- Aアクセス抜群のエリアで都会のオアシスをめぐる
- コース 踏破記
- 今日は墨田区の「Aアクセス抜群のエリアで都会のオアシスをめぐる」を歩きます。錦糸町駅を起点にして、錦糸堀公園のカッパ像に挨拶し、大横川親水公園をちょっとだけ歩き、北斎通りを経由して錦糸公園を一周します。最初に歩いたのは2022年の3月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年7月に改めて歩きました。
Aアクセス抜群のエリアで都会のオアシスをめぐる
錦糸町エリアは駅周辺に緑あふれる公園や「本所七不思議」ゆかりのスポットがあります。道路が碁盤の目のように整備されていて歩きやすいコースです。
「Aアクセス抜群のエリアで都会のオアシスをめぐる」の歩行距離は約3.4km(約4、800歩)、歩行時間は約50分、消費カロリーは約150Kcalです。
スタート地点:JR総武線錦糸町駅南口
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- ポイント1 錦糸堀公園
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魚をかついだカッパ像がシンボル。江戸時代の怪奇談「本所七不思議」の「置いてけ堀」の舞台とされています。
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- ポイント2 大横川親水公園
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錦糸町から東京スカイツリーまでを結ぶ公園。桜や紅葉など四季折々の景色を楽しむことができます。
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- ポイント3 すみだトリフォニーホール
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平成九年にオープンした、本格的な音楽専門のコンサートホール。新日本フィルハーモニー交響楽団の活動拠点でもあります。
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- ポイント4 錦糸公園
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公園内には芝生や遊具、噴水があるほか、野球場や体育館も併設され、子どもから大人まで楽しむことができます。
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ゴール地点:JR総武線錦糸町駅南口
スタート地点のJR総武線錦糸町駅南口から歩き始めます。
錦糸町は東京の東部を代表する繁華街です(北部は赤羽、西部は八王子)。四つ目通りを挟んで、JR錦糸町駅ビルと娯楽の殿堂楽天地が並んでいます。楽天地は、昭和十二年(1937年)に江東楽天地という名称で錦糸町駅前に開業しました。周辺の映画館を集め、遊戯施設の他、吉本興業と提携した江東花月劇場も誘致され、総合レジャー施設となりました。戦後はキャバレーや場外馬券売り場も設けられ、大人の娯楽施設として発展してきました。中年以降の年代には、天然温泉とボーリング場が記憶に残っているかもしれません。現在は、地下にスーパーの西友、残りのフロアは錦糸町パルコとなっています。温泉や映画館も健在です。
- ポイント1 錦糸堀公園
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江東橋四丁目交差点を右折した先に錦糸堀公園があります。錦糸堀公園は昭和二十五年(1950年)に開園した街中の公園です。面積1、680平方メートルの土の広場に、木製のジャングルジムや、ブランコ・すべり台・フェンス付砂場などの遊具が点在しています。
敷地内の一角には、可愛らしい「かっぱ像」が建っています。墨田区の案内板には次のように紹介されています。
カッパ像(おいてけ堀)
本所七不思議のひとつ「おいてけ堀」。魚を釣って帰ろうとした釣り人が堀の中から「おいてけ〜」という声に驚き、魚を放り出して逃げたという話で、舞台とされる今の錦糸堀公園に、声の主といわれるカッパ像があります。
'Kappa' (from the Story of Oiteke-bori)
Once a local who was returning home with his catch taken from the hori (moat) was startled by a voice saying "leave'em" (oiteke). Tossing back the fish the man ran for his life. The voice was none other than a legendary kappa whose
statue now marks the spot in Kinshibori-koen Park where the incident took place. One of the 'seven strange encounters' of the Honjo area.
