A東金町エリア  

コース 踏破記  

今日は葛飾区の「A東金町エリア」を歩きます。JR常磐線の金町駅を起終点として、水戸街道から江戸川の遊歩道を進み、水元小合溜沿いを巡って金町の北側を一周します。

A東金町エリア

「A東金町エリア」の歩行距離は約7.0km(約10、000歩)、歩行時間は約1時間45分、消費カロリーは約315Kcalです。

スタート地点:JR常磐線金町駅北口
ポイント1 金蓮院
ポイント2 半田稲荷神社
ポイント3 金町関所跡の碑
ポイント4 都立水元公園
ポイント5 葛飾区金魚展示場
江戸茜、江戸錦など、24種類約1000匹の色とりどりの美しい金魚がゆらゆら泳いでいる。
ポイント6 南蔵院(しばられ地蔵)
ポイント7 花之木稲荷神社

ゴール地点:JR常磐線金町駅北口


スタート地点のJR常磐線金町駅北口から歩き始めます。



金町駅北口を東西に延びる理科大学通りから昆明通り商店街に進みます。



ポイント1 金蓮院

昆明通り商店街の先に金蓮院(こんれんいん)があります。金蓮院は、永正年間(1504年〜1521年)に賢秀和尚によって開山されました。天正十九年(1591年)には徳川家から10石の朱印状を受けました。寛永十九年(1642年)に火災によって一時荒廃し、万治元年(1658年)僧実盛が再興して中興開山となりました。享保三年(1718年)再び炎上し、本堂および多くの寺宝を失いましたが、元文元年(1736年)に復興しました。金蓮院は度々火災に遭いましたが、その都度寺宝の弘法大師肖像画像は自ら火中から舞い上がって境内の巨木に止まって難を逃れたという逸話により「火伏の大師」との異名を持っています。金蓮院には江戸時代に寺子屋が置かれましたが、明治七年(1874年)に欣和学校(現在の葛飾区立金町小学校)に引き継がれました。金蓮院は、新四国四箇領八十八箇所霊場第31番札所になります。



三門の壁に「金蓮院のしおり」と題して長大な案内板が掲げられています。

金蓮院のしおり

一、名称
真言宗豊山派法護山金剛宝寺金蓮密院
一、本尊
大日如来
一、宗派祖師(三祖)
@宗祖  弘法大師空海上人(西紀774年〜835年)   香川県の生
A中興祖 興教大師覚鑁上人(西紀1095年〜1143年) 佐賀県の生
B派祖  専譽僧正    (西紀1530年〜1604年) 大阪府の生
一、伝承
今(平成三年)から一千百八十六年前の昔、(世紀805年)弘法大師(空海上人)が唐の都、長安(今の中国の西安)で青龍寺の恵果和尚から密教の一切を伝受されて帰国後、日本で真言宗を開かれました。・・・それから凡そ三百年を経て、一宗の規綱が漸く弛んだ時、興教大師(覚鑁上人)が宗風を興隆されまし(た)ので、このお二方を両祖大師(空海上人、覚鑁上人)とあがめて参りました。更に五百年後、この教えが正に消滅しようとした時、専譽僧正が出でられて大和の国(今の奈良県)の長谷寺を中心にこの教えを熱烈に、お広めになられたので両祖大師(空海上人、覚鑁上人)と共にお祖師様としてあがめて三祖(空海上人、覚鑁上人)と共に、お祖師様としてあがめて三祖(空海上人、覚鑁上人、専譽僧正)さまと申し上げます。
一、教義
@即身成仏(この身このままで仏になること)
A密厳国土(この世を浄土にすること)
仏のような心で、仏のように行い、仏のように語れば私達の日々の生活は、自ら清らかになり、この身このままで仏(覚者)になります。この世の中は、浄土となります。この事は即身成仏であり密厳国土であります。
一、総本山
大和の長谷寺(奈良県桜井市初瀬町・西国三十三ヶ所第八番札所)
一、聖典(お経)
金胎両部大経に般若理趣 、光明真言
観音経等を読誦いたします。
一、由緒(宝物)
@開山月日不祥、開祖賢秀和尚入寂天正十三年(1585年)伝甲州武田家の家臣
A天正十九年(世紀1591年)御朱印高拾石授与
B弘法大師画像(真如親王の御染筆)・・(火伏せ、厄除け大師像)
C大羅漢槇樹(約数百年)その他
D十一面出世観音菩薩(太子堂内)




境内には、区文化財の愛染明王石像が建っています。

葛飾区指定有形文化財
金蓮院愛染明王石像

この石像は、宝永七年(1710年)に二十六夜待講中の人々が、二世安楽を願って建てたものです。二十六夜待とは、特定の月の26日の夜に人々が寄り合い、飲食などをしながら月の出を待ち、五穀豊饒、商売繁昌などを願うことをいいます。二十六夜待の本尊は愛染明王ですが、石像を刻むよりも文字を刻む例が多く、愛染明王の石像単独では余り例はなく、これはその中でも古い方に入ります。愛染明王は人々の迷いのもととなる、様々な愛欲の心をきよめることによって、その悩みから人々を救い、大きな愛へ転化させる力(菩提心)を持つ仏とされています。像容は三目六臂像(目が3つで腕が6本)で、中央の第一手左に鈷鈴、右手に五鈷杵、下部の第二手左に弓、右が矢を持ち、上部の第三手左が拳をつくり、右に蓮華を持っています。




