- @閑静な街と芸術散歩コース(西池袋〜目白方面)
コース 踏破記
今日は豊島区の「@閑静な街と芸術散歩コース(西池袋〜目白方面)」を歩きます。池袋駅西口から目白の住宅地を抜け、目白駅までの短いコースです。最初に歩いたのは2022年の4月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年10月に改めて歩きました。
スタート地点:池袋駅西口
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- ポイント1 池袋演芸場
- 文楽、円生、三平といった噺家が登場した老舗の寄席。都内で5軒しかない寄席のひとつです。平成五年にリニューアルし、座席はすべてゆったりとした椅子席になりました。落語を聞いて思いきり大声で笑いたい方はぜひどうぞ。
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- ポイント2 池袋西口公園
- 芸術劇場に隣接した、噴水のある明るく広々とした公園です。周囲を巡らす背の高いオブジェもあり、芸術的な空間を効果的に演出。野外ステージもあります。夜には、ライトアップで輝く噴水など、また違った雰囲気が楽しめます。
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- ポイント3 東京芸術劇場
- 平成二十四年9月1日にリニューアルオープンしました。大、中、小のホールがあり、連日、クラシックコンサートや演劇、ミュージカルなどが開かれています。大ホールにはパイプオルガンが備えられています。厳かな演奏を聴いてリラックスしてはいかがでしょう。
※コンサート、演劇、ミュージカル等の詳しいスケジュールは劇場までお問合せください。
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- ポイント4 全国伝統的工芸品センター(2012年に青山に移転済)
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- ポイント5 池袋防災館
- 地震・消火・煙・救急などのコーナーに分かれ、誰でも自由に、さまざまな防災シミュレーションを体感できます。震度7まで地震の揺れが体感できる地震コーナーは、2012年3月にリニューアル!いざというといきに備えて、立ち寄ってみてはいかがでしょうか?
※午前9時から午後5時(入館は午後4時まで)、火曜・第3水曜休み。入館無料。
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- ポイント6 郷土資料館
- 豊島区の歴史や民俗に関することがパネルで紹介されており、資料や収集品などの展示を行っています。戦後の焼け跡に建てられた池袋ヤミ市や、モダニズム文化の始まりし頃の長崎アトリエ村を再現した模型は、当時の街の雰囲気がリアルに伝わってきます。また期間限定で、趣向を凝らした企画展も実施しています。
※入館無料。
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- ポイント7 自由学園明日館(みょうにちかん)
- 羽仁吉一・もと子夫妻が雑誌「婦人之友」を母体に創立。現在は多目的スペースとして展覧会やリサイタルなどに利用されています。米国人建築家、フランク・ロイド・ライトが設計した洋館は、平成九年に国の重要文化財に指定。どなたでも自由に見学でき、陽光の差し込む大きな窓の部屋で、お茶とお菓子を頂くこともできます。
※見学料は400円(お茶・お菓子付きは600円)
午前10時から午後4時(入館は3時半まで)第3金曜は午後6時から9時の見学可。月曜日休館。
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- ポイント8 目白庭園
- 滝に築山、池を配した伝統的な回遊式庭園。この地で創刊された童話雑誌「赤い鳥」にちなんだ数寄屋造りの茶室、赤鳥庵も池に面して建っています。四季折々のすばらしい庭園や広々とした池の鯉を眺めていると、都会の喧騒を忘れさせてくれます。また、運が良ければかわいいカルガモの親子にも会えるでしょう。
※午前9時から午後5時、毎月第2・4月曜休み。入園無料。
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- ポイント9 ギャラリア赤い鳥
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ギャラリア赤い鳥は、目白千種画廊(ちぐさがろう)の跡地に開館しました。ギャラリア赤い鳥は、大正七年に童話雑誌「赤い鳥」を創刊した児童文学者・鈴木三重吉の旧宅跡地でもあります。「赤い鳥」は昭和十一年まで発行され、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」や有島武郎「ひとふさの葡萄」などの童話から、北原白秋の「赤い鳥小鳥」、西条八十の「かなりや」などの童謡まで、多くの傑作が発表され、児童文学の育成に大きな役割を果たしました。
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ゴール地点:目白駅
スタート地点の池袋駅西口から歩き始めます。
西口駅前広場の奥の花壇に、池袋のキャクターが並んでいます。
「えんちゃん」は、「みんなのえんがわ池袋」という商店街の空き店舗を利用した交流広場で生まれたふくろうのキャラクターです。えんがわの「えん」と人と人の縁の「えん」から付けられました。
ぼく、えんちゃん。よろしくね!
どうしてえんちゃんっていうの?
えんちゃんの名前は「縁」という言葉と池袋やその近くの地域を元気にする「みんなのえんがわ」というグループの名前からつけられたんだ!「縁」は、なにかとなにかをつないで仲良しにするって意味なんだって。えんちゃんは池袋のみんなと自然を仲良しにしたくてここにきたんだよ!みんなでお花や木を育てて、えんちゃんを応援してあげよう!
えんちゃんってどんな子?
すんでいるところ:ふくろ森(池袋のちかく)
ねんれい: 5さい
すきなこと: 植物を育てること
(みんなといっしょにかわいいお花や大きな木を育てたいなぁ)
ゆめ: 森をつくること
(ぼくがつくった森でみんなにあそんでほしいなぁ)
えんちゃんの足はハート形になっています。触るといいことが起きるそうです。
えんちゃんのひみつ
ぼくにはふしぎなちからがあるみたい。足にさわった人たちに、いいことがあったんだって!!みんな、ぼくの足にさわってみてね!
「池袋ふくろう物語」がネットで公開されているそうです。
池袋ふくろう物語
この物語はアイポイントブログで閲覧することができます(注1)。
http://blog.goo.ne.jp/i-point/
えんちゃんが、池袋の街を飛んで見つけた「なぜ?」をみんなで考えていく物語です。
池袋に住むフクロウの男の子、えんちゃんはお父さんとお母さんの三人で仲良く楽しく暮らしています。まだ子どものえんちゃんのまわりには、不思議なことや分からないことがいっぱい!そこでえんちゃんは・・・(続きはHPで)
注1:右側の「えんちゃんの本棚ブログはこちらから」をクリックします。
注2:えんちゃんのブログは、「goo blog」サービスの終了(2025/11/18)に伴って閉鎖されるようです。
この花壇は、「モザイカルチャー」といい、豊島区が推進する環境まちづくりの象徴になっています。土の少ない都市部における緑化手法のひとつで、区と区民が協同で維持管理を行なっています。「環境先進都市としま」を先導する緑化推進のシンボルです。
モザイカルチャー(MOSAICULTURE)とは
モザイカルチャーとは、「モザイク」と「カルチャー」の造語です。人、動物、風景などの形を金属のフレームで作り、土を入れ、花や草を植え込んだ緑の造形です。
- ポイント1 池袋演芸場
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池袋演芸場は、池袋駅前に面する西一番街中央通り入口にある寄席です。都内に4軒ある落語定席のひとつで、落語を中心にして、漫才や奇術などの色物芸が多数執り行われています。
池袋は戦後遅くに発展した歴史の浅い新興の商業地であったため、客足が悪かった時代があり、落語協会の落語家が、「人が誰も居ないさま」・「客が全く入らないさま」を「まるで池袋の芸協のようだ」と形容することがあります。演芸場は地下にあり、あたかも客数人に対して密談をするような形になることから「池袋秘密倶楽部」という異名もあります。旧池袋演芸場は昭和二十六年(1951年)に開場し、元々は映画館「池袋ピース座」の三階にあり、全席畳席でした。都内4軒の落語定席の中では唯一戦後に開場した劇場でした。昭和三十一年(1956年)1月6日に建物が火事で焼失し、その後、区画整理のため昭和三十四年(1961年)に鉄筋ビルに建て替えられました。演芸場に客が全く入らず、昭和四十一年(1966年)から昭和四十二年(1967年)頃は平日の昼席を中止していました。昭和四十五年(1970年)に閉鎖が検討されますが、落語協会六代目三遊亭圓生会長の説得により存続が決まり、以降は落語協会専門の定席となりました。また、この頃平日昼席が復活されています。平成二年(1990年)2月28日に改装のため閉鎖され、周辺の再開発によって建物は解体されました。現在の演芸場は、平成五年(1993年)9月11日に10階建てのテナントビルの地下に再開場しました。地下に位置する定席としては池袋演芸場が唯一となっています。再開場を機に、全席椅子席となりました。以前と所在地は同じですが、入口の通りが異なり、路地裏(現在のエビス通り)から駅前(西一番街中央通り)に進出しました。再開時の平成五年(1993年)9月から暫くは落語協会のみの出演でしたが、同年12月から落語芸術協会も出演するようになり、旧来のように落語芸術協会・落語協会両方の番組が組まれるようになりました。毎年正月初席は落語芸術協会の出演となっています。座席数は93席あり、他の都内の落語寄席に比べ狭くなっています。その分、どこに座っても演者の息遣いが分かる利点があります。
