- B柴又エリア〜七福神めぐり〜
- コース 踏破記
- 今日は葛飾区の「B柴又エリア〜七福神めぐり〜」を歩きます。柴又駅を起終点として、柴又七福神の寺社を巡ります。
B柴又エリア〜七福神めぐり〜
「B柴又エリア〜七福神めぐり〜」の歩行距離は約6.8km(約9、710歩)、歩行時間は約1時間42分、消費カロリーは約306Kcalです。
スタート地点:京成金町線柴又駅
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- ポイント1 帝釈天参道
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- ポイント2 柴又帝釈天(題経寺)
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- ポイント3 真勝院
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- ポイント4 良観寺
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- ポイント5 観蔵寺
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- ポイント6 医王寺
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- ポイント7 宝生院
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- ポイント8 萬福寺
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ゴール地点:京成金町線柴又駅
スタート地点の京成金町線柴又駅から歩き始めます。
葛飾柴又といえば、「男はつらいよ」のフーテンの寅さんですね。映画「男はつらいよ」は、昭和四十四年(1969年)から平成九年(1997年)まで全49作品が制作された日本を代表する映像作品です。第一作が公開されてから50周年となる令和元年には、50作目である「男はつらいよ お帰り寅さん」が公開されました。駅前広場には、1999年に地元商店会と観光客の募金によって建てられた「旅に出る寅さんがさくらの方を振り返ったシーン」をモチーフとした寅さんの銅像があります。銅像の台座には、山田洋次監督による寅さんの故郷への思いが刻まれたプレートが貼られています。
寅さんは損ばかりしながら生きている。江戸っ子とはそういうものだと別に後悔もしていない。人一倍他人には親切で家族思いで金儲けなぞは爪の垢ほども考えたことがない。そんな無欲で気持ちのいい男なのになぜかみんなに馬鹿にされる。もう二度と故郷になんか帰るものかと哀しみをこらえて柴又の駅を旅立つことをいったい何十辺くり返したことだろう。でも故郷は恋しい。変わることのない愛情で自分を守ってくれる妹のさくらが可哀想でならない。−−−ごめんよさくらいつかはきっと偉い兄貴になるからな。車寅次郎はそう心に念じつつ、故郷柴又の町をふり返るのである。
2017年には、寅さんを見送る妹さくらの銅像も建立されました。
−−−ある別れ
さくらは失恋して旅に出る寅を駅まで見送ることにする。
「いいんだよ、忙しいんだろお前」
と言いながらもその思いやりがみにしみるほど寅は傷ついていた。駅前でさくらは立ち止まる。
「それじゃお兄ちゃん身体に気をつけてね」
「あゝ」
と無造作にうなずいて駅舎に向かう寅の足がふと止まりふり返る。
「おい」
「なあに」
「満男に一生懸命勉強しろと言っとけよ」
「うん、わかった」
乱暴な口調で言いすててスタスタと改札口にむかう寅。さくらは踵を返し、秋の終わりを思わせる冷たい風が吹く中を家路につく。
さくらの像は後から建ったのですが、寅さんとさくらの視線が最初から構図されたようにピッタリ合っていますね。
- ポイント1 帝釈天参道
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帝釈天参道は、映画「男はつらいよ」の舞台にもなったところです。題経寺へと続く参道に沿って古くからある飲食店や名物を商う店が建ち並び、時が経つのを忘れたかのような昭和レトロな雰囲気がそのまま残っています。
参道の入口には、観光案内所も設置されています。渥美清さんが寄贈した常夜灯も建っていますね。
「ゑびす家」は、鰻と川魚のお店です。店内では、老舗料亭の味を気軽に堪能できます。店舗は大正初期の建物で、店内に飾られている日本最大級の熊手が店の歴史を物語っています。
「たなかや」は、百年続く和食の老舗で、柴又唯一の柳川とうな重を提供しています。
草だんごと和菓子の「高木屋老舗(たかぎやろうほ)」は、参道を挟んでテイクアウトやおみやげなどの販売店と喫茶店の2店舗があります。木造瓦ぶきの建物は、明治と大正時代に建てられた創業当時の風情のあるものです。古くから柴又帝釈天の参拝客に団子などを振る舞う店として知られていましたが、木屋老舗が有名になったのは国民的映画シリーズ「男はつらいよ」の主人公の車寅次郎の実家「とらや」(のちに「くるまや」)のモデルになったことです。
「とらや」の創業は明治二十年で、店内では、和食・中華・甘味など種類豊富なお食事が楽しめます。お土産には、柴又名物の「草だんご」が人気です。お店は、「男はつらいよ」の撮影で使用されました。
