Bその1.近代建築めぐり・東京・丸の内周辺コース  

明治維新にともない中央官庁街をはじめ、いち早く近代化を推し進めてきた千代田区には、明治、大正、昭和初期の魅力的な近代建築が至るところに残る。建物に刻まれた時代の記憶を求めて歩いてみよう。

コース 踏破記  

今日は千代田区の「Bその1.近代建築めぐり・東京・丸の内周辺コース」を歩きます。JR神田駅をスタート地点として、主に千代田区の東・東南一帯の日本橋・丸の内・霞ヶ関を巡って虎ノ門まで周遊します。

スタート地点:神田駅東口(中央通り方面口)
ポイント1 丸石ビルディング(旧太洋商会ビルディング)【登録有形文化財】
昭和六年(1931年) 山下寿郎

日本では珍しい中世・ヨーロッパの香り漂うロマネスク様式のオフィスビル。竣工した1931年以来、テナントの需要に応えながら設備の改善を重ね、威容を保持している。スクラッチタイル(櫛目模様のタイル)の上層階を支える石貼りの1階は、リズミカルにアーチが並び、動植物やレリーフなども見る目を楽しませる。
 
ポイント2 山梨中央銀行東京支店 (旧第十銀行東京支店)
昭和四年(1929年) 徳永庸

竣工以来、銀行として使われている。当初はファサード(正面)にイオニア式オーダーの列柱などが見られたというが、戦災等をくぐりぬけ現在の簡素なデザインとなった。昭和初期の銀行建築の典型的なスタイル。当時のままの入口ドアや内部空間にも注目したい。
 
ポイント3 日本銀行本館【重要文化財】
明治二十九年(1896年) 辰野金吾

江戸時代の金座跡に建てられた日本人建築家の手による初の国家的な近代西洋建築。バロック調を基調とした建物は全体的にぎこちないと評されるが、竣工時40代前半だった辰野が、西欧の様式建築に果敢にチャレンジした様子が窺える。昭和七年(1932年)、辰野門下の長野宇平治が大規模な増築を行った。
 
ポイント4 日本工業倶楽部【登録有形文化財】
大正九年(1920年) 横河工務所(松井貴太郎)

当時のアメリカ式オフィスビルの典型。「雅にして堅」を旨とし、様式的な構成でありつつ、ウィーン分離派の工芸作品を彷彿する幾何学的な新しい造形を取り入れている。老朽化に伴う建て替えで1/3を保存、残りを再現。屋上のハンマーをもつ炭坑夫と糸巻きをもつ紡績工女像は、当時の2大工業の石炭と紡績を表す。
 
ポイント5 東京駅丸ノ内本屋【重要文化財】
大正三年(1914年) 辰野金吾

竣工時、改札口は皇居のある丸の内側にしかなく、中央は皇室専用の出入口だった。近年再整備された「行幸通り」は、その「皇室専用貴賓出入口」からまっすぐに皇居へと向かっている。3階部分やドームは戦時に被災して焼け落ちたが復原工事により平成二十四年(2012年)に蘇り、竣工直後の面影を伝えている。
 
ポイント6 東京中央郵便局
昭和六年(1931年) 吉田鐵郎

日本建築の柱梁構造を思い起こさせるモダニズム建築の名作として1931年に竣工。様式建築の縦長の窓が主流だった当時、大きな開口部や横につながる窓は驚きをもって迎えられた。解体が決定していたが部分的に保存・再生され、平成二十四年(2012年)にJPタワーの一部として公開された。
 
ポイント7 三菱一号館美術館
明治二十七年(1894年) ジョサイア・コンドル

もとは三菱が建設した丸の内初のオフィスビル。ジョサイア・コンドルの設計により、優美で軽快な印象のクイーン・アン様式でデザインされた。老朽化により取り壊されたが、原設計をもとに2009年に復元。翌年、美術館として生まれ変わった。忠実に復元された内部意匠も見どころ。
 
ポイント8 明治生命館【重要文化財】
昭和九年(1934年) 岡田信一郎

コリント式オーダーの列柱が、ギリシャ神殿を想起させる新古典主義建築で、オフィスビルの傑作。古典的な外観とは逆に、構造や設備は当時の最先端の技術が採用された。設計はコンペで選ばれた岡田信一郎。昭和期の建築として初めて重要文化財に指定された。
 
ポイント9 DNタワー21(旧第一生命館・農林中央金庫有楽町ビル)
昭和十三年(1938年) 渡辺仁・松本与作

渡辺仁・松本与作設計の第一生命館と、渡辺設計による農林中央金庫有楽町ビルを平成七年(1995年)に解体・復元しつつ一体化して、高層ビルへと建て替えたもの。 第一生命館(手前)は戦後GHQ庁舎となったことでも知られる。マッカーサーが執務した部屋は「マッカーサー記念室」として保存されている(見学は通常不可)。
 
ポイント10 フェリーチェガーデン日比谷(旧日比谷公園事務所)【都指定有形文化財】
明治四十三年(1910年) 福田重義

日本初の西欧風庭園として開園した日比谷公園の監理事務所として建設された。ドイツ風バンガロースタイルで、三角屋根を正面に見せる立面の工夫や出窓の持ち送りなど豊かな装飾が特徴。現在はウェディング会場として活用されている。
 
ポイント11 市政会館・日比谷公会堂
昭和四年(1929年) 佐藤功一

当時の東京市長・後藤新平が設立した東京市政調査会は、安田財閥・安田善次郎の寄付を受け、公会堂を付設した会館を建設。設計は早稲田大学の大隈講堂でも知られる佐藤功一による。垂直性を強調したデザインで、見る角度によって表情を変える茶褐色のタイルが印象的。
 
ポイント12 法曹会館
昭和十二年(1937年) 三菱合資会社地所部(藤村朗)

司法界の社交場として建てられた倶楽部建築。小さな建築ではないが、お濠に面したファサード側の建物の高さを低く抑えて、圧迫感を軽減している。全体におとなしめのデザインだが、尖塔や車寄せ上部に見えるステンドグラスなどに特徴を見ることができる。現在は結婚式場やレストランとしても利用されている。
 
ポイント13 法務省旧本館(赤レンガ棟)【重要文化財】
明治二十八年(1895年) ヘルマン・エンデ、ヴィルヘルム・ベックマン

ドイツの建築家コンビ、エンデとベックマンは明治政府が進める官庁集中計画を立案した。そのなかで実現し、現存する唯一の建物。赤レンガと白い石材によるネオ・バロック様式が特徴。戦災で大きな被害を受けたが平成初期の大改修で往時の外観が復活した。
 
ポイント14 財務省(旧大蔵省庁舎)
昭和十八年(1943年) 大蔵省営繕管財局

昭和初期の中央官庁整備の一環で建設されたものだが、着工が他の庁舎より遅かったため、建設中に戦時に突入。資材確保が難しくなり一応の完成が1943年。接収期間を経て最終的な外壁タイルなどの工事は1963年に終了した。入り口部分の3連アーチを除いては、実用的で簡素なデザインでまとめられている。
 
ポイント15 文部科学省(旧文部省庁舎)【登録有形文化財】
昭和七年(1932年) 大蔵省営繕管財局

昭和初期の第2期霞が関官庁街整備計画で、警視庁や旧内務省などとともに建設された一棟。設計はいずれも大蔵省営繕管財局。柱梁が表現された構造にスクラッチタイルを貼った外観。内部はモルタル吹付けやリノリウム床など、簡素で実用的な仕上 げとなっている。
 

ゴール地点:東京メトロ虎ノ門駅出入口8


スタート地点の神田駅東口(中央通り方面口)から歩き始めます。



ポイント1 丸石ビルディング(旧太洋商会ビルディング)

今川橋交差点と室町四丁目交差点の中間辺りの東側に丸石ビルディングが建っています。



株式会社太洋商会が昭和六年(1931年)に竣工した「丸石ビルディング」は、近世ロマネスク様式を採用した豪華なビルでした。昭和五十九年(1984年)と平成三年(1991年)に内外の点検・補修を行いましたが問題がなく、堅牢な設計が人々を驚かせました。丸石ビルディングは、時代に合わせて機能を常に見直しつつ、入居テナントの満足度を高めています。この建物は、文化庁により「登録有形文化財」に指定されています。



神田のオフィス街の一角にそびえる丸石ビルディングの北側玄関両脇に鎮座する威厳ある一対の獅子像は、70年以上にわたってこの地の風景を見つめ、記憶してきた貴重な「歴史の証人」です。このビルの南側には、かつて「龍閑川」と呼ばれた運河が流れていました。幕末に埋め立てられた神田堀を明治十六年に再開削したものでしたが、第二次大戦後に再度埋め立てられ、現在は商店の立ち並ぶ通りに姿を変えています。獅子像は元は四頭存在し、揃って「龍閑川」の水面に顔を映していました。それら獅子の本来の役割は、口から雨水を川に向かって吐き出すことでした。平成六年(1994年)に北側玄関脇に移設された今も、獅子は水面に映る失われた時代の風景を確かに記憶していることでしょう。



その龍閑川に架けられていた橋が交差点の名前に残る「今川橋」です。「今川橋」の名は今川焼き発祥のお店があったということではなく、当時の名主今川氏が尽力して架けられた橋にその功績を因んで今川橋という名が付けられたことに由来します。歩道の脇に今川橋の由来を記したプレートが置かれています。

今川橋由来碑

今川橋が神田堀(別名神田八丁堀・龍閑川)に架設されたのは天和年間(1681年〜1683年)との記録があります。橋名の由来は、当時の名主今川氏の尽力により架けられたのでその名が残りました。この橋は日本橋から中山道に通ずる重要な橋でもありました。神田堀は現在の千代田区神田・中央区日本橋地域の境を流れ、その役割は非常に大きく当時の運輸手段の主流でもありました。昭和二十五年(1950年)龍閑川は理め立てられ、三百年近く馴れ親しんだ今川橋も撤去され、現在はその面影もありません。左図の絵図は江戸時代末期頃の界隈風景です。この橋辺には陶磁器をあきなう商家が立ち並び、大層賑わったといいます。