- ポイント2 池袋西口公園
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池袋西口公園は、面積が約3千平方メートルで、池袋駅西口バスターミナルに隣接して駅前の繁華街に囲まれ、昭和四十五年(1970年)4月に開園し、令和元年(2019年)11月16日に新たな劇場公園「GLOBAL RING」としてリニューアルオープンしました。豊島区の将来都市像である「国際アート・カルチャー都市」の実現に向けて、文化芸術・地域の賑わい・情報発信拠点となります。開放的な雰囲気の中で文化や芸術に触れ、噴水や照明が演出する幻想的な雰囲気や、カフェでの豊かな時を楽しめる公園になりました。
この地には明治四十一年(1908年)に東京府豊島師範学校が設置され、明治四十四年(1911年)には附属小学校も開校しました。太平洋戦争後、学校の周囲には闇市ができ、戦災で焼失した豊島師範の後身である東京第二師範学校が昭和二十一年(1946年)に小金井町(現在の小金井市)に移転後も附属国民学校は此の地に残りました。学制改革で東京第二師範学校は都下の師範学校3校と統合し、昭和二十四年(1949年)に東京学芸大学として発足しましたが、これに伴って附属小学校は東京学芸大学東京第二師範学校豊島附属小学校となりましたが、東京第二師範学校の廃止を受けて、昭和二十六年(1951年)に東京学芸大学附属豊島小学校と名称を改めました。昭和三十年代に入ると、池袋駅西口では学芸大附属小の移転とも絡んで駅前の区画整理問題が浮上しました。昭和三十八年(1963年)に学芸大学は附属小を翌年3月で廃校すると決め、昭和四十四年(1969年)に校舎は取り壊されました。昭和四十五年(1970年)には、跡地を取得した都から豊島区に施設建設予定地が子どもの遊び場として管理委託され、池袋西口公園が整備され、同年10月にはローラースケート場も開業しました。しかし、広い空き地のような状態が続き、夜は薄暗く、決して雰囲気は良くありませんでした。しかし、長らく進展を見なかった国鉄所有地である芝浦工業大学高等学校跡地等の再開発計画が決定し、ここからほど近い国鉄官舎跡地に建てられたホテルメトロポリタンが昭和六十年(1985年)に開業し、さらに5年後には待望久しい東京芸術劇場が空閑地となっていた学芸大附属小跡地に開業しました。これにあわせて、公園も劇場の前庭公園として再整備されました。平成十四年(2002年)9月には、クラシック音楽のコンサートやダンス
演劇に対応した幅11.8メートル・奥行き5.4メートルの野外ステージ「グローバルリング シアター」やその上部の大型ビジョンも設置されました。これは地元の立教大学卒業生と池袋西口商店街連合会の働きかけにより、区内の商工団体などで構成された「元気な豊島をつくる会」によって建てられ、区に寄贈されたものです。平成十六年(2004年)3月に同会によって開閉式ルーフも寄贈され、雨天でも催しを行うことが可能になりました。舞台棟には演奏音を50%だけ反射する反射板などを用いて、屋外では難しいとされるクラシックの生コンサートを可能にした他、大型サイネージや1万個以上のLED照明・スピーカー・ライブカメラを備え、様々なアクティビティにも対応しています。
豊島区は平成二十七年(2015年)3月に「国際アート・カルチャー都市構想」を策定し、その一環として、池袋駅周辺の4つの公園を「アート・カルチャー・ハブ」に位置付け、各エリアの特性に応じ整備を進める方針を定めました。これに基づき、池袋西口公園は、南池袋公園(2016年)・中池袋公園(2019年)に続いてリニューアルが計画され、平成二十九年(2017年)に実施のプロポーザルに於て三菱地所設計・ランドスケープ・プラスJVが設計者に選定され、基本設計から実施設計までを手掛けて、提案された「グローバルリンク」を愛称として採用し、令和元年(2019年)11月16日にリニューアルオープンしました。
GLOBAL RING
グローバルリング
- 公園の特徴
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○天空に浮かぶリングは大地のエネルギーが渦を巻き上昇する躍動感を表現しています。
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○象徴的なリングとその中心にある噴水はかつてこの地にあった「丸池」がデザインモチーフです。
丸池は「池袋」の地名の由来ともいわれています。
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○グローバルリングシアターは屋外劇場ながら様々な仕掛けにより生演奏や演劇・ダンスなどを楽しめます。
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○海外の来街者を迎え入れるためインフォメーション機能を持つカフェがあります。
- 防災機能
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○公園は災害時に地域の一時避難場所となります。
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○大型ビジョンは災害時には情報発信の拠点となります。
- 平和の発信
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○持続可能な未来への架け橋となる平和のシンボルを設置しています。
リニューアルによって、かつてこの地にあった秩父山系に降った雨が悠久の時の中で湧き出でた丸池をデザインモチーフにした大地のエネルギーが湧き上がる躍動感をらせん状に巻きあがるリングで表現しました。6本の柱が支える五重リングのパーゴラ(グローバルリング)が設置され、その下の円形広場に沿って舞台棟やカフェ棟がつくられ、中央には噴水も設けられました。カフェ棟の運営事業者にはプロントコーポレーションが選ばれ、外国人向け観光案内所を兼ねたお洒落なカフェを運営しています。これらリニューアル事業を受けて、令和六年度(2024年)に土木学会デザイン賞優秀賞を受賞しました。
公園の入口脇に、バングラデシュから寄贈された前衛的な作品が展示されています。説明書きを読まないと、何を意味しているのか全く分かりません。
ショヒド・ミナール
言語への愛の記念碑
この記念碑は、ここ池袋西口公園でのジャパン・バングラデシュ・ソサエティ主催によるボイシャキ祭り(バングラデシュのお正月祭り)の開催をきっかけに始まった、豊島区とバングラデシュの文化交流の象徴として、平成十七年7月12日、バングラデシュ人民共和国ベガム・カレダ・ジア首相閣下から豊島区へ寄贈されたものです。ショヒド・ミナールは、ベンガル語を護った人々を称えるモニュメントであり、ユネスコ総会において全会一致で宣言された「国際母語の日(2月21日)」を象徴するものとされています。中央の部分は、母親である言語を、両側の4基は、それを守る子どもたちを表しています。
Shaheed Minar
Monument of the Love to Language
This monument was presented to the City of Toshima on July 12, 2005, from the honorable Begum Khaleda Zia, Prime Minister of the Government of the People's Republic of Bangladesh, as a symbol of the cultural exchanges between Toshima and Bangladesh, which started with the Boishakhi Mela (Bangladeshi New Year festival) held by Japan Bangladesh Society in Ikebukuro West Exit Park.
Shaheed Minar is a monument for respecting those who protected Bangla language, and symbolizes International Mother Language Day (February 21), which was determined by a unanimous vote of a UNESCO general meeting. The central part represents language as a mother, and the four figures around it symbolize children protecting the Language.