「代々喜」は、最中(矢切の渡し最中・寅さん最中)の専門店です。他にも人形焼や煎餅など、豊富に取り揃えて販売しています。「立花屋」は、手焼煎餅の店で、醤油味を始め、辛いものや甘いものなど約18種類の煎餅があります。店には煎餅が入った大きな瓶が並び、昔の懐かしさを感じる店構えになっています。
「川千家」は安永年間の創業で、鰻の蒲焼一筋200年の老舗です。帝釈天参道や中庭を眺めながら、ゆったりと食事ができます。
- ポイント2 柴又帝釈天(題経寺)
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「帝釈天」とは、本来の意味では仏教の守護神である天部のひとつを指しますが、地元では題経寺の通称として用られることが多いようです。題経寺は、江戸時代初期の寛永六年(1629年)に、禅那院日忠と題経院日栄という2名の僧によって開創された日蓮宗寺院です。18世紀末、九世住職の日敬の頃から題経寺の帝釈天が信仰を集めるようになり、「柴又帝釈天」として知られるようになりました。帝釈天の縁日は庚申の日とされ、庚申信仰とも関連して多くの参詣人を集めるようになりました。近代以降は夏目漱石の「彼岸過迄」を始め、多くの文芸作品に登場し、東京近郊の名所として知られました。20世紀後半以降は、人気映画シリーズ「男はつらいよ」の渥美清演じる車寅次郎(寅さん)縁の寺として有名になりました。年始や庚申の日(縁日)は非常に賑わい、「男はつらいよ」シリーズの公開後は都内の定番の観光名所となり、観光バスの団体客が大勢訪れたこともあります。帝釈天参道の突き当たりに、題経寺の二天門が建っています。二天門は、明治二十九年(1896年)に建立され、入母屋造瓦葺の楼門(2階建て門)です。屋根には唐破風と千鳥破風を付し、柱上の貫などには浮き彫りの装飾彫刻が施されています。初層左右には四天王のうちの増長天と広目天の二天が安置され、門の名はこれに由来しています。二天像は平安時代の作とされ、門の建立時に日蓮宗の妙国寺(大阪府堺市)から寄贈されたものです。
題経寺は、柴又七福神の毘沙門天を祀っています。毘沙門天は、帝釈堂に祀られている帝釈天の脇に安置される多聞天を指します。
柴又七福神
毘沙門天 題経寺
甲冑を着けた毘沙門天は、インドの神様で右手に宝棒(鉾)を持ち、左手に宝塔を捧げ、足下に悪業煩悩の天邪鬼をふみつけている。仏教の教えを守るとともに、招福・財福を授けてくれる神様である。また、別称多聞天といい、四天王のひとりとして、北方守護神として祀られている。
二天門を入った境内の正面に帝釈堂があります。手前の拝殿と奥の内殿から成る大きなお堂は共に入母屋造瓦葺で、拝殿屋根には唐破風と大ぶりの千鳥破風が付けられています。帝釈堂の内殿は大正四年(1915年)、拝殿は昭和四年(1929年)に完成しました。内殿には帝釈天の板本尊を安置し、左右に四天王のうちの持国天と多聞天(毘沙門天)が安置されています(四天王の残り2体は二天門に安置)。内殿外側には全面に浮き彫りの装飾彫刻が施されています。
葛飾区登録有形文化財
題経寺(柴又帝釈天) 諸堂内及び二天門 建築彫刻一括
帝釈堂、祖師堂、二天門には多くの木彫による建築浮彫装飾が施されています。特に帝釈堂は設計林門作、棟梁坂田留吉の指揮のもとに作られました。内陣外側の胴羽目彫刻10枚は法華経説話を題材にして、加藤寅之助・金子光清・木嶋江運・石川信光・横谷光一・石川銀次朗・加府藤正一・山本一芳・今関光次・小林直光等の彫刻師により制作されました。大正十二年(1923年)9月、それぞれの彫刻師のもとに運ばれていた欅の彫刻材は、関東大震災によって、すべて焼失しました。その後欅材を全国に求め、発願から十数年の歳月を費やし、10枚の胴羽目彫刻は昭和九年に完成しました。彫刻の下絵は高山栄州が描いています。胴羽目の寸法はそれぞれ縦1.27m、横2.27m、厚さ20cm襖一枚の大きさです。他堂や二天門の内外に、施された彫刻も、同じように貴重なものです。
帝釈天本堂の前に植えられている大きな松の木は「瑞龍(ずいりゅう)の松」と呼ばれています。名前の由来は、真っ直ぐに天に向かって伸びる幹と、北・西・南の3方向に生えている躍動感ある枝です。江戸時代の書物にも記されているという松は樹齢400年を超えています。高さ10mで南北にも枝を伸ばす松の木は、東京都指定天然記念物にも選ばれています。
瑞龍松の案内板が立っています。
東京都指定天然記念物(植物)
瑞龍のマツ
「帝釈天」の名で知られる経栄山題経寺。その参道から二天門をくぐって境内に入ると正面に帝釈堂が建っており、その帝釈堂の手前、向かって左に生えているのが瑞龍のマツです。幹は上方にまっすぐ伸び、大枝は北、南、西の三方に長く伸びています。そのうち、西の枝は石畳に沿うように伸び、南北の枝は帝釈堂を守護するかのように庇の前に伸びています。その生き生きとした姿は、頭を空に向け、尾を西に伸ばして天に昇る「龍」のようです。縁起によると、題経寺は寛永六年(1629年)創建で、開基の日栄上人が柴又に寄った際、見事な枝ぶりのマツと、その下に霊泉が湧いているのを見つけ、この地に庵を設けたことがその始まりとされています。この時に日栄上人が見た木が、瑞龍のマツとされています。瑞龍のマツは、帝釈堂正面と一体となって景観をなしており、また帝釈天題経寺の創建の由来を伝える銘木、巨木として重要です。
Natural Monuments
Zuiryu no Matsu (Zuiryu Pine Tree)
