- Bその2.近代建築めぐり・神田・神保町コース
老舗が軒を連ねる神田須田町界隈の昭和レトロな木造建築群を皮切りに、関東大震災復興期に建てられたさまざまな建物に出会える。
- コース 踏破記
- 今日は千代田区の「Bその2.近代建築めぐり・神田・神保町コース」を歩きます。JR秋葉原駅電気街改札口をスタート地点として、主に千代田区の北東部一帯の須田町・西神田・神保町を巡って都営地下鉄神保町駅まで周遊します。
スタート地点:JR秋葉原駅電気街改札口
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- ポイント1 マーチエキュート神田万世橋(旧万世橋駅舎)
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明治四十五年(1912年) 鉄道院
1943年の休止時まで、万世橋駅として使われていた駅の遺構を再利用した商業施設。万世橋駅は東京駅が開業するまで中央線の起点として栄えた。大正十二年(1923年)に関東大震災で焼失した駅舎は、東京駅と瓜二つの豪奢なものだったという。
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- ポイント2 松本家住宅主屋【登録有形文化財】
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昭和六年(1931年) 松尾栄太郎
大工棟梁・松尾栄太郎の設計施工で建てられた、典型的な震災復興期の建物。もとは青果物問屋の店舗併用住宅で、2階建てに見えるが実は3階建て。軒下の「出桁」が大きな特徴。角地のため、狭い間口と長い奥行きの対比がよくわかる。
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- ポイント3 神田まつや
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大正十四年(1925年) 設計者不詳
創業は明治十七年(1884年)で、当時から現在地で営業を続ける老舗の蕎麦屋。現在の建物は関東大震災後の1925年築で、商家ではあるがA松本家と同様出桁が2階軒下に見える。左右入口上部の松模様の欄間飾りも特徴。
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- ポイント4 山本歯科医院【登録有形文化財】
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昭和四年(1929年) 設計者不詳
鉄筋コンクリート造のように見えるが、木造3階建ての医院併用住宅。コーニス(軒蛇腹)、菱形の装飾、白い上げ下げ窓などデザイン性豊かな震災復興期の看板建築の一例。今も3代目の院長により治療が行われている、現役の歯科医院である。
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- ポイント5 いせ源
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昭和五年(1930年) 設計者不詳
天保元年(1830年)創業のあんこう料理専門店。現在の建物は1930年築の入母屋造り・木造3階建てで、2階欄干の菱形の彫り物や創業時から使われているという木製の看板が見どころ。
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- ポイント6 竹むら
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昭和五年(1930年) 設計者不詳
作家・池波正太郎も通った甘味の老舗。震災復興期の1930年に創業し、奇跡的に戦災を免れた。入母屋造りの木造3階建てだが、庇が重なり4層にも見える。2階欄干に施された竹と梅の模様など、職人の技も見どころ。
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- ポイント7 ぼたん
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昭和四年(1929年) 設計者不詳
明治三十年(1897年)頃創業といわれる鳥すきの専門店。現在の建物は周辺と同様、震災後の1929年築。塀際まで建物が迫り、道路から全体像をうかがうのは難しいが、店の玄関を入ると、格式ある式台を見ることができる。
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- ポイント8 高畠宅
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昭和五年(1930年)頃 設計者不詳
いわゆる「山の手」だった駿河台は関東大震災後、東京で初めて区画整理が行われた地域。その際にできた屋敷町の面影をとどめる貴重な近代和風建築。石垣の上奥に建っているため主屋を近くで見ることは難しいが、一枚板の門扉からも重厚さが伝わる。
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- ポイント9 ニコライ堂(日本ハリストス正教会教団東京復活大聖堂)【重要文化財】
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明治二十四年(1891年) ミハイル・アレフィエヴィッチ・シチュールポフ、ジョサイア・コンドル
日本では最大級のビザンチン様式の建物。宣教師ニコライは、この聖堂の設計を母国ロシアのシチュールポフに依頼。その図面をもとにコンドルが実施設計を行い竣工したが、大正十二年(1923年)の震災で大きな被害を受け、上部ドームが崩落。岡田信一郎が修復設計を行った。キリスト教でもっとも一般的なギリシャ十字型平面の上に大ドームが載り、細部にはビザンチン様式のモチーフが散りばめられている。
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- ポイント10 湯島聖堂
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昭和十年(1935年) 伊東忠太
江戸期の昌平坂学問所。大正期に国史跡に指定されたが直後に関東大震災により一部を残し焼失。1935年に伊東忠太が関わり現在の建物となった。聖堂は鉄筋コンクリート造で復元することに徹しており、伊東らしい造形はむしろ同時に建てられた隣接の「斯文会館」に見ることができる。
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- ポイント11 井政(遠藤家旧店舗・住宅主屋)
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昭和二年(1927年) 設計者不詳
徳川家康が江戸城をつくった際に、木材調達を担った材木商の旧宅。現在の建物は、1927年に神田鎌倉町に建てられ、戦後2階部分などを増築。贅沢な部材がふんだんに使用されており、細部の職人技も見ごたえがある。
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- ポイント12 旧文化学院
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昭和十一年(1936年) 西村伊作
与謝野寛、晶子夫妻らによって創設され独特の教育を行った文化学院の建物の一部。特徴的なアーチの入り口部分が保存された。設計は学院創設者でもある西村伊作。保存を手がけた坂倉建築研究所を率いた坂倉準三は西村の次女ユリの伴侶。
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- ポイント13 神田猿楽町町会詰所
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昭和五年(1930年)頃 設計者不詳
交番として建てられ、その後町会の詰所として利用。映画やドラマで交番として使用されることも。十字路の前面道路に沿うように、斜めにカットしたような変形平面で、鋭角部分を丸く処理しているのは親しみやすさを求めたものだろうか。
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- ポイント14 カトリック神田教会【登録有形文化財】
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昭和三年(1928年) マックス・ヒンデル
バシリカ(ローマの集会堂)式の三廊式聖堂。半円アーチの窓や軒など豊かな装飾が目をひく。当初のものではないがステンドグラスも美しい。設計者のヒンデルは、スイス人建築家で新潟や栃木など日本各地で教会を手がけている。
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- ポイント15 東方学会本館
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大正十五年(1926年) 設計者不詳
中学校として建てられたといわれる鉄筋コンクリート造のモダニズム建築。シンプルな構成で、壁から緩やかに張り出すような庇兼用の窓台と入口の半円アーチがデザイン的な特徴といえる。東方学会は戦後外務省所管で発足した学術団体。(内覧不可)
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- ポイント16 山の上ホテル
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昭和十二年(1937年) ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
1937年に欧米の生活様式を地域の婦人たちに啓蒙する施設として建てられ、戦後の米軍接収を経てホテルとなった。数多くの作家や文化人に愛されてきた理由は、設計者ヴォーリズの独特のスケール感によるところが大きいといわれている。長い年月のあいだに失われかけていた竣工時のアールデコ意匠を、当時の設計図を基に復元し 2019年12月、リニューアルオープンした。
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- ポイント17 文房堂ビル
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大正十一年(1922年) 手塚亀太郎
明治二十年創業の老舗の画材店本店。竣工翌年の関東大震災でも倒壊を免れた鉄筋コンクリート造だった。平成二年(1990年)に建て替えられファサードの一面だけが保存されている。四連のアーチ窓、スクラッチタイル、丁寧に施された彫刻的な装飾など見どころは多い。
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- ポイント18 学士会館【登録有形文化財】
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昭和三年(1928年) 佐野利器(構造)/高橋貞太郎(設計)
耐震工学の大家・佐野利器が構造を担当した強固な鉄骨鉄筋コンクリート造である。デザインは、後に日本橋高島屋などを手がけた高橋貞太郎。各階で異なる形の窓がリズミカルに並ぶ。1937年に一部増築され、その設計は【Bその1】K法曹会館と同じ藤村朗が担当した。
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ゴール地点:都営地下鉄神保町駅出入口A8
スタート地点のJR秋葉原駅電気街改札口から歩き始めます。
- ポイント1 マーチエキュート神田万世橋(旧万世橋駅舎)
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神田川を万世橋で渡ります。
万世橋
この橋を万世橋といいます。はじめはこの場所には橋がなく、約150メートル上流に筋違橋門に附属する橋がありました。明治五年(1872年)に門が解体されたとき、不要となった枡形石垣を転用して、門の跡に東京最初の石橋が架けられ、時の東京府知事大久保一翁により万世橋と命名されました。しかし一般には、半円形の二つの通船路の川面に映るさまが眼鏡のようなので、眼鏡橋の愛称で呼ばれました。明治三十六年(1903年)に元万世橋と改称しましたが、明治三十九年(1906年)に撤去されました。橋名を刻んだ石の親柱は神田神社の境内に保存されています。この場所に初めて橋が架けられたのは、明治十七年(1884年)のことで、上流の昌平橋が流出したため代用として昌平橋が架けられました。上流の昌平橋が復旧すると、この橋は新万世橋と改称し、明治三十六年(1903年)には鉄橋に改架されて万世橋と再度改称しました。現在の橋は、関東大震災の後の昭和五年(1930年
)に架け替えられました。
万世橋のもう一枚の案内板が立っています。
震災復興と万世橋
明治五年(1872年)に筋違見附が取り壊され、翌年にその石材を再利用して、筋違橋の場所にアーチ二連の石造りの橋が完成した。この橋は、当時の東京府知事大久保忠寛が萬世橋(よろずよばし)と命名したが、次第に「まんせいばし」という音読みの方が一般化した。さらに明治二十九年(1896年)に萬世橋東側に木橋を架けて馬車鉄道が開通する。明治三十六年(1903年)に現在の位置に新しい万世橋が架け直され、元万世橋と名を変えた上流の眼鏡橋の方は、後に撤去された。この新しい万世橋は、路面電車が走るなど東京の名所となったが、大正十二年(1923年)の関東大震災で被災し、昭和五年(1930年)に長さ26m、幅36m、石及びコンクリート混成のアーチ橋に架け替えられた。現在神田川に架けられている橋の多くは、震災復興橋梁と呼ばれる大正末年から昭和初期に架けられたもので、各橋は地域性を踏まえたデザインで造られたという。トラスドアーチ橋の聖橋、鋼ラーメンゲルバー桁橋の御茶ノ水橋、ヒンジアーチ橋の和泉橋と美倉橋など、神田川にある震災復興橋梁は、様々な構造で造られ、親柱や欄干のデザインに特徴を見いだすことができる。
Earthquake Recovery and Manseibashi Bridge
Stone materials from the Sujikaimon Gate (torn down in 1872) were reused the
following year to complete a two-arch stone bridge on the site of the Sujikaibashi Bridge. The governor of Tokyo at that time, OKUBO Tadahiro, named new the bridge Yorozuyobashi Bridge, but, using the Chinese-derived pronunciation for the name's characters, the general public gradually came to refer to it as the Mansei-bashi Bridge. In 1896, a wooden horse-tramway bridge was built on the east side of the Yorozuyobashi (Manseibashi) Bridge.
