- @新たな観光名所と向島の風情あるまち並みをぐるりとめぐる
- コース 踏破記
- 今日は墨田区の「@新たな観光名所と向島の風情あるまち並みをぐるりとめぐる」を歩きます。とうきょうスカイツリー駅を起終点にして、北十間川沿いに新設された東京ミズマチで川風を浴び、隅田川に架かる東武線の鉄橋脇に設けられたすみだリバーウォークを往復し、その後向島界隈を周遊します。最初に歩いたのは2022年の3月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年7月に改めて歩きました。
@新たな観光名所と向島の風情あるまち並みをぐるりとめぐる
2020年にオープンした新名所「すみだリバーウォーク」からの景色は開放感満点!向島エリアには由緒ある神社や風情あるまち並みが残り、すみだの新旧の魅力を楽しめます。
「@新たな観光名所と向島の風情あるまち並みをぐるりとめぐる」の歩行距離は約3.0km(約4、300歩)、歩行時間は約45分、消費カロリーは約135Kcalです。
スタート地点:とうきょうスカイツリー駅正面口
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- ポイント1 すみだリバーウォーク
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すみだと浅草を結ぶ連絡歩道橋。隅田川の景色と電車が通る様を間近で体験できます。「恋人の聖地」として認定されています。
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- ポイント2 隅田公園
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東京スカイツリーを見上げながら、芝生やベンチでひと休みできます。池に遊びにきた水鳥に会えることも。
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- ポイント3 見番通り
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老舗の料亭が立ち並び、昼間は芸妓さんたちがお稽古する三味線の音が聞こえることも。
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- ポイント4 三囲神社
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越後屋(現在の三越)の創業者・三井家の守護神として江戸時代から崇拝されてきました。その縁で、境内には旧三越・池袋店のライオン像が設置されています。
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ゴール地点:とうきょうスカイツリー駅正面口
スタート地点の東武スカイツリー線とうきょうスカイツリー駅正面改札口から歩き始めます。2022年に訪れた時は、駅の入口に煌びやかな装飾がされていましたが、2025年に再訪した時は道路側の入口は閉鎖され、高架の下に新しい入口ができていました。ソラカラちゃんとテッペンペンちゃんとスコブルブルじいさんが並んだキャラクターはスカイツリーの玄関駅として相応しいデコレーションだったんですけどね。
でも、スカイツリータウン入口の階段脇には、3人(?)のキャラクターが健在です。
東武橋の手前で道路を横断しますと、左手にプレハブの建屋とフェンスに囲まれた広場があります。
パデル東京ミズマチは、スペイン発祥の人気ラケットスポーツ「パデル」が楽しめる専用施設です。パデルはテニスとスカッシュをあわせたようなスポーツで、世界で2、500万人の競技人口を持ち、欧州や南米ではテニスの人口を上回る国も多く、老若男女がプレーできる国民的なスポーツです。あまり馴染みのないスポーツですが、多くの企業が協賛しているとのことです。
小梅橋の袂から「東京ミズマチ」に入ります。小梅橋は、北十間川に架かる橋梁で、最初の橋は1953年に完成してから約63年が経過して老朽化が進んだため掛け替えが行われ、2020年4月1日に現在の新橋が開通しました。「小梅」という地名は、元は「梅香原(うめがはら)」と呼ばれた梅の木が多い地域だったことに由来し、梅の名所でした。
「東京ミズマチ」は、2020年6月に東武鉄道の高架下を利用してオープンした複合商業施設です。東京スカイツリーを「空の街」と表現していることと合わせ、水辺にあるこの施設を「東京ミズマチ」と名付けられました。店舗は隅田公園前の「ウエストゾーン」と道路を渡った先にある「イーストゾーン」に分かれています。北十間川の親水テラスに面し、川面を眺めながらゆったりと食事できる新業態のレストランや甘味処のほか、コミュニティ型ホステルなどがあり、新しい下町観光の名所として注目されています
小梅橋船着場は、2021年春に隅田公園とミズマチから東京スカイツリーへ向かう北十間川に新しくオープンしました。北十間川から隅田川や両国・日本橋方面へのクルージングが様々な舟運事業者によって運航されています。現在はイベント船が中心のため、運航日時は不定期になっています。
沿線食堂は、2022年6月18日に東京ミズマチにオープンし、「食べて守ろう!沿線にある食堂の味」をスローガンにして、大切な食堂の味を多くの人たちに届け、食を通じた沿線の食堂のサポートを行っています。
コネクトすみだ[まち処]は、墨田区の「ものづくりの名産品」がどこよりも揃っているお店です。ロゴマークの江戸紋様である毘沙門亀甲は、財宝や福徳をもたらしてくれる七福神の一神である毘沙門天さまの甲冑にこの文様が使われていて、特に縁起良い吉祥文様となっています。また、中の図柄を「人」にすることで、「人と人がつながる」というイメージを表しています。
「東京ミズマチ」は、北十間川に架かる源森橋で「イーストゾーン」と「ウエストゾーン」に分かれています。
源森橋の由来を記した石碑が建っています。
源森橋
源森橋の名前の由来は、現在の枕橋(本橋から約二百メートル隅田川寄りの橋)、古くは源森橋と呼ばれていたものが、明治初期に枕橋に正式決定されたことから、本橋を源森橋と呼ぶようになったことによるものである。その昔、現在の枕橋(旧源森橋)が関東郡代であった伊奈半十郎により中之郷瓦町(現在の吾妻橋地区)から新小梅町(現在の向島地区)に通ずる源森側(現在の北十間川)に架けられた。また枕橋(旧源森橋)北側にあった水戸屋敷内に大川(隅田川)から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。この二つの橋(旧源森橋、新小梅橋)は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるようになった。その後、水戸屋敷内への堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅し、残った旧源森橋は明治初期に正式に枕橋と呼ばれることになり、旧源森橋の東側にあった本橋を源森橋と公称した。現在の源森橋は、昭和三年に架設した鋼橋(上路式アーチ橋)が約八十年経過し、老朽化したため、平成十九年三月に鋼橋(鋼床版鈑桁)に架け替えられたものである。
源森橋はスカイツリーの絶好の眺望ポイントのひとつです。
「ウエストゾーン」にもテラス席を備えたお洒落なレストランが並んでいます。川風を感じながら、昼下がりの優雅なお食事が楽しめます。
「ウエストゾーン」は枕橋の袂で終わりとなります。枕橋はかって源森橋という橋名でした。その名残りで隅田川に面する水門も源森川水門と呼ばれています。
欄干には、江戸時代の枕橋の様子を描いたレリーフが貼られています。
枕橋から少し離れた植え込みの中に、枕橋の案内碑が建っています。
枕橋の由来
寛文二年(1662年)、関東郡代であった伊奈半十郎により、中之郷(現在の吾妻橋)から向島に通じる源森川に源森橋が架けられた。またその北側にあった水戸屋敷内に大川(隅田川)から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。この二つの橋は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるようになった。その後、堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅した。明治八年、残った源森橋は正式に枕橋と呼ばれることとなった。現在の枕橋は昭和三年に架け替えられたものである。昭和六十三年、本橋は東京都著名橋に指定された。
鬼平犯科帳には枕橋が次のように登場します。
枕橋 さなだや
当時は堀留となっていた源森川に架かる橋で、作品の中では源森橋、源兵衛橋と名を変えて出てきます。その北隣の水戸家下屋数に引き込まれた水路に架かる小梅橋と対になると夫婦が枕を並べた様子に似ていることから、枕橋と呼ばれていました。鬼平犯科帳では、その北詰にある蕎麦屋(さなだや)がいっしょに数多く登場します。「蛇の眼」ではその店で、平蔵独特の勘ばたらきからあやしい奴に出くわし、追跡する場面があります。実はこの男、大盗・蛇の平十郎で、源兵衛橋の下に潜り込んで、まんまと逃げ失せてしまいます。鬼平犯科帳の番外編とされる「にっぽん怪盗伝」収録の「正月四日の客」は、(さなだや)が舞台になり、亭主の庄兵衛と客の亀の小五郎とのむだ口のない遣り取りが実にいい味を出しています。
- ポイント1 すみだリバーウォーク
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枕橋の少し先に、すみだリバーウォークの入口があります。通路を進んでいくと、隅田川に架かる歩道橋が現れます。
すみだリバーウォークは、2020年6月に開通し、東京の人気観光地「浅草」と「東京スカイツリータウン」を最短ルートで結んでいます。午前7時から午後10時まで開門していて、橋のカラーデザインには東京スカイツリーの色に合わせた「スカイツリーホワイト」が使用されていて、より広域なエリアでの一体感を演出しています。また、日没になると点灯される東京スカイツリーと橋のライトアップは連動していて、季節やイベント等の特別ライティングとの共演も必見です。
全長約160メートルの遊歩道内のガラス床から 隅田川の水面や運航中の船を覗くこともできます。
すみだリバーウォークは、NPO法人地域活性化支援センターにより、「恋人の聖地」に選定されたプロポーズにふさわしいロマンティックなスポットでもあります。都内では、他にも「サンリオピューロランド」が選定されています。
恋人の聖地
Yumi Katsura Lover's Sanctuary Here I declare this land as "Lover's Sanctuary" to impart the joy and the magic of encounters, blissful marriages, and raising a happy home. I send my blessings to your encounters and wish you a wonderful future.
