H高砂・奥戸エリア  

コース 踏破記  

今日は葛飾区の「H高砂・奥戸エリア」を歩きます。京成高砂駅をスタート・ゴール地点として、中川の左岸に出て高砂諏訪橋で新中川を渡り、新中川によって突起状に残った高砂・奥戸を周遊し、八剱橋から東用水せせらぎ通りを経て京成高砂駅に戻ります。

H高砂・奥戸エリア

「H高砂・奥戸エリア」の歩行距離は約7.5km(約10、700歩)、歩行時間は約1時間53分、消費カロリーは約339Kcalです。

スタート地点:京成高砂駅南口2
ポイント1 大光明寺
ポイント2 清龍神社
ポイント3 新中川通水記念公園
ポイント4 奥戸天祖神社
ポイント5 八劔神社
ポイント6 宝蔵院
室町時代創立の古刹。9月下旬の境内には、赤・白・黄の彼岸花が咲き揃う。
ポイント7 奥戸ローズガーデン(フラワーパーク)
バラが咲き誇る美しい公園。

ゴール地点:京成高砂駅南口2


スタート地点の京成高砂駅南口2から歩き始めます。



高砂天祖神社の創建年代は不明ですが、葛西御厨の成立(1165年)以降に創建されたと推測されます。創建当時の社名は神明社あるいは明神社とされ、後に三社明神、江戸時代には三社大明神と呼ばれるようになり、さらに明治六年(1873年)に天祖神社と改称されました。社宝のひとつに天保十年(1839年)に奉納された雨乞いの模様を描写した絵馬である「板絵着色雨乞図絵馬額」があり、これまでに何回か修復が行われ、最近では令和元年(2019年)に修復が実施されました。

高砂天祖神社

一、御祭神
主祭神 天照大神(お伊勢さま)
相殿神 武甕槌命(鹿島さま)
    経津主命(香取さま)
一、由緒
当神社は、鎌倉時代に当時の領主葛西清重氏の勧請により、伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮から分霊を受け創建し、古くは「三社明神」と称したと伝えられます。社蔵の棟札には、「寛永十年(1633年)九月遷宮下総国葛飾郡葛飾荘曲金郷(現、高砂)・新宿村・細田村・曼荼羅村(現、鎌倉)惣氏子百姓中云々」とあり、附近の郷の総鎮守として崇められていた事が記されています。現在の社殿は二十年に一度建て替えられる伊勢神宮の式年遷宮の材を頂き、昭和三十六年(1961年)に再建され、その後も氏子の皆様からのご賛同を頂き、平成二十八年(2016年)に「御社殿造営五十五年」・「社務所新築二十五年」の記念として、社殿と渡殿の屋根銅板総葺替及び壁面の洗いが施され、御造営当時を思わせる荘厳な社殿に甦り、現在に至ります。
一、境内社
@天祖神社 A八雲神社 B稲荷神社 C道祖神 D招魂社
E水神四社(水神宮 厳嶋神社 青龍大権現 日枝神社) F熊野社




現在の社殿は昭和三十六年(1961年)に再建され、平成二十八年(2016年)に社殿と渡殿の屋根銅板総葺替と壁面の洗いが施され、造営当時を思わせる荘厳な姿に甦りました。

@天祖神社(氏神さま)

ご祭神  天照大御神
相殿神  建甕槌命(鹿島さま)
     経津主命(香取さま)

天照大御神と言えば、八百万の神様の中でも太陽を司る最高神、伊勢神宮のご祭神で皇室祖神、そして天岩戸神話などでもご存知かも知れません。ここでは、神社参拝について考えて行きます。天照大御神は、孫神に当たる邇邇芸命に地上の国を統治するようにと命じ、三種の神器の一つとして八咫鏡を「この鏡を我が御魂として斎き奉れ」と授け、高天原から地上に降臨させました。多くの神社に神様が宿られる依代として御鏡が祀られているのはこれに由来します。鏡の解釈の一つに、鏡から我を取ると神になるというのが有ります。御鏡は自身の姿を写し心を映します。御鏡を通して神様と向き合い自分の心中にある神を誠実で素直な心で見つめ直す。神社参拝とは、日々の生活を振り返り、知らず知らずのうちに触れた罪や穢れに気づき、本来の自分自神を取り戻す行為とも言えそうです。毎月1日、15日は社殿正面の扉を開けております。月詣りを始めて、清々しい気持ちでご参拝されてみてはいかがでしょうか?




境内社の八雲神社です。

A八雲神社(天王さま)

ご祭神  素盞雄命

ご祭神の素盞雄命は、天照大御神の弟神です。八俣大蛇を退治し、その尾から天叢雲剣、後の三種の神器の一つ「草薙の剣」を取り出し、天照大御神に献上した勇敢な神様です。八俣大蛇から助けた櫛名田比売命と結ばれて多くの御子神をもうけ、幸せな家庭を築いた神としても知られています。スサノオの「スサ」には「荒ぶる・清浄」の二重の意味があり、罪・穢れ・災い等、身に降り掛かる悪しき諸々を荒々しい程の強い力で祓い清める「災厄除けの神」と言われています。八雲神社の名の由来は、素盞雄命が櫛名田比売命と住む新天地を探して出雲の地を訪れた際に詠んだ日本最古の和歌「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」に因みます。神明造りの社殿は、昭和十八年六月に現在の八雲公園から移され、天祖神社の境内に合祀されました。毎年六月十五日に、神社の役員・総代参列の上「八雲祭」が執り行われます。




