C亀有・青戸エリア  

コース 踏破記  

今日は葛飾区の「C亀有・青戸エリア」を歩きます。亀有駅から国府台合戦の舞台となった葛西城跡を訪れて「兵どもが夢の跡」を偲び、中川沿いに進んで青砥駅から曳舟川親水公園を巡ります。最初に歩いたのは2022年の3月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年7月に改めて歩きました。

C亀有・青戸エリア

「C亀有・青戸エリア」の歩行距離は約8.0km(約11、430歩)、歩行時間は約2時間、消費カロリーは約360Kcalです。

スタート地点:JR常磐線亀有駅南口
ポイント1 葛西城址
ポイント2 観音寺
ポイント3 青戸平和公園
非核平和記念塔前には被爆の遺品が献花とともに置かれており、葛飾の平和のシンボルになっている。
ポイント4 延命寺
ポイント5 郷土と天文の博物館
ポイント6 曳舟川親水公園
葛西用水(曳舟川)の面影を残し、水をテーマとして整備された南北延長約3kmの公園。

ゴール地点:JR常磐線亀有駅南口


スタート地点のJR常磐線亀有駅南口から歩き始めます。



亀有といえば、漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」ですね。駅周辺には、両津勘吉を始め、物語に出てくる多くのキャクターの銅像が建っています。

こちら葛飾区亀有公園前派出所
ようこそ こち亀の街へ!
両津・中川・麗子がお出迎え!像

1976年に「週刊少年ジャンプ」(集英社)で連載を開始して以来、日本国内のみならず、世界中で多くの人々に愛され続けている漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」。物語の舞台であり作者秋本治先生の出身地であるここ亀有には、主人公の両津勘吉をはじめ多くの銅像があり訪れた人々を楽しませています。この「ようこそこち亀の街へ!両津・中川・ 麗子がお出迎え!像」は連載40周年を記念し、亀有で初の彩色した銅像として15体目に建立されました。両津勘吉、中川圭一、秋本・カトリーヌ・麗子の三人が並ぶこの銅像は、一緒になってポーズをとり記念撮影ができることで両さんたちをより身近に感じられるようにとの願いをこめて建立されました。




ゆうろーど商店街を抜け、そば処花蔵の前で左折して江北橋通りに出ます。歩道脇に、「ワハハ両さん像」が建っています。漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」は、亀有出身の秋本治が40年の間休載することなく週刊少年ジャンプで連載したギャグマンガです。主人公の型破りでお金儲けが大好きな警察官「両津勘吉」(通称「両さん」)とその同僚たちが主に亀有で繰り広げる日常の騒動が一話完結の漫画になっています。ゆうろーど商店街の幟には、両さんが自分の勤務する派出所の上に自分の記念館を建てちゃった!というストーリーのもと、こち亀作品や亀有の魅力を楽しみながら体感できる観光施設「こち亀記念館」が(2025年3月22日に)オープンしたとの告知が出ています。どこにあるのかなと探しましたが、場所はゆうろーど商店街と筋違いの宮前通りにあるそうです。



亀有二丁目交差点で右折し、環七通りを100mほど進みます。右手に、かって川が流れていた跡に出来たような蛇行した小道が延びています。



葛飾区はかつて水と緑の豊かな田園地帯で、区域を水路が網の目のように張り巡らされていましたが、都市化と下水道の普及により、水路本来の役割は過去のものとなっていました。そのため、区では水路の跡地を利用するために区内の主要な拠点 を結ぶ緑のプロムナード計画を策定しました。「亀有さくら通り」もその一環として整備されたものです。道路は、サクラを全線に植樹し、春の開花・夏の木陰・秋の紅葉・冬の日溜まりと四季の変化が楽しめ、かつての水路が田畑を潤していたように、この道路によって人の流れと出会いが演出され、人が集い憩える都市空間の創造をめざしています。また、曳舟川親水公園や郷土と天文の資料館などの施設への誘導路線としての役割も持っています。

亀有さくら通り

この道路は、水と緑ゆたかな心ふれあう住みよいまちをつくる一環として建設したものです。道路全体を従来の道路のイメージを大きく変えて、住民の参加とふれあいの場となるようコミュニティ道路として、地域の環境改善に配慮いたしました。車道は、道路線形、速度制限、また一方通行などで、車は少し遠慮してもらい、歩道は、御覧のように、より安全に通行できるよう、さらに憩の場、親しみとうるおいの場となるよう幅を十分広くとり、縁や修景施設を多くとり入れ、この地域の貴重な都市空間となるよう計画いたしました。




しかし、亀有さくら通りが整備されてから年月が経過し、道路や樹木の老朽化が進行してきたことにより、2025年7月時点で区間を区切って改修工事が行われています。従来植えられていたソメイヨシノ種に代って、新たな種のサクラが植えられる予定です。

亀有さくら通り道路改修(その4)工事
〜緑豊かでバリアフリーに配慮した道路に更新します〜

●工事概要
亀有さくら通りは整備してから30年以上が経過しており、様々なものが老朽化しています。このため、道路の更新工事を実施すると共に、歩きやすい歩行空間を確保し、桜を中心とした緑豊かな道路に改善します。

●主な工事内容
1.サクラの更新
樹木診断の結果等を基に、腐朽の進んだ桜は伐採します。
新たに植える桜については、生育環境改善のために、本数と配置を見直します。
2.舗装の改修
根上がりや老朽化等により傷んだ歩道舗装、車道舗装を改修します。
3.街路灯や横断抑止柵の設置
街路灯や横断抑止柵を景観や安全性に配慮し、設置します。

