B地元の人に愛される下町情緒あふれるまち並みをめぐるコース  

コース 踏破記  

今日は墨田区の「B地元の人に愛される下町情緒あふれるまち並みをめぐるコース」を歩きます。東武亀戸線の小村井駅から、江戸時代に梅の名所と呼ばれた小村井梅園を模して造られた小村井香取神社の香梅園で初春の香りを愛で、下町の商店街を抜け、曳舟の古社を詣でます。最初に歩いたのは2022年の3月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年7月に改めて歩きました。

B地元の人に愛される下町情緒あふれるまち並みをめぐるコース

緑あふれる「緑と花の学習園」で、四季折々の自然にふれてリフレッシュしたり、地域を守る氏神様を訪れたりと、下町の情緒あふれるまち並みを楽しめるコースです。

「B地元の人に愛される下町情緒あふれるまち並みをめぐるコース」の歩行距離は約2.5km(約3、600歩)、歩行時間は約40分、消費カロリーは約120Kcalです。

スタート地点:東武亀戸線小村井駅
ポイント1 緑と花の学習園
約350種の植物が植えられ、春や初夏はシダレザクラやツツジを、秋や冬は菊やサザンカを楽しむことができます。
ポイント2 京島南公園
高さ約7mのすべり台があり、地元の人からは「マンモス公園」の愛称で親しまれています。すべり台の上から見る東京スカイツリーは圧巻です!
ポイント3 飛木稲荷神社
暴風雨の際に飛んできたイチョウの枝が根づいたというご神木の大イチョウがそびえます。
ポイント4 高木神社
境内にはかつて大きな松があり、地域の人々の目印となっていました。ご祭神にちなんだ「おむすび」の形のさまざまな授与品も。

ゴール地点:東武スカイツリー線曳舟駅東口


スタート地点の東武亀戸線小村井駅から歩き始めます。東武亀戸線は小村井駅の前で明治通りと平面交差しています。私が調べた限りでは、明治通りが鉄道の線路と平面交差するのはこの小村井駅前と都電荒川線の梶原電停前の2カ所のみです。



明治通りを亀戸駅方向に進みます。右手の路地の奥に立派な門構えの屋敷があります。所有者が個人ではないので、イギリスのナショナルトラストのような団体が管理しているのかもしれません。ナショナルトラスト運動の発祥の地はイギリスです。イギリスのザ・ナショナル・トラストは、今から百年余り前の1895年に3人の市民によって「国民のために土地を共有する団体」として創設されました。ナショナルは「国の」ではなく、「国民の」という意味です。この団体は国民がお金を出して買った土地をトラスト(信託)されて管理しています。

墨田区登録有形文化財
吉野家住宅主屋及び表門
所有者 一般社団法人ワイズマネジメント

吉野家住宅主屋は、明治三十七年(1904年)九月八日に建てられました。昭和十年(1935年)と三十年(1955年)に増改築が、平成二十九年(2017年)に耐震補強を含む改修工事が実施されましたが、創建時の特徴を変えることなく今日に至っています。関東大震災、東京大空襲、そして近時の東日本大震災を乗り越えてきた墨田区内では稀少な歴史的建造物です。令和五年(2023年)四月二十四日付けで墨田区の登録文化財となりました。

構成要素は、概ね次のとおりです。

【主屋】
建物南半部の座敷・奥座敷・仏間・寝室(床上部四室)と北半部の玄関・玄関三畳・次の間・洋室・台所・廊下・浴室・洗面所で構成されます。南入側縁・東入側縁・西入側縁がつき、廊下の西に便所がつきます。整形四間取の形式を踏襲しつつも、土間を狭くして居室を広く確保している点に、農家の要素が薄らいでゆく過渡期の住宅の特徴がよく現れています。
【表門】
昭和十年(1935年)に、明治通りの開設に伴って敷地の土盛りと住宅改修が行われた際に建てられました。平時は閉じられ、小村井香取神社の獅子頭巡行を招き入れる時、盆行事を行う時、親族が集合する時のみ特別に開門するのが習わしです。




