C開放感たっぷりのロケーション!リバーサイドを歩く爽やかコース  

コース 踏破記  

今日は墨田区の「C開放感たっぷりのロケーション!リバーサイドを歩く爽やかコース」を歩きます。八広駅を起点とし、荒川堤防上から下町の家並みと河川敷を眺めながら進み、木下川水門から旧中川水辺公園に入って緑豊かな遊歩道の歩きを楽しみます。最初に歩いたのは2022年の3月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年7月に改めて歩きました。

C開放感たっぷりのロケーション!リバーサイドを歩く爽やかコース

荒川土手を深呼吸しながらウォーキングするすがすがしさは格別です。旧中川は、川底や魚が見えるほど水がきれいで気持ちのよいコースです。

「C開放感たっぷりのロケーション!リバーサイドを歩く爽やかコース」の歩行距離は約4.8km(約6、900歩)、歩行時間は約1時間10分、消費カロリーは約210Kcalです。

スタート地点:京成押上線八広駅東口
ポイント1 荒川土手
土手の上からは、東京スカイツリーとすみだのまち並みが見渡せます。反対側にはゆったり流れる荒川と河川敷が広がり、開放感いっぱい!
ポイント2 旧中川水辺公園
川には様々な水鳥や魚が生息しており、川辺からは東京スカイツリーも見えます。春は川沿いを桜が彩ります。

ゴール地点:東武亀戸線東あずま駅


スタート地点の京成押上線八広駅東口から歩き始めます。



ポイント1 荒川土手

八広駅東口は荒川に面した出入口です。駐輪場の先に階段があり、それを上ると堤防の上の道路に出ます。道路を横断して遊歩道に入ると、左手に京成押上線の鉄橋、右手に木根川橋が望めます。京成線の鉄橋の上流には、国道6号線を通す四ツ木橋・新四ツ木橋の2本の橋梁が架かっています。



木根川橋を通る道路は都道449号新荒川堤防線と合流して南北二手に分かれ、直進する道路はありません。現在の四ツ木橋・新四ツ木橋・木根川橋には複雑な歴史があります。荒川放水路(現在の荒川)開削前は、綾瀬川と曳舟川通りが交差する所に木ノ下橋が架かっていました(現在の新四ツ木橋の綾瀬川区間)。大正十一年(1922年)6月30日、荒川放水路開削に伴って橋長451メートル・幅員5.5メートルの鉄筋コンクリート橋脚を持つ木製の方杖桁橋が架橋されました。これが旧四ツ木橋です。旧四ツ木橋の位置は現在の国道6号線の道筋ではなく、約500m下流の京成押上線荒川橋梁のすぐ下流側の八広中央通りの延長上にありました。昭和四十四年(1969年)12月に木製の旧四ツ木橋が解体され、代わりに旧四ツ木橋の約100m下流に木根川橋が橋長539.6メートル・幅員10.5ートル(車道6.5メートル、歩道2メートル×2)の7径間下路式平行弦ワーレントラス橋で架橋されました。右岸側にある旧四ツ木橋の取り付け道路は残され、木根川橋へクランク状に接続されました。一方、現在の国道6号線(水戸街道)に橋を架ける話は早くからあり、戦前に工事が始まりましたが戦争で中断し、戦後の昭和二十七年(1952年)7月に開通しました。開通時には旧四ツ木橋も存在していたため、新四ツ木橋と呼ばれました。その後、新四ツ木橋周辺の慢性的な交通渋滞対策として、昭和四十八年(1973年)4月5日に新たな橋が約200メートル離れた曳舟川通りの延長上に架橋されました。この時、既に木製の四ツ木橋は撤去された後であったこともあり、橋は「新四ツ木橋」と呼ばれ、それまでの新四ツ木橋の名称は現在の「四ツ木橋」になりました。木根川橋が旧四ツ木橋とずれた場所に架橋されたため、八広中央通りと繋がらなくなったのですね。ちなみに、さだまさしの曲に「木根川橋」があります。なんでこんな橋を知っていたんでしょうか?



