P金町・青戸エリア  

コース 踏破記  

今日は葛飾区の「P金町・青戸エリア」を歩きます。金町駅南口から金町末広商店街を抜け、帝釈道に面した地蔵菩薩石仏群にお参りし、中川左岸を経て高砂橋を渡ってゴール地点の青砥駅に向かいます。

P金町・青戸エリア

「P金町・青戸エリア」の歩行距離は約4.2km(約6、000歩)、歩行時間は約1時間2分、消費カロリーは約186Kcalです。

スタート地点:金町駅南口
ポイント1 にいじゅくプレイパーク
ポイント2 地蔵菩薩石仏群
道路拡張工事に伴い、周辺の地蔵や石碑が一ケ所に集められた。石仏の横にそびえる一本松はかっての旅人の目印。
ポイント3 金阿弥橋跡
ポイント4 新宿公園
ポイント5 青龍神社・怪無池
自然豊かな池の脇にある小さな神社。怪無池には池の半分を覆う蓮の葉と、伝説があるらしい。
ポイント6 高砂橋
中川と新中川が分岐する様が俯瞰できるパノラマビュースポット。美しいフォルムの橋に、スカイツリーがよく映える。
ポイント7 中川右岸緑道公園

ゴール地点:青砥駅東口1


スタート地点の金町駅南口から歩き始めます。



駅前広場に面して、葛飾柴又について解説した案内板が立っています。

国選定 重要文化的景観 葛飾柴又の文化的景観

重要文化的景観の特徴

中心部

@帝釈天題経寺
帝釈天題経寺は、庚申信仰により参詣客を集めた江戸近郊の流行寺の一つでした。江戸時代から近代にかけて、 旧堂を改造、移築しながら新堂を加える独特の造営過程によって整えられたものです。境内からは奈良時代の遺構も発見されています。

A帝釈天題経寺門前
帝釈天題経寺の門前は緩やかに湾曲する通りに沿って店頭対面販売形式の店舗が連続しています。周辺農家が副業的に店を営んだことから始まり、その地割や建物形式、販売品目等から、その歴史を読み取ることができます。

周辺部

B国分道(帝釈道)沿い
古来、矢切に向かう街道が通る微高地に、柴又八幡神社、真勝寺や旧家が残り、江戸近郊の農村における居住域であったことを伝えています。

C帝釈天題経寺南方・江戸川河川敷沿い
帝釈天題経寺の南側から江戸川河川敷に沿った微高地に旧家が存在しています。和洋折衷の建物と和風庭園からなる「山本亭」は関東大震災を機に所有者が移り住み造られました。

縁辺部

D柴又用水の受水域
かつて柴又用水やその支流が縦横にめぐっていた農地でした。水路跡に加え、関東大震災を機に移転してきた宝生院を見ることができます。

E金町浄水場と取水塔
微高地の北側に位置する金町浄水場は大正十五年に給水を開始し、拡張を繰り返し今日に至ります。

F江戸川と河川敷
江戸川とその河川敷は近世・近代にかけて改修が重ねられ、江戸川舟運や渡河交通の拠点となっていました。矢切の渡しがその歴史を伝えています。


葛飾柴又の文化的景観とは

柴又の成り立ち
柴又は葛飾区の東部、江戸川右岸の微高地(海抜約2〜3メートルの土地)に位置しています。6世紀以降、標高の高い場所に集落が形成され、現在の柴又八幡神社本殿裏にあたる場所に古墳が造られたと考えられています。古代から近世初頭にかけて柴又八幡神社の前を通る古い街道である国分道は、帝釈道とともに太日川(現在の江戸川)対岸の下総国の渡河地点に繋がり、柴又の南北を走る旧東海道・水戸街道を柴又で繋げる役割を果たしたため、柴又は水陸交通の要衝の地として機能し、多くの人や物資が行き交いました。1629年に帝釈天題経寺が開かれ、1779年に帝釈天板本尊が発見されると参詣が急増します。また、1835年に柴又用水が開削されると農作物の生産量が増え、江戸の食糧供給地として成長を遂げていきました。明治中期以降、帝釈天の参道沿いには近隣農家が副業として煎餅屋や料亭を営み始めます。明治の帝釈人車鉄道の開業、大正の京成電気軌道による鉄道網の整備により多くの人が行き来するようになり、東京近郊の行楽地として今日見られる門前の景観が形成されました。近代、特に関東大震災(1923年)以降の急激な人口増加を背景に、大正時代には金町浄水場の開設、昭和初期には区画整理などが行われました。戦後のさらなる都市化を経て今日に至っています。

