- Cその2.江戸・東京事件の現場めぐり・日比谷・霞が関コース
徳川家康入府によって世界随一の都市に発展した江戸は、今日に至るまで政治や経済の中枢であり続ける。なかでも、皇居や国会議事堂を擁する千代田区は時代を象徴する政治的事件が多発。時代の痕跡を見つけに出かけてみよう。
A 天正十八年(1590年) → 明治十六年(1883年)
江戸・明治の事件現場
天下泰平と呼ばれた江戸時代、一気に西洋化に舵を切った明治時代、それぞれに劇的な事件が繰り広げられていました。時代順にみていこう。
B 大正十年(1921年) → 昭和四十一年(1966年)
大正・昭和の事件現場
大正デモクラシーから戦争、敗戦を経て本格的な民主化へ発展する歴史のなかで政治の中枢だった千代田区内では、デモや暴動、クーデターが多発しました。
コース 踏破記
今日は千代田区の「Cその2.江戸・東京事件の現場めぐり・日比谷・霞が関コース」を歩きます。江戸・東京で発生した様々な事件の現場を訪ね、東京駅から日比谷公園・霞ヶ関を巡って国会議事堂前駅まで歩きます。最初に歩いたのは2022年の4月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年10月に改めて歩きました。
スタート地点:東京駅丸の内南口
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- ポイント1 東京駅宰相襲撃事件(大正十年【1921年】・昭和五年【1930年】)
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二人の首相、東京駅で命を狙われる
東京駅丸の内南口、券売機手前の床面に埋め込まれた小さな●マークは、時の首相・原敬が殺害された現場である。事件発生は、1921年11月4日午後7時25分ごろ。京都で行われる立憲政友会近畿大会に出席するため、改札口へ向かっていたところを飛び出してきた19歳の青年に襲われた。短刀で刺された傷は心臓に達し、数分後に絶命した。党利党略を優先した原の政策に対する怒りが、犯行動機だったという。昭和初期に多発するテロやクーデタ一の幕開けといえる事件だった。
原敬暗殺から9年後、またも東京駅で首相襲撃事件が起こった。1930年11月14日朝9時前、岡山に向かう浜口雄幸首相を銃撃したのは右翼の男だった。事件の半年ほど前、浜口がロンドン海軍軍縮条約を締結したのは統帥権干犯(天皇の権限の侵犯)にあたる、というのが犯行理由だった。浜口は、傷が癒えぬうちに議会に出席させられたため悪化し、翌年8月に他界した。現場となったホームは修復・改造工事などにより失われ、中央通路の一部となった。この通路の途中、新幹線中央乗り換え口への階段近くの柱に、事件概要を伝えるプレートがあり、床面に事件の現場を示す●マークが埋まっている。
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- ポイント2 進駐軍来たる(昭和二十年【1945年】)
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GHQ占領下におかれた日本
終戦直後の8月23日、進駐軍が欧米から続々とやって来た。30日にはアメリカから最高司令官マッカーサ一が到着。日本の占領を主導するGHQ(連合軍最高司令官総司令部)本部が日比谷の第一生命ビル(現・DNタワー21)に置かれ、民主化政策が発せられる。9月27日には、昭和天皇がマッカーサーを訪問。現在、マッカーサー執務室は当時の姿に復原されている。このほか、警視庁や帝国ホテル、明治生命館、九段会館、日本工業倶楽部など、戦渦を免れた多数の建造物がGHQに接収された。
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- ポイント3 鹿鳴館(ろくめいかん)完成(明治十六年【1883年】)
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はかなく散った文明開化の象徴
イギリス人建築家ジョサイア・コンドルの手による鹿鳴館が完成したのは、1883年。開国の際に結んだ不平等な条約改正をめざす外務卿・井上馨の欧化政策の一環だった。現在の帝国ホテルの横に建てられたレンガづくりのこの洋館は、外国貴賓接待や上流階級の社交場となり、舞踏会や園遊会が開かれた。しかし4年後、井上が条約改正に失敗し辞職するとその役目を終えた。
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- ポイント4 浅沼稲次郎暗殺事件(昭和三十五年【1960年】)
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日本を憂いた17歳少年による犯行
10月12日、日比谷公会堂で、自民・社会・民社3党の党首による立会演説会が開かれた。日本社会党(現・社会民主党)委員長・浅沼稲次郎が演説を始めると、短刀を手にした学生服姿の少年が壇上に駆け上がり、2度刺したという。浅沼はすぐに病院に運ばれたが、まもなく息をひきとった。右翼団体・大日本愛国党の党員だった17歳の少年の犯行で、安保闘争の指導的立場にあった浅沼の暗殺を決行したのだった。
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- ポイント5 桜田門外の変(安政七年【1860年】)
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井伊直弼の強引な政策、執拗な弾圧への報復
1860年3月3日、江戸は朝から大雪に見舞われた。江戸幕府の最高実力者であった大老・井伊直弼は、上巳の節句(雛祭り)で登城の途中、桜田門の手前で水戸浪士らによって暗殺された。事件は、大老に就任した井伊が、勅許(朝廷の承認)を得ずに、日米修好通商条約に調印したことに端を発する。幕府の強引な進め方に批判の声が高まると、井伊は、外国を排斥しようとする攘夷論者をはじめ、多数の反対派を弾圧。吉田松陰らの獄死でも知られる「安政の大獄」である。このとき、御三家である水戸藩までも弾圧の対象となった。尊王攘夷思想を抱く一部の過激な水戸浪士らが、これに反発し井伊暗殺に及んだのである。
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- ポイント6 警視庁占拠(二・二六事件)(昭和十一年【1936年】)
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青年将校らのクーデターで戒厳令発令
2月26日未明、日本中に激震が走った。腐敗した政党・官僚・財閥に絶望し、国家改造を夢見る陸軍「皇道派」の青年将校らが約1500人の下士官・兵を率い、都内各地で同時多発的に政府要人の官邸や私邸を襲撃するとともに、首都中枢の占拠を開始。桜田門前の警視庁もおよそ400人の兵士の襲撃により占領され、東京に戒厳令が出された。重臣殺傷に天皇は激怒し、軍首脳が鎮圧に乗り出すと、反乱軍の多くが投降し、4日にわたるクーデターは幕を閉じた。兵士の大多数が計画を知らず、演習と思って参加していたという。
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- ポイント7 安保闘争(昭和三十五年【1960年】)
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日本を揺るがした戦後最大の政治闘争
東西冷戦が激化していた1960年、岸内閣が取り組んだ日米安全保障条約(安保条約)改定の内容が明らかになるにつれ、国民の間に反対の気運が高まった。国会議事堂周辺では連日、安保条約に反対する学生や労働者、左翼グループなどによる大規模な抗議デモが行われた。6月15日には全学連主流派の学生およそ8000人が国会に突入し、警察官と衝突。女子学生ひとりが死亡、数百人が重軽傷を負う事件に発展。6月18日夜も4万人超が国会を取り囲んで抗議するなか、19日午前0時、安保条約は参議院の議決を得ることなく、自然承認に至った。
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- ポイント8 犬養毅暗殺(五・一五事件)(昭和七年【1932年】)
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過激派将校らによる反乱
5月15日午後5時半ごろ、永田町の首相官邸が襲撃された。時の首相・犬養毅は、乱入してきた青年将校らに中国軍閥との金銭問題を追及され、「話せばわかる」と説得を試みたが、将校らは「問答無用」と発砲。2発目の銃弾が頭部を貫き絶命した。首謀者は、首都を混乱に陥れて軍事政権の樹立を企てたのだった。同年3月に三井銀行(現・三井本館)前で三井財閥重鎮團琢磨を暗殺した血盟団の残党と結んでの犯行だったが、目的を果たすことなく幕を閉じた。
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ゴール地点:国会議事堂前駅出入口2
スタート地点の東京駅丸の内南口から歩き始めます。
- ポイント1 東京駅宰相襲撃事件
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と、その前に浜口雄幸首相襲撃事件の現場を見ておきます。ロンドン海軍軍縮条約の枢密院審議を乗り切った浜口内閣でしたが、昭和五年(1930年)11月14日、統帥権干犯に憤った右翼青年佐郷屋留雄によって浜口が狙撃されました。浜口は一命を取りとめましたが、重傷だったために内閣は幣原外相を首相代理として第59議会に臨みました。ところが、政友会は首相不在や幣原が政党員でないことを取り上げて政府を攻撃しました。こうした最中に、ロンドン条約をめぐって幣原が天皇に責任を転嫁するような発言をしたとして議会が紛糾しました。この失言問題が決着すると、浜口首相の議会出席が政治問題化しました。政友会が首相の出席を強く求め、予算審議を拒否したため(予算は成立)、事態を重大視した浜口は病身を押して議会に出席しました。衆議院の大木書記官の日誌にはこの時の浜口と鳩山一郎との質疑応答の模様が記されています。しかし以後健康状態は悪化し、4月14日に浜口は首相を辞職し、第二次若槻礼次郎内閣が成立しました。その4ヶ月後の8月26日に浜口は62歳の生涯を閉じました。現場となったホームは修復・改造工事などにより失われ、中央通路の一部となりました。この通路の途中の新幹線中央乗り換え口への階段近くの柱に事件概要を伝えるプレートがあります。
浜口首相遭難現場
昭和五年11月14日午前8時58分、内閣総理大臣浜口雄幸は、岡山県下の陸軍特別大演習参観のため、午前9時発の特急「つばめ」号の1等車に向ってプラットホームを歩いていた。このとき、一発の銃声がおこり浜口首相は腹部をおさえてうずくまった。かけつけた医師の手によって応急手当が加えられ、東京帝国大学医学部附属病院で手術を受け、一時は快方に向ったが翌昭和六年8月26日死去した。犯人は、立憲民政党の浜口内閣が、ロンドン条約批准問題などで軍部の圧力に抵抗したことに不満を抱き、凶行におよんだものといわれている。
床面には、事件の現場を示す●マークが埋まっています。
東京駅丸の内南口改札を出た券売機の手前の壁に、原敬首相襲撃事件の概要を記したプレートがあります。山手線大塚駅の転轍手だった中岡艮一は、以前から原首相に対して批判的な意識を持っていました。中岡の供述によれば、原が政商や財閥中心の政治を行ったと考えていたこと、野党の提出した普通選挙法に反対したこと、また尼港事件が起こったことなどによるとされています。その他一連の疑獄事件が起きたことや、反政権的な意見の持ち主であった上司の橋本栄五郎の影響を受けたことなどもあって、中岡は首相暗殺を考えるようになったといわれています。1921年11月4日、翌日に予定されていた京都の立憲政友会近畿大会へ出席のために、原は東京駅に午後7時10分頃に到着しました。その後、駅長室に立ち寄り、多数の見送り人に囲まれながら歩いて乗車口の改札口へと向かっていた午後7時25分頃、周囲を取り囲んでいた右側群衆の中から突進してきた中岡艮一が短刀を原の右胸に突き刺し、原はその場で倒れました。凶行に及んだ中岡はその場で逮捕され、原に随行していた望月圭介・元田肇・中橋徳五郎・小川平吉らと東京駅長の高橋らが原を駅長室に運び込み応急処置を施しました。凶変の知らせを受けた夫人が東京駅へ午後7時40分頃に駆けつけ、8時10分頃に自動車で芝公園の自宅へ運んで診察と治療を施しましたが、突き刺された傷は右肺から心臓に達していて、ほぼ即死状態であったということです。
原首相遭難現場
大正十年11月4日午後7時20分、内閣総理大臣原敬は、京都で開かれる政友会京都支部大会におもむくため、丸の内南口の改札口に向っていた。そのとき、一人の青年が飛び出してきて案内にあたっていた高橋善一駅長(初代)の肩をかすめ、いきなり刃わたり5寸の短刀で原首相の右胸部を刺した。原首相はその場に倒れ、駅長室で手当を受けたが、すでに絶命していた。犯人は、原首相の卒(率?)いる政友会内閣の強引な施策に不満を抱いて凶行におよんだと供述し、背後関係は不明であった。
床面には円の内部に六角形の形をした目印が埋め込まれています。
構内に東京駅の歴史を記したパネルが貼られています。
東京駅が誕生するきっかけになった出来事です。
明治の頃
鉄道網の広がりと日本の近代化
明治五年(1972年)、日本で最初の鉄道が新橋〜横浜間に開業しました。木骨石造の新橋停車場は、西洋建築がまだ珍しかった時代に日本の近代化を象徴する場所となりました。その後、新橋〜神戸間、上野〜青森間が全線開業するなど、日本の鉄道網は急速に発展し、明治三十九年(1906年)の鉄道国有法の公布を経て、鉄道網は全国的に広がりました。首都・東京も急速な変化と拡大をとげ、明治二十一年(1888年)には日本初となる大規模な都市計画「東京市区改正条例」が公布されました。翌年、南北に離れて位置するターミナルの新橋駅と上野駅を結ぶ市街高架線を建設するとともに、東京市の中央に停車場を設置する旨が決定されました。市街高架線では烏森駅、万世橋駅が開業するなど、鉄道の発展はますます目覚しく、日本の近代化を推進する大きな力となりました。
大正期の東京駅です。
大正の頃
近代国家の形成・東京駅開業
中央停車場(東京駅)は、ドイツ人技師バルツァーの基本計画を元に、唐津藩(現在の佐賀県唐津市)出身の工学博士・辰野金吾の設計により、明治四十一年(1908年)に着工しました。三菱ヶ原と呼ばれた広大な土地に、基礎の松丸太を打ち込み、鉄骨を組み、埼玉県産のレンガや宮城県産のスレートなどを用いました。そして近代国家として目覚しい発展を遂げた日本の首都・東京の玄関にふさわしい建物が6年の歳月をかけて完成し、大正三年(1914年)12月20日に開業しました。東京駅は日本の鉄道の起点駅になりました。大正十二年(1923年)に関東大震災が発生した際にも、頑丈な構造の東京駅の駅舎に大きな被害はありませんでした。大正十四年(1925年)には上野駅まで線路がつながり、東北本線の起点にもなったほか、電車による環状運転(現在の山手線)も始まりました。
昭和期の東京駅です。
昭和の時代
戦前、戦中そして復興へ
東京駅は、郊外と直接結ばれた通勤輸送で賑わうとともに、長距離輸送の拠点としても発展していきました。昭和四年(1929年)、東京駅発の特急「富士」「桜」が運転を開始、その翌年には“超特急”「燕」も走り始めました。これらの特急から船に乗り換えて大陸へ渡り、鉄道で遠くヨーロッパまで行くことができました。しかし、戦争が激しくなるとともに特急は姿を消しました。昭和二十年(1945年)5月25日から26日にかけて、東京駅は空襲を受けて内部が全焼し、南北のドーム部分は焼け落ちました。戦後の応急的な復興工事で、丸の内駅舎は安全性に配慮し3階建から2階建に、ドームの丸屋根は八角形のピラミッド形に姿を変えました。その後、八重洲口駅舎も整備されました。その後、昭和三十九年(1964年)の東京オリンピック開催や東海道新幹線開業等を経て、大きく発展を遂げた日本の鉄道の拠点として存在感を増していきました。
