- D水辺の景観とおしゃれな観光スポットをめぐるよくばりコース
- コース 踏破記
- 今日は墨田区の「D水辺の景観とおしゃれな観光スポットをめぐるよくばりコース」を歩きます。両国駅から隅田川テラスに下りて隅田川に架かる橋を眺めながら進み、吾妻橋で隅田川テラスから上がって墨田区役所にお別れをし、北十間川沿いの東京ミズマチのお洒落なショップを巡って終点のとうきょうスカイツリー駅に至ります。最初に歩いたのは2022年の3月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年7月に改めて歩きました。
D水辺の景観とおしゃれな観光スポットをめぐるよくばりコース
隅田川テラスは、歩道やベンチが整備されていてウォーキングにぴったりです。ヒューリック両国リバーセンターや東京ミズマチといった最新の観光スポットも必見です!
「D水辺の景観とおしゃれな観光スポットをめぐるよくばりコース」の歩行距離は約3.2km(約4、600歩)、歩行時間は約50分、消費カロリーは約150Kcalです。
スタート地点:JR総武線両国駅西口
↓
- ポイント1 ヒューリック両国リバーセンター
-
センター内には水上バスの待合室やカフェ、ホテルがあります。建物を通り抜けて隅田川テラスに出られます。
↓
- ポイント 2 隅田川テラス
-
川沿いに整備された遊歩道。水上バスが行き交う風景を眺めながら歩いていると、ユリカモメを見かけることも。
↓
- ポイント3 東京ミズマチ
-
鉄道高架下にオープンした新スポット。パン屋さんや甘味処、カフェなどのほか、すみだのものづくりを体験・体感できる「SHOP&WORKSHOPすみずみ」も入っています。
↓
ゴール地点:とうきょうスカイツリー駅正面口
スタート地点のJR総武線両国駅西口から歩き始めます。
国技館通りに面して横綱像が建っています。この通りには何カ所か横綱像があって、これは一番新しいようです。手形のレリーフには「白鵬」と書いてあります。あまり似てないように思いますが。
国技館の外柵の前に案内板が立っています。忠臣蔵に架空の人物が登場していたとは知りませんでした。
忠臣蔵
Site of Tawaraboshi Gemba’s stable
俵星玄蕃の道場跡
宝蔵院流の槍の名手、俵星玄蕃は忠臣蔵に登場する架空の人物で、彼の道場は、本所横網町のこの辺りにあったとされています。上杉の家老・千坂兵部が二百五十石の高禄で、吉良家に召抱えようとしますが、赤穂浪士の世を忍ぶ苦心に同情を寄せた玄蕃はこれを断りました。屋台の夜なき蕎麦屋「当たり屋十助」に姿を変えて吉良邸を探っていた赤穂浪士・杉野十平次の前で、「のうそば屋、お前には用の無いことじゃが、まさかの時に役に立つかも知れぬぞ見ておくがよい」と、槍の技を披露しました。討入り当夜、助太刀に駆けつけると、杉野に会い、たいへん驚き、吉良邸外の守りを固め、本懐成就に協力したとされます。
国技館は普段は閉鎖されていますが、日によって一部の施設が開館されることがあります。2025年7月に再訪した時は、開館日だったようで中に入ることができました。
柵の外からは見えませんが、櫓太鼓の傍に大きな石碑が建っています。天皇で最初に蔵前国技館で本場所を観戦したのは昭和天皇で、昭和三十年(1955年)夏場所10日目の戦後初の天覧相撲でした。行幸の際に詠んだ御製の記念碑が蔵前国技館に建立され、現在は両国国技館に移設されています。
御製
ひさしくも
見ざりしすまひ(相撲)
人びとと
手をたたきつつ
見るがたのしさ
昭和三十年五月、天皇陛下親しく蔵前国技館に行幸。はじめて国民と共に本場所を観覧あらせられた。陛下は終戦時国民を想い、「五内為ニ裂ク」と仰せられた。又日常国民の上に御心の安まる間とてもない。然るに御観覧中は椅子を進められ、拍手を送られ大衆も之に和するという光景を現出したのであった。天皇が一般国民と一つになって我國の國技たる相撲を御覧になった和やかな情景は戦前には見られないことであった。陛下がお喜びになったことが新聞・ラジオ・テレビジョンによって傳えられるや國民全体はまた心の底から喜んだのである。これは其時の御製であって翌年正月初めて發表せられたものである。我國相撲道の發展興隆期して待つべく大日本相撲協會の光栄まことに大なりと言うべきである。
注記:「五内(ごだい)」とは、「五臓」と同じことで、心臓・肝臓・肺臓、腎臓・脾臓の五つの内臓を指します。天皇の終戦の詔書の中で「非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク」とあります。「思いがけない最期を遂げた者、またその遺族のことを考えると、身が引き裂かれる思いがする」との意味です。
石碑の建つ植え込みの中には「さざれ石」が展示され、案内板が立っています。
国歌 君が代に詠まれている さざれ石
此石は学名を石灰質角礫岩と云う石灰質の石が雨水に溶解し其石灰分をふくんだ水が時には粘着力の強い乳状体となり地下にて小石を集結して次第に大きくなる。やがてその石が地上に出て国歌に詠まれている如く千代八千代年をへてさざれ石が巌となりて苔のむすという景観実に目出度い石である。全国至る処石灰質の山に産ずる石であるが特にこの石は国歌発祥の地と云われる岐阜県揖斐郡春日村の山中にあったもので其集結過程の状態が此石を一見してよく知ることが出来る。繁栄と団結、平和と長寿の象徴を賛歌しためでたい石であります。
相撲博物館に入ってみます。向かい側には力士専門の診療所があります。相撲取りには怪我が多いですからね。
館内には大相撲に関連した様々な資料が展示されています。
武蔵丸光洋の化粧廻し
67代横綱武蔵丸光洋(1971年〜)は、アメリカ・ハワイ州オアフ島出身。現武蔵川親方。豊昇龍(1999年〜)の74代横綱昇進(2025年〜)に際し、横綱土俵入を指導した。原画は、日本画家の千住博(1958年〜)による「海光・光輝・波響」。
A set of 3 kesho-mawashi (ceremonical loincloths) used for the ring-entering ceremony of the 67th Yokozuna Musashimaru (1971~). The design is Japanese painter Hiroshi Senju (1958). The 74 th Yokozuna Hoshoryu (1999) used it
in his first ring-entering ceremony at Meijijingu-shrine, Tokyo in January, 2025.
