J亀有・お花茶屋エリア  

コース 踏破記  

今日は葛飾区の「J亀有・お花茶屋エリア」を歩きます。亀有駅をスタート地点として古隅田川の跡を辿り、常磐線の高架下から4つの公園が繋がった西亀有せせらぎ親水公園で銀杏並木を散策します。

J亀有・お花茶屋エリア

「J亀有・お花茶屋エリア」の歩行距離は約4.2km(約6、000歩)、歩行時間は約1時間3分、消費カロリーは約189Kcalです。

スタート地点:亀有駅北口
ポイント1 亀有やわらぎの道
ポイント2 砂原第二公園
ポイント3 西亀有せせらぎ公園
夏は水遊びを楽しむ子どもたちでにぎわい、秋になるとイチョウ並木が鮮やかに色づく。
ポイント4 中道公園
ポイント5 普賢寺
1180年に葛西清重が創建したと伝えられる古刹。
ポイント6 お花茶屋商店街
毎日15時〜19時まで歩行者天国。学校帰りの学生や親子連れなどの買い物客でにぎわう活気ある商店街。

ゴール地点:お花茶屋駅北口


スタート地点の亀有駅北口から歩き始めます。



亀有といえば、漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」ですね。駅周辺には、両津勘吉を始め、物語に出てくる多くのキャクターの銅像が建っています。南口には、「両津・中川・麗子がお出迎え!像」と「両津勘吉 祭り姿像」がありますが、北口には「両津勘吉像」と「麗子像」があります。

こちら葛飾区亀有公園前派出所
両津勘吉像

1976年に「週刊少年ジャンプ」(集英社)で連載を開始して以来、亀有のみならず全国の人々に愛され続けている「こちら葛飾区亀有公園前派出所」。30年もの長きにわたり多くの笑いと感動が生み出されています。物語の舞台であるここ亀有には、主人公の両津勘吉巡査長が毎日勤務している派出所があります。この像は、物語の主人公「両さん」が亀有を訪れる人々にとってより身近に感じられるようにとの願いをこめて建立されました。




すぐ近くには「麗子像」があります。秋本・カトリーヌ・麗子は、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」に登場する架空の女性警察官で、作品のヒロインです。日本人とフランス人のハーフで、アニメ版ではミドルネームが省略されて秋本麗子と表示されますが、原作・ドラマ版では「秋本・カトリーヌ・麗子」が使用されています。新葛飾警察署交通課所属で、亀有公園前派出所に勤務している設定になっています。



最近、街中でも見かけるようになった「だし道楽」の自動販売機があります。ペットボトル入りの出汁を自動販売機で売るという発想はなかなか浮かびませんが、街中で見かけるようになったというのはそこそこ売れているからなのでしょう。だし道楽とは、広島県江田島にある二反田醤油が製造する万能調味料です。醤油・酒・みりんを合わせることなく、だし道楽だけで簡単・便利に本格的なお出汁を作ることができます。長崎県近海で漁獲される「とびうお」のことをこの地方では「あご」と呼び、炭火で焼いたものを最高級のだしとして珍重してきました。この「焼きあご」をオリジナル醤油をベースにペットボトルの中に丸々1匹入れることで、「焼きあご」の上品であっさりとした甘味と旨味が出汁に広がっています。だし道楽には、焼きあご入りの他に昆布入りと焼きあご・宗田節入りがあります。



亀有北口一番街商店街の先で左折し、亀有血液センター入口交差点から曳舟川跡の桜並木を常磐線の高架まで進みます。



歩道脇に、曳舟川の案内板がふたつ建っています。ひとつは、「昭和六十二年当時の曳舟川の面影」と題されています。当時の川筋の各地の様子を映した写真と、下の2枚には説明書きが添えられています。

槐戸堰

曳舟川の水位を「角落し」という板で調整し、他の水系に水を分配するために、用いられていました。

槐戸枝圦

昔は、曳舟川の水を農業用水として使うために、その取入口としてつくられましたが、近年の都市化に伴ない、排水路の施設として使われていました。

「圦」とは、水の流れを調整する土手に埋められた樋のことです。




もうひとつは、「亀有」と「曳舟川」の歴史について解説してあります。

■亀有(かめあり)

