- A不思議発見。ミステリーコース2(西池袋〜東池袋方面)
- コース 踏破記
- 今日は豊島区の「A不思議発見。ミステリーコース2(西池袋〜東池袋方面)」を歩きます。東京メトロ有楽町線の要町駅から立教大学を経て、山手線の東側沿いに細長く延びる池袋駅前公園の南端にある池袋四面塔稲荷大明神に参拝し、最後は巣鴨プリズン跡の東池袋中央公園で処刑された戦犯の霊を偲びます。
スタート地点:要町駅出入口5
↓
- ポイント1 ミステリー文学資料館
-
江戸川乱歩・横溝正史・松本清張・中井英夫など日本の推理小説を中心に、書籍やミステリー系雑誌などが約1万2千冊揃い、閲覧することができます。展示コーナーでは期間限定で企画展も行われています。開館時間は午前10時から午後5時(入館は午後4時半まで)、日曜日・月曜日・祝日休館。入館料300円。本の貸し出しは不可。
↓
- ポイント2 旧江戸川乱歩邸
-
小説家・江戸川乱歩は引越しを繰りかえし、46番目に見つけたのがこの土蔵付きの家でした。ここに転居して2年後に、大ヒット作「怪人二十面相」が誕生。亡くなる71才までの31年間をこの家で過したそうです。少年探偵団シリーズなどを執筆した書斎や、貴重な資料の数々が詰まった土蔵「幻影城」等は、立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センターとして公開されています。
↓
- ポイント3 四面塔
-
ここは中山道の板橋宿へ抜ける山中の四ツ辻であったため追剥ぎや辻斬りが絶えなかったそうです。一晩で17人も辻斬りに斬り殺された事件をきっかけに、享保六年に供養塔が建立されました。霊感の強い人は肩のあたりが重たくなる?かもしれません。
↓
- ポイント4 巣鴨プリズン跡
-
サンシャインシティの建つ場所には、かつて、スパイ・ゾルゲや尾崎秀実の死刑執行、東条英樹ら戦犯を収容した刑務所としても有名な巣鴨プリズン(旧東京拘置所)がありました。やがて市街地化が進んだ池袋から、昭和四十六年に現在の小菅に移転され、跡地には池袋副都心として大きな発展のきっかけとなるサンシャインシティが建造。その一角には、美しい樹々や大きな噴水のある東池袋中央公園も設けられました。今ではのどかにランチを食べるサラリーマンやOLの姿も見られるように、人々の憩いの場所となっています。公園の片隅には、永久平和を願う石碑が建てられています。
↓
ゴール地点:東池袋駅出入口4
スタート地点の東京メトロ有楽町線要町駅出入口5から歩き始めます。
要町通りを横断するように、谷端川南緑道が南北に延びています。谷端川は、かって豊島区・北区・板橋区・文京区を流れていた河川です。現在はほぼすべての区間が暗渠の下水道幹線となっています。河川としての谷端川は次のような流路で流れていました。豊島区千早と豊島区要町の境界付近にある粟島神社境内の弁天池が水源になって、千川上水の長崎村分水が現在の有楽町線千川駅付近から樋で落とされ、粟島神社の湧水先で谷端川に合わせて南流していました。西武池袋線を椎名町駅西側で越えると流れは東に曲がって山手通りと交差し、一転して北に流れを変えました。再び西武池袋線を越えて、山手通りの東側を並行するように北東に進みました。現在の立教大学の西側の有楽町線要町駅の東側を北に向かって流れ、以降板橋区と豊島区の区界に沿って流れていました。東武東上線の手前で支流を交えると、東に転じて下板橋駅の際で東上線を越え、板橋駅の北側で赤羽線の線路を潜ります。今度は北区と豊島区の区界に沿って東南へ流れ、山手線大塚駅の北側に出て、大塚駅の東側で山手線を潜った後、大塚三業通りを経て東京都道436号小石川西巣鴨線に沿って小石川植物園脇を流れていました。文京区千石・小石川と流れ、現在の富坂下を横切り、旧水戸藩上屋敷(現・東京ドーム一帯)を通って、外堀通りの仙台橋の下(水道橋の西)で神田川に注いでいました。延長は約11kmで、上流では武蔵野台地の河川としては珍しく南北方向の流れを持っていました。上流部には支流がいくつかありました。ひとつは現在の板橋区幸町と豊島区高松三丁目の間を東流し、中丸町に入り川越街道を斜断して熊野町に入り、さらに大山金井町を経て西前橋手前で谷端川に流入していたので、出端川と呼ばれていました。