Cその1.江戸・東京事件の現場めぐり・丸の内・皇居東御苑コース  

徳川家康入府によって世界随一の都市に発展した江戸は、今日に至るまで政治や経済の中枢であり続ける。なかでも、皇居や国会議事堂を擁する千代田区は時代を象徴する政治的事件が多発。時代の痕跡を見つけに出かけてみよう。  

A 天正十八年(1590年) → 明治十六年(1883年)  
江戸・明治の事件現場  

天下泰平と呼ばれた江戸時代、一気に西洋化に舵を切った明治時代、それぞれに劇的な事件が繰り広げられていました。時代順にみていこう。  

B 大正十年(1921年) → 昭和四十一年(1966年)  
大正・昭和の事件現場  

大正デモクラシーから戦争、敗戦を経て本格的な民主化へ発展する歴史のなかで政治の中枢だった千代田区内では、デモや暴動、クーデターが多発しました。
 

コース 踏破記  

今日は千代田区の「Cその1.江戸・東京事件の現場めぐり・丸の内・皇居東御苑コース」を歩きます。江戸・東京で発生した様々な事件の現場を訪ね、大手町駅から皇居・北の丸を巡って九段下駅まで歩きます。

スタート地点:大手町駅出入口C9
ポイント1 伊達騒動(寛文十一年【1671年】)
「伽羅先代萩」のモチーフは仙台藩の内紛劇

江戸三大御家騒動の一つとされる伊達騒動は、三代藩主・綱宗が不品行を理由に幕府から隠居を命じられたことに始まる。代わって藩主となったのは、まだ2歳の長男・亀千代。伊達兵部(初代藩主政宗の10男)が後見役となり、家老・原田甲斐を重用して藩政を動かした。一方、兵部の専制に反発した伊達安芸は、幕府に藩の内情を訴え、幕府が取り調べることになった。詮議の場となったのが、大老・酒井忠清の上屋敷。ここで原田が安芸を斬殺、原田も酒井家家臣により斬殺された。藩の内紛は迷宮入りとなったが藩の存続は許された。
ポイント2 江戸無血開城(慶応四年【1868年】)
戦禍を免れ、江戸から東京へ

4月10日、最後まで大奥に残った天璋院(十三代将軍家定の正室)が江戸城から退去し、現在の竹橋駅近くにあった一橋邸へと向かった。翌11日、江戸城明け渡しをもって、約260年にわたる徳川幕府は終わりを告げた。明け渡しのおよそひと月前、江戸を包囲した新政府軍は幕府軍に総攻撃を仕掛けようとしていた。その直前、三田(東京都港区)の薩摩藩邸で陸軍総裁・勝海舟と新政府軍の西郷隆盛の会談が実現。結果、最後の将軍慶喜の恭順をもって、江戸攻撃の中止がなされ、江戸無血開城が決定した。100万人が暮らす江戸は戦禍を免れたのだった。その後、江戸は東京と名称を変え、江戸城は皇居となり、翌1869年3月に新たな主人となる明治天皇を迎えた。江戸城周辺の大名屋敷は官庁街に生まれ変わり、首都東京が誕生したのである。
ポイント3 松之大廊下刃傷事件(元禄十四年【1701年】)
赤穂浪士討ち入り事件の発端となった

事件当時、朝廷からの勅使が年賀返礼のため江戸に下向していた。赤穂藩主・浅野内匠頭長矩は勅使馳走役として登城しており、その指南役にあたっていたのが高家(朝廷関係の儀礼や交渉にあたる名家)吉良上野介義央だった。4月21日、江戸城の松之大廊下で、浅野が吉良に斬りかかった。両者間に何があったか定かでないが、江戸城内の刃傷沙汰は大罪。浅野は即日切腹を命じられ、お家断絶となった。負傷した吉良へのおとがめはなく、お家の再興も退けられた赤穂浪士47人は、翌年12月吉良邸に討ち入り本懐を遂げた。この事件は「仮名手本忠臣蔵」をはじめ、歌舞伎や映画で語り伝えられている。
ポイント4 明暦の大火(明暦三年【1657年】)
江戸の大半が焼失し、死者10万人に及んだ

江戸を襲った大火のなかで最大の被害をもたらしたのが、明暦の大火(振袖火事)。本郷丸山(現・文京区本郷五丁目)の本妙寺で、呪われた振袖を供養しようと火に投じたところ、振袖が舞い上がって御堂に火がついたのが発端と伝わる。この火事で江戸の町の約6割が焼失、10万人の命が奪われ、江戸城内も西の丸を除きすべて焼け落ちた。火事のあと、「城下復興にこそ予算を費やすべき」という会津藩主・保科正之の意見により、天守の再建は基礎の台座部分のみで工事中止となった。いまも残る天守台は、大火とそこからの復興の象徴だ。
ポイント5 江島・生島(えじま・いくしま)事件(正徳四年【1714年】)
大奥の最高実力者と歌舞伎役者のスキャンダル!?

1714年、ひとりの女性が江戸城を追放され、平川門(不浄門)から信州へと送られた。七代将軍・家継の生母・月光院に仕える御年寄(大奥女中の最高実力者)の江島である。2月26日、月光院の名代として上野・寛永寺と芝・増上寺に参詣した江島は、その帰途、山村座へ赴いた。歌舞伎見物、役者・生島新五郎らとの酒宴を楽しんだが、帰城の門限(タ方4時ごろ)に遅れたことが大問題となる。さらに生島との情通を追及され、江島は信州にお預け、生島は三宅島に流罪。ほか関係者約1500人が処分された。だが、ふたりの密通は事実無根で、月光院派の失脚を狙った六代将軍・家宣の正室・天英院派の陰謀だったともいわれる。
ポイント6 竹橋事件(明治十一年【1878年】)
待遇改善を求めた近衛砲兵の反乱

8月23日、竹橋御門近くの近衛砲兵隊陣営の兵士ら約260名が、天皇に待遇改善を直訴すべく蜂起した。だが、事前に計画を知った内務卿・伊藤博文が鎮圧を命じ、兵士らは代官町通りを中心に銃撃戦を繰り広げながら赤坂仮御所に向かうが、弾丸つきて武装解除された。天皇の護衛にあたるべき近衛兵が反乱に及んだ原因は、前年の西南戦争にあった。戦地に駆り出され、多くの戦死者を出しながらも勝利へと導く働きをしたにもかかわらず、兵士への恩賞が薄かったうえ、陸軍の予算削減を理由に減給されたことに不満を募らせたのだ。事件後、55人が死刑。これを機に、陸軍卿・山縣有朋は軍の統制強化を進めた。
ポイント7 ビートルズがやってきた!(昭和四十一年【1966年】)
日本武道の聖地がコンサート会場に!

6月30日〜7月2日、日本武道館でビートルズの初来日コンサートが開催された。5万人の募集に対し、24万を超す応募が殺到したと伝わる。今では多目的に利用される武道館だが、コンサート会場としての使用は、この日が初めて。神聖な武道館でのコンサート開催に「日本武道に対する冒涜」と反対する声もあった。警視庁では混乱を避けるため、「ビートルズ対策会議」が招集され、当日は2000人を超える警察官やガードマンが厳戒態勢で臨んだ。
ポイント8 和宮降嫁(かずのみやこうか)(文久元年【1861年】)
公武合体の象徴、幕末のプリンセス江戸に下る

桜田門外の変で、幕府の権威は失墜した。老中・安藤信正は、朝廷との融和によって幕府の権威を回復しようと考え、朝廷に十四代将軍家茂への降嫁を求めた。孝明天皇は 「攘夷」を条件に、妹・和宮の降嫁を認めた。そして1861年11月15日、和宮一行は江戸に到着し、清水邸に入った。このときの和宮の行列は、およそ6000人にもおよぶ絢爛豪華なものだったという。なお、婚儀は翌年2月11日に行われた。

ゴール地点:九段下駅出入口4


スタート地点の大手町駅出入口C9から歩き始めます。



ポイント1 伊達騒動

三井物産本店の敷地の南側に隣接して、平安時代中期に関東で反乱(承平天慶の乱)を起こして敗死した平将門の首を供養するとされる首塚(将門塚)があり、東京都指定の旧跡となっています。将門塚がある地はかつて武蔵国豊嶋郡芝崎村と呼ばれ、住民は長らく将門の怨霊に苦しめられてきたといわれています。諸国を遊行回国中だった遊行二祖他阿真教が徳治二年(1307年)に将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立し、かたわらの天台宗寺院日輪寺を時宗芝崎道場に改宗しました。日輪寺は、将門の「体」が訛って「神田」になったという神田明神(神田神社)の別当として将門信仰を伝えてきました。その後、江戸時代になって日輪寺は浅草に移転させられますが、今でも神田明神とともに首塚を護持しています。明治時代になり、屋敷は大蔵省の敷地となりますが、関東大震災で崩壊し、更地となりました。被災後、周辺跡地に大蔵省の仮庁舎が建てられることとなり、石室など首塚の大規模な発掘調査が行われました。そして、昭和二年(1927年)に将門鎮魂碑が建立され、神田神社宮司が祭主となって盛大な将門鎮魂祭が執り行われました。

東京都指定旧跡
将門塚

平将門は、平安時代中期、坂東八カ国(現・関東地方)で大規模な反乱(天慶の乱)を起こし940年に没しました。享年は、一説に三十八歳と伝わります。徳治二年(1307年)、遊行寺二世真教上人が江戸に行脚した折、将門塚が荒れ果てていたため塚を修復し、板石塔婆を建てて傍らの日輪寺において供養したとされます。その霊は神田明神において祀られ、神田明神が移転した後も塚はこの地に残りましたが、大正十二年(1923年)の関東大震災後、大蔵省再建に際して崩されました。幾多の変遷の後、令和三年(2021年)に第六次整備工事として将門塚保存会などにより現況のように整備されたものです。

Historic Places
Masakado-Zuka (The mound of Masakado)

TAIRA no Masakado (died in 940) was a leader who started a large-scale rebellion in the Kanto region (Tengyo no ran) in the middle of the Heian period (10th century). It is said that when Shingyo Shoum, who inherited high priest of Yugyo-ji Temple, visited Edo in 1307, the mound (called Masakado-Zuka) was in ruins, so he repaired it. built a stone plate stupa and prayed at Nichirin-ji Temple nearby. The spirit of Masakado was enshrined at Kanda Myojm Shrine, and the mound remained here even after the shrine was relocated. I ater, the mound was destroyed when the Ministry of Finance had built a temporary office at the place after 1923 Great Kanto Earthquake. After many changes, in 2021, the sixth maintenance work was carried out by the Masakado-Zuka Preservation Society and others, and the site is maintained as it is today.




