- E中川沿いエリア
- コース 踏破記
- 今日は葛飾区の「E中川沿いエリア」を歩きます。奥戸スポーツセンター公園をスタート・ゴール地点として、中川の右岸緑道公園・左岸緑道公園を青砥橋から平和橋まで周回します。
E中川沿いエリア
「E中川沿いエリア」の歩行距離は約7.6km(約10、860歩)、歩行時間は約1時間54分、消費カロリーは約342Kcalです。
スタート地点:奥戸スポーツセンター公園
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- ポイント1 中川奥戸展望デッキ
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東京スカイツリー、東京タワー、かつしかハープ橋の眺望が楽しめるスポット。
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- ポイント2 平和橋
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- ポイント3 東立石緑地公園
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- ポイント4 本奥戸橋
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- ポイント5 奥戸橋
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- ポイント6 青砥橋
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ゴール地点:奥戸スポーツセンター公園
スタート地点の奥戸スポーツセンター公園から歩き始めます。
奥戸スポーツセンター公園(旧名称:総合スポーツセンター運動公園)は、昭和六十年(1985年)に開園し、その後複数回の改修工事を経て現在の形になりました。体育館・陸上競技場・野球場・温水プール・エイトホール・テニスコート・少年野球場などのスポーツ施設で構成され、昭和五十九年(1984年)に体育館が、昭和六十年(1985年)に陸上競技場が、令和三年(2021年)にその他の施設が完成しました。敷地面積は48、503uで、東京ドームより少し大きいくらいの広さがあります。気持ちの良い川沿いに位置するということだけではなく、緑が多く四季を感じる場所もあります。園内には奥戸水神社もあります。
体育館には、2、000uの床面積と約496人収容の観客席が付属する大体育室と、750uの床面積の小体育室があります。大体育室は、バスケットボール2面・バドミントン12面・バレーボール3面・卓球32台・ソフトテニス3面・フットサル2面・ハンドボール2面・インディアカ12面に利用できます。小体育室は、バスケットボール1面・バドミントン4面・バレーボール(練習用)2面・卓球12台・ソフトテニス1面・インディアカ4面・バウンドテニス5面に利用できます。
陸上競技場は、全天候舗装のトラック・走り幅跳び・走り高跳び・棒高跳び・砲丸投げなどの陸上競技種目だけでなく、サッカーも行えるフィールドを備えた施設です。トラックは、1周400m(第4種L【ライト】公認陸上競技場)で8コースあり、直線85m・直走路115mの仕様です。フィールドは、サッカー:105mx68m(人工芝)、走り幅跳び・三段跳び:助走路60m・幅4.02m・1カ所2方向・砂場(8mx5.55m)2カ所、走り高跳び:助走路扇形・2カ所棒高跳び:助走路45m・幅1.22m・1カ所2方向、砲丸投げ:1カ所(落下域グリーンストーン舗装)の仕様です。観客席は、メインスタンド:約1、000人収容、芝生スタンド:約2、000人収容となっています。
中川に面してビュースポットが設置されていて、多数のパネルが並んでいます。
左の写真で、中川がカーブしている地点です(照明灯の左下)。
「東京低地の成り立ち」について解説してあります。