羽黒山政司の横綱
36代横綱羽黒山政司(1914年〜1969年)は、新潟県新潟市出身。鍛え上げた筋肉質の体で廻しを引いての攻めを披露した。横綱土俵入は不知火型。
Shiranui style Yokozuna rope used by the 36th Yokozuna Haguroyama (1914-1969).
国技館の歴史を解説した展示があります。初代の国技館は明治四十二年(1909年)に回向院境内の中に建てられました。しかし、戦災により焼失しました。
炎上する旧両国国技館
昭和二十年(1945年)3月10日の東京大空襲によって、旧両国国技館は炎上し、両国周辺の相撲部屋も焼失した。
Kokugikan was damaged in the Great Tokyo Air Raid on March 10, 1945. Many sumo beya were also burned down.
二代目国技館は浅草蔵前に建てられ、昭和二十四年(1949年)から工事が始まり、仮設として本場所が行われていた蔵前国技館は昭和二十九年(1954年)9月に完成し、同時に相撲博物館も開館しました。
蔵前国技館
昭和二十四年(1949年)から工事が始まり、仮設として本場所が行われていた蔵前国技館(東京都台東区)は、昭和二十九年(1954年)9月に完成。同時に相撲博物館も開館した。
Kuramae Kokugikan (previous sumo arena)
This hall was completed in September, 1954.
現在の三代国技館は、昭和六十年(1985年)に開館しました。
両国国技館
昭和六十年(1985年)1月9日に開館。相撲の街といわれる両国(東京都墨田区)に本拠地を戻した。現在も年3回の東京場所を開催している。
The current Kokugikan opened in January 1985. This year marks the Kokugikan's 40th anniversary.
国技館開館40年の告知文が掲示されています。
2025年 国技館開館40年
昭和六十年(1985年)、両国国技館が完成。実に39年ぶりに本場所の舞台が両国に戻った。初日には天覧相撲が行われるなど、大変な盛り上がりを見せた。現在の国技館では、1980年〜1990年代に横綱千代の富士が活躍し、近年は朝青龍や白鵬をはじめ、外国出身力士が土俵を席巻したことも記憶に新しい。令和七年(2025年)で開館40年を迎えるが、これからもさまざまな力士が登場し、相撲の歴史が築かれていくだろう。
The current Kokugikan opened in Ryogoku, 1985. It will celebrate its 40th anniversary in 2025. Many more rikishi will continue to make sumo history here.
開館式では、千代の富士と北の湖による「三段構え」が披露されました。
三段構え
千代の富士と北の湖
昭和六十年(1985年)1月9日
両国国技館の開館式で三段構えを披露した58代横綱千代の富士(1955年〜2016年)が、一月場所で優勝。一方、北の湖は場所中に引退した。
At the opening ceremony of the Kokugikan in 1985, Yokozuna Kitanoumi and Chiyonofuji performed the 3 ancient basic forms of sumo.
上棟式で使用された工具が展示されています。
両国国技館上棟式工具
昭和五十九年(1984年)4月27日に上棟式が行われた。春日野理事長(元栃錦)らによって最後の鋲が打たれた。
Tools used in the present Kokugikan construction ceremony in April 27,1984.
昭和天皇は、昭和三十年(1955年)の五月場所(夏場所)で初めて大相撲を観覧しました。櫓太鼓の傍の石碑に彫られていたのがその時の気持ちを詠んだ歌(御製)です。
昭和天皇天覽相撲
昭和三十年(1955年)五月場所10日目
昭和天皇が初めて本場所の会場へ行幸して、大相撲を観戦した。昭和六十二年(1987年)までに40回の天覧を行った。
Emperor Showa 1st watched sumo at the Kokugikan in May tournament 1955.Emperor
Showa watched sumo 40 times until 1987.