平成二十八年(2016年)から令和二年(2020年)にかけて三井物産ビルを含む都市再開発事業「大手町ワン」が行なわれ、この工事終了に合わせて、昭和三十六年(1961年)の第一次整備工事以来、第六次となる改修工事が実施されました。改修工事以前は、境内に蛙(カエル)の置物が多数奉納されていました。これは将門の首が平安京から飛んで帰ったという伝承にちなみ、必ず「帰る(カエル)」にひっかけ、左遷に遭った会社員が元の会社に無事に戻ってこられるように、あるいは誘拐されたり行方不明になったりした子供が無事帰ってこられるように、といった願いをかけて供えられていました。現在は、敷地内に供物・物品を寄進したり、お線香台を利用することは禁止となっています。



将門塚は江戸城の正門である大手門前にあり、大手門は伊達政宗公が普請された門です。江戸時代には、付近一帯は姫路藩雅楽頭酒井家江戸上屋敷の敷地となり、山本周五郎の歴史小説「樅ノ木は残った」の舞台となりました。伊達騒動は、江戸時代前期に伊達家の仙台藩で起こったお家騒動で、黒田騒動・加賀騒動または仙石騒動と共に江戸時代の「三大お家騒動」と呼ばれています。仙台藩三代藩主の伊達綱宗は遊興放蕩三昧であったため、叔父にあたる一関藩主の伊達宗勝がこれを諌言したが聞き入れられませんでした。このため宗勝は親族大名であった岡山藩主池田光政・柳川藩主立花忠茂・宮津藩主京極高国と相談の上、老中首座の酒井忠清に綱宗と仙台藩家老に注意するよう提訴しました。しかし綱宗の放蕩は止まず、ついに万治三年(1660年)7月9日に家臣と親族大名(池田光政・立花忠茂・京極高国)の連名で幕府に綱宗の隠居と、嫡子の亀千代(初め伊達綱基、後に伊達綱村)の家督相続を願い出ました。7月18日に幕府によって綱宗は21歳で強制隠居させられ、四代藩主に僅か2歳の伊達綱村が就任しました。綱村が藩主になると、初めは大叔父にあたる宗勝や最高の相談役である立花忠茂が信任する奉行(他藩の家老相当)奥山常辰が、その失脚後に宗勝自身が実権を掌握し権勢を振るいました。宗勝は監察権を持つ目付の権力を強化して寵愛し、奉行を上回る権力を与えて自身の集権化を行いました。奉行の原田宗輔もこれに加担して、その中で諫言した里見重勝の跡式を認可せずに故意に無嗣断絶に追い込んだり、席次問題に端を発した伊東家一族処罰事件が起こります。かつて奥山を失脚に追い込んだ一門の伊達宗重(涌谷伊達家)と宗勝の甥にあたる伊達宗倫(登米伊達家)の所領紛争(谷地騒動)が起こり、一旦宗重は裁定案を呑んだものの、宗勝の寵臣の今村を筆頭とする検分役人による郡境検分で問題が生じたことにより、伊達宗勝派の専横を幕府に上訴することになりました。寛文十一年(1671年)1月25日、柴田朝意は騒動の審問のため幕府から出府の命を受け、仙台を跡に江戸へ立ちました。また、朝意は田村宗良に自身の老齢を理由に古内義如の出府を要望しました。同年3月7日に伊達宗重・柴田・原田が老中板倉重矩邸に呼ばれ、土屋数直列座の下で一度目の審議が行われ、最初に朝意が審問を受けました。朝意は、隠居の綱宗の附家老や田村家家老に宛てて、この審問で藩主の伊達綱基(後に改名して綱村)への処分がないことが確定した旨の書状を送っています。なお、原田と柴田の証言の食い違いにより、古内も呼ばれることとなりました。同年3月27日に当初予定の板倉邸から大老である酒井忠清邸に場所を変更し、酒井忠清を初め老中全員と幕府大目付も列座する中で二度目の審問が行われますが、その審問中の控え室で原田は宗重を斬殺し、老中のいる部屋に向かって突入しました。驚いた柴田は原田と斬りあいになり、互いに負傷しました。聞役の蜂屋可広も柴田に加勢しましたが、混乱した酒井家家臣に3人とも斬られて、原田は即死し、柴田もその日のうちに、蜂屋は翌日死亡しました。関係者が死亡した事件の事後処理では、正式に藩主綱村は幼少のためお構い無しとされ、大老宅で刃傷沙汰を起こした原田家は元より、裁判の争点となった宗勝派および藩主の代行としての責任を持つ両後見人が処罰され、特に年長の後見人としての責務を問われた宗勝の一関藩は改易となりました。

東京都指定旧跡
将門塚

神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首をお祀りしております。平将門公は、承平天慶年間(931年〜946年)に活躍され、武士の先駆けとして関東地方の政治改革に尽力され、弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望を受けていました。今を去ること1075年ほどの昔、桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍・平良将の子将門公は、下総国に兵を起こし、たちまちにして坂東八ヶ国を平定、自ら平新皇と称して政治の革新を図りましたが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死しました。享年三十八歳、世にこれを天慶の乱といいます。その後、将門の首級は京都に送られ獄門に架けられましたが、三日後白い光を放ち、東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちました。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったとされ、村人は恐怖し、塚を築いて埋葬しました。これが、この将門塚と語り伝えられています。その後も度々、将門公の怨霊が祟をなすため徳治二年、時宗二祖真教上人は、将門公に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建て、日輪寺にて供養し、さらに傍の神田明神にその霊を合わせ祀ったところ、ようやく将門公の霊魂も鎮まり、この地の守護神になったといわれています。天慶の乱は平安朝の中期に当たり、京都では藤原氏が政権をほしいままにし、我が世の春を謳歌していました。遠い坂東では国々の司が私欲に走り善政を忘れ、下僚は収奪に民の膏血をしぼり、加えて洪水や早魃が相続き、人民は食なく衣なく、その窮状は言語に絶するものでした。その為、これらの力弱い多くの人々が、将門公によせた期待と同情とは極めて大きなものがあり、今もって関東地方には数多くの伝説と将門公を祀る神社があります。このことは将門公が歴史上朝敵と呼ばれながらも、実は郷土の勇士であったことの証です。また天慶の乱は、武士が台頭する烽火であったと共に、弱きを助け強き を挫く江戸っ子の気風へと繋がり、今日の社会にも大きな影響を与えています。

江戸時代の寛文年間、この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、歌舞伎「先代萩」で知られる伊達騒動で伊達安芸と原田甲斐の殺害された場所でした。

明治時代、大蔵省再建事業の際に崩されるなどしましたが、その後、昭和になり史蹟将門塚保存会が結成され、昭和三六年(1961年の第一次整備工事を皮切りに、幾多の変遷を経て、令和三年(2021年)に第六次整備工事として、現況のように整備されました。将門塚は神田明神・創建の地でもあります。毎年九月彼岸の日には「将門塚例祭」が執り行われ、五月の神田祭の時には必ず鳳輦神輿が渡御して神事が行われる重要な場所です。将門塚保存会神輿も同保存会の方々により担がれており、現在も同保存会により大切に維持され、神事が行われています。




ポイント2 江戸無血開城

江戸無血開城は、江戸時代末期の慶応四年(1868年)3月から4月(旧暦)にかけて、明治新政府軍(東征大総督府)と旧幕府(徳川宗家)との間で行われた、江戸城の新政府への引き渡しおよびそれに至る一連の交渉過程を指します。「江戸城明け渡し」や「江戸城無血開城」ともいいます。徳川宗家の本拠である江戸城が徳川家の抵抗なく無血裏に明け渡されたことから、同年から翌年にかけて行われた戊辰戦争の中で新政府側が大きく優勢となるきっかけとなった象徴的な事件です。

皇居東御苑は、かつて江戸城の本丸・二の丸・三の丸があったところに位置しています。本丸には江戸幕府将軍の住居である本丸御殿や天守閣があり、城の中枢でした。全域を宮内庁が管轄し、昭和四十三年(1968年)10月1日から宮中行事に支障のない限り一般に公開されています。苑内は自然が豊かで、昭和天皇の発意により武蔵野の自然を再現した二の丸雑木林や、果樹の古品種園、明仁上皇の所望によりヒレナガニシキゴイが放流されている池などがあります。この他、日本庭園や皇室関連の施設・江戸城の遺構など歴史的な史跡も見ることができ、国内のみならず海外からの旅行者も多く訪れます。苑内には宮内庁関係の施設があるため、立ち入り禁止の区域があります。平成三十年(2018年)3月27日に開園以来の来場者数が3000万人に達しました。見学は無料で、大手門・平川門・北桔橋門の各門から出入りします。公開日は、原則として月曜日と金曜日以外の各日になっています。



今日は、最も利用者の多い大手門から入場します。大手門は、慶長十二年(1607年)に築城の名手であった藤堂高虎によって1年3ヶ月ほどかけて築かれました。元和六年(1620年)の江戸城修復に際して、伊達政宗(石垣を担当)や酒井忠世によって再建され、現在のような桝形門になりました。

大手門

この門は、江戸城本丸登城の正門で、城門警護は10万石以上の譜代大名が務めていました。門の建設は慶長十一年(1606年)に藤堂高虎が行ったとされ、明暦三年(1657年)明暦の大火で焼失した後万治二年(1659年)に再建されました。現在の門は、手前の高麗門が1659年、渡櫓門は昭和四十一年(1966年)に再建された建築物です。門内には「明暦三丁酉」の記銘がある旧大手門渡櫓の鯱が置かれています。

Ote-mon Gate

This was the main gate for those entering the main keep of Edo Castle, and the guards of the castle gate consisted of fudai daimyo (feudal lords who had supported the ruling Tokugawa house) with at least 100,000 koku (land was measured by the amount of rice produced; one koku was around 150kg of rice, enough to feed one man for a year). The construction of the gate was carried out by Todo Takatora in 1606, and it was reconstructed in 1659 after it was destroyed in the great Meireki Fire (1657). The present Korai Gate (a small, three-roofed gate) in front of you dates to 1659, and the Watariyagura Gate (a two-story gate, with a tower or room on the upper story) was rebuilt in 1966.There is a shachihoko (a mythical tiger-headed carp) inside the gate from the former Watariyagura Gate, with the inscription "Meireki 3, year of the rooster"




当時の江戸城の地形と、大名登城の様子が挿絵で添えられています。



大手門に向かって右側(北側)は桔梗濠(ききょうぼり)で、左側(南側)は大手濠です。



江戸城大手門は、高麗門と渡櫓型の櫓門で構成された典型的な枡形門の形式(石垣を四角く巡らして直進できない通路を設けた門)で、渡櫓の櫓門は桁行22間(40m)・梁間4間2尺(7.9m)という大規模なものでした。渡櫓門には長大な武器庫である建物を載せていました。大手門の警備を担ったのは10万石以上の譜代大名2名です。現存する高麗門は、明暦三年(1657年)の明暦の大火(振袖火事)後の万治二年(1659年)に再建されたものです。江戸時代の渡櫓門は、残念ながら昭和二十年の戦災で焼失しました。昭和四十一年の東御苑開園に伴い、昭和四十年から復元工事が行なわれ、高麗門なども修復され、往時の雰囲気が再現されました。



復元された櫓門です。



枡形内に渡櫓の屋根を飾っていた鯱が展示されています。刻印に「明暦三丁酉」(丁酉=ひのととり)とあり、明暦三年(1657年)の明暦の大火(振袖火事)で焼失した後、万治二年(1659年)に大手門が再建されたときのものと推定されます。昭和二十年の空襲で門は焼け落ちましたが、鯱だけは現存しています。

大手門

大手門は江戸城の正門で、諸大名がこの門から登城しました。大小2つの門に囲まれた枡形は、侵入する敵を阻止・攻撃し易い構造になっています。大きい方の門は、昭和二十年(1945年)4月の空襲で焼失し、昭和四十二年(1967年)に復元されました。焼失前の門の屋根に飾られていた鯱には、頭部に「明暦三丁酉」(1657年)と刻まれています。この明暦三年には、江戸城の多くの建物が焼失した明暦の大火が起きており、鯱は、大火の後、江戸城再建時に製作されたものと考えられます。

Otemon Gate

During the Tokugawa Shogunate (1603-1867), the Otemon Gate served as the main gate of Edo Castle, and it was used by the shogun and feudal lords. It consists of two gates, one small and one large, set at right angles. This was a device to slow down the momentum of attackers, and to trap the enemy in an enclosed space where they could be fired on from the larger gate's upper story. The larger gate was rebuilt in 1967 after being destroyed in an air raid during World War II. The decorative mythical sea creature beside this panel is from the roof of the original gate, where it acted as a talisman against fire. The date 1657 is inscribed on its head.




