O細田・新小岩エリア  

コース 踏破記  

今日は葛飾区の「O細田・新小岩エリア」を歩きます。京成小岩駅をスタート地点として、西方向に真っ直ぐ進み、三和橋を渡って新中川沿いの土手を奥戸新橋まで進み、中井堀コミュニティ道路から蔵前橋通りに入り、総武本線を跨線橋で越えて小松川境川親水公園を巡ります。

O細田・新小岩エリア

「O細田・新小岩エリア」の歩行距離は約8.0km(約11、430歩)、歩行時間は約2時間、消費カロリーは約360Kcalです。

スタート地点:京成小岩駅南出口
ポイント1 細田公園
ポイント2 三和橋
ポイント3 八剱神社
例大祭の折に、華麗な衣装とお面をつけて行われる本格的な「舞楽」を奉納演奏している。
ポイント4 宝蔵院
ポイント5 中井堀コミュニティ道路
ポイント6 小松川境川親水公園
水遊びの時季はもちろん、四季折々の花や充実した遊具があるため一年を通して楽しめる公園。
ポイント7 於玉稲荷神社
ポイント8 新小岩公園
噴水、水遊び場(夏季のみ)、ジョギングコース、芝生広場などがある広大な公園。

ゴール地点:新小岩駅北口


スタート地点の京成小岩駅南出口から西に向かって歩き始めます。歩道が何となくかっての水路跡のように見えるのは気のせいかな?



ポイント1 細田公園

細田公園は平成十一年4月1日に開園しました。面積は1、076uと、細田地区の中では最も小さい公園です。遊具は少なく、コアラのスイング式遊具とか、イルカとアヒルのスプリング遊具が設置されているのみです。他に、腰をひねる設備と腹筋用のベンチといった健康遊具が少しあります。公園の中央には大きめの広場があり、防災倉庫を備えた防災公園にもなっています。

この公園は、災害時に応急活動の拠点となります。

●分電盤
災害時に電気が止まった場合には、発電機を接続することにより公園灯が点灯します。

●仮設トイレ用マンホール
下水道の本管につながっています。災害時には蓋を開け、その上に防災倉庫に用意してある仮囲いを設置することにより、すぐにトイレとして使用することができます。

●雨水貯留槽(20t)
集会所の屋根にふった雨水を地下に貯留します。貯留した雨水は、災害時に仮設トイレの洗浄水として利用できます。

●かまど兼用ベンチ
平常時には普通のベンチとして使用でき、災害時には座板をはずせばかまどとして使用することができます。

●手洗い場
災害時には、炊事や洗濯ができます。また、平常時には、放水訓練の的として使用できます。




東用水せせらぎ通りと交差します。小岩用水・東井堀・中井堀・西井堀は、いずれも葛飾区水元の小合溜井を水源として江戸時代に整備された用水路で、農業用水や物資の輸送路として利用されてきました。東用水というのは東井堀の別名です。用水路としての役目を終えた東井堀は、ほとんどが道路になりました。細田一丁目22から高砂二丁目19までの間は「東用水せせらぎ通り」として、歩道・緑・花・小さなせせらぎが整備されています。



ポイント2 三和橋

新中川を三和橋で渡ります。新中川は昭和十三年(1938年)の大水害により戦前から放水路として計画されていましたが、昭和二十二年(1947年)のカスリーン台風や昭和二十四年(1949年)のキティ台風によって増水した水をうまく下流に逃がすことができなかったことから防げなかった足立区・葛飾区・江戸川区の大水害を受け、14年の歳月をかけて昭和三十八年(1963年)に開通した人工の河川です。江戸川区域の工事が遅れたため、三和橋が架けられたのは新中川の開通より早く、昭和三十六年(1961年)のことでした。中川放水路の開削によって奥戸・高砂・細田の流域の住民はコミュニティーが分断されることを危惧し、放水路が出来た後に架かる橋に、三つの地域が融和するコミュニティが形成されるようにとの願いを込めて「三和橋」と名付けたといわれています。