もうひとつは現大山30番(元千川上水大山橋)から大山駅線路の北側に出て東流し、大山金井町北部から西前橋先で谷端川に流れ込んでいました。また、豊島区東池袋の池袋六又交差点付近から板橋区板橋一丁目付近へ南北に走る「下り谷」と呼ばれる谷戸地形にも支流がありました。下流部にも指ヶ谷から小石川(谷端川)に流れ込む支流がありました。指ヶ谷の白山通りの東側を流れた支流は東大下水(ひがしおおげすい)などと呼ばれ、旧水戸藩中屋敷(現・東京大学農学部)からと、旧加賀藩上屋敷(現・東京大学)から流れるふたつの流れが東大下水に合流していました。現在、川の全域が暗渠化され、豊島区北大塚三丁目付近から文京区小石川二丁目付近までの大部分のルートを都道436号線が通っています。この通りは東京都心・下町と東京西北部とを急坂もなく緩やかに連絡するので、自転車等で往復するには重要な路線です。
谷端川南緑道の先に坂が上がっています。祥雲寺坂は、池袋三丁目と西池袋五丁目の間に位置する長さ150mほどの要町通りの坂で、坂名は祥雲寺の前にある坂ということに由来します。坂名を書いた標識はありませんが、坂の途中の交差点に「祥雲寺坂」の名前が残っています。
瑞鳳山祥雲寺
祥雲寺は後北条氏の重臣江戸城主遠山隼人正久によって、永禄七年(1564年)に江戸城和田倉門内に駒込吉祥寺の末寺として創建されたのが始りで、開山は吉祥寺安充和尚でした。当初は景久の室(北条上総介綱成の娘)の菩提所として法号にちなみ浄光院と称し、永禄七年に戦死した景久の法号から瑞鳳山浄光院と号しました。天正十八年(1590年)後北条氏滅亡に伴い遠山氏も退転したため、しばらく吉祥寺の隠居所となり、神田台(駿河台)・小日向金杉・小石川戸崎台と移転しました。寛永六年(1629年)に信州松本藩主戸田氏が壇越となり、数度の火災の復興に際しても多大な尽力をしました。宝永六年(1709年)、五代将軍徳川綱吉の死により御台所が落飾して浄光院殿と称したのち憚かり、戸田氏最初の壇越康長の法号により瑞鳳山祥雲寺と号しました。当地への移転は明治三十九年であり、重宝類は昭和九年の火災に(より)焼失しました。現在の本尊の薬師如来は、胎内銘によれば天正十七年(1589年)の造立になるとのことです。墓地には戸田家代々の墓・酒豪として知られた三浦樽明・首斬り浅右衛門の七代山田浅右衛門などの墓があります。
- ポイント1 ミステリー文学資料館
-
ミステリー文学資料館は、一般財団法人光文文化財団が運営し、ミステリーに関心を持つ作家・研究者・一般読者のために資料を収集・保存し、閲覧に供するために設立された日本で唯一かつ世界でも珍しいミステリー専門の私立図書館として1999年4月に光文社ビルの1階に開館しました。他の図書館ではなかなか手にすることのできない戦前や戦後の探偵/推理雑誌・研究書・書誌などの参考図書を自由に閲覧できます。
しかし、光文社ビルの建替えに伴い、綾辻行人展の終了後の2019年7月31日をもって閉館しました。一旦閉館となりましたが、今後もミステリー文学資料館の再開に向けての協議と活動は続けられるとのことです。
- ポイント2 旧江戸川乱歩邸
-
要町通りを西池袋五丁目交差点で右折した先に、立教大学のキャンパスが広がっています。その北東角の敷地には、かって江戸川乱歩邸がありました。その旧邸跡地に、江戸川乱歩の旧蔵書や資料を核とし、日本内外の大衆文化研究の拠点となるべく開設されのが江戸川乱歩記念大衆文化研究センターです。センターは、江戸川乱歩関連資料の整理・保存および建造物を含む乱歩関連資料の公開を中心として、研究雑誌「大衆文化」・「センター通信」の発行、乱歩邸における展示、公開講演会などのプログラムによって、幅広い大衆文化研究の成果の公開および社会還元を行っています。立教大学は、2002年に旧江戸川乱歩邸と旧蔵書(和書13000冊・洋書2600冊・雑誌5500冊)と諸資料を一括して引き受けることになりました。2003年に豊島区指定有形文化財となった土蔵の改修・補強・復元を行い、翌年には「江戸川乱歩と大衆の20世紀展」を開催しました。乱歩関連の寄託資料は、原稿・草稿・書簡・切抜資料・手帳・ノート・メモ類・戦時資料・読書ノート・評論執筆用資料・探偵小説や江戸文献に関するカード・雑誌編集や探偵作家クラブの運営に関する資料・書籍の書き込みに関する調査・脚本資料・映像資料・音声資料など種々多様ですが、それらの活用に向けて全学的規模での検討が行われ、資料を整理・分類しつつ、同時に翻刻・閲覧・公開を進めていくことになりました。また、これらの貴重な文化遺産を活用するために、対象を限定せず、幅広い大衆文化研究に結実させていくことになりました。このようにして、立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センターは2006年に設立されました。