三の丸尚蔵館は、宮内庁所管の美術品や絵画など貴重な品々を展示しています。平成五年(1993年)に開館しました。入館料は無料です。



同心番所は、同心が江戸城へ登城する大名の供を監視したところです。以前はこの番所の前に橋があり、御三家を除く全ての大名と役人はここで乗り物から降りて徒歩で本丸へ登っていました。

同心番所

「番所」とは警備詰所のことで、江戸城にあった番所のうち、百人番所、大番所、同心番所の3つが残っています。ここには主として「同心」と呼ばれる武士が詰め、登城者の監視に当たっていました。屋根瓦には、皇室の菊の御紋のあるものや徳川家の葵の紋があるものが見られます。

Doshin Bansho Guardhouse

This guardhouse is one of three that survives from the Tokugawa Shogunate (1603-1867). It was manned by low-ranking samurai known as doshin, or constables, hence its name. Their job was to check visitors to the castle, and to keep watch over the retinues of the feudal lords as they waited for their masters to return from inside the honmaru complex. There are three different types of crests to be seen on the roof tiles. The triple hollyhock design is the family crest of the Tokugawa. In addition, there are Imperial chrysanthemum crests and the whorl of three commas of the mitsudomoe. The mitsudomoe crest dates back to the end of the Heian Period (794-1185), and was also used to ward off fires, since it represents water.




百人番所は、本丸と二の丸へ続く大手三之門を警護していた門です。鉄砲百人組と呼ばれる甲賀組・伊賀組・根来組・二十五騎組の同心100人が昼夜交代で警護に当たっていました。

百人番所

江戸城本丸への道を厳重に守る大手中之門に向き合って設けられた警備詰所です。甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組という4組の鉄砲百人組が昼夜交替で勤務していました。各組は、20人の与力と、100人の同心で構成されていました。

Hyakunin Bansho Guardhouse

This is the largest of three guardhouses that have survived from the Edo period (1603-1867). Located between the San no Mon and Naka no Mon gates, this guardhouse controlled access to the honmaru main compound of Edo Castle. The name means "100-Man Guardhouse." The 45-metre-long building was manned day and night by four shifts of samurai, each consisting of one hundred low-ranking doshin samurai and twenty higher-ranking yoriki samurai.




本丸中之門の両側に石垣が聳えています。



石垣に使われた巨石が展示されています。



本丸中之門石垣の修復の経緯がパネルで解説されています。

本丸中之門石垣 − 概要

皇居内の石垣は、特別史跡「江戸城跡」に指定されています。「本丸中之門石垣」修復工事は平成十七年8月から平成十九年3月にかけて行いました。修復は、文化財調査を行いながら、石垣を変形前の形状に復元することを目標にしました。石垣には、江戸城の中でも最大級の巨石が使われ、布積みという技法で積まれています。また、この中之門石垣には、本丸御殿への登城口としての渡櫓門が配置されていました。

The Stonewalls of Honmaru-Nakanomon Gate - Outline

The stonewalls of the Imperial Palace are designated as a special historic structure of "the Former Edo Castle." The restoration work of the Honmaru-Nakanomon Gate stonewall, was carried out from August 2005 through March 2007. The purpose of the work was to restore the stonewall to its original condition that had existed before it deteriorated and to conduct cultural assets investigation while performing the work. The Nakanomon Gate is built with stones larger than those used in other stonewalls in the Edo Castle and by employing a technique called "nunozumi," where rows of stones are horizontally laid on top of one another. As regards the Honmaru-Nakanomon Gate stonewall, the castle once had a barbican defense-house, Watariyagura-mon, constructed as an entry point to the Honmaru buildings.




大番所は、本丸に通じる中之門警備のための詰所で、最後の番所であり、位の高い与力・同心によって警護されていました。

大番所

大番所は、左の写真に映っている大手中之門の内側に設けられていた警備詰所です。ここには位の高い武士が勤務していました。この番所は、明治期に改築され、作業所として使われていましたが、昭和四十三年(1968年)に江戸時代の姿に復元されました。

Obansho Guardhouse

Obansho were guardhouses built at the strategically important gates of Edo Castle. This particular Obansho, one of three remaining at Edo Castle, is located near the back of the Naka no Mon, and was the final checkpoint for people going into the honmaru main compound of Edo Castle. Because of its important location, it was garrisoned by samurai of relatively high rank. It was converted into a workshop in the late nineteenth century after the fall of the shogunate, but returned to its original appearance in 1968 when the East Gardens were opened to the public.




中之門を入り大番所前を左に進むと、正面に大形の石材で積まれた石垣を見ながら登る坂道があります。この坂は、もともと江戸城東側に広がる低地と本丸の位置する台地との境にあたり、これを登りきると、本丸正門の中雀門があります。この門は、文久三年(1863年)の火災で本丸御殿が焼けた時に類焼し、石垣の表面は、熱によりボロボロになっています。中雀門を抜けると、現在は広々とした広場となっていますが、かつてはここに広大な本丸御殿が広がっていました。現在、2本のケヤキが門柱のようにそびえている部分が、ほぼ御殿の正面玄関にあたります。



現在の富士見櫓は、明暦の大火の後(1659年)に再建されたものです。江戸城の天守は明暦の大火で焼失した後に再建されることはなかったので、それ以後は江戸城のほぼ中央に位置していたこの富士見櫓を天守の代わりにしました。

富士見櫓

「櫓」は、城の隅など重要箇所に造られる防御施設の役割をもった建物です。かつて江戸城には多くの櫓がありましたが、現存する櫓は、富士見櫓、伏見櫓、巽櫓の3つとなりました。富士見櫓は、明暦の大火(1657年)で焼失しましたが、その後間もなく再建され、天守の代用としても使われていました。将軍が富士山や両国の花火、品川の海を眺めたといわれています。

Fujimi Yagura Turret

Yagura turrets were built at strategic corners of the castle for the wide firing arcs they provided. Yagura served as defensive turrets in wartime and as weapon stores in peacetime. Edo Castle once had many yagura towers. The Fujimi Yagura is located on the southern corner of the honmaru main compound of Edo Castle, and probably dates from 1659, after the 1657 Great Fire of Meireki destroyed much of Edo, including the castle. Towering 16 metres above a 15-metre-high rampart, it became the symbol of Edo Castle after the loss of the main keep tower. The name "Fujimi" derives from the view of Mount Fuji, 100 kilometres away, which was once enjoyed from this yagura.




「富士見櫓の概要」について解説した案内板が立っています。

富士見櫓の概要

富士見櫓は、現存する江戸城の櫓のうち唯一の三重櫓です。どの方角から見ても美しく、「八方正面の櫓」とも呼ばれていました。

沿革出来事
慶長十一年頃創建
明暦三年明暦の大火で焼失創建
万治二年再建
大正十二年関東大震災で破損
大正十四年震災修復
昭和四十二年外壁等の修理


Fujimi-yagura

Fujimi-yagura, the only remaining three story tower of Edo Castle, has been beautifully formulated on all sides.

HistoryEvent
1606Built around this time
1657Destroyed by the great fire
1659Rebuilt
1923Damaged by the major earthquake
1925Restored
1967Outer walls repaired




立面図と平面図が添えられています。



富士見櫓の修理について、大正期と昭和期の内容が解説してあります。

富士見櫓の修理


大正十二年(1923年)の関東大震災による被災

関東大震災により、外壁の剥落や瓦の破損がありました。大正十四年(1925年)に行われた修復では、柱や梁を筋交い等で補強し、土壁・漆喰仕上げをモルタル下地・白セメント仕上げに替え、屋根瓦の修理を行いました。

昭和四十一・四十二年(1966年〜1967年)の修理

昭和四十三年(1968年)に皇居東御苑を公開するのに先立って、昭和四十一年から昭和四十二年にかけて、修理が行われました。外壁を白セメント仕上げから漆喰仕上げに替え、屋根瓦の修理を行いました。

Restoration works of Fujimi-yagura


The damage caused by the Great Kanto Earthquake in 1923

In the Great Kanto Earthquake of 1923 some parts of the outer walls of Fujimi-yagura fell and many roof tiles were damaged. In the restoration works in 1925 reinforcing timbers were added inside the tower while mud walls finished with stucco were replaced by mortar walls finished with white cement. Damaged roof tiles were replaced by new ones.

Repair Works in 1966-67

Prior to the opening of the East Gardens of the Imperial Palace in 1968, Fujimi-yagura was repaired in 1966-67. The white cement of the surfaces of the outer walls was replaced by stucco. Some damaged roof tiles were replaced.




富士見櫓の防御設備について解説してあります。

富士見櫓の防御設備

富士見櫓は、江戸城の本丸の南隅の、高さ15メートルの石垣の上に設けられた重要な防御施設でした。各階の窓は、鉄砲や矢で攻め手を攻撃するための拠点でした。さらに、以下のような、隠れた防御設備もありました。ただし、江戸城は攻撃を受けたことがないので、富士見櫓が、実際に戦いに使われたことはありません。

狭間
1階の出窓の脇に設けられた小窓で、蓋を開けて、鉄砲や矢で、攻め手を攻撃するためのものです。

石落とし
1階の出窓の床に設けられた穴で、蓋を開けて、鉄砲や矢で、攻め手を攻撃するためのものです。

Defence facilities of Fujimi-yagura

Fujimi-yagura, placed on 15-meter-high stone walls, was an important defence tower located on the south edge of Honmaru (the main compound) of Edo Castle. The tower's windows were firing points of guns and bows. The photographs below show additional concealed firing points. As Edo Castle was never attacked, Fujimi-yagura did not see any real battle.

Sama
Small windows were created in the side walls of the bay windows.

Ishi-otoshi
At the bottom of the bay windows holes were concealed with sliding floors.




富士見櫓からの眺望です。



富士見櫓から眺めた現在の東京湾方向の眺望と富士山方向の眺望が写真で示されています。高いビルがなかった江戸時代にはさぞかし素晴らしい眺めだったことでしょう。

富士見櫓からの眺望

江戸時代の富士見櫓からは、品川の海や富士山が眺められたと言われています。

【左の写真:富士見櫓から東京湾方向の眺望】
海の埋立てが行われ、また、高層ビルが林立しているため、現在は富士見櫓から海は見えません。

【右の写真:富士見櫓から富士山方向の眺望】
富士山は宮内庁庁舎の先に位置します(写真の赤丸部分)。現在は、高層ビルの陰になり富士山は見えませんが、高層ビルが無かった時代には、富士山が見えたと思われます。富士見櫓から富士山までの直線距離は約100kmです。

Views from Fujimi-yagura

It is said that in the period of the Tokugawa Shogunate, the sea nearby and Mt. Fuji could be viewed from Fujimi-yagura.