●サクラの品種(予定)
既存
ソメイヨシノ
開花時期:3月下旬
樹高:10m〜15m

新植予定
ジンダイアケボノ
開花時期:3月下旬
樹高:5m〜10m
オカメザクラ
開花時期:3月下旬
樹高:5m〜10m

新植するサクラは道路の良好な環境維持のため、ソメイヨシノと比べて小ぶりなジンダイアケボノ、オカメザクラです。
※サクラの出荷状況、生育状況によっては、サクラの品種が変更になる場合があります。




亀有さくら通りの中程に、修徳中学校・高等学校があります。修徳中学校・高等学校は、中高一貫教育を提供する私立中学校・高等学校です。天理教の東本大教会を創立した中川よしが、布教の一環として教会内の住み込み人や信者の子弟のために明治三十七年(1904年)に始めた夜間学校を起源にしています。天理教東本大教会信者に限定せず、一般からも生徒を募り、当初は授業料や教材を無償としていました。



青戸七丁目北交差点で国道6号線(水戸街道)を横断し、路地を巡った先に御殿山公園があります。ちなみに、「青戸」と「青砥」の違いですが、青戸は地名で、港や船着き場を意味する「戸(津)」が由来とされています。青戸はかって中川に面し、人や物資を運ぶ水運上の拠点として使われた港だったんですね。青戸は正式な地名として過去からずっと使われてきましたが、駅名に使われている青砥は「青砥藤綱」という鎌倉時代に活躍したといわれている名裁判官が江戸時代に人気者になって以降、この藤綱の館が青戸にあったとする言い伝えがあり、青砥という文字が多く使われるようになったようです。



御殿山公園には、「青砥藤綱城跡」と「青砥史蹟復興之碑」の石碑が建っています。青砥藤綱は、質素倹約を旨とし、評定衆に任じられた時も公明正大な裁定を下し、大岡政談になぞらえて彼を主人公にした江戸時代の作品もあるそうです。

青砥史蹟復興之碑

文部大臣 大達茂雄先生題
國務大臣 安藤正純先生撰

鎌倉幕府の名臣評定頭青砥左衛門尉藤綱公はこの地を愛好し、本領上総の國より鎌倉出仕の途次常に仮宿し、土民と?く親みよく語るを楽しむ。晩年執権北条時頼に請ひ此地を賜はり永住の地と定め、専ら意を農耕に注ぎ地方民生の指導に努め、善政を施すその偉大なる人格と遺業は古来文献の示す所なり。青砥城址はその邸跡にして、又終焉の地と傳えられる降て、文化八年崇敬者相寄り、高砂町極楽寺に供養塔を建立す。位牌亦御持拂辨財天等も同寺に安置せらる。今や祖國再建の途上、遠く之れを追憶するとき、名判官としての善断滑川に於ける逸事等、公の訓陶に?つべきもの頗る大なるを痛感慕情又禁せざるものあり。青砥城趾は永禄年間に小田原北條氏の麾下遠山丹波の守直景この地に居城を構えて葛西城と称し後ち寛永十六年コ川氏本城を改修せられ、青戸御殿と名づけ歴代将軍遊猟時の休所たりしは新編武蔵風土記に詳なり。然るに世の変遷と共に三百有餘坪の丘陵は荒茫として一?幽なるところ只廃祠の存するを見るのみ。春風秋雨七百年興亡の跡を追懐し、常に思いを致すこと?久し偶?今歳皇太子殿下御外遊に際會し一祠を建て公が霊を祀り境内を整地し??を偲び、併せて郷?文化推進の場たらしめんとす。?莫輓近世相動揺に伴ひ人情徒らに新?を?い、温古の念を蔑むの観あるは國家の前途真に憂慮に堪えざるものあり。茲に郷土葛飾の同志相謀り本史蹟を顕彰復興し、以て聊か世道人心に寄輿すると共に永くこれを後生に傳えんとす。




ポイント1 葛西城址

葛西城は、戦国時代に山内上杉氏・北条氏・越後長尾氏らが争奪戦を演じ、古河公方が元服式を行い、小田原征伐の際には徳川勢と戦った末に攻略された城です。江戸時代には、徳川将軍が鷹狩の際に用いる御殿も築かれました。現在は環七によって東西に分断されていますが、環七の西側の御殿山公園と東側の葛西城址公園がある地域がかっての葛西城の主郭の跡です。「葛西」というと、地下鉄東西線の葛西駅を思い浮かびますが、奈良時代にはこの付近は下総国葛飾郡で、葛飾郡は太日川(現在の江戸川)の両岸に広がる地域でした。その後、北部を除く太日川の東を葛東(かっとう)、西を葛西(かさい)と呼ぶようになりました。この地域は葛西地域に含まれていたので、葛西城の名前の由来となったのです。

葛西城跡

葛西城跡は中川西岸の自然堤防上に立地している戦国時代の城跡(東京都指定史跡)です。御殿山公園、葛西城址公園一帯が城の中心部である主郭にあたります。江戸時代初期には、徳川将軍の鷹狩の休憩所として、青戸御殿が構えられました。