明治通りを立花二丁目交差点で右折し、文化二丁目交差点まで進みます。変則五叉路の手前には観梅で知られる香取神社があります。亀戸には香取神社が2社あります。ひとつは明治通りに面した亀戸香取神社、そしてもうひとつはこの小村井香取神社です。亀戸香取神社はスポーツの神様として知られていますが、小村井香取神社は梅の香梅園として有名です。平安時代末期、この地を開拓するために千葉県香取郡から六軒の人々が移住し、香取神宮の御分霊を鎮守したのが始まりです。御神徳は、開拓・産業開発・海上守護・心願成就・縁結び・安産・勝運・交通安全・災難除けなどの御利益があります。

香取神社

鎮座地  東京都墨田区文花二丁目五番八号
御祭神  經津主大神(ふつぬしのおおかみ)(又の御名 伊波比主大神)

御由緒
經津主大神は天孫降臨に先だち天照大神の勅を奉じ、武甕槌神(鹿島の神)と共に出雲に降り、大國主命と御交渉の結果國土を皇孫に捧げ奉らしめ、次いで國内を平定して日本の建国の基礎を築かれた武勇に優れた神様で國運開発・民業指導・海上守護・縁結び・安産の神様更には、武徳の祖神として廣く仰がれております。當神社は、永萬元年(1165年)の葛西御厨の文書、應永五年(1398年)の葛西御厨注文等に鎮守村名が見られ、平安時代の末期、當地開拓のために千葉県香取郡から六軒の人々が移住し、小村井の氏神様として鎮守しました。大正五年頃まで老樹欝蒼と繁茂し圓形の森林をなし、鳥類はもとより狸の類も巣を作り、隣地には小村井梅園が存して明治四十三年頃までは四季の遊びの場所ともなりました。現在の御社殿は、昭和二十九年の建立で、本殿は流れ造り、拝殿は入母屋流れ造りの総桧造りです。




一の鳥居を潜った左手に、年代物の社号標が建っています。小村井香取神社の祭神は日本書紀「国譲り神話」に登場する軍神:フツヌシなので、「大日本武将祖神」と書かれています。



江戸時代には東隣に作られた小村井梅園が盛況で、将軍家の御成りもあったといいますが、明治四十三年の洪水で廃園となりました。



香取神社には元々は梅林はなかったのですが、隣地にあった小村井梅園を再現しようと住職さんが平成六年に境内の一画に「香梅園」を開き、85種類・120本の梅を植え、「呉服枝垂」や「緋の司枝垂」などが咲き誇る満開の風景は非常に見ごたえがあるとのことです。2月中旬から3月上旬頃には「梅まつり」が開かれて訪れる参拝客の目を楽しませています。香梅園は一の鳥居の右手にあります。

小村井梅園の由来

小村井梅園は江戸時代に作られ、当時の名所案内にも数多く紹介された江戸近郊の梅の名所です。香取神社の東側に位置し、小村井村宇出戸五百十一番に三千三百坪の広さを持ち、切絵図には「梅屋敷 名主小山孫左衛門 年毎御成有」と記され、毎年梅花の盛りには将軍家の御成りがあり、御成り梅の名も残っていました。紅梅白梅と姿良く、また老樹も多く、大きな実も穫れました。園内には、築山や池に多くの名石が組まれ、東西に互り松の大木が二列に並び立ち、鴨・鷺など多くの鳥が飛び交い、利根川の魚を畜った釣堀もあり、花菖蒲に秋の七草と、多くの人で賑わいました。安藤広重の「絵本江戸土産」の錦絵には「小村井は亀戸より四、五町巽の方に在り比の所に香取の社あり、その傍梅園ありて満開の節は薫風馥郁として行人の鼻を穿つ実に新古の梅屋敷にも倍したる勝景・・・」と記されています。惜しくも明治四十三年の大水で廃園となりました。面影を忍び、此處にその由来を記して記念とします。




