F立石・四つ木エリア  

コース 踏破記  

今日は葛飾区の「F立石・四つ木エリア」を歩きます。京成立石駅をスタート・ゴール地点として、本奥戸橋西詰から中川右岸緑道公園に入り、葛飾区立石の地名の由来となった「立石様」を拝んで曳舟川親水公園まで西に向かい、綾瀬川から四ツ木駅を経由して、センベロの聖地として全国にその名をとどろかせた「呑んべ横丁」を通り抜けて京成立石駅に戻ります。

F立石・四つ木エリア

「F立石・四つ木エリア」の歩行距離は約7.3km(約10、430歩)、歩行時間は約1時間50分、消費カロリーは約330Kcalです。

スタート地点:京成立石駅出口3
ポイント1 立石仲見世商店街
ポイント2 立石様
地名の由来にもなった奇石。寒いときには欠け、暖かくなると戻るなどさまざまな伝承が残る。
ポイント3 熊野神社
ポイント4 かつしかシンフォニーヒルズ
ポイント5 曳舟川親水公園
ポイント6 四つ木公園
園内から京成線が見える公園。「キャプテン翼」の日向小次郎の銅像が置かれている。
ポイント7 白髭神社
ポイント8 葛飾区伝統産業館
葛飾区内の職人による伝統産業品を展示販売している。毎月第三土曜日には体験教室あり(要予約)。

ゴール地点:京成立石駅出口3


スタート地点の京成立石駅出口3から歩き始めます。駅舎の脇には、葛飾が舞台のキャプテン翼の看板が立っています。主人公の大空翼がサッカーを本格的に始めたのが南葛小という設定なので、葛飾区内には多くのモニュメントや看板が建っているのです。



京成立石駅から南に向かって奥戸街道までふたつの商店街があります。線路と交差するように南北に延びる商店街は「立石駅通り商店街」です。立石駅通り商店街は昔ながらのアーケード商店街で、通路も幅広くお店も新しい感じがします。



ポイント1 立石仲見世商店街

もう一方は「立石仲見世商店街」です。こちらもアーケード商店街ですが、通路は狭く、両側に居酒屋を中心とした飲食店が建て込んでいます。下町の風情がいっぱいに漂うレトロな雰囲気の商店街で、飲食店だけでなく、名物総菜店も多くあります。昼間からお酒を飲めるお店が多いので、呑兵衛で賑わっています。決してきれいなところではありませんが、酒呑みの聖地「立石」の独特の雰囲気を醸し出しています。



さりげなく、キャプテン翼の像が建っています。

キャプテン翼 大空翼

所属:    南葛SC
ポジション: FW(フォワード)
背番号:   10

ワールドカップ優勝を目標に、プロサッカー選手を目指しブラジル留学を夢見るサッカーの申し子。「ボールはともだち」が信条。




商店街を抜けて奥戸街道を東に進んで中川に架かる本奥戸橋に向かいます。本奥戸橋西詰の角に立石郵便局が建っていますが、郵便局の前にさつきの植栽に囲まれた立石「母の愛」の石碑が建っています。この石碑がある場所はペスタロッチ広場という名前で、石碑は本奥戸橋の改架記念に建てられたのだそうです。ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ(1746年1月12日〜1827年2月17日)は、スイスの教育者・篤志家・学校及び社会の改革家・哲学者・政治家として名を馳せました。チューリッヒで生まれ、シュタンツ・イヴェルドン孤児院の院長を勤め、フランス革命後の混乱の中、スイスの片田舎で孤児や貧民の子などの教育に従事しました。

立石 「母の愛」

Die Grundlage fur harmonische Entwicklung menschlicher Begabungen Intellekt, Tugend und physis besteht in fundamentaler Verfeinerung bei Familien und jedermannszuganglichen Grundschulen und ihre Methodik legt eine Verbindung mit Intuition, spontanen Aktivitaten Arbeiten und Lernen zugrunde.
Pestrozzi

人間の知・徳・体の諸能力の調和的発展の基本は家庭及び万人就学の小学校での基礎陶冶にあり、その方法は直観・自発活動・作業と学習の結合に基づく。
                              ペスタロッチ




立石「母の愛」の石碑の横に小さな地蔵尊が祀られています。道しるべは、お堂の脇に建っています。

立石諏訪自治会史跡
地蔵尊・馬頭観音・道しるべの由来

この地蔵尊は、貞亨二年(1685年・江戸初期)に念仏講によって建造されたものです。建立当時は、現在の橋際の堤防内にあわもち屋という家があり、その前に在ったということです。昭和初期、本奥戸橋架設の時、現在地の向側に移転し、五十数年後の現在、掛替え工事の為現在地に再度移転しました。地蔵尊は、民間信仰として庶民のあらゆる願い事をかなえてくれる仏として信心され、特に育児についての守り仏として強く結びつき、子育ての精神的なよりどころとして女性に多く信仰されていたものです。地域では老若男女多くの方が、子供達の幸せを願っておまいりしています。となりの馬頭観音は江戸時代の半ば以降に、農耕馬や運送馬が普及してから馬の保護仏として広く信仰されたものです。現在は、地域の交通安全の守り神となっております。建造は安政二年(1855年、江戸大地震の年)です。道標(みちしるべ)は、出羽(今の山形県)三山(月山・湯殿山・羽黒山)の信者の人々の講中が参詣の記念に、宝暦五年(1755年)旅人たちの役にたてようと建造したものです。

「・・・橋際に地蔵尊と道しるべの石あり。右江戸みち、左おくと渡し場道・・・と刻したり。・・・」   永井荷風「断腸亭日乗」より


注記:「断腸亭日乗」は、大正六年(1917年)9月16日から死の前日の昭和三十四年(1959年)4月29日までの永井荷風の日記です。激動期の世相とそれらに対する批判を詩人の季節感と共に綴り、読み物としても近代史の資料(敗戦日記)としても、荷風最大の傑作とする見方もあります。大正六年(1917年)に37歳になった荷風は、かつて両親や弟らと暮らした東京市牛込区大久保余丁町(現在の新宿区余丁町)に戻り、腸に持病のある故をもって邸内の一隅を「断腸亭」と名付けました。「日乗」とは日記の別名です。



堂内には、地蔵尊と馬頭観音が祀られています。



本奥戸橋西詰から中川の土手沿いに北東方向に進みます。



土手沿いの道路の角に帝釈天道標が建っています。正面には「帝釈天王」と大きく書かれています。右側面には文政三年(1820年)4月の造立年が刻まれていて、反対側には「願主 仲□(町)」と書かれています。この前の丁字路は西の古代東海道から来た帝釈天道が左に折れる場所でした。北に折れた帝釈天道は青砥駅近くで再び中川土手に合流し、現在の高砂橋のところにあった曲金の渡しで高砂に渡り、柴又帝釈天に続いていました。



ポイント2 立石様

帝釈天道標の脇で左折し、中川を離れた先の立石児童公園に併設して立石祠があります。立石様は日本全国に分布する立石(メンヒル・道標・墓標など)を周辺住民が崇拝あるいは畏怖の気持ちをこめて呼ぶ尊称で、立石祠は立石様をお祀りする祠です。付近にはかつて古墳があったことやその材質(房州石という凝灰石の一種)から、古墳の石室などと同様に千葉県鋸山付近から此の地に持ち込まれたと推定されています。また、奈良・平安時代には立石付近を横断していた古代の官道(東海道)の道標として転用されていたとも考えられています。江戸時代には高さ60センチメートル以上あり、地面を掘っても底が現れなかったことから「根有り石」とも呼ばれていました。名所として諸本(兎園小説・明細帳・江戸名所図会など)にも登場し、立石様の根を掘ったことで災いが起きたなどの伝説を生んでいます。そのため、文化八年(1811年)には「立石稲荷大明神」として祀り、文化十二年(1815年)に鳥居が寄進されました。立石様は寒さに弱いので、冬になると縮み、暖かくなると元に戻るという伝説があります。立石様を欠いて持つと病気に効くという信仰や、日清・日露戦争時に弾よけのお守りとして削って持つ人が現れたことや、地盤沈下などの結果、現在では地表より数センチ程度の高さしかない状況になっています。明治時代以降も度々発掘の試みがありましたが、底が現れなかったり、祟りを恐れる地元住民の反対によって完全な発掘には至っていません。



