- Aその2.浮世絵に描かれたちよだ名所めぐり・外桜田コース
今も昔も政治の中枢を担う外桜田界隈。整然と建ち並ぶ大名屋敷街や風情ある内堀沿いなど、名所がいっぱい。浮世絵を頼りに江戸の風景を歩こう。
- コース 踏破記
- 今日は千代田区の「Aその2.浮世絵に描かれたちよだ名所めぐり・外桜田コース」を歩きます。東京メトロ有楽町駅から東京メトロ永田町駅まで、江戸時代に描かれた浮世絵の舞台となった千代田区の南側一帯を巡ります。
スタート地点:東京メトロ有楽町駅出入口D7
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- ポイント1 「山下御門之内」 有楽町
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山下御門は、現在の帝国ホテル近くにあった。この絵はその御門のあたりから、濠の内側を見た景色。今では濠の一部が日比谷公園内に心字池として残るのみ。絵図を見ると山下御門の正面に松平肥前守(佐賀鍋島家)上屋敷があることが分かる。赤門は、将軍家の姫を迎えた証だった。
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- ポイント2 「東都葵ヶ岡之滝」 虎ノ門
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現在は埋め立てられ、面影もないが、これは溜池の堰から流れ落ちる水によって形成されていた虎ノ門近くにあった滝。その水音から「どんどん」の愛称で親しまれていたという。左下の建物は金比羅大権現(現金刀比羅宮)。江戸の景勝地のひとつとして知られ、広重も名所江戸百景「虎ノ門外あふひ坂」などの作品を残している。
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- ポイント3 「霞ヶ関の図」 霞が関
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桜田通りの霞が関一丁目交差点付近を描いた図。地名は、かつて関所があったことに由来するともいわれる。画面奥(西)にのびる霞が関坂に向かって右手が広島藩上屋敷(現総務省)、左手が福岡藩上屋敷(現外務省など)。江戸城に近く、有力大名の屋敷が軒を連ねていたため、江戸を訪れた人が行く観光名所となっていた。
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- ポイント4 「桜田」 桜田門
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警視庁付近から西を見た風景。桜田濠を右手に半蔵門へと向かう道は、江戸時代と変わらぬ風景を楽しめる数少ない場所。本図中央、濠端に名水「柳の井戸」が見える。
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- ポイント5 「糀町一丁目山王祭ねり込」 半蔵門
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国立劇場あたりから半蔵門を望んだ景色。手前に大きく描かれたのは山王祭の山車。当時は多数の山車が半蔵門から入城し、将軍が上覧したため天下祭と呼ばれた。
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- ポイント6 「岩城枡屋呉服店」 麹町
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四ツ谷駅からのびる麹町大通り沿い、善国寺坂入口に店を構えていたのが岩城枡屋呉服店。江戸中期から後期、武家を相手に成功した繁盛店だった。往時の賑わいが伝わる。
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- ポイント7 「赤坂紀ノ国坂」 元赤坂
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外堀通りの紀之国坂信号付近。右手の門は、今も赤坂迎賓館の東門として健在である。紀伊国坂下には町家の屋根がひしめき合い、道は左端に見える赤坂見附(御門)へと続いている。
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- ポイント8 「紀の国坂赤坂溜池遠景」 元赤坂
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紀伊国坂を弁慶橋方面に下る途中(元赤坂1丁目)付近。高速道路が架かっていても、弁慶濠とカーブを描いた地形は今も変わらない。本図の大名行列は紀伊殿のようだ。
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- ポイント9 「赤坂桐畑雨中夕けい」 赤坂見附
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東京メトロ赤坂見附駅付近。本図に描かれた池は、湧水が流れ込んでできた溜池である。現在は埋め立てられて外堀通りに。赤坂エクセルホテル一帯はのどかな田地が広がっていた。池の向こうの鬱蒼とした森は、赤坂見附(御門)の内にある紀伊徳川家上屋敷。
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- ポイント10 「山王」 溜池山王
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日吉山王大権現社(現日枝神社)は、東京メトロ溜池山王駅からすぐの小高い丘の上に建つ。楼門(現神門)付近から境内を見た光景である。徳川家の産土神として歴代の将軍に崇敬された。現在は都内有数のパワースポットとして人気。
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ゴール地点:東京メトロ永田町駅出入口6
スタート地点の東京メトロ有楽町駅出入口D7から歩き始めます。
駅前広場に「南町奉行所跡の碑」が建っています。宝永四年(1707年)から幕末まで、数寄屋橋門内の此の地に南町奉行所が置かれ、「大岡越前守忠相」が南町奉行を約20年間務めていました。南町奉行所は老中の支配下にあり、江戸町人地の行政・司法・警察などの職務を担っていた組織です。大岡越前守忠相は、八代将軍徳川吉宗の側近として「享保の改革」を支え、江戸市中の行政に携わりました。石碑の横には、当時の「石組下水溝」が復元展示されています。
東京都指定旧跡
南町奉行所跡
江戸町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつでした。その職掌は、江戸府内の行政・司法・警察など多方面に及び、定員二名で南北両奉行に分かれ月番で交代に執務していました。名奉行大岡越前守忠相は、享保二年(1717年)から元文元年(1736年)にかけて南町奉行としてここで執務をしていました。南町奉行所は、宝永四年(1707年)に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にありました。その範囲は、有楽町駅および東側街区一帯にあたり、平成十七年の発掘調査では、奉行所表門に面した下水溝や役所内に設けられた井戸、土蔵などが発見されました。また、「大岡越前守御屋敷」と墨書きされた荷札も出土しました。再開発事業では、石組下水溝の一部をここに再現するとともに、石材を事業地内でベンチなどに活用しています。
Minami-machi Magistrate's Office
Edo-machi Magistrate's Office was one of the three Magistrate's offices
during the Tokugawa Feudal Government. Ookaechizennokami Tadasuke, well-known Magistrate, worked for Minami-machi registrate's office as a Head of the magistrates between Kyoho 2 year (1717) and Genbun,1 year (1735). During the archeologic research in Heisei 17 (2005), the drainage system along the Magistrate's office's main gate and the storage made of clay were found. Stone built Drainage system was reconstructed and the stone was used for the benches in the redevelopment project.
地下広場に降りると、そこには南町奉行所内に掘られた「穴蔵(地下室)」が壁に立てて展示されています。この穴蔵からは、伊勢神宮の神官が大岡忠相に宛てた木札が出土しました。両脇にある木製ベンチは、「木樋(江戸時代の水道管)」を再利用したものです。
南町奉行所跡から発見された穴蔵
この板枠は、ここの再開発に伴う遺跡発掘で発見された「穴蔵」を、壁に立てて展示したものです。この穴蔵は、江戸時代中期の南町奉行所内に掘られて(い)た地下室で、なかから伊勢神宮の神官が大岡忠相の家臣に宛てた木札が出土しました。また遺構両脇の木製ベンチには江戸時代の水道管(木樋)を、向かいの石のベンチには奉行所の石組材を再利用しました。穴蔵の構造は、厚い板材を舟釘で留め、隠し釘となるように端材を埋め、板材の間には槇肌(木の皮)を詰めて防水処理をしています。また、壁板の一辺には水抜き穴があき、そこから竹管が延びて桶に水が溜まる構造となっています。ここがかつて町奉行大岡越前守がつとめた南町奉行所(東京都旧跡)であったことや、江戸時代の技術などを伝えるために設置しました。
晴海通りに出ます。数寄屋橋公園の手前の歩道上に明治大学発祥の地の碑が置かれています。さすが明大建学の碑、ピッカピカに磨かれていますね。
明治法律学校(現明治大学)は、明治十四年(1881年)一月十七日に旧肥前島原藩主松平氏の上屋敷であったこの地に開校した。創立者の岸本辰雄・宮城浩蔵・八代操の三人は、貢進生として鳥取藩・天童藩・鯖江藩を代表して大学南校に遊学し、つづいて明法寮でボアソナードにフランス法を学んだ。その後フランスに留学し、とくに「権利自由・独立自治」の精神の普及をめざして本学を設立した。当時彼らはいずれも三十歳に満たぬ白面の書生であった。
もうひとつの明大発祥の地の案内板が石碑の横に置かれています。同じような内容ですが、こちらは千代田区が設置したものです。
明治大学発祥の地(深溝松平家上屋敷跡)
かつて外濠川に面したこの付近には、元禄四年(1691年)以来、肥前島原藩(現在の長崎県)などを治めた深溝(ふこうず)松平家の上屋敷が置かれていました。明治維新後、屋敷は、政府の収用を免れて貸し出されることになり、民権結社による演説会などが盛んに催されました。明治十四年(1881年)1月17日、若き法律家である岸本辰雄・宮城浩蔵・矢代操は、屋敷の一部を借り受け、同心協力して明治法律学校(明治大学の前身)を開校し、明治十九年(1886年)に神田区駿河台南甲賀町(現在の神田駿河台)へ移転するまで、我が国の近代化を担う法曹の育成に努めました。平成七年(1995年)、同地に「明治大学発祥の地」碑が建立されました。
Birthplace of Meiji University (Remains of the Main Edo Residence of the Fukozu-Matsudaira Clan)
This area, which once faced the Sotoborigawa River, is the site of the main Edo residence of the Fukozu-Matsudaira clan. The clan ruled the Shimabara Domain in Hizen Province (present-day Nagasaki Prefecture) and other areas from 1691. After the Meiji Restoration, the residence was saved from government appropriation. It was made available for hire and was a popular venue for campaign speeches and so on by societies calling for freedom and people's rights. On January 17, 1881, three young lawyers, Kishimoto Tatsuo, Miyagi Kozo, and Yashiro Misao, in a spirit of cooperation, rented part of the residence to open the Meiji Law School. This was the predecessor to Meiji University. The School moved to Minamikogacho, Surugadai, Kanda-ku (present-day Kanda Surugadai) in 1886. The founders strived to foster a legal profession that could shoulder the modernization of Japan. A monument to the birthplace of Meiji University was erected on this site in 1995.
地下駐車場への取り付け道路の壁に、数寄屋橋の変遷の写真が貼られています。危ないですねぇ。まさか近づいて写真なんか撮らないでしょうね?
昭和三年当時の数寄屋橋です。正面に見えるのは朝日新聞社の建物でしょうか?
