Aその1.浮世絵に描かれたちよだ名所めぐり・神田川コース  

市ヶ谷から神田にかけての神田川沿いは起伏に富み、地形の変化が見どころ。景勝地から情緒ある下町まで浮世絵に描かれた風景を探そう。


コース 踏破記  

今日は千代田区の「Aその1.浮世絵に描かれたちよだ名所めぐり・神田川コース」を歩きます。市ヶ谷駅から神田駅まで、江戸時代に描かれた浮世絵の舞台となった千代田区の北側一帯を巡ります。最初に歩いたのは2022年の4月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年9月に改めて歩きました。

スタート地点:東京メトロ市ヶ谷駅出口1
ポイント1 「市ヶ谷八幡」 市ヶ谷
JR市ヶ谷駅前の交番裏手にある外堀公園から西南の方角を見た景色。手前の濠はその姿を今にとどめる。市ヶ谷八幡(現市谷亀岡八幡宮)は、江戸の基礎を築いた室町時代の武将太田道灌が鎌倉(神奈川県)の鶴岡八幡宮より勧請した古社である。左側に見える火の見櫓は、尾張徳川家上屋敷(現防衛省)。
 
ポイント2 「牛込神楽坂之図」 飯田橋
神楽坂通りの途中から坂下方面を俯瞰した光景。右側には団子屋などの店が並び、左側には旗本や御家人の屋敷が描かれている。正面に見えるのが江戸城外郭門のひとつ、牛込見附(御門)。御門の石垣は、その一部が健在で、江戸の遺構を今に伝える貴重な史跡である。
 
ポイント3 「飯田町九段坂之図」 九段下
靖国通りの俎橋あたりから坂の上方を仰ぎ見た図。当時は、荷車を押す「押し屋」が待機して働いていたほど急勾配だったという。左手前の牛ヶ淵は、江戸市中の飲料用水を確保するために設けられたダムだった。北斎も「九段牛ヶ淵」(右)の作品を残している。
 
ポイント4 「水道橋駿河台」 水道橋
外堀通り沿いにある元町公園付近から、三崎町越しに広がる武家地を見た図。巨大な鯉が目を引く。厄除け・祝いの行事だった端午の節句に、鯉幟を掲げるようになったのは江戸中期のこと。幟や吹き流しが許されたのは武家のみ。だから庶民は立身出世のシンボルである鯉を幟にしたのだろう。
 
ポイント5 「御茶之水之図」 お茶の水
神田川の川面から水道橋方面を見る。釣りを楽しむのどかな情景だが、今も川の両岸は豊かな緑を携え、美しい渓谷として注目の場所。正面に見えるのは、江戸城に神田上水を導くために設置された管、懸樋(掛樋)である。
 
ポイント6 「神田明神」 外神田
神田明神(神田神社)境内の本殿前より秋葉原方面を眺望した図。白く積もる雪に社殿の朱色が映える。江戸の総鎮守と称され、神田祭で親しまれたばかりでなく、評判の眺めを楽しもうと、多くの江戸っ子が日の出や月見のために訪れた。
 
ポイント7 「妻恋こみ坂の景」 湯島
妻恋坂のほど近くにある道幅の狭い立爪坂からの眺め。絵師広景のユーモアだろうか、坂の上には美しい桜と女性が、坂下には厠と鼻をつまんだ男性が描かれる。満開の桜の木の奥に目を向けると上野、浅草が広がる。
 
ポイント8 「昌平坂乃遠景」 湯島
外堀通りに面した湯島聖堂から、秋葉原に向かって下り坂(昌平坂)が続く。本図は、坂下からの眺め。斜面が迫り来るようなダイナミックな構図が魅力的。土手の上に立つ少年が覗き込んでいるのは、神田川。川を開削することで生まれた渓谷と富士山を望めるこの場所は、景勝地として親しまれていた。
 
ポイント9 「昌平橋聖堂神田川」 神田淡路町
昌平橋のたもとから、神田川越しに昌平坂を眺めた図。国芳の作品Gとは別の角度から昌平坂の魅力を伝える。降りしきる雨のなかにあって、両岸の緑が鮮やかだ。坂に沿って建つ白壁の向こうが、もと幕府の学問所が置かれていた湯島聖堂(昌平坂学問所)。
 
ポイント10 「筋違内八ツ小路」 神田須田町
昌平橋から万世橋に向かって旧中山道を50mほど歩いた場所に、江戸城外郭門のひとつ、筋違御門があった。本図は御門の内側に広がるハツ小路を東南から見下ろした景色。ハツ小路は火除地で、中山道や奥州街道など多方面につながる交通の要衝地だった。
 
ポイント11 「神田紺屋町」 神田紺屋町
JR神田駅からのびる神田金物通りと昭和通りが交わる付近から西を見た景色。描かれたのは、藍染職人が集まる神田紺屋町。藍で染めた生地を川で晒したあと、屋根上で乾燥させていたのだろう。風にはためくのは浴衣地だろうか、市松模様や源氏車の文様の中に、版元(魚屋栄吉)を示す文字が見える。
 

ゴール地点:JR神田駅南口


スタート地点の東京メトロ市ヶ谷駅出口1から歩き始めます。



ポイント1 「市ヶ谷八幡」 市ヶ谷

市ヶ谷駅から靖国通りを渡って外濠公園に入ります。公園に入った左手の石垣の上に「市ヶ谷門跡」の案内板が立っています。市ヶ谷門は、寛永十三年(1636年)に、美作津山藩主森長継によって枡形石垣が築かれました。この見附は、麹町・番町辺りから市ヶ谷方面への出口として重要な位置を占めていましたが、明治四年(1871年)に門が撤去され、石垣も市電の敷設などで徐々に壊され、大正二年(1913年)には枡形石垣すべてが撤去され、現在は橋台石垣の一部を残すのみとなっています。この周辺の土塁は桜並木となり、市ヶ谷の門の別名「桜御門」の名残をとどめています。

市ヶ谷門跡

市ヶ谷門は、寛永十三年(1636年)に美作津山藩(現在の岡山県)藩主森長継によって築造されました。 門に付属する橋は、現在の五番町・九段北四丁目と新宿区の市谷田町・市谷八幡町を結んでいました。 明治四年(1871年)に、市ヶ谷門は枡形石垣と橋を残して撤去され、のち枡形石垣も撤去されました。ここにある石は、市ヶ谷門橋台の石垣の一部です。石に刻まれた刻印は、江戸時代初期に御手伝普請で石垣を築いた大名家や職人の印と考えられています。赤坂見附から牛込橋にいたる堀や土手の遺構は、昭和三十一年(1956年)3月26日に、江戸城外堀跡として国指定史跡になっています。

Ichigaya-mon Gate Remains

Ichigaya-mon Gate was constructed by Mori Nagatsugu, the feudal lord of the Mimasaka Tsuyama Domain (current-day Okayama Prefecture) in 1636. The bridge leading to the gate connected current-day Gobancho and Kudankita 4-chome with Ichigaya Tamachi and Ichigaya Hachimancho in Shinjuku City. In 1871, Ichigaya-mon Gate was demolished, leaving only its square-stone wall and the bridge. The square-stone wall was also subsequently demolished. The stone blocks here are some of the blocks from the stone walls for the abutment of Ichigaya-mon Gate Bridge. The inscriptions in the stone are thought to be at the hands of the daimyo and masons who built the stone wall in the early Edo Period under an order for "construction assistance" imposed by the shogunate. The remains of the embankment and moat stretching from Akasaka Mitsuke to Ushigomebashi Bridge were designated as a National Historic Site, Edo Castle Outer Moat Ruins, on March 26, 1956.




最初の浮世絵ビューポイントは、土手の上から眺めた市ヶ谷八幡(現在の市谷亀岡八幡宮)です。市ヶ谷八幡は、文明十年(1478年)に太田道灌が江戸城の鎮守として鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して創建されました。応神天皇・神功皇后・与登比売命を祭神とし、もとは市谷御門内にありましたが、寛永年間に現在の地に移転しました。江戸時代には「時の鐘」があり、門前町も賑わいをみせ、江戸の名所のひとつとされていました。境内には「茶の木稲荷」も祀られています。神社には新宿区唯一の銅の鳥居(新宿区指定文化財)を始め、太田道灌が所持し、奉納したといわれる軍配団扇(新宿区登録文化財)や、力石(新宿区指定文化財)・茶筅塚碑・刀工碑などがあります。



「市ヶ谷八幡」は歌川広重の作品で、外濠から市ヶ谷八幡を見た構図になっています。市ヶ谷八幡は、深川八幡などと共に江戸八所八幡に数えられ、門前町には水茶屋や芝居小屋等が軒を連ね、信仰と行楽を兼ねていました。歌川広重(寛政九年【1797年】〜安政五年【1858年】)は、ゴッホが惚れ込んだ風景版画の第一人者です。江戸八代州海岸(現在の千代田区丸の内付近)の火消の家に生まれ、十五歳で歌川富広の門下となりました。最初は役者絵や美人画を描いていたものの、あまり振るいませんでした。しかし、北斎の「富嶽三十六景」の人気を受け、風景画が流行した1830年代に、広重は「東都名所」・「東海道五十三次」といった風景画の名品を発表し、人気絵師の地位を確立することとなりました。最晩年に手掛けた「名所江戸百景」は、情感あふれる江戸の四季折々の景観を独自の視点で生み出した大胆な構図で描き、広重の魅力が詰まった最高傑作といわれています。この作品は、その大胆な構図と色彩にゴッホが魅了され、模写作品を残したことでも広く知られています。広重の作品はゴッホだけではなく、モネをはじめとする西洋の印象派にも大きな影響を与え、江戸木版画の代表的な色である「藍」は、「広重ブルー」として西洋の人々に高く評価されました。左が歌川広重の描いた「市ヶ谷八幡」、右が現在の外濠公園の土手から眺めた同じ構図の写真です。市谷亀岡八幡宮はビルに遮られて見えませんが、防衛省のアンテナ塔の手前に市ヶ谷八幡が位置していたと思われます。



牛込見附は、上州道に通じる江戸城外郭門のひとつです。外濠に面した見附のなかでも江戸の遺構がもっともよく残っています。寛永十六年(1639年)、徳島藩の初代藩主蜂須賀忠英らによって築かれました。



石垣の前に案内板が立っています。

史跡 江戸城外堀跡
牛込見附(牛込御門)跡

正面とうしろの石垣は、江戸城外郭門のひとつである牛込見附の一部です。江戸城の外郭門は、敵の進入を発見し、防ぐために「見附」と呼ばれ、足元の図のようにふたつの門を直角に配置した「桝形門」という形式をとっています。この牛込見附は、外堀が完成した寛永十三年(1636年)に阿波徳島藩主蜂須賀忠英(松平阿波守)によって石垣が建設されました。これを示すように石垣の一部に「松平阿波守」と刻まれた石が発見され、向い側の石垣の脇に保存されています。江戸時代の牛込見附は、田安門を起点とする「上州道」の出口といった交通の拠点であり、また周辺には楓が植えられ、秋の紅葉時にはとても見事であったといわれています。その後、明治三十五年に石垣の大部分が撤去されましたが、左図のように現在でも道路を挟んだ両側の石垣や橋台の石垣が残されています。この見附は、江戸城外堀跡の見附の中でも、最も良く当時の面影を残しています。足元には、かっての牛込見附の跡をイメージし、舗装の一部に取り入れています。




牛込橋は、富士見二丁目から新宿区の神楽坂に通じる早稲田通りにある橋です。江戸城外郭門のひとつ牛込門のあった所に架けられ、今でも橋の手前(千代田区側)の左側に枡形の石垣の一部が残っています。橋の右手の飯田橋との間はセントラルプラザがあります。外濠の水は一旦ここで堰き止められ、姿を消します。そのためこの橋は陸橋のようにも見えます。橋は平成八年に架け替えられています。



横断歩道を渡った牛込橋の袂の飯田橋駅前交番際に、枡形に使用された石に普請した忠英を指す「阿波守」とかかれた文字が刻まれたモニュメントがあります。

千代田区指定文化財(「阿波守内」銘の石垣石のみ)
牛込門跡/「阿波守内」銘の石垣石

牛込門は寛永十三年(1636年)に、阿波徳島藩(現在の徳島県)藩主蜂須賀忠英により築造されました。門の名称は、牛込方面への出口であったことによります。なお牛込の名称自体は、新宿区側の台地上に拠点をおいていた牛込氏・牛込城にちなむと思われます。この辺りは、牛込(飯田橋)から四谷にかけて広い谷があった場所を利用して外堀を築いており、防御のため堀幅を広くしているといいます。門は明治四年(1871年)に撤去されました。赤坂見附から牛込橋にいたる堀や土手の遺構は、昭和三十一年(1956年)3月26日に、江戸城外堀跡として国指定史跡になっています。ここにある直方体の石は、牛込門の基礎として地中に設置された石垣石です。はす向かいの富士見教会の建て替えがあった際に敷地内から発見され、ここに移設しました。石の側面には「□阿波守内」という銘文があり、蜂須賀家(阿波守)が牛込門の石垣工事を担当したことを裏付けています。

Chiyoda City Cultural Property (Stone Wall Block with "Awa-no-Kamiuchi" Inscription only)
Ushigome mon Gate Remains Stone Wall Block with “Awa-no-Kamiuchi" Inscription

Ushigome-mon Gate was constructed in 1636 by Hachisuka Tadateru, the feudal lord of the Awa Tokushima Domain (current-day Tokushima Prefecture). The gate was so named as it was the exit for the Ushigome area. The name "Ushigome" is thought to come from the Ushigome family and Ushigome Castle, which were located on an elevated location on the Shinjuku City side. An outer moat was dug in this area, taking advantage of a wider part of the valley stretching from Ushigome (Iidabashi) to Yotsuya, broadening the moat for defense. The gate was demolished in 1871. The remains of the embankment and most stretching from Akasaka Mitsuke to Ushigomebashi Bridge were designated as a National Historic Site, Edo Castle Outer Moat Ruins, on March 26, 1256. The rectangular stone blocks here were set into the ground as foctings for Ushigome-mon Gate. They were moved here after being unearthed when the diagonally opposite Fujimi Church was rebuilt. The side of the stcnc bears the inscription "Awa-no-Kamiuchi," which establishes that the Hachisuka clan, Governors of Awa Province (Awa-no-Kami) were in charge of stone works for Ushigome-mon Gate.