江戸時代の今川橋の様子が挿絵で添えられています。



ポイント2 山梨中央銀行東京支店 (旧第十銀行東京支店)

丸石ビルディングと中央通りを挟んだ向かい側に、山梨中央銀行東京支店の建物があります。山梨中央銀行は、明治七年(1874年)に開業した「興益社」が前身です。興益社は、明治十年(1877年)に我が国9番目の国立銀行「第十国立銀行」となり、さらにその後明治三十年(1897年)に私立「第十銀行」となった後、昭和十六年(1941年)に「第十」と「有信」の2銀行が合併して「山梨中央銀行」が誕生しました。現在の山梨中央銀行東京支店は、第十銀行時代からの建物を使用しています。



当初はファサード(正面)にイオニア式オーダーの列柱などを並べた古典主義オーダーを模した昭和前半期の支店銀行建築の典型的な意匠でしたが、戦災などをくぐりぬけ現在の簡素なデザインとなりました。現在の建物は昭和四年(1929年)に竣工しましたが、大理石貼りのカウンターや床のタイルはほぼ竣工当時のままとなっています。1階営業室の天井は2階分の高さまであります。千代田区景観まちづくり重要物件に選定されています。



室町三丁目交差点を右折し、江戸通りに入ります。右手に「近三ビルヂング」が建っています。元禄年間、初代森五郎兵衞は奉公先である滋賀県八幡町(現在の近江八幡市)の近江商人伴伝兵衛から独立し、呉服商「森五商店」を設立しました。正徳四年(1714年)9月、江戸の神田竪大工町(現在の内神田・神田多町)に進出し、延享五年(1745年)に神田本石町(現在の日本橋本石町)に移転するとともに、屋号を近江屋三左衛門としました。建物の名称の「近三」はこの屋号に由来しています。昭和六年(1931年)8月に、森五商店東京支店として本ビルが竣工しました。竣工当初は地下1階・地上7階・延床面積約3、756uの規模でしたが、昭和三十一年(1956年)に北側に地下1階・地上8階の増築を行い、延床面積は約2倍になりました。さらに昭和三十四年(1959年)には既存の南側に8階部分と塔屋を増築しました。近三ビルヂングは、村野藤吾が渡辺節建築事務所から独立して最初に設計した建物でした。村野藤吾は本ビルを手掛ける直前にヨーロッパを旅し、新旧の建築作品を見学しました。近三ビルは、そこで学んだことを表現に活かした作品となりました。黒褐色のタイルで仕上げられた外壁と、整然と配置された縦長のガラス窓が外観の特徴となっています。タイルは呉服に因んだ色合いで、4種類に分けて塩焼きされていました。個々の窓は彫りが浅く庇がなく、窓を保護するために外壁上部にはパラペットが設けられ、竣工当時の技術としては先進的なジュラルミン被覆サッシが採り入れられました(1992年にエルミン窓に交換)。玄関と1階店舗と歩道の間には段差がなく、当初からバリアフリー構造となっています。玄関ホールの壁面はトラバーチン、ヴォールト様式の天井は奥村新太郎のデザインによるガラスモザイクで装飾されています。トラバーチンは鉱泉の沈殿物が凝固した石材で、大理石に比べ堅牢で、温度や湿度の変化で影響を受けにくい特性があります。本ビルで使われているものは黄色が主体ですが、階ごとに色調に変化を付けています。



案内板が立っています。近三ビルディングは、外観は最近のオフィスビルのように見えますが、東京都が選定した歴史的建造物になっているんですね。

東京都選定歴史的建造物
近三ビルディング(旧森五ビル)

                    所在地 中央区日本橋室町4−1−21
                    設計者 村野藤吾
                    建築年 昭和六年(1931年)

呉服問屋・森五商店の社屋としてつくられた。文化勲章を受賞した建築家・村野藤吾(1891年〜1984年)が渡辺節建築事務所から独立後はじめて手がけた作品。大阪御堂筋の大阪ガスビルと並ぶ昭和初期の日本を代表するオフィスビル建築である。装飾に頼るのではなく、立面全体と窓の比例、外壁の平面性を強調する黒褐色のタイル、精妙なディテールを表現のテーマとしており、当時の最新の美意識と村野の優れた芸術的センスが統合されている。細やかな心づかいはインテリアにも見られ、ドイツ製ガラスモザイクを用いた天井や大理石張りの壁で構成された1階玄関ホールは特に注目される。8階は昭和三十年の増築である。




常盤小学校は、明治六年(1873年)3月1日に、「幼童学所」として、本町一丁目13番地に創立されました。同年6月に「第一大学区第一中学区第四番小学常盤学校」として、本町二丁目5番地で官立学校になりました。明治二十八年(1895 年)に制定された校歌は、当時としては大変珍しい洋式音楽で、校歌そのものもまれに見るものでした。明治三十三年(1900年)10月に日本橋本石町四丁目2番地に校舎を新築移転しましたが、大正十二年(1923年)9月1日の12時頃に発生した関東大震災により校舎は全焼しました。昭和四年(1929年)5月に鉄筋コンクリートづくりの校舎が再建され、中央区の他のいくつかの小学校とともに復興小学校のひとつに数えられています。平成十一年(1999年)10月に現校舎が東京都選定歴史建造物に指定され、平成二十一年(2009年)2月に経済産業省から、校舎・園舎を近代化産業遺産として認定されました。敷地内には第二次世界大戦時の防空壕が残っていて、現在は防災訓練などに使用されています。



中央区立常盤小学校の校名は、かっての江戸城の正門である常盤橋御門の名に因んでいます。

東京都選定歴史的建造物
中央区立常盤小学校

                 所在地 中央区日本橋本石町四丁目4番26号
                 設計者 東京市
                 建築年 昭和四年(1929年)

常盤小学校は明治六年に開校し、現在使用されている建物は、関東大震災を機に、耐震・耐火性の高い鉄筋コンクリート造の校舎として建て替えられたものである。震災復興期の小学校建築には、装飾性を加味したスタイルと、機能を重視したインターナ ショナル・スタイル(国際建築様式)の二つの傾向があったが、この校舎は前者の代表作である。アーチのついた出入口、半円形の窓とその窓台、半円形の庇など幾何学的な装飾が特徴で、建築様式としては表現主義と呼ばれる。ビルが林立する中で、今なお往時の景観を残している。




ポイント3 日本銀行本館【重要文化財】

日本銀行本店は現在、旧館(本館・2号館・3号館)、新館、分館から構成されています。本館は現在の日本銀行の建物の中で最も古く、明治二十三年(1890年)の着工から約5年半の歳月を経て、明治二十九年(1896年)に竣工しました。明治二十四年(1891年)に発生した濃尾地震の教訓から、高橋是清の指示で建物上部を軽量化して耐震性を高めることが決定され、2階・3階は煉瓦造石貼りに変更されました。貨幣運搬用としてオーチス製の水圧式荷物用エレベーターが設置され、これは日本で2番目(凌雲閣が日本初)で海外製としては初の導入事例でした。明治中期の西洋式建築物としては、東京・赤坂の迎賓館と並ぶ傑作といわれていて、昭和四十九年(1974年)2月5日に国の重要文化財にも指定されました。また、東京の建築遺産50選にも指定されています。本館の建物は、外装に花崗岩や安山岩を用いた石積み外壁の内側にレンガを裏積みした構造の古典主義建築の外観を備え、秩序と威厳が表現されています。1階の列柱にはドリス式の様式が、2階から3階を貫く双柱にはコリント式の様式が見られます。本館1階には広々とした旧営業場、地下には旧地下金庫、2階には歴代総裁の肖像画や、かつて日本銀行で使用されていた貴重な品々を展示している史料展示室があります。建物南側正面にアーチ型の門扉と銃眼型の小窓が並ぶ低い障壁を立たせ、奥の中庭をコの字型に囲むように主屋を配置するなど、極めて堅固な防御性を備えた点に特徴があります。銅板葺きの屋根部分は、正面中央にドームを頂き、北の主屋と東西両翼部などに切妻屋根が採用されています。外観の装飾をみると、両翼部に装飾を省いたペディメント(切妻屋根下部にある三角形の部分)とコリント式の双柱オーダーがシンメトリーに配され、中庭の回廊にはドリス式のオーダーを立ち並べています。日本銀行の建物は、こうした古典主義の意匠を組み合わせながら独自性の強い重厚なデザインを創出している点に特徴があります。設計に際しては、ベルギーや英国の中央銀行を手本にしたといわれています。設計者は、ジョサイア・コンドルに師事し、建築学界の第一人者であった辰野金吾博士(帝国大学工科大学【現在の東京大学工学部】教授)です。辰野金吾博士は、日本銀行の支店(大阪・京都・小樽など9店舗)やその他に東京駅、旧両国国技館などの設計も手がけています。



昭和に入り、本館を取り囲むように別館(1号館・2号館・3号館)が増築されました。別館のうち、1号館は昭和四十五年(1970年)に解体され、後背地の敷地と併せて10階建ての新館が昭和四十八年(1973年)に完成しました。旧館の2号館はSRC造で、昭和七年(1932年)10月に着工し、昭和十年(1935年)に竣工しました。本館の右隣り(東隣り)の建物の奥側(北側)にあり、手前側(南側)の3号館と外観上は一体化しています。設計は辰野金吾博士の弟子の長野宇平治で、旧北分館を取り壊し、その跡地に建設しました。本館のデザインを完全に踏襲した鉄骨鉄筋コンクリート造りで、冷暖房・自家発電など、当時最先端の設備を揃えました。



旧館の3号館もSRC造で、昭和十三年(1938年)6月に竣工しました。



日本銀行本庁舎のあるこの地には、金貨を鋳造する金座の長を代々務めていた後藤家の屋敷がありました。しかし、慶応四年(1868年)4月17日、金座および銀座は明治新政府に接収されることになり、太政官に設けられた貨幣司の下、十四代目の後藤吉五郎光弘が二分判などの貨幣の製造を取り仕切りました。明治二年(1869年)2月5日には貨幣司も廃止され、金銀座関係者は解任されてしまいました。明治四年(1871年)5月の新貨条例実施もあり、明治五年4月(1872年)、吉五郎光弘は大蔵省により本町の後藤屋敷からの退去を命じられ、建物は解体されることになりました。