最初の三和橋が架けられてから40年近くたった平成十二年(2000年)に「三和橋橋づくり協議会」が発足し、橋の架け替えプロジェクトが発足し、平成十五年(2003年)から平成二十四年(2012年)まで工事が行われ、現在の二代目三和橋が完成しました。橋の袂には、初代三和橋の写真を付した記念碑が建っています。

三和橋
「会話が弾む、笑顔がこぼれるふれあいの橋」

この整備コンセプトは、周辺地域の自治町会長、商店会長、小中学校PTA会長及び一般公募の方々て構成された「三和橋橋づくり協議会」で決定し、平成十三年3月に葛飾区へ提言したものです。

三和橋の歴史
昭和三十六年に架橋された三和橋車道橋は、中川放水路(新中川)の開削によって分断された細田、高砂、奥戸の三つの地域の中心に位置することから、地域融合のシンボルとなり、コミュニティー形成の拠点となってほしいという願いを込め、「三和橋」と名付けられました。架橋から40年以沚が経過して、老朽化が進み、耐震性の問題もあったため、平成十二年の架替え計画段階から三和橋橋づくり協議会と葛飾区が協働で検討を進め、平成十五年に架替え工事に着手しました。この記念碑に埋め込んだレリーフは、旧三和橋人道橋の高欄に設置していたものであり、旧橋の記憶を未来に継承するシンボルとして生まれ変わりました。

橋梁概要
橋長:   119m
幅員:    18m (車道9m、歩道4.5mx2)
上部工:  3径間連続プレビー厶合成桁橋
下部工:  張出式橋脚、逆T式橋台
基礎工:  鋼管矢板基礎(橋脚)
      杭基礎(橋台)
完成年月: 平成二十四年6月




三和橋西詰から奥戸新橋西詰まで、新中川ジョギングロードを進みます。



ポイント3 八剱神社

八剱橋西詰の土手下に八剱神社があります。八劔神社は天文五年(1536年)の創建で、三河国碧海郡西端村の郷士杉浦小左衛門が此の地を開拓するに際し、守護神として勧請したものと伝えられていて、旧奥戸新田の鎮守社でした。

葛飾奥戸鎮座
八劔神社 御由緒

御祭~  日本武尊(やまとたけるのみこと)

 相殿(熊野様)  伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
          伊邪那美命(いざなみのみこと)
          須佐之男命(すさのおのみこと)

天文五年(1537年)下総の国葛西郷の当地に三河の国より勧請され、八劔宮として祀られた。旧奥戸新田の鎮守社。

御本宮は、熱田神宮(あつたじんぐう)

本宮である熱田神宮の御鎮座は、今からおよそ1900年前、日本武尊の神剣を熱田の地に奉斎したことに起源する。その後、伊勢神宮に次ぐ格別尊貴の大社として皇室の御尊敬をあつめ、現在年間の参拝者は約一千万人にのぼる。




八劔神社の旧社殿は文久三年(1863年)9月に建造され、以後氏子の努力により荘厳さを誇っていましたが、損傷甚だしくなった為に昭和四十七年(1972年)10月に造替されました。現在の社殿は五代目に当たります。

社殿御造営記念碑

當八劔神社は古くから、日本武尊・伊邪那美命を祭神とした由緒ある社である。旧社殿は文久三年の建造であり、氏子各位の丹精により約百拾年の間その壮厳さを誇っていたが、近年に至り損傷甚だしく、今回区画整理を期に社有地を処分し、新しく造営したものである。この社有地は裏面に記す八拾名の方々が永年管理に当ったもので、これを基金とし、一般奉納者の浄財を以ってこの造営費に充てたものである。依って之を後世に伝へると共に建設委員の労をも記念するため、この碑を建立するものである。