SINCE 2006
Bridal Mother 桂由美
この場所には、かって山の宿の渡しがありました。
山の宿の渡し
隅田川渡船の一つに、「山の宿の渡し」と呼ぶ渡船があった。明治四十年(1907年)発行の「東京市浅草区全図」は、隅田川に船路を描き、「山ノ宿ノ渡、枕橋ノ渡トモ云」と記入している。位置は吾妻橋上流約250メートル。浅草区花川戸河岸・本所区中ノ郷瓦町間を結んでいた。花川戸河岸西隣の町名を、「山ノ宿町」といった。渡しの名はその町名をとって命名。別称は、東岸船着場が枕橋橋畔にあったのにちなむ。枕橋は墨田区内現存の北十間川架橋。北十間川の隅田川合流点近くに架設されている。渡船創設年代は不明。枕橋上流隅田河岸は、江戸中期頃から墨堤と呼ばれ、行楽地として賑わった。桜の季節は特に人出が多く、山の宿の渡しはそれらの人を墨堤に運んだであろう。したがって、江戸中期以降開設とみなせるが、天明元年(1781年)作「隅田川両岸一覧図絵」はこの渡しを描いてない。
Yamanoshuku no Watashi Ferry
In the days when ferries crossed the Sumida River there was a ferry called the
"Yamanoshuku no Watashi" (the word "watashi" means ferry). In a map printed in 1907 ferry routes are shown, and "Yamanoshuku no Watashi", which was also known as "Makura-bashi no Watashi" is mentioned. The ferry route was approximately 250 metres upstream of Azuma-bashi Bridge and linked the riverbank at Hanakawado with the Nakanogo Kawaramachi area. The name of the ferry is derived from the name of the district of Yamanoshuku which was to the west of the riverbank at Hanakawado. The alternative name is connected to the fact that the arrival point on the eastern bank of the river was at the approach to Makura-bashi Bridge. Makura-bashi Bridge stands near to the point where Kitajikken River from Sumida ward flows into the Sumida River. It is not clear when the ferry serving this I route was started. From about the mid Edo period (around the 1890s), the bank of the Sumida River upstream of Makura-bashi Bridge was popular as a site for cherry blossom viewing.
- ポイント2 隅田公園
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墨堤通りを渡って隅田公園に入ります。此の地は、江戸時代には水戸藩の蔵屋敷でした。
隅田公園の歴史解説
小梅邸と明治天皇行幸
江戸時代、この地は水戸徳川家の蔵屋敷で、上屋敷の小石川邸(その外庭が小石川後楽園)が明治時代初めに砲兵工廠となったため、この小梅邸が本邸(当主・徳川昭武:十五代将軍慶喜の弟)となりました。小梅邸は、北十間川から隅田川に出る舟運の要衝であると同時に、水戸と小石川邸を結ぶ水戸街道沿いにあって街道の要衝でもありました。江戸時代から桜の名所であった隅田堤の桜が満開の明治八年(1875年)4月4日、明治天皇が小梅邸に行幸され、その時の御製が石碑に刻まれています。これは徳川関係屋敷への最初の行幸で、明治政府と徳川の和解の場でした。行幸啓は以後5回に及び、明治二十九年(1896年)には洋館が造られました。
Sumida Park History Description
"Koume Residence and Emperor Meiji's visit"
In the Edo period, this used to be the daimyo's city storehouse of the Mito-Tokugawa family. Since their main residence, the Koishikawa Residence (The outer court is Koishikawa Korakuen), became an artillery arsenal in the early Meiji period, the Koume
Residence became their main residence. (The head of the family was Akitake Tokugawa, younger brother of the 15th shogun, Yoshinobu Tokugawa). The Koume Residence as well as being a key point for water transportation from the Kitajukken River to the
Sumida River, because of its location along Mitokaido, which connects Mito and the Koishikawa Residence, also served as a key point for the highway. On April 4, 1875, when the cherry blossoms of Sumida Tsutsumi (embankment of the Sumida River), a famous place for cherry blossoms since the Edo period were in full bloom, Emperor Meiji made an imperial visit to the Koume Residence. The poem written by the Emperor upon his visit is engraved on the stone monument. It was the first visit made to the
Tokugawa-related residence. It is also where the Meiji government and Tokugawa reconciled. Five more visits were made since then and in 1896, a Western-style house was also built.