【Left: View from a south window】
In those days Edo Castle was very close to the sea. However, due to extensive reclamations and the emergence of high rising modern buildings it is impossible now to see the sea from Fujimi-yagura.

【Right: View from a west window】
'Fujimi' means viewing Mt. Fuji and 'Fujimi-yagura' means the tower to see Mt. Fuji. Today, high rising buildings block the view of Mt. Fuji, which, located 100km away from here, must have been seen in those days in the direction indicated by the red oval.





ポイント3 松之大廊下刃傷事件

本丸跡左手の現在は木立となっているところに、本丸大広間と白書院(将軍との対面所)を結ぶL字形の廊下がありました。「忠臣蔵」で有名な「松の大廊下」です。元禄十四年(1701年)3月14日、赤穂藩主の浅野匠頭長矩が高家衆筆頭の吉良上野介義央に斬りかかる刃傷事件が起きた場所です。上野介は軽傷でしたが、殿中での刃傷はご法度であったため、内匠頭はその日のうちに切腹となりました。その後、赤穂藩は取り潰しとなり、家臣たちは浪士となりました。一方、上野介には御咎めがなかったため、お家の再興も退けられた浪士が大石内蔵助の頭に亡君の仇討を計り、元禄十五年(1702年)12月15日に吉良邸に討ち入り本懐を遂げました。この事件の発端となった松の廊下は、本丸で二番目に長い廊下といわれ、西へ約19メートル・北へ約31メートル・幅は約5メートルであったと伝えられています。障壁画に「松」を主題にした絵が描かれていたことから、「松の大廊下」と呼ばれていました。

松の大廊下跡

江戸城本丸には広大な御殿があり、この場所には「松の大廊下」がありました。襖戸に松と千鳥が描かれた長い畳敷きの廊下で、赤穂浪士討ち入りにつながったことで知られる、浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央への刃傷事件(元禄十四年【1701年】)があった場所です。事件を下敷きにして、「仮名手本忠臣蔵」をはじめ多くの舞台芸能、文学作品、映画、テレビドラマが生まれています。

Site of the Matsu no Oroka Corridor

The Honmaru Goten palace complex once covered much of the bonmaru main compound of Edo Castle. This was the site of a corridor known as the Matsu no Oroka, the "Great Pine Corridor," after the pine trees painted on its sliding doors. The corridor was approximately 55 metres in length and 4 metres wide, and linked the large Formal Reception Room to the Shiro-shoin, the shogun's reception room. This was the stage for the Ako Jiken, a famous incident that is the basis for the Chushingura, a subject perennially popular in Japanese theatre, puppetry, fiction, and film. In 1701, Asano (1667-1701), a feudal lord of Ako, attacked and wounded Kira (1641-1702), one of the masters of ceremonies, in this corridor. For this crime, Asano was ordered to commit suicide. One year later, forty-seven of his retainers now ronin, masterless samurai-killed Kira in revenge. The shogunate was of two minds as to whether the ronin should be punished for murder or admired for their loyalty. By way of compromise, the masterless samurai were ordered to commit ritual suicide, an honourable death, rather than be executed.




「多聞」とは、城郭の石垣上に建てられた長屋のことで、城壁よりも強固な防御施設でした。江戸時代の江戸城本丸にはこのような多聞が各所に築かれていましたが、現存するのは、この富士見多聞だけです。今は見られませんが、かつてはこの富士見多聞から実際に富士山を望むことができたと考えられています。

富士見多聞

「多聞」は、長屋造りの防御施設です。江戸城には多くの多聞がありましたが、現存するのは、この富士見多聞と、伏見櫓の左右にある多聞だけになりました。現在の富士見多聞は、江戸城の多くの建物が焼失した明暦の大火(1657年)の後、諸建物が再建された際に建てられたものと考えられます。「御休息所前多聞」とも呼ばれています。

Fujimi Tamon Defense House

A tamon generally refers to a single-storey gallery-like building that was built on the ramparts of a castle compound. It would be used for firing on attackers in wartime, and for the storing of weapons in peacetime. Believed to date from 1659, this tamon is the only one of the tamon in this area of the castle that survives. The Fujimi Tamon was so named because you could once see Mount Fuji from here. It was also called the "Gokyusoku Tamon," because of its proximity to the shogun's daytime quarters (Gokyusoku), and might have served a special purpose.




多聞は、各地の城に遺されています。

多聞とは

多聞は、戦国時代末期から城郭に採用された長屋型の施設で、塀よりも強固な防御機能を持っていました。平時には、武器、諸道具、文書等の収蔵庫、女中の住居など、多様な用途に使用されていたようです。「多門」、「多聞櫓」、「渡櫓」、「続櫓」、「長屋」、「廊下」などと呼ばれた例もあります。

富士見多聞の用途

富士見多聞が築かれた頃は、徳川将軍の地位は安定しており、江戸城本丸が攻撃に備える必要性はあまりありませんでした。富士見多聞は、本丸御殿内の将軍の日常生活の場である、「御休息」の近くに位置しており、「御休息所前多聞」という名前も残っています。はっきりした用途は不明ながら、襖が備えられていた形跡があるなど、倉庫以外の用途に使われていた可能性も考えられます。

On Tamon (Defence House)

The tamon began to appear in Japanese castles from the late 16th century. As the base of firing points it was more effective in fending off attackers than a simple defence wall. In many castles tamons were used for various purposes in peacetime, such as warehouse for weapons, tools or documents, and dormitory for female servants.

The function of Fujimi-tamon

By the time this tamon was built the rule of the Tokugawa Shogunate had become stable and there was no acute need to fortify heavily Honmaru (the main compound) of Edo Castle. The tamon was close to Gokyusoku, the Tokugawa Shogun's living room of Honmaru Palace. Although its precise function is unknown, in view of the lintels and sills for fusumas (sliding doors) Fujimi-tamon might have been used for certain purposes other than simply storing goods.




富士見多聞は、関東大震災によって被災した後と、戦後に解体修理されています。

富士見多聞の修復

大正十二年(1923年)の関東大震災による被災

関東大震災により、外壁の剥落がありました。復旧工事で漆喰仕上げの土壁をモルタル下地白セメント仕上げに替えました。また、建物内に斜めに設置されている補強木材も、この時に設置されたものです。

昭和四十二年〜昭和四十三年(1967年〜1968年)の解体修理

昭和四十三年(1968年)に皇居東御苑を公開するのに先立って、昭和四十二年から昭和四十三年にかけて、解体修理が行われました。壁は、モルタル下地・漆喰仕上げとなりました。新規木材には、修理年を記した焼き印を押して、修理時期が分かるようにしてあります。

Restoration Works of the Fujimi-tamon Defence House

The damage caused by the Great Kanto Earthquake in 1923

In the Great Kanto Earthquake of 1923 some parts of the outer walls of Fujimi-tamon Defence House fell. In the restoration works in 1925 mud walls finished with stucco were replaced by mortar walls finished with white cement. Inside timber braces were installed.

The restoration works in 1967-8

Prior to the opening of the East Gardens of the Imperial Palace in 1968, Fujimi-tamon Defence House was disassembled and damaged materials were replaced by new ones in 1967-8. In its reassembling process mortar walls were finished with stucco. The restoration year was branded on newly installed timbers so that the house's restoration history could be easily traced in the future.




「石室」は、富士見多聞北側の蓮池濠沿いにある石作りの蔵です。江戸城の遺構の中では比較的小さなもので、表の石組には焼けたような痕があり、多少ずれています。入口には扉を取り付けた穴があり、内部は20平方メートルほどの広さとなっています。伊豆半島産の安山岩(伊豆石)の切石で、隙間もないほどキッチリと壁が造られています。江戸城の抜け穴や御金蔵との説もありますが、場所柄から火災などの際に貴重品などを避難させた蔵と考えられます。 

石室

この場所は江戸城本丸御殿の大奥の脇に当たります。石室の用途は諸説ありますが、火事など非常の際に、大奥用の調度などを避難させた場所と考えられています。

Ishimuro, Stone Cellar

The exact purpose of this 20-square-metre stone cellar is not known. It is thought to have been asecret escape route for when the castle came under attack, or perhaps was used to protect valuable articles and documents from frequent fires. Located close to the site of the women's living quarters in the Edo Castle palace complex, it is possible that the shogun's consort and concubines used this cellar during fires.




旧江戸城の本丸と二の丸・三の丸を中心とした地域は皇居東御苑にあたり、そのうち本丸約3万4千坪(12万u)は、現在芝生となっています。



本丸には、天守の他に櫓11棟・多聞11棟・門20数棟がありましたが、度重なる火災により、富士見櫓と富士見多聞のふたつのみが現存しています。皇居東御苑内の広々とした芝生が広がる場所は江戸城本丸跡です。表御殿・中奥・大奥に分かれ、表御殿は諸役人が執務する幕府行政の中心機関で、将軍の謁見なども行なわれた建物でした。最も格式の高い「大広間」は正月などに諸大名が参集する場所になっていました。本丸には政治行政機関の表御殿、将軍のプライベート空間である中奥、女性のみで構成された大奥がありました。



明治時代にはかなりの部分が焼け跡で、正確な時間を知らせるために、明治四年に本丸跡に午砲台(ドン)が設置され、昭和四年に廃止されるまで、「ドン」の愛称で東京府民に親しまれていました。



ポイント4 明暦の大火

天守台(江戸城天守跡)は、本丸の北端に位置しています。最初の天守は慶長十二年(1607年)に完成し、現在の位置から少し南に位置していました。三代将軍家光が大改修を行い、最終的な完成をみたのは寛永十五年(1638年)でした。この時に現在の天守台ができました。



天守は、外観5層・内部6階建てで、天守台を含めた高さが58mあり、天気が良ければ房総半島からでも見ることができたといわれています。しかし、明暦三年(1657年)に起こった明暦の大火(振り袖火事)の飛び火で天守は焼失してしまい、再建する案もありましたが、家光の弟である保科正之(会津松平家藩主)の反対により再建は延期され、それ以後天守が建設されることはありませんでした。

天守台

徳川家康の入城以来、江戸城では、慶長度天守(1607年)、元和度天守(1623年)、寛永度天守(1638年)と3度、天守が建てられました。最も規模が大きかった寛永度天守は、地上からの高さが約58mあったといわれています。この天守台は、寛永度天守が明暦の大火(1657年)により焼失した後、天守再建を目指して万治元年(1659年)に築かれたものですが、幕府内で、天守は不要との結論が下され、この天守台には天守が建てられないままになりました。江戸時代の江戸城は、天守があった50年間の後、天守がない状態が210年間続いたことになります。

Tenshudai, Base of Edo Castle Keep

This was the site of the keep of Edo Castle. The keep tower was the tallest ever built in Japan. After the 1657 Great Fire of Meireki destroyed the third tower to stand on this site, the fourth shogun Tokugawa Ietsuna (1641-1680) immediately began work on a replacement, completing this foundation by 1658. Construction of the keep itself was abandoned when Ietsuna's uncle pointed out that a stable and peaceful Japan no longer needed such an enormous, awe-inspiring structure. The foundation for the unbuilt tower consists of two rectangles. The larger one-measuring 46 metres north to south, 42 metres east to west, and 10 metres tall-was for the tower itself, while the smaller one was for the entrance slope.