In 1903 a new Manseibashi Bridge was built at its current location. The eyelike
two-arch Yorozuyobashi (Manseibashi) Bridge, which was upstream from the new
bridge, was renamed the Old Manseibashi Bridge and subsequently demolished.
The new Manseibashi Bridge carried streetcars and became a Tokyo landmark,
but it was damaged in the Great Kanto Earthquake of 1923. In 1930, that bridge
was replaced with a single-arch stone-and-concrete bridge 26 meters long and 36
meters wide. Today there are many bridges across the Kandagawa River. Those built in the early years after the great earthquake are referred to as "earthquake-recovery bridges"; they were constructed with designs that have a local flavor. The Kandagawa River earthquake-recovery bridges-including the arched truss Hijiri-bashi Bridge, the steel rigid-frame cantilever Ochanomizubashi Bridge, and the hinged-arch Izumibashi and Mikurabashi bridges-were built using a wide variety of construction methods, and distinctive features can be found in their pillar and railing designs.
万世橋の袂に、かっての万世橋駅舎跡を再開発した「マーチエキュート神田万世橋」があります。明治四十五年(1912年)に完成した赤レンガ造りの万世橋高架橋が歴史や記憶を活かしながら新たに生まれ変わり、階段・壁面・プラットホームなどの遺構が蘇った空間の中に知的好奇心を掻き立てるような趣味性・嗜好性の高いショップやカフェが並ぶこれまでにない商業施設です。
「mAAch ecute」は、昭和十八年(1943年)の休止時まで、万世橋駅として使われていた駅の遺構を再利用した商業施設です。万世橋駅は東京駅が開業するまで中央線の起点として栄えました。大正十二年(1923年)に関東大震災で焼失した駅舎は、東京駅とうりふたつの豪奢なものだったと言われています。現在も旧万世橋駅として使われていた頃の階段やプラットフォームが整備され再利用されています。ちなみに、「マーチ」は「3月」の意味で開業時期を表すとともに、音楽の「行進」を意味し、人々が行き交う様子を表しています。「エキュート」は、JR東日本グループが運営する駅構内の商業施設のことで、「楽しいことがキュ〜っと詰まっている駅」をコンセプトに「駅(エキ)」と「キュート(可愛い)」を掛け合わせた造語なんだそうです。
須田町交差点の角に年代物のビルが建っています。鷹岡株式会社東京支店は、大阪の羅紗問屋の東京支店として、昭和十年(1935年)に建てられました。1階部分の外壁は御影石、看板は一文字ずつの浮き出し仕様で、昭和モダニズムを強く感じさせるビルです。平成十五年(2003年)6月に千代田区景観まちづくり重要物件に指定されました。
- ポイント2 松本家住宅主屋
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松本家住宅主屋は、大工棟梁・松尾栄太郎の設計施工で昭和六年(1931年)に建築された元青果物問屋の店舗兼住宅で、神田多町問屋街に残る震災復興町家です。多町大通りに面した角地に東面して建っているため、狭い間口と長い奥行きの対比がよく見えるところもポイントです。木造三階建、切妻造、平入で、正面は特徴的な「出桁造」の構えをとり、北妻面は窓の少ない防火に配慮した造りとなっていて、東京の下町における震災復興期の和風町家として貴重なものです。国の登録有形文化財に選定されています。
須田町交差点の先に旧神田市場の案内板が立っています。私は神田青果市場は秋葉原駅の北方にあったのが最初だと思っていたのですが、江戸時代から明治・大正年間までは神田川沿岸のこの地に青果市場があったんですね。千住の青物市場も隅田川沿岸にあったし、東京の河川は物流の要だったんですね。
神田市場(神田須田町一丁目)
中世の神田川右岸は、水田が多い農村地帯だったようです。幕府が編集した江戸の地誌である「御府内備考」には、町が整備される前、この周辺が須田村と呼ばれていたという記述があります。江戸初期の慶長年間(1596年〜1615年)にも、この界隈を中心に「神田青物市場」の起源とされる野菜市が開かれたこともわかっています。水運を利用して神田川沿いの河岸や鎌倉河岸から荷揚げされた青物が、一万五千坪(約4万9500u)におよぶ広大なこの青物市場で商われていました。当時の市場では、店が店員の住まいを兼ねていました。つまり、現在のわたしたちが考える市場と違い、当時は市場の中に町があるといったイメージでした。巨大な市場でしたので、中にある町も須田町だけでなく、多町・佐柄木町・通新石町・連雀町なども市場の一部をかたちづくっていたのです。そして、これら五町の表通りには、野菜や果物を商う八百屋が軒を連ね、連日のように威勢のいい商いが行われていたということです。青物市場の別名である「やっちゃ場」は、そんな威勢のいい競りのときのかけ声から生まれた言葉なのです。江戸、そして東京の食生活を支え続けたこの市場は、昭和三年(1928年)には秋葉原西北に、平成二年(1990年)には大田区へと移転しました。それでも、現在の須田町町内には、東京都の歴史的建造物に指定されるような老舗商店が数多く営業しています。須田町は、江戸からつづく活気あふれる商いの伝統が、いまだに息づく町なのです。現在の須田町中部町会は、この青果市場の中心であった連雀町と佐柄木町のそれぞれ一部が、関東大震災後の土地区画整理事業によって合併し、誕生しました。
Kanda-ichiba (Kanda-Sudacho 1-chome)
In the Middle Ages, this area along the right bank of the Kanda River was an agricultural village with many paddy fields, and was called Suta Village. It was the original site of a large and bustling Kanda Vegetable Market, which sustained the people of Edo and Tokyo. Though the market moved out in 1928, there are still many long-established shops, still in business, that have been designated as historical buildings.
