- K水元・柴又エリア
- コース 踏破記
- 今日は葛飾区のウォーキングコースの中で最長となる12kmの「K水元・柴又エリア」を歩きます。柴又駅をスタート地点として、江戸川沿いに東金町七丁目まで進み、水元公園を水元小合溜に沿って進み、中央広場を一周して桜並木をこあゆの小路まで進み、岩槻橋から葛飾にいじゅくみらい公園を経て金町駅に至ります。これまで歩いたコースの区間が幾つか含まれます。
K水元・柴又エリア
「K水元・柴又エリア」の歩行距離は約12.0km(約17、140歩)、歩行時間は約3時間、消費カロリーは約540Kcalです。
スタート地点:柴又駅
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- ポイント1 フーテンの寅像
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- ポイント2 帝釈天参道
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草団子やせんべいの店などが並び、そぞろ歩きが楽しい約200m余りの参道。
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- ポイント3 柴又帝釈天(題経寺)
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庚申の日は特ににぎわう日蓮宗の寺。法華経の説話から作られた胴羽目彫刻が見事。
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- ポイント4 矢切の渡し
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- ポイント5 金町浄水場の取水塔
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- ポイント6 南蔵院(しばられ地蔵)
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- ポイント7 都立水元公園
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都内最大の水郷公園。ポプラ並木、メタセコイアの森、バードサンクチュアリなど四季折々の美しい自然景観があり、魅力たっぷりの空間。
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- ポイント8 水元かわせみの里
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- ポイント9 香取神社
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ゴール地点:金町駅北口
スタート地点の柴又駅から歩き始めます。
- ポイント1 フーテンの寅像
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葛飾柴又といえば、「男はつらいよ」のフーテンの寅さんですね。映画「男はつらいよ」は、昭和四十四年(1969年)から平成九年(1997年)まで全49作品が制作された日本を代表する映像作品です。第一作が公開されてから50周年となる令和元年には、50作目である「男はつらいよ お帰り寅さん」が公開されました。駅前広場には、1999年に地元商店会と観光客の募金によって建てられた「旅に出る寅さんがさくらの方を振り返ったシーン」をモチーフとした寅さんの銅像があります。銅像の台座には、山田洋次監督による寅さんの故郷への思いが刻まれたプレートが貼られています。
寅さんは損ばかりしながら生きている。江戸っ子とはそういうものだと別に後悔もしていない。人一倍他人には親切で家族思いで金儲けなぞは爪の垢ほども考えたことがない。そんな無欲で気持ちのいい男なのになぜかみんなに馬鹿にされる。もう二度と故郷になんか帰るものかと哀しみをこらえて柴又の駅を旅立つことをいったい何十辺くり返したことだろう。でも故郷は恋しい。変わることのない愛情で自分を守ってくれる妹のさくらが可哀想でならない。−−−ごめんよさくらいつかはきっと偉い兄貴になるからな。車寅次郎はそう心に念じつつ、故郷柴又の町をふり返るのである。
もう一枚のプレートが貼られています。
「男はつらいよ・シリーズ」は平成八年八月、主演の渥美清さんが急逝されたことで終わりを告げました。私たちはこの映画を偲んで、寅さんの像を建立することを思い立ち、百円募金を計画したところ、全国のファンの方がこころよく参加してくださいました。その大勢の方たち一人ずつに名前を書いていただき、その芳名録をこの像の台座の中に収めてあります。毎月十日を「寅さんの日」と定め、故郷柴又を愛してやまなかった私たちの寅さんをいつまでも大切にお守りさせていただきます。
柴又 神明会
昭和四十四年八月、第一作「男はつらいよ」が公開されてから平成八年正月の「男はつらいよ・寅次郎 紅の花」までの四十八作は世界映画史上に突出したシリーズ映画です。この輝かしい積みかさねは、山田洋次監督とスタッフ及び渥美清さんほかの出演者によることは勿論ですが、なんといってもこの映画を全国のファンが心から愛してくれたからでした。そして特に、ここ葛飾柴又の皆さんには温い人情と熱い想いで映画「男はつらいよ」と寅さんを支えていただきました。このたび由縁の地に、全国のファンの皆様のお志により、像が建立されましたことは、わが社にとって大変嬉しいことです。心より御礼を申し上げます。
平成十一年八月 松竹株式会社
平成二十九年(2017年)には、寅さんを見送る妹さくらの銅像も建立されました。
−−−ある別れ
さくらは失恋して旅に出る寅を駅まで見送ることにする。
「いいんだよ、忙しいんだろお前」
と言いながらもその思いやりがみにしみるほど寅は傷ついていた。駅前でさくらは立ち止まる。
「それじゃお兄ちゃん身体に気をつけてね」
「あゝ」
と無造作にうなずいて駅舎に向かう寅の足がふと止まりふり返る。
「おい」
「なあに」
「満男に一生懸命勉強しろと言っとけよ」
「うん、わかった」
乱暴な口調で言いすててスタスタと改札口にむかう寅。さくらは踵を返し、秋の終わりを思わせる冷たい風が吹く中を家路につく。
さくらの像は後から建ったのですが、寅さんとさくらの視線が最初から構図されたようにピッタリ合っていますね。
柴又について解説した案内板が立っています。
国選定 重要文化的景観 葛飾柴又の文化的景観
重要文化的景観の特徴
中心部
- @帝釈天題経寺
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帝釈天題経寺は、庚申信仰により参詣客を集めた江戸近郊の流行寺の一つでした。江戸時代から近代にかけて、 旧堂を改造、移築しながら新堂を加える独特の造営過程によって整えられたものです。境内からは奈良時代の遺構も発見されています。
- A帝釈天題経寺門前
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帝釈天題経寺の門前は緩やかに湾曲する通りに沿って店頭対面販売形式の店舗が連続しています。周辺農家が副業的に店を営んだことから始まり、その地割や建物形式、販売品目等から、その歴史を読み取ることができます。
周辺部
- B国分道(帝釈道)沿い
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古来、矢切に向かう街道が通る微高地に、柴又八幡神社、真勝寺や旧家が残り、江戸近郊の農村における居住域であったことを伝えています。
- C帝釈天題経寺南方・江戸川河川敷沿い
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帝釈天題経寺の南側から江戸川河川敷に沿った微高地に旧家が存在しています。和洋折衷の建物と和風庭園からなる「山本亭」は関東大震災を機に所有者が移り住み造られました。
縁辺部
- D柴又用水の受水域
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かつて柴又用水やその支流が縦横にめぐっていた農地でした。水路跡に加え、関東大震災を機に移転してきた宝生院を見ることができます。
- E金町浄水場と取水塔
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微高地の北側に位置する金町浄水場は大正十五年に給水を開始し、拡張を繰り返し今日に至ります。
- F江戸川と河川敷
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江戸川とその河川敷は近世・近代にかけて改修が重ねられ、江戸川舟運や渡河交通の拠点となっていました。矢切の渡しがその歴史を伝えています。
葛飾柴又の文化的景観とは
柴又の成り立ち