御殿山公園の東南角地に、葛西城に関する案内板や石碑が建っています。歴史と文化の散歩道の案内板に似た石碑が建っています。

発掘された葛西城

葛西城は中川右岸に沿った標高1m〜2m前後の微高地上に占地し、その範囲は青戸8丁目宝持院付近から青戸7丁目慈恵医大青戸病院付近におよぶものと推定される。葛西城址は昭和四十七年(1972年)から環状7号線道路建設に伴い発掘調査が実施され、戦国時代をはじめとする陶磁器や漆器椀等の木製品を多量に出土した。葛西城から出土した多量の遺物は、今まで古文書や絵巻物でしか想像できなかった戦国時代像を研究する上で、欠くことのできない貴重な資料としてその名を全国的に知られている。葛西城の立地する葛西地域は、中世において秩父平氏の流れを汲む葛西氏によって治められ、私領の一部は伊勢神宮に「葛西御厨」として寄進されている。葛西城の築城がいつ頃なされたかは古文書からも定かではないが、中世におけるこの辺一帯の政治情勢や出土した遺物から、15世紀中頃と推定される。15世紀末、伊豆、相模方面を舞台に台頭してきた後北条氏は北条早雲の子、北条氏綱によって関東進出が企てられ、天文七年(1538年)葛西城は氏綱の手に陥落、下総に勢力を張る足利義明に対する構えとして整備されたことが知られる。その後、葛西城は16世紀末まで存続するが、天正十八年(1590年)小田原の役における後北条氏の滅亡と同じくして葛西城も落城し、中世城郭としての役目を終えるのである。近世初頭、徳川家康の江戸開府後、葛西城跡地には青戸御殿が建てられる。青戸御殿は秀忠、家光の三代にわたって鷹狩等に利用された後、明暦三年(1657年)頃取り壊されたといわれている。また、葛西城は中世の城館跡として名を馳せているが、葛西城の下には今から1600年程前の古墳時代の住居跡や井戸跡、多量の土器等が発見されており、当時のムラが埋没していることがわかっている。土器の中には遠く東海地方から運ばれてきたものがあり、当時の水上交通の活発さを窺わせている。このように葛西城址は、弥生・古墳時代から中世・近世に至る各時代の貴重な資料を遺存している複合遺跡であり、葛飾区のみならず、東京低地の歴史を研究する上で欠くことのできない文化遺産である。




最も大きく目立つ碑は「葛西城を偲ぶ」と題された石碑です。平成元年(1989年)三月に建てられました。

葛西城を偲ぶ

今から四百五十年前の天文七年二月二日、北条氏綱がこの地を落とし、下総に勢力をもつ足利義明に対し、葛西城を整備し腹心の部下道山氏を配置した。しかし、戦国の世の習い、葛西城の主は目まぐるしく変わった。天正十八年五月、徳川家康の手に落ち、以後城内に離館が建てられ、青戸御殿として、秀忠・家光の三代にわたり利用された。明暦三年頃、御殿は解体されて陸田となった。時は変わって環状第七号線道路が葛西城の上を走ることになり、昭和四十七年から十年間におよぶ発掘調査を行い、その結果、この地は弥生時代後期から近世初頭に及ぶ大規模な複合遺跡であることがわかった。とくに中世葛西城関係の多量の出土資料は、その当時の歴史を知るうえで極めて重要なものである。今は近代化の波に洗われる一方、本道路工事を契機によみがえった葛西城を偲んでこの碑を建てるものである。




東京都の案内板も立っています。

東京都指定史跡
葛西城跡

葛西城は、中川の沖積微高地上に築かれた平城である。沖積地に存在しているため、地表で確認できる遺構は認められない。築造者と築造の年代については不明であるが、天文七年(1538年)二月には、北條氏綱によって葛西城が落城されたという記録(「快元僧都記」)があり、この後、葛西城は後北條氏の一支城となり、幾多の争乱の舞台となった。後北條氏の滅亡後、葛西城は徳川氏の支配下に入り、葛西城の跡は、将軍の鷹狩の際の休憩・宿舎(青戸御殿)として利用されていた。この葛西城が再び注目されるようになったのは、昭和四十年代後半のことである。昭和四十七年から発掘調査が行われ、その結果、主郭を区画している大規模な堀、溝、井戸跡等が検出され、陶磁器、木製品等が出土し、中世の城郭の存在が明らかにされた。東京都内には、中世城館跡が多数存在している。沖積地に存在している城館跡は、地表にその痕跡をほとんど残さないことから内容が不明のものが多いが、葛西城の存在は、発掘調査によって明らかにされており、戦国の騒乱を語る上で欠かすことのできない城郭である。

Historic site
Kasai-jo Ato

Kasai Castle, of which ruins currently remain, was a medieval castle built on a slightly high alluvial area on the right bank of the Naka River. Investigations were conducted as accompanied by a construction of the Ring Road No.7, and then the remains of the castle were identified. Therefore, there are no remains visible on the ground. Kasai Castle is frequently attested in historical sources since around the middle of the 15th century, as being an important base for members of the Uesugi clan (including both prominent families of Ogigayatsu and Yamanouchi) serving as assistants to deputy shoguns, while they were in conflict with deputy shoguns at Koga, generation after generation. Thereafter, the castle was captured by the Hojo clan of Odawara in 1538, when they drove Uesugi out of the south Kanto region. Subsequently, the rulers of the castle often changed, for example due to the advancement of Nagao Kagetora (Kenshin Uesugi), and the castle was finally secured by the Hojo clan after the Second Battle at Konodai between Hojo Ujiyasu and Satomi Yoshihiro; the rule under the clan lasted until the downfall of the Hojo clan. The area on the both sides of the Ring Road No.7 which is preserved as a park is believed to be a part with the main building. The figure of the castle under the Uesugi rule is not clear, but at any rate, the castle is enlarged under the Hojo clan: water conduits have been identified in a range covering a length of 400 m from t e south to the north, and of 400 m from the east to the west. At that time the main building also occupied an immense block with conduits being 18 m wide, and traces of mound are also identified for this period. It is known that the castle was utilized in falconry of Shogun family members in early Edo Period, under the name of Aoto Palace.