「義経記」治承四年九月十一日兵衛佐頼朝、隅田川を越し拾うの条に「頼朝が多勢、この二三日水にせかれて渡しかねたるに、水の渡り浮橋をくんで頼朝が勢を武蔵国王子板橋につけよとぞ給ひける。江戸太郎うけ給りて首をめさるるとも、いかで渡すべきと申所に、千葉介、葛西の兵衛をまねきて申けるは、いざ江戸太郎を助くとて両人が知行所、今井、くり河、亀なし、牛まと、と申所より海士の釣舟を数千艘のぼせて石浜と申所は江戸太郎が知行所なり」云々とあり、「応永五年葛西御厨注文」「永録二年北条分限帳」いずれも「亀なし」とし、「亀無」「亀梨」の文字が用いられている。「義経記」の信疑は別として、江戸時代以前には「亀なし」と呼んでいたらしい。語源の由来については諸説区々として不明だが、従来「なし」を「あり」に改める例は決してすくなくない。梨の実を「ありの実」といい、すり鉢を「あたり鉢」と称するのもその一例である。亀なしの「なし」もその言葉を忌みきらって正保元年(1644年)幕府の国図作製の際、「亀有」に改められたものであろう。ともかく室町時代すでに起立のあった古い土地であることは事実で、江戸時代には村の中央に水戸街道が通じ、隣接新宿町の問屋場の繁栄と相俟って相応に栄えた農村である。

■曳舟川(ひきふねがわ)

この川は、農地開発のため、万治三年(1660年)関東代官伊奈半左衛門忠克が幕命によって開さくした「葛西用水」(延長70km。埼玉県羽生市で利根川より取水。同県東部と東京都東北部にまたがる。)のことで、葛飾区では、古くから”曳舟川”と呼んできました。この川が”曳舟川”と呼ばれるようになった由来は、人や物資を輸送するため、舟になわをかけ人や牛馬が引いたことにあります。従って、灌漑だけでなく運輸にも活用され、地域にとって極めて重要な川であったことが物語られています。このようなことから、曳舟川は、古くから多くの利用が盛んでありましたが、都市化が進むとともに耕地は徐々に減少し、商工業の発達により次第に雨水や家庭雑水の排水路に変わりました。区では昭和四十八年から下水道整備が始まり、その普及とともに、雨水や家庭雑水は下水道で処理されるようになり、曳舟川は、排水路としての機能がうすれてきました。このたびの事業は、「水と緑ゆたかな心ふれあう住みよいまち」をつくる一環として曳舟川を地域の環境軸とし、道路や公園に置き換え、快適で潤いある環境となるよう計画しました。この場所は、とりわけ、この事業計画の第一番目の実施区間であり、道路の利便性を考慮するとともに歩道幅を比較的広く取り、樹木植栽を施し、地域の貴重な都市空間となるよう配慮いたしました。




スーパー前の植え込みに、両津勘吉の「敬礼両さん像」が建っています。両津勘吉は、剛毛の角刈りの髪型に繋がった眉毛が特徴で、無精髭を生やしています。靴と靴下を履かず、常時サンダル履きです。制帽は滅多に被りません。夏は原則半袖ですが、旧制服では夏服の際に長袖を捲り上げたような服装を主とし、冬でも長袖を捲り上げた姿で生活をしています。



東部地域病院沿いの桜並木を進みます。都立東部地域病院は、平成二年(1990年)7月27日に三共亀有工場跡地に、区東部の墨田区・江東区・足立区・葛飾区・江戸川区をカバーする314床の地域医療支援病院として開院しました。「断らない救急」を目指すと共に、大腸癌や胃癌を始めとする癌医療に積極的に取り組んでいます。



ポイント1 亀有やわらぎの道

亀有やわらぎの道は、常磐線沿いに設けられた桜並木が続く緑道です。



一之台中学校の角で左折します。ここから常磐線の高架までの区間はかって武蔵国と下総国の国境を流れていた古隅田川の流路の跡で、今は「古隅田川緑道」として整備されています。古隅田川緑道は、葛飾区と足立区の共同事業として整備され、葛飾区・足立区の両区民の安らぎの場を創出する出会いの川・古隅田川をテーマとしています。水路にはコイやメダカの泳ぐ姿を見られるほか、春には、水路沿いのデッキから満開の桜並木をみることができます。古隅田川は足立区と葛飾区の境を流れる流路延長5.45kmの河川で、葛飾区亀有三丁目で中川と分かれ、葛飾区小菅三丁目で綾瀬川左岸に合流します。現在は下流部の一部を除き暗渠となっています。東京拘置所付近に延長1.1kmに亘り、綾瀬川の開削で分断された旧流路跡(裏門堰親水水路)が残っています。かつて、隅田川は利根川の下流に位置していて、武蔵国と下総国の境界線となっていました。埼玉県と東京都にあるふたつの古隅田川は当時の利根川〜隅田川の一部であり、現在の河川に則すれば、古利根川から古隅田川(埼玉側)・元荒川・中川・古隅田川(東京側)・隅田川という流れが利根川及び荒川の本流であったと考えられます。歩道の脇に、古隅田川に架かっていた東隅田橋の親柱が再現されています。その横に、「古隅田川総合案内」の碑が建っています。