東京低地のなりたち
東京低地は、23区東部の武蔵野台地と下総台地間に広がる低地で、利根川・荒川の堆積作用でできた沖積平野です。約13万年前の関東平野は、第四紀という寒暖がくり返された氷河時代の末期にあたり、ほとんどが古東京湾と呼ばれる海の中にありました(図@)
1万8000年前の関東平野は、北半球の広い範囲に氷河が発達して、海水面は約100m低下し、東京湾はすべて陸地になりました。このころ富士山は盛んに活動し、降り注いだ火山灰は関東ローム層と呼ばれる赤土層になりました(図A)
約6000年前には氷が溶け出して海水面は上昇し、奥東京湾といわれる2つの入江ができました(図B)
その後、海面低下によって陸化が進み、約2000年前に弥生の小海退と呼ばれる海面後退があり、東京低地が姿を見せ始めました(図C)
中川放水路開削のきっかけとなた水害について解説してあります。
東部低地帯の水害の歴史
奥戸地域が含まれる東部低地帯は、隅田川、荒川、中川、江戸川などの大きな河川とそれらの支川が縦断に流れています。東部低地帯の水害をみると、江戸三大洪水である寛保二年(1742年)では荒川の小谷野村堤、天明六年(1786年)では利根川の権現堂堤、弘化三年(1846年)では荒川の千住堤が決壊しています。明治以降も多数の水害が発生し、明治四十三年(1910年)では台風による集中豪雨で、関東平野一面が水浸しになりました(図7)
この洪水を機に荒川放水路、江戸川放水路が開削され、昭和十三年の洪水、高潮を機に中川放水路が開削されました(図G)
昭和二十二年(1947年)のカスリーン台風は、葛飾にも大きな被害をもたらしました。
昭和二十二年(1947年)カスリーン台風
カスリーン台風は、第二次世界大戦後間もない昭和二十二年(1947年)9月に発生し、関東や東北地方に大きな被害をもたらしました。本州に停滞した前線により、関東平野部や周辺山地の総雨量は、300mm〜500mmにおよぶ戦後治水史上に残る大雨を記録しました。大洪水の発端は、現在の埼玉県加須市付近の利根川の340mにもおよぶ堤防決壊と熊谷市付近の荒川の堤防決壊です。大量の濁流が南下し、東京下町は一気に濁流に飲み込まれました。
葛飾の歴史について解説してあります。
葛飾の歴史
【かつしか】という地名は、古くから使われた呼び名で、日本最初の歌集「万葉集」にも登場します。文献による初見史料としては、校倉造りで有名な奈良東大寺正倉院に保管されている養老五年(721年)「下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」にその名を認めることができます。この【下総国葛飾郡】は、大宝元年(701年)に大宝律令に基づいて区分けされました。郡域は現在の千葉・埼玉・茨城県と東京都の一部を含む南北に長い範囲でした(図D)
その後、【下総国葛飾郡】は【武蔵国葛西領】となり、明治二年(1869年)【小菅県】、同四年(1871年)廃藩置県で【東京府】となり、同十一年(1878年)郡区町村編制で【東京府南葛飾郡】となりました(図E)
明治二十二年には、後に葛飾区となる7か町村が編成され、昭和七年(1932年)【東京市葛飾区】同十八年(1943年)【東京都葛飾区】となり、現在に至っています。
奥戸の由来
「奥戸」は「奥津」が変化した地名です。「津」は港津をあらわし、対岸へ渡ることのできる渡し場を意味するものと言われています。地名に「戸」の字がつくところは、渡し場のようなものが設けられていた地域が多く、川を利用した舟運が発達していました。江東区の「亀戸」葛飾区の「青戸」台東区の「今戸」は、「亀津」「青津」「今津」、千葉県の「松戸」は「松里津」として記録があります。中世の文書の例としては、関東管領上杉憲実の家臣である藤原家定が鎌倉八幡宮に寄付した文書で、「奥津」が登場しています。19世紀の江戸幕府の官選地誌「新編武蔵風土記稿」による戸数は、奥戸村90戸、奥戸新田村82戸でした。明治十年代の「皇国地誌」による戸数・人口は、奥戸新田村109戸・521人、奥戸新田村85戸・440人でした。農業が主体でしたが、両村で荷船30・漁船3艘を有しており、河川との深い関わりを知ることができます。