「東京市ニ於ケル住居転々ノ図」(「貼雑年譜」)によれば、転居を繰り返した東京での江戸川乱歩の住まいは26ヶ所に及びました。そしてその26番目の住まいが、昭和七年に郡から区に昇格したばかりの豊島区池袋三丁目1626番地の家賃90円の土蔵付きの借家だったのです。昭和九年7月に江戸川乱歩は此の地に居を定めました。すぐ近くには立教大学や系列の聖公会神学院があり、これが乱歩と立教大学との不思議な縁の始まりとなりました。以後、江戸川乱歩は途中転居を考えたこともありましたが、結局は昭和四十年の没年までこの地で後半生を過ごしました。そしてさらにそれから40年近くの歳月が流れ、2002年に旧乱歩邸と蔵書・資料が立教大学に帰属することとなりました。江戸川乱歩がなぜ池袋を選び、なぜ二度と転居しなかったかはいろいろ考えられますが、その前に居た芝区車町の喧騒な環境と比較して、転居当時の乱歩邸は「梅林」・「ツツジ」・「畑」・「芝」・「築山」などに囲まれ、今とはおよそかけ離れた長閑さであったと思われます。そんな自然の豊かさが、中心部のごみごみとした雰囲気に愛想をつかした乱歩を惹きつけたのかもしれません。更に、戦時下には近隣の人々との信頼関係も生まれ、戦後は戦後で、今度は復興した池袋の繁華街が乱歩にとってホームグラウンドのような場所となりました。また、その一方で、立教大学とは家族を通してプライベートな絆が結ばれてもいきました。乱歩邸が立教大学や地域のシンボルとして生まれ変わることになったのも、こうしたさまざまな経緯を振り返れば必然の結果であったといえるでしょう。
旧江戸川乱歩邸の解説文が掲示されています。
旧江戸川乱歩邸について
江戸川乱歩は大正元年(1912年)に上京し、本郷の団子坂や早稲田の鶴巻町、芝の車町など東京各地を移り住んだ。昭和九年(1934年)、都会の喧噪を厭った乱歩は、閑静な池袋の雰囲気と2階建ての土蔵を気に入り、46回目の引っ越しを行う。以後、昭和四十年(1965年)に没するまでこの地から離れることはなかった。引っ越し当初は家賃月額90円の借家だったが、昭和二十三年(1948年)に購入、数度改築を行った。特に昭和三十二年(1957年)、メグレ警部を生んだベルギーの推理小説家ジョルジュ・シムノン(Georges Simenon)の来訪予定をきっかけに、応接間を改築、現在の形となった。2階には和室がある。
江戸川乱歩は、本名が平井太郎で、明治二十七年10月21日に三重県で生まれ、名古屋で育ちました。早稲田大学で経済を学びながらアラン・ポーやアーサー・コナン・ドイルの推理小説を愛読しました。様々な職業を経験した後、大正十二年に雑誌「新青年」に「二銭銅貨」を掲載して文壇にデビューしました。昭和二年までに「D坂の殺人事件」・「人間椅子」・「パノラマ島奇譚」などを執筆しました。休筆を挟んで「陰獣」・「芋虫」・「孤島の鬼」・「押絵と旅する男」などを発表し、昭和四年の「蜘蛛男」から「魔術師」・「黄金仮面」・「黒蜥蜴」などの長編小説を娯楽雑誌に連載しました。昭和十一年から「怪人二十面相」を「少年倶楽部」に連載し、少年探偵シリーズは晩年まで続きました。同時期から評論も多く手がけ、「鬼の言葉(昭和十一年)」・「幻影城(昭和二十六年)」などに纏められました。
戦後の乱歩と「レヴュー殺人事件」展
第二次世界大戦後、様々な出版社から探偵小説を特集する雑誌や叢書などが刊行され、江戸川乱歩の旧作も出版が相次ぐなど、探偵小説の需要は拡大していきました。流通し始めた進駐軍放出の欧米ミステリー小説を収集する江戸川乱歩の元に探偵小説作家や愛好家が集い、土曜会と名付けられた集会が開催されるようになりました。その後、土曜会は探偵作家クラブへと発展し、乱歩はその初代会長となりました。この時期の乱歩は新作小説こそ発表しませんでしたが、探偵小説ジャンルの秩序化と、その作家たちの組織化を推し進めました。それは探偵小説界を戦後の社会に順応させる試みだといえます。そのなかで、乱歩たち7人の探偵小説家が携わった舞台 「レヴュー殺人事件」の原案は、 探偵作家クラブとして初めて収益を得た活動でした。同作に関する資料からは、 探偵作家クラブ発足の軌跡と江戸川乱歩たちの知られざる奮闘を見出すことができます。