2022年3月に訪れた時は梅の花は殆ど残っていませんでした。「開運」という品種は遅咲きとのことで、まだ満開の状態でした。



2025年7月に再訪した時は梅の木は緑に覆われていました。



拝殿は一の鳥居と二の鳥居を潜った先の石段上にあります。鳥居は、どちらも神明鳥居の様式となっています。



拝殿の前には一対の楠の巨木が聳えています。かなり幹も枝も切られているようで、樹齢は古いのでしょう。神社の神木は銀杏の大木が多いのですが、楠とは珍しいですね。



ポイント1 緑と花の学習園

小村井香取神社と道路を挟んだ向かい側に、曳舟たから通りに面して「緑と花の学習園」があります。



緑と花の学習園は、植物の栽培について学べる施設です。園内には、約280種類5100本の植物が植栽され、花壇には季節の花が四季折々の彩りをつけ、潤いと安らぎを与えてくれます。毎週土曜日には樹木医やグリーンアドバイザーが招かれ、緑化相談を行っています。また、各種講習会も行っていて高枝剪定バサミを借りて、木の剪定を体験することができます。緑化ボランティアと緑と花のサポーターの活動拠点となっていて、植物の手入れなどを区と協働で取り組んでいます。

墨田区立緑と花の学習園
区立のミニ植物園です。ご自由にお入りいただけます。入園料は無料です。

植物が見られます
緑と花の学習園には、約350種類の四季折々の植物が植栽されており、うるおいと安らぎを与えてくれます。春には園内にある9種の桜が咲き誇ります。

緑化講習会を開催しています
季節に合わせた内容で、初心者の方から経験者の方まで楽しめる講習会を実施しています。植物やお花と触れ合うことで癒しの効果もあるそうです。

緑化相談を行っています
緑と花の学習園では、植物に関する専門家(樹木医・グリーンアドバイザー)による緑化相談を実施しています。お花や樹木の維持管理等についてお困りのことがありましたら是非ご活用ください。




2022年3月に訪れた時は、開園40周年を迎えてお花のデコレーションがしてありました。



入口を入って左手は桜と花壇のコーナーになっています。



ソメイヨシノや垂れ桜もあります。桜の季節でなかったのは残念ですが。

ソメイヨシノ(染井吉野)

ほぼ全国に分布し、「さくらの開花予想」の基準となっています。江戸末期に江戸染井村(現在の豊島区)の植木職人等が育成し「吉野桜」として売り出されました。

花弁の色: 白色〜淡紅色
大きさ:  おおむね3〜5cm
花弁数:  一重
開花期:  4月上旬
系統:   オオシマザクラ×エドヒガンザクラ




入口を入って右手は桜と野草園のコーナーになっています。



棚を潜った園内の左手奥には季節の花木が区分けして植えてあります。



右手奥には多彩な果樹の木が植えられています。ブドウの実は随分と大きくなりました。



杏の木もあります。実はどこかな?



あずま百樹園に面して千葉大学の墨田サテライトキャンパスがあります。墨田区は千葉大学と平成二十九年3月に包括協定を締結し、キャンパス開設に向けて墨田区と千葉大学は緊密な連携のもとで準備を進めてきました。そして協定締結から4年を経た令和三年4月1日に墨田区文花一丁目に千葉大学墨田サテライトキャンパスを開設しました。このキャンパスは、区が旧すみだ中小企業センターの大規模改修工事を行い、その施設を千葉大学が賃借する形で開設されました。



千葉大学墨田サテライトキャンパスは、建物全体を実証実験空間と捉え、「生活の全てをシュミレートする」というコンセプトの下で運営されます。また、総合的教育・研究拠点「デザイン・リサーチ・インスティテュート(略称:dri)」として、デザイン・建築だけでなく、イメージング・ランドスケープ(園芸学)・予防医学などの分野も加え、工学から全学へと教育・研究を拡張していく方針になっています。



