@その2.江戸城とお堀めぐり・大名屋敷と外堀をめぐる  

江戸の町がいかに防衛、治安にすぐれていたのか、外堀沿いの史跡を巡ってみると実感できるに違いありません。また、早くから経済や文化が発展した、活気あふれる大都市の顔を紹介します。江戸っ子気分で歩いてみよう!
 

コース 踏破記  

今日は千代田区の「@その2.江戸城とお堀めぐり・大名屋敷と外堀をめぐる」を歩きます。有楽町駅を起点として、ほぼ外堀通りに沿って江戸城外郭を一周します。歴史的建造物や史蹟が多く含まれ、同時に目まぐるしく変化する都心の姿を垣間見ることが出来、見所満載のコースです。最初に歩いたのは2022年の4月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年8月に改めて歩きました。

スタート地点:東京メトロ有楽町駅出入口D7
ポイント1 大岡越前が活躍した 南町奉行所跡
JR有楽町駅の中央口前広場は、江戸町民の行政、裁判、消防などを担当する南町奉行所だった。名奉行大岡越前守忠相が手腕をふるった場所。発掘調査の結果、下水溝や井戸などが出土。広場には石垣が地下広場には穴蔵(地下室)が復元展示されている。
 
ポイント2 馬場先門へとつながる外郭門 鍛冶橋門跡
JR東京駅八重洲口前を通る外堀通りは、かつて江戸城の外堀だった場所。鍛冶橋門は、寛永六年(1629年)に秋月藩主黒田長興らによってつくられたが、現在は説明板が残るのみ。門前には御用絵師として江戸城本丸の襖絵を描いた狩野探幽の屋敷があった。
 
ポイント3 「遠山の金さん」でおなじみ 北町奉行所跡
北町奉行所はたびたび移転を繰り返したが、文化二年(1805年)以降は、現在のJR東京駅日本橋口前に置かれた。遠山の金さん(遠山左衛門尉景元)も、3年間ここで奉行を務めた。発掘調査で奉行所の上水道や井戸が発見された。近くには江戸城外堀の石垣も残っている。
 
ポイント4 越前松平家が最後に居住した上屋敷 福井藩常盤橋江戸上屋敷跡
最新のビジネスセンター大手町プレイス一帯は、越前松平家の上屋敷だった。初代藩主は徳川家康の次男結城秀康。松平姓を名乗ったのは、2代忠直以降。上屋敷は麹町、龍ノ口、浜町と移転したあと、正徳三年(1713年)に常盤橋に移り、幕末までこの地にあった。
 
ポイント5 将軍の御成道だった 神田橋門跡
真岡藩主稲葉雅(正?)勝らによって、寛永六年(1629年)に築かれた。神田橋門は江戸五口のひとつで、将軍が菩提寺である上野寛永寺や日光東照宮に参詣する際の御成道だった。残念ながら、現在では橋の横にわずかに枡形の石材が残るばかりとなっている
 
ポイント6 中山道に通じる要所 筋違門跡
現在の昌平橋と万世橋の間にあった。神田橋門と同様、将軍が上野寛永寺に参詣する際の御成道で、日本橋から本郷に通じる中山道と斜めに交差する要所だった。明治五年(1872年)の解体後、枡形の石は万世橋(東京初の石造アーチ橋)に再利用された。
 
ポイント7 江戸を見守って1300余年 神田明神
創建1300余年の神田明神は、江戸の総鎮守。当初は、平将門の首塚付近(大手町)で起こる祟りを鎮めるために、首塚近くに創建された。江戸城の表鬼門となる現在の場所に移ったのは元和二年(1616年)。境内には「銭形平次捕物控」で人気の平次の碑もある。
 
ポイント8 幕府直轄の学問所 湯島聖堂
神田明神からお茶の水方面に下って聖橋の手前にある。創立者は徳川家康をはじめ4代の将軍の侍講を務めた儒学者林羅山だ。寛永七年(1630年)に私塾として開設し、のちに幕府直轄の学問所に発展。聖堂には、儒学の創始者である礼子が祀られている。
 
ポイント9 将軍も認めた名水 お茶の水石碑
JR御茶ノ水駅お茶の水橋口の交番横に、地名の由来の石碑がある。鷹狩りに出た2代将軍秀忠が、この付近の高林寺に立ち寄ったとき、境内の名水で茶を点てた。その茶が美味しかったので、以後、将軍家の茶の湯に、この水が用いられることになったという。
 
ポイント10 「水戸様御門」と呼ばれた 小石川見附跡
江戸城の外部門のひとつ。寛永十三年(1636年)に、岡山藩の初代藩主池田光政らの築造。水戸藩徳川家は、明暦の大火後、江戸城西の丸の吹上から現在の小石川後楽園に屋敷を移され、この門を守った。解体後の石垣は、常盤橋門再建に利用された。
 
ポイント11 黄門様ゆかりの人々が暮らした 讃岐高松藩上屋敷庭園跡
JR中央線の飯田橋駅南側の商業施設一帯には、高松藩松平家上屋敷の庭園があった。藩祖松平頼重は、水戸藩初代藩主の実子で光図の兄だ。遺跡調査で泉水の護岸石が発掘され、現在は「平川の経(径?)」として整備され、石はほぼ当時のまま配置されている。
 
ポイント12 江戸前期の地形を感じる 讃岐高松藩上屋敷土蔵跡
高松松平家上屋敷は、江戸時代初期までは、神田川の下流の平川と小石川の合流地点にあり、水害が多発していた。元和六年(1620年)に、江戸城下を洪水から守るため、三崎町で堀留めにし、平川の流れを付け替えた。屋敷の遺構の下から川の護岸石が発掘されている。
 
ポイント13 石に刻まれた普請大名の印 牛込見附跡
上州道に通じる江戸城外郭門のひとつ。外濠に面した見附のなかでも、江戸の遺構がもっともよく残る。寛永十六年(1639年)、徳島藩の初代藩主蜂須賀忠英らによって築かれた。解体された角石に、普請した忠英を指す「松平阿波守」の文字が発見されている。
 
ポイント14 「桜門」の異名をもつ 市ヶ谷門跡
JR市ヶ谷駅の北西、外堀の上に架かる市ケ谷橋は、かつて市ヶ谷門があった場所。橋のたもとの石垣には普請した大名の刻印を見ることができる。発掘された石垣の一部は、東京メトロ南北線市ヶ谷駅の構内の「江戸歴史散歩コーナー」に展示されている。
 
ポイント15 甲州道中を警固した 四谷見附跡
市ヶ谷から四ツ谷に向かって外濠公園を歩くと、四谷見附跡に突き当たる。甲州道中の出発点に位置し、江戸城の西の玄関にもあたる要所のひとつだった。JR四ツ谷駅麹町口側からは、門の石垣が見える。石垣の上におい茂るムクノキも江戸時代のもの。
 
ポイント16 尾張徳川家の世嗣や隠居の住まい 尾張名古屋藩屋敷跡
JR四ツ谷駅前の麹町大通りの北側に位置する上智大学一帯は、徳川御三家のひとつ、尾張藩徳川家の中屋敷だった。徳川家康九男義直を藩祖とする尾張徳川家は、寛永十四年(1637年)にこの屋敷を拝領すると、幕末まで世嗣や隠居の住まいなどとして使用した。
 
ポイント17 外郭門で唯一の土塁門 喰違見附跡
紀尾井ホールの筋向かいにある丘が、喰違見附跡である。慶長十七年(1612年)に丸亀藩主生駒隆俊らによってつくられた。江戸城外郭門で唯一、石垣ではなく土塁による虎口(城の出入口)で、江戸時代初期の形状が今に留まる貴重な史跡。
 
ポイント18 4万平米の日本庭園は健在 近江彦根藩井伊家屋敷跡
ホテルニューオータニの一帯は、彦根藩井伊家の屋敷であった。上屋敷は、現在の憲政記念館あたりにあり、ここは中屋敷として用いられていた。この老舗ホテル内に現在も残る池泉回遊式の日本庭園は、400余年の歴史を誇る名園のひとつ。
 
ポイント19 2人の将軍が育った屋敷 紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡
弁慶濠沿いに広がる東京ガーデンテラス紀尾井町一帯は、徳川御三家のひとつ紀州徳川家の上屋敷だった。初代藩主は、徳川家康の十男頼宣。八代将軍吉宗、十四代将軍家重を出した。現施設の敷地内にも、屋敷の石組遺構の一部が移築されている。
 
ポイント20 大山参詣者でにぎわった 赤坂見附跡
弁慶橋を赤坂方面に渡り、左に進むとすぐに赤坂見附跡に至る。寛永十三年(1636年)、福岡藩の初代藩主黒田忠之らによってつくられた。相模大山に参詣する際の大山道の出発点でもあったので、賑わっていたという。現在は枡形の石積が一部残るのみである。
 
ポイント21 江戸城の鎮守として崇敬 日枝神社
「山王さん」の呼び名で親しまれている日枝神社は、太田道灌が文明十年(1478年)に江戸城内に山王権現を祀ったのが始まり。江戸時代には徳川家の産神として信仰。その後、江戸庶民の参拝を可能にするため、半蔵門外に移築され、明暦の大火後に現在地へ。
 
ポイント22 江戸の石積み工法が学べる 江戸城外堀跡(地下展示室)
東京メトロ虎ノ門駅付近には、外堀の石垣が数カ所に残っている。寛永十三年(1636年)、佐賀藩主鍋島勝茂らによって江戸城の総仕上げとしてつくられた。虎ノ門駅の文部科学省連絡通路内で見ることができる。説明板には、当時の石積工法も記されている。

ゴール地点:東京メトロ霞ヶ関駅出入口A13


スタート地点の東京メトロ有楽町駅出入口D7から歩き始めます。



ポイント1 大岡越前が活躍した 南町奉行所跡

駅前広場に「南町奉行所跡の碑」が建っています。宝永四年(1707年)から幕末まで、数寄屋橋門内の此の地に南町奉行所が置かれ、「大岡越前守忠相」が南町奉行を約20年間務めていました。南町奉行所は老中の支配下にあり、江戸町人地の行政・司法・警察などの職務を担っていた組織です。大岡越前守忠相は、八代将軍徳川吉宗の側近として「享保の改革」を支え、江戸市中の行政に携わりました。石碑の横には、当時の「石組下水溝」が復元展示されています。

東京都指定旧跡
南町奉行所跡

江戸町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつでした。その職掌は、江戸府内の行政・司法・警察など多方面に及び、定員二名で南北両奉行に分かれ月番で交代に執務していました。名奉行大岡越前守忠相は、享保二年(1717年)から元文元年(1736年)にかけて南町奉行としてここで執務をしていました。南町奉行所は、宝永四年(1707年)に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にありました。その範囲は、有楽町駅および東側街区一帯にあたり、平成十七年の発掘調査では、奉行所表門に面した下水溝や役所内に設けられた井戸、土蔵などが発見されました。また、「大岡越前守御屋敷」と墨書きされた荷札も出土しました。再開発事業では、石組下水溝の一部をここに再現するとともに、石材を事業地内でベンチなどに活用しています。

Minami-machi Magistrate's Office

Edo-machi Magistrate's Office was one of the three Magistrate's offices during the Tokugawa Feudal Government. Ookaechizennokami Tadasuke, well-known Magistrate, worked for Minami-machi registrate's office as a Head of the magistrates between Kyoho 2 year (1717) and Genbun,1 year (1735). During the archeologic research in Heisei 17 (2005), the drainage system along the Magistrate's office's main gate and the storage made of clay were found. Stone built Drainage system was reconstructed and the stone was used for the benches in the redevelopment project.




地下広場に降りると、そこには南町奉行所内に掘られた「穴蔵(地下室)」が壁に立てて展示されています。この穴蔵からは、伊勢神宮の神官が大岡忠相に宛てた木札が出土しました。両脇にある木製ベンチは、「木樋(江戸時代の水道管)」を再利用したものです。

南町奉行所跡から発見された穴蔵

この板枠は、ここの再開発に伴う遺跡発掘で発見された「穴蔵」を、壁に立てて展示したものです。この穴蔵は、江戸時代中期の南町奉行所内に掘られて(い)た地下室で、なかから伊勢神宮の神官が大岡忠相の家臣に宛てた木札が出土しました。また遺構両脇の木製ベンチには江戸時代の水道管(木樋)を、向かいの石のベンチには奉行所の石組材を再利用しました。穴蔵の構造は、厚い板材を舟釘で留め、隠し釘となるように端材を埋め、板材の間には槇肌(木の皮)を詰めて防水処理をしています。また、壁板の一辺には水抜き穴があき、そこから竹管が延びて桶に水が溜まる構造となっています。ここがかつて町奉行大岡越前守がつとめた南町奉行所(東京都旧跡)であったことや、江戸時代の技術などを伝えるために設置しました。




現在の外堀通り(厳密には首都高が高架になっているところ)は、江戸時代には江戸城の外堀(外濠川)になっていました。現在交差点の名前に残っている「有楽橋」は、関東大震災後の震災復興橋梁として大正十五年12月に架けられ、外濠川の埋立てにより昭和三十四年11月に廃橋となりました。ちなみに、「有楽町」という地名は、戦国時代に活躍した武将織田信長の弟織田有楽斎(おだうらくさい)長益(ながます)に由来します。茶人としても名を馳せた有楽斎は関ヶ原の戦いの後、徳川家康方に属し、数寄屋橋御門の周辺に屋敷を拝領しました。その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代に「有楽町」と名付けられたのです。



東京高速道路株式会社は、首都高速道路に直結し、銀座の街の西側を囲むように走る約2キロメートルの一般自動車道の運営と高架下の不動産賃貸を事業とする会社です。東京高速道路株式会社は、昭和二十六年(1951年)に、財界人23人が戦後の銀座の復興と飽和点に達した自動車交通量の緩和を目的として設立されました。銀座を囲む外濠川・汐留川・京橋川を埋め立て、高架の自動車道路を建設して、その建設費と運営費をビル賃貸収益で回収するという画期的な運営の仕組みを導入しました。しかし、狭い道幅と急カーブの故に大型車が通行できないことから、令和七年(2025年)4月5日に一般自動車道としては大部分の区間が廃止となりました。現在も高架下のビルの運営は継続していて、高架道路の跡地は遊歩道として活用する計画が進められています。



珍しい黄色の新幹線が走っています。東海道・山陽新幹線の「ドクターイエロー」、正式には「新幹線電気軌道総合試験車」という車両は、東海道・山陽新幹線の電気設備や軌道(線路)の状態を走りながら確認できる「新幹線のお医者さん」のような存在です。ドクターイエローは、2編成が存在していましたが、令和七年(2025年)1月にJR東海が保有するT4編成の検測運転が終了し、残るもう1本のJR西日本が保有するT5編成は令和九年(2027年)以降に検測を終了する予定になっています。走行中のドクターイエローの車両は滅多に見られないので、見た人には幸運が訪れるとの言い伝えもあります。私には何もなかったですけど。



東京駅八重洲口前の外堀通り沿いでは、現在大規模な再開発事業が進行中です。「東京駅前3地区再開発」の最後にして最大規模の「八重洲二丁目中地区第1種市街地再開発事業」は2024年8月8日に着工し、2029年1月末の竣工を予定しています。東京駅前3地区再開発とは、JR東京駅八重洲口の目の前でほぼ同時期に進んでいる3つの巨大な再開発で、北側から順に「東京駅前八重洲一丁目東地区」・「東京ミッドタウン八重洲」・「八重洲二丁目中地区」のいずれも第1種市街地再開発事業のことです。



2023年3月に東京ミッドタウン八重洲が開業し、現在建設中の東京駅前八重洲一丁目東地区はA地区とB地区に分かれ、A地区は2026年・B地区は2025年度の竣工を予定しています。B地区では2023年9月に鉄骨崩落による死亡事故があり、工事を一時中断していましたが、現在は工事は再開されています。



ポイント2 馬場先門へとつながる外郭門 鍛冶橋門跡

鍛冶橋交差点とJR線の間にはかつて江戸城の外堀があり、江戸城外郭門のひとつ鍛冶橋御門の郭門橋である鍛冶橋という橋が架けられていました。門の名前は「江戸紀聞」に「鍛冶町へ出る御門なればかくいへり」とあり、交差点の向こう側にあった鍛治屋職人の住む鍛冶町に由来しています。門には鉄砲十挺・弓五張・長柄十筋・持筒二挺・持弓一組が備えられ、柳之間詰めの一万石余の外様大名が一年ずつ警備を担当しました。門内には南北の町奉行所が移転を繰り返し、一時期は中町奉行所も設けられました。門前には、幕府の御用絵師として有名な狩野探幽が屋敷を拝領し、以来代々住んだため、この家は鍛冶橋狩野家と称されました。明暦三年(1657年)の大火で橋は焼失しましたが、万治二年(1659年)に再建されました。明治六年(1873年)に鍛冶橋御門は取り壊されましたが、鍛冶橋は残され、御門の石材を再利用した石造アーチ橋となりました。大正3年(1914年)に東京で初めてのコンクリートアーチ橋に架け替えられ、関東大震災には耐えましたが、昭和二十六年(1951年)に外濠の埋め立てに伴い撤去されました。

鍛冶橋門跡

鍛冶橋門は、寛永六年(1629年)に築造されました。門に附属する鍛冶橋は、現在の丸の内二、三丁目と中央区の八重洲六丁目を結んでいました。名称は、外堀の門外の町名が南鍛冶町(現在の中央区八重洲二丁目・京橋二丁目)であったことに由来します。また、江戸時代初期、御用絵師の狩野探幽の屋敷がありました。門内には大名屋敷が立ち並び、幕末には、津山藩(現在の岡山県)松平家、土佐藩(現在の高知県)山内家が付近に上屋敷を構えていました。明治六年(1873年)に鍛冶橋門は枡形石垣を残して撤去されました。橋は、明治九年(1876年)にアーチ橋として再建されましたが、終戦後の瓦礫処理で外堀が埋め立てられた際に、 橋も姿を消しました。現在は「鍛冶橋架道橋」・「鍛冶橋交差点」にその名前が残っています。

Remains of Kajibashi-mon Gate

Kajibashi-mon Gate was built in 1629. Kajibashi Bridge, the bridge leading to the gate, connected current-day Marunouchi 2-chome and 3-chome with Yaesu 6-chome in Chuo-ku. The name comes from Minami Kajimachi, the neighborhood outside of the gate of Sotobori Moat (present-day Yaesu 2-chome and Kyobashi 2-chome in Chuo-ku). The residence of Kano Tanyu, official government painter, was located here in the early Edo Period. Inside the gate stood rows of daimyos' (feudal lords') residences. The Matsudaira clan of the Tsuyama Domain (current-day Okayama Prefecture) and the Yamauchi clan of the Tosa Domain (current-day Kochi Prefecture) built their main Edo residences in this area near the end of the Edo Period. Kajibashi-mon Gate was demolished in 1873, leaving only its square-stone walls. The bridge was rebuilt in 1876 as an arched bridge, but it disappeared as Sotobori Moat was filled in along with other rubble after WWII. The name remains today in "Kajibashi Kadokyo (Overbridge)" and "Kajibashi Kosaten (Intersection)".




ポイント3 「遠山の金さん」でおなじみ 北町奉行所跡

北町奉行所は度々移転を繰り返しましたが、文化二年(1805年)以降は現在のJR東京駅日本橋口付近に置かれました。北町奉行といえば、名奉行でお馴染みの遠山の金さん(遠山左衛門尉景元)が天保十一年(1840年)から天保十四年(1843年)までの3年間ここで奉行を務めました。さらに、弘化二年(1845年)から嘉永五年(1852年)までの期間は南町奉行も務め、両町奉行を務めたのは遠山金四郎だけです。彼は天保の改革を主導した老中水野忠邦と対立し、庶民の暮らしを守った名奉行として知られています。発掘調査で奉行所の上水道や井戸が発見され、近くには江戸城外堀の石垣も残っています。

都旧跡 北町奉行所跡

江戸町奉行は徳川幕府の職制の一つで寺社奉行・勘定奉行とともに三奉行と呼ばれていた。江戸町奉行は老中の支配に属し、配下の本所奉行・道役・小伝馬町牢屋・寄場奉行・町年寄を統轄した。その職掌は江戸府内の行政・司法・警察の一切にわたっていた。定員は二名で南北両奉行に分かれ、月番で交替に執務したが時に応じて増減された。原則として旗本が任命され、役科は三千石、芙蓉間詰で勘定奉行の上座輩下に与力・同心などがいた。「いれずみ奉行」として名高い遠山左衛門尉景元(遠山金四郎)は天保十一年(1840年)三月から三年の間北町奉行の職にあった。




呉服橋交差点の辺りには、江戸時代に呉服橋門がありました。呉服橋御門は寛永六年(1629年)に陸奥国や出羽国の大名によって枡形門が築かれ、外濠通りと交差する永代通りを少し入った所に呉服橋門の枡形がありました。外濠に架かる呉服橋の外域は町人地で、呉服橋の名前は呉服町に幕府御用達の呉服商が多く職住していたことに由来します。その呉服町を統括したのは、京都から下向してきた宮廷の縫部司や縫殿寮の流れをくむ後藤一族でした。

呉服橋門跡

呉服橋門は、寛永十三年(1636年)に築造されました。門に付属する橋は、現在の丸の内一丁目と中央区の八重洲一丁目を結んでいました。名称は、日本橋側の門前の町名が呉服町(現在の中央区八重洲一丁目)であったことに由来します。また呉服町に幕府御用を勤めた呉服師の後藤家の屋敷があったため、後藤橋とも称されていました。明治四年(1871年)、呉服橋門は枡形石垣と橋を残して撤去され、さらに戦後外濠川が瓦礫により埋め立てられた際に橋も姿を消しました。現在は「呉服橋交差点」・「呉服橋ガード」としてその名前が残っています。

Gofukubashi-mon Gate Site

Gofukubashi-mon Gate was constructed in 1636. The bridge leading to the gate connected current-day Marunouchi 1-chome with Yaesu 1-chome in Chuo City. The name derives from the fact that the locality adjacent to the gate on the Nihombashi Bridge side was called Gofukucho (current-day Yaesu 1-chome, Chuo City). It was also called Gotobashi Bridge, as the residence of the Goto clan, tailors to the shogunate, was in Gofukucho. Gofukubashi-mon Gate was demolished in 1871, leaving only its square-stone wall and the bridge, and when Sotoborigawa River was filled with rubble after WWII, no trace of the bridge was left. Today, the name remains in Gofukubashi Kosaten (Gofukubashi Bridge Intersection) and Gofukubashi Guard (Gofukubashi Bridge Railway Bridge)




永大通りに面して、東京駅前常盤橋プロジェクト(大手町二丁目常盤橋地区第一種市街地再開発事業):「TOKYO TORCH」が進行中です。A棟からD棟まで4棟の建物が計画されていて、そのうちのB棟は最高層の建築物で、2023年9月27日に着工し、竣工は2028年3月31日の予定となっています。地上高は385mで、完成すると大阪市阿倍野区にあるあべのハルカス(高さ300m)や2023年6月30日に竣工した麻布台ヒルズ森JPタワー(高さ325m)を凌ぎ、日本のビルとしては初めて東京タワー(高さ333m)を超える日本一高いビルとなります。2025年8月現在では、未だ基礎部分を構築している段階のようです。



ポイント4 越前松平家が最後に居住した上屋敷 福井藩常盤橋江戸上屋敷跡

大手町プレイスの敷地内には、江戸時代に越前福井藩の常盤橋江戸上屋敷がありました。

福井藩常盤橋江戸上屋敷跡

江戸時代、この辺りには福井藩の常盤橋上屋敷(藩邸)がありました。福井藩・越前松平家の藩祖は、徳川家康の次男結城秀康で、二代目から松平の姓となり、親藩大名として幕末まで続きました。常磐橋上屋敷は、正徳三年(1713年)に藩主松平吉邦が拝領し、7300坪余(二万四千平方メートル余)の広さで、江戸城に近く、江戸屋敷(上・中・下屋敷)の中でも最も重要であり、藩主とその家族の居宅として使われました。幕末に活躍した藩主松平春嶽(慶永)や家臣の橋本左内なども、ここを拠点に活動しました。

この地に江戸時代から平成の世へと至る「時をつなぐ」象徴として、福井藩ゆかりのタカオモミジ(福井県福井市足羽神社)とウコンザクラ(福井県敦賀市西福寺)を植えるものです。




田沼意次の上屋敷は、経団連のビルがある辺りの神田橋門内にありました。田沼意次は江戸時代中期の旗本・大名・江戸幕府老中で、遠江相良藩の初代藩主(相良藩田沼家初代)でした。第九代将軍徳川家重と第十代家治の治世下で側用人と老中を兼任し、幕政を主導しました。この意次の執政期は「田沼時代」と呼ばれています。 NHKの大河ドラマ「べらぼう」に合わせて、2025年に解説板が立ちました。

田沼意次屋敷跡

田沼意次(享保四年【1719年】〜天明八年【1788年】)遠州相良藩主(現静岡県牧之原市)により、自由な気風の中、歌舞伎や浮世絵等の江戸文化が花開き、現代の出版やポップカルチャーの礎を作った大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢囃〜」の主人公、蔦屋重三郎は頭角を現すことができた。現在の東京都文京区の屋敷で生まれた意次は、神田小川町、呉服橋付近に住んだ後、十代将軍徳川家治時代の明和四年(1767年)に御側用人に昇格し、この付近の神田橋御門内に屋敷を拝領した。その後老中にも任命されるなど、全盛期を迎えたが、この頃は賄賂の横行もかなり多かったと言われる。将軍家治の死とともに失脚する天明六年(1786年)まで、この屋敷を訪れる多くの人々の行列があった。意次は失脚したが、「白河の清きに魚も棲みかねてもとの濁りの田沼恋しき」と狂歌で歌われ、民衆は田沼全盛期を懐 かしんだ。

Ruins of TANUMA Okitsugu residence

TANUMA Okitsugu (1719-1788) started out as a pageboy of TOKUGAWA Yoshimune's son Ieshige and when Ieshige became the 9th shogun, he was promoted to a close associate and became a daimyo, feudal lord. Furthermore, he was promoted during the reign of TOKUGAWA Ieharu, the 10th shogun and he was bestowed a residence inside of Kandabashi-mon Gate. Under the policy of TANUMA Okitsugu, Edo culture, including Kabuki and Ukiyo-e prints flourished in a free spirit, and TSUTAYA Juzaburo, the main character in the historical drama "UNBOUND", became a pivotal force behind the cultural renaissance.