柴又は葛飾区の東部、江戸川右岸の微高地(海抜約2〜3メートルの土地)に位置しています。6世紀以降、標高の高い場所に集落が形成され、現在の柴又八幡神社本殿裏にあたる場所に古墳が造られたと考えられています。古代から近世初頭にかけて柴又八幡神社の前を通る古い街道である国分道は、帝釈道とともに太日川(現在の江戸川)対岸の下総国の渡河地点に繋がり、柴又の南北を走る旧東海道・水戸街道を柴又で繋げる役割を果たしたため、柴又は水陸交通の要衝の地として機能し、多くの人や物資が行き交いました。1629年に帝釈天題経寺が開かれ、1779年に帝釈天板本尊が発見されると参詣が急増します。また、1835年に柴又用水が開削されると農作物の生産量が増え、江戸の食糧供給地として成長を遂げていきました。明治中期以降、帝釈天の参道沿いには近隣農家が副業として煎餅屋や料亭を営み始めます。明治の帝釈人車鉄道の開業、大正の京成電気軌道による鉄道網の整備により多くの人が行き来するようになり、東京近郊の行楽地として今日見られる門前の景観が形成されました。近代、特に関東大震災(1923年)以降の急激な人口増加を背景に、大正時代には金町浄水場の開設、昭和初期には区画整理などが行われました。戦後のさらなる都市化を経て今日に至っています。
重要文化的景観の選定について
文化的景観とは、地域の風土を活かして人々が暮らしの中で作り上げてきた景観のことです。この風土、暮らしに着目すると、葛飾柴又の文化的景観は「中心部」「周辺部」「縁辺部」の3つのエリアとして捉えることができます。江戸川近くで古代から続く人々の生活や往来を基底としながら、近世に開基された帝釈天題経寺と近代になって発展したその門前が「中心部」にあり、その基盤となったかつての農村の様子を伝える「周辺部」がその周囲を包み、さらにその外側を19世紀以降、都市近郊の産業基盤や社会基盤の整備が行われた「縁辺部」が取り囲んでいます。各エリアには、それぞれの特徴を示す帝釈天題経寺や参道店舗、柴又八幡神社をはじめとした社寺、旧家や農地、金町浄水場などが現存するとともに、柴又用水のように機能は失われていても、その痕跡を確認できるものも多くあります。こうした葛飾柴又の文化的景観が評価されるとともに、葛飾区として保存計画を策定し、文化的景観を保存するための取り組みを行っていることが認められ、2018年2月13日に文化的景観のうち特に重要なものであるとされる国の重要文化的景観に選定されました。
- ポイント2 帝釈天参道
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帝釈天参道は、映画「男はつらいよ」の舞台にもなったところです。題経寺へと続く参道に沿って古くからある飲食店や名物を商う店が建ち並び、時が経つのを忘れたかのような昭和レトロな雰囲気がそのまま残っています。
渥美清さんが寄贈した常夜灯と寅さんの口上を記した石版が建っています
私、生まれも育ちも
葛飾柴又です。
帝釈天で産湯をつかい、
姓は車、名は寅次郎。
人呼んで
フーテンの寅と発します。
山田洋次
「立花屋」は、手焼煎餅の店で、醤油味を始め、辛いものや甘いものなど約18種類の煎餅があります。店には煎餅が入った大きな瓶が並び、昔の懐かしさを感じる店構えになっています。立花屋煎餅店のお煎餅は気軽にサクッと食べられるので、食べ歩きグルメにピッタリです。お煎餅が透明な瓶に入っているのもレトロ感が漂っています。10種類以上のお煎餅が並び、1枚から購入可能で100円以下で購入できるお煎餅も沢山あります。
「やぶ忠帝釈天参道店」は、人通りの多い参道でソフトクリームを販売していて、一見観光客向けに特化した店に見えますが、30年以上に亘り柴又で蕎麦を作り続けていて、その丁寧な仕事ぶりから地元の方からの支持も厚い名店です。
草だんごと和菓子の「高木屋老舗(たかぎやろうほ)」は、参道を挟んでテイクアウトやおみやげなどの販売店と喫茶店の2店舗があります。木造瓦ぶきの建物は、明治と大正時代に建てられた創業当時の風情のあるものです。古くから柴又帝釈天の参拝客に団子などを振る舞う店として知られていましたが、木屋老舗が有名になったのは国民的映画シリーズ「男はつらいよ」の主人公の車寅次郎の実家「とらや」(のちに「くるまや」)のモデルになったことです。
「とらや」の創業は明治二十年で、店内では、和食・中華・甘味など種類豊富なお食事が楽しめます。お土産には、柴又名物の「草だんご」が人気です。お店は、「男はつらいよ」の撮影で使用されました。
- ポイント3 柴又帝釈天(題経寺)
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「帝釈天」とは、本来の意味では仏教の守護神である天部のひとつを指しますが、地元では題経寺の通称として用られることが多いようです。題経寺は、江戸時代初期の寛永六年(1629年)に、禅那院日忠と題経院日栄という2名の僧によって開創された日蓮宗寺院です。18世紀末、九世住職の日敬の頃から題経寺の帝釈天が信仰を集めるようになり、「柴又帝釈天」として知られるようになりました。帝釈天の縁日は庚申の日とされ、庚申信仰とも関連して多くの参詣人を集めるようになりました。近代以降は夏目漱石の「彼岸過迄」を始め、多くの文芸作品に登場し、東京近郊の名所として知られました。20世紀後半以降は、人気映画シリーズ「男はつらいよ」の渥美清演じる車寅次郎(寅さん)縁の寺として有名になりました。年始や庚申の日(縁日)は非常に賑わい、「男はつらいよ」シリーズの公開後は都内の定番の観光名所となり、観光バスの団体客が大勢訪れたこともあります。帝釈天参道の突き当たりに、題経寺の二天門が建っています。二天門は、明治二十九年(1896年)に建立され、入母屋造瓦葺の楼門(2階建て門)です。屋根には唐破風と千鳥破風を付し、柱上の貫などには浮き彫りの装飾彫刻が施されています。初層左右には四天王のうちの増長天と広目天の二天が安置され、門の名はこれに由来しています。二天像は平安時代の作とされ、門の建立時に日蓮宗の妙国寺(大阪府堺市)から寄贈されたものです。
二天門を入った境内の正面に帝釈堂があります。手前の拝殿と奥の内殿から成る大きなお堂は共に入母屋造瓦葺で、拝殿屋根には唐破風と大ぶりの千鳥破風が付けられています。帝釈堂の内殿は大正四年(1915年)、拝殿は昭和四年(1929年)に完成しました。内殿には帝釈天の板本尊を安置し、左右に四天王のうちの持国天と多聞天(毘沙門天)が安置されています(四天王の残り2体は二天門に安置)。内殿外側には全面に浮き彫りの装飾彫刻が施されています。帝釈天本堂の前に植えられている大きな松の木は「瑞龍(ずいりゅう)の松」と呼ばれています。名前の由来は、真っ直ぐに天に向かって伸びる幹と、北・西・南の3方向に生えている躍動感ある枝です。江戸時代の書物にも記されているという松は樹齢400年を超えています。高さ10mで南北にも枝を伸ばす松の木は、東京都指定天然記念物にも選ばれています。
東京都指定天然記念物(植物)
瑞龍のマツ
「帝釈天」の名で知られる経栄山題経寺。その参道から二天門をくぐって境内に入ると正面に帝釈堂が建っており、その帝釈堂の手前、向かって左に生えているのが瑞龍のマツです。幹は上方にまっすぐ伸び、大枝は北、南、西の三方に長く伸びています。そのうち、西の枝は石畳に沿うように伸び、南北の枝は帝釈堂を守護するかのように庇の前に伸びています。その生き生きとした姿は、頭を空に向け、尾を西に伸ばして天に昇る「龍」のようです。縁起によると、題経寺は寛永六年(1629年)創建で、開基の日栄上人が柴又に寄った際、見事な枝ぶりのマツと、その下に霊泉が湧いているのを見つけ、この地に庵を設けたことがその始まりとされています。この時に日栄上人が見た木が、瑞龍のマツとされています。瑞龍のマツは、帝釈堂正面と一体となって景観をなしており、また帝釈天題経寺の創建の由来を伝える銘木、巨木として重要です。
Natural Monuments
Zuiryu no Matsu (Zuiryu Pine Tree)
Kyoeizan Daikyo-ji Temple is commonly called as "Taishakuten (Sakra devanam Indra)". While walking through the Sando (approach to the temple) and the Niten-mon Gate, you can see a big Pine Tree, so-called "Zuiryu no Matsu", in front of the Taishaku-do Hall. Its trunk grows straight towards the sky and its large and long branches extend to north, south and west. The west branch extends like a dragon crawls on its belly on the stone pavement, and the south and north branches spread as if it guards the Taishaku-do Hall. It also looks like a dragon flying up to the sky. According to Engi (the origin and history of the temple), Daikyo-ji Temple was founded in 1629 when a Buddhist monk named Nichiei Shonin stopped in Shibamata and decided to build a hermitage here as he
found a sacred fountain under the big pine tree. It was this Zuiryu-no-matsu.