古隅田川(足立・葛飾区)総合案内

<概要>
古隅田川はかつて利根川の流末の一つで、豊かな水量をもつ大河でありましたが、中川の灌漑事業等により水量を失い、やせていったものと考えられています。近代に至っては、雑排水として利用されてきました。現在は下水道の整備によって、排水路としての使命を終え、荒川と中川を結ぶプロムナードとして期待されています。また、古隅田川は古来、下総国と武蔵国の境界であるとともに、人と人との出会いの場でもありました。そこで、古隅田川に水と緑の景観を再生するため、「出会いの川、古隅田川」をテーマに、失われた生物を呼び戻し、潤いのある人と人との交流と安らぎの場を創出したものです。

<位置>
当施設は中川から綾瀬川、そして荒川を結ぶ範囲の足立区と葛飾区の区境にほぼ重なっており、古隅田川は中川と綾瀬川を結び、裏門堰は荒川と綾瀬川を結んでいます。また、古隅田川に隣接して5つ公園があり、河添公園・下河原公園は足立区に、袋橋公園・白鷺公園・小管万葉公園は葛飾区に位置しています。

<延長>
古隅田川 約5,450m
裏門堰  約1,100m




歩道の脇には古隅田川の流路もミニチュアですが再現されています。



ポイント2 砂原第二公園

常磐線の高架下を抜けた先に砂原第二公園があります。



砂原第二公園は、園内の中央に道路が通っていて、南北2区画に分かれています。北側の区画には大きなお城を模した複合遊具・幼児向遊具、大きめの砂場などカラフルな遊具が散りばめられています。通称「お城公園」と呼ばれている地元で人気の公園です。



南側の区画には、つぼ押しイスやはだしで歩く散歩道、木のテーブルとベンチがあります。小さな子どもから大人まで、楽しく遊べる公園となっています。



砂原第二公園の中央を通るのは、かっての水戸佐倉道です。

水戸佐倉道

かつて武蔵と下総の国境であった古隅田川が流れていたこのあたりは、江戸時代には千住宿から分岐した水戸佐倉道が通っており、葛飾区新宿で水戸道と佐倉道に分かれていました。現在は西亀有という町名ですが、江戸時代には上千葉村・砂原村といいました。この周辺では、東京低地で数少ない中世の屋敷跡が発掘されており、十四世紀頃から集落があったと推定されています。上千葉・砂原という地名は、現在でも学校や公園の名前として残っています。




砂原稲荷神社は、此の地に砂原村が開村した慶長年間(1596年〜1614年)に鎮座したと伝えられます。「砂原」という地名は元禄時代に初めて現れ、江戸時代初期に開墾された土地と推定されています。地名の由来は、昔この辺一帯が砂原の地であったため、最初は「砂地カ原」と呼ばれ、それが「砂っ原」になり、やがて「砂原」になったものといわれています。この地は、東京低地が陸化する際に後退した海岸線付近に形成された砂州が発達していて、そのような事情が影響しているものと思われます。なお、砂原は江戸期〜明治二十二年までは「砂原村」でしたが、明治二十二年〜昭和七年の間は亀青村大字砂原と南綾瀬村大字砂原のふたつに分かれ、昭和七年葛飾区の誕生と共に、それぞれ砂原町上千葉町となりました。昭和四十年10月の住居表示の実施により、旧町名の砂原町が現在の西亀有一丁目〜四丁目に改められました。



藤塚西公園と藤塚東公園は、「西亀有せせらぎ公園」と繋がっていて、合わせて利用できる大きなエリアを構成しています。藤塚西公園は通称「ロケット公園」と呼ばれ、地域の方に親しまれている公園です。公園内にはピラミッド状の滑り台になっている築山や、ロケットの形をした背が高く長い滑り台、船の形をした背が低めなジャングルジム、回転扉の仕掛けがある鉄製迷路など個性的な遊具が多種多様に有ります。砂場は犬や猫が入れないように柵があるので衛生的です。藤塚東公園には、公園中央に芝生のエリアがあり、それを囲むように遊具やベンチ・園路が整備されています。遊具はブランコ・スプリング遊具・健康遊具が設置されています。