環七を挟んだ東側にも葛西城跡の「葛西城址公園」があります。

葛西城跡
Kasai Castle ruins

歴史

葛西城は環状七号線の建設工事に伴う発掘調査で見つかった戦国時代の城跡です。15世紀後半に関東管領上杉氏の重要拠点として築城されました。下総・武蔵の国境付近に位置する葛西城は争奪戦の対象となり、幾多の攻防を経て北条氏が制圧しました。1590年の豊臣秀吉による小田原攻めで北条氏が滅亡すると葛西城も落城しますが、江戸時代初期には徳川将軍が鷹狩などを行った際の休憩所(青戸御殿)として再興されました。




葛西城址公園の裏手に、伊勢ヶ濱一門の相撲部屋である大島部屋があります。大島部屋は、昭和五十四年(1979年)9月場所限りで現役引退した立浪部屋所属の大関旭國が年寄・2代大島を襲名した後、昭和五十五年(1980年)1月に分家独立して創設されました。その後、第63代横綱旭富士や小結旭道山・旭豊を始め、一代で多くの関取を育てて、部屋は立浪一門の中核的な存在となりました。また、平成四年(1992年)にはモンゴルから6人の新弟子を迎え入れ、現在まで続くモンゴル人力士の隆盛の先駆けとなりました。平成二十四年(2012年)に部屋は一旦閉鎖されましたが、幾たびかの変遷の後、令和四年(2022年)に部屋が再興され、令和五年(2023年)10月に青戸に移転しました。部屋の看板は、2代大島が部屋を創設した時に10代式守与太夫が揮毫したものを掲げています。



ポイント2 観音寺

観音寺は、天正四年(1578年)に真盛法印によって開山されました。しかし、正徳三年(1713年)の火災で多くの記録を失いました。現在の本堂は昭和四十一年(1966年)に新築されました。観音寺の本尊は十一面観音で、寺号の由来となっています。正徳三年の火災前の十一面観音は弘法大師空海の作と伝えられています。観音寺は、新四国四箇領八十八箇所霊場第15番札所で、隣接する三社明神(現在の青砥神社)の別当寺でもありました。



観音寺のはす向かいに青砥神社があります。青砥神社は天正四年(1576年)に創建され、青戸村の鎮守でした。当初の祭神は猿田彦命・健御名方命・宇迦之御霊命で、「三社明神」と称していました。その後、明治五年(1872年)に「白髭神社」に改称し、昭和十八年(1943年)に白山神社を合祀して「青砥神社」になりました。戦後の昭和三十五年(1960年)に青戸地区にあった高木神社・八幡神社・北野神社・葛葉稲荷神社・水神社の5社を合祀し、更に昭和後期に環状七号線の用地上にあった葛西城址の青砥藤綱神社を合祀して最終的に祭神は9柱になりました。

御造営記念碑

当社は往昔白鬚神社と称し天正丙子四年に、畏くも猿田彦命(白鬚)健御名方命(諏訪)宇迦之御魂(稲荷)の三社を勧請したるに始まり、ゆえに三社明神と称し、その広大無辺の御神徳は、氏子崇敬者の上に遍く日夜加護せらる。昭和十八年九月旧青戸四丁目に鎮座せる白山神社(伊弉那?命)を当社に合祀申上げ、御社名を青砥神社と改称し、ついで昭和三十五旧青戸町内に鎮座せる、高木神社(高皇産霊神)・八幡神社(誉田別尊)・北野神社(菅原道真公)・葛葉稲荷神社(倉稲魂命)・水神社(彌都波能賣神)を合祀申上げ今日に至る。本殿及び拝殿は大正七年改築したものであるが老朽甚しく、青戸、白鳥両町の総鎮守として、御神威に添い奉らぎる事態に逢着し、氏子多数の要望により昭和三十六年増改築運営委員会を結成して、本殿拝殿の改築を完成し、其の後、青砥神社講を組織し、同講役員の献身的奔走により氏子崇敬者多数の賛同を仰ぎ、社務所の竣工及び境内整備の完成を見るに至れり、これ因より御神徳によるとはいえ、氏子崇敬者の至城なくしては能くこのことあるべからず、困って茲に篤信を録して記念とす。




現在の社殿は、5社合祀後の昭和三十六年(1961年)に造営されたものです。



青戸七丁目共和公園の角から中川の土手に上がります。土手下には、慈恵医大葛飾医療センターの巨大な建物があります。慈恵医大葛飾医療センターは、東京慈恵会医科大学の附属病院で、2012年1月に新病棟が完成したのを機に、東京慈恵会医科大学附属青戸病院から名称が変更されました。東京慈恵会医科大学の創設者である高木兼寛は、「脚気」の予防策として白米に麦を混合する「麦ごはん」を考案したことで知られ、入院をすると週1回程度「麦ごはん」が出されます。



京成本線の鉄橋下を潜り、土手上に出て中川に架かる高砂橋西詰を横断します。現在の高砂橋付近には、江戸時代から明治時代にかけて「曲金の渡し」と呼ばれる中川の渡船があり、江戸市中の人々が柴又の帝釈天への参詣路として利用していました。この「曲金の渡し」は享保十四年(1729年)に開設され、宝暦八年(1758年)に場所替えをするなどしながら長く利用されていました。最初の橋は昭和七年(1932年)7月に開通しました。現在の橋は平成十五年(2003年)3月に架け替えられたものです。



中川は高砂橋の先で二手に分かれます。中川から別れて南方向に直進する川は「新中川」で、右側に大きく湾曲する川は本来の「中川」です。1938年7月に東京東部で起こった浸水戸数6万戸に及ぶ被害に対する反省から、1939年4月に中川開削・改修を目的に東京府中川改修事務所が設置されました。しかし戦争激化のため1945年4月には計画は一旦中止され、事務所も廃止となりました。1947年9月のカスリーン台風によって東京東部が再度浸水したことにより、改めて中川改修が検討されました。1949年11月に中川改修事務所が再開され、中川放水路(新中川)の開削が本格化しました。江戸川区などでは多くの家屋等の立退きを余儀なくされるなどの大工事の末、1963年3月に中川放水路は完成しました。1965年3月に一級河川に指定され、河川名は「新中川」に改称されました。



青砥橋は環状七号線の中で最後に開通した区間(青戸八丁目〜奥戸陸橋)の一部で、工事は昭和五十四年(1979年)10月に着手され、昭和六十年(1985年)1月に橋梁が完成しました。