富士見二丁目の町名紹介版が建っています。なかなか古風な造りですね。

千代田区町名由来板 富士見二丁目

江戸城の名残である外堀(外濠)に面したこの界隈は、武家の屋敷が立ち並ぶ地域でした。当時、武家地には正式な町名がなく、道筋に土手四番町、裏四番町通などと呼称が付いていただけでした。「富士見」という町名が生まれたのは明治五年(1872年)のことで、九段坂を上ったあたりから眺める富士山の姿がじつに素晴らしいことから付けられた名前です。九段坂を上りきった台地(現在の靖国神社周辺)に富士見町一丁目〜六丁目が誕生しました。昭和八年(1933年)、富士見町四丁目は富士見町三丁目と改称します。同じ年、富士見町五丁目と飯田町六丁目の一部が合併し、富士見町二丁目となりました。そして昭和四十一年(1966年 )、住居表示の実施にともない富士見町二丁目と富士見町三丁目、飯田町二丁目の一部が合併して、現在の富士見二丁目が誕生したのです。現在、当町会は東西に約八百メートルの長さがあり、東京のお伊勢さまといわれる東京大神宮をはじめ、衆議院議員宿舎など、名のある建物が多数存在しています。また、大学や病院など教育・医療機関も充実しています。JRと四本の地下鉄が走るきわめて交通の便がよい立地で、緑が多く、住むにも働くにもよい町です。

Fujimi 2-chome

This area, which once lay along the outer moat of Edo Castle, was the site of many samurai residences. The name originates from the fact that, from the top of Kudanzaka hill, it was possible to get a magnificent view of Mt. Fuji.




外濠に架かる牛込橋を渡ります。橋の右手はJR飯田橋駅ですが、駅前の広場に何枚もの案内板が置かれています。



江戸城外堀散策案内図には、周辺の見所や外堀の概要が記されています。

江戸城外堀跡散策案内図

この2枚の散策図は、飯田橋駅から四ツ谷駅周辺に残る江戸城外堀跡を中心とした文化財を示したものです。これらは、近世から近代までの東京の歴史を示しています。また、日本橋を起点とする五街道が四方に延び、江戸出入口の大木戸や宿場の位置を左の図に示しました。さらに江戸御府内を示した「墨引図(町奉行支配の町範囲)」は、概ね現在の山手線を中心として、東は隅田川を越えて錦糸町駅までの広い地域であったことが分かります。

Edo Castle's Outer Moat Walking Map

These two maps indicate the location of historical sites in the vicinity of lidabashi and Yotsuya Stations. The sites offer vital insights about Tokyo's history from the early modern to the modern period. The map on the left traces the path of early modern Japan's "Five Routes," which radiated out in all directions from central Edo's Nihon-bashi Bridge, and indicates the location of the city's entrance gates and post stations on its periphery. The second map is a jurisdictional map indicating the territories under the authority of the Edo City Governor. It shows that areas inside the Yamanote Line comprised the I city center and that the city area extended over a vast space that stretched far east as present-day Kinshicho Station.




左手には4枚のパネルが置かれています。最初は、「江戸城」について解説してあります。

江戸城

江戸城は、平安時代末の江戸氏居館、室町時代の太田道灌、戦国時代の小田原北条氏の支城として受け継がれました。豊臣秀吉は、北条氏を滅ぼすと、徳川家康を関東に移封しました。天正十八年(1590年)、徳川家康は江戸城に入城し、江戸城と城下町の建設を始めました。家康入城時の江戸城には石垣はなく土塁のみで、日比谷も入り江で日本橋・京橋辺りも海面と同じ高さの湿地でした。家康は、まず城内の寺を出し本丸を拡張し、城下町の武家地、町人地を整えました。次に、本丸の南の台地を削り西の丸を造成し、その残土で日比谷入り江を埋め立てました。慶長八年(1603年)、幕府を開き実権を握った家康は、天下普請として、城と城下町建設に諸大名を動員しました。同じ年に、神田山を崩して日本橋南の地域を埋め立て、市街地の造成と日本橋の架橋を行い、翌年には日本橋を起点とする五街道を整備しました。慶長十一年(1606年)には二の丸・三の丸と城郭の整備、石垣築造を進め、翌年には天守が完成しました。なお、天守は明暦三年(1657年)に大火で焼失した後、再建されませんでした。明治元年(1868年)、明治天皇が江戸城に入り皇居となり、昭和三十五年(1960年)、江戸城内郭の堀が「江戸城跡」として国の特別史跡に指定されました。このほか、「江戸城外堀跡」と「常盤橋門跡」が史跡に、外桜田門、田安門、清水門とそれぞれの櫓門が重要文化財に指定されています。

The History of Edo Castle

Edo Castle's origins can be traced to the establishment of the Edo Clan's estate in the late-Heian period. During the Muromachi period, it served as the location of Ota Dokan's branch castle. Entering the Warring States Period, it was controlled by the Hojo Clan and served as the site of their branch castle. When Toyotomi Hideyoshi eradicated the Hojo Clan in the late-sixteenth century, Tokugawa leyasu was sent to their former territory in the Kanto region. In 1590, leyasu assumed control of Edo Castle and initiated the Castle's reconstruction and construction of the surrounding castle town. At the time, there were no stone walls on the Castle site. The only remaining features of the Hojo Clan's branch castle were its earthen fortifications. In addition, the Hibiya area was an inlet and the Nihonbashi and Kyobashi areas were low-lying wetlands. leyasu began the reconstruction effort by removing temples from the site, expanding the Castle's inner citadel, and supervising the construction of the city's commoner districts and warrior estates. He then removed portions of the plateau immediately south of the inner citadel and constructed the western citadel. In addition, the inlet in Hibiya was filled in using the earth removed from the plateau. In 1603, leyasu, who had by then seized national political authority and established a tent government, mobilized domainal lords from the across the country to construct the remaining portions of Edo Castle and the surrounding city area. The same year, Kanda Hill was leveled and earth removed from the Hill was used to fill in the southern portions of the Nihonbashi area. The area was then developed and Nihon-bashi Bridge was constructed. The following year, an archipelago-wide network of five overland circuits originating from Nihon-bashi Bridge was established. In 1606, the second and third citadels and castle tower were constructed and work continued on the stone walls surrounding the Castle. By the following year, the Castle's main keep was complete. In 1657, however, the Castle was destroyed by a fire and had to be reconstructed. In 1868, the Meiji emperor moved to Edo Castle and it came to serve as the imperial palace. In 1960, Edo Castle's inner moat was classified as Edo Castle' s official ruins and designated a national heritage site. In addition, remaining portions of the Castle's outer moat and the ruins of Tokiwabashi Gate received designation as historical landmarks. Lastly, the box-shaped, two-story gatehouses at Sakurada- mon, Tayasu-mon, and Shimizu-mon Gates were designated as important national treasures.




次は、「外堀」について解説してあります。

江戸城外堀

江戸城は、本丸・二の丸・三の丸・西の丸・北の丸・吹上からなる内郭を内堀が囲み、その表門が大手門でした。外堀は、雉子橋門から時計回りに、一橋門、神田橋門、常盤橋門など諸門をめぐり、呉服橋門から虎ノ門、溜池から四谷門、市谷門、牛込門を経て、現在の神田川に入り、小石川門から浅草門で、隅田川に至る堀でした。外堀工事は、慶長十一年(1606年)に雉子橋から溜池までの堀を構築後、元和四年(1618年)に駿河台が掘削されて平川(現日本橋川)の流路に付け替えられ、神田川が誕生しました。この工事で、平川は堀留橋で締め切られ、独立した堀となりました。寛永十三年(1636年)には、天下普請で外堀が構築され、江戸の総構が完成します。この工事は、雉子橋から虎ノ門に至る外堀の総石垣化と枡形築造を前田・細川・池田・黒田家など西国外様大名(石垣方六組)、牛込土橋から赤坂土橋にかけての外堀掘削と土塁の構築を東国大名(堀方七組)が行いました。その後も幕府は、外堀を維持するために大名の手伝普請による堀さらいをしました。牛込〜市谷間の堀は、市谷〜四谷間より水位が下がり、土砂が堆積し、蓮が繁ったため、普請奉行の管理下で頻繁にさらいが行われました。また、町人にも堀にゴミを捨てないよう町触も出され、外堀の維持・管理が行われました。

The History of Edo Castle Outer Moat

Edo Castle's inner hull was comprised of six citadels: the main, second, third, western, northern, and fukiage citadels. The entire inner hull was encircled by an internal moat and Ote-mon Gate served as its main entrance. The Castle's outer moat originated at Kijibashi-mon Gate and passed, in clockwise direction, through Hitotsubashi-mon, Kandabashi-mon, Tokiwabashi-mon, Gofukubashi-mon, and Torano-mon Gates. It then extended from Castle reservoir through Yotsuya-mon, Ichigaya-mon, and Ushigome-mon Gates before ultimately flowing into the presentday Kanda River. From there, it served as a canal, which passed through Koishikawa-mon and Asakusa-mon Gates and ultimately converged with the Sumida River. The outer moat's development began in 1606 with the construction of a canal from Kiji-bashi Bridge to the Castle reservoir. The second stage in its evolution came in 1618, when portions of the Kanda Plateau were removed and the canal was redirected towards the Hira River. That process gave birth to the Kanda River and transformed the Hira River, which was closed off at Horidome-bashi Bridge, into an independent canal. The outer moat was finally completed in 1636, when feudal lords from eastern and western Japan were mobilized to construct its remaining portions. Specifically, western domainal lords, including the Maeda, Hosokawa, Ikeda, and Kuroda Houses, were ordered to supervise the construction of stone walls and the square masugata enclosures used to protect the castle gates along the section of outer moat between Kiji-bashi Bridge and Torano-mon Gate. In constrast, domainal lords from eastern Japan were order to dig a canal between Ushigome-bashi and Akasaka-bashi Bridges and construct earthen fortifications. In order to maintain the outer moat, the Tokugawa shogunate mobilized domainal lords from around the country to dredge it. In particular, the section of the moat between Ushigome and Ichigaya required frequent dredging because the water level often receded, resulting in the accumulation of silt on the moat floor and the development of water lilies on its surface. Such dredging projects were carried out under the supervision of the shogunate's Governor of Construction. In addition, the city authorities attempted to keep the outer moat free of debris by issuing official roclamations banning the residents of commoner neighborhoods from disposing of garbage in the moat.




次は、「牛込・赤坂間の江戸城外堀の工事方法」について解説してあります。

牛込・赤坂間の江戸城外堀の工事方法

牛込から赤坂にかけての外堀のうち、牛込〜市谷までは、神田川支谷の地形を利用して造られました。次に四谷・麹町付近は、もともと台地の尾根が横切っている地形であったため、台地を掘り込み、赤坂側の溜池の谷へと結ぶ大工事となりました。この区間の工事は、普請を担う各大名が組を編成し、組毎の掘削土量が一定となるように分担されました。外堀は、喰違見附が最も標高が高く、真田濠より神田川に向かって堀毎に順に水位が低くなりました。そのため、牛込門(飯田橋駅西口)のように外堀を渡る土橋には堰が設けられ、堀の水位を調整していました。また、自然の谷地形を活かしながらも、城郭としての防御効果を高めるため、現在の千代田区側の台地に土を盛って高い土塁を築き、急峻な土手が形成されました。江戸城外堀は総延長約14kmを誇り、このうち牛込門から赤坂門までの約4km、面積約38haの堀が国史跡指定されています。史跡区域には、地形を巧みに利用して築かれた外堀が水をたたえる姿や、外郭門の石垣、土塁の形態を見ることができます。

The Way to Make the Outer Moat from Ushigome to Akasaka

The section of the outer moat located between Ushigome to Ichigaya was constructed by utilizing the topography of the Kanda River valley. In addition, because the Yotsuya and Kojimachi sections of the moat were located on a ridgeline, which cut across the Kanda Plateau, moat construction in those areas required the execution of a large-scale infrastructure project in which sections of the Plateau were removed and the moat was extended to the valley in the vicinity of the reservoir on the Akasaka side. Groups of domainal lords were mobilized to carry out the project and each group was required to remove a predetermined amount of earth from the plateau. The outer moat reached its highest point in the vicinity of Kuichigai Gate. From there, the water level gradually lowered as it passed through the channels linking Sanada-bori Moat with the Kanda River. In order to control the flow of water and prevent flooding, weirs were constructed to around gates, such as Ushigome-mon Gate, which were located on earthen bridges. These weirs were then utilized to control the water level in the moat. Furthermore, utilizing the natural topography, large earthen fortifications were constructed by building up sections of the Kanda Plateau on the present-day Chiyoda Ward side of the moat in order to improve the Castle's defenses. That project resulted in the establishment of a steep embankment. Edo Castle's outer moat boasts a total length of approximately 14 kilometers. The approximately 4-kilometer, 38-hectare section between Ushigome and Akasaka Gates is a designated as a national historic site. Visitors to the site can see the ingeniously constructed outer moat filled with water, the stone walls of the Castle 's outer gates, and the shape of its earthen fortifications.




