- M立石・新小岩エリア
- コース 踏破記
- 今日は葛飾区の「M立石・新小岩エリア」を歩きます。京成本線のお花茶屋駅をスタート地点として、葛飾区役所・かつしかシンフォニーヒルズを経て中川右岸緑道公園で川風を浴び、平和橋を渡って総武本線の新小岩駅でゴールします。
M立石・新小岩エリア
「M立石・新小岩エリア」の歩行距離は約5.4km(約7、710歩)、歩行時間は約1時間21分、消費カロリーは約243Kcalです。
スタート地点:お花茶屋駅南口
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- ポイント1 葛飾区役所
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- ポイント2 かつしかシンフォニーヒルズ
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国内トップクラスの音響性能を誇るホール。正面入口のモーツアルト像は、ウィーン市にある像の完全複製。
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- ポイント3 中川右岸緑道
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- ポイント4 東立石緑地公園
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アスレチック遊具や健康遊具が設置されている。土地の高低差を生かした長さ30mのローラー滑り台は大人気。
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- ポイント5 平和橋
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- ポイント6 巽橋跡
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西井堀にかかっていた巽橋の跡。
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ゴール地点:新小岩駅北口
スタート地点のお花茶屋駅南口から歩き始めます。
お花茶屋駅から南方向に少しの区間曳舟川親水公園に入ります。曳舟川親水公園は、曳舟川(葛西用水)の面影を残し、水をテーマとして整備された南北延長約3km(亀有から四つ木まで)の公園です。曳舟川は葛飾区から墨田区にかけての川筋で、江戸時代初期には飲料水用水路として利用されました。これが廃止された後は、綱を付けた小船を岸から引いて人々を楽しませる乗合船が登場し、安藤広重の江戸百景にも描かれるなど、江戸の風物詩として知られ、これが曳舟川の名称の由来となっています。曳舟川の名称が付けられた区間は江戸期に開削された葛西用水や亀有上水の水路を利用しており、昭和四年の荒川放水路の開削による川筋の分断のために早くから自動車道に改修されました。江戸期の後期から明治の初めごろにかけて行われた曳舟は一種の水上交通機関ではありましたが、舟を曳く動力が陸からの人力であるために馬とか籠などの陸上交通機関の要素も含まれたもので、曳舟は異色の交通機関として人気がありました。また、江戸市中から下総・水戸方面へ行く多くの旅人にも利用されました。他の都市河川と同様に、東京オリンピックが開催された昭和三十九年(1964年)頃までは小魚などの生物が生息している川でしたが、日本が高度成長期に入ると生活雑排水やメッキ工場からの排水が流れ込み、瀕死の状態となっていました。その後、排水規制等によって水質は改善されたものの、葛西用水の一部区間の公園化や葛西用水からの取水ができなくなったことにより、現在の曳舟川は支流も含めて埋め立てられ、水路は存在していません。葛飾区の区間では、人工的な水の流れをつくり、曳舟川親水公園や四つ木めだかの小道となりました。自然の川を再現した区間や、シャワーを備えた親子向けのプールになった区間もあります。また墨田区内では、流路上に作られた道路が「曳舟川通り」と名付けられています。
- ポイント1 葛飾区役所
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昭和七年(1932年)に葛飾区が発足し、区役所は旧本田町役場に置かれました。昭和十二年(1937年)1月に現在の葛飾区文化会館(かつしかシンフォニーヒルズ)の所在地に移転しましたが、昭和二十年(1945年)の空襲により焼失しました。昭和三十七年(1962年)に現在地に本館が完成し、移転しました。その後、昭和五十三年(1978年)に新館と議会棟が完成しました。令和十年(2028年)には、京成立石駅の北側に新庁舎が完成し、移転する予定になっています。
葛飾区には、区内のあちこちに「かつしか元気食堂」が設置されています。立石・奥戸エリアには、葛飾区役所内職員食堂が認定されています。
かつしかの元気食堂へ行ってみよう 元気食堂マークが目印!
平成二十六年度より、誰もが身近な飲食店で栄養バランスの整った食事をとれるようにする取り組みとして一定の基準を満たす飲食店を「かつしかの元気食堂」として認定しています。
認定店は4種類あります。
- 1.かつしかの元気がでる食堂 1店舗
- ・健康的な食のサービスが8つ以上あります。
- ・主食・主菜・副菜がそろっていて、そのうち主菜・副菜で400kcal〜500kcal、塩分3.3g以下、 野菜120g以上を使用している「元気がでるメニュー」を日替わりで週4日提供しています。
- 2.わたしの街のえらべる食堂 53店舗
- ・主食・主菜・副菜が揃ったバランスメニューを提供しています。
- ・健康的なサービスを提供しているお店。
- 3.プラス一皿の野菜料理があるお店 30店舗
- ・70g以上の野菜を使用した料理を提供しています。
- 4.かつしかの元気なお弁当・おそうざい店 2店舗
- ・栄養バランスの良いお弁当や組み合わせることで栄養バランス良く食べられるおそうざいメニューを提供しています。
健康的な食のサービスとは?
