒をみると伝わる墨堤の桜の来由と人びとがたゆみなく続けてきた補植の事跡を永く伝承する有名の記念碑となりました。当碑は、平成十一年(1999年)八月五日付けで墨田区登録有形文化財(歴史資料)に登録されました。




同様の趣旨の案内板も立っています。

墨堤植桜之碑と桜勧進
住民が育てた墨堤の桜

江戸時代、花見の名所としての地位を確立していった墨堤も、当初の墨堤の桜は水神社(現在の隅田川神社)付近を中心に植えられていました。しかし1800年代から、地元の村の有志らによって桜が植えられ、墨堤の桜が南へと延伸して行きました。墨堤の桜が長命寺、三囲神社と徐々に延びて、枕橋まで達したのは1880年ごろといわれています。この間は地元有志の植桜だけではなく、有志が発起人となった「桜勧進」と呼ばれる寄付が行われています。墨堤の桜が地元の人々に愛されていた桜であることが、この植桜之碑に刻まれています。

"Shokuou-no-Hi" in Bokutei and "Sakura-Kanjin" - Cherry trees grown by local people

Bokutei established a reputation as a good place of cherry blossom viewing in Edo era. Those cherry trees had planted only around Suijin shrine (current Sumidagawa shrine). From 1800s, volunteers in local village planted many cherry trees along the river to the South. A row of cherry trees in Bokutei was gradually extended to "Chomei-ji temple", "Mimeguri shrine", and it reached "Makura Bridge" in about 1880. During the time, there was also a donation for planting cherry trees called "Sakura-Kanjin" promoted by those volunteers. It is curved on "Shokuou-no-Hi (monument)" that cherry trees in Bokutei were loved by local people.




野口雨情の石碑が建っています。

立札

   都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る

ここに刻まれた都鳥の詩は、日本童謡民謡の先駆、巨匠野口雨情氏が、昭和八年、門下生の詩謡集の序詞執筆のため当地に来遊の折、唱われたものである。東京都民の心のふるさとである隅田川ぞいを飾るにふさわしい作品として、記念碑に刻し、永遠に保存する。




隅田川レガッタの案内板も立っています。

艇庫とレガッタ
レガッタによる隅田川の賑わい

レガッタは明治、大正時代の学生達の間で最も盛んに行われたスポーツで、日本における発祥の地は隅田川です。明治十六年(1883年)日本初のレガッタが向島で開催された後は、学校や企業間を問わず盛んに行われ、隅田川はレガッタのメッカとなりました。現在の首都高速6号向島線向島ランプ及び屋内プール体育館の辺りには「艇庫村」と称されるほど艇庫が立ち並び、レガッタの際には川岸を大勢の観衆が埋め尽くしました。しかし水質の悪化等の理由で、昭和四十二年(1967年)の一橋大学艇庫の移転を最後に隅田川から艇庫の姿が消えました。近年では水質浄化により隅田川でのレガッタが復活し、往時の活気を取り戻しつつあります。

Boathouses and Regatta - vibrant Sumida River with Regatta

Regatta was the most popular sport among students in Meiji era and Taisho era. The birthplace in Japan is Sumida River. After the first regatta race in Japan took place in Mukojima in 1883 (Meiji 16), it began to be played frequently among schools and companies. And Sumida River became the center of regatta race. Since a number of boathouses were built along the river, people called the place "Village of boathouse" (Many of those boathouses located between present Metropolitan Expressway route 6 Mukojima-on-ramp and Indoor Swimming Pool.) Once regatta race took place, a crowd of people gathered and filled the riverside. However, the last boathouse (Hitotsubashi-University' s boathouse) has moved out in 1967 (Showa 42) because of water pollution, boathouses no longer exist along the river since then. In recent years, regatta race in Sumida River revives as water is purified. Regatta is going to regain the former life.




墨堤通りを挟んだ斜め先には、「言問団子」のお店があります。

言問団子と郡司大尉

江戸後期、向島で植木屋を営んでいた外山佐吉は、文人墨客に手製の団子を振舞う「植佐」という団子屋を開くと、花見客や渡船客の間でも人気となった。明治元年、長命寺に逗留していた歌人の花城翁より、在原業平が詠んだ「名にしおはゞ いざ言問はん 都鳥 我が想ふ人は ありやなしやと」に因んだ命名の勧めを受けた佐吉は、「言問団子」と名づけ、業平神社を建て、都鳥が飛び交うこの辺りを「言問ヶ岡」と呼んだ。明治十一年、佐吉が始めた灯籠流しによりその名は広く知られていった。後に「言問」は、言問橋や言問通りなどの名称で定着したが、ルーツは「言問団子」である。また、この裏手にある桟橋からは、明治二十六年3月20日千島開拓に向かう郡司大尉率いる5艘の端艇が出発している。隅田川両岸はこれを憂国の壮挙と称える群衆で埋まり、花火が打ち上げられ、歓呼の声と楽隊の演奏が響く中での船出であった。この時、大尉の弟、幸田露伴はこれに同乗して横須賀まで見送っている。

The dumplings that inspired the naming of Kototoi Bridge and Kototoi Street
Kototoi Dango and Lieutenant Gunji

This district was originally named Kototoi-ga-oka by a gardener Toyama Sakichi, inspired by the word kototoi (to speak or exchange words) in a poem penned by Ariwara no Narihira. Toyama went on to build the Narihira Shrine and open a dumpling store, where Kototoi Dango (dumplings) were born. In 1893, an expedition bound for the Kuril Islands was launched from a jetty near here under the command of Lieutenant Gunji.




交差点の角に小さな野球場があります。プロ野球公式戦通算868本のホームラン、13年連続を含む15回のホームラン王、1シーズン55ホームランなど、前人未到の大記録を打ち立てた元読売ジャイアンツの王貞治選手が少年時代に野球に明け暮れたのが、終戦後の1949年に「少年に明日への希望」をスローガンとして誕生した日本で最初の少年野球場の隅田少年野球場でした。墨田区に生まれた王選手は少年時代から飛び抜けた長打力があり、よくホームランボールが隅田川に飛び込んでいたために虫取り網で拾っていたそうです。隅田公園少年野球場の入り口ゲートには、王選手の代名詞とも言える一本足打法のレリーフが掲げられています。

隅田公園少年野球場

この少年野球場は、昭和二十四年戦後の荒廃した時代に「少年に明日への希望」をスローガンとして、有志や子ども達の荒地整備による汗の結晶として誕生した日本で最初の少年野球場です。以来数多くの少年球児がこの球場から巣立っていったが、中でも日本が誇る世界のホームラン王巨人軍王貞治氏もこの球場から育った一人です。




墨堤通りに面して、「志”満ん草餅(じまんくさもち)」のお店があります。東京の草餅といえば「志”満ん草餅」と言われるくらい知られ、明治二年(1869年)に隅田川の渡船場横で茶店として創業した当時は墨堤のよもぎを手摘みして草餅を作っていたそうです。時代が進むと衛生面からしっかり管理・栽培されたよもぎを使うようになりましたが、東日本大震災後に福島などのよもぎが手に入らなくなり、さらに気候の変化からよもぎが取れない地域が出てきたそうです。現在では主に北海道からよもぎを取り寄せていますが、よもぎは傷みやすいので、収穫後すぐに送ってもらわないと中から熱を持って風味が落ちてしまい、北海道からの輸送には気を遣うそうです。



墨堤通りから地蔵坂通りが分岐する交差点の角に、“日本一のきびだんご”の看板を掛けた「吉備子屋」があります。きびだんごの専門店で、茶屋風の店内に置かれたリアカーで作られたビー玉大の団子は、注文をしてから串に刺さったきびだんごを茹でてきな粉をまぶしてくれます。栄養価の高いタカきびで作られた団子はとてもやわらかで、お店特製のきな粉がたっぷりとかけられた団子は優しい味わいでほっこりします。お店で食べていくことも、お持ち帰りすることもできます。私は観ていませんが、「孤独のグルメ」にも登場したそうです。昔話の「桃太郎」を読んだ息子さんの「きびだんごが食べたい」という願いを叶えるために作り始めたそうです。



