S亀有・綾瀬エリア  

コース 踏破記  

今日は葛飾区で最後の「S亀有・綾瀬エリア」を歩きます。JR常磐線の亀有駅から古隅田川緑道を進み、常磐線の高架を潜って、砂原第二公園・上千葉砂原公園・西亀有せせらぎ公園・中道公園・普賢寺公園・白鷺公園を巡り、再び古隅田川緑道を経由して綾瀬駅に至ります。

S亀有・綾瀬エリア

「S亀有・綾瀬エリア」の歩行距離は約6.5km(約9、290歩)、歩行時間は約1時間36分、消費カロリーは約288Kcalです。

スタート地点:亀有駅北口
ポイント1 古隅田川緑道
ポイント2 砂原第二公園
カラフルな遊具がある楽しい公園。お城公園の愛称で親しまれている。
ポイント3 上千葉砂原公園
交通公園だけでなく、ポニーに乗ったり、モルモットに触れたりできるふれあい動物広場もあり、子どもから大人まで楽しめる。
ポイント4 中道公園
ポイント5 古隅田川緑道
足立区と葛飾区の区境を流れる古隅田川沿いにある緑道。コイやメダカの泳ぐ姿や四季折々の花が楽しめる。

ゴール地点:綾瀬駅西出口


スタート地点の亀有駅北口から歩き始めます。



亀有駅北口から中通り商店街を抜けて曳舟川跡の道路に出ます。



ここは葛西用水親水水路と曳舟川親水公園の間に位置し、どちらつかずの区間ですが、かって曳舟川が流れていたことには違いありません。曳舟川は葛飾区から墨田区にかけての川筋で、江戸時代初期には飲料水用水路として利用されました。これが廃止された後は、綱を付けた小船を岸から引いて人々を楽しませる乗合船が登場し、安藤広重の江戸百景にも描かれるなど、江戸の風物詩として知られ、これが曳舟川の名称の由来となっています。曳舟川の名称が付けられた区間は江戸期に開削された葛西用水や亀有上水の水路を利用しており、昭和四年の荒川放水路の開削による川筋の分断のために早くから自動車道に改修されました。江戸期の後期から明治の初めごろにかけて行われた曳舟は一種の水上交通機関ではありましたが、舟を曳く動力が陸からの人力であるために馬とか籠などの陸上交通機関の要素も含まれたもので、曳舟は異色の交通機関として人気がありました。また、江戸市中から下総・水戸方面へ行く多くの旅人にも利用されました。他の都市河川と同様に、東京オリンピックが開催された昭和三十九年(1964年)頃までは小魚などの生物が生息している川でしたが、日本が高度成長期に入ると生活雑排水やメッキ工場からの排水が流れ込み、瀕死の状態となっていました。その後、排水規制等によって水質は改善されたものの、葛西用水の一部区間の公園化や葛西用水からの取水ができなくなったことにより、現在の曳舟川は支流も含めて埋め立てられ、水路は存在していません。葛飾区の区間では、人工的な水の流れをつくり、曳舟川親水公園や四つ木めだかの小道となりました。自然の川を再現した区間や、シャワーを備えた親子向けのプールになった区間もあります。また墨田区内では、流路上に作られた道路が「曳舟川通り」と名付けられています。歩道脇に、曳舟川の案内板がふたつ建っています。ひとつは、「亀有」と「曳舟川」の歴史について解説してあります。もしも「亀有」が「亀無」だったら、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」は「こちら葛飾区亀無公園前派出所」となっていたでしょうけど、略称「こち亀」は変わりませんね。

■亀有(かめあり)
「義経記」治承四年九月十一日兵衛佐ョ朝、隅田川を越し給うの条に「頼朝が多勢、この二三日水にせかれて渡しかねたるに、水の渡り浮橋をくんで頼朝が勢を武蔵国王子板橋につけよとぞ給ひける。江戸太郎うけ給りて首をめさるるとも、いかで渡すべきと申所に、千葉介、葛西の兵衛をまねきて申けるは、いざ江戸太郎を助んとて両人が知行所、今井、くり河、亀なし、牛まと、と申所より海士の釣り船を数千艘のぼせて石浜と申所に江戸太郎が知行所なり」云々とあり、「応永五年葛西御厨注文」「永禄二年北条分限帳」いずれも「亀なし」とし、「亀無」「亀梨」の文字が用いられている。「義経記」の信疑は別として、江戸時代以前には「亀なし」と呼んでいたらしい。語源の由来については諸説区々として不明だが、従来「なし」を「あり」に改める例は決してすくなくない。梨の実を「ありの実」といい、すり鉢を「あたり鉢」と称するのもその一例である。亀なしの「なし」もその言葉を忘みきらって正保元年(1644年)幕府の国図作製の際、「亀有」に改められたものであろう。ともかく室町時代すでに起立のあった古い土地であることは事実で、江戸時代には村の中央に水戸街道が通じ、隣接新宿町の問屋場の繁栄と相俟って相応に栄えた農村である。