台座のレリーフに書いてある文章と案内板の解説は微妙に異なっています。
おいてけ堀「河童」の由来
(本所七不思議の一つ)
その昔、本所周辺には淋しい掘割が沢山ありました。その掘割の一つでは、たくさんの魚が釣れました。ある日の夕方、釣り人が魚を釣って帰ろうとすると、背中が、ゾク ゾクと寒けがします。すると、堀の中から「おいてけ!」「おいてけ!」の声。釣り人は、びっくり仰天。魚を置いて一目散に逃げ出しました。何人もが、このような経験をしたため、いつとはなく、この掘割を、おいてけ堀(錦糸堀)と、呼ぶようになりました。この声の主こそ河童とも狸とも伝えられています。
歩道のタイルにも、おいてけ堀のイラストが描かれています。
四ツ目通りに出て錦糸町駅前交差点を左折する手前に、人形焼きの山田屋があります。戦後間もない昭和二十六年、先代の山田実が鶏卵卸問屋を創業しました。甘いものが高価で贅沢だった当時、復興を目指す人々に評判を呼んでいたのが浅草界隈の人形焼でした。この人気ぶりに先代が目を付け、自らも人形焼をつくり始めたことで、人形焼の山田家の歴史が始まりました。山田屋の人形焼きは、自慢の卵を使った生地に、最上級のコシ餡がたっぷり入っています。自らも甘党であり、職人気質で頑固一徹の先代が作る人形焼は味にも価格にもうるさい下町っ子に評判を呼び、瞬く間に錦糸町の名物になりました。先代が拘った味と想いは、いまも二代目に受け継がれています。
京葉道路に面して、魚寅という魚屋さんがあります。刺身・切り身・干物・練り製品に寿司と、魚なら何でも売られています。名物は店頭で販売されている鮪と蛸のぶつ切りです。品が良いのと値段が安いのとで、ぶつ切りコーナーには常に行列ができる盛況ぶりです。私は入ったことはありませんが、2階にはお寿司割烹があるみたいです。お値段はそこそこするみたいですけど、一度は三崎港直送の鮪を味わってみたいものです。
魚寅に隣り合って、錦糸町マルイのビルが建っています。錦糸町マルイ(旧丸井錦糸町店)は昭和五十八年(1983年)9月2日に、かつて城東地区における東京都交通局の一大拠点であった都電錦糸堀車庫跡に開店しました。売場面積は22、990uあり、1階には”味の本所小路”、7階には”錦糸町ダイニング0141”(レストラン街)があります。また、地下には平成二十九年(2017年)6月にオープンしたジャパンミート生鮮館があります。ジャパンミートは「肉のハナマサ」を傘下にしていることもあって、松阪牛やイベリコ豚などの高級肉も販売されています。特筆すべきはワインの安さです。スペイン産のスパークリングワインは、シャンパーニュ地方のシャンパンと同じく、瓶内二次発酵を行っているので味はシャンパンと遜色なく、しかもお手頃価格です。
錦糸町マルイの8階と9階に、「すみだ産業会館」が入っています。すみだ産業会館は、少人数の会議や打ち合わせから、大規模展示会・講演会までさまざまな用途で利用できる墨田区の公共施設です。8階にある展示室(サンライズホール)は、最大1200uのホールを4つのタイプに変更でき、イベントの規模に合った広さで利用することが可能となっています。新製品発表会・見本市・講習会・祝賀パーティー・ダンス会場など、様々な個性豊かな催しを盛り上げる会場です。9階には人数に応じて6タイプから選べる会議室があります。
江東橋の手前に、都立両国高等学校・附属中学校があります。旧制府立三中を前身とし、1950年代〜1960年代は第六学区のトップ校として東京大学合格者を40名〜60名前後輩出し、当時は千葉県からの越境通学者も多く、広範囲から優秀な生徒が集まっていました。平成十八年度から附属中学(3クラス・男女計120名)が開校し、高等学校において生徒を募集しない完全中高一貫校に移行しました。中学受験においては都立中高一貫校の中でも高い難易度を維持していて、小石川・武蔵と共に「都立中御三家」と呼ばれているそうです。
校庭には、1986年に建立された四角い黒い石材に「国産マッチ発祥の地」と刻まれた記念碑が建っています。清水誠が設立した日本最初のマッチ製造企業である新燧社の所在地を記念する石碑で、新燧社は明治九年(1876年)に本所柳原町(現在の墨田区江東橋)に設立されました。碑文にあります「SAKERHET TANDSTICKOR」とは、スウエーデン語で「安全爪楊枝」という意味らしいです。何故スエーデンかといいますと、実はスウェーデンは世界一のマッチ大国なのです。最初に摩擦マッチを発明したのはイギリス人のジョン・ウォーカーでしたが、ちょっとした摩擦や低温度でも自然発火してしまうという問題がありました。1855年になってスエーデンで発火剤(箱側)と燃焼剤(軸側)を分離させたスウェーデン式安全マッチが発明されました。分離発火型の安全マッチは特許も取得され、これによってスエーデンが世界を席巻するマッチ大国になったのです。碑文を見てスエーデン語だと分かる人はいるのでしょうかね?