江戸で最初の町割の地

本町通りは、古くは太田道灌が築いた中世江戸城の大手から古代以来繁栄していた浅草寺に向かう通りであり、そのまま奥州へと繋がっていました。天正十八年(1590年)に江戸に入った徳川家康は、江戸城大手から続く常盤橋を整備し、この本町通り一帯で町割を行いました。その町支配のため、町年寄として家康の江戸入りに従った奈良屋市右衛門・樽屋藤左衛門・喜多村彌兵衛を命じました。また、現在の日本銀行が立つ場所に江戸幕府の金貨鋳造を行う金座が置かれ、その表通りには各種の商人の店舗がならび、行き交う武士や商人・職人などの町人たちで賑っていました(金座は後藤家が司っていました)。
ここに、徳川家康江戸入府後の最初の町割の地として、本町の歴史を後世に伝えるために記します。

The First Planned Residential District in Edo

Honcho-dori St is a street that begins at the front gate of the medieval Edo Castle, originally built by Ota Dokan. It leads toward the Sensoji Temple, which has prospered since the ancient times, and continues toward Oshu. After coming to Edo in the Tensho era (1590) Tokugawa leyasu first restored Tokiwabashi, which leads from the front gate of Edo Castle, and then began to build a planned residential district (machiwari) along Honcho-dori St. To oversee this district, he appointed Naraya Ichiemon, Taruya Tozaemon, and Kitamura Yahei, all of whom ad followed him to Edo. Apart from this, the official gold mint (Kinzax) of the Tokugawa shogunate was established where the Bank of Japan building now stand and various types of stores lined the main-streets, which were crowded by the likes of traveling samurai, traders, and craftsmen. *Kinza was governed by the Goto family Hence, the history of Honcho as the very first planned township after Tokugawa entrance into Edo shall be recorded here so that it may be passed on to future generations.




日本銀行本館と道路を挟んだ東向かいに三井本館の重厚なビルが建っています。三井本館は三井不動産の本社ビルであり、同社が保有するオフィスビルです。三井越後屋(三越)の跡地に旧三井財閥(三井グループ)の本拠として建てられました。また、團琢磨暗殺事件(血盟団事件)の現場でもあります。



初代の三井本館は、横河民輔が設計を手掛け、明治三十五年(1902年)に竣工しました。関東大震災で地震による建物の被害は皆無でしたが、屋根や窓廻りからの類焼で建物内部が大きな被害を受けました。このため、三井合名は仮本社で新社屋建設構想に入り、社長の三井八郎右衛門高棟は、「震災の二倍のものがきても壊れないものを造るべし」と命じ、それを受け理事長の團琢磨は「壮麗」・「品位」・「簡素」の三つの具体的なデザインポリシーを掲げ、これらの思想を具現化するために、米国のトローブリッジ・アンド・リヴィングストン事務所に設計を、ジェームズ・スチュワート社に施工を依頼しました。トローブリッジ・アンド・リヴィングストン事務所は團がモデルにしたアメリカのメロン・バンクの設計元でもありました。大正十五年(1926年)に工事に着手し、昭和四年(1929年)3月23日に竣工・6 月15日に開館しました。総事業費は当時の一般的な事務所ビルの約10倍でした。完成した本館は、「アメリカン・ボザール」と呼ばれる新古典主義様式による鉄骨鉄筋コンクリート造・地上5階(現在は7階)・地下2階建て、当時としては丸ノ内ビルヂング(丸ビル)に次ぐ大きさでした。外壁は花崗岩(茨城県産稲田石)で仕上げられ、道路に面する主要なファサードは、特徴的なコリント式のオーダーが乗る列柱を整然と並べ、水平コーニスと三井主要各社の業務内容を表現したレリーフが配され、さらに上階のセットバックにより、重圧感の軽減が図られました。関東大震災の教訓からその2倍の地震にも耐えることができるように造られた建物は、内装にイタリア産大理石を使用し、エアシューターや全館完全空調が導入された他、格納する三井銀行と三井信託の大金庫の扉は米国モスラー社製で、重量が50トンもありました。このため、陸上輸送すると未だ木造だった日本橋が落ちる心配があったので、新常盤橋ぎわまで船で運び、陸揚げして運び込みました。近年、川から陸揚げを行っている写真が発見されました。本館には、三井合名・三井銀行・三井物産・三井鉱山・それに新設の三井信託の5社が本社を置きました。昭和金融恐慌の際に、三井はドルを買い占めたことを批判され、理事長の團は財閥に対する非難の矢面に立たされ、昭和七年(1932年)3月5日に本館入口で血盟団の菱沼五郎から狙撃され、絶命しました。終戦を経て、昭和二十二年(1947年)まで、4・5階の一部は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収されました。1階は大きな吹き抜けを持つ銀行の営業場で、三井住友銀行日本橋支店・人形町支店・神田駅前支店、三井住友信託銀行日本橋営業部・東京中央支店があり、ドリス式の存在感のあるイタリア産の大理石仕上げの円柱を配し、桂頭・梁・天井の要所に装飾が施されています。平成十八年(2006年)3月に竣工したリニューアルを機に、4階には日本橋三井タワー上層部に進出したマンダリン・オリエンタル東京の美容室・貸会議室などのホテル関連施設が入り、7階には三井家の所蔵品を展示している三井記念美術館が設けられました。



日本橋川を一石橋で渡ります。大きな石造りの親柱が印象的なこの橋は、江戸時代初期からの古い橋で、戦後に呉服橋方向への外濠が埋め立てられるまでは、橋のすぐ西側が外濠と日本橋川の分岐点となっていました。江戸時代、橋の北詰には幕府金座御用の後藤庄三郎の屋敷地が、南詰には幕府呉服御用の後藤縫殿助の屋敷地があり、「後藤」を「五斗」ともじり、「五斗」がふたつで「一石」と命名されたと伝えられます。都電時代の橋は大正十一年改架の鉄筋コンクリート花崗岩貼りの橋でしたが、平成九年に架け替えられ、現在は当時の親柱の一基のみが残されています。

一石橋の親柱

皇居外堀と日本橋川が分岐する地点に架橋された一石橋の歴史は古く、江戸初期の「武州豊島郡江戸庄図」にすでに木橋として見えています。当時は西河岸町と北鞘町とを結ぶ橋で、橋名の由来としては、北橋詰近くの本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰近くの呉服町には、幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって五斗、五斗+五斗で一石と名付けたと「江戸砂子」に見え、日本橋地区と神田地区を結ぶ橋として重要でした。木橋としては最後となった明治六年(1873年)の一石橋は長さ十四間、幅三間の橋でした。大正十一年(1922年)に東京市道路局によって鉄骨コンクリート花岡岩張りのモダンな橋となり、堂々とした親柱四基をすえた白亜の橋となったのです。関東大震災にも落橋せず、その後も交通上の重要な橋として使われてきました。平成九年には大正十一年の橋本体は全て撤去されましたが、威風堂々とした花崗岩の親柱一基は残され、当時の姿をしのばせています。平成十四年に中央区民文化財に登録されました。




一石橋の南詰に案内板が立っています。今は迷子を見つけたら交番に連れていけば済むのですが、江戸時代には電話もなく張り紙で情報を伝えるしかなかったのでしょう。でも、迷子の親は必ず告知板を探して回ったでしょうから、案外と効率的な手段だったかもしれません。悪用して、なりすましの親を演じて連れ帰った輩もいたかも。

一石橋迷子しらせ石標

江戸時代も後半に入る頃、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。当時は迷子が出た場合、町内が責任をもって保護することになっていた。そこで安政四年(1857年)、西河岸町の一石橋の橋詰に、迷子探しのための告知石碑が建立された。日本橋から一石橋にかけての諸町名主などが世話人となり、迷子保護の立場から町奉行に申請したものである。銘文は、正面「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、右側画「志(し)らす類(る)方」、左側面「たづぬる方」、裏面「安政四丁巳年二月 御願済建之 西河岸町」。両側面上部に長方形の窪みがあり、左側面の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼る。通行人がそれを見て心当たりがあれば、その旨を書いた紙を右側面の窪みに貼って知らせたという。いわば庶民の告知板である。このほか湯島天神境内の「月下氷人石」や浅草寺境内、両国橋橋詰など往来の多い場所に同樣のものがあった。しかし震災や戦災などで破壊され、現存するのは一石橋のものだけである。総高175.7cm(棹石163cm、台石12.7cm)、棹石正面幅36cm、同奥行26cm、台石正面幅70cm、同奥行68.5cm。作者などは不詳である。

Tangible cultural property (Historical Material)
Ikkokubashi Maigoshirase Sekihyo
Designated in 1938

Around the late Edo Period, the area around Ikkoku bridge to Nihonbashi was a downtown area and there were said to be many lost children. At the time, the neighborhood was responsible for their protection. Therefore, this stone was erected for giving notice of lost children at the bridge foot of the Ikkoku Bridge in Nishikashi-cho in 1857. The heads of towns from Nihonbashi to Ikkokubashi became caretakers and asked for the permission to the upper magistrate of the area to protect lost children. The inscription of the stone says "Sign for Lost Children" on the front, "Informer" on the right side, and "Inquirer"on the left side, and "Erected in February 1857, Nishikashi-cho" on the back. The both sides of the upper part of the stone have a rectangular dent and papers with characteristics of a lost child or missing person were to be put on the left side. If a passer-by has information, the passer-by was to put up a notice on the dent on the right side. The sign served as a sort of bulletin for general public. There were similar stones, such as Gekka jinseki in Yushima Tenjin Shrine, in areas with large traffic such as Sensoji Temple and the foot of the Ryogoku bridge. However earthquakes or wars destroyed most of such stones. The stone at the Ikkoku Bridge is the only one remaining. Height 175.7cm (Main stone 163cm, Base stone 12.7cm), Width of the main stone 36cm, Depth of the main stone 26cm, Width of the base stone 70cm and the depth of the base stone 68.5cm. The maker is unknown.