青砥橋の下を潜った先で土手沿いの遊歩道から下り、青砥駅に向かいます。駅舎に向かい合って中原八幡神社の鳥居があります。中原八幡神社は、江戸時代の初期(1527年)に旧中原村開村に際し、禍から村を守る鎮守様として創建されたといわれています。地名中原の由来は、むかしこの辺に広大な野原があったことからつけられたといわれています。



中原八幡神社再建の碑が建っています。

中原八幡神社再建趣旨

中原八幡神社は大永七年(西暦1527年=約454年前)の御創建にして村の鬼門の現在地に鎮座し、御祭神は誉田別命を守護神として、御祀り申上げた鎮守様であります。以来この地の人々の心のよりどころとして喜びにつけ、悲しみにつけ、限りない歓喜と慰めと果てしない恵と加護のもとに先祖代々地域の安泰繁栄の御祭神として崇敬久しきに及ぶものであります。古来より神社と氏子は一体のものと言われ、神社の存続は、その土地の人々の存続を意味し、神社の充実は氏子の繁栄を物語り、敬神崇祖の情操は道徳の根源とされております。従来の社殿は昭和二年四月再建されたもので、安永五年(205年前)氏子より奉納された「裸参りの図」をあらわした額が保存されております。木造建築にて五十余年となり老朽化し、拝殿も狭く、大修繕の止むなきに至りました。このときにあたり、神社総代、並びに中原睦会、中原町会、町内商店会を始め崇敬者有志より社殿再建造営計画が立案さ れ、ここに中原八幡神社再建奉賛会を設立致しました。申すまでもなく、この事業こそは生涯を通じて又と再来せぬ意義ある一大事業かとも併せ考えますときに、崇敬者諸賢の御理解ある御賛同のもとに会員486名と、寄附者66名の自主的浄財の御寄進により、総工費約5000萬円で、この事業が予定通り完成致しましたことは貴い誠心の現れとして、その篤志は永く社歴に残ることと存じ、ここに記念碑を建立した次第であります。




ポイント3 青戸平和公園

青砥駅北口交差点を右折し、亀有新道を真っすぐに進むと、住宅街の中に青戸平和公園が現れます。昭和六十三年に非核平和を願う祈念塔が公園に建立されたのを契機に、以前の公園名「青戸公園」から「青戸平和公園」に改名されました。祈念塔は、恒久平和の使徒である鳩を手にした女性像(高さ2.4m)を原爆のキノコ雲をイメージした御影石製の台石の上に配したもので、塔全体の高さは7.4mにも及びます。公園のほぼ中央の噴水池に囲まれ、非核平和を願う区民のシンボルとして聳え建っています。



公園の中央にある非核平和祈念塔の前面には、非核平和都市宣言文がはめ込まれた献花台を挟んで、被爆の証人とも言うべき貴重な遺品が設置されています。



献花台の左側には、焼け焦げた門柱の煉瓦が展示されています。この被爆した煉瓦は、長崎市内の爆心地から約190m南の商店街を一歩入った民家の門柱の一部に使われていたもので、赤茶色の煉瓦10個が爆発のすさまじい熱によってひとかたまりになっていて、所々が黒く焼けただれています。この煉瓦は、葛飾原爆被爆者の会(葛友会)が長崎市から譲り受け、区にその活用を託したものです。

長崎被爆レンガ
(葛飾原爆被爆者の会より寄贈)

この被爆したレンガは、爆心地から約190m離れた当時の長崎市松山町178番地(現在の爆心地公園南端の一角)にあった民家の門柱の一部である。原爆の凄じさを伝えるものとして長崎国際文化会館に保管されていたものである。

写真は、浦上天主堂(本尾町)。




昭和二十年8月6日、原爆が投下された広島市中心部にいた被災者の多くは、猛火から逃れるため、市内を流れる京橋川に架かる御幸橋を目標に集まりました。御幸橋は爆心地から南南東へ約2.2km離れたところにあり、この橋から負傷者はトラックや軍の舟艇で海軍宇品船舶練習部や似島へと運ばれていきました。被爆者にとって御幸橋は「生きる」ために逃げるひとつの目標として、また生と死を分けた境界線として、今も心に深く刻み込まれています。この惨状を見届けた被爆の証人ともいえる御幸橋が老朽化のため架け替えられることになり、これを知った葛飾原爆被爆者の会(葛友会)が「なんとか橋の一部だけでも保存して後世に残したい」と広島市に申し出て、橋の縁石3個を譲り受けて区にその活用を託したものです。

広島御幸橋の縁石
(葛飾原爆被爆者の会より寄贈)

御幸橋は、爆心地から南南東へ2.2kmに位置し、原爆投下後は炎と煙につつまれた市内中心部から逃れてくる人々で埋まった。ここから船で宇品、似島の収容所に収容された人、また、ここで絶命した人も数多く、御幸橋は市民の逃げる目標のひとつであるとともに、生死を分けた境界線として被爆者の心に深く刻み込まれている。

写真は、昭和二十年8月6日午前11時の御幸橋西詰の様子。




台座の左手には、千羽鶴を献架するための献架台があり、一羽一羽に平和への願いを込めて作られた千羽鶴が献架されています。この献架台は、区に持ち込まれた千羽鶴を献架するためのもので、たくさんの千羽鶴が献架されています。色とりどりの千羽鶴には区民の平和への願いが込められていて、非核平和祈念塔と共に非核平和を願う区民のシンボルとなっています。毎年8月初旬には、非核平和都市宣言区として区民と共に非核平和への祈りをささげるため、テクノプラザかつしかにて「非核平和祈念のつどい」が開催され、その中で千羽鶴の献架も行っています。