東京駅の復原工事と今後の展望です。「復元」と「復原」はどちらも「元の状態に戻す」という意味ですが、文化財の分野では異なるニュアンスで使い分けられています。
- 復元
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・過去に存在したが、現在は失われてしまった建造物や文化財を資料に基づいて再現することです。
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・遺跡の発掘調査で確認された建造物を再現する場合や、絵図面や写真などの資料に基づいて再現する場合に用いられます。
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・「消失した建物を元の姿に戻す」というニュアンスを持ちます。新築の建物を「ふくげん」するような意味合いで使われます。
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・例:原始時代の住居を復元する、失われた天守閣を復元する。
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・テレビや新聞などのマスメディアでは、一般的に「復元」が使われます。
- 復原
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現在も存在している建造物が、増改築や改造によって元の姿から変化してしまった場合に、その改造前の姿に戻すことを指します。
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・「現に存在している建物」を対象とし、過去に実際に存在した姿を再現するに足る根拠がある場合に用いられます。
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・「改造された建物を元の姿に戻す」というニュアンスを持ちます。
・例:東京駅の丸の内駅舎の修復工事(創建時の姿に戻す)。
ただし、一般的な辞書では両者の区別なく「元の状態・位置に戻すこと」とされていて、意味的には同じとされています。
東京駅 誕生から百年
保存・復原工事完成〜より速く より遠くへ より快適な旅を
平成時代に入ってからも、平成三年(1991年)に東北・上越新幹線が乗り入れを開始するなど、東京駅は発展を続けてきました。その中で、丸の内駅舎は平成十五年(2003年)に国の重要文化財に指定され、平成十九年(2007年)に、現存する部分を可能な限り保存するとともに、戦災等で失われた部分を創建当時の姿に復原する工事に着手しました。大正から昭和そして平成へ、震災や戦災という幾度の試練をくぐりぬけ、姿を変えてきた駅舎は、平成二十四年(2012年)に工事が完成し、風格ある都市景観を形成することとなりました。また、今回の保存・復原工事完成からおよそ100年前の人々が成し遂げた、近代化を象徴する偉業を今に伝えながら、駅として重要な「安全・安心・快適」を実現する機能も備えました。最新の免震構造など現代日本が誇る技術を導入し、進化を遂げています。これからも東京駅は、日本の首都・東京の玄関として皆様と共にあゆみ、文化を発信し、激動の歴史と人々の思いを次の世代に伝え続ける役割をはたしていくことでしょう。
東京駅丸の内駅舎の復原で最も印象的なのは、北口・南口に聳えるビザンチン様式のドーム屋根です。大正三年創建当時のドーム型天井が復原されたもので、この部分の高さは35mと、中央部(高さ28m)よりも大きくなっています。ドームの内部は中心の円形の部分から8方向に梁が伸びて、梁の先の八角コーナーには左を向く八羽の勇猛な鷲のレリーフが取り付けられ、両翼を広げた約2.1mの大鷲は細部にわたり躍動感にあふれています。翼を広げた鷲のレリーフには、日本から世界に羽ばたく、という意味が込められているといわれています。その周りを囲むように8つの十二支のレリーフが組み込まれています。これは単なる飾りではなく、創建時の意匠に復原されたレリーフで、それぞれの方角を表しているそうです(丑【北東】、寅【北東】、辰【南東】、巳【南東】、未【南西】、申【南西】、戌【北西】、亥【北西】)。十二支を方位に見立てるのは日本古来の習慣で、北を子とし、時計回りに「子丑寅」です。ただし、東京駅ドームの場合は、建物が8角形で、東西南北の正方向には梁が設けられていません。このため、子(北)、卯(東)、午(南)、酉(西)の4種類の動物が省かれています。
また、ドームに沿って2階と3階に回廊が設けられています。3階の回廊部分にはゴシック風の細長い窓が立ち上がり、その上には半円形のアーチ模様が設けられています。アーチとアーチの間には、淡いグリーンの地に十二支のうち八支が彫刻させたメダリオンが配置されています。回廊は、東京ステーションホテルの施設で、3階部分は宿泊者専用ですが、2階部分は宿泊者以外でも上ることができます。
東京駅の駅舎は、平成十九年(2007年)から5年間に亘って行われた保存・復原工事の末、平成二十四年(2012年)に生まれ変わりました。単なる改修ではなく、外壁などの残された部分を「保存」しつつ、ドームなどの失われた部分を「復原」しました。日本近代建築のパイオニアである辰野金吾が設計し、大正三年(1914年)に創建された当時の姿を忠実に再現したのです。外観もさることながら、目に見えない駅舎基礎部分の免震化が最大の工事でした。採用されたのが、上部の躯体に耐震部材を加えたり建物の外観を変えたりせずに、地震に強く安全な建物にすることができる「免震レトロフィット」工法でした。工事をしながら建物を利用することができるため、別名「居ながら工事」とも呼ばれます。歴史的価値の高い建物や業務の一時停止が難しい公共施設に有効とされており、一日に平均約76万人が乗降する駅には最適です。工事に際して、創建当時の駅舎を支えていた約1万本の松杭がほぼ健全な形で残っていたため、地下で松杭にぶつかるたびにそれを除去し、改めて杭打ちの作業を余儀なくされました。免震化工事に要した期間は4年半にも及んだそうです。この免震化により、阪神淡路大震災クラスの巨大地震にも耐えられるとのことです。
免震構造の建物
東京駅丸の内駅舎では、お客さまの安全と重要文化財である建物を地震から守るため、免震工法を採用しています。地震発生時に建物全体がゆっくり動くことがありますので、ご注意ください。(最大30cm程度)
Buildings with seismic isolation system
At Tokyo Station Marunouchi Building, seismic isolation design has been used to protect our customers and this building as an important cultural property from earthquakes. If an earthquake occurs, the entire building may sway slowly, so please use caution. (Maximum displacement about 30cm)
復原に際しては、当時はなかった建材も使用されています。
アルミサッシ【あるみさっし】
創建時の外部建具は木製であったが、今回工事では水密・気密等の性能及びメンテナンス性を考慮して、アルミ製にて復原している。ガラス厚さも創建時と同じ3mmとしており、ホテル客室等については遮音・断熱性能等確保のため、二重サッシとしている。
Aluminum sash
The exterior fittings in the original design were made of wood, but for this
construction, watertight and airtight performance was considered and
restorations were made with aluminum fittings. The glass thickness was kept the same as the original design at 3 mm. For the hotel guestrooms, double glazed sash windows were used to ensure soundproofing and insulation performance.
東京駅丸の内広場の左手には東京中央郵便局、正面には丸ビルと新丸ビル、右手には東京駅の駅舎があります。いずれも建替えられていて(東京駅は改築)、現在はどれも真新しい建物に変わっています。東京中央郵便局は、平成二十四年(2012年)に「JPタワー」として、地上38階・地下4階・高さ約200メートルの超高層ビルになりました。旧局舎の特徴だったなだらかな曲面を持つ外壁の保存を巡って論争が起き、平成二十一年(2009年)に当時の鳩山邦夫総務相が局舎の文化財としての価値を理由に建築計画を問題視し、旧局舎の解体工事を急きょ停止した後、建物外観の保存部分を大きく増やすことで決着しました。当初は無駄な保存と思っていたのですが、今となっては周囲の景観にしっくりと調和しているように思えます。
丸ビルと新丸ビルも下層部分に昔の面影を残しています。現在の丸ビルは平成十四年(2002年)に建替えられ、新丸ビルは平成十九年(2007年)に建替えられました。どちらもJPタワーの建替え前に設計が行われたのですが、旧建物の外観を残したデザインになっているのは興味深いことです。
東京駅丸の内駅前広場に、まるでそこを歩いているような姿の銅像が建っています。日本の鉄道の父と呼ばれるほどの偉人である井上勝の像です。井上勝は幕末に国禁を破って、イギリスに密航した長州五傑の一人です。伊藤博文ほど有名ではありませんが、明治政府の極度の財政難の中、イギリスでの勉学と見聞をもとに、鉄道施設の重要性を説いて新橋〜横浜間に初の鉄道開設を導きました。この銅像は元々丸の内中央出口前の公園にあったのですが、東京駅の改修工事中は撤去・保管されていました。
正二位勲一等子爵井上勝君像
君自明治初年専任創設鐵道之事拮据経營基礎始立盡心斯業抵老不渝四十三年夏力疾訪制歐洲歿子塗次可謂斃而後巳矣茲同志胥謀鋳君像置諸東京車站以傳偉績於不朽云
現在の東京国際フォーラムは、平成三年(1991年)4月1日に東京都庁が西新宿に移転した後、旧庁舎の跡地に建てられました。
東京国際フォーラムの建物の角に旧都庁舎の石碑が建っています。石碑には、「東京府廳舎」と書かれています。
東京都指定旧跡 「東京府庁舎跡」
東京府庁舎は、当初東京市幸橋門内(現在の内幸町一丁目)の旧大和郡山藩邸に開設され、その後明治二十七年(1894年)に丸の内(現在の有楽町駅前)に新たに建設されました。1898年に東京市庁舎も完成し、第二次世界大戦中の1943年に東京市と東京府が廃止され東京都が設置されましたが、この建物は戦災で焼失しました。1955年3月に敷地一帯が、旧跡として東京教育委員会により文化財指定されました。かつて、東京府庁舎があったことを示すものとしては、本石碑だけが残っています。
Tokyo Metropolitan Designated Historical Cultural Asset
Tokyo Prefectural Office Building
The Tokyo Prefectural Office building was established on the former army land located within the gate of Saiwai Bridge (currently 1-chome, Uchisaiwaicho, Chiyoda-ku) in what was Tokyo City at the time. Afterwards, in 1894, the office was newly built in Marunochi (currently in front of Yurakucho Station in Chiyoda-ku). In 1898, the Tokyo Municipal Government Building was also completed, and as Tokyo City and Tokyo Prefecture were abolished in 1943 during World War II and Tokyo Metropolis was established, this building was burned down in the war. As a historical site, this stone monument was registered as a Tokyo Metropolitan Designnated Cultural Asset in 1955.
案内板には、初代の東京府庁と東京市役所の建物の写真が添えられています。まるでヨーロッパの宮殿のような外観ですね。
東京国際フォーラムは外観が総ガラス張りで、展示会やライブコンサートにも使用されている巨大な建物です。敷地の中庭ではよくバザールが開催されています。
東京国際フォーラムが建つこの地には、江戸時代、土佐藩と阿波藩の上屋敷がありました。江戸の町は、徳川家康が慶長八年(1603年)に江戸幕府を開いて以来、今日に至るまで日本の中心として栄えてきましたが、開幕から遡ること約150年前、康正二年(1456年)に江戸城を初めて築いたのが、扇谷上杉氏の家臣であった太田道灌(1432年〜1486年)です。昭和三十二年(1957年)、開都500年を記念して、旧丸の内第一本庁舎の鍛冶橋通り沿いに太田道灌像が設置されました。平成三年(1991年)の新宿への都庁移転、平成九年(1997年)の東京国際フォーラムの建設を経て、像は現在地に再び設置されました。太田道灌は今も、皇居(旧江戸城)の方角を望んで立っています。
In the Edo period, the land now occupied by the Tokyo International Forum belonged to the upper mansions of the Tosa and Awa clans. Ever since Tokugawa leyasu established his government here in 1603, the city then known as Edo has thrived as the administrative center of Japan. But it was about 150 years before that, in 1456, when the first Edo Castle was built by Ota Dokan (1432-1486), a vassal of Ogigayatsu Uesugi. To commemorate the capital's quincentenary in 1957, a statue of Ota Dokan was erected on Kajibashi-dori street, near the former Marunouchi No.1 Metropolitan Government Building. After the relocation of the metropolitan offices to Shinjuku in 1991 and the construction of the Tokyo International Forum in 1997, the statue was moved back its current site. Ota Dokan still stands facing toward the Imperial Palace (formerly Edo Castle).