・栄養成分表示がある
・食事バランスガイド表示がある
・野菜たっぷりメニューを選べる
・主食の量を選べる
・減塩しょうゆを選べる
・汁・つゆなし(減量)注文サービスを選べる
など、全部で24種類。お店によって実施しているサービスが異なります。詳しくはお問い合わせください。
かつしか知っ得メモとは?
かつしかの元気食堂には「かつしか知っ得メモ」が置いてあります!食や健康についての情報を月替わりで提供するポスターや卓上メモです。
○今月の食材シリーズ
季節に合った食材を取り上げ、レシピの紹介や選び方、保存方法などを紹介
○健康情報
テーマごとやライフステージ別に健康情報を紹介
○季節の行事など
忘れられつつある日本の食文化や、季節を感じさせる行事などを紹介
- ポイント2 かつしかシンフォニーヒルズ
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かつしかシンフォニーヒルズの正式名称は葛飾区文化会館で、平成四年(1992年)に開業しました。かつてこの場所には葛飾区役所がありましたが、昭和三十七年(1962年)に区役所が現在地へ移転した後は葛飾区の体育館として利用されていました。大ホールのモーツァルトホールは、ウィーンフィルの本拠地にあるムジークフェラインザールと同じシューボックス(長方形)型のホールで、座席数は1318席あります。コンサートホールとして国内でもトップクラスの音響性能を誇っています。モーツァルトホールは、オーケストラ演奏を主目的にしたホールです。音楽だけでなく、ミュージカル・舞踏・演劇など、音に拘った様々な舞台芸術活動にも利用しやすく設計されています。小ホールのアイリスホールは座席数298席で、小規模な演奏会などに使用されます。アイリスホールは本格的なオープンステージ形式を採用し、舞台と客席が一体感を得られるように設計されています。特に、ピアノや室内楽の演奏に最適のホールです。また、アイリスホールは、客席部分の座席を格納し床を舞台として利用したり、舞台を床面まで下げ客席として利用できるようにした床可変機構を採用により、より幅広い芸術発表が可能となっています。その他、ギャラリー(展示室)・カフェテリアなどの機能を持つ本館と、会議室・視聴覚室・レクリエーションルームなどを備えた別館がペデストリアンデッキで結ばれています。
建物の周囲には沢山の彫像が並んでいます。
なかでも、本館正面玄関前に建つモーツァルト像は、葛飾区が世界で唯一オーストリア共和国の許可を受けたウィーン市王宮庭園に建つモーツァルト記念像の実物大の複製で、かつしかシンフォニーヒルズのシンボルとなっています。ウィーン市にあるモーツァルト記念像は、1791年12月5日に没した偉大な天才モーツァルトを偲んで1896年に造られたものです。このように、歴史的遺産を受け継ぐ貴重な文化財であるモーツァルト記念像の複製許可を受けるにあたっては、当時のツィルク・ウィーン市長をはじめウィーン市フロリズドルフ区のランズマン区長などの多くの人々の協力を得て実現しました。葛飾区のモーツァルト像の製作は、オーストリア共和国がモーツァルト没後200年記念事業のための記念像の修復作業と併行して行われ、共和国が指定したウィーン美術大学の教授や、現地の数多くの優秀な芸術家・技術者の参加によって行われました。
MOZART
このモーツァルト像は、葛飾区が世界で唯一、オーストリア連邦共和国の許可を受けて、現地で製作したウィーン市王宮庭園に建つモーツァルト記念碑の実物大の複製です。ウィーン市にあるモーツァルト記念像は、1791年12月5日に没した偉大な天才モーツァルトをしのんで1896年に造られたものです。このように歴史的遺産を受け継ぐ、貴重な文化財であるモーツァルト記念像からの複製許可を受けるにあたっては、ツィルク・ウィーン市長をはじめウィーン市フロリズドルフ区