樹齢500年に及ぶ境内の大羅漢樹(コウヤマキ)は、樹高約9.6m、幹囲2.7m、枝張11m〜15mを有し、天然記念物として区の文化財に指定されています。

葛飾区指定天然記念物
金蓮院のラカンマキ

羅漢槙はマキ科に属する常緑樹です。古くから金蓮院の「ラカンマキ」として有名で、文政十二年(1829年)の紀行文「十方庵遊歴雑記」などの文献にも記された名木です。「又傍らに槙の大樹あり。太さ三尺四寸廻りもあらんか、樹の高さ凡そ二丈余り、葉のかたち尋常に在らず。・・・枝振り又天然なり云々」ラカンマキの大木は都内でも極めて少ないものです。樹高は10mあまり、幹周り約3mほどで、樹齢は400年〜450年といわれています。金蓮院は永正年間(1504年〜1520年)の創立で旧門末30余ヶ寺、朱印地10石をもった本寺格の寺院です。




幹には空洞がありますが、樹勢はまだまだ盛んです。



ポイント2 半田稲荷神社

半田稲荷神社は、和銅四年(711年)の創建とも、永久年間(1113年〜1117年)の創建ともいわれる古社です。江戸中期以降は麻疹と安産の神様として知られ、歌舞伎や狂言にも描かれています。子供の疱瘡(天然痘)・麻疹・安産祈願の参詣者が多く、明和・安永(1764年〜1781年)の頃には、疱瘡や麻疹を防ぐ色とされた赤色の服を着た願人坊主が半田稲荷の幡を持って「葛西金町半田の稲荷、疱瘡も軽い麻疹も軽い・・・」と節面白く全国を謡い踊り歩いたといわれ、願人坊主は江戸の人びとに評判となり、歌舞伎や狂言・舞踊でも演ぜられるようになり、浮世絵にも描かれました。境内御神水の玉垣には、市川團十郎や尾上菊五郎などの歌舞伎役者の名前が彫られています。



半田稲荷神社関連の文化財に、「半田稲荷神社神泉遺構」があります。

葛飾区指定有形文化財
半田稲荷神社神泉遺構

半田稲荷神社の創立は、「新編武蔵風土記稿」では和銅四年(711年)、社伝では12世紀初期とされる古社です。江戸時代中期の享保年間には、麻疹や疱瘡よけ、安産に霊験ありとして信仰を集めていました。江戸では、麻疹や疱瘡を防ぐ色とされた赤色の衣装を着た願人坊主が、謡い踊りながらお札や、災いが去るおまじないの「くくり猿」を売り歩きました。文化十年(1813年)には、坂東三津五郎が中村座の歌舞伎で半田稲荷の願人坊主に扮して大人気となり、浮世絵にも描かれました。この神泉遺構は、願人坊主が神仏に祈願する際、水を浴びて体のけがれを去る水垢離を行ったところです。井戸枠には今も注連縄が掛けられ、旧来の形状がよく保存されています。石棚の柱や袖石には、市川団十郎や尾上菊五郎ら歌舞伎役者の名前も見え、当神社の繁栄を今に伝えています。




こんな井戸です。正面の石棚の柱には、「新富座 市川團十郎・尾上菊五郎・守田勘彌」の名前が刻まれています。ちなみに、守田勘彌の最初の妻は初代水谷八重子で、長女は水谷良重です。



半田稲荷神社から水戸街道に出て、東金町交番東交差点から脇道に入り、石段を上がって桜堤に出ます。桜堤は水元桜堤から続く桜の名所です。



桜堤は戦後まもなく来週したカスリーン台風によって決壊し、東京の東部一帯に大きな被害を出しました。

川の史跡 カスリーン台風と桜堤

江戸時代に築かれた桜堤は、利根川が氾濫したときに流れてきた洪水を食い止める役割もある堤防です。明治四十三年の大洪水で利根川が氾濫したときは、この桜堤で洪水が食い止められ、江東地域一帯(現在の葛飾区、江戸川区、足立区、墨田区、江東区)の被害を防ぐことが出来ました。しかし、昭和二十二年9月に来襲したカスリーン台風による利根川の氾濫のときは、「桜堤を守れ」と農民達が水の中に入って土のうを積むなど、懸命の水防活動にもかかわらず、東京最後の望みの綱、桜堤はついに決壊し、ここから流れ出た濁流が葛飾、江戸川、足立区を水没させ、大きな被害を与えました。




東金町七丁目交差点で都道451号江戸川堤防線を渡って江戸川堤サイクリング道路に出ます。



河川敷にはゴルフ場らしきものも設けられています。新種のスポーツかな?河川敷の道路は災害時などの際に緊急物資輸送用の道路として使われます。

江戸川の高水敷には、緊急用河川敷道路が整備されています

緊急河川敷道路とは、大地震などの災害発生時に被災者の救援や被災地の復旧活動、救援物資の輸送、また堤防や護岸などの河川管理施設などの復旧活動に必要な資材の輸送路として使用される道路です。震災時など市街地の一般道路のように、火災や自動車あるいは倒壊物などの障害物が少ないことから、救援や復旧物資の輸送を迅速に行うことができ、これによって緊急輸送の時間短縮を図ることができます。また救援や復旧物資の輸送拠点である、港湾施設や空港などから河川(江戸川)を通じて直接物資を内陸部に輸送することが可能となります。江戸川の下流部に当たる江戸川区上篠崎地先には緊急用船着場が整備されており、船舶によって輸送された物資や資材が陸揚げされます。江戸川は首都圏東部地域の災害救援活動の重要な輸送路としての役割を果たします。緊急時に備え、安全や安心を確保する河川整備を進めており、車両や物資の放置など輸送路としての機能を損なう行為は禁止します。また走行を認められた車両以外の通行を禁止します。ご理解とご協力をお願いいたします。




ムムッ?ダチョウみたいな大きな鳥もいます。オブジェかな?