最後に、「外堀の変遷」について解説してあります。

外堀の変遷

外堀は江戸城防御の役割だけではなく、豊かな水辺空間として当時から江戸市民に親しまれ、名所絵などの浮世絵にも多く描かれました。「名所江戸百景」(広重・安政三年【1856年】〜安政五年【1858年】)には、市ヶ谷八幡の門前町が堀端に広がり賑わう景色が、外堀とともに描かれています。また、「富士三十六景」(広重・安政五年【1858年】)には、御茶の水の懸樋下を、荷物を載せた船が往来する様子が描かれ、外堀が物資輸送路としても使われていたことがわかります。明治期以降も外堀は景勝地として受け継がれました。明治二十六年(1893年)、地域有志者からの寄付金により、四番町より市谷田町に通じる新道(現・新見附)開設願いが出され、甲武鉄道の延伸工事と一体で建設されることとなりました。明治二十七年(1894年)に開通した甲武鉄道と外堀の風景は絵葉書などに多く取り入れられました。明治四十四年(1911年)には、牛込から喰違までの土手遊歩道を江戸城外堀として永久に保存するため公園とすることが計画され、昭和二年(1927年)に牛込橋から新見附橋までの区域が「東京市立土手公園」として開設されました。なお、甲武鉄道や近代の牛込濠周辺の変遷については、駅舎2階に解説板を設置しています。

The Transition of the Outer Moat

More than just a component in Edo Castle's defense structure, the outer moat was also a verdant, waterside leisure space much loved by city residents. Depictions of the outer moat were frequently included in Tokugawa-era collections of woodblock prints. One famous collection entitled the One Hundred Famous Views of Edo, which was composed between 1856 and 1858 by the artist Hiroshige, includes a print depicting the outer moat and bustling, moat-side cityscape in the vicinity of Ichigaya's Hachiman Gate. In a separate collection entitled Thirty-Six Views of Mount Fuji from 1858, Hiroshige depicts a cargo-filled boat passing under the outer moat's Ochanomizu Acqueduct. This tells us that the moat was also a functional space used to transport goods around the city. After the 1868 Meiji Restoration, the outer moat continued to be considered a scenic area and a residential district was constructed on the moat's Shinjuku side. Following the construction of the Kobu Railway in 1894, the Railway and surrounding outer moat area frequently came to be featured in postcards. In 1911, the authorities presented a plan to preserve Edo Castle's outer moat as a public park. Specifically, the plan called for the construction of a pedestrian walkway along the embankment extending from Ushigome to Kuichigai. The plan came to fruition in 1927 with the construction of Tokyo's Dote City Park, which extended from Ushigome to Shinmitsuke Bridge. For more information about the Kobu Railway and Ushigome Moat' s modern development, please visit the history plaza on the second floor.

牛込見附の堰に用いられていた石

この解説板の横に置いてある石は、牛込見附土橋に構築されていた堰の水路面に使用されていたもので、駅舎工事にあたり発掘されました。発掘結果や当時の堰の様子をうかがい知れる史料などを、JR飯田橋駅ホーム上(実際に堰が発見された位置となる牛込橋の真下付近)で解説しています。

The Stone Used to Construct Ushigome-dobashi Bridge's Weir

The stone located next to this installation was used to construct the weir located under Ushigome-mon Gate's earthen bridge. Portions of the weir were discovered during the construction of lidabashi Station. Documents detailing what was discovered at the site and describing the weir' s appearance can be found at the exhibit on the platform at JR lidabashi Station. The exhibit is located in the vicinity of the site under Ushigome-bashi Bridge, where the weir was actually discovered.




ポイント2 「牛込神楽坂之図」 飯田橋

外堀通りを渡って神楽坂に入ります。神楽坂は、飯田橋駅前の神楽坂下交差点付近から善国寺付近まで上る、長さが約300mほどの緩やかな坂です。坂名の由来には、
  1. 坂の途中にあった穴八幡の御旅所で神楽を奏したから
  2. 津久戸明神が移転してきた時にこの坂で神楽を奏したから
  3. 若宮八幡の神楽がこの坂まで聞こえてきたから
  4. この坂に赤城明神の神楽堂があったから
などの説があります。坂下付近に、金属製の通り名標識と案内柱があります。

神楽坂

坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽に因んだ諸説がある。




坂の途中には、地元の商店街が設置したと思われる洒落た石碑があります。



石碑には、歌川広重が描いた「牛込神楽坂之図」の浮世絵と神楽坂の由来の碑文があります。

神楽坂

神楽坂の由来については、

  坂の途中にあった穴八幡の御旅所で神楽を奏したから、

  津久戸明神が移転してきた時に、この坂で神楽を奏したから、

  若宮八幡の神楽がこの坂まで聞こえてきたから、

  この坂に赤城明神の神楽堂があったから、

などの説があります。




ちなみに、左は広重が描いた浮世絵の原画、右の写真は神楽坂坂上から飯田橋方向を眺めた現在の風景です。



外堀通りと牛込橋を戻って、飯田橋駅西口から早稲田通りを進みます。この辺り一帯は富士見一丁目の町域で、早稲田通りの両側には暁星中学校・高等学校や和洋九段女子中学校・高等学校などがあり、文教地区の様相を呈しています。

千代田区町名由来板 富士見一丁目

この界隈が富士見と呼ばれるのは、文字通り、町内から富士山の雄姿が眺められたことに由来します。九段坂を上りきった台地に位置する富士見一丁目は、まだ高いビルがなかった時代には、どこからでも富士山がくっきりと眺められたといいます。日本人にとって富士山は古くから特別の山でした。とくに江戸時代には、富士講といって富士山信仰がさかんに行われていました。江戸時代の絵図を見てみると、「富士塚」と呼ばれる遥拝所が、町中に数多く見つかります。当時の人たちにとって、富士山はそれほどありがたい山だったのです。ここが富士見と呼ばれるようになるのは明治時代に入ってからのことです。江戸時代、武家地には正式な町名はありませんでした。この界隈も、旗本が多く住む武家地だったので、明治五年(1872年)になって、はじめて富士見町という名前が付けられたのです。当時の富士見町は靖国神社から九段までを含むかなり広い地域を指す町名でした。区分けも一丁目から六丁目まであり、現在の富士見一丁目は、富士見町六丁目と呼ばれていました。しかし、昭和八年(1933年)の区画整理のときに、飯田町二、三、六丁目の各一部を含んで町名が富士見町一丁目に変わり、昭和四十一年(1966年)の住居表示の実施にともない、「町」が取れて、現在の富士見一丁目となりました。都市化が進んだ今でも、見晴らしのよい場所からは天に向かってそびえる富士山の姿を眺めることができます。

Fujimi 1-chome

This area, at the top of Kudanzaka hill, got its name from the fact that before the advent of modern high-rise buildings, it was possible to see Mt. Fuji clearly from any place in this elevated site. It only received this name in the late 19th century; before that it had been a place of high-ranking samurai of the Shogun.




九段坂の左手には広大な敷地の靖国神社が鎮座しています。参道の入口には巨大な鳥居が聳えています。「鳥居」は、神様のお遣いの鳥が「止まり居る」という意味から名付けられたといわれています。この鳥居は大正十年に日本一の大鳥居として誕生し、「空をつくよな大鳥居」と歌われ親しまれてきました。昭和十八年に老朽化のために撤去されましたが、戦友や崇敬者により昭和四十九年に再建されました。最新技術の耐候性鋼で作られ、柱の高さは25メートル、直径2.5メートル、上の横木である笠木(かさぎ)は長さ34メートル、直径は2.7 メートル、重さは100トンという規模で、日本で最高・最大級の大鳥居です。震度7の地震にも耐え、風速80メートルの風にも揺らぐことは想定されていないとのことです。耐用年数が何と1200年というのも驚きです。案内板に神社の由緒が記されています。

由緒

靖國神社は、明治二年6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた招魂社が始まりで、明治十二年に「靖國神社」と改称されて今日に至っています。靖國神社は、国家のために尊い命を捧げられた人々の「みたま(神霊)」を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です。「靖國」という社号も明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」・「平和な国家を建設する」という願いが込められています。

History

The origins of Yasukuni Jinja lie in a shrine called Shokonsha, which was established on June 29 in the second year of the Meiji era (1869) by the will of the Emperor Meiji. In 1879, it was renamed "Yasukuni Jinja", the name it still bears today. The shrine was established to commemorate and honor the achievements of those who dedicated their precious lives to their country. The name "Yasukuni", bestowed by the Emperor Meiji, means to preserve peace for the entire nation.




九段坂は長さが約430mほどの緩やかな坂で、靖国通りの九段下交差点から九段坂上交差点までの区間です。ちなみに、坂上の交差点名は「九段坂上交差点」ですが、坂下の交差点名は「九段下交差点」となっていて、「坂」が付いていません。理由を調べてみましたが分かりませんでした。「九段」の地名の由来は、幕府が江戸城に勤める役人の御用屋敷を建てた際に、土地の勾配がきつかったために石垣を9段に築いてそこに屋敷を建てたことから「九段長屋」と呼ばれ、坂名も「九段坂」になりました。縄文時代には九段下が波打ち際で、九段坂上に貝塚があったそうです。坂下近くに案内板が立っています。

九段坂

古くは飯田坂と呼ばれていました。名前の由来は、坂に沿って御用屋敷の長屋が九つの段に沿って建っていたためとも、急坂であったため九つの段が築かれていたからともいわれています。明治後期、九段坂下から市ヶ谷方面に市電を通すため、牛ヶ淵(北の丸公園に沿った堀)側の勾配を削って線路を敷設しました。関東大震災後の帝都復興計画で坂を大幅に削り緩やかな勾配にする工事が行われ、九段坂は大正通り(現在の靖国通り)として東京の主要な幹線道路の一部となり現在に至ります。

Hill of Kudan

In the past, this was called lida Hill. It is said that the nagaya (a number of tenement houses built under one long roof) of the official residence were built on nine levels (kudan) along the hill, and that nine levels were constructed due to the steepness of the hill, hence the name the Hill of Kudan. In the late Meiji Period (1868-1912), in order for trams ran from the bottom of the Hill of Kudan to Ichigaya, the gradient of the Ushigafuchi side (the moat that runs along kitanomaru (the west keep) park) was reduced, and the tracks were constructed. The Imperial Capital Construction Plan after the Great Kanto Earthquake of 1923 carried out construction work that greatly reduced the hill, and created a gentle gradient. The Hill of Kudan is even now an important part of the main thoroughfare in Tokyo as Taisho-dori (now Yasukuni-dori).




案内板には、明治時代と大正時代の九段坂の様子を描いた図が添えられています。市電は九段坂を通らず、坂に沿って削られた平坦な路面を通っています。



九段坂沿いにモニュメントが幾つか並んでいます。灯台のように見えるのは高燈籠です。元々は街灯の目的で設置したものではなく、靖国神社の灯籠を移築したとのことです。

高燈籠(常燈明台)

高燈籠(常燈明台)は、明治四年(1871年)靖國神社(当時は招魂社)の燈籠として設置された。方位盤や風見が付けられ、いわゆる擬洋風建築の印象を醸した燈籠で、高さは16.8m。小林清親が描いた錦絵に、設置当初の高燈籠が登場している(右絵)。九段坂の上に設置されたため、品川沖を出入りする船の目印として、東京湾からも望むことができ、灯台の役目も果たした。かつて九段坂は急坂であり、いくつかの段が築かれていたが、関東大震災後の帝都復興計画により勾配を緩やかにする改修工事が行われた。高燈籠は、当初は靖国通りをはさんで反対側に建てられていたが、この改修に伴い、大正十四年(1925年)に現在地に移転した。

Lantern Tower (Joto-Myodai)

The Lantern Tower was built in 1871 as an all-night light in front of the Yasukuni Shrine, which was known as the Shokonsha in those days. The height of the Lantern Tower is 16.8m with azimuth scale and the weather vane attached, which creates the impression of so-called pseudo-Western-style architecture. The Lantern Tower which had just installed is in the Nishiki-e painting painted by Kiyochika Kobayashi. (picture on the right) Because it was built atop Kudanzaka, the lamp in the Lantern Tower could be seen at night from Tokyo Bay, serving as a lighthouse and landmark for ships sailing off the coast of Shinagawa. In the past, Kudanzaka slopes used to be steep, having several steps between the slopes. According to the Imperial Capital Recovery Plan after the Great Kanto Earthquake, Kudanzaka was repaired to make the gradient gentle. Originally the tower was built on the other side of Yasukuni Dori Ave., but was relocated to the present location in 1925 as part of road improvement work.