- ポイント3 東京芸術劇場
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昭和三十九年(1964年)3月31日に、東京学芸大学附属豊島小学校が小金井市に移転しました。昭和四十年代の初めに、声楽家の藤原義江が「東京にオペラハウスを」と当時の東京都知事美濃部亮吉に陳情し、相前後して池袋駅西口の闇市跡地を含む一帯の東京学芸大学豊島小学校跡地を東京都が国から入手しました。しかし、都の財政悪化で思うにまかせず、そうこうするうちに初台駅北側に開業した新国立劇場がオペラハウスとなってしまいました。一方、都の施設としては上野に比較的多目的に使える東京文化会館がありました。東京都は、昭和四十五年(1970年)10月に施設建設用地を子どもの遊び場として豊島区に管理委託して開放しました。昭和五十七年(1982年)に東京都は「東京都長期計画」財源枠300億円での事業化を発表し、純粋なコンサートホールに公立の芝居小屋をプラスした施設をということで基本構想がまとまりました。昭和六十二年(1987年)に工事が着工され、平成二年(1990年)8月18日に工事が竣工し、同年10月30日に東京芸術劇場は開館しました。また、これに併せて、昭和四十五年(1970年)に先立って開園した池袋西口公園は劇場の前庭公園として再整備され、同時にバスバース(貸切バスが乗降するために設けられた専用のスペース)が新たに設けられました。
東京芸術劇場の建物を特徴付けているのが、ホールを縦に積み重ねた積層型の構造です。その背景には、敷地の北側端を走る地下鉄有楽町線の影響がありました。大ホールは各ホールの中でも特に音楽専用ホールとしての機能が求められたため、騒音・振動のシャットアウトは必須条件でした。そこで選ばれたのが平面配置ではなく積層システムという構造でした。また、積層システムにすることで限られた敷地内に大きなアトリウムを実現させることに成功しました。平成二十三年(2011年)4月から施設の改修工事に入り、翌年9月1日にリニューアルオープンしました。外観はほぼ以前のままですが、巨大なガラスアトリウムの内部は一新され、以前は隣接する広場に開放されて半屋外的だった1階部分が今回の改修でガラスの壁と風除室によって閉じられました。もうひとつの大きな変化としては、巨大なアトリウムを横断する形で1階から5階までを一気に上っていたエスカレーターが撤去されたことでした。改修を実施した都の担当者は「完成直後から『空中に浮いたようなエスカレーターは怖い』という声があり、付け替えることにした」と説明しています。代わりのエスカレーターは、アトリウム西側の壁沿いに場所を移し、1階と5階を直接繋ぐのではなく、増床した2階を経由して、2つのエスカレーターを「く」の字に乗り継ぐ形とし、1台当たりの高低差を減らすことで恐怖感を和らげるようになっています。内装は良質な大理石を使った既存の床と壁を残したまま、木や土・鉄などをモチーフにした暖色系の内装を加えています。
令和六年(2024年)9月30日から令和七年(2025年)9月5日まで設備更新工事のため休館していましたが、工事完了に伴い翌6日に再開館しました。大ホールには、マルク・ガルニエ社の製作による、126ストップの世界最大級のパイプオルガンが設置されています。2台のオルガンを180度回転させる方式が採用されていて、ルネサンス(26ストップ)・バロック(37ストップ)・モダン(63ストップ)の各様式に対応しています。回転方式の採用は世界に類を見ないもので話題を呼びました。
池袋で「朝」呑みといえば、西口の路地に佇む「ふくろ」ですね。昭和二十八年(1953年)頃にバラック建ての酒場として創業したといわれていますが、今や立派なビルの1階から3階まで、総勢150人も入るという大きな酒場になっています。入口はふたつの路地に面していて、どちらからでも入ることができます。平日と土・祝日は朝の8時30分から23時まで営業しています。夕方4時からの営業になりますが、2階と3階にも席があります。1階は一人か二人連れが多く、2階・3階はグループのお客さんが利用するみたいです。500円のモーニングセットと14時までの700円の「ふくろ定食」があります。どちらも飲酒を伴う場合は追加料金が必要です。ふくろでお酒なしに食事することは考えられませんが。
ちなみに、毎月8日は全部の料理メニューが半額になります。私のお勧めは、刺身の盛り合わせです。ふくろの最高値メニューで、普段は800円ですが、料理半額の日は400円になります。もうひとつのメニューは天ぷらの盛り合わせです。
- ポイント4 全国伝統的工芸品センター(2012年に青山に移転済)
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伝統的工芸品の販売・紹介の拠点のひとつである、全国伝統的工芸品センターは、池袋メトロポリタンプラザから青山に移転しました。移転先はカナダ大使館の隣りで、「伝統工芸青山スクエア」として新しく生まれ変わり、平成二十四年(2012年)4月23日にオープンしていました。メトロポリタンプラザの前に大きな動輪が展示されています。
動輪の由来
ここはかつて東京鉄道教習所があり、広大な敷地に校舎、大講堂、図書館、プール、寄宿舎など立派な施設が完備され、多数の鉄道マンが勉学にいそしんだ場所である。
当時の所在地 東京府北豊島郡西巣鴨町字池袋
敷地および建物 約37,000平方米の敷地に校舎、大講堂、寄宿舎など約100棟の建物があった。
存在した時期 大正十三年(1924年)〜昭和二十九年(1954年)
またこの地は鉄道開通五十年記念事業の一環として設立認可された財団法人鐵道育英会により設立した東京鐵道中学が東京鉄道教習所内に開校し、後に東京育英中学、東京育英中学校、東京育英高等学校、芝浦工業大学高等学校と改称し、昭和五十七年まで存在していた場所でもある。
存在した時期 大正十三年(1924年)〜昭和五十七年(1982年)
これらの施設は昭和二十年四月十四日の東京大空襲で一旦焼失した。なお、この地は成蹊学園発祥の地でもあり、若者と教育に由緒深い土地柄である。
メトロポリタンホテルの手前に、元池袋史跡公園があります。
元池袋史跡公園 愛称「ふくろうの樹公園」
豊島区制70周年を記念して平成十四年2月20日、豊島区役所区長室前に「三匹の梟像」が贈られました。この年の9月、池袋の地名発祥のこの公園に「梟の樹を創る会」が区のシンボル梟を集めたモニュメントを完成。本企画に賛同された皆様からご寄付をいただきました。此処にお名前を記録させていただきます。
公園の中央には、樹に見立てたポールに梟が留まったモニュメントが建っています。
「梟の樹」梟の仲間達
◎平成十四年(2002年)豊島区制施行70周年を記念して9月28日完成。
◎公園の梟モニュメントは豊島区となる以前に昔この辺りに生殖していたと思われる梟たちと今世紀の初頭に絶滅の危機にあるといわれた梟たちです。
◎壁面に飾られている梟の絵は豊島区にゆかりある芸術家の作品です。
◎この臭の樹公園(元池袋史跡公園)から、梟像が置かれる路を梟の路と称して此れに48通りの詩が刻まれています。第1号は豊島区役所の区長室前に置かれています。
壁面には、豊島区に縁のある芸術家の作品が並べられています。
公園の奥の植え込みの中に、「池袋地名ゆかりの池」という石碑が建っています。土台にはめ込まれたプレートの解説によれば、この辺りにはかつて湧き水が湧いていて、幾つかの池があったそうです。それにより、池袋の名前が付いたとのことです。
池袋地名の由来
むかしこのあたりに多くの池があり、地袋の地名はその池からおこったとも伝えられている。池には清らかな水が湧き、あふれて川となった。この流れはいつのころか弦巻川とよばれ、雑司が谷村の用水として利用された。池はしだいに埋まり、水も涸れて今はその形をとゞめていない。これはむかしをしのぶよすがとして池を復元したものである。
公園に池はありませんが、石碑の隣に水源らしきものがあります。
此の地は、成蹊学園発祥の地だそうです。揮毫した中村春二は、明治三十九年(1906年)に現在の文京区西片に学生塾(翌年に「成蹊塾」と命名)を設立しました。これを元に中村は高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)時代からの友人である今村繁三(後の今村銀行頭取)・岩崎小弥太(後の三菱財閥総帥)らと協力して明治四十五年(1912年)に現在の豊島区西池袋に成蹊実務学校を開設しました。この成蹊実務学校が核となり、今日の学校法人成蹊学園へと発展しました。「成蹊」の名は、司馬遷が「史記」(李将軍列伝)で引用した諺の「桃李不言 下自成蹊」に由来しています。
明治四十五年 成蹊学園発祥之地
桃李不言 下白成蹊
中村春二
- ポイント5 池袋防災館
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池袋防災館は、池袋消防署の4階と5階にある豊島区防災体験学習施設で、昭和六十一年(1986年)11月9日に開館しました。
4階には受付・視聴覚教室・救急コーナー・日常生活の事故防止学習コーナーがあります。視聴覚教室では、防災教育映画や防災アニメなどを上映します。VR(バーチャルリアリティ)防災体験コーナーでは、VR技術を活用して地震・火災・風水害を疑似体験することができます。救急コーナーでは、心肺蘇生法やAEDの操作方法などの体験ができます。救急車が来るまでの数分間を無駄にしないためにも、正しい応急手当を身につけましょう。
5階には地震コーナー・煙コーナー・救助/救出コーナー・消火コーナー・図上訓練/防災ブック学習コーナー・通報訓練コーナーが設置されています。地震コーナーでは、東日本大震災や長周期地震動など5種類の地震の揺れを体験できます。地震のときに必要な行動を学習することができます。家具類の転倒・落下・移動防止対策の展示なども行っています。煙コーナーでは、煙の性質を学び、煙の中で出口を探しながら避難する体験や建物の中でもしも煙に巻かれたらどうするかといったシミュレーション体験ができます。消火コーナーでは、大型スクリーンに映し出される本物さながらの炎に向かって消火体験ができます。消火器のほかにも普段はなかなか実際に放水する機会のない屋内消火栓を使った放水体験もできます。図上訓練コーナーでは、架空の街の地図を使用して災害に備えた防災マップの基本的な作り方を学習します。災害が発生した際の危険個所や活用できる施設や設備を事前に把握して地域で防災マップを作る際の参考にできます。
- ポイント6 郷土資料館
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昭和四十九年(1974年)から昭和五十年(1975年)にかけて、豊島区は資料館建設の計画を立てていましたが、財政状況の悪化を原因に取り止めになっていました。その後、昭和五十四年(1979年)に再び検討がなされ、勤労福祉会館などと併設した形で郷土資料館を設立することが決定されました。昭和五十五年(1980年)12月には「豊島区立勤労福祉会館等建設計画調整委員会」が設置され、翌年4月には「豊島区立勤労福祉会館等建設推進委員会」が設置されました。建物の設計が終わり建築工事に着手する段になっても、郷土資料館の基本構想が策定されていなかったため、昭和五十七年(1982年)7月31日に郷土資料館基本計画検討委員会が発足しました。昭和五十九年(1984年)6月に豊島区立勤労福祉会館の7階部分に郷土資料館が設立されました。