その奥に「立石様」が祀られています。

東京都指定史跡
立石

立石は、中川右岸に形成された自然堤防上に位置する石標です。石材は千葉県鋸山周辺の海岸部で採集された、いわゆる房州石で、最大長約60センチメートル、最大幅約24センチメートル、高さ約4センチメートルが地上部に露出しています。もともとは、古墳時代の石室を作るためにこの地に持ち込まれた石材と考えられます。一般的に「立石」という地名は、古代交通路と関係が深い地名で、岐路や渡河点などに設置された石標に因むとされています。この立石のある児童遊園の南側、中川に接する道路は、墨田から立石、奥戸を経て中小岩に至り、江戸川を越えて市川の国府台へと一直線に通じており、平安時代の古代東海道に推定されています。そのため、この立石は古代東海道の道標として建てられたと考えられます。江戸時代後期以降、立石は寒さで欠け、暖かくなると元に戻る「活蘇石」として、「江戸名所図会」などの地誌類に多く記載されるようになります。立石が玉石垣で囲われるようになったのは文化年間(1804年〜1818年)以降で、その周囲には椰や小竹が繁茂する、社叢を呈していました。「雲根志」には、立石が高さ二尺(約60.6センチメートル)程度であったとされていますが、御神体として祀られて以降、風邪の煎じ薬や、愛石家のコレクションとして人々に削り取られていきました。また、御守として戦場に持参したという言い伝えもあり、その結果、現在の高さに至っています。なお、大正十二年には人類学者の鳥居龍蔵がこの地を訪れ、石器時代人が信仰のためか、墓標として建てたものと結論づけています。その後も中谷治宇二郎、大場磐雄ら考古学者により、先史時代の思想や信仰を明らかにする遺跡として取り上げられてきました。東京低地における古代の交通史、近世以来の民間信仰をうかがい知ることができ、日本先史時代の研究史上重要な遺跡です。

Historic Sites
Tateishi (Standing Stone Tateishi)

Tateishi is a stone signpost located on the river which is formed by the right shore of Nakagawa River. The stone material called "Boshu-ishi Stone" is collected at the seaside area around Nokogiri-yama Mountain in Chiba Prefecture. It has about 60 cm length, 24 cm width. About 4 cm height of the upper part is exposed to ground. Originally this stone material was considered to be used for a chamber of mounded tomb in the Kofun period. Generally, its "Tateishi" is a place name which has a relation to ancient traffic route, because its name is said to come from a signpost stone raised at the crossing road or river. In the south side of this children's park placed Tateishi, Naka-gawa River. That is considerd to be the ancient Road of the Heian period which runs straight from Sumida to Kono-dai in Ichikawa going through Tateishi, Okudo, Nakakoiwa, and acrossing Edogawa River. Therefore, Tateishi stone is supposed to be raised as a signpost on the ancient Tokai-do Road. After the late Edo period, this stone became to be known as "Kasso-seki", which has characteristics to be broken by coldness and recovered to former state as getting warmer. It was described more in the topographies, such as "Edo Meisho Zue". According to the natural history "Unkon-shi", it is said that Tateishi measures about 60 cm height, but after it started to be scraped off for cold medicine or as the collection of stone lovers after enshrined as an worship. Also it is said that it has brought as a charm to the battlefield, these were because of its present height. The anthropologist Torii Ryuzo visited here in 1923, he deduced that the Stone age man would raise this stone for religious faith or as a grave marker. Afterward, the some archaeologists like Nakaya Jiujiro, Oba Iwao has referred the site to trace the thoughts and faith in the prehistoric age. Tateishi is a very important site to study the prehistoric age of Japan, which we can ask to know the history of ancient transport in the lowlands of Tokyo and a folk belief from the modern age.




立石様は、周囲を石の柵で囲われた一画に鎮座しておられます。表面は削がれ、本体は殆ど土に埋まっておいでですが。



ポイント3 熊野神社

桜並木が美しい小道を通って熊野神社に向かいます。立石熊野神社は五方山熊野神社と号し、平安時代中期の一条天皇の御代の長保年間(999年〜1003年)に創建され、立石村の鎮守社だったといいます。陰陽師として名高い安倍晴明公によって熊野大神が勧請され、安倍晴明公縁の神社として関東唯一かつ葛飾区内で最も古い神社です。平安時代に最も有名な陰陽師であった安倍晴明公は、当時最先端の呪術や科学であった天文道や占いなどの陰陽道に関して卓越した知識を持っていました。華山上皇が那智山中で修行を行っている際、天狗が現れて様々な妨害を繰り返しましたが、晴明公が岩屋に大勢の天狗を封じ込める祈祷をしたところ、天狗たちの妨害は見事に収まり、上皇は修行を無事に終えられました。上皇の信頼を得た晴明公は陰陽師として名声を極め、華山上皇に伴って那智熊野の地に於いて三年間の滝行と山籠りの行を上皇と共に行いました。その後清浄な聖地を求める旅の途中にたまたま此の地に立ち寄り、社地を選定したと伝えられています。



熊野神社の案内板が掲示されています。

熊野神社の御案内

ご祭神

伊邪那岐大神(縁結びの神様・万物創生の神様)
神話によるとイザナギ大神は イザナミ大神と結婚され 日本の国土や 山河草木風火の神など たくさんの神々をお生みになり 最後に皇室の祖神天照大神をお生みになられた わが国の基礎をつくり固められた 尊い神様です。

相殿 速玉男大神・事解雄大神(祓いの神様)
相殿の二柱の大神さまは イザナギ大神の御子で すべての邪悪なものを 祓い清めて下さる 祓いのご神徳を お備えの神様です。

ご由緒

社伝によると 創祠は 平安時代中期の長保年間(999年〜1003年)に 陰陽師阿部晴明の勧請によると伝えられています。江戸時代の地誌「四神地名録」によると 当社の御神体は「神代の石剣」で 極めて珍しいものと記されております。この辺り一帯には 古墳群をはじめ 霊石として知られる「立石」等があり 先史時代から集落のあった場所として 葛飾区内で 最も古い神社の一つであります。平安時代の熊野信仰は盛んで 花山法王が那智の滝で一千日の修行中 邪魔をする天狗を 同行した安部晴明が封じ込めて助けたと言われ 当社を勧請した安部晴明と熊野の深い関係を知ることができます。鎌倉時代 葛飾に縁りある御家人 壱岐守 葛西三郎清重の崇敬を経て 更に江戸時代には 三大将軍徳川家光や八代吉宗が 鷹狩りに当地にお成りの際や 徳川御三卿のひとつ田安家の度々の 参拝の折には 必ず当社より「金烏の守護」を献上したと伝えられております。当時 紀州熊野三社の神にお使の 八咫烏と宝珠を象った 霊験あらたかな牛王宝印は魔除け・厄除け・病気平癒等の守護として 全国に広まっておりました。当社故実の「金烏守護」は 安部晴明が著したとされる陰陽道の秘伝書「金烏玉兎集」によるものと伝えられております。また 御神体を安置する内陣の石造りの神殿は寛政八年(1796年)に 本殿は総公孫樹材を用いて明治十二年(1879年)に 幣拝殿は昭和三十六年に 夫々改築造営され さらにご鎮座一千年記念事業として 平成二十年正月に 御神門・神楽殿が建立されました。