地蔵坂通りを挟んだ反対側に子育地蔵堂があります。



子育地蔵堂建立の経緯が案内板に書かれています。

子育地蔵堂

この御堂に祀られている地蔵菩薩は、文化年間(1804年〜1818年)に行われた隅田川の堤防修築工事の際に土中から発見されたと伝えられています。初めは村の子供たちが、神輿がわりにこの地蔵をかついでいたそうです。この地蔵には、次のような伝承があります。ある日、この地に古くから住む植木屋平作に雇われていた夫婦が川沿いの田地で殺される事件がおきました。犯人はすぐには分かりませんでしたが、この地蔵が村の子どもの口をかりて犯人の名を告げたのだとか。そこで平作は、この地に地蔵を安置して朝夕に供養するようになりました。その後、天保三年(1832年)四月に十一代将軍徳川家斉が鷹狩に来て平作宅にて休憩した際、この地蔵の由来を聞いて参拝しました。平作が、このことを記念して御堂を建てて地蔵を安置すると、人々はこぞって参詣しました。出産・眼病その他諸病の平癒開運を祈ると霊験が現れたそうです。当時は平作地蔵あるいは塩地蔵、また子育地蔵と様々な名前で呼ばれました。御堂前の坂は、明治四十四年(1911年)、堤防工事の土盛り以降、現在まで「地蔵坂」の名で親しまれています。昭和八年(1933年)に建てられた由来碑と御堂建立百年御忌供養塔は、地元出身の書家、西川寧(文化勲章受章者)が揮毫したものです。




左側の石碑が「子育地蔵尊御由来」碑、右側の細長い石柱が「子育地蔵尊御堂建立百年御忌供養塔」です。



子育地蔵堂から墨堤通りを離れ、カーブした細い道を進みます。この道筋は、かっての墨堤の道でした。

旧墨堤の道

白鬚神社と子育地蔵堂とを結ぶこの狭い脇道は、本来の墨堤の名残りです。墨堤は隅田川の自然堤防で、江戸時代以来、桜の名所として有名です。墨堤に桜の木が植えられたのは、江戸時代前期の寛文年間(1661年〜1673年)のこととされています。一説によれば、当初の植樹範囲は、徳川将軍家が鷹狩など御成の際に休息所として利用した隅田川御殿があった辺り(現堤通二丁目、都立東白鬚公園付近)から白鬚神社の北側辺りまでで、これを延長させたのが、8代将軍徳川吉宗でした。徳川吉宗は、地固めによる護岸強化を実施するに当たり、同時に江戸市民の憩いの場も充実させようと考え、桜並木が連なる範囲をさらに南側へ延長し、現在言問橋が架かる辺り(現向島二丁目、言問通り)まで植樹させたとされます。墨堤は、こうして特に18世紀半ば以降、寺社参詣を伴う花見の名所、憩いの場として発展しました。




ポイント5 白鬚神社

旧墨堤の道を進んだ右手に白鬚神社があります。



白鬚神社は、天暦五年(951年)に慈恵大師が近江国の琵琶湖湖畔に鎮座する白鬚大明神の分霊をここに祀ったことが始まりとなっています。主祭神は猿田彦命で、古事記や日本書紀などによれば、正しい方位を示される国土開拓の神として記されています。現在では導き・みちひらきの神として商売繁昌や旅立安全・交通安全・方災除の神として人気です。白鬚神社は、かつては白鬚の森と呼ばれた緑の美しい場所にあり、向島八景・隅田川二十四景のひとつに数えられていました。江戸の風流人・文化人の詩碑や墓碑などが数多く残されています。白鬚神社は旧寺島村の鎮守で、隅田川七福神の寿老神(寿老人)を祀っていることでも知られています。お正月には初詣と合わせて、江戸時代新春の行楽「隅田川七福神めぐり」も行われています。

白鬚神社

祭神 猿田彦大神
   天照大御神  高皇産霊神
   神皇産霊神  大宮能売神
   豊由気大神  健御名方神

由緒
天暦五年(西暦951年)に慈恵大師が関東に下った時に、近江国比良山麓に鎮座する白鬚大明神の御分霊をここにまつったと、社伝の記録は伝えている。天正十九年(1592年)には、時の将軍家より神領二石を寄進された。当社の御祭神猿田彦大神が、天孫降臨の際に道案内にたたれたという神話より、後世お客様をわが店に案内して下さる神としての信仰が生れた。社前の狛犬は山谷の料亭八百善として有名な八百屋善四郎、吉原の松葉屋半左衛門が文化十二年に奉納したもので、その信仰のほどがしのばれる。明治四十年には氏子内の諏訪神社を合祀した。

隅田川七福神
当社に寿老神を配し奉るのは、文化の頃この向島に七福神をそろえたいと考えた時に、どうしても寿老人だけが見当らなかった。ふと白鬚大明神はその御名から、白い髪の老人の神様だろうから、寿老人にはうってつけと、江戸人らしい機智を働かせて、この神を寿老人と考え、めでたく七福神がそろったといわれる。隅田川七福神に限り、寿老神と神の字を用いる所以である。




寿老神様は拝めませんでしたが、案内板が立っています。

白鬚神社 寿老神

白鬚神社は往古の寺島村の鎮守であって、祭神を昔風に平たく申し上げると白鬚大明神である。江戸時代の終りに近く、町人文化が全盛の時期、当村の百花園に集っては風流を楽しんでいた文人たちが、隅田川の東岸で初春の七福神詣を始めようとしたとき、どうしても近縁の寺社に寿老人が見つからない。そこで機知を働かせ、鎮守の白鬚大明神は、白いお鬚の御老体であろうから、まさに寿老神としてたたえるのにふさわしいということになり、めでたく七福神が誕生したわけである。寿老神は、人びとの安全と健康とを守る長寿の神として崇敬されている。




境内には多くの石碑が建っています。富士塚はありませんが、向島の冨士講について記した案内板が立っています。

<墨田区登録文化財>
山玉向島講社の碑

山玉向島講社は、かつて向島地域にあった富士講の一つで、山玉深川元講の枝講だったと考えられています。明治八年(1875年)七月頃には既に存在し、構成員は主に寺島・中ノ郷・須崎の三地区に居住していました。専用の祭祀具をあつらえて月拝みを行い、夏季には二十名前後の人数で富士山を登拝していたようです。井戸の後ろに立つ石碑二基は、その山玉向島講社が大正十一年(1922年)三月に建立しました。向かって左側に立つ石碑には「奉納基本金 大正十一年三月」と見え、四代目先達玉山丈行、講元松本萬次郎、そして当時の世話人二十二名の名前が刻まれています。また、右側に立つ石碑には総勢八十二名の名前と五軒の屋号が確認できます。ここに立つ石碑二基は、このように百名をこえる人々が基本金の奉納を記念して建立したものです。基本金の意味するところは不明ですが、奉納者は屋号記名した五軒を除き全て男性です。これらの人々は各家の戸主であった可能性が高いことから、基本金の奉納は地域をあげて協賛すべき性格の事業だったと考えられます。なお、四代目先達玉山丈行は本名を重城丈吉といい、白鬚神社の氏子総代の一人でした。遅くとも大正七年八月までには大先達に昇格し、同九年八月三日には富士登山三十三度大願成就を果たして富士吉田の御師「大番城」の屋敷に記念碑を建立していました。左に立つ石碑は玉山丈行が講社創設以来四人目の先達に当たることを示しており、講社の沿革を知るうえでも貴重な情報を提供しています。




「黒人塚」と書かれた供養塔が建っています。てっきり、向島に住んでいた黒人のお墓かと思いましたが、実際は日本人の石碑だそうです。「塚」は墓の意味で使われることもある言葉で、アフリカ系の黒人の墓ではないかと憶測されましたが、実際は「黒人」と号した日本人のものです。浜辺黒人は本芝の書籍問屋の商人で、本名を斯波孟雅といいました。芝浜の頭目であり、当時流行っていた万句合同様、狂歌募集して選を出版する興行を始めたといわれています。応募者は入花料を収め、この塚は歌碑とのことです。享保から寛政までを生き、色黒でお歯黒までしていて、昔の本にはしばしば名前が出てきます。



