B桜・ツツジの花香る町散策コース(駒込方面)  

コース 踏破記  

今日は豊島区の「B桜・ツツジの花香る町散策コース(駒込方面)」を歩きます。JR山手線駒込駅からソメイヨシノ縁の地を巡り、染井霊園で偉人達の墓に詣でます。

スタート地点:駒込駅北口
ポイント1 染井吉野桜記念公園
平成九年に駒込駅北口駅前広場に開園。池や流れる水などの演出もあり安らぐ公園です。「染井吉野桜発祥之里」の記念碑や、染井吉野桜の原種と言われる2種類の桜があります。
ポイント2 大国神社(だいこくじんじゃ)
天明三年に創建され、祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)。木彫りの七つの大国神があり、大黒天像の福運があるとされています。徳川家斉(とくがわいえなり)が、鷹狩の帰りにこの神社に立ち寄り、その後に十一代将軍となったことから、出世大国や日の出大国とも呼ばれています。
ポイント3 妙義神社(みょうぎじんじゃ)
区内最古の由緒ある社で、祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)。江戸城を築いた太田道灌が、足利成氏との合戦の際に、ここに詣で勝利をおさめたことから、「勝戦(かちいくさ)の宮」とも呼ばれています。
ポイント4 旧丹羽家門と蔵
染井を代表する植木職人として活躍した丹羽家の敷地に残る門と蔵を保存し、「門と蔵のある広場」として整備しました。門は腕木門と呼ばれる形式で、建築年代は江戸時代後期と推定されています。蔵は鉄筋コンクリート造りで築後70年以上が経過していますが、保存状態が良く当時の姿を残しています。どちらも有形文化財として保護され、駒込の歴史を物語るシンボルとして地域の方々に親しまれています。
ポイント5 西福寺(さいふくじ)
染井の植木屋の菩提寺として有名。八代将軍徳川吉宗に気に入られ、江戸城内の庭師も勤めていた植木屋、伊藤家の四代目・伊兵衛政武の墓があり、貴重な園芸書「地錦抄(ちきんしょう)」も保管されています。山門右手には、区内最古の六地蔵もあります。

注釈:六地蔵とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人道・天道の六つの世界を供養するもの。
ポイント6 染井稲荷神社
旧上駒込村字染井の鎮守。江戸時代は西福寺が別当でした。本殿には、俵藤太むかで退治の絵馬があります。
ポイント7 十二地蔵
享保十五年の大火による犠牲者の冥福を祈るため建てられたものと言われています。十二体の地蔵の由来は定かではありませんが、地蔵さまの上部に描かれているのが雲の絵ではなく、火や煙のような絵であることからも、大火を描いたのではないかということです。
ポイント8 専修院
明治四十三年に浅草から移転。植木屋・伊藤伊兵衛の屋敷跡として知られています。なかでも3代目の三之丞は、ツツジの栽培に力を注ぎ、染井のツツジは江戸の名所として一躍有名に。この地を中心に染井村は園芸の里として賑わいました。
ポイント9 染井霊園
明治五年に雑司ヶ谷霊園、青山霊園とともに開設された公営の共同墓地。元は建部内匠頭(たけべたくみのかみ)下屋敷跡で、西側には谷戸川源泉の長池があったそうです。二葉亭四迷、高村光雲、岡倉天心など著名人の墓があります。春には、100本近くのソメイヨシノがいっせいに咲きます。
ポイント10 染井吉野の碑
巣鴨駅前の、山手線沿い桜並木の入口に、染井吉野の碑があります。昭和四十八年に染井吉野が豊島区の木に指定され、昭和五十五年に近隣の人たちによってこの碑が建てられました。
ポイント11 徳川慶喜梅屋敷跡
十五代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が、明治三十年から4年間住んでいた屋敷跡が巣鴨にあります。邸内には梅の木がたくさん植えられていたため梅屋敷と呼ばれていたそうです。住居は残っていませんが、平成十年7月に、跡地の碑が建てられました。