千葉大学墨田サテライトキャンパスに隣接して、情報経営イノベーション専門職大学があります。情報経営イノベーション専門職大学は、令和二年(2020年)4月に開学した専門職大学です。専門職大学とはあまり馴染みがない名称ですが、平成二十九年(2017年)5月24日の学校教育法の改正によって設けられた日本の職業大学です。修業年限は4年で、卒業すれば「学士(専門職)」の学位が得られます。教員の約80% は実務家であり、640時間の臨地実務実習、起業やプレゼンテーションについて4年間必修で学ぶイノベーションプロジェクトなど、理論と実践でイノベーション人材を育成します。



キラキラ橘商店街はおよそ400メートルの長さの場所に商店が立ち並び、昭和の風情とおいしいグルメを楽しめる商店街です。日本に「商店街」という概念ができたのは、昭和三十七年(1962年)に商店街振興組合法が公布されてからだといわれています。それまでは住民は「市場」と呼ばれる所で生活に必要なものを買っていました。昭和初期の頃は京島を始めとした墨田区北部に小さな工場が多く、周辺で暮らす人も多くいました。第二次世界大戦が始まり、墨田区南部の錦糸町一帯は東京大空襲の戦禍を免れることができず、大きな被害を被りました。しかし北部の京島は奇跡的に大きなダメージを受けず、ここにあった「市場」が徐々に大きくなり、全盛期には映画館まで建てられたそうです。大型商業施設の普及などにより、当時に比べると賑わいも減りつつありますが、今でも墨田区で1位・2位を争う元気な商店街になっています。



キラキラ橘商店街の外れの曳舟たから通りに面して田丸神社があります。



神社の入り口に案内板が立っています。なんだかよく意味がわかりませんねぇ。

田丸神社由来

明治三十八年冬他界した妻の言葉で「父が以前行った事のある所に宝財として土地を求めよ」に従いそこを訪れたところ昔はその栄を物語るも手入れもされず、樹木でおい茂り、中央に池がある荒れ果てた土地があった。あまりにもひどくあきらめんとしたが去るには地相が如何にも捨て難く、購入し地盛り古い池の埋立をしたところ、年を越したころには緑が茂るようになった。この土地の北隅の樹木の小陰に所があり、塵埃をはらい四辺を清め、心からのお祠りをし永世の奉りを誓った。その夜枕辺に稲荷の主神咲栃の神がおたちになり、静かな声で「忠よ汝は善く我安居を清めてくれました、その厚き志に感謝し貯財の道を教えましょう。北半里を出ない中に水田があり土地を求めなさい。そこの地を開けば多くの人がここに居を求め人の為、又家運の為にもなり無上の幸福があなたに訪れるでしょう」の言葉を言い残し幻の如く闇に消えました。その声、裳の姿、畳障子の音までも私の目、耳底にのこり夢と思うも夢でなくその夜は眠ることもできずに夜を明かした。翌年三十九年にそのお告げの通り今の地に咲栃の神をお祠りしたところ多くの方が今日居をかまえられた。その土地こそが、現在のこの地である。それ以来大正十二年九月一日の大震災又戦災も逃れ、咲栃の神の言に従って開かれた土地は栄え家々は日に日に盛運に進みその神徳に感謝してもしきれない ものである。
                          原忠三郎 謹書より
以後、今にいたるまで「財のたまる」「幸のたまる」「難を逃げる」田丸神社としてあがめられている。




ポイント2 京島南公園

キラキラ橘商店街は曳舟たから通りでふたつの区間に分かれています。少し商店がまばらになった南側の商店街を進んだ先で更に細い路地に入ります。右手に京島南公園があります。