鷲津毅堂の碑があり、毅堂の業績が刻まれています。鷲津毅堂は幕末・明治の漢学者です。文政八年(1825年)に尾張に生まれました。通称を毅堂または蘇州と号し、父・祖父ともに大変に徳望篤い人物でした。20歳の頃に江戸に出て昌平黌に学び、嘉永六年(1853年)に久留米藩に仕え、次いで尾張侯の招きに応じ侍読となり、さらに教授に進み、毅堂自身も子弟とともに学問に励みました。時に王政復古となり、藩主徳川康勝の議定官に任ぜられて国論を一定し、覇王の思想を隣藩にまで広めました。明治元年(1868年)に朝廷より権弁事を任ぜられ、明治二年(1869年)に大学少丞に転じます。そして権大書記官五等判事・司法少記官・東京学士会々員に列するなど、明治政府の要職を歴任しました。明治十五年(1882年)に司法権大書記官となりますが、同年10月5日に58歳で歿しました。なお、毅堂は永井荷風の母方の祖父にあたります。本碑の篆額は三条実美・撰文は三島毅・書は巌谷一六によります。

鷲津毅堂之碑

この石碑は、幕末から明治にかけて活躍した官僚、鷲津毅堂(1825年〜1882年)の事績を称えるために建立されました。太政大臣三條実美によって書かれた立派な篆額を掲げています。明治十六年(1883年)10月の紀年銘によれば、碑文は当時東京大学教授であった三島中洲が執筆し、修史館監事の巖谷一六が浄書しました。碑文彫刻は、井亀泉こと酒井八右衛門によるものです。碑文によれば、毅堂は尾張国丹羽郡丹羽村(現愛知県一宮市)出身の郷士で、二十歳の頃に父親を亡くしたことから、家の再興を熱願した母親の希望に沿い、伊勢の著名な儒学者であった猪飼敬所に学びました。そして、後に江戸へ出て幕府の学問所(昌平黌)に学び、嘉永六年(1853年)に久留里藩(現千葉県君津市)に出仕しました。また、その後は尾張藩に仕官し、藩学明倫堂の督学(学事監督)を務めたほか、藩主徳川慶勝の側近くに仕えて激動の時期の藩政を支えました。そして、維新に際して藩より推薦を受けて新政府に出仕し、その後は文部省や司法省などに勤めました。永井荷風の外祖父としても知られています。




この地方の名産に、寺島ナスがありました。

江戸・東京の農業 寺島ナス

かつて、白鬚神社の周辺は寺島村といいました。元禄郷帳(1688年〜1704年)によれば、この地域一帯は、水田を主とする近郊農村でしたが、隅田川上流から運ばれてきた肥沃な土はナス作りにも適し、ナスの産地として、その名も「寺島ナス」と呼ばれていました。享保二十年(1735年)の「続江戸砂子温故名跡志」には、「寺島茄子 西葛西の内也。中の郷の先、江戸より一里余」とあり、「夏秋の中の嘉蔬(野菜の意味)とす。」また、文政十一年(1828年)の「新編武蔵風土記稿」には、茄子として、「東西葛西領中にて作るもの」として「形は小なれどもわせなすと呼び賞美す」と江戸近郊の名産であることが記されています。農家は収穫したナスを船を使って、千住や、本所四ツ目、神田の土物店(青物市場)等に出荷していました。江戸時代、悠々と流れる隅田川の東岸。田園地帯であった寺島に、後世に伝えるに値するナスの銘品があったのです。

THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Terajima Nasu (Egg plant)

Terajima village around this Shirahige Shrine was paddy rice areas in the years 1688-1704. Fertile soil carried over from the upstream of Sumida River was also ideal for the egg plant which was popular as 'Terajima Nasu'. Farmers shipped their products by boats to the markets of Senju, Honjo-Yotsume and Kanda, etc.




ポイント6 北斎案内板 白鬚の(きじ)松 今戸の夕(けむり)

白髭神社の手前に北斎の案内板が立っています。



今戸の瓦焼きの様子と対岸の白髭明神社の鎮守の森が描かれています。現在の場所とは反対の視点ですね。

白髭の(きじ)松 今戸の夕烟 −絵本隅田川両岸一覧−

「絵本隅田川両岸一覧」は隅田川両岸を中心に高輪から吉原までを描いた全3巻25作品からなる狂歌絵本シリーズで、この作品は下巻に収められています。秋の夕暮れが広がる画面の左では、今戸(現在の台東区今戸)の瓦焼きの真っ最中で、川縁で何やら言葉を交わしながら瓦を運ぶ二人と瓦を積んだ舟が描かれています。画面の奥には名勝地として知られていた白髭明神社(現在の白鬚神社)の鎮守の杜を配し、また右側に配された動きのある白鷺がアクセントとなっています。葛飾北斎が40〜47歳頃の作品です。

Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River Third Volume
(Total of Three Volumes): Shirahige no Kijimatsu Imado no Yu-Keburi

The Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River is a series of comical tanka prints consisting of 25 prints in three volumes portraying a portion of both banks of the Sumida River from Takanawa to Yoshiwara, and this print comes from the third volume. The right-hand side of the print shows roof slates being fired under an autumn sunset in Imado (currently Imado, Taito-ku), as well as two people carrying the slates while conversing and a boat loaded with slates. A copse of trees around the Shirahige Myojin Shrine (currently the Shirahige Shrine), which is known for its scenic beauty, can be seen in the distance, and the movement of a white egret on the right-hand side provides an accent. Katsushika Hokusai created this print between the age of 40 and 47.




直ぐ近くに、西川春洞の案内板が立っています。西川春洞は、明治時代から大正時代にかけて活躍した江戸生まれの書家で、漢魏六朝を始め各体に抜きんで、その門に学ぶ者は2、000名といわれました。明治の漢字書道界で最も多くの門下を擁したのは日下部鳴鶴ですが、これに拮抗する唯一の大きな系列を形成したのが春洞です。今日の漢字書道界の基礎はほとんどこの2人の系列を中心につくられました。春洞の代表的な門弟は、諸井春畦・諸井華畦・武田霞洞・安本春湖・花房雲山・中村春坡・豊道春海で、春洞門七福神と称されました。

西川春洞・寧住居跡

西川春洞は、肥前唐津藩医を父に弘化四年(1847年)日本橋の家で生まれました。幼い頃、書を中沢雪城に学び、初め銭梅渓の書を習得しましたが、後に書風を一変し、徐三庚を中心とした江南の書風に拠り、わが国近代書道に新風をもたらしました。そして、この地(寺島村1207番)に居を構え、多くの弟子を養成しました。春洞は、地域の社寺や人々の求めに気軽に応じ、多くの作品を残し、大正四年この地に没しました。春洞の息子寧は、明治三十五年ここに生まれ、寺島小学校(現第一寺島小学校)に学び、慶応大学では中国文学を専攻し、さらに書道史学の面でも多くの資料紹介や研究の成果を残し、昭和六十年に書家として初めて文化勲章を受賞しました。平成元年五月目黒区中町で没しました。

(なお、住居跡は階段下約三十メートル先の右側の辺りです)




ポイント7 法泉寺

路地を巡って明治通りに出る手前に法泉寺があります。

法泉寺縁起

法泉寺は永平寺と總持寺を両大本山と仰ぎ駒込吉祥寺を本寺とする曹洞宗のお寺です。今から約八百年前、源頼朝公の重臣で奥州を支配した葛西三郎清重公がこの下総国大沼に堤を築いて開墾し、父母追善供養の為に建立したと伝えられており、「寺島村」地名発祥の寺のひとつと云われています。天文元年(1532年)吉祥二世大州安充大和尚により伽藍が再興され、慶安元年(1648年)には江戸幕府より八石五斗の御朱印状を賜りました。寛文二年(1662年)銅造地蔵菩薩立像が建立されたほか、東京大空襲による焼失を免れた数々の文化財が継承されています。四百年の歳月を経て、なおやさしさを偲ばせる三百余基の石仏群が祀られ、粋でゆとり溢れる江戸文化が伝えられています。