天守台は結構な高さにあり、長いスロープを登って土台部分に辿り着きます。今は周囲を高層ビルに囲まれて眺望はイマイチですが、平屋ばかりの江戸時代にはさぞかし良い眺めだったことでしょう。



模型でもいいので、ここに天守閣のミニチュアがあったらと思います。



天守台の南側には、本丸御殿が連なっていました。本丸御殿には松の廊下の先まで含まれますので、いかに長大な建物だったかが見て取れます。

江戸城本丸御殿

この天守台から見える大芝生とその周辺には、江戸城本丸御殿の建物が立ち並んでいました。本丸御殿は、表、中奥、大奥という三つの空間に分かれていました。表は、将軍の謁見など公的な儀式・行事、幕府諸役人の執務の場で、中奥は将軍の日常生活、政務を執る場、大奥は御台所と呼ばれた将軍の正妻をはじめ家族や女性たちの生活の場でした。

Edo Castle Honmaru Goten Palace

The large lawn and surrounding area seen from this Tenshudai (Base of the main tower) were formerly lined with the buildings of the Honmaru Goten Palace. The Honmaru Goten Palace consisted of three sections, namely, Omote, Nakaoku and Ohoku. Omote was the stage for general public ceremonies, and the place of work for various government officials of the Shogunate. Nakaoku was where the shogun lived his everyday life and administered the affairs of state. Ohoku was where the shogun's family, including the wife of the shogun called Midaidokoro, lived, and where other ladies or female staffs also lived.




本丸から二の丸に急坂が下っています。坂は汐見坂と呼ばれています。

汐見坂

徳川家康による江戸城築城の頃は、この場所の近くにまで日比谷入江が入り込み、この坂から海を眺めることができたことから「汐見坂」の名が付いたといわれています。この坂は、本丸と二の丸をつないでいたもので、坂上には、汐見坂門が設けられていました。

Shiomizaka Slope

This slope was built to connect the ninomaru second and honmaru main compounds of Edo Castle. It led up to the Shiomizakamon Gate. Shiomizaka means "Slope Overlooking the Sea", since when the castle was built it fronted onto the sea. Now, the area from the front of the palace past Tokyo Station and out to Tokyo Bay is all reclaimed land. Beyond the area where Tokyo Station and Yurakucho Station now stand was a low peninsula called Mae-Jima.




江戸城の二の丸と本丸の間を東西に隔てる濠は白鳥濠(はくちょうぼり)です。南北に長く伸びて本丸を守る形になっています。濠の北側は汐見坂で、築城初期にはこの坂から日比谷入江が眺められました。白鳥濠は完全に独立した濠で、濠に湛える水は湧き水と雨水のみになっています。家康時代に積まれたという石垣も必見です。



二の丸庭園に立ち寄ります。武蔵野の原生林を想わせる雑木林が広がっています。二の丸雑木林は、昭和天皇の発意により、都市近郊で失われていく武蔵野の面影を持つ雑木林を復元しようと昭和五十七年から昭和六十年までの4か年かけて整備されました。樹木や野草を始め、鳥や昆虫も楽しめる自然の林として育てられています。また、上皇陛下の意向を受けて、平成十四年に拡張された新雑木林には流れも造られました。

この雑木林は、昭和天皇のご発意により、武蔵野の面影を持つ樹林として、昭和五十七年から六十年にかけて整備されたものです。樹木や野草を始め、鳥や昆虫等も楽しめる自然の林として大切に育てております。植物を痛めないように、樹林地内への立入りはご遠慮願います。



二の丸庭園は、九代将軍家重の時代の庭園図面を元に、池泉回遊式庭園として復元された日本庭園です。



二の丸庭園は、江戸時代に小堀遠州により作庭されました。

二の丸庭園

江戸時代、二の丸には小堀遠州が造り、三代将軍徳川家光の命で改修されたと伝えられる庭園がありましたが、長い年月の間にたびたび火災で焼失し、明治以降は荒廃していました。現在の回遊式の庭園は、昭和三十九年(1964年)に、九代将軍徳川家重の時代に作成された庭園を基にして造られたものです。

Ninomaru Garden

The Ninomaru Garden is part of the ninomaru second compound of Edo Castle. This area was once the location of the palace for the shogun's heir. The current garden was created in 1964, modeled after a garden from the mid-eighteenth century. It is a chisen kaiyu garden, a stroll garden centered around a pond.




二の丸池は、小堀遠州作といわれる庭園の池水とほぼ同じ位置にあります。

二の丸池

この二の丸池にはコウホネ、ヒメコウホネ、ヒツジグサ、アサザの4種類の水生植物が生育しています。初夏から秋にかけて水面を覆い、それぞれ黄色や白色の花を咲かせます。コウホネは御所の池から、アサザは赤坂御用地の池から株を移したものです。

Ninomaru Pond

The following four aquatic species grow in this pond, that is, Nuphar japonica, Nuphar subintegerrima, Nymphaea tetragona var tetragona and Nymphoides peltata. They flourish from summer to autumn, covering the water's surface and producing yellow or white flowers. Nuphar japonica were originally transferred from the porid at the Imperial Residence, and Nymphoides peltata were brought from the pond on the Akasaka Imperial Palace Grounds.




二の丸庭園の一角にある菖蒲田には、明治神宮の菖蒲田から株分けされた84品種の花菖蒲が植えられています。

菖蒲田

この菖蒲田には、84品種のハナショウブが植えられています。皇居東御苑造成中の昭和四十一年(1966年)に明治神宮御苑の菖蒲田から株を譲り受けて以来、大切に守り育てているものです。

84 varieties of iris grow in this garden. These varieties have been carefully maintained since they were donated by the Iris Garden of Meiji Jingu Shrine in 1966 when the East Gardens of the Imperial Palace were being created.




諏訪の茶屋は、明治時代に吹上御苑に建てられ、ご休所として使われていた茶屋を移築したものです。

諏訪の茶屋

諏訪の茶屋は、元々、明治四十五年(1912年)に、皇居内の吹上地区に建てられたものです。その場所に、江戸時代に諏訪社があったことから、諏訪の茶屋という名前が付いています。昭和四十三年(1968年)に現在の場所に移築されました。

Suwa no Chaya Teahouse

This teahouse was built by order of Emperor Meiji (1852-1912) in 1912, in the Fukiage Gardens in the western part of the Imperial Palace grounds. The teahouse was moved here to the Ninomaru Garden in 1968 to add a note of elegance to the East Gardens when they were opened to the public. The name Suwa Teahouse refers to the Shinto deity Suwa, to whom there was a small shrine near the teahouse's original location.




各都道府県から寄せられた都道府県の木が植樹されています。

都道府県の木

昭和四十三年(1968年)の皇居東御苑公開に際し、都道府県から寄贈された各「都道府県の木」が植えられました。また、沖縄県の木は本土復帰した昭和四十七年(1972年)に植樹されました。平成二十九年(2017年)に再整備を行い現在32樹種の木々が植えられています。

Symbolic Prefectural Trees

Symbolic Prefectural trees donated by prefectural governments were planted here on the occasion of the public opening of the East Gardens of the Imperial Palace in 1968. Okinawa's prefectural tree was planted in 1972 when Okinawa was returned to Japan. This area was renewed and 31 species of trees and shrubs can be seen here.




天神豪は、江戸城の三の丸と二の丸を隔てる濠です。平川門から退出する際、右手に天神濠、左手に平川濠があります。今では土橋になっていますが、江戸城築城当初は跳ね橋で、いざという時には橋を落として防衛力を強化することができました。天神濠という名は、太田道灌の菅原道真好きに由来しています。



ポイント5 江島・生島(えじま・いくしま)事件

平川門は、江島・生島事件の舞台となった御門です。



平川門は、第一の門・高麗門(こうらいもん)と第二の門・渡櫓門(わたりやぐらもん)の間に枡形の広場がある外枡形と内枡形の混合型の形式で、江戸城を防御する作りになっています。外枡形とは枡形が曲輪より外に突き出したものをいい、逆に内枡形は枡形が曲輪の中にあるものをいい、そして平川門の混合型は枡形の二辺が堀に面しているのをいいます。江戸湾に面した現在の平川門周辺には、上平川村と下平川村という村があったのが平川門の名前の由来です。

平川門

大手門が正門であるのに対して、この門は、御殿に勤めていた奥女中などの通用門として使用されていました。大手門と同様、厳重な防御の構造になっています。

Hirakawamon Gate

The Hirakawamon Gate was used by ladies' maid servants and castle officials. It is composed of a small gate with a further, larger gate at right angles, creating an enclosed space. This is a common castle gate defensive feature that forces intruders to turn at right angles once inside, slowing them down, and allows the castle defenders to shoot down on the invaders from all sides. To the side of the Hirakawamon Gate there is an unusual third gate-the Obikuruwamon Gate. It is connected to a long, narrow rampart that cuts across the moat, which is thought to have greatly strengthened the castle defenses.




高麗門というのは、控え柱と開けた扉を保護する屋根を設けた薬医門よりも強固にした門のことです。名前の由来は諸説あり、豊臣秀吉が命じた朝鮮侵略戦争の軍を「高麗陣」と呼んでいて、激戦の最中に新しく開発した新兵器のことを「高麗門」といったそうです。



平川門は二つの門に加えてもうひとつ、広場の中に小さな脇門があります。脇門は平川濠の中に伸びた「帯曲輪」と呼ばれる細長い渡り堤につながっています。この門は「不浄門」と呼ばれる門で、城中で亡くなった人や罪人を出す際に使用されていました。



平川門の前の平川濠には時代劇に出てきそうな少し丸みを帯びた木の橋が架かっていますが、時が経った今でも以前のように残っているのは江戸城だけでもこの場所のみです。橋は全長29.7m・幅7.82mで、慶長十九年(1614年)に出来たものですが、しばしば改修工事が行われていて、現在は昭和六十三年に台湾産の檜材を使って再建されたものになります。親柱の伝統的なたまねぎのような装飾である擬宝珠(ぎぼし)には寛永や慶長時代の銘が彫刻されていて、当時のままであることが伺うことができます。元々は二重橋に備え付けられていたのですが、明治二十年に橋が架け替えられた際に平川橋に転用されました。江戸城関係最古の金石文と呼ばれています。



平川橋の入口に案内柱が立っています。

平川門

平川門は、江戸城内郭門の一つで、三の丸から城外への出口にあたり、御三家・御三卿はここから登城しました。現在の九段南一丁目や一ツ橋一丁目は、平川村と呼ばれていたため、名付けられました。別名で「不浄門」とも呼ばれるのは、城内の死者や罪人がここから出されたことに由来します。