ポイント4 日本工業倶楽部

新丸ビルと道路を挟んで向かい側に日本工業倶楽部会館があります。一般社団法人日本工業倶楽部は、当時の有力実業家により「工業家が力を合わせてわが国の工業を発展させる」ことを目的として大正六年(1917年)に創立されました。初代会長は三菱合資会社頭取の豊川良平で、初代理事長は三井合名会社理事長の團琢磨でした。重要経済問題や労働問題などに関して調査活動および政府への建議を行い、経済団体としての機能を果たしてきました。第二次世界大戦後は戦後経済の復興発展の礎のような役割を担い、経済団体連合会(経団連)や日本経営者団体連盟(日経連)を始めとした経済団体の設立と育成に協力し、それらの団体と重複する事業は行わないこととなりました。現在は財界人の交流の場としての役割を果たしています。会館には財界のトップが集う高級なフランス料理店があるようですが、利用は会員のみで一般の人は入れないようです。代わりに、数量限定ですが特製のお弁当が販売されていて、税込み千円程度ととてもお得です。



日本工業倶楽部会館は、日本工業倶楽部が創立された後直ちに建設が計画され、大正九年(1920年)11月に地上5階・鉄筋コンクリート造・一部鉄骨造の会館が丸の内の旧伝奏屋敷跡に完成しました。設計は横河民輔・ファサードは松井貴太郎・インテリアは橘教順と鷲巣昌が担当しました。日本における数少ない本格的なセセッション様式であり、全体に「雅にして堅」を旨とし、国賓を迎えることを考慮して、正面玄関にはドーリア式オーダーのエントランス・ポーチが配され、正面階段も広くとられました。正面屋上には小倉右一郎作の二つの人像が置かれ、戦前の日本経済の中心であった石炭(ハンマーをもった男性)と紡績(糸巻きを持つ女性)を表現しています。平成十一年(1999年)8月23日に登録有形文化財に選定されましたが、老朽化のため、平成十五年(2003年)3月に会館の南側部分を保存・再現したうえで建て替え、三菱信託銀行本店ビルとして竣工しました。



ポイント5 東京駅丸ノ内本屋

東京駅は、新橋と上野を結ぶ高架鉄道建設の立案をきっかけに、皇居から東へ一直線に延びる通称行幸通りの正面に位置する場所に、明治四十一年3月25日に着工し、大正三年(1914年)12月14日に竣工しました。当初は皇居に面した丸ノ内側だけ駅舎が建てられ、東側の八重洲口が開設されたのは昭和四年(1929年)のことです。設計は、日本銀行本店本館などの設計をしたことでも知られ、日本を代表する建築家の辰野金吾氏が担当しました。赤レンガ造りの丸の内口駅舎は、正式名称が「東京駅丸ノ内本屋」で、平成十五年(2003年)に国の重要文化財にも指定されました。南北折曲り延長約335mに及ぶ長大な建築で、中央棟の南北に両翼を長く延ばし、八角広室のドーム屋根が南北対称の位置にひとつずつ配されています。建設当初は地上3階建でした。 東京駅丸ノ内本屋は我が国鉄道網の起点となる停車場の中心施設であると共に、明治の市区改正計画に基づき建設された首都東京を象徴する貴重な建築で、煉瓦を主体とする建造物のうち最大規模の建築でした。平成十五年(2003年)に国の重要文化財に指定されました。



戦争の空襲で大きな被害を受け、戦後の復旧は3階部分を撤去したり、南北のドーム屋根が廃されたりするなど、規模を縮小した応急的な工事となりました。平成十九年(2007年)に復原工事が始まり、戦災復旧時に縮小された3階部分や南北のドーム屋根など、外観に関わる部分を中心に建築当初の姿へ復原されました。屋根材の天然スレートは産地の宮城県石巻市で補修・保管中に東日本大震災の津波で塩害を被り、65、000枚中45、000枚は使用できましたが、残りはスペイン産で補われました。平成二十四年(2012年)に創建当時の姿に復原されました。丸の内口駅舎の象徴ともいえるのが八角形の南北ドームです。天井には直径2.1mにも及ぶ威風堂々とした佇まいの鷲が8羽取り付けられ、その下のコーナーには、干支の方角にのっとった八支の干支の彫刻が施されています。



丸の内口駅舎には100年以上の歴史を誇る老舗「東京ステーションホテル」と、ユニークな展覧会が企画されている「東京ステーションギャラリー」が併設されています。



ポイント6 東京中央郵便局

東京中央郵便局は、東京駅前のJPタワー内にある郵便局です。昭和四年(1929年)8月15日に東京駅丸の内駅舎南口前に新局舎を起工し、昭和六年(1931年)12月25日に新局舎が竣工し、昭和八年(1933年)12月25日に新局舎で営業を開始しました。設計は逓信省営繕課の吉田鉄郎、施工は銭高組、大倉土木(現在の大成建設)、構造は鉄骨鉄筋コンクリート造りでした。郵政民営化の検討の前後から、旧庁舎は都心の一等地に位置していることを理由に、再開発によって高層ビルに建て替えられるべきであるとの議論がなされてきました。既存の局舎は歴史的価値が高く、保存を求める声が強いこと、また東京駅などの景観との調和を図るため、外壁を可能な限り保存・活用し、その後ろに接する 形で地下4階・地上38階建・高さ約200mの超高層ビルを建設することとなりました。折り紙をイメージしたガラス張りのビルで、吹き抜けの多目的スペースのほか、1階には東京中央郵便局、2階から上には商業施設やオフィスが入居する計画でした。ビルの設計は三菱地所設計が建築家のヘルムート・ヤーンとともに行い、平成二十年(2008年)7月22日に東京中央郵便局局舎建て替え工事が開始され、平成二十四年(2012年)に竣工しました。当初の計画においては、旧庁舎は外壁の2割のみが保存され、残りは全くの新築となるとされていましたが、旧庁舎が戦前の優れた近代建築のひとつであり、駅前景観の重要な要素となっていることなどから、保存すべきであるとの要望が出され、当時の総務大臣鳩山邦夫は衆議院総務委員会において、「重要文化財の価値を有する建物を再開発で取り壊すのは、トキを焼き鳥にして食べるようなもの」と答弁し、同再開発計画の見直しを明言しました。既に工事は始まっていましたが、鳩山総務相は現地を抜き打ち視察し、重機に削られて散らばった外壁タイルを見て「このままではどんどん壊される。一時的にせよ工事は止めるべき。」と述べました。その後、日本郵政から旧庁舎の保存部分を拡大する方向で再開発計画の見直しがされることが発表され、鳩山総務相は、「トキを焼き鳥にして食わないで、剥製が残るような設計変更をお願いし、再開発をしてもらう」と発言し、旧庁舎の保存部分を拡大した上で再開発を進めるとする日本郵政の提案に同意しました。このような経緯を経て旧局舎敷地に建設された超高層ビルは「JPタワー」と命名され、東京中央郵便局は7月17日にJPタワー低層棟へ移転しました。



「KITTE丸の内」は、旧東京中央郵便局の局舎を一部保存・再生して建築された商業施設です。地下1階から地上6階まで7つのフロアには、話題の飲食店や日本ならではの美意識を感じさせるものを扱う選りすぐりのショップが集っています。この内装デザインを手がけたのは、日本を代表する建築家の隈研吾氏です。各フロアは、1階は北海道旭川市のサクラ材、2階は愛知県西三河地方の三州瓦、6階は福岡県久留米市のナラ材など、日本各地でつくられた素材を仕上げ材として使うことで全国各地を「つなぐ」ことが意図されています。また、「Feel Japan」というテーマに沿って、内装の仕上げ材には木材や瓦・織物・和紙など日本古来から使われている素材が多用されています。1階のアトリウムに立って上を眺めると、建物は三角形の形をしてい55階までの開放的な吹き抜けになっています。天井から差し込む太陽光が美しい反射を生み出しています。天気が良い日におすすめなのは屋上庭園「KITTEガーデン」です。屋外のテラスからは東京駅舎が間近に見える絶景スポットとなっています。日没後は東京駅がライトアップされた美しい姿を見ることができます。



ポイント7 三菱一号館美術館

「三菱一号館」は、明治二十七年(1894年)に開国間もない日本政府が招聘した英国人建築家ジョサイア・コンドルによって設計された、三菱が丸の内に建設した初めての洋風事務所建築です。全館に19世紀後半の英国で流行したクイーン・アン様式が用いられています。当時は館内に三菱合資会社の銀行部が入っていた他、階段で繋がった三階建ての棟割の物件が事務所として貸し出されていました。この建物は老朽化のために昭和四十三年(1968年)に解体されましたが、40年あまりの時を経て、平成二十一年(2009年)4月30日に「三菱一号館」として復元され、コンドルの原設計に則って同じ地に蘇りました。復元に際しては、明治期の設計図や解体時の実測図の精査に加え、各種文献・写真・保存部材などに関する詳細な調査が実施されました。また、階段部の手すりの石材など、保存されていた部材を一部建物内部に再利用した他、意匠や部材だけではなく、その製造方法や建築技術まで忠実に再現するなど、さまざまな実験的取り組みが行われました。19世紀末に日本の近代化を象徴した三菱一号館は、平成二十二年(2010年)春、三菱一号館美術館として生まれ変わりました。



三菱一号館美術館は、三菱地所が運営する企業博物館で、同館の建物は丸の内最初の洋風貸事務所建築として明治時代に建てられた(旧)三菱一号館を同社が復元したものです。三菱地所による再開発で平成二十一年(2009年)4月30日に竣工した「丸の内ブリックスクエア」を構成する施設として平成二十二年(2010年)4月6日に開館しました。19世紀の近代美術を中心とする美術館で、企画展を年間3〜4回開催しています。常設展示は設けられていませんが、19世紀末の美術品を収蔵していて、特にロートレック作品を多く所蔵することから、フランス・アルビ市のトゥールーズ=ロートレック美術館と姉妹館提携を行っています。展示室は館内の1階から3階に分かれて配置されていて、建造物の構造的な制約により平均40uの比較的小さい展示室が20室連なる特異な構成となっています。