Kyoeizan Daikyo-ji Temple is commonly called as "Taishakuten (Sakra devanam Indra)". While walking through the Sando (approach to the temple) and the Niten-mon Gate, you can see a big Pine Tree, so-called "Zuiryu no Matsu", in front of the Taishaku-do Hall. Its trunk grows straight towards the sky and its large and long branches extend to north, south and west. The west branch extends like a dragon crawls on its belly on the stone pavement, and the south and north branches spread as if it guards the Taishaku-do Hall. It also looks like a dragon flying up to the sky. According to Engi (the origin and history of the temple), Daikyo-ji Temple was founded in 1629 when a Buddhist monk named Nichiei Shonin stopped in Shibamata and decided to build a hermitage here as he
found a sacred fountain under the big pine tree. It was this Zuiryu-no-matsu.
Zuiryu-no-matsu and Taishaku-do Hall is considered to be a component of the landscape of Taishakuten and it is valuable as precious large tree that tells us a legend of Taishakuten Daikyo-ji Temple.
帝釈天の一帯には、遺跡が多く見られます。
柴又帝釈天遺跡
この一帯は柴又帝釈天を中心に分布する古墳時代後期から奈良・平安時代の遺跡地です。柴又は、奈良の正倉院に伝わる日本古代史上著名な「養老五年(721年)下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」に記載されている嶋俣里(しままたり)の故地として知られています。最近の調査では、古代の住居跡・井戸跡や多量の土師器・須恵器などが出土しており、郷土「かつしか」の歴史を知る上でも、貴重な遺跡です。
東京都水道局金町浄水場は、江戸川の表流水を1日平均約80万トン採水・処理し、都内計12区の約250万人に水道水を供給しています。敷地面積は東京ドーム5.5個分に相当します。1985年に厚生労働省の「近代水道百選」に選ばれ、江戸川右岸に2基ある取水塔はトンガリ帽子とドーム状の屋根で有名です。浄水場周辺を舞台とした映画「男はつらいよ」シリーズや、漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」にも登場しています。
- ポイント3 真勝院
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真勝院(しんしょういん)は、大同元年(806年)に開山した柴又界隈で最も古いお寺です。近くの柴又八幡神社の別当寺でもありました。
真勝院の御案内
- 由緒
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当寺の創立は大同元年(806年)と伝えられている古刹ですが、たび重なる火災又は天文七年江戸川?境に行なわれた国府台合戦の兵火により焼失?れたが、その後何度か再建され現在に至っております。
真勝院には、柴又七福神のひとつである弁財天が祀られています。
境内には、万治三年(1660年)に柴又村の名主らによって建立された五智如来の石仏があります。右から阿(シュク)如来・宝生如来・大日如来・阿弥陀如来・不空成就如来となっています。
葛飾区指定有形文化財
五智如来石像
密教では大日如来の知恵を五つにわけ、これに五仏をあて五智如来といいます。真言の行者は、発心修行の結果、この五智を得ることができるといわれています。この五智如来石像は、造立碑から万治三年(1660年)柴又村の名主斉藤次良衛門と、相模伊勢原村の鳥居九良左右衛門等により、逆修供養(生前自分の死後の冥福を祈って仏事を営むこと)のために建てられたものです。向かって右から阿(シュク)如来・宝生如来・大日如来・阿弥陀如来・不空成就如来の順に並び、中央の宝冠を戴く大日如来を、真言宗では最高の仏として寺院の本尊としています。
真勝院が別当寺だった柴又八幡神社の創建年代は不詳ですが、柴又は正倉院文書の「養老五年下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」にある「島俣里」と推定される古い土地であることから、柴又八幡神社の創建も古くまで遡るだろうといわれています。かっては、柴又村の鎮守でした。