田安門の辺りは古くは「田安口」または「飯田口」ともいい、上州方面への道が通じていたといわれています。門名の由来は、門内は田安台といって、始め百姓地で、田安大明神があったので門名と称としたといわれています。江戸城造営後は北丸と称し、代官屋敷や大奥に仕えた女性の隠遁所となりました。有名な千姫や春日局、家康の側室で水戸頼房の准母英勝院の屋敷などもこの内にありました。享保十六年(1731年)八代将軍吉宗の第二子宗武はここに一家を創立して田安家を興しました。宗武は賀茂真淵に師事し、国学の造形には深いものがありました。宗武の子松平定信(白河楽翁)はここで生まれました。幾度かの改修が行われたものの、江戸城の中で現存する最古の城門です。

田安門

この門は九段坂上にあり、門の前の土橋が千鳥ヶ淵と低地の牛ヶ淵の水位調整をしていました。江戸時代には江戸城北の丸から牛込門を経て上州(現在の群馬県)へ向かう道の起点でした。門の名は、この台地が田安台と呼ばれ、田安神社(現在の築土神社)があったことに由来します。門は元和六年(1620年)に建築され、寛永十三年(1636年)に修繕されたものが現在に伝わっていると考えられ、高麗門は江戸城のなかでは最も古い建築物です。現存する石垣は戦災により崩れ、昭和四十年(1965年)の北の丸整備に合わせて修復されたものですが、地上から2〜3段分は江戸時代の原型を保っています。

Tayasu-mon Gate

This gate is situated at the top of Hill of Kudan, and the earthen bridge in front of the gate regulated the water levels of Chidorigafuchi moat and Ushigafuchi moat, located on lower ground. During the Edo Period (1603-1868), the gate was the start of the road towards Joshu (now Gunma Prefecture) from the Kitanomaru (North Keep) past the Ushigome-mon Gate. The name of the Tayasu-mon Gate is derived from the fact that this plateau was called "Tayasudai," and that the Tayasu Shrine (now the Ushigome Tsukudo Shrine) stood here. The gate was constructed in 1620; it was repaired in 1636, and it is thought that this version still stands here today. It is the oldest structure within Edo Castle. The existing stone walls were destroyed in wartime, and were repaired at the same time as maintenance was carried out on the Kitanomaru in 1965. The original Edo Period structures of the second and third levels above ground have been preserved.




歩道脇の植え込みの中に石碑が置いてあり、北斎が描いた九段坂の錦絵と共に、解説文が添えられています。殆ど崖のような九段坂ですが、現在のようななだらかな勾配にするのは大変な労力が必要だったことでしょう。

くだんざか・うしがふち 葛飾北斎

北斎は、江戸本所に生まれる。その作画領域は極めて広く、独特の高い芸術性を示しているが、寛政末頃から亨和頃にかけて西洋画の技法を取り入れた、いくつかの風景版画を描いている。この画は画題と落款の平仮名文字を横に寝かせて、左書きにし、画面に入れたシリーズの最も代表的なものの一つである。右側の黄土色の急な坂は九段坂で、かっては“九段”のゆるやかな段がついていたという。この坂道に面して石垣と長屋塀の武家屋敷があり、坂道には人や家々などの陰が描かれている。その左の濃緑色の崖はさらに高く誇張し、画面の左半分は、はるばると遠景を見通す変化に豊んだ斬新な構図となっている。この画の特徴は樹木や崖に描線を用いず、陰影をつけて立体感を表わそうとしているところである。左の崖は上方が千鳥が淵、下は牛が淵、その中間を左に入る道は田安門に続き、現在は武道館への入り口となっている。空には夏雲がもくもくと湧き上がっていて、すべてが目新らしい西洋風の写生的空間表現となっている。

kudanzaka Ushigafuchi Katushika Hokusai

Katsushika Hokusai (1760-1849) was born in the Honjo section of Edo (now Tokyo). He produced a wide variety of art pieces which incorporated his unique sense of aesthetics. His woodblock prints from the end of the Kansei period to the beginning of the Kyowa period (around 1800) were influenced by Western art, which was a radical departure for Japanese art. This print is one of his most typical, characterized as it is by the title and the artist's name written on their side in hiragana and running from left to right. The steep, ocher slope on the right-hand side is Kudanzaka ("slope with nine steps"), which once had nine gently sloping steps. A Bukeyashiki (samurai's dwelling) with stone walling and Nagayabei (Japanese-style hedge) stands to the right, facing the slope. Silhouettes of people and other premises are also shown. On the left of the slope is a deep-green cliff, the height of which has been exaggerated by Hokusai. On the left-hand side of the print is a broad panorama, an original style of Hokusai. Hokusai used silhouettes for the trees and cliff, rather than outlining them in detail, in order to give a three-dimensional effect. The upper part of the cliff to the left of the print is called Chidorigafuchi and the lower part is called Ushigafuchi, The path going leftward leads to Tayasumon, now the entrance to the famous Budokan hall. The towering summer clouds, which depict the scene very realistically, are in the Western style that was new to Japan at that time.




九段坂下近くに、もうひとつの案内板が立っています。

九段坂

古くは飯田坂と呼ばれていました。名前の由来は、坂に沿って御用屋敷の長屋が九つの段に沿って建っていたためとも、急坂であったため九つの段が築かれていたからともいわれています。明治四年(1871年)、九段坂の上に靖国神社の燈籠として高燈籠(常燈明台)が建設されました。また、高燈籠に隣接して陸軍の将校クラブである偕行社が建てられました。関東大震災後の帝都復興計画で坂を削り緩やかな勾配にする工事が行われ、九段坂は大正通り(現在の靖国通り)として東京の主要な幹線道路の一部となりました。この工事の際、高燈籠は通りを挟んだ反対側(現在地)に移設されました。

Hill of Kudan

In the past, this was called Iida Hill. It is said that the nagaya (a number of tenement houses built under one long roof) of the official residence were built on nine levels (kudan) along the hill, and that nine levels were constructed due to the steepness of the hill, hence the name Hill of Kudan. The takadoro, a tall stone lantern that served as the lantern for Yasukuni Shrine, was constructed on top of Hill of Kudan in 1871, and the Kaikosha, a club for commissioned army officers was built nearby. The Imperial Capital Construction Plan after the Great Kanto Earthquake of 1923 carried out construction work that greatly reduced the hill, and created a gentle gradient. Hill of Kudan is even now an important part of a main thoroughfare in Tokyo called Taisho-dori (now Yasukuni-dori). When the construction was taking place, the takadoro was moved to the opposite side of the street, where it stands today.




案内板には、偕行社と移転前の高燈籠が一緒に写った写真が添えられています。偕行社は高燈籠に隣接して、明治十三年(1880年)に建てられました。右側の錦絵には高燈籠の前を行き交う人々が描かれています。刀を差した人もいますね。明治維新によって四民平等の政策が導入され、武士の身分を撤廃させるために廃刀令が公布されたのは明治九年(1876年)のことです。この錦絵の高燈籠が建てられたのは明治四年(1871年)ですから、描かれた時期は明治四年から明治九年の間と推定されます。


明治時代の九段坂上にあった陸軍の将校クラブ偕行社と高燈籠
Kaikosha (Army Officers' Club) and Takadoro lighthouse


明治時代初期の九段坂を描いた錦絵
Hill of Kudan in the 1870s.


ポイント3 「飯田町九段坂之図」 九段下

俎橋は、日本橋川に架かる橋です。古くは大橋・魚板橋とも呼ばれていたといわれています。俎橋の名の由来は、江戸時代に御台所町が近くにあったことに由来するといわれています。初代の俎橋は昭和四年(1929年)12月6日に長さ25.6m・幅42.0mのコンクリ−ト橋が架けられ、現在の橋は昭和五十八年(1983年)11月に掛け替えられました。



九段坂(旧名:飯田坂)は靖国神社前から俎橋まで下る坂で、飯田坂というのはその昔飯田喜兵衛という名主がそこに住んでいたことに因んでいます。一方、九段坂は昔御用屋敷の長屋が9段に建っていたためで、その名称は坂の段々の数に由来します。江戸名所図会「飯田町、中坂、九段坂」の図を見ますと、石階で9段に仕切られ、そこに長屋が建っている様子が描かれています。また、九段坂はその勾配が急なことで有名な坂でした。俗に立ちんぼうという坂を登る車を押す商売があって、坂下から坂上まで押して一銭でした。また、坂の隣の牛ヶ淵も牛が車を引いて坂を上がってくると坂が急なため牛もろともに淵に転落したことからその名付いたといわれています。歌川広重が描いた「飯田町九段坂之図」は、右半分に九段坂の坂上近い部分が、左半分に牛が淵、そして左上部に田安御門が描かれています。九段坂といえば、葛飾北斎にも有名な「九段牛ヶ淵」があります。北斎の絵も基本的には九段坂と牛ヶ淵の両方を望む構図で、多少のバリエーションはあるにしても、これが江戸時代の九段坂の絵のひとつの型であったといえるかもしれません。広重の画中の人物は、物売りや町人風の人物も見えますが、大半は二本差した武士です。九段近辺は、飯田町を除くとほとんどが武家地で、広重の人物もよくその土地柄を反映しています。左の画は「飯田町九段坂之図」の原画、右の写真は俎橋から眺めた九段坂下からの風景、です。



俎橋から日本橋川に沿って北に進みます。この辺りは九段一丁目の町域になります。

千代田区町名由来板 九段一丁目

この界隈が「九段」と呼ばれるようになったのは、幕府が四谷御門の台地より神田方面に下る傾斜地に沿って石垣の段を築き、江戸城に勤務する役人のための御用屋敷をつくったことからです。その石垣が九層にも達したことから、九段という通称が生まれました。当時の九段坂は、牛ヶ淵の崖っぷちを通る細くて寂しい道で、とても勾配がきつい坂でした。しかし、一本北側を走る中坂は、この界隈で唯一の町屋が並び、御用屋敷に日用品を供給するとても賑やかな通りだったようです。さらにこのあたりは、江戸初期のころより元飯田町の町名が付き、有名な戯作者の曲亭(滝沢)馬琴が使っていた井戸や幕府の蕃書調所などもありました。その後、幾多の変遷を経たのち、関東大震災後の復興計画が行われ、昭和八年(1933年)にこの町の区画整理が完成しました。町を東西に走る大正通り(現靖国通り)や南北に走る内堀通り、目白通りが拡幅整備され、都心部の重要な交通の拠点となりました。さらに町名も、飯田町一、二丁目と同四丁目の一部を合併して九段一丁目となりました。急だった九段坂は拡幅・掘削されて勾配がゆるやかになり、ここに市電が走るようになりました。このとき九段坂は神田・両国方面と新宿・渋谷方面を東西に結ぶ幹線道路となったのです。昭和四十年代中ごろまで、この坂を電車が上り下りする懐かしい光景を見ることができました。こうして江戸時代より受け継がれてきた九段坂は、激動の二十世紀の時代の流れの一端を静かに見守ってきた歴史的な坂でもあります。

九段一丁目と曲亭馬琴

この「場所」にはかって、人の歴史よりも長い悠久の時間があったはずである。その、堆積した時間の一番うえに、現在のこの「場所」はのっかっている。その、長い長い過去の中から、たった三十年ばかりを拾ってみる。寛政五年(1793年)。山東京伝に入門を願い、その後、蔦屋の手代となった下級武士の倅が、ここ元飯田町の下駄屋に婿入りした。その男は戯作者になるという夢が諦め切れず、家業のかたわらこの場所で小説を書き始める。曲亭馬琴の誕生である。文政七年(1824年)まで、馬琴はこの地で戯作を紡いだ。馬琴が硯を洗ったという井戸も残っている。「南総里見八犬伝」も「椿説弓張月」もここで生まれた。だからどうだ、と謂われてしまえばそれまでである。現在のこの街のこの「場所」に、たぶんそんなことは関係のないことである。それでもそうした故事来歴は、平面の地図上に幾許かの高さや深さを与えてはくれる。「場所」は、必ずしも過去時間の呪縛だけで成り立っているものではないけれど、ここがそうした「場所」だったという記憶と記録に転じて示しておくことも、そんなに悪いことではないように思う。         作家 京極夏彦

Kudan 1-chome

This area began to be called Kudan, or "nine layers", after the Shogunate built a stone wall running down this hill to be used for the residences of samurai. The once steep hill was made gentle during the recovery after the Great Kanto Earthquake.




「元飯田町跡」の案内柱が立っています。

元飯田町跡

江戸に家康が来て間もない頃、このあたりを案内したのが農民の飯田喜兵衛で、ここの名主を命じられ、飯田町と名付けられました。当時十七軒程の部落でした。江戸築城の大工事が進んで九段坂の両側にあった飯田町は現在の築地あたりに移転を命じられ、わずかに牛ヶ淵側に数軒を残すだけとなりました。しかし次第に旗本屋敷と交替しながら町屋を増やし、もちの木坂まで拡がって大変繁昌しました。ここを元飯田町、築地の方は南飯田町と呼びました。




アイガーデンエアの外周道路のあいあい橋人道橋近くの歩道脇に「讃岐高松藩上屋敷庭園跡」の案内板が立っています。

讃岐高松藩上屋敷の庭園跡

1999年〜2000年に行われた飯田町遺跡の調査では、讃岐高松藩上屋敷の暮らしぶりを彷彿とさせる様々な発見がありました。そのひとつに屋敷内の庭園に造られた池跡があります。池には神田上水を引き込み、岸には石垣や竹の土留めなどを用い、池の南端には景石(庭石)を置いていました。この石は国元から運ばれた可能性が考えられます。また池の中からは漆塗りの浮きが出土し、この池で釣りをしていたことがわかりました。さらに池の近くからは国元で焼かれた理平衛焼の陶器碗や皿も発見されています。

Site of Gardens in Residence of Takamatsu Domain, Sanuki Province

The Iidamachi Historic Site excavations undertaken from 1999 to 2000 made various discoveries that vividly remind us of the way of life in the main Edo residence of the Takamatsu Domain, Sanuki Province. One such discovery was the remains of a pond created in the gardens in the residence. Water for the pond was drawn from the Kanda Waterworks, stone blocks and bamboo earth retaining were used for the pond bank, and keiseki (natural garden landscaping stones) were placed at the south end of the pond. It is thought that this stone was brought from the home province. Also unearthed from the pond was a lacquer fishing float, revealing that the residents fished there. Discoveries near the pond include Rihei ware pottery bowls and plates fired in the home province.