ポイント5 将軍の御成道だった 神田橋門跡

神田橋は日本橋川に架かり、鎌倉橋の上流約240mの位置にあります。大手町一丁目から神田錦町一丁目と内神田一丁目の間に通じる橋で、江戸時代の神田橋門の跡にあります。慶長図には芝崎口と記載されていますが、寛永図では大炊殿橋となっています。それは橋の西南に土井大炊頭の屋敷があったためです。明治十七年(1884年)に木橋が架け直されましたが、後に道路拡張と電車開通に伴って改修されました。関東大震災で焼け落ちてしまい、現在の神田橋は昭和五十五年(1980年)に下を走る地下鉄千代田線の工事に伴い架け替えられたものです。現在では神田橋門は、橋の横にわずかに枡形の石材が残るばかりとなっています。



「将軍の御成門」とも呼ばれた神田橋門は、寛永六年(1629年)に下野真岡藩主の稲葉正勝(春日局の子)によって構築されました。徳川将軍が上野寛永寺に参詣する御成道であったため、門の警備は厳重でした。

神田橋門跡

ここは、芝崎口門・神田口門・大炊殿橋門とも呼ばれ、将軍が上野寛永寺に参詣に行くための御成道となるため、門の警備は厳重でした。門は、寛永六年(1629年)に下野真岡藩(現在の栃木県)藩主稲葉正勝によって構築されました。対岸の鎌倉河岸は江戸城築城の資材を荷揚げする河岸場だったので、この門の役割は重要でした。明治六年(1873年)に櫓門が撤去され、明治十七年(1884年)に木橋が架け直されました。道路の拡張と市電の開通に伴い改修され、関東大震災で焼け落ちた後に新たに架橋されました。現在の橋は、昭和五十五年(1980年)に改架されたもので、木橋風の意匠に、灯籠風の親柱と石造風の高欄を組み合わせています。

Remains of Kandabashi-mon Gate

This was also called Shibasakiguchi-mon Gate, Kandaguchi-mon Gate, or Ooidonobashi-mon Gate. Due to being part of the Onarimichi the road used by the shogun (the military leader of Japan) to visit Ueno Kan'eiji Temple, security around the gate was tight. The gate was constructed in 1629 by the feudal lord of Shimotsuke Mooka Han (now Tochigi Prefecture), Inaba Masakatsu. As the Kamakura Riverbank on other side of the river was the port where the materials for the fortification of Edo Castle were unloaded, this gate had an important role. The Yagura Gate (a two-story gate with a room on the second story) was taken down in 1873, and the wooden bridge was rebuilt in 1884. It was repaired when the road was widened and the trams began running, and was built anew after it was destroyed by fire in the Great Kanto Earthquake of 1923. The current bridge was reconstructed in 1980, and as such combines a design in the style of a wooden bridge, main pillars like lanterns, and a handrail like that of a stone bridge.




神田橋のすぐ先にある「神田橋公園」内に奇妙な彫刻が置かれています。最初は黄金の猿の像かと思ったのですが、コガネ虫を擬人化したものだそうです。ひょっとして本物の黄金でできているかも!

金銅鎚起 豊展観守像

この彫刻は、活気とやすらぎ・教育と文化の町として知られる千代田区に住む人々の豊かさと発展する町を観守する姿を、こがね虫と人間の擬人化により、造形表現をして製作されたものであり「彫刻のある町・千代田区」として潤いと個性のある歴史と文化を重視した新しいまちづくりを願う久保金司氏より、神田の魅力を記録した写真集、神田っ子の昭和史「粋と絆」の浄財をもとに本区に寄贈されたものです。




とあるレンガ造りの建物の角に町名由来板と石碑が置かれています。

千代田区町名由来板 内神田一丁目

江戸時代、神田橋のたもとのこの界隈には、荷揚げ場がありました。徳川家康は江戸に入るとすぐに江戸城の築城と町づくりを始め、城を囲む御堀(現・日本橋川)はそのための建築資材などを運ぶ水路として活用されました。古い地図を見ると、神田橋付近に「かしふねあり」と記され、ここが水運の拠点だったことがわかります。神田橋は江戸城外郭門のひとつで、上野寛永寺や日光東照宮への御成道(将軍の参詣経路)となっていました。このような要所であったため、ここには明治のころまで建造物は何もありませんでした。明治初期の地図には交番と電話があるだけです。明治五年(1872年)、いったん美土代町となりますが、空き地の状態は第二次世界大戦後まで続きました。そして昭和四十一年(1966年)、内神田一丁目に編入されました。昭和五十八年(1983年)、神田橋土木詰所の敷地となっていたこの場所に、内神田住宅が完成すると九十世帯が住むようになり、平成五年(1993年)、千代田区のもっとも新しい町会として、内神田住宅町会が誕生しました。さらに平成十六年(2004年)、町会名は神田橋町会と変わりました。

Uchi-kanda 1-chome

In the Edo Period, this neighborhood near Kanda-bashi Bridge was the site of a loading dock, and was used for the transportation of building materials used for Edo Castle. This area used to be a traffic crossroads, and there were no buildings up until the Meij Period. In 1983, with the completion of a housing project, it became the youngest town association in Chiyoda.




石碑は、かってこの辺りにあった物揚場を後生に伝えるために設置されたもののようです。

物揚場跡

日本橋川水運の物揚場標石ここに出土す 往時をしのぶよすがとして後世に伝える




靖国通りの手前一帯は、美土代町の町域になっています。

千代田区町名由来版 美土代町

江戸時代、この地域一帯には、身分の高い武士たちの屋敷が立ち並んでいました。特に元禄年間(1688年〜1704年)には、五代将軍徳川綱吉の側近として活躍した柳沢吉保が屋敷を構えていました。そのほか、老中や若年寄を輩出した由緒正しい武家の屋敷が軒を連ねていたこともはっきりしています。一方、この界隈には武家屋敷だけでなく、商人や職人が住む町屋もありました。なかには、商売上手なアイデアマンも少なくなかったようで、湯女を置くことで大繁盛した「丹前風呂」が始まったのも、この周辺からだったのです。江戸時代の美土代町周辺は重要な武家屋敷地であると同時に、新たな風俗・流行を生み出すこともできる、懐の深い町だったといえるでしょう。そんな町に美土代という名がついたのは明治五年(1872年)のことです。かつて、この周辺に伊勢神宮にささげるための稲(初穂)を育てる水田「みとしろ」があった故事にちなんで生まれた名前でした。ちなみに、神田という名前も同じ故事に従ってつけられたとされています。明治期の美土代町は、一丁目〜四丁目まである広大な町域をもっていましたが、時代が下るにしたがって、その範囲を縮小していきます。現在の千代田区神田美土代町が誕生したのは昭和二十二年(1947年)のことでした。

MITOSHIROCHO

During the Edo Period, this neighborhood was home to many high-ranking samurai. The name, which was given in 1872, came from the fact that in the nearby area was a rice paddy (mitoshiro). The first ears of rice grown here every year were offered to the Ise Shrine. Actually, it is said that the name for the Kanda ("god's paddy") area itself came from the same origin.




神田司町二丁目の歩道脇に斎藤月岑の記念碑が建っています。斎藤家は、天正十八年(1590年)の徳川家康の江戸入府以前からの名主であり、草創名主として幕府からも一目置かれていた家柄でした。斎藤月岑は父が47歳で急死すると15歳で家を継ぎ、名主の傍らで著作を続け、江戸の各町について由来や名所を記した「江戸名所図会」(全7巻20冊)を刊行したことで知られています。

斎藤月岑居宅跡

斎藤月岑は、文化元年(1804年)に、この地(神田司町二丁目)で生まれた。斎藤家は代々、神田の雉子町・三河町三丁目・同裏町・三河町四丁目・同裏町・四軒町の六ヶ町を支配する名主であった。十五歳にして家督を継ぎ、九代目・市左衛門と称し、実名を幸成といった。祖父幸雄・父幸孝が手がけた大著「江戸名所図会」を完成させたほか、「東都歳事記」・「武江年表」など、今日、江戸の町人文化を研究する上で欠くことのできない多くの著作を残している。江戸を代表する文化人であり、神田の誇りである。明治十一年(1878年)三月六日永眠。行年七十五歳。累代の墓所は東上野の法善寺にある。

−−−この碑に使用した石は、江戸城外堀跡の石垣の一部である。


SAITO GESSHIN (1804-1878) was born here. He became the nanushi,i.e. the town mayor, of six KANDA towns and was called ICHIZAEMON. He completed the work "EDO-MEISHO-ZUE" left unfinished by his father and grandfather, and also wrote "TOTO-SAJJIKI", "BUKO-NENPYO", and many other books on the culture of common Edo people.




ポイント6 中山道に通じる要所 筋違門跡

筋違橋(筋違御門橋)は、江戸城外郭門のひとつだった筋違御門の北側の神田川に架かる橋で、延宝四年(1676年)に架けられたといわれています。名前の由来は、徳川将軍が上野寛永寺や日光東照宮に参詣する際に通る「御成道」と中山道に通じる道が門内で交差していたためです。明治維新後の明治五年(1872年)に筋違門は解体され、その石垣材の再利用で2連アーチの石造り橋が架橋され、萬代橋(よろずよばし)・眼鏡橋と呼ばれました。その後、流失・取り壊し・別の橋の架設などの変遷を経て、現在筋違橋の後継といえるのは約100m下流側に架けられた「万世橋」です。

千代田区町名由来版 連雀町・佐柄木町

神田川に架かる筋違橋は、中山道に通じており、行き交う人馬も多く、江戸時代のはじめごろより筋違御門が設けられていました。門の内側、のちにハツ小路と呼ばれた地に、連尺(物を背負うときに用いる荷縄、またはそれを取り付けた背負い子)をつくる職人が多く住んでいたことから、「連尺町」の名前が付けられました。連尺町はやがて連雀町の字があてられ、広く用いられるようになりました。明暦三年(1657年)の大火「振袖火事」の後、連雀町は延焼防止の火除地として土地を召し上げられ、筋違橋の南方へ移転させられました。その際、連尺を商う二十五世帯は、遠く武蔵野に代地を与えられ移住させられました。現在の三鷹市上連雀・下連雀の地名はこの故事に由来します。一方、安政三年の地図には、この界隈に土井能登守、青山下野守などの上屋敷がありました。明治維新後、これらの武家地は連雀町と佐柄木町に編入され、連雀町から遷座された出世稲荷神社は土井家屋敷内にあった延寿稲荷神社とともに町内の鎮守となりました。明治四十五年(1912年)、甲武鉄道(のちの中央線)万世橋駅が、現在の交通博物館の地(江戸時代のハツ小路)に開業します。駅前広場には明治の軍人広瀬中佐の銅像がそびえ、多くの市電の発着地として、東京でも屈指の交通の要衝として栄えました。また、寄席の白梅亭をはじめ、旭楼など二十軒もの旅館が立ち並び、樋口一葉がその著「別れ霜」において、「神田連雀町とかや、友囀りの喧しきならで、客足しげき・・・」と、その賑わいを記しています。大正十二年(1923年)の関東大震災後、区画整理がなされ、連雀町、佐柄木町は、須田町一丁目と淡路町に改称されました。

Renjakucho / Saekicho

This area received its name from the fact that the craftsmen making renjaku, a type of equipment used for carrying things, lived here during the Edo Period. It was once a major transportation hub, and was the starting point for many streetcar lines.




万世橋の袂に、かっての万世橋駅舎跡を再開発した「マーチエキュート神田万世橋」があります。明治四十五年(1912年)に完成した赤レンガ造りの万世橋高架橋が歴史や記憶を活かしながら新たに生まれ変わり、階段・壁面・プラットホームなどの遺構が蘇った空間の中に知的好奇心を掻き立てるような趣味性・嗜好性の高いショップやカフェが並ぶこれまでにない商業施設です。



明治時代前半まで、神田祭の山車はハツ小路から万世橋を渡って神田明神に向かっていました。

万世橋と神田祭り

外神田にある神田明神は、平将門(たいらのまさかど)を祀った江戸の総鎮守として、古代以来芝崎村(神田橋内)に鎮座していたが、江戸城築城にあたり慶長八年(1603年)に神田駿河台、元和二年(1616年)に現在地に移った。江戸時代の神田祭は、山王権現の山王祭とともに「天下祭」と呼ばれ、将軍が上覧、神幸行列が江戸城内に入ることを許された祭礼である。山王祭と神田祭は、隔年で執行され、各町が自前で山車(だし)と御輿(みこし)を仕立てた行列が町を練り歩くもので、祭礼番付と呼ばれるパンフレットが毎年作られるなど、名所化されていった。神田祭は、9月15日に庶民の祭礼として執り行われ、雉子町の町名主である斉藤月岑(げっしん)が著した「江戸名所図会」や「東都歳事記」によれば、贅を尽くした練り物が町中に練り歩き、人々は桟敷(さじき)を造って見物したとある。明治時代の「新撰東京名所図会」によれば、明治十七年の神田祭は、40余りの山車が八辻(筋違八小路・すじかいやつこうじ)に集合し、萬世橋を渡り、聖堂前より師範学校前を経て神田神社に向かったとある。電線の設置など都市の近代化によって、明治期後半以降山車行列が難しくなり、巡行が少なくなっていく。

Manseibashi Bridge and the Kanda Festival

A guardian shrine for all of Edo (now Tokyo), the Kanda Shrine enshrining TAIRA no Masakado was located at Shibasaki (inner side of Kandabashi Bridge) from ancient times, but because of the construction of the Edo Castle, it was moved to Kanda Surugadai in 1603 and to its present location in Soto-Kanda in 1616. During the Edo Period (1600-1868), the Kanda Festival was, along with the Sanno Festival of Sanno Gongen (Hie Shrine), known as a tenkasai (state festival). The shogun attended, and the procession of the portable shrine carrying the object of worship was permitted entrance into the grounds of the Edo Castle. The Kanda Festival and Sanno Festival took place in alternate years. Each neighborhood (machi) held a procession through the streets with a festival float or portable shrine prepared in advance, and their names became famous as they were listed in festival-ranking pamphlets prepared each year. The Kanda Festival was held on September 15 as a festival of the townspeople, and according to the Edo Meisho Zue and Toto Saijiki guidebooks prepared by SAITO Gesshin (headman of Kiji-cho), the extravagant festival floats were paraded all through the neighborhood, and people built tiered stands for viewing. According to the Shinsen Tokyo Meisho Zue guidebook published in the Meiji Period (1868-1912), at the 1884 Kanda Festival more than 40 festival floats gathered at the eight-way intersection (Sujikai Yatsukoji), crossed Manseibashi Bridge, and passed by Yushima Seido state school and Tokyo Higher Normal School on their way to Kanda Shrine. Due to the stringing of electric wires and other symptoms of modernization, from the latter half of the Meiji Period onward, the float procession became increasingly difficult so the number of the floats decreased.




煉瓦塀の前に、筋違門跡の案内板が立っています。

御成道(筋違門跡)

御成道とは、徳川将軍が参詣などで通る道筋のことを言います。江戸時代、この場所には江戸城外郭門のひとつ筋違門があり、上野寛永寺の将軍家墓所への参詣と、日光東照宮への社参の際に、将軍は江戸城大手門から出て神田橋門を通り、この門を抜けて上野に向かいました。筋違門の名は、日本橋から出発して、本郷・板橋に向かう中山道と御成道が筋違に交差していたためです。門内には火除けの広小路があり八つの口に通じていたため、俗に「八つ小路」と呼ばれていました。

Onarimichi (Remains of Sujikai-mon Gate)

Onarimichi refers to a road used by the Tokugawa shoguns, the military leaders of Japan, to travel to a shrine or temple. In the Edo Period (1603-1868), the Sujikai-mon Gate, one of the outer gates of Edo Castle, stood here, and when the shogun was visiting the shogunal burial ground at Ueno Kan'eiji Temple, or Nikko Toshogu Shrine, he would leave via the Ote-mon Gate of Edo Castle, travel across the Kandabashi Bridge, and leave for Ueno via this gate. Sujikai-mon Gate is named for the diagonal (sujikai) crossroads between the Onarimichi and the Nakasendo, the main road towards Hongo and Itabashi from Nihombashi. Due to the eight entrances and exits to the main street for fire safety, it was commonly called the "Yatsukoji," meaning "eight alleys."




今は高架の煉瓦塀で塞がれていますが、江戸時代にはこの壁の向こうの寒田川に筋違門橋が架かっていたのでしょう。



神田川に架かる外堀通りの橋が昌平橋です。現在の橋は昭和三年に架橋され、当初は万世(よろずよ)橋と呼ばれましたが、昭和五年から橋名をひとつ下流の橋(万世橋)に譲り、こちらは昌平橋となりました。

昌平橋

昌平橋は、江戸城外堀(現在の神田川)に架かる橋の一つで、寛永年間(1624年〜1644年)に架けられたと伝えられています。橋際から駿河台に登ると一口稲荷(現在の太田姫稲荷神社)があり、一ロ橋とも呼ばれました。他にも、相生橋という呼称もありました。その後、元禄四年(1691年)に湯島に孔子廟が設けられてからは、孔子誕生地の昌平郷にちなんで昌平橋と呼ばれるようになりました。少し下流にあった筋違門とともに、中山道・日光御成道の主要通路として利用されており、橋の南側は「八つ小路」と呼ばれる広場として賑わいました。

Shoheibashi Bridge

Shoheibashi Bridge is one of the bridges that crossed Edo Castle's outer moat (current-day Kandagawa River) and is said to have been built in the Kanei Era (1624-44). It was also called Imoaraibashi Bridge as Imoarai Inari (current-day Otahime Inari Shrine) stands on Surugadai upwards from the bridge. It was also referred to as Aioibashi Bridge. It later came to be known as Shoheibashi Bridge after Shoheikyo, the birthplace of Confucius, following erection of a shrine to Confucius in Yushima in 1691. Along with Sujikai-mon Gate, which was a short distance downstream, the bridge was used as a major thoroughfare for the Nakasendo Road and the Nikko Onarimichi Road, and there was a bustling public square called Yatsukoji at the south end of the bridge.




昌平橋の袂に神田旅籠町の町名案内板が立っています。

千代田区町名由来板 神田旅籠町

この周辺は、かつて神田旅龍町と呼ばれていました。昌平橋の北側にあたるこの地は、中山道の第一の宿場である板橋宿、日光御成街道の宿場町である川口宿への街道筋として、旅龍が数多く立ち並んでいたため、「旅龍町」と呼ばれるようになったと伝えられています。江戸幕府は、五街道のなかでも、遠く京都に通じる東海道と中山道の整備にとくに力を入れていました。また、日光御成街道は将軍が日光参拝の際、必ず通った街道で、現在の国道122号にほぼ相当します。こうしたニつの重要な街道の拠点となる町が旅範町だったのです。しかし、天和二年(1682年)に江戸で大火事が起こります。浄瑠璃や歌舞伎でも有名な「八百屋お七」の大火です。もともとあった旅龍町はこの火災で類焼し、北側の加賀金沢藩邸跡地に替地を与えられました。そして元禄七年(1694年)には、浅草御門の普請のため、馬喰町・柳原周辺の町が代地を与えられ移転しています。これを機に旅龍町にも一丁目と二丁目ができました。さらに、明治二年(1869年)には、昌平橋と筋違橋の北側にあった幕府講武所付町屋敷が神田旅寵町三丁目と改称されました。さて、旅龍町の由来となった旅龍ですが、幕末のころにはほとんど姿を消しています。「諸問屋名前帳」によれば、嘉永(1848年〜1854年)のころまで残っていた旅龍は、わずか一軒だけとなり、代わりに米や炭・塩・酒を扱う問屋が増えていたことがわかります。街道筋の宿場町として誕生した旅寵町は、その後、活気あふれる商人の町として成長をとげたのです。

Kanda-Hatagocho

This area was located along the Nakasendo, one of the five major highways of the Edo Period, which went from Edo to Kyoto, and the Nikko Onari Kaido (which the Shogun always took when visiting Nikko). Consequently, there were many small inns (called "hatago"), which are the origin of the name. By the end of the 19th century, the Inns had virtually all vanished, however, to be replaced by various wholesale shops.




神田明神下交差点の先に、「明神下神田川本店」があります。明神下神田川本店は、江戸末期の文化二年(1805年)に創業した東京を代表する老舗のうなぎ蒲焼店で、遠方から訪れる人も数多くいます。幕府の賄い方に勤めていた初代が流行りたての鰻の蒲焼きに目を付け、万世橋近くで商売を始め、文政年間に平賀源内が「土用の丑の日に鰻」のキャッチフレーズを考えたのはこの店の依頼だといわれています。落語家の八代目桂文楽の「素人鰻」という落語の中に店名が出るほど有名で、文豪夏目漱石も正岡子規と共に訪れています。下町では殆ど見られなくなった「粋な黒塀、見越しの松に〜」という町屋の姿を残し、かつての明神下の雰囲気を残す稀少な景観となっています。



神田明神下の一帯は、明治初期に「神田御臺所町」と呼ばれていました。

神田明神下御臺所町

神田神社裏手に位置するこの地域は、江戸の町が生まれた当初、幸龍寺や万隆寺などが軒を連ねる寺社地でした。町の様相が一変したきっかけとなったのは、明暦三年(1657年)一月十八日に発生した「明暦の大火」(振袖火事)です。「明暦の大火」は、およそ二日間にわたって江戸のまち全体の六割ほどを焼き尽くし、十万人余りの命を奪った大災害です。このとき、江戸城も天守閣をはじめ、多くの建物を消失しました。被害の甚大さに驚いた江戸幕府は、火に強い町づくりに乗り出しました。幕府の火災対策の一つとして「延焼を防ぐため、大きな寺社をなるべく市中の外側に移転させる」という方針があったのです。かつては寺が立ち並んでいた神田神社の裏手も、この新方針に沿って城内の御臺所御賄方の武家屋敷として再建されたのでした。御臺所町という旧地名は、このときに始まるものと考えられています。さらに寛文十二年(1672年)、この場所に住んでいた武士たちの希望もあって町内に「町屋」(商人と職人の住まい)も形成されました。以降、御臺所町は町人の町として発展をとげることになりました。文政七年(1824年)の「江戸買物独案内」には、 町内に足袋屋や呉服屋、小間物屋があったことが記されています。時代が下って明治二年(1869年)には、神田明神下御賄手代屋敷を合併し、神田御臺所町と呼ばれるようになりました。

Kanda Myojinshita Odaidokoromachi

In the beginning of the Edo Period, this was a temple and shrine area. However, it was destroyed by a great fire in 1657, which claimed the lives of more than 100,000 people, and the Shogunate decided to move temples and shrines out of the inner city to prevent fires from spreading. The town, behind the Kanda Shrine, was then designated as a living area for staff of Edo Castle who were in charge of food and other provisions (odaidokoro-makanai-kata, from which came the name of the town).