昭和二十二年に探偵作家クラブが結成され、江戸川乱歩が初代会長に就任しました。昭和二十九年に乱歩賞が制定され、昭和三十二年から雑誌「宝石」の編集に携わりました。昭和三十八年に日本推理作家協会が認可されて理事長に就任しますが、昭和四十年7月28日に脳出血のために自宅で死去しました。享年70歳でした。
探偵作家クラブ発足期の交流
第二次世界大戦後、探偵小説の作家や愛好家たちが乱歩のもとに集まるようになった。その集会は乱歩邸では手狭になるほどの規模となり、月1回の「土曜会」、そして探偵小説作家クラブへと発展していく。この時期の乱歩は、探偵小説界の中枢として、その組織化と活性化に尽力した。そして、旧知の作家だけではなく、他ジャンルを中心に活躍していた作家や映画・演劇関係者、さらには司法・警察関係者まで、様々な立場の人々をそこに巻き込んでいった。「不連続殺人事件」で第2回「探偵作家クラブ賞」長編賞(1949年)を受賞する坂口安吾もそのひとりである。「堕落論」・「白痴」を発表し流行作家となっていた安吾が探偵小説の愛好家だと知ると、乱歩は土曜会に招待している。こうして新たな人脈を築く一方、乱歩は旧友の活躍にも注目していた。横溝正史が「本陣殺人事件」を完結させると、その感想を書簡で送り、評論を「宝石」誌上に発表した。また、横溝の「蝶々殺人事件」が映画化された際には、疎開中の横溝に代わって、映画スタッフとの打ち合わせを行うなど、その制作に深く関った。
2003年3月に乱歩邸の土蔵は豊島区指定有形文化財に指定されました。乱歩邸は最初大阪市東区の坂輔男家の別宅として建てられ、その後借家となり、昭和九年からは乱歩が住み、昭和二十七年に乱歩の所有となりました。更に、それが立教大学の所有となったのは2002年3月のことであり、その後立教大学では豊島区の補助を受けて2003年度から土蔵の復原工事に着手し、2004年春に完成させました。2004年8月の「江戸川乱歩と大衆の20世紀展」以来、機会を設けて土蔵は公開されていますが、内部や蔵書類の状態を良好に保つために入口付近までの公開となっています。
土蔵の1階には、洋書や少年探偵団シリーズ本、それに近代の和書が所蔵されています。
1階
土蔵は回廊式となっており、1階の左側には、ホームズ ・シリーズや「江戸川乱歩」という筆名のもととなったエドガー・アラン・ポーの作品等、主に洋書が収められている。階段の裏には、版を重ねた少年探偵団シリーズがあり、右の棚には乱歩が執筆の際に参考とした犯罪関係や辞典、随筆など、近代の和書が配架されている。
ground floor
The storehouse contains a two-floor gallery. The left side of ground floor contains mainly foreign books, such as the Sherlock Holmes-series, and the works by Edgar Allan Poe, which became the source of the pen name "Edogawa Rampo" which are stored on the left side of the gallery. At the back of the staircase, there are several editions of youth detective series. On the right-hand side shelves, there are books which Rampo used as reference works when he was writing, such as crime reports and dictionaries but also several essay collections.