昭和天皇御製
東久邇成子(1925年〜1961年)書
昭和天皇が、昭和三十年(1955年)夏場所観戦後に詠んだ御製。「ひさしくも 見ざりし すまひ 人びとと 手をたたきつつ 見るがたのしさ」。東久邇成子は昭和天皇の第一皇女。
Emperor Showa's poems, 1955.
売店は正面入り口の左側奥にあります。
店内には、所狭しとお相撲グッズとかお土産品が並んでいます。
意外とお菓子類が多いですね。Tシャツは着るには大き過ぎますから、部屋のお飾りですかね。
売店の向かい側の稲荷門脇に小さな神社が2社並んでいます。
左が豊国稲荷神社で、右が出世稲荷神社です。両社とも、国技館の移転の度に遷座してきました。力士たちの開運・出世・興行の成功祈願や勝利祈願のために祀られたもので、まるで双子のように同じ鳥居・手水舎・狛狐・社殿が並んでいます。国技館の隅にあって目立ちませんが、相撲好きの方には魅力溢れる聖地となっています。
国技館を出ます。国技館通り沿いのベンチの背もたれに、北斎が描いた絵の素材となるスケッチが貼られています。
北斎漫画と呼ばれる絵手本だそうです。
「北斎漫画」(部分)
世界的に有名な絵手本で、海外では「ホクサイ・スケッチ」として親しまれています。全十五冊、総図数は約三千九百図にのぼり、人間や自然、神仏妖怪など、ありとあらゆるものが描かれていて、「絵の百科事典」と呼ぶにふさわしい内容です。
Sketches by Hokusai (part)
The Hokusai Manga, known internationally as "Hokusai's Sketches," is a world-famous collection of sketches of various subjects by the Japanese artist Katsushika Hokusai. Subjects of the sketches include humans, nature, gods and the supernatural. There are roughly 3900 images in this set of 15 volumes, which are worthy of being called the "Encyclopedia of Pictures".
かなり漫画チックな描き方ですね。
天水桶は神社などで見かけますが、これはその市中版で雨水を貯めて再利用する装置だそうです。
天からの恵みを集めて活かす「両国さかさかさ」天水収穫装置
雨を「よける」のではなく「集めよう」。都会ではとかくやっかいもの扱いされがちな雨。しかし、雨なしには草花も育ちません。雨はありとあらゆる生命の源です。大地を潤し、緑を育み、地下水となります。豊かな地下水は湧水となり、川に豊かな流れをもたらします。コンクリートやアスファルトが目立つ東京のまちも、実は空と大地の間を循環する雨によって支えられているのです。雨は、天水。天からの恵みの水。この装置は、天水をもっと大切に、もっと有効に活かすシンボルとして、大地から空に向けて広がる「逆さ傘」をコンセプトに作られました。下部は、この逆三角屋根に降った雨を貯める容量約600lのタンクになっています。貯めた雨水は、付近の花壇への水やりや打ち水などに活用します。「歩道の緑地」という都市の公共空間で、天からの恵みを集水・貯留・活用し、大地に戻す−。市民と企業と行政との協働による、天水を活かしたまちづくりへの実践です。
天水の収穫と活用
空から降る雨は、命の源。くらしの中で、街並の中で、天からの恵みである雨を有効に活用することは、これからますます深刻化するといわれる都市の環境問題、洪水・渇水や大地震などの自然災害への備えとして、私たちひとり一人が取り組むことのできる解決策のひとつです。墨田区から、全国そして世界へと広がりつつあります。
雨の恵みプロジェクト
ライオン株式会社とNPO法人雨水市民の会は、2008年より協働で「雨の恵みプロジェクト」を推進しています。まちのなかで雨水を貯留、浸透及び利用する意義を探求し、社会への普及を目指して活動しています。
両国駅花いっぱい運動
ライオン社員のボランティアグループ「花ボランティア」は、両国駅周辺の環境美化を目的に、2005年から両国駅周辺の花壇やフラワーポットに草花を植え育てる「花いっぱい運動」をしています。タンクに集めた雨水は、これらの草花への水やりに活用します。
間伐材の活用
天水も緑も循環資源です。森の管理には間伐とその有効利用が欠かせません。この装置には山梨県、栃木県の間伐材を使用し、製作過程での環境配慮にも努めています。
(ライオン株式会社では2006年より森林環境と水環境の保全を目的として、山梨県内で「ラ
イオン山梨の森」活動を行っています。)
北斎の掲示板が立っています。
葛飾北斎 新柳橋の白雨 御竹蔵の虹 −絵本隅田川両岸一覧−
狂歌絵本「隅田川両岸一覧」三巻のうち、中巻の一枚です。にわか雨に降られ、傘を持った人々が新柳橋の上を走っている様子が、隅田川の対岸から描かれています。白雨というのは天気雨のことです。左奥の橋は御蔵橋で、幕府の材木蔵であった「御竹蔵」の入堀に架かっていました。奥一帯の「御竹蔵」には当初は建築用の資材が保管されていましたが、現在の猿江公園の材木蔵に移されるようになると米蔵として使用され、本所御米蔵と称されました。その広大な敷地は、現在の国技館、江戸東京博物館などがあたります。
Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River:
Shinyanagi Bashi no Hakuu Otakegura no Niji
(Sudden Rain at the New Yanagi Bridge/Rainbow Above Bamboo Warehouses)
One of the prints from the second of the three-volume comic tanka picture books, Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River. This print shows a scene of people with umbrellas crossing the New Yanagi Bridge during a light shower, and it is drawn from the opposite side of the Sumida River. The term "sudden rain" refers to an unexpected shower. The bridge on the far left is the Mikura Bridge. It spans the entrance to the Otakegura bamboo warehouses, where the Shogun's timber was stored. The area behind the Otakegura warehouses was used to store building materials at that time, but it became a rice warehouse when it moved to the timberyard located in the present-day Sarue Park, and became known as the Honjo Rice Warehouse. This normous estate is now occupied by the Ryogoku Kokugikan, the Edo Tokyo Museum and other facilities.