重要文化的景観の選定について
文化的景観とは、地域の風土を活かして人々が暮らしの中で作り上げてきた景観のことです。この風土、暮らしに着目すると、葛飾柴又の文化的景観は「中心部」「周辺部」「縁辺部」の3つのエリアとして捉えることができます。江戸川近くで古代から続く人々の生活や往来を基底としながら、近世に開基された帝釈天題経寺と近代になって発展したその門前が「中心部」にあり、その基盤となったかつての農村の様子を伝える「周辺部」がその周囲を包み、さらにその外側を19世紀以降、都市近郊の産業基盤や社会基盤の整備が行われた「縁辺部」が取り囲んでいます。各エリアには、それぞれの特徴を示す帝釈天題経寺や参道店舗、柴又八幡神社をはじめとした社寺、旧家や農地、金町浄水場などが現存するとともに、柴又用水のように機能は失われていても、その痕跡を確認できるものも多くあります。こうした葛飾柴又の文化的景観が評価されるとともに、葛飾区として保存計画を策定し、文化的景観を保存するための取り組みを行っていることが認められ、2018年2月13日に文化的景観のうち特に重要なものであるとされる国の重要文化的景観に選定されました。




駅前広場の脇に京成金町駅があります。京成金町駅は、京成金町駅と京成高砂駅を結ぶ京成金町線の起点・終点であり、JR常磐線金町駅と100mほど離れていますが、相互乗換ができます。営業区間は僅か2.5kmの全線単線の路線で、中間駅は「柴又帝釈天」・「葛飾柴又寅さん記念館」・「矢切の渡し」などの最寄駅の柴又駅のみです。



駅前広場に面して、街の雰囲気とそぐわない高層マンションが聳えています。金町六丁目地区第一種市街地再開発事業で平成二十一年に誕生したヴィナシス金町です。それまで住宅や飲食店が密集していた地区内の環境改善と土地の合理的かつ健全な高度利用と都市機能の更新を目的とし、葛飾区画街路第5号線などの公共施設・超高層住宅・快適な商業空間などの複合施設として整備されました。金町駅周辺地区全体の街作りを先導することを目標に掲げた、葛飾区内で初めての組合施行による再開発です。ヴィナシス金町は、敷地面積約9千u・延べ面積8万u、店舗・住宅・駐車場・公益施設が入居する地上41階・高さ138mの建物です。1階と2階がスーパーマーケット・カルチャーセンター・クリニックモール・金融機関などの商業施設、3階が約5千uの広さをもつ区立中央図書館、低層棟の4階〜7階が自走式で256台収容可能の区営駐車場、高層棟の4階〜39階が住宅になっています。また、地下には住宅用の駐車場・駐輪場と店舗用の駐輪場が整備されています。敷地北側にはカリヨン(12鐘)が設置された広場があり、イベントなどが開催できるようになっています。「ヴィナシス金町」の名称の由来ですが、生まれ変わる金町の象徴として、空に輝く一番星の金星(女神ヴィーナス:Venus)のイメージと、水と緑の街・金町に住む人にとっての憩いの場(オアシス:Oasis)となることを期待して、ヴィナシス(VENASIS)と名付けられました。



京成金町駅の手前から、常磐線の高架に沿って金町末広商店会が延びています。南側の金町栄通り商店会に比べると昭和感はあまり感じられません。会員数39店のこじんまりとした商店街ですが、金町でも2番目に古い商店街とのことです。



金町末広商店街の端に金町湯があります。金町湯は、令和三年(2021年)9月10にリニューアルオープンし、「ニューレトロ」をコンセプトに、宮造り建築の特徴を残して全面改装しました。日本で初めてオブジェとして番台を保存したほか、招き猫・坪庭・格天井・柱時計・ペンキ絵など昭和の雰囲気が楽しめます。浴槽はジェット、バイブラに加えて、新たに水風呂を設置しました。サウナがある浴室とない浴室は、毎週金曜日に男女を入れ替えています。サウナがある浴室の方には、外気浴が楽しめる「ととのい」スペースも用意されています。モダンとレトロが同時に楽しめる銭湯です。