境内社の稲荷神社です。

B稲荷神社(お稲荷さま)

ご祭神 宇迦之御魂神

昔の人々は、神様は春になると山から降りてきて「田畑の神」となり、秋になって五穀豊穣をもたらして収穫が終わると山に帰って「山の神」になると考えていたそうです。同じ様に春になると山から人里に下りてきて田畑を荒らす鼠などを捕まえて、そして秋になって収穫が終わると見かけなくなる狐の行動や狐の尾の形や色が実った稲穂に似ている事から「狐は神様の使い」と言われる様になったとの事です。稲荷神社は、農業に携わる「農民の神社」として全国津々浦々で信仰されてきましたが、その後、江戸時代になって商業や工業が盛んになると「庶民の神社」として商売繁盛・開運出世・家内安全の神様としても祀られる様になりました。また狐のお産が軽く、安産である事から安産祈願もされている様です。毎年、旧暦の初午の日に、沢山の赤いのぼりを立てて初午講による「稲荷祭」が執り行われます。




ポイント1 大光明寺

大光明寺は、弘安年間(1278年〜1287年)に創立された歴史ある浄土宗の極楽寺が廃寺となり、極楽寺にあった本堂・庫裡・芸能塚等をそのまま引き継いで平成十七年(2005年)に創立しました。現在は鐘はありませんが、山門の上に鐘楼がある造りが特徴です。



境内には、昭和四十八年(1973年)に建立された芸能塚があります。寄進者には、マセキ芸能社や東ハチロー事務所といった有名所から小さな事務所まで、いろいな名前が連なってます。芸能界との繋がりは分かりませんが、極楽寺が未だ隆盛の頃に建てられたのでしょう。



大光明寺はペットも供養しているようで、愛猫・愛犬の名前が書かれた卒塔婆が並んでいます。



新金貨物線の踏切を渡ります。新金貨物線は、小岩駅と金町駅間8.9kmを結ぶ総武本線の貨物支線の通称で、路線名は新金線とも呼ばれます。明治から大正時代の総武本線の東京側の終着駅は、隅田川に鉄道橋の架橋がなかなか行われなかったために両国橋駅となっていました。そのため、貨物列車は総武本線亀戸駅から東武線を経由して常磐線の北千住駅に向かうか、貨物を両国橋駅で荷馬車や船に積み替えて隅田川を渡るかして千葉県内外との連絡を図っていました。総武本線の貨物列車が隅田川を渡れないことは物流にとって非常に不便なことであり、千葉県の経済にも影響が大きかったため、総武本線新小岩信号場〜常磐線金町駅を結ぶ本貨物線が計画され、大正十五年(1926年)7月1日に開通しました。本貨物線の開業により、総武本線の貨物列車は本貨物線と常磐線を経由して隅田川西岸へ直通することができるようになりました。その後、両国橋駅止まりだった総武本線は関東大震災の復興計画として中央本線御茶ノ水駅まで延伸することになり、総武本線は隅田川西岸へと伸びることになりました。ただ、御茶ノ水駅〜秋葉原駅間が電車列車のみ通過することを前提として33%の急勾配で敷設されたため、その後も貨物列車は本貨物線経由で運転されました。平成十二年(2000年)12月2日から武蔵野線の南流山駅〜西船橋駅間と京葉線の西船橋駅〜蘇我駅間を経由して貨物列車が運行されるようになり、本貨物線を通過する貨物列車は大幅に減少しました。現在では、定期貨物列車が4往復・臨時貨物列車が1往復・回送列車などが運行するにとどまっています。



ポイント2 清龍神社

中川の土手下に大きな沼があります。「怪無池(けなしぬま)」は葛飾区のパワースポットと称され、この池には「雨乞いの神様」といわれている白蛇様が住んでいるとの伝説があります。その昔「怪無沼」に白蛇が住みついていました。この辺りを旱魃が襲った時に村人達がこの沼に雨乞いの祈願をしたところ、たちどころに雨が降ってきて村を救ったことから、この地に青龍神社を祀り、日照りが続くとこの沼の池を汲んで田畑に注ぎ、雨乞い祈願をする様になったということです。



池の隣に建立された「青龍神社」では、白蛇様を崇め、雨乞いの神事も行われていました。神事の内容は、群馬の榛名神社から御神水を頂き、青龍神社の怪無池に注ぐのだそうです。そうすると天から雨が降ってくると伝えられています。



社殿は境内の奥にひっそりと建っています。手入れが行き届いていますね。



京成本線のガード下を通り、先ほど踏切を渡った新金貨物線を跨線橋の富士見橋で横断します。



高砂橋の先には中川と新中川の分岐点が眺められます。高砂と青戸を結ぶ高砂橋は、昭和七年(1932年)年に架けられました。橋が架けられるまでは、「曲金の渡し」とよばれる渡し舟があって、舟を使って川を渡っていました。現在の橋は、平成十五年(2003年)に架け替えられたものです。



高砂諏訪橋は新中川の最上流部に架かる橋で、東岸の高砂二丁目と西岸の高砂一丁目を結んでいます。中川放水路の開削前は地続きの隣町だったんですね。高砂諏訪橋は昭和三十六年(1961年)3月に新中川掘削工事に伴って架橋されました。その後、昭和五十三年(1978年)に直ぐ下流側に長さ137.55mの高砂諏訪橋人道橋が設置され、人車分離がなされました。