境内末社

天満宮 祭神 菅原道真公(学問の神様)
昭和五十五年九月に社殿を造営して 江戸時代より伝えられてきた 天神さまのご 神像を ご神体として 亀戸天満宮より 神霊をお迎えして鎮座されました。

浅間神社 祭神 木花咲耶姫命(安産・健脚の神様)
江戸時代富士山に登り 山の霊気にふれることが 困難な人々のために 富士山を象どった 富士塚が各地に築かれ そこから霊峰富士山を お参り致しました。当社には 富士塚巡拝の一山講という 講中が伝えられております。

境内末祠
水神社(水波売神)・稲荷神社(倉稲魂神)・香取神社(経津主神)




天満宮につきものの願掛け撫で牛が鎮座しています。撫でられ過ぎてピカピカに光っています。



社殿は、寛政八年(1796年)に造営されたご神体を安置する石造りの内陣、明治十二年(1879年)に造営された総公孫樹造りの本殿、幣殿および拝殿(ともに大正十年【1921年】造営)・昭和三十六年【1961年】改築造営)からなる権現造です。社殿の両脇には、樹齢300年以上になるクスノキの神木が2本聳えていて、葛飾区の天然記念物として登録されています。

区登録天然記念物
熊野神社のクスノキ 2株

このクスノキは熊野神社の神木で、社殿の両側に一対になっています。高さはいずれも約25m、目通りの周囲は右の樹が約3.80m、左の樹が約3.74mあり、樹齢は300年前後と推定されます。区指定天然記念物の「吉田家のクスノキ」(堀切三丁目)と並ぶ、区内有数の名木で、木の勢いはいまなお盛んです。




クスノキは、「熊野夫婦楠」とも呼ばれています。

熊野夫婦楠

クスノキは「霊妙な木」「神秘的な木」として古くから親しまれ、「奇(くす)しき木」が語源とされています。ご社殿両脇にあるご神木の楠は、樹齢370年の大樹で葛飾区登録天然記念物に指定されています。二本の楠はちょうど同じ高さを有し、青々と緑豊かに立ち誇り、ご社殿を中心に寄り添う様は仲睦まじい夫婦を連想させ「夫婦楠」と呼ばれています。古き昔より生き抜いてきた大樹からは常に清浄なエネルギーが発せられ、人々の心を穏やかにし、新たな力をいただくパワースポットです。手をかざして大樹の溢れる「気」をお受けください。




境内の奥に五重塔が建っています。入口には、五重塔建立の経緯を記した案内板が立っています。

五重塔建立の縁起

五重塔は日本が世界に誇る建築芸術の粋として知られ、また陰陽五行の教えをかたどるものと伝えられています。五重塔は多くは仏教寺院にありますが、もともと日本は神仏混淆の文化で、今もなお全国各地の神社にも残されています。当社は平安時代に陰陽師で名高い安倍晴明公により陰陽五行説に基づき、「木火土金水」にかたどられた三十間五角形の境内がつくられ、紀州熊野の大神が祀られました。以来、「五方山 熊野神社」と号されて参りました。創建一千年を記念して神門と神楽殿が造営され、先代宮司大鳥居信史宮司が神明奉仕五十年の御縁(五の縁)に因み神徳報謝の祈りを結ぶ標として、氏子中の平安を念じ五重塔を建立されました。当五重塔には、神社護持に貢献された敬神家をはじめ、陰陽祖霊信徒講の皆様の祖霊をお祀りし、毎月1日には月次祖霊祭、8月お盆中に祖霊大祭を斎行しております。




五重塔について解説してあります。

五重塔について

この五重塔は、相輪から基壇台座まで七メートルに及びます。相輪は双龍で加飾され、垂木先にも龍頭を刻出するなど、龍の塔のごとくであります。初層四方は十二支獣、二層は麒麟、三層は鳳凰、四層、五層にも彫刻が施されています。江戸時代元禄から宝永年中(1700年前後)に三井本家より住友家の別子銅山に発注し鋳造され、三井本家の江戸屋敷内(文京区第三中学校)の庭園に建てられていたと伝えられ、明治時代には京都へ移されたと云われています。同種の五重塔には、五代将軍徳川綱吉が法隆寺へ寄進し、現在は東京国立博物館に収蔵されている宝永六年に鋳造された五重塔があります。相輪部の双龍をはじめ細部彫刻もたいへん酷似しており、僅かな寸法の違いを除けば同代の同工房作とみられます。両塔共に総銅造り五重塔としては、日本一の高さを誇るものです。




日本一高い銅製の五重塔は必見です。

祖霊舍 五重塔

当五重塔には、神田神社宮司・東京都神社庁長にして当社先々代宮司・神社本庁長老大鳥居吾朗大人命をはじめ、陰陽祖霊信徒講の皆様の祖霊の御霊が祀られています。




熊野神社には幼稚園が付属していて、遊楽園と名付けられた厩舎にはポニーが3頭飼育されています。

ポニー舎

馬は古来より神聖なものとされ、神社と密接なつながりをもっています。祈願のために馬が奉納されて神の馬となり、神々の乗り物として活躍してきました。時代の流れとともに馬の奉納から絵馬や馬の像の奉納へと変化し、現在では馬がいる神社はめずらしいものになりました。馬の愛くるしい仕草や大きな瞳は、心を癒し、和ませてくれる不思議な力があります。名前を呼んで触れ合いください。

お願い 食べ物は絶対に与えないでください。

きらら号

   シェットランドポニー種
   北海道浦河町産
   平成六年6月10日生(牝)栗毛
   平成十二年12月27日入厩

お願い おばあさんです。
    ニンジンを喉につまらせて手術をしたことがあります。
    食べ物は絶対に与えないでください。

ちょこ号

   ミニチュアポニー種
   北海道小清水町産
   平成二十三年5月24日生(牝)栗毛
   平成二十三年10月17日入厩

お願い 幼稚園のお友達を馬車に乗せるのが大好きです。
    七五三詣でも活躍します。
    名前を呼んであげてください。

ばにら号

   日本ポニー種
   北海道別海町産
   平成二十四年5月8日生(騙)芦毛
   令和元年9月1日入厩

お願い とても好奇心旺盛です。
    人を乗せたり、馬車を曳く練習をしています。
    応援よろしくお願いします。




神社の境内では、よく地元産の野菜を紹介したJAの案内板を見かけます。立石地域ではウリが名産だったそうです。

江戸・東京の農業 本田ウリ

江戸の人口が増加するにしたがって、江戸近郊の農村では、換金作物として野菜作りも始まり、ここではウリなども盛んに栽培され本田ウリと呼ばれていました。農家はウリを収穫すると、船に積んで中川を下り、本所を流れる竪川や小名木川を通って、江戸に運んでいました。当時、果物などを水菓子と呼んでいましたが、江戸に上る途中で積み込まれる、本所で獲れるウリと比べると、本田ウリは大ブリで格段に美味しい水菓子と評判で、文政十三年(1830年)の随筆「嬉遊笑覧」に「本所瓜美味ならず。本田瓜といふ形甚大なり<増補江戸鹿子>云々いへり。是ほんでん瓜なり。今これを銀まくはといふ。金まくはに対しての名なり」とあります。本田ウリは熟すと銀白色になり、真桑瓜の金マクワに対して銀マクワと呼ばれていました。瓜売りが、瓜売りにきて、瓜売り残し、売り売り帰る、瓜売りの声。なんとも、のんびりとした、江戸の暮らしがうかがえる歌です。

THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Honden Uri (Melon)

With the increase in population of Edo, farming villages in suburban areas gradually went for the cultivation of more and more profitable crops such as vegetables. Honden melon was one of such crops which used to be actively grown in this area. Farmer's boats shipped their melons along the Naka River, farther down through Tate River and Onagi River in Honjo, to Edo. Honden melon was larger in size and much more delicious than the melons picked and loaded in Honjo area on the mid-way to Edo.