案内板の隣りに、わりと新しい石の台座の上に「神田青果市場発祥の地」と彫られた古い石柱が立っています。碑文の文字は浮き出しているように彫られていて、結構読み取りやすいくなっています。
旧 神田青果市場の由来
この市場は慶長年間に今の須田町附近、当時は八辻ヶ原と称していたこの地一帯において発祥したものである。年を追って益々盛大となり徳川幕府の御用市場として駒込、千住と並び江戸三代市場の随一であった。ためにこの市場には他市場で見られない優秀なものが豊富に入荷した。そして上総房州方面の荷は舟で龍閑町河岸へ、葛西、砂村方面のものは今の柳原稲荷河岸から水揚げされた。当時の記録によるとこの市場の若い衆達が白装束に身を固めてかけ声も勇ましく御用の制札を上に青物満載の大八車を引いて徳川幕府賄所青物御所を指してかけて行く姿は実に「いなせ」なものがあったと云う。巷間江戸の華といわれた、いわゆる神田っ子なる勇肌と有名な神田祭はこの神田市場にそのことばの源を発しているものといわれた。こうして繁栄をきわめたこの市場は江戸時代から明治、大正、昭和へと漸次その地域を拡大してこの地を中心に多町二丁目、通り新石町、連雀町、佐柄木町、雉子町、須田町にわたる一帯のものとなりその坪数は数千坪に及んだ。この間大正12年9月関東大震災にあって市場は全滅したが直ちに復興し東洋一の大市場とうたわれた。惜しい哉この由緒ある大市場も時代の変遷と共にこの地に止まるととができず、昭和3年12月1日を期して現市場である神田山元町東京都中央卸売市場神田分場へと移転した。当時数百軒に及んだ問屋組合頭取は西村吉兵衛氏であった。風雪幾百年永い発展への歴史を秘めて江戸以来の名物旧神田青果市場は地上から永遠にその姿を消した。父祖の代からこの愛する市場で生きて来たわれわれは神田市場がいつまでもなつかしい。あたかも生れ故郷のように、尽きない名残りをこの記念碑に打ち込んで旧市場の跡を偲ぶものとしたい。
- ポイント3 神田まつや
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神田まつやは、明治十七年(1884年)に福島家の初代市蔵氏が創業しました。その後二代を経て、関東大震災後に小高家の初代政吉が継承しました。二代目賢次郎はそばの製法技術を「魚藍坂の藪そば」の出身で後の大森梅屋敷藪そばの創業者関谷作太郎氏に学びました。小高家三代目の登志は、「蕎風会」で「神田藪そば」の先代、「上野蓮玉庵」の先代、「神田錦町更科」の先代などの老舗のそば打ちの技法並びに営業のノウハウを学び、その集大成が現在の「神田まつや」になっています。つけ汁は下町のなごりとも云える少し濃い目に仕上げてあり、機械製麺を全部「手打ち」に切り替えたのは昭和三十八年のことでした。神田まつやは、かつて美食家としても名高い池波正太郎氏(小説家)に愛され、池波正太郎氏は下駄履きで通っていました。この地は明治初期に武家地を開発してつくられた地域で、近くにあった筋違橋門内の広場は八路ケ原と呼ばれ、交通の結節点でした。その後、明治四十五年(1912年)に万世橋駅が作られ、周辺道路には路面電車が集中し、東京で最も賑わう場所となりました。また、地域の南側には、昭和三年(1928年)まで青果市場があり、活気のある場所でもありました。周辺には老舗の飲食店が多く集まっています。神田まつやの店舗は近代和風の建物で、創建当時の原型をよく留めています。屋根の豪快な出し桁造り、巨大なちょうちんや看板など、大造りで個性豊かな店構えで、2階の欄干や1階の松の葉をモチーフに小壁をくり抜いたデザインなどに特徴が見られます。店内は小あがりがなく、土間にテーブル・椅子式で、床は豆砂利洗い出しになっています。東京都選定歴史的建造物にも指定されています。
- ポイント4 山本歯科医院
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山本歯科医院は、明治三十年(1897年)に現在の神田須田町1−1辺りで山本茂三郎が創業しました。医院の建物は関東大震災で被災し、昭和三年(1928年)に診療所兼住宅として新築されました。鉄筋コンクリート造のように見えますが、震災復興期に見られる看板建築3階建ての医院併用住宅で、コーニス(軒蛇腹)・看板・菱形装飾などによる正面の外観意匠に創建当時の特徴がよく出ています。今も三代目の院長が100年以上続く医院を引き継ぎ治療が行われている現役の歯科医院です。神田須田町は、江戸時代から昭和初期にかけて運輸・行商そして消費の中心として賑わいを見せた場所で、当時の趣を残している建物もたくさん残存しています。
外観が昭和初期の瀟酒なタイルのデザインや特徴的な窓枠、右から書かれた医院の名前などがあり平成十五年に千代田区が指定する千代田区景観まちづくり重要物件に登録され、平成十七年に国登録有形文化財(文化庁認定)に指定されました。
商売繁盛の神社があります。
出世稲荷神社由来
由緒
山城国稲荷山の分魂・柳森神社攝社にして連雀街創立の頃より町内鎮守神と祭祀す。青果商う者、出世奉賽の為に建立すとも云う。其後延享年間火災の折、柳森神社に合掌祭祀し例年二月上の午日、町内に迎え祭典執行居りしも明治七年五月町内地続き武家地新開成るに及び連雀町十八番地に信者奉願造営遷座せるものなり。明治八年東京府境内見捨地とす。大正十二年五月社殿改築の議起り、柳森神社へ神璽を遷し、九月竣工の運びなりしも、九月一日突如起りし関東大震災の為、新宮・町家共に灰燼に帰す。幸いにも神璽は柳森神璽と共に偶然にも神田川いなり河岸に繋留ありし稲荷丸という船(多町青果市場納入便船)に遷奉し猛火を潜り河口を脱出難を避けた。現社殿は昭和三年遷座建立せしものにて、年々九月十五日町内及び信者一統相寄り柳森神社柳原宮司のもと祭祀司る。其後町内戦火にも免れ、火災・災厄一つとしてなく遠地よりの参拝も多く火防・商売繁栄・学業成就の神として多大の崇敬を集めている。
- ポイント5 いせ源
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通りの四つ角に面して古風なお店が建っています。江戸末期の天保元年(1830年)、十一代将軍徳川家斉が国を治めていた頃、中橋広小路(現在の京橋三丁目付近)で初代にあたる立川庄蔵が「いせ庄」というどじょう屋を始めました。その後、二代目立川源四郎が店を中橋広小路から神田連雀町に移し、店名も「いせ庄」の‘いせ’と「源四郎」の‘源’を合わせ、「いせ源」と改名しました。今でこそあんこう料理の専門店として暖簾を掲げていますが、当時はあんこう鍋の他にも、よせ鍋・かき鍋・白魚鍋・ねぎま鍋などなど、様々な鍋料理を提供していました。しかし、あんこう鍋に人気が集中するようになり、大正時代の四代目立川政蔵の代にあんこう料理専門の店となりました。以来、東京で唯一のあんこう料理専門店として親しまれています。大正十二年の関東大震災によってお店は全焼しましたが、現在の店舗の建物は昭和五年に建て直したものです。幸運にも戦災を免れ、今も当時と変わらぬ昔ながらの風情を残しています。建物は、東京都選定歴史的建造物に選定されています。
- ポイント6 竹むら
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「竹むら」は、昭和五年(1930年)創業の神田須田町一丁目にある甘味処・和菓子店です。揚げ饅頭が有名で、当時神田に本格的な汁粉屋がなかったことから、汁粉屋らしい汁粉屋作りをめざして開業しました。北海道小豆を原料とした自家製の餡を使用し、伝統の味を守り続けています。春から夏はあんみつ・氷しるこ、秋から冬は揚げまんじゅう・粟ぜんざいが好評です。作家の池波正太郎氏も通ったことで知られ、「いせ源」・「まつや」・「ぼたん」などと共に奇跡的に戦災から焼け残り、連雀町といわれたこの地域に昔ながらの情緒を漂わせています。建物は入母屋造りの木造3階建てですが、外観では屋根と庇で4層にも見えます。2階の欄干には職人の手による竹と梅模様が彫られ、軒下に木製の提灯が下げられています。建物は東京都景観条例に基づく東京都選定歴史的建造物と千代田区景観まちづくり重要物件に選定されていて、貴重な建物にある甘味処です。
- ポイント7 ぼたん
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「鳥すきやき ぼたん」は、明治三十年に創業した老舗です。名物は鳥肉をメインに構成された「鳥すきやき」で、備長炭と鉄鍋を使い、旨みを最大限に引き出した鳥肉が味わえる逸品です。ラシャの問屋街でボタンを扱っていたために「ぼたん」を屋号としました。現在の建物は周辺の老舗同様、震災後の昭和四年(1929年)
築で、外壁はモルタル塗り、塀際まで建物が迫り、道路から全体像を窺うのは難しいですが、店の玄関を入ると、格式ある式台を見ることができます。千代田区景観まちづくり重要物件に選定されています。
筋違橋(筋違御門橋)は、江戸城外郭門のひとつだった筋違御門の北側の神田川に架かる橋で、延宝四年(1676年)に架けられたといわれています。名前の由来は、徳川将軍が上野寛永寺や日光東照宮に参詣する際に通る「御成道」と中山道に通じる道が門内で交差していたためです。明治維新後の明治五年(1872年)に筋違門は解体され、その石垣材の再利用で2連アーチの石造り橋が架橋され、萬代橋(よろずよばし)・眼鏡橋と呼ばれました。その後、流失・取り壊し・別の橋の架設などの変遷を経て、現在筋違橋の後継といえるのは約100m下流側に架けられた「万世橋」です。
千代田区町名由来版 連雀町・佐柄木町
神田川に架かる筋違橋は、中山道に通じており、行き交う人馬も多く、江戸時代のはじめごろより筋違御門が設けられていました。門の内側、のちにハツ小路と呼ばれた地に、連尺(物を背負うときに用いる荷縄、またはそれを取り付けた背負い子)をつくる職人が多く住んでいたことから、「連尺町」の名前が付けられました。連尺町はやがて連雀町の字があてられ、広く用いられるようになりました。明暦三年(1657年)の大火「振袖火事」の後、連雀町は延焼防止の火除地として土地を召し上げられ、筋違橋の南方へ移転させられました。その際、連尺を商う二十五世帯は、遠く武蔵野に代地を与えられ移住させられました。現在の三鷹市上連雀・下連雀の地名はこの故事に由来します。一方、安政三年の地図には、この界隈に土井能登守、青山下野守などの上屋敷がありました。明治維新後、これらの武家地は連雀町と佐柄木町に編入され、連雀町から遷座された出世稲荷神社は土井家屋敷内にあった延寿稲荷神社とともに町内の鎮守となりました。明治四十五年(1912年)、甲武鉄道(のちの中央線)万世橋駅が、現在の交通博物館の地(江戸時代のハツ小路)に開業します。駅前広場には明治の軍人広瀬中佐の銅像がそびえ、多くの市電の発着地として、東京でも屈指の交通の要衝として栄えました。また、寄席の白梅亭をはじめ、旭楼など二十軒もの旅館が立ち並び、樋口一葉がその著「別れ霜」において、「神田連雀町とかや、友囀りの喧しきならで、客足しげき・・・」と、その賑わいを記しています。大正十二年(1923年)の関東大震災後、区画整理がなされ、連雀町、佐柄木町は、須田町一丁目と淡路町に改称されました。
Renjakucho / Saekicho
This area received its name from the fact that the craftsmen making renjaku, a type of equipment used for carrying things, lived here during the Edo Period. It was once a major transportation hub, and was the starting point for many
streetcar lines.