高砂諏訪橋人道橋から眺めた新中川の上流側の景色(左の写真)と下流側の景色(右の写真)です。



ポイント3 新中川通水記念公園

中川と新中川が分岐する突端部に新中川通水記念公園があります。埼玉県羽生市から葛飾区の中央を流れ、東京湾に注いでいる中川は、物を運ぶ船の水路として活用されたほか、川沿いに川の水を多く利用する工場が建てられたりするなど、葛飾に多くの恵みをもたらしてきました。しかし、大雨や台風でたびたび堤防が壊れ、地域に大きな被害をもたらすこともありました。特に、昭和二十二年(1947年)9月のカスリーン台風では、中川の堤防が決壊し、葛飾区内の殆どが水浸しになる被害を受けました。このような水害を防ぐため、昭和二十四年(1949年)に中川放水路(現在の新中川)の工事が始まり、昭和三十八年(1963年)に完成しました。高砂で分岐する新中川の完成により多くの土地が失われましたが、中川流域の洪水の危険性も減りました。高砂一丁目の新中川通水記念公園は、新中川の完成を記念して昭和四十七年(1972年)4月1日に開園しました。



公園の突端からは正面に高砂橋、左手に中川、右手に新中川が遠望できます。公園内には桜の木が植樹されていて、木陰には休息用のベンチも備わっています。



公園の中央に、「中川放水路通水記念碑」が建っています。



表面には碑名、裏面には長大な碑文が刻まれています。

中川放水路のあらまし

この地方は昔から高潮や洪水による水害をしばしばうけてきましたので、東京府は昭和十三年に中川・綾瀬川および芝川の三河川総合改修計画をたて、二千四百十九万円の事業費をもって着工しました。とくに中川改修事業は足立・葛飾および江戸川の各区と埼玉県の一部にわたる地域の洪水をふせぎ、かつその排水と舟運のため着工しましたが、第二次世界大戦のため昭和十九年には工事が中止されて、一部の用地買収と一部の護岸工事ができただけでした。しかしこの地方が昭和二十二年九月のカスリーン台風による洪水のため、利根川の堤防がこわれて大きな被害をうけましたので、ふたたび中川改修工事を再開する声がたかまり、東京都はさきの計画に再検討を加え、財政上の理由から、九億九千五百万円の事業費をもつて中川放水路の開削だけを実施することになり、昭和二十四年から工事を再開しました。この工事中に物価の値上りや用地の買収などといろいろ困難な問題がおきて工事はしだいにおくれ、たまたま昭和三十四年の伊勢湾台風による高潮の水位が意外にたかかったことから、この事業の一部を変更し事業費もしだいに増額されてきましたが、ついに昭和三十八年三月十六日第一期工事を完成し通水に成功しました。この放水路は着手以来ながい歳月と多額の事業費と多くの人員が投入されて完成し、また祖先伝来の土地を提供された地元民の協力と、工事担当の建設業者の尽力とこの事業関係の都職員の努力によってできあがったもので、この地方をながく水害から守ることができるようになりました。この放水路の概要は左記(省略)のとりですが第二期工事の完成によってその流量はさらにふえることになります。




環七を通す陸橋の下を通り、中川の土手に出ます。奥戸スポーツセンターの手前に東京消防庁第七消防方面訓練場があります。骨組みだけの高い建物は、高層建物火災時の訓練ができるハシゴ車訓練用の鉄塔です。即応対処部隊は、近年頻発する広域自然災害に対して消防体制の更なる強化を図るために創設された新たな部隊です。



奥戸総合スポーツセンター温水プール館の一階には、1年中利用できる温水プールがあります。25mx9コースだけでなく、初心者用プールや、夏季限定で屋外流水プールなども利用できます。



エイトホールは、バドミントンやバレーボールなどの球技を行える八角形の外観が特徴的なホールです。土俵があるため相撲にも対応できます。



園内には奥戸水神社があります。奥戸水神社の創建年代は不明ですが、一説では、享保十四年(1729年)に幕府の勘定吟味約役の沢弥惣兵衛が中川開削のときに人柱伝説によって河畔に祀ったものといわれています。元々は本奥戸橋の上流100メートルの鼠山にありましたが、大正十一年(1922年)に中川の土手の工事のために現在の場所に遷りました。昔は農家の人たちによって盛大に祭りが行われていたそうで、舟を持っている人は舟の上で飲み食いをしたといわれています。川は米や野菜を育てる水を得るため、また野菜や肥料を運ぶために重要でしたが、氾濫して被害をもたらすこともありました。このため、地域の人びとは水に対する特別な感情を込めて水の神様をお祀りしました。奥戸水神社の祭神は女神であるため、子授け・安産・育児の神としても信仰されました。



奥戸水神社の先の中川沿いに、NTTドコモ奥戸無線中継所があります。旧電電公社時代にマイクロ波ルートが各電話局間に開設されていましたが、その中継を行うのが無線中継所です。無線中継所というと山の上などにある姿をイメージしますが、このような平地にも存在しましました。あまり便利な場所ではありませんが、無線中継所は作業員しか出入りすることのないバックヤードの施設なので、作業所と鉄塔だけあればいいのです。