Zuiryu-no-matsu and Taishaku-do Hall is considered to be a component of the landscape of Taishakuten and it is valuable as precious large tree that tells us a legend of Taishakuten Daikyo-ji Temple.
塀に囲まれた敷地には、大客殿と庭園があるそうです。
東京都選定歴史的建造物
柴又帝釈天題経寺大客殿
帝釈天題経寺は寛永年間に創設された日蓮宗の寺院で、境内には、文化・文政の頃の釈迦堂をはじめ、明治以降に建てられた諸堂が多く現存する。北側の和風庭園(邃渓園)に面した大客殿は、信徒の接待所として設計された建物で昭和四年(1929年)に完成した。この年には釈迦堂拝殿の造営も行われている。建物は木造、平屋建、総檜造りで、屋根は入母屋、桟瓦葺き。ガラス障子の広縁を巡らし、縁の正面中央に張り出し部分を設けているところが外観上の特徴である。建物内部は四部屋からなる書院造りで、一番奥の頂経の間が上段の間である。天井には杉の一枚板を鏡板に用い、折上げ部分に漆を塗っている。また、床の間には、近江の伊吹山山麓にあった「日本一」と言われる大南天の床柱がある。
東京都指定名勝
題経寺邃渓園(だいきょうじ すいけいえん)
邃渓園は、題経寺寺域の東、約2000平方メートルの広さをもつ寺院庭園です。その歴史は、大正十五年(1926年)発行の「東京府下帝釈天境内全図」に庭園が描かれていることから、その前後に作庭されたと思われます。その後、庭園は昭和初期に第十六代観明院日済上人より依頼を受けた庭師、永井楽山(1880年〜1971年)が大幅に手を加え、昭和四十年(1965年)ほぼ現在の姿に完成しました。元々は、昭和四年(1929年)に落成した大客殿から眺める座観式庭園でしたが、昭和三十五年(1960年)に大回廊が建てられ、現在は大客殿の広縁を通って回遊することができます。東西に長い庭園敷地は、その北側半分を池泉とし、北西に築山、北東に中島を配しています。築山頂部から流れる滝は二段落ちで、池側に張り出した汀線や中島により、流路は大きく蛇行しているように見え、東端の流末に至ります。永井楽山は、この滝がもつ幽邃な風情から、本庭園を「邃渓園」と名付けました。庭園南側は開放的な芝庭で、大客殿より嵩上げすることで、芝がより近くに見えるような錯覚が起ります。この錯覚は、奥の池泉を大きく感じさせる効果もあり、大客殿広縁からの景色に奥行きが生まれるのです。瀬戸御影石や京都加茂川の赤石、京都桂川の自然石を使った蹲(つくばい:日本庭園の添景物のひとつで露地(茶庭)に設置される。茶室に入る前に手を清めるために置かれた背の低い手水鉢に役石をおいて趣を加えたもの)など、庭園には名石がふんだんに使われています。また、園池南東には、茶室「不答庵」が設けられています。永井楽山作庭の邃渓園は、様々な技巧を配し、東京低地の一画に幽邃な渓谷を再現した芸術的価値の高い寺院庭園です。
Places of Scenic Beauty
Daikyoji Suikeien (Suikei-en Garden of Daikyo-ji Temple)
Suikei-en Garden, covering 2,000 square meters in area, is located in the eastern precincts of Daikyo-ji Temple. It seems to be constructed around 1926 since a drawing of this garden was included in "Tokyo-fuka Taishakuten Keidai Zenzu (the complete of the precincts of Taishakuten Temple,Tokyo)". In the beginning of the Showa period, this garden had been improved by the famous gardener NAGAI Rakuzan (1880-1971) by the order of a Buddhist, the 16th Kanmyo-in Nissai Shonin. He completed it in the present form in 1965 map Originally it was designed to be best enjoyed in a fixed and sitting viewpoint from the reception hall built in 1929. As the large corridor was set up around the garden in 1960, we can now stroll around the garden through the broad veranda.
The land of the garden extends in the east-west direction. A pond was created in the north, and Tsukiyama (artificial hill) on the northwest and a central island in the northeast are arranged to it. A waterfall descending in two stages from the Tsukiyama, jutting shoreline and the central island lay a course of a stream which flows towards the eastern end, winding like a serpent.
This garden was named "Suikeien" (lit. garden of profondity and calm) after this elegant waterfall. In the south of the garden, the level of the lawn turf is raised higher than the reception hall, so it creates optical illusion that
make us feel that the lawn is closer. It also works to give the impression that the pond behind is larger. As a result the view from the large corridor of the reception hall seems much deeper than it is. High quality stones, such as Seto-Mikageishi (granite), Akaishi from Kamo River and natural stones from Katsura River in Kyoto are used lavishly throughout the garden. Futo-an tea room stands in the south east of the garden pond. Suikei-en that representing a calm and gentle valley in the lowland of Tokyo, is one of the most valuable gardens.