奥戸と中川について解説してあります。
奥戸と中川
東葛西領用水絵図は、江戸時代の用水体系が描かれた絵図になります。図で黒く示されたものは堤を表しており、上流に描かれている小合溜井は現在の水元公園となります。この小合溜井は、享保十四年(1729年)に八代将軍徳川吉宗の命を受けた【井澤弥惣兵衛】によって整備されました(絵図@)
井澤弥惣兵衛は、紀州藩出身の治水技術者で幕府の新田開発や治水事業に係わっています。埼玉県の見沼代用水や千葉県の手賀沼なども井澤弥惣兵衛によって整備されました。奥戸地域を含めた中川についても、井澤によって河川改修が行われています。この河川改修では、享保十七年(1732年)に奥戸〜諏訪野間に新しい河道を開削しており、河道を切り替えることにより、河道の直線化が図られました(絵図A)
現在地であるこのビュースポットも、旧河道だったことがわかると思います。この旧河道は、現在、南北ともに葛飾区奥戸総合スポーツセンターが位置しています。
昭和二十二年の写真では中川は蛇行する1本の水路ですが、平成二十五年の写真では高砂橋の下流で2本に分かれ、真っ直ぐな中川放水路(新中川)が見て取れます。
中川の過去と現在を比較して解説しています。
過去と現在の中川
奥戸地域が位置する東京低地は、荒川、中川、江戸川などの大河に囲まれ、何度も大きな洪水や高潮などの水害に襲われてきました。そのため、この地域では、河川・高潮堤防などの整備が進められ、現在では、水害は軽減されています。現在、防潮堤や護岸、水門・排水機場等は、昭和三十四年(1959年)に国内で最大の高潮被害をもたらした伊勢湾台風と同じ規模の台風が、東京湾に最も被害をもたらすコースを進んだ場合に発生する高潮に対応できるように整備されています。また、地震による護岸損傷が原因で起こる災害を防ぐため、耐震補強工事も行われています。さらに、近年では環境に配慮した整備と保全にも力を入れています。環境と調和した潤いある豊かな水辺空間を実現するため、水辺のテラス整備が進められています。
中川のテラスを歩きます。所々に休息スペースが設けられていて、川風が身持ち良さそうです。
- ポイント1 中川奥戸展望デッキ
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中川沿いに整備された8.8kmの遊歩道「中川テラス」が大曲りしているところに、2013年に中川奥戸展望デッキと呼ばれるビューポイントが造られました。
ここからは、綾瀬川に架かる「かつしかハープ橋」と東京スカイツリーが並んでいる様子が眺められます。ハープ橋の後ろには東京タワーが見えるそうですが、この日はどんよりした曇りの日でどこにあるのかよく分かりませんでした。展望デッキの足下ではLEDライトでほのかに光り、雰囲気がとても良く、夜の散歩コースに最適なスポットです。
展望所の周辺には桜並木が続いています。
- ポイント2 平和橋
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平和橋を渡り、対岸の中川右岸緑道公園を青砥橋方向に戻ります。平和橋は中川に架かる都道308号線(平和橋通り)の橋です。この橋が架けられる前は、明治時代には右岸に「薬師道」、左岸に「逆井道」という道が中川に沿うように通っていましたが、渡船場はありませんでした。初代の橋は終戦間もない昭和二十二年(1947年)6月に開通し、橋長144.2m・幅員6mの仮設木製でした。架橋からわずか3カ月後の9月14日から15日にかけて関東地方はカスリーン台風の通過に伴う豪雨に見舞われ、その後天候は回復しましたが中川の水位は上昇し続け、9月19日には葛飾区長による避難命令が下される状況になりました。最終的に橋の本田川端町側(現在の東立石、東四つ木)の約二分の一の橋梁が落下しました。このとき平和橋同様に上流の奥戸橋・下流の上平井橋という木橋がともに落下しましたが、これらの橋が暫く手つかずの状態にあった中、平和橋だけは10月中には工事に取りかかり、3カ月後の12月30日に復旧しました。昭和三十五年(1960年)5月に、仮設橋から現在の二代目の永久橋への架け替え工事が竣工しました。
