- L金町・亀有エリア
- コース 踏破記
- 今日は葛飾区の「L金町・亀有エリア」を歩きます。金町駅南口をスタート地点として、小岩用水緑道を進み、中川橋を渡って、亀有ゆうろーど仲町商店街を経て亀有駅に至ります。コース途中には、漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」に出てくる多くのキャラクターの像が建っています。
L金町・亀有エリア
「L金町・亀有エリア」の歩行距離は約5.1km(約7、290歩)、歩行時間は約1時間17分、消費カロリーは約231Kcalです。
スタート地点:金町駅南口
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- ポイント1 金町栄通り商店会
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- ポイント2 新宿交通公園
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交通ルールを学べるほか、土日祝日には子どもも大人も乗れるミニSL(有料)ガ園内を駆け巡る。
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- ポイント3 小岩用水緑道
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- ポイント4 地蔵菩薩石仏群
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- ポイント5 金阿弥橋跡
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- ポイント6 一里塚
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千住宿から一里(約4キロ)地点を示す塚。水戸と江戸を結ぶ旧水戸佐倉道にちなみ、黄門ご一行様の像に。
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- ポイント7 亀有食品市場
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- ポイント8 亀有香取神社
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鎌倉時代から続く亀有の鎮守。9月には例大祭が行われる。
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ゴール地点:亀有駅北口
スタート地点の金町駅南口から歩き始めます。
駅前広場に面して、葛飾柴又について解説した案内板が立っています。
国選定 重要文化的景観 葛飾柴又の文化的景観
重要文化的景観の特徴
中心部
- @帝釈天題経寺
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帝釈天題経寺は、庚申信仰により参詣客を集めた江戸近郊の流行寺の一つでした。江戸時代から近代にかけて、 旧堂を改造、移築しながら新堂を加える独特の造営過程によって整えられたものです。境内からは奈良時代の遺構も発見されています。
- A帝釈天題経寺門前
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帝釈天題経寺の門前は緩やかに湾曲する通りに沿って店頭対面販売形式の店舗が連続しています。周辺農家が副業的に店を営んだことから始まり、その地割や建物形式、販売品目等から、その歴史を読み取ることができます。
周辺部
- B国分道(帝釈道)沿い
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古来、矢切に向かう街道が通る微高地に、柴又八幡神社、真勝寺や旧家が残り、江戸近郊の農村における居住域であったことを伝えています。
- C帝釈天題経寺南方・江戸川河川敷沿い
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帝釈天題経寺の南側から江戸川河川敷に沿った微高地に旧家が存在しています。和洋折衷の建物と和風庭園からなる「山本亭」は関東大震災を機に所有者が移り住み造られました。
縁辺部
- D柴又用水の受水域
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かつて柴又用水やその支流が縦横にめぐっていた農地でした。水路跡に加え、関東大震災を機に移転してきた宝生院を見ることができます。
- E金町浄水場と取水塔
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微高地の北側に位置する金町浄水場は大正十五年に給水を開始し、拡張を繰り返し今日に至ります。
- F江戸川と河川敷
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江戸川とその河川敷は近世・近代にかけて改修が重ねられ、江戸川舟運や渡河交通の拠点となっていました。矢切の渡しがその歴史を伝えています。
葛飾柴又の文化的景観とは
柴又の成り立ち
柴又は葛飾区の東部、江戸川右岸の微高地(海抜約2〜3メートルの土地)に位置しています。6世紀以降、標高の高い場所に集落が形成され、現在の柴又八幡神社本殿裏にあたる場所に古墳が造られたと考えられています。古代から近世初頭にかけて柴又八幡神社の前を通る古い街道である国分道は、帝釈道とともに太日川(現在の江戸川)対岸の下総国の渡河地点に繋がり、柴又の南北を走る旧東海道・水戸街道を柴又で繋げる役割を果たしたため、柴又は水陸交通の要衝の地として機能し、多くの人や物資が行き交いました。1629年に帝釈天題経寺が開かれ、1779年に帝釈天板本尊が発見されると参詣が急増します。また、1835年に柴又用水が開削されると農作物の生産量が増え、江戸の食糧供給地として成長を遂げていきました。明治中期以降、帝釈天の参道沿いには近隣農家が副業として煎餅屋や料亭を営み始めます。明治の帝釈人車鉄道の開業、大正の京成電気軌道による鉄道網の整備により多くの人が行き来するようになり、東京近郊の行楽地として今日見られる門前の景観が形成されました。近代、特に関東大震災(1923年)以降の急激な人口増加を背景に、大正時代には金町浄水場の開設、昭和初期には区画整理などが行われました。戦後のさらなる都市化を経て今日に至っています。