昭和二十二年当時の数寄屋橋です。
昭和二十八年当時の数寄屋橋です。未だ外濠に水が流れていますね。
昭和三十六年当時の数寄屋橋です。外濠は昭和三十三年(1958年)に埋め立てられ、跡地に東京高速道路が建設されました。
昭和五十九年当時の数寄屋橋です。
数寄屋橋公園の一角に、「君の名は」の脚本を書いた菊田一夫の石碑が置かれています。「数寄屋橋 此処に ありき 菊田一夫」と書いてあります。数寄屋橋は、その昔は銀座から江戸城の数寄屋橋御門に続く道の途中にかけられていた橋です。菊田一夫は劇作家としてさまざまな芝居を書いたのですが、なんといっても有名な作品が、昭和二十七年から2年間にわたって放送されたNHKラジオドラマ「君の名は」です。数寄屋橋は、延々とすれ違いを続ける主人公の恋人二人が初めて出会った運命の場所でした。このドラマは昭和二十八年に佐田啓二と岸恵子の主演で映画化もされ、空前の大ヒットとなりました。このようにして数寄屋橋の名は昭和のドラマによって全国に知られるようになったわけですが、「数寄屋」という橋の名は、近くに住んでいた茶人の織田有楽斎(織田信長の弟)が営んだ数寄屋造りの茶室に由来するともいわれる江戸以来の由緒ある名前です。また、有楽町という町名は「有楽斎」の邸宅があったことから名付けられたのです。更にいうと、数寄屋橋公園に隣接する泰明小学校は、北村透谷や島崎藤村の母校として知られていますが、透谷というペンネームは、「すきや」をもじってつけたものだそうです。
数寄屋橋公園の奥に見える「若い時計台」の彫像は岡本太郎の作です。昭和四十五年(1970年)に開催された大阪万博の「太陽の塔」にそっくりですが、この「若い時計台」はそれよりも4年早い昭和四十一年(1966年)の制作です。岡本太郎氏の「芸術は爆発だ」の掛け声と共に、あのギラッとした鋭い目つきは、強い印象を与えました。この塔は作られてからすでに40数年経っていますけど、周りの変化にもびくともせず、時代の流れを感じさせずに、より強烈なインパクトを与えています。当時の数寄屋橋界隈は「みゆき族」など最先端のファッションや文化が生まれる街として知られる一方で、集まる若者たちの風紀の低下が問題視されていたといい、時計台製作は「青少年の健全育成」が目的でした。岡本太郎は同所を訪れて「やたら色、形が混乱した雑踏の場。ひどい」と嘆きながら、「ただすっきりとしたものを作ったって埋もれてしまうだけ。激しいと同時に、静まった、周囲と異質でありながらピタリとあの場所に生きる、彩の濃い象徴を」と構想し、円柱スタイルの台から円すい状のオブジェがさまざまなに突き出す全長約8メートルの「若い時計台」を完成させました。作品の「顔」となる時計盤は、時間によって指針がまゆ毛、ヒゲなどに見え、夜間は作品全体を赤、黄、青、緑にライトアップされます。完成にあたっては、「人間は本来八方に意欲を突き出し、情熱をほとばしらせながら生きたいのだ。時間を超えた時間、機械的でない、人間的な時間を表象したつもり」とコメントを寄せました。
公園の前には、「数寄屋橋の碑」も建っています。数寄屋橋は、もともとは寛永六年(1629年)江戸城外濠に架けられた橋でした。、関東大震災後の帝都復興事業によって、昭和四年(1929年)に石造りの二連アーチ橋に架け替えられ、北側に日劇と朝日新聞社、南側に銀座東芝ビルと泰明小学校を臨む風景は東京の代表的な水辺の景観でした。現在は、晴海通りと外堀通りの交差点名として残っているほか、周辺の建物に数寄屋橋の名を付しているものが多くみられます。「有楽町で逢いましょう」もこの地だったのかもしれません。
数寄屋橋の碑
寛永六年(西暦1629年)江戸城外廊見附として数寄屋橋が初めて架けられた時は幅四間長三間の木橋であった。橋名は幕府の数寄屋役人の公宅が門外にあったのに依るという。見附の城門枡形は維新の際に撤去され、ついで大正大震災後の復興計画によって完成を見た近代的美観を誇る石橋が銀座の入口を扼する(やくする:要所を占める)ことヽなった。爾来三十年、首都交通の激増はこの界隈を更に変貌させた。外壕上を高架車道が地下には地下鉄が走るようになって橋も姿を消し、こヽは渾然たる大銀座の一劃となった。本会は茲に旧橋の遺材を以て碑を建て、感慨深い東京文化の変遷を偲ぶよすがとした。
数寄屋橋交差点で右折して、みゆき通に入ります。みゆき通りは、天皇の行幸(御幸【みゆき】)に際して通行したことを記念して命名されています。
みゆき通りの名称の由来について記されています。小学校にこのような立派な門扉があるのは泰明小学校くらいなものでしょう。
みゆき通りと門扉
この通りは、明治天皇が宮城より海軍兵学校に御行幸された折にお通りになられたことから、みゆき通りと呼称されるようになったといわれている。また門扉はその時代南フランスの貴族の館で使用されていたものである。
泰明小学校の校舎は歴史的建造物に指定されています。昭和四年(1929年)に建てられてそうです。
東京都選定歴史的建造物
中央区立泰明小学校
所在地 中央区銀座五丁目1番13号
設計者 東京市
建築年 昭和四年(1929年)
泰明小学校は明治十一年に開校し、現在使用されている建物は、関東大震災を機に、耐震・耐火性の高い鉄筋コンクリート造の校舎として建て替えられたものである。表現主義と呼ばれる建築様式の建物で、カーブを描く壁面やアーチ窓等を使った外観に特徴がある。L字型校舎の南端に位置する玄関部分には、柱や入口庇等に個性的な装飾が集中して施され、建物の顔となっている。これらの意匠は、震災復興期につくられた他の小学校ではあまり見受けられない個性的なものである。また、校庭に面した側の窓は他の学校よりも大きくとられ、開放的な印象を与えている。蔦のからまる校舎は銀座のシンボルとして人々に親しまれており、今なお往時の景観を残している。
泰明小学校と泰明幼稚園の歴史を記した石碑が入口の横に置かれています。
昭和五十三年六月二十五日
泰明この日百年
泰明小学校は明治十一年にこの地の公立小学として創立され、ここに一世紀を経ました。この間国運の消長時代の変革・社会の推移・制度の変遷の中で常に地域の初等基礎教育を担いました。特に関東大震災・第二次世界大戦時には再度灰燼に帰しながらも復興し、内実を深め、校風を維持し、絶えず誇り高く歩み続け、いまや有為な人材一万人あまりを地元日本の銀座をはじめ、広く世に送っています。また幼稚園は昭和二十八年に開設され、泰明の一貫教育に貢献しています。
Taimei Elementary School Establishment 1878
Taimei Kindergarten Establishment 1953
泰明小学校の入口の横に、卒業生である北村透谷と島崎藤村の記念碑があります。
北村透谷・島崎藤村記念碑
泰明小学校は明治十一年(1878年)六月に開校し、北村透谷と島崎藤村は初期の卒業生でした。
北村透谷(1868年〜1894年)は、現在の神奈川県小田原市に生まれ、明治十四年に家族とともに京橋区弥左衛門町(現在の銀座四丁目)に転居し、泰明小学校に通いました。その後、自由民権運動に惹かれて政治家を志しましたが、後に文筆活動に転じ文芸評論家・詩人として活躍しました。明治二十六年(1893年)、雑誌「文学界」に参加した透谷は、文芸における自由主義を唱え、近代浪漫主義文学の開拓者といわれました。代表作は、「楚囚之詩」「蓬莱曲」「厭世詩家と女性」などがあります。
島崎藤村(1872年〜1943年)は中山道馬籠宿(現在の岐阜県中津川市)に生まれ、明治十四年に上京し、京橋区鎗屋町にあった姉の嫁ぎ先(現在の銀座四丁目付近)から泰明小学校に通学しました。その後、姉夫婦が帰郷したため同郷人の家に身を寄せながら同校に通い、卒業しました。明治学院在学中に文学への関心を深めた藤村は、「文学界」の活動を通して透谷から深い影響を受けました。代表作は、「若菜集」「春」「夜明け前」などがあり、中でも「破戒」は自然主義文学の先駆といわれています。なお、藤村の著作である「幼き日」「をさなものがたり」には、銀座で過ごした藤村の幼少期が描かれています。
Monument in Memory of Kitamura Tokoku and Shimazaki Toson
Taimei Elementary School opened at this site in June 1878, and among the early graduates were Kitamura Tokoku and Shimazaki Toson. Kitamura Tokoku (1868-1894) was born in present Odawara, Kanagawa Prefecture. He moved with his family in 1881 to Yazaemoncho in the Kyobashi district (now Ginza 4-chome) and attended Taimei Elementary School. As he was interested in the Freedom and People's Rights Movement, his original intention was to become a statesman. Then, he changed his focus to writing and actively worked as a literary critic and poet. In 1893, he belonged to a literary magazine, "Bungakukai". Tokoku advocated liberalism in literature and has been regarded as a pioneer of romanticism in Japan. Shimazaki Toson (1872-1943) was born in Magome-shuku, a post station on the Nakasendo highway (now part of Nakatsugawa, Gifu Prefecture). In 1881, he moved to Tokyo, lived with his sister's husband's family in Yariyacho in the Kyobashi district (now Ginza 4-chome) and attended Taimei Elementary School. After the family returned to their hometown, he stayed in a house of his friend from the same hometown, and continued going to school until graduation. He developed a deep interest in literature while studying at a Christian higher school, Meiji Gakuin and was strongly influenced by Kitamura Tokoku through "Bungakukai". His main works include a poetry collection "Yoakemae" (Before the Dawn) as well as "Hakai" (The Broken Commandment) which is considered to be the pioneer of naturalist literature. In his novels, "Osanaki hi" and "Osana monogatari", his childhood days he spent in Ginza are described.