ごあいさつ
郷土資料館は、昭和五十九年(1984年)の開館以来、多くの方々にご来館いただいています。平成二十九年(2017年)に建物の大規模改修工事に伴い、常設展示をリニューアルしました。「豊島台・本郷台に生きる〜ひと・景観・くらし〜」をテーマに、この地に人類が現れた3万年以上前から現代にいたる豊島区域の歴史を通史的に紹介します。この地域の古い景観(原風景)がわずか数百年前のものと考えられることから、その原風景が形成されていく前史と、原風景が変容し現在に至る過程を、ここに生きた「ひと」が遺した実物資料を中心にみていきます。なお、豊島区では、平成二十年(2008年)から郷土、美術、文学・マンガの3分野が連携したミ
ュージアムの開設に向けて準備を進めてきました。令和二年(2020年)に計画は見直しとなりましたが、引き続き3分野の作品資料を積極的に活用しながら、豊島区の歴史を掘り起し、文化遺産を後世に継承するとともに、新たな地域文化創造の拠点となるよう努めてまいります。寄贈者・協力者の皆様に御礼を申し上げるとともに、今後ともご協力を賜りますようお願い申し上げます。
Greetings
The Museum of Toshima City has received great many number of visitors since its opening in 1984. Recently, our permanent galleries were renewed following 2017 major repair work on the building. Here, on the theme of "Life on the Toshima and Hongo plateaus: People, Landscapes, and Livelihoods", we would like to introduce you to the general history of the Toshima City area from more than 30,000 years ago, when humans first appeared on this area, up to the present day. In addition, as what is considered to be the old or original landscape of the Toshima City area is actually thought to have been formed just a few hundreds year ago, we would also like to show you the history of how the original landscape was formed and how it has been transformed down to the present, based on actual objects left by the people who lived in this area.
Since 2008 Toshima City has been preparing for the opening of a new museum which will integrate the fields of local history, art, and literature/manga. Although the plan was revised in 2020, we will continue to actively use materials from the three fields of work, to uncover the history of Toshima City and to pass on our cultural heritage to future generations. Furthermore, we are making every effort to become a center for the creation of new local culture. We would like to thank all the donors and collaborators and we hope for further cooperation in the future.
豊島区立郷土資料館は、としま産業振興プラザビルの1フロアを使った都心の博物館で、豊島区の歴史・文化・民俗など郷土資料の展示をしています。雑司が谷鬼子母神・駒込・巣鴨を中心として、近世の江戸中期から明治期にかけてソメイヨシノを始めとして花卉と植木の生産地として栄えた園芸や菊見などの花見遊覧の風俗を紹介する「園芸の里」、大正デモクラシーと大正ロマンを表現する長崎アトリエ村(さくらがおかパルテノン)、戦後復興のエネルギーを示す池袋の「ヤミ市」の4つのテーマを主展示として構成しています。平成二十九年(2017年)10月にリニューアルオープンしました。最初に、原風景以前の豊島区が紹介されています。
原風景以前
豊島区域に生きた人びとの暮らしは、いまから3万年以上前の旧石器時代に始まることがわかってきています。日本列島にも山岳氷河が発達した寒冷な気候の氷期、人びとはナウマンゾウなど大型の獲物を追って生活の場を移動させていました。その後の気候が温暖化するなかで遺された土器や貝塚、さらに米作りのむらの出現、人ものの盛んな往来による道や町の形成と武士の登場。過去から現在へとそれぞれの時代の風景が幾重にも折り重なった上に私たちは生活しています。
The Ancient Landscape
The first human activities in the Toshima City area date back to the
Paleolithic period, more than 30,000 years ago. At that time, the earth was
in the midst of a glacial period, a period of cold whether, and alpine glaciers
covered the Japanese archipelago. People moved from place to place hunting large animals such as Naumann elephants. As the climate warmed, people began to make pottery and build shell mounds. Then, rice-producing villages emerged, and busy streets and towns were formed, followed by the rise of warriors. Thus, we are living upon the traces of each historical period, which have been piling up from the past up to the present.
弥生土器も展示されています。
米作りのむら
今から2千数百年前、米作りの技術が大陸から北部九州に伝えられ、徐々に東日本さらには東北へと広がっていきました。1800年ほど前の弥生時代後期になると、駒込や池袋本町の台地上にもむらがつくられます。なかでも、北区との境界を流れる谷田川右岸の本郷台縁辺部に営まれた、米作りのむらの痕跡である駒込一丁目遺跡では、これまでに20棟以上の竪穴住居が発見され、「弥生時代」の名称のもととなった文京区弥生(旧本郷区向ヶ丘弥生町)まで続く大規模なむらであったと推定されます。展示されている弥生土器には、煮炊き用の調理具である甕、食糧や種籾などを貯蔵する器である壺、祭りのときに食べ物などのささげものを盛り付けた器である高坏などの種類があります。
平安時代から戦国時代について解説してあります。
鎌倉街道から清戸道へ
水の乏しい本郷台・豊島台上に拡がる豊島区域は、平安時代には畠作を主な生業とする地域として歴史に現れます。そして、この地域の村々を結ぶ道や、他地域へと繋がる道が造られていきます。平安時代末には鎌倉と奥州を結ぶ鎌倉街道中道(旧道)が、現新宿区牛込・豊島区高田から宿坂を越えて巣鴨・駒込を抜け北区方面に向かっていました。神田川渡河点の豊島区側には高田宿が、対岸の高台には現早稲田大学構内を中心に江戸氏一門である松原氏の屋敷・寺院(下戸塚遺跡)があり、両者は密接な関係があったと考えられます。江戸氏を滅ぼして長禄元年(1457年)に江戸城を築き太田道灌を配した扇谷上杉氏は、本拠である河越城と江戸城との連絡路を整備します。また、武蔵守護代大石氏が築いたとされる滝の城(所沢市)及び城下の清戸(清瀬市)と江戸を結ぶ道・清戸道も注目されます。文明九年(1477年)、道灌は江古田原合戦を経て河越への道を遮断するために豊島氏が蜂起した石神井・練馬の二城を攻略し、豊島氏は没落します。
戦国時代が終焉し、江戸時代に入ります。
原風景の形成と変容
戦乱の時代が終焉を迎え、新たな村域の設定、街道整備、治水工事、農業生産力の向上などにより、日本は16世紀末から17世紀初頭にかけて新たな時代に入ります。一方、江戸城下の建設や災害後の整備をきっかけにして江戸の市街地が拡大。豊島区域も17世紀後半には農村の一部が町場化するなど、町の側面と村の側面をあわせ持つようになります。現在の豊島区の環境や景観を考える際、その原点はこの時期に求められると言えるでしょう。
The Formation of and Changes to the Original Landscape
After the age of wars, Japan entered into a new era from around the end of the 16th century and the beginning of the 17th century, with the establishment of new village boundaries, and improvements in high streets, flood control, and agricultural production. The urban area of Edo expanded following the construction of Edo Castle and its surrounding area, and the city developed even further following disasters. Some villages in the present day Toshima City area were also urbanized in the late 17th century, and the area gradually began to combine urban aspects with its rural nature. The origin of the present day environment and landscape of Toshima City can be found in this period of time.