東京国際フォーラムの中には、太田道灌の彫像と共に、道灌の業績を展示するコーナーが設けられています。ちなみに太田道灌像は、東京の開都五百年を記念し、彫刻家の朝倉文夫氏が制作したものです。
室町時代中期の武将太田道灌(1432年〜1486年)は、江戸城を築き江戸、東京にゆかりの深い人物として知られています。この像は、ここに都庁舎があった昭和三十三年、当地に設置され、長らく都庁のシンボルの一つとして親しまれてきました。
都庁の移転後、ここが東京国際フォーラムとして新たに生まれ変わったことに伴い、平成八年5月、ゆかりの深いこの地に復帰することになり、以前と同様に、居城であった旧江戸城(皇居)を望んでいます。
製作者の彫刻家朝倉文夫氏は、第二次大戦中に旧東京市庁舎から撤去、供出された旧太田道灌像の作者渡辺長男氏の実弟です。
Ota Doukan (1432-1486), a superior commander during the Muromachi Period, was the builder of the Edo Castle.
This statue facing the Imperial Palace, was originally placed in the former City Hall, now the site of the Tokyo International Forum.
Created by Fumio Asakura, this sculpture had been a cherished symbol of the original Tokyo Metropolitan Government Building.
彫像の横には、太田道灌の長文のプロフィールが記されたボードが立っています。
太田道灌のプロフィール
太田道灌(1432年〜1486年)は室町時代中期の武将。30数回戦って負けなしという名将である。関東管領上杉氏の一族で、扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家宰である太田資清(道真)の子として相模で生まれたとされるが詳細については諸説があり定かではない。道灌は出家後の名で、元は資長(すけなが)と言った。鎌倉五山や足利学校(栃木県足利市)で学んだ後、品川湊近くに居館を構え(現在の御殿山あたり)、ここでの通商を押さえて力を蓄えた。政商の鈴木道胤との交わりなど経済面での才覚も示している。父資清を継いで扇谷上杉家の家宰となり江戸城を最初に築城したことで知られ、最後は主君に謀殺されるという、戦国の世をかけ抜けた悲劇の武将でもある。
太田道灌についての伝説は関東一円に様々あるが、もっとも有名なのが山吹伝説だろう。突然のにわか雨に遭って蓑を借りようと立ち寄った家で、出て来た娘は無言で一輪の八重山吹の花を差し出した。道灌はわけがわからず怒って出て行ったが、後で家臣に話をしたところ、それは「七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき」の歌に懸けて、貧しくて蓑(みの=実の)すら持ち合わせず申し訳ありません、と言いたかったのだと教えられた。道灌は自らの教養の浅いことを恥じ、その後は歌を学び、歌人としても後世に名をとどめるという、多才な面をもった武将となった。
この言い伝えを残す場所は数多くあり、都内では豊島区高田の神田川面影橋近くや新宿区山吹町など、そして荒川区荒川七丁目の泊船軒にも山吹の塚がある。新宿区新宿六丁目の大聖院には紅皿というその少女の墓が残っている。また、埼玉県越生町には、山吹の里歴史公園がある。
戦国の世にあって人心の風情を知る人柄や、下克上の世の中ゆえの非業の死から、太田道灌を偲ぶ人は多く、「道灌紀行」の著者尾崎孝氏によると、戦場の数が多いこともさることながら、道灌の銅像は関東一円、周辺を含めて12体もあり、人々の道灌に対する哀惜の思いを語っているということである。
Profile of Ota Dokan
Ota Dokan (1432-86) was a warlord of the mid-Muromachi period, famous for having fought in more than 30 battles without ever being defeated. He is said to have
been born in Sagami, a son of Ota Sukekiyo (Doshin) who was a senior councilor of the Ogigayatsu branch of the Uesugi family, lord of the Kanto region; but there are differing accounts of the details of his origins, which remain unclear. Dokan is the name he took upon becoming a Buddhist monk; his personal name was Sukenaga. After studies in the major Buddhist temples of Kamakura and the Ashikaga Academy (in what is now the city of Ashikaga in Tochigi Prefecture) he established a residence near the port of Shinagawa (near what is now Gotenyama), where he controlled trade and amassed power. He showed considerable talent in economic matters, including his association with the powerful businessman Suzuki Doin. Inheriting his father's position as a senior councilor to the Ogigayatsu Uesugi, he is known for constructing the original Edo Castle. His life ended in a tragedy typical of the Warring States period, when he was assassinated at his lord's behest.
There are many legends associated with Ota Dokan throughout the Kanto region, but perhaps the most famous has to do with yamabuki (the flowering shrub known in the West as kerria). Caught one day in a sudden rainstorm, he stopped at a farmhouse to borrow a straw raincoat. But a young woman there merely held up a double-flowered yamabuki, without saying a word. Baffled and irritated by this, Dokan exited the house. But one of his retainers solved the riddle for him, reciting the following poem: Nanae yae hana ha sakedomo, yamabuki no mi no hitotsu da ni naki zo, kanashiki (It's flowers bloom sevenfold and eightfold / But pity the poor yamabuki, for it bears not a single fruit). The poem contains a pun-mi no hitotsu da ni naki, which means "does not bear a single fruit," can also be read as mino hitotsu da ni naki-which means "does not have a single straw raincoat." In other words, she apologized for not being able to provide even a single straw raincoat due to her poverty. Embarrassed at his own lack of culture, Dokan took to the study of poetry and became a well-known warrior-poet.
A number of different places have been claimed as the site of this encounter: such places in Tokyo include the Takada district of Toshima-ku in the vicinity of Omokage Bridge over the Kanda River; Yamabukicho in Shinjuku-ku; the Hakusenken temple in the Arakawa 7-chome district of Arakawa-ku, which has a stone stele commemorating this legend; and the Daishoin temple in the Shinjuku 6-chome district of Shinjuku-ku, where there is a grave supposed to be that of the young woman, named Benizara. And in Ogosemachi in Saitama Prefecture, there is a park called Yamabukinosato (yamabuki village) Historical Park.
Many remember Ota Dokan for his compassion for the common people of his violent times, and for his tragic death amidst the turmoil of the period. According to Ozaki Takashi, author of Dokan kiko (In Dokan's footsteps), there are 12 bronze statues of Dokan in the Kanto and surrounding regions, and though many are at battle sites, they testify to the sentiments that people still hold for this tragic figure.
関東地方に於ける戦国時代の歴史と太田道灌の果たした役割を記したボードも立っています。
関東戦国史と太田道灌の足跡
享徳三年(1454年)、鎌倉公方足利成氏が関東管領山内上杉憲忠を暗殺したのをきっかけに、関東では利根川を境に室町幕府の関東の拠点である鎌倉を押さえた上杉氏と、下総国古河に追いやられた古河公方成氏が対峙する「享徳の乱」が始まった。この頃、道灌は家督を譲られ、長禄元年(1457年)に千葉氏に対抗する拠点として江戸氏の館があった今の江戸城本丸近くに江戸城を築く。築城の際、現在の赤羽、湯島、品川、川崎夢見が崎等が候補地となったが、地形などを考慮して江戸に決めたとされている。
築城後、日枝神社をはじめ、築土神社、平河天満宮、市ヶ谷亀ケ岡八幡など今も残る数多くの寺社を周辺に勧請した(現在はいずれも移転)。神仏の力を借りるということもあるが、戦国時代にみられる要地に寺社を配して陣所や砦にするという狙いもあった。また、連歌会に招かれた京都の高僧らの記述からは、江戸湊での通商が栄んであったこと、道灌の江戸城が大層堅固で城下町も大変に賑わっていたことなどがうかがわれる。
Ota Dokan's Footsteps and the Warring States Periodin the Kanto Region
In 1454 (Kyotoku 3), Ashikaga Shigeuji, lord of Kamakura, assassinated Uesugi Noritada, who was head of the Yamanouchi branch of the Uesugi family and lord of the Kanto region, touching off a power struggle known as the Kyotoku Incident. The Uesugi family, which seized Kamakura, the Muromachi shogunate's stronghold in the Kanto region, as well as the portion of the region extending to the Tone River, and Shigeuji was forced to retreat to Koga in Shimousa Province. Around this time, Ota Dokan inherited the headship of his family, and in 1457 (Choroku 1) constructed the original Edo Castle, as a stronghold to defend against the Chiba family, near the site which the central keep of the castle would later occupy and where earlier the Edo family had built their residence. Dokan is said to have considered a number of possible sites in the area, including what are now Akabane, Yushima, and Shinagawa in Tokyo, and Yumemigasaki in Kawasaki, but selected Edo for its topography and other advantages.
After building the castle, Dokan encouraged the construction of a number of shrines and temples in the area that remain to this day (though all have been relocated from their original sites), such as Hie Shrine, Tsukudo Shrine, Hirakawa Tenmangu Shrine, and Ichigaya Kamegaoka Hachimangu Shrine. These were in part a supplication for the protection of the gods and Buddha, but in the Warring States period shrines and temples were frequently built on strategic sites for potential use as headquarters or fortresses. High-ranking Kyoto clergy invited to Edo to participate in linked-verse competitions have left records describing Edo as a thriving commercial port, Dokan's castle as an imposing structure, and the town outside its walls as lively and bustling.
最後に、太田道灌のその後について解説したボードが立っています。
道灌の戦績とその後・・・
この頃から道灌を名乗り始め、京都の将軍家から内紛収束を命じられて駿河の今川家に出兵するが、のちに北条早雲と名乗る伊勢盛時と事態の収束策を練って合意している。しかしこの道灌の留守を狙って、今度は道灌と親戚関係にあった長尾一族の長尾景春が山内家の家宰職を得られなかったことを恨み、文明八年(1476年)に挙兵し、上杉家内部の抗争が勃発する(長尾景春の乱)。武蔵五十子(いかっこ、埼玉県本庄市)にいた上杉ー族の敗走をみて道灌はすぐに兵を動かし、まず相模国の景春側の拠点を攻略して後顧の憂いを無くすと、文明九年(1477年)には景春に呼応した豊島氏の軍勢を引くと見せて迎え撃つといった策で江古田・沼袋で打ち破り、さらに本拠地石神井城も陥落させ、武蔵国南部を一気に制圧する。
用土原(埼玉県寄居町)の戦い以後、上野(こうずけ)まで進軍した道灌を前に身動きが取れなくなった景春側をみて同盟関係にあった古河公方は和議を持ちかけている。それでも景春は抵抗していたため、道灌は敵方の有力武将である千葉孝胤を文明十年(1478年)に下総の境根原(千葉県柏市)で破った後、文明十二年(1480年)に最後の拠点である日野城(埼玉県秩父市)を攻め落とし、ついに景春は没落した。この後、古河公方成氏と上杉家との間で和議が成立し、「享徳の乱」は終わった。
道灌の活躍で、主君である扇谷上杉家の勢力は増したが同時にその力を恐れる目も生まれることとなった。文明十八年(1486年)7月26日、扇谷上杉定正の糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招かれた道灌は、風呂に入って出て来たところを暗殺されてしまう。享年55歳。斬りつけられた際、道灌は「当方滅亡」と叫び、上杉家の没落を予言したが、その後1年も経たないうちに山内家と扇谷家は戦端を開き20年に亘る長享の乱が勃発する。その隙を突いて伊豆にいた北条早雲が関東に進出し、その後裔である北条氏康に上杉家は関東を追われてしまうのである。
Dokan's Military Exploits and Their Aftermath
It was about this time that Ota took the name Dokan. Ordered by the shogunate in Kyoto to send troops to quell an internal conflict that had erupted among the Imagawa family of Suruga, Dokan agreed on a practical plan for resolving the issue in consultation with Ise Moritoki (later known as Hojo Soun). However, while Dokan was away from Edo, Nagao Kageharu (of the Nagao clan, a family related to Dokan's) was resentful at not being made a senior councilor of the Yamanouchi Uesugi, and in 1476 (Bunmei 8) raised troops in an internal revolt of Uesugi family vassals known as the Nagao Kageharu Rebellion. Encountering retreating elements of the Uesugi family at Musashi Ikakko (now the city of Honjo in Saitama Prefecture), Dokan immediately sent troops to capture the stronghold of Kageharu's forces in Sagami Province. To remove any future threats, in 1477 (Bunmei 9), he defeated the forces of Kageharu's allies, the Toshima family, at Egota Numabukuro by feigning a withdrawal and then counterattacking. He then laid siege to their headquarters at Shakujii Castle and captured it, making himself master of southern Musashi Province.
After the battle of Yodohara (now Yoriimachi in Saitama Prefecture), Ashikaga Shigeuji, who had allied with the forces led by Nagao Kageharu, saw that they had been immobilized by Dokan's advance into Kozuke Province, and sued for peace. Even so, Kageharu continued his resistance. In 1478 (Bunmei 10), Dokan defeated one of Kageharu's more powerful generals, Chiba Noritane, at Sakainehara in Shimousa Province (now the city of Kashiwa in Chiba Prefecture), and in 1480 (Bunmei 12) dealt the final blow to Kageharu's fortunes by capturing his last stronghold, Hino Castle (in what is now the city of Chichibu in Saitama Prefecture). After this, peace was made between Ashikaga Shigeuji and the Uesugi family, and the Kyotoku Incident was finally brought to an end.