土手下に日枝神社があります。日枝神社は慶長十九年(1614年)に創建されたと伝えられています。創建の謂われは不明ですが、当時開拓に移住した住民が氏神として祀ったとされています。現在の氏子地は元木之下村といい、荒廃した土地を開墾し、一村としたものがその後発展したものです。境内には松・杉・樫等の大木が繁茂し、森林を成していましたが、大正以後はガスや煤煙のためほとんどが枯れてしまいました。



荒川の河川敷は、荒川・四ツ木橋緑地になっています。遊歩道やサイクリングロードが整備され緑も多く、正に「空と風と緑を感じながら心地よく歩けるコース」です。



河川敷には、何面もの野球場やサッカー場があり、休日には試合も開催されています。



土手の上から富士山は見えませんでしたが、スカイツリーと墨田清掃工場の煙突がコラボしています。スカイツリーが遠方にあるので、場所によっては同じ高さに見えることもあります。



土手下に、アルファベットを連ねた奇妙な建物があります。「RUSSETY(ラセッテー)」は、人と自然と環境にやさしい革づくりを目指して、山口産業株式会社が開発した皮革鞣し(ひかくなめし)製法です。計画的に植林されたミモザ・アカシアなどから抽出する植物タンニンを鞣し剤として「皮を革」にします。色付けの染料や革の繊維に柔軟性を持たせる加脂剤にも天然油を使用することで、安心して使えて安全に土に還せる本革素材「ラセッテー・レザー」が生まれます。この技術と素材、そしてその製品を広めやさしい革のある暮らしの実現を叶えるために、一般社団法人やさしい革を設立し、国内外で活動をしています。全国に広がるシカやイノシシなど野生動物による被害対策後の獣皮を獣革にして産地に還し、地域の有効資源として大切な命をつなぐのがMATAGIプロジェクトです。これは、重金属系クロム剤を使用する従来製法による健康被害や排水問題を解決するための、国境を越えて海外の同業タンナーにラセッテー技術供与をするワールド・レザー・プロジェクトです。さらに、動物福祉に配慮した養豚由来の原料皮の供給拡大を目指すハッピー・ピッグ・プロジェクトも行われています。 山口産業の革工場に隣接する奇妙な装飾の建物は、「RUSSETY FACTORY&MUSEUM(やさしい革の博物館・東京都墨田区認定)」で、皮革製法技術の古書文献・所蔵品展示の他、やさしい革のある暮らしを体感できる各種イベントや特別販売会が用意されています。



土手下に木々が茂った神社の屋根が見えています。延暦七年(788年)に下野国の広智という僧が伝教大師半体作の薬師像を背負って武州にきたところ、中川の辺で不思議な老翁に会いました。翁は名を唱翁といい、像を草庵に安置すべしと告げたために、像を草庵に安置して広智は本国に帰りました。その後、慈覚大師が東国に下った時に不思議な告げにより、その草庵を修理して一寺としました。さきに出た唱翁とは白髭明神であったといわれます。貞観二年(806年)に堂宇が完成し、薬師の守神として祀りました。その後霊験あらたかであったため、近郷の人たちも信仰して下木下川村の鎮守となりました。現在の荒川放水路の中央に鎮座していましたが、荒川改修工事のために大正四年に現在地に遷座しました。



土手下に大きなプラントがあります。墨田アスコンは常磐工業と道路工業の共同企業体で、各種アスファルト混合物を製造しています。エコ対策として既設アスファルト混合物を廃棄する事なく再利用するリサイクルシステムを始め、省資源・省エネルギー化に取り組んでいて、環境対策としては無粉塵・低振動・低騒音化を実現して周囲の環境保全にも配慮しています。



荒川に面した左手には、木下川水門があります。水門の名前に「木下川」と冠されていますが、地図を見てもこの辺りにそれらしき川は見当たりません。既に埋め立てられ、名前だけ残っているのかなと思ったのですが、どうも違うようです。「川」というのは当て字で実際は別の意味らしいです。深くは詮索しないことにします。