ポイント1 「山下御門之内」 有楽町
JR線の高架ガード下の歩道に「山下門跡」の案内板が立っています。
山下門跡
山下門は、寛永十三年(1636年)に高松藩(現在の香川県)藩主生駒高俊によって築造されました。門に附属する山下橋は、現在の有楽町二丁目・内幸町一丁目と中央区の銀座五、六丁目を結んでいました。山下門の名称は、京橋側の門前の町名が山下町(現在の中央区銀座五、六丁目)であったことに由来しています。また、門内に佐賀藩(現在の佐賀県)鍋島家の屋敷があったことから鍋島御門の別名があったほか、外日比谷御門とも称されていました。明治六年(1873年)に山下門は枡形石垣と橋を残して撤去され、明治三十三年(1900年)に外堀が埋め立てられた際に橋も姿を消しました。現在は「山下橋架道橋」にその名前が残っています。
Remains of Yamashita-mon Gate
Yamashita-mon Gate was constructed by Ikoma Takatoshi, the feudal lord of the Takamatsu Domain (current-day Kagawa Prefecture) in 1636. Yamashita-bashi Bridge, the bridge leading to the gate, connected current-day Yurakucho 2-chome and Uchisaiwaicho 1-chome with Ginza 5-chome and 6-chome in Chuo-ku. The name comes from Yamashitacho (current-day Ginza 5-chome and 6-chome in Chuo-ku), the
name of the neighborhood in front of the gate on the Kyo-bashi Bridge side. The gate had another name, Nabeshima Gomon-Gate, as the residence of the Nabeshima clan of the Saga Domain (current-day Saga Prefecture) was inside the gate, while it was also known as Sotohibiya Gomon-Gate. Yamashita-mon Gate was demolished in 1873, leaving only its square-stone wall and the bridge, and when Sotobori Moat was filled in 1900 no trace of the bridge was left. The name remains today
in "Yamashita-bashi Kadokyo (Overbridge)".
JR線のガードの壁に「山下橋架道橋」の表示があります。
初代歌川広重の江戸景勝「山下御門之内」は、正面に現在の日比谷公園の位置にあった
佐賀藩鍋島家上屋敷の豪華な朱塗りの門を描いています。場所的には、日比谷公園の噴水の辺りのようです。山下御門は、現在の帝国ホテル近くにありました。この画はその御門辺りから、濠の内側を見た景色を描いたものです。今では濠の一部が日比谷公園内に心字池として残っているのみです。画を見ると山下御門の正面に松平肥前守(佐賀鍋島家)上屋敷があることがわかります。赤門は将軍家の姫を迎えた証でした。
帝国ホテルの前の歩道に、「この附近の江戸時代」と題した詳細な案内板が立っています。
この附近の江戸時代
約四百年前まで、この帝国ホテルの玄関の辺りは日比谷入江と呼ばれる海岸線でした。日比谷入江の南北の範囲は現在のJR浜松町駅あたりから日比谷公園、皇居外苑、そして大手町まで続き、一方、東西は帝国ホテルの前の日比谷公園を隔てて、外務省などが立ち並ぶ「桜田通り」の西側まででした。17世紀の初め、徳川幕府は江戸城(現在の皇居)を大規模に拡張するため入江の埋め立てと、そこに屋敷を建てて住むことを全国の大名に命じました。(図の※印の大名屋敷はその当時から続いている大名家です。)埋め立てられた入江のうち、愛宕下(あたごした)−今の港区内−から丸の内までの範囲は、多くの大名屋敷が集中していたため、明治維新までの約260年間にわたって「大名小路」(だいみょうこうじ)と呼ばれました。この絵図板は安政三年(1856年)の頃の大名屋敷の配置を示したものです。屋敷内には、大名の住む御殿、藩士の住む長屋や役所、厩、学問所、武道場等がありました。大藩では、五千人程度、小藩でも五百人程度の藩士が居住していました。帝国ホテルの一角は、江戸時代の初めは徳川家康の孫の松平忠直(ただなお)の屋敷でしたが、その後、福島・白河藩の領主阿部家の屋敷となりました。この阿部家からは、阿部正外(まさと)が江戸時代後期に老中を勤めています。その屋敷の北東には、江戸城の城門の一つの山下御門があります。忠直(ただなお)以来、幕府に親しい大名がここに配置されたことは、この城門の重要性を物語っています。帝国ホテルの南隣の島津家を初(始?)め、日比谷公園の半分以上は、毛利、鍋島、南部家といった、かつては徳川家に対抗し、その後、服従した大名達の屋敷でした。また、外桜田御門から虎御門までの「桜田通り」には上杉、浅野、黒田家、という有力大名の屋敷が並んでいました。これらの外様大名の屋敷の間に大名の動向を監視する目的で徳川家の直接の家臣であった譜代大名の屋敷が配置されました。日比谷公園の南西に面した家庭裁判所の一角は、名奉行として名高い大岡越前守の屋敷でした。文久二年(1862年)に幕府が一時、参勤交代制を緩和した時、毛利家は屋敷を取り払い屋敷の建材まで長州に持ち帰りました。その跡地が明治になって陸軍の練兵場として利用されました。明治四年(1871年)に大名制度が廃止されると阿部家、島津家の一帯は山下御門の内側ということから内山下町(うちやましたちょう)という町名がつけられました。阿部家跡は博物館とその事務局となり、島津家跡は練兵場を経て明治十六年(1883年)に“国営社交場”としての鹿鳴館(ろくめいかん)が出来ました。明治二十三年(1890年)には、その北隣の阿部家跡にわが国最初の本格的洋式ホテルの帝国ホテルが開業しました。帝国ホテルと日生劇場との間の道は「御幸(みゆき)通り」とよばれていますが、その理由は、明治天皇が、仮皇居(現在の赤坂・迎賓館)から延遼館(えんりょうかん)−浜離宮庭園−に行かれる道筋だったためです。この御幸通り沿いに、帝国ホテルや鹿鳴館が誕生したのは、わが国の近代化ぶりを世界に知らせるためでもありました。ちなみに赤坂での仮皇居時代は明治六年から15年間続きました。
@(南)町奉行所
町奉行は町人対象の行政機関で、現在の東京都庁・警視庁・地方裁判所を兼ねたような役所でした。(北)町奉行所が別にありますが、南北の区別は地域の区別ではなく、隔月交替で執務したためです。奉行も職員も二組おり、奉行(長官)は旗本の中から任命されていました。
A松平薩摩守斉彬(なりあきら)上屋敷
この島津家の屋敷は、琉球の使節が江戸城登城の際、屋敷内で服装を改めたことから「装束(しょうぞく)屋敷」とも呼ばれました。島津斉彬(1809年〜1858年)は、「英明近世の第一人者」と称されるほど、この時代における傑出した大名で、外国と対等の交わりを主張し、殖産興業等の開化事業に力を入れました。その遺志が、西郷隆盛・大久保利通に継承され、明治維新に結びつきました。
B松平時之助保申(やすのぶ)上屋敷
元禄時代、五代将軍綱吉に取り立てられた柳沢家の子孫の屋敷です。明治維新後、ここに東京府の庁舎ができました。府庁舎は明治二十七年(1894年)に丸の内に移転し、その後、市庁舎、都庁舎と名を改め、現在は新宿区へ移っています。
Chiyoda City in the Edo Era
This map shows how this area was in 1856 when there were a lot of Daimyo's (feudal lords) residences in it. Until about 400 years ago, the area near the front of the Imperial Hotel was a coastline known as the Hibiya Inlet. The
inlet ran north-south from around present day JR Hamamatsucho Station, through Hibiya Park and the Imperial Palace's outergarden, to Otemachi Station and east-west from Hibiya Park in front of the Imperial Hotel, past the Foreign Affairs Ministry, to the west side of Sakuradadori street. At the start of the 17th century, the Tokugawa Shogunate (government) began filling in the inlet in order to expand Edo Castle (present-day Imperial Palace) and subsequently ordered the Daimyo (feudal lord) from all over Japan to build their residences there. Many of these residences were concentrated on the reclaimed land stretching from Atagoshita (present-day Minato City) to Marunouchi. For over 260 years, until the large changes brought by the Meiji government (1868-1912), this area was known as Daimyoukoji. The Daimyo's estates consisted of various buildings including a main house or palace, housing for their samurai (soldiers) and
staff, administrative offices, stables, schools, and military garrisons. A Daimyo representing a small feudal clan would likely have 500 samurai living on his estate and a large Daimyo might retain as many as 5,000. At the beginning of the Edo Era, a section of what is now the Imperial Hotel was where Tadanao Matsudaira, the grandson of the first Shogun, Ieyasu Tokugawa, built his estate. Later, the leader of the Shirakawa clan from Fukushima, Lord Abe, built his estate there. Facing the southwest end of Hibiya Park is the Family Law Courthouse. During the Tokugawa Shogunate this was the site of the estate of the reknowned Judge Echizen Ooka. In 1871, the Daimyo were abolished and the estate
of Lord Abe became the location of the Natural History Museum. The adjoining estate of Lord Shimazu first became a military parade ground and then later in 1883 became the site of the Rokumeikan, a grand government run public
hall. garrisons. A Daimyo representing a small feudal clan would likely have 500 samurai living on his estate and a large Daimyo might retain as many as 5,000.
At the beginning of the Edo Era, a section of what is now the Imperial Hotel was where Tadanao Matsudaira, the grandson of the first Shogun, Ieyasu Tokugawa, built his estate. Later, the leader of the Shirakawa clan from Fukushima, Lord Abe, built his estate there. Facing the southwest end of Hibiya Park is the Family Law Courthouse. During the Tokugawa Shogunate this was the site of the estate of the reknowned Judge Echizen Ooka. In 1871, the Daimyo were abolished and the estate of Lord Abe became the location of the Natural History Museum. The adjoining estate of Lord Shimazu first became a military parade ground and then later in 1883 became the site of the Rokumeikan, a grand government run public hall. The Imperial Hotel, the nations first modern western style hotel, was opened in 1890 and the entire area of the reclaimed inlet underwent major changes. At that time the road running between the hotel and the Nissei theatre was named Miyukidori The Imperial Hotel, the nations first modern western style
hotel, was opened in 1890 and the entire area of the reclaimed inlet underwent major changes. At that time the road running between the hotel and the Nissei theatre was named Miyukidori (Royal Road) since it was often used by the Emperor to travel back and forth between his temporary palace (the site of the present-day Akasaka Geihinkan-Government Reception Hall) and the Enryokan (at the Seashore Garden Park). The Rokumeikan and the Imperial Hotel were intended
by the Meiji Government to show the world that Japan had become a new and modern country.