中川に面してビュースポットが設置されていて、多数のパネルが並んでいます。



「東京低地の成り立ち」について解説してあります。

東京低地のなりたち

東京低地は、23区東部の武蔵野台地と下総台地間に広がる低地で、利根川・荒川の堆積作用でできた沖積平野です。約13万年前の関東平野は、第四紀という寒暖がくり返された氷河時代の末期にあたり、ほとんどが古東京湾と呼ばれる海の中にありました(図@)

1万8000年前の関東平野は、北半球の広い範囲に氷河が発達して、海水面は約100m低下し、東京湾はすべて陸地になりました。このころ富士山は盛んに活動し、降り注いだ火山灰は関東ローム層と呼ばれる赤土層になりました(図A)

約6000年前には氷が溶け出して海水面は上昇し、奥東京湾といわれる2つの入江ができました(図B)

その後、海面低下によって陸化が進み、約2000年前に弥生の小海退と呼ばれる海面後退があり、東京低地が姿を見せ始めました(図C)




中川放水路開削のきっかけとなた水害について解説してあります。

東部低地帯の水害の歴史

奥戸地域が含まれる東部低地帯は、隅田川、荒川、中川、江戸川などの大きな河川とそれらの支川が縦断に流れています。東部低地帯の水害をみると、江戸三大洪水である寛保二年(1742年)では荒川の小谷野村堤、天明六年(1786年)では利根川の権現堂堤、弘化三年(1846年)では荒川の千住堤が決壊しています。明治以降も多数の水害が発生し、明治四十三年(1910年)では台風による集中豪雨で、関東平野一面が水浸しになりました(図7)

この洪水を機に荒川放水路、江戸川放水路が開削され、昭和十三年の洪水、高潮を機に中川放水路が開削されました(図G)

昭和二十二年(1947年)のカスリーン台風は、葛飾にも大きな被害をもたらしました。

昭和二十二年(1947年)カスリーン台風

カスリーン台風は、第二次世界大戦後間もない昭和二十二年(1947年)9月に発生し、関東や東北地方に大きな被害をもたらしました。本州に停滞した前線により、関東平野部や周辺山地の総雨量は、300mm〜500mmにおよぶ戦後治水史上に残る大雨を記録しました。大洪水の発端は、現在の埼玉県加須市付近の利根川の340mにもおよぶ堤防決壊と熊谷市付近の荒川の堤防決壊です。大量の濁流が南下し、東京下町は一気に濁流に飲み込まれました。




葛飾の歴史について解説してあります。

葛飾の歴史

【かつしか】という地名は、古くから使われた呼び名で、日本最初の歌集「万葉集」にも登場します。文献による初見史料としては、校倉造りで有名な奈良東大寺正倉院に保管されている養老五年(721年)「下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」にその名を認めることができます。この【下総国葛飾郡】は、大宝元年(701年)に大宝律令に基づいて区分けされました。郡域は現在の千葉・埼玉・茨城県と東京都の一部を含む南北に長い範囲でした(図D)

その後、【下総国葛飾郡】は【武蔵国葛西領】となり、明治二年(1869年)【小菅県】、同四年(1871年)廃藩置県で【東京府】となり、同十一年(1878年)郡区町村編制で【東京府南葛飾郡】となりました(図E)

明治二十二年には、後に葛飾区となる7か町村が編成され、昭和七年(1932年)【東京市葛飾区】同十八年(1943年)【東京都葛飾区】となり、現在に至っています。

奥戸の由来

「奥戸」は「奥津」が変化した地名です。「津」は港津をあらわし、対岸へ渡ることのできる渡し場を意味するものと言われています。地名に「戸」の字がつくところは、渡し場のようなものが設けられていた地域が多く、川を利用した舟運が発達していました。江東区の「亀戸」葛飾区の「青戸」台東区の「今戸」は、「亀津」「青津」「今津」、千葉県の「松戸」は「松里津」として記録があります。中世の文書の例としては、関東管領上杉憲実の家臣である藤原家定が鎌倉八幡宮に寄付した文書で、「奥津」が登場しています。19世紀の江戸幕府の官選地誌「新編武蔵風土記稿」による戸数は、奥戸村90戸、奥戸新田村82戸でした。明治十年代の「皇国地誌」による戸数・人口は、奥戸新田村109戸・521人、奥戸新田村85戸・440人でした。農業が主体でしたが、両村で荷船30・漁船3艘を有しており、河川との深い関わりを知ることができます。




奥戸と中川について解説してあります。

奥戸と中川

東葛西領用水絵図は、江戸時代の用水体系が描かれた絵図になります。図で黒く示されたものは堤を表しており、上流に描かれている小合溜井は現在の水元公園となります。この小合溜井は、享保十四年(1729年)に八代将軍徳川吉宗の命を受けた【井澤弥惣兵衛】によって整備されました(絵図@)

井澤弥惣兵衛は、紀州藩出身の治水技術者で幕府の新田開発や治水事業に係わっています。埼玉県の見沼代用水や千葉県の手賀沼なども井澤弥惣兵衛によって整備されました。奥戸地域を含めた中川についても、井澤によって河川改修が行われています。この河川改修では、享保十七年(1732年)に奥戸〜諏訪野間に新しい河道を開削しており、河道を切り替えることにより、河道の直線化が図られました(絵図A)