案内板には当時の写真も添えられています。左側は明治八年(1875年)4月4日の「徳川邸行幸」、中央は明治三十三年(1900年)当時の「小梅邸西洋館」、右側は明治三十八年(1905年)当時の「小梅邸庭園」の様子です。
公園の入口の脇に石碑が建っています。富田木歩は、明治三十年(1897年)に向島小梅町(現在の向島三丁目)に生まれた俳人です。誕生の翌年に高熱のために両足が麻痺し、幼くして両足の自由を失い、小学校にも入学できませんでした。歩行不能・肺結核・貧困・無学歴の四重苦に耐えながら俳句を詠み続け、「犬猫と同じ姿や冬座敷」、「死装束縫ひ(い)寄る燈下秋めきぬ」などの句を残し、「大正俳壇の啄木」の賞賛を受けるまでになりました。木で義足を作って歩くことを工夫した願いが「木歩」の号に表されています。この碑には大正十二年の関東大震災で枕橋の土手まで助けられて避難しましたが、隅田公園枕橋の袂がその終焉の地となってしまったことが碑に記されています。
俳人 富田木歩終焉の地
木歩は本名を一(はじめ)といい、明治三十年に墨田区向島二丁目の鰻屋の次男に生まれました。二歳のとき両脚の自由を失い、小学校に入学できず、彼はいろはカルタ等で遊びながら文字を覚えました。たびたびの洪水で家は貧乏のどん底に陥り、二人の姉は苦界に身を沈め、妹は女工に弟も内職の手伝い、彼も徒弟奉公に出ました。しかし仲間に辛く当られ仕方なくやめました。こうした苦しみと孤独の中で、彼は俳誌「ホトトギス」を知り、俳句に惹かれます。やがて、彼は臼田亜浪に師事して句作に精進し、その俳句は高く評価されるようになります。さらに彼を理解し、援助する新井声風という俳友もでき、彼に俳句を学ぶものもでてきました。しかし、妹も弟も肺患で死に、彼自身も肺を病むといった苦境での句として、
かそけくも 咽喉鳴る妹(いも)よ 鳳仙花(ほうせんか)
木歩は関東大震災にあい、声風に背負われて墨堤に避難しましたが、枕橋が焼けて逃げられず、このあたりで焼死しました。二十六歳でした。
ひょうたん池の中央にある中島は、よく見ると「亀」のように見えます。日本庭園によく見られる不老不死を願う施主の気持ちが表れている石組です。
明治天皇は、明治八年(1875年)に隅田公園の由来となった水戸徳川家小梅邸を行幸されましたが、日本庭園の中に明治天皇御製歌碑と明治天皇聖蹟を表す石碑が建てられています。歌碑には、「花ぐわし 桜もあれど 此やど乃 よ々のこころを 我はとひけり」という歌が刻まれています。裏面には、「明治八年四月四日 明治天皇先臣昭武の邸に臨ませられ畏くも宸筆の御製を賜ふ此地は當年の邸趾にして大正十二年の大震火災後帝都の復興に際し隅田公園となれり圀順此光栄ある遺蹟を永く世に傳へんと欲し御製を謹書して茲に此碑を建つ」と記されています。
明治天皇が水戸徳川家小梅邸を行幸されたことを記念して、庭園には明治天皇聖蹟を表す石碑と、その脇に水戸邸跡由来記を記した石碑が建てられています。
隅田公園水戸邸跡由来記
コノ地ハ江戸時代 水戸徳川家ノ下屋敷 小梅別邸ガ置カレタトコロデアル 徳川御三家ノ一ツデアル水戸家ガ オ浜屋敷 中央区ニ替エテコノ地ヲ賜ッタノハ 元禄六年 一六九三年 三代綱條公ノ時デアル 屋敷ハ西ハ隅田川ニ面シ南ハ北十間川ヲ巡ラシ 面積オヨソ六万六千平方メートル 約二万坪 南北二百メートル余 東西約三百メートルニワタリ南ニ広ガル梯形ノ地デ 現在ノ向島一丁目ノホボ大半ヲ占メ 墨田区南部ニ置カレタ大 小名屋敷八十余ノウチデ最大ノ規模ヲ誇ルモノデアッタ コノ屋敷ハ 現在後楽園ノ名ガ残ル小石川本邸 駒込別邸 イズレモ文京区 ノ控トシテ 従者デアル蔵奉行 水主 鷹匠ノ住マイナドニアテラレ マタ西側ニ接シタ一角ニハオ船蔵ガ置カレ 水戸家所有ノ船 材木ナドガ保管サレテイタ 弘化元年 一八四四年 烈公トシテ知ラレル九代斉昭公ガ藩政改革ノ一端カラ幕府ノ誤解ヲ招キ駒込別邸デ謹慎ヲ命ジラレタ際 改革派ノ中心デアリ高名ナ水戸学者デアッタ藤田東湖ガ責任ノ一班ヲ負イ蟄居ノ日々ヲ送ッタノモ コノ屋敷内ノ長屋デアッタ ヤガテ明治維新トナリ 十一代昭武公ノ代ヲ以テ藩制度ハ解消 一時政府の管理スルトコロトナッタモノノ 爾後 改メテ水戸家本邸ガ置カレ 明治八年ニハ 明治天皇 同二十五年ニハ 昭憲皇太后ノゴ訪問ヲ受ケタ シカシ大正十二年九月 関東大震災ノ劫火ニヨリ烏有ニ帰シ 二百三十年ニ及ブ水戸屋敷ノ歴史ハココデ閉ジタノデアル 昭和六年 帝都復興計画ニ基ヅキ隅田公園ガ造営サレルト 水戸邸ノ旧跡ハ同園ニ取リ入レラレ 往時ヲシノブヨスガヲソノ一角ニトドメ 広ク市民ノ憩イノ場トナッテイタ シカシソノ後 半世紀近イ歳月トトモニ環境ハ変化シ マタ第二次大戦ノ戦火ノ被害モアリ ソノ面影モオオカタ失ワレタ 昭和五十年 コノ公園ヲ管理スルコトトナッタ墨田区ハ 同五十二年区制施行三十周年ヲ記念シテ改修ニ着手シ コノタビ昔日ノ風趣ヲ伝エル日本風庭園ヲ再現サセタ ココニ カッテノ水戸徳川邸ノ林泉ノ美ガ復元サレタコトヲ機会トシテ一碑ヲ建テ イササカコノ地ノ由来ヲ記シ 後世ニ伝エルモノデアル
公園の東の縁に、小説家の堀辰雄の案内板があります。
堀辰雄ゆかりの地
堀辰雄は明治三十七年(1904年)、麹町平河町(現在の千代田区平河町)に生まれました。二歳のとき、母志気に連れられ向島小梅町(現在の向島三丁目)に住む叔母の家に移りました。その後、明治四十一年に母が彫金師上條松吉と結婚し、向島中ノ郷町三十二番地(左図@)で暮らしはじめます。 更にその二年後には大水の影響で新小梅町二ノ四(同A)に移り、ここから牛島尋常小学校(同A)に通います。府立第三中学校(現在の都立両国高校)を卒業した辰雄は、室生犀星の紹介により同校の先輩である芥川龍之介を知り、文学的影響を受けます。関東大震災では九死に一生を得ますが、母を亡くしました。大正十三年(1924年)四月に父松吉が隅田公園東隣の新小梅町八番地(左図B)に住居を新築し、辰雄が結婚して軽井沢へ赴く昭和十三年(1938年)まで父と共にそこで暮らしました。辰雄の夫人多恵氏は随筆「蓮の花」の中でこの家を懐かしみ、「あの竹の植わっていた小さい玄関−辰雄はそんな自分の家を「雀のお宿」と呼んでいた」と記しています。 人生の過半を向島で過ごした辰雄は、「墓畔の家」や「幼年時代」などの作品に、当時の墨堤や近隣の寺社の様子を記しています。「神社の境内の奥まったところに、赤い涎かけをかけた石の牛が一ぴき臥てゐた。私はそのどこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった。」(「幼年時代」)とあるのは、牛嶋神社境内の撫牛のことです。昭和初期の文学の傑作として高い評価を受けた「聖家族」をはじめ、「風立ちぬ」「美しい村」など愛や生死をテーマとする作品を残し、昭和二十八年(1953年)に没しました。
堀辰雄の案内板の隣に、巨大な石碑が建っています。二峯先生とは、幕末から明治時代初期にかけて活躍した書家の高林二峯です。篆額「二峯先生之碑」は勝海舟の揮毫になるものです。
二峯先生之碑
二峯先生とは、幕末から明治時代初期にかけて活躍した書家の高林二峯のことです。二峯の生涯を称える内容が刻まれたこの碑は明治三十年(1897年)八月十六日に二峯が没した翌年の三月、円通寺(押上二)に建碑され、のちに現在地に移設されました。二峯は、文政二年(1819年)九月三日に上野国後閑村(群馬県安中市)に生まれました。生誕地より望める妙義・榛名の二山にちなみ二峯と号しました。幼少より書の才を現わし、天保十四年(1843年)には幕末の三筆と呼ばれた巻菱湖に師事しようと江戸に出ました。しかし、菱湖はすでに亡くなっていたので、二峯は中国の古筆の研究を進めやがて独自の書法を確立するに至ります。二峯の書は向島百花園の「しのふつか」、「きゃうけん塚」などの碑でも見ることができます。碑文を担当したのは長男の寛です。五峯と号し、父の書風を受け継ぎ、さらに中国の書に近世の諸流を学び、独特の書風を打ち立てました。篆額「二峯先生之碑」は勝海舟(勝安房)が受け持ちました。建碑の中心となったのは、今泉雄作です。東京美術学校(現在の東京藝術大学)創立者の一人で、二峯の弟子として文峯の号を名乗りました。庶務を担当した佐羽喜六は十一才で二峯に入門した後、桐生の豪商に婿入りして佐羽氏を継ぎ、桐生の近代織物業の発展に力を注ぎました。裏面に刻まれる建碑寄付者の中には、二峯の出身地とゆかりのある前橋市長竹内勝蔵や貴族院議員江原芳平などの名も見られます。
隅田公園のある風光明媚な向島界隈には著名な文人が多く住んでいました。案内板には、富田木歩・堀辰雄・佐多稲子が紹介されています。
向島界隈に暮らした文人たち
向島界隈には、明治以降多くの作家が住まいを構え、またこの地を訪れて向島での暮らしやその魅力を作品に残しました。俳人の富田木歩はこの地で生まれ、関東大震災(大正十二年【1923年】)で被災し、逃げ切れずに26歳で生涯を終えるまでこの地で過ごしました。両足が不自由で小学校に行けない中、「いろはがるた」や「めんこ」などで文字を覚えたと言われています。度重なる洪水被害や父の死去などにより生活が困窮する中で俳句を知り、俳句を通して新井声風という生涯の友を持ち、およそ二千句を残しました。さて、後ろを振り向いてみてください。堀辰雄の旧居跡がその辺りにありました。牛嶋尋常小学校(※1)から府立第三中学校(※2)に学び、中学校の先輩である芥川龍之介を師と仰ぎ、文学的な影響を多大に受けたといいます。「幼年時代」や「花を持てる女」には、幼いころに暮らした向島の風景が抒情的に描かれています。佐多稲子は、転居により11歳で牛嶋尋常小学校に転入したが、家計を支えるために1か月ほどで通学をやめ、キャラメル工場、料亭、メリヤス工場などで働き続けました。その時の経験が作品作りにつながっているようです。数々の文学賞を受賞した作品(小説)の始まりは、「キャラメル工場から」でした。戦前から作家として、また婦人活動家として活躍し続け、平成十年(1998年)に94年の生涯を終えました。その他にも、隅田公園の周りや向島には多くの文人が暮らしており、この地を訪れて作られた作品もあります。公園内外を散策しながら、その文人たちに思いを馳せ、折を見てその作品に触れてみてはいかがでしょうか。
※1:現在の区立言問小学校に併合
※2:現在の都立両国高等学校
"The writers who lived in the Mukojima area"
After the era of Meiji, many writers built their houses in the Mukojima
area or visited the Mukojima area, and they recorded the life in Mukojima