日比谷公園を横断します。日比谷公園は、日本初の洋式庭園として明治三十六年(1903年)に開園しました。
公園の概要
幕末までは松平肥前守等の屋敷地で、明治初期には陸軍練兵場となっていたところでした。当初から近代的な「都市公園」として計画・設計・ 造成された本格的な公園であると同時に、日本初の「洋式庭園」として明治三十六年(1903年)6月1日に開園しました。(開園面積:161、636u)文化の先駆者としての公園設計者(本多静六等)の意気込みが随所に感じられます。そして、それは今日に伝えられ、広く利用されています。今日に至るまでに、関東大震災や太平洋戦争により改修等をおこなってきましたが、心字池・第一花壇や雲形池周辺は開園当時の面影がそのまま残っています。花壇には一年中、色鮮やかな四季の花が咲き、公園を訪れる人々の憩いの場になっています。
Summary of Hibiya-Park
There were several daimyo (feudal lord) mansions including that of Lord Matsudaira Hizen-no-kami on this site until the end of the Edo Era. In the early Meiji Era, it was used as an army drill ground. Hibiya Park was open on June 1, 1903 as the first Western-style garden in Japan, and it was planned, designed, and constructed as a modern city park of the time. (Area when opened: 161,636 square meters) The enthusiasm of the Park architects (such as Seiroku Honda), who led the culture of the era, can be found everywhere. Their aspirations have been fulfilled, for the Park is now very popular. Although the Tokyo Earthquake of 1923 and the Pacific War forced the Park to undergo some renovation, the
areas around Shinji-ike Pond, Flower Garden #1, and Kumogata-ike Pond still look as they used to when the Park first opened. Various colorful species bloom in the flower gardens throughout the year, giving pleasure to those who visit the Park.
日比谷公園ではよくイベントが開かれていますが、今日はパエリアがテーマらしいですが、なんで福島?幟には「Descubra! Fukushima」と書いてあります。「発見! 福島」ということで、福島の復興を後押しするイベントらしいです。勿論、食材は福島産なのでしょう。
日比谷公会堂は、日本で最初の本格的なコンサートホールであり、東京都選定歴史的建造物・東京都指定有形文化財(建造物)に選定されています。現在は耐震性に問題があり、改修のため2016年から休館していますが、開館100年となる2029年に利用が再開される見通しになっています。
日比谷公会堂の南側部分は市政会館になっています。1920年12月に東京市長に就任した後藤新平は、地方自治についての調査・研究を行う独立公正の機関の新設を構想しました。後藤はニューヨーク市政調査会を規範として、1922年2月に東京市政調査会を設立し、自ら初代会長に就任しました。後藤は初代安田善次郎から350万円の寄付を受け、日比谷公園内に本拠を置きました。当初は公園の北東部に建築される予定でしたが南東部に変更され、建築物の北側部分が公会堂(日比谷公会堂)、残りが会館とされました。公会堂は東京市が、会館は東京市政調査会がそれぞれ管理することとなりました。
- ポイント2 「東都葵ヶ岡之滝」 虎ノ門
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今では想像もつきませんが、虎ノ門には赤坂溜池に流れ込む滝がありました。虎ノ門一帯は、当時は大名屋敷などが建ち並ぶ場所でした。葛飾北斎の描いた諸国瀧廻「東都葵ヶ岡の滝」は、天保四年(1833年)頃の各地の滝を主題としたシリーズの大判錦絵のひとつです。画に描かれた葵ヶ岡の滝は現在の赤坂溜池の東端辺りにありました。溜池の堰せきから流れ出した水が滝となり、その水音から「どんどん」と呼ばれ親しまれていました。現在は埋め立てによりその姿をみることができませんが、江戸時代には名所として知られ、歌川広重もこの滝を描いています。画面手前には天秤棒を下ろして一休みする人も描かれており、江戸の人々の暮らしぶりも描き出されています。左は「東都葵ヶ岡之滝」の原画、右の写真は同じ構図の現在の虎ノ門の風景です。
虎ノ門交差点の傍らに「虎ノ門遺跡」の碑が建っています。「虎」と掛けたのでしょうか?それとも虎ノ門會ってトラキチの会?
此地ハ往昔の虎門の旧蹟なり乃ち慶長年間江戸城増築の砌りの内外廓三十六門の一にして嵎を負ふて八荒に慴伏する 此門乃名は全國に顕赫たりしに滄葉變して往時を偲ふ 一片の石すらこゝに止めす因って地元有志旧史を按して茲に斯石を鎮めて永く史蹟保存の意を表すと云ふ
- ポイント3 「霞ヶ関の図」 霞が関
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虎ノ門交差点を右折して桜田通りを北に向かいます。霞が関一丁目交差点の左手の外務省と右手の国交省・総務省との間に道幅の広い坂が上がっています。霞が関坂は長さが約210mほどの緩やかな坂です。昔はこの辺りが景勝の地として知られ、霞が関の名の起りともなったことで、坂名も地名に因んで名付けられました。
霞が関坂
中世の頃、奥州街道の関所「霞ヶ関」が置かれていたといわれ、景勝地として古歌にもうたわれました。江戸時代は諸大名の屋敷が建ち並び、江戸土産の絵本や広重の錦絵の題材にもなりました。明治維新以降は外務省や司法省、海軍省などが建ち並ぶ中央官庁街となり、現在に続いています。
「霞ヶ関」の千代田区町名由来版が立っています。
霞ヶ関
皇居外苑南東端にある外桜田門から港区虎ノ門に至る桜田通りにかけての一帯は、霞が関(昭和四十二年【1967年】に霞ヶ関から改称)といいます。江戸城を守る外郭門のひとつであった虎御門は、江戸時代初期までは遠浅の海(日比谷入江)に面していました。霞ヶ関の名前は古代までさかのぼり、日本武尊が蝦夷の襲撃に備えて、武蔵国に置いた関所「霞ヶ関」から名付けられたといいます。その名前は関所から雲霞を隔てた遠方を望むことができるということに由来し、江戸時代の地図にはすでに、「霞ヶ関」と記したものもあります。江戸時代には、幾多の大名が住む武家地であり、日向延岡藩内藤家(文部科学省・会計検査院・霞が関ビル周辺)筑前福岡藩黒田家(外務省)、安芸広島藩浅野家(国土交通省周辺)、出羽米沢藩上杉家(法務省旧本館・法曹会館周辺)などの上屋敷がありました。明治維新後、この一帯は政府用地として利用されます。一丁目・二丁目は、明治二十年代以後の官庁集中計画に基づいて、赤レンガ造りの官庁が林立し、現在の中央官庁街となりました。警視庁前に残る法務省旧本館の建物はその名残であり、重要文化財に指定されています。三丁目には、明治四年(1871年)、日本初の官立の工業技術教育機関である工部大学校(東京大学工学部の前身)が開校しました。のちには各国の大公使館も置かれ、政治や外交の中心地的印象が強い霞が関ですが、三丁目一帯は近代産業も芽生え、発展してまいりました。
Kasumigaseki
Until the early Edo Period, this neighborhood faced on the sea on the Hibiya inlet, which has since been reclaimed. The name of the area comes from the fact that from the barrier station (sekisho) located here, one could see faraway through the clouds and mist (kasumi in Japanese). Kasumigaseki today is home to many government ministries.
「東都名所霞が関の図」に描かれているのは、現在は外務省と合同庁舎2号館の間にある霞が関坂です。江戸時代には、この辺りは大身の大名の上屋敷が建ち並ぶ地域で、坂の上から望む江戸湾の景色が江戸名所に数えられていました。坂は東から西へ上っていて、坂の下から見て右側に広島藩浅野家の上屋敷、左側に福岡藩黒田家の上屋敷がありました。浮世絵の中で浅野家上屋敷の表御門が朱塗りで描かれていますが、これは将軍の息女が輿入れしたことを示す御住居門と呼ばれるもので、天保四年(1833年)11月に十一代将軍家斉の二十四女(!!!)末姫が九代藩主斉粛に輿入れしたため構えられました。初代歌川広重が霞が関坂を題材にして描いた浮世絵は約17種あるといわれ、「東都名所霞ヶ関名所」には8種が収められています。蔦屋吉蔵が天保三年(1832年)から天保十三年(1842年)にかけて出版した大判3枚続の浮世絵揃物のうちの1組です。左は「東都名所霞が関の図」の原画、右は同じ構図の現在の霞が関坂の写真です。
国会前庭庭園に立ち寄ってみます。国会前庭には、江戸時代に井伊掃部頭の上屋敷がありました。「掃部頭」は、井伊家が使用してい称号です。
加藤清正邸跡/井伊掃部頭邸跡
永田町一丁目1番と8番(国会前庭北地区と、その西側の一角)には、慶長年間(1596年〜1615年)から熊本藩(現在の熊本県)藩主加藤清正の屋敷がありました。加藤家は2代忠広の時に、謀反の疑いをかけられ、寛永九年(1632年)に改易となり、屋敷も没収されました。同年、彦根藩(現在の滋賀県)藩主井伊家がその屋敷を拝領し、明治維新まで上屋敷としました。歴代当主は、掃部頭を称しました。幕末の大老井伊直弼は、安政七年・万延元年(1860年)3月に、この屋敷から外桜田門へ向かう途中、水戸藩士らに襲撃されました。なお、加藤清正邸跡は、昭和三十年(1955年)3月28日に、東京都指定旧跡として文化財指定されています。
Remains of Kato Kiyomasa's residence,and Ii Kamon-nokami's residence
From 1596 to 1615 (Keicho era), numbers 1 and 8 of Nagata-cho 1-chome (The North Garden of the Front Park of the Diet Building and a corner of the western side) comprised the residence of the feudal lord of the Kumamoto Domain (current-day Kumamoto Prefecture), Kato Kiyomasa. At the time of the second generation head, Tadahiro, the Kato clan was suspected of plotting to overthrow the government, and in 1632 the clan was deprived of its status and its residence was seized.
In the same year, the residence was bestowed on the feudal lord of the Hikone Domain (current-day Shiga Prefecture), the head of the li clan, and it remained their main Edo residence until the Meiji Restoration. The successive clan heads have been dubbed "Kamon-no-kami". In March 1860, the Chief Minister at the end of the Edo Period, Ii Naosuke, was attacked by retainers from the Mito Domain while on his way from this residence to Soto-Sakurada-mon (Outer Sakurada Gate).
The Remains of Kato Kiyomasa's Residence received cultural property designation as a Tokyo Metropolitan Government designated Historic Place on March 28, 1955.
