- @水元エリア
- コース 踏破記
- 今日は葛飾区の「@水元エリア」を歩きます。JR常磐線の亀有駅からバスに乗って中川を渡り、西水元一丁目バス停をスタート地点として葛飾清掃工場の煙突を眺めながら水元公園の南西端まで進み、水元公園の西側沿いに北上してかわせみの里からゴール地点の水元特別支援学校前バス停を目指します。
@水元エリア
「@水元エリア」の歩行距離は約6.1km(約8、710歩)、歩行時間は約1時間31分、消費カロリーは約273Kcalです。
スタート地点:西水元一丁目バス停
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- ポイント1 安福寺(夕顔観音)
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- ポイント2 かつしかポニースクール
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- ポイント3 水元スポーツセンター公園
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- ポイント4 香取神社
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- ポイント5 水元さくら堤
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八代将軍徳川吉宗公の治水事業のなごり。約600本の桜が遊歩道沿いに植えられている。
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- ポイント6 水元かわせみの里
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水辺のふれあいルームでは、水元小合溜の魚やカメ、植物などを観察することができる。
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- ポイント7 水元神社
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ゴール地点:水元特別支援学校前バス停
スタート地点の東武バスセントラル【有27系統】西水元一丁目バス停から歩き始めます。【有27系統】の路線図を見ますと、亀有駅北口を起終点とした一方通行の周回コースになっています。ということは、ゴール地点が水元特別支援学校前バス停なので、帰りに亀有駅まで行くには随分と遠回りしないといけませんね。
- ポイント1 安福寺(夕顔観音)
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西水元一丁目バス停から中川方向に路地を回り込んだ先に安福寺があります。安福寺の創建年代は不明ですが、元和八年(1622年)の飯塚村検地帳にその存在が記されていますので、江戸時代初期には既にあったと推測されます。
安福寺に秘仏として安置されている「夕顔観音」は、かつては江戸名所のひとつとして有名でした。寛文八年(1668年)、飯塚村の名主だった関口氏が夢のお告げで松の根元を掘ると夕顔の瓢箪が出てきました。瓢箪を割ると中から金の観世音菩薩像が出てきたことから「夕顔観音」と名付けられたといわれています。その後、観音像は自宅近くの観音堂に安置されていましたが、明治時代に関口家は没落し、また夕顔観音の人気も失ったことで、明治二十六年(1893年)に観音堂は廃堂となり、夕顔観音は最終的に関口家菩提寺の安福寺に安置されることになりました。現在は、葛飾区有形文化財に指定され、秘仏として12年毎の午の年4月に開帳されています。
写真はネットからの転載です。
夕顔観音関係資料が案内板に書かれています。
夕顔観音関係史料
区指定有形文化財 銅造懸仏
区登録有形文化財 三間社流造石祠 2棟 附 建立記碑 1基