八劔神社には、棟札と板絵着色裸参り絵馬額のふたつの文化財が収蔵されています。

区指定有形民俗文化財
板絵着色裸参り絵馬額

この絵馬額には、右端に水盤舎、左上部に斜め右向きの社殿、その間には明神鳥居と太いごぼうじめ(しめ飾りの一種)を渡した樹木2株、右寄り上部に末社1宇が描かれています。参道には40人余の男が裸姿で社殿に向かい、左下の池では5人の男が禊をし、そのうちの1人は袋入りの神宝の剣と思われるものを持っています。右上には現在は判読できませんが「奉献」と書かれていました。祈願の内容は明確ではありませんが、禊の意をこめた裸参りのありさまを示しています。

●材質 桐  ●大きさ 高さ71.0cm 幅138.0cm

区指定有形文化財
八劔神社棟札

寛永六年(1629年)奥戸新田の惣百姓、惣氏子が「矢劔大明神」を再興した時の棟札です。材質はヒノキで、以下のような墨書銘があります。上部には阿弥陀種子、中央に「奉再興矢劔大明神一宮遷宮郷中繁栄祈所」、右に「下総国葛西庄奥戸新田宮職宝蔵院法印海運」、左に 「寛永六年九月二十五日遷宮之導師上小松正福寺法印空空鑁」とあります。葛飾郡は近世初期に「下総国」から「武蔵国」に変わりますが、これは寛永六年において、まだ葛飾郡が「下総国」に属していたことがわかる史料です。

●材質 ヒノキ  ●大きさ 高さ70.1cm 幅27.3cm




参道の右横に昔使っていた石灯籠が2基置いてあります。文政元年の奉納ですが、右側の石灯籠は度重なる災害による損傷で上部が折れて復元不可能となり、現役引退となっています。石灯籠の前には力石が6個置いてあります。右から「三拾」・「三拾八貫」・「六十五貫目」・「五十八貫目」・「五十五貫目」・「正目六十五貫余」とあり、奉納者や持ち上げた人物名はほぼ読めないか消えています。現在の単位では、重さはそれぞれ、112.5kg・142.5kg・243.75kg・206.25kg・243.75kgです。想像もつかない重さですが、例えば67代横綱の武蔵丸が237kgですから、それ以上を持ち上げる怪力がこの辺に居たことになります。ホントかなぁ。

石灯籠

この御神燈は、文政元年(1818年)十一月当神社の氏子により建立。安政二年(1855年)十一月十一日安政大地震により被災。再建するも大正十二年(1923年)九月一日の関東大震災により倒壊し修復したものであったが、平成二十三年三月十一日東日本大震災で一部損壊。加えて平成三十年九月三十日の台風に寄る倒木に触れ転倒。復元が不可能となり、その歴史を留める為、移築して遠く御先祖の方々を偲ぶものである。




ポイント4 宝蔵院

八劔神社に隣接して、宝蔵院があります。宝蔵院は、青旧山和光寺と号し、応永二年(1395年)に開山しました。その後天文七年(1538年)の国府台合戦の戦火により伽藍は焼失しましたが、慶長十七年(1613年)に海運法印によって中興しました。真言宗豊山派の寺院で、八剱神社の旧別当寺でした。



境内には薬師堂があり、薬師如来が安置されています。これは、宝暦事件の首謀者竹内式部の門下生で、公家の徳大寺公城の家臣だった本堂良喜と公城の娘が宝蔵院に落ち延びて仏門に入り、薬師如来を安置して師匠の菩提を弔ったものです。このような経緯から、いつしか宝蔵院は「式部薬師」と呼ばれるようになりました[