重要文化的景観の選定について
文化的景観とは、地域の風土を活かして人々が暮らしの中で作り上げてきた景観のことです。この風土、暮らしに着目すると、葛飾柴又の文化的景観は「中心部」「周辺部」「縁辺部」の3つのエリアとして捉えることができます。江戸川近くで古代から続く人々の生活や往来を基底としながら、近世に開基された帝釈天題経寺と近代になって発展したその門前が「中心部」にあり、その基盤となったかつての農村の様子を伝える「周辺部」がその周囲を包み、さらにその外側を19世紀以降、都市近郊の産業基盤や社会基盤の整備が行われた「縁辺部」が取り囲んでいます。各エリアには、それぞれの特徴を示す帝釈天題経寺や参道店舗、柴又八幡神社をはじめとした社寺、旧家や農地、金町浄水場などが現存するとともに、柴又用水のように機能は失われていても、その痕跡を確認できるものも多くあります。こうした葛飾柴又の文化的景観が評価されるとともに、葛飾区として保存計画を策定し、文化的景観を保存するための取り組みを行っていることが認められ、2018年2月13日に文化的景観のうち特に重要なものであるとされる国の重要文化的景観に選定されました。
駅前広場の脇に京成金町駅があります。京成金町駅は、京成金町駅と京成高砂駅を結ぶ京成金町線の起点・終点であり、JR常磐線金町駅と100mほど離れていますが、相互乗換ができます。営業区間は僅か2.5kmの全線単線の路線で、中間駅は「柴又帝釈天」・「葛飾柴又寅さん記念館」・「矢切の渡し」などの最寄駅の柴又駅のみです。
駅前広場に面して、街の雰囲気とそぐわない高層マンションが聳えています。金町六丁目地区第一種市街地再開発事業で平成二十一年に誕生したヴィナシス金町です。それまで住宅や飲食店が密集していた地区内の環境改善と土地の合理的かつ健全な高度利用と都市機能の更新を目的とし、葛飾区画街路第5号線などの公共施設・超高層住宅・快適な商業空間などの複合施設として整備されました。金町駅周辺地区全体の街作りを先導することを目標に掲げた、葛飾区内で初めての組合施行による再開発です。ヴィナシス金町は、敷地面積約9千u・延べ面積8万u、店舗・住宅・駐車場・公益施設が入居する地上41階・高さ138mの建物です。1階と2階がスーパーマーケット・カルチャーセンター・クリニックモール・金融機関などの商業施設、3階が約5千uの広さをもつ区立中央図書館、低層棟の4階〜7階が自走式で256台収容可能の区営駐車場、高層棟の4階〜39階が住宅になっています。また、地下には住宅用の駐車場・駐輪場と店舗用の駐輪場が整備されています。敷地北側にはカリヨン(12鐘)が設置された広場があり、イベントなどが開催できるようになっています。「ヴィナシス金町」の名称の由来ですが、生まれ変わる金町の象徴として、空に輝く一番星の金星(女神ヴィーナス:Venus)のイメージと、水と緑の街・金町に住む人にとっての憩いの場(オアシス:Oasis)となることを期待して、ヴィナシス(VENASIS)と名付けられました。
- ポイント1 金町栄通り商店会
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京成金町線の踏切を渡った先から、金町栄通り商店会が延びています。タイル貼りの細い通りには居酒屋・おでん・もつ焼き・焼き肉・スナックなどの看板を掲げた飲食店が軒を連ねています。優しい老夫婦が切り盛りするもつ焼「松っちゃん」のお勧めは自家製果実のリキュールで、青唐辛子味噌を付けて頂くもつ焼きがとても美味しいとのことです。
- ポイント2 新宿交通公園
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金町二丁目交差点で国道6号線水戸街道を横断し、住宅街を折れ曲がって進んだ先に、新宿交通公園があります。新宿交通公園は、交通公園としての施設の他に子どもも大人も乗れるミニSL(有料)が園内を走っています。ミニSLの線路は、一周約320メートルあり、途中には踏切やトンネルも設けられています。年3回の鉄道教室では、ミニSLの運転体験もできます。
新宿交通公園
この交通公園は、主として児童の健全な遊戯の用に供し、あわせて児童に交通道徳を体得させることを目的とし、本区において初めての交通公園として昭和四十四年6月に完成したものです。園内では、 自転車、ゴーカート、豆自動車等の乗り物を通じて、楽しく遊びながら、正しい交通ルールとマナーが身につくよう、歩車道の区別をつけ、横断歩道、信号機、各種道路標識を設置すると共に、都バス、船、灯台等も設けました。また、昭和五十八年からの改修工事では全面的な見直しをはかり、今まで以上に楽しい公園としてご利用いただけますようミニSL及びミニDLの運転をはじめました。
ミニSLの立派な駅舎が建っています。
蒸気機関車は、石炭を燃やし、水をあたためて作った蒸気で走ります。日本で最初に蒸気機関車が走ったのは明治五年(1872年)で、英国から輸入したものです。黒い煙と白い蒸気を吐きながら力強く走りつづけてきた蒸気機関車も、エネルギーの利用効率が低く、又、こわれた時の補修に大変手間がかかるために、今ではほとんど姿を消してしまいました。当公園内のミニ鉄道の線路は3線式で、国際規格に従って作られ、線路の巾は、狭い方が5インチ(127ミリメートル)で、主としてヨーロッパで発達し、広い方が71/2インチ(191ミリメートル)で、アメリカで広まりました。日本の国鉄在来線の線路の巾は1067ミリメートル(新幹線は1435ミリメートル)ですから当公園の場合の線路の巾は、それぞれ実物の約1/9と1/6です。
立派な改札口と駅ホームも設けられています。
踏切も本格的な造りです。
展示してある実物のバスには乗ることもできます。
ちょっと昔の消防車も展示してあり、消防車の屋根から滑り台として遊べます。
ゴーカートもあります。足こぎかな?