区登録有形民俗文化財 夕顔観音灯籠・水盤
安福寺に伝わる秘仏の銅造懸仏は、銘文から弘長二年(1262年)につくられました。この懸仏は夕顔観音と呼ばれ、様々な伝承が伝わっています。「東葛西夕顔観音縁起」(区登録有形文化財)には、寛文八年(1668年)飯塚村の名主関口氏が、夢のお告げで松の根元から掘り出した観世音菩薩を夕顔観音と名付け、堂に安置したと記されています。また江戸近郊の地誌「四神地名録」には、夕顔観音は紫式部が秘蔵したもので、源氏物語の夕顔の巻にちなんで名づけられたと記されています。また、江戸時代中期の噂話を書き留めた「元禄世間咄風聞集」では、多くの人々が万能薬を売る夕顔観音に訪れたことが記されています。「新編武蔵風土記稿」の飯塚村安福寺の項では「三社権現社 水神社共ニ石祠ナリ。観音出現ノ所ニテ。古キ勧請トイヘリ。」とあり、三間社流造石祠2棟がそれに相当します。建立記碑は、一部埋没されているため判読できない部分もあります。灯籠と水盤には、正徳元年(1711年)8月の刻銘があります。
本堂の前に立派な三門が建っています。
解説
《一》三門の両側に立つ一対の仏像【仁王像】
東側(向かって右)阿行(口を開く)
西側(向かって左)吽行(口を閉る)
卍常に皆様と寺を【悪業・魔物】より見守っています。
【仏教】は救いの神で心胸の手合いに満ちた密経の教え般若経
《二》三門・正面・中央・上部【天女】
@天上界に住む伝説の女・女性(天使)
A女神
B極めて美しい女
C天に導く、救いの神(生前から仏様)下界より天上界に導く羽衣
※天に導く救いの神【阿弥陀如来】に導く仏心の神
《三》内部絵馬(天井画)【四方神】・飛鳥時代神話
@朱雀「南」A青竜「東」B白虎「西」C玄武「北」。
@朱雀(鳳凰孔雀・孔雀綾) 「南門」
A青竜(四神の一・相応の地の一方) 「東門」
B白虎(白虎旗・白虎隊・白虎楼・白虎通 「西門」
C玄武(玄武柱・玄武岩・玄武洞・玄武門辺) 「北門」
※何時でも皆さんを見守り【四方神】平安時代宮中で使われた。
《四》天上【格天井】で構造作り(天井・壁)は全黄金で貼付け仕上げです。
近くの公園の名前も「ゆうがお公園」になっています。
- ポイント2 かつしかポニースクール
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かつしかポニースクールは、葛飾区制施行50周年記念事業のひとつとして、昭和五十七年8月に開園した子どものための社会教育施設です。幼児から中学生までの子どもたちがポニー(小型種の馬の総称)の世話や乗馬、子ども同士の交流を通して豊かな人格形成を図っています。乗馬は、軽乗(けいじょう)といわれるアクロバット乗馬も取り入れています。事業内容は大きく分けて、引き馬・個人教室・団体教室の3種類で、個人教室には健常児・障害児を合わせて約300人の子どもが参加しています。障害児の乗馬教室(パートナーアニマル)は全国的にも珍しく、様々な障害のある子どもたちが乗馬を楽しんでいます。
葛飾区立 子ども動物広場(ポニースクールかつしか)
この施設を利用されるみなさんへ
ポニースクールかつしかは青少年のみなさんが”やさしい心”と”すこやかなからだ”をそだてていただくためにつくられたものです。きまりを守り、みんなで仲良くポニーに親しみましょう。
◎ポニー(引き馬)に乗れるのは・・・・・・
3歳から小学生までの子どもです。引き馬のご利用はお一人様一日一回までとさせていただきます。
◎ポニースクールでは・・・・・・
小・中学生を対象として「ポニー教室」を開いています。
団体利用の制度もあります。
くわしいことは事務所にお問い合わせください。
◎動物とのふれあいもできます・・・・・・
子どものほか、どなたでもできます。エサやりはお断りいたします
厩舎内には何頭ものポニーが出番を待っています。
馬場はかなり広く、一周すれば十分楽しめそうです。引き馬は、インストラクターが轡をとって馬を引き、子どもは乗っているだけで操作をしなくてよいので、小さな子どもでも安心して気軽に楽しめます。