- ポイント2 大横川親水公園
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江東橋交差点の袂から大横川親水公園に入ります。江東区の案内板には次のように紹介されています。
大横川親水公園
大横川を整備した総延長1、800mの親水公園です。錦糸町と押上、業平を結び、橋などを境としてエリアごとに人工のせせらぎや釣堀、広場など特徴ある施設が設けられています。
Oyokogawa-shinsui Park
Oyokogawa-shinsui Park is a water park with the well-maintained Oyokogawa River of a total length of 1,800 meters. The park connects Kinshicho, Oshiage, and Narihira. Within each area divided by a bridge or other borders, you will find unique facilities such as an artificial brook, a fishing hole, and an open space.
大横川は、墨田区・江東区を流れる運河です。かつては流域により亥の堀川や大島川と呼ばれていましたが、1965年の河川法改正により大横川に統一されました。ただし、派流である大島川西支川・大島川東支川・大島川水門などは改称されていません。かつて亥の堀と呼ばれていたのは、小名木川から木場までの区間です。墨田区の業平橋付近で北十間川から分流し南へ流れ、竪川・小名木川・仙台堀川と交差し、横十間川と合流します。江東区木場付近で西に流路を変え、大横川南支川(大横南川支流または大横川南川支流ともいわれていますが、大横川南支流が正しそうです)を分流し、平久川と交差します。江東区永代で大島川西支川を合わせ、その先で隅田川に流入します。
大横川親水公園案内図
施設の概要
この公園は、大横川の一部を埋め立ててできた親水公園です。公園の大きさは、幅30〜40m、長さ1.85km、面積約63,000平方メートルで、墨田区の中心を流れる北十間川との分流地点から、墨田区の南側を流れる堅川との合流地点までの区間となっており、平成五年(1993年)4月1日に開園しました。園内は北から5つのゾーンに区分され、それぞれ色彩豊かな花の広場と釣堀(釣川原ゾーン)、子供たちがじゃぶじゃぶと遊べる水路(河童川原ゾーン)、緑豊かな渓谷と多様な生き物が生息するビオトープ(花紅葉ゾーン)、開放感のあるイベント広場(パレットプラザゾーン)、様々なスポーツが楽しめる広場(ブルーテラスゾーン)の特徴を持っており、公園利用者へ貴重な憩いの空間を提供しています。
歴史と沿革
大横川の歴史は、明暦三年(1657年)の江戸最大の火災といわれる大火から始まりました。江戸幕府は、復興の際、火除地等の確保のため、家屋の転移を図り、河川を掘り開き橋を架け、土地の整備を行いました。このとき掘られた河川の一つが大横川で、本所地域を南北に貫通しており、近年まで舟運・材木の貯留など産業経済の発展に貢献してきました。しかし、道路・鉄道の整備や経済環境の変化によってかつての機能は失われ、昭和五十六年(1981年)から大横川の埋め立てが進められました。その後、緑と清流を復活させ、豊かな自然を楽しめる憩いの空間づくりを基本に公園整備を行い、平成五年(1993年)に完成しました。横川という名前の由来は、江戸城に対して横の方向に流れていることからきています。その後、昭和四十年(1965年)施行の河川法により水系を一にしていた大島川とつなげて、大横川と呼ばれるようになりました。
北斎通りが大横川と交差する地点には、長崎橋が架かっていました。
長崎橋の由来
ここにあった長崎橋は、元禄十年(1697年)当時の本所奉行鈴木浜九郎、鳥屋久五郎、両名によって、墨田区亀沢四丁目より同錦糸一丁目に架けられました。最初は長さ10間(18.0m)、幅2間半(4.5m)の木橋でしたが、その後何回となく架け替えられ、昭和四年6月には、鋼橋(トラス)になりました。この橋は、大横川親水河川整備事業によりその役目を終えて撤去しました。なお、橋の名前は、当時西側に隣接した本所長崎町の地名にちなんで長崎橋と名付られ、永い間、親しまれた本橋の面影を慕い橋名板を残して、その歩みを記します。