ポイント4 かつしかシンフォニーヒルズ

かつしかシンフォニーヒルズの正式名称は葛飾区文化会館で、平成四年(1992年)に開業しました。かつてこの場所には葛飾区役所がありましたが、昭和三十七年(1962年)に区役所が現在地へ移転した後は葛飾区の体育館として利用されていました。大ホールのモーツァルトホールは、ウィーンフィルの本拠地にあるムジークフェラインザールと同じシューボックス(長方形)型のホールで、座席数は1318席あります。コンサートホールとして国内でもトップクラスの音響性能を誇っています。モーツァルトホールは、オーケストラ演奏を主目的にしたホールです。音楽だけでなく、ミュージカル・舞踏・演劇など、音に拘った様々な舞台芸術活動にも利用しやすく設計されています。小ホールのアイリスホールは座席数298席で、小規模な演奏会などに使用されます。アイリスホールは本格的なオープンステージ形式を採用し、舞台と客席が一体感を得られるように設計されています。特に、ピアノや室内楽の演奏に最適のホールです。また、アイリスホールは、客席部分の座席を格納し床を舞台として利用したり、舞台を床面まで下げ客席として利用できるようにした床可変機構を採用により、より幅広い芸術発表が可能となっています。その他、ギャラリー(展示室)・カフェテリアなどの機能を持つ本館と、会議室・視聴覚室・レクリエーションルームなどを備えた別館がペデストリアンデッキで結ばれています。



建物の周囲には沢山の彫像がならんでいます。



なかでも、本館正面玄関前に建つモーツァルト像は、葛飾区が世界で唯一オーストリア共和国の許可を受けたウィーン市王宮庭園に建つモーツァルト記念像の実物大の複製で、かつしかシンフォニーヒルズのシンボルとなっています。ウィーン市にあるモーツァルト記念像は、1791年12月5日に没した偉大な天才モーツァルトを偲んで1896年に造られたものです。このように、歴史的遺産を受け継ぐ貴重な文化財であるモーツァルト記念像の複製許可を受けるにあたっては、当時のツィルク・ウィーン市長をはじめウィーン市フロリズドルフ区のランズマン区長などの多くの人々の協力を得て実現しました。葛飾区のモーツァルト像の製作は、オーストリア共和国がモーツァルト没後200年記念事業のための記念像の修復作業と併行して行われ、共和国が指定したウィーン美術大学の教授や、現地の数多くの優秀な芸術家・技術者の参加によって行われました。

MOZART

このモーツァルト像は、葛飾区が世界で唯一、オーストリア連邦共和国の許可を受けて、現地で製作したウィーン市王宮庭園に建つモーツァルト記念碑の実物大の複製です。ウィーン市にあるモーツァルト記念像は、1791年12月5日に没した偉大な天才モーツァルトをしのんで1896年に造られたものです。このように歴史的遺産を受け継ぐ、貴重な文化財であるモーツァルト記念像からの複製許可を受けるにあたっては、ツィルク・ウィーン市長をはじめウィーン市フロリズドルフ区 のランズマン区長などの多くの人々の暖かい協力を得て実現したものです。葛飾区のモーツァルト像の製作は、オーストリア連邦共和国がモーツァルト没後200年記念事業のための記念像の修復作業と併行して行われ、共和国が指定したウィーン美術大学のティフェンターラ教授をはじめ、フリードル教授など現地の数多くの優秀な芸術家や技術者の参加によって進められました。ここに建つモーツァルト像は、モーツァルトが奏でる澄みきった調べのように葛飾とウィーンとの心と心をつなぐ互いの象徴であり、また、かつしかシンフォニーヒルズのシンボルとして誘致したものです。葛飾区は、ウィーン市をはじめ世界諸都市との平和と友好を末永く願い、このモーツァルト像を設置しました。




BS−TBSの土曜日夕方の番組「夕焼け酒場」で、きたろうさんに出されたクイズです。

モーツアルトの銅像
問題: ウイーン市のフロリズドルフ区のランズマンの区長が日本を訪れた際に観た「とらさん」の映画が気に入り、葛飾区に姉妹都市を申し込みました。何で気に入ったのでしょうか?

答: とらさんと葛飾区の人達の人情深いところが地元のウィーン市フロリズドルフ区の人情深いところとそっくりだから。

葛飾区役所は桜並木に面して建っています。昭和七年(1932年)に葛飾区が発足し、区役所は旧本田町役場に置かれました。昭和十二年(1937年)1月に現在の葛飾区文化会館(かつしかシンフォニーヒルズ)の所在地に移転しましたが、昭和二十年(1945年)の空襲により焼失しました。昭和三十七年(1962年)に現在地に本館が完成し、移転しました。その後、昭和五十三年(1978年)に新館と議会棟が完成しました。令和十年(2028年)には、京成立石駅の北側に新庁舎が完成し、移転する予定になっています。



葛飾区を紹介した案内板が立っています。

23区有数の自然

葛飾区は東京都の東北部に位置し、多くの川に囲まれた、東京23区の中でも自然豊かな区です。区の東には江戸川、西には荒川、中央部は中川の一級河川が流れ、「川のある風景」が大きな特徴のひとつとなっています。北部には、都内でも屈指の水郷の景観を誇る、都立水元公園があります。約92haの広大な園内では、ポプラ並木、メタセコイヤの森、約100種14、000株の花菖蒲や桜など、四季折々の自然に親しむことができます。西部には、花菖蒲の名所堀切菖蒲園があります。かつて、この地一帯は「江戸百景」のひとつに数えられ、歌川広重(うたがわひろしげ)などの著名な浮世絵にも描かれました。現在の園内には、約200種6、000株の花菖蒲が植えられ、開花時期には水元公園とともに菖蒲まつりが行われ、多くの人で賑わいます。

下町のぬくもりを残す「寅さん」と「両さん」のいるまち

葛飾区には映画「男はつらいよ」で有名になった柴又帝釈天があります。下町人情を題材に当地で撮影された映画は48作を数え、主役を演じた渥美清さんが亡くなった今でも、映画で描かれた下町人情の世界に触れようと観光客で賑わいます。亀有は、漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の舞台となりました。駅の北では警察官姿の「両さん」、南では祭半纏姿の休日の「両さん」が出迎え、亀有銀座商店街には、「両さん」の子ども時代の像が設置されています。また、香取神社の「両さん」像や、亀有公園のベンチに座って一緒に写真が撮れる「両さん」像、「中川」や「麗子」など人気サブキャラクターをモチーフにしたミニ銅像など、亀有を訪れる人たちを「こち亀 銅像めぐり」で楽しませてくれます。




色々な花で飾られたフラワーキャンバスがあります。

【フラワーメリーゴーランド】 どこでも水やりおまかせ型立体花壇

区内で花壇活動など花に関わる団体や事業者、区が参加する「かつしか花いっぱいのまちづくり推進協議会」で、公共空間への花の新たな展開を具体化するためにプロジェクトチームを立ち上げ考案し、特許を取得しました。

【フラワーキャンバス】 立体花壇の技術を活かした壁面型花壇

キャンバスに文字や模様を描くように花でキャンバスを彩ります。




葛飾区には、区内のあちこちに「かつしか元気食堂」が設置されています。



立石・奥戸エリアには、葛飾区役所内職員食堂が認定されています。

かつしかの元気食堂へ行ってみよう 元気食堂マークが目印!