葛飾柴又寅さん記念館・山田洋次ミュージアム(観光文化センター)は、スーパー堤防と一体となったユニークな建物です。大船撮影所から移設した「くるまや」や、あの”タコ社長”の「朝日印刷所」のセットに加えて、寅さんが実際に使用した実物の革カバンなどの展示コーナー、「寅さんと一緒に楽しむ鉄道の旅」をテーマに、昔懐かしい駅舎や駅務室、客車ボックスシートに座って名シーンを楽しめるコーナーなどで「男はつらいよ」の世界を再現しています。また、寅さんと一緒に記念写真をとることができる記念撮影コーナー(有料)や作品に関するクイズにチャレンジできるQ&Aコーナーも楽しめます。併設する「山田洋次ミュージアム」は、映画「男はつらいよ」シリーズの原作・脚本・監督を務め、寅さん記念館名誉館長・葛飾区名誉区民であり、2012年に文化勲章を受章した山田洋次監督のこれまでに携わってきた数々の作品や映画づくりへの思いを9つのテーマでつづられたミュージアムです。
記念館の内部とエレベータで結ばれている柴又公園頂上の「あずまや」からは、帝釈天や山本亭、そして雄大な江戸川の流れを一望することができます。
2019年に新設されたTORAsan cafeと合わせて楽しめます。
江戸川の河川敷はお年寄りで賑わっています。柴又球技場というらしいですが、ゲートボールをやっているのかな?河川敷には、江戸川堤サイクリング道路が整備されています。利根川の分岐から浦安・葛西方面の河口まで、約60キロメートルのサイクリングコースで、勾配が殆どないので自転車を始めたての人でも比較的完走しやすいコースになっています。
広大な河川敷にはチューリップ園もあります。新潟県五泉市から寄贈されたものだそうです。五泉市は、県内でも有数のチューリップの産地です。五泉市の巣本地区は阿賀野川と早出川に挟まれた場所にあり、その昔、川が氾濫したことで砂地の土壌となり、チューリップの栽培に大変適しています。このチューリップを出荷するだけでなく見て楽しんでもらおうと、五泉市では生産者に依頼してチューリップの畑を1か所に集め、毎年4月中旬にチューリップまつりを開催しています。
- ポイント4 矢切の渡し
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矢切の渡しは、現在都内に唯一残る渡し場です。川幅150mの江戸川を小さな舟が往復しています。江戸時代の初期、江戸川の両側に田を持つ農民が関所を通らずに江戸と往来したことから、この「矢切の渡し」が始まりました。江戸川唯一の渡しであり、伊藤左千夫の小説「野菊の墓」で政夫と民子の悲しい恋の舞台にもなりました。また、同名の歌謡曲の舞台でもあります。江戸川の水が春とともに暖かさを増す時期になると、江戸川を毎日往復してくれます。矢切と対岸の柴又を結ぶ情緒たっぷりの渡し舟は、訪れる人々の気持ちをのどかにさせてくれます。川面を渡る手漕ぎの舟や、ヒバリ・ユリカモメの声などは、柴又帝釈天とペアで「残したい日本の音風景100選」に選ばれました。
- ポイント5 金町浄水場の取水塔
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土手上の道路に上がりますと、左手にサイロのような建造物が見えます。東京都水道局金町浄水場は、江戸川の表流水を1日平均約80万トン採水・処理し、都内計12区の約250万人に水道水を供給しています。敷地面積は東京ドーム5.5個分に相当します。
1985年に厚生労働省の「近代水道百選」に選ばれ、江戸川右岸に2基ある取水塔はドーム状とトンガリ帽子の屋根で有名です。浄水場周辺を舞台とした映画「男はつらいよ」シリーズや、漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」にも登場しています。
土手下に葛西神社があります。葛西神社は、平安時代末期の後鳥羽天皇の元暦二年(1185年)に、領主葛西三郎清重の篤信により、上葛西・下葛西あわせて三十三郷の総鎮守として、下総国香取神宮の分霊をお祀りして創建されました。当時この金町の地は、葛西御厨の神域にあり、古来二十一年ごとに香取神宮宝殿造営の賦役をつとめた関係から、郷内の守護神としての働きもありました。葛西神社は、始め香取宮と称しましたが、明治維新の際に香取神社となり、明治十四年に葛西神社と改められました。江戸時代初めに徳川家康が葛西神社へ立ち寄った際、古くから伝わる操り人形芝居の神事を見て大変感激し、奨励のために天正十九年(1591年)に玄米十石を扶持として与える御朱印を下賜しました。この縁により、葛西神社は徳川家康を祀ることとなり、立身出世や事業成功の象徴として今なお敬意を集めています。葛西神社は祭囃子発祥の地といわれています。葛西囃子は城東地域に古くから伝わる郷土芸能のひとつで、享保年間に葛西神社の神官能勢環が敬神の和歌に合わせ、音律を工夫して和歌囃子として村の若者に教え、御神霊を慰めたのがその起源とされています。宝暦三年(1753年)頃から関東代官伊奈半左衛門忠順が天下泰平・五穀豊穣を祈願すると共に、一家和合と青少年の善導を目的としてこれを奨励しました。その結果、毎年各地で葛西囃子代表者の選出会が催される事となり、選出された者を代官自ら神田明神の将軍家御上覧祭りに推薦した事により大流行しました。葛西神社は葛飾区で唯一のお酉様として、11月の酉の日には熊手を求める参拝者で賑わいます。酉の市の夜には神楽殿において素人演芸大会が行われ、第二次世界大戦以前から長く続けられています。また、NHKのテレビ番組「NHKのど自慢」の初代の鐘が奉納され、今でもその鐘で参加者の歌唱力を審査しています。
土手を下りて都道451号江戸川堤防線を渡り、東金町七丁目交差点から桜堤に出ます。桜堤は水元桜堤から続く桜の名所です。
桜堤は戦後まもなく来週したカスリーン台風によって決壊し、東京の東部一帯に大きな被害を出しました。
川の史跡 カスリーン台風と桜堤
江戸時代に築かれた桜堤は、利根川が氾濫したときに流れてきた洪水を食い止める役割もある堤防です。明治四十三年の大洪水で利根川が氾濫したときは、この桜堤で洪水が食い止められ、江東地域一帯(現在の葛飾区、江戸川区、足立区、墨田区、江東区)の被害を防ぐことが出来ました。しかし、昭和二十二年9月に来襲したカスリーン台風による利根川の氾濫のときは、「桜堤を守れ」と農民達が水の中に入って土のうを積むなど、懸命の水防活動にもかかわらず、東京最後の望みの綱、桜堤はついに決壊し、ここから流れ出た濁流が葛飾、江戸川、足立区を水没させ、大きな被害を与えました。