葛飾区指定有形文化財
木造薬師如来立像

木造薬師如来立像は、宝蔵院薬師堂の本尊として安置されています。台座・両手ともすべて一本の木から彫刻された一本造りで、左手胸前で薬壷を持っています。像の高さは22.5cm、光背は31.8cmです。宝暦のころ、王政復古を唱え、その後の尊王思想に影響を与えた竹内式部の門下で徳大寺公城の家臣である本堂良喜は、宝暦事件(宝暦八年=1758年)の際京都をおわれ、当寺に身を寄せていました。その良喜の後を追い、公城の娘妙姫は師の式部から拝領の薬師仏を安置し師の冥福を祈ったと伝えられています。この像が式部薬師と呼ばれ信仰されているのは、この様な由来に(寄?)よるものです。小像ですが制作も古く、広く信奉された像として後世に伝えたいものです。




秋には1000本以上の彼岸花が咲き、石仏群を背景に神秘的な美しさをたたえます。

仏縁之碑

この一群の石仏は、昔それぞれ供養されていましたが、現在はだれひとり参拝する者のない無縁様となっています。また、明治維新の際の廃仏毀釈の風潮のもとで、心ない者たちによって、泥土に埋められた石仏もあります。このたび、これらの哀れな野仏様を掘り起こし、ここにお祀りいたしました。われわれの後生の仏縁のために供養し、御加護を祈願いたします。
  昭和五十九年九月吉日 本堂庫裡(くり:禅宗寺院における台所のこと)新築を記念してこの碑を建てます。




仏足石は、釈迦の足跡を石に刻み信仰の対象としたものです。



宝蔵院には、作家井上靖の自筆による史碑と歌人柳原白連の自筆による歌碑が建っています。



井上靖の碑には、本堂良喜と妙姫が住職と共に討たれ、鐘楼が失われた後、昭和三十八年に再建され、中川放水路の開削によって水没した土地を供養する鐘の音となったという内容が記されています。

宝暦の頃、国事に勤むる男女この寺へ逃れしが捕吏の襲うところとなりて、当寺の住職と共に討たれしという哀史傳われり。寺鐘の失われしはその頃のことにして、爾来堂宇荒廃のまま、時移り、世は変り、今日まで鐘楼建つことなし。昭和の住職関谷宣雄師、鐘楼再建を発願して多歳、浄財を得て昭和三十八年春、和光の鐘楼の建立を見る。往古迦膩式迦王悪龍の請に依って伽藍を建て、鐘を打ってその瞋心を息むという。諸々の悪龍の瞋心ここに息むべし。時恰も新中川放水路開鑿に当たり、宝蔵院はその流れの岸に臨めり。晨夕の鐘声は水底に没せし農家、耕地のためにまた新しき供養の意味を持つと謂うべし     井上靖



柳原白蓮は、大正から昭和時代にかけての歌人で、本名は宮崎Y子といい、大正三美人の一人です。父は柳原前光伯爵、大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、大正天皇の従妹にあたります。柳原白蓮は白蓮事件で知られています。白蓮事件は、大正十年(1921年)10月20日に筑豊の炭鉱王伊藤伝右衛門の妻であった時に、柳原白蓮が滞在先の東京で出奔し、社会運動家で法学士の宮崎龍介と駆け落ちした事件です。戦後間もない昭和二十一年(1946年)、白蓮事件をモデルとした原節子主演の映画「麗人」が公開され、主題歌の「麗人の歌」が大ヒットしました。「Y子」という名前は、父の前光が華やかな鹿鳴館で誕生の知らせを聞いたことから名付けられたものです。

衆生あり
   祈願成就の
   よろこびを
代々に伝えし
   御仏ぞこれ




昭和三十八年には東方に中川放水路が完成し、その記念に中川を望む堤上に「和光の鐘」を吊った鐘楼が建立されたそうです。



ポイント5 中井堀コミュニティ道路

奥戸八丁目交差点から総武陸橋下交差点まで、中井堀コミュニティ道路を進みます。かつての葛飾区内を縦横に網羅した用水路は、現在では親水公園やコミュニティ道路または緑道に姿を変えて、区民の憩いの場となっています。旧上下之割用水は、現在は東用水せせらぎ通り・奥戸中井堀通り・西井堀緑道・小岩用水緑道、旧葛西用水は、曳舟川親水公園となっています。