■曳舟川(ひきふねがわ)
この川は、農地開発のため、万治三年(1660年)関東代官伊奈半左衛門憲克が幕命によって開さくした「葛西用水」(延長70km。埼玉県羽生市で利根川より取水。同県東部と東京都東北部にまたがる。)のことで、葛飾区では、古くからの“曳舟川”と呼んできました。この川が“曳舟川”と呼ばれるようになった由来は、人や物資を輸送するため、舟になわをかけ人や牛馬が引いたことにあります。従って、灌漑だけでなく運輸にも活用され、地域にとって極めて重要な川であったことが物語られています。このようなことから、曳舟川は、古くから多くの利用が盛んでありましたが、都市化が進むとともに耕地は徐々に減少し、商工業の発達により次第に雨水や家庭雑水の排水路に度わりました。区では昭和四十八年から下水道整備が始まり、その普及とともに、雨水や家庭雑水は下水道て処理されるようになり、曳舟川は、排水路としての機能がうすれてきました。このたびの事業は、「水と縁ゆたかな心ふれあう住みよいまち」をつくる一環として曳舟川を地域の環境軸とし、道路や公園に置き換え、快適で潤いのある環境となるよう計画しました。この場所は、とりわけ、この事業計画の第一番目の実施区間であり、道路の利便性を考慮するとともに歩道幅を比較的広く取り、樹木植栽を施し、地域の貴重な都市空間となるよう配慮いたしました。




もうひとつは、「昭和六十二年当時の曳舟川の面影」と題されています。当時の川筋の各地の様子を映した写真と、下の2枚には説明書きが添えられています。年月の風化で表面が擦れてしまっていて、写真も説明文もよく見えません。ですが、当時の面影をなんとなく感じ取れます。ちなみに、「槐戸」って漢字、読めますか?「槐」は、本来「えんじゅ」と読み、鬼門除けなどに使われるマメ科の高木です。これに「戸」付くと「槐戸」になるのですが、橋の名前とか地名に出てくるものの、意味合いがよく分かりません。

曳舟川の面影(昭和62年当時)


槐戸堰(さいかちどせき)
曳舟川の水位を「角落し」という板で調整し、他の水系に水を分配するために用いられていました。

槐戸枝圦(さいかちどえだいり)
曳舟川の水を農業用水として使うために、その取入口としてつくられましたが、近年のキ市化に伴い、排水路の施設として使われていました。




スーパー前の植え込みに、両津勘吉の「敬礼両さん像」が建っています。両津勘吉は、剛毛の角刈りの髪型に繋がった眉毛が特徴で、無精髭を生やしています。靴と靴下を履かず、常時サンダル履きです。制帽は滅多に被りません。夏は原則半袖ですが、旧制服では夏服の際に長袖を捲り上げたような服装を主とし、冬でも長袖を捲り上げた姿で生活をしています。



ポイント1 古隅田川緑道

足立区の東和二丁目と葛飾区の亀有五丁目の境界に、かってこの場所に架かっていた北三谷橋の親柱が遺されています。



北三谷橋で左折して古隅田川緑道に入ります。ここから常磐線の高架までの区間はかって武蔵国と下総国の国境を流れていた古隅田川の流路の跡で、今は「古隅田川緑道」として整備されています。古隅田川緑道は、葛飾区と足立区の共同事業として整備され、葛飾区・足立区の両区民の安らぎの場を創出する出会いの川・古隅田川をテーマとしています。水路にはコイやメダカの泳ぐ姿を見られるほか、春には、水路沿いのデッキから満開の桜並木をみることができます。古隅田川は足立区と葛飾区の境を流れる流路延長5.45kmの河川で、葛飾区亀有三丁目で中川と分かれ、葛飾区小菅三丁目で綾瀬川左岸に合流します。現在は下流部の一部を除き暗渠となっています。東京拘置所付近に延長1.1kmに亘り、綾瀬川の開削で分断された旧流路跡(裏門堰親水水路)が残っています。かつて、隅田川は利根川の下流に位置していて、武蔵国と下総国の境界線となっていました。埼玉県と東京都にあるふたつの古隅田川は当時の利根川〜隅田川の一部であり、現在の河川に則すれば、古利根川から古隅田川(埼玉側)・元荒川・中川・古隅田川(東京側)・隅田川という流れが利根川及び荒川の本流であったと考えられます。歩道脇に絵入りの案内板が立っています。蒲原村という地名は、現在では区画整理されて東和という住居表示になっています。