京島南公園は、昭和三十八年(1963年)に開園した曳舟の子供達に人気の公園です。面積1、596平方メートルの広場にクライミング遊具・ジャングルジム・ウンテイ・カラフルな動物の乗物遊具など、バラエティー豊富な様々な遊具を揃えています。



滑り台は2台設置されていて、その高さはスリル満点の6.6m、傾斜角は28度あります。京島南公園はこの滑り台が名物となっていて、「マンモス公園」と呼ばれています。



滑り台のてっぺんは、屈指のスカイツリーのビュースポットと評判です。私もてっぺんまで上ってスカイツリーを眺めようとしましたが、階段が激細で途中で怖くなり、踊り場のところで登頂を断念しました。



京島地区には昭和の時代にタイムスリップしたような長屋風の家屋が残っています。築何年位でしょうか?



家屋が建ち並ぶ一角に手押しポンプが置かれています。雨水貯水槽のあることを示す目印として設置されたのだそうです。

ながつま 一休

京島地区まちづくり協議会と町会が、この「手押しポンプと地下埋設の雨水貯留槽」に誰もが分るように愛称をつけることとし、「ながつま 一休」と命名しました。




四ツ目通りに出ます。四ツ目通りは幹線道路ながら押上以北は道幅の狭い通りでしたが、現在拡幅のための用地買収が進んでいます。



押上三丁目交差点で右折し、四ツ目通りから新あづま通りに入ります。今までは東武線・京成線と平面交差していましたが、現在は立体交差工事のために少し離れた踏切で線路を越えます。



飛木稲荷神社に隣り合って圓通寺があります。圓通寺は飛木山普門院といい、かつて浅草寺(台東区)末の天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。良秀法印を開山として、応仁元年(1467年)に創建されたと伝えられています。



「明暦二年」銘地蔵像は左手に宝珠、右手に錫杖を持ちますが、錫杖の一部に損傷はあるものの、ほぼ原形の姿を保っています。尊像の顔容は童顔に満ちており、造形的に引き締まってもおり、江戸初期の佳作にふさわしいものです。区内で確認されている近世石仏の最古の例として、非常に貴重なものです。

墨田区登録文化財
地蔵菩薩立像(明暦二年二月吉日銘)

錫杖の一部に欠損あるのは惜しまれますが、ほぼ原形を保ち、区内でも最古に属する石仏です。尊像の額貌は童顔に満ちていて、江戸初期の佳作にふさわしいものです。舟形光背は細身で、尊像の丈に比べて不似合いなほど大きくし、上端に反りを持たせた江戸期特有の形態を示しています。銘を

「干時明暦二年丙申(1656年)
  奉造立地蔵大菩薩為寒念佛供養也
  殊者當村結縁衆為菩提也
  二月吉日」

としています。この地蔵石仏は寺島村新田(旧称)の、地蔵講中による「寒念仏」を修したことを記念していると同時に、結縁衆の「菩提」を弔うために造立・奉納されたものでもあります。かつての、村落共同体による地蔵講・観音講・庚申講などが、ほとんど姿を消してしまったことは惜しまれます。




ポイント3 飛木稲荷神社

飛木稲荷神社の創建年代は不明ですが、一説では鎌倉幕府滅亡時に北条氏の落人が創建したといわれています。境内には、神社の神木となっているイチョウの大木があります。樹齢500年は経っていて、墨田区内で最古の老木といわれています。このイチョウの木は、嵐で飛ばされた枝が地面に刺さり、そのまま樹木へと成長したと言い伝えられていて、それが「飛木」という名称の由来となったとのことです。