or its charm in their works. A notable haiku poet, Moppo Tomita was born in this area and had lived in this area until he passed away because of the disaster known as The Great Kanto Earthquake that occurred in the 12th year of Emperor Taisho' s reign (in 1923). He was unable to go to elementary school because he had difficulty walking, so it is said that he learned letters with "irohagaruta" or "menko". He discovered haiku while financially struggling with the death of his father and frequent damage caused by flooding. During this time and through haiku, he encountered Seifu Arai who became his best friend. Tomita created about 2,000 haiku. Then, please look back. The dwelling site of Tatsuo Hori, another celebrated writer, was around in the area behind you. He studied in Ushijima Jinjo elementary school and (prefectural 3rd) junior high school. He was literarily influenced by his junior high school' s upperclassman named Ryunosuke Akutagawa who he admired greatly. In his works "Yonenjidai (=childhood)" and "Hana wo Moteru Onnna (=a woman bringing a flower)", he lyrically described the scenery of Mukojima in where he lived in his childhood. Ineko Sata entered Ushijima Jinjo elementary school when she was 11 by the change of the address. However, she quit school shortly thereafter to support her financially struggling family. She worked in a caramel factory, a Japanese restaurant, and a knitting mill. These experiences influenced her later literary works. She achieved a lot of literary awards starting with "Kyarameru Kojo kara (From the Caramel Factory)". Sata achieved success as a writer and a female activist before the war. She died at the age of 94 during the 10th year of the Heisei era (=in 1998). As you can see, many writers used to live around Sumida Park and in the Mukojima area, and while visiting this place they wrote some literary pieces. While strolling in and outside the park, please consider these writers and experience their works.
牛島神社の脇から三ツ目通りに出ます。墨田区の案内板には、牛嶋神社が次のように紹介されています。
牛嶋神社
本所牛嶋の総鎮守社。境内には「なで牛」があり、心身快癒の祈願物として信仰されています。また、5年に1度の大祭では、鳳輦(牛車)を中心とする古式豊かな行列が、氏子五十町安泰祈願巡行を行います。
Ushijima-jinja Shrine
The precincts of Ushijima-jinja Shrine, the head Ushijima-jinja shrine, include a statue known as Nadeushi, or the "Touching Cow", which visitors touch while praying for physical and emotional healing. Once every five years, a procession incorporating a number of ancient rites centering on an elaborate ox-drawn cart winds its way through the surrounding area to pray for the peace and safety of its residents.
- ポイント3 見番通り
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三ツ目通りの起点となる言問橋東交差点で見番通りに入ります。見番通りの名前の由来は、置屋の見番所があるところから付けられたようです。「置屋」とは、芸者や遊女を抱えている家のことで、料亭・待合・茶屋などの客の求めに応じて芸者や遊女を差し向けるところです。「見番」とは、その土地の料理屋・芸者屋・待合の業者が集まってつくる三業組合の事務所の俗称をいいます。また、芸者を登録したり、客席に出る芸者の取り次ぎをしたり、玉代の計算などの事務を扱うこともあります。
見番通り
見番といわれる花柳界の組合があることから名づけられました。この通りには、向島墨堤組合(見番)のほか、長命寺や三囲神社などの神社仏閣が隣接し、また、北端には、王貞治氏が少年時代を過ごした隅田公園少年野球場があります。
Kemban-dori St.
This street is named for the Kenban, as the geisha association located there is colloquially known. In addition to the Mukojima Bokutei Kumiai Association (Kenban), the street abuts Chomeiji Temple, Mimeguri-jinja Shrine, and other shrines and temples. The Sumida-koen Park Youth Baseball ground, where Sadaharu
Oh played in his youth, is located at its northern terminus.
見番通りの北端には、向嶋墨堤組合の建物があります。
向嶋墨堤組合
江戸中期になると社会も安定し、連歌や俳諧などの会席が料理茶屋で開かれるようになった。こうした宴の席に華を添えるため、踊りや唄で客をもてなす芸妓が現れ、花柳界が誕生。以降、幕末まで大いに栄えた。しかし、明治に入ると、急速な近代化の中でこうした「江戸情緒」は徐々に失われていく。伝統や文化の喪失を惜しむ多くの文化人は、風光明媚な向島に居を移し、新たな文学や芸術を創造し、花街もかつての賑わいを取り戻していった。粋な空間で楽しむ「お座敷遊び」は、文人墨客に愛され、やがて一般の人にも波及していった。向島には、今なお料亭のお座敷と芸妓、舞や唄などの伝統芸能が脈々と継承されており、一種独特の文化圏が保たれている。向嶋墨堤組合は、料亭、置屋、芸妓衆など花街の統括管理が主な業務で、平成二十四年3月現在、16軒の料亭が加盟し、100名を越える芸妓衆が登録している。規模は都内随一で、作法、所作に始まり、お座敷でのおもてなしの心を身につけるために、西川流や猿若流などの日本舞踊の他、鳴物、清元、長唄、常磐津、笛を専属の師匠について修練している。
Affiliates include 16 restaurants and more than 100 geigi performers
Mukojima Bokutei Cooperative
Mukojima managed to resist the wave of modernization that swept Japan in the Meiji era, and retains the spirit of old Edo to this day. The Mukojima Bokutei Cooperative
works to preserve the historical district, schooling geigi-performing artists in the traditional arts and overseeing traditional restaurants.
見番通りから路地に入る角に「すみだ郷土文化会館」があります。
すみだ郷土文化資料館
隅田川を中心とした墨田区の歴史伝統文化を紹介し、その遺産を継承していくことを目的とした「ふるさと博物館」。保存資料はもとより、模型やマルチメディアなどを駆使しさまざまな趣向をこらして紹介されています。
Sumida Heritage Museum
This hometown museum was established to introduce visitors to the history and traditional culture of Sumida Ward with a focus on the Sumida River, thereby helping ensure that the area's rich legacy will be passed on to future generations. Visitors can enjoy a range of preserved historic materials as well as elaborate exhibits including models and multimedia displays.