中央線と並行して上がる皀角坂下に、神田三崎町の案内板が建っています。

千代田区町名由来板 神田三崎町一丁目

三崎町という町名が誕生したのは明治五年(1872年)のことです。江戸に幕府が開かれる以前、この地にあった「三崎村」が町名の由来といわれています。江戸が開発されるまで、現在の大手町から日比谷や新橋周辺には日比谷入江と呼ばれる遠浅の海が広がっていました。三崎村は、日比谷入江に突き出した「ミサキ(岬)」だったため、この名が付いたと伝わっています。JR水道橋駅のすぐ南側には三崎稲荷神社が鎮座しています。創建は詳らかではありませんが、鎌倉時代初期の建久年間(1190年〜1199年)よりも前とも伝わっており、とても歴史ある神社です。江戸時代には、三代将軍家光が自ら三崎稲荷を崇敬するばかりでなく、参勤交代の大名たちにも信仰させたことから、参勤登城する大名は必ず、まず三崎稲荷に参拝し心身を清めたそうです。ここから三崎稲荷は「清めの稲荷」とも称されています。閑静な武家地であった三崎町は、明治も中ごろを過ぎると劇場や飲食店が増え、賑やかな歓楽街へと生まれ変わります。隣町の三崎町二丁目には三崎三座と呼ばれる三つの劇場ができるなど、周辺も活気にあふれる町でした。関東大震災後の区画整理で、三崎町一丁目は昭和九年(1934年)に三崎町二丁目と統合されますが、町名は三崎町一丁目のままでした。昭和二十二年(1947年)神田区と麹町区が合併して千代田区になると、頭に神田を付けて神田三崎町一丁目に変わります。昭和四十二年(1967年)の住居表示実施では、神田三崎町一丁目は分割され、旧三崎町一丁目だった区域は三崎町一丁目と定められました。平成三十年(2018年)に、ふたたび頭に神田を付けることになり、神田三崎町一丁目と町名が変更され、現在に至っています。

Kanda-Misakicho 1-chome

In the Edo Period, this area was the site of a village named Misaki-mura. The village was located on a cape ("misaki" in Japanese) that jutted out into the Hibiya Inlet, which once covered the area nearby. In the Edo Period, many samurai lived here, but later it became an entertainment district with theaters and restaurants.




中央線の高架下を通って水道橋を渡ります。水道橋の近くには、神田川に関わる石碑があちこちに見られます。青銅のプレートには、水道橋の名前の由来として、「水道橋の名は、江戸名所図会によれば、この橋の少し下流にかけ樋があったことに由来します」と書かれています。図には、急流の中を川遊びする様子が描かれています。今のドブ川の風景からは想像もできません。



水道橋の袂に、年代物の神田上水の案内板が建っています。

神田上水

神田上水は、井の頭池の湧水を水源とする江戸時代初期につくられた日本最古の都市水道です。文京区関口に堰を設けて上水を取り入れ、小日向台下の裾をとおり小石川後楽園の中をぬけ水道橋の東側で神田川を掛樋でわたし、神田、日本橋方面に給水されていました。




水道橋を渡った先の外堀通りを水道橋交差点で右折します。元町公園の石垣の前に、お茶の水坂の案内板が立っています。お茶の水坂は、白山通りと外堀通りが交差する水道橋交差点から神田川の北岸沿いに東に上る緩やかな坂です。長さは約190mほどで、お茶の水に上る坂ということで「お茶の水坂」という坂名になりました。

お茶の水坂

この神田川の外堀工事は元和年間(1615年〜1626年)に行われた。それ以前に、ここにあった高林寺(現向丘二丁目)の境内に湧き水があり“お茶の水”として将軍に献上したことから、「お茶の水」の地名がおこった。「御府内備考」によれば「御茶之水は聖堂の西にあり、この井名水にして御茶の水に召し上げられしと・・・」とある。この坂は神田川(仙台堀)に沿って、お茶の水の上の坂で「お茶の水坂」という。坂の下の神田川に、かって神田上水の大樋(水道橋)が懸けられていたが、明治三十四年(1901年)取りはずされた。

   お茶の水橋低きに見ゆる水のいろ
      寒む夜はふけてわれは行くなり
         島木赤彦(1876年〜1926年)




ポイント4 「水道橋駿河台」 水道橋

歌川広重が描いた「水道橋駿河台」は、本郷台地から神田川に架かる水道橋越しに駿河台の町を見下ろす構図になっています。駿河台の名は、徳川家康とともに駿河(現在の静岡市)から移住してきた家臣達が住居を構えたことに由来しています。画では、端午の節句の大きな鯉幟が手前にくの字に曲がって翻っています。奥に広がる屋敷の方々で吹き流しや幟旗・魔除けの鍾馗の幟が見られますが、これらは武家の習わしで、鯉幟を上げるのは町人の文化でした。遠景には5月の澄み切った富士の姿が見えます。左は広重の描いた「水道橋駿河台」の原画、右の写真は元町公園の高台から水道橋方向を眺めた構図になっています。



ポイント5 「御茶之水之図」 お茶の水

皀角坂下に戻って、中央線の線路沿いに坂を上がります。

皀角坂

坂名は、サイカチの木が多く植えられていたことから名付けられました。サイカチは、野山にはえる落葉高木で、枝にとげが多く、花も実も豆に似ています。現在でも、二本のサイカチの木があり、秋になると豆状の実をつけています。




江戸時代には、皀角坂の中程辺りに神田上水の懸樋が架けられていました。

神田上水懸樋跡

江戸時代、この辺りには神田上水が神田川を越えるために設けた懸樋がありました。万治年間(1658年〜1661年)に架け替えられ、俗に万年樋と呼ばれました。神田上水は、江戸で最も早く整備された上水といわれ、慶長年間(1596年〜1615年)に整備に着手したといいます。井の頭池・善福寺池・妙正寺池を水源とし、現在の文京区関口あたりに堰が設けられ、小日向台から小石川後楽園を通り水道橋の下流に達しました。懸樋によって神田川を超えた上水は、この辺りから暗渠(埋樋)となり、南は京橋川、東は永代橋より大川(現在の隅田川)以西、北は神田川、西は大手町から一橋門外まで供給されました。なお、関口で神田上水から分水した余水は河川となります。牛込門外(現在の飯田橋)までは「江戸川」、牛込門外から下流は「神田川」と呼ばれました。

Site of Kanda Waterworks Aqueduct

A Kanda Waterworks Aqueduct which traversed the Kandagawa River stood near this area during the Edo Period. It was rebuilt between 1658 and 1661 and was commonly known as Mannendoi ("Everlasting Aqueduct"). The Kanda Waterworks were said to be the most quickly constructed waterworks in Edo, said to have continued from 1596 to 1615. The sources of the water were the Inokashira, Zenpukuji, and Myoshoji Ponds. A weir was set up near current-day Sekiguchi, Bunkyo City and the water reached the river downstream of Suidobashi Bridge, having passed from Kohinatadai through the Koishikawa Korakuen Gardens. After crossing the Kandagawa River via the aqueduct, the waterworks went underground into a colvert nearby here (buried pipes "umetoi") to supply Kyobashigawa River in the south; westward of Okawa River (current-day Sumidagawa River) from Eitaibashi Bridge in the east; Kandagawa River in the north; and from Otemachi to outside Hitotsubashi-mon Gate in the west. At Sekiguchi, excess water was diverted from the Kanda Waterworks into a river. Down until outside Ushigome-mon Gate (current-day Iidabashi) the river was called the Edogawa River, and from downstream outside Ushigome-mon Gate, it was called the Kandagawa River.




「御茶之水之図」は、お茶の水から水道橋方面を見た構図で、中央を流れる川は外堀(神田川)です。釣りをする人・石垣・橋など、その景観は現在にも少し残っていますが、橋は実は神田上水の水道で、水道橋の地名はここからきています。左の画は歌川広重の描いた「御茶之水之図」の原画、右の写真は皀角坂の坂上付近から水道橋を眺めた構図です。



御茶ノ水駅お茶の水橋口の交番横の植え込みの中に、「お茶の水」の地名の由来を記した石碑が建っています。鷹狩りに出た二代将軍秀忠がこの付近の高林寺に立ち寄ったとき、境内の名水で茶を点てました。その茶が美味しかったので、以後将軍家の茶の湯にこの水が用いられることになったといいます。

お茶の水

聖堂の西比井名水にてお茶の水にもめしあげられたり。神田川掘割の時、ふちになりて水際に形残る。享保十四年、江戸川拡張の後川幅を広げられし時、川の中になりて今その形もなし。
          「再校江戸砂子」より

慶長の昔、この邊り神田山の麓に高林寺という禅寺があった。ある時、寺の庭より良い水がわき出るので将軍秀忠公に差し上げたところ、お茶に用いられて大変良い水だとお褒めの言葉を戴いた。それから毎日この水を差し上げる様になり、この寺をお茶の水高林寺と呼ばれ、この邊りをお茶の水と云うようになった。其の後、茗渓又小赤壁と稱して文人墨客が風流を楽しむ景勝の地であった。時代の変遷と共に失われ行くその風景を惜しみ心ある人達がこの碑を建てた。




御茶ノ水駅の南側一帯は神田駿河台という町名になっています。これには、徳川家康が三河から江戸に移封されたことに関係しています。

駿河台(西)

高台である「駿河台」は元来、本郷・湯島台と地続きで、この南端に位置し、「神田山」と呼ばれていました。江戸に幕府を開いた徳川家康は、新たな町づくりのため、この神田山を切り崩し、江戸城の南に広がる日比谷入江(現在の日比谷公園、新橋周辺)を埋め立てました。しかし、埋め立てによって、それまで海に流れ込んでいた平川(神田川のもとになった川)の流れがとどこおり、下流で洪水が頻発するようになりました。そこで現在の飯田橋付近から隅田川まで、分流としての水路を確保し、あわせて江戸城の外堀の役目も果たす「神田川」が開削されたのです。こうしてこの界隈は、本郷・湯島台から切り離され、現在の駿河台が形成されました。さて、家康が駿府で没した後、家康付を解かれ、駿河から帰ってきた旗本(駿河衆)たちが、江戸城に近く富士山が望めるこの地に多く屋敷を構えました。駿河衆が住んでいたことや駿河国の富士山が見えたことなどから、この地は駿河台と呼ばれるようになり、多くの武家屋敷が立ち並ぶ地域となりました。江戸時代初期には、奈良奉行を勤めた旗本中坊長兵衛、また、幕末には勘定奉行や軍艦奉行を勤めた小栗上野介忠順などが居住していました。明治になると、武家屋敷の跡地が華族や官僚などの屋敷に変わり、加藤高明男爵邸、坊城俊長伯爵邸、小松官邸などいくつかの邸宅は昭和の初期まで残っていました。明治五年(1872年)に新たに定められたこの地域の町名は、駿河台西紅梅町、駿河台北甲賀町、駿河台南甲賀町、駿河台袋町、駿河台鈴木町(いずれも神田区)でした。関東大震災後の区画整理が終わった昭和八年(1933年)に現在の駿河台一丁目、駿河台二丁目に町名が変更され、昭和二十二年(1947年)に千代田区となってからもこの地名で親しまれています。

Surugadai (Western district)

The area was named Surugadai for a variety of reasons: after the death of the Shogun leyasu Tokugawa at Suruga, in today's Shizuoka Prefecture, some of his retainers came back to live here, and also because of the views of Mt. Fuji, which was located in Suruga.




湯島聖堂の外壁は特徴的な築地塀になっています。築地塀とは、石垣の基礎に柱を立てて貫を通した骨組みを木枠で挟み、そこに練り土を入れて棒でつき固める「版築」という方法で作られ、塀の上に屋根として簡便な小屋組を設け、瓦や板などで葺いたものも多くあります。現在でも御所や寺院などに築地塀が残っています。見るからに頑丈そうな外観です。築地塀の南を神田川に沿って昌平橋へ下る坂があります。「学問所周辺の三つの坂」とは、相生坂・昌平坂・団子坂(昌平坂の東側に開かれた坂)を指すらしいです。

相生坂(昌平坂)

神田川対岸の駿河台の淡路坂と並ぶので相生坂という。「東京案内」に、「元禄以来聖堂のありたる地也。南神田川に沿ひて東より西に上る坂を相生坂と云ひ、相生坂より聖堂の東に沿ひて湯島坂に出るものを昌平坂と云ふ。昔時は之に並びて其西に猶一条の坂あり。之を昌平坂と云ひしが、寛政中聖堂再建の時境内に入り、遂に此坂を昌平坂と呼ぶに至れり」とある。そして後年、相生坂も昌平坂とよばれるようになった。昌平とは聖堂に祭られる孔子の生地の昌平郷にちなんで名づけられた。

   これやこの孔子聖堂あるからに
      いく日湯島にい往きけむはや         法月歌客




湯島聖堂の案内板が立っています。

史跡湯島聖堂 孔子廟・神農廟と昌平坂学問所跡

■湯島聖堂と孔子

孔子は、2500年ほど前、中国の魯の昌平郷(現山東省濟寧市曲阜)に生まれた人で、その教え「儒教」は東洋の人々に大きな影響を与えた。儒学に傾倒した徳川五代将軍綱吉は、元禄三年(1690年)この地に「湯島聖堂」を創建、孔子を祀る「大成殿」や学舎を建て、自ら「論語」の講釈を行うなど学問を奨励した。