江戸と豊島区の村についても解説してあります。
江戸大絵図
江戸大絵図は、徳川家一門である高松松平家に伝来し、万治年間(1658年〜1661年)に作成されたものと推定されています。豊島区域に着目しますと、日光御成道(現本郷通り)から分岐する現在の染井通りが新たに描かれています。また付近には、万治元年に拝領となった「藤堂大学」の下屋敷なども確認でき、区域の地図情報からも、本絵図の成立が万治年間であるということがわかります。寛永末期に作成された江戸図に比べ、大名屋敷の植栽や村の付近に多くの草木が描かれており、「板橋通」(旧中山道)沿いにある「酒井雅楽頭下屋敷」の向かい側には幕府の「御苗木畑」がみえます。17世紀後半、上駒込村の染井地区において植木屋の活動が盛んになりますが、武家屋敷が建ち並ぶなかに、緑に囲まれた当該地域の風景がうかがえます。
豊島区の村
江戸時代、豊島区域は下高田・雑司ヶ谷・巣鴨・駒込・池袋・長崎村の6村で構成されていました。その後、新田堀之内村が成立して7村となり、駒込村は上駒込村と下駒込村(文京区)に分立します。なお、上駒込村の染井地区は染井村として表記されている事例もみられます。豊島区域の村々は、幕府直轄領だけでなく、諸寺社に与えられた領知や複数の旗本による領知など、複雑に入り組んだ支配形態がとられていました。明暦の大火(1657年)の後、下高田・雑司ヶ谷・巣鴨・上駒込村に町屋・武家屋敷が形成され、江戸市街地が拡大し寺社門前町が成立しました。一方、幕領と旗本領とが混在していた池袋・長崎・新田堀之内村では主に畑作経営が行われ、江戸近郊農村として発展していきます。
寛永期の江戸全図です。豊島区域の拡大図も添えられています。
寛永江戸全図
これは豊後国臼杵藩稲葉家に伝来した確認できる最古の江戸図で、寛永十九年〜寛永二十年(1642年〜1643年)成立とされ、江戸時代初期の都市江戸の様子がわかります。豊島区域は、大名の下屋敷や起立の古い寺院が見られる他は大部分が百姓地(田畠)で、その中に村・町を示す民家が何カ所か描かれています。まだ戦国時代の様相を残す農村地帯だったのでしょう。また、高田馬場(新宿区)付近を見ると、雑司が谷から宿坂を下る道はありますが、馬場より南に延びる道はありません。それは従来、鎌倉街道中道とされた道がそれ程古く遡らないことを示します。さて、戦国大名北条氏康が作らせた「小田原衆所領役帳」に記された太田新六郎の所領には、長崎・雑司谷・高田・大根原(巣鴨の内)・池袋など区内の地名が見られ、区内の他の地名を含め地図中に場所を示しました。新六郎は太田道灌の曾孫で、このことから区内の広い範囲が道灌の所領だったと思われます。
駒込村周辺は、花卉と植木の生産地として栄えました。
江戸の緑地と武家屋敷
人口約100万人が居住していたとされる大都市江戸、およびその近隣地域には、豊かな自然があふれる緑地が広がっていました。愛宕山(港区愛宕)や飛鳥山(北区王子)といった高台から観た江戸市街の眺望は素晴らしかったようで、19世紀半ば以降に来日した外国人たちの多くは、その景観の美しさを日記や滞在記に記しています。江戸とその周辺地域の緑地は、先の飛鳥山、隅田川堤・品川御殿山への桜の植樹といった幕府政策によるものをはじめ、武家屋敷や寺社の庭園、庶民の小庭園や路地裏・玄関先の鉢植えに至るまで、多様な形で展開していました。さて、明暦三年(1657年)の江戸大火後の防火対策の一環として、御三家をはじめとする大名屋敷は城郭外へ移転し、上屋敷・中屋敷・下屋敷が整備されます。これらのなかで、下屋敷は江戸近郊に広大な面積を伴って設けられることがあり、その多くは緑豊かな庭園が占めていました。現東京都豊島区駒込四・五丁目にかけて広がっていた伊勢国(現三重県)津藩藤堂家の江戸下屋敷は、約3万坪という広大な面積を有していました。江戸とその周辺地域には、自然地形に伴う緑地はもちろん、大名屋敷庭園のように後年になって人工的に造られた緑地も少なからず存在し、その面積は徐々に広がっていったのです。
染井の植木屋と伊藤伊兵衛
江戸とその周辺地域に展開する緑地を長きにわたり維持していくためには、人の手による日常的な管理が必要です。これに貢献したのが植木屋たちの存在でした。とりわけ18世紀半ば以降、現在の東京都豊島区駒込三・六・七丁目付近(このあたりはかつて上駒込村染井という地名でした)に集住していた染井の植木屋たちの規模の大きさ、技術の高さは有名でした。彼らは、広い土地を利用して植木や鉢植え類を栽培、この地を訪れた見物客が自由に散策できる動線を用意し、また気に入ったものを入手できるようにしていました。なかでも元禄・享保期(1688年〜1736年)に活躍した伊藤伊兵衛三之丞と伊兵衛政武は、植物の栽培・管理と展示・販売、近隣の大名屋敷庭園の維持・管理、自らの経験に裏付けされた園芸書の執筆に携わり、のちに江戸で一番の植木屋という高い評価をうけました。東北地方から伊勢参りに向かう旅人たち一行が、途中江戸に立ち寄り数日間にわたって江戸見物をする際、伊兵衛の庭を訪れることもありました。染井の植木屋たちは、当時の身分制度である士農工商のなかでは「農」に属しており、領主に対して年貢を納める必要がありました。そのため、彼らは商品作物として植木や鉢植え類を栽培し、成長した植物を販売、換金し年貢を納めていたことになります。
ソメイヨシノの誕生です。
巣鴨町のにぎわいと菊づくり
江戸日本橋から1里半(約6km)の距離に位置していた巣鴨村は、もともと大都市江戸の北側に位置する農村でした。しかしながら、17世紀以降村内を走る中山道沿いを中心に町場化が進み、巣鴨町と巣鴨眞性寺門前のふたつの町は、延享二年(1745年)に大都市江戸の一部に組み込まれます。巣鴨町には、青物屋、酒屋といった小売業をはじめ、鍛冶屋、大工などの製造業、飯屋、蕎麦屋といった飲食業など多様な業種が存在していました。なかでも特筆されるのは、19世紀後半に20軒ほどあった植木屋の存在で、菊づくりで知られていました。巣鴨町の植木屋による菊づくりは、元文・寛保年間(1736年〜1744年)にまず7・8軒の植木屋が始め、花壇づくり→高づくり→咲き分けの菊などを経て、文化八年・文化九年(1811年・1812年)頃から動物や風景を菊花で表現する形づくりが出てきたとされます。季節が秋を迎え菊見のシーズンになると、全国から大勢の菊見客が巣鴨の地に押し寄せ、これを目当てにした飲食店が100軒ほど営業、そのにぎわいは巣鴨村成立以降最大の経済効果があった、とする随筆での記述も確認できます。現在の巣鴨地蔵通りのにぎわいは、この大勢の菊見客にそのルーツを求めても良いかも知れません。
ソメイヨシノの誕生とその特徴
毎年3月に入ると、テレビ・ラジオの気象情報や報道番組、あるいは新聞の紙面を桜の開花予測がにぎわせ始めます。その基準になっている桜の品種がソメイヨシノです(東京都の開花予測の標本木は靖国神社境内にあります)。多くの桜の品種のうち、日本での知名度が最も高く、また全国に分布する桜のうち80%以上を占めるとされるのがソメイヨシノなのです。”桜前線”という用語が日本全国で通用し、また地域ごとの開花予測が可能なのは、ソメイヨシノが、全国各地に分布していることはもちろん、接ぎ木等によって増やされるクローン植物だからです。つまり、すべてのソメイヨシノが同じ性質を持つため、同一の環境下では同じように成長し、毎年春になると芽吹き、開花し、散っていくのです。さて、ソメイヨシノは当初ヨシノザクラ(あるいはヨシノ)と呼ばれていました。成長が早く花付きが良いこともあり、先にみた上駒込村染井の植木屋によって、19世紀後半以降売り広められます。その後、植物学者の藤野寄命が、ヨシノザクラの伝播に貢献した植木屋が居住する地名を冠して「そめいよしの」を明治三十三年(1900年)に初めて用い、翌明治三十四年には植物学者の松村任三が学名「Prunus Yedoensis Matumura(プルヌス.エドエンシス.マツムラ)」を与え、和名であるソメイヨシノが徐々に知られるようになり、ここ数十年で定着するようになったと考えられます。18世紀半ば以降、長年にわたる染井の植木屋たちの活躍と植物栽培研究の成果が、ソメイヨシノの誕生とその後の普及につながったといえるでしょう。
時代は明治に入ります。
近代都市への道
明治維新から現在にいたる約150年間に、豊島区域は、近郊農村から副都心池袋を抱える都内有数の繁華街・住宅密集地域として大きな発展をとげます。明治後期から大正期にかけて、交通網の発達と関東大震災を機に宅地化・工業化が進み、村から町へと景観や産業が大きく転換する一方で、急激な都市化は住宅不足や衛生問題など様々なひずみをもたらしました。昭和七年(1932年)4町が合併して豊島区が誕生しますが、時代は本格的な戦争へと向かいます。
Path to becoming a Modern City
In the last 150 years, from the Meiji restoration up to today, the Toshima
City area has grown greatly from an agricultural suburb into one of the