ポイント8 明治生命館

三菱一号館に次いで建てられた三菱二号館は、旧明治生命の社屋でした。明治生命は業務の拡大に伴い、その三菱二号館を取り壊し、三菱一号館を設計したジョサイア・コンドルの弟子・曾根達蔵を建築顧問に、大正から昭和初期にかけて歌舞伎座・ニコライ堂修復・日本銀行小樽支店など建設当時から話題になった作品を多く手がけた建築家で当時の建築学会の重鎮であった東京美術学校(現東京芸術大学)教授の岡田信一郎が意匠設計して建設されたのが明治生命館です。明治生命館は昭和五年(1930年)に着工しましたが、岡田信一郎が昭和七年(1932年)に急逝したため、当初から設計に参画していた弟の捷五郎がそれを引き継ぎ、3年7ヵ月の歳月をかけて昭和九年(1934年)に竣工しました。設計に当たった岡田は「様式建築の名手」と称され、明治生命館も5階分のコリント式列柱が並ぶ古典主義様式に則ったデザインでした。古典主義様式の最高傑作として高く評価され、わが国近代洋風建築の発展に寄与した代表的な建造物といわれています。設計・建設に至るすべてを日本人が担った最新鋭の近代ビルでした。しかし5年後の1939年に第二次世界大戦が勃発し、東京も大空襲により焼野原となりましたが、丸の内周辺は空爆を免れました。そして明治生命館は終戦後にアメリカ極東空軍司令部(FEAF)として使用するため、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に接収され、アメリカ極東空軍司令部として使用されました。対日理事会の第1回会議は、2階の会議室で行われました。昭和三十一年(1956年)にアメリカ軍から明治生命に返還されました。そんな深い歴史を持ち、建設当時のデザインを今に伝える明治生命館は、平成九年(1997年)に昭和の建造物として初めて重要文化財に指定されました。



明治生命館の1階店頭営業室や、対日理事会の会場となった2階会議室を始めとする執務室・応接室などの文化的価値の高い主要室は見学することができます。また、資料・展示室で明治生命館の建築・明治生命館の建設に携わった人々・明治生命館の歴史についても詳しく紹介されています。重要文化財には、「明治生命保険相互会社本社本館」として指定されています。



ポイント9 DNタワー21(旧第一生命館・農林中央金庫有楽町ビル)

第一生命保険会社は、大正十年(1921年)から同年に竣工した京橋の第一相互館を本社屋としましたが、業容の拡大により手狭となったため、新社屋を建設することとなりました。関東大震災で倒壊した警視庁跡地が民間に払い下げられていましたので、会社は建設用地として4区画中L字型の3区画を取得しました。残りの1区画は既に産業組合中央金庫(現在の農林中央金庫)に買い取られていたため、会社は土地を譲渡するよう交渉しましたが承諾されず、昭和八年(1933年)に農林中央金庫有楽町ビルが完成しました。新社屋の設計図案は公募され、168案の中から10案が優秀賞に選ばれました。この10案を参考にして、建築家の渡辺仁と第一生命の技師で営繕課長だった松本興作の二者で実施設計が着手されました。しかし、敷地はかつて日比谷入江であったために軟弱な地盤でした。ボーリングの結果、地下70尺の第3紀層まで基礎を掘り下げなければ耐震の建物が建てられないという結論が得られました。更に、日比谷濠の水が地下部分の工事中に流入する恐れがあることから、当時としては画期的な潜函工法による施工が計画されました。昭和九年(1934年)8月22日に地鎮祭が執行され、昭和十二年(1937年)4月19日に上棟式が行われ、昭和十三年(1938年)11月3日に竣工しました。



太平洋戦争中は陸軍により東部軍管区司令部が置かれ、屋上に高射砲陣地が設置されました。終戦後は占領軍に接収され、昭和二十七年(1952年)7月に返還されるまで連合国軍最高司令官総司令部として使用されました。平成元年(1989年)12月にDNタワー21を建設する再開発のため、本建物の東寄り部分は隣接する農林中央金庫有楽町ビルとともに、それぞれの方法で一部が外壁保存された上で取り壊され、跡地にはDNタワー21の高層棟(新館)が建ちました。平成五年(1993年)10月1日には本建物の西寄り部分の改装工事に着手され、平成七年(1995年)9月18日に完工しました。

東京都選定歴史的建造物
DNタワー21(旧第一生命館)

                   所在地 千代田区有楽町一丁目13番1号
                   設計者 渡邊仁、松本與作
                   建築年 昭和十三年(1938年)

皇居のお堀端に臨んで建つこの建物は、古典的骨格をもちながら、装飾を排し、稲田産花崗岩による重量感のある壁体で構成されている。建物の意匠は洋式建築の名手と言われた渡邊仁の作品で、無表情ともどれる表現の中に力強さを感じさせる。技術的には我が国最初の潜函工法で地下4階まで掘り下げられ、都市防空の上でも十分爆撃に耐える建築と言われた。戦争中は屋上に高射砲陣地が築かれ、戦後は連合国総司令部(GHQ)がおかれ、マッカーサー総司令官の執務室が残されるなど、日本の昭和史を彩る建物とも言える。東南側に隣接していた農林中央金庫旧有楽町ビル(渡邉仁設計による古典様式建築)とあわせ、皇居側の形態保存、さらに農林中央金庫側の外壁保存を伴なって、歴史的建築物保存による特定街区の適用を受け、DNタワー21として再生された。




日比谷交差点に面して、日比谷門がありました。

日比谷門跡

門の名は、中世のこの地域に日比谷村があったことに由来します。慶長十九年(1614年)に熊本藩(現在の熊本県)藩主加藤忠広によって石垣が築造され、寛永五年(1628年)に仙台藩(現在の宮城県)藩主伊達政宗によって門の石垣が構築されました。日比谷門は現在の日比谷交差点付近にありましたが、明治六年(1873年)に撤去されました。現在の日比谷公園の心字池沿いの石垣は、日比谷門と山下門の間にあった土手の名残りです。

Remains of Hibiya-mon Gate

The name of this gate is derived from the fact that Hibiya Village was located in this area. Stone walls were built around the area by the feudal lord of Kumamoto Han (now Kumamoto Prefecture), Kato Tadahiro, in 1614; and Date Masamune, feudal lord of Sendai Han (now Miyagi Prefecture), constructed the walls of the gate in 1628. The Hibiya-mon Gate was located near to Hibiya Crossing, but was demolished in 1873. The stone walls that currently remain alongside Shinji-ike Pond in Hibiya Park are those left from the embankment between the Hibiya-mon Gate and the Yamashita-mon Gate.




日比谷見附は江戸城外郭城門のひとつでした。

日比谷見附跡

この石垣は、江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部です。城の外側から順に、高麗門・枡形・渡櫓・番所が石垣でかこまれていましたが、石垣の一部だけが、ここに残っています。当時、石垣の西側は濠となっていましたが、公園造成時の面影を偲び、心字池としました。

Hibiya Mitsuke (Approach) Remains

This stone wall is a part of Hibiya Gate, one of the outer defenses of the Edo Castle. Outside of the castle, the Koma gate, square, turreted passageway, and guardhouse used to be surrounded by the stone wall, but only part of the stone wall remains today. On the west side of the stone wall was the moat, which was later converted into Shinji-ike Pond and recalls the appearance at the time the Park was constructed.




心字池は、日比谷公園開園前の濠を偲んで造られ、開園当初からの面影を残す伝統的な日本庭園です。池の周辺は周囲の森と共にシラサギやカモなどの野鳥の生息場所になっています。また、6月にはハナショウブが咲き、冬には松の雪吊りが見られます。池の中央にはカメの形をした小さな「カメの噴水」があります。

心字池

ここは日比谷公園ができる前は濠でした。その面影を残すために公園造成時に池としたもので、全体を上から見ると「心」の字をくずした形をしています。このような池を心字池といい、禅宗の影響を受けた鎌倉、室町時代の庭に見られる日本庭園の伝統的な手法のひとつです。

Shinji-ike Pond

This pond used to be a moat of the Edo Castle, and was converted into a pond to preserve its appearance when Hibiya Park was constructed. Looked at from above, this pond looks like the Chinese character ""(meaning heart), so that it is called the "Shinji" pond (meaning "letter"). Making a pond into this shape is a traditional technique influenced by the Zen sect, which were commonly used in Japanese gardens during the Kamakura and Muromachi periods.




伊達政宗は仙台藩の外桜田上屋敷で息を引き取りました。

仙台藩祖 伊達政宗 終焉の地

ここは、仙台藩祖伊達政宗から三代綱宗の時代、仙台藩の外桜田上屋敷があったところである。慶長六年(1601年)、政宗は徳川家康より江戸屋敷を与えられ、外桜田の屋敷は寛文元年(1661年)まで上屋敷として使用された。その敷地は、東西は心字池西岸から庭球場東端まで、南北は日比谷堀沿いの道路から小音楽堂付近まで広がっていたものと推定される。政宗の時代には、徳川家康が三度、二代将軍秀忠と三代将軍家光はそれぞれ各四度ここを訪れ、もてなしを受けたことが記録に残っている。政宗は江戸参勤の折、寛永十三年(1636年)五月、ここで七十年の生涯を閉じた。

The place of death of Date Masamune, the founder of the Sendai Clan

This is where the Sendai Clan's main Edo (Tokyo) residence, Sotosakurada Kamiyashiki, was located from the period of the founder, Date Masamune, to the third Lord, Date Tsunamune. In Keicho 6 (1601), Masamune was given a residence in Edo by the Shogun, Tokugawa Ieyasu. This residence in Sotosakurada was used as his main residence in Edo until Kanbun 1 (1661). The grounds of the residence spanned from the western shore of Shinji Pond to eastern tip of the tennis courts, and from the road alongside Hibiya-bori Moat in the north to the area around the Small Open-Air Concert Hall in the south. The records state that, at this residence, Masamune hosted Tokugawa Ieyasu on three occasions, in addition to both 2nd Shogun Hidetada and 3rd Shogun Iemitsu on four occasions each. Masamune's life ended here in May, Kan'ei 13 (1636) at 70 years of age during his stay in Edo under the system of alternating residence.