木下川水門(きねがわすいもん)

木下川水門は、大正十年(1921年)に着工し、同十三年(1924年)に完成しました。当初は、平常時には水門の開放により荒川と旧中川を連絡するほか、対岸に設置された中川水門と連携して、荒川より新旧中川への舟運に利用されました。また、洪水時は、旧中川への水の流入を遮断し、下流の小名木川閘門および小松川閘門とともに、旧中川周辺に及ぼす水害を防止する役割を果たしました。現在では、木下川排水機場と連携して、内部河川の水位の維持を行っています。




荒川の向こう岸を眺めますと、印象的な形状の橋と水門らしきものが見えます。かつしかハープ橋と隣接する上平井水門です。上平井水門がかつしかハープ橋よりも先に造られたため、このような橋の形状を採用せざるを得なかったのでしょう。

かつしかハープ橋

かつしかハープ橋は葛飾区の綾瀬川に架かる橋で、昭和六十二年(1987年)に開通しました。綾瀬川と中川の合流地点に位置し、首都高速中央環状線を通しています。世界初の曲線斜張橋であり、さらにその曲線はS字を描き、路面には勾配もあるため、複雑な立体構造をしています。2本の主塔は高さがそれぞれ65m・29mと異なる特殊な橋です。その曲線と48本のワイヤーが織り成す姿は美しく、楽器のハープに見立てて公募によりその名がつけられました。橋の形状がS字型になっているのは、首都高速中央環状線が綾瀬川の左岸沿いに下って来ると隣接する上平井水門にぶつかるため、S字に曲げられました。その後、首都高は中川を渡って、荒川の背割堤を南下し、河口で首都高湾岸道路に合流します。

上平井水門

上平井水門は、昭和四十四年(1969年)に竣工し、中川と綾瀬川への高潮遡上を防ぐ役目を担う重要な水門です。他の水門より大きな門扉と巻上げ機を持っています。平成二十三年(2011年)の東北地方太平洋沖地震では、津波を堰き止めために閉鎖されました。




通常、土手下には道路が通っているのですが、この辺りは土手から続いた平らな土地になっています。スーパー堤防として拡張されたのだそうです。

荒川で整備が進むスーパー堤防って何ですか?

荒川下流沿いは、ほとんどがゼロメートル地帯(※)のため、万一、川の水が堤防を越えると、市街地は壊滅的被害が予想されます。現在の堤防は高さ約10mですが、高くするほど堤防が壊れた時のエネルギーが増し、被害が大きくなってしまいます。そこで、スーパー堤防は街側を盛土し、幅の広い緩やかな斜面をつくることで、市街地への洪水被害を最小限に抑えることができるのです。
※ ゼロメートル地帯って?東京湾の海面(平均潮位)より地盤が低い地域のこと。

土地区画整備事業との一体整備

以前は低層住宅と工場が密集する地区でしたが、平成六年に平井地区でマンション建設とスーパー堤防の一体的な整備が始まりました。その地元説明会を契機に、隣接する七丁目地区でもスーパー堤防と一体的なまちづくり(土地区画整理)を行い、新たな生活がスーパー堤防の上で始まっています。




かって、この辺りには平井梅屋敷がありました。

平井梅屋敷跡

江戸時代から明治・大正にかけ、平井七丁目の荒川べりの木下川水門付近から旧下木下川村(墨田区)にかけて梅屋敷があり、約三百株の梅樹が植えられていました。昭和十年代までは、悔屋敷の形をとどめていましたが、現在面影は全くありません。敷地はおよそ一町一反(約11、000u)余りあって、大きなわらぶきの二階建ての建物が二棟と、長屋や煉瓦造りの建物などがありました。江戸時代には徳川家が所有し、木下川村の名主村越家が留守居役として取り仕切っていました。安永・天明(1772年〜1789年)の頃から梅見行楽の名勝地になったといわれています。大正二年、荒川放水路の開削のため河川敷にかかり、旧墨田区吾嬬町東八丁目六四番地と、旧中川の南側平井の地に三反歩ばかりが残りました。この平井の地は、昭和四十二年一月一日、江戸川区に編入されました。