かつしかポニースクールの南側には、敷地面積約52、000uの葛飾清掃工場があります。葛飾清掃工場は平成十八年12月に竣工し、焼却能力は250トンX2炉基の一日当たり500トンです。ゴミの焼却によって生み出された余熱は、水元学び交流館や水元総合スポーツセンターで利用されています。
- ポイント3 水元スポーツセンター公園
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水元スポーツセンター公園は、葛飾清掃工場を囲むようにつくられた公園で、清掃工場の東、北、西、南側に分かれています。
体育館には、様々な競技に対応できるアリーナ、常駐のスタッフがマシンの使い方や正しいフォームを指導してくれるので初めての人でも安心して利用できるトレーニングルーム、25mx8コースの他に歩行用や幼児用やジャグジーもある温水プール、柔道や合気道等に適した第1武道場・剣道や空手等に適した第2武道場、鏡張りのフィットネススタジオなどが備わっています。
岩槻街道の岩槻橋交差点から、川のような湖のような水面が広がる内溜(うちだめ)の東岸を進みます。
この辺りの地名は「小合(こあい)」と呼ばれますが、これは「小鮎(こあゆ)」が転訛したのだそうです。
小合の歴史
小合の地は、葛西清重が鎌倉時代に伊勢神宮に寄進した葛西御厨のひとつといわれ、香取神宮に保存されている康永四年(1345年)の「造営所役注文」には「小鮎」と記されています。戦国時代には、小鮎が転訛して小合となり、江戸時代には上小合・下小合・小合新田と呼ばれていました。
遊歩道は、「こあゆの小路」と呼ばれています。
細い水路に架かる皀莢橋(さいかちばし)を渡った先に石庭広場があります。
水路の脇に句碑が置かれています。石井露月は俳人で、雨に濡れた若葉に月影が差すのを見て露月と号するようになりました。脚気に悩まされながらも度々上京して正岡子規に師事し、本格的に俳句を学ぶようになりました。後半の人生は医師免許を得て郷里の秋田県で医院を開き、俳誌を刊行するなど村の発展に尽くしました。
夕風や
さいかちの実を
吹き鳴らす
石井露月
- ポイント4 香取神社
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香取神社の創建年代は不明ですが、中世において下総国香取神宮の所役地(荘園)であったことから、香取神宮の分霊を勧請して創建されたといわれ、下小合村の鎮守社でした。小合溜の畔に位置しているために度々水害に遭っていて、その都度社殿の修築が行われました。
香取神社由来
祭神として経津主命を斎る。当社は小合溜井の河畔にあり中世葛西御厨小鮎郷と称し伊勢、香取の神領地により当地宮司鈴木氏の遠祖は此の地にあって猿ヶ俣御厨在住の占部氏と共に香取神宮の貢税を掌どった所とも言える。後小田原北条氏の勢力範囲となり、その家臣遠山丹波守の所領となって自然御厨の地域の廃滅するに至った。以来幾許もなく徳川の所領となると同時小合村の鎮守となる。当社は当地鈴木家(現宮前町会)の内宮として香取神宮の御分霊を勧請し此地小合郷に奉斎したしたことが始まりと言う。宝永元年(1704年)八月古利根川猿ヶ又堤防決壊による水害で古い記録を失い創立の由緒年代については明らかでないが社蔵の板碑に正慶二年(1333年)文和四年(1355年)のものがあり、葛西御厨当時小鮎郷と称して下総香取神宮の神領地関係から推察し鎌倉期にさかのぼると思われる。
創立以来社殿の再建が行われたが文政十一年(1828年)十二月宮司鈴木大和正安治氏の時社殿造営が行われ、次いで昭和四年十月宮司鈴木一三氏の際再建された。本殿は文政十一年の建造物で向拝付総檜造りである。尚社殿に奉掲する「香取社」の社号扁額は勝海舟安房書になるもの、境内御手洗石は享保二十年(1725年)九月氏子中によって奉納されたもの。
6月下旬の「夏越の祓」では「茅の輪くぐり」の神事が行われています。