- ポイント8 高畠宅
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いわゆる「山の手」だった神田駿河台は、関東大震災後に東京で初めて区画整理が行われた地域です。高畠宅は、その際にできた屋敷町の面影を留める貴重な建築物です。高畠邸は敷地を石垣で巡らした中にある近代和風建築で、屋根は日本瓦葺き・鉄板葺き、外壁は板張りの規模の大きな住宅です。敷地をぐるりと囲む塀は、石垣の上に板と漆喰塗りの壁を乗せています。オフィスビルが立ち並ぶ現代的な景観の中にあって、緊張感と荘厳さを醸し出しています。神田駿河台は、ほとんどが戦災での焼失を免れており、地域のシンボルであるニコライ堂(明治二十四年)を始め、比較的規模の大きな歴史的建造物が残っています。
石垣の途中にはくり抜いたような一枚板の門扉があります。
本郷通りからニコライ堂の北側を西に向かって上がる短い坂があります。紅梅坂は長さが約50mほどの緩やかな坂で、別名を幽霊坂・光感寺坂といいます。坂名は、かつてこの辺りが紅梅町と呼ばれていたことに由来します。別名の幽霊坂は、本郷通りの反対側の幽霊坂につながっていたためです。坂の中ほどに案内柱が立っています。
紅梅坂
明治時代に、武家地であったこの地域に駿河台西紅梅町・東紅梅町という町名がつけられました。そのため、この坂道も、紅梅坂と名付けられました。関東大震災後に本郷通りが新設されて分断されるまでは、東側にある幽霊坂と一本の坂道でした。
- ポイント9 ニコライ堂(日本ハリストス正教会教団東京復活大聖堂)
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ニコライ堂は本郷通りに面した高台に聳える正教会の大聖堂です。「ニコライ堂」は通称であり、日本に正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭(のち大主教)聖ニコライに由来します。正式名称は「東京復活大聖堂」で、イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の復活を記憶する大聖堂です。緑青を纏った高さ35メートルのドーム屋根が特徴で、日本で初の最大級の本格的なビザンティン様式の教会建築といわれています。1891年に竣工し、駿河台の高台に位置しているために、御茶の水界隈の景観に重要な位置を占めています。関東大震災で大きな被害を受けましたが、一部構成の変更と修復を経て現在に至っています。1962年6月21日に国の重要文化財に指定されました。
聖ニコライの依頼を受けたロシア工科大学教授で建築家のミハイル・シチュールポフが原設計を行い、お雇い外国人として来日して民間の建築設計事務所を開いていたジョサイア・コンドルが実施設計を担当、建築工事は長郷泰輔が請負い施工は清水組(現在の清水建設)が担当しました。明治十七年(1884年)3月に起工し、7年後の明治二十四年(1891年)2月に竣工しました。煉瓦造と石造でギリシャ十字型のプランを有する聖堂であり、中央に八角形ドームを頂いています。屋根は銅板葺で、24万円の建設費用の大部分はロシアの正教徒たちの献金によって賄われたといわれています。イコノスタシスと鐘はロシアに発注され、イコンはペシェホノフが制作したとされ、イコン画家の山下りんが制作したものも4点あったと伝えられています。駿河台に位置し、明治初期から中期には近隣が開けていたため遠方からもドームを臨むことができ、明治の名建築のひとつに数えられています。夏目漱石の「それから」の一節にも登場し、与謝野晶子・与謝野鉄幹・木下杢太郎といった詩人にもニコライ堂が詠まれています。
- ポイント10 湯島聖堂
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湯島聖堂は、元々は上野忍ヶ岡にあった幕府儒臣の林羅山の邸内に設けられた孔子廟(先聖殿)を元禄三年(1690年)に五代将軍綱吉が此の地に移し、先聖殿を大成殿と改称して孔子廟の規模を拡大・整頓し、官学の府としたのが始まりです。この時からこの大成殿と附属の建造物を総称して「聖堂」と呼ぶようになりました。寛政九年(1797年)に十一代家斉のときに規模を拡大し「昌平坂学問所」を開設し、官学としての威容も整いました。この時の設計は、かつて朱舜水(中国明朝の遺臣)が水戸徳川光圀のために製作した孔子廟の模型が参考にされました。また、これまで朱・緑・青・朱漆などで彩色されていたものを黒漆塗りとしました。大正十二年(1923年)9月1日の関東大震災で、入徳門・水屋を残し全てが焼失し、現在の建物は昭和十年(1935年)に再建したものです。寛政九年当時の旧聖堂に拠り、木造であったものを耐震耐火の鉄筋コンクリート造りとしました。祀られる孔子像は、朱舜水亡命時に携えて来たものが大正天皇に献上されていたもを下賜されたものです。
史跡湯島聖堂 孔子廟・神農廟と昌平坂学問所跡
■湯島聖堂と孔子
孔子は、2500年ほど前、中国の魯の昌平郷(現山東省濟寧市曲阜)に生まれた人で、その教え「儒教」は東洋の人々に大きな影響を与えた。儒学に傾倒した徳川五代将軍綱吉は、元禄三年(1690年)この地に「湯島聖堂」を創建、孔子を祀る「大成殿」や学舎を建て、自ら「論語」の講釈を行うなど学問を奨励した。
■昌平坂学問所跡
寛政九年(1797年)幕府は学舎の敷地を拡げ、建物も改築して、孔子の生まれた地名をとって「昌平坂学問所」(昌平黌ともいう)を開いた。学問所は、明治維新(1868年)に至るまでの70年間、官立の大学として江戸時代の文教センターの役割を果たした。学問所教官としては、柴野栗山、岡田寒泉、尾藤二洲、古賀精里、佐藤一齋、安積艮齋、鹽谷宕陰、安井息軒、芳野金陵らがおり、このうち佐藤一斎、安積艮齋らはこの地が終焉の地となっている。
■近代教育発祥の地
明治維新により聖堂は新政府の所管となり、明治四年(1871年)に文部省が置かれたほか、国立博物館(現東京国立博物館・国立科学博物館)、師範学校(現筑波大学)、女子師範学校(現お茶の水女子大学)、初の図書館「書籍館」(現国立国会図書館)などが置かれ、近代教育発祥の地となった。
■現在の湯島聖堂
もとの聖堂は、4回の江戸大火に遭ってその都度再建を繰り返すも、大正十二年(1923年)関東大震災で焼失した。その後「假聖堂」を営み、昭和十年(1935年)鉄筋コンクリート造で寛政の旧に依って再建され、今日に至っている。入徳門は宝永元年(1704年)に建てられたものがそのまま残っており、貴重な文化財となっている。
大成殿は、間口20メートル・奥行14.2メートル・高さ14.6メートルの入母屋造りになっています。「大成」とは、孔子廟の正殿の名称のことです。宋(北宋)の仁宗のとき命名されました。「孟子」万章下「孔子聖之時者也、孔子之謂集大成、集大成也者、金聲玉振之也。」に基いています。殿内には、中央に神龕(厨子)と孔子像、左右に四配として孟子・顔子・曽子・子思の四賢人を祀っています。
丈高15呎(4.57メートル)・重量約1.5トンの孔子の銅像は世界最大の大きさです。昭和五十年(1975年)に中華民国台北市ライオンズ・クラブから寄贈されました。
神田明神の表門といえば随神門ですね。随神門は1975年に昭和天皇即位50年を記念して再建されました。
外回りに朱雀や白虎・青龍・玄武の四神が彫られ、内周りには大黒神話がモチーフになった彫刻が施されています。二層目にある金箔が施された「繋馬」の彫刻は平将門公に由来するものです。四神の配色と大相撲の土俵の色房との関係は初めて知りました。
随神門欄間彫刻
随神門四方の欄間彫刻は四神が彫られ、中央部には御祭神大國主之命の神話が描かれている。四神とは、中国古代の天文学上、北極星を中心として、東は青龍(蒼龍)西は白虎(白虎)南は朱雀(朱鳥)北は玄武(玄武亀)夫々の星を禽獣の名をもって表わされた。わが国では大宝元年(701年)朝儀の儀仗に四神の矛が飾られ、それ以来、魔除けの神として崇められている。またこれらを五色に配当され、東を青、西を白、南を赤、北を黒、中央を黄とされた。近年身近なものとして、大相撲における土俵上の各方位には色房を垂らしてそれぞれの方角を示しているのが見受けられる。
神田明神(神田神社)は、江戸城の表鬼門除けに鎮座する江戸総鎮守です。日本経済の中心である大手町や丸の内の他、神田・日本橋・秋葉原など、日本経済の中枢をなす108町会を氏子地域に持ち、企業の仕事運と商売繁盛を祈願するうえで欠かせない神社となっています。権現造りの社殿は、近代神社の建築を手掛けていた建築家伊東忠太・大江新太郎・佐藤功一らによって造られました。社殿には1934年の竣工当時には画期的であった鉄骨鉄筋コンクリートが使われています。その頑丈さは東京大空襲を耐え抜いたほどです。また、参拝者が靴を履いたまま拝礼できる構造が採用されています。
江戸総鎮守神田明神
神田神社御由緒
正式名称・神田神社。東京都心百八町会の総氏神で、神田・日本橋・秋葉原・大手町丸の内、そして東京の食を支える市場の発祥地の氏神様として青果市場・魚市場の人々からも篤く崇敬されております。縁結び、家内安全、商売繁昌、社運隆昌、除災厄除、病気平癒など数多くのご神徳をお持ちの神々です。当社は、天平二年(730年)のご創建で、江戸東京の中で最も歴史ある神社のひとつです。はじめは現在の千代田区大手町・将門塚周辺に鎮座していましたが、徳川家康公が江戸に幕府を開き江戸城が拡張された時、江戸城から見て表鬼門にあたる現在の地へ遷座いたしました。それ以降、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府から江戸庶民にいたるまで多くの崇敬を受けました。さらに明治に入り、准勅祭社・東京府社に列格し皇居・東京の守護神と仰がれ、明治天皇も親しくご参拝になられました。当社のご社殿は、近代神社建築を代表する建築家大江新太郎らの設計により昭和九年、日本初の本格的な鉄骨鉄筋コンクリート・総漆朱塗造の権現造で建立され、現在、国登録有形文化財に指定されております。また境内には総檜造の随神門や伝統文化の魅承や新たな文化発信の拠点として平成三十年に竣工した文化交流館、今和二年にリニューアルした結婚式場・明神会館など新旧様々な建造物がございます。縁結びのご神徳から神前結婚式も多く行われております。資料館には、数千点の貴重な絵巻や浮世絵等が所蔵されています。また小説やドラマで有名となった銭形平次等、多くのドラマやアニメの舞台としても知られています。当社の祭礼・神田祭(かんだまつり)は二年に一度執り行われ、江戸時代には江戸城内に入り徳川将軍が上覧したため、御用祭とも天下祭とも呼ばれました。また日本三大祭・江戸三大祭の一つにも教えられております。現在は鳳輦(ほうれん:屋根に鳳凰の飾りのある天子の車)・神輿をはじめとする祭礼行列が神田・日本橋・秋葉原・大手町丸の内の百八町会を巡行する「神幸祭」と、氏子の町神輿約百基が神社へ宮入りする「神輿宮入」を中心に賑やかに行われております。当社は令和十二年(2030年)に創建千三百年の節目を迎えます。創建千三百年を迎えるにあたり、今日この瞬間にも、そして未来においても常に新しく瑞々しい場所であり続けるよう社殿の修復を中心に千三百年の記念事業を推進してまいります。