- ポイント3 小岩用水緑道
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新宿交通公園の前には小岩用水緑道が通っています。小岩用水は、水元公園の小合溜井を水源とし、江戸時代に整備された灌漑・農業用水路のひとつです。小岩用水は、上下之割用水を大堰枠(現在の大堰枠交差点付近)で分水し、新宿(にいじゅく)・高砂・鎌倉・小岩などを経由し、南小岩付近まで延びていました。その跡地を整備したのが小岩用水緑道です。
小岩用水の沿革
小岩用水は、小合溜井(現在の水元公園)を用水源とする上下之割用水の主要分水路です。江戸時代中期の享保十四年(1729年)、八代将軍徳川吉宗の幕府勘定方であった井沢弥惣兵衛は利根川の旧河道を締め切って小合溜井を設け、中川・上下之割用水を整備しました。上下之割用水は東葛西領50余村を潤す灌漑用水で、岩槻橋を経て大堰枠で小岩用水を、新宿村と曲金村境付近で東井堀、さらに細田村と奥戸新田付近で西井堀と中井堀を分流していました。小岩用水は下之割と呼ばれた現在の江戸川区方面への主要用水路でした。当時の葛西領は上下之割用水と西の葛西用水の二大用水の本・支流が縦横無尽に走る水田地帯で、葛西3万石の米どころとなっていました。また畑地では小松菜などの野菜が作られ、大消費地江戸を支える農村地帯として重要な役割を担っていました。近代に入って都市化の進行とともにこれらの用水路は次第にその役割を減じ、戦後は工場や家庭からの排水が流れ込む排水路となっていきました。昭和三十九年(1964年)4月、葛飾区へ移管され、その後下水道の完備とともに緑道として整備されて現在に至っています。
浜街道踏切は総武貨物線の踏切で、旧水戸街道が交差しています。水戸街道は千住から水戸までで、その先の水戸から岩手や宮城の陸前までは陸前浜街道と呼ばれていた道路でした。明治に入り、千住から岩手までを陸前浜街道の名称になった事から、陸前浜街道や浜街道という名前が水戸街道沿いには残っています。
- ポイント4 地蔵菩薩石仏群
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新宿(にいじゅく)小学校の南の変形交差点の一角に地蔵菩薩石仏群があります。この三角地の南側の路地はかつての水戸街道の旧道で、金町あたりで現在の国道6号線筋になって北東へ伸びていました。この旧水戸街道は柴又帝釈天への道でもあり、その為「帝釈道」とも呼ばれています。石仏群の先には帝釈道碑が建っています。自然石で造られたこの帝釈道碑は、明治三十年(1897年)7月に建てられました。
千住から東に向かった水戸街道は、明治時代半ばまで現在の中川橋を渡し船で渡り、新宿村に入り、そこから一旦南に下って新宿日枝神社で東に転じ、現在の水戸街道の辺りで佐倉街道と出合いました。佐倉街道と合わさって北上すると現在地に至るという道筋になっています。従って、この地点は、水戸街道・佐倉街道・帝釈天道と3つの街道が一緒になっていた交通の要衝でした。道路に囲まれた三角地にはベンチがあり、地元のご老人たちが集って世間話に花を咲かせています。
記念碑
地蔵菩薩石仏等十三体並びに八大龍神石碑を、旧水戸街道道路拡幅及び旧上下之割用水埋設工事に伴い、新宿四丁目二番地先より現在地に移転。
石仏群の右端に並ぶのは舟型光背型の六地蔵尊です。同時に造立されたもので、造立年は享保三年(1718年)10月と刻まれています。それぞれ部分的な欠損は見られるものの、補修がなされています。
その左には2基の六十六部供養塔と庚申塔があります。右の小さい方の駒型の供養塔は、正面に「奉納日本廻国六十六部供養塚」とあり、宝暦十一年(1761年)10月の造立となっています。中央の駒型の供養塔にも「奉納日本廻国六十六部供養塚」とあり、こちらは宝永五年(1708年)9月の造立です。「乃至法界自他平等?主安楽即身成仏」とあります、左の駒型庚申塔は、日月・青面金剛像・邪鬼・二鶏・三猿が描かれていて、享保七年(1722年)11月の造立です。刻銘は「奉建立青面金剛一躯為二世安楽也」とあり、三猿の下には願主名と共に新宿町の銘があります。その左には2基の地蔵菩薩像があり、右の舟型光背型の地蔵菩薩像は宝永三年(1706年)10月の造立で、「奉造立六道能化地蔵菩薩二世安楽処」と刻まれています。左の方は地蔵なのかその他の仏なのかは不明で、右上が大きく欠損し、尊顔も判別がつきません。造立年は宝永七年(1710年)12月と読めます。
かっての水路の跡のような緑道を進みます。水元から流れていた用水路跡みたいです。
国道6号水戸街道の中川大橋東交差点の手前に石碑が建っています。
区指定有形民俗文化財
水戸街道石橋供養道標
この道標は、水戸道と佐倉道の分岐点に、地域の万人講・不動講・女中講が共同で架橋した27の石橋供養のために建てたものです。建設は安永二年(1773年)10月から同六年11月にかけて行われました。石工は新宿町の中村佐右衛門で、造立時には道標の頭頂部に仏像が載せられていました。水戸佐倉道は千住宿から分かれて葛西領に入り、宿場町新宿から佐倉道を分岐しました。この形で街道が整備されたのは天和元年(1681年)以降で、元佐倉道が本来の街道筋でした。両街道が江戸川を渡る地点には、水戸道に金町松戸関所、佐倉道に小岩市川関所が置かれました。佐倉道は、成田山新勝寺や千葉寺(千葉市)への参詣が盛んになると、成田道や千葉寺道とも呼ばれるようになりました。
正面に「右 奈りだちば寺道」・「左 水戸街道」とあり、左側面に「安永六丁酉年八月吉日 石橋供養塔」、右側面に「成田山 さくらミち 万人 不動 女中」、背面には「安永二年巳ノ十月廿三日より酉ノ十一月十三日まで 石橋廿七ケ所建立仕候爲供養尊像辻石立置申候」と刻んであります。