■昌平坂学問所跡

寛政九年(1797年)幕府は学舎の敷地を拡げ、建物も改築して、孔子の生まれた地名をとって「昌平坂学問所」(昌平黌ともいう)を開いた。学問所は、明治維新(1868年)に至るまでの70年間、官立の大学として江戸時代の文教センターの役割を果たした。学問所教官としては、柴野栗山、岡田寒泉、尾藤二洲、古賀精里、佐藤一齋、安積艮齋、鹽谷宕陰、安井息軒、芳野金陵らがおり、このうち佐藤一斎、安積艮齋らはこの地が終焉の地となっている。

■近代教育発祥の地

明治維新により聖堂は新政府の所管となり、明治四年(1871年)に文部省が置かれたほか、国立博物館(現東京国立博物館・国立科学博物館)、師範学校(現筑波大学)、女子師範学校(現お茶の水女子大学)、初の図書館「書籍館」(現国立国会図書館)などが置かれ、近代教育発祥の地となった。

■現在の湯島聖堂

もとの聖堂は、4回の江戸大火に遭ってその都度再建を繰り返すも、大正十二年(1923年)関東大震災で焼失した。その後「假聖堂」を営み、昭和十年(1935年)鉄筋コンクリート造で寛政の旧に依って再建され、今日に至っている。入徳門は宝永元年(1704年)に建てられたものがそのまま残っており、貴重な文化財となっている。




丈高15呎(4.57メートル)・重量約1.5トンの孔子の銅像は世界最大の大きさです。昭和五十年(1975年)に中華民国台北市ライオンズ・クラブから寄贈されました。銅像の脇に石碑が建っています。



大成殿は、間口20メートル・奥行14.2メートル・高さ14.6メートルの入母屋造りで、殿内の中央の神龕(厨子)に孔子像・左右に四配として孟子・顔子・曽子・子思の四賢人を祀っています。「大成」とは、孔子廟の正殿の名称で、宋(北宋)の仁宗のときに命名されました。「孟子」万章下「孔子聖之時者也、孔子之謂集大成、集大成也者、金聲玉振之也。」に基づいています。



ポイント6 「神田明神」 外神田

神田明神西門大鳥居から神田明神に入ります。



神田明神の表門といえば随神門ですね。随神門は1975年に昭和天皇即位50年を記念して再建されました。

江戸総鎮守神田明神
神田神社御由緒

正式名称・神田神社。東京都心百八町会の総氏神で、神田・日本橋・秋葉原・大手町丸の内、そして東京の食を支える市場の発祥地の氏神様として青果市場・魚市場の人々からも篤く崇敬されております。縁結び、家内安全、商売繁昌、社運隆昌、除災厄除、病気平癒など数多くのご神徳をお持ちの神々です。当社は、天平二年(730年)のご創建で、江戸東京の中で最も歴史ある神社のひとつです。はじめは現在の千代田区大手町・将門塚周辺に鎮座していましたが、徳川家康公が江戸に幕府を開き江戸城が拡張された時、江戸城から見て表鬼門にあたる現在の地へ遷座いたしました。それ以降、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府から江戸庶民にいたるまで多くの崇敬を受けました。さらに明治に入り、准勅祭社・東京府社に列格し皇居・東京の守護神と仰がれ、明治天皇も親しくご参拝になられました。当社のご社殿は、近代神社建築を代表する建築家大江新太郎らの設計により昭和九年、日本初の本格的な鉄骨鉄筋コンクリート・総漆朱塗造の権現造で建立され、現在、国登録有形文化財に指定されております。また境内には総檜造の随神門や伝統文化の魅承や新たな文化発信の拠点として平成三十年に竣工した文化交流館、今和二年にリニューアルした結婚式場・明神会館など新旧様々な建造物がございます。縁結びのご神徳から神前結婚式も多く行われております。資料館には、数千点の貴重な絵巻や浮世絵等が所蔵されています。また小説やドラマで有名となった銭形平次等、多くのドラマやアニメの舞台としても知られています。当社の祭礼・神田祭(かんだまつり)は二年に一度執り行われ、江戸時代には江戸城内に入り徳川将軍が上覧したため、御用祭とも天下祭とも呼ばれました。また日本三大祭・江戸三大祭の一つにも教えられております。現在は鳳輦(ほうれん:屋根に鳳凰の飾りのある天子の車)・神輿をはじめとする祭礼行列が神田・日本橋・秋葉原・大手町丸の内の百八町会を巡行する「神幸祭」と、氏子の町神輿約百基が神社へ宮入りする「神輿宮入」を中心に賑やかに行われております。当社は令和十二年(2030年)に創建千三百年の節目を迎えます。創建千三百年を迎えるにあたり、今日この瞬間にも、そして未来においても常に新しく瑞々しい場所であり続けるよう社殿の修復を中心に千三百年の記念事業を推進してまいります。




神田明神(神田神社)は、江戸城の表鬼門除けに鎮座する江戸総鎮守です。日本経済の中心である大手町や丸の内の他、神田・日本橋・秋葉原など、日本経済の中枢をなす108町会を氏子地域に持ち、企業の仕事運と商売繁盛を祈願するうえで欠かせない神社となっています。権現造りの拝殿は、近代神社の建築を手掛けていた建築家伊東忠太・大江新太郎・佐藤功一らによって造られました。拝殿には1934年の竣工当時には画期的であった鉄骨鉄筋コンクリートが使われています。その頑丈さは東京大空襲を耐え抜いたほどです。また、参拝者が靴を履いたまま拝礼できる構造が採用されています。



拝殿の右手に「獅子山」があります。獅子山は親子の獅子像ですが、1923年の関東大震災の時に子供の獅子が失われました。1990年に新しく子供の獅子が作られ、現在の「獅子山」になっています。

千代田区指定文化財
石獅子

この石獅子は、区内に残る数少ない江戸期の石造物のひとつです。享保年間(1716年〜1735年)に、下野(現在の栃木県)の名工・石切藤兵衛が作ったものといわれています。文久二年(1862年)11月に両替屋仲間が石を積んで神田神社へ奉納したという記録があります。3頭の石獅子は、親獅子が谷底へ突き落した子獅子を見る構図になっています。このうち江戸期以来のものは夫婦2頭のみで、子獅子と獅子山は大正十二年(1923年)の関東大震災で失われ、平成元年(1989年)に天皇即位を記念して再建されました。
* 千代田区指定文化財は獅子の夫婦2頭

Chiyoda City Designated Cultural Property
Stone Lions

This stone sculpture is one of the few remaining stone sculptures in Chiyoda City from the Edo Period. It is said it was made by the master stonemason Ishikiri Tobe from Shimotsuke (current-day Tochigi Prefecture) the Kyoho Era (1716-1735). Records show the associates of a money-exchange shop dedicated a load of stone to Kanda Jinja Shrine in November 1862. The composition shows 3 stone lions, the parent lions looking at the lion cub pushed down below. Meanwhile, what survived from the Edo Period was the lion couple only, the lion cub and the lion rock being lost in the Great Kanto Earthquake of 1923, but in 1989 it was rebuilt to commemorate the enthronement of His Majesty the Emperor.
* The lion couple are the Chiyoda City Cultural Property




拝殿の前に大きな天水桶が置かれています。

千代田区指定文化財 鉄製天水桶

神田神社拝殿前にある鉄製の天水桶一対は、地上からの高さが約1.3メートルあり、弘化四年(1847年)9月、摂州灘大石(現在の兵庫県)と筋違外(現在の外神田一丁目)の酒屋が発起人となり、神田あるいは新川(現在の中央区)辺りの酒屋5名を世話人として奉納されました。天水桶の鋳造には、2人の鋳物師が関わっていて、神田在住の堀口武兵衛が仕事を請負い、川口(現在の埼玉県)在住の永瀬源七に鋳造させたと考えられます。

Chiyoda City Designated Cultural Property Iron Rainwater Tub

This pair of iron rainwater tubs in front of Kanda Jinja Shrine's front shrine are about 1.3 m high from the ground. Liquor merchants from Nada and Oishi of Sesshu (current-day Hyogo Prefecture) and Sujikaisoto (current-day Sotokanda 1-chome) initiated the dedication of the tubs in September 1847, which was managed by five liquor merchants in the Kanda or Shinkawa (current-day Chuo City) areas. Two metal casters are believed to have been involved in the casting of the rainwater tubs: the work was subcontracted to Horiguchi Buhee, a resident of Kanda, and Nagase Genshichi, a resident of Kawaguchi (current-day Saitama Prefecture) casted them.




神田明神には様々な職種の人たちの崇敬を集める境内社がありますが、魚河岸水神社もその一社です。

魚河岸水神社

日本橋魚河岸水神社は、徳川家の武運長久と併せて大漁安全を祈願する為、魚河岸の先人により武蔵国豊嶋郡柴崎村神田神社境内(今の千代田区大手町)に鎮座された。元和年間(1615年〜)神田神社と共に此の地に遷り、大市場交易神と称されその後、水神社と改称し更に明治二十四年(1891年)魚河岸水神社と社名を変更し、日本橋魚市場の守護神として崇敬されている。なお、日本橋より築地に移った築地中央卸売市場内には、当社の遥拝所が建てられ、市場に関わる人々の篤い信仰により支えられている。当神社の崇敬体「魚河岸会」の所有する加茂能人形山車は、江戸城内に参内し徳川歴代将軍の上覧に浴し、再三褒賞を賜った江戸の代表的山車であったが惜しくも関東大震災により烏有に帰した。その後、昭和三十年江戸文化の一端を永く後世に遺す為、文久二年(1862年)当時そのままの山車を再現した。隔年に行われる神田祭には、その絢爛豪華な山車の全容を拝観することができる。




神田明神の境内には、「三天王」あるいは「牛頭天王三社」と呼ばれる3つの摂末社があり、一の宮は江戸神社、二の宮は大伝馬町八雲神社、そして三の宮が小舟町八雲神社です。

三天王 三の宮
小舟町八雲神社

この神社は江戸城内吹上御苑より神田神社と共にこの地に遷座された。小舟町[貞享年間(1684年〜)までは小伝馬町]お仮屋を有し神輿が渡御されたことから小舟町の天王と称された。明治以前は公命により、江戸全町域の疫病退散の為、江戸城内・北奉行所・日本橋々上に神輿を奉安し祈祷が行われた。東都歳時記によれば、当時の天王祭は一丁目にお仮屋ができ大提灯・大注連縄が張られ、二丁目には七、八間の絹張りの神門が造られその左右に随神が置かれ長さ五丈の杉の木を植込み、鰹節の樽積みが高々と重ねられた。三丁目には須佐之男命と稲田姫の造り物、八岐大蛇の行灯、天王祭の大幟をたて神輿の神幸を待った。神輿は六月十日に明神境内を発輿して氏子百八十か町を巡り還輿するのは十三日か十四日その間の里程は十三里に及んだといわれる。このことか十三里天王ともいわれた。近年では、八雲祭と改められ小舟町街中に壮大なお仮屋がたてられ、華麗にして勇壮な大神輿の神幸祭が不定期に斎行されている。




拝殿の前に鉄製の天水桶が置かれています。

千代田区指定文化財
小舟町八雲神社鉄製天水桶

小舟町八雲神社の天水桶は、江戸の魚問屋仲間の遠州屋新兵衛他10名によって、文化八年(1811年)に奉納されました。深川大島の鋳物師で当時「釜六」と呼ばれた太田近江大掾藤原正次の作とされていますが、左右一対の天水桶のうち、本殿左側のものは失われ、安政四年(1857年)に再建されています。小舟町八雲神社は江戸時代には祇園牛頭天王社(三の宮)と呼ばれていました。魚問屋仲間が集住していた小舟町(現在の中央区日本橋小舟町)の人々により崇敬されるようになり、現在に至ります。

Chiyoda City Designated Cultural Property
Kobunacho Yakumo Jinja Shrine Iron Rainwater Tubs

The iron rainwater tubs at Kobunacho Yakumo Jinja Shrine were dedicated in 1811 by Enshuya Shinbee and 10 other Edo fish mongers. Thought to be the work of Ota Omi no Daijo Fujiwara no Masatsugu, known as "Kamaroku" at the time, the metal caster of Fukagawa Ojima, the main shrine's left-hand rainwater tub of the pair was lost, but was remade in 1857. Kobunacho Yakumo Jinja Shrine was called Gion Gozu Tennosha Shrine (Sannomiya) in the Edo Period. They came to be revered by the people of Kobunacho (current-day Kobunacho, Nihombashi, Chuo City), where fish mongers lived, and this has carried on to current times.