歩道脇の小さな囲いの中に地蔵堂があります。ネットでいろいろ調べてみたのですが、地蔵堂の名前は分かりませんでした。

奥戸地蔵講と縁日祭り

奥戸六丁目に在るお地蔵様は今より三百年程前の宝永三年(西暦1706年)当時の地元住民が子供の厄除けと健全な成長を祈り併せて村の発展のため、現在地(奥戸6−12角屋前)に石仏を建立しましたが風雨にさらされ下部の痛みが出来ていたため大正の中期に地元有志により御堂を作り地元民の信仰の的となっておりましたが、御堂の痛みが出てきたため昭和四十二年当時厄年を迎えた十数名の方々により現在の御堂が作られ今日に至っております。明治、大正時代より6月23日にお祭りが行われ昭和の中頃まで、お地蔵様の周辺では夜店が並び、善男善女、大人も子供も参拝人が絶えず住民は田植えが終わった後の喜びと共に感謝のお祝も兼ねた参拝をしておりました。馬頭観音様は今から約二百年ほど前の文化七年(西暦1810年)観音湯様西側路上に家畜に馬や牛の霊を弔う為に建立されたものと思われ昭和にはペットの犬や猫も葬られるようになりましたが、観音湯の福島様の御好意により観音湯開業と共に敷地内に御堂を立てていただき安置されましたが、平成七年現在の場所に移転しました。昭和三十年代までは現在では想像もつかない程、一面の田が広がる純然たる農村で、お地蔵様の前。馬頭観音様の下の小川(中井堀)にはべか舟が往来し、子供たちは中で泳いだり小魚を釣ったりと、のどかな田園風景を醸し出して居ました。太平洋戦争も終わり平和とともに長年続いていた伝統も次第に影がい(う?)すれましたが、毎年6月23日には簡単ながら行事は続けています、今日では南北子ども会育成会の役員のお力で前後の日曜日、縁日祭りが盛大におこなわれ地元の先輩の方々と力を合わせて地蔵尊、馬頭観世音を守っていきたいと思っています、そして地域の子供達が大人になって縁日祭りを思い出してくれたら幸いです。




環七と蔵前橋通りが交差する総武陸橋下交差点から小松橋北交差点まで蔵前橋通りを進み、総武本線を跨ぐ小松橋で総武線を渡ります。線路が何本も走っていますね。総武快速線と総武緩行線と、左側は貨物線でしょうか?



ポイント6 小松川境川親水公園

昭和五十七年(1982年)4月1日に開園した「小松川境川親水公園」は、古川親水公園に続いて江戸川区で2番目に誕生した親水公園です。江戸川区は三方を水辺に囲まれる水の豊かな土地ですが、かつて農村だった地域も都市化の進展に伴って環境が悪化しました。その課題を打開すべく、失われた緑を回復し、自然性豊な生活環境を創り出して行くことを目的に、区民と行政とが一体となった緑化運動が展開され、その結果生まれた親水公園のひとつが「小松川境川親水公園」です。菅原橋から中川までの全長3、930メートルの区間は、「湧水のゾーン」・「せせらぎのゾーン」・「水の庭園のゾーン」・「水しぶきのゾーン」・「たゆたいのゾーン」と5つの区間にわかれ、江戸川区役所近くでは、滝・せせらぎ・水しぶき・飛び石・釣り橋に冒険船など変化に富んでいて、水遊びができない季節でも、ウオーキングをしたりアスレチックで遊んだり四季を通じて楽しむことができます。また、桜の名所でもあります。鹿骨街道に面した江戸川区と葛飾区の区界から親水公園に入ります。巨大な看板にも葛飾区と江戸川区の表示がありますね。葛飾区側は葛飾区新小岩4丁目、江戸川区側は江戸川区本一色1丁目になります。ここから暫くは、親水公園の右側は葛飾区、左側は江戸川区が続きます。