入口の脇には、戦争中に墨田区で使用されていた防火用水の石桶が展示されています。
防火用水
岡本郁雄氏寄贈
防火用水は、空襲による被害を防ぐ目的で設置された用水桶です。戦時期に各家に配られた防空マニュアル「時局防空必携」(大日本防空協会発行)には、「空襲は必ず受けるもの」として、一戸あたり100リットル以上の水を常備する必要性が記されており、自治体や町会の指導の下で数多くの防火用水が設置されました。展示している防火用水は、本所区(現墨田区)東駒形の岡本家に昭和十七年〜昭和十八年(1942年〜1943年)ころ設置されたもので、戦時中はこの用水を用いて頻繁に防空訓練が行われていました。しかし、昭和二十年(1945年)3月10日の東京大空襲では、300機以上ものB29爆撃機によって想定をはるかに超える量の焼夷弾が投下され、猛火が町を襲ったため、用水の備えは全く役に立たなかったそうです。寄贈者の岡本氏は空襲の際、関東大震災の記憶を持つ母親の機転で、あらかじめ地域で決められていた避難所に避難せず、人の避難する方向とは反対の場所に避難したため、一命をとりとめましたが、住居は全焼し、この防火用水だけが焼け跡に残りました。戦後、多くの防火用水は廃棄され、現在では目にすることが難しくなっていますが、東京都内で最も大きな空襲被害を受けたこの地域の戦争の記憶を後世に伝える、貴重な資料であるといえます。
すみだ郷土文化資料館がある場所には、かって佐多稲子が住んでいました。
佐多稲子旧居跡
本名:佐田イネ(明治三十七年【1904年】6月1日〜平成十年【1998年】10月12日)
「キャラメル工場から」を雑誌「プロレタリア藝術」に発表。プロレタリア文学の新しい作家として認められる。戦後は、婦人民主クラブの創立に奔走、民主化運動に貢献した。作品は映画やテレビドラマになったものもある。昭和五十九年(1984年)に朝日賞受賞。
小学生の頃から利発な文学少女であったが、11歳の時に、結核で亡くなった母の治療費や父の放蕩などで家計はひっ迫。叔父を頼って、父、祖母とともに長崎から上京、向島小梅町52番地(現在、隅田公園内)の家に身を寄せることになる。牛嶋尋常小学校5年に転入したものの、家計を助けるために、キャラメル工場で働かなければならず、結局、小学校は5年で中退してしまった。その後、料亭、工場、書店などで働きながら、小説や短歌を投稿。これらの経験が、後に「キャラメル工場から」という作品にまとめられ、出世作となった。戦後、すぐに書かれた自叙伝ともいえる「私の東京地図」には、長く暮らした向島周辺のことが書かれている。「私の地図の、江戸案内の版画的風景には、三囲神社も書かれている。いつもひっそりとしていた神社だ。淀んだどぶ池のそばに、閉めたままの障子の白さを見せていたのは其角の家だ、と子ども心にも知っていた」
A leading figure in women's proletarian literature
Residence of Sata Ineko
Sata Ineko (1904-1998) launched her career with the novella From the Caramel Factory, and soon became part of the new wave of proletarian literature. After WWII she strove to establish the Women's Democratic Club, contributing significantly to the democratization movement in Japan.
- ポイント4 三囲神社
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見番通りに面して三囲神社(みめぐりじんじゃ)があります。墨田区の案内板には次のように紹介されています。
三囲神社
元禄六年(1693年)の江戸かんばつの折、俳人・宝井其角が句を詠み奉納すると、翌日大雨が降ったと伝えられています。境内には、「雨乞いの句碑」があります。また、隅田川七福神の恵比寿・大国神が祀られています。
Mimeguri-jinja Shrine (Sumidagawa-shichifukujin)
Haiku poet Takarai Kikaku is said to have dedicated a reading of his poem here as an offering during the Edo drought of 1693, triggering a great rain the following
day. The shrine's precincts include a haiku-inscribed statue memorializing this event. The shrine is dedicated to Daikokuten (the god of wealth, farmers, agriculture, rice, and the kitchen) and Ebisu (the god of fishermen, good luck, and workingmen), two of the seven gods of fortune associated with the Sumida-gawa River.
三囲神社の創立年代は不詳ですが、当初は田中稲荷と称していました。言い伝えによれば、近江国三井寺の僧源慶が当地に遍歴した際に小さな祠のいわれを聞き、社壇を改築しようと掘ったところ壺が出土しました。その中に、右手に宝珠を、左手にイネを持ち、白狐に跨った老爺の神像がありました。このとき、白狐がどこからともなく現れ、その神像の回りを3度回って死にましだ。これが「三囲」の名称の由来とされています。元禄六年(1693年)に起きた旱魃の際、俳人宝井其角が偶然当地を訪れました。地元の人々の哀願により、この神に雨乞いする者に代わって、「遊(ゆ)ふた地や 田を見めくりの 神ならは」と一句を神前に奉ったところ、翌日になって雨が振りました。このことから三囲神社の名は広まり、松阪の豪商・三井氏が江戸に進出した際に守護神として崇め、越後屋の本支店に分霊を奉祀しました。元々は牛嶋神社の隣にありましたが、洪水で流され、隅田川に堤が築かれることになった時に南へ少し移動しました。その堤のために、対岸から見ると鳥居が堤から奇妙に頭だけ出しているように見え、浮世絵などに好んで描かれました。
三囲神社
弘法大師が祀ったという田中稲荷が始まりとされる。当時は、現在地より北の田んぼの中にあった。文和年間(1352年〜1356年)に近江の三井寺の僧である源慶が社を改築した折、土中から白狐にまたがる老翁の像を発見。その像の周りをどこからともなく現われた白狐が、三度回って消えたという縁起から「三囲」の名がつけられた。三井家は江戸進出時にその名にあやかって守護神とし、平成二十一年(2009年)に三越池袋店の閉店に伴い、シンボルだった青銅製のライオン像が境内に移設された。日照りが続いていた元禄六年(1693年)、俳人宝井其角が能因法師や小野小町の故事に倣い、「ゆたか」を頭字に詠みこんだ
「ゆふだちや 田を見めぐりの 神ならば」
の句を献じたところ、翌日には雨が降り評判になったという話が伝わっている。
Home to the guardian deity of the Mitsui family
Mimeguri Shrine
This shrine was choosen by the great merchant family Mitsui when they started operating in Tokyo. "Mimeguri" means "three times around". It derives from a 1300s legend about a priest Genkei in West Japan who witnessed a magical white fox running around a recently unearthed sculpture of an old man mounted on a white fox three times, and then disappearing.