大伝馬町八雲神社は、神田神社境内の神社(摂社)で小舟町八雲神社、江戸神社とともに江戸時代には、祇園牛頭天王三社(ごずてんのうさんじゃ)と呼ばれていました。

三天王 二の宮
大伝馬町八雲神社

この神社は江戸時代以前に祀られていたと伝えられる。三天王の二の宮の天王祭は、六月五日明神境内を発輿し、氏子中を神幸し大伝馬町の御仮屋へ渡御して八日に還輿していた。このことから大伝馬町天王と称されていた。この祭は元和元年(1615年)頃より行われて、江戸時代には他の天王祭と共に大変な賑わいの一つであった。今日でも大伝馬町一丁目・本町三丁目東町会の有志会(神田祭の一番山車大伝馬町諫鼓山車より命名)の人々の篤いご信仰がある。尚、東京の風物詩「べったら市」も神田神社兼務社日本橋宝田恵比寿神社で諫鼓会の人々により祭礼伝統文化行事として継承されている。




拝殿の前に鉄製の天水桶が置かれています。

千代田区指定文化財
大伝馬町八雲神社鉄製天水桶

大伝馬町八雲神社は、神田神社境内の神社(摂社)で小舟町八雲神社、江戸神社とともに江戸時代には祇園牛頭天王三社と呼ばれていました。天水桶は防火用水などに使うため、雨水を溜めるためのものです。深川大島の鋳物師太田近江大掾藤原正次(通称:釜六)の作です。反物などの流通を一手に担う問屋仲間が天保十年(1839年)6月に奉納したものです。彼らは祭礼費用を賄うなど、神社と深い結び付きを持っていました。

Chiyoda City Designated Cultural Property
Odenmacho Yakumo Jinja Shrine Iron Rainwater Tubs

Odenmacho Yakumo Jinja Shrine is a shrine (auxiliary shrine) in the grounds of Kanda Jinja Shrine. Together with Kobunacho Yakumojinja Shrine and Edo Jinja Shrine, they were called Three Gion Gozu Tenno Shrines in the Edo Period. The tubs are for collecting rainwater to use in case of fire, etc. They are the work of Ota Omi no Daijo Fujiwara no Masatsugu (commonly called "Kamaroku"), the metal caster of Fukagawa Ojima. Merchants who were full responsible for the distribution of textiles, etc., dedicated the tubs in the sixth month of 1839. They had a strong connection with the shrine and provided for the costs of shrine festivals, etc.




神田明神には多くの境内末社がありますが、そのうちの7社の石鳥居を潜ると御利益があるそうです。

七つの石鳥居をくぐり お参りできる 境内末社めぐり

末廣稲荷神社
金刀比羅神社
三宿稲荷神社
浦安稲荷神社
旧神田市場 千貫神輿
大田市場  江戸神社
大伝馬町  八雲神社
小舟町   八雲神社
築地魚河岸 水神社

社日参り
春秋の彼岸の中日に一番近い戌の日のお参り。この日神社に詣でて、五穀豊穣・身体健康を祈る信仰がある。この時石の鳥居を七つくぐってお参りすると、中風・ぼけ封じにもなるという古くからの信仰と慣習がある。都内では、七つの石鳥居が揃った神社は、なかなか見当らず、この日には、多くの参詣がある。毎、戌(つちのえ)の日のお参りには、古例にならい家清めの「お砂」を授与致しております。




神田明神にも力石が奉納されています。

千代田区指定文化財 力石

力石とは、一定重量の円形または楕円形の石で、 神社の境内や会所(地域の集会や寄合いを行う場所)などにあって、若者達が力試しに用いたと言われています。神田神社境内にある力石の由来は銘文があり、文政五年(1822年)12月に神田仲町二丁目(現在の外神田一丁目)の柴田四郎右衛門が持ち上げたことが分かります。江戸・東京の若者達の生活と娯楽を知るうえで貴重な資料です。

Chiyoda City Designated Cultural Property Chikaraishi (Strength Stone)

Chikaraishi are round or oval shaped stones (ishi) of a certain weight kept in shrine grounds or meeting places (places where the local community gather or meet), etc., and are said to have been used to test young men's strength (chikara). The origin of the strength stone in the grounds of Kanda Jinja Shrine is unclear, however, it is an invaluable artifact informing us about the lives and amusements of young men in Edo and Tokyo. This strength stone has an inscription telling us that Shibata Shirouemon from Kanda Nakacho (current-day Sotokanda 1-chome) lifted the stone in December 1822.




角田竹冷の句碑が建っています。

角田竹冷の句碑

   白うおや
      はばかりながら
         江戸の水

安政三年(1856年)五月に静岡県富士郡加島村に誕生。職業は明治初期の「代言人」(今の弁護士)であったが、俳人として名を知られていた。明治二十八年十月、みずから発起者となり、尾崎紅葉・岡野知十・巌谷小波・川上眉山・戸川残花らの参加を得て秋声会を組織し、翌年十一月俳詩「秋の声」を創刊した。明治三十年六月「卯杖」を出し、後に「木太刀」と改題主宰した。正岡子規の日本派とともに、俳句革新運動の一勢力をなした時もあった。晩年は古俳書の収集に熱中した。いま「竹冷文庫」として東京大学図書館に保管されている。竹冷は大正八年(1919年)三月二十日六十六歳で没す。




江戸神社は大宝二年(702年)に武蔵国豊島郡江戸の地、今の皇居の中に創建された大江戸最古の地主の神です。古くは江戸大明神・牛頭天王(ごずてんのう)・江戸の天王と称せられたともいわれています。慶長八年(1603年)に江戸城の拡張により神田神社とともに神田台に移り、更に元和二年(1616年)に此の地に遷座しました。

三天王 一の宮
江戸神社

大寶二年(702年)武蔵国豊嶋郡江戸の地(今の皇居の内)に創建された大江戸最古の地主の神であります。古くは江戸大明神あるいは江戸の天王と称された。鎌倉時代には、江戸氏の氏神として崇敬され、その後江戸氏が多摩郡喜多見村に移住の後、太田道灌築城してより、上杉氏・北条氏等引続き城地に祀ったが慶長八年(1603年)江戸城の拡張により、神田神社と共に神田台に遷り、更に元和二年(1616年)に当地に遷座された。江戸時代中期以後は牛頭天王と称され、明治元年(1868年)に須賀神社と改称、更に明治十八年(1885年)に江戸神社と復称された。この神社は、江戸開府の頃幕府の食を賄う菜市が開かれその後、貞享年間(1684年〜)に神田多町一帯に青物商が相集い市場の形態が整った。こうした発祥の頃から市場の守護神として崇敬されてきました。現社殿は平成元年神田市場が大田区東海の地に移転するにあたり江戸神社奉賛会の人々により今上陛下御即位大礼の記念として、大神輿を御神座として再建鎮座された。

◎三天王祭・一の宮江戸神社の祭について
慶長十八年(1613年)より始まったと伝えられる神輿の神幸は六月七日の朝、明神の境内を発輿して南伝馬町二丁目に設けられた御仮屋に入り、氏子の町々を渡御して十四日還輿された。その神幸の様は実に勇壮厳粛な行列であったと伝えられる。現存する大神輿は、日本有数の華麗にして巨大な神奥で、通称「千貫神輿」として人々に親しまれ、神田祭に担がれる凡そ二百基の神輿の象徴でもあります。




江戸神社の神輿は、俗に千貫神輿と呼ばれています。

江戸神社

殿内に御帳台として納められおります大神輿は、神田祭に市場発祥の地・神田多町への巡行渡御が行なわれます。千数百人の担ぎてにより、手古舞・大獅子と共に宮入参拝が行なわれます。神田神社の三体の御祭神をお乗せした鳳輦・神輿を中心にした神幸祭には、時代行列・付け祭の行列を従え、土曜日夕方のご還座時には一キロ以上に及ぶ最大の行列となります。翌日曜日には早朝より夜間に至る迄、宮入参拝の神輿が境内を埋め尽くします。大小二百台以上の神輿が街中で担がれる江戸っ子の姿は実に壮観なものです。




神田明神に浦安稲荷神社とは妙な取り合わせですが、千葉県の浦安とは関係ないようです。

浦安稲荷神社

   御祭神 宇迦之御魂神
   祭礼日 三月午の日

この神社は、往古江戸平川の河口に近き一漁村の住民により祀られ、天正年間(1573年〜)徳川家康公江戸入府に当り城下町整備に際し鎌倉町の成立と共にその守護神として勧請されました。寛政九年(1797年)同町の崇敬の念篤き大工職平蔵により、社殿が造営され、爾来、浦安稲荷社として伝えられています。その後天保十四年(1843年)八月、町割改めに際し神田明神社御境内に遷座、さらに明治維新及びその後の戦火災に依り復興できぬ内神田稲荷社五社を合祀し今日に至っている。




今も湯島台地に建つ神田明神は東側が開けて眺めが素晴らしかったといわれています。二代歌川広重の東都三十六景「神田明神」は、雪の積もった境内の様子を描いています。



神田明神の境内の奥から宮本公園に下ります。公園の隅に立派な銅像が建っています。

千代田区指定文化財 三谷長三郎胸像

三谷家は紀伊国屋という屋号の商家で、万治三年(1660年)の創業以来、神田塗師町(現在の鍛冶町二丁目)で銅や真鍮などを取り扱っていました。この胸像は、十代目三谷長三郎を讃えるものです。三谷長三郎は明治二年(1869年)に生まれ、家業を近代企業へと大きく発展させました。明治四十二年(1909年)には三谷報恩会を設立し、のちに財団化します。この財団を社会福祉事業への基盤とし、地元の神田区の学校教育のために資金や備品を積極的に支援しました。三谷長三郎の三回忌にあたる昭和九年(1934年)、神田区内の人々が中心となり生前の教育普及事業への功績に感謝を表して、神田神社の裏手、大銀杏の側に銅像を建設しました。像の制作は「長崎平和祈念像」の作者としても有名な北村西望(1884年〜1987年)です。昭和三十六年(1961年)に神社境内の再開発により、像は現在の宮本公園内に移設されました。

Chiyoda City Designated Cultural Property Statue of Mitani Chozaburo

The Mitani family was a merchant family who owned the Kinokuniya trade name, trading in copper and brass, etc., in Kanda Nushicho (current-day Kajicho 2-chome) after establishment in 1660. This statue is in honor of the 10th generation family head, Mitani Chozaburo. Mitani Chozaburo was born in 1869 and transformed the family business into a contemporary business. In 1909, the Mitani Appreciation Society was established and later became a foundation. As the underpinning for their social welfare work, the foundation actively supported local school education in Kanda Ward with funding and equipment. In 1934, the third anniversary of Mitani Chozaburo's passing, the people of Kanda Ward led an initiative to erect a statue beside a large ginkgo tree behind Kanda Jinja Shrine, as an expression of appreciation for a lifetime of service to the enhancement of education. The statue was made by Kitamura Seibo (1884-1987), who famously made the Nagasaki Peace Memorial Statue. The statue was relocated to its current location in Miyamoto Park in 1961, owing to redevelopment of the shrine grounds.




蔵前橋通りの清水坂下交差点から長さ約100mほどの急坂の清水坂を上がります。明治時代、ここの土地は清水精機会社の所有でした。大正時代に入ってから清水精機社は土地を町に提供し、坂道を整備しました。この功績を称えて「清水坂」の坂名が付けられました。坂下近くに「清水坂」と刻まれた石柱が建っています。

清水坂

江戸時代、このあたりに、名僧で名高い大超和尚の開いた霊山寺があった。明暦三年(1657年)江戸の町の大半を焼きつくす大火がおこり、この名刹も焼失し、浅草へ移転した。この霊山寺の敷地は、妻恋坂から神田神社(神田明神)にかかる広大なものであった。嘉永六年(1853年)の「江戸切絵図」を見ると、その敷地跡のうち、西の一角に島田弾正という旗本屋敷がある。明治になって、その敷地は清水精機会社の所有となった。大正時代に入って、湯島天満宮とお茶の水の間の往き来が不便であったため、清水精機会社が一部土地を町に提供し、坂道を整備した。そこで、町の人たちが、 清水家の徳をたたえて、「清水坂」と名づけ、坂下に清水坂の石柱を建てた。




ポイント7 「妻恋こみ坂の景」 湯島

清水坂の途中から右折し、妻恋坂に入ります。妻恋坂は、妻恋神社の前から昌平橋通りまで延びる長さ約210mほどの下り坂です。大超坂・大長坂・大帳坂・大潮坂など、多くの別名があります。妻恋神社の前を通る坂であることから、妻恋坂という坂名になりました。

妻恋坂

大超坂・大潮坂・大長坂・大帳坂と別名を多く持つ坂である。「新撰東京名所図会」に、「妻恋坂は妻恋神社の前なる坂なり。大超坂とも云ふ。本所霊山寺開基の地にて、開山大超和尚道徳高かりしを以て一にかく唱ふといふ」とある。この坂が「妻恋坂」と呼ばれるようになったのは、坂の南側にあった霊山寺が明暦の大火(1657年)後浅草に移り、坂の北側に妻恋神社(妻恋稲荷)が旧湯島天神町一丁目あたりから移ってきてからであろう。




妻恋神社とはロマンチックな名前ですが、名前の由来は悲しい物語に因んでいます。

妻恋神社

祭神は、倉稲魂命・日本武尊・弟橘媛命の三柱である。

江戸時代に当社に伝わった縁起によると、その昔、日本武尊が東征の折、この地へきて倉稲魂神(稲荷神)を祀ったことを起源であるとする。また、日本武尊が三浦半島から房総へ渡る時、大暴風雨に遭い、妃の弟橘媛命が身を海に投げて海神を鎮め、一行を救ったことから、妃を船魂神(海神)として当社に祀ったという。江戸時代、当社は正一位妻恋稲荷大明神と呼ばれ、多くの参詣人を集めた。また、関東近辺のひとびとの求めに応じて各地に稲荷社を分霊したり、「野狐退散」の祈祷などをおこなったりした。当社は、関東総司とも称したほか、江戸時代後期に作られた「稲荷番付」では行司の筆頭にあり、江戸にあった多くの稲荷社の中でも特別な地位に位置付けられ、高い社格を有した。




妻恋稲荷神社は、江戸時代には関東総司稲荷神社とされていて、「關東總司妻戀神社」と称し、日本七社(日本七稲荷)のひとつに数えられ、王子稲荷神社と並んで多くの参詣人が訪れました。



歌川広景の浮世絵「江戸名所道化尽」の中に「妻恋ごみ坂の景」という浮世絵があります。道端の厠で用を足す武士と、鼻をつまんで控えている供の者、というユーモラスな光景が描かれています。歌川広景は、広重の弟子ともいわれていますが、生没年を含めて詳細は不明とのことです。