江戸川堤サイクリング道路の前方に、長大な橋梁が架かっています。道路を高架で交差するのは、東京外環自動車道で、その脇には葛飾大橋が架かっています。騒音防止のためか、東京外環自動車道は円筒形になっています。



葛飾大橋の先には葛飾橋が架かっています。東京外環自動車道を挟んで左右2本架かっているトラス橋は、どちらも国道298号線を通す葛飾大橋です。葛飾橋は県道54号線を通しています。江戸時代には幕府防衛のために江戸川に橋は存在せず、対岸に渡るには渡し舟を利用していましたが、明治に入ってから葛飾橋が架けられました。江戸時代には、葛飾橋の北方500m辺りの地点に金町松戸関所がありました。



土手下に、都下水道局東金町ポンプ所があります。金町地域に降った雨水を江戸川に排出するための施設とのことです。小合溜から続いているような空き水路がありますが、これがポンプ所に繋がっているのでしょうか?



ポイント3 金町関所跡の碑

金町ポンプ所の脇に「金町関所跡」の碑が建っています。金町関所は、慶長年間(1596年〜1615年)に金町と対岸の松戸宿を結ぶ江戸川の渡船場を利用して水戸街道の唯一の江戸防衛の要所として設けられた関所です。常時4名の関所役人が置かれ、「重関所」に指定されて「入鉄炮に出女」を厳重に取り締まりました。「入鉄炮出女」とは、江戸に持ち込まれる鉄炮(「入鉄炮」)と、江戸を出る女(「出女」)を取り締まることです。入鉄炮は江戸の治安の警備、出女は、「江戸屋敷に人質として置かれた大名の妻女が領国に脱出するのを防止することです。明治二年(1869年)に関所が廃止された後は関所の建物は全て取り壊され、現在では関所跡は江戸川の河川敷に設けられたゴルフ場になっています。平成十五年(2003年)3月、都下水道局金町ポンプ所の隣に「金町関所跡之記」の石碑が建てられました。

金町関所跡

金町関所は、金町松戸関所と称され、水戸街道が江戸川を渡る地点に置かれた江戸の東の関門でした。関所の施設がある一帯は金町御番所町と呼ばれ、四名の関所番が明治二年(1869年)まで、その任にあたりました。対岸松戸宿との間には渡舟が常備されていましたが、将軍が小金原に鹿狩りに出かける際には、江戸川に高瀬船を並べた仮設の船橋が架けられました。四度行われた鹿狩りのうち、最後の嘉永二年(1849年)の史料は、関所付近のようすを多く伝えています。その後、明治末期に行われた江戸川の改修により、御番所町の家並みの一部は拡幅された堤 防の下となり、江戸川の河身も大きく変貌しました。関所跡は、松戸宿との位置関係から、現堤防下の河川敷一帯と推定できます。




ポイント4 都立水元公園

都立水元公園は、昭和四十年(1965年)4月1日に開園した面積96.3haの都内23区の中でも最大規模の都立公園です。この地域は元々は古利根川の河川敷でした。徳川三代将軍家光の江戸川改修事業により古利根川が廃止されたため、小合村が江戸幕府の許可を得て埋め立てて耕作地として、水を蓄えて小合溜と称して管理してきました。水元公園は、その小合溜という準用河川を中心とした水域面積の多い水郷公園です。小合溜から引いた大小の水路が園内を走り、水郷景観を作りだしています。園内にはポプラ並木やメタセコイアの森・ハンノキなど水辺に強い樹木が約2万本生育し、ハナショウブ・スイレン・コウホネといった水生植物を多く見ることができます。桜の咲く季節やハナショウブの咲く季節は花見客などで賑わいます。公園西側を通る桜堤通りは園内随一の桜の見所となっています。公園内には、中央広場・バードサンクチュアリー・バーベキュー広場・はなしょうぶ園・メタセコイアの森・水産試験場跡地に造成された水辺のさと・冒険広場・集会所(涼亭)・キャンプ広場・ドッグラン・グリーンプラザ・水辺の生きもの館などの多様な施設が設けられ、季節を問わず週末を中心に余暇を楽しむ訪問客で賑わいます。



東京外郭環状道路の高架下を抜けて、水元公園の西側地区に入ります。この辺り一帯には、かって水元公園水産試験場がありました。その跡地を利用したハス池があります。

水元公園水産試験場跡地 ハス池

葛飾のハスづくりの歴史
●葛飾区(新小岩周辺)では、排水の悪い田を利用してハスを作ることが多く、当初はナガハスと(と)いう日本ハスが作られ、味もよく料亭などに高く引き取られていました。しかし、日本ハスは水質の汚染に弱く、病気にもかかりやすい上に連作もきかなかったので、次第に中国産のハスに替わっていきました。