水元小合溜に沿って桜並木道を進みます。桜が満開で、皆さんお花見を楽しんでいますね。
水元さくら堤の歩道脇に鐘楼堂が建っています。撞木は見当たりませんが、かって梵鐘として使われていたとのことです。
葛飾区指定有形文化財
梵鐘(通称 松浦の鐘)
旧下小合村の領主は、長崎奉行や勘定奉行に任ぜられた松浦河内守信正(1693年〜1769年)です。晩年は下小合村に隠居し、菩提寺である龍蔵寺に葬られました。この梵鐘は、信正が宝暦七年(1757年)に下小合村の龍蔵寺に奉納したものです。作者は下野佐野の鋳物師利右衛門で、総高121.4cm・口径68.5cm、中央部4か所に梵字があります。さらに明和六年(1769年)5月信正の没後に、遠江国宝泉寺住職勝東州撰の銘文が追刻されました。明治期の廃仏毀釈で、龍蔵寺が廃寺になると、鐘は村有となり水害や非常の際に用いられました。なお、信正が生前に自ら造立した墓塔は円盤状で、今は青戸の宝持院に移されています。
鐘楼堂の裏手に、水元さくら堤の由来を記した石碑が置かれています。
水元さくら堤の由来
この堤防は八代将軍徳川吉宗が紀州藩の土木技術者伊沢弥惣兵衛為永に命じて古利根の支流の一つであった小合溜の整備とともに江戸川の二次堤防として築かせた治水工事の旧跡で「さくら土手」と呼ばれていましたが、昭和二十二年九月に葛飾・江戸川両区に大水害をもたらしたカスリーン台風の洪水のために桜も枯れ、かっての面影を失ってしまいました。これを惜しんだ東京葛飾ライオンズクラブが昭和四十七年の春から植樹を行ってきました。昭和五十年代には葛飾区によって堤防道路の拡幅整備工事が行われ、緑豊かな遊歩道や、あずま屋や歌碑などの景観施設が整い、多くの人々が訪れるようになりました。そして、都内でも有数な桜の名所として復活なった昭和六十一年四月には満開の桜の下で開通式が行われ、一般公募で「水元さくら堤」と名付けられました。
- ポイント6 南蔵院(しばられ地蔵)
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伊勢物語で知られる平安時代の歌人在原業平が東下りの際に隅田川で舟遊びをした時、船が転覆して多くの人が亡くなったことから業平は溺死者を弔い、像を刻み村人に与え、法華経を写経して経塚に納めました。南蔵院は、その傍らに貞和四年(1348年)に林能によって創建されました。元禄十一年(1698年)に水戸藩下屋敷の用地となり、江戸本所区小梅から本所区中之郷八軒町に移りましたが、大正十二年(1923年)に発生した関東大震災で罹災し、昭和四年(1929年)に現在地に移転しました。南蔵院の本尊は釈迦如来で、本堂は昭和五十三年に建立されました。
境内には、「大岡政談」で知られる「しばられ地蔵」が安置されています。現在も祈願する時に地蔵尊を縄で縛り、願いが成就した際は縄を解くことになっています。ちなみに、大岡政談の「しばられ地蔵」の話とは、
江戸時代の享保年間の八代将軍徳川吉宗の治世に、日本橋にある呉服問屋の手代が南蔵院の境内でうっかり一眠りしている間に反物を荷車ごと盗まれてしまいました。調べに当たった名奉行の南町奉行大岡越前守忠相は、「寺の門前に立ちながら泥棒の所業を黙って見ているとは地蔵も同罪なり。直ちに縄打って召し捕って参れ」と命じました。かくして地蔵はぐるぐるに縛られ、車に乗せられ江戸市中を引き廻された後で南町奉行所に入りました。どんなお裁きが始まるかと物見高い野次馬が奉行所になだれ込みました。頃を見計らった越前守は門を閉めさせ、「天下のお白州に乱入するとは不届至極。その罰として反物一反の科料を申附ける」の一声を発し、奉行所にはその日の内に反物の山が出来ました。手代に調べさせるとその中から盗品が出てきたため、それからそれへと調べると当時江戸市中を荒した大盗賊団が一網打尽となったのです。越前守は地蔵尊の霊験に感謝し、立派なお堂を建立し、盛大な縄解き供養を行いました。以来、お願いするときは縛り、願い叶えば縄解きするという風習が生まれ、盗難除け・足止め・厄除け・縁結びなど、あらゆる願い事を聞いて下さる霊験あらたかな地蔵尊として祀られています。
山門の脇に案内板が立っています。
史跡 しばられ地蔵尊
当山は業平山東泉寺南蔵院と号し、貞和四年(約600年前)林能法師の開創に成い、境内の地蔵堂には「しばられ地蔵尊」が安置されている、「しばられ地蔵尊」は昭和四年旧本所区中之郷(墨田区吾妻橋三丁目)から寺とともに移転してきた。大岡政談の一つとしても有名である「しばられ地蔵尊」は昔より、盗難除け、足止め、厄除け、あらゆる願いごとを叶えるとして祈願するものが多く、祈願者は先ず地蔵尊を荒縄でしばり、成就の暁には、これを解く風習となっている。
しばられ地蔵尊は像高1メートルほどの石の地蔵尊で、元禄十四年(西暦1701年)の造立と伝えられています。「文政寺社書上」によりますと、この地蔵尊は諸願成就、殊に難病平癒に霊験があり、信心の者が祈願するときは地蔵尊を縄で縛り、成就したときには縄を解くことから、しばられ地蔵と称したと記されています。毎年12月31日(大晦日)の午後11時から、南蔵院住職による「願かけしばられ地蔵尊」の縄解き供養が行われ、解かれた縄は祈祷護摩の火でお焚き上げされます。もうじき年も明けようという頃、住職が除夜の一番鐘を撞き、年が改まったところで地蔵尊に新年の一番縄が結ばれます。参詣の人々は、一年に一度縄を解かれた地蔵尊のお姿を拝み、除夜の鐘を撞き、そして新たに地蔵尊に願かけの縄を結び、新年の願いを託すのです。供養の間、住職や衆僧により聲明が唱えられ、境内に新設された舞台では「伶楽舎」による雅楽の演奏が行われます。荘厳な音の世界に浸りながら、新年を迎える儀式が執り行われます。大晦日と元日には、厄除けから縁結びまであらゆる願い事を結ぶ開運の縁起「結びだるま市」が開かれます。
- ポイント7 都立水元公園