平成二十六年度より、誰もが身近な飲食店で栄養バランスの整った食事をとれるようにする取り組みとして一定の基準を満たす飲食店を「かつしかの元気食堂」として認定しています。

認定店は4種類あります。

1.かつしかの元気がでる食堂 1店舗
・健康的な食のサービスが8つ以上あります。
・主食・主菜・副菜がそろっていて、そのうち主菜・副菜で400kcal〜500kcal、塩分3.3g以下、 野菜120g以上を使用している「元気がでるメニュー」を日替わりで週4日提供しています。
2.わたしの街のえらべる食堂 53店舗
・主食・主菜・副菜が揃ったバランスメニューを提供しています。
・健康的なサービスを提供しているお店。
3.プラス一皿の野菜料理があるお店 30店舗
・70g以上の野菜を使用した料理を提供しています。
4.かつしかの元気なお弁当・おそうざい店 2店舗
・栄養バランスの良いお弁当や組み合わせることで栄養バランス良く食べられるおそうざいメニューを提供しています。


健康的な食のサービスとは?

・栄養成分表示がある
・食事バランスガイド表示がある
・野菜たっぷりメニューを選べる
・主食の量を選べる
・減塩しょうゆを選べる
・汁・つゆなし(減量)注文サービスを選べる

など、全部で24種類。お店によって実施しているサービスが異なります。詳しくはお問い合わせください。

かつしか知っ得メモとは?

かつしかの元気食堂には「かつしか知っ得メモ」が置いてあります!食や健康についての情報を月替わりで提供するポスターや卓上メモです。

○今月の食材シリーズ
季節に合った食材を取り上げ、レシピの紹介や選び方、保存方法などを紹介

○健康情報
テーマごとやライフステージ別に健康情報を紹介

○季節の行事など
忘れられつつある日本の食文化や、季節を感じさせる行事などを紹介




ポイント5 曳舟川親水公園

曳舟川親水公園は、曳舟川(葛西用水)の面影を残し、水をテーマとして整備された南北延長約3km(亀有から四つ木まで)の公園です。曳舟川は葛飾区から墨田区にかけての川筋で、江戸時代初期には飲料水用水路として利用されました。これが廃止された後は、綱を付けた小船を岸から引いて人々を楽しませる乗合船が登場し、安藤広重の江戸百景にも描かれるなど、江戸の風物詩として知られ、これが曳舟川の名称の由来となっています。曳舟川の名称が付けられた区間は江戸期に開削された葛西用水や亀有上水の水路を利用しており、昭和四年の荒川放水路の開削による川筋の分断のために早くから自動車道に改修されました。江戸期の後期から明治の初めごろにかけて行われた曳舟は一種の水上交通機関ではありましたが、舟を曳く動力が陸からの人力であるために馬とか籠などの陸上交通機関の要素も含まれたもので、曳舟は異色の交通機関として人気がありました。また、江戸市中から下総・水戸方面へ行く多くの旅人にも利用されました。他の都市河川と同様に、東京オリンピックが開催された昭和三十九年(1964年)頃までは小魚などの生物が生息している川でしたが、日本が高度成長期に入ると生活雑排水やメッキ工場からの排水が流れ込み、瀕死の状態となっていました。その後、排水規制等によって水質は改善されたものの、葛西用水の一部区間の公園化や葛西用水からの取水ができなくなったことにより、現在の曳舟川は支流も含めて埋め立てられ、水路は存在していません。葛飾区の区間では、人工的な水の流れをつくり、曳舟川親水公園や四つ木めだかの小道となりました。自然の川を再現した区間や、シャワーを備えた親子向けのプールになった区間もあります。また墨田区内では、流路上に作られた道路が「曳舟川通り」と名付けられています。



休息所の壁に銅版画が貼られています。ひとつは「曳舟川物語」と題されています。

曳舟川物語

江戸時代後期、篠原村から亀有村までの古上水堀では、引舟が行なわれていました。かって、本所方面に上水を供給した古上水堀は、川底が浅く、流れがゆるやかであったため、櫂でこぐのが困難でした。そこで、五・六人乗りの小舟を綱で引く、いわゆる引舟が行なわれました。引く方法には、川筋をはさんで両側から引く方法と片側のみで引く方法とがありました。

篠原村の発着所には吉野屋という茶見世があり、利用客のなかには、その見世より飯、酒をとりよせてから舟に乗り込み、一杯やりながらのんびりとキセルをふかして葛飾の風情を味わう人もいました。その後、利用客がふえるにつれ、吉野屋も花菖蒲、ぼたん、藤などを栽培し、屋号も吉野園にかえ、付近の堀切園(現在の区立堀切菖蒲園)と共に、花の季節には訪れる人々でたいそうにぎわいました。

やがて、明治の中頃には文明開化の波がこの辺りにもおしよせ、街道の整備が進むにつれて人力車を利用する人がふえたため、この引舟もいつしかその姿を消していきました。




もうひとつは「お花茶屋物語」と題されています。

お花茶屋物語

江戸時代、この辺一帯は、沼地が多く、徳川将軍のお鷹狩りの場でした。お鷹狩りとは鷹匠によって飼いならされた鷹を放し、野鳥を捕えるというもので、毎年秋から翌年春にかけて行なわれました。

ある年の寒い冬・・・将軍様が鷹狩りに興じていると、にわかに腹痛を起こし、近くの新左衛門茶屋と称する見世にかけこみました。新左衛門は、早速、秘蔵の銀の茶釜で湯をわかし、娘のお花に看病させました。

気だてのやさしいお花は、精一杯に介抱し、そのかいがあって将軍様の病は、不思議にもまたたくまによくなりました。側近の家来達はもとより、将軍様自身のお喜びは大へんなものでした。

このことがあって、将軍様はこの茶見世に「お花茶屋」の名を、またその茶釜には「公家助け茶釜」と命名しました。そしてお鷹狩りの際には必ず「お花茶屋」に立ち寄るようになりました。

その後、お花の名声と茶見世の人気は高まって、近郷近在にまで知れわたり、ついにこの付近一帯の呼び名も「お花茶屋」になったといわれています。




曳舟川親水公園には、花菖蒲が植えられています。花菖蒲では、江戸時代に吉野屋(後の吉野園)という茶屋がありました。

吉野園

吉野園は、江戸時代には吉野屋といい、四つ木通りの曳舟川(古上水堀)沿いの「藤棚の茶屋」として知られていました。明治時代になると「四つ木の花屋敷」と称され、20年代には吉野園を開園、堀切とともに東京名所のひとつに数えられました。吉野園から出展された花菖蒲は、明治四十三年(1910年)ロンドン日英博覧会で名誉賞、大正四年(1915年)サンフランシスコ・パナマ太平洋博覧会では金賞を受賞しています。国際的に発展をみた菖蒲園も、昭和十年代には戦時下の影響を受けて相次いで閉園し、江戸期以来の伝統と繁栄に幕が下ろされました。

挿絵は、明治二十八年(1895年)に水野年方が描いた「美人観吉野園花菖蒲」です。




曳舟川には沢山の橋が架かっていましたが、命名するのが面倒くさかったのか、一号からの連番でシンプルな名前が多かったようです。



四つ木四丁目公園と篠原公園を経由して、水戸街道沿いの曳舟川自然再生区域に整備された全長260mの親水水路「四つ木めだかの小道」という散策路に入ります。葛飾区内を流れる曳舟川は、かつては灌漑用水として利用されていた河川で、メダカの泳ぐ姿も多く見られましたが、近年は水質の汚染が進むと共に、転落を防ぐために岸辺がフェンスで囲われたことから、人が近づける要素がなくなっていました。葛飾区では、水と緑の自然環境ネットワーク計画が進められていて、身近な水辺再生事業「四つ木めだかの小道」は自然と調和した快適な都市環境の形成を図るために整備が行われたものです。整備にあたっては、地下に下水道管を埋設し、上部を親水水路とする構造としています。水路内には、メダカやトンボなどの水生生物が生息しやすいように、ワンドや堰・乱杭などを設け、自然の流れに近づけています。でも、「めだかの小道」という名前が付いていますが、小川にいるのはめだかではなく、外来種の「カダヤシ」だそうです。