大横川親水公園を出て、北斎通りを錦糸町駅方向に進みます。交差点の角に津軽稲荷神社があります。江戸時代、この場所には「本所に過ぎたるものがふたつあり、津軽大名と炭屋塩原」で有名な弘前藩津軽家の中屋敷がありました。中屋敷とは郷土の産物を保管したりする大名の私邸のことで、津軽藩は墨田区内にいくつかの中屋敷を持っていました。明治時代に屋敷を撤収した後は陸軍が兵士の食料を保管する糧秣廠を設置し、この稲荷社だけが残されました。当時、屋敷には守護神として屋敷神(稲荷)が必ず祀られましたが、屋敷神は土着性が強く、明治時代の廃藩置県で弘前藩関係者が去った跡も他に移動せず、この場所に残されたのです。津軽稲荷神社の前を走る道路には、かつて南割下水と呼ばれる堀割が流れていました。ここは区内にいくつか推定される「おいてけ堀」推定地のひとつでもあります。墨田区の案内板には次のように書かれています。
津軽稲荷神社
「本所に過ぎたるもの二つあり、津軽大名、炭や塩原」と言われた弘前藩津軽家の中屋敷の跡。明治時代、屋敷内に祀られていた屋敷神(稲荷)だけを残し、屋敷は撤収されました。
Tsugaru-inari-jinja Shrine
Inari, originally an agricultural deity of harvests, has come to be worshipped here as the guardian of the area. The shrine used to protect the residence of the Tsugaru samurai family of the Hirosaki domain (now Aomori) before the building was taken over by the neighborhood association when the rest of the estate was dispersed during the Meiji period (before 1912).
境内社として弁財天社が祀られています。
- ポイント3 すみだトリフォニーホール
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津軽稲荷神社のはす向かいに、「すみだトリフォニーホール」があります。すみだトリフォニーホールの「トリ(tri)」は「3」、「フォニー(phony)」は音を表し、合成して「トリフォニー(triphony)」は「3つの音が響くこと」を意味し、アーティスト・ホール・観客が三位一体となって音楽を創造していこうという意味が込められています。墨田区の案内板には次のように書かれています。
すみだトリフォニーホール
音楽都市すみだの拠点となる本格的コンサートホール。アコースティックな音楽を聴くのに最適な大ホールと、アーティスト体験の場として幅広く利用できる小ホールがあります。新日本フィルハーモニー交響楽団の活動拠点でもあります。
Sumida Triphony Hall
This well-designed concert facility is the home base for the New Japan Philharmonic orchestra and hosts many other musical events that promote Sumida's reputation as a city of music and culture. It houses two halls. The larger hall with fine acoustics is dedicated to musical performances including occasional pop concerts. The smaller one, besides' various musical recitals, also hosts lectures and workshops.