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都立水元公園は、昭和四十年(1965年)4月1日に開園した面積96.3haの都内23区の中でも最大規模の都立公園です。今から約300年前まではこの地域は古利根川の河川敷でした。徳川三代将軍家光の江戸川改修事業により、現在の中川にあった亀有溜井を川に戻し、その代わりに古利根川を締め切って水を蓄えて小合溜井 (小合溜)を造りました。古利根川が廃止されたため、小合村が江戸幕府の許可を得て埋め立てて耕作地として、小合溜を管理してきました。この水が葛飾や江戸川流域の水田を潤しました。水元公園は、その小合溜という準用河川を中心とした水域面積の多い水郷公園です。小合溜から引いた大小の水路が園内を走り、水郷景観を作りだしています。園内にはポプラ並木やメタセコイアの森・ハンノキなど水辺に強い樹木が約2万本生育し、ハナショウブ・スイレン・コウホネといった水生植物を多く見ることができます。桜の咲く季節やハナショウブの咲く季節は花見客などで賑わいます。公園西側を通る桜堤通りは園内随一の桜の見所となっています。公園内には、中央広場・バードサンクチュアリー・バーベキュー広場・はなしょうぶ園・メタセコイアの森・水産試験場跡地に造成された水辺のさと・冒険広場・集会所(涼亭)・キャンプ広場・ドッグラン・グリーンプラザ・水辺の生きもの館などの多様な施設が設けられ、季節を問わず週末を中心に余暇を楽しむ訪問客で賑わいます。
水元公園には広大な花菖蒲広場があります。規模は都内最大で、16枚の菖蒲田、約9、000uの花菖蒲園に、6月上旬から下旬にかけて約100品種・約20万本の花菖蒲の花が次々と咲きます。
水元公園(花菖蒲広場周辺)
水元公園の花菖蒲は都内では屈指の規模で、6月頃に花の見ごろになります。ここでは小合溜の広々とした水郷景観とともに可憐な花菖蒲を一面に鑑賞でき、ほかの場所にはない魅力があります。最盛期にはお祭りが開かれるなど、たいへん賑わいを見せる場所です。
花菖蒲広場には沢山の菖蒲田があり、緩やかに湾曲した水路と相俟って変化に富んだ眺めを楽しめます。
花菖蒲広場は水元小合溜に面していて、花菖蒲と広大な水面が絶景を醸し出しています。
水元公園のシンボルともいえる全長70mほどの水元大橋を渡ります。1973年に竣工し、何度か改修が施されています。水面に近い高さに橋があるのは、水量の上下がほとんどない水元小合溜にかかる橋ならではです。幅がそれほど広くないので、人が多い土日は混雑します。
水元大橋を渡った先に噴水広場があります。今は水は出ていませんが、夏期になると中央の噴水口と円形に並んだ動物のオブジェの口から水が出るようになっています。
左の写真が現在の噴水広場、右の写真が夏期の噴水広場の様子です。
水元公園には、草花だけでなく、区画毎に多くの種類の高木が植えられています。
最初に現れるのは、メタセコイアの並木です。記念広場から中央広場にかけて植えられたもので、約1900本という本数は都立公園最大規模を誇ります。メタセコイアは、新緑・秋の紅葉・雪化粧した姿など、四季折々の美しさが見られます。
メタセコイアの森
メタセコイア ヒノキ科 Metasequoia glyptostroboides
落葉性の針葉樹です。円錐形の整った樹形になり、さわやかな新緑が美しく、秋の紅葉は赤褐色〜黄褐色で渋い趣があります。葉は扁平な針葉樹で対生し秋には小枝ごと落ちます。メタセコイアは化石が先に発見されていましたが、1945年に中国に自生しているのが発見され、「生きている化石」として有名になりました。陽樹で成長がきわめて早く、適潤の排水のよい肥沃地に適していますが、水湿地でもよく育ちます。水元公園には全部で1900本植えられています。記念広場周辺のメタセコイアの純林は昭和四十六年〜四十七年に植栽したものです。当時は高さ5m〜8m、幹の回りは30cm〜60cmの若木でした。現在では高さ20m、幹回り1mにもなっています。
次はアキニレです。水元公園で苗から育て、全部で800本植樹されたのだそうです。
アキニレ
ニレ科 Ulmus parvifolia
花期: 9月
果期: 10月〜11月
本州(中部地方以西)、四国、九州、琉球、朝鮮、台湾、中国大陸に分布。やや湿地を好み、川原や荒地などに自生する落葉高木です。同じ仲間のハルニレは春に花をつけるのに対し、9月頃たくさんの小さな花をつけるのでアキニレの名があります。暖かい所に自生していますが、北海道南部にまで植栽が可能で、都市環境にも強く、公園や街路に植えられています。学名は葉が小型という意味で、やや鋭い鋸歯で表面はざらつきます。樹高は10m程度まででハルニレより小さく、こもれ日が多く、明るい感じがします。水元公園のような水湿地は、アキニレの好きな所で約800本が植栽されており、ハンノキに次いで多い落葉樹です。また、これらは全て水元公園の苗圃で育て、 移植したものです。
次は、お馴染みの楠です。
クスノキ
クスノキ科 Cinnamomum camphora
花期: 5月〜6月
果期: 11月〜12月
関東地方南部より西、四国、九州まで分布しています。幹周り8m、高さ55mにもなる最も樹命が長い樹木の一つです。暖地産の木のため、雪には弱く、大雪のあとには腕ほどもある太さの枝がたくさん折れてしまいます。シイやカシなどより葉の色が明るいのでさわやかで優しい感じがします。また、虫よけのショウノウをとる木として有名で、葉をもむとよい香りがします。関東以南では近頃は街路樹や公園樹としての利用が多く、初夏の頃の若葉は美しいものです。水元公園内には約700本あり、トウネズミモチに次いで多い常緑広葉樹です。初夏からよく見かけるアオスジアゲハ(注記)の食草にもなっています。
注記:アオスジアゲハは蝶の一種で、幼虫時にはクスノキ科のクスノキ・タブノキなどを食草(幼虫が食べる草)にしています。
次は、同じクスノキ科のタブノキです。
タブノキ
クスノキ科 Machilus thunbergii
花期: 5月
果期: 8月〜9月
本州(三陸海岸以南)、四国、九州、沖縄に分布しています。暖帯の照葉樹林の代表木です。たいへん強い木なので、公園や海岸に近い工場緑化樹に植えられます。大きいもので30mほどになります。若いときはクスノキに似ていますが、材質がやや劣るのでイヌグスとも呼ばれています。木の皮は薬用に、木の汁を黄八丈(きはちじょう:注記)などの染料として使われます。水元公園の中には古木、若木を含めて約220本あります。古木や老木は神社跡の「植生保護区」や猿町出口付近に多く残っており「郷土の森」を形成しています。
注記:黄八丈は、伊豆諸島の八丈島に伝わる黄色・樺色・黒色の3色を基調とした草木染の絹織物です。樺色は、タブノキから染め出します。
次は、ラクウショウです。ラクウショウは、葉が2列に付いた枝を鳥の羽根に見立て、これが秋に落ちるため「落羽松」の名前が付きました。沼の畔などに生育することからヌマスギ(沼杉)とも呼ばれます。
ラクウショウの森
スギ科 Taxodium distichum (RICH?)