Dokan's exploits had augmented the power of his overlords, the Ogigayatsu Uesugi, but had also made him a force to be feared in his own right. On July 26, 1486 (Bunmei 18), Dokan was assassinated just as he was leaving the bath at the mansion of Uesugi Sadamasa, head of the Ogigayatsu Uesugi, in Kasuya (now part of the city of Isehara in Kanagawa Prefecture). He was 55 years old. As he was being cut down, Dokan shouted "You will be your family's downfall!" This prediction of the fall of the Uesugi family was followed in less than a year by the outbreak of the Chokyo Disturbance, commencing 20 years of warfare between the Yamanouchi and Ogigayatsu branches of the Uesugi family. Seizing this opportunity, Hojo Soun made inroads into the Kanto region from his base in Izu, and his grandson Hojo Ujiyasu would eventually drive the Uesugi family from the Kanto region altogether.
江戸城について解説してあります。
江戸城
■天守建築年:寛永十五年(1638年)
■天守建築主:徳川家光
■主な城主: 徳川家康 徳川秀忠 徳川綱吉 徳川吉宗
■現状: 天守台のみ現存
江戸城は室町時代に太田道灌が築いた古城だったが、天正十八年(1590年)に徳川家康が入城して以来、徳川氏の本城となった。江戸城天守は3度建てられており、その初代天守は家康が慶長十二年(1607年)に創建、二代目天守は二代将軍秀忠が元和九年(1623年)に位置を変えて建て替えた。三代目天守は、三代将軍家光が父秀忠の天守を解体し、外観を変えて建て直したものだったが、明暦三年(1657年)の江戸大火(振袖火事)で焼失した。その後は天守台の石垣だけが再築され、天守本体の再建は見送られた。家光の江戸城天守は、外観は五重、内部は地上五階、地下一階で、天守台上に44.8m(15階建てのマンションに匹敵)の高さで聳えた。日本史上最大の天守である。屋根は銅瓦で葺き、壁は銅板張りで、屋根の頂には黄金の板を張り付けた金鯱が輝く。攻撃装置を一切見せない上品な天守で、天下泰平の象徴だった。
Edo Castle
Construction of main keep: 1638 (Kanei 15)
Construction of main keep ordered by: Tokugawa Iemitsu
Principal castellans: Tokugawa Ieyasu, Tokugawa Hidetada, Tsunayoshi, Tokugawa Yoshimune
Present condition: Only the stone foundation walls remain
An older castle was built on the site of Edo Castle by Ota Dokan in the Muromachi period (late 15th century). Tokugawa Ieyasu took possession of the castle in 1590, and from that time onward it was the headquarters of the Tokugawa house. The main keep of Edo Castle was built and rebuilt three times: the first time, by Tokugawa Ieyasu, in 1607 (Keicho 12). The second shogun, Tokugawa Hidetada, rebuilt the keep in a different location within the castle grounds in 1623 (Genna 9). The third version of the keep was built by the third shogun, Tokugawa Iemitsu, who had his father Hidetada's keep dismantled and reconstructed with a different exterior design-but this structure was destroyed in the great Meireki Fire of 1657 (Meireki 3). After that, the stone foundation walls were rebuilt, but the keep itself was never again to be reconstructed.
Iemitsu's keep was five stories tall, with five interior floors above grade and one underground. The tower structure rose an imposing 44.8 m above the foundation walls-the equivalent of a modern 15-story building. It was the largest castle keep in Japanese history. The roofs of the structure were clad in copper tiles and the walls were also finished with copper plates. The roof peaks were surmounted by a pair of gold plated dolphin figures (kinshachi). This elegant keep, which actually had no apparent defenses against attack, was emblematic of the Pax Tokugawa.
東京国際フォーラムについて解説してあります。
東京国際フォーラムが建つこの地には、江戸時代、土佐藩と阿波藩の上屋敷がありました。江戸の町は、徳川家康が慶長八年(1603年)に江戸幕府を開いて以来、今日に至るまで日本の中心として栄えてきましたが、開幕から遡ること約150年前、康正二年(1456年)に江戸城を初めて築いたのが、扇谷上杉氏の家臣であった太田道灌(1432年〜1486年)です。昭和三十二年(1957年)、開都500年を記念して、旧丸の内第一本庁舎の鍛冶橋通り沿いに太田道灌像が設置されました。平成三年(1991年)の新宿への都庁移転、平成九年(1997年)の東京国際フォーラムの建設を経て、像は現在地に再び設置されました。太田道灌は今も、皇居(旧江戸城)の方角を望んで立っています。
In the Edo period, the land now occupied by the Tokyo International Forum belonged to the upper mansions of the Tosa and Awa clans. Ever since Tokugawa leyasu established his government here in 1603, the city then known as Edo has thrived as the administrative center of Japan. But it was about 150 years before that, in 1456, when the first Edo Castle was built by Ota Dokan (1432-1486), a vassal of Ogigayatsu Uesugi. To commemorate the capital's quincentenary in 1957, a statue of Ota Dokan was erected on Kajibashi-dori street, near the former Marunouchi No.1 Metropolitan Government Building. After the relocation of the metropolitan offices to Shinjuku in 1991 and the construction of the Tokyo International Forum in 1997, the statue was moved back its current site.
Ota Dokan still stands facing toward the Imperial Palace (formerly Edo Castle).
有楽町の駅前広場に「南町奉行所跡の碑」が建っています。宝永四年(1707年)から幕末まで、数寄屋橋門内の此の地に南町奉行所が置かれ、「大岡越前守忠相」が南町奉行を約20年間務めていました。南町奉行所は老中の支配下にあり、江戸町人地の行政・司法・警察などの職務を担っていた組織です。大岡越前守忠相は、八代将軍徳川吉宗の側近として「享保の改革」を支え、江戸市中の行政に携わりました。石碑の横には、当時の「石組下水溝」が復元展示されています。
東京都指定旧跡
南町奉行所跡
江戸町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつでした。その職掌は、江戸府内の行政・司法・警察など多方面に及び、定員二名で南北両奉行に分かれ月番で交代に執務していました。名奉行大岡越前守忠相は、享保二年(1717年)から元文元年(1736年)にかけて南町奉行としてここで執務をしていました。南町奉行所は、宝永四年(1707年)に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にありました。その範囲は、有楽町駅および東側街区一帯にあたり、平成十七年の発掘調査では、奉行所表門に面した下水溝や役所内に設けられた井戸、土蔵などが発見されました。また、「大岡越前守御屋敷」と墨書きされた荷札も出土しました。再開発事業では、石組下水溝の一部をここに再現するとともに、石材を事業地内でベンチなどに活用しています。
Minami-machi Magistrate's Office
Edo-machi Magistrate's Office was one of the three Magistrate's offices
during the Tokugawa Feudal Government. Ookaechizennokami Tadasuke, well-known Magistrate, worked for Minami-machi registrate's office as a Head of the magistrates between Kyoho 2 year (1717) and Genbun,1 year (1735). During the archeologic research in Heisei 17 (2005), the drainage system along the Magistrate's office's main gate and the storage made of clay were found. Stone built Drainage system was reconstructed and the stone was used for the benches in the redevelopment project.
地下広場に降りると、そこには南町奉行所内に掘られた「穴蔵(地下室)」が壁に立てて展示されています。この穴蔵からは、伊勢神宮の神官が大岡忠相に宛てた木札が出土しました。両脇にある木製ベンチは、「木樋(江戸時代の水道管)」を再利用したものです。
南町奉行所跡から発見された穴蔵
この板枠は、ここの再開発に伴う遺跡発掘で発見された「穴蔵」を、壁に立てて展示したものです。この穴蔵は、江戸時代中期の南町奉行所内に掘られて(い)た地下室で、なかから伊勢神宮の神官が大岡忠相の家臣に宛てた木札が出土しました。また遺構両脇の木製ベンチには江戸時代の水道管(木樋)を、向かいの石のベンチには奉行所の石組材を再利用しました。穴蔵の構造は、厚い板材を舟釘で留め、隠し釘となるように端材を埋め、板材の間には槇肌(木の皮)を詰めて防水処理をしています。また、壁板の一辺には水抜き穴があき、そこから竹管が延びて桶に水が溜まる構造となっています。ここがかつて町奉行大岡越前守がつとめた南町奉行所(東京都旧跡)であったことや、江戸時代の技術などを伝えるために設置しました。
有楽町の案内板が立っています。
ぼくの有楽町 童門冬二
ぼくにとって戦前の有楽町は“高級な街”だった。朝日・毎日・読売の大新聞が毎日、知識の生産をつづけている。日劇(日本劇場)や東京宝塚劇場などの高級劇場が林立している。「山手線の環外は東京でも田舎だ」といわれていた。その環外に住むぼくにとって、有楽町はまさに“遠くに在りて思うもの”だった。それが突然「きみたちもおいでよ」という庶民的な街に変質したのは、なんといっても大阪からの「そごうデパート」の進出である。昭和三十二年(1957年)五月のことで、エスカレーターやエアカーテンが珍しかった。そして一躍その変貌ぶりをアピールしたのが、フランク永井の歌う“有楽町で逢いましょう”だ。本当はデパートのCMソングだそうだが、そんな気配はみじんもない。銀座と並んで日本の街にした。ちかくの都庁に勤めていたぼくは“すし屋横丁”の常連であり、いまでもその跡を懐かしく訪ねる。現実を超えて、有楽町はぼくの脳裡にしっかり根づいている。
のうり
有楽町
「有楽町」の名前は、戦国時代に活躍した武将、織田信長の弟、織田有楽斎(長益)に由来します。茶人としても名をはせた有楽斎は関ヶ原の戦いのあと、徳川家康方に属し、数寄屋橋御門の周辺に屋敷を拝領しました。その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代に「有楽町」と名付けられたのです。その「数寄屋橋御門」の名前は、外堀を渡ると数寄屋町に通じることから生まれました。江戸時代、大岡越前による、いわゆる「大岡政談」で有名な南町奉行所があったのもこのあたりです。
Yurakucho
This neighborhood was named after Oda Urakusai, a younger brother of the Civil War Era-warlord Oda Nobunaga. Urakusai, who was also renowned as a tea master,
received a residence from the shogun under whom he served after the great Battle of Sekigahara. Since Urakusai's residence was located at Sukiyabashi Gomon,
the town was called Yurakucho.