ポイント1 にいじゅくプレイパーク

にいじゅくプレイパークは住宅街の中の三千u超の変形敷地にあり、平成九年(1997年)4月1日に開園しました。プレイパークには、子どもたちの「やってみたい」という思いを尊重しているため、禁止事項が一切ありません。電動のこぎりで工作をしたり、手作りパターでゴルフをしたり、お絵かきをしたりと、子どもの想像力をそのまま形にして遊ぶことができます。プレイパークには遊びのリーダー(プレイリーダー)がいて、子どもの遊びを支援しています。

●プレイパークのきまり●
自分の責任で自由に遊ぼう

ブレイバークは、子どもたちが自然にふれあいながら、自由に、のびのびと遊べるところです。そして、その冒険的な遊びを通して、みんなと仲良くすることや自分で考える力を身に付けることを目的とした広場です。ここの広場の遊びの道具を作ったのは地域のボランティアの人達です。また、この広場の運営も地域の人達の手で行われています。そのため、安全点検など運営管理には、皆さんの協力が必要です。気が付いたことがありましたらブレイリーダーの人達に知らせてください。皆さんが、広場で自由に遊ぶためには「ケガは自分の責任」と言う考えが基本です。そうしないと禁止事項が多くなり、自由な遊びができなくなります。でも、プレイリーダーの人達の注意は、きちんと守ってくださいネ。自分の責任で自由に遊ぶために、皆さんの協力で楽しい広場を作りましょう。




子どもが自分の責任で自由な発想で遊びを楽しむ「冒険遊び場」があり、プレイパーク内には大型アスレチックの冒険砦やどろんこ池・ターザンロープ・ハンモックなど、子どもの冒険心をかき立てる施設がある広大な広場と、平屋の建物「遊びの基地」があります。遊びの基地には卓球台や木工作の道具・シャベルなど誰でも無料で使える道具があります。冒険砦はとても本格的で、ボランティアが作ったとは思えません。



ターザンロープは2種類あり、端が木の枝に括られている簡素なものと、長い距離を滑空する本格的なものがあります。



輪投げは素朴な造りですが、ピンの角度や長さによって点数が異なっているのが工夫の証しです。



防災倉庫や仮設トイレ用マンホールなど災害時に備えた施設もあります



新金貨物線の踏切を渡ります。新金貨物線は、小岩駅と金町駅間8.9kmを結ぶ総武本線の貨物支線の通称で、路線名は新金線とも呼ばれます。明治から大正時代の総武本線の東京側の終着駅は、隅田川に鉄道橋の架橋がなかなか行われなかったために両国橋駅となっていました。そのため、貨物列車は総武本線亀戸駅から東武線を経由して常磐線の北千住駅に向かうか、貨物を両国橋駅で荷馬車や船に積み替えて隅田川を渡るかして千葉県内外との連絡を図っていました。総武本線の貨物列車が隅田川を渡れないことは物流にとって非常に不便なことであり、千葉県の経済にも影響が大きかったため、総武本線新小岩信号場〜常磐線金町駅を結ぶ本貨物線が計画され、大正十五年(1926年)7月1日に開通しました。本貨物線の開業により、総武本線の貨物列車は本貨物線と常磐線を経由して隅田川西岸へ直通することができるようになりました。その後、両国橋駅止まりだった総武本線は関東大震災の復興計画として中央本線御茶ノ水駅まで延伸することになり、総武本線は隅田川西岸へと伸びることになりました。ただ、御茶ノ水駅〜秋葉原駅間が電車列車のみ通過することを前提として33%の急勾配で敷設されたため、その後も貨物列車は本貨物線経由で運転されました。平成十二年(2000年)12月2日から武蔵野線の南流山駅〜西船橋駅間と京葉線の西船橋駅〜蘇我駅間を経由して貨物列車が運行されるようになり、本貨物線を通過する貨物列車は大幅に減少しました。現在では、定期貨物列車が4往復・臨時貨物列車が1往復・回送列車などが運行するにとどまっています。