神木となっているイチョウの大木は一の鳥居の後ろに聳えています。

飛木稲荷神社の縁起と由来について

○祭神 宇迦之御霊神
一般に「おいなりさん」と言われ親しまれている神様で、農工・殖産・生活の加護にお働きのある神様であります。

○神木 いちょう
樹令千年をこえると言われ、戦火(昭和二十年三月九日)により、損傷を受けましたが、ご覧のように元気に繁茂しております。古老の言い伝えによれば、大昔のある時、暴風雨の際、どこからかいちょうの枝が飛んで来て、この地に刺さったとのことです。そしていつの間にか亭亭とそびえたので、時の人が、これは異状のことであるとして、稲荷神社をお祀りしたのが始めであると言われております。飛木稲荷の名もこれから起ったものです。お祀りした時代については、当地は再三の水害・火災等により旧家や円通寺等では、古い書物が失われて詳しいことはわかりませんが、旧幕社寺奉行書によれば、応仁二年(西暦1468年)とありますが、おそらくそれ以前であると思われます。

〇お稲荷さんときつね
稲荷神社には石ぎつねがあり、またせともののきつねがたくさんあるので、きつねがお稲荷さんと思われがちです。そのことは、稲荷神社が最初に祀られた京都伏見稲荷神社境内のお山にきつねがたくさん住んでいたことから、きつねは、お稲荷さんのお使いであるという信仰が生まれました。この信仰から神社の前に置かれるようになったものです。

〇境内神社 日枝神社   祭神・大山咋神
      奥社稲荷神社 祭神・本社と同じ




大イチョウの幹には、戦災で損傷したと思われる巨大な裂け目が残っています。

’身代り’飛木の焼けイチョウ

名前の由来
昭和二十年(1945年)三月十日の東京大空襲で、ご神木(神霊が宿っているとされる木)は、我が身を焦がし、懸命に炎をくい止め、町の延焼を防ぎました。そして幸いにも多くの人達が助かりました。ご神木は、戦災という大きな悲劇を乗り越え、数年を経て緑の芽を吹き出しました。このようにたくましく生き延びた縁起のイチョウです。今の世にあって、私達に生きる勇気と希望を与えてくれています。きっと焼けイチョウは、大変な戦争があったという事を、これから先も伝えてくれることでしょう。




もうひとつイチョウの案内板が立っています。

飛木稲荷神社のいちょう

神社の名前に由来する御神木で、目通り約4.8メートルもあり、樹齢も五、六百年はくだらない区内随一の大木です。戦災で一部が焼失し、樹高も15メートルと低いが、近年いきおいを盛り返し、樹形も整ってきています。江戸時代以前、このあたりは利根川(瀬替以前)の川口で、川の運ぶ堆積物により陸地化が進んできたところです。葛西地域の西の海岸線の一部となっており、平安・鎌倉時代あたりから、後の本所・向島の境ともなる古川沿いに自然堤防となっていたと推定されます。江戸時代この辺は寺島新田と呼ばれ、順次開拓されていく様子もうかがえます。このいちょうの大木は、その自然堤防に育った歴史の証しといえます。




イチョウの木には隠れキツネが宿っているとのことですが、青葉が茂っていてよく見えません。



境内神社の日枝神社と奥社稲荷神社は拝殿の奥に鎮座しています。



ポイント4 高木神社

飛木稲荷神社の直ぐ先に高木神社があります。高木神社は、室町時代の応仁二年(1468年)の創祀と伝えられていて、旧寺島新田の鎮守として尊崇され、古くは「第六天社(だいろくてんしゃ)」と呼ばれていました。明治時代初期の「神仏分離の制度」で「高木神社」と改められました。その社名は、御祭神である高皇産靈神(タカミムスビノカミ)の別名が「高木の神」であるからといわれています。かつては、境内に大きな臥龍の松があり、曳舟川を上下する舟を始め、地域の人々の往来の目印となっていました。昭和四十二年1月に鉄筋コンクリート造りの社殿改築が竣工し、昭和四十三年11月に鎮座五百年の式年大祭が行われました。