現在地であるこのビュースポットも、旧河道だったことがわかると思います。この旧河道は、現在、南北ともに葛飾区奥戸総合スポーツセンターが位置しています。




中川の過去と現在を比較して解説しています。

過去と現在の中川

奥戸地域が位置する東京低地は、荒川、中川、江戸川などの大河に囲まれ、何度も大きな洪水や高潮などの水害に襲われてきました。そのため、この地域では、河川・高潮堤防などの整備が進められ、現在では、水害は軽減されています。現在、防潮堤や護岸、水門・排水機場等は、昭和三十四年(1959年)に国内で最大の高潮被害をもたらした伊勢湾台風と同じ規模の台風が、東京湾に最も被害をもたらすコースを進んだ場合に発生する高潮に対応できるように整備されています。また、地震による護岸損傷が原因で起こる災害を防ぐため、耐震補強工事も行われています。さらに、近年では環境に配慮した整備と保全にも力を入れています。環境と調和した潤いある豊かな水辺空間を実現するため、水辺のテラス整備が進められています。




奥戸スポーツセンターは、体育館・陸上競技場・野球場・温水プール・エイトホール・テニスコート・少年野球場などのスポーツ施設で構成され、昭和五十九年(1984年)に体育館が、昭和六十年(1985年)に陸上競技場が、令和三年(2021年)にその他の施設が完成しました。



体育館には、2、000uの床面積と約496人収容の観客席が付属する大体育室と、750uの床面積の小体育室があります。大体育室は、バスケットボール2面・バドミントン12面・バレーボール3面・卓球32台・ソフトテニス3面・フットサル2面・ハンドボール2面・インディアカ12面に利用できます。小体育室は、バスケットボール1面・バドミントン4面・バレーボール(練習用)2面・卓球12台・ソフトテニス1面・インディアカ4面・バウンドテニス5面に利用できます。



陸上競技場は、全天候舗装のトラック・走り幅跳び・走り高跳び・棒高跳び・砲丸投げなどの陸上競技種目だけでなく、サッカーも行えるフィールドを備えた施設です。トラックは、1周400m(第4種L【ライト】公認陸上競技場)で8コースあり、直線85m・直走路115mの仕様です。フィールドは、サッカー:105mx68m(人工芝)、走り幅跳び・三段跳び:助走路60m・幅4.02m・1カ所2方向・砂場(8mx5.55m)2カ所、走り高跳び:助走路扇形・2カ所棒高跳び:助走路45m・幅1.22m・1カ所2方向、砲丸投げ:1カ所(落下域グリーンストーン舗装)の仕様です。観客席は、メインスタンド:約1、000人収容、芝生スタンド:約2、000人収容となっています。



ポイント4 奥戸天祖神社

奥戸天祖神社の創建年代は不明ですが、葛西御厨が成立した長寛三年(1165年)以降に伊勢皇大神を勧請し、また下総の香取・鹿島のニ神を勧請して三社明神と称し、奥戸村の鎮守になったといわれています。



拝殿前の2本の石柱に巨大なしめ縄が渡されています。

葛飾区登録無形民俗文化財
大しめ縄神事

奥戸天祖神社で毎年10月に行われる祭礼「大しめ縄神事」では、稲藁を用いて、約6mにもおよぶ大しめ縄を作り、「アクマバライ」と称して旧村内を担いでまわります。以前は「雄じめ・雌じめ」と呼ばれる2本の縄を作り、旧村内をまわった後、神社境内にあった榎に掛けられていました。その後、大しめ縄は1本となり正面鳥居に掛けられ、さらに平成九年には氏子によって新たに石柱が立てられ、ここに掛けられるようになりました。大しめ縄には、氏子の各家から持ち寄った稲藁を用いていましたが、今日では、区内で稲作がほとんど行われなくなったため、材料の稲藁は千葉県から入手しています。神社には祭礼の記録である「年番帳」が嘉永年間(1848年〜)以降から保存されています。それによると、祭礼は明治二十七年(1894年)までは「舞社神事」として2月1日に行っていましたが同二十八年からは取決めによって10月に変更したことがわかります。




奥戸連句碑には何やら書いてあるのですが、全く読み取れません。

区登録有形民俗文化財
奥戸連 句碑

本体の高さ159cm、幅(下端)50cm、奥行11cm。台石の高さ22cm、幅66cm、奥行43cm。題字は「趣長辞短」で、その下を4段に区切り、奥戸を中心とした人々の俳句を各宗匠撰別に列挙してあります。右下の欄外に「明治二十年亥一月吉辰」、左下の欄外に「関 清太郎謹書・当村石工 遠田清吉彫刻」とあり、この地域に俳句が盛んであったことをしのぶことができます




ポイント5 八劔神社

環七の奥戸陸橋下を抜けた先に八劔神社があります。八劔神社は天文五年(1536年)の創建で、三河国碧海郡西端村の郷士杉浦小左衛門が此の地を開拓するに際し、守護神として勧請したものと伝えられていて、旧奥戸新田の鎮守社でした。

葛飾奥戸鎮座
八劔神社 御由緒

御祭~  日本武尊(やまとたけるのみこと)

 相殿(熊野様)  伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
          伊邪那美命(いざなみのみこと)
          須佐之男命(すさのおのみこと)

天文五年(1537年)下総の国葛西郷の当地に三河の国より勧請され、八劔宮として祀られた。旧奥戸新田の鎮守社。

御本宮は、熱田神宮(あつたじんぐう)

本宮である熱田神宮の御鎮座は、今からおよそ1900年前、日本武尊の神剣を熱田の地に奉斎したことに起源する。その後、伊勢神宮に次ぐ格別尊貴の大社として皇室の御尊敬をあつめ、現在年間の参拝者は約一千万人にのぼる。