荒川と旧中川の境には、木下川排水機場が設置されています。普通の河川では、分流する河川から直接水路を設けているのですが、旧中川では荒川と水位差があるので、排水機場を介して間接的に繋がっているのです。排水機場の入口ゲート横に2枚の大きな案内板があります。

水害のない町に 木下川排水機場

隅田川と荒川に狭まれた江東三角地帯は、ゼロメートル地帯といわれ、満潮時には大部分が水面下となり、過去にたびたび大水害に見舞われてきました。外郭堤防・水門・排水機場は、高潮や洪水、津波などの水害から、この地域の安全を守るはたらきをしています。

木下川排水機場

江東三角地帯には、小名木川・旧中川などの内部河川が縦横に流れています。江東三角地帯のなかでも特に地盤の低い東側では、内部河川を締め切り、潮の干満の影響を遮断して、平常時水位を人工的にA.P.―1.00mまで低下させ、地域の安全を確保しています。木下川排水機場は、この水位低下河川の水位を維持し、氾濫を防止するとともに、水質浄化のため取水した流入水を排水するためのポンプ施設であり、24時間稼働しています。




排水機場の脇を抜けて旧中川の河川敷に入ります。振り返れば、木下川排水機場の水門が並んでいます。



ポイント2 旧中川水辺公園

旧中川の河川敷に墨田区内の流路を紹介した案内板があります。ここは旧中川の右岸に当たるため墨田区内となります。左岸は全流路を通じて江戸川区に属します。流路の半分しか描かれていませんが、大きくS字型に曲がりくねっているのが見て取れます。これには次のような歴史的経緯があります。

旧中川

江戸時代以前の中川(現在の旧中川)は、古利根川を上流として途中で元荒川と合流し、水元・新宿・奥戸・平井を通り、綾瀬川・堅川・小名木川と通じながら、江戸川に注いでいました。江戸時代に入り、八代将軍徳川吉宗が水害から村を守るために、享保十年(1725年)から14年かけて散在していた池や沼を利用してひとつの流れをつくりました。そのため、「九十九曲り」をよばれる屈曲の激しい川となりました。この川が中川と呼ばれたのは、隅田川と江戸川の間を流れるからといわれています。1924年に荒川放水路に放水を開始したことによって分断された中川の下流部分が現在の旧中川になりました。旧中川は江戸川区と墨田区と江東区の境界を流れ、全長が6.68kmの荒川水系の一級河川になっています。江戸川区平井の木下川水門で荒川放水路(荒川本流)から分水し、大きく蛇行しながら南へ流れ、江戸川区小松川の荒川ロックゲートから再び荒川へ合流します。小名木川の扇橋閘門以東に位置するため、水位が荒川より1m低くなっています。川の東側はすべて江戸川区、西側は北十間川との合流地点までは墨田区、それより南の荒川ロックゲートまでは江東区となっています。川岸には東京都ボート協会が高架下を利用した艇庫を所有していて、ボートを練習する社会人や学生が増えています。各種ボートの乗艇が体験できる江戸川区主催のボートフェスティバルも開催されています。江戸時代には歌川広重の名所江戸百景「逆井の渡し」や江戸名所図会の「平井聖天」、新編武藏風土記稿の「逆井渡船場図」などで情緒豊かな川であったことが知られていて、川沿いに史跡が残っています。1945年3月10日の東京大空襲では、猛火を逃れようと川に入った3000人以上が犠牲となりました。その犠牲者の慰霊のために、1999年に「旧中川灯籠流し」が始まり、以来毎年8月15日に行われています。平常時は両端の水門を締め切って荒川へ排水しているため水は流れていませんが、灯篭流しの時だけは木下川水門より取水して荒川ロックゲート側から排水することにより水流を発生させ、灯篭が流れるように工夫しています。