「小松川境川の由来」と題した案内板が立っています。殆ど文字が判別つきません。

小松川境川の由来

小松川境川は、東小松川村と西小松川村の境を流れていたことでこの名が付きました。上小松川(現在の葛飾区東新小岩四丁目付近)から発し、蛇行しながら西小松川村と船堀村(現在の江戸川区東小松川付近)の境を通って新川に注いでいました。昭和三十年代に入ってから急速に流域の都市化が進み、家庭排水が流れ込んで水質も悪化しました。しかし、下水道の整備により排水路としての役割を終え、再び親水公園として蘇りました。




江戸川区では、ウォーキングや散策などが気軽に楽しめるように、親水公園を始め江戸川の堤防上などを「健康の道」として整備しています。小松川境川親水公園の健康の道もそのひとつです。



ポイント7 於玉稲荷神社

小御立橋(こみとばし)で右に曲がり、更に右に曲がったところに、於玉稲荷神社があります。於玉稲荷神社と書いて「おたまいなりじんじゃ」と読みます。



拝殿は階段を上がった2階にあります。

於玉稲荷神社御由緒

御祭神は、稲荷大神と称えられる倉稲魂命(ウガノミタマノミコト)で伊勢外宮(とようけのかみ)と御同神であります。「稲荷」とは、天地の霊を象徴し、古来より食物の神即ち五穀豊穣の神として広く崇敬されてきました。時代とともに産業興隆や商売繁昌、さらに家内安全・交通安全や、芸能上達などのご利益もあるとされ広く人々の信仰を集めております。当地「小松の里」は、むかし将軍様の鷹狩りの地として知られております。古地図で見ると、この地に「おたまいなり」の所在が記されていますが、古くは御分社でありました。当神社は、このゆかりの社に、安政二年の大震火災で焼失した神田お玉ヶ池の御本社を明治四年に移したものであります。お玉ヶ池の稲荷神社の沿革については、「新撰東京名所図会」神田之部所引の「於玉稲荷大神の由来」に述べられているように長禄元年太田道灌の崇敬をはじめ寛正元年足利将軍義政公の祈願、さらには文禄四年伊達政宗公の参詣等が記されております。




小松川境川親水公園に戻ります。今は人工の小川が流れるだけですが、かっては川船が行き交う大きな水路でした。

小松川境川の水運

小松川境川は、農業用水路として活用され、さらに農作物や肥料の運搬などの舟運路にも利用されていました。東江戸の町が発展し人口が増えてくると、大量の野菜が消費され、鶯菜(いまの小松菜)の生産地であったこの地からも舟で、江戸市街地に運ばれました。江戸への経路は、小松川境川を下り江東区の小名木川や竪川をとおって江戸の堀割に入りました。舟は道路が整備され自動車が普及するまでは重要な輸送手段だったのです。




小松川境川親水公園の水路を流れる水は、濾過した自然水が使用されています。綺麗な水が岩山から滝となって流れ落ちています。吊り橋もあります。格好は吊り橋ですが、実際はそれっぽく見せた普通の橋のようです。



東福院(とうふくいん)は、寛永八年(1631年)に秀円僧都によって開山されました。秀円僧都は薬師如来像を背負って巡錫していたところ、当地の有力者(宇田川氏・関口氏・宮氏)の勧めで、この薬師如来像を本尊とする寺を創建することになり、これが東福院の由来でとなりました。また住民とともに荒れ地を開墾したことから、地名が「堂ヶ島」と名付けられたといわれています。本尊は秀円僧都が背負っていた薬師如来像ですが、現在は秘仏となっています。

東福院

寛永八年(1631年)、大和(奈良県)の人秀円僧都が大西氏を従え東国巡錫のとき西小松川に至り、宇田川、関口、宮の各氏に迎えられて建立したのがはじまりと伝えられています。真言宗豊山派、施薬山医王寺と号し、本尊には秘仏の薬師如来をまつっています。