蒲原村宿駅伝説

寛政六年(1794年)出版の「四神地名録」に、「この土地の人の言い伝えに、古隅田川の北に添った蒲原村は、むかしの駅で今も宿という地名が残っている。在原業平が東下りした時「名にしおばいざこととはん都鳥我思ふ人は有りやなしや」と詠んだのはこの辺りではないか、今、隅田川と称している地は二百四〜五十年以前は海だったから川があるはずがないという。」とある。その他の地誌にも、蒲原が古い駅路の宿だったかどうかを記しているものが多い。このため、治承四年(1180年) 源氏の再起を賭けて伊豆に挙兵、 敗れて安房国に逃れた頼朝が、再び鎌倉をめざして下総国から武蔵国に入った時、蒲原村に宿陣したという説が地元に根強く伝わっている。




最初は何の変哲も無い普通の路地ですが、かっての橋の親柱がところどころに遺されています。



次第に、親水水路らしい風景になります。



もうひとつ、絵入りの案内板が立っています。

梅若丸と北三谷

この辺りは、19世紀終り頃まで北三谷村といわれたところである。慶長十九年(1614年)の古文書に「淵江之内ふげんじ・さん屋新田開之事」とあり、その頃開拓されたことがわかる。当時は、古隅田川が利根川流域の氾濫原野の湿地帯であったと想定される。この開拓にまつわり、謡曲や浄瑠璃「隅田川」で名高い梅若丸の物語に由来する伝説がある。その昔、貴族の子梅若丸が人買いに誘拐されて奥州へ向かったことを知った母親が、従者4人を伴って京の都から後を追ってきた。しかし、隅田川の渡し守から梅若丸が死んだことを聞き、悲嘆にくれて尼となり草堂にこもってしまった。主を失った従者たちは浅草山谷の地に住んだが、やがて安住の地を求めて隅田川を北上し、この地を開いて北三谷と名付けたのだと言う。「隅田川」の舞台は村上天皇の時代というから10世紀の物語で、開拓年代とは5世紀以上も開きがあるが、これも隅田川の名が生んだ地名伝説の一つとして継承されてきたものであろう。




更に、もうひとつ。

軍用金伝説

古代から古隅田川は、武蔵国と下総国との国境をなすほどの大河でした。船の行き来も盛んで、人や物を運ぶ大切な交通手段でもありました。この辺りは、大きく川が曲がっていることから大曲と呼ばれ、船の舵取りの難しいところとされていました。慶長十八年(1613年)2月の暴風雨の時に、この難所で1隻の船が沈没してしまいました。いつのまにか「沈没した船に軍用金が積んであった」という噂が広まり、明治に至るまで、軍用金探しが行われたそうです。しかし、発見されることもなく、近年の区画整理などのため、いまではその正確な場所もわからなくなってしまったそうです。




一之台中学校の前の歩道の脇に、古隅田川に架かっていた東隅田橋の親柱が再現されています。その横に、「古隅田川総合案内」の碑が建っています。

古隅田川(足立・葛飾区)総合案内

<概要>
古隅田川はかつて利根川の流末の一つで、豊かな水量をもつ大河でありましたが、中川の灌漑事業等により水量を失い、やせていったものと考えられています。近代に至っては、雑排水として利用されてきました。現在は下水道の整備によって、排水路としての使命を終え、荒川と中川を結ぶプロムナードとして期待されています。また、古隅田川は古来、下総国と武蔵国の境界であるとともに、人と人との出会いの場でもありました。そこで、古隅田川に水と緑の景観を再生するため、「出会いの川、古隅田川」をテーマに、失われた生物を呼び戻し、潤いのある人と人との交流と安らぎの場を創出したものです。

<位置>
当施設は中川から綾瀬川、そして荒川を結ぶ範囲の足立区と葛飾区の区境にほぼ重なっており、古隅田川は中川と綾瀬川を結び、裏門堰は荒川と綾瀬川を結んでいます。また、古隅田川に隣接して5つ公園があり、河添公園・下河原公園は足立区に、袋橋公園・白鷺公園・小管万葉公園は葛飾区に位置しています。