●ハスづくりは稲の転作としてはじめられ、昭和三十年代まで続けられていましたが、東京オリンピック以後、水質の汚染が進みハスを作れない状況になってしまいました。

ハス Nelumbo

アジア温帯〜オーストラリア北部原産の大形の水生植物で、日本でも古くから栽培され、肥大した根茎をレンコンとして食用にします。また種子も薬用として利用します。葉は、水上に出て直径40cmほどで、円い盾形です。夏に長い花柄を水上に伸ばして、先端に直径15cm〜20cmの白〜紅色の花を咲かせます。大きな花托が、果実の出来るころに蜂の巣に似たかたちになることから「ハチス」がなまって、「ハス」と呼ばれるようになりました。また、葉や花の柄にもレンコンと同じように穴があいています。ハスは仏教ともかかわりが深く、泥の中から水上に美しい花や葉をだすことから古代中国では高貴な花として尊ばれました。




水元公園水産試験場の跡地には、「水辺のさと」という保全施設もあります。

水辺のさと(保全区)

水辺のさとは、1960年頃の小合溜などで見られた豊かな水辺環境を再生するために、東京都水産試験場の跡地に2006年に開園しました。水辺のさとでは、生物多様性に配慮した育成管理が市民参加で進められており、東京23区内では貴重となった植物や昆虫が確認されています。ここでは、貴重な自然環境を未来に残すため、生きものを「とること」や「持ち込むこと」を原則、禁止しております。皆様のご理解とご協力をお願い致します。

復元池
かつての小合溜一帯にみられた植物や動物が生息する水辺環境の再生をめざしています。

水質浄化池
池の水は各池を循環しており、その水の浄化を主に担っている池です。水質浄化機能を高めるため、ヨシ等が生育する広い湿地を維持しています。

葛飾区金魚展示場
東京都水産試験場で誕生した江戸茜など多くの金魚を飼育・展示しています。

水生生物展示池
かつて水産試験場で使っていた養魚池の形状を活かして水生植物を展示しています。どなたでも観察しやすいように水面を高くした池もあります。

ミジンコ池
金魚のエサとなるミジンコを育てています。

水田
かつてこの地域に広く見られた水田を再現しています。水田は生きものの重要な生息環境であるとともに、米作りが体験できる場所です。

水辺の生きもの館
「水辺のさと」の紹介やここで見られる生きものなどの情報を収集、発信しています。また、市民参加で行う育成管理の拠点となっており、管理活動やイベントなどの情報も入手できます。

現況保存池
水産試験場の養魚池を当時のまま保存しています。

Mizube no Sato Park (Conservation Area)

Mizube no Sato Park opened in 2006 on the site of the former Tokyo Metropolitan Fisheries Research Center after extensive development aimed at restoring the fertile waterfront environment that existed around Koaidame (dammed lake) and its vicinity in the 1960s. Today, with the help of the general public, wildlife in the park is attentively managed to maintain biodiversity and includes plants and insects considered rare for Tokyo's 23 wards. To preserve the natural eco-system, it is strictly prohibited to remove or release wildlife in the park. Your understanding and cooperation on this important matter are critical for the future of this park.

Restored Pond
The waterfront habitat around this pond has been restored to support the fauna and flora seen decades ago in the Koaidame area.

Water Purification Pond
Water is circulated among the various ponds in the park, with this pond performing the central role of the purifying process. To take advantage of natural filtering mechanisms, it is maintained as a spacious wetland with reeds and other aquatic plants that enhance the water purification function.

Katsushika City Goldfish Pond
The center breeds and displays numerous varieties of goldfish including the Edoakane that was born at the Tokyo Metropolitan Fisheries Research Center.

Aquatic Wildlife Ponds
The hatchery ponds of the former Tokyo Metropolitan Fisheries Research Center have been converted into biotopes of aquatic plants. The raised ponds make it easy for everyone to see what inhabits the water.

Daphnia Pond
This pond is used to raise daphnia as food for the goldfish at the Katsushika City Goldfish Exhibition Center.

Paddies
The local landscape decades ago was widely covered in paddies. These restored paddies are used to show the general public how rice is grown, but more importantly, they provide a habitat for all sorts of wildlife.

Aquatic Life Center
The Aquatic Wildlife Pavilion introduces the park, and collects and shares information on the wildlife that inhabits it. It also operates as the wildlife management center that organizes activities and events for the general public.

Hatchery
Remnants of the former Tokyo Metropolitan Fisheries Experiment Station, these ponds are still being used as hatcheries.




ポイント5 葛飾区金魚展示場

「水辺のさと」の一角に、葛飾区金魚展示場があります。

金魚展示飼育地

当場では、リュウキン、ワキン等の優秀な親魚を作り、江戸時代から続いて(い)る伝統的な地場産業として金魚養殖業振興に役立て(て)います。ここには我が国で古くから飼育されている金魚や珍らしい中国産金魚を展示し、合せてその品種改良や品質保持の試験研究を行なっています。




展示場の中には、江戸前金魚と呼ばれる江戸茜や江戸錦など24種類約1、000匹の金魚が飼育・展示されています。



金魚育成の叩き池が40面以上並び、通路から金魚が間近に見られます。



珍しい金魚はケースに入れて展示されています。その体色によって命名された青文魚は、鮮やかな色ではありませんが、青っぽい灰色の体色の渋味のある金魚です。日本には、昭和三十三年(1958年)に中国から輸入されました。