禅寺の門前には、よく「不許葷酒入山門」と書かれた石柱が建っていますが、「葷酒(くんしゅ)とは、臭気の強いネギ・ニラなどの野菜と酒を飲食することです。心を乱し修行の妨げになるので、そのようなもの(飲食した状態を含む)を寺の門内に持ち込むことは許さないという意味です。

不許葷酒入山門

葷酒山門に入るを許さず
寛政三年(1791年)二月二十一日

禅寺門前にある戒壇石。香りの強い葱・韮・大蒜等の野菜や酒等は心を乱し修行を妨げるため、寺内への持ち込みとそれらを口にした者の立入りを許さないという意。




境内に歌碑が建っています。

<墨田区登録有形文化財>
窪俊満「故郷の」の歌碑

江戸時代後期の浮世絵師・戯作者の窪俊満(1757年〜1820年)を偲び、彼の友人たちが文政四年(1821年)六月に建立しました。正面には俊満の作品で狂歌作品集にも掲載された「故郷の おやの袖にも やと(ど)るかと おもへは(ば)月は ふたつなきもの」という和歌が刻まれています。裏面には石川雅望による俊満の人物紹介と建碑の経緯を記した一文が刻まれています。書は秋元廣丸、碑刻は窪世祥が受け持ちました。




もうひとつ歌碑が建っています。句の切れ目がよく分かりませんねぇ。

千鳥庵鳥奏の歌碑
寛政九年(1797年) 短冊塚

散日からちるを盛や花の山

思ひきつて飛姿なりほとゝきす

我を山に捨て名月入に鳧

夕煙雪の野末に里ありや

                千鳥庵鳥奏




お地蔵様が立っておられます。

<墨田区登録有形民俗文化財>
石造地蔵菩薩立像

寛文二年(1662年)に祀られた舟形光背をもつ浮彫地蔵菩薩立像で、三人の導師と二十一名の建立者の名前が刻まれています。建立者の中には玉という女性の名前も確認できます。右手は欠損していますが、裳裾の状態から錫杖を持っていたと考えられます。総じて眉目秀麗な造りです。光背には紀年銘とともに「願以此功徳 普及於一切我等与衆生 皆共成佛道(願わくは此の功徳を以て、普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に、仏道を成ぜんことを)」という有名な回向文が刻まれています。




境内の奥に立派な印塔がふたつ並んで建っています。

田中家 宝篋印塔(左)

田中金左衛門(延宝二年/1674年没)は寺島村の名主で、その子孫田中伊助(金六)は幕府の蝦夷地御用達とし多大な業績を残し浅草新寺町に屋敷を拝領しました。宝篋印塔は経典の奉納建造物です。平成三十年(2018年)の印塔移築の際に塔内より伊助丗七回忌法要(慶應三年/1868年)に納経された宝篋印陀羅尼経を確認しました。

齊藤家 宝篋印塔(右)

この宝篋印塔と江戸中期(1710年〜1790年)に建立された個人墓の戒名より、齊藤家の約三百年間の墓所継承が伺えます。当寺過去帳にも宝暦三年(1753年)小谷野・喜右衛門や明和五年(1764年)に小谷野・六右衛門の施主名があり、小谷野村(現・葛飾区堀切)の齊藤家祖先と伝えられています。




3基の墓石がならんでいます。

田中抱二墓(左)
文化十二年(1815年)〜明治十八年(1885年)

幕府や藩への出入りを許された幕末の御用商人、江戸琳派酒井抱一の最晩年の弟子です。花鳥画を中心に画風を忠実に継承、根岸の抱一住居・雨華庵図なども残しています。通称金兵衛、俳句でも著名。別号青々、軽挙、鶯居

中山胡民墓(中央)
文化五年(1808年)〜明治三年(1870年)

寺島村名主金兵衛の三男祐吉。半遊斎門下の蒔絵師、幕末期に柴田是真と双璧をなし、茶道・俳句も嗜み号は泉々、晩年は絵師として僧位の法橋をも叙任し硯箱などにもその名を印しています。竿石に「泉々胡民墓」台石に「名花山」

萩原平作家 墓誌(右)

江戸三大御用植木職人萩原平作は庭師で篤志家でした。墨堤修築時に得た石造地蔵を庚申塚の子育地蔵として祀りました。これが地蔵坂通りの由来と云われています。萩原家は名人・五世清元延壽太夫や二代目尾上菊之助も輩出しています。




墓地の前に、幹や枝が切られた老木が立っています。源頼朝の時代から生きながらえたタブノキなんだそうです。ホントかなぁ。。。

タブノキ
墨田区特別保全樹木
樹齡約六百〜八百年

昭和五十年の地方自治体法改正の折、東京都から墨田区へ移管された唯一の保存樹です。日本初の林学博士で「公園の父」と言われ、丸の内から日比谷公園への巨木「首かけイチョウ」移植でも著名な本多静六氏は「本所の樹木と人生」(大正五年)で下記のように表しています。

「今を去ることは七百年前、源頼朝が隅田川を渡りし際、此の木に白旗を立てしという由来ある由緒あり此名木が・・(中略)・・蓋しこれ東部第一の大たぶにして又本所区内第一の老木なるべし。」




江戸時代の墓石が密集して並んでいます。家単位のお墓でなく、個人単位でお墓を作ったみたいですね。

江戸期 個人墓

江戸期のお墓は戒名を刻んだ個人墓で建立されました。ここには200年〜400年の歳月を経た有縁無縁を含め300余基の江戸期墓石をご供養し安置しています。その後お墓は明治以降に角柱石塔型先祖代々墓として広まりました。

   碑と向き合い、刻まれた文銘を読むと
      碑を建てた人への思いが広がる
                                    中野日出夫

中野先生は昭和五十二年より墨田区文化財調査員として多大な功績を残され、当山の個人墓など450基も考証して頂きました。




ポイント8 北斎案内板 寺島法泉寺詣

法泉寺の門前に北斎の絵を解説した案内板が立っています。

寺島法泉寺詣

文政年間(1818年〜1830年)の中頃の摺物(すりもの)です。摺物とは狂歌師などが知り合いに配るために絵師に注文して作ったプライベートな版画で、売り物とは違い、採算を度外視した豪華な作品が多いのが特徴です。葛飾北斎が為一(いいつ)と名乗っていた60歳〜70歳代中頃の作品で、墨田区東向島の法泉寺を訪れる参詣客の様子が描かれています。門前の右の石柱に「新田義貞公守本尊髻不動明王寺嶌法泉寺」とあります。現在のところ、江戸時代の法泉寺に関する版画はこの作品だけであり、墨田区所蔵のピーター・モースコレクション以外では確認されていない唯一の作品で、墨田区指定有形文化財となっています。

Terashima Hosenji Temple mode (Pilgrimage to Hosenji Temple)

A surimono print from between 1818 and 1830. Surimono prints are woodblock prints that were commissioned for the private use of artists to distribute as gifts to comical tanka artists and other such acquaintances, and because they were not for sale, many of these prints feature a level of exaggerated gorgeousness that would not have been profitable under normal circumstances. This print was created by Katsushika Hokusai under the name of litsu when he was between 60 and 70 years old, and it portrays the many people who visit the Housenji Temple in Higashi-Mukojima, Sumida-ku, to pray. On the right-hand column to the right of the gate is written Nitta Yoshisada-Guardian-Acala-Hosenji. This is the only woodblock print related to the Hosen Temple in the Edo Period currently in existence, and no other ones have been confirmed outside of the Peter Morse collection that is stored in the Sumida-ku archives. It has been designated as a Sumida-ku Tangible Cultural Asset.