その横にベンチが設けられていて、背もたれの壁の上には北斎の浮世絵が3枚貼られています。
両国の夕涼み風景が描かれています。
両国夕涼
夕涼に花火見物を楽しむ人々と両国橋や一之橋の情景です。
Evening Cool at Ryogoku
This print depicts people enjoying an evening of fireworks at Ryogokubashi Bridge and Ichinohashi Bridge.
冨嶽三十六景の中の一景です。
冨獄三十六景 御厩川岸より両国橋夕陽見
夕暮れ時でシルエットになった両国橋や富士山を描いています。
Viewing Sunset over the Ryogokubashi Bridge
from the Ommayagashi River Bank, from the series Thirty-six Views of Mount Fuji
This print depicts Ryogokubashi Bridge and Mt. Fuji silhouetted at sunset.
両国花火大会が描かれています。
新板浮絵 両国橋夕涼花火見物之図(部分)
両国橋で花火を上げる景色を、隅田川の西側から描いています。
Watching Fireworks in the Cool of the Evening at Ryogokubashi Bridge,
from the series Newly Published Perspective Pictures (part)
Fireworks at Ryogokubashi Bridge, depicted from the western side of the Sumida River.
国技館通りを横断します。ライオンパール両国ビル別館の前に百本杭の案内板が立っています。
百本杭跡
百本杭とは、総武線鉄橋あたりの隅田川の湾曲した東側の部分に打たれていた護岸のための杭で、ここからほど近い川中にありました。川の流れを和らげて、土手を保護する役目を負っていました。その辺りは、明治中頃までは鯉の釣り場として有名で、釣り好き幸田露伴もよく出かけたといわれています。その風景も見事だったため、広重の「東都名所」にも描かれていますし、最後の浮世絵師といわれる小林清親が「千ぼんぐい両国橋」や「東京両国百本杭暁之図」として、浮世絵に描いています。また、歌舞伎の「色街模様薊色縫」の「稲瀬川百本杭の場」で、かなわぬ恋をした二人が身を投げて心中する場所とされています。
- ポイント1 ヒューリック両国リバーセンター
-
ヒューリック両国リバーセンターは隅田川に面し、両国国技館や旧安田庭園・刀剣博物館・江戸東京博物館など歴史や文化に関わる観光資源が集積する地域に立地していて、 両国の地域特性を最大限に活かす複合施設となっています。2階〜9階には、2020年11月に「ザ・ゲートホテル両国 by HULIC」が開業しました。
エスカレータを上がって隅田川テラスに向かいます。このビルは建物の中心部に都市から川へと通り抜けができる半屋外空間「すみだリバーゲート」を設け、川と都市を繋いでいます。
施設には、ホテル・東京都による水上バス待合所・墨田区による両国子育てひろばの3つの機能を中心に、シェアサイクルやカーシェアなどの機能も誘致して交通結節点としての機能も持たせています。
水上バスの船着き場は階段下に直結しています。
- ポイント2 隅田川テラス
-
東京都は、水辺の賑わいを創出し、都市の魅力を向上させていくことを目指して、隅田川の防潮堤に「隅田川テラスギャラリー」を設け、中央区浜町地区・墨田区両国地区・台東区今戸地区にそれぞれの地区の江戸時代から昭和時代の文化や街並みなどの錦絵を展示しています。両国地区では、両国地域の伝統的な江戸情緒を感じられる錦絵と地元小・中学校の卒業制作作品や在校生制作作品を展示しています。
◆隅田川テラス
隅田川では河川テラスを順次整備しています。この河川テラスを歩くと勝鬨橋から白鬚橋まで隅田川を眺めながら散策することができます。川沿いには江戸東京の歴史や文化を今なお残している町があり、テラスを歩くと今まで知らなかった隅田川の素晴らしさ、懐かしい面影に出会うことができるかもしれません。
両国の風景が描かれています。
東都両國之風景
空を広く取り、丁寧に影を描き込むなど、西洋絵画のような雰囲気を漂わせた作品。両国橋を、西詰(にしづめ)の上流側から描いている。画面右側に高くそびえるのは、筵(むしろ)等で作られた見世物小屋。本来両国橋西詰めは火除け地(ひよけち)のため、建築は許可されていない。そのため見世物小屋も水茶屋(みずぢゃや)も、いつでも取り壊せるよう簡単な作りとなっている。全体として静かな印象を与える絵に仕上がっている。
明治初期に架けられた木橋の様子が描かれています。
東京名勝両國橋新築図