■青面金剛像庚申塔(伝、享保十二年) (江戸川区登録有形民俗文化財)
庚申塔は、六十日に一度めぐってくる庚申の日の夜に、眠っている人の体内から三尸という虫が天帝に罪過を告げ命を縮めるという中国の道教の教えに由来する庚申信仰の信者によって建てられました。この塔は、もと大進路(旧西小松川村の二つの鎮守、香取神社と天祖神社を結ぶ道)の道筋にあって、昭和三十一年に移されました。悪疫を退治する青面金剛を中心とする江戸時代の典型的な庚申塔です。




ポイント8 新小岩公園

新小岩公園は、4万平方メートルを超える広い公園で、芝生広場でのびのびと遊べます。また、ウォーキングやジョギングをしている人も多く見られます。新小岩公園の敷地には、かって大同製鋼(現大同特殊鋼)の工場がありました。工場閉鎖後は、跡地に公園や都営アパート(西新小岩一丁目アパート)などが建てられています。新小岩公園は昭和六十年(1985年)に開園し、スポーツ広場や多目的広場などが備わった公園として整備されました。公園の西側は荒川が流れ、大規模な災害時には避難拠点として機能するよう防災設備も整えられています。また園内には和室と庭園などが備えなれた「和楽亭」という施設があり、地元のサークルなどで使われています。平成二十八年(2016年)から東京東部低平地「防災高台整備事業」の第1弾として嵩上げ工事が始まる予定でしたが、10年をかけて中央新幹線の残土などを利用して嵩上げする方針に反対の声が上がり、さらに事業者の応募がなく、再公募も断念し頓挫しました。



新小岩駅北口駅前広場にモンチッチの像が建っています。モンチッチは、葛飾区西新小岩にある人形メーカーの株式会社セキグチによって製造・販売されている、猿に似た妖精の生き物をイメージした人形です。モンチッチは昭和四十九年(1974年)1月26日に発売されました。「モンチッチ」の名前は、フランス語の「モン」(私の)と「プチ」(小さく可愛いもの)を合わせた「私の可愛いもの」と、日本語の「ちっちゃい」という音、モンキーのモンとおしゃぶりをチューチューと吸っていることなどに由来しています。昭和六十一年(1986年)を最後に日本での発売は一旦終了しましたが、平成八年(1996年)に約10年ぶりに日本での人形の発売を再開しました。平成二十四年(2012年)12月2日、モンチッチの発祥の地がセキグチ本社のある葛飾区であることから、葛飾区観光協会の広報課長に就任し、葛飾区では今後区内のイベントなどでモンチッチの着ぐるみを各イベントのPRキャラクターとして出演させることにしています。平成二十八年(2016年)4月9日には、旧セキグチドールハウス(元セキグチ工場)跡地に「モンチッチ公園」が葛飾区によって新たに開設されました。令和四年(2022年)1月26日、モンチッチの48回目となる誕生日に新小岩駅前北口広場に「モンチッチくん」と「モンチッチちゃん」の高さ1メートルほどの銅像が建立され、除幕式が行われました。



同時に、7種類のモンチッチを配置したミニサイズの銅像も建立されました。

モンチッチ −この指とまれ−

モンチッチは、1974年に葛飾区西新小岩にある株式会社セキグチから誕生しました。国内外で人気を博し、手にした方の心に寄り添う可愛らしいキャラクターです。株式会社セキグチと葛飾区は、モンチッチ公園の開園、モンチッチがデザインされたマンホールや時計塔の整備など、葛飾区ゆかりのキャラクターであるモンチッチを活用した「モンチッチに会えるまち かつしか」の実現に向けて取組みを進めています。本モニュメントは、モンチッチパパからの贈物です。




ゴール地点のJR総武本線の新小岩駅北口に着きました。



ということで、葛飾区で十六番目のコースである「O細田・新小岩エリア」を歩き終えました。次は葛飾区で十七番目のコースである「P金町・青戸エリア」を歩きます。




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