旧中川の河川敷は水辺公園になっていて、遊歩道も鋪装され、とても歩きやすくなっています。旧中川に架かる最初の橋は「ゆりのき橋」です。正面には墨田清掃工場の特徴的な煙突が聳えています。東京スカイツリーが建設されるまでは、荒川に近い墨田区のランドマークといえばこの煙突でした。目立つのも当然で、高さは150mもあります。遠くから眺めると、ロケットが発射台に据え付けられているように見えます。



ゆりの木橋の下には、遊歩道の両側に漕艇用のボートが多数保管されています。隅田川ローイングクラブというNPO法人が所有し、毎月ボート教室を開催しているのだそうです。旧中川は流れも穏やかで、川辺の景色もきれいなので毎回多数の応募があるそうです。ちなみに、「ローイング」とは、漕艇によるボート競技のことです。



旧中川水辺公園は、地元の方々の協力もあって桜の名所として知られています。

中川桜愛護会

私たち地元五町会は、みんなで協力してここに桜を植えました。そして、この桜が大きく立派に育ち、墨田区の名所となることを願い、「中川桜愛護会」をつくりました。これからも互いに協力して桜を守り育てると共に、川沿いの美しい自然を大切にして、誰もが気軽に、安心して自然に親しむことのできる、区民の憩いの場所をつくりましょう。




改めて見上げますと、墨田清掃工場の煙突高いですね。



ゆりの木橋の下流に中平井橋が架かっています。中平井橋は「中平井の渡し」のあった場所に架けられた橋です。江戸時代には、江戸川や中川には、橋を架けることが許されず、もっぱら渡しによって交通が支えられていました。中川筋では、「平井の渡し」「逆井の渡し」「番所の渡し」がありましたが、明治以降主要な道筋には橋が架けられました。脇道には昔の渡しが残され、新たに設けられた渡しもありました。大正六年(1917年)に「中平井の渡し」が設置され、平井村と吾妻村の間を結んでいましたが、昭和十三年(1938年)に中平井橋ができたことにより、渡しは廃止されました。



墨田区では河川敷を公園として整備し、ソメイヨシノに限らず河津桜・思川・陽光・関山・普賢象・一葉・大山桜・仙台枝垂など、早咲きから遅咲きまでの9種約260本の桜が植えられています。これには、住民参加の桜の植樹の取り組みがあります。

旧中川桜植樹記念

区では、旧中川をより一層区民に親しまれ、魅力的な空間とするために、区の木である桜を植樹し、美しい環境づくりを進めています。その一環として、新たに36本の桜を植樹するために、近隣の皆様に参加者を募り、平成二十四年二月十八日に桜の植樹式が行われました。




中平井橋の下流に架かる平井橋で河川敷の遊歩道を出ます。



コンビニでガリガリ君を囓り、暫し休息します。梅雨はどこに消えたのかと思うほどの暑さです。コンビニの先から右手に折れる道を進みます。公園の先に小さな稲荷神社があります。

大井戸稲荷の由来

平安朝期より大正の初期に至る間、この辺一帯は、田園であったと聞き及びます。当時祭られた時期は、さだかではありませんが、ここに小さな稲荷の祠があって、傍の井戸から清水がこんこんと湧き出ており、道行く人々はひと休みしてお弁当をつかい、のどのかわきを潤していたと伝えられます。別名人助けの稲荷として長く崇敬されたと云う由緒ある稲荷であります。




ゴール地点の東武亀戸線東あずま駅に着きました。



ということで、すみだウォーキングマップ2021年版で四番目のコースである「C開放感たっぷりのロケーション!リバーサイドを歩く爽やかコース」を歩き終えました。次はすみだウォーキングマップ2021年版で最後のコースである「D開放感たっぷりのロケーション!リバーサイドを歩く爽やかコース」を歩きます。次回で墨田区のお散歩は完遂です。




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