加藤清正邸/井伊掃部頭邸には、江戸の名水といわれた「櫻の井」がありました。
東京都指定旧跡
江戸の名水「櫻の井」
「櫻の井」は名水井戸として知られた「江戸の名所」で、近江・彦根藩井伊家上屋敷の表門外西側にあったが、ここは加藤清正邸跡(都旧跡)で、清正が掘ったと伝えられている。三連式釣瓶井戸で、縦約1.8メートル、横約3メートルの石垣で組んだ大井戸で三本の釣瓶を下ろし、一度に桶三杯の水が汲め、幕末当時江戸城を訪れる通行人に豊富な水を提供し、重宝がられた。江戸名所図会に絵入りで紹介され、歌川(安藤)広重の「東都名所」の「外櫻田弁慶櫻の井」(天保十四年【1843年】)(図)にも描かれている。安政七年(1860年)三月三日には大老井伊直弼がこの井戸の脇から登城途中、暗殺された。大正七年(1918年)史蹟に定められ、東京都は昭和三十年(1955年)旧跡指定。昭和四十三年(1968年)道路工事のため交差点内から原形のまま十メートル離れた現在地に移設復元された。
平成十九年(2007年)彦根城築城400年祭と東京金亀会(滋賀県立彦根中学校・彦根東高等学校同窓会)設立九十周年に記す。
国会前庭様式庭園には、電子基準点「東京千代田」の碑が建っています。
電子基準点「東京千代田」
この電子基準点は、我が国の準天頂衛星システムや米国のGPSなどの衛星測位システムの信号を常時受信し、地球上の正確な三次元位置を計測・モニタリングする施設である。国土地理院は、全国に電子基準点網を構築して、土地の測量や地図の調製に必要な位置の基準を提供するとともに、国土の地殻変動をモニタリングしている。また、受信した信号は高精度なリアルタイム位置情報サービスにも利用されている。電子基準点「東京千代田」は、日本の標高の基準となる日本水準原点(明治二十四年【1891年】設置)の近傍にあり、その標高を常時モニタリングする役割も担っている。
GNSS CORS "Tokyo Chiyoda"
This facility, called Global Navigation Satellite System (GNSS) Continuously
Operating Reference Station (CORS), receives signals from GNSSs, including the
Quasi-Zenith Satellite System (QZSS) of Japan and the Global Positioning System
(GPS) of the United States, to measure and monitor its accurate three dimensional coordinates on the Earth. The Geospatial Information Authority of Japan has built a network of CORS all over Japan, and manages it to provide the reference for surveying and mapping and to monitor crustal deformation. The received signals are also used for high-precision real-time location-based services. This GNSS CORS "Tokyo Chiyoda" has an additional important role of real-time monitoring of the height change of the nearby "Origin of the Japanese Vertical Control Network", which has been providing the national standard reference for elevation since 1891.
日本水準原点は、石造りの重厚な建物の中に設置されています。この地には、戦前に陸軍省・参謀本部・陸地測量部(国土地理院の前身)があり、そのため敷地内に日本水準原点が残っているのです。
重要文化財【建造物】
「日本水準原点」
日本水準原点は、明治二十四年に創設された我が国の高さの基準になるもので、130年近くにわたり、我が国の測量の歴史を支えている重要な施設です。日本水準原点の歴史的及び技術的な価値が認められ、測量分野の建造物としては初となる国の重要文札財に指定されました。
日本水準原点
日本水準原点の零目盛りは、温度変化の影響を受けにくい水晶板に刻まれており、丈夫な花崗岩台石にはめ込まれ、固い岩盤まで達する約10mの基礎に支えられています。
日本水準原点標庫
日本水準原点標庫は、ドーリス式ローマ神殿形式の古典的建築で、日本人建築家により設計された初期の洋風建築として、歴史的、建築学的にも貴重なものです。
Important Cultural Property (Structure)
Nippon Suijun Genten (The Origin Point for the Japanese Vertical Datum)
Nippon Suijun Centen has been serving as the origin count for the Japanese Vertical Datum, and is one of the most important facilities that support the history of surveying in jagar for nearly 130 years since its establishment in 1891. Recognizing its historical as well as technical value, the Covernment
japar designated Nippon Suijun Genten as the first-ever surveying-related Important Cultura Property in 2019.
Nippon Suijun Genten
The zero mark of Nippon Suijun Genten is engraved on a crysta plate, which is less susceptive to temperature change. In addition, the plate is embedded into a firm granite mounting, which is placed on top of the 10m long pile driven to bedrock. These ingenious attempts secure the stability of Nippon Suijun Genten.
Instrument shelter for Nippon Suijun Genten
The instrument shelter is a structure with a style of classical architecture categorized as Roman temple style with Doric order. It is one of the earlier western style architecture designed by Japanese, and is valuable historically as well as architecturally.
石碑も建っています。
日本水準原点
日本水準原点は、わが国の土地の標高を測定する基準となる点である。明治二十四年(1891年)5月にこの場所に設置した。日本水準原点の位置は、この建物の中にある台石に取り付けた水晶板の目盛りの季線の中心である。その標高は、明治六年から十二年までの東京湾の潮位観測による平均海面から測定したもので、当時24.500メートルと定めた。その後、大正十二年(1923年)の関東地震による地殻変動に伴い、その標高を24.4140メートルに改正したが、平成二十三年(2011年)3月11日の東北地方太平洋沖地震による地殻変動に伴い24ミリメートル沈下したため、新たに24.3900メートルに改正した。
尾崎記念会館の建設に合わせて建てられた時計塔が聳えています。
時計塔
この時計塔は、尾崎記念会館(現・憲政記念館)建設時に、その施設の--環として、塔前面の噴水池・花壇とともに設計され、昭和三十五年(1960年)7月に完成した。三面塔屋型は、立法・行政・司法の三権分立を象徴したものである。また、塔の高さは、「百尺竿頭一歩を進む(努力の上にさらに努力して向上する)」ということわざの努力の上にさらに努力して向上するの意味から、百尺(30.3メートル)より高くした31.5メートルに設定された。時計は、時間を厳守した尾崎行雄を称えてスイスから贈られたものであったが、現在は国産のものに改修されている。チャイムは、10時・13時・17時・22時の4回鳴動する。これは、衆議院、参議院の会議開会時刻と退庁、就寝時を標準にしたもので、その音響は静寂時には5キロメートル周囲に響き渡った。
憲政記念館は、日本の議会政治に関する展示施設で、国会議事堂に隣接する国会前庭内に建っています。前身は1960年に市民の浄財によって建てられた尾崎行雄(衆議院名誉議員)を記念する「尾崎記念会館」でした。1972年に衆議院に寄贈され、その際に施設の増築拡張が行われて「憲政記念館」と改称されました。資料展示をするほか、特別展、「政経懇話会」などの講演会、政治など諸分野のリーダー養成講座「咢堂塾」などが催されています。また、講堂や会議室は、政府の式典や、政党や政治家の会合や政治資金パーティーにも使われています。尾崎行雄は、日本の議会政治の黎明期から第二次世界大戦後に至るまで衆議院議員を務め、当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を有し、「憲政の神様」・「議会政治の父」と呼ばれています。尾崎行雄の略歴を記した石碑が建っています。
尾崎行雄略歴
尾崎行雄は、民主主義と世界平和とのために一生をつらぬいた。若くして自由民権運動に身を投じ、保安条例に座して首都を追われ、海外に亡命したが、国会開設とともに衆議院議員に選ばれ、以来、議席にあること63年、世界議会史上の記録をなした。素志は藩閥軍閥の打破、民主政治の確立にあり、あらゆる権力に弾圧に屈せず、つねに民衆の陣頭にあってたたかった。その雄弁は天下に鳴り、憲政擁護の起るや、世は彼を仰望して権勢の神と称した。軍国主義が一世を支配し、戦雲急なるに及んでも、平和の新年をまげず、三たび辞世をふところにして議政壇上に立ち、国論に警告することをやめなかった。つとに世界連邦を提唱し、議会政治の父と仰がれつつ一生の幕を閉じた。高風を追慕する国民の支援と国際的賛助とにより、ここにこの記念会館が成ったのである。
1960年2月25日しるす
1858年11月20日神奈川県津久井郡津久井町又野に生まる。父は行正、母は貞子、長男、幼名彦太郎。
1874年慶応義塾に入り、福沢諭吉に学ぶ。
1879年福沢諭吉の推薦により新潟新聞主筆となる。
1881年退社上京す。
1882年報知新聞に入り、1890年まで各紙貴社として活躍す。大隈重信をいただき改進党を組織す。以来政党活動に身を投ず。
1885年東京府会議員となる。
1887年保安条例により3年間東京退去を命ぜられたのを機会に欧米を視察す。
1890年日本最初の衆議院議員総選挙に三重県より立候補し当選す。以来同一選挙区より25回連続当選す。
1898年大隈、板垣連立内閣に文部大臣として入閣す。
1903年第二代東京市長に就任す。(国会議員はそのまま)
1912年桜苗木3000本をアメリカに贈る。水源林の確保、市街鉄道買収その他幾多の功績を残し東京市長を辞任す。
1914年大隈内閣の司法大臣に就任す。
1916年辞任す。
1919年第1次世界大戦後の欧米の惨状を視察す。
1931年アメリカを経てイギリスに渡り、日本国民に対する遺言ともいうべき「墓標に代へて」を執筆。また欧州各地を視察す。
1933年帰国す。
1942年田川大吉郎選挙応援演説にからみ不敬罪容疑で起訴さる。
1994年無罪の判決を受ける。
1950年渡米。第2次大戦後の日米国交に貢献す。
1953年衆議院名誉議員、東京都名誉都民に推薦さる。
1954年10月6日永眠す。北鎌倉円覚寺黄梅院に埋骨さる。
- ポイント4 「桜田」 桜田門
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二代歌川広重の作品「江戸名勝図会 桜田」は、国会前交差点付近から半蔵門方面を眺めた構図になっています。桜田濠を右手に半蔵門へと向かう道は、江戸時代と変わらぬ風景を楽しめる数少ない場所です。本図中央の濠端に名水「柳の井戸」が見えます。左は「桜田」の原画、右は内堀通りの遊歩道から桜田濠を撮した写真です。
桜田濠の土手下にある井戸は傍らの柳の木に因んで「柳の井」と名付けられました。
柳の井
桜田濠の土手下にある井戸は傍らの柳の木にちなみ柳の井と名付けられました。江戸時代には旱魃の際にも枯れることのない名水として知られ、多くの通行人が利用したと言われています。道を挟んだ国会前庭(かつての加藤清正邸・井伊掃部頭邸)には、やはり名水として知られた桜の井があります。
Yanagi (Willow Tree) Well
This well below the embankment of Sakurada-bori Moat is known as the Well of Yanagi due to the willow tree (yanagi) nearby. During the Edo Period (1603-1868), it was known as a famous water source that never dried up, even during times of drought, and it is said that it was used by many of the people who passed by. In the National Diet Building Garden (formerly the residence of Kato Kiyomasa and li Kamonnokami) across the road, is the Sakura (Cherry Tree) Well, also well known as a famous water source.