白鬚橋東詰交差点近くの墨堤通りに面したレストラン「カタヤマ」は、墨田区でステーキといえばこのお店の名前が必ず出てくると言っても過言ではない、墨堤通り沿いに位置する庶民的な洋食屋さんです。こちらのお店は主に前沢牛とオージービーフのステーキを中心にしているのですが、かなりお手頃な価格で美味しいステーキが味わえます。なので家族連れも多く、店内はいつも賑わっています。その為、休日に来店する際は多少待つことになります。でも、外で待つのではなく、お店の隣に待合用のスペースが用意されていますので大丈夫。お肉は国産かオージー、それぞれ4段階から選ぶことが出来ます。こちらのお店はステーキの美味しさを追求した結果、駄敏丁カット(ダビンチョウカット)というカット方法を考案し特許まで取得しているそうです。駄敏丁カットとは、下処理した肉を棒状に切断後、筋や余分な脂肪を取り除き、分厚くても柔らかい肉を形成するためのカット方式なんだそうです。レストラン「カタヤマ」の左手にある「八百七」は激安の野菜屋さんです。見た目はイマイチですが、味は普通に美味しい野菜が軒先に並んでいます。品物をよく選んで買えばとてもお得です。



東白鬚公園は、隅田川に沿うように南北に細長い公園です。付近は住宅や工場が多く点在する広範なゼロメートル地帯で、一度大地震が発生すれば大災害となる危険性の高い地域にある公園として様々な防災上の工夫がなされています。公園の東側に建ち並ぶ13階建ての高層住宅には防災シャッターや避難用ゲートなどが設置され、屋上には散水用放水銃もあって非常時に備えています。園内には火の粉や熱風から身を守るための樹木を多く植え、南と北にひとつずつある池は震災時等に避難者が利用する水洗式非常用トイレの水源として活用されます。公園中央に聳えるシンボルタワーは、江戸時代の火消人足組が高く掲げた纏をイメージしています。

防災拠点の緑の広場

墨田区の北端、隅田川に沿うように南北に細長い東白鬚公園は、緑とレクリエーションの場です。公園の東側には、13階建の高層住宅が並んでいます。公園と住宅、そしてリハビリ専門病院等をあわせ、この地域一帯は、江東デルタ地区の防災拠点。もし大地震や火災がおきた時には、公園は避難広場となります。

設置年月日  昭和六十一年6月1日
開園面積   103、127.60u
所在地    東京都墨田区堤通2丁目
主な植物   シイ、シラカシ、マテバシイ、ケヤキ、クロガネモチ、ヤブツバキ
施設     小野球場兼用競技場、テニスコート

Down town green plaza as disaster shelter

This is a long, narrow Higashi-Shirahige Park in the northern tip of Sumida River lying along the river town to south and is recreational area with new greenery. High-rise 13-storied residential buildings are lined up on the Eastern side of the park. This entire area with the park and the housing and a specialized renabilitation hospital is planned as a base for disaster prevention in the Koto Delta Region. The park is to be an open shelter in case of strong earthquake or big fire.




公園の南側には南池、北側には北池が設置されていて、非常用トイレの水源として使われます。

南池

この池の水は、震災時等に避難された方々が利用する水洗式非常用トイレの水源として活用されます。災害時に備えて、池の水を大切にしてください。

Minami Pond

The ponds are an emergency water source for flushing toilets in the event of an earthquake or other emergency. Please help to preserve this water for use during an emergency.




公園内にはあちこちに花壇が設けられていて、季節毎にいろんな花が咲いています。今は紫陽花の季節です。



隅田川神社の手前に、「隅田宿跡」の案内板が立っています。

隅田宿跡

当地は古東海道の渡河地で、平安時代の末頃には隅田宿が成立していたといわれています。隅田宿は、治承四年(1180年)に源頼朝が布陣したと伝わる宿で(「吾妻鏡」)、元来は江戸氏など中世武士団の軍事拠点であったと考えられています。遅くとも南北朝時代までには人と物が集まる都市的な場が形成されたようで、歌人藤原光俊が詠んだという十三世紀中期の歌には、多くの舟が停泊してにぎわう様子が描かれています(「夫木和歌抄」)。また、室町時代成立の「義経記」には「墨田の渡り両所」と見え、隅田宿が対岸の石浜付近と一体性を有する宿であったらしいこともうかがえます。対岸との関係については今なお不明な点を多く残しますが、隅田川東岸部における宿の広がりについては、江戸時代の地誌に載る一部の伝承と絵地図が参考になります。それらを分析した研究成果によれば、所在範囲はおよそ図示したように想定されます。なお、人質にさらわれた梅若丸とその母の悲話を伝えた梅若伝説、そして罪業深い老母と娘の悲劇を伝えた石枕の伝説(一ツ家伝説)など、隅田川流域にはいくつか著名な伝説が残されました。この付近に成立した隅田宿は、そうした伝説を育む場でもあったようです。




ポイント9 隅田川神社

隅田川神社は、「水神社」と呼ばれ、かっては樹木が繁茂して「水神の森」とも称され、また隅田川の増水にあっても沈むことがなく「浮島」の名もありました。昔から河川交通の要衝であり、海運・運送業者の尊崇を集めていました。祭神は速秋津比古ほか三神を主神とし、また水の神様らしく境内には石亀や「船の錨」など、水や川や舟に関するものが祀ってあります。維新の時には社掌矢掛弓雄が大いに社運を盛り上げた模様で、彼の手になる歌碑、記念碑が多数残っています。また、墨田地域に残された伝統芸能「隅田囃子」の活動もこの神楽殿を中心に行われています。

水神の森跡

荒川下流のこの付近には、かつて浮島状の小さな森がありました。この森は、川を下ってきた人々にとっては隅田川の入口を知らせる森として、一方、川を溯上する人々にとっては鐘ヶ淵の難所が近いことを知らせる森として格好の目印となっていました。また、この森の中には水神を祀る小社が古くからあり、特に舟運業にかかわる人々の信仰を集めていました。その水神社が、現在ここに鎮座する隅田川神社の前身です。社伝によれば、神社の草創事情は不明ですが、治承四年(1180年)11月に源頼朝が暴風雨のなか隅田川を渡ろうとした時に安全祈願し、風波を鎮めたという伝説があります。また、嘉元年間(1303年〜1306年)に圓満院宮が隅田川を遊覧した際に立ち寄り、水神の梵字を書いて奉納したとか、戦国時代前期の江戸城主太田道灌が社殿を修造したなどという伝説もあります。江戸時代には、延宝年間(1673年〜1681年)に浅草山之宿・花川戸付近の人々が講を結んで水神祭を執行するようになり、これが元禄元年(1688年)を境に数艘の舟渡御を伴う例大祭へ発展したとされています。また、宝暦九年(1759年)には神輿を造営し、この時以来、6月の例大祭で神輿を供奉する舟が数艘くり出すようになったとも伝えられています。なお、水神社は、寛政九年(1797年)3月に造立された石造りの小さな祠を本社としていましたが、文化年間(1804年〜1818年)を越えた頃には、今日見るような立派な木造の複合社殿が建てられるようになりました(現存する社殿は、安政江戸地震の後の再建です)。

墨田区登録有形文化財 隅田川神社資料

水神社は元来神職無住の小社でしたが、明治元年(1868年)11月に備中国小田郡矢掛村(現 岡山県矢掛町)出身の矢掛弓雄(実名は朝倉二郎)が来住し、神事を司るようになりました。そして同六年6月に隅田川神社を正式の社号とし、興隆が図られました。こうしたことから、隅田川神社には、かつて矢掛弓雄によって管理されていた多数の什物が伝来しました。それらの中には、矢掛弓雄が嘉永元年(1848年)2月以降の京都遊学中に制作した各種絵巻物の写しなどがあります。また、矢掛自身が誂えた絵馬をはじめ、三種の神器や楽器、あるいは神社経営に関する帳簿や隅田川神社ほか周辺諸社の略縁起などもあります。さらに矢掛の文化活動の一端を示す資料もあり、中でも彼の手元に集められた当地の伝説に関係する遺物などは、草創期の郷土史研究のありようを彷彿させ、注目されます。なお、矢掛弓雄には、幕府の禁裏附(幕府が朝廷監視のために設置した役職)の下僚として勤務した時期がありました。また、京都御所を警固中に禁門の変(1864年)の勃発に接し、それ以降、あるいは水戸天狗党の鎮圧に向かう幕府軍に加わって敦賀(現 福井県)へ赴いたり、あるいは鳥羽・伏見の戦いに出陣するなど、幕末・維新期の激動を間近に目撃するような体験がありました。このため、什物の中には、そうした激変期の記憶を共有したと推定される福羽美静、鈴木重嶺、本居豊穎、小杉榲邨、小中村清矩など、当時活躍した人々との交流を示す資料も散見します。これら隅田川神社の什物は、「隅田川神社資料」763点として、平成三十一年3月8日付けで墨田区登録文化財に登録されました。