「宮本」は、文字通り宮=神社の傍に位置することが地名の由来となっています。全国各地の神社の周辺に宮本町という町名が多いことも頷けます。
千代田区町名由来板 宮本町・神田神社
通称「神田明神」とも呼ばれる神田神社は、天平二年(730年)以来の伝統を誇ります。祭神は大己貴命、少彦名命、そして平将門命です。将門が神田神社に祀られるようになったのは、鎌倉時代のことです。当時、流行した疫病を将門のたたりではないかと考えた人々が、その霊を慰めるため、神として祀ったことが始まりとされています。慶長五年(1600年)九月十五日、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利し、天下人となりました。この日がちょうど同社の祭礼「神田祭」が催される日にあたっていたことから、徳川将軍家ではこれを吉事の祭礼とみなすようになりました。以来、幕府は神田神社に崇敬を寄せ、二代将軍秀忠のころには、江戸の総鎮守に定められました。元和二年(1616年)に神田明神が現在の場所に鎮座した際、神主が寺社奉行所に願い出て許しを得、商人や職人が住む町をつくります。これが、神田明神門前町、神田明神表門前、神田明神裏門前、神田明神西町の門前町です。明治二年(1869年)、四つの町が合併し神田明神門前町となったのち、明治五年(1872年)には境内などの社地を編入して、神田宮本町となりました。江戸総鎮守のお膝元で生活することを誇りとしてきた住民たちの心意気が形になった名前です。その後、昭和三十九年(1964年)に外神田二丁目の一部となりましたが、いまでも神田祭には二百基余りの神輿が繰り出し、人々の篤い信仰心を引き継いでいます。
Miyamotocho / Kanda-Jinja
This neighborhood is the site of a famed shrine called Kanda Jinja, which
was designated as a pacifying guard of the people of Edo. In 1872, the town was given the name Kanda-Miyamotocho, to express the pride of the residents of living under the protection of the famous shrine.
- ポイント11 井政(遠藤家旧店舗・住宅主屋)
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井政は、江戸時代から続く材木商の遠藤家の旧店舗・住宅主屋です。江戸城築城のために招集され、鎌倉材木座より神田鎌倉町(現在の内神田一丁目)に移り住みました。現在の建物は昭和二年(1927年)に建設され、昭和四十七年(1972年)の府中市移築を経て、平成二十一年(2009年)に千代田区有形文化財の指定を受け、神田の地へ再移築されました。当初は平屋でしたが、昭和二十九年(1954年)に1階の一部と2階を増築しています。府中市移築の際には、状態の良い部分だけを残した上で、1階北側と玄関奥の廊下を増築し、さらに当時敷地内にあった別棟の2階部分を玄関東側に据えました。その後、神田への再移築にあたり、府中時代は畳敷きだった部屋を土間と帳場というかつての店の姿に復元しました。また移築先の宮本公園が茶道江戸千家発祥の地であることに因み、玄関東側の和室を茶室へと改修しています。
井政
京都の祇園祭、大阪の天神祭、東京の神田祭、いずれも御霊信仰によって生まれた祭礼ですが、今も盛大に続いているのは、「善政を願い、悪政を憎む人々の心」が変わらないからではないでしょうか。その心がある限り、将門公の魂とともに神田祭は生き続けていくと思います。
井政十六代目 史蹟将門塚保存会会長 神田明神氏子総代 遠藤達藏
千代田区指定有形文化財(建造物)
遠藤家旧店舗・住宅主屋 一棟
遠藤家旧店舗・住宅主屋は、江戸時代以来材木商を営んできた遠藤家(屋号「井政」)の店舗兼住宅として昭和二年(1927年)に鎌倉河岸(現内神田一丁目)に建てられました。その後、昭和四十八年(1973年)に都心の開発に伴う建替えの際、旧家屋の解体を惜しみ府中市へ移築されましたが、文化財指定に伴いここ宮本公園に移築されました。この建物は、戦前の店舗形式をよく伝えている点、江戸時代からの伝統的な建築技術を受け継いでいる点、また、材木問屋という職業柄、良材や銘木が建物全体に使用されている点などから貴重な建築物といえます。文化財指定にあたり、できる限り鎌倉河岸に所在していた時期の姿に戻すこととし、本来あった土間を復元しています。また、一階六畳の茶の間は、茶室として改修されています。
IMASA
Tangible Cultural Asset (Building Structure) Designated by Chiyoda City.
Old Store and Main House of the Endo Family (Single Building)
The Endo family, who started a lumber business in the Edo period, built a combined store(called Imasa) and main house in Kamakura-gashi(currently Uchi-Kanda 1-chome) in 1927. In 1973, as the downtown area was being developed, the old building was saved from destruction by being relocated to Fuchu City. However, following its designation as a cultural asset, the structure was
moved yet again, this time to Miyamoto Park. The building is considered highly valuable because it typifies the structure of prewar stores, reflects construction techniques from the Edo period, and embodies the lumber trade in its use of high-quality materials and choice wood throughout. Being designated a cultural asset, the building's doma (earthen floor) has been recreated in an effort to restore as much of the building's original appearance as possible. Furthermore, the six-mat chanoma (sitting room) on the first floor has been renovated as a tea ceremony room.
建物全体の公開は年に数回に限られますが、商談に使用していたという土間と庭はカフェとして一般に開放されています。江戸の文化や商家の暮らしぶりを間近で体験できる場所は都内でも希少です。
宮本公園の隅に立派な銅像が建っています。
千代田区指定文化財 三谷長三郎胸像
三谷家は紀伊国屋という屋号の商家で、万治三年(1660年)の創業以来、神田塗師町(現在の鍛冶町二丁目)で銅や真鍮などを取り扱っていました。この胸像は、十代目三谷長三郎を讃えるものです。三谷長三郎は明治二年(1869年)に生まれ、家業を近代企業へと大きく発展させました。明治四十二年(1909年)には三谷報恩会を設立し、のちに財団化します。この財団を社会福祉事業への基盤とし、地元の神田区の学校教育のために資金や備品を積極的に支援しました。三谷長三郎の三回忌にあたる昭和九年(1934年)、神田区内の人々が中心となり生前の教育普及事業への功績に感謝を表して、神田神社の裏手、大銀杏の側に銅像を建設しました。像の制作は「長崎平和祈念像」の作者としても有名な北村西望(1884年〜1987年)です。昭和三十六年(1961年)に神社境内の再開発により、像は現在の宮本公園内に移設されました。
Chiyoda City Designated Cultural Property Statue of Mitani Chozaburo
The Mitani family was a merchant family who owned the Kinokuniya trade name, trading in copper and brass, etc., in Kanda Nushicho (current-day Kajicho 2-chome) after establishment in 1660. This statue is in honor of the 10th generation family head, Mitani Chozaburo. Mitani Chozaburo was born in 1869 and transformed the family business into a contemporary business. In 1909, the
Mitani Appreciation Society was established and later became a foundation. As the underpinning for their social welfare work, the foundation actively supported local school education in Kanda Ward with funding and equipment.