葛飾区金魚展示場

金魚展示場は、昭和十年に東京府水産試験場(後の東京都水産試験場)として整備され、食生活における重要なタンパク源としてコイやフナの養殖が行われていました。あわせて、地場産業である江戸前金魚の育成や品種改良も行われてきました。そして、その役割を終えた平成九年に本試験場が港区に移転した翌年から、伝統のある金魚展示場を残してほしいとの区民の要望を受け、葛飾区が「葛飾区金魚展示場」として管理を引き継ぎました。本展示場は、48面の叩き池で上面より金魚を観賞することができ、現在、24種類約1、000匹の金魚がいます。その中には、本場で品種改良された「エドアカネ」など珍しい金魚もおります。また、親魚選別・採卵・孵化・稚魚選別などの金魚育成の過程も観察できます。




葛飾区金魚展示場の隣には、水質浄化池があります。

水質浄化池

水質浄化池は在来の水辺環境復元ゾーン(復元池)から流れ込んだ水が広い湿地の中を流れることで、池の水が浄化される場所です。浄化された水で育つ水草や昆虫などを観察できるような園路や橋があります。この池の環境は陸と水面とが組み合わさっていて、複雑な地形になっています。この複雑で多様な環境には様々な生き物が集まってきます。

水質浄化に寄与する主な植物


ヨシ
低地部の水辺で最もポピュラーな植物で、池沼や河川に広く密生し、大きな群落をつくります。植物の高さは1m〜3mに達し、8月〜9月頃に花を咲かせます。すだれや葦簣(よしず)、かやぶき屋根の葺き替えなど、かつての暮らしに欠かせない植物です。

マコモ
同じく池沼や河川、水路などに生育する植物です。ヨシ、ヒメガマよりもさらに深い水域でも生育できます。植物の高さは1m〜2m程度、8月〜10月頃に花を咲かせます。むしろの材料や食材(マコモダケ)などになる有用な植物で、水元公園では地元神社の茅の輪づくりの材料に今でも使われています。

ヒメガマ
ヨシと同様に、池沼や河川、田んぼの水路など様々な水辺に見られ、また、ヨシよりもやや深い水域まで生育します。植物の高さは1m〜2m程度、6月〜7月頃にガマの穂と呼ばれる花をつけます。薬効があり、漢方薬として使われたようです。

湿地でよくみられる水鳥


アオサギ サギ科 年中
全長90cm〜100cm程度。日本のサギの仲間で一番大きい種類です。北海道から四国で繁殖し、北方のものは冬に暖地へ移動します。全身灰色で、目の上に黒い線があります。魚を食べます。

ササゴイ サギ科 夏
全長50cm〜60cm程度。夏鳥として本州以南の川や池沼に渡来し繁殖します。目は黄色、頭と冠羽は黒。昼夜とも活動し、魚やカエルを捕まえます。餌や疑似餌を水面に落として魚を捕まえることもあります。飛ぶ時にキューウと鳴きます。




水質浄化池の隣の水辺のさとの西端には、復元池があります。

水辺環境復元池

小合溜湿地復元ゾーンと一体となった広い水辺環境を復元しています。昭和三十年代頃の水郷景観豊かな小合溜一帯に生育していた水辺の植物が生育する状態に復元することをめざしています。このような環境は、かつて農作業と結びつき、人の手(草刈りなど)が加わることにより維持されてきました。その結果、さまざまな水辺の植物が生育し、それをよりどころとする数多くの生き物たちの営みが見られました。




水辺の植物や昆虫や魚を間近で見られる「水辺散策池」もあります。

水辺散策池

様々な水辺の植物とこれらをよりどころとする数多くの動物たちが生活する場所です。背の高いヨシなどの茂みではオオヨシキリがさえずり、カヤツリグサやタデなどにトンボたちが止まり、休んでいます。そして、池の浅瀬ではモツゴやスジエビなどの小さな動物たちがみられます。このような環境を保全していくには、草刈りなどの管理が必要となります。管理を行うことにより、豊かな水辺の環境が創り出され、維持されます。皆さんも水辺の生きものたちとふれあい、やさしく見守ってあげて下さい。




水辺の生きもの館の館内では、公園内の植物や昆虫や野鳥、そして公園の沿革を紹介しています。公園内に生息する魚や、都内で唯一自生するオニバスの種子や花(閉鎖花)の観察ができます。



小合溜の対岸には水元大橋が遠望できます。



水元さくら堤の歩道脇に鐘楼堂が建っています。



撞木は見当たりませんが、かって梵鐘として使われていたとのことです。

葛飾区指定有形文化財
梵鐘(通称 松浦の鐘)

旧下小合村の領主は、長崎奉行や勘定奉行に任ぜられた松浦河内守信正(1693年〜1769年)です。晩年は下小合村に隠居し、菩提寺である龍蔵寺に葬られました。この梵鐘は、信正が宝暦七年(1757年)に下小合村の龍蔵寺に奉納したものです。作者は下野佐野の鋳物師利右衛門で、総高121.4cm・口径68.5cm、中央部4か所に梵字があります。さらに明和六年(1769年)5月信正の没後に、遠江国宝泉寺住職勝東州撰の銘文が追刻されました。明治期の廃仏毀釈で、龍蔵寺が廃寺になると、鐘は村有となり水害や非常の際に用いられました。なお、信正が生前に自ら造立した墓塔は円盤状で、今は青戸の宝持院に移されています。