のランズマン区長などの多くの人々の暖かい協力を得て実現したものです。葛飾区のモーツァルト像の製作は、オーストリア連邦共和国がモーツァルト没後200年記念事業のための記念像の修復作業と併行して行われ、共和国が指定したウィーン美術大学のティフェンターラ教授をはじめ、フリードル教授など現地の数多くの優秀な芸術家や技術者の参加によって進められました。ここに建つモーツァルト像は、モーツァルトが奏でる澄みきった調べのように葛飾とウィーンとの心と心をつなぐ互いの象徴であり、また、かつしかシンフォニーヒルズのシンボルとして誘致したものです。葛飾区は、ウィーン市をはじめ世界諸都市との平和と友好を末永く願い、このモーツァルト像を設置しました。
- ポイント3 中川右岸緑道
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本奥戸橋西詰の手前から中川右岸緑道に入ります。本奥戸橋西詰に小さな地蔵尊が祀られています。堂内には、地蔵尊と馬頭観音が祀られています。道しるべは、お堂の脇に建っています。
立石諏訪自治会史跡
地蔵尊・馬頭観音・道しるべの由来
この地蔵尊は、貞亨二年(1685年・江戸初期)に念仏講によって建造されたものです。建立当時は、現在の橋際の堤防内にあわもち屋という家があり、その前に在ったということです。昭和初期、本奥戸橋架設の時、現在地の向側に移転し、五十数年後の現在、掛替え工事の為現在地に再度移転しました。地蔵尊は、民間信仰として庶民のあらゆる願い事をかなえてくれる仏として信心され、特に育児についての守り仏として強く結びつき、子育ての精神的なよりどころとして女性に多く信仰されていたものです。地域では老若男女多くの方が、子供達の幸せを願っておまいりしています。となりの馬頭観音は江戸時代の半ば以降に、農耕馬や運送馬が普及してから馬の保護仏として広く信仰されたものです。現在は、地域の交通安全の守り神となっております。建造は安政二年(1855年、江戸大地震の年)です。道標(みちしるべ)は、出羽(今の山形県)三山(月山・湯殿山・羽黒山)の信者の人々の講中が参詣の記念に、宝暦五年(1755年)旅人たちの役にたてようと建造したものです。
「・・・橋際に地蔵尊と道しるべの石あり。右江戸みち、左おくと渡し場道・・・と刻したり。・・・」 永井荷風「断腸亭日乗」より
注記:「断腸亭日乗」は、大正六年(1917年)9月16日から死の前日の昭和三十四年(1959年)4月29日までの永井荷風の日記です。激動期の世相とそれらに対する批判を詩人の季節感と共に綴り、読み物としても近代史の資料(敗戦日記)としても、荷風最大の傑作とする見方もあります。大正六年(1917年)に37歳になった荷風は、かつて両親や弟らと暮らした東京市牛込区大久保余丁町(現在の新宿区余丁町)に戻り、腸に持病のある故をもって邸内の一隅を「断腸亭」と名付けました。「日乗」とは日記の別名です。
地蔵堂の隣に立石郵便局が建っていますが、郵便局の前にさつきの植栽に囲まれた立石「母の愛」の石碑が建っています。この石碑がある場所はペスタロッチ広場という名前で、石碑は本奥戸橋の改架記念に建てられたのだそうです。ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ(1746年1月12日〜1827年2月17日)は、スイスの教育者・篤志家・学校及び社会の改革家・哲学者・政治家として名を馳せました。チューリッヒで生まれ、シュタンツ・イヴェルドン孤児院の院長を勤め、フランス革命後の混乱の中、スイスの片田舎で孤児や貧民の子などの教育に従事しました。
立石 「母の愛」
Die Grundlage fur harmonische Entwicklung menschlicher Begabungen Intellekt,
Tugend und physis besteht in fundamentaler Verfeinerung bei Familien und
jedermannszuganglichen Grundschulen und ihre Methodik legt eine Verbindung mit
Intuition, spontanen Aktivitaten Arbeiten und Lernen zugrunde.