- ポイント5 金阿弥橋跡
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国道6号水戸街道の手前で西に向かいます。「金阿弥橋」と書かれた親柱と欄干の一部が残っています。表札のような字体で、後からプレートを貼り付けたような感じです。橋名の由来は定かではありませんが、付近にお寺が多いので「阿弥陀様」の字を頂いたのかなと想像します。
枡形になった道路の奥まった所に日枝神社があります。日枝神社の創建年代は不明ですが、室町時代末期と推測されています。江戸時代には「山王社」という名称で、水戸街道の宿場町の新宿の鎮守でした。明治時代に「日枝神社」と改称しました。元々は現在地よりも西に位置していましたが、享保十四年(1729年)の中川開削工事のために現在地に移転しました。日枝神社の赤い鳥居は都内では珍しい「神武山王鳥居」と呼ばれるもので、山王信仰関係の神社(山王神社・日枝神社・日吉神社など)にみられる鳥居です。
西念寺は、文安五年(1448年)に僧浄円が結んだ草庵が前身となって、天文元年(1532年)に覚蓮社法誉によって開山されました。元禄十四年(1701年)に十六世住職尊誉が恵心僧都源信作といわれている阿弥陀三尊を安置して西念寺の本尊としました。江戸時代には、末寺7寺を擁していました。
かつて旧中川橋の袂に聳えていたタブの木の切り株が、中川橋東詰にある小さな公園にモニュメントとして置かれています。中川を渡る旅人の道しるべとなっていたタブの木ですが、新しい橋をかける際にタブの木の移転も考えられたそうですが、調査の結果不可能と分かりあえなく伐採されたそうです。説明文には当時の写真や絵が載せられていますが、なかなか見事な光景だったようです。
中川橋橋詰のタブの木
〜中川の歴史〜
中川は、埼玉県および東京都を流れ東京湾に注ぐ一級河川であり、利根川水系の支流です。起点は埼玉県羽生市街地にあり、起点を示す石橋が設置されています。江戸時代初期までは利根川や荒川の本流でしたが、利根川の東遷事業などで本流が変わり、隅田川と利根川の間を流れる川で「中川」と呼ばれるようになりました。江戸時代の中川には橋がひとつもなく、当時の中川橋周辺には、旧水戸街道の亀有村と対岸の新宿町を結ぶ「新宿の渡し場」がありました。近くには「柴又の帝釈天」があることなどから、参拝客や街道を往来する人で大変賑わっていたようです。
〜タブの木の経緯〜
中川橋東橋詰にあったタブの木は、昔から街道を往来する人々の”道しるべ”であったと伝えられており、地元住民から長く親しまれてきました。しかし、平成四年から始まった中川橋架替え事業に伴い行った樹木調査の結果、移植が不可能な状況であったため、やむなく伐採されることとなりました。現在植えられているタブの木は、伐採に先立って穂を採取し、育てた苗木です。また、”旧中川橋の名残”として、苗木の他、以前のタブの木の一部で製作したモニュメント、及び旧中川橋両岸の親柱を設置しております。
保存されている旧中川橋の親柱です。
中川橋を渡った右手に、ARIOという巨大なイトーヨーカドーと専門店街が揃うショッピングモールが現れます。ARIOとは、ARIEL(「空気の精」の意)と語尾に「o」を組み合わせた造語で、「Ario」を表す4字には、それぞれ「Amusement:娯楽」・「Relaxation:健康/安らぎ」・「Information:情報発信」・「Originality:創造性」といった意味が込められているとのことです。
亀有さくら通りに入って直ぐに右手の道を進みます。慈眼寺は、天正四年(1576年)に元真によって開山されました。慈眼寺は低地にあり、度重なる水害で記録を失っているために詳細な由来は不明となっています。
- ポイント6 一里塚
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つくし通りで右折した直ぐ先に江北橋通りが通っています。この道は、かっての水戸街道の道筋です。旧水戸街道に出た左手に、旧水戸街道の一里塚跡の碑が建っています。助さん・格さんを従えた水戸光圀公の像が並んでいます。
亀有の一里塚は、千住宿から1里・江戸日本橋から3里の所に位置しています。実際の一里塚はこの地点から東へ10mほど先にありました。明治の末頃までは塚の跡が残っていましたが、この場所に移されました。
一里塚跡
一里塚は、江戸日本橋を起点に、一里(約4km)ごとに設けられました。塚は道路の両側に設置され、榎などが植えられました。榎は根を深く広げることから、塚の崩壊を防ぐ役割があったようです。一里塚の起源については諸説ありますが、現在では一里塚といえば、慶長九年(1604年)に設置が命じられた江戸時代のものをさします。亀有の一里塚は、千住宿から一里、江戸日本橋からは三里のところに位置します。現在ではその様子を伺うことはできませんが、明治の末頃までは塚の跡が残っていたようです。塚の位置は、ここから東へおよそ10m先にありました。
一里塚碑の右手に、漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」のキャラクターの一人である本田速人の像が建っています。本田速人は新葛飾警察署交通課白バイ隊所属の巡査で、いつも制服の袖をまくって半袖にしていて、手袋をつけず素手でバイクのハンドルを握るという外見的特徴があります。元暴走族「関東連合」の初代総長で、九州や大阪決戦で1人で暴走族1000人を潰し、数百台のバイクを破壊したことから、警官になっても暴走族の間では「レジェンド・オブ・ダークネス」と慕われるカリスマ的存在であり、交通課のツーリング先で暴走族の迷惑行為に遭遇した際には両津に無理矢理バイクに乗せられて暴走族の中へ突っ込まされたが、暴走族はリーダーを含め全員が本田を見た途端恐れをなして降伏し、以降はアイドルの追っかけの如く交通課に大挙して押しかける事態になりました。