公園の南側の広場に、原爆犠牲者の慰霊碑が建っています。

この慰霊碑は、昭和四十二年(1967年)8月に品川区の寺院に設置されましたが、葛飾区の深いご理解をいただき、非核平和を求める区民のみなさまの願いからつくられた「葛飾区青戸平和公園」に移設することができました。広島・長崎で被爆し、東京で生きてきた私たち被爆者は原爆投下と放射能のために亡くなられた人びとを追悼し、「ふたたび被爆者をつくらせない」ために、生き残った者の使命として核兵器のない平和で安全な世界の実現をめざしてまいります。

2024年ノーベル平和賞受賞




慰霊碑の前には、広島と長崎で被爆した石が展示されています。



公園の西側には、石山すべり台やブランコなどの遊具コーナーになっていて、子どもたちの人気になっています。また、大人向けの健康器具や、防災倉庫や仮設トイレ用マンホールなどの災害時に備えた施設もあります。



ポイント4 延命寺

青戸四丁目交差点で国道6号線水戸街道を横断し、モール脇を進んだ先に延命寺があります。



延命寺は、嘉応元年(1169年)に源秀によって開山されました。江戸時代の元禄六年以降は本所中之郷(現在の墨田区吾妻橋)にありましたが、大正十二年の関東大震災により堂塔を焼失し、後の区画整理に伴って現在地に移転しました。本堂前には昭和三年6月に移転した際の記念の石柱が建っています。移転当時の延命寺の周辺は田畠が広がって閑静でしたが、戦後は徐々に住宅地として発展しました。昭和十二年建立の本堂は戦時中の爆弾で被爆するなど破損も目立ち、平成四年に新たに本堂を落慶しました。延命寺の山号三圍山は、墨田区本所にある三圍神社に由来しています。



本尊の延命地蔵尊は三圍神社の本地佛として延命寺草創の折りに安置したもので、寺号の由来となっています。また、延命寺には青砥藤綱の守本尊と伝えられている摩怛梨天像が安置されていて、「やくじん(疫神)様」として親しまれています。これは鎌倉時代に葛西城(青戸御殿)を領した青砥左右衛門尉藤綱が摩怛梨天(俗称:青砥疫神)を守護神としていた伝説や、町内に疫病が流行ると疫神様の神輿を担いだ史実などに由来しています。



ポイント5 郷土と天文の博物館

1991年7月に開館した郷土と天文の博物館は、歴史学・民俗学・考古学・埋蔵文化財・文化財・天文学の6部門からなり、専門家を招待して地域史フォーラムを主宰し、郷土史に関する書籍も執筆・出版しています。郷土展示室では、水とかつしかをテーマにして、東京低地のなりたち・農業のための灌漑・河川交通・染色工業・カスリーン台風などに関する展示がされています。また、かつしかのあゆみをテーマにして、養老五年(721年)の下総国葛飾郡大嶋郷戸籍・柴又八幡神社古墳からの出土品・葛西城などに関する展示がされています。更に、かつしかのくらしをテーマにして、昭和三十年代のボルト・ナット製造工場と住居が復元されています。当時全盛を風靡したダイハツ・ミゼットも展示されています。天文展示室では、太陽望遠鏡が捉えた太陽面やスペクトル、隕石、ティコ・ブラーエの観測装置などが展示されています。プラネタリウムには、直径18mの傾斜型ドームに145の座席があり、光学式プラネタリウム「インフィニウムΣ」とデジタル式プラネタリウム「スカイマックスDS2R2」を組み合わせたコニカミノルタプラネタリウム製「ジェミニスターΣ KATSUSHIKA」が導入されています。番組は全て博物館で制作されたもので、解説員による生の解説が行われています。各客席には3つの回答ボタンがあり、クイズやアンケートなど参加型の番組もあります。天体観測室(天文台)には、口径25cmEDクーデ式屈折望遠鏡(ニコン製)があり、毎週金曜日と土曜日(祝日を除く)の観望会で公開されています。屋上には口径30cmのグレゴリークーデ式太陽望遠鏡(ニコン製)があり、昼間晴れていれば天文展示室で太陽面を観察できます。



博物館前の広場には、日時計が置かれています。

日時計のみかた

日時計の時刻に右の表より、今月に当てはまる所を見つけて、プラス・マイナスしてください。地域により標準時(明石)とちがう事もあります。




歩道には星座のタイル画が貼られています。



ポイント6 曳舟川親水公園

曳舟川親水公園は、曳舟川(葛西用水)の面影を残し、水をテーマとして整備された南北延長約3km(亀有から四つ木まで)の公園です。曳舟川は葛飾区から墨田区にかけての川筋で、江戸時代初期には飲料水用水路として利用されました。これが廃止された後は、綱を付けた小船を岸から引いて人々を楽しませる乗合船が登場し、安藤広重の江戸百景にも描かれるなど、江戸の風物詩として知られ、これが曳舟川の名称の由来となっています。曳舟川の名称が付けられた区間は江戸期に開削された葛西用水や亀有上水の水路を利用しており、昭和四年の荒川放水路の開削による川筋の分断のために早くから自動車道に改修されました。江戸期の後期から明治の初めごろにかけて行われた曳舟は一種の水上交通機関ではありましたが、舟を曳く動力が陸からの人力であるために馬とか籠などの陸上交通機関の要素も含まれたもので、曳舟は異色の交通機関として人気がありました。また、江戸市中から下総・水戸方面へ行く多くの旅人にも利用されました。他の都市河川と同様に、東京オリンピックが開催された昭和三十九年(1964年)頃までは小魚などの生物が生息している川でしたが、日本が高度成長期に入ると生活雑排水やメッキ工場からの排水が流れ込み、瀕死の状態となっていました。その後、排水規制等によって水質は改善されたものの、葛西用水の一部区間の公園化や葛西用水からの取水ができなくなったことにより、現在の曳舟川は支流も含めて埋め立てられ、水路は存在していません。葛飾区の区間では、人工的な水の流れをつくり、曳舟川親水公園や四つ木めだかの小道となりました。自然の川を再現した区間や、シャワーを備えた親子向けのプールになった区間もあります。また墨田区内では、流路上に作られた道路が「曳舟川通り」と名付けられています。