ポイント3 西亀有せせらぎ公園

西亀有せせらぎ公園は、昭和五十六年10月1日に開園し、面積は8、500uあります。かつて農耕地の水路として使われていた場所を整備して造られ、亀有一丁目から三丁目にまたがる4つの公園(藤塚西公園・藤塚東公園・中道公園・上千葉砂原公園)とつながるT字型の親水公園です。

西亀有せせらぎ公園

かつて、この地域は水田を中心とした農耕地であり、そのかんがい用水として、また後には雨水及び雑排水の排水路として、当西亀有せせらぎ公園の真中を水路が通っていました。その水路も下水道施設の整備により利用されなくなり、地域の環境改善を目指して、ここに水と緑を配した公園が造成されました。水の流れを取り戻し、水とたわむれ、緑の中で憩う場として、また付近に散在する上千葉砂原公園、中道公園、藤塚西・東公園、をつなぐ散策道として整備されたものです。この西亀有せせらぎ公園の面積は8、500平方メートルあり、水の流れの総延長は約400メートル、植栽面積は約5、000平方メートルあります。幅約2メートルの人工水路の流れは園内4箇所に設けた地下貯水槽に水を溜め、ポンプによって水を上げ循環させています。




夏場は水遊びをする子供たちで賑わいます。人工水路の水深は浅く、シャワーもありますので小さいお子さんも安心して水遊びを楽しむことができます。



春には数種類のバラが咲き誇り、秋にはイチョウ並木が見事に色づき、訪れる人の目を楽しませてくれる遊歩道があります。



「カンタン」とは聞き慣れない名前ですが、「鳴く虫の女王」と呼ばれる程人間には心地よい鳴き声を発する虫なんだそうです。

「鳴く虫の女王」カンタンの里
鳴き声「ルルルル・・・」

ここはカンタンの生息地です。「カンタン」は7月下旬から10月まで鳴き、その鳴き声は高く澄んでおり、「ルルルル・・・」と人間の耳に快く聞こえるため、「鳴く虫の女王」と呼ばれます。カンタンは、ススキ、ヨモギ、フヨウ等の背の高い草むらに生息します。

カンタンの里とは

カンタンは、かつては葛飾区内にたくさん生息していました。しかし、都市化の進展にともない、カンタンの生息環境として必要なクズやヨモギなどの植物の茂る草むらが減り、一時は区内の一部でしか姿をみることができなくなってしまいました。

こうしたことから、葛飾区では、平成五年にカンタンの保護を目的とした「カンタンの生息地」を試験的に青戸平和公園の一角に設けた結果、カンタンが確認されたのを受けて、さらに生息場所を増やすため、平成七年に区内4か所の公園にヨモギ・ハギ・クズなどを植栽した約20u〜30uの「カンタンの里」を設置しました。




カンタンは、こんな小さな虫のようです。

カンタンは、ヨモギやクズなどの茎に卵を産み付けます。除草後の草は撤去せずにカンタンの里内に敷き詰めています。



江戸時代には、この付近の畑から中国渡来の小銭が掘り出されたのだそうです。こんなところまで誰が持ち込んだのでしょうか?

葛飾区指定有形文化財
渡来古銭出土の地

かつて武蔵と下総の国境であった古隅田川が大きく湾曲するこのあたりは、室町時代には木庭袋と呼ばれ、その後は千葉袋となりました。「千葉」という地名は、武蔵千葉氏に由来すると考えられます。江戸時代に入ると「袋」が取れ、上・下千葉村に分村しました。江戸時代後期の嘉永三年(1850年)、上千葉村の住人が自分の畑を耕していたところ、壺に入った古銭を掘り当てました。常滑焼の壺に収められていた古銭は、ほとんどが中国からの渡来銭でした。古銭の種類や壺の作成時期から、13世紀末から14世紀にかけて埋蔵されたと思われます。また、一緒に残されている高札からは出土の状況や、上千葉村の役人が心当たりのある者を探していた様子がうかがえます。これらの古銭、壺、高札は、「出土銭一括 附壷1口  高札1面」として昭和五十五年(1980年)3月に葛飾区指定有形文化財に指定されました。なお上千葉という町名は昭和三十八年(1963年)から実施された住居表示によりなくなりましたが、現在でも学校名や公園名にその名を残しています。