<延長>
古隅田川 約5,450m
裏門堰  約1,100m




歩道の脇には古隅田川の流路もミニチュアですが再現されています。



ポイント2 砂原第二公園

常磐線の高架下を抜けた先に砂原第二公園があります。



砂原第二公園は、園内の中央に道路が通っていて、南北2区画に分かれています。北側の区画には大きなお城を模した複合遊具・幼児向遊具、大きめの砂場などカラフルな遊具が散りばめられています。通称「お城公園」と呼ばれている地元で人気の公園です。



南側の区画には、つぼ押しイスやはだしで歩く散歩道、木のテーブルとベンチがあります。小さな子どもから大人まで、楽しく遊べる公園となっています。



砂原第二公園の中央を通るのは、かっての水戸佐倉道です。現在は江北橋通りになっています。

水戸佐倉道

かつて武蔵と下総の国境であった古隅田川が流れていたこのあたりは、江戸時代には千住宿から分岐した水戸佐倉道が通っており、葛飾区新宿で水戸道と佐倉道に分かれていました。現在は西亀有という町名ですが、江戸時代には上千葉村・砂原村といいました。この周辺では、東京低地で数少ない中世の屋敷跡が発掘されており、十四世紀頃から集落があったと推定されています。上千葉・砂原という地名は、現在でも学校や公園の名前として残っています。




ポイント3 上千葉砂原公園

亀有四丁目交差点を右折し、ファミマの前で更に右折しますと、都立農産高校と向かい合わせに上千葉砂原公園があります。上千葉砂原公園は昭和四十三年4月1日に開園し、面積は約2万uあります。



上千葉砂原公園は自転車・ゴーカート・三輪車・豆自動車などの乗り物遊具を無料で貸し出していて、公園内を自由に走行できます。



遊具には滑り台・砂場・ブランコを始め、メビウスの輪をモチーフにした大型遊具もあります。



夏季期間中には広場にじゃぶじゃぶ池が出現し、子どもたちが水遊びできます。



交通公園としての施設の他、園内にはふれあい動物広場があり、リスザル・ヤギ・ミニブタ・モルモット・クジャク・小鳥など約13種・200匹の動物がいます。ふれあい体験が人気で、開始時間前に順番待ちの列ができていることもあります。ふれあえる動物はヤギとモルモットで、特にモルモットは膝の上に乗せてもうことができます。また、ポニーに乗馬することができ、公園内をポニーに乗って散歩することもできます。



公園内には、本物の蒸気機関車「D51502」が展示されています。「デゴイチ」という愛称で知られ、トーマスに出てくるキャラクター「ヒロ」のモデルになった機関車です。運転室に入れるので、運転手さんごっこをやりたい男の子に人気があります。この機関車は大宮工場で解体され、昭和四十七年(1972年)3月6日の夜に4台のトレーラーで運び込まれ、公園内で組み立てた後、3月18日から一般公開されました。展示当時は全国的なSLブームの最中にあり、葛飾区が南東北鉄道管理局を通じて依頼し展示に至ったものです。D51としては都内初の展示で、近隣小学校の図画工作授業の写生の定番スポットとなっていました。当初は現在動物広場がある公園西側に展示されていましたが、動物広場の開設により今の北側に移設されました。



D51の解説があります。

D51502の経歴

●製造年月日: 昭和十六年9月
●廃車年月日: 昭和四十七年1月
●製造所:   鷹取工場(国鉄)
●経歴
D51蒸気機関車は、国産の近代型機関車として昭和十一年(1936年)2月に第1号が製造されてから昭和二十年(1945年)1月を最後として、その間10年間に1、116輌製造された国鉄の代表的な機関車です。本機関車は、その内の標準型であり、昭和十六年9月に国鉄鷹取工場(現在の兵庫県神戸市須磨区大池町)にて製造され、直ちに奈良機関区に配属されたのを始めとして、広島第1、新鶴見、新津、直江津、各機関区管内を走り、最後に酒田機関区管内にて、昭和四十七年1月に廃車となり、その間の走行キロ数約1、877、034.7kmを運行し、昭和四十七年3月、当公園に保存することになりました。
●性能
 機関車重量(運整) 85.13t
 機関車重量(空車) 70.07t
 炭水車重量(運整) 47.4t
 炭水車重量(空車) 19.4t
 最大長       19.730m
 最大幅       2.936m
 最大高       3.980m
 最高運転速度    85km/h
 水タンク容量    20.0t
 燃料積載量     8.0t
 動輪直径      1.4m