ポイント7 江戸を見守って1300余年 神田明神

中央通りからふたつほど奥の路地を進みますと、民家の間に急な階段が上っています。



階段の中ほどの踊り場の左手に、「KAIKA」と表示された建物があります。

開花楼跡地

現、KAIKAビル。この地には明治十年創業の料亭、開花楼がありました。海抜40メートルの高台に建つ開花楼の座敷からは、浅草から本町、深川に至るまで見渡せる眺望の良さと、江戸前の料理が好まれ、通人や粋人が集う場所として東京名所図会などの多くの書物に残されています。「開花楼」は、単に料理屋として著名であるばかりでなく、書画店や古書市、見本市等、当時として貴重な文化事業が開催され、大広間では、文豪の島崎藤村の結婚式が行われました。

「へなちょこ」誕生

明治初期、開花楼創業者の坂本氏が明神の崖の土をこねてお猪口を焼き、宴会で披露しました。しかし、そのおちょこにいくらついでもお酒が染み出てしまいます。このお粗末なおちょこを「へなちょこ」と呼び、これが転じて未熟者をあざける語になったと言われています。




明神男坂は長さが約35mほどあり、神田明神社務所の裏を上がる急な石段です。別名を明神石坂といいます。神田明神の東にあるこの坂は急な長い石段のために、南側にある「女坂」に対して「男坂」と呼ばれます。天保時代に神田の町火消しが石段と石灯籠を奉献したのが男坂の始まりと言われています。当時は、江戸湾を行き来する船にとって灯台の役目も果たしていました。近年ではアニメ「ラブライブ!」に、登場人物の高坂穂乃果たちが放課後のトレーニング場所として使った神田明神男坂が登場しました。作品の「聖地巡礼」で訪れる参拝客の増加にともない、境内には記念撮影用パネルが用意されました。



坂上に案内柱が立っています。明神女坂には広い踊り場はありますが、傾斜は明神男坂にも負けないくらいきついんですけどね。

明神男坂

南側に平行してある緩やかな明神女坂に対し、勾配が急であることから明神男坂と呼ばれています。天保期、神田の町火消であった「い」「よ」「は」「萬」の四組が献納して造られた坂道です。明神石坂の別名もあります。坂からの眺めが非常によく、月見の名所としても知られました。




かって、明神男坂の坂上には銀杏の大木が聳えていました。案内文にちょっと違和感が。

「・・・。震災で焼け残った公孫樹からひこばえが生え育ったのです。昭和二十年の・・・。そして、ひこばえも被災の憂き目・・・」

の方が良さそうに思いますが。。。

明神男坂大公孫樹

この公孫樹は、向い側の男坂解説にもあるとおり江戸の昔よりこの地に育ちました由緒ある樹木です。大正時代、関東大震災により社殿をはじめ神社の諸施設がことごとく炎上し崩壊したなか、その焼け跡に唯一残されたのがこの公孫樹でした。震災で焼け残った公孫樹からひこばえが生え育ち、その後、昭和二十年の東京大空襲による油脂焼夷弾が東京一帯を襲いましたが、昭和九年建立の鉄骨鉄筋コンクリート造・総漆塗の社殿は当時としては日本初の耐火耐震構造を持つ神社建築であったため焼失を免れました(国登録文化財・文化庁)。その一方、ひこばえは被災の憂き目にあったにもかかわらず立派な樹木となり親木を支えることとなりました。この度、親木のほうは枯木につき倒木危険防止のため上部を伐採し保存することといたしました。江戸時代、月見の名所に植えられた公孫樹は、大正・昭和の災害にも遭遇しながらも子孫を残し、この地の歴史を伝えてきた大切なご神木と言えます。災難除け・厄除け・縁結びのご神徳を持ち長い間この地を見守ってきたご神木として、今後とも後世にお伝えいたします。ひこばえの生育が後世までも受け継がれてゆくことを心より願うものであります。




大公孫樹の前には、「さざれ石」が置かれています。さざれ石は小さな石の別称で、漢字では「細石」や「細れ石」と書きます。古今和歌集に収録された「わがきみは千世にやちよにさざれいしのいはほとなりてこけのむすまで」という和歌は、日本国国歌の歌詞として採用され「君が代」と呼ばれるようになりました。

さざれ石

国歌君が代に詠われている。永久の団結と繁栄の象徴。
   名峰伊吹山山麓算出
   さざれ石美濃坂謹撰




神田明神(神田神社)は、江戸城の表鬼門除けに鎮座する江戸総鎮守です。日本経済の中心である大手町や丸の内の他、神田・日本橋・秋葉原など、日本経済の中枢をなす108町会を氏子地域に持ち、企業の仕事運と商売繁盛を祈願するうえで欠かせない神社となっています。権現造りの社殿は、近代神社の建築を手掛けていた建築家伊東忠太・大江新太郎・佐藤功一らによって造られました。社殿には1934年の竣工当時には画期的であった鉄骨鉄筋コンクリートが使われています。その頑丈さは東京大空襲を耐え抜いたほどです。また、参拝者が靴を履いたまま拝礼できる構造が採用されています。

江戸総鎮守神田明神
神田神社御由緒

正式名称・神田神社。東京都心百八町会の総氏神で、神田・日本橋・秋葉原・大手町丸の内、そして東京の食を支える市場の発祥地の氏神様として青果市場・魚市場の人々からも篤く崇敬されております。縁結び、家内安全、商売繁昌、社運隆昌、除災厄除、病気平癒など数多くのご神徳をお持ちの神々です。当社は、天平二年(730年)のご創建で、江戸東京の中で最も歴史ある神社のひとつです。はじめは現在の千代田区大手町・将門塚周辺に鎮座していましたが、徳川家康公が江戸に幕府を開き江戸城が拡張された時、江戸城から見て表鬼門にあたる現在の地へ遷座いたしました。それ以降、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府から江戸庶民にいたるまで多くの崇敬を受けました。さらに明治に入り、准勅祭社・東京府社に列格し皇居・東京の守護神と仰がれ、明治天皇も親しくご参拝になられました。当社のご社殿は、近代神社建築を代表する建築家大江新太郎らの設計により昭和九年、日本初の本格的な鉄骨鉄筋コンクリート・総漆朱塗造の権現造で建立され、現在、国登録有形文化財に指定されております。また境内には総檜造の随神門や伝統文化の魅承や新たな文化発信の拠点として平成三十年に竣工した文化交流館、今和二年にリニューアルした結婚式場・明神会館など新旧様々な建造物がございます。縁結びのご神徳から神前結婚式も多く行われております。資料館には、数千点の貴重な絵巻や浮世絵等が所蔵されています。また小説やドラマで有名となった銭形平次等、多くのドラマやアニメの舞台としても知られています。当社の祭礼・神田祭(かんだまつり)は二年に一度執り行われ、江戸時代には江戸城内に入り徳川将軍が上覧したため、御用祭とも天下祭とも呼ばれました。また日本三大祭・江戸三大祭の一つにも教えられております。現在は鳳輦(ほうれん:屋根に鳳凰の飾りのある天子の車)・神輿をはじめとする祭礼行列が神田・日本橋・秋葉原・大手町丸の内の百八町会を巡行する「神幸祭」と、氏子の町神輿約百基が神社へ宮入りする「神輿宮入」を中心に賑やかに行われております。当社は令和十二年(2030年)に創建千三百年の節目を迎えます。創建千三百年を迎えるにあたり、今日この瞬間にも、そして未来においても常に新しく瑞々しい場所であり続けるよう社殿の修復を中心に千三百年の記念事業を推進してまいります。




本殿の右手に「獅子山」があります。獅子山は親子の獅子像ですが、1923年の関東大震災の時に子供の獅子が失われました。1990年に新しく子供の獅子が作られ、現在の「獅子山」になっています。

千代田区指定文化財
石獅子

この石獅子は、区内に残る数少ない江戸期の石造物のひとつです。享保年間(1716年〜1735年)に、下野(現在の栃木県)の名工・石切藤兵衛が作ったものといわれています。文久二年(1862年)11月に両替屋仲間が石を積んで神田神社へ奉納したという記録があります。3頭の石獅子は、親獅子が谷底へ突き落した子獅子を見る構図になっています。このうち江戸期以来のものは夫婦2頭のみで、子獅子と獅子山は大正十二年(1923年)の関東大震災で失われ、平成元年(1989年)に天皇即位を記念して再建されました。
* 千代田区指定文化財は獅子の夫婦2頭

Chiyoda City Designated Cultural Property
Stone Lions

This stone sculpture is one of the few remaining stone sculptures in Chiyoda City from the Edo Period. It is said it was made by the master stonemason Ishikiri Tobe from Shimotsuke (current-day Tochigi Prefecture) the Kyoho Era (1716-1735). Records show the associates of a money-exchange shop dedicated a load of stone to Kanda Jinja Shrine in November 1862. The composition shows 3 stone lions, the parent lions looking at the lion cub pushed down below. Meanwhile, what survived from the Edo Period was the lion couple only, the lion cub and the lion rock being lost in the Great Kanto Earthquake of 1923, but in 1989 it was rebuilt to commemorate the enthronement of His Majesty the Emperor.
* The lion couple are the Chiyoda City Cultural Property




境内には多くの記念碑が置かれています。若い方には馴染みがないでしょうけど、銭形平次の石碑も建っています。「銭形平次の碑」は、1970年に「日本作家クラブ」が発起人になって建てられた石碑です。野村胡堂の名作「銭形平次捕物控」に登場する銭形平次が神田明神の周辺を舞台に活躍したことから記念碑が建てられました。石碑の右隣には、銭形平次の子分「八五郎」の小さな碑も残されています。

錢形平次碑

銭形の平次は野村胡堂の名作「銭形平次捕物控」の主人公である。平次の住居は、明神下の元の台所町ということになっている。此の碑は、昭和四十五年十二月有志の作家と出版社とが発起人となり、縁りの明神下を見下ろす地に建立された。石造り寛永通宝の銭形の中央には平次の碑、その右側に八五郎、通称「がらっ八」の小さな碑が建てられた。




発起人が書かれた小さな碑には昭和の大スターの名前が刻まれています。



「銭形平次の碑」の右隣には、今東光撰文の「国学発祥之地」の石碑が建っています。江戸時代中期頃までは、学問は中国から輸入された儒教など外国のものが中心でした。京都伏見の神宮で国学者であった荷田春満が江戸に出て初めて国学を説いたのが神田神社神主の芝崎邸内でした。そのいわれから、江戸における国学の発祥地が神田明神であったとされています。随神門の脇には、「江戸国学発祥の地」の案内柱が立っています。



籠祖神社は、寛政七年(1795年)亀井町(日本橋小伝馬町周辺)の籠職人たちによりお祀りされました。御祭神の塩土老翁神は山幸彦(神武天皇の祖父)に竹籠の船を与えた神で、そこから籠職人たちに崇敬されたのでしょう。現在も籠祖神講の人々により祭祀が行われています。

千代田区指定文化財
籠祖講関係石造物群

籠祖神社は、塩土翁神と猿田彦大神が祭神で、社伝によれば、寛政十年(1798年)に神田神社境内に鎮座したとされています。籠祖講は神田青物市場や日本橋の魚河岸などで使われる籠や笊をつくっていた亀井町(現在の千代田区岩本町一丁目と中央区小伝馬町にまたがる地域)の籠職人や葛籠職人たちによって結成されました。現在も両神を職神として、籠祖講の活動が続けられており、毎年11月に例大祭が行われています。籠祖神社内には嘉永三年(1850年)から昭和三十六年(1961年)に奉納された石造物(鳥居・水盤・記念碑・狛犬・常夜燈・玉垣・石標)があ ります。

Chiyoda City Designated Cultural Property
Stone Artifacts Related to Kagoso Jinja Shrine Association

Kagoso Jinja Shrine enshrines the deities Shiotsuchi no Ojinokami and Sarutahiko no Okami, and according to shrine records, they were enshrined in Kanda Jinja Shrine in 1798. The Kagoso Jinja Shrine Association was formed by basket and wicker clothes box craftsmen of Kameicho (current-day Iwamotocho 1-chome, Chiyoda City and an area partly overlapping Kodenmacho, Chuo City), who made bamboo strainers and baskets used at the Kanda fruit and vegetable market and the Nihombashi riverbank fish market, etc. Both deities are revered as shikigami (servant spirits used by onmyoji master) in current times; and the Kagoso Jinja Shrine Association continues its activities and holds an annual festival in November. A number of stone artifacts (torii [shrine gate], basins, memorial monuments, guardian lion dogs, nightlights, fencing, and signs) were dedicated in the grounds of Kagoso Jinja Shrine between 1850 and 1961.




水野年方の顕彰碑が建っています。

水野年方顕彰碑

水野年方は、慶応二年(1866年)に江戸神田で左官の棟梁の子として生まれました。当初、歌川派の月岡芳年に入門し、浮世絵の歴史画を数多く制作しました。明治時代半ばから、「やまと新聞」をはじめとする新聞挿絵、「文芸倶楽部」などの木版彩色の口絵を盛んに描き、上品で繊細な美人画を得意としました。明治四十一年(1908年)、年方は42歳の若さで逝去します。その十七回忌の前年にあたる大正十二年(1923年)5月、門人や縁故者が年方の氏神である神田神社に顕彰碑を建立しました。年方の門人からは、鏑木清方を筆頭に、池田輝方や蕉園ら、近代日本画を代表する画家たちが多く輩出されています。

Chiyoda City Designated Cultural Property
Mizuno Toshikata Monument

Mizuno Toshikata was born in Kanda, Edo in 1866 as the son of a master plasterer. Mizuno initially began studying under Tsukioka Yoshitoshi of the Utagawa school and made numerous rekishiga (historical picture) Ukiyo-e paintings. From about the middle of the Meiji Period he was prodigiously creating illustrations for newspapers, primarily the Yamato Shimbun, color woodblock frontispieces for the Bungei Club, etc., while specializing in elegant, delicately expressed bijinga (paintings depicting beautiful women). He passed away at the young age of 42, in 1908. In May 1923, the year before the 17th anniversary of his passing, his pupils and associates erected a monument in his honor at Kanda Jinja Shrine, Mizuno's guardian deity. From among Mizuno's pupils emerged numerous artists who came to the forefront of modern Japanese painting, most notably Kaburaki Kiyokata, as well as Ikeda Terukata, Ikeda Shoen, et al.




顕彰碑の碑文について解説してあります。

浮世絵師 水野年方 顕彰碑

水野年方 慶応二年〜明治四十一年(1866年〜1908年)四十三歳没。
神田神社の氏子内神田紺屋町の左官職の家に生れ、水野家の養子となる。通称粂次郎。応斎・蕉雪と号す。幼時より画を好み、芳年の門人となり浮世絵を学ぶかたわら、山田柳塘(陶器絵)・柴田芳洲・三島蕉窓・渡辺省亭などについて南画を学んだ。美人画や歴史風俗画を得意とした。また明治二十年頃から始めた「やまと新聞」の挿絵も好評を博した。明治三十一年には岡倉天心の「日本美術院」創立に際し招かれている。錦絵の代表作は「三十六佳選」「今様美人」シリーズなどがある。門人の育成にも優れ、鏑木清方・大野静方・池田輝方・榊原蕉園などの優れた門弟を輩出した。

文(表面)
水野年方君は本姓野中氏、通称粂次郎。慶応二年一月江戸神田に生る。月岡芳年に学び、後諸派を研究し、率先浮世絵の向上に努力せり。(しばしば)展覧会審査員に選ばれ、其画筆致精微気品最も高し。忠信参館図は忝くも御府に入れり。明治四十一年四月七日病没も年僅に四十三。平生情義に厚く、門下秀オに富む。茲に胥謀りて塔を建て永く其徳を起す。鳴呼君芸に游びて華を(セキ)ひ根を培い筆精に韻高し。稟命永からざりしかど、芬芳は窮りなからむ。




神田明神には多くの境内社(摂社)があります。江戸神社は大宝二年(702年)に武蔵国豊島郡江戸の地、今の皇居の中に創建された大江戸最古の地主の神です。古くは江戸大明神・牛頭天王(ごずてんのう)・江戸の天王と称せられたともいわれています。慶長八年(1603年)に江戸城の拡張により神田神社とともに神田台に移り、更に元和二年(1616年)に此の地に遷座しました。

三天王 一の宮
江戸神社

大寶二年(702年)武蔵国豊嶋郡江戸の地(今の皇居の内)に創建された大江戸最古の地主の神であります。古くは江戸大明神あるいは江戸の天王と称された。鎌倉時代には、江戸氏の氏神として崇敬され、その後江戸氏が多摩郡喜多見村に移住の後、太田道灌築城してより、上杉氏・北条氏等引続き城地に祀ったが慶長八年(1603年)江戸城の拡張により、神田神社と共に神田台に遷り、更に元和二年(1616年)に当地に遷座された。江戸時代中期以後は牛頭天王と称され、明治元年(1868年)に須賀神社と改称、更に明治十八年(1885年)に江戸神社と復称された。この神社は、江戸開府の頃幕府の食を賄う菜市が開かれその後、貞享年間(1684年〜)に神田多町一帯に青物商が相集い市場の形態が整った。こうした発祥の頃から市場の守護神として崇敬されてきました。現社殿は平成元年神田市場が大田区東海の地に移転するにあたり江戸神社奉賛会の人々により今上陛下御即位大礼の記念として、大神輿を御神座として再建鎮座された。

◎三天王祭・一の宮江戸神社の祭について
慶長十八年(1613年)より始まったと伝えられる神輿の神幸は六月七日の朝、明神の境内を発輿して南伝馬町二丁目に設けられた御仮屋に入り、氏子の町々を渡御して十四日還輿された。その神幸の様は実に勇壮厳粛な行列であったと伝えられる。現存する大神輿は、日本有数の華麗にして巨大な神奥で、通称「千貫神輿」として人々に親しまれ、神田祭に担がれる凡そ二百基の神輿の象徴でもあります。




江戸神社の神輿は、俗に千貫神輿と呼ばれています。

江戸神社

殿内に御帳台として納められおります大神輿は、神田祭に市場発祥の地・神田多町への巡行渡御が行なわれます。千数百人の担ぎてにより、手古舞・大獅子と共に宮入参拝が行なわれます。神田神社の三体の御祭神をお乗せした鳳輦・神輿を中心にした神幸祭には、時代行列・付け祭の行列を従え、土曜日夕方のご還座時には一キロ以上に及ぶ最大の行列となります。翌日曜日には早朝より夜間に至る迄、宮入参拝の神輿が境内を埋め尽くします。大小二百台以上の神輿が街中で担がれる江戸っ子の姿は実に壮観なものです。




神田明神にも力石が奉納されています。

千代田区指定文化財 力石

力石とは、一定重量の円形または楕円形の石で、 神社の境内や会所(地域の集会や寄合いを行う場所)などにあって、若者達が力試しに用いたと言われています。神田神社境内にある力石の由来は銘文があり、文政五年(1822年)12月に神田仲町二丁目(現在の外神田一丁目)の柴田四郎右衛門が持ち上げたことが分かります。江戸・東京の若者達の生活と娯楽を知るうえで貴重な資料です。

Chiyoda City Designated Cultural Property Chikaraishi (Strength Stone)

Chikaraishi are round or oval shaped stones (ishi) of a certain weight kept in shrine grounds or meeting places (places where the local community gather or meet), etc., and are said to have been used to test young men's strength (chikara). The origin of the strength stone in the grounds of Kanda Jinja Shrine is unclear, however, it is an invaluable artifact informing us about the lives and amusements of young men in Edo and Tokyo. This strength stone has an inscription telling us that Shibata Shirouemon from Kanda Nakacho (current-day Sotokanda 1-chome) lifted the stone in December 1822.




大伝馬町八雲神社は、神田神社境内の神社(摂社)で小舟町八雲神社、江戸神社とともに江戸時代には、祇園牛頭天王三社(ごずてんのうさんじゃ)と呼ばれていました。

三天王 二の宮
大伝馬町八雲神社

この神社は江戸時代以前に祀られていたと伝えられる。三天王の二の宮の天王祭は、六月五日明神境内を発輿し、氏子中を神幸し大伝馬町の御仮屋へ渡御して八日に還輿していた。このことから大伝馬町天王と称されていた。この祭は元和元年(1615年)頃より行われて、江戸時代には他の天王祭と共に大変な賑わいの一つであった。今日でも大伝馬町一丁目・本町三丁目東町会の有志会(神田祭の一番山車大伝馬町諫鼓山車より命名)の人々の篤いご信仰がある。尚、東京の風物詩「べったら市」も神田神社兼務社日本橋宝田恵比寿神社で諫鼓会の人々により祭礼伝統文化行事として継承されている。




拝殿の前に鉄製の天水桶が置かれています。

千代田区指定文化財
大伝馬町八雲神社鉄製天水桶

大伝馬町八雲神社は、神田神社境内の神社(摂社)で小舟町八雲神社、江戸神社とともに江戸時代には祇園牛頭天王三社と呼ばれていました。天水桶は防火用水などに使うため、雨水を溜めるためのものです。深川大島の鋳物師太田近江大掾藤原正次(通称:釜六)の作です。反物などの流通を一手に担う問屋仲間が天保十年(1839年)6月に奉納したものです。彼らは祭礼費用を賄うなど、神社と深い結び付きを持っていました。

Chiyoda City Designated Cultural Property
Odenmacho Yakumo Jinja Shrine Iron Rainwater Tubs

Odenmacho Yakumo Jinja Shrine is a shrine (auxiliary shrine) in the grounds of Kanda Jinja Shrine. Together with Kobunacho Yakumojinja Shrine and Edo Jinja Shrine, they were called Three Gion Gozu Tenno Shrines in the Edo Period. The tubs are for collecting rainwater to use in case of fire, etc. They are the work of Ota Omi no Daijo Fujiwara no Masatsugu (commonly called "Kamaroku"), the metal caster of Fukagawa Ojima. Merchants who were full responsible for the distribution of textiles, etc., dedicated the tubs in the sixth month of 1839. They had a strong connection with the shrine and provided for the costs of shrine festivals, etc.




神田明神の境内には、「三天王」あるいは「牛頭天王三社」と呼ばれる3つの摂末社があり、一の宮は江戸神社、二の宮は大伝馬町八雲神社、そして三の宮が小舟町八雲神社です。

三天王 三の宮
小舟町八雲神社

この神社は江戸城内吹上御苑より神田神社と共にこの地に遷座された。小舟町[貞享年間(1684年〜)までは小伝馬町]お仮屋を有し神輿が渡御されたことから小舟町の天王と称された。明治以前は公命により、江戸全町域の疫病退散の為、江戸城内・北奉行所・日本橋々上に神輿を奉安し祈祷が行われた。東都歳時記によれば、当時の天王祭は一丁目にお仮屋ができ大提灯・大注連縄が張られ、二丁目には七、八間の絹張りの神門が造られその左右に随神が置かれ長さ五丈の杉の木を植込み、鰹節の樽積みが高々と重ねられた。三丁目には須佐之男命と稲田姫の造り物、八岐大蛇の行灯、天王祭の大幟をたて神輿の神幸を待った。神輿は六月十日に明神境内を発輿して氏子百八十か町を巡り還輿するのは十三日か十四日その間の里程は十三里に及んだといわれる。このことか十三里天王ともいわれた。近年では、八雲祭と改められ小舟町街中に壮大なお仮屋がたてられ、華麗にして勇壮な大神輿の神幸祭が不定期に斎行されている。




拝殿の前に鉄製の天水桶が置かれています。

千代田区指定文化財
小舟町八雲神社鉄製天水桶

小舟町八雲神社の天水桶は、江戸の魚問屋仲間の遠州屋新兵衛他10名によって、文化八年(1811年)に奉納されました。深川大島の鋳物師で当時「釜六」と呼ばれた太田近江大掾藤原正次の作とされていますが、左右一対の天水桶のうち、本殿左側のものは失われ、安政四年(1857年)に再建されています。小舟町八雲神社は江戸時代には祇園牛頭天王社(三の宮)と呼ばれていました。魚問屋仲間が集住していた小舟町(現在の中央区日本橋小舟町)の人々により崇敬されるようになり、現在に至ります。

Chiyoda City Designated Cultural Property
Kobunacho Yakumo Jinja Shrine Iron Rainwater Tubs

The iron rainwater tubs at Kobunacho Yakumo Jinja Shrine were dedicated in 1811 by Enshuya Shinbee and 10 other Edo fish mongers. Thought to be the work of Ota Omi no Daijo Fujiwara no Masatsugu, known as "Kamaroku" at the time, the metal caster of Fukagawa Ojima, the main shrine's left-hand rainwater tub of the pair was lost, but was remade in 1857. Kobunacho Yakumo Jinja Shrine was called Gion Gozu Tennosha Shrine (Sannomiya) in the Edo Period. They came to be revered by the people of Kobunacho (current-day Kobunacho, Nihombashi, Chuo City), where fish mongers lived, and this has carried on to current times.