葛飾区登録無形民俗文化財
茅の輪くぐり神事
毎年6月晦日の夏越の祓(六月祓)に茅の輪をくぐれば疫病や穢れを祓うという信仰は根強く、葛飾区内では香取神社のほか4か所の神社(上小合日枝神社・金町葛西神社・上平井天祖神社・渋江白髭神社)にこの行事が伝わっています。茅の輪の材料のマコモは、氏子によって水元公園周辺から刈り取られ集められます。完成した茅の輪の直径はおよそ2mにもなり、鳥居の中に吊されます。当日は茅の輪くぐりのほか、氏子が持参した「ひとがた」を神官が拝殿に据えた炉の火でお炊き上げを行い、最後に囃子連中の先導で小合溜に灰を散布します。六月大祓行事の諸要素を今日まで伝承している意義深い神事です。
内溜と外溜の境の遊歩道を通って対岸に渡ります。右手には水元公園のシンボルともいえる全長70mほどの水元大橋が架かっています。1973年に竣工し、何度か改修が施されています。水面に近い高さに橋があるのは、水量の上下がほとんどない水元小合溜にかかる橋ならではです。幅がそれほど広くないので、人が多い土日は混雑します。
水元公園は、昭和四十年(1965年)4月1日に開園した面積96.3haの都内23区の中でも最大規模の都立公園です。この地域は元々は古利根川の河川敷でした。徳川三代将軍家光の江戸川改修事業により古利根川が廃止されたため、小合村が江戸幕府の許可を得て埋め立てて耕作地として、水を蓄えて小合溜と称して管理してきました。水元公園は、その小合溜という準用河川を中心とした水域面積の多い水郷公園です。小合溜から引いた大小の水路が園内を走り、水郷景観を作りだしています。園内にはポプラ並木やメタセコイアの森・ハンノキなど水辺に強い樹木が約2万本生育し、ハナショウブ・スイレン・コウホネといった水生植物を多く見ることができます。桜の咲く季節やハナショウブの咲く季節は花見客などで賑わいます。公園西側を通る桜堤通りは園内随一の桜の見所となっています。公園内には、中央広場・バードサンクチュアリー・バーベキュー広場・はなしょうぶ園・メタセコイアの森・水産試験場跡地に造成された水辺のさと・冒険広場・集会所(涼亭)・キャンプ広場・ドッグラン・グリーンプラザ・水辺の生きもの館などの多様な施設が設けられ、季節を問わず週末を中心に余暇を楽しむ訪問客で賑わいます。武蔵野の路の案内板に、水元公園と小合溜の解説があります。
−水元公園−
水元公園は、小合溜に沿って造られた、都内でただ一つの水郷景観をもった公園です。水と緑豊かな園内には、一万株を超える花菖蒲をはじめとし、各種水生植物が豊富です。また、芝生広場・少年キャンプ場・冒険広場・バードサンクチュアリー(野鳥の聖域)など、自然いっぱいの公園として都民に親しまれています。
−小合溜−
小合溜は、享保十四年(1729年)に治水事業の一つとして開さくされたものです。平時は、この水が東葛西領(現在の葛飾・江戸川地域)の灌漑用水として利用され「水元」という名もここからきています。現在では釣仙郷とも呼ばれ、コイ・フナをねらう釣り客でにぎわっています。
「水元の水郷」と書かれた石碑が建っています。
水郷風景を背景にした芝木好子作の「葛飾の女」の一節が石碑に刻まれています。師である日本画家・滝川清澄への思慕を絶つため、葛飾に嫁していった女弟子の懊悩を水郷の景物を背景に美しく描いた作品です。
菖蒲の咲く頃の葛飾は美しい。田園は青葉に霞んで雲雀が鳴く。堤の桜も花見のころは人が出盛ったが、それも過ぎると水に柳の眺めのよい季節になる。湿地の多い土地柄で、田の畦にも芭蕉が咲いた。
「葛飾の女」より 芝木好子
- ポイント5 水元さくら堤
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水元公園の西側を通る水元さくら堤通りの内側には桜並木が続く遊歩道が設けられています。「手づくり郷土賞」を受賞したのだそうです。
遊歩道の脇には植生保存地が設置されています。
水元さくら堤 自然植生保存地