柴又八幡神社の社殿は、6世紀後半のものとみられる東京下町で唯一の前方後円墳の上に鎮座しています。このことは、社殿背後に古墳の石組みらしきものが露呈していたことから指摘されていましたが、昭和四十年(1965年)からの古墳の調査で、直径20m〜30mの円墳であることが判明しました。
区指定史跡
柴又八幡神社の古墳石室
八幡神社の社殿裏手に古墳の石組らしきものが露呈していたことから、いつのころからか古墳ではないかといわれてきました。昭和四十年(1965年)から何度も調査を行った結果、今の社殿を中心として直径20mから30mの規模を有する円墳であることがわかり、社殿裏手の石組は、遺体を安置する石室であることが判明しました。古墳の周りには溝が掘られ、円筒埴輪や人物や馬などの形象埴輪がめぐらされていたこともわかりました。出土した遺物は、埴輪のほか直刀・馬具・鉄鏃・須恵器などがあり、出土遺物から古墳時代後期(6世紀後半)に構築されたものと考えられます。平成十四年(2002年)、この古墳の周りにはりめぐらされていた溝から「寅さん埴輪」が出土しました。東京低地では石室を伴う古墳は本例のみで、この地域での古墳文化を研究するうえで貴重な考古学資料です。
社殿背後の石組みは遺体を安置する石室であり、この時見つかった遺骨は社殿背後に築かれた島俣塚に納められています。周囲からは円筒埴輪や人物や馬などの埴輪・直刀・馬具・須恵器などが見つかっています。石室の石材は房総半島から運ばれた房州石で、石室は現社殿の下に復元展示(非公開)されています。平成十三年(2001年)、渥美清さんの命日である8月4日にこの古墳から「男はつらいよ」の車寅次郎(渥美清)の帽子のようなものを被った通称「寅さん埴輪」として知られる埴輪が出土し、ニュースになりました。埴輪は郷土と天文の博物館、レプリカは寅さん記念館で公開展示されています。
敬神崇祖
此の地方を開発され偉大な功績を遺された尊い祖霊が一千数百年前からこの八幡神社の社殿の地下に鎮斉されていましたので、此の度、その御遺骨と御遺品を剱て(?)、島俣塚の御称号のもとに慎んで奉安いたしました。感謝の誠を捧げると共に、祖霊の御恩ョ(みたまのふゆ:神や天皇などから受ける恩徳・加護)を乞い奉り、お互いの幸福をお祈りいたしましょう。
柴又八幡神社は疫病除けの獅子頭3体(神獅子)を秘蔵していて、毎年10月の例祭では葛飾区の無形民俗文化財に指定されている「柴又の三匹獅子舞」と呼ばれる獅子舞神事が奉納されています。
葛飾区指定無形民俗文化財
柴又八幡神社の神獅子
昔から疫病除けの信仰と結び付いている獅子舞の神事です。神獅子の由来は定かではありませんが、三体の獅子頭は柴又村の名主斉藤家の家宝として代々秘蔵とされていました。ところが獅子が夜な夜な抜け出して、同家の米蔵で米を食い荒すため、主人は怒って獅子頭を江戸川へ投げ捨てました。しかし不思議なことに獅子頭は急流をさかのぼり土手にあがってきたので、村人たちは大変驚き獅子頭を八幡神社に奉納したと伝えられています。獅子舞の演目は「御前舞」「花がかり」など全部で九つになります。都内の他の獅子舞の演目とくらべて「御前舞」のように他ではみられないものがあり、また猿の介添、花笠の万灯持ち、ささらをすらないこと、庭が板敷であることなど他とは系統を異にする獅子舞として注目に値します。
境内には多くの石碑が建っています。柴又用水の顕彰碑です。
区登録有形文化財
柴又用水の碑
根府川石の不整形板石碑で、明治六年(1873年)銘の訓導(旧制小学校教員)橘田春湖による銘文が刻まれています。銘文によると柴又は土地がやや高く、昔から水の利用に苦労が絶えませんでしたが、天保六年(1835年)に鈴木幸七の手によって用水路が引かれ、窮状が克服されたことがわかります。さらにこの事業の結果、堤防も堅固にされ、洪水も防かれました。この碑は鈴木幸七にたいする顕彰碑であると同時に、明治初年における当地域の農耕水利開発の由来を示す点でも注目すべき記念碑です。
こちらも農業に関する顕彰碑です。
葛飾区指定有形民俗文化財
柴又勧農事績碑
天明年間(1781年〜1788年)あいつぐ飢饉や洪水、天災によって当時の農民の生活は窮状を極め、各地に百姓一揆がおこりました。ここ柴又村でも貧しさのため村を捨てるものも多く、田畑は荒れてきました。名主の七郎右衛門は他の村役人と図り柴又村の人々に質素倹約、勧農を守らせ、荒れ地改良を進めるなど村の復興に努めました。これに対して代官小野田三郎右衛門は寛政十年(1798年)名主の七郎右衛門に褒状と銀10枚を与え、他の村役人や村人へもそれぞれ褒米を与えました。このことがあってから30年近くたった文政九年(1826年)村役の子孫、村人達は先祖の努力と功績をたたえ後の世の教訓とするために先祖の事績を記した柴又勧農事績碑(柴股邑碑記)を建てました。この碑は江戸時代後期の葛飾区域の実情、寛政改革期の幕府の農政方針などを知ることのできる貴重な資料です。
- ポイント4 良観寺
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良観寺の創建年代は不明ですが、明暦元年(1655年)の棟札に「両観寺」とありまするので、少なくとも江戸時代初期には既に存在していたものと推測されます。元は念仏堂だったともいわれていて、永正六年(1509年)の銘が入った板碑があることから、念仏堂も室町時代後期には存在していたものと考えられます。
良観寺の本尊は観音菩薩ですが、江戸時代から「尻手の観音」と呼ばれ、毎年4月18日の縁日には遠近からの多くの参詣客で賑わったといいます。
良観寺は、柴又七福神のうちの宝袋尊、江戸川七福神の布袋尊を祀っています。宝袋尊は大量という意味があるそうです.