神田明神には様々な職種の人たちの崇敬を集める境内社がありますが、魚河岸水神社もその一社です。

魚河岸水神社

日本橋魚河岸水神社は、徳川家の武運長久と併せて大漁安全を祈願する為、魚河岸の先人により武蔵国豊嶋郡柴崎村神田神社境内(今の千代田区大手町)に鎮座された。元和年間(1615年〜)神田神社と共に此の地に遷り、大市場交易神と称されその後、水神社と改称し更に明治二十四年(1891年)魚河岸水神社と社名を変更し、日本橋魚市場の守護神として崇敬されている。なお、日本橋より築地に移った築地中央卸売市場内には、当社の遥拝所が建てられ、市場に関わる人々の篤い信仰により支えられている。当神社の崇敬体「魚河岸会」の所有する加茂能人形山車は、江戸城内に参内し徳川歴代将軍の上覧に浴し、再三褒賞を賜った江戸の代表的山車であったが惜しくも関東大震災により烏有に帰した。その後、昭和三十年江戸文化の一端を永く後世に遺す為、文久二年(1862年)当時そのままの山車を再現した。隔年に行われる神田祭には、その絢爛豪華な山車の全容を拝観することができる。




神田明神の表門といえば随神門ですね。随神門は1975年に昭和天皇即位50年を記念して再建されました。



外回りに朱雀や白虎・青龍・玄武の四神が彫られ、内周りには大黒神話がモチーフになった彫刻が施されています。二層目にある金箔が施された「繋馬」の彫刻は平将門公に由来するものです。四神の配色と大相撲の土俵の色房との関係は初めて知りました。

随神門欄間彫刻

随神門四方の欄間彫刻は四神が彫られ、中央部には御祭神大國主之命の神話が描かれている。四神とは、中国古代の天文学上、北極星を中心として、東は青龍(蒼龍)西は白虎(白虎)南は朱雀(朱鳥)北は玄武(玄武亀)夫々の星を禽獣の名をもって表わされた。わが国では大宝元年(701年)朝儀の儀仗に四神の矛が飾られ、それ以来、魔除けの神として崇められている。またこれらを五色に配当され、東を青、西を白、南を赤、北を黒、中央を黄とされた。近年身近なものとして、大相撲における土俵上の各方位には色房を垂らしてそれぞれの方角を示しているのが見受けられる。




神田明神西門大鳥居から退出します。



大鳥居脇に江戸の老舗天野屋があります。170年以上の商いの歴史を持つ「明神甘酒」は、お店の地下6mの天然の創業当時からの土室(むろ)から作り出される糀(米かうぢ)を元に、さらに手を加えて生成し、熟成を待って作り上げられたものです。

千代田区指定有形文化財(建造物)
糀室 附 明治三十七年糀室之図

天野屋の糀室は、明治三十七年(1904年)に建築されたもので、現在でも天野屋で製造・販売する甘酒や味噌などの糀製造に使用しています。この室は、関東ローム層を地下6メートルまで掘り、天井をアーチ型に形成した地下室で、壁・天井には煉瓦が張られています。天野屋の創業は、弘化三年(1846年)と伝えられ、明治三十七年糀室之図(千代田区所有・天野博光氏寄贈)によれば、かつては竪坑から複数の室が放射状にのびていたことがわかります。またこの図面には、天野屋の創業以前に成立していたと伝えられる室や、明治期に増設された室が描かれており、天野屋では、長い年月の間に室の改築を繰り返しながら使用してきたことを示しています。しかし放射状に配置されていた室は、平成三年(1991年)に「床場」(糀菌をつけた米を熟成させるための室)などの一部分を除いて取り壊されました。現存する糀室は、震災・戦災をくぐり抜けて建築当時の構造を残しており、100年以上もの間、糀製造のために使用され続けているという点では、区内で唯一、都内でも数少ない存在といえます。そして、糀製造施設の価値のみならず、江戸時代から引き継がれる糀製造や商いの変遷などを示す文化財としても稀少な物件のため、千代田区指定有形文化財(建造物)に指定しました。なお、糀室は実用しているため一般公開はしていません。

Designated Cultural Properties by Chiyoda City
Koji Muro (Mold Cultivation Room)

Amanoya's koji muro (mold cultivation room) was built in 1904 and is still used to cultivate mold known as koji to make such products as amazake (a sweet, cloudy drink with a low or zero alcohol content [Amanoya makes the nonalcoholic version]) and miso, which Amanoya makes and sells. This room, an underground cell with an arched ceiling, was built by digging into the Kanto loam to a depth of six meters and lining the walls and ceiling with bricks. Amanoya is said to have started business in 1846, and a diagram of the koji muro made in 1904 (owned by Chiyoda City and donated by Mr. Hiromitsu Amano) reveals that in its early form, the koji muro consisted of multiple rooms extending radially from a vertical pit. However, the radially arranged rooms were demolished in 1991, save for some areas, including tokoba (a compartment in which koji is mixed with rice and left to propagate). The existing koji muro retains its original structure, having survived the Great Kanto Earthquake (1923) and air raids during World War II. It is the only one in Chiyoda City and one of a very few in Tokyo that has been in continuous use for more than 100 years. The koji muro is valuable not only as a koji making facility but also as a rare cultural property that illustrates how the making and selling of koji have changed since the Edo period. Please note that because the koji muro is still in use, it is not open to the public.




ポイント8 幕府直轄の学問所 湯島聖堂

本郷通りを渡ってお茶の水公園に入ります。案内板が建っています。

この地は江戸幕府直轄の学校である「昌平坂学問所」の跡地であり、明治維新後はわが国の近代教育の原点となる施策が展開された場所です。

■湯島聖堂・昌平坂学問所の前進

元禄三年(1690年)五代将軍徳川綱吉は、林羅山が上野忍岡の邸内(現在の上野恩賜公園内)で営んだ儒学の私塾と孔子をまつる聖堂(孔子廟)をこの地に移しました。これが現在の湯島聖堂の始まりです。

■昌平坂学問所の設立

寛政九年(1797年)幕府は林家の私塾であった学問所を幕府直轄とし、名実ともに官営の学問所となりました。この学問所は孔子の生まれた地名である「昌平郷」にちなんで「昌平坂学問所」(昌平黌)と名付けられました。昌平坂学問所は、幕府直参(旗本・御家人)の子弟のための学問所でしたが、後に藩士・浪人などの入門も許可されました。

■明治維新後

明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府の所管するところとなり、当初、学問所は大学校、大学と改称されながら存置されましたが、明治四年(1871年)これを廃して文部省が設置されました。これにより、林羅山以来240年、昌平坂学問所となってからは75年の儒学の講筵は、ここにその歴史の幕を閉じました。次いでこの年わが国で最初の博物館(現在の国立東京博物館)が置かれ、翌五年(1872年)には師範学校(現在の筑波大学)、わが国初の図書館である書籍館が置かれ、七年(1874年)には女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)が置かれました。この地は維新の一大変革に当たっても学問所としての伝統を受け継ぎ、「近代教育発祥の地」と呼ばれています。お茶の水公園があるこの場所は、わが国初の図書館である書籍館の一部として利用されていました。

■文京区立お茶の水公園について

この公園は昭和四十一年(1966年)7月に区立公園として発足し、国史跡の湯島聖堂内に位置しています。令和元年(2019年)8月、この公園の再整備に伴い、試掘調査が行われました。その際、公園内の地下から、江戸時代や明治時代のものと思われる陶器や瓦などの遺物が見つかりました。現在のお茶の水公園には学校としての面影はありませんが、この地は江戸時代からの学問所としての伝統を受け継ぎ、近代教育の礎を築いた場所であるといえます。




湯島聖堂の案内板が立っています。

史跡湯島聖堂 孔子廟・神農廟と昌平坂学問所跡

■湯島聖堂と孔子

孔子は、2500年ほど前、中国の魯の昌平郷(現山東省濟寧市曲阜)に生まれた人で、その教え「儒教」は東洋の人々に大きな影響を与えた。儒学に傾倒した徳川五代将軍綱吉は、元禄三年(1690年)この地に「湯島聖堂」を創建、孔子を祀る「大成殿」や学舎を建て、自ら「論語」の講釈を行うなど学問を奨励した。

■昌平坂学問所跡

寛政九年(1797年)幕府は学舎の敷地を拡げ、建物も改築して、孔子の生まれた地名をとって「昌平坂学問所」(昌平黌ともいう)を開いた。学問所は、明治維新(1868年)に至るまでの70年間、官立の大学として江戸時代の文教センターの役割を果たした。学問所教官としては、柴野栗山、岡田寒泉、尾藤二洲、古賀精里、佐藤一齋、安積艮齋、鹽谷宕陰、安井息軒、芳野金陵らがおり、このうち佐藤一斎、安積艮齋らはこの地が終焉の地となっている。

■近代教育発祥の地

明治維新により聖堂は新政府の所管となり、明治四年(1871年)に文部省が置かれたほか、国立博物館(現東京国立博物館・国立科学博物館)、師範学校(現筑波大学)、女子師範学校(現お茶の水女子大学)、初の図書館「書籍館」(現国立国会図書館)などが置かれ、近代教育発祥の地となった。

■現在の湯島聖堂

もとの聖堂は、4回の江戸大火に遭ってその都度再建を繰り返すも、大正十二年(1923年)関東大震災で焼失した。その後「假聖堂」を営み、昭和十年(1935年)鉄筋コンクリート造で寛政の旧に依って再建され、今日に至っている。入徳門は宝永元年(1704年)に建てられたものがそのまま残っており、貴重な文化財となっている。




大成殿は、間口20メートル・奥行14.2メートル・高さ14.6メートルの入母屋造りで、殿内の中央の神龕(厨子)に孔子像・左右に四配として孟子・顔子・曽子・子思の四賢人を祀っています。「大成」とは、孔子廟の正殿の名称で、宋(北宋)の仁宗のときに命名されました。「孟子」万章下「孔子聖之時者也、孔子之謂集大成、集大成也者、金聲玉振之也。」に基づいています。



丈高15呎(4.57メートル)・重量約1.5トンの孔子の銅像は世界最大の大きさです。昭和五十年(1975年)に中華民国台北市ライオンズ・クラブから寄贈されました。銅像の脇に石碑が建っています。



楷樹(カイノキ)は、直角に枝分かれすることや小葉がきれいに揃っていることから、楷書にちなんで名付けられたとされています。別名のクシノキは、山東省曲阜にある孔子の墓所「孔林」に弟子の子貢が植えたこの木が代々植え継がれていることに由来します。各地の孔子廟にも植えられ、孔子と縁が深いことから、学問の聖木とされています。

楷樹の由来

楷 かい 学名 とねりばはぜのき うるし科

楷は曲阜にある孔子の墓所に植えられている名木で、初め子貢が植えたと伝えられ、今日まで植えつがれてきている。枝や葉が整然としているので、書道でいう楷書の語源ともなったといわれている。わが国に渡来したのは、大正四年、林学博士白澤保美氏が曲阜から種子を持ち帰り、東京目黒の農商務省林業試験場で苗に仕立てたのが最初である。これらの苗は当聖廟をはじめ儒学に関係深い所に頒ち植えられた。その後も数氏が持ち帰って苗を作ったが、性来雌雄異株であるうえ、花が咲くまでに三十年位もかかるため、わが国で種子を得ることはできなかったが、幸いにして数年前から二・三個所で結実を見るに至ったので、今後は次第に孫苗がふえてゆくと思われる。中国では殆んど全土に生育し、黄連木・黄連茶その他の別名も多く、秋の黄葉が美しいという。台湾では爛心木と呼ばれている。牧野富太郎博士は、これに孔子木と命名された。孔子と楷とは離すことができないものとなっているが、特に当廟にあるものは曲阜の樹の正子に当る聖木であることをここに記して世に伝える。




仰高門は鉄筋コンクリート造・平家建・切妻造りで、一般見学者用の入口になる門です。昭和十年(1935年)4月に竣工しました。



湯島聖堂の外壁は特徴的な築地塀になっています。築地塀とは、石垣の基礎に柱を立てて貫を通した骨組みを木枠で挟み、そこに練り土を入れて棒でつき固める「版築」という方法で作られ、塀の上に屋根として簡便な小屋組を設け、瓦や板などで葺いたものも多くあります。現在でも御所や寺院などに築地塀が残っています。見るからに頑丈そうな外観です。築地塀の南を神田川に沿って昌平橋へ下る坂があります。「学問所周辺の三つの坂」とは、相生坂・昌平坂・団子坂(昌平坂の東側に開かれた坂)を指すらしいです。

相生坂(昌平坂)

神田川対岸の駿河台の淡路坂と並ぶので相生坂という。「東京案内」に、「元禄以来聖堂のありたる地也。南神田川に沿ひて東より西に上る坂を相生坂と云ひ、相生坂より聖堂の東に沿ひて湯島坂に出るものを昌平坂と云ふ。昔時は之に並びて其西に猶一条の坂あり。之を昌平坂と云ひしが、寛政中聖堂再建の時境内に入り、遂に此坂を昌平坂と呼ぶに至れり」とある。そして後年、相生坂も昌平坂とよばれるようになった。昌平とは聖堂に祭られる孔子の生地の昌平郷にちなんで名づけられた。

   これやこの孔子聖堂あるからに
      いく日湯島にい往きけむはや         法月歌客




東京医科歯科大学(2024年10月1日をもって東京工業大学と合併し、東京科学大学となりました)の塀の前に「近代教育発祥の地」案内板が立っています。

近代教育発祥の地 (湯島聖堂・東京医科歯科大学)

江戸時代、このあたりは学問(儒学)の府であった聖堂(孔子廟)の一部、昌平坂学問所(昌平黌)があったところである。寛政九年(1797年)学問所の学寮、宿舎が建てられ、旗本や藩士の子弟を対象とした教育が施された。明治維新後、学問所は新政府に引き継がれ、昌平学校、大学校、東京大学と発展していった。明治四年(1871年)に文部省が設置され、我が国の近代教育の原点となる施策が展開されることになった。当地には明治五年師範学校(翌年、東京師範学校と改称)が開校し、その後、隣接地に東京女子師範学校が置かれた。東京高等師範学校は明治三十六年に大塚窪町に移転し、後に東京教育大学(現筑波大学)となり、東京女子高等師範学校は昭和七年大塚に移転し、後に新制大学としての発足の折、この場所の地名を校名に冠し、お茶の水女子大学と称し現在に至っている。




神田川に架かる聖橋を渡ります。

−聖橋−
土木学会選奨土木遺産

聖橋は、関東大震災の復興事業として、大正十三年に着工し、昭和二年7月に完成しました。神田川を渡るアーチ部は開腹アーチと呼ばれる構造となっていて、長さが36.3mあります。このアーチには鉄筋だけでなく鉄骨も使用されています。本橋は、建築家山田守のデザインとして知られています。アーチの開口部にはパラボラ型アーチが設けられ、表面もモルタルにより平坦に仕上げられました。また、側径間には鋼鈑桁が用いられていますが、橋梁全体をコンクリート橋に見せるため、外側の桁の表面にはモルタルが施され、統一された一体的な美を演出しています。本橋は土木学会から平成二十九年度選奨土木遺産に認定されました。今後とも土木遺産として価値の高い聖橋を健全な姿で次世代に引き継いでいきたいと考えております。




御茶ノ水駅のバリアフリー整備と駅施設の改良工事は、2010年度末に建物撤去などの準備工事を開始し、2013年度初からは作業ヤードを確保するために神田川に仮設桟橋を設置する工事を進め、本格工事に入りました。そして2025年5月14日、周囲の風景や地形を活かし、大学や病院、楽器店など独特の文化をはぐくむ立地を生かした「エキュートエディション御茶ノ水」の全面開業を持って駅施設の工事は完了しました。ただ、仮設桟橋の撤去にはあと1年ほどかかる予定で、神田川がしっかり見れるようになるのは2026年になる予定です。



御茶ノ水駅の南側一帯は神田駿河台という町名になっています。これには、徳川家康が三河から江戸に移封されたことに関係しています。

駿河台(西)

高台である「駿河台」は元来、本郷・湯島台と地続きで、この南端に位置し、「神田山」と呼ばれていました。江戸に幕府を開いた徳川家康は、新たな町づくりのため、この神田山を切り崩し、江戸城の南に広がる日比谷入江(現在の日比谷公園、新橋周辺)を埋め立てました。しかし、埋め立てによって、それまで海に流れ込んでいた平川(神田川のもとになった川)の流れがとどこおり、下流で洪水が頻発するようになりました。そこで現在の飯田橋付近から隅田川まで、分流としての水路を確保し、あわせて江戸城の外堀の役目も果たす「神田川」が開削されたのです。こうしてこの界隈は、本郷・湯島台から切り離され、現在の駿河台が形成されました。さて、家康が駿府で没した後、家康付を解かれ、駿河から帰ってきた旗本(駿河衆)たちが、江戸城に近く富士山が望めるこの地に多く屋敷を構えました。駿河衆が住んでいたことや駿河国の富士山が見えたことなどから、この地は駿河台と呼ばれるようになり、多くの武家屋敷が立ち並ぶ地域となりました。江戸時代初期には、奈良奉行を勤めた旗本中坊長兵衛、また、幕末には勘定奉行や軍艦奉行を勤めた小栗上野介忠順などが居住していました。明治になると、武家屋敷の跡地が華族や官僚などの屋敷に変わり、加藤高明男爵邸、坊城俊長伯爵邸、小松官邸などいくつかの邸宅は昭和の初期まで残っていました。明治五年(1872年)に新たに定められたこの地域の町名は、駿河台西紅梅町、駿河台北甲賀町、駿河台南甲賀町、駿河台袋町、駿河台鈴木町(いずれも神田区)でした。関東大震災後の区画整理が終わった昭和八年(1933年)に現在の駿河台一丁目、駿河台二丁目に町名が変更され、昭和二十二年(1947年)に千代田区となってからもこの地名で親しまれています。


Surugadai (Western district) The area was named Surugadai for a variety of reasons: after the death of the Shogun leyasu Tokugawa at Suruga, in today's Shizuoka Prefecture, some of his retainers came back to live here, and also because of the views of Mt. Fuji, which was located in Suruga.




ポイント9 将軍も認めた名水 お茶の水石碑

御茶ノ水駅お茶の水橋口の交番横の植え込みの中に、「お茶の水」の地名の由来を記した石碑が建っています。鷹狩りに出た二代将軍秀忠がこの付近の高林寺に立ち寄ったとき、境内の名水で茶を点てました。その茶が美味しかったので、以後将軍家の茶の湯にこの水が用いられることになったといいます。

お茶の水

聖堂の西比井名水にてお茶の水にもめしあげられたり。神田川掘割の時、ふちになりて水際に形残る。享保十四年、江戸川拡張の後川幅を広げられし時、川の中になりて今その形もなし。
          「再校江戸砂子」より

慶長の昔、この邊り神田山の麓に高林寺という禅寺があった。ある時、寺の庭より良い水がわき出るので将軍秀忠公に差し上げたところ、お茶に用いられて大変良い水だとお褒めの言葉を戴いた。それから毎日この水を差し上げる様になり、この寺をお茶の水高林寺と呼ばれ、この邊りをお茶の水と云うようになった。其の後、茗渓又小赤壁と稱して文人墨客が風流を楽しむ景勝の地であった。時代の変遷と共に失われ行くその風景を惜しみ心ある人達がこの碑を建てた。




御茶ノ水駅から水道橋駅に向けて中央線・神田川沿いに下る皀角坂(さいかちざか)は、「新編江戸志」に「むかし皀角樹多くある故に坂の名とす」とあります。江戸時代に、坂の中程辺りに神田上水の懸樋が架けられていました。

神田上水懸樋跡

江戸時代、この辺りには神田上水が神田川を越えるために設けた懸樋がありました。万治年間(1658年〜1661年)に架け替えられ、俗に万年樋と呼ばれました。神田上水は、江戸で最も早く整備された上水といわれ、慶長年間(1596年〜1615年)に整備に着手したといいます。井の頭池・善福寺池・妙正寺池を水源とし、現在の文京区関口あたりに堰が設けられ、小日向台から小石川後楽園を通り水道橋の下流に達しました。懸樋によって神田川を超えた上水は、この辺りから暗渠(埋樋)となり、南は京橋川、東は永代橋より大川(現在の隅田川)以西、北は神田川、西は大手町から一橋門外まで供給されました。なお、関口で神田上水から分水した余水は河川となります。牛込門外(現在の飯田橋)までは「江戸川」、牛込門外から下流は「神田川」と呼ばれました。

Site of Kanda Waterworks Aqueduct

A Kanda Waterworks Aqueduct which traversed the Kandagawa River stood near this area during the Edo Period. It was rebuilt between 1658 and 1661 and was commonly known as Mannendoi ("Everlasting Aqueduct"). The Kanda Waterworks were said to be the most quickly constructed waterworks in Edo, said to have continued from 1596 to 1615. The sources of the water were the Inokashira, Zenpukuji, and Myoshoji Ponds. A weir was set up near current-day Sekiguchi, Bunkyo City and the water reached the river downstream of Suidobashi Bridge, having passed from Kohinatadai through the Koishikawa Korakuen Gardens. After crossing the Kandagawa River via the aqueduct, the waterworks went underground into a colvert nearby here (buried pipes "umetoi") to supply Kyobashigawa River in the south; westward of Okawa River (current-day Sumidagawa River) from Eitaibashi Bridge in the east; Kandagawa River in the north; and from Otemachi to outside Hitotsubashi-mon Gate in the west. At Sekiguchi, excess water was diverted from the Kanda Waterworks into a river. Down until outside Ushigome-mon Gate (current-day Iidabashi) the river was called the Edogawa River, and from downstream outside Ushigome-mon Gate, it was called the Kandagawa River.




皀角坂下は、神田三崎町の町域になります。

千代田区町名由来板 神田三崎町一丁目

三崎町という町名が誕生したのは明治五年(1872年)のことです。江戸に幕府が開かれる以前、この地にあった「三崎村」が町名の由来といわれています。江戸が開発されるまで、現在の大手町から日比谷や新橋周辺には日比谷入江と呼ばれる遠浅の海が広がっていました。三崎村は、日比谷入江に突き出した「ミサキ(岬)」だったため、この名が付いたと伝わっています。JR水道橋駅のすぐ南側には三崎稲荷神社が鎮座しています。創建は詳らかではありませんが、鎌倉時代初期の建久年間(1190年〜1199年)よりも前とも伝わっており、とても歴史ある神社です。江戸時代には、三代将軍家光が自ら三崎稲荷を崇敬するばかりでなく、参勤交代の大名たちにも信仰させたことから、参勤登城する大名は必ず、まず三崎稲荷に参拝し心身を清めたそうです。ここから三崎稲荷は「清めの稲荷」とも称されています。閑静な武家地であった三崎町は、明治も中ごろを過ぎると劇場や飲食店が増え、賑やかな歓楽街へと生まれ変わります。隣町の三崎町二丁目には三崎三座と呼ばれる三つの劇場ができるなど、周辺も活気にあふれる町でした。関東大震災後の区画整理で、三崎町一丁目は昭和九年(1934年)に三崎町二丁目と統合されますが、町名は三崎町一丁目のままでした。昭和二十二年(1947年)神田区と麹町区が合併して千代田区になると、頭に神田を付けて神田三崎町一丁目に変わります。昭和四十二年(1967年)の住居表示実施では、神田三崎町一丁目は分割され、旧三崎町一丁目だった区域は三崎町一丁目と定められました。平成三十年(2018年)に、ふたたび頭に神田を付けることになり、神田三崎町一丁目と町名が変更され、現在に至っています。

Kanda-Misakicho 1-chome

In the Edo Period, this area was the site of a village named Misaki-mura. The village was located on a cape ("misaki" in Japanese) that jutted out into the Hibiya Inlet, which once covered the area nearby. In the Edo Period, many samurai lived here, but later it became an entertainment district with theaters and restaurants.