この坂は現在も存在し、妻恋坂の途中から妻恋神社の東側を北に入る狭い道で、長さは約60mほどあります。妻恋坂から直ぐに7段の石段があり、その先は緩やかな坂道になっていて、最上部は再び13段の階段になっています。階段の上はフェンスを隔てて東都文京病院(旧小平記念東京日立病院)の敷地になっています。爪先を立てて上る坂という意味で立爪坂の名前になりました。昔はそれだけ急な坂だったのでしょう。別名を芥坂といいますが、浮世絵に石段が描かれているので、立爪坂が浮世絵に描かれた坂なのでしょう。



ポイント8 「昌平坂乃遠景」 湯島

蔵前橋通りに出て妻恋坂交差点で右折し昌平橋に入ります。神田明神下交差点で右折し、直ぐ先の交差点を左折したところに外神田二丁目交差点があります。



一勇斎国芳(歌川国芳)が描いた東都富士見三十六景「昌平坂乃遠景」は、この地点から昌平坂方面を遠望したものです。歌川国芳は江戸時代末期の浮世絵師で、画号は文政初年から万延元年にかけて一勇斎国芳といい、後に彩芳舎(文政中期)、朝桜楼(天保初年から万延元年)、雪谷、仙真とも号しました。歌川を称し、江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人であり、画想の豊かさ・斬新なデザイン力・奇想天外なアイデア・確実なデッサン力を持ち、浮世絵の枠にとどまらない広範な魅力を持つ作品を多数生み出しました。



昌平坂は長さ約95mほどの緩やかな坂で、別名を昌平脇坂・団子坂といいます。江戸時代に昌平黌が開所した時は、学問所周辺の三つの坂はひとしく「昌平坂」と呼ばれました。その後、3つの坂名に分れましたが、この坂は昌平坂の名前を引き継ぎました。

昌平坂

湯島聖堂と東京医科歯科大学のある一帯は、聖堂を中心とした江戸時代の儒学の本山ともいうべき「昌平坂学問所(昌平黌)」の敷地であった。そこで学問所周辺の三つの坂をひとしく「昌平坂」と呼んだ。この坂もその一つで、昌平黌を今に伝える坂の名である。元禄七年(1694年)9月、ここを訪ねた桂昌院(五代将軍徳川綱吉の生母)は、その時のことを次のような和歌に詠んだ。

   萬代の秋もかぎらじ諸ともに
      まうでゝ祈る道ぞかしこき




ポイント9 「昌平橋聖堂神田川」 神田淡路町

神田川に架かる外堀通りの橋が昌平橋です。現在の橋は昭和三年に架橋され、当初は万世(よろずよ)橋と呼ばれましたが、昭和五年から橋名をひとつ下流の橋(万世橋)に譲り、こちらは昌平橋となりました。

昌平橋

昌平橋は、江戸城外堀(現在の神田川)に架かる橋の一つで、寛永年間(1624年〜1644年)に架けられたと伝えられています。橋際から駿河台に登ると一口稲荷(現在の太田姫稲荷神社)があり、一ロ橋とも呼ばれました。他にも、相生橋という呼称もありました。その後、元禄四年(1691年)に湯島に孔子廟が設けられてからは、孔子誕生地の昌平郷にちなんで昌平橋と呼ばれるようになりました。少し下流にあった筋違門とともに、中山道・日光御成道の主要通路として利用されており、橋の南側は「八つ小路」と呼ばれる広場として賑わいました。

Shoheibashi Bridge

Shoheibashi Bridge is one of the bridges that crossed Edo Castle's outer moat (current-day Kandagawa River) and is said to have been built in the Kanei Era (1624-44). It was also called Imoaraibashi Bridge as Imoarai Inari (current-day Otahime Inari Shrine) stands on Surugadai upwards from the bridge. It was also referred to as Aioibashi Bridge. It later came to be known as Shoheibashi Bridge after Shoheikyo, the birthplace of Confucius, following erection of a shrine to Confucius in Yushima in 1691. Along with Sujikai-mon Gate, which was a short distance downstream, the bridge was used as a major thoroughfare for the Nakasendo Road and the Nikko Onarimichi Road, and there was a bustling public square called Yatsukoji at the south end of the bridge.




「昌平橋聖堂神田川」は、歌川広重の作品「名所江戸百景」の第46景で、坂道に段々の築地塀が並ぶ湯島の名所を神田の昌平橋から描いた一枚です。画題にある「聖堂」とは、「湯島聖堂」を指します。昌平橋の袂から神田川越しに聖堂を望んでいる構図となっています。右下に橋の欄干、左に緑の崖を配して描き、近景を枠とすることで奥行きを出す得意の構図です。左の斜面は、江戸城の外堀でもあった神田川沿いの土塁で、川向こうに見えるのは当時の昌平坂(現・相生坂)です。聖堂の築地塀が印象的で、傾斜に合わせて段々に並ぶ姿は江戸名所のひとつであったことでしょう。暗い雨空と深い緑の中、白い塀を浮き立たせることで聖堂全体の存在感を表現しているかのようです。左は「昌平橋聖堂神田川」の原画、右の写真は同じ構図で撮ったものです。



左にあった土塁は、明治四十年代にレンガ造りの高架橋へと姿を変え、現在は高架下を活用したレトロな雰囲気の「BRICK MALL(ブリックモール)」という飲食店になっています。



ポイント10 「筋違内八ツ小路」 神田須田町

昌平橋を渡り、左折してJR中央線の高架の煉瓦壁沿いに進みます。筋違門跡の案内板が立っています。

御成道(筋違門跡)

御成道とは、徳川将軍が参詣などで通る道筋のことを言います。江戸時代、この場所には江戸城外郭門のひとつ筋違門があり、上野寛永寺の将軍家墓所への参詣と、日光東照宮への社参の際に、将軍は江戸城大手門から出て神田橋門を通り、この門を抜けて上野に向かいました。筋違門の名は、日本橋から出発して、本郷・板橋に向かう中山道と御成道が筋違に交差していたためです。門内には火除けの広小路があり八つの口に通じていたため、俗に「八つ小路」と呼ばれていました。

Onarimichi (Remains of Sujikai-mon Gate)

Onarimichi refers to a road used by the Tokugawa shoguns, the military leaders of Japan, to travel to a shrine or temple. In the Edo Period (1603-1868), the Sujikai-mon Gate, one of the outer gates of Edo Castle, stood here, and when the shogun was visiting the shogunal burial ground at Ueno Kan'eiji Temple, or Nikko Toshogu Shrine, he would leave via the Ote-mon Gate of Edo Castle, travel across the Kandabashi Bridge, and leave for Ueno via this gate. Sujikai-mon Gate is named for the diagonal (sujikai) crossroads between the Onarimichi and the Nakasendo, the main road towards Hongo and Itabashi from Nihombashi. Due to the eight entrances and exits to the main street for fire safety, it was commonly called the "Yatsukoji," meaning "eight alleys."




歌川広重の作品「名所江戸百景」の第9景となる「筋違内八ツ小路」は、江戸時代に交通の要所だった神田川沿いの火除地を描いた浮世絵です。「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉があるように、江戸の町は何度も大火に見舞われ、多くの犠牲者が出ました。そのため、延焼を抑えようとさまざまな備えをしましたが、そのひとつが「火除け地」です。橋の袂や広い街道の近くに広場を設けて延焼を防ぎ、焼け出された人々の避難場所としても利用しました。「筋違内八ツ小路」は、神田川の南側の万世橋と昌平橋の間にあった火除け地を描いたもので、広場の真ん中に立つと八方へと続く道が見えたので、「八ツ小路」・「八辻小路」・「八辻原」などと呼ばれていました。交通の要所で、他の火除け地と比べて大変広かったことで名所になったのでしょう。江戸城外堀には、一定間隔で橋と櫓を備えた城門が置かれました。神田川を外堀として利用したことで、八ツ小路には筋違御門という城門があり、筋違橋(万世橋の前身)が架かっていました。画題の「筋違内」とは、この見附門の城側という意味です。広重は筋違御門側の八ツ小路の南東から北西に向けて、鳥の目線を意味する 「鳥瞰」の技法で描いています。川沿いの土手・白壁の武家屋敷・大名家の行列・葦簀掛けの仮設の茶屋など、広場を取り巻いたような構図となっています。筋違御門は茶屋の右上辺りで、画面には入っていません。中央の辻番所の上、土手が途切れた場所に昌平橋が架かっていますが、濃い春がすみによって神田川の水面とともに隠されています。対岸の霞む外神田の町家を高台から見下ろすのは、神田明神の本殿です。左の画は「筋違内八ツ小路」の原画、右の写真は同じ構図で撮ったものですが、JR中央線の高架煉瓦塀によって完全に視界が覆われています。



筋違門跡の案内板のところでJR中央線の高架煉瓦塀沿いから離れ、須田町交差点に向かいます。通りの四つ角に面して古風なお店が建っています。江戸末期の天保元年(1830年)、十一代将軍徳川家斉が国を治めていた頃、中橋広小路(現在の京橋三丁目付近)で初代にあたる立川庄蔵が「いせ庄」というどじょう屋を始めました。その後、二代目立川源四郎が店を中橋広小路から神田連雀町に移し、店名も「いせ庄」の‘いせ’と「源四郎」の‘源’を合わせ、「いせ源」と改名しました。今でこそあんこう料理の専門店として暖簾を掲げていますが、当時はあんこう鍋の他にも、よせ鍋・かき鍋・白魚鍋・ねぎま鍋などなど、様々な鍋料理を提供していました。しかし、あんこう鍋に人気が集中するようになり、大正時代の四代目立川政蔵の代にあんこう料理専門の店となりました。以来、東京で唯一のあんこう料理専門店として親しまれています。大正十二年の関東大震災によってお店は全焼しましたが、現在の店舗の建物は昭和五年に建て直したものです。幸運にも戦災を免れ、今も当時と変わらぬ昔ながらの風情を残しています。建物は、東京都選定歴史的建造物に選定されています。



須田町交差点で靖国通りを横断し、中央通りを神田駅方向に進みます。



神田駅の手前で左折し、JR線の高架下を抜けます。この辺りは「神田富山町」の町域となります。

千代田区町名由来板 神田富山町

江戸時代のはじめ、この界隈は武家屋敷が立ち並んでいました。商人や職人の町となったのは、そのころ相次いで起こった大火のためです。各地に「火除地」(防火や避難のための空き地)が設けられ、もともとそこに住んでいた人々が新しい土地を与えられて移り住むようになったのです。将軍家の菩提寺である芝増上寺の門前町であった芝富山町は、正徳三年(1713年)、増上寺の火除地となり、代地として与えられたこの地に移ってきました。当時、芝富山町からきた人々は、神田富山町一丁目、神田富山町二丁目という二つの町を組織していました。神田富山町の名前はこのことに由来しています。その後、神田富山町には日常生活の品々を売る人たちが住み続けていたようです。慶応年間(1865年〜1868年)に記された「江戸食物独案内」には、このあたりに醤油や醤油諸味(醤油の原料を混ぜ合わせ発酵させたもの)を扱う店があったと記されています。明治二年(1869年)、神田富山町一丁目と同二丁目の一部、神田三島町の一部、神田永井町の一部を合併して神田富山町が誕生しました。明治五年(1872年)には隣接する神田永井町を編入しています。明治四十四年(1911年)、いったん富山町と改称しましたが、昭和二十二年(1947年)、神田区と麹町区が合併して千代田区になると、ふたたび神田の冠称を付けて神田富山町となりました。江戸時代から続く由緒ある名前をもつこの町は、長い歴史と伝統に培われた人情味あふれる町なのです。

Kanda-Tomiyamacho

In the early Edo Period, this neighborhood was home to rows of samurai residences. After several massive fires, merchants and artisans gradually moved in from places that had been set aside as firebreaks. Some people came from Shiba-Tomiyamacho, which became the origin of the name of this town.




ポイント11 「神田紺屋町」 神田紺屋町

神田富山町の南隣の町域は、神田紺屋町となります。



歌川広重の作品「名所江戸百景」で第75景となる「神田紺屋町」は、「場違い」という言葉が生んだ粋な場所で描かれた1枚です。今でも町名が残る神田紺屋町は、江戸時代初期から藍で木綿を染める紺屋が軒を連ねていたのが町名の由来となりました。晴天の日に晒されていた反物が幟のように美しく、それが連なる光景は広重の時代には有名だったようです。この町で染められた反物の多くは、粋な浴衣や手拭いになったことから、「紺屋町へ行けば流行りが分かる」といわれました。品質の高さで人気が高く、この町以外で染められた藍染めを「場違い」と呼んだことが、現在も使われる言葉の「場違い」の発祥だということです。元絵の右側にある藍染めの柄は、広重の創作で、「魚」の文字は江戸百景の版元である下谷の魚屋栄吉の印、ひし形の紋はカタカナの「ヒロ」をかたどった広重自身の替紋です。粋な反物に、版元と自分の宣伝を埋め込んであるという粋な演出です。反物を晒した光景は明治以降も続き、昭和四十年代中頃まで見られたといいます。しかし、現在の紺屋町は大小のビルが建ち並び、染物屋らしき家も反物も全く見当たりません。左の画は「神田紺屋町」の原画、右の写真は神田金物通りから神田駅方向を眺めた構図です。



ゴール地点のJR神田駅南口に着きました。



ということで、千代田区で三番目のコースである「Aその1.浮世絵に描かれたちよだ名所めぐり・神田川コース」を歩き終えました。次は千代田区で四番目のコースである「Aその2.浮世絵に描かれたちよだ名所めぐり・外桜田コース」を歩きます。




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