In 1934, the third anniversary of Mitani Chozaburo's passing, the people of Kanda Ward led an initiative to erect a statue beside a large ginkgo tree behind Kanda Jinja Shrine, as an expression of appreciation for a lifetime of service to the enhancement of education. The statue was made by Kitamura Seibo (1884-1987), who famously made the Nagasaki Peace Memorial Statue. The statue was relocated to its current location in Miyamoto Park in 1961, owing to redevelopment of the shrine grounds.
東京医科歯科大学(2024年10月1日をもって東京工業大学と合併し、東京科学大学となりました)の塀の前に「近代教育発祥の地」案内板が立っています。
近代教育発祥の地 (湯島聖堂・東京医科歯科大学)
江戸時代、このあたりは学問(儒学)の府であった聖堂(孔子廟)の一部、昌平坂学問所(昌平黌)があったところである。寛政九年(1797年)学問所の学寮、宿舎が建てられ、旗本や藩士の子弟を対象とした教育が施された。明治維新後、学問所は新政府に引き継がれ、昌平学校、大学校、東京大学と発展していった。明治四年(1871年)に文部省が設置され、我が国の近代教育の原点となる施策が展開されることになった。当地には明治五年師範学校(翌年、東京師範学校と改称)が開校し、その後、隣接地に東京女子師範学校が置かれた。東京高等師範学校は明治三十六年に大塚窪町に移転し、後に東京教育大学(現筑波大学)となり、東京女子高等師範学校は昭和七年大塚に移転し、後に新制大学としての発足の折、この場所の地名を校名に冠し、お茶の水女子大学と称し現在に至っている。
御茶ノ水駅の南側一帯は神田駿河台という町名になっています。これには、徳川家康が三河から江戸に移封されたことに関係しています。
駿河台(西)
高台である「駿河台」は元来、本郷・湯島台と地続きで、この南端に位置し、「神田山」と呼ばれていました。江戸に幕府を開いた徳川家康は、新たな町づくりのため、この神田山を切り崩し、江戸城の南に広がる日比谷入江(現在の日比谷公園、新橋周辺)を埋め立てました。しかし、埋め立てによって、それまで海に流れ込んでいた平川(神田川のもとになった川)の流れがとどこおり、下流で洪水が頻発するようになりました。そこで現在の飯田橋付近から隅田川まで、分流としての水路を確保し、あわせて江戸城の外堀の役目も果たす「神田川」が開削されたのです。こうしてこの界隈は、本郷・湯島台から切り離され、現在の駿河台が形成されました。さて、家康が駿府で没した後、家康付を解かれ、駿河から帰ってきた旗本(駿河衆)たちが、江戸城に近く富士山が望めるこの地に多く屋敷を構えました。駿河衆が住んでいたことや駿河国の富士山が見えたことなどから、この地は駿河台と呼ばれるようになり、多くの武家屋敷が立ち並ぶ地域となりました。江戸時代初期には、奈良奉行を勤めた旗本中坊長兵衛、また、幕末には勘定奉行や軍艦奉行を勤めた小栗上野介忠順などが居住していました。明治になると、武家屋敷の跡地が華族や官僚などの屋敷に変わり、加藤高明男爵邸、坊城俊長伯爵邸、小松官邸などいくつかの邸宅は昭和の初期まで残っていました。明治五年(1872年)に新たに定められたこの地域の町名は、駿河台西紅梅町、駿河台北甲賀町、駿河台南甲賀町、駿河台袋町、駿河台鈴木町(いずれも神田区)でした。関東大震災後の区画整理が終わった昭和八年(1933年)に現在の駿河台一丁目、駿河台二丁目に町名が変更され、昭和二十二年(1947年)に千代田区となってからもこの地名で親しまれています。
Surugadai (Western district)
The area was named Surugadai for a variety of reasons: after the death of
the Shogun leyasu Tokugawa at Suruga, in today's Shizuoka Prefecture,
some of his retainers came back to live here, and also because of the views
of Mt. Fuji, which was located in Suruga.
御茶ノ水駅お茶の水橋口の交番横の植え込みの中に、「お茶の水」の地名の由来を記した石碑が建っています。鷹狩りに出た二代将軍秀忠がこの付近の高林寺に立ち寄ったとき、境内の名水で茶を点てました。その茶が美味しかったので、以後将軍家の茶の湯にこの水が用いられることになったといいます。
お茶の水
聖堂の西比井名水にてお茶の水にもめしあげられたり。神田川掘割の時、ふちになりて水際に形残る。享保十四年、江戸川拡張の後川幅を広げられし時、川の中になりて今その形もなし。
「再校江戸砂子」より
慶長の昔、この邊り神田山の麓に高林寺という禅寺があった。ある時、寺の庭より良い水がわき出るので将軍秀忠公に差し上げたところ、お茶に用いられて大変良い水だとお褒めの言葉を戴いた。それから毎日この水を差し上げる様になり、この寺をお茶の水高林寺と呼ばれ、この邊りをお茶の水と云うようになった。其の後、茗渓又小赤壁と稱して文人墨客が風流を楽しむ景勝の地であった。時代の変遷と共に失われ行くその風景を惜しみ心ある人達がこの碑を建てた。
明治大学は、江戸幕府の洋学所の伝統を引き継ぐ大学南校(現在の東京大学法・理・文学部の前身)から優秀な生徒を抜擢して設立された司法省明法寮で学び、司法省法学校の第一期卒業生となった岸本辰雄・宮城浩蔵・矢代操達が「近代市民社会を担う聡明な若者を育成する」ことを目指し、明治十四年(1881年)に創設した明治法律学校を前身としています。日本で西洋近代法を習得した第一世代にあたり、明治期の日本の司法を支えました、司法省法学校の第一期生の過半数が明治大学の創設に関与し、創立期のメンバーからは近代法起草に携わった法曹や大審院院長などの他、西園寺公望(第十二・十四代内閣総理大臣)など、政治家や外交官として活躍した校友(明治大学では卒業生を「校友」と呼称しています)などが多数誕生しています。
作家阿久悠は、1959年に明治大学文学部を卒業し、広告代理店を経て、1966年からフリーとなって本格的な文筆活動を開始しました。「北の宿から」・「UFO」など、演歌から歌謡曲・アニメ番組のテーマソングまで5千曲以上に及ぶ作品を幅広く手がけ、日本を代表する作詞家として活躍しました。阿久悠の業績を展示した阿久悠記念館が明治大学アカデミーコモン地下1階にあります。
明治大学アカデミーコモンの角を右折すると、道の両側に豊かな街路樹が続く通りに出ます。ここが「とちの木通り」です。とちの木はフランス語では「マロニエ」ですが、この樹が美しい通りといえばパリのシャンゼリゼ通りです。秋になるとマロニエは大きな葉を落とし、街路を黄金色に染め、ロマンティックな気分を盛り上げます。とちの木通りも同じで、秋になるとひときわ樹々が美しく街を彩ります。この通りの人気のレストランに「トラットリア レモン」があります。1970年代は喫茶店だったそうで、明大に近いことから、フォークグループGAROの「学生街の喫茶店」のモデルになったと言われています。
- ポイント12 旧文化学院
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とちの木通りには病院やオフィスビルが軒を連ねていますが、文化の歴史を物語る建築物も見られます。ヨーロッパの薫りがするアーチのある建築物はかっての「文化学院」です。
1921年に建築家の西村伊作や与謝野晶子・鉄幹夫妻らが中心になって創設し、自由な校風で多くの芸術家や文化人を輩出した学校でした。講師を務めたのは第一線で活躍する文化人たちで、与謝野夫妻や有島武郎・山田耕筰なども教壇に立ったそうです。このアーチのある建造物は閉校後、建築家の坂倉準三が設立した設計事務所によって保存されることになりました。
文化学院創立の地
1921年4月に文化学院は、西村伊作・与謝野鉄幹・与謝野晶子・石井柏亭らによってこの地に創立され、その他山田耕筰・河崎なつ・有島生馬・高浜虚子らが教鞭をとった。その後、菊池寛・川端康成・佐藤春夫ら著名な文学者もつづいて加わった。
現在はBS11の社屋として使われているそうです。
その先の明治大学付属高校の横に急な階段が下っています。階段上に「男坂」と書かれた小さな石碑が置かれています。