明治元年に撮られた数寄屋橋御門と数寄屋橋の写真が壁に貼られています。
晴海通りに面して、複合商業施設の有楽町センタービル(愛称は「有楽町マリオン」)が建っています。江戸時代には、この地に南町奉行所がありました。旧朝日新聞東京本社・旧日本劇場(日劇)・旧丸の内ピカデリーがあったため、朝日新聞社・東宝・松竹が所有権を持っていました。現在は、三社が共同出資して設立した有楽町センタービル管理株式会社が建物を管理しています。愛称の「マリオン (mullion)」は、英語で建築用語の方立(ほうだて)を意味し、ガラス窓を縦に仕切る建具を指します。巨大なガラス建築を縦に2分割した構造から名付けられました。
有楽町マリオンの壁面に「マリオン・クロック」と名付けられたからくり時計が設置されています。形状は懐中時計で、1984年10月の開業に合わせて数寄屋橋側のファサード中央部に設置されました。時計の下は「ハッピーな待ち合わせの場の異名を持っていて、左右に並ぶ映画館や朝日ホールのポスターと共に、40年近くにわたりマリオン周辺の顔となっています。午前10時から午後10時までの12時間、毎正時に直径2.6mの時計盤が上昇して約4分半弱の間からくり演出を行っています。
朝日新聞記念会館も入っています。
朝日新聞東京本社跡
朝日新聞社は明治十二年(1879年)大阪で創業。九年後に東京に進出し、本拠を現在の銀座六丁目に置いた。社勢の伸張に伴って、ここ有楽町に東京本社を移したのは、関東大震災の復興なお半ばの昭和二年(1927年)三月であった。その建物は当時の最高傑作とうたわれ、外濠に影を落とした景観は東京の新名所となった。以来半世紀戦争と敗戦をふくむ波乱の時代を通じて、朝日新聞の言論・報道活動の中心であり続けた。今日、世界有数の新聞となるに至った歴史は、この有楽町の地を抜きにしては語り得ない。しかしながら、社業の発展とともに社屋の狭隘と不便さは限度に達し、昭和五十五年(1980年)九月をもって築地に移転した。創業者村山龍平はじめ万余の社員・関係者の汗と感慨のにじむこの地に、新時代を象徴する巨棟を建設したのを機に、一文を掲げて素永く記念するものである。
JR線のガード下に、まんぷく食堂があります。有楽町はガード下呑み文化発祥の地で、まんぷく食堂は先代オーナーが大好きだった昭和三十年代をテーマに、“レトロで新しい”店構えと食事で幅広い年代の人たちに親しまれています。
- ポイント2 進駐軍来たる
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第一生命保険会社は、大正十年(1921年)から同年に竣工した京橋の第一相互館を本社屋としましたが、業容の拡大により手狭となったため、新社屋を建設することとなりました。関東大震災で倒壊した警視庁跡地が民間に払い下げられていましたので、会社は建設用地として4区画中L字型の3区画を取得しました。残りの1区画は既に産業組合中央金庫(現在の農林中央金庫)に買い取られていたため、会社は土地を譲渡するよう交渉しましたが承諾されず、昭和八年(1933年)に農林中央金庫有楽町ビルが完成しました。新社屋の設計図案は公募され、168案の中から10案が優秀賞に選ばれました。この10案を参考にして、建築家の渡辺仁と第一生命の技師で営繕課長だった松本興作の二者で実施設計が着手されました。しかし、敷地はかつて日比谷入江であったために軟弱な地盤でした。ボーリングの結果、地下70尺の第3紀層まで基礎を掘り下げなければ耐震の建物が建てられないという結論が得られました。更に、日比谷濠の水が地下部分の工事中に流入する恐れがあることから、当時としては画期的な潜函工法による施工が計画されました。昭和九年(1934年)8月22日に地鎮祭が執行され、昭和十二年(1937年)4月19日に上棟式が行われ、昭和十三年(1938年)11月3日に竣工しました。
太平洋戦争中は陸軍により東部軍管区司令部が置かれ、屋上に高射砲陣地が設置されました。終戦後は占領軍に接収され、昭和二十七年(1952年)7月に返還されるまで連合国軍最高司令官総司令部として使用されました。平成元年(1989年)12月にDNタワー21を建設する再開発のため、本建物の東寄り部分は隣接する農林中央金庫有楽町ビルとともに、それぞれの方法で一部が外壁保存された上で取り壊され、跡地にはDNタワー21の高層棟(新館)が建ちました。平成五年(1993年)10月1日には本建物の西寄り部分の改装工事に着手され、平成七年(1995年)9月18日に完工しました。
東京都選定歴史的建造物
DNタワー21(旧第一生命館)
所在地 千代田区有楽町一丁目13番1号
設計者 渡邊仁、松本與作
建築年 昭和十三年(1938年)
皇居のお堀端に臨んで建つこの建物は、古典的骨格をもちながら、装飾を排し、稲田産花崗岩による重量感のある壁体で構成されている。建物の意匠は洋式建築の名手と言われた渡邊仁の作品で、無表情ともどれる表現の中に力強さを感じさせる。技術的には我が国最初の潜函工法で地下4階まで掘り下げられ、都市防空の上でも十分爆撃に耐える建築と言われた。戦争中は屋上に高射砲陣地が築かれ、戦後は連合国総司令部(GHQ)がおかれ、マッカーサー総司令官の執務室が残されるなど、日本の昭和史を彩る建物とも言える。東南側に隣接していた農林中央金庫旧有楽町ビル(渡邉仁設計による古典様式建築)とあわせ、皇居側の形態保存、さらに農林中央金庫側の外壁保存を伴なって、歴史的建築物保存による特定街区の適用を受け、DNタワー21として再生された。
- ポイント3 鹿鳴館(ろくめいかん)完成
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鹿鳴館は、明治十六年(1883年)に日本の外務卿井上馨による欧化政策の一環として建設された西洋館です。国賓や外国の外交官を接待するため、外国との社交場として使用されました。鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」、欧化主義が広まった明治十年代後半を「鹿鳴館時代」と呼んでいます。欧米諸国との間の不平等条約を改正する目的がありましたが、明治二十年(1887年)に条約改正の失敗で井上が辞職したことで、明治二十三年(1890年)からは華族会館として使用されるようになりましたが、昭和十六年(1941年)に取り壊されました。鹿鳴館の建設地は内山下町の旧薩摩藩装束屋敷跡(現在の帝国ホテル隣のNBF日比谷ビル【旧大和生命ビル】)に決まり、明治十三年(1880年)に着手され、途中で規模拡大があり、3年がかりで明治十六年(1883年)7月に落成しました。設計はお雇い外国人のジョサイア・コンドルで、施工は土木用達組(大倉喜八郎と堀川利尚との共同出資で設立した組織。大倉喜八郎が創立した大倉組商会の建設部門は大成建設株式会社の源流です)が担当しました。煉瓦造2階建てで1階に大食堂・談話室・書籍室など、2階が舞踏室で3室を開放すると、100坪ほどの広間になった他、バーやビリヤードも設置されていました。ホテルとしての機能も持ち、1階と2階に20室ほどの客室を備えていました。井上馨がお雇い外国人として招聘したドイツの建築家ヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンが明治二十年(1887年)に宿泊した記録が残っています。日本ボールルームダンス連盟により、鹿鳴館の開館日にあたる11月29日はダンスの日に制定されています。
鹿鳴館跡
ここはもと薩摩の装束屋敷の跡であって、その黒門は戦前まで国宝であった。この中に明治十六年鹿鳴館が建てられ、いわゆる鹿鳴館時代の発祥の地となった。
- ポイント4 浅沼稲次郎暗殺事件
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日比谷公会堂は、日本で最初の本格的なコンサートホールであり、東京都選定歴史的建造物・東京都指定有形文化財(建造物)に選定されています。現在は耐震性に問題があり、改修のため2016年から休館していますが、開館100年となる2029年に利用が再開される見通しになっています。日比谷公会堂は、市政会館との複合建築(地下1階・地上6階・塔屋4階建)であり、事務所棟にあたる市政会館部分と大講堂を持つ公会堂部分は丁字形に配置されています。建物は日比谷公園南東隅にあり、市政会館が南側の道路に面して建っているのに対して、公会堂は北側の公園に突出するように設計されています。公会堂の入口は公園側にあり、2階をバルコニーとして、公園内の庭園と一体のデザインとなっています。
建物の外観は、茶褐色のスクラッチタイルで覆ったネオ・ゴシック様式になっています。建物は指名設計競技で一等となった佐藤功一の設計になるもので、昭和四年(1929年)に竣工しました。関東大震災の教訓から、地盤は2千本を越す松材で固められています。
東京都選定歴史的建造物
日比谷公会堂・市政会館
所在地 千代田区日比谷公園1−3
設計者 佐藤功一
建築年 昭和四年(1929年)
大正九年(1920年)に東京市長に就任後、東京市政のための中正独立の調査機関設置を構想した後藤新平は、大正十一年(1922年)に東京市政調査会を設立して自ら会長となった。後藤は、安田財閥・安田善次郎の寄付を受け、日比谷公園内に公会堂を付置した会館を建設し、会館は調査会が使用し、公会堂は東京市の管理に委ねることとした。これが、現在の市政会館と日比谷公会堂である。建物は、著名な建築家8名による指名設計競技の結果一等に当選した佐藤功一の設計をもとに、本格的なホールを備えたわが国最初の施設として、昭和四年(1929年)に竣工した。全体が茶褐色のタイルで覆われたネオ・ゴシック様式で、建物中央に時計塔がそびえたつ。一部の窓に使われた黄色テラコッタが、垂直性を強調したデザインにアクセントをつけている。
日比谷公会堂は戦前から政治演説会や国民大会が数多く行なわれた場所で、昭和三十五年(1960年)10月12日に起きた17歳の右翼少年山口二矢による日本社会党中央執行委員会委員長(日本社会党党首)浅沼稲次郎暗殺事件は、日比谷公会堂で開催された自民党・社会党・民社党3党首の立会演説会の出来事でした。近く解散・総選挙が行われる情勢の中で、日比谷公会堂ではこの日、自民党・社会党・民社党3党党首立会演説会「総選挙に臨む我が党の態度」が行われていました。会場は2500人の聴衆で埋まり、民社党委員長西尾末広・日本社会党委員長浅沼稲次郎・自由民主党総裁池田勇人の順で登壇し演説することになっていました。浅沼は午後3時頃演壇に立ち「議会主義の擁護」を訴える演説を始めましたが、直後に右翼団体の野次が激しくなり、「中ソの手先、容共社会党を打倒せよ」などと書かれたビラを撒く者も出始めました。司会を務める小林利光(NHKアナウンサー)は「会場が大変騒々しゅうございまして、お話が聞きたい方の耳に届かないと思います。だいたいこの会場の最前列には新聞社関係の方が取材においでになっている訳ですけれども、取材の余地がないほど騒々しゅうございますので、この際、静粛にお話を伺いまして、この後、進めたいと思います」と自制を求めると、場内は拍手が沸き上がり、一瞬野次は収まった。それを見計らって浅沼は自民党の選挙政策についての批判演説を続けました。浅沼が「選挙の際は国民に評判の悪い政策は全部伏せておいて、選挙で多数を占むると・・・」と言いかけた午後3時5分頃、山口が壇上に駆け昇り、持っていた刃渡り約33センチメートルの脇差様の刃物で浅沼の左脇腹を深く、左胸を浅く突き刺しました。浅沼はよろめきながら数歩歩いたのち倒れ、駆けつけた側近に抱きかかえられて直ちに病院に直行しました。秘書官は浅沼の体を見回し、出血がなかったことから安心しましたが、それは巨漢ゆえに傷口が脂肪で塞がれたために外出血が見られなかっただけのことであり、実際には一撃目の左脇腹に受けた深さ30センチメートル以上の刺し傷によって背骨前の大動脈が切断されていました。内出血による出血多量によりほぼ即死状態で、近くの日比谷病院に収容された午後3時40分にはすでに死亡していました。山口は現行犯逮捕されました。事件発生直後に大日本愛国党総裁赤尾敏らが壇上に駆け上がり、三党の党首のみに演説させることについて司会者に向かい抗議を始めました。また壇上のマイクで「共産党にもやらせろ」と主張する男も現れ、主催側は休憩にするとして幕を下ろしました。会場では「浅沼は病院に担ぎ込まれたが傷は大したことはない」という噂が飛び込み、主催者と各陣営の間で「西尾と浅沼が演説したのに池田ができないのは不公平」「浅沼の演説が中断させられたのに池田が演説するのは不公平」といった議論となりました。しかし浅沼が死亡したという新聞社からの未確認情報が首相秘書官に伝えられたこともあり、演説会は中止と決まりました。事件は少年の狙いの逆効果となり、事件前に日本社会党は党内の反共社会主義である民主社会主義派が民主社会党を創設という党内分裂もあり、議席減が予想されていましたが、事件による同情の影響で1960年11月の衆議院総選挙で3党のうち民社党のみ議席を減らし敗北しました。民社党か社会党どちらが野党第一党となるかを決めた事件であり、日本社会党による野党第一党の地位獲得による55年体制確立の原因となりました。尚、犯人の山口二矢は事件の3週間後の11月2日夜に東京少年鑑別所の単独室でシーツで首を吊って自殺しました。
日比谷公会堂の向かいに、日比谷野外音楽堂があります。日比谷野外音楽堂は、都立の野外音楽堂で、大小二つの音楽堂があり、正式名称はそれぞれ「日比谷公園大音楽堂」及び「日比谷公園小音楽堂」です。明治三十八年(1905年)に日本初の野外公会堂として音楽堂が完成し、その後大正十二年(1923年)7月により大型の大音楽堂が完成したことで、先にできていた音楽堂は小音楽堂と呼ばれるようになりました。大音楽堂は「日比谷野音」・「野音」と略称・通称されます。ステージ以外に屋根がなく、楽屋が狭いなど施設として不利な面もありますが、開放的な空間で「音がどこまでも飛んでゆく」という評価もあり、著名なミュージシャンのコンサートが多く開かれました。「音楽の聖地」・「ロックの聖地」・「フォークの殿堂」と呼ばれています。現在の大音楽堂は昭和五十八年(1983年)に完成した三代目ですが、施設の老朽化のため2025年10月に休館し、都建設局の「都立日比谷公園再生整備計画」の一環として建て替えられる計画です。公演での主な出来事として、キャロルの解散コンサートでの電飾が焼け落ちる炎上事件・1977年7月のライブ終盤で突然行なわた伊藤蘭の「普通の女の子に戻りたい」発言によるキャンディーズの解散宣言・尾崎豊のステージ飛び降り骨折事件などがあります。
噴水天国ともいわれるほど噴水で有名な日比谷公園内には、5つの噴水があります。西幸門に面した「かもめの広場」には鴎の噴水があります。噴水の中央にあるのが淀井敏夫氏による「鴎」と題された東京都の鳥になっているユリカモメのオブジェです。この作品は「うかぶ雲、海鳥たちの訪れ、時の流れを告げる古い貝殻」をイメージしています。噴水を覆うように植樹された木々は、都道府県の樹木が植えられた「郷土の森」です。
雲形池にある鶴の噴水は日比谷公園の開園以来公園のシンボルになっています。戦時中は噴水が外され池も埋め立てられましたが、戦後再び据え直されました。秋の紅葉シーズンには、周囲の木々が美しく色づきます。
鶴の噴水
この噴水は、明治三十八年(1905年)頃東京美術学校(現在の東京芸大)の津田信夫、岡崎雪声両氏に依頼製作したもので、公園等での装飾用噴水としては、日本で3番目に古いものとのことです(1番目は長崎・諏訪神社、2番目は大阪・箕面公園)。当初は、鶴と台座とも銅製でしたが戦時中の金属回収で台座が石造りとなったものの、水面に薄氷が張り鶴の像につららが下がる景色は、当公園の冬の風物詩となっています。
Crane Fountain
Shinobu Tsuda and Sessei Okazaki of the Tokyo School of Fine Art (current Tokyo University of the Arts) were commissioned in 1905 to create this fountain. It is the third oldest decorative fountain in Japan (the oldest is in Suwa-jinja Shrine, Nagasaki, and the second oldest is in Mino Park, Osaka). The crane statue and the stand were originally made of copper, but the stand was replaced by stone during the World Warll in order to collect the copper. The sceneries of the lake surface covered with ice and icicles hanging down from the crane statue are the park's famous winter landscapes.