明治八年(1875年)に架けられた洋式木橋の新築当初の姿である。作者の三代広重は、初代広重の門人で本名は寅吉(のち寅次郎)といった。初代の跡を継いだ兄弟子の二代広重が師の娘と離婚して師家を去ったため、その後に婿に入った寅吉が広重の名を継ぐこととなった。その画風は初代の影響を受けること少なく、文明開化の風俗を描くことに長けており、「開化絵」の代表的絵師として名を馳せた。
夏の夕べの風景が描かれています。
江戸八景 両國橋の夕照
夕日の残る両国橋界隈の様子を描く。遠くに見える大きな橋が両国橋で、橋の左手には東岸の回向院の境内に立つ見世物小屋や幟(のぼり)が見え、右には両国橋西詰(りょうごくばしにしづめ)の見世物小屋と幟もちらりとのぞく。手前に架かるのは柳橋。人の往来も多く、「書画会(しょがかい)」の幟なども立ち、柳橋界隈の賑わい振りがよくわかる。空には花火が上がり、夏の夜の宴がいよいよ始まる。
花魁や芸者達が乗る舟が華やかに描かれています。
隅田川花の賑ひ
竹屋の渡し付近を描いている。花魁や芸者達の乗る船が、墨堤上の賑やかさに花をそえている。渡し場の奥には、三囲(みめぐり)神社の鳥居が見える。竹屋の渡しは三囲神社鳥居付近と、待乳山(まつちやま)のふもとを流れる山谷堀の南岸を結んでいた。
墨堤の桜が描かれています。
隅田川の桜
墨堤の桜は、八代将軍徳川吉宗が享保二年(1717年)、木母寺門前から寺島村上がり場までの堤に桜を植えたことに始まる。その後も桜は植え増され、文政十年(1827年)の「江戸名所花暦」では、墨堤は「江戸第一の花の名所」と言われた。
花見の風景が描かれています。
東京名所之図 隅田堤花ざかりの図
水面におおいかぶさる桜と、隅田川から大挙して押し寄せる人々、酔って踊る人が描かれ、花見の時期の賑やかさが見てとれる。画面奥には吾妻橋、隅田川西岸には浅草寺・凌雲閣が見え、はるか彼方には富士山が描かれる。
漕艇がなかったら江戸時代と思われそうな風景です。
東京名所 墨堤之桜
画面奥に描かれている建物は、隅田川西岸の待乳山聖天(まつちやましょうてん)。隅田川を漕ぐ船は、明治期に最も盛んに行なわれたスポーツ「レガッタ」である。
御殿女中が大挙してお花見に出かけています。
墨堤奥女中花見之図
待乳山、浅草寺を背景に、三囲神社の前を通る御殿女中の一群。隅田川に浮かぶ都鳥が優雅さを添える華やかな絵である。
小松島八州園から見た隅田川の眺めです。
小松島八州園美人の賑ひ
小松島八州園は、現在の白鬚橋の東岸、墨田区堤通1−19付近にあった庭園である。明治十一年(1878年)に日本鉄道会社社長小野義真がこの地を埋め立てて別荘としたもので、明治十七年からは一般にも公開されていた。庭の築山にのぼると関東八州を見晴らす眺望だったことから八州園と号し、またその庭園は奥州松島の景色をうつしたという意味から小松島と名付けられたという。
中学校と小学校の生徒・児童による卒業記念の壁画です。
杭が沢山並んでいます。両国橋への水流の負荷を減らすために川底に打ち込まれた杭だそうです。
両国の百本杭
明治時代ごろまでの隅田川の川岸には、強い水勢を弱め護岸の役目を果たす多数の杭が打ち込まれていました。特に、両国橋より上流の左岸側(現在のJR総武線と両国橋のあいだ)に打たれた杭は「百本杭」の愛称で呼ばれ親しまれていました。幼少をこの地で過ごした芥川龍之介は、作品「本所深川」で百本杭のあった頃の隅田川の風景を振り返っています。また、幸田露伴の著した東京の水辺の風景についての随筆「水の東京」でも「百本杭」について、「百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出でたるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた特に深し。ここにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり。」と記しています。「百本杭」を題材とした絵画も何点か描かれており、江戸時代から続く昔の隅田川の風景を偲ばせる名所となっていたようです。
当時の護岸の復元
当時の隅田川の護岸は石積でつくられていました。明治時代の柳橋の写真を見ると、あまり規格化が厳密ではない間知石による布積の技法(布目崩し)で積まれていたことがわかります。隅田川テラスギャラリーの整備において、当時の護岸景の一部をここに復元しました。背景の堤防壁面には、当時の隅田川の様子を描写した絵画を展示しています。また、蔵前橋の上流側には、当時の護岸形状をモチーフとした花壇を布目崩しの技法を用いて設置しました。材料は、当時の東京で多く用いられていた真鶴産の安山岩(小松石)と良く似た秋田の男鹿石を用いています。
蔵前橋は、昭和二年(1927年)11月に竣工した隅田川に架かる橋で、蔵前橋通りが通り、橋全体が稲の籾殻を連想させる黄色に塗装されています。昭和二十九年(1954年)9月から昭和五十九年(1984年)12月まで橋の西詰に蔵前国技館があり、高欄には力士などのレリーフが施されています。関東大震災の復興計画により現在の橋が架橋され、それ以前は「富士見の渡し」と呼ばれていた渡船場がありました。