現在の社殿は、安政五年(1858年)に建築され、首都高の建設によって昭和五十年(1975年)に現在地に移築されました。社殿の斜め上には、首都高の高架が通っています。

墨田区登録有形文化財
隅田川神社社殿

隅田川神社社殿は、元来ここから100メートルほど北側にありましたが、首都高速道路向島線の建設に伴い、昭和五十年(1975年)頃、ここへ移されました。建築形式は、正面一間・側面二間・背面二間の本殿、正面一間・側面二間の幣殿、正面三間・側面二間の拝殿からなる、いわゆる権現造の複合社殿です。棟札によれば、この社殿は、嘉永元年(1848年)再建の旧社殿が安政江戸地震により倒壊したことから新築されました。拝殿が安政五年(1858年)、その奥の幣殿・本殿がそれぞれ元治元年(1864年)の建築です。また、当時の大工の名前も確認でき、拝殿が酒井兼次カ・手塚巳之助・同源次郎の三人、幣殿・本殿が手塚伊織による建築であったことが知られます(いずれも浅草在住の大工)。この社殿は、大正十三年(1924年)に屋根が瓦葺から銅板葺へ変更されましたが、破風などの屋根飾りのほか、足先の大きい蟇股や虹梁、本殿脇障子の彫刻が、江戸時代後期から幕末頃の特徴を示しています。隅田川神社社殿は、このように建築年と作者が明らかであり、かつ建築当時の意匠を良好にとどめた貴重な江戸時代の神社建築です。こうしたことから、令和二年八月二十七日付けで墨田区登録有形文化財に登録されました。

Before May, 1873, Sumidagawa-Jinja Shrine was called Suijin-sha Shrine and it serves as a place for worship of both Suijin (the gods of water), and Funadama (the guardian deity of ships). These gods are worshipped by the people who live near Sumida River, and in the old days were particularly revered by people whose livelihoods were in any way reliant on water transportation. The shrine buildings are a fine example of traditional Japanese Shinto architecture. The haiden hall used for worship that is the frontmost of the complex was built in 1858, while the heiden hall where the offerings to the deities are made and the honden where the kami are enshrined were both erected in 1864. In Sumida City, this shrine is a rare example of the early modern Shinto architecture.




狛犬ならぬ「狛亀」が睨みを利かせています。



ポイント10 北斎案内板 雪月花 隅田

再び、白鬚公園に戻ります。遊歩道脇に北斎の絵の解説版が立っています。

雪月花 隅田

雪景色の隅田河畔を描いた作品で、月の淀川、花の吉野と共に選ばれた三名所の一枚です。画面中央の森の中には木母寺と料亭「植半」、手前には水神社と呼ばれた隅田川神社を配し、厚い雪を積もらせています。当時はいずれも雪景色の名所と言われました。画面上下の濃い藍色が、夜が明け切らない早朝の印象を与えていて、静寂さとそこはかとない郷愁を感じさせる作品です。そして、静かな冬の朝の中にも舟で網を仕掛ける人や雪の中を行く二人の人物が描かれ、左下の都鳥らしき鳥たちもアクセントとなっています。文政末から天保初(1830年)年頃の作品です。

Setsugetsuka (Snow, moon and flowers) Sumida

This print depicts the snow-covered banks of the Sumida River, and it is one of the three famous scenes selected alongside Tsuki-no-Yodogawa and Hana-no-Yoshino. The Mokuboji Temple and the restaurant Uehan can be seen in the forest in the center of the print, and thick snow covers the Sumidagawa Shrine, which was known as the Water Shrine, in the forefront. This print is said to be the most famous of all snow scenes from that period. The faint azure color at the top and bottom of the print leave the impression that the scene is depicting early morning just as the dawn is breaking, and it portrays a silent and faintly nostalgic scene. It also includes fishermen casting their net and two people walking through the snow in the silence of the winter morning, and a bird that appears to be a black-hooded gull adds an accent to the bottom left-hand corner of the print. It was created around 1830.




小広場の真ん中に纏のモニュメントが置かれています。

まといのシンボルタワー

公園の中央にそびえるシンボルタワーは、江戸時代の火消人足組が高く揚げた「まとい」をイメージしたもの。「火事と喧嘩は江戸の花」といわれたように、町人町に家屋が密集し、ほとんどの建物が木と紙で組み立てられていた江戸時代に火災はつきものでした。江戸時代の消防は、延焼防止を目的とする破壊消防を主として、中期以降は、瓦屋根の普及、土壁・土蔵造りなどの防火建築が発達したといわれています。江戸城や大名屋敷の消防隊である「定火消」の発達に対して、町方の自衛消防隊の組織化はなかなか進みませんでした。しかし、八代将軍吉宗の政治改革の過程で、町奉行大岡忠相の指導によって「町火消」の設置が進められました。町火消は、地域ごとに火消組合を組織し、町が火消人足を定雇する消防隊。火事場で互いの勇敢さを競う火消人足の活躍は、文学や演劇の題材となり後世に語りつがれます。




モニュメントの土台の側面にはプレートが貼られています。

纏(まとい)。それは、江戸時代において、火事といえば即、纏といわれ、纏のもとに総力を結集して、消火活動を行い纏が火を消したとまでいわれていました。この公園は、大震火災時には、都民の安全を守る避難場所ともなっています。その安全をあらわすシンボルとして、ここに纏のモニュメントを建造しました。

(現在、社団法人・江戸消防記念会のもとに、11区89組があり、この纏は、第6区7番組のものをもとにしています。)




ポイント11 木母寺

木母寺(もくぼじ)は、貞元元年(976年)に忠円という僧がこの地で没した梅若丸を弔って塚(梅若塚:現在の梅若公園附近にありました)をつくり、その傍らに建てられた墨田院梅若寺に始まると伝えられています。梅若丸は「吉田少将惟房」という名の貴族の子でしたが、梅若丸が5歳の時に父を亡くし、7歳の時に出家して比叡山延暦寺に入りましたが、兵乱に遭い逃げる途中に人買いに騙されてこの地まで連れてこられました。この梅若丸の哀話は、後に浄瑠璃などの伝統芸能の題材となり、隅田川物と呼ばれるジャンルを形成することになりました。天正十八年(1590年)に徳川家康から梅若丸と塚の脇に植えられた柳にちなんだ「梅柳山」の山号が与えられ、江戸時代に入った慶長十二年(1607年)、近衛信尹によって梅の字の偏と旁を分けた現在の寺号に改められたと伝えられていて、江戸幕府からは朱印状が与えられました。江戸に下向する勅使たちが度々訪れていました。明治に入ると、神仏分離に伴う廃仏毀釈により「梅若神社」となりましたが、明治二十一年(1888年)に寺として再興されました。その後白鬚防災団地が建設されるに際し、現在の場所に移転しました。

木母寺由緒沿革

宗旨 天台宗  山号 梅柳山  本尊 慈恵大師(別名 元三大師)  総本山 比叡山延暦寺

当寺は平安時代中期の貞元元年(976年)天台宗の僧、忠円阿闇梨が梅若丸の供養のために建てた念仏堂が起源で、梅若寺と名づけて開かれました。文治五年(1189年)鎌倉時代、源頼朝が奥州遠征の途中に参拝し、長禄三年(1459年)室町時代、太田道灌が訪れ、梅若塚を改修したと伝えられています。天正十八年(1590年)安土桃山時代、徳川家康が参拝し、梅若丸と塚に植えられた柳にちなみ「梅柳山」の山号が与えられます。慶長十二年(1607年)江戸時代に前関白・近衛信尹が訪れ、柳の枝を筆代わりに「梅」の異字体「栂」を「木」と「母」とに分け書して以来、木母寺と改名されました。寛永年間、三代将軍・徳川家光の時代には境内に「隅田川御殿」が建てられ代々の将軍が鷹狩りや隅田川遊覧の休息所として利用され、さらに将軍家に献上するための御前栽畑が作られました。明治元年(1868年)神仏分離令に伴う廃物毀釈のあおりを受け梅若神社となりましたが、明治二十二年(1889年)に寺院への復帰を果たします。昭和二十年(1945年)に米軍の空襲を受けて本堂を焼失し、戦後に復興をとげますが、昭和五十一年(1976年)都市再開発法に基づく東京防災拠点建設事業の実施により、現境内へ移転します。