芝庭広場脇のネモフィラ花壇と草地広場脇のチューリップ花壇が見頃を迎えています。
埴輪が置かれています。
贈
東京都立日比谷公園と宮崎県立平和台公園が姉妹公園として結ばれたことを記念し、その喜びをこめて、この「はにわ」像二体を東京都のみなさまに贈ります。
宮崎県には特別史跡西都原古墳群をはじめ、たくさんの古墳がありますが、その古い宮崎をしのぶため造られたのがはにわ窟で、第18回オリンピック東京大会の聖火リレー起点になった平和台公園のなかにあります
案内板が立っています。
はにわ
昭和四十年(1965年)8月21日に、東京都立日比谷公園と宮崎県立平和台公園が、姉妹公園として結ばれたことを記念し、特別史跡西都原古墳群をはじめ、多数の古墳のある宮崎県より「はにわ」像二体が東京都に贈られました。
Clay Figures
Tokyo Metropolitan Hibiya Park and Miyazaki Prefectural Heiwadai Park entered into a sister-park agreement on August 21, 1965. In commemoration, two clay figures were given to Tokyo Metropolitan Government from Miyazaki Prefecture, where there are many ancient burial mounds including the Saitobaru Ancient Burial Mounds, which are special historic remains.
日比谷公園内には、「日比谷松本楼」と「日比谷パレス」というふたつのレストランがあります。雲形池の東側にあるのが日比谷松本楼です。日比谷松本楼は、明治三十六年(1903年)に日本で初めての洋式公園として開園した日比谷公園と時を同じくして誕生した日本の洋食文化を代表する老舗レストランです。当時の日本は文明開化の波の中にあり、日本初の「西洋式近代都市公園」として整備された日比谷公園の園内に初めて建てられた洋風レストランが日比谷松本楼です。公園の中心に建てられた日比谷松本楼は、「洋食」という新しい食文化を一般市民に広める場として、大きな存在感を放ちました。日比谷公園は「市民のための公園」として設計され、日比谷松本楼もまた「市民が気軽に西洋料理を楽しめる場所」として、都市文化と食の融合の場になりました。開店当初から、政財界の要人・文豪・芸術家たちが足繁く通い、時代の知識人たちの交流の場としても知られてきました。作家の芥川龍之介や永井荷風などが通ったともいわれています。昭和四十六年(1971年)に松本楼は放火によって焼失しました。しかし、多くの市民や文化人からの支援により、「平和の象徴として再建しよう」という運動が起こり、翌年には見事に復興しました。その感謝の想いを込めて、毎年9月25日には「カレーチャリティーイベント」が開催されています。これは、焼失からの復活を支えてくれた人々への恩返しとして、松本楼の伝統のカレーライスを寄付金(創業年数以上、121年なら121円以上)で提供し、収益を福祉や災害支援に寄付するという松本楼の伝統行事です。
明治三十四年(1901年)、現在の日比谷交差点付近にあった樹齢約400年のイチョウが道路拡幅工事のため伐採されることになりました。この木を惜しんだ本多静六博士は、東京市参事会に対して「自分の首をかけても移植させてみせる」と強く主張し、伐採を中止させました。当時、樹齢数百年の大木を移植する技術や機械はなく、運搬車両もない時代でした。本多静六博士は人力での移植を決断、約25日間かけて500メートル先の日比谷公園内の日比谷松本楼の前庭にこのイチョウを移植しました。この逸話から、このイチョウは「首掛けイチョウ」と呼ばれるようになりました。移植された首掛けイチョウは、樹齢約400年〜500年といわれ、江戸時代以前から東京に根を張っています。関東大震災(1923年)・東京大空襲(1945年)・日比谷松本楼の火災(1971年)といった数々の災害を乗り越えてきました。特に1971年の火災では、放火により日比谷松本楼は全焼、首掛けイチョウも黒焦げになりました。しかし翌年の春には奇跡的に新芽を吹き、見事な新緑の葉を茂らせました。現在も日比谷公園内でその雄姿を保ち続け、本多静六博士の情熱と行動力を伝えています。そして首掛けイチョウの生命力は訪れる人々に力強さと希望を与える存在となっています。「首掛けイチョウ」という名には、「首に願を掛ける=強い祈願の象徴」という意味が込められているといわれています。実際に、合格祈願・家族の健康・商売繁盛などを祈りに来る人も多くいます。幹が一度は焼け焦げながらも翌年には新芽を吹いたという「不死鳥」のようなエピソードが、「再生」や「困難を乗り越える力」の象徴として語り継がれているのです。イチョウの木は古くから「長寿の象徴」・「火災を防ぐ木」として寺社仏閣にもよく植えられています。風水的にも、陰陽のバランスが良い木とされ、繁栄・安定・癒しなどのエネルギーを持つといわれています。焼失からの復興・平和の願い・チャリティ文化といった日比谷松本楼の精神的な象徴としても文字通り並び立つ存在です。お店の横に佇み、「見守りの木」・「再起の木」として語り継がれている点も、スピリチュアルな魅力のひとつとなり、今ではこの首掛けイチョウの木をパワースポットととして足を運ぶ多くの人々を見守り続けています。
イチョウは東京都の木に指定されています。
東京都の木(イチョウ)
「イチョウ」の木は、昭和四十一年(1966年)11月8日、東京都の木に指定さ
れました。昭和四十一年(1966年)7月、郷土の木を定めようという毎日新聞社の提唱を受けた首都緑化推進委員会では、東京都の木の候補として、ソメイヨシノ、ケヤキ、イチョウ、クロマツ、アカマツの5種をあげました。本都では、これを一般投票したところ、イチョウが第1位になったため、これを東京都の木に指定することになったものです。なお、このイチョウの木は、これを記念して東京都がこの地に植樹したものです。
Tree of Tokyo (Ginkgo biloba)
The ginkgo biloba tree was designated the Tree of Tokyo on November 8th, 1966.
Receiving a proposal from Mainichi Newspapers to designate a local tree in July 1966, the Metropolitan Afforestation Promotion Committee suggested five tree types, which were the Yoshino cherry, Japanese zelkova, ginkgo biloba, Japanese black pine, and Japanese red pine. The ginkgo biloba tree was voted No.1 on a popular vote, so it was designated the tree of Tokyo. This ginkgo biloba tree was planted here by the city to commemorate this.
日比谷パレスは、日比谷公園が開園した明治三十六年(1903年)に同時にオープンした結婚式場兼一軒家レストランです。現在はアフタヌーンティーも楽しめます。日比谷公園の緑に囲まれた一軒家レストランで、季節の食材を使ったモダンプロヴァンス料理を味わうことができます。東京のセントラルパークとも言えるような、自然の中でゆったりとした時間を過ごせるのが魅力です。
日比谷公園を解説した案内板が立っています。
日本文化になった洋風公園 日比谷公園の誕生
期待された西洋式の公園デザイン
日比谷公園のある土地は入江を埋め立てた低地でした。文明開化の都市生活の中で、中心的な位置に公園が必要とされ、東京市区改正設計により、明治三十六年(1903年)に日比谷公園が生まれました。まだだれも「西洋式公園」を知らない時代に、本多静六案に収斂されるまで、様々な設計案が提出されるも、決定には至りませんでした。
‘和魂洋才”の気配り設計 本多静六設計案
全体のゾーニング、門の数と位置、主要園路の入れ方、運動場、池泉と築山、芝生地、樹林、奏楽堂や亭など、すこし離れた目で図面を眺めると、各案の共通点を上手に取り込んでいるように見ることができます。「和の長岡案」や、とりあえず洋っぽい市吏員案」を経て、一見して「本格的な西洋式の本多案」に仕上がりました。その過程では、軍医総監の石黒忠悳や園芸花卉が専門の福羽逸人などの協力を得ています。この設計案の形式は林苑風で、ドイツの平地林を活かしたような公園デザインとなっています。多くはドイツの公園を範としていますが、一部には在来の日本庭園の手法も加えられ、綜合的近代公園としてまとめられました。
A Western-style park becoming a part of Japanese culture: The beginnings of Hibiya Park
Designs for the desired Western-style park
The land that Hibiya Park now encompasses was a low-lying tract of reclaimed inlet. For people living urban lifestyles in this new era of "civilization and enlightenment," it was deemed that a centrally-located park was needed, and through a revision of the design by Tokyo City and its wards, In 1903, Hibiya Park was born. This was a time when very few people knew what a Western-style
park was. Numerous design proposals were submitted before they were combined and refined into Seiroku Honda's eventual design. None of the previous plans had led to a final decision.
Seiroku Honda's proposed design: A design that focused on a balance of both worlds, incorporating the spirit of Japan with "learning from the West."
If one looks at the plans from somewhat of a distance, the overall zoning of
the park, the number and positions of the gates, the entrances to the main park
pathways, the sports grounds, the landscaped ponds and hills, the lawn fields.
the tree groves, concert hall, and resting spots, all skillfully incorporate the
common features of the proposals that had been submitted previously. In fact,
after the very Japanese Nagaoka Proposal and the proposal by the municipal
officials that, for the time being."looked Western" the Honda Proposal seemed
to be the design of an authentic Western-style park. In the design process,
however, Honda received help from Tadanori Ishiguro, a surgeon general in
the military, and Hayato Fukuba, a horticulture specialist, among others.
The proposed plan was in the style of a thickly-treed park, making use in the
park design of a German lowland forest park. The design drew upon German
examples in many respects, but for certain aspects, the techniques of
conventional Japanese gardens were incorporated as well, resulting in a
comprehensive modern park.
第一花壇は、開園時と変わらぬデザインになっています。
”3つの洋”の一つ、洋花を提供した第一花壇
開園時から現在と同じデザインの第一花壇
江戸時代から花卉園芸は大衆の趣味でしたが、明治に入って西洋の美しい花を愛でることで、新たな展開を見せ始めます。日比谷公園は市民が洋花を見ることができる数少ない場所でした。洋花を提供(?)した第一花壇は公会堂予定地を利用してつくられたものですが、洋風花壇にはチューリップ、パンジー、バラ、ダリアなど、初めて見る洋花が数多く植えられ、人気が高くそのまま今に残されることになります。この間、関東大震災後は花壇にも被災者のバラックが並んだり、2.26事件のときは花壇脇に据えた野戦重砲の射程の邪魔になるとして、シュロの木が伐採されたりしました。一方、ここでは昭和五年(1930年)を第1回目として花壇展覧会が催され、昭和二十六年(1951年)からは野外創作彫刻展も行われました。
The First Flower Garden, offering Western flowers, one of the “three sought-after Western things (flowers, food, and music)"
Famous Places in Tokyo: Hiblya Park (postcard)
Horticulture had been a popular pastime of the common people since the Edo period. but with a growing appreciation for attractive Western flowers introduced in the Meiji period, new avenues of interest grew in the field. Hibiya Park was one of the few places where people could see flowers from the West. The First Flower Garden, at which the Western flowers were exhibited, was initially planned to be the sight of the public hall. However, tulips, pansies, roses, dahlias, and many other Western flowers seen in Japan for the first time were planted in this flower garden, and due to their popularity the First Flower Garden remains largely unchanged to this day. In the years that elapsed, the flower gardens became home to makeshift shelters for victims of the Great Kanto Earthquake, and during the February 26 Incident, palm trees were chopped down because they might interfere with the range of the heavy field artillery in place around the boarders of the flower gardens. Despite the above, exhibitions of the flower gardens were held at the park, the first of which was held in 1930. In 1951, an open-air sculpture exhibition was shown.
狼の乳を飲んでいるのは狼の子ではありません。人間の兄弟です。この象と日比谷公園の繋がりはよく分かりません。
ルーパロマーナ(ローマの牝狼)
この彫像は、昭和十三年(1938年)にイタリアから東京市に寄贈されたもので、ローマ建国の大業を成し遂げたロムルス、レムス兄弟の有名な伝説に基づいた像です。幼い兄弟は、祖父を殺し王位を奪ったアムリウスによってチベル河に流されましたが、忽然と現れた一匹の牝狼に助けられ、その乳を飲んで成長し、成人した兄弟は祖父の仇を討ちローマを統一したと言われています。
Lupa Romana (She-wolf of Rome) Statue
Presented to Tokyo by Italy in 1938, this statue is based on the famous myth of the twin brothers of Romulus and Remus who founded the city of Rome. When the young twins were cast out into the Tiber River by Amulius who usurped the throne from and killed their grandfather, a she-wolf suddenly appeared and saved them. The brothers were breast-fed and brought up by the wolf, and after having grown up, they avenged their grandfather and united Rome.