柴又七福神
宝袋尊 良観寺
当山の宝袋尊は、江戸時代初期に商人が都からの帰りに、山中で日が暮れ、民家の宿を借り一夜を明かしたが、民家と思ったのは大木のうろの中で、驚いてうろの中を見渡すと布袋尊がおられた。尊像を店に持ち帰りお祀りしたところ、商いは大いに繁盛した。この御利益を大勢の人々のお役に立てたいと発願し、宝袋尊と称して当良観寺に奉納せられるに至った。
境内の右手に沢山の幼児の地蔵が並んでいます。カラフルな前掛けと頭巾が目を引き、地蔵の前に置かれた風車がくるくると回っています。芝増上寺の千躰子育地蔵菩薩を思い出します。
古録天神社の創建年代は不詳ですが、第六天社として創建され、明治維新後に古録天神社と改号しました。相殿の北野神社は、付近の宇北野から遷座しました。北野神社は菅原道真公を祭神としています。
北住吉幼稚園前の交差点で小岩用水緑道と交差します。緑道といっても歩道が広いだけですが。小岩用水は、小合溜井(現在の水元公園)を用水源とする上下之割用水の主要分水路です。江戸時代中期の享保十四年(1729年)、八代将軍徳川吉宗の幕府勘定方だった井沢弥惣兵衛は利根川の旧河道を締め切って小合溜井を設け、中川・上下之割用水を整備しました。上下之割用水は東葛西領50余村を潤す灌漑用水で、岩槻橋を経て大堰枠で小岩用水、新宿村と曲金村境付近で東井堀、さらに細田村と奥戸新田付近で西井堀と中井堀を分流していました。小岩用水は下之割と呼ばれた現在の江戸川区方面への主要用水路でした。当時の葛西領は上下之割用水と西の葛西用水の2大用水の本・支流が縦横無尽に走る水田地帯で、葛西3万石の米どころとなっていました。また畑地では小松菜などの野菜が作られ、大消費地江戸を支える農村地帯として重要な役割を担っていました。近代に入って都市化の進行とともにこれらの用水路は次第にその役割を減じ、戦後は工場や家庭からの排水が流れ込む排水路となっていきました。昭和三十九年(1964年)4月、葛飾区へ移管され、その後下水道の完備とともに緑道として整備されて現在に至っています。
交差点を越えた先に幾つかのお寺が並んでいます。源照寺は、寛永三年(1626年)照蓮社寂誉上人薫香宗円和尚が浅草蔵前鳥越付近に創建し、明暦の大火で類焼後、山谷新鳥越に移転しました。関東大震災で焼失し、昭和三年に此の地に移転しました。墓地に山田流琴曲の祖山田検校や義太夫節の竹本綾太郎の墓があります。
史跡 山田検校の墓
山田検校、名は斗養一と称し江戸時代の琴曲山田流の開祖として世に知られる。宝暦七年(1757年)四月、三田了任の子として生まれ、幼少の時失明し、山田松黒について琴を習い瞽官に累進して検校の位を授けられる。文化十四年(1817年)四月、病没す。享年六十一才。
祟福寺は、香山泰厳が慶長五年(1600年)3月に江戸浜町に祟福庵を結んでいたところ、慶長十八年に前橋城主酒井雅楽守忠世が帰依・開基となって堂舎を建立し、総寧寺十七世骨山恕徹和尚を勧請開山として創建したといいます。明暦三年(1657年)正月、江戸の大火により焼失し、浅草松清町に1300坪の地を得て移転し、以来酒井家の菩提寺として栄えましたが、大正十二年9月の関東大震火災で被災し、昭和三年6月に現在地に移り、昭和八年に本堂・山門・鐘楼などを再建しました。墓地と境内に、歌人福田竹庵の墓・小野鷲堂筆の記念碑・画家長谷川等伯の墓碑等があります。
曹洞宗 海島山 崇福寺
徳川家康が江戸幕府を開く三年前の慶長五年三月(1600年)香山泰厳和尚が日本橋浜町に崇福庵を建立しました。慶長十八年(1613年)上野厩橋藩(前橋城主)酒井雅楽頭忠世の帰依により堂舎を建立し、国府台の総寧寺を本寺とし名称を崇福寺としました。1657年、明暦の大火にて焼失した為、忠世の孫、忠清の代に、浅草松清町(現在の浅草郵便局一帯)に千三百坪の土地を拝領し移転、本堂を再建しました。以来酒井家の江戸の菩提寺として永く栄えました。その為酒井家の家紋である「剣鳩酸草」を寺の紋として使用しています。酒井家は徳川氏の最古参の譜代筆頭で、徳川幕府の大老四家の一つに数えられ、一族から大老や老中を輩出し、代々雅楽頭を任じられていました。また江戸城大手門付近の酒井家上屋敷の中庭には平将門公の首塚があり酒井家により手厚く祀られ、崇福寺の住職も首塚に供養に出向いていました。大正十二年九月の関東大震災にて被災し、昭和三年六月浅草よりここ高砂に移転、同八年本堂・山門・鐘楼等を再建しました。酒井雅楽頭歴代の墓所は群馬県前橋市の龍海院にあり、ここ崇福寺は酒井雅楽頭家、伊勢崎藩酒井家の墓所となっております。