鏡のようにピカピカの由緒書が立っています。

高木神社

御由緒
応仁二年(1468年)の創祀と伝えられており、旧寺島村新田の鎮守として尊崇されてきました。御祭神は「高皇産靈神(タカミムスビノカミ)」(高木神)と申し、古事記や日本書紀によれば、天孫降臨の際の国譲り伝承や神武東征などに度々登場するなど政治的な手腕を振るってきました。以上の神話から「万物生成」「人間関係を調整する」「交渉事を成就させる」などの尊い御神徳があると信じられて今日に至っています。




富士講の石碑が建っています。

<墨田区登録文化財>
山玉向島講社の碑

山玉向島講社は、かつて向島地域にあった富士講(富士山を信仰する人々の団体)の一つです。講印から、江戸時代後期に成立した山玉深川元溝から分かれた講と考えられます。講の参会には講印を配した祭祀具が用いられ、富士山登拝の際には富士吉田の御師「大番城」の屋敷に宿泊していました。沿革は不明ですが、明治七年(1874年)と記された祭祀具が伝えられており、大正期には講員が100名以上であったと推定されています。本碑は、その山玉向島講社の人々が明治三十一年(1898年)九月に建立したものです。本碑には、正面に山玉向島講社の講印が彫刻され、その中に「廿三夜」と刻まれています。これは、山玉向島講社の人々が参会する日を示すと考えられます。また、裏面には建立にかかわった世話人十六名の名が居住地別に刻まれ、建立当時の講社に先達、講元などの役割があり、当時の中心メンバーが須崎、中之郷、寺島の住人で構成されていたことを示しています。十六名のうち、碑銘彫刻師として知られる三代目宮亀年(元宮為吉)が名を連ねており、碑刻者と推定されます。世話人の経歴を調べてみると、須崎の人々は墨堤常夜燈(墨田区登録有形文化財)の奉納、寺島の人々は寺島小学校の創立というように、地域をあげての事業に関わる有力者層でした。碑に刻まれた須崎、中之郷、寺島の三区域の範囲は、向島地域にあって大きい部分を占め、山玉向島講社がそれまでの社会生活上のつながりを超えた広がりをもっていたことが分かります。山玉向島講社は第二次大戦中に活動を停止したと考えられ、その具体的な活動を知ることは難しくなっています。この向島山玉講社の碑は、近代の墨田区における信仰と、地域の結びつきの広がりを理解するために欠くことのできない文化財といえます。




ゴール地点の東武スカイツリー線曳舟駅に着きました。曳舟駅の駅名は、駅開設当時に付近で交差していた曳舟川に由来します。曳舟川は昭和初期に埋立てられ、現在は駅南側を通る道路(曳舟川通り)となっています。曳舟駅は、明治三十五年(1902年)4月1日に東武伊勢崎線の吾妻橋駅(現在の「とうきょうスカイツリー駅」)〜北千住駅間の開業と同時に開設され、2年後の明治三十七年(1904年)4月5日には亀戸線が開通し、曳舟駅は亀戸線の起点となりました。平成十五年(2003年)3月19日には東京メトロ半蔵門線との直通運転が開始され、曳舟駅は浅草方面と押上方面と亀戸方面の分岐駅となりました。昭和五十四年(1979年)6月16日に5階建ての駅ビル「東武曳舟ビル」が東口に竣工し、併設の曳舟東武ボウルが開場しました。屋上に設置されたボーリングのピンが駅のシンボルになりました。しかし、平成二十三年(2011年)3月11日に発生した東日本大震災で駅ビルの壁面が崩落して架線が損傷する被害を受け、その後駅ビルは解体され、跡地には平成二十九年(2017年)4月1日に東京曳舟病院が開院しました。あまり知られてはいませんが、副駅名は「東京曳舟病院前」となっています。



駅の南側は関東大震災や東京大空襲による災禍を免れた地域であったため、老朽化した木造建物や狭隘な道路が多く、東京でも有数の密集市街地を形成していました。URが事業主体となり、地区内に新たな区画道路を新設し、人と車の利便性や安全性を確保すると共に、商業と住宅が調和した複合的な拠点を目指して市街地再開発事業が行われました。T街区ではイーストコア曳舟一番館・二番館からなる2棟の超高層住宅が建てられ、U街区には大型商業施設であるイトーヨーカドーを誘致して平成二十二年度に事業が完了しました。