中川沿いの土手下に小さな公園があります。
公園の奥には水神様が祀られています。
由来
当水神社は、今から二百五十八年前享保十五年(西暦1730年)鎮守川端諏訪神社の末社として中川河畔に勧請されたものです。祭神は、水波能売神をお祀りし古くからの神様として灌漑用水の守護神であり、また河川による農作物運搬の航路安全や水難事故防止のため、誠にあらたかな御利益があり氏子から篤く崇敬されておりました。近年、時代の変遷と共に中川の汚染や地盤の沈下著しく、河川敷にあった石祠をはじめ鳥居など建造物も水没の危機に接したので、地元氏子有志の発意により昭和四十九年、現在地より約100メートル西南方の堤外に奉遷しましたがこの地も環境からみて好適地とはいえず、このたび有志相談の上現在地に奉遷鎮座したものであります。
- ポイント3 東立石緑地公園
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中川奥戸展望デッキの対岸に、東立石緑地公園があります。東立石緑地公園が設置される以前は、この地には立石製薬という田辺製薬の100%出資する子会社がありました。平成十一年(1999年)に工場が閉鎖になった後、敷地は葛飾区へ売却され、防災上などの観点から住宅地ではなく公園になり、平成二十年(2008年)に開園しました。
東立石緑地公園 案内図
東立石緑地公園は、中川七曲の広大な水面と半島部の緩やかな水際線など、特色のある景観を活かすためスーパー堤防事業との一体的整備を図り、地域防災性の向上や快適な住環境を創出することを目的として計画されています。
東立石緑地公園は高低差を利用した区立公園で、芝生広場を中心にして、園内には全長30mのローラーすべり台・アスレチック遊具・健康器具などが設置されています。普段は近隣の子どもなど地域の人に利用されていますが、大規模災害時には避難拠点として使えるような施設があります。
園内には桜の木も多く、お花見シーズンには花見客で賑わいます。
- ポイント4 本奥戸橋
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本奥戸橋は、中川に架かる都道60号線(奥戸街道)の橋です。この橋が架けられる以前の江戸時代から明治時代にかけて、現在の本奥戸橋西詰は江戸市中の人々が柴又の帝釈天への参詣路として利用していたことで人々の往来があり、宝暦五年(1755年)に道標が建てられました。付近には、「奥戸の渡し」と呼ばれる中川の渡船場がありました。一代目の本奥戸橋は昭和七年(1932年)4月に開通し、橋長122.1m・幅員13.2mの鋼橋で、西側が単純ポニートラス橋、東側がプレートガーダー橋という構造でした。橋の名称は、その上流に大正三年(1914年)4月に架橋された「奥戸橋」が既に存在したため、これに対して名付けられました。昭和二十二年(1947年)9月のカスリーン台風により、上流の奥戸橋や下流の平和橋・上平井橋といった木橋が中川の増水によって相次いで破損して流出する中、本奥戸橋は鋼橋ということもあって大きな被害を免れました。現在の橋は、昭和六十三年(1988年)に竣工した二代目の橋になります。
土手下に、小さな地蔵尊が祀られています。
立石諏訪自治会史跡
地蔵尊・馬頭観音・道しるべの由来