Pestrozzi
人間の知・徳・体の諸能力の調和的発展の基本は家庭及び万人就学の小学校での基礎陶冶にあり、その方法は直観・自発活動・作業と学習の結合に基づく。
ペスタロッチ
本奥戸橋から堤防下の遊歩道を進みます。川風が心地よいですね。
- ポイント4 東立石緑地公園
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中川右岸緑道が瘤のように突き出たところに東立石緑地公園があります。
東立石緑地公園が設置される以前は、この地には立石製薬という田辺製薬の100%出資する子会社がありました。平成十一年(1999年)に工場が閉鎖になった後、敷地は葛飾区へ売却され、防災上などの観点から住宅地ではなく公園になり、平成二十年(2008年)に開園しました。
東立石緑地公園 案内図
東立石緑地公園は、中川七曲の広大な水面と半島部の緩やかな水際線など、特色のある景観を活かすためスーパー堤防事業との一体的整備を図り、地域防災性の向上や快適な住環境を創出することを目的として計画されています。
東立石緑地公園は高低差を利用した区立公園で、芝生広場を中心にして、園内には全長30mのローラーすべり台・アスレチック遊具・健康器具などが設置されています。普段は近隣の子どもなど地域の人に利用されていますが、大規模災害時には避難拠点として使えるような施設があります。
中川沿いの土手下に小さな公園があります。
公園の奥には水神様が祀られています。
由来
当水神社は、今から二百五十八年前享保十五年(西暦1730年)鎮守川端諏訪神社の末社として中川河畔に勧請されたものです。祭神は、水波能売神をお祀りし古くからの神様として灌漑用水の守護神であり、また河川による農作物運搬の航路安全や水難事故防止のため、誠にあらたかな御利益があり氏子から篤く崇敬されておりました。近年、時代の変遷と共に中川の汚染や地盤の沈下著しく、河川敷にあった石祠をはじめ鳥居など建造物も水没の危機に接したので、地元氏子有志の発意により昭和四十九年、現在地より約100メートル西南方の堤外に奉遷しましたがこの地も環境からみて好適地とはいえず、このたび有志相談の上現在地に奉遷鎮座したものであります。
- ポイント5 平和橋
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平和橋は中川に架かる都道308号線(平和橋通り)の橋です。この橋が架けられる前は、明治時代には右岸に「薬師道」、左岸に「逆井道」という道が中川に沿うように通っていましたが、渡船場はありませんでした。初代の橋は終戦間もない昭和二十二年(1947年)6月に開通し、橋長144.2m・幅員6mの仮設木製でした。架橋からわずか3カ月後の9月14日から15日にかけて関東地方はカスリーン台風の通過に伴う豪雨に見舞われ、その後天候は回復しましたが中川の水位は上昇し続け、9月19日には葛飾区長による避難命令が下される状況になりました。最終的に橋の本田川端町側(現在の東立石、東四つ木)の約二分の一の橋梁が落下しました。このとき平和橋同様に上流の奥戸橋・下流の上平井橋という木橋がともに落下しましたが、これらの橋が暫く手つかずの状態にあった中、平和橋だけは10月中には工事に取りかかり、3カ月後の12月30日に復旧しました。昭和三十五年(1960年)5月に、仮設橋から現在の二代目の永久橋への架け替え工事が竣工しました。
平和橋を渡って、平和橋通りをゴール地点の新小岩駅に向かって進みます。平和橋東詰の先に天祖神社があります。
上平井天祖神社(葛飾天祖神社)は上平井村の鎮守で、江戸時代以前には神明社・葛西神明あるいは皇大神宮と尊称されていましたが、明治四年(1871年)に天祖神社と改称されました。鎌倉時代に源頼朝の家臣で葛西御厨を伊勢神宮に寄進した壱岐守平清重(葛西三郎)が勧請し、創建したと伝えられています。寛永十八年(1641年)・正徳二年(1712年)・寛延元年(1748年)・天保十五年(1844年)に社殿を改築し、明治十六年と明治三十二年に修築しています。昭和十四年(1939年)に平和橋通りが境内を貫通することになったため、東光寺と境内地を交換し、現社地に遷座しました。現在の社殿は昭和四十六年(1971年)に造営されました。
社殿造營記念之碑
當天祖神社は天照皇大神・春日大神・八幡大神の参柱を祀り、源ョ朝の臣平清重葛西三郎の勤請と傳へ、往古より近郷の尊崇極めて篤し。神佛混合の世にありては醫王山瑠璃院東光寺別當たり。その由縁を以て、或は寶永年間同寺淨戒和尚土地六反弐畝歩の寄進あり。或は昭和拾四年東京府道路線境内貫通に際し同寺若井賢淳和尚の配意により、同寺所有地たりし現境内地との交換等、その関係極めて浅からず、昭和四拾参年五月葛飾區役所第五出張所地區内町会聨合会に於て、明治百年記念事業として社殿御造營の儀發議せられ、歴代氏子總代神明講社總代役員等、並に氏子地區内各自治町会役員等をも包含し、社殿造營奉賛会を結成し、この擧に出て今茲に規模宏大壮嚴なる社殿の完成を見る。この快擧の資たるや總てこれ氏子崇敬者の淨財にして敬神の赤誠機を得て顯現せられたりと云ふべし。爰に遷宮奉祝祭齋行にあたり、社歴及経過を略記しこの大儀を千載に傳えんとす。