八劔神社の旧社殿は文久三年(1863年)9月に建造され、以後氏子の努力により荘厳さを誇っていましたが、損傷甚だしくなった為に昭和四十七年(1972年)10月に造替されました。現在の社殿は五代目に当たります。

社殿御造営記念碑

當八劔神社は古くから、日本武尊・伊邪那美命を祭神とした由緒ある社である。旧社殿は文久三年の建造であり、氏子各位の丹精により約百拾年の間その壮厳さを誇っていたが、近年に至り損傷甚だしく、今回区画整理を期に社有地を処分し、新しく造営したものである。この社有地は裏面に記す八拾名の方々が永年管理に当ったもので、これを基金とし、一般奉納者の浄財を以ってこの造営費に充てたものである。依って之を後世に伝へると共に建設委員の労をも記念するため、この碑を建立するものである。




八劔神社には、棟札と板絵着色裸参り絵馬額のふたつの文化財が収蔵されています。

区指定有形民俗文化財
板絵着色裸参り絵馬額

この絵馬額には、右端に水盤舎、左上部に斜め右向きの社殿、その間には明神鳥居と太いごぼうじめ(しめ飾りの一種)を渡した樹木2株、右寄り上部に末社1宇が描かれています。参道には40人余の男が裸姿で社殿に向かい、左下の池では5人の男が禊をし、そのうちの1人は袋入りの神宝の剣と思われるものを持っています。右上には現在は判読できませんが「奉献」と書かれていました。祈願の内容は明確ではありませんが、禊の意をこめた裸参りのありさまを示しています。

●材質 桐  ●大きさ 高さ71.0cm 幅138.0cm

区指定有形文化財
八劔神社棟札

寛永六年(1629年)奥戸新田の惣百姓、惣氏子が「矢劔大明神」を再興した時の棟札です。材質はヒノキで、以下のような墨書銘があります。上部には阿弥陀種子、中央に「奉再興矢劔大明神一宮遷宮郷中繁栄祈所」、右に「下総国葛西庄奥戸新田宮職宝蔵院法印海運」、左に 「寛永六年九月二十五日遷宮之導師上小松正福寺法印空空鑁」とあります。葛飾郡は近世初期に「下総国」から「武蔵国」に変わりますが、これは寛永六年において、まだ葛飾郡が「下総国」に属していたことがわかる史料です。

●材質 ヒノキ  ●大きさ 高さ70.1cm 幅27.3cm




参道の右横に昔使っていた石灯籠が2基置いてあります。文政元年の奉納ですが、右側の石灯籠は度重なる災害による損傷で上部が折れて復元不可能となり、現役引退となっています。石灯籠の前には力石が6個置いてあります。右から「三拾」・「三拾八貫」・「六十五貫目」・「五十八貫目」・「五十五貫目」・「正目六十五貫余」とあり、奉納者や持ち上げた人物名はほぼ読めないか消えています。現在の単位では、重さはそれぞれ、112.5kg・142.5kg・243.75kg・206.25kg・243.75kgです。想像もつかない重さですが、例えば67代横綱の武蔵丸が237kgですから、それ以上を持ち上げる怪力がこの辺に居たことになります。ホントかなぁ。

石灯籠

この御神燈は、文政元年(1818年)十一月当神社の氏子により建立。安政二年(1855年)十一月十一日安政大地震により被災。再建するも大正十二年(1923年)九月一日の関東大震災により倒壊し修復したものであったが、平成二十三年三月十一日東日本大震災で一部損壊。加えて平成三十年九月三十日の台風に寄る倒木に触れ転倒。復元が不可能となり、その歴史を留める為、移築して遠く御先祖の方々を偲ぶものである。




ポイント6 宝蔵院

八劔神社に隣接して、宝蔵院があります。宝蔵院は、青旧山和光寺と号し、応永二年(1395年)に開山しました。その後天文七年(1538年)の国府台合戦の戦火により伽藍は焼失しましたが、慶長十七年(1613年)に海運法印によって中興しました。真言宗豊山派の寺院で、八剱神社の旧別当寺でした。



境内には薬師堂があり、薬師如来が安置されています。これは、宝暦事件の首謀者竹内式部の門下生で、公家の徳大寺公城の家臣だった本堂良喜と公城の娘が宝蔵院に落ち延びて仏門に入り、薬師如来を安置して師匠の菩提を弔ったものです。このような経緯から、いつしか宝蔵院は「式部薬師」と呼ばれるようになりました[

葛飾区指定有形文化財
木造薬師如来立像

木造薬師如来立像は、宝蔵院薬師堂の本尊として安置されています。台座・両手ともすべて一本の木から彫刻された一本造りで、左手胸前で薬壷を持っています。像の高さは22.5cm、光背は31.8cmです。宝暦のころ、王政復古を唱え、その後の尊王思想に影響を与えた竹内式部の門下で徳大寺公城の家臣である本堂良喜は、宝暦事件(宝暦八年=1758年)の際京都をおわれ、当寺に身を寄せていました。その良喜の後を追い、公城の娘妙姫は師の式部から拝領の薬師仏を安置し師の冥福を祈ったと伝えられています。この像が式部薬師と呼ばれ信仰されているのは、この様な由来に(寄?)よるものです。小像ですが制作も古く、広く信奉された像として後世に伝えたいものです。