この地蔵尊は、貞亨二年(1685年・江戸初期)に念仏講によって建造されたものです。建立当時は、現在の橋際の堤防内にあわもち屋という家があり、その前に在ったということです。昭和初期、本奥戸橋架設の時、現在地の向側に移転し、五十数年後の現在、掛替え工事の為現在地に再度移転しました。地蔵尊は、民間信仰として庶民のあらゆる願い事をかなえてくれる仏として信心され、特に育児についての守り仏として強く結びつき、子育ての精神的なよりどころとして女性に多く信仰されていたものです。地域では老若男女多くの方が、子供達の幸せを願っておまいりしています。となりの馬頭観音は江戸時代の半ば以降に、農耕馬や運送馬が普及してから馬の保護仏として広く信仰されたものです。現在は、地域の交通安全の守り神となっております。建造は安政二年(1855年、江戸大地震の年)です。道標(みちしるべ)は、出羽(今の山形県)三山(月山・湯殿山・羽黒山)の信者の人々の講中が参詣の記念に、宝暦五年(1755年)旅人たちの役にたてようと建造したものです。
「・・・橋際に地蔵尊と道しるべの石あり。右江戸みち、左おくと渡し場道・・・と刻したり。・・・」 永井荷風「断腸亭日乗」より
注記:「断腸亭日乗」は、大正六年(1917年)9月16日から死の前日の昭和三十四年(1959年)4月29日までの永井荷風の日記です。激動期の世相とそれらに対する批判を詩人の季節感と共に綴り、読み物としても近代史の資料(敗戦日記)としても、荷風最大の傑作とする見方もあります。大正六年(1917年)に37歳になった荷風は、かつて両親や弟らと暮らした東京市牛込区大久保余丁町(現在の新宿区余丁町)に戻り、腸に持病のある故をもって邸内の一隅を「断腸亭」と名付けました。「日乗」とは日記の別名です。
堂内には、地蔵尊と馬頭観音が祀られています。
道しるべは、お堂の脇に建っています。
土手沿いの道路の角に帝釈天道標が建っています。正面には「帝釈天王」と大きく書かれています。右側面には文政三年(1820年)4月の造立年が刻まれていて、反対側には「願主 仲□(町)」と書かれています。この前の丁字路は西の古代東海道から来た帝釈天道が左に折れる場所でした。北に折れた帝釈天道は青砥駅近くで再び中川土手に合流し、現在の高砂橋のところにあった曲金の渡しで高砂に渡り、柴又帝釈天に続いていました。
南蔵院は、長保年間(999年〜1004年)に開山され、熊野権現(現熊野神社)を勧請した際に別当寺として創建されました。江戸時代には、徳川将軍が鷹狩のために江戸郊外のこの地を度々訪れていて、「御膳所」(休憩場所)に充てられていました。南蔵院には板碑が数基保存されています。また、南蔵院の裏には、かつて南蔵院裏古墳と呼ばれる6世紀後半ごろの古墳があり、埴輪などが出土しています。
奥戸橋の少し手前に大きな欅の樹が聳えていて、その下に堂宇が建っています。幟には「とげぬき地蔵」と書かれています。堂宇内には小さな舟型光背型の如意輪観音像と大きな舟型の地蔵菩薩像があります。如意輪観音像の方は戒名が複数あるので墓石と思われます。左の地蔵菩薩がとげぬき地蔵と呼ばれるお地蔵様で、造立年は宝永三年(1706年)8月となっています。光背には「奉造立供養地蔵八日為二世安楽所」と刻まれています。
- ポイント5 奥戸橋
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奥戸橋は、中川の右岸(西詰)の立石八丁目と左岸(東詰)の奥戸七丁目の間を結んでいる橋です。現在の橋は、1972年に竣工し、過去には幾度かの架け替えが行われています。奥戸橋の架橋前、奥戸橋付近は下総国府に続く古代東海道の推定路に当たり、同時に江戸時代以降の立石道のルート上に位置していたため、古くから人々の往来があったと考えられています。一方、奥戸橋の架かる付近は享保年間に新たに開削された部分で、明治時代にこの場所には「奥戸新田の渡し」または「新渡」と呼ばれる渡船が存在しました。かって、東京府南葛飾郡奥戸村は西方の村境が中川になっていて、中川を渡る手段は5箇所の渡船(曲金の渡し・諏訪野の渡し・奥戸新田の渡し・奥戸の渡し・上平井の渡し)しかなく不便でした。大正元年(1912年)10月、奥戸村の石井源治ほか19人によって私設による橋梁架設の出願が行われ、翌大正二年(1913年)6月に賃取橋として認可されました。