leading downtown and high-density residential areas in Tokyo, embracing Ikebukuro as a sub center of the capital. From the late Meiji era to the Taisho era, the establishment of a public transportation system and the Great Kanto Earthquake of 1923 accelerated both housing land developments and industrialization, and transformed villages into towns with considerable changes to the landscape and the industries therein. At the same time, rapid urbanization caused various social problems including housing shortages and hygiene issues. In 1932, four adjacent towns in the Toshima area were combined into one city, Toshima City, as the entire society was gradually turning toward full-scale war.
豊島区が近代都市に変革する過程が解説されています。
近代都市への道
近郊農村から近代都市への扉を開いたのは、交通網の発達でした。明治十八年(1885年)日本鉄道の赤羽−品川間が開通し、目白駅が開業。1903年池袋−田端間の開通により大塚・巣鴨・池袋駅が、1910年に駒込駅が開業します。さらに池袋を起点に東上鉄道と武蔵野鉄道が開通し、沿線の人口増加と宅地化が進みました。豊島区域の都市化の大きな転機となったのが大正十二年(1923年)の関東大震災です。東京市域から人口が大量に流入し、市街地化が一気に加速します。1890年に1万人にも満たなかった人口が、1925年には約20万人に達しました。一方、明治後期から大正期にかけて、豊島区域には巣鴨監獄や癈兵院をはじめ、社会事業施設や教育機関が次々と進出します。さらに大正デモクラシーの風潮を背景に、「赤い鳥」を中心とした児童文化や新教育運動が目白・池袋を中心に展開したことは大きな特色といえます。産業面では、第一次世界大戦を機に工業化が進み、染織、紡績、印刷、金属機械などの中小工場が、神田川流域と池袋に集中した点に特徴がみられます。昭和七年(1932年)4町が合併して豊島区が誕生しますが、一方で、急激な都市化は住宅や教育、衛生問題など新たな地域課題をもたらしました。
地形図でみる豊島区域の変遷
- 図@
-
今から約110年前の景観です。豊島台・本郷台に4河川の谷が入り込み、尾根には千川上水が流れ、起伏に富んだ水と緑が豊かな地域でした。鉄道の開通に伴い、南東方向から都市化の波が押し寄せつつあることがわかります。
- 図A
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池袋を起点に私鉄が開通し、池袋駅周辺まで市街地化が進んだ様子がわかります。王子電車と市電が接続する大塚駅周辺は、三業地ができ歓楽街として発展します。
- 図B
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豊島区が誕生した頃の地図です。人口は約24万人に達し、旧長崎町を除いて市街地の(が?)赤色に染まっています。一方、長崎地域は耕地整理により街路が整備され、田畑が消えつつあることがわかります。
- 図C
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昭和二十年(1945年)の終戦直後の地図です。空白部分が焼失地域です。豊島区は計11回の空襲により、長崎地域を除く約7割が焼失しました。
- 図D
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終戦から12年後、豊島区は驚異的な復興をとげます。終戦時に9万人弱に落ち込んだ人口は、1960年に36万人を超え、副都心池袋を抱える過密都市へと発展しました。
戦争の時代です。
語り継ぐ・戦争
昭和六年(1931年)の満州事変以降、15年間続いたアジア太平洋戦争は多くの犠牲者を出して日本の敗戦で終わります。前線と銃後の区別がなくなり、国民全員が戦争に動員される総力戦となりました。戦地に出征した兵士や統制下で暮らす区民、集団疎開した学童、空襲の被災者たちは、どう戦争に関わり、戦後の廃墟から立ち上がったのでしょうか。戦争の記憶が風化しつつある現在、地域から戦争を見つめ直し、戦争体験を後世に伝え、平和の大切さを考えていきます。
Passing on Wartime Experiences
The Asia Pacific War, which lasted for 15 years after the Manchurian
Incident in 1931, ended in Japan's defeat and a considerable number of
victims. The war developed into an all-out war, in which the whole nation
was mobilized, whether in the battlefront or in the home front. How were
people, including soldiers sent to battlefields, citizens who lived under
government control, school children who evacuated to the countryside,
and air-raid victims, involved in the war? How did they recover from the
ruins following the war? Now that the memory of war is gradually fading
from our lives, it is becoming more important to look back on wartime
from the perspective of our local community, pass wartime experiences
on to future generations, and think about the importance of peace.
第一次世界大戦後に、長崎アトリエ村が誕生しました。
長崎アトリエ村
豊島区域は、第一次世界大戦後に都市化・宅地化が進みます。大正デモクラシー期の自由主義の風潮を背景に、児童文化・新教育運動が展開し、昭和初年には現在の要町・長崎・千早に芸術家向けのアトリエ付貸家群である長崎アトリエ村(池袋モンパルナス)がつくられます。若き芸術家たちが集い、切磋琢磨しながら創作活動を行いました。長崎アトリエ村の形成は、豊島区の都市化と文化芸術活動の潮流を考える上で注目すべき事象といえます。
Nagasaki Atelier Village
After World War I, urbanization and housing land developments in the Toshima City area advanced. Influenced by liberal trends in the Taisho Democracy period, campaigns for child culture and new education were promoted. In the early Showa era, a collection of rental houses with atelier for artists called Nagasaki
Atelier Village (Ikebukuro Montparnasse) was created in the present-day area of Kaname-cho, Nagasaki, and Chihaya. Young artists gathered there to engage in creative activities and help each other improve. The formation of Nagasaki Atelier Village was a remarkable event in the process of urbanization and in the
trends of art and culture in Toshima City.