ここは江戸時代に築かれた桜土手の面影を残し、古くからここに自生している野草の保存地です。この保存地には秋の七草のいくつかが自生しております。秋の七草の代表的な歌としては、
秋の野に咲きたる花を指折り
かき数ふれば七種の花
はぎの花 尾花 葛花 なでしこの花
女郎花 また藤袴 朝貌の花
山上憶良
があります。
植生保存地の中には、秋の七草をレリーフにした石碑が置かれています。「秋の七草」は、奈良時代の歌人、山上憶良(660年〜733年)が詠んだ次の二首の歌が元になっています(後に編纂された万葉集にも採録されました)。
「秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり)
かき数ふれば 七種(ななくさ)の花
「萩の花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花
また藤袴 朝貌(あさがお)の花」
最初の歌の意味は「秋の野に咲いている草花を指折り数えると七種類ある」、二番目の歌は「それは萩の花、尾花、葛(くず)の花、撫子(なでしこ)の花、女郎花(おみなえし)、また藤袴(ふじばかま)、朝貌(あさがお)の花である」と七種類の草花を説明しています。「朝貌」は「朝顔」のことで、諸説ありますが、現在では桔梗(ききょう)のことだと言われています。春の七草は行事食になっているのに対し、秋の七草は鑑賞して楽しむものとなっています。
これは「(はぎ)萩」のようです。
これは「すすき(薄)」です。「すすき」は尾花の別名です。石碑の形が七草毎に変えられています。
これは「くず(葛)」です。
これは「なでしこ(撫子)」です。
これは「おみなえし(女郎花)」です。
これは「ふじばかま(藤袴)」です。石碑の隣に案内板が立っています。
区登録天然記念物
フジバカマ自然群生地
フジバカマ(藤袴)はキク科のヒヨドリバナ属に属する多年生草本です。8月から9月にかけて、枝先に多数の細長い淡紅紫色の一群の花をつけ、高さは約1m〜2mに達します。地下茎は横に長く這い、茎の下部は無毛です。葉は深く3つに分かれ、表面は濃い緑色で光沢がありやや硬く、縁には鋭い鋸歯があります。中国・朝鮮原産で、日本には奈良時代(8世紀)に渡来したとされます。芳香があり、当時は香草として重用されていたようです。関東より西の河川堤防や人家周辺の平地に自生しますが、現在では都内でも稀な植物になってしまいました。この「水元さくら堤」の自然植生保存地には、秋の七草−ハギ(萩)・ススキ(薄)・クズ(葛)・ナデシコ(撫子)・オミナエシ(女郎花)・フジバカマ・キキョウ(桔梗)−が植えられています。
これは「ききょう(桔梗)」です。歌の順番に並んでいるのが凄いですね。
今の風景からは石碑に書かれたような風情は思い描けませんが、ここには思案坂があったそうです。
思案坂
ここ水元の地は「小鮎」の名で歴史に登場し、後に小合と称されました。戦国末期荒廃していた小合に居を定めたのは、上州新田郡細谷郷を出身とする細谷一族です。正平十三年(1358年)多摩川矢口の渡しで足利基氏に討たれた新田義興の武将であった細谷氏は、戦線を離れこの坂まで辿りつきました。満々たる流れの利根川の本流に行く手をはばまれ、「行くもならず、戻るも能わず」と、この坂で思案にくれたと伝えています。傍らの不動堂は天正十五年(1587年)細谷大覚坊らが施主となって建立しました。思案坂は、江戸時代には小合溜井となり、現在では水元公園に姿を変えた古利根川とともに、水元の歴史を今も見守っています。
水元さくら堤通りの左手に日枝神社があります。日枝神社は、寛文三年(1663年)に創建され、上小合村の鎮守でした。元々は現在地から700メートル北東に位置していましたが、水元公園造成工事に伴い、昭和五十三年(1978年)に現在地に移転しました。移転前の日枝神社は鎮守の森に覆われ、例祭の時は大変賑わっていたといいます。旧所在地は小合溜の畔にあったために度々水害に遭い、その都度社殿の修築を行っています。境内社として、白髭神社と稲荷神社があります。