メタセコイアによく似ている落葉性の高木針葉樹です。北米南部からメキシコにかけて生育し、成長は早く、原産地では樹高50m、直径2.5mにもなります。このラクウショウもメタセコイアと同じく、化石となってヨーロッパの各地で出土されています。恐竜の時代であった中世代のジュラ紀〜白亜紀に繁茂していた植物といわれている極めて古い時代の樹木です。樹形はメタセコイアよりややずんぐりしています。枝、葉とも互生(注記)をしています。メタセコイアよりも水湿地を好み根元回りに多くの気根を生じるのは有名です。
注記:葉の付き方には、大きく分けて「互生」、「対生」、「輪生」、「コクサギ型」があります。「互生」とは、茎の節に1枚の葉が互い違いに付くことです。
次は、シラカシです。
シラカシ
ブナ科 Quercus myrsinaefolia
花期: 4月〜5月
果期: 10月頃
本州の福島県と新潟県以南、四国、九州、朝鮮半島、中国に分布しています。幹はまっすぐに伸び、大きいものは20mにもなります。樹皮が黒いので別名クロカシとも呼ばれますが、材質は白いのでこの名がついています。少し湿ったところに好んで生え、秋にはドングリをつけます。関東地方などでは防風用の生け垣としての利用が多く、昔は農機具、ヤリの柄などに使われ、今でも様々な道具の柄に使われています。園内には花しょうぶ園や天王免地区を中心に約230本が元気に育っています。これらは公園の整備とともに植えられたもので、最初に開園した(昭和四十年)花しょうぶ園の土手沿いには幹の回りが1mを越える木が20本以上もあります。
次は、果実の木です。
ヤマモモ
ヤマモモ科 Myrlca rubra
花期: 3月〜4月
果期: 6月〜7月、10月
本州の千葉県以西、福井県以西から沖縄まで分布していますが、東北中部の沿岸まで生育は可能です。自ら肥料分を作る能力があり、さまざまな環境に適応できるので、公園や街路樹、生け垣などにも使われます。雌雄異株で、メス木の枝先には6月下旬〜7月上旬頃紫赤色の甘酸っぱいマツヤニの香りのする実がなり、四国や九州では果実や果実酒として利用されています。カラスやムクドリの大好物でもあります。水元公園には約300本が植栽されており、そのうち約1/3に実がなります。これらの大部分は九州や四国の山から掘り出し移植されたものです。この時は枝葉を全て取り除かれるまで電柱のような姿になってしまいましたが、ここ水元公園で昔以上の立派な姿に回復しました。
次は、お馴染みのポプラの木です。
ポプラ(セイヨウハコヤナギ:注記)
ヤナギ科 Populus nigra var.italica
花期: 3月〜4月 たくさんの花が園路に落ちます。
果期: 5月〜6月 白い綿に包まれた種子をたくさん飛ばします。
原産は欧州といわれ、日本には明治の初年に渡来した落葉高木です。北海道大学の並木などが有名で、北国の水分の多い肥沃な土壌を好みます。強風には倒れやすく、暖かいところでは虫害が多く、大木になっているものは多くありません。ここ水元公園の並木は約200本あり、この付近では貴重なものです。また、園内には枝が横に張り幅広なカロリナポプラ(花しょうぶ園)やアメリカヤマナラシ(樹木見本園)などもあリます。日本にあるセイヨウヤマナラシは全て雄株と言われてますが並木の中には何本か雌株(種不明)があります。
注記:「セイヨウハコヤナギ」の名前は、西洋から渡来したハコヤナギの意味で、「ハコヤナギ」は材から箱を作ったことに由来します。
満開の桜の木の下でお花見です。
中央広場の面積は約10haで、全体がなだらかな草地の丘になっています。跳んだり、跳ねたり、思いっきり手を伸ばして寝転んだりできます。目に映るのは広い
空ばかりです。
水元公園には自前の苗園があります。水元公園だけでなく、他の公園の植樹や街路樹にも使われているのだそうです。
水元公園苗圃
都立公園の苗圃
都営の苗圃は、都立公園や街路を整備する際の樹木を供給するために運営されてきました。平成八年には6箇所の直営苗圃がありましたが、民間の樹木供給体勢が整うなどに従い、徐々に縮小され、現在は水元公園と武蔵野公園の2箇所の苗圃を残すのみになっています。
苗圃の役割
1.公園や街路樹の整備に樹木を供給します。
2.公共工事などの際に発生する街路樹などを一時的に預かります。
3.記念樹木や希少樹木など、貴重な樹木の後継樹を育てています。
4.樹木管理などの研究や実習の場所になっています。
5.様々な樹木が見られる環境学習の場になっています。
皆さんへ
水元苗圃は公園の一部として、圃場風景を形成し、皆様に開放している苗圃です。貴重な苗木や預かり樹木もありますので、大切にしてください。
キャンプ場もあります。
「皀莢」と書いて何と読む?なかなか読みづらいですが、「サイカチ」と読みます。
サイカチ
マメ科 Gleditsia japonica
花期: 5月〜6月
果期: 10月
本州、四国、九州に分布しています。細かく明るい感じの葉を持ち、トゲだらけの枝と幹は趣のある姿をしているので、水辺の景観用としてよく植えられています。樹高はあまり高くならずに横に広がり、老木は太くずんぐりした形になります。川原を好んで生えるので別名カワラフジキとも言います。30cm位に垂れ下がるサヤは湯の中でもんで石鹸がわりに使われていました。このトゲも幼木の頃は小さく少ないのですが、老朽化するとトゲは大きくなり幹一面に生えてきます。葉は食用に、豆果はサポニンを含み、薬用や石鹸に使われ、トゲは利尿、解毒剤として利用されました。園内には実のなる木は数本しかありませんが、探してみてはいかがでしょうか?
- ポイント8 水元かわせみの里
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水元公園の西北端辺りに、水元かわせみの里があります。
水元公園 かわせみの池エリア
このエリアは水元公園の最も西側にあり、中川から小合溜に水を引いている場所で、小合溜の始まりの場所です。小合溜は古くは大場川と江戸川へつながり、治水のための遊水池や農業用のため池として機能していましたが、いまは直接はつながっていません。しかし、大場川の広々とした景観は小合溜の穏やかな景観とつながり、水元の水郷景観を形づくっています。このエリアはもともと釣堀のあった場所ですが、そのころから多くの水辺の鳥が飛来し、多くの生き物が生息していました。そのなかでもカワセミが多く観察できる場所となっております。このエリアは、これらのカワセミをはじめとする様々な生物のすみかとして、森林や草地、湿地などが組み合わさった多様な環境を復元し、いきものを身近に観察できる場所として整備されています。
かわせみ?
バードウォッチングの設備も備わっています。
水元かわせみの里の愛称で親しまれている水元小合溜水質浄化センターは、水元小合溜の水質を浄化し、かつて水元小合溜に生息していた生きものを呼び戻すことを目的として平成七年に開設されました。水元かわせみ里内にある「水辺のふれあいルーム」は、水元小合溜の水をきれいにする方法や、水辺の自然環境及び水元小合溜の歴史について、展示や講座などを通じて紹介する情報発信の場です。水辺のふれあいルーム内では、水元小合溜の魚やカメ・植物などを観察することができ、専門員による案内や解説を実施しています。
敷地の角に、巨大な石碑が建っています。
揚水工事完成の碑
この地にあった水元揚水場の完成を記念して、建てられた碑です。
要旨
水元の地は昔から農業が盛んで、葛西米の産地として知られていた。ところが、関東大震災などの影響で江戸川からの農業用水が減り稲作に支障をきたし、農家の生活は危機に瀕するようになった。そこで、上下之割水利組合が政府や東京府にかけあった結果、揚水場の建設が決まり5万円余の巨費を投じ、昭和十年(1935年)4月に工事は完成した。
水元揚水場で使用されていた巨大なポンプが保存・展示されています。