ポイント4 中道公園

西亀有せせらぎ公園の南端から二手に分かれて公園があります。東側は上千葉砂原公園、西側は中道公園です。

【園名の由来】

中道公園は、上千葉砂原町土地区画整理事業により生み出された土地であり、同組合から「中道公園用地」として葛飾区が管理を引き継ぎました。園名の「中道」は、この公園用地の西側にある道路が区画整理以前より陸前濱街道(旧水戸街道)に通じる2本の道を結ぶ道であったことから、この地域では、通称名で「中道」と呼んでいたことなどに由来します。




中道公園は、昭和四十一年4月1日に開園し、面積は7、477uあります。ネットで囲まれたボール遊びができるエリアがある公園で、小学生や少し大きな子どももたくさん遊んでいます。午前中には高齢者がゲートボールを楽しむ姿も見られます。また、ボール遊びのエリアの脇には園路に沿ってせせらぎが流れ、樹木も多くお散歩コースにも最適です。遊具は機関車をモチーフにした遊具やブランコなども設置され、小さな子供から大人まで幅広い年齢の人たちが利用しています。



ポイント5 普賢寺

東堀切にある普賢寺は、治承四年(1180年)に鎌倉幕府創設に尽力した領主の葛西三郎清重によって創建されたと伝えられる寺院です。その後の戦乱で伽藍は焼失しましたが、弘安六年(1283年)に法空によって中興されました。北条氏や千葉氏の庇護の下で順調に発展していましたが、天文七年(1538年)の国府台合戦の戦火により再び焼失し、慶長二年(1597年)になって法印斎海により中興されました。



この寺の境内には、古くから伝わる3基の仏塔「宝篋印塔」があります。鎌倉時代末期のものと推定され、葛西氏の墓ともいわれています。「新編武蔵風土記稿」や「江戸名所図会」などにも記載があり、古くから知られていたことを物語っています。宝篋印塔は都下最古の遺物として、昭和四十三年(1968年)に東京都の有形文化財に指定されました。



案内板が立っています。

東京都指定有形文化財(建造物)
普賢寺宝篋印塔 三基

寺伝によると、この宝篋印塔は鎌倉幕府創設に尽力した豪族葛西氏の墓であろうとしている。「新編武蔵風土記稿」「江戸名所図会」および「葛西志」などにも記載されているように、江戸時代中期にはすでに古碑として著名なものであった。文字は磨滅して判読できないが、指定された三基はともに都内に現存する宝篋印塔としては、室町時代の様式をそなえた優秀なものである。中央塔の総高は190センチメートル、向かって右の塔は124.2センチメートル、向かって左の塔は183.4センチメートルある。なお、前記の江戸時代の記録にはともに「宝篋印塔二基」と記載されており、その後なんらかの理由で増加したものと思われる。

Tangible Cultural Property (Building)
Fugenji Temple Hogyo-into
Muromachi Period

Total heights
Central tower 190 cm
A tower on the observer's right 124.2 cm
A tower on the observer's left 183.4 cm
Towers are made of granite, all shaped in box-like structures with a peaked roofs, as well as projections in a shape of horse ears; low-cut engraved characters

The Hogyo-into is a tower originally for storing a Buddhist text called Hogyo-indaranikyo. The use of the structure later changed into a tomb or a consolation tower. According to the tradition of the temple, the towers in this section were tombs of Kasai clan who made a great contribution to the foundation of Kamakura shogunate. These structures were famous as ancient monuments, already in the Edo Period, and references are also found in literary works like Illustrated Guide to famous Edo sites. The date of its construction is not clearly identified, since faint incised characters which apparently make reference to the circumstances of construction are not legible due to weathering. However, judging from types of horse ear shaped decorations erected in a substantially vertical direction, as well as of foliate panels on podiums, one may estimate that the relics are excellent works built using a style of the Muromachi Period. They are made of granite and well preserved with all missing parts. These Hogyo-into towers, as they are extant in the Tokyo Metropolitan area, are highly valuable.