梅若塚

境内にある梅若塚は能・歌舞伎・謡曲・浄瑠璃等の「隅田川」に登場する文化的旧跡です。当寺に現存する寺宝絵巻物「梅若樟現御縁起」(上中下の三巻から成り、高崎城主・安藤対馬守重治が延宝七年(1679年)に寄進。墨田区登録文化財)には梅若塚の由来が描かれています。

梅若権現御縁起

平安時代の中頃、京都の北白川に吉田少将惟房と美濃国野上の長者の一人娘、花御前という夫婦がおりました。二人には子供がなく日吉大社へお祈りに行きました。すると、神託によって梅若丸という男の子を授かることができたのです。梅若丸が五歳の時、父親の惟房が亡くなり梅若丸は七歳で比叡山の月林寺というお寺へ預けられました。梅若丸は塔第一の稚児と賞賛を受けるほど賢い子共でした。その賢さが災いしたのか比叡山では東門院にいる稚児、松若丸と、どちらが賢いかと稚児くらべにあい東門院の法師達に襲われます。彼らに襲われた梅若丸は山中をさまよったのち、大津の浜へと逃れました。そこで信夫藤太という人買いに連れ去られ東国へと向かいます。旅の途中、病にかかってしまった梅若丸は貞元元年の三月十五日、隅田川の湖畔で

   尋ね来て 問はば応へよ 都島
      隅田川原の 露と消へぬと

と句を残し十二歳という若さで命を落としてしまいました。そこに通りかかった天台宗の僧である忠円阿闍梨は里人と塚を築き柳を植え弔いました。梅若丸が亡くなったあくる年、母は失踪した息子を探し狂女となって東国へと向かいます。そしてちょうど一周忌の日に隅田川に至り渡し守より梅若丸の死を聞きました。大念仏を唱えると梅若丸の霊が現れ再会を果たしますが梅若丸の姿はすぐに消えてしまいました。母は墓の傍らにお堂を建立し妙亀尼となって、そこで暮らしますが悲しみのあまり鏡ヶ池に身をなげてしまいます。すると不思議なことに霊亀が遺体を乗せて浮かびあがりました。忠円阿闍梨はそこに母親の墓所をたて母を妙亀大明神として祀り梅若丸は山王権現として生まれ変わったとのことです。

隅田川物

謡曲「隅田川」は世阿弥の息子、観世十郎元雅によって作曲されました。梅若丸と狂女となった母親の悲話として伝わる梅若丸物語は室町時代より「隅田川物」として能楽をはじめ浄瑠璃、歌舞伎、舞踊、謡曲などの演目として盛んに上演されてきました。この「隅田川物」を上演する際に、役者が梅若丸の供養と興行の成功ならびに役者自身の芸道の上達を祈念して「木母寺詣り」を行なったことから、芸道上達の祈願寺として大衆の信仰を集めています。




木母寺の歴史について解説した案内板が立っています。

木母寺境内之図 「新選東京名所図会・隅田堤」
山本松谷画 木母寺蔵

木母寺境内之図は明治三十一年(1898年)、梅岩塚の再興から十年を経た風景です。春昼、俄か雨の中、傘をすぼめて足早に行く婦人を近景として絵の中央に梅若堂、右手に本堂、左奥に料亭、植半が描かれています。この絵の中の世界は昭和二十年四月の戦災をもって過去のものとなりました。そして、画中御堂(梅若堂)だけが、身に多くの爆弾弾片の傷跡を残しながら、時の証人として生き続けています。

木母寺の変遷

江戸時代、当寺では梅若忌(梅若丸を供養する大念仏の行事)や開帳がおこなわれ、多くの参拝者を集めていました。また、幕府から寺領二十五石を与えられ歴代将軍・将軍世子・公家・大名・文人など当代の貴顕とともに、一般庶民も多く訪れる隅田川遊覧の代表的な名所でした。時代が江戸時代から明治時代にかわると、廃仏毀釈により明治元年(1868年)に廃寺し、寺の堂舎は取り除かれ跡地には梅若神社が創建されました。徳川家の庇護を失った梅若神社の経営は苦しく、存続の危機に陥りますが、多くの地域住民と政財界の有力者および文化人たちの支援を受け、明治二十二年(1889年)に寺院への復帰を果たします。神社を再び仏寺にすることは、当時としては非常に困難な事業であり、当寺では、これを明治中興と称しています。その後も、昭和二十年(1945年)四月十三日に米軍の空襲を受けて本堂・庫裏を焼失。さらに同月十五日に爆撃を受け、梅若堂や境内の石碑が大きな被害を被りました。昭和二十五年(1950年)に仮本堂を建立し、二十七年(1952年)に梅若忌が再開され今日に至ります。




境内の中央に能楽堂のような建物があります。

梅若堂

この仏堂は明治の廃仏で一時、梅若神社とされた梅若塚が再び仏式に復帰した年、すなわち明治二十二年の建立になります。当寺一帯が全焼した昭和二十年四月の戦災にも焼失を免れた唯一の仏堂ですが、その後の空襲で受けた爆弾々片による痕跡が所々にみられます。防災拠点内であるため木造建造物の存置は許可されず、覆堂内に納められることになりました。




謡曲「隅田川」のいわれが解説してあります。

謡曲「隅田川」と木母寺

謡曲「隅田川」は、我が子の行方を尋ねさまよう母の悲劇をテーマにした狂女物の代表曲で、探し求めた我が子は既に亡く、その墓前で亡き子の霊の声のみ聞く哀れさは、本曲の圧巻である。梅若権現縁起に「梅若丸は吉田少将惟房郷の子、美濃国野上宿に生まる。母の名は花子。五才で父を失い、七才の時比叡山に登り修学中、人買いに欺かれ、ここ隅田川原まで来たが病を得、貞永元年三月十五日此の地にみまかる。時に十ニ才。いまわの際の「尋ね来て 問わば応えよ 都鳥 隅田川原の 露と消えぬと」との詠歌を哀れんだ天台の僧忠円が里人と計り、一堆の塚を築き柳一株を植えて標とし跡を弔う。これが梅若寺の起源となる。慶長十二年(1607年)梅の字を分けて木母寺と改名された」と書かれている。




梅若堂の脇に梅若塚が移築されています。

梅若塚

   「たづね来て 問はばこたえよ 都鳥
      すみだ河原の露ときえぬと」

の辞世で名高い梅岩塚は中世からは能「隅田川」の文学的旧跡、また江戸時代には梅若山王権現の霊地として尊信されました。




境内には大小いろいろな石碑が建っています。

境内の諸碑

「梅若塚」で知られる境内には、謡曲「隅田川」の碑など30基の石碑があり、著名なものとしては次の諸碑があります。

◆華笠文京翁碑
幕末に出た劇作家花笠文京(魯助)の数奇に富んだ生涯を述べた碑で、弟子である仮名垣魯文が建てました。

◆天下之糸平の碑
高さ五メートル、幅三メートルを越す都内一の巨碑です。明治の初め、貿易で成功を収めた田中平八(通称天下の糸平)の石碑です。親交のあった政治家、伊藤博文の書です。

◆三遊塚
三遊亭円朝が先師初代円生追福のため、明治二十二年に建てた碑です。題字は山岡鉄舟、銘文は高橋泥舟の書です。

◆題隅田堤桜花(隅田堤桜花に題す)の詩碑
亀田鵬斎の作ならびに書で「長堤十里、白にして痕なし、訝しむ澄江の月と共に渾るに似たるを。飛蝶還り迷う三月の雪。香風吹き度(渡?)る水晶の村」と読みます。銘文は九歳の少年、清水孝の書です。文政十二年建立。