再開発の経緯を解説した案内板が立っています。

歴史と未来をつなぐまちづくり
曳舟駅前地区第一種市街地再開発事業

●「向島」の歴史と「曳舟」の語源
向島は、隅田川を境にして西側から島状の洲が陸地化し、生活の場となった地域です。平安時代から農業が営まれていた寺島を拠点として、東へ請島(浮島)、須崎(洲崎)といった地名が続く、湿潤な土地が広がっていました。江戸期のこの地域は、農家が散在し、周辺は肥沃な低湿地で覆われており、また、曳舟川を中心にして、安藤広重などの絵師が好んで絵筆をとった風光明媚な土地でした。曳舟川は万治二年(1659年)に人々に飲料水を供給する上水として開削され、享保七年(1722年)に上水としての機能を終えた後は葛西地域の灌漑用水や舟運に利用されました。「曳舟」の語源は、小舟の舳先に立てた棒に綱をつけて、岸から人力でその綱を引いて川を遡ったことによるものです。

●明治〜昭和初期の当地区
曳舟川沿いに発展した当地区は、明治期以降、急速に都市化しました。見渡す限りの田園地帯は東京近郊に進出を希望した大規模工場の絶好の立地場所となり、多くの工場が物資の運搬や用水の確保などに都合のよい曳舟川の沿岸に、競って立地を進めました。

●進化する街
曳舟駅周辺地区は墨田区都市計画マスタープラン(平成二十年3月)において区北部地域の「広域拠点」と位置づけられており、交通の利便性を活かした都市機能の集積が期待されています。そのリーディングプロジェクトとして当地区において曳舟駅前地区第一種市街地再開発事業(施行者・独立行政法人都市再生機構)が施行され、現在に至っています。

●地区の愛称とロゴマーク
「イーストコア曳舟」は当地区の愛称で、東京の東の核として再生するという意味が込められています。またロゴマークは、「水と人」が時とともに培ってきた深い歴史を継承し、「舟と水の流れ」をモチーフにデザインされました。流線型のデザインには、地区の愛称「イーストコア曳舟」と併せて、未来をリードする場所になって欲しいという願いが込められています。




「すみだ青空市ヤッチャバ」は、毎週土曜日午前8時から午後4時頃まで、イーストコア曳舟の広場で開かれています。現在、墨田区には農家も漁家も統計上1軒もありません。そんな墨田区に「作る人」と「食べる人」との距離を縮め、両者がつながり、関係を深める場所を設けて双方が豊かな暮らしを支え合える関係をつくりたいという想いを込めて全国から生産者を招き、かつて墨田区内にあった青果市場「やっちゃ場」からその名をとって、平成二十二年(2010年)に「青空市ヤッチャバ」が始まりました。前回訪れた時は開かれていませんでしたが、今回は運良く土曜日に再訪しましたので青空市の様子をたっぷりと見ることが出来ました。



季節柄、トウモロコシや桃、それにホオズキも売られています。日本の仏教習俗であるお盆では、ガクに包まれたホオズキ(鬼灯)の果実を死者の霊を導く提灯に見立て、枝付きで精霊棚(盆棚)に飾る習慣があります。ホオズキに「鬼灯」の字を当てるのは、盆に先祖が帰ってくるとき目印となる提灯の代わりとして飾られたことに由来しています。お盆も近いですからね。



ということで、すみだウォーキングマップ2021年版で三番目のコースである「B地元の人に愛される下町情緒あふれるまち並みをめぐるコース」を歩き終えました。次はすみだウォーキングマップ2021年版で四番目のコースである「C開放感たっぷりのロケーション!リバーサイドを歩く爽やかコース」を歩きます。




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