三崎稲荷神社の創建年代は不明ですが、建久以前の仁安の頃と伝えられています。当時の神田山(現在の駿河台)の山麓(現在の本郷一丁目)にあった武蔵国豊島郡三崎村に鎮守の社として祀られたとされ、その後幾多の変遷の後、明治三十八年(1905年)に現在の地に遷座しました。三代将軍徳川家光が崇敬し、登城する大名は必ず参拝し心身を清めたことから「清めの稲荷」とも称されています。



万治二年(1659年)、神田川の改修に携わった伊達家の家臣原田甲斐が工事の成功を願って名刀を奉納したという社伝が残っています。



三崎稲荷神社は、家光や大名たちの故事によって旅行安全の利益があるとされています。かつて白瀬矗は南極探検に出発する際に三崎稲荷神社のお守りを携帯していました。そして探検出発前に大隈重信邸で開かれた決起集会の時には、重信の妻が隊員たちの無事を祈り、真綿のチョッキに三崎稲荷神社のお守りを縫い付けて全員に渡したと伝わっています。「お砂守り」は、現在でも旅の安全のために神社で授かる人々がいるとのことです。

道中安全祈願

三崎稲荷神社の「お砂守り」は、古来より旅行安全の神符としてその霊験はあらたかです。古くは江戸時代の参勤交代、時代の夜明けとともに海外渡航や南極探検と、行く先は広くなれど、旅する人々からの崇敬の念は変わりません。ここに、いにしえの旅の必需品であった「草鞋」を奉納し、皆様の幸せな旅を祈念致します。




水道橋の裏通りに、居酒屋チェーン店の「庄や」があります。昔よく行きましたねぇ。このお店が「庄や発祥の地」なんだそうです。近年グループ店舗の閉店が相次いでいますが、寂しいことです。

庄や発祥の地

創業昭和四十八年此の地で庄やは産声を上げました。これからも本店共々変わらぬご愛顧を賜りますようお願い申し上げます。




後楽橋は、三崎町二・三丁目から文京区後楽一丁目に通じる神田川の橋です。関東大震災の復興橋のひとつで、昭和二年(1927年)11月2日に架設され、長さ21.0m・幅22.56mの鋼橋です。現在では、後楽橋の東側に沿って歩道橋(後楽園ブリッジ)もでき、外堀通りを越えて後楽園方面に直行できます。東京ドームで開催されるコンサートでよく利用しました。



ポイント10 「水戸様御門」と呼ばれた 小石川見附跡

小石川橋を渡った川岸に、「小石川門跡」の案内板が立っています。



江戸時代には、この辺りに小石川門が置かれていました。小石川門は、「水戸様御門」と呼ばれた江戸城の外郭門のひとつです。寛永十三年(1636年)に岡山藩の初代藩主池田光政らによって築造されました。水戸藩徳川家は、明暦の大火後に江戸城西の丸の吹上から現在の小石川後楽園に屋敷を移され、この門を守りました。解体後の生け垣は、常盤橋門再建に利用されました。

小石川門跡

江戸城外郭門のひとつ。小石川門は、寛永十三年(1636年)岡山藩(現在の岡山県)藩主池田光政によって築造されました。明治維新後、枡形石垣は明治五年(1872年)に取り壊され、その石材を利用して明治十年(1877年)に日本橋川下流の常磐橋の石橋が建造されました。江戸時代の橋は門とともに架けられ、城門撤去とともに木橋が架け直されました。明治二十八年(1895年)に甲武鉄道飯田町駅が近くにできると、橋も修繕されました。この橋は関東大震災で被災し、昭和二年(1927年)に鋼橋に架け替えられましたが、老朽化のため平成二十四年(2012年)に改修されました。

Remains of Koishikawa-mon Gate

The Koishikawa-mon Gate was constructed on the outer part of Edo Castle by the feudal lord of Okayama Han (now Okayama Prefecture), Ikeda Mitsumasa, in 1636. After the Meiji Restoration (1868), the stone walls of the Masugata Gate (a square enclosure where soldiers could gather) were torn down in 1872, and the stone was used to build the stone Tokiwabashi Bridge downstream on the Nihombashigawa River in 1877. The Edo Period (1603-1868) Koishikawabashi Bridge was constructed at the same time as the gate, and a wooden bridge was rebuilt when the castle gate was removed. The bridge was repaired in 1895, when the Kobu Railway lidamachi Station was built nearby. It was damaged during the Great Kanto Earthquake of 1923, and was replaced by a steel bridge in 1927. It was renovated in 2012 due to aging.




中央線の高架下に石垣の跡らしいものが見えますが、小石川門の遺構なのでしょうか?



ポイント11 黄門様ゆかりの人々が暮らした 讃岐高松藩上屋敷庭園跡

アイガーデンエア(I−GARDEN AIR)は、日本貨物鉄道(JR貨物)による「飯田町土地区画整理事業」として、飯田橋に2003年に建設された再開発街区です。1999年9月まで飯田橋に存在した貨物駅の飯田町駅と周辺の専用線・飯田町紙流通センターの跡地を、日本貨物鉄道(JR貨物)がデベロッパーとして、UFJグループの東洋不動産・大和ハウス工業・三井不動産をプロジェクトパートナーに選定して着工し、2003年3月までに北・中央・南の3街区にオフィスビル群と超高層マンション・ホテル棟が順次竣工しました。JR貨物は超高層ビル「ガーデンエアタワー」と付属する商業施設「飯田橋アイガーデンテラス」を開発し、事業に参画したJR東日本は隣接地のホテルメトロポリタンエドモント新館「イーストウィング」を建設しました。超高層型高級マンション「東京レジデンス」も地区内に建設しました。この他「マクセル東京ビル」(現在は「大和ハウス九段ビル」)・「日建設計東京ビル」・「大塚商会本社ビル」が各社の自社ビルとして建設し、現在はマクセルを除いてそれぞれ各企業の本社ないし東京での本部拠点が入居しています。アイガーデンエアの名称は、「I」:飯田橋・歴史のある街・私・街の地形・愛、「GARDEN」:庭園・公園・緑と水のある空間、「AIR」:空間・そよ風・大気・空気・空・旋律から組み合わせたとのことです。随分と盛り沢山なネーミングですね。



「讃岐高松藩上屋敷庭園跡」の場所を探したのですが、それらしき案内板が見当たりません。アイガーデンエアの敷地内を歩き回った末に、「平川の径」というガーデンウォークの石垣に何やら文字が書いてあるのを見つけました。

平川の径

かつて、この付近には「平川」という川が流れていました。平川は江戸時代初期の大工事により、現在の神田川に流れを変え、当時の古地図にのみ名残を留めていました。この「平川の径」は、讃岐高松藩上屋敷の遺構の下より発掘された平川の護岸石を用い、往時を偲ぶ小径としました。




その向かいの石垣に、「讃岐高松藩上屋敷庭園跡」と書かれた案内文があります。案内板でなく、石に刻んであるんですね。

讃岐高松藩上屋敷庭園跡

かつて、ここには讃岐高松藩上屋敷がありました。その庭園には景石や中島をもつ泉水があり、釣り遊びの浮きも出土しています。ここに、遺跡調査により発掘された泉水の護岸石や景石をほぼ当時の位置に配し、往時の名残といたします。




アイガーデンエアの外周道路のあいあい橋人道橋近くの歩道脇にも「讃岐高松藩上屋敷庭園跡」の案内板が立っています。庭園は相当に広かったのでしょう。

讃岐高松藩上屋敷の庭園跡

1999年〜2000年に行われた飯田町遺跡の調査では、讃岐高松藩上屋敷の暮らしぶりを彷彿とさせる様々な発見がありました。そのひとつに屋敷内の庭園に造られた池跡があります。池には神田上水を引き込み、岸には石垣や竹の土留めなどを用い、池の南端には景石(庭石)を置いていました。この石は国元から運ばれた可能性が考えられます。また池の中からは漆塗りの浮きが出土し、この池で釣りをしていたことがわかりました。さらに池の近くからは国元で焼かれた理平衛焼の陶器碗や皿も発見されています。

Site of Gardens in Residence of Takamatsu Domain, Sanuki Province

The Iidamachi Historic Site excavations undertaken from 1999 to 2000 made various discoveries that vividly remind us of the way of life in the main Edo residence of the Takamatsu Domain, Sanuki Province. One such discovery was the remains of a pond created in the gardens in the residence. Water for the pond was drawn from the Kanda Waterworks, stone blocks and bamboo earth retaining were used for the pond bank, and keiseki (natural garden landscaping stones) were placed at the south end of the pond. It is thought that this stone was brought from the home province. Also unearthed from the pond was a lacquer fishing float, revealing that the residents fished there. Discoveries near the pond include Rihei ware pottery bowls and plates fired in the home province.




ポイント12 江戸前期の地形を感じる 讃岐高松藩上屋敷土蔵跡

しかしながら、「讃岐高松藩上屋敷土蔵跡」の案内板は散々探したのですが、遂に見つかりませんでした。ネットで調べたら、「讃岐高松藩上屋敷庭園跡」の案内板の近くにあるみたいですが見落としたのでしょうか?

讃岐高松藩上屋敷の土蔵跡

飯田橋二丁目から三丁目に広がる飯田町遺跡からは、讃岐高松藩(現在の香川県)の上屋敷跡が発掘されました。上屋敷は宝永三年(1706年)に幕府から与えられたもので、藩主が住み、政務を執り行った屋敷です。12万石の領地を支配した高松藩松平家は、初代藩主松平頼重が水戸藩二代藩主徳川光圀の兄にあたり、徳川御三家である水戸藩ゆかりの大名でした。発掘調査では御殿をはじめ庭園跡、上下水道、土蔵跡などが見つかっています。土蔵跡の基礎には、大きな礎石の下に木の土台が用いられていました。その礎石は、現在川沿いの遊歩道のベンチに再利用しています。

Site of Storehouse in Main Residence of Takamatsu Domain, Sanuki Province

The main Edo residence of the Takamatsu Domain, Sanuki Province (current-day Kagawa Prefecture) was unearthed at the lidamachi Historic Site, which spreads across lidabashi 2-chome and 3-chome. This residence was bestowed by the shogunate in 1706 and was the residence where the feudal lord resided and managed his official duties. The Matsudaira clan of the Takamatsu Domain governed territory with an annual rice yield of 120,000 koks (18,000 tons). The 1st generation feudal lord, Matsudaira Yorishige was a daimyo with connections to the Mito clan, one of the three houses of the Tokugawa, as he was the older brother of Tokugawa Mitsukuni, the 2nd feudal lord of the Mito Domain. The archaeological excavation unearthed most notably the clan's stately residence, as well as remains of the gardens, the water supply and drainage structure, storehouse, among others. A timber substructure was found to have been used to underpin large foundation stones in the storehouse foundation remains. Those foundation stones are today being re-used as benches on the riverside pathways.




飯田橋駅東口から九段下に至る目白通りは、地元商店会の努力で「歴史のプロムナード」と名付けられ、今昔の史跡の標柱を建て、道ゆく人の興味を誘っています。通りの右側には日本赤十字社跡・日本帝国徽章商会跡・九段坂、左側には日本大学開校の地・甲武鉄道飯田橋駅・滝沢馬琴・硯の井戸などの標柱が建っています。

歴史のプロムナード プロローグ

昔々、縄文時代の頃、このあたりは波の打ち寄せる入江でした。その後、海は後退して、葦の生い茂る広い湿地となりました。徳川家康が江戸に来て大規模な築城工事が行われ、このあたりは湿地から旗本屋敷にかわりました。九段坂、中坂を中心とした元飯田町は、町人の町として賑わいましたが、明治になって旗本屋敷の後は住む人もなくなり、一時は大変さびれました。しかし、次第に賑わいを取り戻し、現在のようなビル街に変わりました。この飯田橋散歩路に標柱を建て、この町の移りかわりを示します。




歩道橋で目白通りを渡った所にも標柱が建っています。

徽章業発祥の地

この奥、大神宮通り向かって左側に明治十八年(1885年)、鈴木梅吉により日本帝国徽章商会が創られました。これは民間の徽章業のはじめで、特に明治末期、大正の初期においては日本で唯一の徽章の製作工場として大変栄えました。現在の徽章業の方々の大多数はこの商会の流れを汲み、徽章業は飯田町の日本徽章商会から生まれたといわれています。そして、現在もこのあたりは徽章業に従事する人が沢山います。




江戸時代、伊勢神宮への参拝は人々の生涯かけての願いでした。明治時代に入ると、明治天皇のご裁断を仰ぎ、東京における伊勢神宮の遥拝殿として明治十三年(1880年)に創建されました。最初、日比谷の地に鎮座していたことから、「日比谷大神宮」と称され、関東大震災後の昭和三年に現在地に移ってからは「飯田橋大神宮」と呼ばれ、戦後は社名を「東京大神宮」と改め今日に至っています。日本で初めて神前結婚式を行った神社としても知られています。「東京のお伊勢さま」と称され親しまれていますが、これは、伊勢神宮の御祭神である天照皇大神と豊受大神、さらに倭比賣命を奉斎していることによります。また、天地万物の生成化育つまり結びの働きを司る造化の三神が併せまつられていることから、縁結びに御利益のある神社としても知られ、良縁を願う人たちが全国各地から参拝に訪れます。

東京大神宮 御由緒

明治天皇の御裁断を仰ぎ、東京における伊勢神宮の遥拝殿として明治十三年に創建された当社は、最初日比谷の地に鎮座していたことから、世に日比谷大神宮と称されていました。関東大震災後の昭和三年に現在地に移ってからは飯田橋大神宮と呼ばれ、戦後は社名を東京大神宮と改め今日に至っております。「東京のお伊勢さま」と称えられ親しまれているのは、伊勢神宮(内宮・外宮)の御祭神である天照皇大神(日本国民全ての祖神)と豊受大神(農業・諸産業の守護神)の御分霊を奉斎していることによります。また天地万物の生成化育つまり結びの働きを司る「造化の三神」が併せ祀られていることから、縁結びに御利益のある神社としても知られ、良縁を願う人々の参拝も多く、その御神徳は実に広大無辺といえます。さらに、日本で最初の神前結婚式を執り行った神社であり、現在も神前において伝統的な結婚の儀式を守り伝えております。




何か、女性の参拝者が多いなと思ったら、良縁の御利益があるんですね。



ポイント13 石に刻まれた普請大名の印 牛込見附跡

牛込見附は、上州道に通じる江戸城外郭門のひとつです。外濠に面した見附のなかでも江戸の遺構がもっともよく残っています。寛永十六年(1639年)、徳島藩の初代藩主蜂須賀忠英らによって築かれました。



石垣の前に案内板が立っています。

史跡 江戸城外堀跡
牛込見附(牛込御門)跡

正面とうしろの石垣は、江戸城外郭門のひとつである牛込見附の一部です。江戸城の外郭門は、敵の進入を発見し、防ぐために「見附」と呼ばれ、足元の図のようにふたつの門を直角に配置した「桝形門」という形式をとっています。この牛込見附は、外堀が完成した寛永十三年(1636年)に阿波徳島藩主蜂須賀忠英(松平阿波守)によって石垣が建設されました。これを示すように石垣の一部に「松平阿波守」と刻まれた石が発見され、向い側の石垣の脇に保存されています。江戸時代の牛込見附は、田安門を起点とする「上州道」の出口といった交通の拠点であり、また周辺には楓が植えられ、秋の紅葉時にはとても見事であったといわれています。その後、明治三十五年に石垣の大部分が撤去されましたが、左図のように現在でも道路を挟んだ両側の石垣や橋台の石垣が残されています。この見附は、江戸城外堀跡の見附の中でも、最も良く当時の面影を残しています。足元には、かっての牛込見附の跡をイメージし、舗装の一部に取り入れています。




牛込橋は、富士見二丁目から新宿区の神楽坂に通じる早稲田通りにある橋です。江戸城外郭門のひとつ牛込門のあった所に架けられ、今でも橋の手前(千代田区側)の左側に枡形の石垣の一部が残っています。橋の右手の飯田橋との間はセントラルプラザがあります。外濠の水は一旦ここで堰き止められ、姿を消します。そのためこの橋は陸橋のようにも見えます。橋は平成八年に架け替えられています。



横断歩道を渡った牛込橋の袂の飯田橋駅前交番際に、枡形に使用された石に普請した忠英を指す「阿波守」とかかれた文字が刻まれたモニュメントがあります。

千代田区指定文化財(「阿波守内」銘の石垣石のみ)
牛込門跡/「阿波守内」銘の石垣石

牛込門は寛永十三年(1636年)に、阿波徳島藩(現在の徳島県)藩主蜂須賀忠英により築造されました。門の名称は、牛込方面への出口であったことによります。なお牛込の名称自体は、新宿区側の台地上に拠点をおいていた牛込氏・牛込城にちなむと思われます。この辺りは、牛込(飯田橋)から四谷にかけて広い谷があった場所を利用して外堀を築いており、防御のため堀幅を広くしているといいます。門は明治四年(1871年)に撤去されました。赤坂見附から牛込橋にいたる堀や土手の遺構は、昭和三十一年(1956年)3月26日に、江戸城外堀跡として国指定史跡になっています。ここにある直方体の石は、牛込門の基礎として地中に設置された石垣石です。はす向かいの富士見教会の建て替えがあった際に敷地内から発見され、ここに移設しました。石の側面には「□阿波守内」という銘文があり、蜂須賀家(阿波守)が牛込門の石垣工事を担当したことを裏付けています。

Chiyoda City Cultural Property (Stone Wall Block with "Awa-no-Kamiuchi" Inscription only)
Ushigome mon Gate Remains Stone Wall Block with “Awa-no-Kamiuchi" Inscription

Ushigome-mon Gate was constructed in 1636 by Hachisuka Tadateru, the feudal lord of the Awa Tokushima Domain (current-day Tokushima Prefecture). The gate was so named as it was the exit for the Ushigome area. The name "Ushigome" is thought to come from the Ushigome family and Ushigome Castle, which were located on an elevated location on the Shinjuku City side. An outer moat was dug in this area, taking advantage of a wider part of the valley stretching from Ushigome (Iidabashi) to Yotsuya, broadening the moat for defense. The gate was demolished in 1871. The remains of the embankment and most stretching from Akasaka Mitsuke to Ushigomebashi Bridge were designated as a National Historic Site, Edo Castle Outer Moat Ruins, on March 26, 1256. The rectangular stone blocks here were set into the ground as foctings for Ushigome-mon Gate. They were moved here after being unearthed when the diagonally opposite Fujimi Church was rebuilt. The side of the stcnc bears the inscription "Awa-no-Kamiuchi," which establishes that the Hachisuka clan, Governors of Awa Province (Awa-no-Kami) were in charge of stone works for Ushigome-mon Gate.




富士見二丁目の町名紹介版が建っています。なかなか古風な造りですね。

千代田区町名由来板 富士見二丁目

江戸城の名残である外堀(外濠)に面したこの界隈は、武家の屋敷が立ち並ぶ地域でした。当時、武家地には正式な町名がなく、道筋に土手四番町、裏四番町通などと呼称が付いていただけでした。「富士見」という町名が生まれたのは明治五年(1872年)のことで、九段坂を上ったあたりから眺める富士山の姿がじつに素晴らしいことから付けられた名前です。九段坂を上りきった台地(現在の靖国神社周辺)に富士見町一丁目〜六丁目が誕生しました。昭和八年(1933年)、富士見町四丁目は富士見町三丁目と改称します。同じ年、富士見町五丁目と飯田町六丁目の一部が合併し、富士見町二丁目となりました。そして昭和四十一年(1966年 )、住居表示の実施にともない富士見町二丁目と富士見町三丁目、飯田町二丁目の一部が合併して、現在の富士見二丁目が誕生したのです。現在、当町会は東西に約八百メートルの長さがあり、東京のお伊勢さまといわれる東京大神宮をはじめ、衆議院議員宿舎など、名のある建物が多数存在しています。また、大学や病院など教育・医療機関も充実しています。JRと四本の地下鉄が走るきわめて交通の便がよい立地で、緑が多く、住むにも働くにもよい町です。

Fujimi 2-chome

This area, which once lay along the outer moat of Edo Castle, was the site of many samurai residences. The name originates from the fact that, from the top of Kudanzaka hill, it was possible to get a magnificent view of Mt. Fuji.




外濠公園に入ります。JR中央線の飯田橋駅付近から四ツ谷駅付近の間にかつての江戸城外濠(牛込濠・新見附濠・市ヶ谷濠)が残っています。その千代田区側にあるのが外濠公園です。



東京逓信病院は、昭和十三年(1938年)2月に、逓信省職員とその家族を対象の職域病院として開設されました。昭和六十一年(1986年)3月に、保険医療機関指定承認を受け一般開放され、郵政省関係者以外の一般の患者の利用も可能となりました。郵政民営化に伴い、日本郵政株式会社を開設者とする日本郵政グループの企業立病院となっています。現在の東京逓信病院の敷地は、福島藩上屋敷時代の敷地をほぼそのままの形で残した遺構で、江戸時代には東京逓信病院のある場所には福島藩の上屋敷があり、明治に入ると福島藩上屋敷跡地に陸軍軍医学校が造られました。更に、陸軍軍医学校の土地を活用して東京逓信病院が現在の場所に設立されました。昭和十一年(1936年)1月に起工され、翌昭和十二年(1937年)10月に竣工した旧建物は、逓信省経理局営繕課所属の山田守の設計によるモダニズム建築で、映画「暖流」の舞台ともなりました。第二次世界大戦中の昭和二十年(1945年)5月の空襲では、本館外来の一部及び院内郵便局が焼失しました。戦後も増築されるなどしながら維持されましたが、遂には建て替えられました。東京逓信病院では松田聖子さんが出産し、亡くなられた神田沙也加さんが誕生しています。



病院の植え込みの中に、「日本赤十字社発祥の地」の案内板が立っています。

日本赤十字社発祥の地

日本赤十字社は、西南戦争中の明治十年(1877年)に敵味方の区別なく救護活動を行うために佐野常民や大給恒、 櫻井忠興らによって設立された博愛社が前身です。当時、本拠地は東京市麹町区富士見町四丁目九番地(現在の富士見二丁目:現在地)の櫻井邸に置かれました。博愛社は明治十九年(1886年)、麹町区飯田町四丁目(現在の飯田橋三丁目)の陸軍省用地を借り受けて事務所と病院の建設を行います。日本政府がジュネーブ条約に加入した翌年の1887年に博愛社は日本赤十字社と改称しました。総裁には小松宮彰仁親王、社長には佐野常民が就任しました。福島県での磐梯山噴火(1888年)、和歌山県でのトルコ軍艦エルトゥールル号遭難事件(1890年)、愛知県・岐阜県での濃尾地震(1891年)をはじめとして日本赤十字社は創立直後から広範な救護活動を行っています。なお、明治二十四年(1891年)、日本赤十字社病院は飯田町4丁目から南豊島御料地(現在の渋谷区広尾)へ移転しました。

Birthplace of the Japanese Red Cross Society

The predecessor to the Japanese Red Cross Society was the Hakuaisha ("Benevolent Society") established by Sano Tsunetami, Ogyu Yuzuru, and Sakurai Tadaoki. to provide first-aid relief to both sides of the Satsuma Rebellion in 1877. At the time, the society was based at the Sakurai mansion in Fujimi cho 4-chome, Kojimachi Ward (current-day Fujimi 2-chome at this location). In 1886, Hakuaisha built a hospital and office on land borrowed from the Ministry of the Army at lidamachi 4-chome, Kojimachi Ward (current-day Iidabashi 3-chome). Following the Japanese Government's signing of the Geneva Convention, Hakuaisha changed its name to the Japanese Red Cross Society in 1887. Prince Komatsu Akihito was appointed Governor and Sano Tsunetami was appointed President. Soon after its establishment, the Japanese Red Cross Society became involved in widespread first-aid relief activities, primarily after the volcanic eruption of Mt. Bandai in Fukushima (1888), the wreck of the Turkish warship Ertugrul in Wakayama (1890), and the Nobi Earthquake in Aichi and Gifu (1891). The Japanese Red Cross Society Hospital was relocated from Iidamachi 4-chome to Imperial Estate land in Minamitoshima (current-day Hiroo, Shibuya City) in 1891.