男坂は長さが約30mほどの急な石段です。男坂から北東に150mほど離れたところにも階段があり、女坂という坂名が付いています。いずれも大正十三年(1924年)の区画整理で造られた坂で、男坂は73段・女坂は82段あります。どちらの坂も急傾斜になっていますが、女坂の途中には踊り場があって中休みができるのに対し、男坂には踊り場はあるものの直線的で上りはよりきつくなっています。なので、こちらの坂は「男坂」、もう一方の坂は「女坂」と呼ばれるようになりました。
男坂
江戸時代以来、猿楽町と駿河台の境であるこの一帯はがけ地で、もともと通路がありませんでした。大正十三年(1924年)八月、震災復興事業で通路が作られました。同時期に、この坂と西側の屈曲した坂の二本が作られました。直線的に上る坂のため「男坂」と名付けられ、西側の緩やかな坂は「女坂」と名付けられました。
男坂を下って猿楽通りに出ます。歩道奥に石碑が建っています。
東京音楽大学発祥の地
東洋音楽学校(現東京音楽大学)は、明治四十年5月1日この地に設立された。校長鈴木米次郎は、音楽教育の先駆者で、恩師でもある伊沢修一・高楠順次郎・島崎赤太郎らを評議員に迎え、わが国音楽文化の近代化を目指して創立した。
200mほど先にもうひとつの急階段が上がっています。
女坂は長さが約30mほどの急な階段で、中ほどで右に曲がって上っています。途中の踊り場は男坂に比べてやや広めにできています。男坂は一直線の急階段であるのに対し、途中の踊り場で中休みできるようになっているため、「女坂」と呼ばれるようになりました。男坂と女坂は共に大正十三年(1924年)の区画整理で造られた坂で、男坂は73段・女坂は82段あります。どちらの坂も急傾斜になっていますが、女坂の途中には踊り場があって中休みができるのに対し、男坂には踊り場はあるものの直線的で上りはよりきつくなっています。なので、こちらの坂は「女坂」、もう一方の坂は「男坂」と呼ばれるようになりました。
階段上に案内柱が立っています。
女坂
江戸時代以来、猿楽町と駿河台の境であるこの一帯はがけ地で、もともと通路がありませんでした。大正十三年(1924年)八月の震災復興事業で通路が作られました。同時期に、この坂と東側の直線的な坂の二本が作られました。途中にニケ所の踊り場を設けた緩やかな坂のため「女坂」と名付けられ、直線的に上る急な坂は「男坂」と名付けられました。
猿楽町には歴史遺産が幾つかあります。銭湯の代表的なイメージに、浴室正面の壁に描かれた富士山のペンキ絵(背景画)があります。猿楽町にあった「キカイ湯」は、ペンキ絵の発祥の地とされています。現在は跡地が「TOHYU(東雄)ビル」になっています。
キカイ湯跡
明治十七年(1884年)に祖父、東由松(1852年〜1917年)はこの地に銭湯キカイ湯を建てて開業した。汽船のボイラー(機械釜)を他店に魁けて取り付けたことを記念して店名を付けた。大正元年(1912年)父、東雄三郎(1880年〜1953年)は、旧店の隣りに新キカイ湯を増築して、その浴室の壁面に新規発想によるペンキ絵を掲げた。公衆浴場史(昭和四十七年発行)に、“・・・ところが、この絵が満都の評判となり、市内各湯もこれにならって思い思いの絵をかかせて浴客を喜ばせ・・・”とある。キカイ湯は、大正十二年(1923年)の震災と昭和二十年(1945年)の戦災とに2回全焼したが、その都度復興して営業を続けた。ついに、昭和四十六年(1971年)に近隣に惜しまれつつ87年間続けた店を閉じた。このTOHYU(東雄)ビルの名称は、父の名を宿している。
- ポイント13 神田猿楽町町会詰所
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現在の神田猿楽町町会詰所は、大正五年(1916年)に猿楽町駐在所として建設されました。その後交番は廃止され、町会の詰所として利用されました。
そして平成十五年(2003年)6月には千代田区景観まちづくり重要物件に指定されました。
景観まちづくり重要物件
この建造物は、景観上重要と認められるので、重要物件として指定いたしました。
猿楽町の案内板が立っています。
猿楽町
猿楽(のちの能楽)は、室町時代以降、多くの武士たちに楽しまれるようになりました。なかでも観阿弥・世阿弥の流れを受け継ぐ「観世座」は、江戸幕府から手厚い保護を受けていました。その家元観世太夫や一座の人々の屋敷が、現在の神田神保町一丁目〜二丁目から西神田一丁目〜二丁目のあたりにあったことから、この一帯に「猿楽町」という名が生まれました。この界隈は江戸時代、おもに武家屋敷が軒を連ねていました。もともと武家地には町名が付けられていなかったため、猿楽町という町名が正式に誕生したのは、明治五年(1872年)のことになります。その翌年、神田錦町にあった錦坊学校の分校が、現在の猿楽町一丁目内に設立されました。その後、錦華学校と名前を変更したこの学校で学んだのが、近代日本の文壇に大きな足跡を残した夏目漱石です。漱石はこの小学校で学年を飛び越えて進級するほどの秀才ぶりを発揮したといわれています。ところで、猿楽町と駿河台の間に、男坂・女坂と呼ばれる二つの坂があります。いずれも大正十三年(1924年)の区画整理でつくられた坂で、男坂は七十三段、女坂は八十二段を数えます。どちらの坂も一気に上ると息が切れるほどの急傾斜ですが、女坂の途中には踊り場があり中休みできるのに対して、男坂のほうは踊り場がなく、より厳しい上りを強いられます。そのため、七十三段の坂は「男」、少しゆるやかで長い坂は「女」と呼び習わされるようになりました。
Sarugakucho
This town was named after Sarugaku, performing art that began in the Muromachi Period (1333-1568) and later gave rise to Noh theater. The residences of Kanze-dayu, the head of one of the major schools of Sarugaku, and his troupe were located in this neighborhood.
- ポイント14 カトリック神田教会
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明治四年(1871年)に東京最初の教会(現在の築地教会)が誕生しました。翌年には、日本の教会の将来を担う若者を教育するため、三番町に神学校が開校されました。再宣教に備えて将来の司祭をひそかに養成し始めていた折り、明治六年2月24日にキリスト教の禁教令も解かれました。神学校は増え続ける学生を収容することができなくなり、フランス公使ベルトミー氏の斡旋により、神田猿楽町にあった元旗本の三屋敷を入手し、明治七年(1874年)1月に新しく神学校を創設しました。その70畳の大広間を日本で最初に聖フランシスコ・ザビエルに捧げる聖堂としたのが現在のカトリック神田教会の始まりで、東京のカトリック教会でも有数の歴史を持つ教会です。
明治二十九年(1896年)に新築された聖堂は、大正二年(1913年)の大火で焼失し、さらに大正四年(1915年)に落成した聖堂も大正十二年(1923年)の関東大震災で焼失しました。現在の聖堂は、フランス人宣教師シェレル神父の構想により、昭和三年(1928年)に完成したもので、昭和二十年(1945年)の東京大空襲では難を免れ、当時の面影がそのまま残っています。現在の聖堂は国指定の登録有形文化財になっています。神田教会は誕生して130年の時を刻み、築地教会とともに都内最古の歴史を誇る教会です。聖堂内入り口の前には「聖マリア像」が設置されています。
- ポイント15 東方学会本館
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東方学会本館は、大正十五年(1926年)に中学校として建てられたといわれる鉄筋コンクリート造のモダニズム建築です。シンプルな構成で、壁から緩やかに張り出すような庇兼用の窓台と同じ形状の屋根庇や、入り口の半円アーチのデザインが特徴となっています。装飾が少ない機能本位の建築で、旧態を維持し外観によって時代の雰囲気を伝えている建物です。関係者以外内部に入ることはできません。東方学会は戦後の昭和二十二年(1947年)に外務省所管で発足し、日本の東方文化の研究発達・東方諸国の文化の進展・国際文化交流を目的とした団体です。
平成十五年(2003年)に千代田区の「景観まちづくり重要物件」に指定されました。
景観まちづくり重要物件
この建造物は、景観上重要と認められるので、重要物件として指定いたしました。
しかし、建物の壁には増築されるとの告知が貼られています。東方会館の建物を取り壊して新しくビルを建てるのかとと思いましたが、隣接する東方学会新館(2021年9月に解体済み)の跡地に、低層階のオフィス部分を本館と接続して本館と一体となる形でオフィスとマンションの複合ビルを建てるのだそうです。告知の趣旨は、2022年4月以降に耐震補強などの改修工事を実施するということです。2023年8月には竣工しているとのことですが、現在(2025年9月)はどんな外観をしているのでしょうか?