ポイント10 フェリーチェガーデン日比谷(旧日比谷公園事務所)

フェリーチェガーデン日比谷(旧公園資料館)は、日本初の西洋式公園として生まれた日比谷公園の一角に、明治四十三年(1910年)に公園の管理事務所として建てられたドイツ・バンガロー風の歴史的建造物です。昭和三十九年(1964年)からは公園資料館として広く公開され、平成二年(1990年)に、明治期の数少ない近代洋風建築のひとつとして東京都の有形文化財に指定されました。

旧日比谷公園事務所

我が国最初の洋式公園であった日比谷公園の管理事務所として、明治四十三年(1910年)11月に竣工したドイツ・バンガロー風の瀟洒な建物です。昭和五十一年(1976年)より公園資料館として内部を改造して使われていました。明治期の数少ない近代洋風建築の一つとして、平成二年(1990年)3月22日に東京都指定有形文化財に指定されました。建物の規模は、桁行12.6m、梁間7.2mです。

Former Hibiya Park Office

This sophisticated building in German bungalow-style was constructed in November 1910 as the administrative office of Hibiya Park, which was the first Western-style ??? ???. It was renovated and has been used for the Park archives since 1976. On March 22, 1990, it was designated as one of Tokyo metropolitan's Tangible Cultural Assets since it is a rare specimen of modern Western architecture of the Meiji Era. ??? ??? 12.6m long by 7.2m wide.




東京都が保存・活用事業者を公募し、建物の維持管理と活用を行う中で、平成十八年(2006年)から、目黒雅叙園が事業者となってウエディング事業を中心に、カフェ事業・ウエディング事業・イベント事業の3つの事業を軸にしてフェリーチェガーデン日比谷が運営されています。

東京都指定有形文化財(建造物)
旧日比谷公園事務所(東京都公園資料館) 一棟

旧日比谷公園事務所は、わが国最初の洋式公園であった日比谷公園の管理事務所として、明治四十三年(1910年)十一月に竣工した建物である。設計者は東京市に勤める技師福田重義であった。建物の規模は桁行12.6メートル、梁間7.2メートル。現在、内部は一階部分に倉庫・物入・厨房・便所、二階部分にベランダ・ホール・展示室・事務室などが設けられている。昭和五十一年(1976年)に公園資料館として使用するため内部を改造しているが、構造の躯体、軸組、外観の変更は僅かでよく旧態を留め、二階の展示室にある腰板・棹縁天井・ベイウィンドーの腰掛け、また階段などに当初の名残りがある。この建物は、洋式の日比谷公園に相応しいように設計されたドイツ・バンガロー風の瀟洒な建築物で、明治期の数少ない近代洋風建築の一つとして建築史上貴重である。




石垣には、設計を担当した福田重義氏の肖像を添えたレリーフが埋め込まれています。


この建物は日比谷公園事務所として明治四十三年(1910年)当時の東京市技師福田重義氏(1887年〜1971年)の設計によりバンガロー様式をとりいれて造られたものである。当時として、きめで斬新なもので貴重な公園構造物である。




芝庭広場脇のネモフィラ花壇と草地広場脇のチューリップ花壇が見頃を迎えています。



日比谷公園ではよくイベントが開かれていますが、今日はパエリアがテーマらしいですが、なんで福島?幟には「Descubra! Fukushima」と書いてあります。「発見! 福島」ということで、福島の復興を後押しするイベントらしいです。勿論、食材は福島産なのでしょう。



ポイント11 市政会館・日比谷公会堂

日比谷公会堂は、日本で最初の本格的なコンサートホールであり、東京都選定歴史的建造物・東京都指定有形文化財(建造物)に選定されています。現在は耐震性に問題があり、改修のため2016年から休館していますが、開館100年となる2029年に利用が再開される見通しになっています。日比谷公会堂は、市政会館との複合建築(地下1階・地上6階・塔屋4階建)であり、事務所棟にあたる市政会館部分と大講堂を持つ公会堂部分は丁字形に配置されています。建物は日比谷公園南東隅にあり、市政会館が南側の道路に面して建っているのに対して、公会堂は北側の公園に突出するように設計されています。公会堂の入口は公園側にあり、2階をバルコニーとして、公園内の庭園と一体のデザインとなっています。



建物の外観は、茶褐色のスクラッチタイルで覆ったネオ・ゴシック様式になっています。建物は指名設計競技で一等となった佐藤功一の設計になるもので、昭和四年(1929年)に竣工しました。関東大震災の教訓から、地盤は2千本を越す松材で固められています。戦前から政治演説会や国民大会が数多く行なわれた場所で、昭和三十五年(1960年)10月12日に起きた浅沼稲次郎暗殺事件は、日比谷公会堂での立会演説会の出来事でした。

東京都選定歴史的建造物
日比谷公会堂・市政会館

                      所在地 千代田区日比谷公園1−3
                      設計者 佐藤功一
                      建築年 昭和四年(1929年)

大正九年(1920年)に東京市長に就任後、東京市政のための中正独立の調査機関設置を構想した後藤新平は、大正十一年(1922年)に東京市政調査会を設立して自ら会長となった。後藤は、安田財閥・安田善次郎の寄付を受け、日比谷公園内に公会堂を付置した会館を建設し、会館は調査会が使用し、公会堂は東京市の管理に委ねることとした。これが、現在の市政会館と日比谷公会堂である。建物は、著名な建築家8名による指名設計競技の結果一等に当選した佐藤功一の設計をもとに、本格的なホールを備えたわが国最初の施設として、昭和四年(1929年)に竣工した。全体が茶褐色のタイルで覆われたネオ・ゴシック様式で、建物中央に時計塔がそびえたつ。一部の窓に使われた黄色テラコッタが、垂直性を強調したデザインにアクセントをつけている。




日比谷公会堂の南側部分は市政会館になっています。1920年12月に東京市長に就任した後藤新平は、地方自治についての調査・研究を行う独立公正の機関の新設を構想しました。後藤はニューヨーク市政調査会を規範として、1922年2月に東京市政調査会を設立し、自ら初代会長に就任しました。後藤は初代安田善次郎から350万円の寄付を受け、日比谷公園内に本拠を置きました。当初は公園の北東部に建築される予定でしたが南東部に変更され、建築物の北側部分が公会堂(日比谷公会堂)、残りが会館とされました。公会堂は東京市が、会館は東京市政調査会がそれぞれ管理することとなりました。市政会館は、建築家8人による指名設計競技の結果、佐藤功一の案が採用され、これをもとに清水組(現在の清水建設)が施工し、昭和四年(1929年)10月19日に落成しました。



かって江戸城の石垣に使われていた巨石が展示されています。

烏帽子石

この石は、江戸時代、江戸城外郭市ヶ谷御門の石垣の中にあったもので、形が烏帽子(昔、元服した男子のかぶりものの一種)に似ていたため、人々から烏帽子石と呼ばれて珍重されていたものです。明治時代、道路拡張に伴い石塁が取りこわされた際、永く保存するためこの公園に移されました。

Eboshi Stone Monument

This stone was located inside the Ichigaya-mon Gate, one of the gates of the Edo Castle outer stone wall, during the Edo period. Because its shape resembles that of eboshi, a black headwear worn many years ago by coming-of-age men, people lovingly called the stone the "Eboshi Stone Monument", and treated it with good care. When the stone mound of the castle was demolished to accommodate road extension work in the Meiji period, "the Eboshi Stone Monument" was moved to the park to preserve it for long.




噴水天国ともいわれるほど噴水で有名な日比谷公園内には、5つの噴水があります。西幸門に面した「かもめの広場」には鴎の噴水があります。噴水の中央にあるのが淀井敏夫氏による「鴎」と題された東京都の鳥になっているユリカモメのオブジェです。この作品は「うかぶ雲、海鳥たちの訪れ、時の流れを告げる古い貝殻」をイメージしています。噴水を覆うように植樹された木々は、都道府県の樹木が植えられた「郷土の森」です。



野外大音楽堂の北側には雲形池があります。こちらには鶴の噴水があります。その西側には、様々な種類のユリが配植されています。霞門から雲形池までの小道は「ユリロード」と呼ばれ、時期になると両脇の花壇はユリの花でいっぱいになります。

日比谷公園のユリ

ユリはユリ科(Liliaceae)ユリ属(Lilium)の球根植物で、北半球の亜熱帯から亜寒帯にかけて自生しています。日本にはこのうち15種が自生しており、その半数は日本の固有種です。球根を食用とし、救荒植物として扱われてきたほか日本最古の書物「古事記」(712年)や「万葉集」(806年頃)等にも登場し、古来より日本人にとって身近な花でありました。近年では自生種の数が減少しております。日本での品種改良の歴史は古く、江戸時代には著名な植木屋伊藤伊兵衛の「花壇地錦抄」(1695年)によりスカシユリ等(Lilium maculatum cv.)の園芸品種が紹介され、江戸園芸文化の一翼を担っていたと伺われます。17世紀以降、プラントハンターの活躍がさかんになり、ケンペル(1651年〜1716年)やシーボルト(1796年〜1866年)がユリの球根をヨーロッパに持ち帰りました。多花性であるが花自体は小さいヨーロッパのユリと比べ、大輪で野性味がある日本のユリがヨーロッパで注目を浴びるようになりました。明治期になり球根の輸出が始まると急激にその輸出額が伸び、日本にとって重要な輸出品目の一つとなりました。ヨーロッパに渡った日本のユリは品種改良され、数多くの園芸品種が生まれてきました。現在、世界中で楽しまれているユリの多くは、日本に自生しているユリの血が脈々と流れ、素晴らしい園芸品種がオランダ、ニュージーランド等から日本へ逆輸入されています。