鐘楼堂の裏手に、水元さくら堤の由来を記した石碑が置かれています。

水元さくら堤の由来

この堤防は八代将軍徳川吉宗が紀州藩の土木技術者伊沢弥惣兵衛為永に命じて古利根の支流の一つであった小合溜の整備とともに江戸川の二次堤防として築かせた治水工事の旧跡で「さくら土手」と呼ばれていましたが、昭和二十二年九月に葛飾・江戸川両区に大水害をもたらしたカスリーン台風の洪水のために桜も枯れ、かっての面影を失ってしまいました。これを惜しんだ東京葛飾ライオンズクラブが昭和四十七年の春から植樹を行ってきました。昭和五十年代には葛飾区によって堤防道路の拡幅整備工事が行われ、緑豊かな遊歩道や、あずま屋や歌碑などの景観施設が整い、多くの人々が訪れるようになりました。そして、都内でも有数な桜の名所として復活なった昭和六十一年四月には満開の桜の下で開通式が行われ、一般公募で「水元さくら堤」と名付けられました。




ポイント6 南蔵院(しばられ地蔵)

伊勢物語で知られる平安時代の歌人在原業平が東下りの際に隅田川で舟遊びをした時、船が転覆して多くの人が亡くなったことから業平は溺死者を弔い、像を刻み村人に与え、法華経を写経して経塚に納めました。南蔵院は、その傍らに貞和四年(1348年)に林能によって創建されました。元禄十一年(1698年)に水戸藩下屋敷の用地となり、江戸本所区小梅から本所区中之郷八軒町に移りましたが、大正十二年(1923年)に発生した関東大震災で罹災し、昭和四年(1929年)に現在地に移転しました。南蔵院の本尊は釈迦如来で、本堂は昭和五十三年に建立されました。本堂前には樹齢450年といわれる聖徳の松が生い茂っています。



境内には、「大岡政談」で知られる「しばられ地蔵」が安置されています。現在も祈願する時に地蔵尊を縄で縛り、願いが成就した際は縄を解くことになっています。ちなみに、大岡政談の「しばられ地蔵」の話とは、

江戸時代の享保年間の八代将軍徳川吉宗の治世に、日本橋にある呉服問屋の手代が南蔵院の境内でうっかり一眠りしている間に反物を荷車ごと盗まれてしまいました。調べに当たった名奉行の南町奉行大岡越前守忠相は、「寺の門前に立ちながら泥棒の所業を黙って見ているとは地蔵も同罪なり。直ちに縄打って召し捕って参れ」と命じました。かくして地蔵はぐるぐるに縛られ、車に乗せられ江戸市中を引き廻された後で南町奉行所に入りました。どんなお裁きが始まるかと物見高い野次馬が奉行所になだれ込みました。頃を見計らった越前守は門を閉めさせ、「天下のお白州に乱入するとは不届至極。その罰として反物一反の科料を申附ける」の一声を発し、奉行所にはその日の内に反物の山が出来ました。手代に調べさせるとその中から盗品が出てきたため、それからそれへと調べると当時江戸市中を荒した大盗賊団が一網打尽となったのです。越前守は地蔵尊の霊験に感謝し、立派なお堂を建立し、盛大な縄解き供養を行いました。以来、お願いするときは縛り、願い叶えば縄解きするという風習が生まれ、盗難除け・足止め・厄除け・縁結びなど、あらゆる願い事を聞いて下さる霊験あらたかな地蔵尊として祀られています。

山門の脇に案内板が立っています。

史跡 しばられ地蔵尊

当山は業平山東泉寺南蔵院と号し、貞和四年(約600年前)林能法師の開創に成い、境内の地蔵堂には「しばられ地蔵尊」が安置されている、「しばられ地蔵尊」は昭和四年旧本所区中之郷(墨田区吾妻橋三丁目)から寺とともに移転してきた。大岡政談の一つとしても有名である「しばられ地蔵尊」は昔より、盗難除け、足止め、厄除け、あらゆる願いごとを叶えるとして祈願するものが多く、祈願者は先ず地蔵尊を荒縄でしばり、成就の暁には、これを解く風習となっている。




しばられ地蔵尊は像高1メートルほどの石の地蔵尊で、元禄十四年(西暦1701年)の造立と伝えられています。「文政寺社書上」によりますと、この地蔵尊は諸願成就、殊に難病平癒に霊験があり、信心の者が祈願するときは地蔵尊を縄で縛り、成就したときには縄を解くことから、しばられ地蔵と称したと記されています。毎年12月31日(大晦日)の午後11時から、南蔵院住職による「願かけしばられ地蔵尊」の縄解き供養が行われ、解かれた縄は祈祷護摩の火でお焚き上げされます。もうじき年も明けようという頃、住職が除夜の一番鐘を撞き、年が改まったところで地蔵尊に新年の一番縄が結ばれます。参詣の人々は、一年に一度縄を解かれた地蔵尊のお姿を拝み、除夜の鐘を撞き、そして新たに地蔵尊に願かけの縄を結び、新年の願いを託すのです。供養の間、住職や衆僧により聲明が唱えられ、境内に新設された舞台では「伶楽舎」による雅楽の演奏が行われます。荘厳な音の世界に浸りながら、新年を迎える儀式が執り行われます。大晦日と元日には、厄除けから縁結びまであらゆる願い事を結ぶ開運の縁起「結びだるま市」が開かれます。