すみだトリフォニーホールは、大ホールと小ホールの他に3室の練習室を備えたコンサートホールで、平成九年(1997年)に開業しました。開業当初から新日本フィルハーモニー交響楽団のフランチャイズ演奏会場になっています。大ホールは定員1、801名(オーケストラピット使用時は1、601名)で、ドイツのドレスデンにあるイェームリッヒ社製の壮大なパイプオルガン(4、735本のパイプと66個のストップで構成)が設置されています。
すみだトリフォニーホールの先から北に向かって一本の道路が延びています。タワービュー通りは、北斎通りからスカイツリーまでの約1.2キロメートルを一直線に結び、スカイツリーの建設に合わせて整備が行われました。設計から完成まで約8年の歳月をかけ、平成二十八年に全区間が開通しました。電線が地中化されているために眺めを遮るものがなく、また車道と歩道の段差を小さくして歩道の幅も広げたバリアフリー設計が取り入られています。
錦糸町駅北口広場の中央部に奇妙なドーナツ型のオブジェが吊されています。「ヘ音記号」は別名「低音部記号」といい、低い音を表すのに使われます。ト音記号の下1本の加線の音とヘ音記号の上1本の加線の音は同一音で、中央のドの音を表します。オブジェとどういう関係があるのか分かりかねますが。。。
「エコー」(へ音記号)
この作品は「音楽都市墨田区にふさわしいアート作品」という狙いと「駅の循環の場であるロータリー」とを密接に関連させて、様々な音楽的モチーフを用いて構成されています。従来楽譜には曲線が頻繁に使われています。この曲線は大変エレガントであり、私はしばしば彫刻にこの曲線をもちいます。この作品の曲線を構成するへ音記号の「対」の組み合わせは、協和音と不協和音、クレッシェンドとデクレッシェンド、といった音楽における「対」の考え方と通じるものです。協和音は耳に心地よいハーモニーであり、この作品の緊張感とバランスを保った対の形が、駅前広場に「調和」と「一致」をもたらします。タイトルは、この二つのピースが塔に繋がる5本の五線譜(ケーブル)の上で互いに反響しあっているイメージと、低音と高音との共鳴が、音色を生み出す源となるという意味を込め、”ECHO”(エコー)と名付けました。2つの塔のタイル模様は、偉大なる作曲家達の主なる音楽史をたどっています。駅側から見て西の塔は、1500年から1750年まで上から下に向けて示されており、東の塔は、1750年から2000年までを表わしています。西の塔は、各作曲家のたどる線が、一番南の角から時計と逆方向に巻き付くように描かれています。明るい色の水平線は、100年間を表わしています。
1997年 ローレン・マドソン
Loren・Madsen
- ポイント4 錦糸公園
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錦糸公園は、大正十二年(1923年)に発生した関東大震災によって壊滅的な被害を受けた東京の復興事業の一環として、隅田公園(台東区・墨田区)、浜町公園(中央区)と並んで計画されました。此の地は元々は帝国陸軍の糧秣厰倉庫でしたが、昭和三年(1928年)7月に面積約5.6万平方メートルの広さを有す区内有数の公園として開園しました。戦時中は空襲からの避難所としての役割や戦災で命を落とした人たちの仮埋葬所としても利用され、昭和二十年(1945年)の東京大空襲では1万余の遺体が当公園に仮埋葬されました。戦後は人々の憩いの場として使われるようになり、次第に体育館や噴水池などが整備されてきました。