曳舟川の由来について解説された案内板があります。

曳舟川の由来

曳舟川は、江戸幕府が明暦三年(1657年)の大火ののち、開発に着手した本所・深川方面の新市街地へ、飲料水を供給する目的で開削された水路です。成立は万治二年(1659年)といわれ、亀有上水あるいは本所上水・小梅上水とも呼ばれました。水源は瓦曽根溜井(現埼玉県越谷市)で、亀有に入ってからは東側に中井堀を分水し、四ツ木付近までは二条の水路が並行して流れていました。亀有上水の廃止は亨保七年(1722年)のことで、小梅より南の水路は埋め立てられましたが、上流部はそのまま用水として残され、古上水堀と称されました。上水の廃止後、篠原村(現四つ木)から亀有村の二十八町(約3キロメートル)の水路を利用して「サッパコ」という小舟に人を乗せ、土手の上から長い綱で肩にかけて引くことが始まり、「曳舟川」と呼ばれるようになりました。帝釈天詣や水戸街道に出る旅人が利用した曳舟は江戸近郊の風物として人気を呼び、多くの紀行文や、初代歌川(安藤)広重の「名所江戸百景」などに情景が描かれています。

*溜井 流水を堰止めて水位を高め、用水を送る貯水場




水戸街道の歩道橋の下にある北東側の起点には、「キャプテン翼」のロベルト本郷と大空翼の銅像が立っています。作者の高橋陽一の出身地が四つ木ということに因んでいるのでしょう。

キャプテン翼 ロベルト本郷と大空翼

大空翼の師匠であり、元ブラジル代表の日系ブラジル人。翼の才能に惚れ、成長を見守りながら、時に厳しく叱咤激励する。
「Viva Tsubasa (ビバ・ツバサI)」。




この辺りには、東西に古代東海道の道筋が通っていました。

東京下町を通っていた古代東海道・周辺案内図

東海道というと、徳川家康が日本橋を基点として整備した街道をイメージします。しかし、東海道はそれ以前から西の都と東国を繋ぐ幹線道路として存在していました。大化元年(645年)の大化の改新以降、日本は唐を手本に都を造営し、全国に国・郡・里(郷)を設けるなど地方行政区画を定め、都と地方との往来を確保するために都から放射状に延びる七道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海)と呼ばれる交通路を整備します。宝亀二年(771年)には、東海道が葛飾区をはじめ東京の下町地域を東西に横断するようになりました。上の図は近年判明した古代東海道の推定ルートです。立石地名の起こりとなった「立石様」は、この古代東海道の道しるべだったと考えられています。東京の下町地域は、西の都と東の常陸や、さらに陸奥を繋ぐ交通の要衝だったこともわかってきました。




四ツ木駅にはキャプテン翼の絵が掲げられています。





四つ木つばさ公園には、キャプテン翼の銅像が建っています。



石崎了の銅像です。

キャプテン翼 石崎了

所属:    南葛SC
ポジション: DF(ディフェンダー)
背番号:   14

自慢の根性とガッツあふれるプレーでチームを奮い立たせる。シュートに捨て身で喰らいつく「顔面ブロック」が代名詞。




そして、大空翼の銅像です。

キャプテン翼 大空翼

葛飾区四つ木出身である漫画家、高橋陽一氏が描くサッカー漫画。「ボールは友達」を信条とするサッカー小僧、大空翼の成長と活躍を描く「キャプテン翼」は、1981年に「週刊少年ジャンプ」誌上にて連載を開始し、全国の少年少女に空前のサッカーブームを巻き起こしたサッカー漫画の金字塔。“日本をワールドカップで優勝させる”という夢を抱く翼が、多くの仲間やライバルたちと激闘を繰り広げるストーリーや記憶に残る数多くの必殺シュートなど多彩な魅力は、日本に留まらず世界中の多くの人たちを魅了している。また、国内外の有名サッカー選手たちにも多くのファンがいることでも知られている。作者の高橋陽一氏は、高校3年生の時にアルゼンチンで行われた第11回FIFAワールドカップをテレビで観戦したことで、サッカーの持つ自由さや世界中の人が熱狂する姿に感動し本作品の執筆へのきっかけとなった。また、作中で翼が通う南葛小学校、南葛中学校は高橋氏の出身校である「東京都立南葛飾高等学校」にちなんで名づけられている。




ポイント6 四つ木公園

四つ木公園は、昭和四十五年4月1日に開園した、大きな滑り台やジャングルジム・シーソーなどの遊具が揃った公園です。公園のシンボルは、何といっても築山の上に設置された滑り台で、高さのある木製の外装にコンクリートの滑り台が付いています。他にもブランコ・シーソー・砂場・ジャングルジム・鉄棒といった基本的な遊具が揃っています。広場は広々としていて、植栽で遊具エリアと区切られているため、小さな子どもでも思いっきり走り回ったり、鬼ごっこをして遊ぶことができます。



この公園には、平成二十六年3月に、四つ木・立石地域に建立された「キャプテン翼」のキャラクター銅像7体のうちのひとつであるタイガーシュートで有名な「日向小次郎」の銅像が設置されています。

キャプテン翼 日向小次郎

所属:    明和FC
ポジション: FW(フォワード)
背番号:   10

豪快な突破力と強力なシュートが持ち味の努力型天才ストライカー。そのパワーと闘志あふれるプレイから「猛虎」と呼ばれる。




「綴方教室」で知られる豊田正子の案内板が立っています。

豊田正子「綴方教室」のふるさと

「綴方教室」の作家として有名な豊田正子は、大正十一年(1922年)十一月十三日、本所区(現墨田区) 向島小梅町に生を受け、その後葛飾区木根川や四つ木一丁目で少女時代を過ごしました。本田小学校四年生・五年生の時、担任の大木顕一郎先生(当時四つ木一丁目在住)の指導のもとに書いた綴方が、鈴木三重吉主宰の雑誌「赤い鳥」にたびたび入選しました。昭和十二年(1937年)、それらの作品を集めて中央公論社から出版された「綴方教室」は大ベストセラーとなり、翌年には芝居や映画が製作され、特に、高峰秀子主演の映画「綴方教室」は大当たりし、豊田正子の名前は全国に知られるようになりました。「続綴方教室」、「粘土のお面」など綴方作品のほか、「さえぎられた光」「おゆき」など小説や随筆を、生涯を通して多数発表。「花の別れ」は日本エッセイストクラブ賞を受賞しました。木根川や四つ木を舞台にした綴方は、貧しくとも明るく健気に生きた下町の少女像を浮き立たせ、今も広く愛読されています。

平成二十二年(2010年)十二月九日没。享年八十八歳。




ポイント7 白髭神社

白髭神社の創建年代は不明ですが、一説では貞観二年(860年)、あるいは治承年間(1177年〜1181年)といわれ、旧地名を冠して渋江白髭神社とも称されます。江戸時代には「客人大権現(まろうどだいごんげん)」と呼ばれていて、渋江村の鎮守でした。江戸幕府六代将軍徳川家宣の側室だった左京の局が白髭神社のご利益により世子家継を産んだとされたことから、江戸市中の女性の間で爆発的な人気を呼んだといわれています。明治二年(1869年)に、白髭・八王子・客人大権現を合祀して「白髭神社」に改称しました。