土蔵の2階には、趣味で集めた古典や自著などが所蔵されています。
2階
土蔵の2階には、趣味で集めていた古典籍や、保存用の自著などが配架されていた。乱歩は、江戸時代の和本や漢籍などを収集対象としており、それぞれのサイズに合った箱(帙)も作成していた。現在、土蔵にあるのは箱のみであり、資料自体は、立教大学図書館の書庫で保管されている。また「自著箱」と記された箱には、出版年代順に乱歩の作品が収められている。
2nd floor
On the 2nd floor of the storehouse, the classic books that he was collecting as a hobby, and the autobiography for preservation were stored. Rampo passionately collected Japanese books from the Edo era (1603-1868), and Chinese literature and poetry and he made boxes suitable for each size of books. Currently, there are only boxes visible in the storehouse, the materials themselves are kept in the Rikkyo University Library. In addition, the boxes marked as "autographed boxes" contain Rampo's works in order of publication date.
江戸川乱歩が記した土蔵の記事が遺されています。。
二階建の土蔵 江戸川乱歩
私の家には昔風の二階建の土蔵があって、その階下の全部と二階の三分の一が、天井までの書ダナになっている。種類分けをすると、国文関係が一番多い。その半分が徳川時代の和本で、全体の書ダナの約五分の一を占めている。仮名草子、浮世草子、八文字屋本などが主で、西鶴の小説のめぼしいものはほとんどそろっている。その他日本、中国の怪談書、探てい小説の先祖である裁判物語など。ほかに江戸末期の草双紙がどっさりある。和本は薄いので冊数は多く、約千種、五千冊ほどになる。第二の五分の一は国文、国史関係の洋つゞり本で、正編(?)群書類従、正編(?)史籍集覧、国史大系、図書刊行会本などが場所どっている。第三の五分の一は洋書で、犯罪関係、変態心理関係のものが多く、また、古代ギリシア関係のロエプ対訳そう書などが目立つ。まとまったものではバートンの千一夜、J・A・サイモンズの私家版を含めた全著書、カ
ーペンターの著書など。小説ではディケンズ、コリンズ、H・G・ウェルズなどの全集が揚所どっている。第四の五分の一は日本語で書かれた古代ギリシアものと、心理学、犯罪学、法医学、探てい学など。第五の五分の一が内外の探てい小説で日本のものは涙香の全著書以下大略集めている。洋本の探ていものは戦後新本、古本でむやみに買集めたので五分の一をはみ出し置場所に困っている。以上のほかに雑誌が色々あるが「風俗画報」と「新青年」のそろいが一番かさばっている。「都の花」のそろいや明治初期の雑誌もある。右の各部門ごとに珍本と称すべきものもいくらかあるがここにはそれに言及する余白がない。(探てい小説家)
公開されているのは、土蔵の入口までです。
江戸川乱歩が贔屓にしていた和菓子屋さんが池袋駅西口のみずき通りに面したところにあります。池袋三原堂は、初代齋藤助治が日本橋水天宮前の三原堂本店で修行後に暖簾分けして独立し、昭和十二年(1937年)に池袋の地で創業しました。吟味に吟味を重ねて厳選した原材料のみを用い、伝統と熟練の技術で御菓子を製造するという助治の理念は戦中戦後の困難期を経て現在も受け継がれています。
江戸川乱歩は、作品中で「この店は池袋名物のうちでも光った存在のひとつであろう」書いています。江戸川乱歩はあまり酒を飲まず大の甘党でしたが、着流し姿でフラりとお店に立ち寄っていたそうです。品物の準備が出来る間、店主との会話を楽しんだり、熨斗に自身で筆を走らせたりする事もあったとか伝えられています。