- ポイント6 水元かわせみの里
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水元公園の西北端辺りに、水元かわせみの里があります。水元かわせみの里の愛称で親しまれている水元小合溜水質浄化センターは、水元小合溜の水質を浄化し、かつて水元小合溜に生息していた生きものを呼び戻すことを目的として平成七年に開設されました。水元かわせみ里内にある「水辺のふれあいルーム」は、水元小合溜の水をきれいにする方法や、水辺の自然環境及び水元小合溜の歴史について、展示や講座などを通じて紹介する情報発信の場です。水辺のふれあいルーム内では、水元小合溜の魚やカメ・植物などを観察することができ、専門員による案内や解説を実施しています。
水元公園 かわせみの池エリア
このエリアは水元公園の最も西側にあり、中川から小合溜に水を引いている場所で、小合溜の始まりの場所です。小合溜は古くは大場川と江戸川へつながり、治水のための遊水池や農業用のため池として機能していましたが、いまは直接はつながっていません。しかし、大場川の広々とした景観は小合溜の穏やかな景観とつながり、水元の水郷景観を形づくっています。このエリアはもともと釣堀のあった場所ですが、そのころから多くの水辺の鳥が飛来し、多くの生き物が生息していました。そのなかでもカワセミが多く観察できる場所となっております。このエリアは、これらのカワセミをはじめとする様々な生物のすみかとして、森林や草地、湿地などが組み合わさった多様な環境を復元し、いきものを身近に観察できる場所として整備されています。
バードウォッチングの設備も備わっています。
今日は土曜日ということもあって、団体さんがかわせみにカメラを向けています。
敷地の角に、巨大な石碑が建っています。
揚水工事完成の碑
この地にあった水元揚水場の完成を記念して、建てられた碑です。
要旨
水元の地は昔から農業が盛んで、葛西米の産地として知られていた。ところが、関東大震災などの影響で江戸川からの農業用水が減り稲作に支障をきたし、農家の生活は危機に瀕するようになった。そこで、上下之割水利組合が政府や東京府にかけあった結果、揚水場の建設が決まり5万円余の巨費を投じ、昭和十年(1935年)4月に工事は完成した。
水元揚水場で使用されていた巨大なポンプが保存・展示されています。
この展示物は、昭和十年(1935年)4月から平成三年(1991年)12月まで、この地にあった水元揚水場で水をくみ上げるため使用していたポンプ(昭和九年《1934年》製作)です。水元小合溜は、江戸時代につくられた、かんがい用のため池です。かつては本区の東側を流れる江戸川から、かんがい用水の自然取入れを行っていましたが、関東大震災などの影響で取水量が減少しました。そこで、小合溜を管理していた上下之割水利組合により、水元揚水場が建設されました。
水元公園西側エントランスの手前の広場は、けやきの森になっています。というか、かなり剪定されて丸裸の状態ですが。
水元公園西側エントランス けやきの森
自然環境
このエリアの自然環境は樹林と草地、湿地、水面が連続していることで多様な植物やいきものが生息できる場所になっています。その中でこの樹林環境はもともと神社林としてのタブノキやカヤ、ヤブツバキなどの常緑樹にケヤキやエノキなどの落葉樹が混ざり、たくさんの樹種が健全に生育しています。一部には茂みがあり、生き物の隠れる場所として大切な場所になっています。木の下の地面にはアズマネザサが茂っていますが、そのほかにも多様な草本が生育しています。草本は人の踏みつけに弱いので荒らさないように注意しましょう。
歴史的な遺産
- 閘門橋
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この橋は弐郷半領猿又閘門という名称で、江戸時代より古利根川(現在の中川)、小合川(現在の大場川、小合溜)の氾濫原だったこの地に逆流防止と水源確保、岩槻街道の要として明治四十二年に建造されました。都内でも珍しいレンガ造りのアーチ橋です。