神社の石垣には、三越の創始者だった日比美勲の歌が彫られています。
日比翁助 石垣の歌碑
いしがきの 小石大石持合ひて 御代は
ゆるがぬ 松ヶ枝の色 日比美勲
日比翁助は号を美勲と称し、三越呉服店の会長・わが国近代的百貨店の創始者であった。茲来百年、松を新たに植え、旧観を復した。
鬼平犯科帳でも登場しています。
三囲神社(三囲稲荷社)
三井家(越後屋)が江戸進出時に三囲の名にあやかって守護神としました。港区にあった三井八郎右衛門邸が小金井市の江戸東京たてもの園に移築される際には、屋敷神であった顕名霊社、三角鳥居、家紋の入った水鉢などが寄贈されました。鬼平犯科帳にも数回、登場しますが、特別長編「迷路」の「妙法寺の九十郎」には、三囲稲荷社は、大川の堤の道を一段下った鳥居から田圃の中を松並木の参道が東に伸びた先にあり、境内は広くはないが、美しい木立と竹林に囲まれ、本社は立派なものであると、当時のたたずまいが描かれています。
境内に入ると、右手に古い石造物が建っています。
最古の紀年銘
藤堂高睦(伊賀上野城主)が宝永三年(1707年)に奉納した当神社で最も古い年代を示す石造物
昭和十七年(1942年)に建てられた三圍講による三囲神社の由緒書が石碑に刻まれています。
由緒
一 東京市本所區向島二丁目七番地鎮座
一 村社 三圍神社
一 御祭神 宇迦能魂命
一 御祭日 例祭 四月九日
三井總元方 三井銀行 三井物産株式會社 三井鉱山株式會社 株式會社三越
右總元方始め各株式會社交替に正五九の小祭を受持ち昔の例の儘に祭祀を執り行ふ
當社の草創は実に壹千餘年前の事にして其間(しばしば)の変遷あり。元亀年間大災に罹り社殿を再建し、慶長年間には隅田川築堤に際し旧社地より約南二丁の現地に移さる。霊験妙なるが中にも元禄六年六月の大旱魃の時俳聖其角献句雨乞によりて霊験立ちどころに顕れ、翌日大雨あり。之より御神徳天下に普く。特に京都の巨商三井家江戸に進出するや三圍大神の信仰厚く當家の守護神と仰ぎ、享保元年三井高治・三井高久・三井高房相議りて神祇の司職吉田家に神位を乞。請け捧け奉り又享保十二年五月には従二位卜部朝臣兼敬に請ひて更に霊璽を當社に遷し、鎮め奉り田地を捧げ社地を拡張し、神殿瑞垣を改築せり。爾来二百餘年子孫代々祖先の志を継ぎ、敬神以て今日に至る迄昔の隋々に當社の維持経営に努め、又三圍講を創設して祭祀に力を致す。境内末社多く中にも大國神・恵比寿神は隅田川七福神の一として其名高く、額殿に奉掲せる額は三井家に関係のもの大部を占め、又樹間に(テン)綴せる諸名家の碑石は其の数多く興趣掬すべし。
大旱魃の折、宝井其角が読んだ句が石碑に刻まれています。
<墨田区登録文化財>
宝井其角「ゆふたちや」の句碑(雨乞の碑)
元禄六年(1693年)は大変な干ばつで、秋の収穫を心配して困りきった小梅村の人々は三囲神社に集まり、鉦や太鼓を打ち雨乞いをしていました。ちょうど三囲神社に詣でた俳人其角が、このありさまをみて、能因法師などの雨乞の故事にならい「遊ふた地や田を見めぐりの神ならば」と詠んだのです。この話は其角自選句集の「五元集」にも「うたえば翌日雨降る」と記されているように、早速効果があったと伝えられています。其角は寛文元年(1661年)江戸に生まれ、姓を榎本、のちに宝井と称し、芭蕉門下第一の高弟として知られ、とくに洒落風の句を得意としました。この碑は安永六年(1777年)に建立されたものが摩滅したので、明治六年(1873年)に再建されたものです。
おとなしそうに鎮座した狛犬がいます。
三囲のコンコンさん
目尻のさがった温和な表情をここいら辺の職人言葉で「みめぐりのコンコンさんみてぇだ」と言ったそうである。向店は越後屋本店(ほんだな)の道をへだてた向いにあって木綿を主に扱っていた。
享和二年(1802年)の奉納
三越のシンボルであるライオン像があります。
三囲のライオン像
三越の旧池袋店から移した三越のシンボルであるライオン像は、大正三年当時の三越呉服店を率いた日比翁助がライオンを大いに好み、三越本店に一対のライオン像を据えたのにはじまる。戦後、本店の像をもとに各支店に設置されているライオン像の原形はロンドン・トラファルガー広場の有名なネルソン像をかこむライオンである。なお「現金安売り掛け値なし」という三井の越後屋の画期的な商売の仕方は大いに発展し、明治二十九年三越呉服店につながる。
ライオン像の右側には、三越の商標を彫り込んだ石造物が置かれています。
- (右)
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【越】は三越の商標。客に出す茶の湯を沸かす銅壷の台石に彫られ、【越】の範形といわれる。明治二十九年から昭和の初期まで実際につかわれていた。
- (左)
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ライオンは東洋的意匠の狛犬に変化したのだが、三越のライオン像も狛犬のように神前を守っている。
三囲神社は、享保年間に三井家が江戸における守護社として定めました。三井家は、「三囲」が「三井」の井を囲う→「三井を守る」として、「越後屋(現在の三越)」の本支店に三囲神社の分霊を祀り、大いに崇敬をしました。享保元年(1716年)に正一位の神階を賜り、享保八年(1723年)に三井家三代目当主である三井高房によって社殿が造営され境内整備が行われました。こうして小梅村の鎮守としてだけでなく、江戸を代表する豪商である三井家の守護社として崇敬を集めることとなりました。明治六年に社号を「三囲稲荷社」から「三囲神社」に改称しました。明治十七年には社殿の大修繕が行われ、この時の社殿が現存しています。社殿前の石灯籠の火袋には三つ穴(「∴」)の文様が入っています。右側の石灯籠が欠けているようですが。
三囲神社は、隅田川七福神のうち大國神と恵比寿神の二神を祀っています。ちなみに、大國神と大黒天は元は全く別の神様です。大國神は日本の神話に登場する大国主命(おおくにぬしのみこと)で、日本の神様です。地主神社の主祭神でもあり、縁結びの神・土地守護の神として篤い信仰を集めています。一方の大黒天はマハーカーラという荒々しいインドの神で、日本に伝わって密教の守護神となり、お寺の台所や食堂の神として祭られました。七福神の「だいこくさま」は大黒天の方になります。七福神のうち日本起源の神様は、恵比須神だけです。寺院で祭られる「だいこくさま」は外来の神の大黒天で、神社では大國神(大国主命)となります。
隅田川七福神コース案内板
三圍神社 大國神 恵比寿神
三圍神社の別殿には、古くから大國、恵比寿二神の神像が奉安されている。もとは三井の越後屋(今の三越)にまつられていたものである。江戸時代の終り頃、町人層の好みが世間のさまざまな分野で表面に現れ、多くの人びとによって支持された時代の流れの中で、隅田川七福神が創始されたとき、当社の二神もその中に組み込まれたのであった。大國神は慈悲円満と富貴の表徴、恵比寿神は豊漁をもたらす神、商家の繁栄を授ける神として、庶民の信仰を集め、その似かよった御神徳から一対の神として崇められることが多い。大國を同じ音の大黒とも書く。
境内には多くの句碑が建っています。
宗因白露の句碑
「白露や無分別なる置きどころ」と刻まれています。文化九年(1812年)、西山宗因の流れをくむ素外らが発起人となり、始祖宗因の作品中でもっともすぐれたこの句を選んで建立したものです。宗因は慶長十年(1605年)肥後(現熊本県)に生まれた江戸時代初期の著名な連歌師、俳人です。連歌では主に宗因、俳諧では一幽、西翁、梅翁などと称しました。のちに大阪天満宮の連歌所宗匠の職につき、連歌界の重鎮として知られました。俳諧を始めたのは晩年に近く、あくまで余技としてでした。詠みぶりは軽妙洒脱、急速に俳壇の人気を集め、談林俳諧勃興の起因となった人で、芭蕉は「此道中興開山なり」と記しています。
三囲神社の隅田川に面した鳥居は堤の下に建っていますが、それでも鳥居の上部は対岸から眺められたのでしょう。
<墨田区登録文化財>
堤下の大鳥居と竹屋の渡し
隅田川七福神めぐりや桜の花見など、墨堤の散策は行楽好きの江戸市民に人気がありました。そのランドマークのひとつとされたのが三囲神社の鳥居で、堤下の大鳥居として親しまれていました。土手の下にあったにもかかわらず、対岸からでも鳥居の貫より上が見られるほどの大きなもので、桜の咲く頃に花に囲まれて見える様はたいへん風情があり、歌舞伎の背景や多くの浮世絵などの題材として描かれています。現在のものは文久二年(1862年)の建立です。三囲参詣には吾妻橋を利用する場合と、隅田川を舟で渡る方法とがありました。渡しは、ちょうどこの大