由緒記

當町の鎮守白髭神社の祭神は猿田彦命で、合殿として大己貴命・建御名方命を奉祀する。當社は澁江村草創当初より傳はる古社で霊験あらたかな社として近郷近在の崇敬が篤かった。創建年代は詳かではないが旧別当寺清寶山観正寺が僧圓覚によって延徳三年に建立されたと云ふから、当社の創建はそれ以前であることは勿論である。往時は客人大権現と称し、特に文化文政より天保に至る時代には最も隆盛を極め??諸人の参詣するするもの雲集したとのことであり今も燈篭等に其の俤を遺している。境内には数百年を経たる老松鬱蒼として大正中期まで存在していた。明治初年に白髭神と社号を改め、同五年社格を村社に列せられ、現在に至る。

例祭日 五月二十日

境内に 稲荷神社  祭神 宇迦御魂命
    皇産霊神社 祭神 高皇産霊尊
             大山咋命
    大鳥神社  祭神 日本尊命
               あり。




社殿は嘉永元年(1848年)に造営されたもので、平成五年(1993年)に瓦葺から銅板葺に改築されました。



末社は古くから境内に祀られていたものと、大正年間に境外から移築したものが点在していましたが、平成二十一年(2009年)に現在地に改めて移改築するとともに、所縁の祭神が奉祀されました。

境内末社由緒記

天皇陛下ご即位二十年を奉祝し、社殿が老朽化した境内末社を改築して当地に移築するとともに、所縁のご祭神を奉祀いたしました。古くから篤い崇敬を集めてきた各神社への造詣を深められ、広範なご神徳を拝載されますことをお祈りいたします。

皇産霊神社(通称:第六天さま)

ご祭神は、高皇産霊尊(高木神)、大山咋命。ご神徳は、万物生成、五穀豊穣、夫婦和合など。創立年は不祥。大正三年十一月、本田村大字渋江四番地(現四つ木一丁目三十二番地)に鎮座した無格社皇産霊神社(江戸期は第六天社と称した)を合祀した。第六天には面足尊・惶根命の夫婦神を奉祀する神社もあるが、造化三神の一つと称えられる高皇産霊尊を奉祀する神社も多数ある。大山咋命は、日吉大社のご祭神で、江戸後期の歴史書「新編武蔵風土記稿」に、当神社の旧別当観正寺境内に山王社が鎮座した記載があり、当神社そのものが旧称(「白髭八王子客人権現合社」、八王子社、客人社は山王二十一社の一つ)から山王社との関係が想起されることもあり、本社と所縁の深い末社である。例祭日は六月十五日。

稲荷神社(通称:お稲荷さま)

ご祭神は、宇迦御魂命。ご神徳は、五穀豊穣、家内安全、商売繁盛など。創立年は不祥。「新編武蔵風土記稿」に末社として記載あり。大正三年十一月、本田村大字渋江二十四番地(現四つ木一丁目三十三番地)に鎮座した無格社稲荷神社を合祀した。往古は「豊穀稲荷」とも称され、神社の修繕は必ず氏子中の有志が行い、有志団結して毎年一回例祭を執行したといい、昭和初年に奉納された絵馬が多数残されている。また、この度の改築にあたり、古く東四つ木四丁目十一番地付近に奉祀されていた「稲子稲荷神社」を合祀した。例祭日は二月初午日。

大鳥神社 厳嶋神社

大鳥神社(通称:お酉さま)のご祭神は、日本武尊。ご神徳は、武運長久、開運招福、商売繁盛など。創立年は不祥。往古は毎年十一月に酉の市が開かれ、境内には熊手を始めとする縁起物を商う店が立ち並び、参詣者で賑わったと伝えられている。例祭日は、十一月酉日。

厳嶋神社(通称:弁天さま)のご祭神は、市杵嶋姫命。ご神徳は、技芸上達、芸能上達など。創立年は不祥。「新編武蔵風土記稿」に末社として記載あり。大鳥神社の旧鎮座地に明治初年まで鎮座していたが、大鳥神社移改築にあたり、あらためて合殿として合祀した。かつて鎮座地近くの玉垣に沿って水路が流れていたことから、水の守りとしても崇められた。例祭日は七月七日。




白髭神社には、多くの文化財が所蔵されています。

渋江白髭神社所蔵資料

登録有形民俗文化財 板絵着色武者図絵馬額 一対
牛若丸弁慶図(本殿向かって右)と川中島合戦における謙信、信玄対決の図(同左)の絵馬額一対です。前者は上下に金地の雲形が入り、左に跳躍する牛若丸、右に薙刀をもつ弁慶が対峙する図で、背後には五条の橋と思われる欄干が見えます。上部には「奉納」、左に「願主 南澤口口)、「安政三年(1856年)丙辰」の墨書があります。後者も上下に金地の雲形が入り、左に軍配をもつ信玄、右に馬上にある謙信が対峙する図で、背後には松が描かれています。上部や左には前者とほぼ同様の墨書があり、加えて右には 「諸願成就」と書かれています。ともに武者絵馬の代表的な画題です。
・材質 木製 ・大きさ 各高51cm 幅84cm84cm

登録有形文化財 相撲連奉納額
本殿脇に掲げられているのは「天下泰平」を願った奉納額です。「当所有志」とありますが、17名の四股名を見るとその多くが地域周辺の旧家や地域名を使用していることがわかります。当地域に関係がある草相撲力士と思われます。中央に軍配を施し、向って右には力士の四股名、左には幹事、行司、年寄の名が記されています。年寄の中には今に続く当神社氏子の名が見え、草相撲が盛んであったことがよくわかります。大正二年(1913年)11月20日に奉納されました。
・材質 木製 ・大きさ 高74.5cm 幅163cm

区登録有形文化財 草相撲板番付
明治十七年(1884年)11月の板番付です。東方40人、西方42人、行司や年寄そして願主の名が書かれています。二枚矧の木製で周囲は角材で囲まれ、頂部は大入りを願ったと思われる「入」の字形になっています。神輿蔵に掲げられているため、保存状態は極めて良好です。葛飾をはじめとするその周辺では、昭和二十年代ごろまで草相撲が盛んでした。調査の結果、番付には今に続く当神社氏子の四股名が見え、四股名には葛飾の地名が取り込まれていることから、 多くの地元 力士の存在が推測されます。この地域で草相撲が盛んであったことを示す貴重な資料です。
・材質 木製 ・大きさ 高110cm 幅77cm77cm

登録有形文化財 横幕
新吉原揚屋町相泉屋豊吉ほか3名によって奉納された白い麻布の横幕です。中央には三つ巴紋が墨で施され、向かって左に奉納者、右に明治四年(1871年)9 月の年号があります。4人の奉納者はいずれも新吉原で一時的に小規模な遊女屋を営んでいました。境内には新吉原講中が奉納した石造物もありますが、客人大権現(当神社)の信仰が、客商売を営む人々の間に広まっていたことを示す資料です。
・材質 麻製 ・大きさ 縦140cm 横750cm




平和橋通りを渡った先に、渋江公園があります。広々とした園内には、テニスコートや遊具エリア・芝生広場などがあります。遊具はブランコ・すべり台・スプリング遊具・砂場の他、ネット遊具や滑り台が付いた本格的な大型複合遊具があります。幼児向けのコンビネーション遊具もあります。「石山すべり台」は昭和三十年代に作られたもので、昔は親御さん世代が遊んでいた懐かしい遊具ですが、今でも子供たちに大人気です。



きれいに整備された芝生広場の一角には、平成二十六年3月に四つ木・立石地域に建立された「キャプテン翼」のキャラクター銅像7体のうちのひとつの翼のゴールデンコンビで知られる「岬太郎」の銅像が設置されました。