江戸川乱歩が最も好んだのは薯蕷饅頭でした。白くてまん丸のお饅頭の中に、餡子がたっぷり詰められています。読みは「じょうよまんじゅう」で、上用饅頭とも書きます。「薯蕷」と呼ばれるつくね芋と米粉で作られ、ふっくらとした柔らかい皮としっとりとしたこし餡の組み合わせが美味しい饅頭です。
この他、池袋を象徴するフクロウを象ったお店一番人気の「池ぶくろう最中」は、池袋を象徴する可愛らしいふくろうの姿に焼き上げた最中種に、お店自慢の小豆粒餡を挟み込んだ逸品です。「池袋乱歩の蔵」は、江戸川乱歩の旧邸宅に今も残る土蔵に因んだふんわりブッセで、チーズバターと杏ジャムの2種があります。
ついでに、立教大学のキャンパスにも立ち寄ってみます。立教大学は、英国国教会を始祖とする会派米国聖公会の宣教師チャニング・ウィリアムズ主教が、明治七年(1874年)に築地に設立した聖書と英学を教育する私塾である立教学校を前身のひとつとする日本屈指の伝統校です。明治十六年(1883年)、米国式カレッジとして東京大学とともに日本最高峰の教育機関である「立教大学校」を設立し、ミッションスクールの第一号として認可を受けました。これは後の帝国大学令と大学令より前に教育令によって認可された日本の先駆けとなる大学でした。蔦の絡まる煉瓦造りの歴史的建造物群とガラス張りの近代的な校舎が調和する池袋キャンパスは、都会にありながら緑豊かで、異国情緒ある洗練された美しいキャンパスとして知られています。本館前の2本のヒマラヤ杉は、1920年頃に植林されました。高さは約25メートルで、現在も成長を続けています。そのヒマラヤ杉を用いたクリスマスイルミネーションは、クリスマスの時期に池袋のランドマークとなります。イルミネーションの始まりは戦後間もない1949年頃で、当時400個余り取り付けられていた色電球は、現在1、000個以上になっていて、数こそ多くなりましたが、当時と変わらない白熱灯の灯りは訪れる人の心まで温めてくれます。
立教大学本館は、米国聖公会宣教師アーサー・ラザフォード・モリス氏の寄付によって建てられたことから、「モリス館」とも呼ばれる立教のシンボルです。1919年の落成以来、現在も教室として使われています。中央時計台の時計はイギリス・デント社製で、直径90cm・動力は分銅式で、3〜4日に一度手で巻かれています。2012年3月に改修工事が完了し、全館バリアフリーになりました。東京都選定歴史的建造物に選定されています。正門から見て右側の蔦は1924年に神学院のチャペルから移植されたキヅタで、一年中緑色をしています。左側は、1925年に目白の自由学園から移植されました。本館全体に這っているのはナツヅタで、秋には葉を落とします。池袋キャンパスを象徴するレンガ建造物は「フランス積み」と呼ばれ、一段に長手面と小口面が交互に並ぶ組積法で構築されています。非常に手間がかかる施工方法で、明治中期以降はほとんど用いられていませんが、大正期になってあえてこの方法を採用したのは装飾面でより優れている点を見越してのことだったといわれています。
東京都選定歴史的建造物
立教大学本館(モリス館)、図書館旧館、諸聖徒礼拝堂、第1食堂、2号館、3号館
所在地 豊島区西池袋3−34−1
設計者 マーフィ&ダナ建築事務所
建設年 大正七年(1818年)
礼拝堂聖別式 大正九年(1820年)
立教大学の前身立教学校は、明治七年(1874年)築地の開市場内に米国聖公会系の一私塾として開校された。その後、大正七年(1918年)に現在の池袋に移転し、大学本館(モリス館)、図書館、寄宿舎、食堂、教授住宅等が完成し、礼拝堂は大正九年(1920年)に聖別献堂が行われた。大学キャンパスの基本計画は、ニューヨークの建築家マーフィ&ダナ建築事務所によるもので、大学の主要な機能をもつ大学本館を据え、左に図書館、右に諸聖徒礼拝堂(チャペル)を配して正面を構成し、さらに中央の軸線を延長して、中庭を囲んで学生食堂を中心に左右に寄宿舎を整える構成となっている。各建物の意匠はゴシックリヴァイバル様式を基調とし、簡素でありながら重厚な赤レンガ造りでまとめられている。