鳥居がある土手下辺りの岸と、浅草山谷堀入口の待乳山下とを結ぶもので、竹屋の渡しと呼ばれていました。竹屋の渡しの名は、山谷堀側の船宿「竹屋」に由来します。墨堤側には「都鳥」という掛茶屋があり、舟を出してもらうために「たけやー」と呼びかける女将の美声が参詣客の評判であったとも伝えられています。昭和五年(1930年)、言問橋の開通により、この渡しは廃止されました。
三角形のミニ鳥居が移設されています。
三角石鳥居
三井邸より移す。原形は京都太秦・木島神社にある。
隅田公園に碑があった富田木歩の句碑が建っています。富田木歩は2歳の時に高熱を発した後、両足が不自由になり歩くことが出来なくなりました。身体の障害と貧困のために小学校に通うことが出来ず、カルタやメンコで文字を覚えました。姉たちは花街に身を売られて芸妓となり、父が亡くなり、弟が結核で逝き、花街に身を売られ半玉になった妹も結核に倒れ、木歩も感染し、やがて母が亡くなるという過酷な境涯を送りました。句には、「亡き人々を夢に見て」との前書きがあります。大切な家族を次々と失った木歩は、亡き人々のことをふと夢に見ることがあったのでしょう。冬の木立を吹き抜けていく冷たい風の音を聞きながら、木歩は昨夜の夢を静かに反芻しているのでしょう。たとえ夢の中でのこととはいえ、亡くなった家族や親しい人と再会できたのです。それはどれほど懐かしく、嬉しい再会であったことでしょう。「夢に見れば死もなつかしや」と詠み、死の側・あの世の側から己の人生を照らし出すという木歩の心を占める思いは、死というものに対する親しさや懐かしさでした。しかし、たとえ這って動く生活だとしても、家族を次々に失ったとしても、どんな過酷な運命を与えられたとしても、木歩は生きるということを放棄したりはしませんでした。木歩の人生とは、ただひたすら運命を「受け容れる」人生だったのではないでしょうか。平明な言葉で、誰にでも分かる表現で、己の境涯を深々見詰め、言葉に紡ぐ木歩。その簡潔な言葉が読む人の心に自然に静かに浸透してきます。
富田木歩句碑
夢に見れば死もなつかしや冬木風
(裏面)
大正拾参年九月一日の一周年に於て富田木歩慰霊の為建之 友人一同
親子のような石像が祀られています。老夫婦の像だそうです。
老翁老嫗の石像
元禄の頃、この三囲稲荷にある白狐祠を守る老夫婦がいました。願い事のある人は老婆に頼み、老婆は田んぼに向かって狐を呼びます。すると、どこからともなく狐が現れて願い事を聞き、またいずれかへ姿を消してしまうのです。不思議なことに、他の人が呼んでも決して現れることがなかったそうです。俳人其角は、そのありさまを「早稲酒や狐呼び出す姥が許」と詠んでいます。老婆の没後、里人や信仰者がその徳を慕って建てたのが、この老夫婦の石像であると伝えられています。老嫗像には「大徳芳感」、老翁像には「元禄十四年辛巳五月十八日、四野宮大和時永、生国上州安中、居住武州小梅町」と刻まれています。
見番通りに面して赤煉瓦塀があります。今は駐車場になっているようですが、煉瓦工場にしては狭すぎるし、個人宅にしては立派過ぎるし、元は何だったのでしょうか?
桜橋通りと交差する手前に、喫茶店風の小さなお店があります。生ジュースとくるみパンが人気でしたが、建物の老朽化で外壁が崩壊したため、2023年7月30日に営業を終了し、日立の方に移転したそうです。確かに、外壁を保護するネットが張られていましたもんね。
桜橋通りに面した「あんみつの深緑堂」は、和の甘味が楽しめる甘味処です。看板メニューは店名の通り、1日50個限定の「あんみつ」です。ジューシーなあんずや食感の良い寒天、もちっと弾力のある白玉など、あんみつを構成するトッピングの一つひとつにこだわっています。カウンターと小さなテーブルが2つのこじんまりとした店内はどこか懐かしく落ち着ける雰囲気です。カウンターに座ると、甘味が作り上げられていく工程もライブで見ることができ、待ち時間も楽しめます。「あんみつ」はひとつのお碗に沢山の拘りが込められ、瑞々しい半透明の寒天はつるんと滑らかな歯ごたえがあり、伝統的な製法で丁寧に皮を取り除いたこしあんや、注文を受けてから茹でる白玉、信州産の干し杏と胡桃が華やかに彩ります。
かっての地名である「小梅」についての案内板があります。この辺り一帯には、「小梅」が付く地名・橋名・学校名が多くあります。
すみだゆかりの地名 小梅
【名の由来】
江戸時代、このあたりから北十間川にいたる一帯は小梅村と呼ばれていました。三囲神社の縁起によると、弘法大師が投じた一粒の梅がこの付近に落ち、梅香原と呼ばれるようになったというのが巷間伝わる名の由来です。江戸時代後期に鍬形寫ヨが描いた「江戸名所之絵」には「コムメ」とあり「こんめ」と呼んでいたことがわかります。
【 村の様子】
三井家(越後屋)が江戸進出時にその名にあやかって守護神とした三囲神社、天英院(徳川6代将軍家宣正室)が帰依した常泉寺、水戸徳川家の下屋敷の他、桜の名所の墨堤も近くにあり、浮世絵にも描かれた有名料亭も周辺に数多くありました。文人墨客たちが集い、俳人の小林一茶は「水鳥の住こなしたり小梅筋」「鍬のえに鶯鳴くや小梅村」と詠み、浮世絵師の歌川広重は「名所江戸百景」や「江戸高名会亭尽」で、当時の情景を巧みに描いています。
本所高等学校の裏手には、江戸時代に越後長岡藩の広大な抱屋敷がありました。
越後長岡藩抱屋敷跡
【越後長岡藩】
元和四年(1618年)、牧野忠成が立藩、以来13代続いた譜代大名です。石高は7.4万石ですが、常に幕閣の中核を担い、幕末には9代忠精、10代忠雅、11代忠恭が続けて老中を務めました。その抱屋敷が小梅村(本所高校西側一帯)にあり、敷地は6、760坪という広大なものでした。しかし、戊(北越)戦争では忠恭に仕えた家老・河井継之助の奮闘空しく敗れ、2.4万石に減封、廃藩置県の前年、明治三年(1870年)には藩が廃されました。
【抱屋敷】
江戸時代、全国300諸侯は参勤のため幕府より使途に応じた屋敷を拝領していました。藩主の住む上屋敷、隠居・世継用の中屋敷、物資の保管や保養先の下屋敷などです。これらに対し、抱屋敷は藩自らが農地などを購入して設けたもので、大半は郊外にあり、個人の調度品などを保管したり、時には下屋敷としての用途にも充てられていました。
本所高等学校は、「本所」ではなくここ向島にあります。元々は、昭和六年(1931年)に本所区第一実業女学校として創立され、昭和二十一年(1946年)に現在の住所である牛島尋常小学校跡に移転したのが校名の由来です。校門付近に牛島尋常小学校跡の説明板が設置されています。
牛嶋字校跡
所在 都立本所高等学校内
明治五年(1872年)学制が発布され、近代的教育制度が始まったわずか六カ月後の同六年(1873年)三月二十二日、須崎村(現在の向島二丁目)に公立小学校が設立されました。それが牛嶋学校です。明治十四年(1881年)九月に現在地に移転しました。牛嶋学校は、周辺の人々の教育に対する関心の高さから、公立小学校としては本区で最も早く設立されました。当時、牛嶋学校への寄付者は、須崎村にとどまらず、中ノ郷・小梅村など、現在の向島全域にも及びました。昭和十六年(1941年)、牛島国民学校となりましたが、同二十年(1945年)三月十日の大空襲によって全焼しました。戦後廃校が決まり、同二十一年(1946年)、七十三年間の歴史を閉じましたが、この間堀辰雄・佐多稲子ら多くの著名人を輩出しました。また榎本武揚の筆による「牛嶋学校」の扁額(墨田区登録文化財)が戦災をまぬがれ、現在、すみだ郷土文化資料館に保存されています。そして、昭和二十一年四月、廃校となった牛島国民学校跡に東京都立本所高等女学校が転入開校し、二十三年四月に新制本所高等学校となりました。
本所高等学校の敷地の端辺りに、森鴎外住居跡の案内板が立っています。ちなみに、本所高等学校前のバス停の名称は「森鴎外住居跡」です。本所高等学校に用事のある乗客は下車ボタンを押し忘れるかも。
森鴎外住居跡
文久二年(1862年)に現在の島根県津和野町に生まれた森鴎外(本名林太郎)は、明治五年(1872年)十歳の時に父静男に随い上京しました。初めに向島小梅村の旧津和野藩主亀井家下屋敷、翌月からは屋敷近くの小梅村八七番の借家で暮らすようになり、翌年上京した家族とともに三年後には小梅村二三七番にあった三百坪の隠居所を購入して移り住みました。茅葺の家の門から玄関までの間には大きな芭蕉があり、鴎外が毛筆で写生したという庭は笠松や梅、楓などが植えられた情緒的で凝った造りでした。この向島の家のことを森家では「曳舟通りの家」と呼び、千住に転居する明治十二年まで暮らしました。父の意思で学業に専念する道をつけられた鴎外は、上京二か月後には西周宅に下宿して進文学社でドイツ語を学ぶ日々を過ごし、東京医学校予科(現東京大学医学部)に入学しました。明治九年以後は寄宿舎生活となりましたが、曳舟通りの家には毎週帰り、時おり向島の依田学海邸を訪れて漢学の指導を受けていました。鴎外の代表作「渋江抽斎」には「わたくしは幼い頃向島小梅村に住んでいた」と記し、弘福寺や常泉寺などがある周辺の様子や人々についても詳しく書き残しています。また、明治十年代に原稿用紙に用いたという「牽舟居士」の号は近くを流れていた曳舟川(現在の曳舟川通り)にちなむものでした。鴎外にとって、向島小梅村周辺での生活は短いものでしたが、思い出深い地として記憶にとどめられていたようです。