神徳浩瀚萬代不易 氏子安穏萬民不拔
平和橋通り沿いに位置する上品寺は新義真言宗の名刹で、江戸時代から広く人々の信仰の対象になっている閻魔(ゑんま)大王で知られています。
閻魔大王座像は境内左側のお堂に安置されています。
閻魔大王は、座像ながらその高さおよそ2mあり、江戸十六閻魔の一尊で、その製作手法から室町時代の作と云われています。その昔、中川の氾濫時に上流から流れてきたお像を村人が奉納したとも伝承されています。
葛飾名所 上品寺の閻魔大王坐像
当寺は新義真言宗にして、八幡山来迎院という。この閻魔堂に安置する閻魔大王坐像は、高さ206cmあり、かって江戸十六閻魔の一つとして栄え、区内最大のものである。閻魔大王は、地獄に住み18の将良と8万の獄卒を従え、死して地獄に堕ちくる人間の生前の善悪を正し、罪あるものには、苦しみを与える冥王として信仰する人が多い。当寺の閻魔は、江戸中期にもっとも盛んに信仰され、昭和四十七年に閻魔堂が新築され現在に至っている。
- ポイント6 巽橋跡
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平和橋通りと蔵前通りの交差点に、西井堀に架かっていた巽橋の親柱と欄干が遺されています。巽橋の名前の由来ですが、「巽」というのは東南の方角を指します。江戸深川の芸者衆を巽(辰巳)芸者と呼ぶのも「江戸の東南の芸者」からきています。新小岩の巽橋は何を中心にして「巽」なのかといいますと、明治二年(1869年)に成立した小菅県の県庁が置かれた小菅御殿(現在の小菅拘置所の敷地)から見た方角をいっているのだそうです。小菅県は明治四年に品川県とともに東京府に合併して短い間存在した県です。その小菅県を地域の中心として橋の名前に残っているのです。
西井堀は完全に埋め立てられ、現在はタイル敷きの生活道路になっています。北側は、交差点を挟んで西井堀せせらぎパークになっています。
新小岩駅北口駅前広場にモンチッチの像が建っています。モンチッチは、葛飾区西新小岩にある人形メーカーの株式会社セキグチによって製造・販売されている、猿に似た妖精の生き物をイメージした人形です。モンチッチは昭和四十九年(1974年)1月26日に発売されました。「モンチッチ」の名前は、フランス語の「モン」(私の)と「プチ」(小さく可愛いもの)を合わせた「私の可愛いもの」と、日本語の「ちっちゃい」という音、モンキーのモンとおしゃぶりをチューチューと吸っていることなどに由来しています。昭和六十一年(1986年)を最後に日本での発売は一旦終了しましたが、平成八年(1996年)に約10年ぶりに日本での人形の発売を再開しました。平成二十四年(2012年)12月2日、モンチッチの発祥の地がセキグチ本社のある葛飾区であることから、葛飾区観光協会の広報課長に就任し、葛飾区では今後区内のイベントなどでモンチッチの着ぐるみを各イベントのPRキャラクターとして出演させることにしています。平成二十八年(2016年)4月9日には、旧セキグチドールハウス(元セキグチ工場)跡地に「モンチッチ公園」が葛飾区によって新たに開設されました。令和四年(2022年)1月26日、モンチッチの48回目となる誕生日に新小岩駅前北口広場に「モンチッチくん」と「モンチッチちゃん」の高さ1メートルほどの銅像が建立され、除幕式が行われました。
同時に、7種類のモンチッチを配置したミニサイズの銅像も建立されました。
モンチッチ −この指とまれ−
モンチッチは、1974年に葛飾区西新小岩にある株式会社セキグチから誕生しました。国内外で人気を博し、手にした方の心に寄り添う可愛らしいキャラクターです。株式会社セキグチと葛飾区は、モンチッチ公園の開園、モンチッチがデザインされたマンホールや時計塔の整備など、葛飾区ゆかりのキャラクターであるモンチッチを活用した「モンチッチに会えるまち かつしか」の実現に向けて取組みを進めています。本モニュメントは、モンチッチパパからの贈物です。
ゴール地点の新小岩駅北口に着きました。
ということで、葛飾区で十四番目のコースである「M立石・新小岩エリア」を歩き終えました。次は葛飾区で十五番目のコースである「N新小岩・高砂エリア」を歩きます。
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