柳の井戸は、土手を下りた桜田濠の水面近くにあります。石段はあるのですが、立ち入りは出来ないようです。
江戸城は長禄元年(1457年)に太田道灌によって創築されましたが、天正十八年(1590年)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めました。以来、家康・秀忠・家光の三代にわたって西の丸と北の丸の増設や外郭に整備が行われ江戸城の総構が完成しました。明治維新後に江戸城は皇居となり、昭和二十四年に西の丸下及び現在の皇居を取りまくお濠の地域が「国民公園皇居外苑」として一般に開放され、昭和四十四年からは北の丸地域が加えられて広く国民に親しまれています。この江戸城跡は、三百年近くにわたる将軍の居所として、また政治の中心としての史的価値が極めて大きく、その規模はわが国随一のものであることから、昭和三十八年5月30日に文化財保護法による「特別史跡」に指定されました。
- ポイント5 「糀町一丁目山王祭ねり込」 半蔵門
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半蔵門は江戸城の城門のひとつで、皇居西端に位置し、国道20号甲州街道に通じています。江戸城の正門にあたる大手門とは正反対の位置にあり、江戸城三十六見附のひとつでした。半蔵門は桜田門と同じような枡形でしたが、櫓門の部分は明治時代に撤去されています。この門内は江戸時代には吹上御庭と呼ばれ、隠居した先代将軍や将軍継嗣などの住居とされました。現在は吹上御苑と呼ばれ、御所(天皇・皇后の御所)、吹上大宮御所(昭和天皇・香淳皇后の御所)、宮中三殿、生物学御研究所、天皇が稲作をする水田などがあります。そのため、天皇・内廷皇族及び秋篠宮家の皇居への出入りには、主にこの門が用いられています。旧来の門は昭和二十年(1945年)5月25日の東京大空襲(山の手大空襲)で焼失し、現在の門は和田倉門または吹上門のどちらかの高麗門を移築したものです。半蔵門の名称については、この門の警固を担当した徳川家の家来服部正成・正就父子の通称「半蔵」に由来するとする説が定説です。服部家の部下がこの門外に組屋敷を構え、四谷へと通じる甲州街道沿い一帯が旗本屋敷で固められていたことによります。一方、山王祭の山車の作り物として作られた象があまりにも大きかったために半分しか入らなかったことに由来するとする説もあります。半蔵門は、皇室ファンの人たちが皇族方の出入りを待ち受ける場所として知られています。
半蔵門
江戸城内郭門の一つで、「こうじまちロ」とも呼ばれ、四谷門とともに甲州街道の要衝となっていました。名前の由来は、伊賀者の服部半蔵がこのあたりに配下とともに屋敷を拝領していたという説があります。ほかにも、この門から城内に入る山王祭礼の象の山車が枡形門をくぐることができず、半分だけしか入らなかったという説もあります。門は元和六年(1620年)仙台藩(現在の宮城県)藩主伊達政宗ほか6名の東国大名により築造されました。江戸時代には、半蔵門から入り北に進み、現在の代官町通りを通って、竹橋門(現在の竹橋駅付近)に抜けることができました。明治四年(1871年)に渡櫓門は撤廃され、現在は高麗門だけが残り、皇室の皇居への通用門として使用されています。
Hanzo-mon Gate
The Hanzo-mon Gate is also called the "Kojimachiguchi Entrance," and was one of the inner gates of Edo Castle. Along with the Yotsuya-mon Gate, it was one of the key points on the Koshu Kaido, the road that connected Edo (Tokyo) with
Kai Province (now Yamanashi Prefecture). It is said that the name was derived from that of the leader of the Iga-mono (ninja who practiced the Iga style of their art), Hattori Hanzo, who was given a residence in this area, along with his followers. Alternatively, it is also claimed that the wheeled floats of the Sanno Festival, which tried to enter the castle from this gate, were unable to get past the Masugata Gate (which had a square enclosure for soldiers to gather), and so only half (han) of the floats were able to enter. This gate was constructed in 1620 by either Date Masamune, or the six daimyo (feudal lords) of the eastern provinces. In the Edo Period (1603-1868), people could enter from the Hanzo-mon Gate and travel northwards, along the modern Daikancho-dori street, and exit from the Takebashi-mon Gate (near Takebashi Station).
The Watariyagura Gate (a two-story gate, with a tower or room on the upper story) was demolished in 1871, and now only the Korai Gate (a small, three-roofed gate) remains. It is used as a side gate to the Imperial Palace of the Emperor.
初代歌川広重の作品「名所江戸百景 糀町一丁目山王祭ねり込」は、江戸三大祭のひとつとして知られる山王祭で、江戸城内に入る前の山車を国立劇場辺りから半蔵門を望んだ構図になっています。手前に大きく描かれたのは山王祭の山車です。当時は多数の山車が半蔵門から入城し、将軍が上覧たため天下祭と呼ばれていました。左は「糀町一丁目山王祭ねり込」の原画、右の写真は国立劇場付近の桜田濠の土手から半蔵門を眺めています。
半蔵門交差点を左折し、麹町大通りを西に向かいます。歩道脇に麹町の町名の由来を記した案内板が立っています。
麹町三丁目
麹町という町名は、江戸城の西側に位置する山の手台地で広く使われています。「こうじ」という町名の由来については、この界隈に入り組んだ「小路」が多かったためとも、米や麦、大豆などの穀物や糖などを発酵させた「麹」を扱う店が多かったためともいわれています。ほかにも国府と呼ばれた地方行政機関へ向かうための道「国府路(こうじ)」があったことからという説もあります。いずれにしても、「こうじ」という地名が、江戸時代から存在していたことは間違いありません。江戸城からほど近いこの台地には、武士たちが住んでいたようです。ただ、新宿通り(甲州街道・国道20号)沿いだけは、町屋として商人や職人が集まり住んでいました。現在の麹町三丁目にあたるこの地域も、文政七年(1824年)の「江戸買物独案内」によれば、鰹節や鰻の蒲焼、蕎麦、薬、菓子、そして墨、硯、筆などを売る店があったことが記されています。現在では、ビルが立ち並ぶビジネス街に生まれ変わった麹町三丁目ですが、江戸時代から明治、大正期には、人々の生活に密着した”商店街”が形づくられていたのです。
Kojimachi 3-chome
There are many theories regarding the origins of the name of this neiborhood, since koji has many meanings including "fermenting agent", "alley" and "the road to the capital". The Koshu Kaido, one of Japan's major highways, started in this town and ran all the way to Koshu (present-day Yamanashi Prefecture).
- ポイント6 「岩城枡屋呉服店」 麹町
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麹町三丁目の案内板が立っている辺りに、岩城枡屋呉服店がありました。初代歌川広重の作品「岩城枡屋呉服店」は、江戸城のすぐ西側に位置する麹町にあった岩城升屋という大きな呉服木綿問屋の店頭を描いた絵です。店では反物を前に座って商売をする姿が見えます。店員の名前を書いた紙が下げられ、お客はその下にいる馴染みの店員とやりとりをするので、いかに多数の顧客を抱えているかが商売の手腕として評価されました。往来を行く人々や店に出入りする人々には、刀を差し供を連れた武士を始め、黒の短い仕事着を着た職人、武家奉公らしい女中達、町娘等様々な階層・姿が見てとれます。右隅には田舎から出て来た人々であろうか、大きな店構えに驚いた様子で、指さし見上げる姿まで細かく描かれています。画面中央の円筒状の石は水道の汲み上げ口です。
案内板の直ぐ先で麹町大通りから下る坂があります。善国寺坂は長さが約100mほどの緩やかな坂で、坂名は昔この坂上に鎮護山善国寺というお寺があったことに由来します。
善国寺坂
この坂の上に鎮護山善国寺という寺院があったことから名付けられました。善国寺は、寛政十年(1798年)の火事により焼失し、牛込神楽坂に移転しました。周辺には幕府の薬園がありました。坂の下は善国寺谷や鈴振谷と呼ばれていました。
麹町四丁目の案内板が立っています。
麹町四丁目
この界隈が麹町と名付けられた由来については諸説あります。町内に「小路」が多かったためとも、米や麦、大豆などの穀物を発酵させた「麹」をつくる家があったためとも、また武蔵国府(現・府中市)へと向かう「国府路」があったからともいわれています。実際に近所では、地下に数カ所の麹室も見つかっています。現在の麹町大通り(新宿通り)沿いに町屋がつくられたのは、徳川家康の江戸入府後のことです。通りの南側は谷地でしたが、寛永のころ(1624年〜1644年)、四谷堀を掘ったときに出た土を使って埋め立てられたともいわれています。町屋の北側は寺や火除地(火事の延焼を防ぐ空き地)に、南側は旗本が多く集まる武家屋敷になりました。安政三年(1856年)の絵図には、出雲松江藩松平家の上屋敷などが見られます。一方このあたりは、うなぎの蒲焼伊勢屋や丹波屋、江戸切絵図の版元として名高い尾張屋、麹町で一・二を争う呉服商の伊勢八、尾張藩御用達をつとめる菓子店の亀沢などが店を構え、江戸の高級商店街のひとつでした。また、赤穂浪士が吉良邸討入り前に名前を変えて隠れ住んでいた家もあったと伝えられています。町内には井戸がたくさんあったようで、大正十二年(1923年)の関東大震災のときには、断水した多くの家庭を救いました。明治・大正期になっても引き続き商店街として発展してきた麹町四丁目ですが、現在はビルの立ち並ぶビジネス街へと変わっています。
Kojimachi 4-chome
There are several theories regarding the origin of this area's name, since koji has many meanings including "fermenting agent," "alley," and "the road to the capital." This was long a shopping district, known for its eel restaurants, clothing stores and sweet shops.