- 浅間神社跡
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旧浅間神社はこの森にありましたが公園整備の際に移転し、水元猿町の鎮守・香取神社と合祀され、社合を水元神社と改めています。
閘門橋は、大場川に架かっています。
閘門橋は、土木学会選奨土木遺産に選ばれています。
閘門橋(明治四十二年完成)
閘門橋は、レンガ造アーチとしては、東京に現存する唯一の貴重な橋です。嬌名の閘門というのは、水位・水流・水量等の調節用の堰のことをいいます。江戸時代(宝永年間)この辺りは古利根川(現在・古川)、小合川(現在の大場川・小合溜)が入り込んだ、複雑な地形を有しており古利根川の氾濫地域でありました。この古利根川と小合川の逆流を防ぎ、水田の水源確保のため、さらに岩槻街道の流通路として閘門と橋が造られたと言われております。現在の橋は、明治四十二年、弐郷半領用悪水路普通水利組合によって「弐郷半領猿又閘門」としてレンガ造アーチ橋が造られました。その後、本橋は新大場川水門の完成により閘門としての役割を終え、また隣接する葛三橋に車道を譲り、歩行者・自転車道に移り変わりました。この改修に当たって、レンガのアーチ部分は原形のままとし、橋面上の修景にとどめました。アーチの橋脚部のブロンズ像は、荒れ狂う風雨と必死に闘いながら閘門の堰板を差込んでいる姿です。閘門橋は、こうした人々の水との生活史を今に伝えるものです。
水元五丁目三叉路から水元神社に向かいます。道路脇に小さな鳥居があり、その奥に2基の石碑が建っています。一方は「水神宮」と読めるのですが、もう一方は文字が剥落して読めません。台座の形状から、昔の井戸跡ではないかと思われます。
- ポイント7 水元神社
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水元神社の創建年代は不明ですが、この地が中世において香取神宮と関係の深い土地柄(荘園)であったため、その頃に香取神宮から分霊を勧請したものと推測されています。水元神社はかって猿ヶ俣村の鎮守でした。昭和の後期、水元公園造成工事に伴って、旧猿ヶ俣村内にあった浅間神社・熊野神社・吾妻神社・天祖神社を合祀してて「水元神社」に改称しました。鳥居を潜ると左手に「水元神社御造営記念碑」と書かれた巨大な石碑が置かれています。長文の上に文字が読み取りにくく、文字起しは断念しました。以下はネットからの要約です。
水元神社御造営記念碑
水元猿町はかって猿ヶ又と呼ばれ、村内には鎮守香取神社(境内社植原稲荷神社)、東部に浅間神社(境内社稲荷神社)、中部に熊野神社・天祖神社、西部に吾妻神社の五社が鎮座し、各地域の神社の祭祀は香取神社が主体となり、明神講中(氏子さんたちの集まり)により祭祀を執り行っていました。
昭和四十二年に東京都は遷都百年の記念事業で水元公園を造園することになりました。昭和四十六年12月、浅間神社が公園用地として都に買収されたので、明神講で話し合い、浅間神社だけでなく、熊野神社と吾妻神社も吸収合祀することになりました。天祖神社については、かつて葛西御厨神宮と呼ばれ、伊勢神宮と深い関わりがあったことから残し、境外末社としました。
浅間神社・熊野神社・吾妻神社の用地を処分して作ったお金で香取神社の社殿を建て直し、参道なども整備して、名称を香取神社から水元神社に改めました。旧香取神社の本殿と鳥居等は境内に移築し、戦没英霊を奉斎する招魂社としました。
後半は、社殿等の整備の記録となっています。
ゴール地点の水元特別支援学校前バス停に着きました。
ということで、葛飾区で最初のコースである「@水元エリア」を歩き終えました。次は葛飾区で二番目のコースである「A東金町エリア」を歩きます。
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