- ポイント16 山の上ホテル
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山の上ホテルは日本におけるクラシックホテルのひとつであり、特に昭和十二年(1937年)に完成した本館の建物はアール・デコ調の内外装を残しています。シンボルともいえる鉄筋コンクリート建築の本館は、明大の前身である明治法律学校卒の実業家で石炭商だった佐藤慶太郎の寄付を基に、アメリカ出身の建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計により、昭和十二年(1937年)に明治大学本部の隣接地に、困窮者の生活改善を目指す活動の本部となる「佐藤新興生活館」として完成しました。太平洋戦争中は旧日本海軍に、戦後は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収され、アメリカ陸軍の婦人部隊の宿舎として用いられました。ホテルとしての開業は昭和二十九年(1954年)で、GHQの接収解除を機に、実業家の吉田俊男が佐藤家から建物を借り入れる形で創業しました。ホテル名は、GHQ接収時代にアメリカ陸軍の女性軍人や軍属の間で建物の愛称になっていた「Hilltop」が起源で、これを吉田俊男が「丘の上」でなく,敢えて「山の上」と意訳したことに因んでいます。山の上ホテルは文化人のホテルとしても知られています。かつて出版社の密集していた神田に近いところから、作家の滞在や缶詰(執筆促進目的の軟禁場所としてホテルに強制滞在させられること)に使われることが多く、川端康成・三島由紀夫・池波正太郎・伊集院静らの作家が定宿としていました。檀一雄は舞台女優の入江杏子と愛人関係になって山の上ホテルで同棲し、入江との生活と破局を描いた代表作「火宅の人」を発表しています。
昭和を代表する文豪に愛され、建物の老朽化で2024年2月13日をもって休業していた「山の上ホテル」は、耐震補強などの改修を経て、ホテルとして再開する見通しとなりました。隣接する明治大学が土地と建物を取得し、ホテルなどとして再整備する構想を明らかにしました。明大によると、取得は創立150周年(2031年)の記念事業の一環で、建物がキャンパスに近く、歴史的価値もあることから「大学の新たなシンボルに」として運用される計画です。土地・建物を賃貸してホテル業務を委託するほか、外国人留学生らが居住する国際学生寮や、市民向けの生涯学習スペースを設ける方針となっています。ホテルの再開時期は未定のようです。
富士見坂は、靖国通りと錦華通りが合流する交差点から、明大通りに抜ける短い坂道です。昔はここからも富士山がよく眺められたのでしょう。
富士見坂
この坂のある台地から富士山がよく見えたことから名付けられました。千代田区内には、富士山を見ることができることから名づけられた富士見坂が三か所あります(富士見二丁目と九段北三丁目の境、永田町二丁目と平河町二丁目の境)。
- ポイント17 文房堂ビル
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関東大震災まですずらん通りはこの地域のメインストリートで、いまも商店街には看板建築が数多く残っています。その中でひときわ目を引くのが明治二十年(1887年)創業の老舗の画材店の文房堂です。この文房堂ビルは、表面に筋状の引っかき傷を沢山つけて焼き上げ、独特の趣のある重厚感をもつ「スクラッチタイル」で仕上げられています。3階窓のアーチや正面に施されている素焼きの陶器で作られた花飾りの装飾が素敵です。4階はギャラリーとして公開されています。
靖国通りの一本南のすずらん通りに商店街にたつ本社ビルは、手塚亀太郎の設計により、大正十一年(1922年)に竣工しました。翌年の関東大震災でも倒壊を免れた鉄筋コンクリート造でした。平成二年(1990年)に建て替えられ、ファサードの一面だけが保存されています。4連のアーチ窓・スクラッチタイル・丁寧に施された彫刻的な装飾など特徴的な建物です。
Bumpodo SINCE 1887
この建物の正面外壁は、大正十一年(1922年)12月26日に竣工した旧本社屋のものです。竣工の翌年、関東大震災により内部が焼失しましたが、当時としては数少ない鉄筋コンクリート建築であったために、倒壊を免れました。また、第二次世界大戦の戦渦をも幸いにして、くぐり抜けてきました。私共は、このささやかな「歴史」を記憶に留めるべく、正面外壁を保存するものです。
文房堂はかって作家の溜まり場だったらしく、江戸川乱歩が参加した例会にも使われたようです。平成十五年(2003年)6月9日に、【千代田区景観まちづくり重要物件】に指定されています。
学士会館の敷地の外れに「日本野球発祥の地」と題したモニュメントが置かれています。ボールを握った手は手首で途切れており、何か不気味な感じがします。
日本野球発祥の地
この地には、もと東京大学およびその前身の開成学校があった。明治五年(1872年)学制施行当初、第一大学区第一番中学と呼ばれた同校でアメリカ人教師ホーレス・ウィルソン氏(1843年〜1927年)が学課の傍ら生徒達に野球を教えた。この野球は翌七三年に新校舎とともに立派な運動場が整備されると、本格的な試合ができるまでに成長した。これが「日本の野球の始まり」といわれている。1876年初夏に京浜在住のアメリカ人チームと国際試合をした記録も残っている。ウィルソン氏はアメリカ合衆国メイン州ゴーラム出身、志願して南北戦争に従軍した後、1871年九月にサンフランシスコで日本政府と契約し、来日。1877年7月に東京大学が発足した後に満期解約し帰国した。同氏が教えた野球は、開成学校から同校の予科だった東京英語学校(後に大学予備門、第一高等学校)その他の学校へ伝わり、やがて全国的に広まっていった。2003年、同氏は野球伝来の功労者として野球殿堂入りした。まさにこの地は「日本野球発祥の地」である。
The Birthplace of Baseball in Japan
Here in 1872 at the First Middle School of the First University District (which developed into Tokyo University in 1877), Horace Wilson, an American teacher, taught his students how to play baseball 1873, when it was re-named Kaisei Gakko and a playing ground was built, he reportedly enjoyed playing baseball with them. This is acknowledged as the beginning of baseball in Japan in 1876, they played a game with a foreign team comprised of Americans living in Tokyo snd Yokohama. Horace Wilson (1843-1927) was born in Gorham, Maine, in the U.S. After participating in tho Civil War as a volunteen, he made a teaching contract with the Japanese Goverment in San Francisco in 1871. He taught English and mathematics. His term of cotract was officially expired in July, 1877. In 2003, be was inducted into the Japanese Beseball Hall of Fame for his great contribution to Japanese baseball as the introducer of the game.
- ポイント18 学士会館
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学士会館は、一般社団法人学士会が運営し、旧帝国大学系大学の出身者等を主な会員とする大学の枠を超えた同窓会組織となっています。学士会は、明治十九年(1886年)に帝国大学(現在の東京大学)の卒業生の同窓会組織として創立されました。名称に「学士」とありますが、会が創立された当時は学士の称号を与えられたのは帝国大学の卒業生に限られたためです。学士会館の館内には、会議室・飲食店・美容院などの設備があります。
学士会館の建物の前には、館内レストランの案内が掲示されています。学者の先生はグルメだといわれますが、メニューにもそれが表われているようです。
現在の建物は1937年に竣工しました。斬新かつモダンで重厚な雰囲気は90年近くを経た今も大切に継承されており、平成十五年(2003年)に国の登録有形文化財となりました。ドラマ「半沢直樹」などのロケ地にもなっています。また、敷地内には「東京大学発祥の地」や「日本野球発祥の地」や「新島襄先生生誕の地」の記念碑があります。しかし、学士会館は老朽化による再開発のため、2024年末をもって閉館となり、その後は新館の解体工事・旧館の曳家保存工事・新規ビルの建設などを経て、再開は、2030年頃を予定しているとのことです。曳家(ひきや)工事とは、旧館をそのままの姿で移動させることをいいます。そんなことが出来るんですかね?
学士会館の脇に「我が国の大学発祥地」と書かれた石碑と、いわれを説明した巨大なプレートが置かれています。
我が国の大学発祥地
当学士会館の現在の所在地は我が国の大学発祥地である。すなわち、明治十年(1877年)四月十二日に神田錦町三丁目に在っに東京開成学校と神田和泉町から本郷元富士町に移転していた東京医学校が合併し、東京大学が創立された。創立当初は法学部・理学部・文学部・医学部の四学部を以て編成され、法学部・理学部・文学部の校舎は神田錦町三丁目の当地に設けられていた。明治十八年(1885年)法学部には文学部中の政治学及び理財学科が移され法政学部と改称され、また理学部の一部を分割した工芸学部が置かれた。このようにして東京大学は徐々に充実され明治十八年までに本郷への移転を完了した。徒って、この地が我が国の大学発祥地すなわち東京大学発祥の地ということになる。明治十九年三月束京大学は帝国大学と改称され、その時、それまで独立していた工部大学校が合併され工科大学となり、その後東京農林学校が農科大学として加えられ、法・医・工・文・理・農の六分科大学と大学院よりなる総合大学が生まれ帝国大学と名付けられた。更に、明治三十年(1897年)には京都帝国大学の設立に伴い、東京帝国大学と改称された。爾後明治四十年に東北帝国大学、明治四十四年に九州帝国大学、大正七年に北海道帝国大学、昭和六年に大阪帝国大学、昭和十四年に名古星帝国大学が設立された他、戦後なくなったが大正十三年に京城帝国大学、昭和三年に台北帝国大学がそれぞれ設立された。昭和二十二年(1947年)に至って、右の七帝国大学はそれぞれ東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学と呼称が変更された。明治十九年七月創立の学士会は以上の九大学の卒業生等を以て組織され、その事業の一つとして、当学士会館を建設し、その経営に当っている。
ゴール地点の都営地下鉄神保町駅に着きました。
ということで、千代田区で六番目のコースである「Bその2.近代建築めぐり・神田・神保町コース」を歩き終えました。次は千代田区で七番目のコースである「Bその3.近代建築めぐり・飯田橋・麹町コース」を歩きます。
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