大秀寺は、寛永五年(1628年)に宝誉林残によって開山されました。元々は湯島に位置していましたが、明暦三年(1657年)の明暦の大火後、浅草山谷に移転しました。大正十二年(1923年)の関東大震災で伽藍を焼失し、大正十五年(1926年)に現在地に移転しました。墓地には、江戸時代の侠客で幡随院長兵衛亡きあと、町奴の頭目として名を馳せた唐犬権兵衛の墓があります。「唐犬」の異名は、旗本の士大道寺権内の屋敷前を通行した折、手飼いの唐犬2匹をけしかけられ、権兵衛が土足で犬を踏み殺したという逸話に由来します。
- ポイント5 観蔵寺
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京成高砂駅の線路脇に観蔵寺があります。観蔵寺は文明元年(1469年)に僧空性坊によって開山されました。天文七年(1538年)と永禄七年(1564年)の二度にわたる国府台合戦で廃寺化しましたが、承応二年(1653年)に隆敬法印によって中興されました。観蔵寺には、かつて無桃軒石鵬筆の「金亀山神宮院観蔵寺景園之記」と呼ばれる巻物がありましたが、現在は行方不明となっています。現在の本堂は、大正三年(1914年)に再建されました。
観蔵寺は、柴又七福神のうちの寿老人を祀っています。また、新四国四箇領八十八箇所霊場第26番札所にもなっています。
柴又七福神
寿老人 金亀山神宮院観蔵寺
当山は、文明元年(1469年)の開創であるが、永録七年国府台合戦により焼失し、承応二年、法印隆教が再興する。寿老人は、七福神の第一におかれる長命の神で、寿福を司どる神様である。日本では室町時代より信仰が盛んである。
京成高砂駅近くの交差点角に、韓国料理の「ぶた家」があります。高砂で唯一の韓国料理店というのもあり、夕食時間帯は大盛況です。びっしりと書かれたメニュー表でお勧めは、ニラ・玉ねぎ・人参がたっぷり入った「ぶた家チヂミ」、韓国版海苔巻きの「プルコギキンパ」、豚肉を生姜やニンニクと煮込んでキムチなど副菜と一緒に葉っぱに包んで食べる韓国料理の「ポッサム」などです。
京成金町線の踏切の先から、京成電鉄の高砂車庫沿いに進みます。京成高砂駅は、京成電鉄の本線・金町線・成田空港線・北総線が交わる駅で、京成電鉄にとって東京の拠点ともいえる駅です。この京成高砂駅には、大正元年から電車の車庫があり、この施設では車両を留置したり出発前の点検を行ったりしています。京成高砂駅には、京成電鉄以外にも京浜急行電鉄・東京都交通局・北総鉄道・芝山鉄道・千葉ニュータウン鉄道が乗り入れているため、各会社の様々な電車に出会えることができ、大勢の鉄道ファンが詰めかけます。
自動車学校の角から「さくらみち」に入ります。「さくらみち」は、葛飾区のお花見スポットになっています。
「さくらみち」は、旧佐倉街道の道筋に当たります。「さくら」と「佐倉」が同音なのは面白いですね。
佐倉街道
佐倉街道は、かつて江戸から佐倉に通じる街道として栄えていました。日本橋から葛飾区の新宿までは水戸街道と共通路線を通り、新宿の町はずれから分かれ、上小岩村(江戸川区)をぬけ、江戸川を渡しで越え、下総の村々を経て佐倉に達していました。東海道等の五街道に匹敵する程の重要な道でありました。当時、この佐倉街道を通行した大名は下総佐倉藩の堀田氏をはじめ房総方面の大名あわせて十数藩に及んだといいます。なお、この街道は江戸中期以降、江戸から成田山や千葉寺に参詣する大勢の旅人があったので成田千葉街道(なりたちばでらみち)とも呼ばれていました。現在は柴又七福神めぐりのコースとしても利用され、また防災避難広場である江戸川河川へのルートに指定もされています。
石柱には柴又七福神のレリーフも貼られています。
蓮華寺の本尊は聖観世音菩薩で行基の作といわれています。寺伝によれば、かってこの地に観音堂があり、村人の信仰を集めていました。永享十年(1438年)に栄源法印が不動明王を背負って遍歴した後、此の地に永住するようになったので、人々が協力してお堂を建て、蓮華寺と称したのが始まりといわれています。建物は安政二年(1855年)の地震、大正六年の津波や関東大震災で全壊の厄災にあいましたが、昭和四十七年に鉄筋建築の現在の本堂が完成しました。本堂に、不動明王立像が安置されていて、昔から「虫除不動」といわれ、子どもの癪の虫に霊験あらたかであるとして広く人々に信仰されました。