ポイント2 地蔵菩薩石仏群

新宿(にいじゅく)小学校の南の変形交差点の一角に地蔵菩薩石仏群があります。この三角地の南側の路地はかつての水戸街道の旧道で、金町あたりで現在の国道6号線筋になって北東へ伸びていました。この旧水戸街道は柴又帝釈天への道でもあり、その為「帝釈道」とも呼ばれています。石仏群の先には帝釈道碑が建っています。自然石で造られたこの帝釈道碑は、明治三十年(1897年)7月に建てられました。



千住から東に向かった水戸街道は、明治時代半ばまで現在の中川橋を渡し船で渡り、新宿村に入り、そこから一旦南に下って新宿日枝神社で東に転じ、現在の水戸街道の辺りで佐倉街道と出合いました。佐倉街道と合わさって北上すると現在地に至るという道筋になっています。従って、この地点は、水戸街道・佐倉街道・帝釈天道と3つの街道が一緒になっていた交通の要衝でした。道路に囲まれた三角地にはベンチがあり、地元のご老人たちが集って世間話に花を咲かせています。

記念碑

地蔵菩薩石仏等十三体並びに八大龍神石碑を、旧水戸街道道路拡幅及び旧上下之割用水埋設工事に伴い、新宿四丁目二番地先より現在地に移転。




石仏群の右端に並ぶのは舟型光背型の六地蔵尊です。同時に造立されたもので、造立年は享保三年(1718年)10月と刻まれています。それぞれ部分的な欠損は見られるものの、補修がなされています。



その左には2基の六十六部供養塔と庚申塔があります。右の小さい方の駒型の供養塔は、正面に「奉納日本廻国六十六部供養塚」とあり、宝暦十一年(1761年)10月の造立となっています。中央の駒型の供養塔にも「奉納日本廻国六十六部供養塚」とあり、こちらは宝永五年(1708年)9月の造立です。「乃至法界自他平等?主安楽即身成仏」とあります、左の駒型庚申塔は、日月・青面金剛像・邪鬼・二鶏・三猿が描かれていて、享保七年(1722年)11月の造立です。刻銘は「奉建立青面金剛一躯為二世安楽也」とあり、三猿の下には願主名と共に新宿町の銘があります。その左には2基の地蔵菩薩像があり、右の舟型光背型の地蔵菩薩像は宝永三年(1706年)10月の造立で、「奉造立六道能化地蔵菩薩二世安楽処」と刻まれています。左の方は地蔵なのかその他の仏なのかは不明で、右上が大きく欠損し、尊顔も判別がつきません。造立年は宝永七年(1710年)12月と読めます。



かっての水路の跡のような緑道を進みます。水元から流れていた用水路のひとつ(枝分かれ?)だったのかな。



ポイント3 金阿弥橋跡

国道6号水戸街道に突き当たる手前に「金阿弥橋」と書かれた親柱と欄干の一部が残っています。表札のような字体で、後からプレートを貼り付けたような感じです。橋名の由来は定かではありませんが、付近にお寺が多いので「阿弥陀様」の字を頂いたのかなと想像します。



国道6号水戸街道の中川大橋東交差点の手前に石碑が建っています。

区指定有形民俗文化財
水戸街道石橋供養道標

この道標は、水戸道と佐倉道の分岐点に、地域の万人講・不動講・女中講が共同で架橋した27の石橋供養のために建てたものです。建設は安永二年(1773年)10月から同六年11月にかけて行われました。石工は新宿町の中村佐右衛門で、造立時には道標の頭頂部に仏像が載せられていました。水戸佐倉道は千住宿から分かれて葛西領に入り、宿場町新宿から佐倉道を分岐しました。この形で街道が整備されたのは天和元年(1681年)以降で、元佐倉道が本来の街道筋でした。両街道が江戸川を渡る地点には、水戸道に金町松戸関所、佐倉道に小岩市川関所が置かれました。佐倉道は、成田山新勝寺や千葉寺(千葉市)への参詣が盛んになると、成田道や千葉寺道とも呼ばれるようになりました。