「ゆうろーど」商店街に入ります。歩道脇に「少年両さん」の像が建っています。
こちら葛飾区亀有公園前派出所
少年両さん像
勘吉・豚平・珍吉像
1976年に「週刊少年ジャンプ」(集英社)で連載を開始して以来、亀有のみならず全国の人々に愛され続けている「こちら葛飾区亀有公園前派出所」。30年もの長きにわたり多くの笑いと感動が生み出されています。物語の舞台であり作者秋本治先生の出身地でもあるここ亀有には、主人公の両津勘吉巡査長が毎日勤務している派出所があり、今も変わらぬ古き町並みに人情あふれる人々が暮らしています。勘吉・豚平・珍吉(とん・ちん・かん)のいたずら仲良し3人組。中央の小学生の頃の「両さん」が笑顔で握手を求めているこの像は、制服姿の北口駅前像・祭り姿の南口駅前像と共に物語の主人公「両さん」が亀有を訪れる人々にとってより身近に感じられるようにとの願いをこめて建立されました。
- ポイント7 亀有食品市場
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アーケードが付いた「ゆうろーど仲町商店会」に入ります。「亀有銀座商店街ゆうろーど」は、亀有駅の方からA街区・B街区・C街区・D街区・E街区と、5つの区域に分かれています。全体でのイベント活動の他に、街区毎でも活動しています。亀有食品市場は、ゆーろーど仲町商店会の中程にあります。テレビ東京の「アド街ック」でも紹介されたことのある時代が止まったような空間です。この辺りは、大正から昭和時代にかけて大きな工場ができ賑わっていました。その後も第二次世界大戦中やその直後には焼け出された人たちがこの街に移転するなどして、銀座商店街あたりは発展したそうです。「亀有食品市場」の通路は「Y字」状で、出入口は3か所あります。通路の長さは精々30メートルくらいのコンパクトな市場で、鮮魚店や精肉店はありません。ほぼ八百屋さんと弁当惣菜店で場所を占めています。建物のボロッチさ加減からみて、昭和二十年代中盤から後半の建物と思われます。絶対に建築基準法には適合していないと思います。
歩道の脇に、こち亀のキャラクターの一人である「中川像」が建っています。中川圭一は漫画の中ではアイドル的存在で、育ちがよく、イケメンの設定になっています。中川圭一は世界でもトップレベルの大企業「中川コンツェルン」の御曹司で、階級は巡査です。容貌は美形、長身で、多才な特技を持っています。普段は物腰穏やかで落ち着いた好青年ですが、パニックになって感情が高ぶると言動が粗暴になる傾向があります。中川圭一は、特に射撃と逮捕術は天才的な腕前を持っています。また、運転に関してもプロレーサー並の実力を持っています。
- ポイント8 亀有香取神社
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環七を歩道橋で渡った先に、亀有香取神社があります。亀有香取神社は建治二年(1276年)に創建され、亀有村の鎮守でした。境内には、かつて「香取の松」と呼ばれる巨松があり、中川を行きかう船頭の目印になったといわれています。しかし香取の松は枯死してしまい、現存はしていません。江戸時代までは氏子たちによる人形芝居が行われていましたが、明治時代になって廃れてしまいました。境内の摂末社の内の6社は、明治時代の常磐線の建設により立ち退かされ、亀有香取神社の摂末社になりました。亀有香取神社は足腰健康の神様として知られ、マラソン大会などに参加する選手達が試合前にお守りを求めて参詣します。
巨大な案内板が立っています。これでも案内板の右半分です。
勝負・開運厄除け・足腰健康の神様
亀有総鎮守 香取神社
御祭神
◆主祭神 経津主大神(ふつぬしのおおかみ)
◆相殿 武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)
岐大神(くなどのおおかみ)
御神コ
勝負・開運厄除
スポーツ振興
足腰健康
家内安全、交通安全
主祭神であります経津主大神は神剣の化身と考えられている剣の神さまであり、武神(闘いの神さま)として古くより崇敬されております。また相殿にお祀りされている武甕槌大神は勇猛に鳴り響く雷の神さまであり、同じく武神として古くより崇敬されています。このことから現在では「何事にも打ち勝つ勝負、開運厄除の神さま」として広く篤く崇敬されております。同じく相殿でお祀りされております岐大神は猿田彦神と同一神とされ、道案内・道を導く神様として足腰健康の神様、また外部からの災いを防ぐ家内安全の神様として多くの方に崇敬されております。
◆御由緒
鎌倉時代建治二年八月十九日(1276年)、当時亀有の地は下総国葛西御厨亀無郷と呼ばれ、香取神宮の神領地でありました。そのことから本宮の御分霊(経津主大神)をお迎えし郷の鎮守様としてお祀りし、多くの人々がこの地に移り住み始めました。その後、鹿島(武甕槌大神)・息柄(岐大神)の両大神を合わせおまつりし、東国三社明神のお社として村人・近隣の人々を守り続け、約七百三十年の時を経て現在に至ります。また亀有の地は、古くは「亀無」「亀梨」と呼ばれていました。元々この辺りの土地は沼地が多く、亀の背のような島状の土地でありました。そのことから「亀のような形をなす土地」として地理的状況から「かめなし」という土地名が生まれたと考えられています。当時葛西御厨(神領の一種)の範囲と所領高を明記した応永五年(1398年)の「下総国葛西御厨注文」や、北條氏や家臣に諸役を賦課するために各人の役高を記した永禄二年(1559年)の「小田原衆所領役帳」にはいずれも「亀無」「亀梨」の記載がみられます。「亀無」から「亀有」となった由来は諸説様々で定かではありませんが、「なし」の意味を嫌ったものだと思われます。正保元年(1644年)江戸幕府による「正保改定図」から「亀有」としたようです。