蒸気機関車は、石炭を燃やし、水をあたためて作った蒸気で走ります。日本で最初に蒸気機関車が走ったのは明治五年(1872年)で、英国から輸入したものです。黒い煙と白い蒸気を吐きながら力強く走りつづけてきた蒸気機関車も、エネルギーの利用効率が低く、又、こわれた時の補修に大変手間がかかるために、今ではほとんど姿を消してしまいました。




芝が敷かれた芝生広場と築山エリアがあり、芝生広場はテントも設置できますので、ピクニックにぴったりです。桜の木が沢山植えられていますので、春には花見客で賑わいます。



西亀有せせらぎ公園は、昭和五十六年10月1日に開園し、面積は8、500uあります。かつて農耕地の水路として使われていた場所を整備して造られ、亀有一丁目から三丁目にまたがる4つの公園(藤塚西公園・藤塚東公園・中道公園・上千葉砂原公園)とつながるT字型の親水公園です。

西亀有せせらぎ公園

かつて、この地域は水田を中心とした農耕地であり、そのかんがい用水として、また後には雨水及び雑排水の排水路として、当西亀有せせらぎ公園の真中を水路が通っていました。その水路も下水道施設の整備により利用されなくなり、地域の環境改善を目指して、ここに水と緑を配した公園が造成されました。水の流れを取り戻し、水とたわむれ、緑の中で憩う場として、また付近に散在する上千葉砂原公園、中道公園、藤塚西・東公園、をつなぐ散策道として整備されたものです。この西亀有せせらぎ公園の面積は8、500平方メートルあり、水の流れの総延長は約400メートル、植栽面積は約5、000平方メートルあります。幅約2メートルの人工水路の流れは園内4箇所に設けた地下貯水槽に水を溜め、ポンプによって水を上げ循環させています。




夏場は水遊びをする子供たちで賑わいます。人工水路の水深は浅く、シャワーもありますので小さいお子さんも安心して水遊びを楽しむことができます。



春には数種類のバラが咲き誇り、秋にはイチョウ並木が見事に色づき、訪れる人の目を楽しませてくれる遊歩道があります。



江戸時代には、この付近の畑から中国渡来の小銭が掘り出されたのだそうです。こんなところまで誰が持ち込んだのでしょうか?

葛飾区指定有形文化財
渡来古銭出土の地

かつて武蔵と下総の国境であった古隅田川が大きく湾曲するこのあたりは、室町時代には木庭袋と呼ばれ、その後は千葉袋となりました。「千葉」という地名は、武蔵千葉氏に由来すると考えられます。江戸時代に入ると「袋」が取れ、上・下千葉村に分村しました。江戸時代後期の嘉永三年(1850年)、上千葉村の住人が自分の畑を耕していたところ、壺に入った古銭を掘り当てました。常滑焼の壺に収められていた古銭は、ほとんどが中国からの渡来銭でした。古銭の種類や壺の作成時期から、13世紀末から14世紀にかけて埋蔵されたと思われます。また、一緒に残されている高札からは出土の状況や、上千葉村の役人が心当たりのある者を探していた様子がうかがえます。これらの古銭、壺、高札は、「出土銭一括 附壷1口  高札1面」として昭和五十五年(1980年)3月に葛飾区指定有形文化財に指定されました。なお上千葉という町名は昭和三十八年(1963年)から実施された住居表示によりなくなりましたが、現在でも学校名や公園名にその名を残しています。




ポイント4 中道公園

西亀有せせらぎ公園の南端の西側に中道公園があります。

【園名の由来】

中道公園は、上千葉砂原町土地区画整理事業により生み出された土地であり、同組合から「中道公園用地」として葛飾区が管理を引き継ぎました。園名の「中道」は、この公園用地の西側にある道路が区画整理以前より陸前濱街道(旧水戸街道)に通じる2本の道を結ぶ道であったことから、この地域では、通称名で「中道」と呼んでいたことなどに由来します。




中道公園は、昭和四十一年4月1日に開園し、面積は7、477uあります。ネットで囲まれたボール遊びができるエリアがある公園で、小学生や少し大きな子どももたくさん遊んでいます。午前中には高齢者がゲートボールを楽しむ姿も見られます。また、ボール遊びのエリアの脇には園路に沿ってせせらぎが流れ、樹木も多くお散歩コースにも最適です。遊具は機関車をモチーフにした遊具やブランコなども設置され、小さな子供から大人まで幅広い年齢の人たちが利用しています。