秋には1000本以上の彼岸花が咲き、石仏群を背景に神秘的な美しさをたたえます。

仏縁之碑

この一群の石仏は、昔それぞれ供養されていましたが、現在はだれひとり参拝する者のない無縁様となっています。また、明治維新の際の廃仏毀釈の風潮のもとで、心ない者たちによって、泥土に埋められた石仏もあります。このたび、これらの哀れな野仏様を掘り起こし、ここにお祀りいたしました。われわれの後生の仏縁のために供養し、御加護を祈願いたします。
  昭和五十九年九月吉日 本堂庫裡(くり:禅宗寺院における台所のこと)新築を記念してこの碑を建てます。




仏足石は、釈迦の足跡を石に刻み信仰の対象としたものです。手前の石板に素足で立つみたいですが、靴底が落ちている。。。



山門の脇に「新四国八拾八ヶ所」と刻まれた石柱があり、その側面には「二十四番土州東寺写」とあります。土州東寺は、高知県の最御崎寺(ほつみさきじ)のことです。



宝蔵院には、作家井上靖の自筆による史碑と歌人柳原白連の自筆による歌碑が建っています。



井上靖の碑には、本堂良喜と妙姫が住職と共に討たれ、鐘楼が失われた後、昭和三十八年に再建され、中川放水路の開削によって水没した土地を供養する鐘の音となったという内容が記されています。

宝暦の頃、国事に勤むる男女この寺へ逃れしが捕吏の襲うところとなりて、当寺の住職と共に討たれしという哀史傳われり。寺鐘の失われしはその頃のことにして、爾来堂宇荒廃のまま、時移り、世は変り、今日まで鐘楼建つことなし。昭和の住職関谷宣雄師、鐘楼再建を発願して多歳、浄財を得て昭和三十八年春、和光の鐘楼の建立を見る。往古迦膩式迦王悪龍の請に依って伽藍を建て、鐘を打ってその瞋心を息むという。諸々の悪龍の瞋心ここに息むべし。時恰も新中川放水路開鑿に当たり、宝蔵院はその流れの岸に臨めり。晨夕の鐘声は水底に没せし農家、耕地のためにまた新しき供養の意味を持つと謂うべし     井上靖



昭和三十八年には東方に中川放水路が完成し、その記念に中川を望む堤上に「和光の鐘」を吊った鐘楼が建立されたそうです。



柳原白蓮は、大正から昭和時代にかけての歌人で、本名は宮崎Y子といい、大正三美人の一人です。父は柳原前光伯爵、大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、大正天皇の従妹にあたります。柳原白蓮は白蓮事件で知られています。白蓮事件は、大正十年(1921年)10月20日に筑豊の炭鉱王伊藤伝右衛門の妻であった時に、柳原白蓮が滞在先の東京で出奔し、社会運動家で法学士の宮崎龍介と駆け落ちした事件です。戦後間もない昭和二十一年(1946年)、白蓮事件をモデルとした原節子主演の映画「麗人」が公開され、主題歌の「麗人の歌」が大ヒットしました。「Y子」という名前は、父の前光が華やかな鹿鳴館で誕生の知らせを聞いたことから名付けられたものです。

衆生あり
   祈願成就の
   よろこびを
代々に伝えし
   御仏ぞこれ




八剣橋は、新中川に架かる橋のひとつで、東岸の奥戸九丁目と西岸の奥戸八丁目を結んでいます。橋名は西岸の奥戸八丁目に所在する「八剱神社」から名付けられました。八剣橋は昭和三十四年(1959年)9月に、新中川掘削工事に伴い架橋されました。その後、昭和五十一年(1976年)に下流側に長さ120.3mの八剣橋人道橋が架けられ、人車分離となりました。新中川に架かる八剣橋と八剣橋人道橋は完成から50年以上が経過し、老朽化が進んでいるため、橋の架替事業が行なわれています。歩行者・自転車の通行の安全性や防災性の向上、維持管理費の軽減を目的とし、現在は八剣橋と八剣橋人道橋の撤去工事が進んでいます。既に橋の土台は一部設置済みで、完成は平成三十七年(2025年)の予定です。



八剣橋人道橋は仮設の橋が架けられ、地元住民の便宜を図っています。



ポイント7 奥戸ローズガーデン(フラワーパーク)

奥戸九丁目にある奥戸フラワーパークが、令和三年(2021年)4月7日に「奥戸ローズガーデン」としてリニューアルオープンしました。



奥戸ローズガーデンは葛飾区が管理する公園で、豊富な品種のバラや四季を通じて楽しめる植物が植えられているイングリッシュ風ガーデンです。近隣は住宅に囲まれていて、周りに高い建物もないため抜群の日当たりで、日向ぼっこをしながらゆっくりするのにぴったりの場所です。



東屋もあり、夏には暑い日差しを避けて休息することもできます。



奥戸ローズガーデンにはバラを中心に、50種類以上の植物が植えられています。品種ごとにプレートが添えられていて、それぞれのバラの名前を知ることもできます。「ヨハネパウロ2世」は、きりっとしたフレッシュシトラスの芳香と白バラには少ない花の大きさ・ボリューム感・花形のどれをとっても優れたバラです。光沢のある純白の花弁は、高貴な法衣姿を偲ばせます。このバラは、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の偉業を称え、バチカン法王庁がバチカン庭園に植樹する為に選ばれました。「マダムヴィオレ」は、寺西菊雄によって1981年に日本で作出されました。藤色またはラベンダー色の花を咲かせる四季咲きの青バラで、紫色のバラが好きだった美空ひばりが愛したバラとして知られています。