江島・生島事件は、江戸時代中期に江戸城大奥御年寄の江島(絵島)が歌舞伎役者の生島新五郎らを相手に遊興に及んだことが引き金となり、関係者1400名が処罰された綱紀粛正事件です。正徳四年(1714年)1月12日、時の徳川家第七代将軍である家継の生母月光院に仕える御年寄・江島は、主人の名代として同じ年寄の宮路と共に上野・寛永寺と芝・増上寺へ前将軍家宣の墓参りに赴きました。その帰途に懇意にしていた呉服商の後藤縫殿助の誘いで木挽町(現在の中央区東銀座界隈。歌舞伎座周辺)の芝居小屋の山村座で生島の芝居を見物しました。芝居の後、江島は生島らを茶屋に招いて宴会を開いたが、宴会に夢中になり大奥の門限に遅れてしまいました。大奥七ツ口の前で通せ通さぬの押し問答をしている内にこの事が江戸城中に知れ渡り、評定所が審理することになりました。しかし、審理する理由は門限に遅れたことではなく、大奥の規律の弛緩を重要視したためとなっていて、判決には門限は重要視されませんでした。評定所や江戸中町奉行坪内定鑑・大目付仙石久尚・目付稲生正武らによって関係者が徹底的に調べられ、それにより大奥の規律の緩みが次々と明らかにされました。江島は生島との密会を疑われ、評定所から下された裁決は死一等を減じての遠島(島流し)でしたが、月光院の嘆願により、さらに罪一等を減じて高遠藩内藤清枚にお預けとなりました。連座して、旗本であった江島の異母兄の白井勝昌は武士の礼に則った切腹ではなく斬首、弟の豊島常慶は重追放となりました。江島の遊興相手とみなされた生島は三宅島への遠島、山村座座元の五代目山村長太夫も伊豆大島への遠島となって、山村座は廃座となりました。この巻き添えを食う形で、江戸中にあった芝居小屋は簡素な造りへ改築を命ぜられ、夕刻の営業も禁止されました。この他、取り巻きとして利権を貪っていた大奥御殿医の奥山交竹院とその弟の水戸藩士、幕府呉服師の後藤とその手代、さらには材木商らも遠島や追放の処分を受けるなど、大奥の風紀粛正のために多数の連座者が出され、最終的に50人近くの人が罰せられました。江島は27年間の幽閉(閑居)生活の後、寛保元年(1741年)に61歳で死去し、生島新五郎は寛保二年(1742年)2月に徳川吉宗によって赦免され、江戸に戻りましたが、翌年小網町で73歳で死去しました。ちなみに、不浄門としての平川門を生きた姿で出て行ったのは、浅野内匠頭と江島だけだったそうです。



平川橋を渡った先の小さな広場に、巨石に刻まれた太田道灌公追慕之碑が建っています。その隣には、太田道灌が江戸城を築城したと書かれた案内板が立っています。

1457年
長禄元年
江戸城築城

江戸城は、上杉氏の家臣太田道灌(1432年〜1486年)によりはじめて築かれた。のち、徳川氏十五代の居城となり、明治初年より皇居となった。

Construction of Edo Castle Fortification

The castle of Edo was first built by Ota Dokan (1432-1486). Then it has been the shogun castle of the Tokugawa family for 15 generations, until the first year of the Meiji era, when it became the Imperial Palace.




石碑の碑文は以下の通りだそうです。

太田道灌公追慕之碑

寛正五年春、江戸ノ城将太田道灌公カ上洛参朝ノ際、居城ニ就キ、勅問ニ奉答シタル ノ歌ニ、我庵は松原つつき海ちかく富士の高嶺を軒端よそ見る、ノ一首アリ。城ハ東ニ川ヲ帯ビ、南ハ海ニ臨ミ、西ハ丘陵起伏シテ遥ニ富士ノ秀峰ヲ仰ク。歌ハ誠ニ能ク、其ノ景勝要害ヲ盡クセリ。公名ハ持資関東管領上杉定正ノ重臣タリ。幼ニシテ聰邁尊王ノ志ニ篤ク、文武ノ道ニ通シ、兵馬ノ技ニ精シク、築城ノ術ニ長セリ。長禄元年城ヲ江戸氏ノ館址ニ築キテ、百代名城ノ基ヲ創メタリ。爾来此ニ居ルコト三十年、能ク主家ヲ扶ケテ英名大ニ振ヒ、八州ノ群豪風ヲ望ンデ來リ従ウ。常ニ力ヲ民治ニ效シ、文事ヲ奨メ、徳化四周ニ普ク。遠近ノ士庶陸続トシテ來往シ、店舗軒ヲ連ネ、船舶河口ニ集ル。文明十八年、公ハ讒ニ遭ヒテ相州糟屋ノ主家ニ斃レタリト雖、其ノ城池ハ依然トシテ関東第一ノ形勝タリ。徳川氏ノ覇府ヲ経テ、明治ノ聖代ニ及ヒ、畏クモ皇居ヲ此ニ奠メラレ、江戸ハ東京ト改稱セラレテ、日ニ月ニ殷賑ヲ加ヘ、今ヤ世界第二ノ大都市トナレリ。是レ実ニ端ヲ公ノ築城ニ發シタルモノニシテ千古不朽ノ功業ナリト謂ウヘシ。茲ニ公ノ四百五十年祭ヲ行ウニ方リ、碑ヲ旧城ノ邊ニ建テ、市民ノ永ク遺徳ヲ追頌スルヲ資セントス。

 昭和十一年七月二十六日
 東京市長 牛塚虎太郎


案内板には次のように記されています。

江戸城築城 五百五十年に当たって

左にある「追慕の碑」は、太田道灌公没後四百五十年を記念して建立されましたが、今年は、道灌公が長緑元年(1457年)にこの千代田の地に「江戸城」を築城してから、丁度五百五十年に当たります。この記念すべき時に当たり、都市東京と千代田区の今日の繁栄の基礎を築いたとも言える太田道灌公の遺徳を偲んで、顕彰の標とします。

太田道灌(1432年〜1486年)は、室町中期の武将で歌人。名は、資長(すけなが)、道灌は法名。扇谷上杉家の重臣。1457年、この千代田の地に江戸城を築く。文武両道に優れ、三十数戦して負け知らずの名将だったが、山内上杉家の策謀により主君に暗殺された。江戸時代から語り継がれた山吹伝説の歌が、悲劇の名将の横顔をいまに伝えている。

   七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき




ポイント6 竹橋事件

竹橋御門は、北の丸東の出入口で、元和六年(1620年)に平川門と同じく仙台藩主伊達政宗らによって築かれました。天下祭り(神田明神と日枝神社の例大祭)の山車行列が通過したのもこの門で、既に門は撤去されてしまいましたが、平川門へ繋がる細長い帯曲輪は健在です。御門を通る道は桜田門外の変によって一時閉鎖されましたが、明治三年に再開し、現在の代官町通りへと変遷しています。現在のアーチ型竹橋は、大正十五年に帝都復興事業で架設され、平成五年3月に周辺景観との調和や補強を目的に改修を受け、白・黒・桜のみかげ石の橋に装いを新たにしました。

竹橋門跡

門の名は、竹で編んだ橋が最初に架かっていたことに由来します。門は、元和六年(1620年)、仙台藩(現在の宮城県)藩主伊達政宗ほか6名の大名によって築造されました。この門は、北の丸の東の出入口にあたり、山王社(現、日枝神社)と神田明神(神田神社)の天下祭りの山車行列は、この門を通過しました。竹橋門の石垣の多くは撤去されていますが、この門の脇から平川門に通ずる帯曲輪という通路や濠石垣は良好に残っています。大正拾五年(1926年)に帝都復興事業で架設された現在の橋は、ほぼ江戸時代の橋の位置に架けられています。

Remains of Takebashi-mon Gate

The name of this gate comes from the fact that the bridge (bashi) was originally built of woven bamboo (take). It was constructed in 1620 by the feudal lord of Sendai Han (now Miyagi Prefecture), Date Masamune, and the six daimyo (feudal lords) of the eastern provinces. This gate stood at the eastern entrance and exit to the Kitanomaru (North Keep), and the procession of the Tenka Festival floats from Sannosha Shrine (now Hie Shrine) and Kanda Myojin Shrine (Kanda Shrine) passed through the Takebashi-mon Gate. Many of the stone walls of Takebashi-mon Gate were removed, but the Obiguruwa, the roadway that runs from the side of this gate to the Hirakawa-mon Gate and walled moat, still remains in good condition. The current bridge, constructed in 1926 under the Imperial Capital Construction Project, stands in around the same place as the bridge from the Edo Period (1603-1868).




竹橋御門跡にも案内の石碑が建っています。随分と重厚ですね。

竹橋御門

竹橋御門は、旧江戸城内曲輪15門の一つで天正十八年、徳川家康江戸入国の頃、「竹を編みて渡されしよりの名なり」と、その由来が伝えられているが、他にも諸説あり、竹橋の架設時期と併せ、いずれも定かではない。御門を通る道は、桜田門外の変により一時閉鎖されるが、明治三年再開通し、今の通称代官町通りへと変遷する。遠藤の様子は、時々の社会情勢を色濃く映し、戦後は、都心の交通・文化・観光のアクセスとして発展し、この地を巡る皇居周回ジョギングは、全国的な健康増進気運を高め、親しまれている。現在のアーチ型竹橋は、大正十五年、帝都復興事業で架設され、平成五年3月、周辺景観との調和や補強を目的に改修を受け、白・黒・桜のみかげ石の橋に、装いを新たにした。