公園を入った右手に、千種稲荷神社(ちぐさいなりじんじゃ)があります。千種稲荷神社の創建年代は不詳ですが、柳島村の守護神として祀られたと伝えられています。五穀豊穣・商売繁盛だけでなく、火除けの守護神としても御利益があります。明治時代に入り、此の地が旧陸軍兵器廠錦糸堀倉庫となり、倉庫の建設によって神社は撤去されてしまいました。その後、この一帯で火災が多発するようになったため、再度神社を戻したところ火災は解消しました。しかし、戦時中に再び神社が撤去されるとまた火災が頻発するようになり、再度神社を戻したところ火災は発生しなくなり、関東大震災でも被害が殆どなかったことから、今も火除けの守護神として信仰されています。
千種稲荷神社由来記
千種稲荷神社は、江戸時代此の地が湿地帯であり荒廃のままになっていたが、寛文から延宝の二十年間(徳川四代将軍家綱の時代)の長きにわたり治水を目的として土木工事が行われ、更に其の後この地を武家の下屋敷の敷地として整地を行い、なお商家の営業も地域内に許可され、加えて横十間川が当時船運の盛んな処であった関係で、武家屋敷が横十間川をはさんで両側に軒を連ねていたと云う頃より此の柳島村の守護神として祭られていたものと伝えられて居ります。その後徳川幕府は明治政府に替り、明治二年大政官の布達により、従来の武家制度は廃止され、武家下屋敷も解体されて農耕地に変わり、其の武家下屋敷解体の際にも此の稲荷社は保護されて郷土の守護神として残されました。其の後、政府は陸軍糧秣廠本所倉庫を此の地に建設し、其の敷地内に此の稲荷社があり、陸軍省は敷地整地に際しこの稲荷社を取払いし処、其の後倉庫並びに周辺に再三火災発生し、陸軍省も面目問題として苦慮を重ね、後になり敷地内より取払ったままになっていた稲荷社に気付き、旧位置に再建して祀りし処、不思議にも其の後火災等全くなくなりました。大正十二年の震災には、此の地一帯は灰燼に化したが稲荷社には少しの被害も受けませんでした。昭和三年七月十八日、復興局の手により創設された錦糸公園も開園となり、同じ頃、神田より製菓業者が公園の周辺に集団移住し、営業を開始せし処早々より町内に火災多発して町民は不安に苦しんでいた処、或る時静岡県より来られた行者さんが、昔より此の地に祀られて有った守護神が公園建設の際園内の何れかに放置されたままに成っているとの言葉に町内有志により探し出し、公園課の了解を得て稲荷社を旧位置に祀りし処、其の後火災も無くなり又、商売繁盛、災厄消除等諸々の願いも成就するとて、多くの信者が参拝致す様になりました。昭和二十年三月十日の空襲にも、此の稲荷社は少しの被害もなく多くの人が境内に避難し、戦火を免れました。昭和二十九年千種講世話人相計り、戦後荒廃した稲荷社の整備計画が建てられ、其の年より、玉垣、鳥居、参道、水屋、石燈籠、本殿の増改築等、遂年に渉り工事を重ね境内の整備を完了した次第であります。昭和三十年五月十八日付を以って右建物一切を東京都の申し出により都に寄贈致し、保存と管理を千種講が委任されました。その後昭和四十年四月から墨田区の公園となりました。昭和五十年千種講より春秋二回にわたり吉野桜を区の公園課に寄贈し、よりよい桜の公園として其の景観の向上を願っている次第であります。
社殿の前の賽銭箱の台座には「千種講」と書かれていて、扁額に二匹の狐が跳ねている彫刻が掲げられています。
錦糸公園はスカイツリーを眺められる公園として、子ども連れのファミリーでいつも賑わっています。春には約160本のソメイヨシノなどの桜が咲き誇り、墨田区を代表するお花見スポットとなっていて、夏にはドライミストや水が飛び出る施設で涼めるなど、四季折々を感じることができます。
「ふれあい広場」にはイベントなどを開催できるオープンスペースが広がっています。「ちびっこ広場」は児童ゾーンと幼児ゾーンに分かれていて、複合遊具等で子どもが楽しめる空間となっています。
健康器具も備わっています。
「水と緑と花の広場」は噴水を囲んで芝生が広がっていて、自然との触れ合いや、かけっこなどを楽しめます。
公園内には、ひがしんアリーナ(墨田区総合体育館)・テニスコート・野球場といった運動施設も設置されています。
ひがしんアリーナにはレストランも併設されています。
昼間っからビールも飲める!