ポイント5 古隅田川緑道

中道公園の西側から北に向かって進み、西亀有小学校の先で左折して河添公園まで進みます。



河添公園から再び古隅田川緑道に入り、南方向に進みます。この辺りは、古隅田川は開口部となって車道と歩道の間を流れています。水草は生えていますが、水はとても綺麗です。



流路が急に太くなった地点に東屋が建っていて、その脇に案内板が2基建っています。ひとつは足立区・葛飾区の歴史と古隅田川の成り立ちを記した案内板です。あまりに詳細に書かれているので、全て読んだ人はいないと思います。書き写した人も(私を除いて)。。。

西暦和暦歴史事項
 645年大化元年  大化の改新起こる。この頃、国・郡・里制定され、足立区は武蔵国安達郡、葛飾区は下総国葛飾郡に編入され、古隅田川が両国の境となる。
 701年大宝元年  律令制度によって五畿七道が行政区画となり、このあたりは東山道に属す。
 721年養老五年  下総国葛飾郡大嶋郷戸籍作成される。古隅田川東岸の大嶋郷に1,191人が暮らしていたことがわかる。
 771年宝亀二年  武蔵国、東山道から東海道へ所属替え。
 835年承和二年  古代東海道の住田川(隅田川)と太日川(江戸川)に設置された渡船を二隻から四隻へ増設。
1180年治承四年  源頼朝、下総国より江戸川・隅田川を渡り、武蔵国に入る。この時、足立遠元・葛西清重ら馳せ参じる。一説に、頼朝が足立区旧蒲原村宿陣したという。
1455年康正元年  千葉氏内紛により一族が葛西・淵江方面に入る。この頃、葛西地域は山内上杉氏の大石石見守が守備、淵江は扇谷上杉氏の支配となる。
1538年天文七年  二月北条氏綱が葛西域を奪収。十月北条氏綱は市川の国府台に陣取つた足利義明、里見氏を攀破(第一次国府台合戦)。
1559年永禄二年  小田原衆所領役帳作られ、古隅田川周辺に北条氏家臣の所領が見うけられる。
1562年永禄五年  北条氏康、下足立に進攻、本田氏に葛西城乗取りを条件に金町・曲金(高砂)などの領(知行)をあてがい、ついで足立郡にも領地(知行地)を与える。
1563年永禄六年  国府台で北条氏と里見氏が再び激突、里見氏が破れる(第二次国府台合戦)。この二度の合戦により、葛西地域は戦火を被る。
1590年天正十八年 北条氏滅亡、八月一日関東六カ国を所領として徳川家康、江戸入府。
1614年慶長十九年 伊奈忠治、古隅田川周辺地域の開発を許可。この頃、葛西用水の建設開始。
1625年寛永二年  千住宿が日光道中の初宿に定められる。
1639年寛永十六年 幕府、千住・小菅・葛西などの離館を修理。
1624年寛永年間  三代将軍家光は寛永十二年以降ほぼ毎年千住・小菅・葛西で魔狩す。
 〜44年      綾瀬川の流路が小菅方面(南下直流)と六ツ木方面(旧河道)の二筋に分かれる。
1644年正保元年  諸国郷村高帳・国絵図の改訂に古隅田川沿岸の渕江領新田ほぼ出揃う。
1695年元禄八年  綾瀬川改修
1717年亨保二年  幕府弥五郎新田古川通りに鴨場寄土手(鴨用の寄餌場)を築造。
1736年元文元年  吉宗、伊奈忠逵の屋敷内に嗣子家重のために御殿を新設、以後家重ここを止宿所としで頻繁に鷹狩をする。
1855年安政二年  大地震で古隅田川周辺被害大、小菅の籾蔵も崩壊。
1869年明治二年  旧小菅御殿内を県庁として小菅県を設置、翌年県庁落成。
1871年明治四年  小菅県廃止、翌年東京府へ引き継がれる。千住より水戸を経て陸前岩沢に至る道を、陸前浜街道とする。
1878年明治十一年 郡区町村編成法により、南足立郡と南葛飾郡誕生。
1889年明治二十二年市制町村制施行で、古隅田川北岸の村々は東渕江村と綾瀬村に統合、南岸は亀青村と南綾瀬村になる。
1896年明治二十九年日本鉄道会社土浦線、田端−土浦間開通、古隅田川の流路が一部変更される。
1897年明治三十年 亀有駅開設。
1906年明治三十九年日本鉄道土浦線が国有鉄道となり、常磐線と改称。
1910年明治四十三年八月、関東地方に豪雨、荒川・利根川大氾濫。
1911年明治四十四年荒川放水路工事が内務省直轄で肴手。
1912年大正年間  荒川放水路開削工事で千住地区と分断される。
 〜26年      荒川放水路開削工事で千住地区と分断される。
1934年昭和九年  葛飾区柳原町が足立区へ編入される。
1936年昭和十一年 常磐線上野−松戸間、電化する。
1943年昭和十八年 常磐線綾瀬駅新設される。
1945年昭和二十年 第二次大戦集結、中野の東京拘置所が連合軍に接収されたので小菅刑務所が東京拘置所となる。(昭和三十三年再び刑務所となるが、現在は拘置所)
1959年昭和三十四年綾瀬第一工区土地区画整理事業開始、昭和四十五年完成。
1971年昭和四十六年営団地下鉄千代田線、常磐線と相互乗り入れ、綾瀬駅、営団の駅となる。