厩橋(うまやばし)は、関東大震災の復興事業として昭和四年(1929年)9月に完成した橋で、春日通りが通っています。現在の橋は長さ151.4m・幅24.5mの三連アーチ橋で、昭和六十二年(1987年)から平成元年(1989年)にかけての隅田川著名橋整備事業で補修・補強や装飾が行なわれ、親柱上部には馬が浮かび上がるステンドグラスが取り付けられ、橋全体に馬を連想させるレリーフが施されています。橋名は西岸にあった「御厩河岸(蔵前の米蔵の荷駄馬用の厩)」に因んでいます。この場所には、江戸時代の元禄年間頃から続いていた「御厩の渡し」がありました。明治五年(1872年)に花見客の人出でこの渡し舟が転覆する事故があり、以前から転覆事故が多かったこともあって「三途の渡し」と揶揄されていました。
厩橋の周辺は屋形船の船だまりになっています。
厩橋と駒形橋の間には緑の遊歩道が設けられています。水は流れていませんが、水路もあります。橋も!
水鳥(ユリカモメ?)も暫し休息しています。
駒形橋は、関東大震災後の復興計画により、昭和二年(1927年)6月に架橋され、浅草通りが通っています。橋名は、橋の西詰にある「駒形堂」に因んでいます。橋が架かる前は、この場所に「駒形の渡し」がありました。国内で初めての本格的な鋼中路式アーチ橋で、令和六年(2024年)9月に土木学会選奨土木遺産に認定されました。
◆隅田川の橋
隅田川には古くから橋が架けられ、各種の災害で度々架け替えが繰り返されましたが、「渡し」の頃からの名称、初期の橋の形式、橋詰の風情などに名残が継承されています。本格的な橋が隅田川に架けられたのは江戸時代初期(1594年)で、千住大橋が初めてでした。関東大震災による復興で架橋された橋は、今日でも立派に機能しており、これら先人たちの技術と近代の技術で架けられた橋とが競うように並ぶ隅田川は、橋の博物館とも呼ばれます。
◆駒形橋
【橋長】 149.6m 【幅員】22.0m
【構造】中央径間: 中路式ソリッドリブタイドアーチ橋
側径間: 上路式ソリッドリブアーチ橋
駒形(こまがた)の名は、浅草寺に属する駒形堂に由来します。土地の人々によれば、コマカタは清く発音してコマガタと濁らないと伝えています。ここは古来交通の要地で、”駒形の渡し”のあったところです。江戸の巷説に有名な「君はいま 駒形あたり ほととぎす」の句は、文芸・美術などの上で、 駒形堂とともに、この辺りの雰囲気を伝えるものです。関東大震災の後、復興事業の一環として、この地に新しく優美なアーチ橋が設計され、昭和二年(1927年)に完成しました。
吾妻橋が初めて架けられたのは、安永三年(1774年)10月で、それまではこの場所に「竹町の渡し」と呼ばれた渡し舟がありました。徳川家康の入府から江戸時代にかけて隅田川に架橋された5つの橋のうちの最後の橋で、明和六年(1769年)4月に浅草花川戸の町人伊右衛門と下谷竜泉寺の源八の嘆願が幕府によって許可され、着工後5年で完成しました。当時の橋は、長さ八十四間(約150m)・幅三間半(約6.5m)で、武士以外の全ての通行者から2文ずつ通行料を取ったと記録に残っています。天明六年(1786年)7月の洪水の際に永代橋・新大橋がことごとく流され、両国橋も大きな被害を受ける中で吾妻橋は無傷で残り、架橋した大工や奉行らが褒章を賜ったといわれています。橋名は、当初は「大川橋」と呼ばれていましたが、これは近辺で隅田川が「大川」と呼称されていたことに因んでいます。しかし、江戸の東にあるために町民たちには俗に「東橋」と呼ばれ、後に慶賀名として「吾妻」とされた説と、東岸方面の向島にある「吾嬬神社」へと通ずる道であったことから転じて「吾妻」となったという説があります。明治九年(1876年)6月に木橋として最後の架け替えが行われた際に、正式に現在の橋名である「吾妻橋」と命名されました。この最後の木橋は、明治十八年(1885年)7月の大洪水で流出した千住大橋の橋桁が上流から流されてきて橋脚に衝突し、一緒に流失してしまいました。そのため、明治二十年(1887年)12月に隅田川最初の鉄橋として再架橋されました。鋼製プラットトラス橋で、人道橋・鉄道(東京市電)橋・車道橋の3本が平行して架けられていました。大正十二年(1923年)9月1日の関東大震災によって木製だった橋板が焼け落ちてしまい、一時的な補修の後で昭和六年(1931年)に現在の橋に架け替えられました。
◆吾妻橋
【橋長】150.0m 【幅員】20.0m
【構造】3径間鋼ソリッドリブタイドアーチ橋
吾妻(あづま)の名は、古来、東国・関東地方を総称するアズマの語に由来しています。また立花の吾嬬神社にもゆかりをもっています。もとは”竹町の渡し”のあったところで、安永三年(1774年)に住民によって有料の橋が架けられ、大川橋と呼ばれていましたが、後には吾妻橋と通称されました。明治九年(1876年)には、吾妻橋を正式の名称とし、その後明治二十年(1887年)に鉄製のトラス橋として完成しました。現在の橋は、昭和六年(1931年)に架け替えられました。