南蔵院の境内は隅田川の様子を表しています。白御影の砂利は隅田川、参道は業平橋、右手の石は業平の舟石です。



しばられ地蔵音頭もあるそうです。聴いたことはありませんが。



岩槻街道を渡った先に、東江寺があります。その付属幼稚園の角地にお地蔵様が鎮座しておられます。

由来

幼稚園新園舎の完成を記念して、ほほえみの種まきをしてくださる童地蔵尊を建立いたしました。うれしい時も悲しい時も困った時もいつでもどこでも私たちを見守っていてくださるお地蔵さま。ちょっと嬉しいことがあった日やお誕生日など折々にお花をお供えし、手を合わせお地蔵さまと縁を結びましょう。
                     平成七年四月八日 花まつりの日




お地蔵様の脇の壁には昔話が貼られています。

いうなの地蔵

昔、庄助という間のぬけた男がおりました。ある夕方、村はずれの地蔵さまの前を通ると、まんじゅうが山のように供えてあります。
「うまそうだのう。どうせ地蔵さまは食わんのだ。一つ二つ食っても罰はあたるまい」
庄助はまんじゅうを一つ、口に放りこみました。
「うまい。もう一つ」「もう一つ」
気がつくと、まんじゅうは全部なくなっていました。あわててまわりを見まわしましたが、誰も見ていません。庄助はほっとして、地蔵さまにふざけ半分でいいました。
「地蔵さま、誰にもいわんでくださいよ」
すると、突然、地蔵さまが片目を開けていいました。
「わしは話はせんが、おまえこそいうなよ」
「ひ、ひぇーっ」
庄助は驚き、飛ぶように家に帰っていきました。さて、庄助はあの出来事が不思議でなりません。何日かすると、人に話したくてたまらなくなってきました。そこで、庄助は村人をつかまえていいました。
「村はずれの地蔵さまは、ものいうぞ」
「ばかいうな。石の地蔵さまが口きくものか」
みんな笑うばかり。相手にしてくれません。庄助はむきになっていいました。
「ほんとじゃ。わしが地蔵さまのまんじゅう食って、【誰にもいうなよ】というたら、地蔵さまが、【わしは話さんが、おまえこそいうなよ】と、はっきりいうたんじゃ」
すると、村人たちはこんどはうなずきました。
「ほー、なるほど。地蔵さまがものいうたかどうかはわからんが、庄助がお供え物を食ったことはほんとのようじゃの」
「あっ・・・・・・」
庄助はあわてて口を押さえましたが、あとの祭。地蔵さまがいわずとも、庄助は自分から話して大恥をかいてしまったということです。




六地蔵様は童地蔵尊です。

この地にご縁のある皆さまの幸を願って童六地蔵尊を納めました。いつの時代になっても子どもたちの笑い声が辻々に響くような社会でありたいと願っています。



東江寺の住職さんは説話が好きなようで、壁には何枚かのインドの物語が貼られています。



「白いケシの実」という話です。

白いケシの実

ゴータミーという婦人がおりました。ある日、彼女の一人息子が、ふとしたことから死んでしまいました。ゴータミーは嘆き悲しみ、死んだ子を背負って、会う人ごとに、
「この子を治す薬をください」
と、頼んで歩きました。
「死んだ子に飲ませる薬などあるものか」
皆、あざけり笑いました。一人の賢い人が哀れに思い、お釈迦さまにお願いするよう勧めました。ゴータミーはかけるようにして、お釈迦さまのもとを訪ねました。
「み仏さま。 薬をください」
「ゴータミーよ。よくここにきました。町で白いケシの実をもらってきなさい。それが薬です。ただし、葬式を出したことのない家からですよ」
ゴータミーは喜んで町に出かけて行きました。
「わたしの子の薬にします。白いケシの実をください」
「さあ、どうぞ」
「ところで、この家では葬式を出したことがありますか」
「もちろんあるよ。奥さん」
「ケシの実はお返しします」
こうしてゴータミーは町中を一軒一軒まわりました。でも、結果はどこも同じでした。
「先月、父を亡くしました」
「去年、わたしの妻が死んだよ」
なかには、葬式の最中で泣いている家もありました。
「どこの家でも誰かが死に、悲しい思いをしているのだわ」
こう考えたゴータミーは、町はずれの森へ行き、わが子を手厚く葬ったのです。ゴータミーはお釈迦さまのもとにもどりました。
「ケシの実はありましたか」
「いいえ。でも、わたしの子一人が死んだのではないことがわかりました」
「ゴータミーよ。よく気づきました。死は人の定め。それを正しく、しっかり受け止めて生きていくことがこの世でのわたしたちの務めなのです」
その後、ゴータミーはお釈迦さまの弟子となり、やがて安らかな悟りを開いたと いうことです。




「オオカミの断食」という話です。

オオカミの断食

昔、ガンジス河が雪どけ水であふれたことがありました。川岸のつき出た岩に住んでいたオオカミは、この洪水のために身うごきできず、獲物もとりに行けなくなってしまいました。
「しょうがないなあ。よし、どうせ食べ物がないんなら、このさい断食をしてやる」
オオカミは決心したようにいいました。さて、これを天界の帝釈天が聞いていました。
「ほう、あのオオカミが断食とな。どれ、その決意のほどを試してみるか」
そこで、帝釈天は丸々と太ったヒツジに姿を変え、オオカミの前に現れました。すると、オオカミの口からダラダラよだれがたれはじめました。
「うまそうなヒツジだ。えい、断食はやめだ」
オオカミはヒツジに飛びかかりました。
「待てっ、ごちそう待てーっ」
ところが、ヒツジはオオカミをからかうように岩から岩へピョンピョン飛んで逃げ回り、追いかけてもつかまりません。
「ハーハー、なんてすばしっこい奴だ」
くたくたになったオオカミはとうとうあきらめて、岩の上に座りました。
「ま、いいや。また、断食の行をつづければいいんだから」
すると、ヒツジは帝釈天の姿にもどって、いいました。
「こらっ、オオカミ。そんないいかげんな気持ちで断食の行ができるか。自分に都合よく、ころころと方針を変えるようでは、何をやっても長続きしないぞ」
帝釈天はそう叱りつけ、天界へと帰っていきました。オオカミはばつが悪そうに空を見上げて、頭をかいていたということです。