出会いの川・古隅田川

古隅田川流域は16世紀まで坂東太郎利根川の流末の一つで、広大な河川敷であったと考えられている。利根川が江戸に氾濫を及ぼすために、江戸時代初期から改修され、その本流を江戸川へ移し、さらに現在の流路に付け替えられて、鹿島灘へと注ぐようになった。のち旧河道(古利根川)が中川として新宿地点から南流すると、それまで西流して隅田川へ注いでいた河道は上がり、河底部が大きく蛇行して残った。これが古隅田川である。かくして広大な河原は17世紀半ば頃までには、次々と新田が開かれ、新しい村々が誕生した。古隅田川がまだ大河であった頃は、武蔵国と下総国の国境で、そのため足立区側(渕江領)は武蔵一の宮の氷川神社を勧請して氏神とし、葛飾区側(葛西領)は下総一の宮の香取神社を氏神として祭り、その形態は今日にまで及んでいる。古隅田川南岸部に当たる亀有・小菅地区は利根川の運んだ土砂で自然堤防ができ、この砂州に中世期から村々が形成されていた。これらの古い村々からの文化が、渕江領の新田へ寺院進出に伴って伝わっている。渕江頭の村々も、水戸街道に交通を依存していたから古隅田川に橋を架け葛西領に足を運んだ。古隅田川は元国境だったとは言え、沿岸住民にとっては切っても切れない出会いの関係で結ばれていたのである。




もうひとつの案内板は、上千葉遺跡と普賢寺について解説してあります。

上千葉遺跡と普賢寺

この遺跡の発見は古く、嘉永三年(1850年)畑から壺とその中から古銭約1万5千枚が発掘されました。古銭は開元通宝・皇栄通宝・元豊通宝など中国からの輸入されたもので、壺は愛知県常滑で焼かれた13〜14世紀の製品です。古銭出土地点周辺には「城口(錠口?)」「ギョウブ(刑部?)」「クラノ内」などの字名があることから、付近に城館跡が存在していた可能性が高い地域です。また、付近には治承四年(1180年)の開基といわれる古城の跡に建立されたとする普賢寺が在ります。寺には、都史跡に 指定されている鎌倉時代末期頃の宝篋印塔三基があり、葛西氏ゆかりのものと伝えられています。




古隅田川に面して普賢寺公園があります。普賢寺公園は、面積が2164平方メートルのこじんまりした公園です。土の広場の中央に設置された滑り台とカラフルなコンビネーション遊具が目を引きます。公園の周囲には数多くの木々が植樹され、木陰にはすがすがしい風が吹き抜けます。「普賢寺」は中道公園の直ぐ先にありますが、公園の名前は江戸時代に水耕が盛んだったこのあたりの村名「普賢寺村」に由来していると思われます。



古隅田川は、川の手通りを越えて白鷺公園の西側で南方向に直角に向きを変えます。



古隅田川が直角に向きを変える地点に、「蓮昌寺板絵類」という案内板があります。蓮昌寺(れんじょうじ)は、寛政四年(1792年)に十一代将軍徳川家斉が鷹狩で使用して以来将軍家の御膳所に指定されたお寺です。