芝生広場からは、日比谷の高層ビルが一望の下に見渡せます。東京ミッドタウン日比谷は、三井不動産が手掛ける東京都心部における複合用途型の街づくりブランド「東京ミッドタウン」の第二弾として開発され、2018年3月29日にオープンしました。東京ミッドタウン日比谷は、地下4階・地上35階建てで、地下1階〜地上7階は商業フロア、6階の一部と9階〜34階がオフィスフロアで構成されています。高層部は高透過ガラス組み込みのユニット型アルミカーテンウォールで、255mmの平面段差を持つプリーツ形状が外部の堅型アルミフィンとの相乗効果で建物に繊細で優雅な陰影をもたらすと共に、熱負荷低減にも役立っています。曲線を使った「ダンシングタワー」というコンセプトは、近くの内幸町にかつて存在した鹿鳴館を意識しています。
法曹会館は、千代田区霞が関一丁目1番地にあり、近代的な官庁街区の中に、昭和十一年に竣工し、戦時中に周辺の施設が焼失する中で、空襲の戦災をまぬがれ、当時の姿を今も残した洋館です。法曹会館は、羽前米沢藩上杉家の上屋敷跡に建てられました。明治維新を経て、大名屋敷が「上知」(政府による没収)となると、上杉家上屋敷(米沢藩江戸屋敷桜田邸)跡は兵部省の所管となり、明治四年(1871年)に陸軍操練所(明治十八年に日比谷練兵場と改称)の一部となり、その後、明治二十八年には旧司法省庁舎(赤煉瓦)の隣地になりました。法曹会館の窓から見える景色は、正面(北側)には碧水のお濠、そして松の石垣の先には典雅な皇居を望み、左(西側)には画趣豊かな桜田門を眺め、右(東側)には近代的な丸の内・有楽町の高層建築に接し、一望の下に新旧時代の粋を満喫する景観は他に類を見ない環境にあります。明治二十四年(1891年)、時の大審院長児島惟謙の提唱により、法律研究のための任意団体として発足した法曹会は、明治三十九年に当時の司法省敷地内(東京市麹町区西日比谷町1番地)に木造の会堂「法曹会会堂」を建築しました。昭和二年、関東大震災の影響や東京民事裁判所の増築に伴い、司法省東南裏へ移築(旧日弁連)されました。その後、昭和十一年(1936年)12月に現在の場所に耐震耐火構造の美観的な会館を新築しました。法曹会館の設計は、大正から昭和期にかけて活躍した建築家で、三菱合資会社地所部の藤村朗氏、施工は竹中工務店が行ないました。基礎工事には長さ五十尺(約15m)の松材が多数使用され、地中に埋められたこの松材は地下水の存するかぎり永久の生命を保つとされ、今もなお法曹会館の基礎を支えています。法曹会館は、周囲の風景と調和する秀逸な麗容と耐震・耐火の堅牢性を兼ね備えた昭和初期における名建築のひとつとされています。戦災を免れた館内の内装にはイタリア産の大理石や和やかな雰囲気を醸し出すタイル張りなど、今もなお竣工当時のものが数多く残されていて、千代田区に残る歴史的な価値のある建造物として、平成十五年に「千代田区景観まちづくり重要物件」に指定されました。また、法曹会館は終戦直後の一時期、大審院(大日本帝国憲法下の最高裁判所)が使用することになり、1階の一室(現ロビー)には法廷が設けられ、実際に開廷されたこともありました。建築当時、水交社・学士会館・茗渓会館などの倶楽部建築を参考にし、鉄筋コンクリート造・地階・五階建・延坪962坪でした。昭和の激動を乗り越えてきた法曹会館には、その隅々にまで時代の記憶が刻まれています。
- ポイント5 桜田門外の変
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桜田門は、1620年〜1630年頃に創建され、大正十二年(1923年)の関東大震災で破損した際に今の鉄網土蔵造りに改修されました。大老井伊直弼が水戸藩浪士らによって暗殺された「桜田門外の変」で著名な門です。現存している旧江戸城門の中では最も広い規模を有していることなどから、国の重要文化財に指定されています。
Sakuradamon Gate, completed in around 1620, is the largest remaining gate of Edo Castle. Only the huge force of the Great Kanto Earthquake in 1923 made an impact on this sturdy gate, shaking some of the rocks loose. Repairs have strengthened the gate's structure to prevent further damage. Sakuradamon Gate is a designated Important Cultural Property of Japan.
桜田門外の変は、安政七年(1860年)3月3日に江戸城桜田門外にある豊後杵築藩・松平親良の上屋敷前で、江戸幕府の大老である井伊直弼が水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名によって暗殺された事件です。この事件は、幕末の日本に大きな影響を与え、江戸幕府の権威を失墜させ、明治維新へと繋がる歴史の転換点となりました。桜田門外の変が起きた背景には、主に以下の3つの要因があります。
- 将軍継嗣問題
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第十三代将軍徳川家定に後継者がいなかったため、次期将軍を巡って、井伊直弼が推す紀州藩主・徳川慶福と、水戸藩主・徳川斉昭らが推す一橋慶喜の間で対立がありましたが、井伊直弼は慶福を将軍に決定しました。
- 日米修好通商条約の無許可調印
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井伊直弼は朝廷の許可を得ないままアメリカと日米修好通商条約を締結しましたが、これに対して孝明天皇は強く反発し、幕府ではなく水戸藩に直接「戊午の密勅」を下し、幕政の刷新を求めました。
- 安政の大獄
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井伊直弼は、将軍継嗣問題や条約調印に反対する勢力を徹底的に弾圧しました。これが「安政の大獄」と呼ばれる事件で、多くの反対派が処罰されました。特に、戊午の密勅を巡って水戸藩が厳しく処罰されたため、水戸藩士たちの井伊直弼への反発が強まりました。
これらの出来事により、井伊直弼への不満が高まり、水戸藩の脱藩者らが井伊直弼の暗殺を計画しました。安政七年(1860年)3月3日に井伊直弼が江戸城へ登城する途中の桜田門外で襲撃され、暗殺されました。この日は雛祭りの日で、多くの見物人が集まっていたため、襲撃者たちは人混みに紛れて近づくことができました。また、桜田門外は彦根藩邸から江戸城への最短ルートであり、井伊直弼を確実に襲撃できる場所でした。
外桜田門
桜田の名は、この地が古代に桜田郷と呼ばれていたことに由来し、江戸の主要道が通過する場所でした。徳川家康入国直後の絵図には「小田原口」と記載されています。門周辺の石垣は、慶長十九年(1614年)真壁藩(現在の茨城県)藩主浅野長重によって築かれ、寛永年間(1624年〜1644年)に門が建築されました。門の周囲には、有力外様大名の屋敷が多くありました。万延元年(1860年)の桜田門外の変は、彦根藩(現在の滋賀県)藩主で大老の井伊直弼が屋敷から登城中に水戸浪士に襲撃された事件です。大正十二年(1923年)の関東大震災で門が壊れましたが、再建され現在に至っています。
Soto Sakurada-mon Gate
The name of this gate is derived from the fact that this area was called
"Sakuradago" in ancient times. It was a passing place on one of the main routes through Edo (Tokyo). In an illustration of the scene immediately after Tokugawa Ieyasu entered the area, "Odawara Guchi Entrance" is noted. The stone walls surrounding the gate were built by the feudal lord of Makabe Han (now Ibaraki Prefecture), Asano Nagashige, in 1614, and the Sotosakurada-mon Gate was originally built in the Kanei era (1624 to 1644). Many residences of powerful tozama daimyo (feudal lords who had not originally supported the ruling Tokugawa house) stood around the gate. In 1860 the "Incident Outside the Sakurada-mon Gate," or the "Sakurada-mon Incident," saw an attack on li Naosuke, the feudal lord of Hikone Han (now Shiga Prefecture) and a chief minister (Tairo), by masterless samurai (roshi) from Mito Han as he left his residence to enter the castle. The gate was damaged in the Great Kanto Earthquake of 1923, but was rebuilt and still remains today.
桜田門は、外側の高麗門と内側の渡櫓門からなる外桝形の城門となっています。
旧江戸城 外桜田門
現在この門は桜田門と呼ばれますが、正式には外桜田門といい、本丸に近い内桜田門(桔梗門)に対してこの名が付けられました。古くこの辺りを桜田郷と呼んでいたことに由来します。外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造からなり、外枡形という防御性の高い城門で、西の丸防備のため異例の大きさで造られました(320坪)。建築されたのは寛永年間(1624年〜1644年)とされ、現存する門は、寛文三年(1663年)に再建された門がもとになっています。大正十二年(1923年)の関東大震災で破損し、復元されました。
Sotosakurada-mon Gate of Edo Castle
Currently called Sakurada-mon, this gate is officially named Sotosakurada-mon, soto meaning "outer" as opposed to the "Uchisakurada-mon or "inner" Gate (Kikyo Gate) near the citadel. These gates were named Sakurada-mon because the area was
called Sakurada-go (town) in the past. The Sotosakurada-mon Gate has a dual structure consisting of the Korai Gate on the outside and the Watariyagura Gate on the inside with a square in-between. It covers an exceptionally large area (approx. 1,056 sqm) as a highly defensive castle gate for the Nishinomaru (west compound). The Sotosakurada-mon Gate was originally built in the Kanei era (1624 to 1644), while the existing gate is based on a gate reconstructed in 1663. The gate was damaged by the Great Kanto Earthquake in 1923 and repaired it. On March 3, 1860, the Japanese Chief Minister Tairo li Naosuke was assassinated by a group of samurai who seceded the Mito-han feudal state outside of the Sotosakurada-mon Gate in an event known as the Sakuradamon Incident.
高麗門です。
渡櫓門です。
- ポイント6 警視庁占拠(二・二六事件)
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桜田門のはす向かいに警視庁の本部庁舎の建物が聳えています。
警視庁本部庁舎は首都である東京都を管轄する警察本部で、所在地から「桜田門」の通称でも呼ばれています。旧庁舎は、陸軍省陸軍教導団砲兵屯営の跡地に建てられ、昭和六年(1931年)5月29日に竣工しました。地下1階・地上5階建てで、昭和五十二年(1977年)1月まで使用されました。当時は近隣にあり、ほぼ同時期に竣工した文部省庁舎・内務省庁舎とセットで「ABC官庁建築」などとも呼ばれていました。1874年の警視庁創立から100年を記念し、旧庁舎を一旦解体した上で新庁舎を改めて建て直す形が取られ、昭和五十二年(1977年)6月8日に地下4階・地上18階建ての現庁舎の建築に着工し、昭和五十五年(1980年)6月17日に竣工しました。
二・二六事件は、昭和十一年(1936年)2月26日から2月29日にかけて発生した日本のクーデター事件です。皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1、483名の下士官と兵を率いて蜂起し、政府要人を襲撃すると共に、永田町や霞ヶ関などの一帯を占拠しましたが、これに対して昭和天皇が激怒し、最終的に青年将校達は下士官兵を原隊に帰還させ、自決した一部を除いて投降したことで収束しました。この事件の結果、岡田内閣は総辞職し、後継の広田内閣(廣田内閣)が思想犯保護観察法を成立させました。