The Site of the Former Residence of Mori Ogai
Mori Ogai (born as Mori Rintaro) was one of modern Japan's preeminent novelists who also served as a medical officer in the Imperial Japanese Army. Born in 1862 in the town currently known as Tsuwano in Shimane Prefecture, Ogai accompanied his father Shizuo to Tokyo when he was 10. years old. Up until relocating to Senju in 1879, the Mori Family resided here, when it was still called Koume-Mura. After changing residences twice in Koume-Mura, they finally purchased and settled in a thatched-roof house with a spacious garden. This garden, said to have been the object of sketches. by Ogai, was a highly sentimental, sophisticated construction containing the likes of well-trained pine trees, Japanese apricots, and maple trees. This residence in Mukojima was called "the house on Hikifune Dori" by the Mori Family. In accordance with the will of his father, Ogai was placed on a path of academic learning. Two months after coming to Tokyo, he boarded at the home of renowned philosopher Nishi Amame to receive tutoring in German in a "Shinbungakusha", and subsequently enrolled in what is now the Faculty of Medicine at the University of Tokyo. Through he went on to live a boarding student life in this fashion, he would return to "the house on Hikifune-Dori" every week, and would occasionally undergo instruction in the Chinese classics at the home of Sinology scholar Yoda Gakkai in Mukojima. In one of his leading works, "Shibue Chusai," Ogai left detailed passages regarding the people and world that surrounded him, writing, "When I was little, I lived in Mukojima's Koume-Mura." Of additional note is that the penname "Hikifune Koji" that Ogai used during the second decade of the Meiji Period comes from "Hikifunegawa" (now Hikifukegawa-Dori), the river that flowed close to his home. While the time in his life that he
spent around Mukojima's Koume-Mura was short, one can see just how deeply that place resonated in his memory.
もうひとつの案内板が桜橋通りの反対側の歩道脇に設置されています。
森鴎外旧居跡
森鴎外〔文久二年(1862年)〜大正十一年(1922年)〕 本名、森林太郎。
陸軍軍医、小説家、評論家、翻訳家。代表作に「舞姫」、「阿部一族」、「高瀬舟」など。
森家は津和野藩主亀井家の御典医を務めていました。明治五年(1872年)、鴎外は亀井家に請われた父に従い上京、向島の同家屋敷に入った後、すぐ小梅村に転居します。同年8月には、勉学のため神田にあった親戚筋の西周邸に寓し、明治七年(1874年)に東京医学学校予科に入学、同九年(1876年)に同校の寄宿舎に移りました。向島での生活は短いものでしたが、深い愛着があったようで、「わたくしは幼い頃向島小梅村に住んでいた。」(「渋江抽斎」)と幼時の記憶を綴っており、妹の喜美子は、ペンネームを鴎外の他にも「牽舟居士」を使用していたと述懐しています。道路を挟んだ向かいの本所高校前には「森鴎外住居跡」史跡説明板が設置されています。
墨田中学校前交差点を右折して、桜橋通りから小梅通りに入ります。
通りに面して「かめぱん向島店」があります。
1952年に立花で創業し、2005年10月に向島店をオープンしました。当初の店名は「石窯パン工房KAMEYA」でしたが、現在は「かめぱん」になっています。
「かめぱん」はベーカリーカフェで、石窯で焼いたおいしいパンが沢山揃っています。煮込みハンバーガー・カレーパン・明太子フィセルなどの惣菜パンやクリームパンなどの甘いパンも美味しいです。食パンも何種類かあり、お手頃価格です。一番人気は、カレー番長(カレーパン)と明太マドンナ(明太フランス)だとか。
小梅通り西交差点を左折し、とうきょうスカイツリー駅北交差点で曳舟川通りを横断します。交差点の角に舟形をしたコンクリート製の案内碑が置かれています。
曳舟川通りの名称の由来となった「曳舟」とは、水路に浮かべた船を水路沿いの陸路から牽引する船引きのことです。
曳舟川の由来
曳舟川は、徳川幕府が本所開拓に伴う上水として、万治二年(1659年)に開削したものです。当時は本所上水、亀有上水などと呼ばれ、瓦曽根(現越谷市)の溜井から分水して、亀有から四ツ木をへて本所と深川の各地に配水されたようです。その後、享保七年(1722年)に上水としては利用されなくなりましたが、川筋の脇を四ツ木街道が通り水戸街道に接続しているため、次第に重要な交通路として利用されるようになりました。この川が「曳舟川」と呼ばれるようになったのは、「サッパコ」と呼ばれる田舟のような舟に旅人を乗せ、岸から引かせたことによるものです。また、曳舟川には古くから多くの橋が架けられており、薬師橋、鶴土手橋、地蔵橋、庚申橋などの名前が文献に見られますが、この付近(小梅児童遊園)にも八反目橋が架けられていました。この辺りの小梅という地名は、元は梅香原と呼ばれる海の木の多い地域だったことによるもので、八反目の名も八反梅(80アールの梅林)から来ているとの説もあります。昭和二十九年六月東京都告示によって川としての役割は廃止され、昭和三十年代を中心に埋め立てられて、道路として整備されました。
ゴール地点のとうきょうスカイツリー駅に戻ってきました。
ということで、すみだウォーキングマップ2021年版で最初のコースである「@新たな観光名所と向島の風情あるまち並みをぐるりとめぐる」を歩き終えました。次はすみだウォーキングマップ2021年版で二番目のコースである「Aアクセス抜群のエリアで都会のオアシスをめぐる」を歩きます。
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