この展示物は、昭和十年(1935年)4月から平成三年(1991年)12月まで、この地にあった水元揚水場で水をくみ上げるため使用していたポンプ(昭和九年《1934年》製作)です。水元小合溜は、江戸時代につくられた、かんがい用のため池です。かつては本区の東側を流れる江戸川から、かんがい用水の自然取入れを行っていましたが、関東大震災などの影響で取水量が減少しました。そこで、小合溜を管理していた上下之割水利組合により、水元揚水場が建設されました。
水元公園西側エントランスの手前の広場は、けやきの森になっています。というか、かなり剪定されて丸裸の状態ですが。
水元公園西側エントランス けやきの森
自然環境
このエリアの自然環境は樹林と草地、湿地、水面が連続していることで多様な植物やいきものが生息できる場所になっています。その中でこの樹林環境はもともと神社林としてのタブノキやカヤ、ヤブツバキなどの常緑樹にケヤキやエノキなどの落葉樹が混ざり、たくさんの樹種が健全に生育しています。一部には茂みがあり、生き物の隠れる場所として大切な場所になっています。木の下の地面にはアズマネザサが茂っていますが、そのほかにも多様な草本が生育しています。草本は人の踏みつけに弱いので荒らさないように注意しましょう。
歴史的な遺産
- 閘門橋
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この橋は弐郷半領猿又閘門という名称で、江戸時代より古利根川(現在の中川)、小合川(現在の大場川、小合溜)の氾濫原だったこの地に逆流防止と水源確保、岩槻街道の要として明治四十二年に建造されました。都内でも珍しいレンガ造りのアーチ橋です。
- 浅間神社跡
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旧浅間神社はこの森にありましたが公園整備の際に移転し、水元猿町の鎮守・香取神社と合祀され、社合を水元神社と改めています。
閘門橋は、大場川に架かっています。
閘門橋は、土木学会選奨土木遺産に選ばれています。
閘門橋(明治四十二年完成)
閘門橋は、レンガ造アーチとしては、東京に現存する唯一の貴重な橋です。嬌名の閘門というのは、水位・水流・水量等の調節用の堰のことをいいます。江戸時代(宝永年間)この辺りは古利根川(現在・古川)、小合川(現在の大場川・小合溜)が入り込んだ、複雑な地形を有しており古利根川の氾濫地域でありました。この古利根川と小合川の逆流を防ぎ、水田の水源確保のため、さらに岩槻街道の流通路として閘門と橋が造られたと言われております。現在の橋は、明治四十二年、弐郷半領用悪水路普通水利組合によって「弐郷半領猿又閘門」としてレンガ造アーチ橋が造られました。その後、本橋は新大場川水門の完成により閘門としての役割を終え、また隣接する葛三橋に車道を譲り、歩行者・自転車道に移り変わりました。この改修に当たって、レンガのアーチ部分は原形のままとし、橋面上の修景にとどめました。アーチの橋脚部のブロンズ像は、荒れ狂う風雨と必死に闘いながら閘門の堰板を差込んでいる姿です。閘門橋は、こうした人々の水との生活史を今に伝えるものです。
水元さくら堤を通って噴水広場の脇に出ます。
水郷風景を背景にした芝木好子作の「葛飾の女」の一節が石碑に刻まれています。師である日本画家・滝川清澄への思慕を絶つため、葛飾に嫁していった女弟子の懊悩を水郷の景物を背景に美しく描いた作品です。
菖蒲の咲く頃の葛飾は美しい。田園は青葉に霞んで雲雀が鳴く。堤の桜も花見のころは人が出盛ったが、それも過ぎると水に柳の眺めのよい季節になる。湿地の多い土地柄で、田の畦にも芭蕉が咲いた。
「葛飾の女」より 芝木好子
内溜と外溜の境の遊歩道を通って対岸に渡ります。左手には先ほど通った水元大橋が架かっています。
- ポイント9 香取神社
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香取神社の創建年代は不明ですが、中世において下総国香取神宮の所役地(荘園)であったことから、香取神宮の分霊を勧請して創建されたといわれ、下小合村の鎮守社でした。小合溜の畔に位置しているために度々水害に遭っていて、その都度社殿の修築が行われました。
香取神社由来
祭神として経津主命を斎る。当社は小合溜井の河畔にあり中世葛西御厨小鮎郷と称し伊勢、香取の神領地により当地宮司鈴木氏の遠祖は此の地にあって猿ヶ俣御厨在住の占部氏と共に香取神宮の貢税を掌どった所とも言える。後小田原北条氏の勢力範囲となり、その家臣遠山丹波守の所領となって自然御厨の地域の廃滅するに至った。以来幾許もなく徳川の所領となると同時小合村の鎮守となる。当社は当地鈴木家(現宮前町会)の内宮として香取神宮の御分霊を勧請し此地小合郷に奉斎したしたことが始まりと言う。宝永元年(1704年)八月古利根川猿ヶ又堤防決壊による水害で古い記録を失い創立の由緒年代については明らかでないが社蔵の板碑に正慶二年(1333年)文和四年(1355年)のものがあり、葛西御厨当時小鮎郷と称して下総香取神宮の神領地関係から推察し鎌倉期にさかのぼると思われる。
創立以来社殿の再建が行われたが文政十一年(1828年)十二月宮司鈴木大和正安治氏の時社殿造営が行われ、次いで昭和四年十月宮司鈴木一三氏の際再建された。本殿は文政十一年の建造物で向拝付総檜造りである。尚社殿に奉掲する「香取社」の社号扁額は勝海舟安房書になるもの、境内御手洗石は享保二十年(1725年)九月氏子中によって奉納されたもの。
6月下旬の「夏越の祓」では「茅の輪くぐり」の神事が行われています。
葛飾区登録無形民俗文化財
茅の輪くぐり神事
毎年6月晦日の夏越の祓(六月祓)に茅の輪をくぐれば疫病や穢れを祓うという信仰は根強く、葛飾区内では香取神社のほか4か所の神社(上小合日枝神社・金町葛西神社・上平井天祖神社・渋江白髭神社)にこの行事が伝わっています。茅の輪の材料のマコモは、氏子によって水元公園周辺から刈り取られ集められます。完成した茅の輪の直径はおよそ2mにもなり、鳥居の中に吊されます。当日は茅の輪くぐりのほか、氏子が持参した「ひとがた」を神官が拝殿に据えた炉の火でお炊き上げを行い、最後に囃子連中の先導で小合溜に灰を散布します。六月大祓行事の諸要素を今日まで伝承している意義深い神事です。
香取神社前の遊歩道は、「こあゆの小路」と呼ばれています。
水路の脇に句碑が置かれています。石井露月は俳人で、雨に濡れた若葉に月影が差すのを見て露月と号するようになりました。脚気に悩まされながらも度々上京して正岡子規に師事し、本格的に俳句を学ぶようになりました。後半の人生は医師免許を得て郷里の秋田県で医院を開き、俳誌を刊行するなど村の発展に尽くしました。
夕風や
さいかちの実を
吹き鳴らす
石井露月
水路に架かる橋にも「皀莢橋」という名前が付けられています。
釣り人の後ろを歩く鳥はオブジェかと思いましたが、本物のようです。誰も気に掛けないので、悠々と歩いていますね。
内溜(うちだめ)の東岸を進んで岩槻街道の岩槻橋交差点に出て、葛飾区立水元図書館前の桜並木を東京理科大学方向に進みます。
東京理科大学の手前に花之木稲荷神社があります。花之木稲荷神社は、中川付近の花の木という所からこの地に遷座した経緯から、旧新宿(にいじゅく)5丁目が氏子となっています。そのためか、あまり整備されていないような印象がします。
東京理科大学葛飾キャンパスは、平成二十五年(2013年)4月に三菱製紙中川工場跡地に設置されました。製紙業界の不況で、平成十五年(2003年)3月に中川工場は閉鎖されたとのことです。東京理科大学葛飾キャンパスは、キャンパスアメニティーが充実した環境で、先端融合分野を研究する「イノベーションキャンパス」として整備されています。キャンパスには門や塀が無く、隣接する「葛飾にいじゅくみらい公園」と一体化させることで「学園パーク型キャンパス」のコンセプトも掲げています。そのことで、研究・教育機関としてだけではなく、地域住民の憩いの場や地域活性化の拠点としても機能しています。
ゴール地点の金町駅北口に着きました。
ということで、葛飾区で十二番目のコースである「K水元・柴又エリア」を歩き終えました。次は葛飾区で十三番目のコースである「L金町・亀有エリア」を歩きます。
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