「鬼の往生」という話です。

鬼の往生

昔、人喰い鬼が住む野原がありました。ある夜、名高い上人がこの野原を通りかかると、恐ろしげな鬼が現れました。
「鬼よ、何の用じゃ」
すると、鬼は地に手をつき、涙ながらいいました。
「上人さま。お聞きください。わたしは生きるために多くの人間を喰い殺してきました。今にして思えば、その罪に身の震えるような思いがいたします。わたしはもうすぐ死にます。死ねば地獄です。鬼だって、地獄には行きたくありません。お願いです。わたしをお浄土へやってくださいまし」
「鬼は無理じゃ。その角と牙がどうにもならん」
「そこを何とかお願いします」
あんまり必死になって鬼が頼むものですから、上人も根負けしていいました。
「では、やるだけやってみよう。わしと一緒にみ仏の名を唱えよ。み仏を念じ、唱えるごとにおまえの罪を残らず吐き出すがよい」
こうして二人は、声をそろえみ仏の名を唱えはじめました。夜の野原に、二人の声が響きわたりました。鬼はもう一心に唱えつづけました。やがて夜も明けようというときです。鬼の角と牙が、ぽろり落ちました。驚く上人。鬼はくずれるように倒れ、
「上人さま・・ありがとう・・・ございました・・・」
と、とても優しい顔で死んでいきました。朝日がさすと同時に、鬼の体は霧のように消えていきました。
「鬼よ。みごとに往生できたのう。おまえは自分の罪をよう知っておった。だからこそ、あんなに一心に唱えることができた。おのれを正直に知る。それがお浄土へ行く第一歩だのう・・・」
そういって、上人はまぶしい朝日に、手を合わせたのでした。




葛飾にいじゅくみらい公園は、区立公園として区内最大の広さ(面積約7.1万平方メートル)を有し、東京理科大学葛飾キャンパスと一体化し、水と緑豊かで明るく賑わいのある公園として平成二十五年に開園しました。公園には広い原っぱ・サッカーやラグビーなどの利用できる多目的広場・テニスコートなどがあります。原っぱ広場には25種類約90本の桜が植栽されていて、お花見のシーズンには賑わいます。多目的広場の隣にはターザンロープなどの子供向き遊具が揃っています。東京理科大学葛飾図書館棟には図書館やカフェテリアなどがあり、図書館は葛飾区民のみ利用可能ですが、カフェテリアは誰でも利用できます。



東京理科大学葛飾キャンパスは、平成二十五年(2013年)4月に三菱製紙中川工場跡地に設置されました。製紙業界の不況で、平成十五年(2003年)3月に中川工場は閉鎖されたとのことです。



キャンパスアメニティーが充実した環境で、先端融合分野を研究する「イノベーションキャンパス」として整備されています。キャンパスには門や塀が無く、隣接する「葛飾にいじゅくみらい公園」と一体化させることで「学園パーク型キャンパス」のコンセプトも掲げています。そのことで、研究・教育機関としてだけではなく、地域住民の憩いの場や地域活性化の拠点としても機能しています。



ポイント7 花之木稲荷神社

葛飾にいじゅくみらい公園に隣接して、花之木稲荷神社があります。花之木稲荷神社は、中川付近の花の木という所からこの地に遷座した経緯から、旧新宿(にいじゅく)5丁目が氏子となっています。そのためか、あまり整備されていないような印象がします。



金町駅に戻る途中に、ハンバーガーのお店「Brave」があります。スポーツバーのようですが、溶岩石で焼き上げる肉が絶品とのことで、2019年と2024年のバーガーグランプリで優勝したのだそうです。ちなみに、「Brave」とは、「勇者」という意味です。



クレイジー餃子は、満州出身のオーナーが営む中華料理店で、2017年3月のオープン以来メディアにも度々取材されていて、入口にはフジテレビの有吉くんの正直さんぽや日本テレビのニノさんなどの写真が貼られています。餃子のメニューは七種類ですが、人気のクレイジー餃子は、羽つき餃子にチーズが乗っています。豚肉の餡に海老とアスパラガスが入っていて、まさに技ありの餃子になっています。トルコ餃子は、イスラム教徒のウイグル族が食べている「豚肉を使わないダンプリング」をイメージしているそうで、牛肉と玉ねぎ、香辛料を使った珍しい餃子です。皮も厚くムチムチしていて、一番人気であるとのことです。



ゴール地点のJR常磐線金町駅北口に戻ってきました。



ということで、葛飾区で二番目のコースである「A東金町エリア」を歩き終えました。次は葛飾区で三番目のコースである「B柴又エリア〜七福神めぐり〜」を歩きます。




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