The Lilies of Hibiya Park

Lilies, which belong to the genus Lilium of the family Liliaceae, refer to bulbous flowers native to subtropical to subarctic regions in the northern hemisphere. There are 15 species, native to Japan, about half of which are endemic to the country. The lily has been a quite familiar flower to Japanese people since ancient times. We can see that not only from the fact that lily bulbs have been used as food sources and emergency food rations, but also from the descriptions regarding lilies in the Kojiki (712), which is Japan's oldest literary text, as well as references to the flower in the Man' yoshu (ca. 806). In recent years, the naturally occurring varieties have decreased in number. In Japan there is a centuries-long history of intentional breeding to enhance the qualities of this species. The famed Edo-era horticulturist Ito lhei wrote in his Kadan Jikin-sho (1695) of cultivars such as Lilium maculatum, which is thought to have played a major role in the garden culture of the Edo period. Beginning from the 17th century. "plant hunters" became active. Notable among them were Kaempfer (1651-1716) and Siebold (1796-1866), who took lily bulb specimens to Europe. European lilies were known for their multiflora. Compared with the flowers of European lilies, the Japanese varieties were much larger and had a wild feel to them. This led to Japanese lilies gaining much attention in European horticultural circles. When Japan opened up its economy to the West in the Meiji period (1868) and the export of bulbs began, the export value of bulbs skyrocketed, which made lily bulbs an important export for Japan. The Japanese lilies that were exported to Europe were subject to further breeding, resulting in countless cultivars. At present, a great many varieties of lilies enjoyed around the world are direct genetic successors to the lilies endemic to Japan. In fact, the finest cultivars are being "reverse imported" from places like the Netherlands and New Zealand.




日比谷公園内には、「日比谷松本楼」と「日比谷パレス」というふたつのレストランがあります。雲形池の東側にあるのが日比谷松本楼です。日比谷松本楼は、明治三十六年(1903年)に日本で初めての洋式公園として開園した日比谷公園と時を同じくして誕生した日本の洋食文化を代表する老舗レストランです。当時の日本は文明開化の波の中にあり、日本初の「西洋式近代都市公園」として整備された日比谷公園の園内に初めて建てられた洋風レストランが日比谷松本楼です。公園の中心に建てられた日比谷松本楼は、「洋食」という新しい食文化を一般市民に広める場として、大きな存在感を放ちました。日比谷公園は「市民のための公園」として設計され、日比谷松本楼もまた「市民が気軽に西洋料理を楽しめる場所」として、都市文化と食の融合の場になりました。開店当初から、政財界の要人・文豪・芸術家たちが足繁く通い、時代の知識人たちの交流の場としても知られてきました。作家の芥川龍之介や永井荷風などが通ったともいわれています。昭和四十六年(1971年)に松本楼は放火によって焼失しました。しかし、多くの市民や文化人からの支援により、「平和の象徴として再建しよう」という運動が起こり、翌年には見事に復興しました。その感謝の想いを込めて、毎年9月25日には「カレーチャリティーイベント」が開催されています。これは、焼失からの復活を支えてくれた人々への恩返しとして、松本楼の伝統のカレーライスを寄付金(創業年数以上、121年なら121円以上)で提供し、収益を福祉や災害支援に寄付するという松本楼の伝統行事です。明治三十四年(1901年)、現在の日比谷交差点付近にあった樹齢約400年のイチョウが道路拡幅工事のため伐採されることになりました。この木を惜しんだ本多静六博士は、東京市参事会に対して「自分の首をかけても移植させてみせる」と強く主張し、伐採を中止させました。当時、樹齢数百年の大木を移植する技術や機械はなく、運搬車両もない時代でした。本多静六博士は人力での移植を決断、約25日間かけて500メートル先の日比谷公園内の日比谷松本楼の前庭にこのイチョウを移植しました。この逸話から、このイチョウは「首掛けイチョウ」と呼ばれるようになりました。移植された首掛けイチョウは、樹齢約400年〜500年といわれ、江戸時代以前から東京に根を張っています。関東大震災(1923年)・東京大空襲(1945年)・日比谷松本楼の火災(1971年)といった数々の災害を乗り越えてきました。特に1971年の火災では、放火により日比谷松本楼は全焼、首掛けイチョウも黒焦げになりました。しかし翌年の春には奇跡的に新芽を吹き、見事な新緑の葉を茂らせました。現在も日比谷公園内でその雄姿を保ち続け、本多静六博士の情熱と行動力を伝えています。そして首掛けイチョウの生命力は訪れる人々に力強さと希望を与える存在となっています。「首掛けイチョウ」という名には、「首に願を掛ける=強い祈願の象徴」という意味が込められているといわれています。実際に、合格祈願・家族の健康・商売繁盛などを祈りに来る人も多くいます。幹が一度は焼け焦げながらも翌年には新芽を吹いたという「不死鳥」のようなエピソードが、「再生」や「困難を乗り越える力」の象徴として語り継がれているのです。イチョウの木は古くから「長寿の象徴」・「火災を防ぐ木」として寺社仏閣にもよく植えられています。風水的にも、陰陽のバランスが良い木とされ、繁栄・安定・癒しなどのエネルギーを持つといわれています。焼失からの復興・平和の願い・チャリティ文化といった日比谷松本楼の精神的な象徴としても文字通り並び立つ存在です。お店の横に佇み、「見守りの木」・「再起の木」として語り継がれている点も、スピリチュアルな魅力のひとつとなり、今ではこの首掛けイチョウの木をパワースポットととして足を運ぶ多くの人々を見守り続けています。



日比谷パレスは、日比谷公園が開園した明治三十六年(1903年)に同時にオープンした結婚式場兼一軒家レストランです。現在はアフタヌーンティーも楽しめます。日比谷公園の緑に囲まれた一軒家レストランで、季節の食材を使ったモダンプロヴァンス料理を味わうことができます。東京のセントラルパークとも言えるような、自然の中でゆったりとした時間を過ごせるのが魅力です。



アメリカスズカケノキが聳えています。

アメリカスズカケノキ

このアメリカスズカケノキは、明治三十七年(1904年)目黒の林業試験場((現:林試の森公園)から試験場長白沢保美博士の寄贈により、この日比谷公園に植えられたものです。当時実生後数年たった苗を植えていますから、現在の樹齢は約100年以上にもなります。当時、スズカケノキ属は、街路樹の新種として外国から種をとりよせて試験的に植えていた時期で、その後この木の枝をとり、さし木をして街路樹がふやされていきました。

American Sycamore

This American sycamore was contributed by Yasumi Shirasawa, the head of the Forestry and Forest Products Research Institute of Meguro (current Rinshinomori Park), and planted in Hibiya Park in 1904. The sapling was already a few years old when planted, and it is currently over 100 years old. At that time, plane tree seeds were sent for from overseas and experimentally planted as a new type of street tree in Japan. The branches of this American sycamore tree were used to make a cutting to propagate new street trees.




遅まきながら、日比谷公園を解説した案内板が立っています。

日本文化になった洋風公園 日比谷公園の誕生

期待された西洋式の公園デザイン

日比谷公園のある土地は入江を埋め立てた低地でした。文明開化の都市生活の中で、中心的な位置に公園が必要とされ、東京市区改正設計により、明治三十六年(1903年)に日比谷公園が生まれました。まだだれも「西洋式公園」を知らない時代に、本多静六案に収斂されるまで、様々な設計案が提出されるも、決定には至りませんでした。

‘和魂洋才”の気配り設計 本多静六設計案

全体のゾーニング、門の数と位置、主要園路の入れ方、運動場、池泉と築山、芝生地、樹林、奏楽堂や亭など、すこし離れた目で図面を眺めると、各案の共通点を上手に取り込んでいるように見ることができます。「和の長岡案」や、とりあえず洋っぽい市吏員案」を経て、一見して「本格的な西洋式の本多案」に仕上がりました。その過程では、軍医総監の石黒忠悳や園芸花卉が専門の福羽逸人などの協力を得ています。この設計案の形式は林苑風で、ドイツの平地林を活かしたような公園デザインとなっています。多くはドイツの公園を範としていますが、一部には在来の日本庭園の手法も加えられ、綜合的近代公園としてまとめられました。

A Western-style park becoming a part of Japanese culture: The beginnings of Hibiya Park

Designs for the desired Western-style park

The land that Hibiya Park now encompasses was a low-lying tract of reclaimed inlet. For people living urban lifestyles in this new era of "civilization and enlightenment," it was deemed that a centrally-located park was needed, and through a revision of the design by Tokyo City and its wards, In 1903, Hibiya Park was born. This was a time when very few people knew what a Western-style park was. Numerous design proposals were submitted before they were combined and refined into Seiroku Honda's eventual design. None of the previous plans had led to a final decision.

Seiroku Honda's proposed design: A design that focused on a balance of both worlds, incorporating the spirit of Japan with "learning from the West."

If one looks at the plans from somewhat of a distance, the overall zoning of the park, the number and positions of the gates, the entrances to the main park pathways, the sports grounds, the landscaped ponds and hills, the lawn fields. the tree groves, concert hall, and resting spots, all skillfully incorporate the common features of the proposals that had been submitted previously. In fact, after the very Japanese Nagaoka Proposal and the proposal by the municipal officials that, for the time being."looked Western" the Honda Proposal seemed to be the design of an authentic Western-style park. In the design process, however, Honda received help from Tadanori Ishiguro, a surgeon general in the military, and Hayato Fukuba, a horticulture specialist, among others. The proposed plan was in the style of a thickly-treed park, making use in the park design of a German lowland forest park. The design drew upon German examples in many respects, but for certain aspects, the techniques of conventional Japanese gardens were incorporated as well, resulting in a comprehensive modern park.