曳舟川親水公園

曳舟川は昔、物資や人を運ぶのに重要な川でした。葛飾区では曳舟川の全長約3kmを整備し、区民の皆さんが水と親しめる公園づくりを進めています。




曳舟川は、江戸時代に農業開発のために築いた「葛西用水」の葛飾における呼び名です。曳舟川の名称は、舟に縄をかけて人や牛馬が舟を引いた川であることに由来します。

曳舟川の由来

曳舟川の名は、江戸時代中期から、明治十五年頃まで、篠原村(現四つ木)〜亀有村間の二十八町(約3km)でサッパ船という小舟に乗せた人を、船頭が土手から舳先につけた縄を引いたことにちなんでいます。曳舟川は江戸時代当初は、干拓・埋立が進んだ葛西領沿岸部の本所・深川地域へ、飲料水を供給した水路でした。成立は万治三年(1660年)で、亀有上水・本所上水などといわれました。水源は、元荒川に設けられた瓦曽根溜井(現埼玉県越谷市)で、亀有以南は古墨田川から引いた東側の中井堀と四つ木付近まで並んで流れていました。享保十四年(1729年)、葛西領の用水溜井が、亀有溜井から小合溜井(現水元公園)に変わると、すでに享保七年に廃止されていた上水路は葛西用水の水路として再利用され、古上水堀と呼ばれます。曳舟は、江戸東郊の風物として人気を呼び、多くの紀行文や初代歌川広重の「名所江戸百景」などに描かれています。昭和三十三年(1958年)中井堀と古上水堀が一本化されて以降は、曳舟川の名のみが残り、現在の曳舟川親水公園へと受け継がれています。




葛飾区が設置した案内板もあります。

曳舟川の由来

曳舟川は、江戸幕府が本所、深川(墨田区)方面の武家や町人への飲料水を供給する目的で万治二年(1659年)開削した水路で、亀有上水あるいは本所上水、小梅上水と呼ばれていました。瓦曽根(現・埼玉県越谷市)の溜井から分水した水を亀有に引き、四ツ木から「とい」で地上に引上げ配水したといわれています。享和七年(1722年)幕府は亀有上水の廃止をしました。上水を廃止してから間もなく、この水路を利用した乗合船が生まれました。篠原村(現・四つ木)から亀有村の旧水戸街道までの約3キロメートルを小舟が、上り下りの行き来をしました。この水路が「曳舟川」と呼ばれるようになったのは、「サッパコ」という小舟に旅人を乗せ、土手の上から長い綱で肩に懸けて小舟を引いたことからによるものです。

*溜井 流水を堰止めて水位を高め、用水を送る貯水場

(図の説明)
上図は昔の区内の主な街道や用水路を描いたものです。四ツ木道は旧水戸街道の分岐ルートとして、多くの旅人が往来しました。これに平行して走るのが曳舟川です。




親水公園には意味のよく分からない石碑が見かけられます。案内板には珍しい文語体とか、余程教養のある方が文面を考えられたのでしょう。

四ツ木通 引舟道
前に記せし
堀割の
その長さを
二里に餘り
末流新宿の
川に入る道
そを過るの
旅客舟に
乗て往還すれと
元来幅の狭きに
よりてその舟に
縄をかけ陸に
在てそれを引く
因て引船通り
と唱ふ水竿を
操り櫓を
出すより
またその客ハ
風雅なり




川岸に遠くを眺めている何やら不審な二組の二人連れがいます。一人の腕には鷹らしき鳥が留まっています。鷹狩りの様子なのでしょうか?それにしては着ている服が現代っぽく見えますね。



鷹狩りは戦の訓練にもなったようですが、戦利品である野鳥はどう始末したんでしょうね?鴨鍋・きじ鍋に焼鳥?まさか。

鷹狩りと葛西
鷹狩りは鷹匠によって飼いならされた鷹を放ち、鶴・白烏・雁などの獲物をとらえる古くから伝わる狩猟法です。慶弔八年(1603年)江戸に幕府を開いたコ川家康は、鷹狩りを非常に好んで、各地に御殿や御茶屋を設けました。三代将軍家光の代には制度も整い、五代将軍綱吉の時は生類憐れみの令の影響などもあって一時中断しましたが、八代将軍吉宗は亨保元年(1717年)制度を復活させ幕末まで続きました。当区一帯は隅田・江東・江戸川区とともに葛西筋といわれ、河川・溜池・湿地が各所にあり野鳥が多く飛来するので将軍家の鷹場となりました。しかしひとたび鷹狩りが行なわれると、村々にはさまざまな人足役や諸品の納入などが課せられ、田畑の作物や生活の面でもいろいろな規制を受けて、農民にとっては大きな負担となっていました。かって、この付近には白鳥の飛来した沼があり、鷹狩りの場所のひとつで、白鳥という町名はこのことにちなんでいます。周辺にはお花茶屋など鷹場に関する地名や将軍の休息所となった寺も残っています。




曳舟川には沢山の橋が架かっていましたが、命名するのが面倒くさかったのか、シンプルな名前が多いようです。



親水公園の中程にイギリスのストーンヘンジみたいな巨岩が積まれたオブジェがありました。案内板はありませんでしたが、水路の何かの施設の跡でしょうか?