- ポイント6 医王寺
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医王寺は、応永十四年(1407年)に観賢法印によって開山されました。開山当初は「薬王寺」という名称でした。その後、国府台合戦の兵火で荒廃しました。天文七年(1538年)の国府台合戦の終結後、直ちに源珍が中興したが、源珍の死後はまた荒廃してしまいました。寛永年間(1624年〜1645年)に近くの金蓮院の僧が再度中興しましたが、その際に寺名を「医王寺」に改称しました。元々は江戸川のすぐ近くに位置していましたが、大正四年(1915年)に現在地に移転しました。
医王寺由来
応永拾四年七月七日時の将軍足利義満公が、奇病(赤目病)が下総国一円に発生し住民が全滅の危機にさらされているのを聞きおよび、時の後小松天皇に悪病退散の祈願寺の建立を上奏し、京都仁和寺の僧観見和尚に薬師瑠璃光如来を奉持させ、柴又村の当地に建立したものである。赤目病とは、両目が最初充血し、悪化するにつれ「目やに」が出てやがて瞳が白く濁り「下まぶた」が垂れ下り赤くはれ上がり、最後には失明してしまう恐ろしい奇病で原因は不明であったと云う。当時の目の病いに苦しむ村人たち、近郷近在より参詣に訪れたと聞く。此の奇病にかかった村人が昭和二十年頃を最後に、以後赤目病患者は当地より消えたのである。当山では、境内より湧き出る清水(現存しない)と護符と茶目薬を室町時代より昭和中期まで眼病祈祷札と共に出していたが、終戦後薬事法の定めにより今は出していない。だが現在でも、眼病を護る仏として参詣に人々が訪れている。
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- 薬王山瑠璃光院医王寺と号す。(真言宗)
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- 開山 応永拾四年七月七日。
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- 開山上人 大僧正 観見(仁和寺の僧)
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- 安置仏 本尊薬師瑠璃光如来(木造一刀彫 伝弘法大師作 三体明烏との伝えあり)
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- 前立本尊薬師如来(江戸時代明暦二年 大仏師 加藤匠)
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- 福徳恵比寿天(現尊像の腹仏として、天文年間の作と思われ、三寸五分の尊体が納められている。作者不明)
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- 地蔵観音菩薩(徳川初期の作と云われる。作者不明 平成元年 京仏師 大仏師松本明慶師により修復)
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- 金仏不動明王勢至菩薩、文珠菩薩、普賢菩薩、阿弥陀如来、大日如来(木造金箔塗)
仁王山門鐘楼は、木曽檜作り(大和田儀己工匠)で、平成四年十一月に完成しました。二体の仁王像は、京仏師松本明慶師の作です。
中興の僧源珍は25歳の時に高野山に入山しましたが、大永元年(1521年)に高野山で大火があり、その復興勧進のために全国を行脚することになりました。行脚の途上、山中において脚気で動けなくなったところを村人に助けられ、恵比寿天像と蕎麦粉の寄進を受けました。源珍は蕎麦を食べながら恵比寿天に21日間礼拝したところ、身体が回復したといいます。行脚再開後は各地の農民に蕎麦の栽培を勧め、商人にも蕎麦の流通を勧めました。後に源珍は医王寺に定住することになりますが、この故事により「そば寺」と呼ばれるようになり、蕎麦店の信仰を集めるようになりました。柴又七福神の恵比寿像もこれに由来します。医王寺に安置されている地蔵菩薩像「そば地蔵尊」は源珍を模したものとされていて、今もなお蕎麦店関係者が参拝に訪れています。戦前から昭和四十年代までは蕎麦店が結成した「えびす講」が盛んで、正月や縁日には蕎麦が無料でふるまわれていました。