吾妻橋東詰で隅田川テラスから上がります。道路を挟んだ向かい側にアサヒビールの本社社屋とホール棟が建っています。アサヒビール本社社屋は、形や色がビールジョッキになっています。金色の液体に泡がモコモコしている様子はまさしくビールです。ホール棟の屋上にある金のオブジェは、“アサヒビール社員の燃える心”をイメージした「金の炎」だそうです。フランス語では「フラムドール」というのだとか。何も知らない観光客は絶対にそうとは思わないですよね。下の黒い部分は「聖火台」だそうで、そこはビアレストランになっており、キンキンに冷えた工場直送ビールをいただけます。私も頂いたことがあります。飲み比べセットがお得です。
吾妻橋の袂から墨田区側の隅田公園に入ります。
墨田区のあちこちに立てられている鬼平情景の案内板があります。
吾妻橋(大川橋)
江戸時代、両国橋、新大橋、永代橋に次いで隅田川に架けられた四番目の橋です。安永三年(1774年)、長谷川平蔵二十九才の時、町人からの幕府への願いが受け容れられ、架橋されました。民営のため武士を除く利用者から渡賃二文を徴収して維持費に充てました。長さ八十四間(約150メートル)、幅三間半(約6.5メートル)あり、正式名は大川橋です。吾嬬神社への参道にあたるとして吾妻橋への改名願いが出されましたが、それが叶ったのは明治九年(1876年)になってからです。鬼平犯科帳でも数々の作品に登場します。なかでも人気の、亡父遺愛の銀煙管が鍵となる「大川の隠居」では、平蔵を乗せた友五郎の櫓さばきも巧みな舟が、吾妻橋をくぐって大川を遡っていく名場面に出てきます。
墨田区役所脇の広場に勝海舟の銅像が建っています。
建立の記
勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政六年(1823年)一月三十日、江戸本所亀沢町(両国四丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治三十二年(1899年)一月十九日(発表は二十一日)赤坂の氷川邸で逝去されました。勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京の発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区に寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。
海舟生誕百八十年
平成十五年(2003年)七月二十一日(海の日)
北十間川が隅田川から分岐する地点と浅草を結んで東武鉄道の鉄橋が架かっています。かっては電車が通るだけでしたが、令和二年(2020年)に橋梁沿いの歩道橋「すみだリバーウォーク」がオープンしました。午前7時から午後10時まで解放され、徒歩で自由に渡ることができます。床面に隅田川を見下ろすのぞき窓があるほか、東京スカイツリー公式キャラクターの「ソラカラちゃん」のイラストが隠されているなど、遊び心あふれる趣向も凝らしています。鉄道の橋梁や東武鉄道の車両が走る様子を間近に見ることができるので、鉄道好きにも楽しめます。
墨堤通りの手前に奇妙なオブジェが建っています。
GTS GEIDAI TAITO SUMIDA Sightseeing Art Project
GTS観光アートプロジェクトは、東京藝術大学(G)・台東区(T)・墨田区(S)の頭文字からなる三者共催の地域連携プロジェクトです。
ゆらぎツリー
この作品は、そよ風が起こした漣(さざなみ)が、鏡面のように澄み切った水面に波紋を投げかけた時に、そこに映り込んですこしゆらぎ始めた東京スカイツリーをイメージソースとし、制作したものです。逆立ちしたようにも見える姿はユーモラスでもあります。また、この先の枕橋からは、北十間川に映りこむ実際の逆さツリーを見ることもできます。このゆらぎツリーが、この場に定着し、皆さんに愛されることを願っています。
枕橋はスカイツリーの絶好の眺望ポイントのひとつです。
枕橋は源森川(北十間川)の河口に架かる橋です。もとは源森橋といわれていましたが、水戸邸の割掘に架かる橋と源森橋が男女の枕をふたつ並べたように見えたことから枕橋と呼ばれるようになりました。 現在は水戸邸の割堀はなくなっていますので、ひとつだけが枕橋と呼ばれ、東側の橋が源森橋と呼ばれています。枕橋の袂に焼き鳥と蜆汁を名物にしていた八百松という料理屋がありました。八百善の料理人松五郎が開いたものです。枕橋から少し離れた植え込みの中に、枕橋の案内碑が建っています。
枕橋の由来
寛文二年(1662年)、関東郡代であった伊奈半十郎により、中之郷(現在の吾妻橋)から向島に通じる源森川に源森橋が架けられた。またその北側にあった水戸屋敷内に大川(隅田川)から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。この二つの橋は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるようになった。その後、堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅した。明治八年、残った源森橋は正式に枕橋と呼ばれることとなった。現在の枕橋は昭和三年に架け替えられたものである。昭和六十三年、本橋は東京都著名橋に指定された。