休息所の壁に銅版画が貼られています。ひとつは「曳舟川物語」と題されています。

曳舟川物語

江戸時代後期、篠原村から亀有村までの古上水堀では、引舟が行なわれていました。かって、本所方面に上水を供給した古上水堀は、川底が浅く、流れがゆるやかであったため、櫂でこぐのが困難でした。そこで、五・六人乗りの小舟を綱で引く、いわゆる引舟が行なわれました。引く方法には、川筋をはさんで両側から引く方法と片側のみで引く方法とがありました。

篠原村の発着所には吉野屋という茶見世があり、利用客のなかには、その見世より飯、酒をとりよせてから舟に乗り込み、一杯やりながらのんびりとキセルをふかして葛飾の風情を味わう人もいました。その後、利用客がふえるにつれ、吉野屋も花菖蒲、ぼたん、藤などを栽培し、屋号も吉野園にかえ、付近の堀切園(現在の区立堀切菖蒲園)と共に、花の季節には訪れる人々でたいそうにぎわいました。

やがて、明治の中頃には文明開化の波がこの辺りにもおしよせ、街道の整備が進むにつれて人力車を利用する人がふえたため、この引舟もいつしかその姿を消していきました。




もうひとつは「亀有物語」と題されています。

亀有物語

亀有の名が歴史の記録に登場してくるのは、今から約八百年前のことです。「義経記」によれば、治承四年(1180年)、約三万人の軍勢を率いる源頼朝は、鎌倉に向かう途中、亀無(現在の亀有)などから、海人の釣舟数千艘を用意させ、三日間で隅田川に浮橋をつくらせたと記されています。当時の地形は現在とずいぶん違っていて、浅草付近まで海岸線があったとされ、亀有周辺にも漁に携わる人々が住んでいたと想像できます。

江戸時代の初期には、亀無は亀有に改められました。亀有は千住宿から東に分かれる水戸佐倉道の街道筋にあたり、一里塚が設けられました。街道は旅人のほか、水戸や奥州諸藩の大名の参勤交替、小金原(松戸)のお鹿狩りに向かう将軍家の通行もあって賑わいをみせました。明治三十年(1897年)には、常磐線に亀有駅が設置され、都市化の進行によってのどかな農村風景も次第に変化をみせ、現在に至っています。




挿絵の解説です。左は参勤交代の様子、右は石橋山(伊豆)で平家軍に敗れ、安房(千葉県)に逃れた頼朝が気持ちを入れ替え、約三万人の軍勢と共にあらたな闘志に燃えていた様子です。



曳舟川親水公園は、水遊び場・自然景観水路・芝生地ゾーンなどに分かれています。水遊び場は3箇所あり、夏には多くの利用者で賑わいます。



自然景観水路では、水生動植物が生息し、園内のウッドデッキなどで水路に近づいて景観を楽しむことができます。単に見て楽しむだけでなく、自然を再生する試みも兼ねています。

ビオトープ

ここにある小川や小さな池は、いろいろな生き物が住みやすいようにつくられています。こういう場所を「ビオトープ」といいます。木や草、水草が育つにつれて、トンボやチョウ、メダカなどがすみつくことでしよう。皆さんもこうした小さな生き物たちに、やさしくしてあげてください。




春には桜が満開になる綺麗な場所です。



曳舟川は主要な街道に隣接して流れていたので、道標も残されています。四ツ木道は、亀有で旧水戸街道(陸前浜街道)に、また手前の四ツ木で下総街道・奥戸街道・立石道に接続し、江戸から北上する日光街道を千住宿までの間補完する迂回幹線道路として利用されていました。水戸佐倉街道は、途中から分岐して成田山新勝寺に至る「成田街道」の隆盛もあって旅人は多かったようです。



曳舟川が流れていた頃に架かっていた橋の跡地に、当時の橋の周辺の風景を写した写真が石碑埋め込まれています。曳舟古上水橋は、バスの車体と比べると水路の幅は結構広かったんですね。曳舟親水公園は江北橋通りに接する道上小学校東交差点(曳舟古上水橋跡)で終端となります。



江北橋通りは、旧水戸街道の道筋に当たります。亀有には「旧水戸街道 亀有上宿」の石碑が建てられていますが、これは千住宿と新宿の間に置かれた間宿の位置付けです。



コースから少し外れますが、江北橋通りを環七方向に少し進んだところに、旧水戸街道の一里塚跡の碑が建っています。助さん・格さんを従えた水戸光圀公の像が並んでいます。

一里塚跡

一里塚は、江戸日本橋を起点に、一里(約4km)ごとに設けられました。塚は道路の両側に設置され、榎などが植えられました。榎は根を深く広げることから、塚の崩壊を防ぐ役割があったようです。一里塚の起源については諸説ありますが、現在では一里塚といえば、慶長九年(1604年)に設置が命じられた江戸時代のものをさします。亀有の一里塚は、千住宿から一里、江戸日本橋からは三里のところに位置します。現在ではその様子を伺うことはできませんが、明治の末頃までは塚の跡が残っていたようです。塚の位置は、ここから東へおよそ10m先にありました。




駅前広場の公園脇に、両津勘吉の像が建っています。ここが正真正銘の亀有公園前派出所のようです。

こちら葛飾区亀有公園前派出所
両津勘吉
祭り姿像

1976年に「週刊少年ジャンプ」(集英社)で連載を開始して以来、亀有のみならず全国の人々に愛され続けている「こちら葛飾区亀有公園前派出所」。30年もの長きにわたり多くの笑いと感動が生み出されています。物語の舞台であるここ亀有には、主人公の両津勘吉巡査長が毎日勤務している派出所があり、今も変わらぬ古き町並みに人情あふれる人々が暮らしています。誰よりもお祭り好きな「両さん」が、ねじり鉢巻に法被姿で叫んでいるこの像は、制服姿で手を挙げている北口駅前像と共に物語の主人公「両さん」が亀有を訪れる人々にとってより身近に感じられるようにとの願いをこめて建立されました。




ゴール地点のJR常磐線亀有駅に戻ってきました。



ということで、葛飾区で四番目のコースである「C亀有・青戸エリア」を歩き終えました。次は葛飾区で五番目のコースである「D堀切・お花茶屋エリア」を歩きます。




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