キャプテン翼 岬太郎

所属:    南葛SC
ポジション: MF(ミッドフィルダー)
背番号:   11

大空翼と共に「ゴールデンコンビ」と呼ばれる。翼と並ぶ実力を持ち、勝負所での卓越したゲームメイクでチームを支える。




大正三年にこの地域にセルロイド工場が創設され、葛飾の近代工業の発展を担ったとして、昭和二十七年に記念碑が建てられました。

石毛慶次郎氏頌徳表

人心?れ危く道心?れ微なるの時、果敢の気骨を以て済世利民(世の中の人々の命や生活を救い、役に立つこと)の實を?ぐるに努???の蓋し石毛氏の如き人なかる??。氏は明治十七年千葉県飯岡にを挙げ、幼くして雄国を抱き上京。メリヤス製造者の徒弟に入り、苦節十年業半ばにして佐倉?隊に應召、満州に派遣、帰還するや復職。更に斬業の?蓄を極む。大正三年四月此地に晒工場を創設す。亦?氏の努力奮闘と天興の??はその研究工夫と相俟って社運隆々。その名聲天下に冠たり。氏は又社會公共の?粋せる事?偉大なるものあ(り)。或は教育事業の普及に殖産興業の振展?各種社會福祉事業に率先私財を投げ、その發展育成に寄興せらる。??消防・警察・行政に関しては??施設の拡充強化に之れ努め、治安の維持確立民生の安定に致す。その功績枚挙に?あらず。氏はまた信仰に徹し敬神崇祖の典型たり。常に伊勢・明治両宮を始め、神社佛閣を崇敬奉賛、國民思想の浄化?努め道義の昂揚に貢献せるは普人の敬服?かざるところ而も齢古希?近きも孜々精勤??として壮者を凌ぐの概あり。豈壮ならずや。今や國民待望の講和會議成り、祖國??再建の首途に當り、本會は君が功?と不巧?傳?以て拡古?記念せんとす。




どうもセルロイド記念碑という内容に相応しくないな。。。と思ったら、セルロイド記念碑は別にあったようで、それには以下のような碑文が添えられていたようです。1時間もかけて解読したのに。

区登録有形民俗文化財 葛飾区セルロイド工業発祥記念碑

わが国におけるセルロイド工業は、明治四十一年(1908年)に、日本セルロイド人造絹糸と堺セルロイドが設立されると共に本格的生産が始まりました。葛飾区のセルロイド工業は、これらを追って大正三年(1914年)に創業されました。その中心となったのは、故千種稔氏がこの地に設立した「千種セルロイド工場」です。のちに、この地域はセルロイド工業の街として繁栄しますが、それはここから 始まったと言ってよいでしょう。このモニュメントは渋江公園の開発に伴い、昭和二十七年(1952年)に建てられました。この地域が葛飾区の近代工業の発展をになったことの証しとして貴重な記念碑です。



こちらがセルロイド記念碑だそうです。


立石すずらん通りに入ります。すずらん通りは、駅に向かって北に延び、突き当たりから京成線と平行に東に「立石駅通り商店街」の北端まで続く商店街です。通りからは細い路地が何本も分岐していて、その奥には酒場やスナックが密集しています。この辺りは終戦間際に戦災にあった亀戸の私娼館が移動してきて私娼街を形成し、この街の構造を造り上げたのです。戦後は米軍相手の慰安施設となり、その後赤線となりました。立石駅北口のすずらん通りに囲まれた一帯は、戦後一大私娼街として発展したのです。この細い路地の奥にスナックがあるという構造は、戦後の私娼街の構造からきているのでしょう。向島ではありませんが、このような細い路地の構造は、永井荷風が玉の井をラビラントと表現したような迷宮のような私娼街の構造を思い起こさせます。



歩道に、キャプテン翼の像が建っています。

キャプテン翼 若林源三

所属:    南葛SC
ポジション: GK(ゴールキーパー)
背番号:   1

大空翼の最初のライバルであり、共に日本のワールドカップ優勝を目指す盟友。「ペナルティエリア外からのシュートは必ず止める」が信条。




ポイント8 葛飾区伝統産業館

葛飾区伝統産業館は、「葛飾区伝統産業職人会」の有志の方々によって運営されている施設で、伝統工芸品等の展示と販売を行っています。30坪ほどの館内では、職人さんたちが作った日用雑貨や作品がところ狭しと展示されています。目を見張る作品としては、竹工芸品・木工品・江戸切子・包丁や裁ちばさみ・彫金や銀器の指輪・べっこうのアクセサリーなど。その種類は約30種類と、葛飾区の伝統工芸品や伝統産業品の多彩さを感じることができます。葛飾区伝統産業館では、伝統産業館体験教室(毎月第三土曜日の午後、小学5年生以上が対象)、葛飾区伝統産業職人会まつり、葛飾区産業フェア、農業・伝統工芸展など各種イベントが定期的に開催されているそうです。

注記: 葛飾区伝統産業館は、店舗での展示・販売を令和六年3月31日をもって終了しました。



立石駅の東側の踏切前に「影武者」という看板を出した建物があります。建物前には、多くの石仏や壺が置かれています。仰々しい門構えの寺院のような建物は「骨董屋」なのだそうです。



踏切を渡った先に、立石諏訪神社があります。立石諏訪神社は諏訪大社の分社で、「お諏訪さま」と親しまれています。御祭神の建御名方神(五穀豊穣・武運長久の神)は、相撲の起源とされる力比べをした神様としても知られています。詳しい由緒は不詳ですが、「新編武蔵風土記稿 立石村」の条に「諏訪社 西円寺持」と記されていることから、この頃には社殿か祠があったと推測されます。平成十二年5月の鳥居の建替を機に、立石諏訪神社の沿革を記した記念碑が建てられました。

諏訪神社鳥居建設記念碑
立石諏訪神社沿革について

本宮は、信濃の国現長野県諏訪大社で上社下社の二社、上社は男神・下社は女神と信仰厚く、全国に御分社は一万有余社を数え、お諏訪様、諏訪大明神と親しまれ、敬われ幅広い信仰あり。当社は其の御分社で有り、御祭~は建御名方命(たけみなかたのかみ)、八坂刀売神(やさかとめのかみ)である。(元文四年【1799年】正福寺門末起立録)によれば西葛西領立石村西円寺の項に、(諏訪宮社地六畝拾五歩、御徐地)とあることから、1799年には諏訪社殿か祠かが在ったのではないかと推測される。
昭和六年五月鳥居建立。
昭和三十三年社殿建替前社殿を向かい右側に平家建て社務所、雨ざらしの猿田彦、左神楽殿有り。同年社殿増改築にて社務所、神楽殿取り壊して、現在は社殿向かい左側鳥居脇に両町会会館を建設、社殿に向かい右側奥に神輿倉その前右手に猿田彦を祀る。又外側の石の玉垣を新設する。又神社の財産として通りに面した土地三十有余坪は土地の有志である清田弥男様より神社に寄贈を受け、その土地上に現在の出店を建て、その収入は神社の費用及び改築や祭費に充てられている。昭和六年建立された鳥居は破損甚だしく危険につき管理委員協議のうえ平成十二年五月前鳥居より巾五十センチ高さ五十センチ大さく建替えたものである。




拝殿の脇には遊具が設置されていて、公園のような感じです。



ゴール地点の京成立石駅に戻ってきました。



蛇足ですが、立石といえば呑兵衛の聖地。駅の北口には「呑んべ横町」があります。2022年3月に訪れた時は未だ営業しているお店はありましたが、京成立石駅周辺の大規模再開発により、2024年には北口地区の立ち退きが終わり、2025年7月現在では既存建物の解体とインフラ撤去工事が進められています。昭和の面影を遺した味わいある横町でしたけどね。寂しい。。。



ということで、葛飾区で七番目のコースである「F立石・四つ木エリア」を歩き終えました。次は葛飾区で八番目のコースである「G新小岩エリア」を歩きます。




戻る