豊島区内のあちこちに、「ふくろう」と「みみずく」の像が置かれています。立教大学5号館角の旧江戸川乱歩邸に向かう通りに、「梟の樹を創る会」によるふくろう像(第4号)が設置されています。また、立教大学にほど近い西池袋公園には、豊島区政施行80周年を記念して記念碑が建立されています。ちなみに、作詞者は立教小学校六年生だそうです。
梟の路のふくろう像 其の弐拾六号
空く
いざ探究せよと
智慧の梟
翼広げる
立教の森
池袋駅の西口から飲み屋さんがひしめく線路沿いに進み、JR・東武線の線路を跨ぐ池袋大橋を渡り、橋の途中で人道橋に入って反対側に出ると、そこに豊島清掃工場があります。豊島清掃工場は、山手線その他と埼京線と川越街道・首都高速5号池袋線に囲まれた三角地帯に立地しています。清掃工場の出入口は、「健康プラザとしま」の高層ビルの裏手の道路に面しています。清掃工場には、ゴミの焼却によって発生する排ガスを綺麗にした状態で大気に放出するために煙突が備えられています。清掃工場の煙突は47メートルの比較的低いものから、210メートルの高層のものまで様々です。その中で最も高い煙突を備えているのが豊島清掃工場です。豊島清掃工場は都内有数の繁華街の一角にあり、近くにはサンシャイン60(高さ239メートル)があることから、煙突の高さが210メートルになりました。
- ポイント3 四面塔
-
池袋駅前公園は、池袋駅東口から北へ向かう道と山手線の線路との間を埋めるように細く長く続く公園です。開園は1953年で半世紀以上の歴史がありますが、2000年に改修され、タイル舗装された遊歩道を持つ現代的な公園になっています。公園からは豊島清掃工場の高い煙突がよく見えます。公園のゲートやベンチも都会的でスタイリッシュです。 敷地内には、池袋水天宮や池袋駅東自転車駐車場の入り口もあり、変化に富んでいます。季節毎に、沢山の桜の木や花壇の花が目を楽しませてくれます。池袋水天宮は、昭和三年に当時の池袋の有志が池袋繁栄策の為に、日本橋蛎殻町の水天宮の御礼を頂いて祀ったのがその始まりです。その後地主の都合によって数回移転をし、終戦後に現在地の池袋駅前公園内に社殿が造営されました。現在では、地域の集会や例大祭等を介して、コミュニティの場として地域のシンボルとなっています。平成十二年に豊島区の池袋駅前公園改築工事に伴い、近隣地域住民の熱意により老朽化の目立つ水天宮の社の全面改築工事を完成されました。
水難避け・安産・子授け・商売繁盛・厄払い・延命長寿・開運の神
池袋水天宮
御祭神 天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)
安徳天皇 第八十一代
建礼門院 高倉天皇の中宮・安徳天皇の母君
二位ノ尼 平清盛の妻・安徳天皇の祖母
・建礼門院の母
今から八百年昔、寿永四年(1185年)、日本の国は源氏と平氏の二つに分かれて戦った。最後の決戦の場になった赤間関(下関市)の沖合、壇ノ浦の戦で敗れた平家の女官、按察使の局が源氏の目を逃れ久留米付近に落ちのび、一門と共に入水された安徳天皇、建礼門院、二位の尼の御霊をささやかな祠をたててお祀りしたのが創めです。さらに天御中主大神(この国をつくったと伝えられる神)を祀り、やがて平家の三方とこの神の四柱を祀るこの祠を水天宮と称されるようになりました。慶長四年(1600年)有馬豊氏は、家康から筑後川沿岸を領有する久留米藩主を命ぜられました。二代目有馬忠頼は、このあたりの村人たちが厚く水天宮を敬うのを知ると、立派な新社殿を建て寄進しました。この水天宮さまは筑後川のほとりにあったので、元来は名のように水を司る神様で水天竜王ともいいます。阿蘇、九重の連山に源を発し、有明海に注ぐ九州第一の大河筑後川は、静かに流れているときは豊かな米、麦の実りを助けますが、大雨が降り続くとまるで狂った竜のように暴れて、人家を呑み田畑を流します。やがて藩主有馬頼徳の時代になって、参勤交代で江戸へ来ているあいだも郷里の天候が心配で、文政元年(1818年)久留米の水天宮を江戸の藩邸内(港区赤羽)に分霊して祀り、筑後川の氾濫がなく、五穀が実るように祈願することにしたのです。