長崎アトリエ村が解説されています。
長崎アトリエ村
1930年代から1940年代にかけて、旧長崎町を中心にアトリエ付貸家群である長崎アトリエ村が形成されます。長崎アトリエ村から池袋までを含めた一帯には、芸術家、詩人、小説家、映画人、学生たちが集住し、池袋の喫茶店や盛り場は彼らの交流の場となりました。この自由な空間・雰囲気を、詩人の小熊秀雄は「池袋モンパルナス」と名付けました。最初に作られたのは、すずめが丘アトリエ村です。昭和六年(1931年)、画家志望の孫・奈良次雄のために、祖母慶が現在の要町一丁目にアトリエ付住宅を建て、以後10数軒のアトリエ付貸家が建設されます。近くには、詩人の花岡謙二が大正十三年(1924年)から経営する培風寮というアパートがあり、数名の画家が住んでいました。1936年〜1940年頃には、アメリカ帰りの資産家初見六蔵により、現在の長崎二丁目の谷端川沿いに60〜70数軒のさくらが丘パルテノンが誕生します。若い画家、彫刻家、画学生たちが集い、切磋琢磨しながら創作活動に励みました。さらに現在の千早二丁目に10軒のつつじが丘アトリエ村が、板橋区南町にみどりが丘・ひかりが丘と呼ばれるアトリエ村ができます。やがて戦争が本格化すると、言論・思想の取締りが強化され、画材も配給制となり、召集や疎開で村を去る者が増えるなど、アトリエ村も戦時体制に組み込まれていきました。
アトリエ付住宅の平面図があります。
アトリエ付住宅の平面図
このアトリエ村模型は、現在の長崎二丁目にあったさくらが丘パルテノンの一部分を、10分の1の縮尺で再現したものです。アトリエ内部は、現在の千早二丁目にあったつつじが丘アトリエ村の彫刻家のアトリエを参考にしました。アトリエ付住宅は、一戸建と二軒長屋があり、多くは赤いセメント瓦に板壁でした。北側に作られた15畳程度のアトリエには、外光を取り入れる天窓と大きな窓が付き、3畳〜4畳半ほどの居間兼寝室、押入れと便所、台所兼玄関がありました。建設費は1軒300円〜400円程度で、家賃は13円〜22円位だったといいます。
戦後、池袋には闇市が出現しました。
池袋ヤミ市
アジア太平洋戦争の直後、東京など戦災都市の焼け跡には、食糧や衣類など生活必需品を提供する連鎖商店街(マーケット)がつくられます。その多くは統制対象の商品をヤミ取引で売っていたため「ヤミ市」といわれました。池袋には1、200軒以上のヤミ市が形成され、廃墟となった街に活気と賑わいをもたらし、人々の生活再建を支える存在となります。戦後の急激な経済復興と副都心へと発展をとげた池袋の原点をそこに見ることができるでしょう。
Ikebukuro Black Market
Immediately after the Asia Pacific War, markets offering commodities such as food and clothes were formed in ruins of Tokyo and other cities. Many of them were considered "black markets", because they illegally sold goods that were under state control. In Ikebukuro, black markets consisting of more than 1200 shops were formed. They turned the ruin into a town full of life and bustle, and supported the reconstruction of people's livelihood. Indeed, these are the origin of Ikebukuro, which made a dramatic economic recovery after the war
and grew into one of the sub-centers of Tokyo.
池袋ヤミ市の解説です。
池袋ヤミ市
戦後、焼け跡の駅前には、露天商や長屋式の連鎖商店街(マーケット)が次々とつくられます。その多くは、統制対象の商品をヤミ取引で売っていたため「ヤミ市」と呼ばれました。豊島区では、昭和二十一年(1946年)3月、池袋駅東口に東京で最初の連鎖商店街「森田組東ロマーケット」が開設し、翌年5月には駅の東西に1、200軒以上の店を擁する13のマーケットが形成されます。池袋のヤミ市が比較的早く、大規模に成長した理由として、@池袋駅が交通の要所であること。都心と郊外住宅地をつなぐ鉄道や乗合自動車が通ること。A戦時中の強制疎開による駅前の空地と広い焼け跡があること。B区西部や武蔵野鉄道・東武東上線の沿線に、大きな購買力をもつ地域を抱えていること、があげられます。東口のヤミ市は1949年から撤去が始まり、駅前開発が急速に進みます。一方、西口はその後約10間存続し、1962年末には撤去され、池袋からヤミ市は姿を消しました。ヤミ市は、戦後の貧しい時代に生きていくうえで不可欠な存在であり、復興に取り組む人々の熱気と活力にあふれていました。戦後の急激な経済復興と都内有数の歓楽街・副都心へと発展をとげた池袋の原点をそこにみることができます。
- ポイント7 自由学園明日館(みょうにちかん)
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郷土資料館から先は住宅街の入り組んだ路地に入ります。路地から分岐した更に細い路地の先に自由学園明日館があります。自由学園明日館は、学校法人自由学園が所有する施設です。大正十年(1921年)に東京府北豊島郡高田町雑司ヶ谷村に羽仁吉一・羽仁もと子夫妻により設立されました。当初は本科(5年制)と専攻科(文学科・家庭科の2年制)からなる女学校として開校しました。初年度は本科1年生26名が入学し、4月15日に最初の入学式が行われました。開校から1934年に移転するまで自由学園の校地として使用された敷地に、建築家フランク・ロイド・ライトや、その弟子だった遠藤新の設計による建物群が建てられました。学校の移転後も自由学園が所有し、「明日館」と名付けられ、もっぱら卒業生による事業などに利用されています。
国指定重要文化財 自由学園明日館
自由学園は、羽仁吉一・もと子により大正十年(1921年)に女学校として創立された。明日館はその自由学園誕生の校舎で、その設計は羽仁夫妻の教育思想に共鳴した世界的建築家フランク・ロイド・ライトで、彼は自らの建築思想を融合させて校舎を建築した。自由学園は生徒の増加に伴い、昭和九年(1934年)に東京都東久留米市に移転し、この建物は卒業生の活動の場として使われ、羽仁夫妻が自由学園と日本の教育の明日を託して「明日館」と命名した。太平洋戦争末期の空襲で池袋周辺は壊滅的被害を受けるが、幸い明日館は被災を免れた。その後老朽化が進み、昭和四十年代になると取り壊しの可能性もあったが、卒業生、建築家をはじめ多くの関係者の保存への思いが実り、この地における保存が決定した。建築の特徴は高さを抑えて水平線を強調した屋根、窓やドアなどをはじめ多用されている幾何学的デザイン、建物の中に入ると床の高さを少しずつ変えた部屋を連続させた空間構成など、「プレーリースタイル(草原様式)」というライトの第一期黄金期の作風をよく表している。昭和二年(1927年)に道路を隔てて竣工したライトの弟子、遠藤新設計の講堂とともに、これら一連の建物がライトの作風を示す典型的な建築として重要であると評価され、平成九年5月29日に重要文化財に指定された。その後、約3年間の保存修理工事が実施され、現在は「使いながら保存する文化財」として、見学はもちろん結婚式、コンサート、展示会、公開講座など多くの人が利用し、文化財建造物として保存されている。
Nationally Designated Important Cultural Property
Jiyugakuen Myonichikan
Jiyugakuen was founded as a girls' school in 1921 by Yoshikazu Hani and his wife Motoko in Ikebukuro, Toshima City. Jiyugakuen Myonichikan (the House of Tomorrow) is the original building complex of Jiyugakuen, designed by
world-renowned architect Frank Lloyd Wright. He was impressed by the couple's educational philosophy and undertook the design by incorporating it with his own architectural philosophy. Jiyugakuen was relocated to Higashikurume City in 1934 due to growing number of students and the original complex was since used by school alumni for various activities. The Hanis then named it as "Myonichikan" by committing to tomorrow's education, both in Jiyugakuen and in Japan. The areas around Ikebukuro were devastated by the air raids at the end of World War II, but fortunately, Myonichikan escaped the disaster. Demolition became an issue in the mid-1960s as aging advances, but it was finally determined to be conserved where it is, thanks to support from the alumni, architects and many others concerned. Characteristics of the buildings well represent the so-called "Prairie House" style which can be seen in Wright's first golden age, such as the geometric design frequently used in the roofs, windows, doors, etc., emphasizing the horizontal lines with reduced height, and the spatial configuration inside the buildings with the rooms arranged in succession by a little changing floor height. On May 29, 1997, a series of the buildings including the auditorium across the street designed and completed by Arata Endo,
a disciple of Wright in 1927 has been designated as an important cultural property for its typical style of Wright. After completion of about three-year restoration works, Myonichikan has been conserved as "cultural property being in use." A great many people today visit there not only for study tours but also for weddings, concerts, exhibitions, public lectures, etc.