麹町四丁目交差点で左折し、紀尾井町交差点で右折すると、長い坂が下っています。
清水谷坂は長さが約190mほどの左右に曲がりながら下る緩やかな坂で、別名を「シダニ坂・シタン坂」といいます。この一帯は清水谷と呼ばれる地名だったため、それが坂名になりました。
清水谷坂
紀州藩麹町邸の北側にある坂で、坂下を南北に走る道筋が清水谷に下ることから、清水谷坂と名付けられました。
清水谷坂の坂下から反対方向に坂が上がっています。坂下が谷底のようです。紀尾井坂は長さが約160mほどのやや急な坂で、江戸時代に、紀井家・尾張家・井伊家の三家の邸宅が隣接していたために紀尾井町の町名となり、坂名にもなりました。
紀尾井坂
坂上の喰違(江戸城防衛のために設けられた屈曲した道筋と土手)と、清水谷を結ぶ坂道です。江戸時代、この坂の両側に、紀伊徳川家、尾張徳川家、井伊家の屋敷があったことから、一文字ずつ取って名付けられました。また、坂下に清水谷があるため清水谷坂とも呼ばれていました。明治七年(1874年)に発生した岩倉具視襲撃事件(喰違の変)の現場としても知られています。
紀尾井坂の坂上に江戸城喰違見附跡があります。江戸城喰違見附跡は、江戸城外濠の中で最も高い場所にあり、四谷見附と赤坂見附の間に位置しています。慶長十七年(1612年)、小幡景憲によって造られた、虎口構造の見附です。その後寛永十三年(1636年)に讃岐国丸亀藩主の生駒高俊によって再整備されました。高台に位置することから、江戸城の西側の防衛において重要な役割を持っていたと思われます。
土塁の南側に案内板が立っています。
喰違木戸跡
喰違木戸は、慶長十七年(1612年)に旧武田家臣の小幡景憲によって縄張りされたと伝えられます。門からつながる土橋は、現在の紀尾井町と港区の元赤坂を結んでいます。通常、江戸城の城門は、枡形門と呼ばれる石垣を巡らした形ですが、ここは土塁を前後に延ばして直進を阻むという、戦国期以来の古い形態の虎口(城の出入口)構造となり、門ではなく木戸が設けられていました。この地は、二つの谷に挟まれた高台で、江戸城西側の防御の要として構築されたと考えられます。現在は、一部土塁が削り取られているものの、その形状は保存されており、往時の様子を留めています。寛永十三年(1636年)には、江戸城内郭と城下とを取り巻くように外堀工事が行われ、その全長は14kmに及んでいます。このうち約4kmの範囲が、昭和三十一年(1956年)3月26日に、江戸城外堀跡として国指定史跡になっています。
Kuichigai Door Site
The site of the Kuichigai Door is said to have been set out by Obata Kagenori, a former retainer to the Takeda clan, in 1612. Today, the earthen bridge leading from the gateway connects Kioicho with Motoakasaka, in Minato City. Most of Edo Castle's gates were "masugata" type gates with stone walls in a box arrangement, but this was a wooden door rather than a gate, with an earthen mound stretching out on either side of the door to block any straight-line approach. It was an old type of structure from the Sengoku period called a "tiger's mouth" (castle entrance/exit). This spot is on elevated ground flanked by two valleys and is thought to have been constructed as the key point in Edo Castle's western defense. Although roday some of the earthen mound has been removed, its shape remains, retaining its appearance of years past. An outer moat extending to 14 km in length was constructed in 1636 to surround Edo Castle's inner defensive enclosure and the area around the castle. Some 4km of the moat were designated as a National Historic Site, Edo Castle Outer Moat Ruins, on March 26, 1956.
案内板には、江戸時代の喰違見附の挿絵が添えられています。
ホテルニューオータニのある一帯は、江戸時代には彦根藩井伊家の屋敷でした。上屋敷は現在の憲政記念館辺りにあり、ここは中屋敷として用いられていました。ホテルニューオータニ内に現在も残る池泉回遊式の日本庭園は、400余年の歴史を誇る名園のひとつです。
近江彦根藩井伊家屋敷跡
この地には、江戸時代に近江彦根藩井伊家の麹町邸があり、井伊家は外桜田にあった永田町邸 (国会前庭一帯)を上屋敷として使用していましたので、ここは中屋敷として使われました。井伊家は、武勇の誉れが高い家柄で、藩祖直政は、関ヶ原の戦いで徳川家康の軍奉行として活躍しました。慶長五年(1600年)近江佐和山に18万石で封ぜられ、慶長九年(1604年)直政の子直勝の時代に彦根藩主となり近江国等を領地とし、以後、16代にわたって明治維新まで続きました。石高はほぼ35万石でした。井伊家は、譜代大名の筆頭であり、大老職に任じられる名家でもありました。幕末に幕政を動かした井伊直弼は、特に有名です。明治五年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。
Site of the Omi-Hikone-li domain family mansion
This is the site of the Kojimachi mansion of the li family. The mansion stood here through most of the Edo period (1603-1867). Ii family members were top "fudai" hereditary vassals. Ii Naosuke was a famous chief minister of the shogun in the final days of the Tokugawa Shogunate. After the Meiji Restoration (1872) this district became known as Kioi-cho, after the first initials of the Kii-Tokugawa, Owari-Tokugawa and li families.
上智大学13号館の前の植え込みに石碑があります。現在の上智大学がある一帯は、徳川御三家のひとつ、尾張藩徳川家の中屋敷でした。徳川家康九男義直を藩祖とする尾張徳川家は、寛永十四年(1637年)にこの屋敷を拝領し、幕末まで世嗣や隠居の住まいなどとして使用しました。
尾張名古屋藩徳川家屋敷跡
この一帯には、江戸時代に尾張名古屋藩徳川家の麹町邸がありました。寛永十四年(1637年)に拝領してから、藩主や世嗣が一時的に居住するなど様々な使われ方をしました。尾張徳川家は、徳川家康の九男義直に始まる家で、紀伊家(十男頼宣)、水戸家(十一男頼房)と共に、御三家と称され、義直が年長で知行高も多かったため、御三家筆頭となり大名の最高位に位置しました。義直は、慶長八年(1603年)甲斐府中藩主、ついで慶長十二年(1607年)尾張清洲藩主を経て、後に名古屋藩主となり、尾張一国と木曽の山林を領地としました。尾張徳川家は以後、加増を重ねた結果、石高はほぼ61万9500石となり、16代にわたって明治維新まで続きました。明治五年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。
Site of the Owari-Nagoya domain Tokugawa family mansion
This is the site of the Kojimachi mansion built by Yoshinao, the ninth son of the Shogun Tokugawa Ieyasu. The shogun's tenth and eleventh sons, Yorinobu and Yorifusa, along with Yoshinao, were appointed as “daimyo", feudal lords. They were part of the "Gosan-ke" which gave them the right to potentially become the
shogun. Yoshinao's family was called the Owari-Tokugawa. After the Meiji Restoration (1872) this district became known as Kioi-cho, after the first initials of the Kii-Tokugawa, Owari-Tokugawa and li families.
- ポイント7 「赤坂紀ノ国坂」 元赤坂
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喰違見附から外堀通りの紀之国坂交差点に出ます。赤坂見附に向かって湾曲した坂が下っています。
紀伊国坂は長さが約340mほどの右に曲がりながら緩やかに下る坂で、別名を「紀国坂」といいます。坂名は、江戸時代に坂の西側に紀州徳川家の屋敷があったことに由来します。紀州が「紀の国」と呼ばれたことから、屋敷に上る坂を「紀之国坂」と呼ぶことになったとのことです。また、紀州徳川家の屋敷が「赤根山」と呼ばれていたことから、「赤根山の坂」が短縮されて「赤坂」の地名が付いたともいわれています。但し、諸説があって本当のところは分かりません。
紀伊国坂
きのくにざか 坂の西側に江戸時代を通じて、紀州(和歌山県)徳川家の広大な屋敷があったことから呼ばれた。赤坂の起源とする説がある。
紀之国坂交差点の西側に、赤坂迎賓館東門(紀州藩徳川家中屋敷表門)が建っています。赤坂迎賓館東門は東大赤門と同じ薬医門(中位の格式の門)で、迎賓館赤坂離宮がネオ・バロック様式の建物なので違和感はありますが、迎賓館が建っている場所は元々紀州徳川家の中屋敷があった場所で、東門は紀州徳川家藩邸の門なのです。薬医門とはいえ立派な門です。
三代歌川広重の作品「古今東京名所 赤坂紀ノ国坂」は、赤坂迎賓館の東門附近から赤坂見附へと下る紀伊国坂の風景を描いたものです。左が「古今東京名所 赤坂紀ノ国坂」の原画、右の写真は同じ構図で弁慶濠方向を眺めた風景です。
- ポイント8 「紀の国坂赤坂溜池遠景」 元赤坂
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初代歌川広重の作品「名所江戸百景 紀の国坂赤坂溜池遠景」も紀伊国坂から赤坂溜池を遠景した構図になっています。堀の外側には紀州徳川家の屋敷があり、紀伊殿らしき大名行列が描かれています。場所的には、紀伊国坂を弁慶橋方面に下る途中(元赤坂一丁目付近)と思われ、現在は高速道路が上空に架かっていますが、弁慶濠とカーブを描いた地形は昔と変わりません。左が「紀の国坂赤坂溜池遠景」の原画、右の写真が同じ地点から弁慶濠を眺めた構図になっています。
赤坂見附交差点に面して、翼を広げたような優雅な曲線を描いた赤坂エクセルホテル東急が建っています。昭和四十四年(1969年)9月13日に「赤坂東急ホテル」として赤坂見附の外堀通り沿いに開業し、東急ホテルズのブランド再編成に伴い、令和四年(2002年)4月1日に「赤坂エクセルホテル東急」と改称しました。入居する建物の賃借契約の終了により、令和五年(2023年)8月31日のチェックアウト・朝食をもって営業を終了し、53年間の歴史に幕を下ろしました。左の写真が2022年4月に撮ったもので、右が2025年8月に撮ったものです。
- ポイント9 「赤坂桐畑雨中夕けい」 赤坂見附