竹橋事件は、明治十一年(1878年)8月23日に、竹橋付近に駐屯していた大日本帝国陸軍の近衛兵部隊が起こした武装反乱事件です。竹橋騒動とか竹橋の暴動とも呼ばれています。事件の動機は、西南戦争における財政の削減や論功行賞についての不平でした。大隈邸が攻撃目標とされたのは、彼が行賞削減を企図したといわれていたためです。加えて兵役制度による壮兵制時代の兵卒への退職金の廃止や家督相続者の徴兵の免除なども不満として挙げられていました。7月上旬、かねてから士官に比べ兵卒の恩賞が極めて少ない事に不満を抱いていた近衛砲兵大隊第2小隊馭卒の長島竹四郎は、同馭卒小島萬助と増給を強請せんと論じました。続いて彼らは8月上旬、近衛歩兵第2連隊第2大隊第2中隊兵卒の三添卯之助と接触し、近衛砲兵大隊第1小隊馭卒高橋小三郎・小川弥蔵・東京鎮台予備砲兵第1大隊の兵卒らとも接触しました。反乱の機運は同予備砲兵第1大隊附内山定吾少尉・下副官梁田正直曹長・第1中隊平山荊火工下長(一等軍曹相当官)らの将校下士官をも巻き込み、決起の計画が練られました。近衛鎮台では将校や下士官への不信感から兵卒だけで決起することにしていましたが、東京鎮台予備砲隊では「近頃兵卒は何かと将校を軽蔑する節がある、理非の分別もなく百姓一揆の様な事を起こしては不都合である」との平山火工下長から内山少尉への提案により全隊が決起する予定となり、大隊長の岡本柳之助少佐も決起には絶対反対と言う立場ではありませんでした。この他、近衛工兵中隊の第2小隊にも接触が行われましたが、呼応には至りませんでした。旗を用いて合図を送ったり、「龍興」・「龍野」等の暗号、「龍」→「龍起」・「偶日」→「奇日」などの合言葉を作成するなど、事件は計画的なものでした。内務省の判任官十等属・西村織兵衛は事件の起こる直前の夕方、神田橋の公衆便所で3人の近衛兵が便所の外で叛乱計画の謀議を行っている事を知り、内務省に立ち戻り大書記官武井守正に急を知らせました。この通報により蹶起計画は事前に漏れていましたが、阻止することはできませんでした。8月23日の午後11時、橋西詰にあった近衛砲兵大隊竹橋部隊を中心とした反乱兵計259名が山砲2門を引き出して蜂起し、騒ぎを聞いて駆けつけた大隊長宇都宮茂敏少佐、続いて週番士官深沢巳吉大尉を殺害しました。一方の東京鎮台予備砲隊は、岡本少佐が突如内山少尉の提案を退け静観の姿勢へと転換、午後10時飛鳥山への行軍を開始しました。暴動発生後も参加を勧める部下を抑え、そのまま飛鳥山で宿泊しました。砲兵隊の門前を出ると、既に近衛歩兵第1・第2連隊が出動していて、これらと銃撃戦になりました。戦闘に紛れて反乱軍は大蔵卿大隈重信公邸に銃撃を加え、営内の厩や周辺住居数軒に放火しました。この一時間にわたる戦闘で鎮圧軍側では坂元彪少尉ら2名が死亡し、4名が負傷、対する反乱軍側も6人が死亡し、70名以上が捕縛されました。この戦闘で小銃弾を大幅に消耗してしまった反乱軍は午後12時にやむを得ず天皇のいる赤坂仮皇居へと向かい、集まる参議を虜らえようとしました。この道中で、さらに20余名が馬で駆け付けた近衛局の週番士官の説得に応じて投降、営舍へ戻りました。残る94名は仮皇居である赤坂離宮に到着すると、騒ぎを諌めようとした近衛局当直士官磯林真三中尉に誘導され、正門へ到着し、「嘆願の趣きあり」と叫びました。正門を警備していた西寛二郎少佐率いる近衛歩兵隊が一行を阻止し、武器を渡せと叫ぶと、反乱側代表として前へ出た兵士は一瞬斬り掛る風を見せましたが、士官の背後に近衛歩兵一個中隊が銃を構えているのを見て士気を喪失し、刀を差し出しました。続いて絶望したリーダー格の一兵士大久保忠八が銃口を腹に当てて自決しました。これを潮に、残り全員が午前1時半をもって武装解除し投降ました。蜂起してからわずか2時間半後のことでした。一方、東京鎮台予備砲隊では内山少尉が数名の部下を連れ赤羽火薬庫まで弾薬を取りに行きますが、時既に遅く暴動は鎮圧されていました。同日午前8時、早くも陸軍裁判所で逮捕者への尋問が始められました。裁判長は黒川通軌・評事山川浩中佐・権評事伏谷惇と阪元純煕少佐・参座国司順正中佐・西寛二郎少佐・鑑岡信綱少佐・大島久直少佐が務め、10月15日に判決が下されました。騒乱に加わった者のうち、三添ら55名は同日銃殺刑(うち2名は翌年4月10日処刑)、内山定吾少尉ら118名が准流刑(内山は後に大赦)、懲役刑15名、鞭打ち及び禁固刑1名、4名が禁固刑に処せられました。士官でも岡本少佐のほか、近衛砲兵大隊第2小隊長の津田震一郎大尉・松尾三代太郎騎兵大尉らが官職剥奪で除隊、甲斐宗義大尉が降官、川上親枝中尉・池田綱平少尉・松村恒久大尉らが停職となりました。事件に直接参加していない兵士・民間人1名を含め、全体で処罰を受けたものは394名でした。



紀伊国坂は、竹橋付近から国立近代美術館の前を通り、皇居東御苑の北桔梗門辺りまで上がる坂で、長さが約310mほどあります。坂名は、かつてここに尾張紀伊邸あったことに由来します。



国立近代美術館の前に案内柱が立っています。

紀伊国坂

紀伊徳川家の屋敷があったことから名付けられました。坂道は竹橋門(現在の竹橋駅付近)に通じていました。明治時代になると北の丸に近衛師団司令部が置かれ、煉瓦造りの司令部や兵舎などが建設されました。現在も、司令部は東京国立近代美術館工芸館として保存・利用されています。




ちなみに、国立近代美術館にはフレンチの「ラー・エ・ミクニ」が入っています。三國清三がプロデュースしたレストラン「ラー・エ・ミクニ」は、「芸術と料理」をテーマにフレンチとイタリアンの融合をアートしています。レストランの大きな窓からは四季折々の皇居を彩る自然の風景が眺められます。



北の丸公園は、名前の通り江戸城の北の丸に位置する公園で、園内には国立近代美術館・科学技術館・日本武道館など多くの文化施設があり、旧江戸城の遺構(田安門・清水門)も多く残っています。ビルが立ち並ぶ都心部にあって緑が豊かな場所であり、皇居外苑や日比谷公園などと並んで都会のオアシス的な公園となっています。園内には道路があるため、自動車での乗り入れもでき、有料駐車場も備えています。散策や森林浴・ジョギングやウォーキングを楽しむ人々も多く見られます。

北の丸公園

江戸時代のはじめ、このあたりは関東総奉行内藤清成らの屋敷となり、代官町と呼ばれるようになりました。その後、三代将軍家光の弟、駿河府中藩主徳川忠長や春日局、家光の次男松平長松(のちの甲斐甲府藩主徳川綱重)などの屋敷となりました。さらに享保十六年(1731年)に八代将軍吉宗の次男徳川宗武(御三卿田安家)、宝暦八年(1758年)には九代将軍家重の次男徳川重好(御三卿清水家)がそれぞれ上屋敷を与えられています。安政三年(1856年)には、この絵図にも見られるように田安家・清水家上屋敷のほかに御蔵地、植溜御用地、馬場などがありました。明治維新後、田安家・清水家の上屋敷は一時御用邸となり、その後は近衛歩兵営用地となりました。近衛歩兵営では明治十一年(1878年)、日本初の兵士反乱事件「竹橋事件」が起きています。明治八年(1875年)、ここは東代官町、西代官町となりました。そして明治十二年(1879年)、二つの町が合併して新たに代官町と改称しました。第二次世界大戦後は、森林公園として整備が進められ、昭和四十二年(1967年)、住居表示の実施により北の丸公園と改められました。名称はかつての江戸城北の丸にあたることに由来します。公園は、昭和天皇の還暦を記念して昭和四十四年(1969年)に開園し、園内には日本武道館や科学技術館、国立公文書館、国立近代美術館などがあります。また石垣には国指定天然記念物のヒカリゴケ生育地もあり、都心のオアシスとして親しまれています。

Kitanomarukoen

This area was once known as Daikancho, and was home to various members of the shogun family. After World War II, a new park was built here, which was given the name of Kitanomaru Park, as it was at the north corner of Edo Castle.




ポイント7 ビートルズがやってきた!

日本武道館は、1964年東京オリンピックの柔道競技会場として建設され、同年10月3日に開館しました。日本伝統の武道を普及奨励し、心身錬磨の大道場としての役割を担うことを設立趣旨としています。しかし、武道以外の屋内競技場や多目的ホールとしても利用されています。法隆寺夢殿をモデルにした八角形の意匠で、大屋根の稜線は富士山をイメージしています。江戸城の石垣に使われた巨石に、武道館設立の趣旨が書かれています。

第四十一回國會における衆議院の議決を経て、天皇陛下の御下賜金のもと、國費ならびに全國民の浄財により、青少年心身錬成の大道場として、ここに武道館を創建する。

   旧江戸城由緒ある名石に刻して後世に遺す。




ザ・ビートルズ日本公演は、ビートルズが昭和四十一年(1966年)6月30日(木)から7月2日(土)にかけて日本武道館において行なった計5回の公演です。ビートルズは、1960年代から1970年にかけて活動したイギリスのロックバンドで、20世紀を代表する音楽グループです。音楽誌「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第1位にランクインしていて、経済紙ウォール・ストリート・ジャーナルの統計算出に基づく「史上最も人気のある100のロックバンド」でも1位になっています。グラミー賞を8回受賞・5回ノミネートされています。1957年にジョン・レノンがバンド「クオリーメン」を結成し、1960年に「ビートルズ」に改名しました。1962年10月5日にEMIパーロフォンからデビューし、1970年4月10日に事実上解散しました。ビートルズは、1966年に来日し、6月30日から7月2日にかけてビートルズ唯一の日本公演を行いました。日本航空JL412便(松島号)で前の公演地のハンブルクからロンドンを経由したビートルズは、台風4号のためアンカレッジで一時降機してウェストウッド・ホテルで休養したため、予定より11時間ほど遅れて6月29日の午前3時39分に羽田空港へ到着しました。羽田空港到着時には、早朝にもかかわらず集まった大勢の報道陣やファンが待つ中、日本航空のロゴと鶴丸のついた法被を着てタラップを降り、警察の護衛をつけたリムジンで東京ヒルトンホテル(後のキャピトル東急ホテル)へ首都高速道路経由で向いました。29日午後にはホテル内で記者会見を開き、夜には東芝音楽工業の高嶋弘之に連れられた加山雄三とすき焼きを食しました。公演は6月30日夜および7月1日・2日の昼夜計5回催行されました。会場はすべて日本武道館で、7月1日の昼の部に収録された映像は、当日夜にテレビ番組で放送されました。司会を務めたのはE・H・エリックで、前座として尾藤イサオ・内田裕也・望月浩・桜井五郎・ジャッキー吉川とブルーコメッツ・ブルージーンズ・ザドリフターズが舞台に上がりました。しかしそうした歓待の一方で、日本武道館で初めてポップ・ミュージックを演奏することを批判する者も存在しました。右翼団体の大日本愛国党総裁の赤尾敏を始めとした街宣車や「Beatles Go Home」と書かれた横断幕の前で街頭演説をする者が現れ、更に実際にビートルズ側に対して脅迫を行う者もいました。このため警視庁は大規模な警備体制を取り、会場内においても1万人の観客に対して3千人の警官を配備して監視を行いました。TBS「時事放談」においては、細川隆元と小汀利得の両司会者が「乞食芸人ごときの催しをするのなら武道館ではなく夢の島でやれ」と抗議したほどであり、このことを知ったビートルズファンの視聴者らが番組宛てに抗議の葉書や手紙を寄せるばかりか、同局のスタジオに集まり、この2名に対して逆抗議を起こし、その模様が特別番組化する騒ぎとなりました。また、中・高校生のファンも多数いましたが、明治・大正生まれの年長世代から見ればロック音楽はまだ不良の音楽という印象にしか過ぎないため、中にはこの公演を見学した生徒に対しては停・退学などの厳しい処分を科すという学校も私立校を中心にありました。ファンが殺到することによる混乱を避けるためにビートルズ側の行動も著しく制限され、分刻みの予定管理および日中のホテルからの外出禁止などの措置がとられていました。マッカートニーは行動制限をかいくぐって7月1日の朝に皇居に出かけましたが警察に連れ戻され、またレノンは昼間に表参道と青山の骨董品店を訪れたものの、群衆に発見されたため会計を終えると引き返しました。行動制限の代わりにホテルでは着物屋や土産屋の訪問販売を受け、スーツを採寸しています。レノンが購入した福助人形とソニーのテレビは後の「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」の表ジャケットに登場しています。またこの時採寸したスーツはチェックアウト直前に届けられ、2か月後のアメリカツアーにおける衣装として使用されました。3日間の公演の総観客数は5万人とも2万5千人ともいわれています。