そのころの江戸は世界一の大都市であったといわれており、また諸国から集まって来る大名が多くの家来を連れて江戸へやって来るので、水天宮も参拝人で大層賑わったのです。明治維新により藩邸が接収され有馬邸が青山に移ると共に青山へ、さらに明治五年現在の日本橋蛎殻町に御鎮座致しました。そして池袋水天宮は、昭和三年に当時の池袋の有志の方々が池袋繁栄策の為に、日本橋蛎殻町の水天宮の御礼を頂いて来てお祀りしたのがその始まりです。その後地主さん方の都合によって数回移転を致し、終戦後現在地の池袋駅前公園内に御社殿を御造営申し上げたのです。更に地域発展の為に協力援助に立ち上がられた方々が、池袋水天宮奉賛会の皆様です。その後、東池袋一丁目中央町会が奉賛会の運営を引き継ぎ、豊島区及び地域住民及び氏子皆様方の格別なるご支援とご協力の元に、護持されてまいりました。現在では、地域の集会や例大祭等を介して、コミュニティの場として地域のシンボルとなっています。平成十二年、豊島区の池袋駅前公園改築工事に伴い、老朽化の目立つ水天宮の御社の全面改築工事を、近隣地域住民の熱意によりここに完成されました。
「池袋四面塔稲荷大明神」は、盗賊の犠牲者を供養するために建てられた四面塔の脇に祀られたお稲荷様です。
四面塔尊は、法華経のお題目を刻した石塔を祀っています。
四面塔の祠の中には、石塔が鎮座しています。壁には、「四面塔尊の由来」と題した案内板が掲示されています。
四面塔尊の由来
今から約二百八十年前の享保の頃(徳川幕府八代将軍吉宗の頃)高田雑司ヶ谷と板橋を結ぶ街道と礫川と東長崎を結ぶ街道との四ツ辻付近(現在の西武線池袋駅東口)は、夕方になると追はぎや辻斬が出没し、夜はその難を逃れる為通行する人が途絶えました。享保六年の夏、一晩で十七名の辻斬残骸があり、この不祥事を憂いて、池袋村民有志六十四人が雑司ヶ谷鬼子母神威光山法明寺第二十二世日祖上人に供養をお願いし、享保六年九月、法華経のお題目を刻した石塔を建立して無縁仏の霊を供養しました。正面にはお題目、右側面には、北方板ばしみち、左側面には、南方高田雑司ヶ谷道が記され、道標としても使われました。この塔は四面塔尊と称され、以来、法華経の功徳により災難は解消されました。
- ポイント4 巣鴨プリズン跡
-
東池袋中央公園は、巣鴨刑務所跡地の再開発事業により、サンシャイン60などのビルとともに造られました。周囲を鬱蒼と茂る森が囲み、街の雑踏から隔離された静かな公園です。遠くから眺めると、遙か池袋の天を仰ぐサンシャイン60とプリンスホテルの足元を彩る小さな森のようです。近代的なこの公園に梢を連ねる樹木はセコイアを始め、モッコクやヤマモモ・マテバシイなどで、特に正面 入口付近に列植された24本のラクウショウは秋の紅葉が見所です。他に、都内では希少なセコイアセンペルビレンスも見られます。秋にはエントランスのラクウショウ並木が赤茶色に染まり、冬には葉を落として季節の移り変わりを教えてくれます。広々とした園内には黒い自然石で作られたカスケード風の池があり、小さな滝のように水が流れ、落ち着いた雰囲気です。水の音や、キラキラと光る水面の太陽がロマンチックな時を演出します。少しだけ雑踏を離れ、のんびりと日向ぼっこや緑の散策が楽しめます。
東池袋中央公園辺りには、かつて巣鴨プリズンがあり、東條英機らA級戦犯7人とBC級戦犯54人が処刑されたことでも有名で、日本史における歴史ある場所でもあります。そうした背景もあって、公園に入って直ぐのところには「永久平和を願って」と力強く刻まれた「平和の碑」が建てられています。
永久平和を願って
第二次世界大戦後、東京市谷において極東国際軍事裁判所が課した刑及び他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。戦争による悲劇を再びくりかえさないため、この地を前述の遺跡とし、この碑を建立する。
ゴール地点の東京メトロ有楽町線東池袋駅に着きました。
ということで、豊島区で二番目のコースである「A不思議発見。ミステリーコース2(西池袋〜東池袋方面)」を歩き終えました。次は豊島区で三番目のコースである「B桜・ツツジの花香る町散策コース(駒込方面)」を歩きます。
戻る