ポイント14 「桜門」の異名をもつ 市ヶ谷門跡

市ヶ谷門は、寛永十三年(1636年)に、美作津山藩主森長継によって枡形石垣が築かれました。この見附は、麹町・番町辺りから市ヶ谷方面への出口として重要な位置を占めていましたが、明治四年(1871年)に門が撤去され、石垣も市電の敷設などで徐々に壊され、大正二年(1913年)には枡形石垣すべてが撤去され、現在は橋台石垣の一部を残すのみとなっています。この周辺の土塁は桜並木となり、市ヶ谷の門の別名「桜御門」の名残をとどめています。

市ヶ谷門跡

市ヶ谷門は、寛永十三年(1636年)に美作津山藩(現在の岡山県)藩主森長継によって築造されました。 門に付属する橋は、現在の五番町・九段北四丁目と新宿区の市谷田町・市谷八幡町を結んでいました。 明治四年(1871年)に、市ヶ谷門は枡形石垣と橋を残して撤去され、のち枡形石垣も撤去されました。ここにある石は、市ヶ谷門橋台の石垣の一部です。石に刻まれた刻印は、江戸時代初期に御手伝普請で石垣を築いた大名家や職人の印と考えられています。赤坂見附から牛込橋にいたる堀や土手の遺構は、昭和三十一年(1956年)3月26日に、江戸城外堀跡として国指定史跡になっています。

Ichigaya-mon Gate Remains

Ichigaya-mon Gate was constructed by Mori Nagatsugu, the feudal lord of the Mimasaka Tsuyama Domain (current-day Okayama Prefecture) in 1636. The bridge leading to the gate connected current-day Gobancho and Kudankita 4-chome with Ichigaya Tamachi and Ichigaya Hachimancho in Shinjuku City. In 1871, Ichigaya-mon Gate was demolished, leaving only its square-stone wall and the bridge. The square-stone wall was also subsequently demolished. The stone blocks here are some of the blocks from the stone walls for the abutment of Ichigaya-mon Gate Bridge. The inscriptions in the stone are thought to be at the hands of the daimyo and masons who built the stone wall in the early Edo Period under an order for "construction assistance" imposed by the shogunate. The remains of the embankment and moat stretching from Akasaka Mitsuke to Ushigomebashi Bridge were designated as a National Historic Site, Edo Castle Outer Moat Ruins, on March 26, 1956.




市ケ谷駅前交差点のひとつ手前から水道会館の横まで坂が上っています。坂の途中には日本棋院の本部ビルがあります。現在のビルは昭和四十六年(1971年)に建てられました。ちなみに、CS放送でお染みの囲碁・将棋チャンネルの本社は日本棋院ビルの地下にあります。本社の所在地が地下というのは珍しいですね。



九段南四丁目と五番町の境界の靖国通りから番町方面へ上る坂は帯坂と呼ばれています。帯坂は長さが約120mほどのやや急な階段で、別名を「切通坂」といいます。「番町皿屋敷」のお菊が髪をふり乱し、帯をひきずって逃げたという伝説に因んで名付けられました。番町皿屋敷とは、江戸時代に作られた怪談話です。舞台となるのは、江戸時代に番町にあった旗本の屋敷です。

この屋敷には十枚一揃えの皿があり、主である青山主膳はこの皿を大層大事にしていました。しかし、あるとき下女のお菊が揃え皿のうち1枚を誤って割ってしまいます。このことで青山主膳から厳しい折檻を受けたお菊は縄で縛られたまま屋敷にあった井戸に身を投げて命を絶ちました。その後、この井戸からは悲しそうな声で「1枚、2枚・・・」と皿を数える声が聞こえるようになりました。さらに、青山の妻が産んだ子には生まれつき中指がありませんでした。これを見た青山主膳は折檻の際にお菊の中指を切り落としたことを思い出しました。そうするうちに誰ともなくこの屋敷を「皿屋敷」と呼ぶようになり、事件の噂が広まりました。やがて一連の騒動は幕府の知る所となり、青山家は領地召し上げになりました。その後も皿数えの声が一向に止まないのを受けて読経を依頼されたのが文京小石川の傳通院の了誉上人でした。いつもの通り皿数えが始まったので、その声が「9枚。。。」と数えた後にすかさず上人が「10枚」と数えます。すると「あら、嬉しや。皿が揃った」という女性の声が聞こえ、それから皿を数える声はピタリと止んだのでした。

番町皿屋敷の「番町」とは、江戸時代にこの一帯にあった江戸城や要地の警護を担う「大番衆」の屋敷地の呼称です。屋敷地には一番町から六番町という区画が割り当てられ、これをまとめて番町と呼ぶようになりました。番町皿屋敷の主は、火付盗賊改方の青山主膳という人物です。火付盗賊改方とは、江戸時代に横行していた放火や強盗といった凶悪犯罪を取り締まるための役職です。青山は非常に厳しく、残虐な性格の持ち主でした。「10枚のうち1枚を割ったから」という理由でお菊の指を一本切り落としたのです。お菊は台所で水仕事を担当する下女で、青山が捕らえて死刑にした盗賊の娘だったといわれています。手打ちにするため監禁されたお菊は殺される恐怖に耐え切れず、縄で縛られたまま井戸に身を投げたのです。こうして毎夜井戸から皿を数える声が聞こえるようになったのです。

坂上に案内柱が立っています。

帯坂

江戸時代の有名な怪談「番町皿屋敷」に登場するお菊が、髪を振り乱して帯を引きずりながら通ったという伝説から名付けられたと言われますが、話の中ではお菊は殺害され井戸に投げ込まれているので、辻褄が合いません。別の説では、お菊ではなく「東海道四谷怪談」のお岩が通ったとも言われており、広く知られた怪談話に由来するという点では一致しています。また、寛永年間(1624年〜1643年)の外堀普請の後に、市ヶ谷御門へ抜ける道として造成されたため、切通し板の別名もあります。




三年坂は長さが約100mほどの緩やかな坂で、別名を「三念坂・三枝坂」といいます。現在は「三年坂」と呼ばれていますが、正しくは「三念坂」です。昔、この付近に三念寺というお寺があったことに因んで三念坂と名付けられました。坂上に案内柱が立っています。

三年坂

かつて、三念寺という寺院があったことから名付けられました。本来は三念寺坂であったと考えられますが、三年坂の通称が定着し現在に至っています。




五番町に入ります。千代田区の町名由来板が建っています。

千代田区町名由来版 五番町

江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に「大番組」と呼ばれる旗本たちを住まわせました。ここから、「番町」という地名が生まれました。江戸城外郭門のひとつである市谷御門(現・JR市ヶ谷駅付近)があったこの町は、旗本屋敷が整然と立ち並んでいたようです。明治時代にこの地に付けられた町名は土手三番町で、五番町と改称されたのは昭和十三年(1938年)のことです。江戸時代は城を守る人々が起居した番町ですが、明治期には華族や官吏が住む町へと移り変わっていきます。また、ほかの番町と同様、この界隈も文人たちに愛された町でした。フランスの風刺画家であったビゴーや、「婦系図」「歌行灯」などで有名な小説家の泉鏡花も、明治時代の一時期ですがこの町の住人でした。夏目漱石の門下生で、「山高帽子」「ノラや」などの作品で知られる小説家・内田百閧ヘ、昭和十二年(1937年)からの十年あまりをここ五番町で過ごしました。数多くの随筆で知られる百閧ヘ、「東京燒盡」のなかで、戦場ルポライターのような確かさで、空襲のさまを描写しています。彼の邸宅跡地には、現在、番町会館が建っています。また、昭和二十九年(1954年)に「驟雨」で芥川賞を受賞した小説家・吉行淳之介もこの五番町の住人でした。落ち着いた風情を色濃く残す五番町の趣は、こうした偉大な文人たちによって培われてきたものなのです。

Gobancho

The term bancho derives from the fact that the Shogun once had powerful retainers live in this area to act as guards (obangumi) for the western side of Edo Castle. Gopancho was once the site of Ichigaya Gomon, one of the castle's gates, which was located near the present JR Ichigaya Station.




その内田百閧フ旧居跡の案内板が立っています。

瓢と諷刺の名文家
内田百閨@旧居跡地

内田百閧ヘ、明治二十二年(1889年)岡山に生れた。本名、内田栄造。別号百鬼園。夏目漱石門下の異彩として、随筆に、幻想小説に、鉄道紀行に、独特の文学世界を繰り広げた。昭和十二年(1937年)、市ヶ谷仲之町から土手三番町三十七(現五番町十二)@に転居してきた。昭和二十年五月の東京大空襲により居宅を焼失したため、隣家の松木邸の掘立小屋Aに戦後も三年ほど住み続けた。昭和二十三年、六番町六に、いわゆる三畳御殿Bを新築し、昭和四十六年(1971年)四月に亡くなるまでの後半生を、この番町で過ごした。とくに昭和三十二年、愛猫のノラが失踪し、番町近辺を懸命に探索した様子を綴った随筆「ノラや」は、彼の韜晦な性格から醸し出す苦味とは別の人情味を知らしめた。
三十年目の生誕目に、旧居跡地付近に記念碑を設置する。




東京中華学校は、中華民国(台湾)系の中華学校で、法的には一条校ではなく、外国人学校(各種学校)です。小学部・中学部・高中部(高等部)があり、小中高一貫校となっています。在日華僑華人教育を主眼としていて、校庭には中華民国国旗の青天白日満地紅旗が掲揚され、国父孫文である肖像も掲げられています。卒業生には、歌手のジュディ・オングや料理人の陳建一がいます。



五番町から六番町に入ります。

千代田区町名由来板 六番町

江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に「大番組」と呼ばれる旗本たちを住まわせました。ここから、「番町」という地名が生まれました。現在の番町小学校が建っている場所には、かつて定火消(消防)の役屋敷があり、のちに上野小幡藩上屋敷となりました。四谷御門寄りの広い敷地には、尾張藩付家老成瀬隼人正の上屋敷がありました。明治以降は、下六番町という町名になり、昭和十三年(1938年)から現在の六番町になりました。明治から大正・昭和にかけては、数多くの文化人や高級官僚の住宅地として発展しました。「破戒」「天守物語」「夜明け前」の島崎藤村、「婦系図」の泉鏡花、アララギ派の歌人島木赤彦、「或る女」の有島武郎、「三田文学」で活躍した水上瀧太郎、「父帰る」の菊池寛、「多情仏心」の里見ク、「百鬼園随筆」の内田百閧ネど、多くの作家たちが居を構えました。また、印象派を紹介した画家で作家でもあった有島生馬、エコール・ド・パリで活躍した画家の藤田嗣治、歌舞伎俳優の初世中村吉右衛門、初世市川猿翁、二世中村又五郎、三世市川猿之助、長唄の吉住慈恭などの芸術家も六番町の住人でした。かつては日本の近代的女性を育んだ明治女学校、日本の歌壇の中心的存在であったアララギ出版所、菊池寛が創立した文藝春秋社もあり、白樺派の誕生にかかわった有島邸や若い作家たちが集った鏡花邸など、まさに六番町から、日本の近代文学や芸術が開花したといっても過言ではありません。

Rokubancho

This neighborhood was once inhabited by special samurai given the task of defending the western side of Edo Castle (obangumi), and the name "bancho" derives from this fact. The current name, Rokubancho, was first used in 1938.




雙葉中学校・高等学校は六番町に所在し、高等学校においては生徒を募集しない完全中高一貫校を提供する私立学校です。キリスト教系(カトリック)の女子校で、設置者は、幼きイエス会(英語版)(旧称サン・モール修道会)を母体とする学校法人雙葉学園です。



ポイント15 甲州道中を警固した 四谷見附跡

四ツ谷駅麹町口の向かいに石垣が残っています。四谷見附は、江戸城三十六見附と呼ばれた見附門(見張り役の番兵が駐在する城門)のひとつです。現在、都内の地名に「見附」として残っているのは、この四谷と赤坂のみです。現在の新宿通り(麹町大通り)は、半蔵門から四谷見附を経て甲州街道へ出る重要なルートに位置していました。この道筋は武蔵国の国府(府中)に通じる道でもあり、開府当時はまだ戦乱が続いていたので、いざという時に将軍が甲府へ逃れるという脱出路にもなっていた重要な城門として四谷御門とも呼ばれていました。門の普請は寛永十三年(1636年)に始まりました。普請を担当したのは長門萩藩主毛利秀就です。常勤の番士は3名で、羽織袴を着用して警備に当たっていました。明治になって道路の拡幅などから枡形を壊し、現在は新宿通りを挟んで、左右の石垣だけが残っているように見えます。しかし実際にはJR四谷駅麹町口の駅舎下にも石垣の一部が残されています。上智大学側の石垣も含めて、町作りの中で何度か改変・修理が行われてはいますが、江戸城外堀の門の姿を今に伝えています。



石垣に用いられた石材について解説してあります。

四谷門枡形石垣に用いられた石材

江戸城外堀は、堀や土塁を佐竹家や上杉家など東国大名が、石垣を毛利家、森家、蜂須賀家など西国大名が御手伝普請で分担し築かれました。この石材は、JR四ツ谷駅改修工事等で発掘された、四谷門石垣の角の部分を構成していた石です。江戸城の石垣石は小田原から真鶴半島を経て、伊豆半島東海岸と西海岸の沼津周辺の石丁(切)場で産出された安山岩で、石船で江戸城へ運ばれてきました。細川家では寛永十三年(1636年)の外堀普請で計13、452石が運び出されたと言われています。

Stones from Yotsuya-mon Gate's Stone Wall

In the case of Edo's Outer Moat, the construction of the moat and embankment were directed by influential eastern domains, such as the Satake and Uesugi Houses. In addition, the construction of its stone walls was directed by powerful western domanial lords, such as the Mori, Mori, and Hachisuka Houses. The stones displayed here were discovered during the reconstruction of JR Yotsuya Station. The rectangular, parallelepiped megalith was used as the wall's cornerstone and quadrangular stone was used to construct the portion of the stone wall. The stones, which were procured from quarries on the eastern and western coasts of the Izu Peninsula, were transported by ship from Odawara to the Manazuru Peninsula and then onward to Edo. When Edo Castle's Outer Moat was constructed in 1636, the Hosokawa Clan is said to have transported a total of 13,452 stone slabs to Edo.

四谷見附と周辺の地域

半蔵門から四谷口に至る甲州街道沿いには、麹町13町が連なっていましたが、外堀が築かれる際に麹町十一丁目から十三丁目は四谷門外(現新宿区側)に移転しました。甲州街道は、四谷門を出て西へ麹町十一丁目に入り、十二丁目の角を南に下りますが、この「大横丁」は江戸の西側で最も繁華な地域であったといわれています。明治六年(1873年)に、四谷門外土橋を通る玉川上水の掛樋修繕を行う時も、この土橋は東京の東西の大道で、馬車・人力車の通行のみならず、麹町・四谷近辺の住民の苦情もあって通行留めにすることはできず、仮橋を架橋することになったほど、交通量の多い道でした。明治二十七年(1894年)に四ツ谷駅が設けられると、道路を行き交う市電とともに地域の重要な交通結節点として発展を続けることとなります。

Yotsuya-mon Gate and the Surrounding Area

Initially, 13 urban neighborhoods in Edo's Kojimachi district lined the section of the Koshu Highway located between Hanzo-mon and Yotsuya-mon Gates. However, when the Outer Moat was constructed, three of those neighborhoods, Kojimachi 11-chome-Kojimachi 13-chome (present-day Shinjuku Ward) were relocated outside of Yotsuya-mon Gate. After exiting Yotsuya-mon Gate, the Koshu Highway entered the Kojimachi 11-chome neighborhood before turning south at the corner of the Kojimachi 12-chome neighborhood. The resulting side street was home to western Edo's busiest urban district. When a portion of the Tamagawa Aqueduct paralleling the earthen bridge outside Yotsuya-mon Gate was repaired in 1873, the authorities were unable to halt traffic on the bridge because it comprised a portion of Tokyo's busiest east-west-running thoroughfare, which was utilized by horse-carts and rickshaws. In addition, doing so provoked complaints from local residents in the Kojimachi and Yotsuya areas. There was so much traffic, in fact, that the authorities chose instead to install a contemporary bridge rather than temporarily close the route. With the construction of Yotsuya Station in 1894, the area continued its development as a vital local transport hub, where streetcars came and went.




石垣の上に生い茂るムクノキは江戸時代のものです。新宿通りに面したサンサン広場には、四谷門跡の案内板が立っています。

四谷門跡

四谷門、通称四谷見附は「江戸城三十六見附」の1つで、現在の麹町方面と四谷方面(新宿区)を結び、半蔵門を起点とする甲州街道の口でした。見附の枡形と石垣の建設は長門萩藩(現在の山口県)藩主毛利秀就に命じられ、寛永十三年(1636年)に建造されました。門は寛永十六年(1639年)に、旗本の室賀正俊と大岡正清によって構築されました。桝形と石垣の建設時は外麹町口と呼ばれていましたが、他に四谷口や山ノ手口とも呼ばれており、延宝年間(1673年〜1681年)頃には四谷門と呼ばれるようになりました。明治維新後、明治五年(1872年)に門が撤去され、桝形と石垣のみが残りましたが、明治三十二年(1899年)に桝形と石垣のほとんどが撤去されました。現在は見附北側の石垣が現存しており、南側の石垣はJR四ツ谷駅舎の下部に保存され、一部が露出した状態で保存されています。

Yotsuga-mon Gate Remains

Yotsuya-mon Gate, commonly known as "Yotsuya Mitsuke (outer gate)" was one of Edo Castle's 36 Outer Gates and was the entrance for the Koshu Highway, which started at Hanzo-mon Gate and connected the area around current-day Kojimachi with the Yotsuya area (Shinjuku City). Orders for construction of the mitsuke's stone walls and masugata (walled marshaling area between the inner and outer gates) were given to Mori Hidenari, the feudal lord of the Hagi Domain, Nagato Province (current-day Yamaguchi Prefecture), and they were built in 1636. The gate was built in 1639 by the shogunate vassals Muroga Masatoshi and Ooka Masakiyo. At the time the masugata and stone walls were constructed, the gate was called the Sotokojimachi-guchi ("outer Kojimachi entrance"), but it had also been called "Yotsuya-guchi" or "Yamanote-guchi", and it was from around 1673 to 1681 that it came to be known as Yotsuya-mon Gate. The gate was demolished in 1872, after the Meiji Restoration, leaving only the masugata and stone walls, but in 1899, they were almost completely torn down. Today some stone walls on the north side of the mitsuke remain and the south stone wall is preserved, partially exposed, in a lower part of the JR Yotsuya Station building.




四ツ谷駅の構内に、江戸城築城の資料が展示されています。

江戸城築城と外堀普請

四谷という地名は、武州豊島郡霞村関戸という原野に百姓家が四軒あったことに由来するといわれます。天正十八年(1590年)、江戸に入った徳川家康は、江戸城と街道を整備しました。慶長六年(1603年)に架けられた日本橋を起点とする五街道の一つ、甲州街道(現在の新宿通り)は、半蔵門から四谷門を通って武蔵府中に向かう幹線道です。江戸の出入口には、四谷大木戸が設置されました。寛永十三年(1636年)、江戸城外郭の四谷門と外堀の築造にあたって、半蔵門から四谷門に連なる麹町13町の内、十一丁目から十三丁目を四谷門外に、町や寺社も移転させられました。江戸城外堀の大部分は、谷地形や川を利用して造られ真田濠(現上智大学グラウンド)は、台地を深く掘削して造られました。掘りあげた土で、四谷門外東西の谷を埋め、四谷伝馬町・四谷塩町・伊賀町等の町場が形成されていきました。また、四谷門南の喰違門内外には、徳川御三家や譜代大名の屋敷が配置されました。

The Construction of Edo Castle and Its Outer Moat

The place name Yotsuya, literally four valleys, is said to derive from the four peasant households who first settled in the area (Musashi Province, Toshima County, Kasumi Village). After entering Edo in 1590, Shogun Tokugawa Ieyasu initiated the construction of Edo Castle and a network of five overland routes originating from central Edo's Nihon-bashi Bridge. One of the routes was known as the Koshu Highway (present-day Shinjuku Boulevard). Completed in 1603, the Koshu Highway departed from Hanzo-mon Gate and traveled west through Yotsuya-mon Gate towards Musashi Fuchu. During the Tokugawa era, Yotsuya-mon Gate served as one of the main entrances into the city of Edo. Initially, there were 13 commoner neighborhoods (Kojimachi 1-13-chome) located between the Hanzo-mon and Yotsuya-mon Gates. In 1636, however, the westernmost three neighborhoods (Kojimachi 11-13-chome, were relocated outside the gate in conjunction with additional construction on Yotsuya-mon Gate and Edo Castle's Outer Moat. At the same time, a group of Shinto shrines and Buddhist Temples were ordered to move to the area. Large sections of the Outer Moat were constructed utilizing the existing valley topography and local riverways. The construction of Sanada-bori Moat, however, which comprises the Outer Moat's southernmost section, required builders to bore deeply into the Yostuya Plateau. The east-to-west-running valley just outside Yostuya-mon Gate was then filled in using the earth removed from the Plateau and a series of commoner neighborhoods, including Yostuya's Tennmacho, Shiocho, and Igamachi, were constructed on the site. In addition, residential estates were constructed immediately to the south in the vicinity of Kuichigai Gate for the Tokugawa Clan's three houses and




四谷見附橋の袂の駅舎外壁に案内板が掛かっています。新宿通りに架けられた四谷見附橋は、近接する赤坂離宮とのデザイン的な調和を図り、橋自体も赤坂離宮に倣ってネオ・バロック様式の装飾を施して設計されました。明治四十四年(1911年)に着工し、大正二年(1913年)に竣工した都内最古の上路式アーチ橋でした。平成三年(1991年)に新宿通り(麹町大通り)の交通量が増加するに伴い、橋の拡幅工事による架け替えがされることになりました。歴史的な橋であることから、旧橋のイメージをできるだけ残す形での工事が実施されました。なお撤去されたかつての橋の躯体は、八王子市の多摩ニュータウン別所長池地区に移設されました。旧橋の意匠も復元され、平成五年(1993年)に新しい橋「長池見附橋」として再生されています。

四谷見附橋

初代四谷見附橋は大正二年(1913年)10月5日に開通しました。現在の四谷見附橋は二代目で、平成三年(1991年)に架け替えが行われました。初代四谷見附橋のデザインには、東宮御所(現在の迎賓館)の景観と調和するよう、豪華絢爛なネオバロック様式が取り入れられました。また、明治の中期から東京市街に架橋された 橋と同様に、都市の景観に調和するよう上路式(橋を支える構造体が道路面より下に設けられる橋梁形式)が採用されています。なお、この設計にあたっては、構造設計と装飾設計が行われ、当時の東京市役所の土木技師と建築技師の協働で作られました。橋梁設計に建築家が参加した例は、皇居の正門橋や日本橋などがあり、大正期から震災前まで続きました。現在の二代目の四谷見附橋の設計は、初代のデザインを意識し、高欄と照明の一部、袖高欄の花台が再利用され、盾や雷模様を用いた装飾が施されました。高欄は三種の神器のほか、イオニア柱と花綱をモチーフとしており、現在でも迎賓館の門扉などと共通性を見出すことができます。なお、初代の四谷見附橋は多摩ニュータウン(東京都八王子市)の長池公園に復元され、アーチ部材が再利用されたほか、竣工当時の色や装飾が再現されています。

Yotsuya-mitsuke-bashi Bridge

The original Yotsuya-mitsuke-bashi Bridge was completed on October 5, 1913. The current version, however, is a second-generation model, which was constructed in 1991. In order to ensure that the Bridge's design conformed with that of nearby Togu Palace (the present-day State Guest House), it was constructed in resplendent Neo-Baroque style. In addition, like the urban rail bridges built in Tokyo from the mid-Meiji period, it was constructed using raised deck slabs supported by cross girders to ensure that it conformed with the surrounding urban landscape. Furthermore, when planning the Bridge, civil and architectural engineers from Tokyo City Hall's aided in the composition of structural and ornamental designs. From the Taisho period to the 1923 Great Kanto Earthquake, architectural engineers continued to provide expertise during major infrastructure projects, including the construction of the steel bridge serving the Imperial Palace's Main Gate and central Tokyo's Nihon Bridge. When planning the current version of Yotsuya-mitsuke-bashi Bridge, engineers were careful to formulate a design that incorporated ornamentation from the original version. In addition to reusing some of the bridge railing and lights, engineers utilized the original balustrade pedestals and a motif that blended images of thunder and shields. Furthermore, the bridge railing's motif blended images of the three sacred Shinto treasures, lonic columns, and chaplets. Even today, visitors can observe similar features on the State Guest House's gates. A replica of the original version of Yotsuya-mitsuke-bashi Bridge can be found on the grounds of Nagaike Park in Tama Newtown (Tokyo's Hachioji City). When constructing the replica, engineers reused sections of the Bridge's arches and were careful to recreate the original color and decorations.