ポイント12 法曹会館

法曹会館は、千代田区霞が関一丁目1番地にあり、近代的な官庁街区の中に、昭和十一年に竣工し、戦時中に周辺の施設が焼失する中で、空襲の戦災をまぬがれ、当時の姿を今も残した洋館です。法曹会館は、羽前米沢藩上杉家の上屋敷跡に建てられました。明治維新を経て、大名屋敷が「上知」(政府による没収)となると、上杉家上屋敷(米沢藩江戸屋敷桜田邸)跡は兵部省の所管となり、明治四年(1871年)に陸軍操練所(明治十八年に日比谷練兵場と改称)の一部となり、その後、明治二十八年には旧司法省庁舎(赤煉瓦)の隣地になりました。法曹会館の窓から見える景色は、正面(北側)には碧水のお濠、そして松の石垣の先には典雅な皇居を望み、左(西側)には画趣豊かな桜田門を眺め、右(東側)には近代的な丸の内・有楽町の高層建築に接し、一望の下に新旧時代の粋を満喫する景観は他に類を見ない環境にあります。明治二十四年(1891年)、時の大審院長児島惟謙の提唱により、法律研究のための任意団体として発足した法曹会は、明治三十九年に当時の司法省敷地内(東京市麹町区西日比谷町1番地)に木造の会堂「法曹会会堂」を建築しました。昭和二年、関東大震災の影響や東京民事裁判所の増築に伴い、司法省東南裏へ移築(旧日弁連)されました。その後、昭和十一年(1936年)12月に現在の場所に耐震耐火構造の美観的な会館を新築しました。法曹会館の設計は、大正から昭和期にかけて活躍した建築家で、三菱合資会社地所部の藤村朗氏、施工は竹中工務店が行ないました。基礎工事には長さ五十尺(約15m)の松材が多数使用され、地中に埋められたこの松材は地下水の存するかぎり永久の生命を保つとされ、今もなお法曹会館の基礎を支えています。法曹会館は、周囲の風景と調和する秀逸な麗容と耐震・耐火の堅牢性を兼ね備えた昭和初期における名建築のひとつとされています。戦災を免れた館内の内装にはイタリア産の大理石や和やかな雰囲気を醸し出すタイル張りなど、今もなお竣工当時のものが数多く残されていて、千代田区に残る歴史的な価値のある建造物として、平成十五年に「千代田区景観まちづくり重要物件」に指定されました。また、法曹会館は終戦直後の一時期、大審院(大日本帝国憲法下の最高裁判所)が使用することになり、1階の一室(現ロビー)には法廷が設けられ、実際に開廷されたこともありました。建築当時、水交社・学士会館・茗渓会館などの倶楽部建築を参考にし、鉄筋コンクリート造・地階・五階建・延坪962坪でした。昭和の激動を乗り越えてきた法曹会館には、その隅々にまで時代の記憶が刻まれています。



上杉家江戸藩邸から出土した庭石が展示されています。

「上杉弾正屋敷跡から出土した庭石」

この庭石は、現法曹会館新築基礎工事の際(昭和十一年12月竣工)、当地の地下十数尺(数メートル)より出土したものです。石の出所は明かではありませんが、当地は、米沢藩江戸屋敷桜田邸跡に建築された経緯から、当時の御庭の庭石ではないかと伝えられ、かの小杉放庵画伯が、「一見無類の名石」と激称し、写生を加えた原画が、法曹会館落成記念の絵はがきのモチーフとなりました。勤倹貯蓄をモットーにした上杉鷹山公が、上屋敷の御庭で手植えの萩の花の宴を催し、家中の上の者も下の者も「上和下睦」の麗しい遊びをした、という逸話が残されています。

萩の花の宴賜ふ事
江戸の上御屋敷の御座之間御庭の廣ければ萩を多く植ゑさせ給ひ、花の盛りになれば御家老より足輕・仲間・又者の輩に至るまで、一年中の氣詰を少しは慰めよと花見の宴をぞ賜ひける。御庭の此處彼處に薄縁布き渡し、其の處々に酒肴或は烟草の火などまで設け置かせ給ひければ、各群々打ちつどひて或は詩を作り歌を讀み、或は發句など楽しむもあれば、酔うて歌ひ舞ふもあり、耳を引きて酒を勧むるもあり、其の興云ふも更なり、貴賤残らぬ花見なれば。其の相應々々の並方を組合はせて、花のさき初めしよりうつろひ散るまでの花見なりしは、楽しくあり難き事なり。諸士の花見の宴には折々障子押しあけて臨ませられ、興に乗じさせ給ひては御座をも設け給ひて、御親らの詩歌をも見せ給ふ。下々の宴には折節御障子を細めて其のさまを御覧ぜられ、楽しみ給ふ御よそほび筆の及ぶべきにはあらず。




ポイント13 法務省旧本館(赤レンガ棟)

法曹会館の隣に、法務省の重厚な建物があります。

重要文化財 法務省旧本館

この建物は、明治政府が招聘したドイツ人建築家ヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンの設計により、実施設計・工事監理には河合浩蔵が参画し、明治二十八年(1895年)に旧司法省庁舎として完成した。その後、大正十二年(1923年)の関東大震災では、れんが壁が鉄材で補強されていたため、ほとんど被害を受けなかったが、昭和二十年(1945年)の東京大空襲により、れんが壁を残して焼失した。そのため、屋根を天然スレートから瓦にするなどの改修工事が行われ、昭和二十五年(1950年)法務省本館として再び利用されるようになった。中央合同庁舎第6号館の整備に伴い、村松貞次郎、堀内正昭両氏の監修のもと建設大臣官房官庁営繕部により、平成六年(1994年)外観が創建時の姿に復原され、法務総合研究所及び法務図書館として活用されることとなった。本格的なドイツ・ネオバロック様式の外観に特徴があり、都市の景観上貴重で歴史的価値が高いため、平成六年(1994年)12月27日に重要文化財の指定を受けた。

Important Cultural Property -Old Ministry of Justice Building-

This building, designed by two German architects, Hermann Ende and Wilhelm Bockmann who were invited by the Government of Japan in the Meiji era, was constructed in 1895 with the participation of a Japanese architect, Kozo Kawai, in the stage of its planning and supervision of construction. Later, at the time of the disastrous Kanto Earthquake in 1923, the building suffered almost no damage because the brick walls had been reinforced with iron pillars, but it was burnt down in 1945 by a heavy air raid in Tokyo, leaving only the brick walls intact, so it was reconstructed in 1950 for use as the main building of the Ministry of Justice, replacing the natural slates of the roof by tiles. Pursuant to the completion of Central Government Buildings No. 6, the Ministry of Construction restored the exterior of this brick building to its original condition in 1994 under the supervision of Dr. Teijiro Muramatsu and Dr. Masaaki Horiuchi, and the building is now used by the Research and Training Institute of the Ministry of Justice and the Ministry's Library. Characterized by its authentic German neo-Baroque exterior, this building is a magnificent piece of urban scenery and al being historically valuable, it was designated among the Important Cultural Properties of Japan on Dec 27, 1994.




入口の門もおとぎの国のような造りになっています。



法務省旧本館前の植え込みの中に、米沢藩上杉家江戸藩邸跡の記念碑が建っています。

米沢藩上杉家江戸藩邸跡

関ヶ原の戦いの後、上杉景勝は徳川家康によって出羽米沢三十万石に移封されました。慶長八年(1603年)、桜田門外の当地(現法務省の一部)に建てられた上杉家の江戸屋敷は「桜田屋敷」と呼ばれ、幕末まで江戸藩邸として中心的な役割を果たしました。左の絵図は江戸時代初期に制作された「江戸図屏風」に描かれた藩邸周辺の様子です。




ポイント14 財務省(旧大蔵省庁舎)

財務省(旧大蔵省)本庁舎は、敷地造成に昭和九年に取り掛かりました。戦時中の資材難のため工事が一時中止されるなどしましたが、その後も少しずつ工事が進められ、外壁のタイル張りを残した状態で、昭和十八年に一応の完成をみました。終戦後は米軍に接収され、接収解除がされる昭和三十年までその状態のままとされましたが、接収解除後に外壁タイル張りを初めとした改修工事に着手し、昭和三十八年に全ての改修工事が完了し、現在の姿となりました。さらに、平成二十七年から令和二年まで、建面積が1万2千uにもなる国内最大級の免震レトロフィット工事(既存建物の免震化を図ることにより、大地震動時に建物に作用する地震力を低減させ、既存構造体の補強を殆どすることなく、耐震性能の向上を図る耐震改修工法)を実施し、防災拠点施設として必要な耐震性能を確保しています。



建築概要
 ・昭和十八年(1943年)竣工
 ・鉄骨鉄筋コンクリート造 地上5階・地下1階
 ・建面積:11、968u・延面積:56、305u
 ・使用官署:財務省・国税庁



ポイント15 文部科学省(旧文部省庁舎)

旧文部省庁舎は、昭和初期の霞が関官庁街における震災復興庁舎として、警視庁や旧内務省などとともに大蔵省営繕管財局により設計され、施工は大林組が担当して昭和八年(1933年)に竣工しました。鉄骨鉄筋コンクリート造6階建で、ところどころにアール・デコ調の装飾がなされ、柱梁が表現された構造にスクラッチタイルを貼った外観、正方形に近い大きな窓による立面構成と正面玄関上部の垂直性を強調した意匠が特徴的です。内部はモルタル吹付けやリノリウム床など、簡素で実用的な仕上げとなっています。平成十九年(2007年)に登録有形文化財(建造物)に登録されています。



旧文部科学省庁舎は一部を保存し、5つの展示室とラウンジを配した「情報ひろば」と共に文化庁が使用しています。



虎ノ門交差点の傍らに「虎ノ門遺跡」の碑が建っています。「虎」と掛けたのでしょうか?それとも虎ノ門會ってトラキチの会?

此地ハ往昔の虎門の旧蹟なり乃ち慶長年間江戸城増築の砌りの内外廓三十六門の一にして嵎を負ふて八荒に慴伏する 此門乃名は全國に顕赫たりしに滄葉變して往時を偲ふ 一片の石すらこゝに止めす因って地元有志旧史を按して茲に斯石を鎮めて永く史蹟保存の意を表すと云ふ



ゴール地点の東京メトロ虎ノ門駅に着きました。



ということで、千代田区で五番目のコースである「Bその1.近代建築めぐり・東京・丸の内周辺コース」を歩き終えました。次は千代田区で六番目のコースである「Bその2.近代建築めぐり・神田・神保町コース」を歩きます。




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