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二代目歌川広重の作品「名所江戸百景 赤坂桐畑雨中夕けい」は、現在の赤坂見附交差点付近の雨に包まれる赤坂御門を描いたものです。画に描かれた池は、位置関係からして弁慶濠ではないかと思われます。池の向こうの鬱蒼とした森は、赤坂見附(御門)の内にある紀伊徳川家上屋敷です。左は「赤坂桐畑雨中夕けい」の原画、右の写真は新坂の坂下から赤坂御門跡の方向を眺めたものです。
- ポイント10 「山王」 溜池山王
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山王日枝神社は東京十社の一社で、江戸三大祭のひとつである山王祭が行われることで知られています。山王日枝神社の創建年代ははっきりしていませんが、文明十年(1478年)に太田道灌が江戸城築城に当たって川越の無量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守である川越日枝神社を勧請したことに始まるといわれています。徳川家康が江戸に移封された際に、城内の紅葉山に遷座して江戸城の鎮守としました。慶長九年(1604年)に始まった徳川秀忠による江戸城改築の際に社地を江戸城外の麹町隼町に遷座し、庶民が参拝できるようになりました。明暦三年(1657年)の明暦の大火によって社殿が焼失したため、万治二年(1659年)に将軍家綱が赤坂の松平忠房の邸地を社地に当て、現在の地に遷座しました。この地は江戸城から見て裏鬼門に位置します。日枝神社は元々は比叡山の山の神様「山王」で、「日枝」は「比叡山」の「ひえ」に由来します。なので「山王」と「日枝」は同じ意味です。比叡山にある総本山は「日吉大社」で、昔は「日吉」と書いて「ひえ」と呼んでました。
日枝神社 旧官幣大社
主祭神 大山咋神
相殿神 國常立神 伊弉冉神 足伸彦尊
御祭神大山咋神は須佐之男神の御孫神で、またの御名を山末之大主神と申上げる。山水を司り、萬物の生成發展を守護し給ふ神である。日枝神社の歴史は鎌倉時代初期に秩父重繼が江戸貫主を名乗り、その居館に山王社を勧請したことに始まる。文明年間には太田道灌が江戸城築城にあたり川越山王社を再勧請し、更に徳川家康入府以降は城内鎮守の神、将軍家の産土神と崇められ、紅葉山から麹町を經て萬治二年に当地に移遷された。日本三大祭のひとつ、また江戸三大祭の筆頭として知られる山王祭は、江戸時代にはその神幸行列が城内に入り、將軍自ら上覧したことから天下祭また御用祭とも稱された。明治維新によって江戸城は皇居となり、日枝神社は皇城鎮護の神として皇室の御崇敬殊に篤く 大正天皇御即位當日には官幣大社の極位に列せられた。昭和二十年五月の空襲によって壮麗を極めた國寶の御社殿は灰燼に帰したが氏子崇敬者の赤誠により昭和三十三年に再建され、星ヶ岡上に再び大社の威容を拝するに至った。氏子區域は廣く千代田、中央、港、新宿區の七十餘町に及び、生業の隆昌を始め子孫と家門の繁榮を守護し給ふその御神徳はまさに宏大無辺である。
いつもは大鳥居からエスカレータで境内に上がるのですが、コース図では稲荷参道千本鳥居の階段を登っていくみたいです。神社に詣でるという気分になって、これはこれでいいですね。
正面にある社殿は昭和三十三年に造営されたものです。戦前までは、万治二年に造営された社殿があり、国宝に指定されていましたが、昭和二十年5月の空襲により、末社山王稲荷神社を残し全て焼失してしまいました。そこで、しばらくの間は山王稲荷神社を仮殿としました。現在の社殿は鉄筋コンクリート造りで、本殿の大きさは焼失前のものと同じ大きさだそうです。回廊で四角く区切られた拝殿の両脇には狛犬ならぬ「猿」が2体置かれています。山の守り神と呼ばれる猿が神様の使いとされた名残りで、山王さまといえば猿です。
日枝神社は将軍家の産土神として崇められ、本殿には御祭神として山の神様として知られる大山咋神(おおやまくいのかみ)が祀られ、家内安全などのご利益があると信じられています。また、末社として祀られているのが「山王稲荷神社」・「八坂神社」・「猿田彦神社」です。「山王稲荷神社」には、商売繁盛の神として崇められている倉稲魂神(うかのみたまのかみ)が祀られています。「八坂神社」には、本殿の神である大山咋神の祖父神の素盛嗚神(すさのおのかみ)が祀られ、縁結びや厄除け子孫繁栄などの御利益があるとされています。また隣接する「猿田彦神社」には、猿田彦神(さるたひこのかみ)が祀られ、開運や事業発展などを願う人々が参拝に訪れています。昔から山の守りとして敬われてきた猿ですが、そんな言い伝えから「日枝神社」の社殿前には夫婦一対となる「神猿像」が置かれています。本殿から向かって左側には子猿を抱く母親の神猿像がいて、縁結びや子授け、安産などを願われてきました。また本殿から向かって右側に建つ父親の神猿像は、商売繁盛や社運隆昌を願うと良いと言われています。
山王稲荷神社本殿/狛犬
千代田区指定文化財 山王稲荷神社本殿
稲荷神社は、山王社が万治二年(1659年)麹町隼町から現在地に移される以前から、この場所に鎮座していたと考えられます。明暦三年(1657年)の大火で焼失しましたが、万治二年(1659年)の山王社の造営に合わせてこの稲荷神社も造営されたと考えられます。その後、江戸時代の火事や地震、関東大震災、戦時下の空襲などで境内の建造物は被害を受けて建替えられていますが、この稲荷神社本殿はそれらを免れて残った千代田区内で唯一の江戸時代初期の木造建築です。建築様式は、関東地方では珍しい縋破風形式の春日造です。
千代田区指定文化財 狛犬
この狛犬は文政三年(1820年)、神田神社境内に鎮座していた南伝馬町天王社に奉納されたものでした。しかし、明治十八年(1885年)2月13日未明に神田神社周辺で起きた火災により天王社本殿などが焼失したため、南伝馬町(現在の中央区京橋一丁目〜三丁目)の氏子たちは新たに日枝神社境内に鎮守として祇園社を造営しました。狛犬は明治三十四年(1901年)に日枝神社境内に移転、再設置されたと考えられます。
Sanno-inari Jinja Shrine - Main Shrine / Guardian Lion Dogs
Chiyoda City Designated Cultural Property
Sanno-inari Jinja Shrine - Main Shrine
Inari Jinja Shrine is thought to have stood on this spot since before 1659,
when Sannosha Shrine was moved from Kojimachi Hayabusacho to its current
location. Together with the construction of Sannosha Shrine, Inari Jinja Shrine is thought to have been built here after it was destroyed by the great fire of 1657. The buildings in the shrine grounds have been rebuilt after damage from fire and earthquake in the Edo Period, the Great Kanto Earthquake, and air attack in the war, however, Inari Jinja Shrine's Main Shrine escaped intact and is now the only wooden building from the early Edo Period surviving in Chiyoda City. The architectural style is kasuga-zukuri (style similar to Kasuga Taisha Shrine in Nara) with sugaruhafu (roof with bargeboards of different sizes), which is rare in the Kanto region.
Chiyoda City Designated Cultural Property
Guardian Lion Dogs
The guardian lion dogs were dedicated in 1820 to Minami-tenmacho Tennosha
Shrine, which stood in the grounds of Kanda Jinja Shrine. After Tennosha
Shrine's Main Shrine, among other buildings, was destroyed in a fire in the
area neighboring Kanda Jinja Shrine early in the morning of February 13, 1885, the shrine parishioners of Minami-tenmacho (current-day Kyobashi 1-chome to
3-chome in Chuo-ku) built a new Gionsha Shrine as the local Shinto deity in the
grounds of Hie Jinja Shrine. The guardian lion dogs are thought to have been
relocated to the grounds of Hie Jinja Shrine and re-seated there in 1901.
「山王」は、初代の画風にならい、幕末の江戸の名勝や話題のスポットを取り上げて風景画を描いた二代目歌川広重の「江戸名勝図会」シリーズの一作です。山王男坂を登り、楼門(随神門:現在の神門)をくぐった先の光景を描いています。「江戸第一の大社(おおやしろ)で、金殿玉楼(きんでんぎょくろう)の輝き」という解説が付けられています。
日枝神社の宝物を納める宝物殿は、昭和53年に行われた江戸城内御鎮座500年大祭の記念事業として、その翌年に造営されました。国宝・重要文化財を含む刀剣31口の他、徳川将軍家ゆかりの宝物が多数所蔵されています。
神道に於て、祭神を守る者として安置される像のことを「随身」といい、「随神」とも書かれます。また、門守神(かどもりのかみ)ともいわれます。神社の門のうち、門の左右に随身像を安置した門は「随身門」と呼ばれます。日枝神社の現在の神門には随身が祀られています。神門は、昭和二十年の空襲で社殿とともに焼失してしまい、戦後再建されたものです。
左は拝殿側から見た神門、右は山王男坂上から見た神門です。
神門の裏側には神猿の像が安置されています。昔から、神猿は日枝神社の御祭神の神
使とされています。日枝神社では、この神猿を「まさる」と呼び「魔が去る」または「勝る」として縁起の良いものとされてきました。日枝神社の神使である神猿は鳥帽子をかぶり、御幣をかついでいます。社殿の前にも神猿がありますが、社殿前の「まさる」は御幣をもっていません。「まさる守」というお守りも授与されています。
神門から山王男坂を下ります。山王男坂は長さが約30mほどの急な石段で、山王日枝神社の表参道になります。外堀通りに面した階段とエスカレーターは山王橋参道で、この他に朱色の千本鳥居が連なる稲荷参道があります。山王日枝神社に上る坂のうち、正面の急な坂であることから、別名男坂のとも呼ばれます。
大鳥居後ろの常夜灯横に、遠慮がちに案内柱が立っています。
山王男坂
山王男坂は日枝神社の表参道で、左側のゆるやかな坂”女坂”に対しその名が付けられています。二つの坂を比較して急な坂を男坂、緩やかな坂を女坂と呼ぶことは各地にみられます。石段は五十三段。山王台地は又の名称を星が岡ともいう景勝の地でした。
星陵会館の先から坂が上がっています。
三べ坂は長さが約230mほどのやや急な上り坂で、別名を「三辺坂・水坂」といいます。江戸時代に、岡部(筑前守)・阿部(摂津守)・渡辺(丹後守)の三つの“べ”の付く屋敷が連なっていたことが坂名の由来になっています。
三べ坂
江戸時代、この板の付近に岡部筑前守、安部摂津守、渡辺丹後守の屋敷があり、いずれにも苗字に「べ」が付くということから「三ベ坂」と名付けられました。坂の上の西側には赤坂門の水番役を務めていた松平出羽守の屋敷があったため、水坂とも呼ばれていました。
この辺りには江戸時代に雲州松江藩松平出羽の屋敷がありました。別名の「水坂」は、松平家が赤坂御門御水番役であったことに由来しています。松平家の屋敷は明治になって公用地となり、華族女学校が設立されました。参議院議長公邸の裏門の横の植え込みの中に、文面は判読できませんが「華族女學校遺蹟碑」の石碑が置かれています。
ゴール地点の東京メトロ永田町駅に着きました。
ということで、千代田区で四番目のコースである「Aその2.浮世絵に描かれたちよだ名所めぐり・外桜田コース」を歩き終えました。次は千代田区で五番目のコースである「Bその1.近代建築めぐり・東京・丸の内周辺コース」を歩きます。
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