「プリンセス・ミチコ」・「プリンセス・アイコ」など皇室にまつわるバラや、「オリンピックファイアー」・「聖火」といった東京2020オリンピックパラリンピックにまつわるバラなど、さまざまな種類があり、名前を見て回るだけでも楽しめます。バラの見頃は5月〜7月頃ですが、ガーデンにはバラ以外の植栽も豊富にあり、年中花を楽しむことができます。

東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会を記念して

ここに植栽した’オリンピックファイヤー’、’聖火’は、東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会を記念して植えられました。’オリンピックファイヤー’は、オリンピックの聖火の炎を想わせるような鮮やかな朱紅色のバラです。’聖火’は、白地に濃いローズ色の覆輪が、開花するにつれ全体に燃えるように赤みが増します。2品種ともオリンピックの聖火台の炎を思い出させます。東京2020大会への思いを永くここに留めたいと思います。




新金貨物線を渡った(今日はこれで3回目)先に細田神社があります。細田神社は、元禄年間(1688年〜1704年)頃に創建されました。元禄の頃に曲金村から分村した細田村の鎮守であり、東覚寺が別当寺でした。境内社として水神社と北野神社があります。現在の社殿は、昭和四年(1929年)に修復されました。



境内に「土地改良[区画整理]記念碑」が建っています。

土地改良[区画整理]記念碑

新中川沿岸第二土地改良区の地区は、葛飾区細田町・諏訪町及び奥戸新町・鎌倉町の一部、並びに江戸川区上一色町の五ケ町にて、江東三区の中央に位置し、東京港北方約六粁の地域に拡がる農耕地125ヘクタールであって、都下有数の農耕地帯であったが、昭和二十三年新中川放水路が本地域の中央を南北に貫流することが計画されたため、本地域内の排水幹線および道路は完全に分断されることになったため、各地元の有志が相計り土地改良事業による区画整理の施行を発起して、昭和二十九年三月土地改良区の設立が実現した。ここにおいて直ちに大事業である工事に着手し、昭和三十五年に所期する全工事を整然と竣工することが出来た。工事完了後は多様な権利義務関係の調整等幾多の困難もあったが、組合員の協力を得てこれを克服し、換地計画並びに登記を完了させて昭和四十六年三月この大事業を完成した。事績は移り変る社会情勢の中にあって、農業経営の合理化はもとより、市街地との調和を果たしながら、郷土史の一頁を飾り、永く後世に残されて行くことを念願し、この記念碑を建立したものである。




この辺りは、かってキャベツの生産地として知られていました。

江戸・東京の農業 中野甘藍

キャベツ(和名・甘藍)が野菜として日本に入ってきたのは明治の初年、涼しい気候を好む野菜なので秋に収穫されていました。明治十五年頃、西洋野菜の将来性に注目していた細田の篤農家・中野藤助は、苦心してキャベツの品種を集め、10数年間にわたり栽培研究に没頭しました。明治三十年頃になると、藤助の予想通り、キャベツの需要が急増してきましたが、初夏には貯蔵キャベツも無くなるため、秋にタネをまいて春どりすることができないものかと、輸入種の中から優れた品種をみつけて改良を続け、ついに秋にタネをまき春収穫できる品種の育成に成功しました。明治三十五年、藤助は東京府立農事試験場金町分場や国の農事試験場にも試作を依頼し、優秀であると絶賛され「中野甘藍」と命名し不動のものとしました。明治四十四年には近隣の農家に栽培が広がり、南葛飾郡内の栽培面積は45ヘクタールに達し、特に中野甘藍は暖地に適した品種なので、以後、大正の初期にかけて九州や四国を始め全国に広まるなど、日本でのキャベツ栽培の基礎を築きました。

THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Nakano Cabbage

Cabbage was introduced into Japan around 1868. Being a crop for cool climate, it was usually grown and harvested in autumn. Around 1882, Tosuke Nakano, an outstanding farmer of Okudo, had a promising outlook on the future of European vegetables and devoted himself over ten years in the researches on the cultivation of a number of cabbage varieties he collected from various parts of the world. As he expected, demand for cabbage increased toward 1897 and, then, he finally succeeded in developing a new variety which could be sown in autumn and harvested in spring just before the ordinary cabbage was gone toward early summer. Since the Nakano cabbage was compatible with warmer climate, it was rapidly extended over to other districts including Kyushu and Shikoku toward the beginning of Taisho Era and, thus, greatly promoted cabbage production in Japan.




細田神社から「東用水せせらぎ通り」を進みます。小岩用水・東井堀・中井堀・西井堀は、いずれも葛飾区水元の小合溜井を水源として江戸時代に整備された用水路で、農業用水や物資の輸送路として利用されてきました。東用水というのは東井堀の別名です。用水路としての役目を終えた東井堀は、ほとんどが道路になりました。細田一丁目22から高砂二丁目19までの間は「東用水せせらぎ通り」として、歩道・緑・花・小さなせせらぎが整備されています。



かって東井堀に架かっていた橋の痕跡も残されています。



ゴール地点の京成高砂駅に戻ってきました。



ということで、葛飾区で九番目のコースである「H高砂・奥戸エリア」を歩き終えました。次は葛飾区で十番目のコースである「I西水元エリア」を歩きます。




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