◆香取神社のかみさまのおはなし
日本最古の伝志である「日本書記」によると、はるか昔、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が日本の国を治めようとしましたが、荒ぶる神々が争いをやめず非常に乱れていました。天照大御神は八百万神(やおよろずのかみ)に相談し、様々な神様を日本の国へ派遣しますが、統治は上手くいきませんでした。困り果てた天照大御神が八百万神に慎重に相談させ、話し合いを重ねた結果、神々は口を揃えて、経津主神(ふつぬしのかみ)こそふさわしいと申し上げました。そこへ武甕槌神(たけみかづちのかみ)が申し出られたので、共に出雲に派遣されることになりました。経津主、武甕槌の二神は出雲国の稲佐の小汀(いなさのおはま)に着いて十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さに突き立て、武威を示されると、大国主神(おおくにぬしのかみ)は「大御神の御命令に全く異議はありません」ということで、平国の広矛(くにむけのひろほこ)を受け取り、二神は円満に国譲りを実現いたしました。更に岐大神(いきおおかみ)の道案内、先導により国内を巡行し、荒ぶる神々を平定して日本建国の基礎を築き、天照大御神の元へ復命されたのです。ことに東国の開拓と民生の安定に多大な功績を示したとされています。以上の物語を「日本書記」では、葦原中国平定、または国譲りと言います。
地名「亀有」に因んだ阿吽一対の亀像が鳥居の前に奉納されています。この亀像は、万延元年(1860年)に建立された旧社殿の棟の両端にあった縁(ゆかり)の亀形瓦を原像として造られたものとのことです。
阿吽一対の亀像のいわれを記した石碑が建っています。
家内繁栄
健康長寿の亀
旧亀有村はその昔、亀甲の形を「成す」土地であったことから「亀無」「亀梨」と呼ばれ、応永五年(1398年)「下総国葛西御厨注文」や、永禄二年(1559年)「小田原衆所領役帳」にはいずれも「亀無村」「亀梨村」と記載されているが、「なし」の言葉を忌み嫌い、正保元年(1644年)江戸幕府による「正保改訂図」の製作から「亀有」としたようです。葛飾区登録有形文化財「亀形瓦一対」は、万延元年(1860年)建立された旧社殿の棟瓦として、頭部は龍、胴体が亀という神亀が阿吽一対で両端に置かれたもので、台座の波形は地元中川の波を表していると云われており、「亀有」という地名に因んだ亀を像った棟瓦は全国でも珍しく、平成二十年現在葛飾区郷上と天文の博物館に寄託されています。此の度、香取神社前宮司唐松豪夫、美代夫婦の念願であった亀有町氏子の家内繁栄、健康長寿の願いを込めた「亀形死一対」を模した狛亀像が建立されました。
「亀形瓦」を解説した案内板も立っています。
葛飾区登録有形文化財
亀形瓦ー対
旧亀有村は昔「亀無」又は「亀梨」と呼ばれていました。当時の葛西御厨(神領の一種)の範囲と所領高を明記した応永五年(1398年)の「下総国葛西御厨注文」や、北条氏が家臣らに諸役を賦課するために各人の役高を記した永禄二年(1559年)の「小田原衆所領役帳」にはいずれも「亀無」「亀梨」の記載がみられます。「亀有」となった由来は定かではありませんが、「なし」の意味を嫌ったものだと思われます。正保元年(1644年)江戸幕府による「正保改定図」の製作から「亀有」としたようです。万延元年(1860年)建立の旧社殿の棟瓦として両端に置かれていた亀形瓦は阿吽一対で、向かって右側の「阿形」の亀は首を左へ、左側の「吽形」の亀は首を右へ曲げ、いずれも正面に向くようになっています。製作年代や作者は伝承がなく無銘のため明らかではありませんが、「亀有」という地名に因んだ亀を象った棟瓦は珍しい例として注目されます。現在は葛飾区郷土と天文の博物館に寄託されています。
「玄恵井の碑」が建っています。江戸時代、亀有の井戸水は水質が悪く、どこの水を汲んでも水が濁っていました。このため、水を飲むには、砂の入った器を使って井戸の水を綺麗にしなければならず、住民は苦労していました。そこで、水谷又助という幕府の役人が山崎玄恵という老人の話をもとに井戸を探したところ、1805年の正月にそのまま飲める綺麗な水が出る井戸を掘り当てました。この井戸水は、村の約40カ所に引かれ、亀有に住む人たちの飲み水として使われ、この井戸は山崎玄恵の名をとって「玄恵井」と呼ばれるようになりました。そして、水を掘り当てた日から8年目の1813年の正月に、亀有香取神社の境内に石碑「玄恵井の碑」が建てられました。この石碑には、井戸を掘り当てたことが書かれています。
近年の亀有の歴史を写真と共にふり返る巨大な案内板が立っています。
亀有今昔物語
「あの頃の亀有はどんな街だったんだろう・・・」このコーナーでは、現存する写真資料をもとに、現在の亀有と昔の亀有を見比べ、街の歴史を探ることができます。現在ではすっかり見ることのできなくなった懐かしい光景や、今でも面影のあるあの建物なども。写真の中には明治時代の貴重な写真なども掲示しています。昔の写真を参考に、今の風景を訪ねてみませんか?