1921年、帝国ホテルの設計のために来日していたフランク・ロイド・ライトは、遠藤新の紹介で羽仁吉一・もと子と会い、夫妻が創設を準備していた自由学園の理念に共鳴し、校舎の設計を引き受けました。設計は1921年1月から着手され、基本設計をライト・実施設計を遠藤が担当しました。1922年6月に中央棟と西教室棟が竣工し、翌1923年には中央棟の食堂に附属施設が増築され、1925年に東教室棟が建設されました。建設にあたってライトは特徴的な幾何学模様の装飾を施すために大谷石を多用しました。
1927年には、ライトの弟子である遠藤新設計の講堂が建設されました。
講堂の脇には東京第一友の会「友の家」があります。
建替前の友の家の屋上にあったフェンスが明日館に再利用されています。
このフェンスは、明日館の向い側にあった建替前の”友の家”(1962年〜2007年)の屋上に取り付けられていたものです。その友の家を設計したのは、最晩年のフランク・ロイド・ライトに師事した建築家、遠藤楽氏(1927年〜2003年)です。2007年、友の家建替えに際して、遠藤氏による美しいデザインのフェンスが惜しまれ、友の会のご好意で明日館が譲り受け、移設いたしました。
学園の敷地が狭くなったことから、大正十四年(1925年)頃から学園の移転計画を開始し、北多摩群久留米村南沢(現在の東久留米市学園町)に10万坪の土地を購入し、一部を学園の父母用の分譲住宅地として販売し、その収益が新校舎建設に充てられました。昭和五年(1930年)から移転を開始し、昭和九年(1934年)に全学部の南沢への移転が完了しました。移転を機に、旧学園には「明日館」と付記されるようになり、学園機能移転後も明日館は卒業生の社会活動の拠点として活用されました。1997年5月29日に国の重要文化財に指定されましたが、当時は「建物の中で傘をさすほど」の老朽化が進んでいて、1999年3月から2001年9月にかけて保存改修工事が行われました。鉄骨による棟の補強や屋根の漏水防止などの建物の改良工事を行った他、建具などの色を竣工時の文献に合わせて復元しました。竣工当時の建物のカラー写真が無かったため、生徒の描いた水彩画や発見された竣工当時の建具などを元に復元し、外壁はクリーム色・室外建具は緑・室内建具はこげ茶で復元されました。2003年に「日本におけるモダン・ムーブメントの建築」にも選定され、現在は文化財として見学に開放されている他、結婚式場やコンサート会場などにも利用されていて、文化財建築物を利用しながら保存する「動態保存」のモデルケースのひとつとされています。
- ポイント8 目白庭園
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再び路地に戻って進んだ先がT字路になっていますが、右手に進んで左折した先が西武線の踏切になっています。踏切を越えた右手に目白庭園があります。目白庭園は豊島区立公園で、敷地面積は2、843uあります。この敷地は元は大野家という大地主の邸宅でした。1990年に当時の造園技術を駆使して作庭され、同年11月15日に開園しました。目白庭園は、中央に配した池の周囲を5分ほどで一周できる典型的な回遊式日本庭園となっています。伊藤邦衛による作庭様式は江戸時代以来の伝統を踏襲していています。敷地の周辺は閑静な住宅街になっていて、敷地は築地塀で囲われ、入口は長屋門のしつらえとなっています。
赤鳥庵は、池南側の石垣の上に建てられた平屋建ての数寄屋建築です。童話作家の鈴木三重吉はかつて今の庭園の南東すぐ近くに居を構えていたことから、彼が発行した子供文芸誌「赤い鳥」から建物の名をとりました。また、三重吉はこのあたりの森にあった隠居家風の一軒家を借りて「赤鳥庵」という事務所にしたと伝わっていて、現在の赤鳥庵の入口上部にかけられている「赤鳥庵」の額は、三重吉の長男の珊吉が揮毫したものです。赤鳥庵では毎月第2・第4木曜日に「かるがも茶席」が催されている他、和室は茶道・華道・句会・碁会など趣味の集まりや会合で使われています。
赤鳥庵由来
この庭園内の池の南側に建つ数寄屋造り「赤鳥庵」の名称は、大正七年(1918年)にこの地で創刊された子どものための文芸雑誌「赤い鳥」にちなんだものです。雑誌「赤い鳥」は、鈴木三重吉によって主宰され、芥川龍之介、有島武郎、北原白秋、西条八十ら当時の著名な作家や詩人の献身的な協力のもとにわが国児童文学の基礎を築きました。その後、昭和十一年(1936年)に廃刊するまで、数々の名作とともに、坪田譲治、新美南吉らあらたな童話作家を世に送りだしました。その全盛期、赤い鳥社兼鈴木三重吉宅は、庭園の東側(現目白三〜十八)にありましたが、他に、このあたりの森の中の隠居家風の一軒家を事務所として借り、「赤鳥庵」と名づけていたとも伝えられています。なお、「赤鳥庵」にかかる額は、鈴木三重吉長男・珊吉氏の筆によるものです。
園内の施設としては、数寄屋建築の「赤鳥庵」の他、池の畔の「六角浮き見堂」や小ぶりの滝などがあります。植えられた樹木は約500本にのぼります。
池の中央にはカルガモが暮らす鳥小屋が設置され、毎年5月になると親子が姿を見せて庭園のアイドルとなっています(2025年10月に再訪した時には鳥小屋は見当たりませんでした)。来園者は毎日200人を超え、桜と紅葉の季節には500人ほどになります。
池には丸々と太った錦鯉が悠然と泳いでいます。
- ポイント9 ギャラリア赤い鳥
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目白庭園の直ぐ先に、鈴木三重吉(赤い鳥社)居宅の跡地に建つレンタルスペースの「ギャラリア赤い鳥」があります。
赤い鳥社・鈴木三重吉旧宅跡
鈴木三重吉は明治十五年(1882年)九月広島市に生まれた。夏目漱石門下の小説家で、代表作に「桑の実」がある。大正五年(1916年)ごろからヨーロッパ童話の翻訳に努め、大正七年七月童話・童謡雑誌「赤い鳥」を創刊し、途中休刊をはさみ、昭和十一年(1936年)六月に没するまで主宰した。「赤い鳥」は、同年十月に鈴木三重吉追悼号を出して廃刊になった。鈴木三重吉の自宅は、一時期を除いて雑誌の発行元である赤い鳥社を兼ねていた。「赤い鳥」創刊の頃には、当地よりやや東側の山手線沿い(現目白三丁目十七番)に住んでいたが、大正十一年五月から十三年十月にかけて当地の高田町字代地三五七二番地(現目白三丁目十八番六号)に居住した。その後、長崎村字荒井(現目白四丁目八番ついで五番)に移った。「赤い鳥」には、鈴木三重吉・芥川龍之介・菊池寛・小川未明・坪田譲治・新美南吉らが童話を書き、北原白秋・西条八十・三木露風らが童謡をのせ、清水良雄・深沢省三らが童画を描いた。また児童から投稿を募り、三重吉が綴り方を、白秋が自由詩を、山本鼎が自由画をそれぞれ指導した。第一次世界大戦後のデモクラシー思想や、児童中心の教育が盛んになるなかで、「赤い鳥」は芸術性の高い児童文化を形成する役割を果たした。
「GALLERIA ”L’UCCELLO ROSSO”」とは、イタリア語で「ギャラリー 赤い鳥」という意味です。
ゴール地点の目白駅に着きました。
ということで、豊島区で最初のコースである「@閑静な街と芸術散歩コース(西池袋〜目白方面)」を歩き終えました。次は豊島区で二番目のコースである「A不思議発見。ミステリーコース2(西池袋〜東池袋方面)」を歩きます。
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