庚申堂の前に一対の灯篭が建っています。

葛飾区指定有形文化財
普賢寺庚申灯籠

この庚申灯籠一対は、寛文六年(1666年)地元の庚申講の人々によって建てられたものです。「寛文六丙午年石燈籠庚申成就二世安楽処十二月今日」と記されています。区内に在る多くの庚申供養塔の中でも、灯籠を供養塔にしたものはこれだけで大変めずらしいものです。60日に一度めぐってくる庚申の日に、人々が健康長寿を願って集まり夜明かしをすることを守庚申、庚申待ちといいます。このような庚申信仰は江戸時代に各地に広がり庚申講が生まれました。こうした庚申講の人々は、庚申待の成就などを記念してそれらの供養のために庚申塔を作りました。




「大般若波羅蜜多経」とは、唐代に玄奘が大乗仏教の基礎的教義が書かれている長短様々な「般若経典」を集大成した仏典のことです。通称は「大般若経」で、「般若経」と略称することもあります。全16部(会)600巻に及ぶ膨大な経典群です。

葛飾区指定有形文化財
刊本大般若經

この般若経は、室町時代に関西で開版されたものと思われます。これは、武蔵国寄西庄(埼玉県北埼玉郡騎西町根古屋)金剛院の前住で、後、大和長谷寺の再興に貢献した尊慶(1580年〜1652年)が慶安三年(1650年)11月に、越ヶ谷郷会田政蓮を願主として金剛院に納入し、その後、文政五年(1822年)に米屋源助・こんや甚兵衛等が普賢寺に施入したものです。今に残る数少ない古版大般若経として、また、比較的良くその大部分が保存されたものとして貴重です。




葛飾区立上千葉小学校と向かい合って上千葉公園があります。北方にある上千葉砂原公園と名前が似ていますので間違いやすいです。遊具は少ないですが、公園の中央には広大な自由広場があります。テニスコートにもなるようです。



ポイント6 お花茶屋商店街

お花茶屋駅の北から南に向かって真っ直ぐに延びるお花茶屋商店街(新和会・商栄会)は、南側のお花茶屋駅前商店街が住宅と雑多なお店が混在して昭和レトロ感満載の葛飾らしさが溢れているのに対して、通りも広く整然とした感じです。ちなみに、お花茶屋の名の由来ですが、次のように伝えられています。江戸時代に鷹狩りに来た八代将軍吉宗がにわかに腹痛を起こし、近くの茶屋で休憩したところ、茶屋の娘の 看病によりたちまち快方に向かいました。喜んだ将軍は「茶屋」の名前と娘の「お花」の名から「お花茶屋」と名付けました。この伝説にちなみ、駅名や住所表示にもこの名称が用いられるようになりました。昔は農村地帯でしたが、昭和二十三年頃から一般住宅に混じって数店の商店が営業を始めたのが現在の商店街の始まりといわれています。その後約20店に増加し、昭和二十五年に商店街組織が形成されました。昭和四十年頃から日用品以外の買回り品店も増加し、商品の提供機能が強化されて昭和六十年頃には約120店舗に増加しました。昭和六十年8月に商店街組織3つが合併し、振興組合に組織変更して「お花茶屋商店街振興組合」となりました。



共栄学園中学高等学校は、、中高一貫教育を提供する私立中学校・高等学校です。昭和八年(1933年)に岡野弘・さく夫妻が立石に本田裁縫女塾を開設し、昭和十七年(1942年)にお花茶屋の現校地に移転して共栄女子商業学校を開校しました。昭和二十二年(1947年)に学制改革に伴って共栄学園中学校を設置し、翌年には高等学校も設置(女子校)しました。平成十三年(2001年)に中学校を男女共学化し、平成十五年(2003年)には高等学校も共学になりました。女子バレーボール部は春の高校バレーボールの強豪校で、1995年と2005年に優勝し、高校総体も1994年と・2005年に優勝しました。野球部は2003年夏(第105回大会)、甲子園に初出場しました。日本バレーボール界の有力選手を輩出しています。



共栄学園からお花茶屋駅まで、プロムナードお花茶屋商店街が続いています。レンガ敷の道路沿いには、長く営業されている老舗豆腐店・ヘアサロン・鮮魚店・青果店・和菓子店の他、弁当屋やテイクアウト店・焼肉店・ラーメン店・カフェなど様々な店舗が出店しています。チェーン店はもちろん、地元ならではの個人運営の飲食店も多く、近隣住民が多く行き交います。



商店街の中程で元気な呼び声が続く鮮魚店の「魚浩本店」では、窓の下の壁に魚の絵が並び、それぞれに名前が解説してあります。



ゴール地点のお花茶屋駅に着きました。



ということで、葛飾区で十一番目のコースである「J亀有・お花茶屋エリア」を歩き終えました。次は葛飾区で十二番目のコースである「K水元・柴又エリア」を歩きます。




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