昭和五十一年 香取神社鎮座七百年祭
昭和五十一年香取神社が亀有の地に鎮座されて700年を記念し、記念事業として玉垣、西参道大鳥居、石参道、手水舎の境内整備を行いました。又、秋の大祭には戦後それまで宮神輿の巡幸を牛車にて行っていたものを、町の有志が香取会雷電を結成し戦後初めて宮神輿を担いで町内巡幸を執り行いました。
亀有駅前南口再開発 リリオ誕生
再開発
昭和五十年代、南口駅前の整備計画が協議され昭和五十四年葛飾区が基礎調査を行い、昭和五十七年駅前有識者による「亀有駅南口地区再開発地元連絡協議会」を設立。同年、亀有駅南口地区再開発計画の概要を発表、昭和六十年日本住宅公団による再開発事業としてスタートし、平成四年に着工。平成八年4月にリリオ商店会がオープンとなりました。
亀有銀座商店街(ゆうろーど)
昭和五年亀有駅〜水戸街道を結ぶ亀有銀座通りが開通。昭和六十二年、愛称「ゆうろーど」に。昭和初期には突き当りに亀有警察署がありました。
日本板紙〜アリオ亀有
明治三十年(1897年)亀有駅の開設後、大正六年(1917年)に中川橋の側の20、000坪を超える土地に日本紙業亀有工場(のちの日本板紙亀有工場)が出来ました。その後に出来た日立亀有工場(現在は閉鎖)と共に、それまでの農業の街から商工業の街へと大きく変貌させる一翼を担いました。平成十五年(2003年)に亀有工場は閉鎖されましたが、その跡地には平成十八年(2006年)アリオ亀有ショッピングセンターが開店し、亀有を始め近隣の多くの人々が訪れている。
亀有駅
明治三十年5月17日開業。昭和十一年電化され、昭和四十四年に高架となりました。高架となる前は南北を繋ぐ踏切が「開かずの踏切」と言われ、南北の行き来に大変時間がかかったそうです。
曳舟川
曳舟川は万治二年(1659年)に越谷の瓦曽根溜水から引かれた亀有上水、葛西用水が元と言われております。亀有上水は本所、深川に住む武家屋敷の飲料水に当てられ、葛西用水はこの辺りの農家の水田を潤すもので、亀有中に用水路がありました。その後享保七年(1722年)亀有上水が廃止となりますが、この水路を利用して片岸から網をつけて引く舟(曳舟)が登場しました。これが「曳舟川」の名前の由来となりました。現在北側は埋め立てられ道路となっていますが、南側は平成二年(1990年)「曳舟川親水公園」ができ、亀有の人々の憩いの場、そして子供達の遊び場となっています。
水戸街道と鷹狩り
江戸時代、今の葛飾区に当たる村々は「御鷹場(おたかば)」として幕府に認定され、将軍の鷹狩りが盛んに行われていました。亀有には「御鳥見屋敷(おとりみやしき)」が設けられ、江戸幕府三代将軍徳川家光、八代将軍吉宗、十代将軍家冶、十一代将軍家斉、十二代将軍家慶らがツルやガン、ハクチョウなどを狩り、朝廷へと献上したそうです。また亀有の恵明寺、祥雲寺は将軍が昼食や休憩を取る「御膳所(ごぜんしょ)」として指定されました。又亀有には江戸から水戸へ通じる水戸街道が通り、現在の亀有1丁目28番に「一里塚跡」があります。一里塚とは日本橋を起点として一里(約4キロ)ごとに塚を作って旅路の目印としたものです。旧水戸街道は当時亀有村の中央に通じており、亀有は隣町である新宿町の問屋場の繁栄と相俟って相応に栄えた農村であったそうです。昭和初期、葛西用水(曳舟川)より西側(綾瀬川)で旧水戸街道を挟み、旧水戸街道から北が道上、南が道下と言われていた。道上小学校はその名残りである。
中川の渡し〜亀有駅
亀有と新宿の間に架かる中川橋、この橋が架かる前の江戸時代は「新宿の渡し」として中川を船で渡しており、広重の「江戸百景」に描かれるほどの風光明媚な場所でした。そして明治十七年(1884年)中川橋が開橋しました。当初は明治天皇が近衛兵の演習を御覧になる為の仮橋として初めて渡橋されたので「御幸橋」の別名が生まれました。又、橋を往来する人馬から料金をとっていた為「賃取橋」とも言われていたそうです。この橋の通行料は亀有3:新宿7の割合で分担され、橋の維持費、街の財源となりました。その後葛飾区に常磐線が通る事となり、当初は新宿に駅を置く予定でした。しかし新宿町は、鉄道が通ると「街の大きな財源である橋の通行料が大きく減ってしまう」、「田んぼの中に鉄道を走らせると稲穂の実がならなくなってしまうのでは?」などの理由から駅が置かれなくなりました。この事から隣の亀有に白羽の矢が立つと、当時の亀有の地主さんが1000坪もの土地を無償で寄贈しました。こうして明治三十年(1897年)亀有駅は出来ました。中川橋はその後大正六年東京府(現在の東京都)に買収され、昭和八年に鉄橋へと変わり、平成二十年に新たな中川橋が開通したのです。
2003年に先代の後を継いだ宮司が、地元を舞台とした漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」に描かれていることに因んだキャラクター銅像の設置やアニメ絵馬の販売・境内へのパティスリー誘致といった活動を行なっています。