柴又七福神
恵比寿天 医王寺(開創応栄十四年<室町時代>開祖 観賢大僧正)
中興祖源珍僧都という御方が宗祖弘法大師の足跡を巡行中、村人より一体の恵比寿天を戴かれ、山中に安置し香華供物を供え二十一日間の御修行をすると、川底より砂金を掬い上げた。後に恵比寿天を礼拝すれば商人は金銭意の如く集まると唱え、多くの世人に広めた。当山代々住職は、その偉業を尊び伝承し今日に至らしめたものである。
淺間山の噴火による川流溺死者の供養碑が建っています。
区指定有形文化財
淺間山噴火川流溺死者供養碑
天明三年(1783年)7月5日から8日にかけて信州浅間山が大爆発を起こし、関東地方一帯は大きな被害を受けました。利根川上流の吾妻川では山津波と降灰でできたダムが決壊し、下流は大洪水となり、死者2000余人、埋没戸数1800戸に及びました。特に利根川、江戸川流域の水害は大きく、最下流にあたる当地域も同様で上流からの川流死者も少なからず漂着しました。この碑は、柴又村の人々がその供養のために建てたもので、史上まれにみる大災害に対処した当時の様子を伝えています。
●材質 石材 ●大きさ(台石含まず) 高153cm 幅23cm
- ポイント7 宝生院
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宝生院は、寛永元年(1624年)に常陸国大聖寺末宝性院として江戸京橋付近に創建されました。下谷谷中への移転を経て、明暦年間に池之端茅町へ移転しましたが、大正十二年(1923年)に発生した関東大震災で伽藍を焼失し、昭和二年(1927年)に現在地へ移転しました。
宝生院の本尊は、柴又七福神のひとつとなっている大黒天であり、江戸期から身分の上下に関わらず多くの人々の信仰を集めていたと伝えられています。
柴又七福神
大黒天 宝生院
米俵に乗っている大黒天は、インドの神様と大国主命の習合。当寺に安置する大黒天は、将軍家にも信仰が深く、大きな袋と打ち出の小槌で、多くの人々を救済する「出世財福」の御利益で有名である。
※ 頭光のある火(炎)、光背を負った不動明王像が透彫してある「寺宝金銅幡残欠」は、葛飾区文化財に指定されている。
木の幹が屋根を突き抜けている蕎麦屋さんがあります。柴又街道沿いにお店を構える大鴬庵やぶ忠本店では、店内で骨董を観ながら茹でたての味噌煮込みうどんを食することができます。当初は手打ち蕎麦のお店でしたが、リニューアルして手打ちうどん屋さんになったそうです。
柴又帝釈天参道にもお店を出しています。
緑道っぽい小道に入ります。河川の水路跡でしょうか?
小道の脇には、七福神の石碑が建っています。七福神巡りコースの道しるべみたいです。
- ポイント8 萬福寺
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小道の先に萬福寺があります。萬福寺は、山号を聖閣山と号する曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦牟尼佛です。此の地から人骨数体が発掘されたため、地元の人びとの要望に基づいて昭和三年8月に創建されました。
萬福寺は柴又七福神の一社で、福禄寿をお祀りしています。福禄寿は中国の神様で、幸福・高禄・長寿を授けるといわれています。
柴又七福神
福禄寿 万福寺
短身長頭で白い髯の福禄寿は、中国の神様で、南極老人星の化身。福は幸福、禄は高禄、寿は長寿の三徳を兼ねた神様。当山安置の福禄寿は、年代不明であるが、宍戸家に伝えられた家宝仏であったものを奉納され、以来当山に祀られている。
ゴール地点の京成金町線柴又駅に戻ってきました。
折角なので、コースには含まれていませんが矢切の渡しを見物してから帰ろうと思います。江戸川の河川敷に向かいます。矢切の渡しは、江戸時代に始まり、現在都内に唯一残る渡し場です。川幅150mの江戸川を小さな舟が往復しています。今日は平日ですが、何人かの人たちが渡し舟を待っています。
舟は手漕ぎで、風情がありますね。対岸は千葉県です。帰りに乗り遅れたら大変。
ということで、葛飾区で三番目のコースである「B柴又エリア〜七福神めぐり〜」を歩き終えました。次は葛飾区で四番目のコースである「C亀有・青戸エリア」を歩きます。
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