昭和十一年(1936年)1月下旬から2月中旬にかけて反乱部隊の夜間演習が頻繁になっていたことなどから、警視庁では情勢の只ならぬことを察し、再三に渡って東京警備司令部に対して取り締りを要請したものの、取り合われませんでした。このことから、警視庁では特別警備隊(現在の機動隊に相当する)に機関銃を装備して対抗することすら検討していましたが、実現しないままに事件発生を迎えることとなりました。警視庁と首相官邸の間には非常ベル回線が設けられていて、官邸警備の警察官(小館喜代松巡査)により襲撃の報は直ちに警視庁に伝えられました。警視庁の特別警備隊は、当日は第3中隊(中隊長 堀江末吉警部)が宿直で、待機の第1小隊(小隊長 野老山幸風警部補)に堀江警部が同行して出動したものの、官邸付近に到着した時には既に官邸は占拠され、官邸の前には重機関銃が据えられていて、野老山警部補と小隊長伝令(金井巡査)は兵士との押し問答の中で拳銃を奪われそうになり、金井巡査は銃剣で大腿部を傷つけられたうえ、突破を諦めて帰隊しようとする両名は背後から銃撃されて、近くの外務大臣官邸に退避する状況でした。野老山小隊の出動直後から警視庁庁舎付近にも反乱部隊が進出し、機関銃を庁舎に向けて包囲の態勢をとっていました。部隊を指揮した野中大尉は「我々は警視庁に敵対するものではない。ただ特別警備隊の出動を阻止するものだ」と語り、庁舎全体の占拠には至らなかったものの、電話交換室など庁舎の一部を占拠し、交換手の背に銃剣を突きつけて警察電話を遮断することで警察の動きを封じようとしました。しかし、兵士の電信電話知識の乏しさをつかれて、実際には全ての通信が維持されていました。また警察官の出勤を阻止するための遮断線を貼っていたが、これを突破して強行登庁した特別警備隊隊長の岡崎英城警視によって在庁員は把握されていました。電話手の働きにより、小栗一雄警視総監を始め、各部長は警視庁占拠直後より情勢を知らされていました。総監官舎の襲撃等も想定されたことから、総監・部長は急遽脱出し、先ず麹町警察署で緊急の協議を行い、警務部長名で非常呼集を発令し、本庁勤務員は部ごとに麹町・丸の内・錦町・表町の各警察署に、また各警察署の勤務員はそれぞれの所属署に集合・待機するよう命じられました。次いで、麹町警察署は反乱部隊の占領地域に近く、襲撃を受ける懸念が指摘されたことから、総監・部長は神田錦町警察署に移動し、ここに「非常警備総司令部」を設けました。警視庁では、決死隊を募って本庁舎を奪還しようという強硬論も強かったものの、安倍源基特高部長は警察と軍隊が正面から衝突することによる人心の混乱を懸念して強く反対し、警視総監もこれを支持したことから、最終的に陸軍・憲兵隊自身による鎮圧を求め、警察は専ら後方の治安維持を担当することとしました。半蔵門に近い麹町警察署の署長室には、当時宮内省直通の非常電話が設置されていて、午後8時にその電話が鳴ると、たまたま署長をサイドカーに乗せて走り回る役目の巡査が出ました。一度「ヒロヒト、ヒロヒト・・」と名乗り、巡査が「どなたでしょうか」と訊ねると一度電話が切れ、再度の電話では別の男性の声で「これから帝国で一番偉い方が訊ねる」と前置きし、最初に名乗った人物が質問、巡査からは「鈴木侍従長の生存報告」・「総理の安否は不明で官邸は兵が囲んでいる」などの報告を受けました。巡査は会話の中で、その人物が「朕」の一人称を使ったことから昭和天皇だと理解し、体が震えたということです。電話の主はその後、「総理消息をはじめ情況を知りたいので見てくれ」と依頼し、巡査の名前を尋ねましたが、巡査は「麹町の交通でございます」と答えるのが精一杯でした。作家の戸川猪佐武によれば、警視庁は青年将校たちが数日前より不穏な動きを見せているとの情報をある程度把握していて、斎藤内大臣にそれを知らせましたが、特に問題にされませんでした。事件は、2月29日午前5時10分に討伐命令が発せられ、午前8時30分には攻撃開始命令が下されました。投降を呼びかけるビラを飛行機で散布したり、ラジオで「兵に告ぐ」と題した勅命を放送したり、師団長を始めとする直属上官が涙を流して説得に当たっりした結果、反乱部隊の下士官兵は午後2時までに原隊に復帰しました。残る将校達は陸相官邸に集まり、野中四郎大尉は自決しましたが、残る将校らは午後5時に逮捕され反乱はあっけない終末を迎えました。
- ポイント7 安保闘争
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安保闘争は、昭和三十四年(1959年)から昭和三十五年(1960年)にかけて日本で行われた日米新安全保障条約(安保改定)締結に反対する国会議員・労働者・学生・市民及び批准そのものに反対する左翼や新左翼の運動家が参加した反政府・反米運動とそれに伴う大規模デモ運動です。安保条約は国会で与党のみ賛成する強行採決で可決され、岸内閣は混乱の責任をとって内閣総辞職を余儀なくされたものの、同年の第29回衆議院議員総選挙では自民党が単独過半数を上回る大勝利をしました。昭和二十六年(1951年)9月8日にアメリカのサンフランシスコに於いて、アメリカやイギリスを始めとする第二次世界大戦の連合国47ヶ国と日本の間で、日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)が締結されましたが、主席全権委員だった吉田茂首相は、同時に平和条約に潜り込まされていた特約(第6条a項但し書:二国間協定による特定国軍のみの駐留容認)に基づく「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(旧日米安全保障条約)に署名しました。この条約によって日本を占領していた連合国軍の1国であるアメリカ軍は「在日米軍」となり、継続して日本に駐留する事が可能となりました。安保条約は、昭和三十三年(1958年)頃から自由民主党の岸信介内閣によって改定の交渉が行われ、昭和三十五年(1960年)1月に岸首相以下全権団が訪米してアイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意し。1月19日に新条約が調印されました。新安保条約は、
- 内乱に関する条項の削除
- 日米共同防衛の明文化(日本をアメリカ軍が守る代わりに、在日米軍への攻撃に対しても自衛隊と在日米軍が共同で防衛行動を行う)
- 在日米軍の配置・装備に対する両国政府の事前協議制度の設置
など、安保条約を単にアメリカ軍に基地を提供する為の条約から、日米共同防衛を義務付けたより平等な条約に改正するものでした。岸首相が帰国し、新条約の承認を巡る国会審議が行われると、安保廃棄を掲げる日本社会党の抵抗により紛糾しました。締結前から、改定により日本が戦争に巻き込まれる危険が増すという懸念や、在日米軍裁判権放棄密約から派生する在日米兵犯罪免責特権への批判により、反対運動が高まり、スターリン批判を受けて共産党を脱党した急進派学生が結成した共産主義者同盟(ブント)が主導する全日本学生自治会総連合(全学連)は「安保を倒すか、ブントが倒れるか」を掲げ、総力を上げて反安保闘争に取り組みました。まだ第二次世界大戦終結から日が浅く、人々の「戦争」に対する拒否感が強かったことや東條内閣の閣僚であった岸首相本人への反感があったことも影響し、「安保は日本をアメリカの戦争に巻き込むものとして多くの市民が反対しました。これに乗じて既成革新勢力である日本社会党や日本共産党は組織・支持団体を挙げて全力動員することで運動の高揚を図り、総評は国鉄労働者を中心に「安保反対」を掲げた時限ストを数波にわたり行いましたが、全学連の国会突入戦術には静観の立場をとり続けました。とりわけ共産党は「極左冒険主義の全学連(トロツキスト集団)」と批判しましたが、批判された全学連は、既成政党の穏健なデモ活動を「お焼香デモ」と非難しました。4月26日、日米安全保障条約の批准阻止を求める全国学生自治会総連合主流派の関係者は国会議事堂周辺でデモを行い警官隊と衝突し、学生18人と警察官10人が重傷を負いました。以降も多くの重傷者を出しながらデモは行われましたが、5月19日に衆議院日米安全保障条約等特別委員会で新条約案が強行採決され、続いて5月20日に衆議院本会議を通過しました。委員会採決では、自民党は座り込みをする社会党議員を排除するために右翼などから屈強な青年達を公設秘書として動員し、警官隊と共に社会党議員を追い出しての採決でした。これは、6月19日に予定されていたアイゼンハワー大統領訪日までに自然成立させようと採決を急いだものでしたが、本会議では社会党・民社党議員は欠席し、自民党からも強行採決への抗議として石橋湛山・河野一郎・松村謙三・三木武夫・古井喜実らが欠席あるいは棄権しました。その結果「民主主義の破壊である」として一般市民の間にも反対の運動が高まり、国会議事堂の周囲をデモ隊が連日取り囲み、闘争も次第に激化の一途をたどりました。そして、反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていきました。6月15日には機動隊が国会議事堂正門前で大規模に国会内に突入してきたデモ隊と衝突し、同日夜にデモに参加していた東京大学学生の樺美智子が圧死しました。同夜開かれた国会敷地内での全学連抗議集会で樺美智子の訃報が報告されたことで警察車両への放火等を行うなど一部の学生が暴徒化し、負傷学生約400人・逮捕者約200人・警察官負傷約300人に上り、国会前でのデモ活動に参加した人は主催者発表で計33万人・警視庁発表で約13万人という規模にまで膨れ上がりました。安保条約は参議院の議決がないまま、6月19日に自然成立しました。またアイゼンハワーの来日は延期(実質上の中止)となりました。岸内閣は混乱を収拾するため、責任をとる形で新安保条約の批准書交換の日である6月23日に総辞職を表明しました。
- ポイント8 犬養毅暗殺(五・一五事件)
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現在の総理大臣官邸(総理官邸または首相官邸)は、地下1階・地上5階建て・鉄骨鉄筋コンクリート構造で、1階に首相や内閣官房長官が記者会見が行う記者会見室、2階にレセプションホールと貴賓室、3階に事務室と玄関ホール、4階に閣僚の集合場所として使用される閣僚応接室・閣議が行われる閣議室・首脳会談などに使用される特別応接室、5階に首相執務室・首相応接室・官房長官室・官房副長官室など、地階には危機管理センターが置かれています。首相官邸は傾斜地に建っているため、西側の入口は1階ですが、東側にある正面の出入り口は3階になっています。組閣後の閣僚記念撮影が行われる「大階段」は3階から2階に降りる階段です。同敷地内には、総理大臣公邸・官房長官公邸・内閣宿舎・危機管理用臨時宿泊施設などもあり、官邸と公邸は庇でつながっています。
旧官邸は昭和四年(1929年)3月18日に竣工し、大正末期から昭和初期にかけて流行したアールデコや表現主義などの建築様式を取り入れた文化的にも価値があるといわれる建築です。旧帝国ホテル本館などの設計で知られるフランク・ロイド・ライトのデザインに似ていたため、ライト風とも呼ばれましたが、実際に設計したのは当時大蔵省営繕管財局工務部工務課第二製図係長だった下元連です。旧官邸の建物は敷地内を曳家工事により移動して改修を施された上で、平成十七年(2005年)から総理大臣公邸として利用されています。
五・一五事件は、井上日召の影響を受けた海軍青年将校が陸軍士官学校生徒や愛郷塾生らと協力し、昭和七年(1932年)5月15日に起きたクーデタ事件で、内閣総理大臣官邸・立憲政友会本部・日本銀行・警視庁などを襲撃し、第二十九代内閣総理大臣の犬養毅を暗殺しました。当日は日曜日で、犬養首相は折から来日していたチャップリンとの宴会の予定変更を受け、終日官邸にいました。夫人の千代子は知人の結婚披露宴に参加するため帝国ホテルに出掛けていて、息子で首相秘書官の犬養健も不在でした。訪問者は贔屓にしていた料亭の女将・萱野長知・難波清人・往診に来た耳鼻科医の大野喜伊次の4人だけでした。午後5時5分、三上中尉率いる第一組9人は靖国神社に集合し、三上中尉・黒岩予備少尉・陸軍士官学校本科生の後藤映範・八木春雄・石関栄の5人が表門組、山岸宏海軍中尉・村山海軍少尉・陸軍士官学校本科生の篠原市之助・野村三郎の4人を裏門組としてタクシー2台に分乗して首相官邸に向かいました。タクシー車内において武器の分配と計画の最終確認が行われましたが、三上の拳銃が表門組車内に見当たらず、途中でタクシーを止めて裏門組から拳銃を受け取りました。しかし、その拳銃も故障していて、全弾装填出来ない状態でした。官邸付近に到着すると、三上は拳銃を出して運転手を脅し、表門を突破して表玄関前に車を着けるよう指示しました。恐怖した運転手が言われるまま車を進行させ玄関前に着けると、5名は降車し午後5時27分頃に正面玄関から官邸に入りました。対応に出た警視庁の警察官に対し、来客を装い首相に面会したい旨を告げると、警察官は一同を待たせて奥へ向かいました。門前にいた守衛が不審に思って駆けつけて来ると、三上らは拳銃を取り出して発砲し、警察官の後を追って手当たり次第に部屋の扉を開けて首相を探しました。表の洋館から首相の居室である日本館に続く扉を蹴破った三上らは、そこにいた警備の田中五郎巡査に首相の居場所を尋ねますが、答えなかったため銃撃しました(田中巡査は5月26日に死亡しました)。護衛の巡査の一人から変事を知らされた時、周囲の者は逃げるよう犬養に勧めましたが、犬養は「いいや、逃げぬ」と答えたといわれています。犬養が海軍将校らの襲撃をどのように理解していたかについては人により意見が分かれています。襲撃側の表門組と裏門組は日本館内で合流し、三上が日本館の食堂で犬養首相を発見しました。三上は直ちに拳銃を首相に向け引き金を引きましたが、一発しか装填されていなかった弾を既に撃ってしまっていたために発射されなませんでした。三上は首相の誘導で15畳敷の和室の客間に移動しましたが、途中大声で全員に首相発見を知らせました。客間に入ると犬養首相は床の間を背にしてテーブルに向って座り、そこで自分の考えを話し、説得しようとしたとみられます。この時、首相と食事をするために官邸に来ていた嫁の犬養仲子と孫の犬養康彦が姿を現しましたが、黒岩が女中に命じて立ち去らせました。一同起立のまま客間で首相を取り囲み、三上が首相といくつかの問答をしている際に山岸が突然「問答無用、撃て、撃て」と大声で叫びました。丁度その瞬間に遅れて客間に入って来た黒岩が山岸の声に応じて犬養首相の頭部左側を銃撃し、次いで三上も頭部右側を銃撃して犬養首相に深手を負わせました。すぐに山岸の引き揚げの指示で9人は日本館の玄関から外庭に出ましたが、そこに平山八十松巡査が木刀で立ち向かおうとしたため、黒岩と村山が一発ずつ平山巡査を銃撃して負傷させ、官邸裏門から立ち去りました。官邸付近にいた警察官が不審に思って近づいてくるとこれを拳銃で威嚇し、警察官がひるんだ隙に逃走して拾ったタクシー2台に分乗して桜田門の警視庁本部へ向かいました。三上らは犬養首相が即死したと思っていましたが、首相はまだ息があり、すぐに駆け付けた女中のテルに「呼んで来い、いまの若いモン、話して聞かせることがある」と強い口調で語ったといわれています。家族の連絡を受けて駆けつけた大野医師(帰りの車を待つためまだ邸内にいた)が応急処置を施し、事件後に帰宅した息子で首相秘書官の犬養健の問いかけにも応じていました。更に20人を越える医師団が駆け付け、輸血などの処置を受けましたが、次第に衰弱し、午後9時過ぎに容態が急変して午後11時26分になって死亡しました。
旧官邸(現在の首相公邸)は、中央左の焦げ茶色の建物です。
首相官邸の敷地は、17世紀の後半は敷地内南側が越後村上藩内藤家中屋敷で、敷地内北側は旗本屋敷から信濃飯山藩本多家上屋敷、丹後峰山藩京極家上屋敷へと移り変わりました。明治維新後、一時期一橋徳川家が使用し、明治三年に鍋島家の所有となりました。鍋島邸は関東大震災により大きな被害を受け、復興局へ売却されました。大正十五年(1926年)に震災復興に伴う中央諸官衙計画の一環として、旧鍋島邸跡地に総理大臣官邸を新設することとなり、昭和四年(1929年)に完成しました。当時は「内閣総理大臣官舎」と呼ばれ、門には表札がかかっていました。
ゴール地点の東京メトロ国会議事堂前駅に着きました。
ということで、千代田区で九番目のコースである「Cその2.江戸・東京事件の現場めぐり・日比谷・霞が関コース」を歩き終えました。次は千代田区で最後のコースである「Cその3.コース外の事件現場」を歩きます。
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