武道館から清水門に向かいます。庭園の中に戦後の日本を復興へと導いた内閣総理大臣吉田茂の銅像が建っています。この銅像は、吉田茂生誕100年を記念して昭和五十三年(1978年)に寄付が募られ、その3年後の昭和五十六年(1981年)に彫刻家船越安武氏によってに建立されました。碑文は、安岡正篤が担当しています。

古来各國史上名相賢宰星羅照映スト雖モ昭和曠古ノ大戦二社稷傾覆生民塗炭ノ苦悩二リ萬世ノ為二太平ヲ開クノ聖旨ヲ奉シ内外ノ輿望ヲ負ウテ剛明事二任シ慷慨敢言英邁洒落能ク人材ヲ擧用シ民心ヲ鼓舞 シテ復興大義二盡瘁セシコト公ノ如キハ實ニ稀代ノ偉動謂フペシ後人相謀ツテ茲二厥ノ像ヲ建テ長ク高風ヲ仰カント欲ス亦善哉



ポイント8 和宮降嫁(かずのみやこうか)

吉田茂像の先から階段が下りています。



清水門は、寛永元年(1624年)に広島藩初代藩主 浅野長晟によって建てられた枡形の城門です。



門名は、昔この辺りに清水が湧き出ていたとか、古くはこの辺りに清水寺があったことからその名をとって清水門と称したともいわれています。北の丸は武家地として利用され、江戸時代中期以降は、御三卿のうち田安家(田安徳川家)と清水家(清水徳川家)の屋敷と蔵地に利用され、北の丸公園の東側一帯は清水家が、西側一帯は田安家がそれぞれ所有していました。

重要文化財 旧江戸城清水門

江戸城は、長禄元年(1457年)に太田資長(道潅)によって創られたとされる。天正十八年(1590年)徳川家康の居城となり、文禄元年(1592年)から大規模な改修が実施され、慶長十二年(1607年)に天守閣が、寛永十三年(1636年)に総構が完成し、大城郭としての形が整えられた。その後、明暦三年(1657年)をはじめ、数度の大火に見舞われものの、城郭の規模は幕末までほぼ維持された。清水門は、北の丸北東部に位置する枡形門であり、正面の高麗門と、その右手奥の櫓門からなる。門の創建年代は明らかではないが、現存の門は高麗門の扉釣金具に残る刻銘から万治元年(1658年)に建てられたものであると考えられている。しかし、櫓門の上部は、時期は不明ながら撤去されていたものを昭和三十六年〜昭和四十一年度の修理で復旧整備したものである。清水門は、建立年代の判明する江戸城の遺構として高い価値を有しており、門から北の丸に至る石段とともに江戸時代の状況を色濃く残している。

Shimizu Gate of the former Edo Castle

Edo Castle (Edo-jo) was built in 1457. Tokugawa leyasu who founded the Tokugawa Shogunate of Japan (1603-1867) started using it as a base in 1590. In 1592, he began large-scale reconstruction work to develop the castle as his residence and administration centre. Shimizu Gate (Shimizu-mon) is located at the northeast part of the north citadel (Kitanomaru). It consists of several parts, including a Korai-mon style outer gate, a Yagura-mon style inner gate, and highly-stacked stonewalls, which form a defensive narrow square. An inscription on the outer gate states that Shimizu Gate was built in 1658. The gate is of high national value as one of the existing buildings at the former Edo Castle whose year of construction can be identified. Shimizu Gate has been protected by the national government as Important Cultural Property since 1961.




案内板には、枡形門の構造と櫓門内部の写真が添えられています。



清水門の西側には牛ケ淵、東側には清水濠が広がっています。

重要文化財建造物
清水門[しみずもん]

清水門[しみずもん]は、中世にこの地にあった清水寺にその名を由来するといわれ、江戸時代には江戸城の一画にとりこまれ、北の丸への出入口として利用されました。この門は、外桝形門[そとますがたもん]という構造で、石垣と水濠で桝形(四角い広場)を造り高麗門[こうらいもん]と渡櫓門[わたりやぐらもん]を配していました。門の創建年代ははっきりしませんが、慶長十二年(1607年)に北の丸普請が行なわれていますので、この時期とも考えられます。寛永元年(1624年)に安芸広島藩主浅野長晟によって修築され、明暦三年(1657年)の大火で焼失したため翌万治元年(1658年)に再修築されています。隣接する田安門[たやすもん]とともに、昭和三十六年(1961年)6月7日付で重要文化財(建造物)に指定されました。門内の北の丸は、武家地として利用され、中期以降は御三卿のうち田安家・清水家の屋敷と蔵地に利用されます。明治から昭和戦前までは近衛歩兵連隊の駐屯地となりました。




案内柱が立っています。

国指定重要文化財
清水門

門の名については、かつて清水が湧き出ていたからという説と、このあたりに清水寺があったからという説があります。最初の建築年代は不明ですが、寛永元年(1624年)、安芸広島藩(現在の広島県)藩主浅野長晟により修築され、明暦三年(1657年)の火事で類焼したと考えられます。徳川御三卿の清水家の名前は、この門内に屋敷地を与えられたことに由来します。




親子内親王は、第百二十代仁孝天皇の第八皇女で、御称号は和宮です。嘉永四年(1851年)に有栖川宮熾仁親王と婚約しましたが、16歳のときに江戸幕府第十四代将軍徳川家茂と政略結婚し、正室(御台所)となりました。その背景には、欧米からの圧力、尊王攘夷派の台頭、公武合体による江戸幕府再建など、様々な立場の思惑がありました。不本意にも徳川家へ降嫁(皇女や王女が皇族・王族以外の者に嫁ぐこと)することになった和宮でしたが、大奥に入ってからは徳川家の存続に尽力し、「江戸城」の無血開城にも大きく貢献しました。家茂の死後には落飾し、静寛院の院号の宣下を受け、静寛院宮と名乗りました。「和宮」は誕生時に賜わった幼名で、「親子(ちかこ)」は、文久元年(1861年)の内親王宣下に際して賜わった諱(いみな:生前の実名)です。孝明天皇の異母妹で、明治天皇の叔母にあたります。

幕末の日本は、まさに海外に門戸を開くかどうかの転換期でした。嘉永六年(1853年)には浦賀にアメリカのペリー艦隊が来航したことで下田と函館が開港となり、さらに安政三年(1856年)には下田にアメリカ総領事のダウンセント・ハリスが着任します。ハリスは江戸幕府に対してアメリカと貿易するよう要求しましたが、江戸幕府内では貿易容認派と否定派で意見が分かれ、なかなか結論を出すことができませんでした。ただ、大陸ではイギリスやフランスが清を侵攻しており、それが日本にも及ぶかもしれない状況でした。ハリスはアメリカが求めるのは貿易だけであり、侵略はしないと日本を説得し続けました。

10回以上にもわたって日米間の交渉が行われた結果、江戸幕府は通商条約締結についてはやむなしという結論に達します。そして、条約を交わすためには天皇の許可が必要になるのですが、朝廷はなかなか条約勅許(条約締結の許可)を出しません。痺れを切らした江戸幕府は最終的に勅許なしで、日米修好通商条約に調印しました。条約は領事裁判権の容認、関税自主権の欠如など、日本に不利な内容であったため、調印の結果、孝明天皇が激怒しただけでなく、民衆の反感も高まっていきました。そのような背景から、江戸幕府は自身の権威回復や尊王攘夷派の批難から逃れるために「公武合体」を唱えるようになりました。公武合体とは、朝廷と江戸幕府が協働して幕藩体制の再強化を図っていく政治論です。そして、そのための具体策として白羽の矢を立てられたのが和宮でした。

江戸幕府は公武合体の象徴として、和宮に降嫁するよう朝廷に申し出ます。しかし、孝明天皇は和宮の政略結婚には断固反対の立場でした。そもそも朝廷側のメリットが薄く、何よりも和宮には有栖川宮熾仁親王という許嫁がおり、関東に行くのも嫌がっていました。それでも幕府はなかなか引き下がりませんでした。最終的に孝明天皇は公武合体路線を容認し、和宮に対して「結婚しないのであれば、1歳の寿万宮(すまのみや:孝明天皇の第三皇女)を降嫁させ、和宮は出家させる」と説得します。幕府に嫁ぐか、寺に入って尼になるかの二択を迫られた和宮は、しぶしぶ降嫁を了承し、最終的に下記のような条件の下で文久二年(1862年)に和宮は十四代将軍徳川家茂と結婚したのでした。
・父の仁孝天皇の回忌ごとに上洛させてもらうこと
・大奥に入っても御所の流儀にのっとって生活ができること
・御所の女官を江戸に付いていかせること
・和宮の降嫁は公武合体のために行われることを世に周知させること
など。

和宮一行は、文久元年(1861年)10月20日に桂宮邸を出立しました。東海道筋では河留めによる日程の遅延や過激派による妨害の恐れがあるとして中山道を江戸へと向かいました。行列は警護や人足を含めると総勢3万人に上り、行列は50キロメートル、御輿の警護には12藩、沿道の警備には29藩が動員されました。和宮が通る沿道では住民の外出・商売が禁じられた他、行列を高みから見ること、寺院の鐘等の鳴り物を鳴らすことも禁止され、犬猫は鳴声が聞こえない遠くに繋ぐこととされ、さらに火の用心が徹底されるなど厳重な警備が敷かれました。

文久元年(1861年)11月15日に皇女和宮一行は清水門を通って北の丸の清水屋敷に入りました。江戸城本丸への入輿を果たしたのは、和宮の婚礼準備を終えた12月11日のことでした。結紺前なので清水門を出て、大手御門より二の丸から大奥に向かいましたが、道中の両側には緋と紺の鍛子の幕を張り廻らし、白昼ながらも灯を点じた台提燈を一間置きに並べ立て、その中を牛に引かせた御所車で進まれました。



千代田区役所の隣のビルに、千代田区観光協会の案内所が入っています。千代田区の「千代田歴史さんぽMAP」のパンフレットを頂いたところです。お陰様で楽しい千代田区のお散歩ができました。



九段会館は、かって軍人会館と呼ばれ、ホール(講堂)やレストラン、宿泊施設などを備え、結婚式や各種のイベントなどに使用されていましたが、平成二十三年(2011年)3月11日に発生した東日本大震災による天井崩落事故の影響で同年4月に廃業しました。令和四年(2022年)10月1日に九段会館のファサードの一部を残した上で、地上17階建て・高さ約75mの複合ビル「九段会館テラス」に建て替えられ、再開業しました。


<<<< 2022年、歴史的建造物を活かした

1934年に完成した「九段会館」は昭和初期を代表する建築物であり、「帝冠様式」と呼ばれる特徴を備え、永く九段下の景観を形成してきました。本プロジェクトはその一部を、真正性を追求しながら保存します。

−−−−−真正性の高い保存と創建時への復元−−−−−

帝冠様式の特徴をよく表す建物北側と東側部分をL字状に保存活用します。免震レトロフィット工法の採用、コンクリートの補修対策、外壁の落下防止対策、部材の保存や転用により、創建時の姿を復原・保存します。




ゴール地点の東京メトロ九段下駅に着きました。



ということで、千代田区で八番目のコースである「Cその1.江戸・東京事件の現場めぐり・丸の内・皇居東御苑コース」を歩き終えました。次は千代田区で九番目のコースである「Cその2.江戸・東京事件の現場めぐり・日比谷・霞が関コース」を歩きます。




戻る