「華笠文京翁碑」です。案内板はありません。



「天下之糸平の碑」です。

天下之糸平の碑

幕末から明治にかけて活躍した実業家、田中平八の石碑です。平八は横浜で生糸売込と洋銀売買で巨利を得て、「天下の糸平」と呼ばれました。表面の文字を揮毫した伊藤博文は平八と親交があり、わが国初代の総理大臣です。碑の裏面には平八の生涯と平八と交友があった渋沢栄一など明治の政財界の知名人の名が列ねてあります。これらの人々は木母寺の明治再興(明治二十二年)に協力され、その縁で二年後に建碑されました。高さ5.2メートル、幅3メートル、重量80トンある都内第一の石碑です。




「三遊塚」の碑です。

三遊塚

初代円生(1768年〜1838年)の追善供養と三遊派落語の隆盛を祈念して、三遊亭円朝が明治二十二年(1889年)に建立され(し?)ました。題字は「幕末の三舟」といわれた山岡鉄舟、裏の銘文は高橋泥舟の筆によるものです。




「題隅田堤桜花(隅田堤桜花に題す)の詩碑」です。案内板はありません。碑文には、

   題隅田堤桜花
   長堤十里白無痕   訝似澄江共月渾
   飛蝶還迷三月雪   香風吹度水晶村

と刻まれているそうです。ちなみに、

隅田堤
隅田川東岸の堤のことで、「墨堤」とも呼ばれます。八代将軍徳川吉宗が「庶民が楽しめるように」と桜などを植えさせて以来桜の名所となりました。

長堤
長くつづく堤のことで、隅田堤を指します。

澄江
清く澄んだ川のことで、隅田川を指します。

飛蝶
飛び舞う蝶のことです。

香風
香気を帯びた風のことです。

水晶村
水晶のように美しい村のことです。隅田川が増水すると隅田堤周辺の村々が水で覆われることを表現したものです。




ポイント12 北斎案内板 梅若の秋月

北斎の絵の案内板が立っています。

梅若の秋月 −風流隅田川八景−

「風流隅田川八景」シリーズの一枚です。「たずねきて 問わばこたえよ 都鳥 すみだ河原の 露ときえぬと」の辞世の句で有名な木母寺に古くから伝わる「梅若伝説」を題材にしています。京の方から騙されて連れられてきた梅若丸は、病に倒れ、隅田宿あたりで僅か12歳の生涯を閉じました。母の花御前は悲しみのあまり狂女となり、我が子を探し彷徨ったと伝えられています。平安時代の話を江戸時代に置きかえ、生前に会えなかった母子が、絵の中では仲睦まじく舟遊びをしている姿で描かれています。文化中期(1804年〜1818年)頃の作品です。

Eight Views of the Elegant Sumida-gawa: Umewaka no Akizuki
(Full moon of Umewaka)

One of the Eight Views of the Elegant Sumida-gawa series. The theme of this print is the Legend of Umewaka handed down from ancient times by the famous Mokuboji Temple as a deathbed poem that goes, "Oh black-hooded gull, if my mother visits and asks, tell her that I have become one, with the dew that lies at the source of the Sumida River." Fooled into being brought from Kyoto, Umewaka Maru became sick and died at the Sumida Inn at the tender age of just twelve years old. His mother, Hanagozen, was so stricken with grief that she went insane, and it is said that she roamed around searching for her lost son. The print shows the two who were unable to meet in life happily enjoying a boat ride as the Heian Period turns into the Edo Period. The print was created between 1804 and 1818.




ポイント13 北斎案内板 隅田川関屋の里

鐘ヶ淵陸橋交差点の角に、葛飾北斎の「富嶽三十六景 隅田川関屋の里」のパネルが立っています。関屋の里は「江戸名所図会」によれば、木母寺より北の牛田村の隅田川に面した一帯を指しています。疾駆する三騎連れの武士は領国への急を知らせる早馬でしょうか。早朝の朝駆けの使者の気ぜわしさが感じられます。馬や武士たちの服の色は異なり、華やかな色どりさえ感じさせます。躍動感のある近景に対して、静かで雄大な赤富士を遠景に持ってきた北斎の構図が窺えます。

隅田川関屋の里 −冨嶽三十六景−

葛飾北斎が72歳頃に版行した代表作「冨嶽三十六景」シリーズの一枚です。現在の墨田区堤通2丁目から足立区千住曙町、千住関谷町のあたりが描かれています。画面には高札以外の家も見えず草原と田んぼが広がり、手前から奥へ蛇行して伸びる土手と存在感ある松、朝焼けの富士山が見える穏やかな早朝の中、疾走する三騎の人馬は躍動感に溢れている印象的な作品です。武士たちの衣装、馬体、馬具の細部に至るまで明るい色使いが施されています。天保二年(1831年)頃の作品です。

Thirty-six Views of Mount Fuji: Sumida-gawa Sekiya no Sato

A print from the representative Thirty-six Views of Mount Fuji series created by Katsushika Hokusai when he was about 72 years old. This scene depicts the area around Senju Akebono-cho and Senju Sekiya-cho in Adachi-ku as seen from the current 2-Chome Tsutsumi-dori, Sumida-ku. Apart from an official bulletin board, no houses can be seem amid the grasslands and paddy fields, and the impressive pine tree on the bank stretching from the foreground into the distance and the sight of Mt. Fuji bathed in the sunrise produce a very impressive piece of work overflowing with three horseback riders racing through the peaceful early morning scene. The samurai warriors, the horses and the harnesses are all depicted in bright colors. This print was created around 1831.




墨堤通りは鐘ヶ淵陸橋交差点の下をアンダーパスで潜っていますので、交差点は陸橋のようになっています。交差点の中央にある分離帯に菱形のモニュメントが建っています。モニュメントには、「鐘ヶ淵」の地名の由来を図解したレリーフと、安藤広重の「名所江戸百景 木母寺内川御前栽畑」のレリーフが組み込まれています。

鐘ヶ淵の由来には隅田川がこのあたりで直角に曲がり、それが工匠の使う曲尺(矩尺)に似ているところから又、寺院の移転の際に梵鐘(ぼんしょう)が川に落ちたところからの二説が伝えられています。

これは広重の「木母寺内川御前栽畑(名所江戸百景)をレリーフにしたものです。徳川将軍の食膳に供する野菜を栽培する畑を御前栽畑といい、ここの内川(入江)を船で出入りすることができました。




東武スカイツリーラインの鐘ヶ淵駅の西口に面した東西に延びる細い道路は、かっての古代東海道の道筋でした。

武蔵・下総を結んだ古代東海道

東武線鐘ヶ淵駅の付近には、武蔵国と下総国を結ぶ古代の官道がありました。古代東海道と呼ばれるこの街道は、現在の墨田区北部を東西に貫き、京の都から常総方面に至る幹線道路として多くの人々に利用されたと考えられます。官道に定められた年代は、九〜十世紀と想定されます。「大日本地名辞書」に「隅田村より立石、奥戸を経、中小岩に至り、下総府へ達する一径あり、今も直条糸の如く、古駅路のむかし偲ばる」と記されるように、明治十三年(1880年)の地図からは、古代の官道の特徴を示す直線道を見出すことができます。また、この道筋には大道や立石など古代の官道跡に見出される地名が墨田区墨田・葛飾区四ツ木(大道)、江戸川区小岩(大道下)に確認できます。また、葛飾区立石には、古代の標石に使用されたと考えられている立石様が残っています。これらは古代東海道の名残を示すものといえます。鐘ヶ淵駅から西に進むと隅田川に至ります。江戸時代より前の時代、隅田川を渡るには船がおもな交通手段でした。承和二年(835年)の太政官符で渡船の数を二艘から四艘にしたことは、隅田川を往来する人々の増加を物語っています。その行程をたどるのが「伊勢物語」東下りの場面です。在原業平が「名にしほは いざ事とはむ宮こ鳥 わがおもふ人はありやなしやと」と詠ったとされる場所は、古代東海道をつなぐ渡であったのです。




ゴール地点の東武スカイツリーライン鐘ヶ淵駅に着きました。



ということで、すみだウォーキングマップ2020年版で三番目のコースである「B北斎が描いた隅田川沿いの名所を歩く」を歩き終えました。次はすみだウォーキングマップ2020年版で四番目のコースである「Cスポーツも!歴史も!自然も!いろいろ楽しめるよくばりコース」を歩きます。




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