蓮昌寺板絵類

蓮昌寺には区指定文化財の木版彩色画(絵馬)が保存されています。記されている紀年から、文久二年(1862年)〜昭和十四年(1939年)までの間に寄進されたことがわかります。描かれている絵は、宗教関係の図が多く、そのほか、収穫図、能楽翁の図などがあり、蓮昌寺を中心とする信仰の形態を示す資料として貴重です。蓮昌寺は、正安二年(1300年)創建と伝えられています。




ここにも「古隅田川を巡る歴史」の案内板が建っています。年表は同じ内容なので、解説文のみ掲載します。

古隅田川と東京低地

東京低地は、関東諸地域の河川が集まり東京湾に注ぐ、全国的にも屈指の河川集中地帯です。これらの河川によって上流から土砂の堆積作用が促され、海だったところを埋めていきます。特に利根川は東京低地の形成に重要な役割を果たしています。利根川が現在のように鬼怒川と合流し、その後千葉県銚子で太平洋に注ぐようになったのは江戸時代初期に行われた改修のためです。利根川は古くは足立・葛飾両区の間を流れる古隅田川・江戸川・中川がその支派となり東京湾へ注いでいました。足立区と葛飾区の区境が直線的でばなくて、なぜくねくねと曲がりくねっているのかと疑問を持たれる方も多いと思います。実は古隅田川の流路が区境となっているからです。足立区と葛飾区の境は、歴史的に見ると古くは武蔵・下総国の境であり、それが現在まで受け継がれているのです。古隅田川は足立区千住付近で入間川と合流し、現在の隅田川沿岸地域でデルタ状に分流しており、この付近に寺島・牛島などの島の付く地名が多いのはその名残です。現在のように、古隅田川の川幅が狭くなってしまったのは、上流での流路の変化や利根川の改修工事によって次第に水量が減ってしまったせいです。今では、古代において古隅田川が国境をなした大河であったことをしのぶことはできませんが、安政江戸地震(1855年)が襲った際、亀有など古隅田川沿岸地域では液状化によって家屋や畑に被害が出たという記録が残っています。その原因は古隅田川が埋まつてできた比較的新しい土地が形成されているためだそうです。地震の災害は困ったものですが、見方を変えれば古隅田川が大河であったことを裏付けているのです。




左手にレンゴーという大阪市に本社を置く会社の工場があります。板紙・段ボールを中心とする紙製の包装資材を製造・販売する企業で、板紙や段ボールの業界では最大手だそうです。



古隅田川の流路は、陸前橋の先で西方向に向きを変えます。



陸前橋は、旧水戸街道と古隅田川が交差するところに架けられていたようです。10年ほど前に水戸・佐倉道を歩いたのですが、ここを通ったかどうか全く記憶にありません。ちなみに、陸前橋としたのは、明治になって水戸街道を含めた宮城まで通じる街道を「陸前浜街道」と命名した際に、新政府としては幕府親藩の水戸藩の痕跡を残す「水戸」の名は使いたくなかったからなのでしょう。橋の袂に「小菅の風太郎」の案内板が立っています。ちなみに、もろこしは室町時代に中国を経由して伝来した背丈1.5mほどの五穀(キビ)の一種で、食用として栽培されていました。

小菅の風太郎

江戸時代、ここには水戸佐倉道という街道が通っていました。さる藩の大名行列がこの辺りで突然一陣の風に吹かれ、街道沿に植えられたもろこしが殿様の乗る馬に絡んだために、殿様が落馬してしまいました。殿様はもろこしに八つ当たりする次第。畑の持ち主の源蔵は許しを請いましたが聞き入れられず、哀れ手討ちとなってしまいました。何年か後、あの殿様一行が同じ場所でまたも突風に吹かれました。すると、どこからともなく「風よ吹くな!殿様に殺されるよー」という怨めしげな声が聞こえ、一行は怯えて逃げ出したそうです。その後も風が吹くと「風よ吹くな!殿様に殺されるよー」という声がどこからともなく聞こえたそうです。




鵜乃森橋から綾瀬駅に向かって北に進みます。両側のタイル敷きの歩道が水路跡のように見えるは気のせいでしょうか?



歩道脇の花壇に植えられたチューリップが見頃ですね。



ゴール地点の綾瀬駅に着きました。



ということで、葛飾区で最後のコースである「S亀有・綾瀬エリア」を歩き終えました。次は都心に戻って千代田区で最初のコースである「@その1.江戸城とお堀めぐり・江戸城と内堀をめぐる」を歩きます。




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