ポイント16 尾張徳川家の世嗣や隠居の住まい 尾張名古屋藩屋敷跡

四ツ谷駅前交差点からソフィア通りに入ります。上智大学13号館の前の植え込みに石碑があります。現在の上智大学がある一帯は、徳川御三家のひとつ、尾張藩徳川家の中屋敷でした。徳川家康九男義直を藩祖とする尾張徳川家は、寛永十四年(1637年)にこの屋敷を拝領し、幕末まで世嗣や隠居の住まいなどとして使用しました。

尾張名古屋藩徳川家屋敷跡

この一帯には、江戸時代に尾張名古屋藩徳川家の麹町邸がありました。寛永十四年(1637年)に拝領してから、藩主や世嗣が一時的に居住するなど様々な使われ方をしました。尾張徳川家は、徳川家康の九男義直に始まる家で、紀伊家(十男頼宣)、水戸家(十一男頼房)と共に、御三家と称され、義直が年長で知行高も多かったため、御三家筆頭となり大名の最高位に位置しました。義直は、慶長八年(1603年)甲斐府中藩主、ついで慶長十二年(1607年)尾張清洲藩主を経て、後に名古屋藩主となり、尾張一国と木曽の山林を領地としました。尾張徳川家は以後、加増を重ねた結果、石高はほぼ61万9500石となり、16代にわたって明治維新まで続きました。明治五年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。

Site of the Owari-Nagoya domain Tokugawa family mansion

This is the site of the Kojimachi mansion built by Yoshinao, the ninth son of the Shogun Tokugawa Ieyasu. The shogun's tenth and eleventh sons, Yorinobu and Yorifusa, along with Yoshinao, were appointed as “daimyo", feudal lords. They were part of the "Gosan-ke" which gave them the right to potentially become the shogun. Yoshinao's family was called the Owari-Tokugawa. After the Meiji Restoration (1872) this district became known as Kioi-cho, after the first initials of the Kii-Tokugawa, Owari-Tokugawa and li families.




ポイント17 外郭門で唯一の土塁門 喰違見附跡

江戸城喰違見附跡は、江戸城外濠の中で最も高い場所にあり、四谷見附と赤坂見附の間に位置しています。慶長十七年(1612年)、小幡景憲によって造られた、虎口構造の見附です。その後寛永十三年(1636年)に讃岐国丸亀藩主の生駒高俊によって再整備されました。高台に位置することから、江戸城の西側の防衛において重要な役割を持っていたと思われます。土塁の南側には案内板があるそうですが、見逃しました。

国史跡 江戸城外郭跡 喰違見附

左手の喰違見附跡は、江戸時代初期の慶長十七年(1612年)に甲州流兵学者の小幡景憲によって縄張りされたと伝わる、江戸城外郭門のひとつです。通常江戸城の城門は枡形門と呼ばれる石垣を巡らしたものとなりますが、ここは土塁を前後に延ばして直進を阻むという、戦国期以来の古い形態の虎口(城の出入口)構造となります。この地域は、二つの谷に挟まれた、江戸城外堀の中では最も高い地形に立地するため、寛永十三年(1636年)築造の江戸城外郭門に先駆けて、江戸城防御の要として構築されたと考えられます。現在は一部土塁が削り取られているものの、その形状は保存されており、往時の様子を留めています。この遺構は江戸城築城史を捉える意味で重要です。




ポイント18 4万平米の日本庭園は健在 近江彦根藩井伊家屋敷跡

ホテルニューオータニのある一帯は、江戸時代には彦根藩井伊家の屋敷でした。上屋敷は現在の憲政記念館辺りにあり、ここは中屋敷として用いられていました。ホテルニューオータニ内に現在も残る池泉回遊式の日本庭園は、400余年の歴史を誇る名園のひとつです。

近江彦根藩井伊家屋敷跡

この地には、江戸時代に近江彦根藩井伊家の麹町邸があり、井伊家は外桜田にあった永田町邸 (国会前庭一帯)を上屋敷として使用していましたので、ここは中屋敷として使われました。井伊家は、武勇の誉れが高い家柄で、藩祖直政は、関ヶ原の戦いで徳川家康の軍奉行として活躍しました。慶長五年(1600年)近江佐和山に18万石で封ぜられ、慶長九年(1604年)直政の子直勝の時代に彦根藩主となり近江国等を領地とし、以後、16代にわたって明治維新まで続きました。石高はほぼ35万石でした。井伊家は、譜代大名の筆頭であり、大老職に任じられる名家でもありました。幕末に幕政を動かした井伊直弼は、特に有名です。明治五年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。

Site of the Omi-Hikone-li domain family mansion

This is the site of the Kojimachi mansion of the li family. The mansion stood here through most of the Edo period (1603-1867). Ii family members were top "fudai" hereditary vassals. Ii Naosuke was a famous chief minister of the shogun in the final days of the Tokugawa Shogunate. After the Meiji Restoration (1872) this district became known as Kioi-cho, after the first initials of the Kii-Tokugawa, Owari-Tokugawa and li families.




喰違見附跡から長い坂が下っています。



紀尾井坂は長さが約160mほどのやや急な坂で、江戸時代に、紀井家・尾張家・井伊家の三家の邸宅が隣接していたために紀尾井町の町名となり、坂名にもなりました。坂の中ほど近くに案内柱が立っています。

紀尾井坂

坂上の喰違(江戸城防衛のために設けられた屈曲した道筋と土手)と、清水谷を結ぶ坂道です。江戸時代、この坂の両側に、紀伊徳川家、尾張徳川家、井伊家の屋敷があったことから、一文字ずつ取って名付けられました。また、坂下に清水谷があるため清水谷坂とも呼ばれていました。明治七年(1874年)に発生した岩倉具視襲撃事件(喰違の変)の現場としても知られています。




紀尾井坂の右手には広大な敷地のホテルニューオータニが聳えています。昭和四十九年(1964年)に開催された東京オリンピックを2年後に控えた昭和三十七年(1962年)、オリンピック委員会と政府は外国人来訪を約3万人と予想して受入れ施設の確保を計画し財界に打診しました。その結果、大谷重工業社長の大谷米太郎がホテル建設に着手することになりました。ホテルの場所は、大名屋敷や旧伏見宮邸の跡地だった千代田区紀尾井町の約2万坪の大谷氏の私有地でした。工事の施工会社は大成建設で、昭和三十八年(1963年)4月1日に着工しました。着工時に設計が全て終わっていたわけではなく、設計図を書きながら並行して建設していくという突貫工事が行われました。これにより、僅か1年4ケ月後の昭和三十九年(1964年)8月31日に竣工を迎えました。ホテル本館が開業したのはオリンピック開催の1ケ月前の9月1日のことでした。地上17階・延べ床面積84411u・客室数1085室のホテルを1年半で建設するためにユニットバスや高性能カーテンウォールなど当時の最新の合理化工法や、当時最高層の17階建てのビルであったため、後年に超高層ビルの基本となる柔構造理論設計を採用しました。シンボルともいえる最上階の回転ラウンジは直径45mで東洋一と謳われ、長らくブルースカイラウンジの名で親しまれ、東京タワーなどと並ぶ東京の名所となりました。このラウンジの回転機構には、戦艦大和の主砲塔を回転する技術を継承する尼崎製鉄(現神戸製鋼所)呉作業所で見つけ出した特殊な軸受が使用されています。ただ、ラウンジの回転は平成三十年(2018年)3月に安全上の理由により停止されました。



紀尾井坂下から清水台に向かって緩やかな坂が下っています。清水谷坂は長さが約190mほどの左右に曲がりながら下る緩やかな坂で、別名を「シダニ坂・シタン坂」といいます。この一帯は清水谷と呼ばれる地名だったため、それが坂名になりました。

清水谷

江戸時代、この地にあった尾張徳川家の表門から南北に下る道筋を清水谷といいます。清水谷から喰違見附へと登る坂道が紀尾井坂です。




「清水谷公園」は、広さ約一万平方メートルを超える広々とした敷地を誇り、園内には季節の樹木が植えられているだけでなく、心字池や憩いの広場、それに高さ6.27mの大久保利通哀悼碑が建てられています。江戸時代、この地には紀州徳川家・尾張徳川家・井伊家の屋敷があり、紀州徳川家と井伊家の境からは清水が湧き出していたため、この一帯は清水谷と呼ばれていました。この清水を人工的に復元したのが現在の「清水谷公園」にある心字池です。明治二十三年(1890年)にこの一帯の土地が東京市に寄贈され、都市計画の一環で「清水谷公園」として開園しました。そして昭和三十一年(1956年)に一度都立公園となった後、昭和四十年(1965年)に千代田区に移管されて現在に至ります。ちなみに、「清水谷公園」のある井伊家屋敷跡には「ホテルニューオータニ東京」が建ち、紀州徳川家屋敷跡には「東京ガーデンテラス紀尾井町」、また尾張徳川家跡地には上智大学のキャンパスが建っています。この清水谷公園は四季折々の景色を望められるのも特徴です。春には、園内に植えられた染井吉野やしだれ桜が花を咲かせ、公園に面した八重桜の並木道が辺りを桃色に染め上げます。また、秋になると紅葉や銀杏が色とりどりに色づき始め、季節の移ろいを感じられます。

清水谷公園

清水谷公園のあるこの辺りは、江戸時代の紀伊家、井伊家の屋敷境にあり、この境が谷であったことと、紀伊家屋敷内に霊水(清水)が湧き出ていたことから、清水谷と呼ばれていました。「清水谷公園」の名は、この地名から名付けられました。清水谷公園は麹町区清水谷の景勝地に建てられていた大久保利通遭難記念敷地一帯が、同碑建設発起人から寄贈されたのを受け、東京市が、明治二十二年5月、都市計画決定し、明治二十三年3月に開園しました。開園された当時は、自然の地形を残した背景と、藤、桜、松、楓などの四季折々の風情があり、花見の時期は賑わったようです。現在の公園も緑豊かな木々があり、中央には、大久保公の追悼碑が配置され、この公園の歴史の尊さを感じさせるものになっています。園内には、江戸時代の水道に使われていた玉川上水石桝が展示され、水にゆかりの深いところだったことを証明しています。自然を色濃く残した清水谷公園は、周辺の業務・商業施設の安らぎの場として、また、緑豊かな都会のオアシスとして貴重なオープンスペースとなっています。




井戸の跡のような石造物があります。これが心字池の源泉なのでしょうか?

清水谷

江戸時代、この地域には紀州徳川家、尾張徳川家、井伊家の屋敷があり、その頭文字から紀尾井町と呼ばれています。清水谷の名は、井伊家と紀州徳川家の屋敷境の谷筋から清水が湧き出ていたことに由来します。明治十一年(1878年)、清水谷付近で大久保利通が暗殺され、この地に「贈右大臣大久保公哀悼碑」(千代田区指定文化財)が建てられました。清水谷公園は東京市によって整備され明治二十三年(1890年)に開園しました。昭和四十年(1965年)に千代田区に移管されています。公園内には、大久保公哀悼碑の他に、江戸の水道施設である玉川上水の石枡(麹町三丁目2番地先出土)が展示されています。

Shimizu-dani (Shimizu Valley)

In the Edo Period it was called Kioicho, which takes the initial character from each of the names of 3 clans whose residences were in this neighborhood: The Kishutokugawa clan, the Owaritokugawa clan, and the li clan. The name "Shimizu-dani" comes from the fact that spring water flowed along the valley at the boundary between the Kishutokugawa and li clans' residences. Following the assassination of Okubo Toshimichi in 1878 near Shimizu-dani, the Memorial Monument for Sir Okubo Udaijin (Minister of the Right, Posthumously Conferred) (Chiyoda City Cultural Property) was erected nearby. Established by Tokyo City, Shimizu-dani Park opened in 1890. Control of the park was transferred to Chiyoda City in 1965. Visitors to the park can see the Okubo Memorial Monument as well as the Tamagawa Aqueduct Stone Blocks (unearthed near 2 Kojimachi 3-chome), part of Edo's waterworks.




明治維新後の明治十一年(1878年)、維新元勲三傑の一人の大久保利通が赤坂仮皇居へ出仕する途中にの清水谷で石川県の士族である島田一郎らの手により大久保利通が暗殺される「紀尾井坂の変」が勃発しました。この事件は当時世に衝撃を与え、後の「清水谷公園」となった暗殺現場に大久保利通哀悼碑が建てられました。

千代田区指定文化財
贈右大臣大久保公哀悼碑

明治十一年(1878年)に暗殺された大久保利通をしのんで明治二十一年(1888年)5月に建立された碑です。大久保利通(1830年〜1878年)は薩摩藩(現在の鹿児島県)出身の政治家で、明治維新後は版籍奉還や廃藩置県などを主導し、初代内務卿に就任しました。西南戦争の終結後、一部の士族らが大久保の政策に反発し、1878年5月14日朝、麹町清水谷において、赤坂仮皇居内の太政官へ出仕する途中の馬車を襲い暗殺しました。この事件は「紀尾井坂の変」と呼ばれています。湧水があったことから清水谷と呼ばれるこの周辺は、明治二十三年(1890年)に東京市によって整備され清水谷公園となりました。

Chiyoda City Designated Cultural Property
Memorial stone of Okubo Toshimichi

This memorial stone was erected in May 1888 in memory of Okubo Toshimichi, who was assassinated in 1878. Okubo Toshimichi (1830-1878) was a politician from Satsuma Han (now Kagoshima Prefecture). After the Meiji Restoration, he led the return of the lands and people from the feudal domains (han) to the Emperor, and abolition of feudal domains, and the establishment of prefectures, He took office as the first Minister of Home Affairs. After the Satsuma Rebellion (1877), certain samurai families rebelled against Okubo's policies. They attacked his carriage on the morning of May 14, 1878 in Shimizudani in Kojimachi when he was on the way to a Dajo-kan (Great Council of State) in the Akasaka Temporary Palace, and assassinated him. This is known as the "Kioizaka Incident." The surrounding area was known as Shimizudani ("clear water valley") due to the spring there, and in 1890 it was developed by the City of Tokyo, and became Shimizudani Park.




哀悼碑と背面の碑文について解説した案内板が建っています。

「贈右大臣大久保公哀悼碑」

明治十一年(1878年)五月十四日朝、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿大久保利通が暗殺されました。現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保の暗殺は、一般に「紀尾井坂の変」と呼ばれ、人々に衝撃を与えました。また、大久保の同僚であった明治政府の官僚たち(西村捨三・金井之恭・奈良原繁ら)の間からは、彼の遺徳をしのび、業績を称える石碑を建設しようとの動きが生じ、暗殺現場の周辺であるこの地に、明治二十一年(1888年)五月「贈右大臣大久保公哀悼碑」が完成しました。「哀悼碑」の高さは、台座の部分も含めると6.27メートルにもなります。石碑の材質は緑泥片岩、台座の材質は、硬砂岩と思われます。「贈右大臣大久保公哀悼碑」は、大久保利通暗殺事件という衝撃的な日本近代史の一断面を後世に伝えつつ、そしてこの碑に関係した明治の人々の痕跡を残しつつ、この地に佇んでいます。

大久保公記念碑の裏面碑文の内容説明

ここは、大久保利通公が命を落とされた場所です。大久保公は天下の重大事に身を投じ天皇陛下の信頼を得て重きをなした元勲です。突然の暗殺という悲運に会い命を落としました。昔から忠臣や烈士といわれる人々が犠牲の死に会うのは悲しいことですが、乱世や騒乱の常です。大久保公は明治維新の功績で名を挙げ、国がこれから栄え平和を迎える時に、この災いに会ったのです。大久保公の死は、都の人達は勿論のこと天皇陛下も深く悲しまれました。大久保公を知る人で、悲しまない人はありませんでした。大久保公の悲しい凶変から七年の年月が流れましたが、この地を通る人々は、今でも嘆き悲しみ頭を垂れて行きつ戻りつ立ち去ろうとしません。ここに、仕事で働く仲間達が皆で相談して、碑を建て大久保利通公への哀悼の意を示すことにしました。




玉川上水の遺構が展示されています。

千代田区指定文化財
玉川上水の石枡(麹町三丁目2番地先出土)

この石枠は昭和四十五年(1970年)に国道20号線(麹町大通り)の共同溝拡幅工事の際に麹町三丁目2番地先で発見された玉川上水施設の一部です。玉川上水は、四代将軍徳川家綱の命で承応二年(1653年)に着工し、翌年に竣工したと伝えられています。取水地は羽村の多摩川上流で、四谷大木戸に至る約43kmを開渠で導水し、江戸市中へは石樋や木樋による暗渠で配水していました。この石枠は江戸市中における本管の一部で、地中深く4段に積んだ大規模な構造を持っていました。1段目と2段目にまたがる部分に木樋の挿入口があります。石枡とともに出土した木樋は千代田区立日比谷図書文化館で展示されています。

Chiyoda City Designated Cultural Property
Tamagawa Aqueduct Stone Blocks (Archeological Excavation near 2 Kojimachi 3-chome)

These stone blocks are part of the Tamagawa Aqueduct structure unearthed near 2 Kojimachi 3-chome in 1970 during work to widen a utility tunnel along National Route 20 (Kojimachi Odori). Construction of the Tamagawa Aqueduct is reported to have begun in 1653 on the order of the 4th Tokugawa Shogun, Ietsuna, and to have been completed the following year. The aqueduct intake was in Hamura, in the upper reaches of the Tamagawa River, and carried water along an open conduit about 43 km to the Yotsuya Okido before being distributed to Edo City along covered stone or wooden conduits. These stone blocks formed part of the main aqueduct in Edo City, a large-scale structure formed underground 4 levels-deep. The insertion point for the wooden conduit is between the 1st and 2nd levels. Wooden conduit unearthed along with the stone blocks is on display at the Hibiya Library and Museum, a branch of the Chiyoda Public Library.




紀尾井町の案内板が建っています。

千代田区町名由来版 紀尾井町

江戸時代の初期から、この界隈には大名屋敷が置かれていました。安政三年(1856年)の絵図にも見られるとおり、紀伊和歌山藩徳川家中屋敷、尾張名古屋藩徳川家中屋敷、近江彦根藩井伊家中屋敷がありました。紀尾井町の名前は、紀伊徳川・尾張徳川、彦根井伊の三家よりそれぞれ一字ずつ取って名付けられたものです。また、紀尾井坂より南、弁慶橋あたりまでの低地は、清水がわき出ることから「清水谷」と呼ばれていました。これらの大名屋敷は、明治五年(1872年)、新たに麹町紀尾井町に生まれ変わり、明治十一年(1878年)麹町区に所属します。明治以降の紀尾井町は、政府用地、北白川宮邸(のちの李王邸、現・赤坂プリンスクラシックハウス[旧・赤坂プリンスホテル])や伏見宮邸(現・ホテルニューオータニ)、行政裁判所(現・城西大学)、尾張徳川邸(現・上智大学)などになりました。明治七年(1874年)、赤坂喰違付近で岩倉具視が襲われ、同十一年(1878年)には清水谷前の道で、時の内務卿大久保利通が暗殺されました。事件後、現場近くの地に大久保利通の哀悼碑が設置され、のちに整備されて清水谷公園となりました。明治四十四年(1911年)、町名変更により紀尾井町と改め、昭和九年(1934年)、区画整理により北側の一部が麹町五丁目、麹町六丁目に編入されました。江戸時代は大名の、昭和初期までは宮家の閑静な邸宅地であった紀尾井町は、現在、高級ホテルやオフィスビルが立ち並び、皇居、政治の中心地である永田町、外国使臣を迎える迎賓館などに囲まれ、都心の中の憩いの場を提供しています。

Kioicho

This town was once inhabited by powerful daimyo families. The name was taken from a combination of three of these * family names. In the Meiji Period, it became government land and was the site of palaces inhabited by the Imperial Family as well as a courthouse and Sophia University.




紀尾井町福田家は、昭和十四年(1939年)に先代の福田マチが北大路魯山人に指導を受けながら、味・接待を含む幅広く五感を満足させる「もてなし」を追及し、旅館料亭として開業したのが始まりです。当時は川端康成・湯川秀樹・イサムノグチら文化人が定宿としていました。昭和二十年に現在の紀尾井町へ移築し、昭和四十四年には別館「ふくでん」を開業しました。平成七年に料亭として時代に相応しい大改装を施し、北大路魯山人の「美」と「味」の調和を大切にしながら、伝統的な懐石料理を提供しています。



ポイント19 2人の将軍が育った屋敷 紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡

弁慶橋の入口の横に石碑が建っています。

紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡

この一帯には、江戸時代に紀伊和歌山藩徳川家の麹町邸がありました。明暦三年(1657年)の大火の後、この地を拝領しました。紀伊徳川家は、徳川家康の十男頼宣に始まる家で、尾張家(九男義直)、水戸家(十一男頼房)と共に御三家と称されました。頼宣は、慶長八年(1603年)常陸水戸藩主、ついで慶長十四年(1609年)駿河府中藩主を経て、元和五年(1619年)に紀伊和歌山藩主となり、紀伊国と伊勢国の一部を領地としました。紀伊徳川家は、以後、14代にわたって明治維新まで続きましたが、その中で、八代将軍吉宗と十四代将軍家茂は、藩主から将軍の座についています。石高は、ほぼ55万5000石でした。明治五年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて「紀尾井町」という町名になりました。

Site of the Kii-Wakayama domain Tokugawa family mansion

This is the site of the Kojimachi mansion built by Yorinobu, the tenth son of the Shogun Tokugawa Ieyasu. The shogun's ninth and eleventh sons, Yoshinao and Yorifusa, along with Yorinobu were appointed as "daimyo", feudal lords. They were part of the "Gosan-ke" which gave them the right to potentially become the shogun. Yorinobu's family was called the Kii-Tokugawa. After the Meiji Restoration (1872) this district become known as Kioi-cho, after the first initials the Kii-Tokugawa, Owari-Tokugawa and Ii families.




弁慶濠沿いに広がる東京ガーデンテラス紀尾井町一帯は、徳川御三家のひとつ紀伊徳川家の上屋敷でした。初代藩主は、徳川家康の十男頼宣。八代将軍吉宗、十四代将軍家茂を出しました。現敷地内にも、屋敷の石組遺構の一部が移築されています。東京ガーデンテラス紀尾井町は、西武グループの大型複合商業施設です。「赤プリ」の愛称で親しまれたグランドプリンスホテル赤坂(旧称:赤坂プリンスホテル)の跡地の再開発事業によって計画された「豊かな自然と歴史に抱かれた国際色豊な街」に相応しい街づくりをコンセプトに、プリンスホテルの最上位ブランドである「ザ・プリンスギャラリー 東京紀尾井町」、オフィス・商業施設からなる「紀尾井タワー」と、全室賃貸マンションの「紀尾井レジデンス」、旧李王家東京邸(旧グランドプリンスホテル赤坂旧館)を移設した「赤坂プリンス クラシックハウス」によって構成されている複合型施設です。



弁慶濠に架けられた弁慶橋は武蔵坊弁慶が渡った橋ではありません。橋を建造した人の名前をとって橋名としました。

弁慶橋

この橋は、神田の鍛冶町から岩本町付近を流れていた藍染川にあった同名の橋の廃材を用いて明治二十二年(1889年)に新たに架けたものです。名称は、橋を建造した弁慶小左衛門の名に由来します。この橋にあった擬宝珠は、筋違橋・日本橋・一ツ橋・神田橋・浅草橋から集めたものでした。当時は和風の美しい橋であったため、弁慶濠沿いの桜とともに明治・大正期の東京の名所となっていました。昭和二年(1927年)に架け替えられ、現在の橋は昭和六十年(1985年)に改架したコンクリート橋です。緩やかなアーチの木橋風の橋で、擬宝珠や高欄など細部に当初の橋の意匠を継承しています。

Benkeibashi Bridge

This bridge was newly built in 1889, using the scrap material from a bridge of the same name across the Aizome River, which ran from Kajicho in Kanda to a neighborhood in Iwamotocho. The name is derived from the name of the builder of the bridge, Benkei Kozaemon. The giboshi (bulbous ornaments used on the handrails of bridges) on this bridge were gathered from Sujikaibashi Bridge, Nihombashi Bridge, Hitotsubashi Bridge, Kandabashi Bridge, and Asakusabashi Bridge. At the time, this was a beautiful Japanese-style bridge, and consequently it became a well-known spot in Tokyo during the Meiji (1868-1912) and Taisho Periods (1912-1926), together with the cherry blossoms along the Benkeibori Moat. It was rebuilt in 1927, and the current bridge was reconstructed as a concrete bridge in 1985. It has a gentle arch in the style of a wooden bridge, with details of the design, such as the giboshi and handrails, inherited from the original bridge.