- ポイント3 東京ミズマチ
-
「東京ミズマチ」は、2020年6月に東武鉄道の高架下を利用してオープンした複合商業施設です。東京スカイツリーを「空の街」と表現していることと合わせ、水辺にあるこの施設を「東京ミズマチ」と名付けられました。店舗は隅田公園前の「ウエストゾーン」と道路を渡った先にある「イーストゾーン」に分かれています。北十間川の親水テラスに面し、川面を眺めながらゆったりと食事できる新業態のレストランや甘味処のほか、コミュニティ型ホステルなどがあり、新しい下町観光の名所として注目されています。
「東京ミズマチ」は、北十間川に架かる源森橋で「イーストゾーン」と「ウエストゾーン」に分かれています。
源森橋の由来を記した石碑が建っています。
源森橋
源森橋の名前の由来は、現在の枕橋(本橋から約二百メートル隅田川寄りの橋)、古くは源森橋と呼ばれていたものが、明治初期に枕橋に正式決定されたことから、本橋を源森橋と呼ぶようになったことによるものである。その昔、現在の枕橋(旧源森橋)が関東郡代であった伊奈半十郎により中之郷瓦町(現在の吾妻橋地区)から新小梅町(現在の向島地区)に通ずる源森側(現在の北十間川)に架けられた。また枕橋(旧源森橋)北側にあった水戸屋敷内に大川(隅田川)から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。この二つの橋(旧源森橋、新小梅橋)は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるようになった。その後、水戸屋敷内への堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅し、残った旧源森橋は明治初期に正式に枕橋と呼ばれることになり、旧源森橋の東側にあった本橋を源森橋と公称した。現在の源森橋は、昭和三年に架設した鋼橋(上路式アーチ橋)が約八十年経過し、老朽化したため、平成十九年三月に鋼橋(鋼床版鈑桁)に架け替えられたものである。
源森橋はスカイツリーの絶好の眺望ポイントのひとつです。
ウエストゾーンには多様な店舗があります。「Wise Owl Hostels River Tokyo」は3つ星のホステルで、バー・エアコン付きの79室を提供しています。
コネクトすみだ[まち処]は、墨田区の「ものづくりの名産品」がどこよりも揃っているお店です。ロゴマークの江戸紋様である毘沙門亀甲は、財宝や福徳をもたらしてくれる七福神の一神である毘沙門天さまの甲冑にこの文様が使われていて、特に縁起良い吉祥文様となっています。また、中の図柄を「人」にすることで、「人と人がつながる」というイメージを表しています。
沿線食堂は、2022年6月18日に東京ミズマチにオープンし、「食べて守ろう!沿線にある食堂の味」をスローガンにして、大切な食堂の味を多くの人たちに届け、食を通じた沿線の食堂のサポートを行っています。
小梅橋船着場は、2021年春に隅田公園とミズマチから東京スカイツリーへ向かう北十間川に新しくオープンしました。北十間川から隅田川や両国・日本橋方面へのクルージングが様々な舟運事業者によって運航されています。現在はイベント船が中心のため、運航日時は不定期になっています。
イーストゾーンは小梅橋の袂で終わります。小梅橋は、北十間川に架かる橋梁で、最初の橋は1953年に完成してから約63年が経過して老朽化が進んだため掛け替えが行われ、2020年4月1日に現在の新橋が開通しました。「小梅」という地名は、元は「梅香原(うめがはら)」と呼ばれた梅の木が多い地域だったことに由来し、梅の名所でした。
パデル東京ミズマチは、スペイン発祥の人気ラケットスポーツ「パデル」が楽しめる専用施設です。パデルはテニスとスカッシュをあわせたようなスポーツで、世界で2、500万人の競技人口を持ち、欧州や南米ではテニスの人口を上回る国も多く、老若男女がプレーできる国民的なスポーツです。あまり馴染みのないスポーツですが、多くの企業が協賛しているとのことです。
フェンスに囲まれたコートの中でボールを打ち合うのですが、コートは壁で仕切られていてボールが壁で跳ね返っても有効なため、非常に激しい動きが必要です。
ゴール地点のとうきょうスカイツリー駅に着きました。2022年に訪れた時は、駅の入口に煌びやかな装飾がされていましたが、2025年に再訪した時は道路側の入口は閉鎖され、高架の下に新しい入口ができていました。ソラカラちゃんとテッペンペンちゃんとスコブルブルじいさんが並んだキャラクターはスカイツリーの玄関駅として相応しいデコレーションだったんですけどね。
ということで、墨田区で最後のコースである「D水辺の景観とおしゃれな観光スポットをめぐるよくばりコース」を歩き終えました。次は葛飾区のウォーキングマップで最初のコースである「@水元エリア」を歩きます。
戻る