「少年よ、あの星を目指せ!両さん像」造営記念
「こちら葛飾区亀有公園前派出所」
作者 秋本治
「こちら葛飾区亀有公園前派出所」は、亀有公園前派出所に勤務する下町人情豊かな主人公両津勘吉と、個性溢れる登場人物が織り成す亀有を舞台にしたハチャメチャ人情ギャグ漫画。東京都葛飾区亀有に生をうけ、亀有で育った秋本治さんが昭和五十一年(1976年)に「週刊少年ジャンプ」で連載を開始。以降、昭和六十三年(1988年)第50巻刊行、平成八年(1996年)第100巻刊行、平成十八年(2006年)第150巻刊行。そして平成二十二年(2010年)三月現在、第168巻を刊行し、現在も連載中。平成十八年(2006年)には連載30周年を迎え、平成二十三年(2011年)に35周年を迎える。平成十九年(2007年)には連載回数通算1500回を数えた。この数字は少年誌における最長連載記録として世界にも類をみず、記録は現在も更新中。単行本の発行部数は累計1億4000万部を超える。その人気は日本全国のみならず、アジアを中心に世界中から老若男女問わず愛されている。地元亀有においては平成十八年(2006年)二月、亀有駅北口に両津勘吉像、同年十一月、亀有駅南口に両津勘吉祭姿像、平成二十年(2008年)十一月には、亀有ゆうろーど内に両津勘吉少年像が建立され、主人公両津勘吉の誰からも愛されるキャラクターから、亀有のシンボルとして、また観光名所として連日多くの観光客が訪れ、亀有地区振興の牽引役を担っている。この度、平成二十二年三月十三日に、亀有地区商店街協議会の七商店街と亀有香取神社、それぞれ八箇所に主人公両津勘吉を始めとした作中登場人物、中川圭一、秋本カトリーヌ麗子、本田速人の銅像を建立、亀有の更なる発展、行く先を見守り続ける。亀有香取神社に建立されたこの像名は「少年よ、あの星を目指せ!両さん像」と名付けられ、これからの未来を創る子供達に、どんな時も両さんのように明るく元気に夢を持って歩んで欲しいとの願いが込められている。
サッカーのゴールポストに見立てたキャプテン翼の絵馬掛けもあります。作者の高橋陽一氏は葛飾区四つ木の出身です。
キャプテン翼絵馬とサッカーゴール絵馬かけ
当亀有香取神社並びに境内社である亀有北向道祖神社は、[勝負事、必勝][足腰健康][スポーツ振興]の神様として広く崇敬されております。平成二十七年一月、地元葛飾区のサッカークラブチーム[南葛SC]が必勝祈願に参拝された緑で、「南葛SCを皆で応援し、益々葛飾区を元気にしよう」との想いから、同年九月、必勝祈願・健脚祈願の「キャプテン翼絵馬」を制作致しました。地元企業のセイズ株式会社様より「南葛SCを応援し葛飾区を盛り上げる絵馬ができるなら、ぜひ絵馬かけを」とのご賛同を賜り、このサッカーゴール絵馬かけが、時同じく奉納されました。
南葛SC
「常磐クラブ」「葛飾ヴィトアード」が前身。世界中で愛読され、国内外を問わず、多くのプロサッカー選手が影響を受けたと語るサッカー漫画「キャプテン翼」の原作者高橋陽一先生(葛飾区出身)を、平成二十五年、同チーム後援会長に招き、チーム名に同漫画の主人公「大空翼」が所属したサッカークラブ「南葛」の名を冠した。葛飾区からJリーグを目指し、活気に溢れる街づくりに貢献することを目的とする。
常磐線の高架下を通り、ゴール地点の亀有駅北口に向かいます。歩道の脇に「麗子像」があります。秋本・カトリーヌ・麗子は、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」に登場する架空の女性警察官で、作品のヒロインです。日本人とフランス人のハーフで、アニメ版ではミドルネームが省略されて秋本麗子と表示されますが、原作・ドラマ版では「秋本・カトリーヌ・麗子」が使用されています。新葛飾警察署交通課所属で、亀有公園前派出所に勤務している設定になっています。
北口駅前広場には「両津勘吉像」があります。
こちら葛飾区亀有公園前派出所
両津勘吉像
1976年に「週刊少年ジャンプ」(集英社)で連載を開始して以来、亀有のみならず全国の人々に愛され続けている「こちら葛飾区亀有公園前派出所」。30年もの長きにわたり多くの笑いと感動が生み出されています。物語の舞台であるここ亀有には、主人公の両津勘吉巡査長が毎日勤務している派出所があります。この像は、物語の主人公「両さん」が亀有を訪れる人々にとってより身近に感じられるようにとの願いをこめて建立されました。
ゴール地点の亀有駅北口に着きました。
ということで、葛飾区で十三番目のコースである「L金町・亀有エリア」を歩き終えました。次は葛飾区で十四番目のコースである「M立石・新小岩エリア」を歩きます。
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