明治時代の弁慶橋の風景です。



「弁慶濠」は紀尾井町の東側から南側に水をたたえている江戸時代の外濠です。春には桜が咲き、お花見スポットとしても人気があります。また、港区がめざす自然環境のシンボル「カワセミ」に出会えることもあります



赤坂見附交差点から都道府県会館前付近まで坂が上っています。富士見坂は長さが約210mほどの緩やかな坂で、別名を水坂といいます。上空を首都高速道路都心環状線(C1)が通っています。かっては坂上から西側の地平線が見渡せ、富士山がよく見えたことから坂名が付けられたと思われます。この辺りには江戸時代に雲州松江藩松平出羽の屋敷がありました。別名の「水坂」は、松平家が赤坂御門御水番役であったことに由来しています。



ポイント20 大山参詣者でにぎわった 赤坂見附跡

富士見坂の中ほどに赤坂見附跡の石垣が残されています。赤坂見附は、江戸城から相模大山方面に通ずる大山街道(矢倉沢往還)に建てられた門で、溜池を見下ろす高台上に右折枡形門として築かれ、門前の橋はありませんでした。寛永十三年(1636年)に筑前福岡藩主黒田忠之によって石塁が築かれ、寛永十六年に櫓や門が築かれました。

赤坂門跡

赤坂門は寛永十三年(1636年)に、筑前福岡藩(現在の福岡県)の藩主である黒田忠之により築造されました。門の名称は、外側の赤坂を監視することから名づけられました。この門は脇往還のひとつ矢倉沢往還(大山街道)の出発点となっており、大山阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)や大雄山最乗寺(神奈川県南足柄市)を参詣する江戸の人々で賑わいました。櫓などの建築部分は明治四年(1871年)に撤去され、石垣も明治三十年代に撤去されました。赤坂見附から牛込橋にいたる堀や土手の遺構は、昭和三十一年(1956年)3月26日に、江戸城外堀跡として国指定史跡に、文化財指定されています。

Akasaka-mon Gate Remains

Akasaka-mon Gate was constructed by Kuroda Tadayuki, the feudal lord of the Fukuoka Domain, Chikuzen Province (current-day Fukuoka Prefecture) in 1636. The gate is so named because it kept watch over Akasaka (Red Hill) outside Edo Castle. This gate was the starting point for the Yakurazawa Highway (Oyama Highway), one of the Waki-okan (connecting highways), and thronged with visitors from Edo to Oyama Afuri Shrine (Isehara City, Kanagawa Prefecture) and Daiyuzan Saijoji Temple Minamiashigara City, Kanagawa Prefecture). The towers and other structures were demolished in 1871, and the stone walls were also demolished in the period from the late 1890s until around 1906. The remains of the embankment and moat stretching from Akasaka Mitsuke to Ushigomebashi Bridge were designated as a cultural property and as a National Historic Site, Edo Castle Outer Moat Ruins, on March 26, 1956.




もうひとつの案内板があります。

史跡 江戸城外堀跡 赤坂御門

正面にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の一部で、この周辺は「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されています。江戸城の門は、敵の進入を発見する施設であるため「見附」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっています。赤坂御門はその面影をほとんど残していませんが、現在でも旧江戸城の田安門や桜田門には同じ形式の門をみることができます。赤坂御門は、寛永十三年(1636年)に筑前福岡藩主黒田忠之により、この枡形石垣が造られ、同十六年(1639年)には御門普請奉行の加藤正直・小川安則によって門が完成しました。江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました。明治時代以降、門が撤廃され、その石垣も図のように大部分が撤去されましたが、平成三年の地下鉄南北線建設工事に伴う発掘調査によって地中の石垣が発見されました。現在、右手の石垣の下には、発掘調査によって発見された石垣が現状保存されています。




富士見坂上には、かって黒田清輝が居住していました。

明治三十三年(1900年)
黒田清輝ここに住む

重要文化財の「湖畔」や「智・感・情」などの作品を描いた明治・大正期の洋画家。この年、これらの絵画をパリ万博に出品し、銀賞を受賞した。

Mark of the former house of Kuroda Seiki

He was a member of the Western Style Movement during the Meiji and Taisho Eras, and his paintings “湖畔" (Lakeside) and “智・感・情” (Wisdom, Impression, Sentiment) are considered as important works of the Japanese culture. By this time he received the Second Prize of the Paris World Fair Paintings Exhibition (1900).




平河町交差点で青山通りを渡って、富士見坂の反対側に出ます。参議院議長公邸の裏門の前に坂道が下っています。



三べ坂は長さが約230mほどのやや急な下り坂で、別名を「三辺坂・水坂」といいます。江戸時代に、岡部(筑前守)・阿部(摂津守)・渡辺(丹後守)の三つの“べ”の付く屋敷が連なっていたことが坂名の由来になっています。

三べ坂

江戸時代、この板の付近に岡部筑前守、安部摂津守、渡辺丹後守の屋敷があり、いずれにも苗字に「べ」が付くということから「三ベ坂」と名付けられました。坂の上の西側には赤坂門の水番役を務めていた松平出羽守の屋敷があったため、水坂とも呼ばれていました。




松平家の屋敷は明治になって公用地となり、華族女学校が設立されました。衆議院議長公邸の壁に「東京女学館発祥の地」のレリーフが埋め込まれています。

東京女学館発祥の地

東京女学館は、明治二十年この地(旧松平出羽守邸、俗に雲州屋敷、のち閑院宮邸)を皇室より貸与され、翌ニ十一年開校した。その后、麹町三年町(旧工部大学校)に移り、「虎ノ門女学館」と称せられた。大正十二年関東大震災のため焼失したので渋谷御料地に移り、女子の一貫教育の場として今日に至っている。こゝに、往古を偲び、将来の弥栄を祈り、創立百周年を記念して碑を掲げる。




赤坂見附交差点に面して、翼を広げたような優雅な曲線を描いた赤坂エクセルホテル東急が建っています。昭和四十四年(1969年)9月13日に「赤坂東急ホテル」として赤坂見附の外堀通り沿いに開業し、東急ホテルズのブランド再編成に伴い、令和四年(2002年)4月1日に「赤坂エクセルホテル東急」と改称しました。入居する建物の賃借契約の終了により、令和五年(2023年)8月31日のチェックアウト・朝食をもって営業を終了し、53年間の歴史に幕を下ろしました。



2022年4月に訪れた時は、歩道橋の下辺りにあるため気が付きにくいのですが、東急プラザの1階に日本で唯一のスモーガスボード専門のスウェーデン料理店「ストックホルム」がありました。スモーガスボードとは、スウェーデン料理のブッフェスタイルの日本でいう「バイキング」の元祖とのことです。ニシン・冷たい魚・冷たい肉・サラダ・温かい料理・チーズ・デザートなど、60種類以上の料理の中から好きなものを好きなだけ食べられるスウェーデンの伝統的な食事スタイルです。本格的で種類豊富なお料理を好きなだけ食べられるので、北欧料理初挑戦の方におすすめです。私は一度行っただけですが、北欧料理の定番ニシンのマリネやノルウェーサーモンのマリネ、スウェーデンのおふくろの味ミートボールなどなど、ワイン2本と共に堪能しました。食べっぷり・飲みっぷりに感心されたのか、お店の方にまた来て下さいねと言われました。残念ながら再開発のために、2022年5月29日をもって51年の歴史に幕を下ろして閉店したそうです。



ポイント21 江戸城の鎮守として崇敬 日枝神社

山王日枝神社は東京十社の一社で、江戸三大祭のひとつである山王祭が行われることで知られています。山王日枝神社の創建年代ははっきりしていませんが、文明十年(1478年)に太田道灌が江戸城築城に当たって川越の無量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守である川越日枝神社を勧請したことに始まるといわれています。徳川家康が江戸に移封された際に、城内の紅葉山に遷座して江戸城の鎮守としました。慶長九年(1604年)に始まった徳川秀忠による江戸城改築の際に社地を江戸城外の麹町隼町に遷座し、庶民が参拝できるようになりました。明暦三年(1657年)の明暦の大火によって社殿が焼失したため、万治二年(1659年)に将軍家綱が赤坂の松平忠房の邸地を社地に当て、現在の地に遷座しました。この地は江戸城から見て裏鬼門に位置します。

日枝神社 旧官幣大社

主祭神  大山咋神
相殿神  國常立神 伊弉冉神 足伸彦尊

御祭神大山咋神は須佐之男神の御孫神で、またの御名を山末之大主神と申上げる。山水を司り、萬物の生成發展を守護し給ふ神である。日枝神社の歴史は鎌倉時代初期に秩父重繼が江戸貫主を名乗り、その居館に山王社を勧請したことに始まる。文明年間には太田道灌が江戸城築城にあたり川越山王社を再勧請し、更に徳川家康入府以降は城内鎮守の神、将軍家の産土神と崇められ、紅葉山から麹町を經て萬治二年に当地に移遷された。日本三大祭のひとつ、また江戸三大祭の筆頭として知られる山王祭は、江戸時代にはその神幸行列が城内に入り、將軍自ら上覧したことから天下祭また御用祭とも稱された。明治維新によって江戸城は皇居となり、日枝神社は皇城鎮護の神として皇室の御崇敬殊に篤く 大正天皇御即位當日には官幣大社の極位に列せられた。昭和二十年五月の空襲によって壮麗を極めた國寶の御社殿は灰燼に帰したが氏子崇敬者の赤誠により昭和三十三年に再建され、星ヶ岡上に再び大社の威容を拝するに至った。氏子區域は廣く千代田、中央、港、新宿區の七十餘町に及び、生業の隆昌を始め子孫と家門の繁榮を守護し給ふその御神徳はまさに宏大無辺である。




本殿には御祭神として山の神様として知られる大山咋神(おおやまくいのかみ)が祀られ、家内安全などのご利益があると信じられています。また、末社として祀られているのが「山王稲荷神社」・「八坂神社」・「猿田彦神社」です。「山王稲荷神社」には、商売繁盛の神として崇められている倉稲魂神(うかのみたまのかみ)が祀られています。「八坂神社」には、本殿の神である大山咋神の祖父神の素盛嗚神(すさのおのかみ)が祀られ、縁結びや厄除け子孫繁栄などの御利益があるとされています。また隣接する「猿田彦神社」には、猿田彦神(さるたひこのかみ)が祀られ、開運や事業発展などを願う人々が参拝に訪れています。昔から山の守りとして敬われてきた猿ですが、そんな言い伝えから「日枝神社」の社殿前には夫婦一対となる「神猿像」が置かれています。本殿から向かって左側には子猿を抱く母親の神猿像がいて、縁結びや子授け、安産などを願われてきました。また本殿から向かって右側に建つ父親の神猿像は、商売繁盛や社運隆昌を願うと良いと言われています。



コマツビルは、外堀通りと六本木通りが交差する溜池交差点角に位置し、隅切りされた五角形の敷地に建っていました。白亜の大理石張りの外壁と、彫りの深い六角形の窓が特徴的で、外壁の大理石はギリシャ産・エントランスホールなどの内装はパキスタン産のグリーンオニキスが使われていました。塔屋には、小松製作所社長の河合良成の発案で竣工当初から実物の4倍のブルドーザーのオブジェがありましたが、1991年に撤去され、その後はシンプルなデザインの看板になりました。現在はビルの建て替え事業が進行中で、新たなビルは地下2階・地上10階建てで、2026年9月の竣工を予定しています。



溜池交差点の植え込みの中に、「溜池発祥の碑」が建っています。

溜池発祥の碑

溜池は江戸時代のはじめ、江戸城の防備を兼ねた外堀兼用の上水源として作られ水道の発祥地ともなり、徳川秀忠時代には鯉、鮒を放し蓮を植えて上野の不忍池に匹敵する江戸の名所となった。徳川家光は遊泳したとも伝えられ、江戸後期には日枝神社より赤坂四丁目に通じる料金を取った銭取橋が架設され「麦とろ家」数軒と出店で、にぎわったと云われる。明治八年より埋め立てに着手し四十四年に完成したが、明治二十一年十二月には赤坂溜池町が創立され、明治四十二年に市電が開通し、大正十年五月に正式な町会として溜池町会が発足し、溜池角の小松ビルは元は演伎座と云う芝居館として人気を煽り東京オリンピック以後はビル街として発展し、町会名も「赤坂溜池町会」と改称し今日に到り、地下鉄新駅「溜池山王駅」の開通を記念し建立とした。




霞が関ビルは、地上36階・地下3階・地上高147mの日本最初の超高層ビルとして知られています。昭和四十三年(1968年)4月12日にオープンし、耐震設計として鋼材を組み上げた柔構造を採用しています。日本の超高層ビルの先駆けとなった建物です。2001年からの霞が関三丁目エリアの再開発「霞が関コモンゲート」にともなって、隣接する霞が関ビルでも低層部の増築や改装などが行われ、ビル単体に止まらず地域全体の付加価値の向上が図られています。外堀通りから一段高くなった高架広場はまるで地面のようです。



一般財団法人霞山会は、東亜同文会を前身とする日本の財団法人で、日本とアジア諸国の国際交流を目的としています。財団の事業のひとつとして、会議室・宴会場・レストランなどの施設を持つ霞山会館を運営しています。

霞山会館址

霞山会館は、1898年に教育、文化等の交流を通じて日中協力を推進する目的で設立された東亜同文会の本部として、1928年この地に建設された。霞山の名称は、東亜同文会初代会長近衛篤麿の雅号に由来する。東亜同文会は、上海に東亜同文書院を開校し、日中間の架け橋となる人材の育成に努めるとともに、日中交流、中国研究等にも重要な役割を果たした。第二次大戦後同会は、解散の止むなきに至ったものの、その精神は、1948年に設立された財団法人霞山倶楽部により承継され、占領軍に接収されていた震山会館も、1956年には返還を受けた。1958年霞山倶楽部は、財団法人霞山会と名称を改めるとともに、老朽化した霞山会館を解体のうえ1954年同地に地上9階建ての霞山ビルを建築し、その最上階に霞山会館を開設した。霞山ビルは霞が関三丁目南地区第一種市街地再開発事業に伴い解体されたが、霞山会館は、2007年10月同再開発事業により建設された霞が関コモンゲート西館(霞山会館ビル)37階に移転し、引き続き霞山会の事業拠点の一つとなっている。




歩道の脇の植え込みに工部大学校跡のモニュメントが立っています。

工部大学校阯碑

明治六年(1873年)、この地に工業分野における人材育成を目的とした工学校(工学寮内に設置)が開校します。明治十年(1877年)には、工学寮が工部大学校ど改称されました。工部大学校では、土木・機械・造家などの学科が諸外国から招聘された外国人教師によって教授されました。1886年に帝国大学と合併し、本郷(現在の文京区)に移転します。跡地は、帝室博物館などに使用されますが、大正十二年(1923年)の関東大震災で建物は倒壊してしまいました。そこで、工部大学校出身者たちは、倒壊した建造物の煉瓦などを利用して、昭和十四年(1939年)に「工部大学校阯碑」を建設しました。この碑は、日本最初の工業技術教育機関が設置された場所とともに、関東大震災による被災の歴史を伝えています。

Monument to the Imperial College of Engineering

An engineering college (located within Kogakuryo, the predecessor to the Imperial College of Engineering) opened on this site in 1873 to train new engineers. In 1877, Kogakuryo was renamed Kobu Daigakko (Imperial College of Engineering). Subjects such as house construction and civil and mechanical engineering were taught at the Imperial College of Engineering by foreign teachers who were invited from overseas. The College merged with the Imperial University in 1886 and was relocated to Hongo (current-day Bunkyo City). The site was used for various purposes, including as the Imperial Museum, but the building collapsed in the Great Kanto Earthquake of 1923. Former students of the College later built this monument to the hoperial College of Engineering in 1939 using bricks and other materials from the ruined building. The monument relates the history of this site, where Japan's first educational institution for engineering stood, as well as the devastation of the Great Kanto Earthquake.




同じく、霞が関ビルの敷地脇に「国立教育会館」の石碑が置いてあります。そういえば、灘尾弘吉という政治家がいましたね。彼は子供の頃は神童と呼ばれた折り紙付きの秀才で、旧制広島一中・旧制一高・東京帝国大学法学部法律学科を首席で卒業したそうです。

国立教育会館

教育開係者の資質の向上を図り、その指導力の充実を期するためにば、不断の研修が必要であり、このために全国の教育関係者を対象とするのにふさわしい研修施設の必要が痛感されたことから、昭和三十九年6月4日に特殊法人国立教育会館が設立されたものである。その後、行政改革により特殊法人国立教育会館は平成十三年4月1日に解散となった。この碑は、特殊法人国立教育会館の門表であり、元文部大臣灘尾弘吉氏の揮毫によるものである。




ポイント22 江戸の石積み工法が学べる 江戸城外堀跡(地下展示室)

東京メトロ虎ノ門駅付近には、外堀の石垣が数か所に残っています。もともとは高さ9mほどの石垣が続いていましたが、現在はその一部が点在するのみです。ここでは長さ20m・高さ7.4mの石垣を保存したうえで一部を埋め戻して虎ノ門駅の文部科学省連絡通路内で展示されています。説明板には当時の石積工法や工事について記されています。



この石垣は、寛永十三年(1636年)に佐賀藩主鍋島勝茂らによって江戸城の総仕上げとしてつくられたもので、石垣表面には石を割った矢穴や担当した大名家の刻印が見られます。



石垣の解説パネルが掲示されています。

史跡 江戸城外堀跡の石垣

正面の石垣は、虎ノ門から続く江戸城外堀の一部です。この石垣は、寛永十三年(1636年)に築かれたものですが、部分的に不揃いな積み方があることから、数度も改修されたと考えられます。石垣表面には石を割った矢穴や構築大名を示す刻印がみられます。もともとこの堀は、石塁として高さ9mほどの石垣が続いていましたが、現在はその一部が点在して残るだけです。ここでは、長さ20m、高さ7.4mの石垣をすべて保存したうえで一部埋め戻して、変形をきたした石垣を伝統技法によって旧態に戻す解体修理を実施しました。この展示室と旧庁舎中庭石垣では、外堀の堀底および推定される水面の高さを表示し、正面の石垣は水面からそびえる石垣の姿を再現しました。当敷地内には3カ所で石垣を公開するとともに、石垣のラインを表示しました。これによって、江戸城外堀跡と現代の街区との比較が現地で確認できます。積替の石は同じ外堀の丸の内一丁目遺跡のものを使用しました。




入口の脇には、実際の石垣で使用された巨石が展示されています。



「江戸城外堀普請と虎ノ門」のパネルです。

江戸城外堀普請と虎ノ門

この図は、発掘調査で判明した江戸城外堀跡をもとに江戸と現代の地図を重ねたものです。この図によって、虎御門が現在の虎ノ門交差点付近に位置し、東の街区がかつての外堀となり、当敷地三カ所の石垣や櫓台石垣は外堀西岸にあることを読み取ることができました。四神相応の大道を表す「白虎」に由来するといわれる虎御門は、かつて外桜田門から続く小田原道が通っていたといいます。外堀に唯一ある櫓は、門とともにこの街道を守る拠点であったとも考えられます。また、当地周辺では外堀に面して延岡藩内藤家の屋敷が、対岸の金比羅神社は、 讃岐丸亀藩京極家屋敷内にあった社であることがわかります。このように、遺跡発掘調査によって江戸城外堀跡が明らかとなり、そこからまちづくりの歴史を学ぶことができます。




「江戸城外堀と現代の東京」のパネルです。

江戸城外堀と現代の東京

東京は、いうまでもなく江戸の城下町から発展した都市です。その中心である江戸城は、慶長九年(1604年)から寛永十三年(1936年)にかけて造られた近世最大の城郭です。なかでも江戸城外堀は、築城の最終にあたる大工事で、これによって城下町を取り囲む延長約14kmの惣構が完成します。明治維新後は、江戸の防御施設である外堀は役目を終えて一部は埋められていきますが、今も道路や鉄道網など都市の骨格に利用されています。この図は、江戸城の痕跡や江戸の町割りを現代の街区に重ね合わせたものです。この図から地形を巧みに利用して江戸城外堀や町がつくられ、それが現代の東京に引き継がれていることがよくわかります。




「江戸城外堀普請(土木工事)の技術」のパネルです。

江戸城外堀普請(土木工事)の技術

外堀は城の防御のための重要施設であることから、普請には当時の土木工事技術の先端が使われています。以前は工事現場近くの材料で土木工事をしていましたが、大規模な外堀普請には「工場」での材料製作、材料の工場から現場までの「運搬」、現場での「施工」という流れで現在の工事と同じように、分業化された効率的な工事が行われました。「工場」の伊豆の石切場では効率的な施工を考慮し規格化された石を加工しました。「運搬」には場所に応じて、経験則から力学を応用した船や道具で行いました。「施工」は高い石垣を築くために断面形状を工夫して行いました。また、これらの様子は「築城図屏風」などに描かれ、都市を造る土木工事の活気を伝えています。




地下展示室を出てゴール地点の霞ヶ関駅に向かいます。「霞が関」の町名由来版が立っています。「霞が関」と「霞ケ関」は違いますが、これは現在の地名である「霞が関」はもともと「霞ケ関」と書いていたものを1967年に「ケ→が」と地名を変更したのですが、それに対応できたものと出来なかったものが混在しているとのことです。霞が関ビルは1965年に起工したので、当時の表記を使ったのでしょう。一方、霞ケ関駅などは書き換えが容易なために新しい表記になったのだと思われます。尚、小文字の「ヶ」が入る「霞ヶ関」は埼玉県川越市にある東武東上線の駅名です。

霞ヶ関

皇居外苑南東端にある外桜田門から港区虎ノ門に至る桜田通りにかけての一帯は、霞が関(昭和四十二年(1967年)に霞ヶ関から改称)といいます。江戸城を守る外郭門のひとつであった虎御門は、江戸時代初期までは遠浅の海(日比谷入江)に面していました。霞ヶ関の名前は古代までさかのぼり、日本武尊が蝦夷の襲撃に備えて、武蔵国に置いた関所「霞ヶ関」から名付けられたといいます。その名前は関所から雲霞を隔てた遠方を望むことができるということに由来し、江戸時代の地図にはすでに、「霞ヶ関」と記したものもあります。江戸時代には、幾多の大名が住む武家地であり、日向延岡藩内藤家(文部科学省・会計検査院・霞が関ビル周辺)、筑前福岡藩黒田家(外務省)、安芸広島藩浅野家(国土交通省周辺)、出羽米沢藩上杉家(法務省旧本館・法曹会館周辺)などの上屋敷がありました。明治維新後、この一帯は政府用地として利用されます。一丁目・二丁目は、明治ニ十年代以後の官庁集中計画に基づいて、赤レンガ造りの官庁が林立し、現在の中央官庁街となりました。警視庁前に残る法務省旧本館の建物はその名残であり、重要文化財に指定されています。三丁目には、明治四年(1871年)、日本初の官立の工業技術教育機関である工部大学校(東京大学工学部の前身)が開校しました。のちには各国の大公使館も置かれ、政治や外交の中心地的印象が強い霞が関ですが、三丁目一帯は近代産業も芽生え、発展してまいりました。

Kasumigaseki

Until the carly Edo Period, this neighborhood faced on the sea on the Hibiya inlet, which has since been reclaimed. The name of the area comes from the fact that from the barrier station (sekisho) located here, one could see faraway through the clouds and mist (kasumi in Japanese). Kasumigaseki today is home to many government ministries.




ゴール地点の東京メトロ霞ヶ関駅に着きました。いんやぁ、長かった。私のHPの中で最長のトピックとなりました。写真も254枚!WiーFi環境下でなければ見ないで下さい。



駅入口の脇に、「霞が関跡」の案内柱が立っています。

霞が関跡

霞が関は、奥州街道の関門で、武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県の一部)にあったと伝えられています。その場所は、西に高台があり、東に水辺を望むといわれますが、正確な場所は分かっていません。江戸時代には、武家屋敷が立ち並び、武家屋敷の場所を示す通称地名として使われました。明治時代になり、東京府の町名として正式に決定されています。




ということで、千代田区で二番目のコースである「@その2.江戸城とお堀めぐり・大名屋敷と外堀をめぐる」を歩き終えました。次は千代田区で三番目のコースである「Aその1.浮世絵に描かれたちよだ名所めぐり・神田川コース」を歩きます。




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