橋は翌大正三年(1914年)3月に竣工し、4月1日に開通しました。橋は木造で、長さ77間・幅2間半(長さ140m・幅4.5m)でした。私設の賃取橋だった奥戸橋は、その後東京府によって買収・管理されることになりましたが、幾度かの洪水によって流出や破損が相次ぎ、その都度架け替えが行われました。大正十二年(1923年)の関東大震災の直後にも復旧工事が行われました。昭和二十二年(1947年)9月14日から15日にかけて関東地方を襲ったカスリーン台風とそれに伴う洪水により、奥戸橋の橋の中央部は破損・流出しました。奥戸橋の復旧工事は2年後の昭和二十四年(1949年)8月8日に完成し、このときの橋は全長140m・幅員3mの木橋で、その橋材は主に荒川下流の葛西橋のものが利用されました。現在の橋は、旧橋の下流に架けられ、昭和四十二年(1972年)11月に竣工し、翌12月に開通しました。
奥戸橋の袂からは、対岸の奥戸スポーツセンター体育館と中川奥戸展望デッキが真正面に眺められます。
青砥橋の手前の土手から一段低くなったところに坂道と一体になった階段と鳥居があります。この辺りは、元禄年間(1688年〜1703年)に立石村から分離して福森村となり、その鎮守として寛政八年(1796年)に福森稲荷神社が創建されと伝えられています。商売繁盛や五穀豊穣のご利益などがあるそうです。
- ポイント6 青砥橋
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青砥橋は環状七号線の中で最後に開通した区間(青戸八丁目〜奥戸陸橋)の一部で、工事は昭和五十四年(1979年)10月に着手され、昭和六十年(1985年)1月に橋梁が完成しました。青砥橋が架かる中川の両岸の堤上の道は、鉄道が発達する明治後期までは共に柴又帝釈天へ至る街道(帝釈天道)として使われていましたが、渡船はこの位置にはなく、上流の曲金の渡しか下流の諏訪野の渡しが主に利用されていました。
青砥橋の幅員は両側の歩道を含めて23mあり、広々とした感じです。欄干越しに、湾曲した中川の流路を見て取れます。
青砥橋を下りて、土手沿いの中川左岸緑道公園に入ります。土手下に諏訪野八幡神社があります。「万葉集」巻十四の東歌に「にほどりの葛飾早稲を贄すとも そのかなしきを外に立てめやも」とあり、この地は米どころとして葛飾の野に実った早稲の新米を神様に供して新嘗の祭事を営んでいたことが窺えます。また、青戸付近は良質粘土の原産地として早くも古墳時代より土器作りを主要とした人々の生活の地でもありました。このように祭事に深く関わり営まれた信仰の地は葛西御厨(伊勢神宮の神領地)として応年五年(1398年)の下総国葛西御厨注文(鏑矢伊勢宮方記)に見えています。その後、幾多の戦や行政の変遷などにも揺らぐことなく受け継がれ、三社明神(稲荷・白髭・諏訪)と称し、この里の鎮守神と崇られた様子が天正丙子年(1576年)頃から文献等に見え、その徳はこの里に人々が暮らし始めてから変わることなく加護しています。明治五年に社名を「白髭神社」と改称、昭和十八年に旧青戸4丁目にあった白山神社を合祀して「青砥神社」と改称、昭和三十五年に旧青戸町内にあった高木神社・八幡神社・北野神社・葛葉稲荷神社・水神社を合祀、昭和四十五年〜昭和五十五年にかけての環状七号線の整備により葛西城址にあった青砥藤綱神社を合祀しました。
奥戸橋の手前に。東京消防庁第七消防方面訓練場があります。骨組みだけの高い建物は、高層建物火災時の訓練ができるハシゴ車訓練用の鉄塔です。即応対処部隊は、近年頻発する広域自然災害に対して消防体制の更なる強化を図るために創設された新たな部隊です。
ゴール地点の奥戸スポーツセンター公園に戻ってきました。
ということで、葛飾区で六番目のコースである「E中川沿いエリア」を歩き終えました。次は葛飾区で七番目のコースである「F立石・四つ木エリア」を歩きます。
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