正面に「右 奈りだちば寺道」・「左 水戸街道」とあり、左側面に「安永六丁酉年八月吉日 石橋供養塔」、右側面に「成田山 さくらミち 万人 不動 女中」、背面には「安永二年巳ノ十月廿三日より酉ノ十一月十三日まで 石橋廿七ケ所建立仕候爲供養尊像辻石立置申候」と刻んであります。



国道6号水戸街道を中川大橋の手前まで進み、中川の上流に向かって土手道を進みます。ポンプ所は、地下に設置されたパイプで集められた汚水を水再生センターへ送水したり、雨水を川や海などに放流する施設です。東京23区には85カ所のポンプ所があり、その内の10カ所が葛飾区にあります。新宿ポンプ所は、葛飾区新宿の中川東岸に設置されています。



ポイント4 新宿公園

新宿公園は昭和二十八年4月1日に開園し、敷地面積は1、146uあります。中川の土手に隣接し、小さい公園ですが、カラフルで様々な遊具が揃っています。最近リニューアルされたのでしょうか、施設や遊具はどれも綺麗です。



ポイント5 青龍神社・怪無池

中川の土手下に大きな沼があります。「怪無池(けなしぬま)」は葛飾区のパワースポットと称され、この池には「雨乞いの神様」といわれている白蛇様が住んでいるとの伝説があります。その昔「怪無沼」に白蛇が住みついていました。この辺りを旱魃が襲った時に村人達がこの沼に雨乞いの祈願をしたところ、たちどころに雨が降ってきて村を救ったことから、この地に青龍神社を祀り、日照りが続くとこの沼の池を汲んで田畑に注ぎ、雨乞い祈願をする様になったということです。



池の隣に建立された「青龍神社」では、白蛇様を崇め、雨乞いの神事も行われていました。神事の内容は、群馬の榛名神社から御神水を頂き、青龍神社の怪無池に注ぐのだそうです。そうすると天から雨が降ってくると伝えられています。



社殿は境内の奥にひっそりと建っています。手入れが行き届いていますね。



ポイント6 高砂橋

京成本線の高架下を潜り、高砂橋で中川を渡ります。



高砂橋の先には中川と新中川の分岐点が眺められます。高砂と青戸を結ぶ高砂橋は、昭和七年(1932年)年に架けられました。橋が架けられるまでは、「曲金の渡し」とよばれる渡し舟があって、舟を使って川を渡っていました。現在の橋は、平成十五年(2003年)に架け替えられたものです。



ポイント7 中川右岸緑道公園

中川は高砂橋の先で二手に分かれます。中川から別れて南方向に直進する川は「新中川」で、右側に大きく湾曲する川は本来の「中川」です。1938年7月に東京東部で起こった浸水戸数6万戸に及ぶ被害に対する反省から、1939年4月に中川開削・改修を目的に東京府中川改修事務所が設置されました。しかし戦争激化のため1945年4月には計画は一旦中止され、事務所も廃止となりました。1947年9月のカスリーン台風によって東京東部が再度浸水したことにより、改めて中川改修が検討されました。1949年11月に中川改修事務所が再開され、中川放水路(新中川)の開削が本格化しました。江戸川区などでは多くの家屋等の立退きを余儀なくされるなどの大工事の末、1963年3月に中川放水路は完成しました。1965年3月に一級河川に指定され、河川名は「新中川」に改称されました。葛飾区内を流れる中川は大きく蛇行して流れているため「七曲り」といわれています。川の両岸はおよそ5km余りの遊歩道として整備されていて、その右岸が「中川右岸緑道公園」になっています。



青砥橋は環状七号線の中で最後に開通した区間(青戸八丁目〜奥戸陸橋)の一部で、工事は昭和五十四年(1979年)10月に着手され、昭和六十年(1985年)1月に橋梁が完成しました。青砥橋の下を潜った先で土手沿いの遊歩道から下り、ゴール地点の青砥駅に向かいます。



ゴール地点の京成本線青砥駅に着きました。



ということで、葛飾区で十七番目のコースである「P金町・青戸エリア」を歩き終えました。次は葛飾区で十八番目のコースである「Q金町・高砂エリア」を歩きます。




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