錦糸公園の北東角には、震災や戦災にも耐えた門柱が残されています。
大正十二年(1923年)九月一日午前十一時五十八分に発生した関東大震災は、東京の下町を広範囲に破壊し、さらに火災によって殆どの市街地が焼け多くの人命が失われました。それを教訓として近代的な都市へ生まれ変わるために、世界に類をみない規模の帝都復興事業が行なわれ、現在のまちの基礎が築かれました。錦糸公園は、隅田公園、浜町公園とともにその帝都復興事業で整備された三大公園の一つです。以前は旧陸軍の糧秣廠倉庫敷地でしたが、約三年の工事期間を経て昭和三年七月に開園されました。開園以来第二次世界大戦による被災があり、また様々な改変も行なわれたため、往時をしのばせるものは数少なくなりましたが、この門柱は奇跡的に現在まで残りました。開園当時は明るくシャープなデザインで被害にあった周辺地域を元気づけたものと思われます。墨田区では、この門柱を今後とも保存に努めてまいります。
震災復興公園について記された案内板が立っています。
関東大震災 復興大公園
錦糸公園
関東大震災(1923年9月1日)では、火災が鎮火した要因の一つに公園緑地や広場が焼け止まりとして機能したことがわかり、公園設置の重要性が高まりました。震災復興公園として、国は「水辺の公園」の隅田公園、「工業地の公園」の錦糸公園、「商業地の公園」の浜町公園、これら3か所の大公園を整備しました。また、東京市は52か所の小公園を整備しました。大公園は、園内周囲を緑陰樹で囲み、散策や休養をしやすいように整備されたほか、園内の一角に運動施設(水泳場、競技場、運動場等)も設置され、広く一般に利用されました。墨田区には、大公園が2か所(隅田公園、錦糸公園)と小公園が6か所(当初8か所の内2か所が廃園)あります。
The Great Kanto Earthquake of 1923 Large Reconstruction Parks
Kinshi Park
Following the Great Kanto Earthquake (September 1, 1923), it was found that open spaces and greenery in parks played a major role in helping to extinguish the post-earthquake fires that ravaged the city by acting as firebreaks, which in turn elevated the importance of establishing parks. The national government subsequently developed three large parks as part of reconstruction efforts: Sumida Park along the banks of the Sumida River, Kinshi Park in an area that was mainly industrial at the time, and Hamacho Park in a commercial district. Similarly, the then City of Tokyo also developed 52 small parks. Surrounded by shade trees, the large parks were designed with strolling and relaxation in mind. Also featuring athletic facilities such as pools, sports grounds,
and playgrounds, the parks are widely used by the public. There are two large parks (Sumida Park and Kinshi Park) and six small parks (originally eight, but two have been closed) in Sumida City.
案内板には、錦糸公園の計画概要を図と共に記した文書が添えられています。旧字体で判読困難なために文字起こしは断念します。
公園の北側には、隣接して長く精工舎の工場がありましたが、再開発によりオフィスや飲食店などが入った商業施設「オリナス」が平成十八年(2006年)にオープンしました。
ゴール地点のJR総武線錦糸町駅に戻ってきました。
ということで、すみだウォーキングマップ2021年版で二番目のコースである「Aアクセス抜群のエリアで都会のオアシスをめぐる」を歩き終えました。次はすみだウォーキングマップ2021年版で三番目のコースである「B地元の人に愛される下町情緒あふれるまち並みをめぐるコース」を歩きます。
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