ゴール地点:JR巣鴨駅正面口


スタート地点の駒込駅北口から歩き始めます。駅のホームからは、線路沿いの土手の斜面に植えられた約700本のツツジが赤・白・紫など様々な色に群れ咲く様子を眺められます。駒込駅のツツジは、1910年の駒込駅開業を記念して、近隣の植木屋さんによって植えられたものです。豊島区のツツジは、1656年に九州地方の霧島山のツツジ3種が染井(現在の豊島区駒込)の植木屋の伊藤伊兵衛に分け与えられたことから始まりました。伊兵衛はこの霧島ツツジの栽培に成功し、染井のツツジは江戸中に広がっていきました。



ポイント1 染井吉野桜記念公園

一斉に咲き揃い、散り際が見事なことから、日本中に植えられているソメイヨシノは駒込のこの地域で作り出されました。JR山手線駒込駅の駅前広場を地下駐輪場と共に公園として整備した際に、このことを記念して園名がつけられ、「桜の里」の碑が建てられました。都会的な舗装の広場で、駅前にふさわしい魅力的な空間になっています。例年、3月下旬から4月上旬が桜の見頃になりますが、今は4月下旬で、既に葉桜になっています。



園内には、ソメイヨシノの原種と言われる江戸彼岸(エドヒガンザクラ)と大島桜(オオシマザクラ)が植えられ、サクラ同士が比較できます。


コンクリートの土台に囲われたこの2本の木かな?


桜の品種である「染井吉野(ソメイヨシノ)」が誕生した旧染井村が現在の巣鴨から駒込に跨がる地域にあったということで、「染井吉野櫻発祥之里 駒込」の碑が巣鴨警察署駒込駅前交番のすぐ横に建っています。

染井吉野櫻発祥之里 駒込

駒込の一部は江戸時代染井と呼ばれ、巣鴨とともに花卉・植木の一大生産地であった。この地で江戸時代以後数多くの優れた園芸品種が誕生したが、なかでも染井吉野は、当地の地名から名付けられ、世界を代表する桜の品種となった。左の絵は、植木屋の第一人者、染井の伊藤伊兵衛の庭で大勢の人が花を愛でている様子である。

The Land of Somei-Yoshino Cherry Blossoms-Komagome

During the Edo era, a part of today's Komagome town was called "Somei" In those days, Somei and neighboring Sugamo were famed for their plants and flower businesses. Numerous superior hybrids have been created in this village, early examples of modem bio-engineering techniques since Edo era. One of the most successful creations of that era was a certain species of cherry tree. It was named Somei-Yoshino, after the village. This is the flower that people throughout the world know as the "Japanese cherry blossom". The illustration at left depicts a crowd in a garden, admiring cherry blossoms grow by lhei Ito, the most renowned plant nurseryman of his day in Somei.




この碑には、染井村の植木職人だった伊藤伊兵衛の家の庭で桜の花を愛でる人たちが描かれた浮世絵も添えられています。

染井之植木屋(絵本江戸桜) 北尾政美画 享和三年(1803年)

「花屋の伊兵衛といふ、つつじを植しおびたゝし、花のころ八貴賤群集す、其外千草万木かずをつくすとなし、江都第一の植木屋なり、上々方の御庭木鉢植など、大かた此ところよりささぐること毎日々々なり」とあります。




本郷通りの歩道脇に、旧駒込橋の親柱と欄干が保存されています。旧駒込橋は、大正十二年(1923年)から昭和初期に架けられた山手線の跨線橋ですが、平成三年(1991年)に東京メトロ南北線の工事に伴って駒込橋が架け替えられた際に親柱と欄干の一部がこの場所に保存されました。



現在の駒込橋です。



ポイント2 大国神社

染井吉野桜記念公園と本郷通りを挟んだ向かい側に大国神社(だいこくじんじゃ)があります。門内に簡素な鳥居が建つ小さな神社です。



大国神社は、神職を務める大島家の先祖が下野国都賀郡大川島村(現在の栃木県小山市大川島)の出身で、創建前は武蔵国豊島郡稲付村(現在の東京都北区)に住んでいました。天明三年(1783年)に屋敷内に小祠を祀ったのが神社の始まりで、駒込の地に移住した際に小祠も此の地に遷しました。大国神社の祭神は大己貴命で、大黒天(大黒様)を祀る神社として信仰を集めています。ただ、ご神体は大己貴命というよりは、米俵に乗り福袋と打出の小槌を持って微笑む典型的な「大黒様」の姿をしています。第十一代将軍徳川家斉がまだ世子だった頃、鷹狩の帰りに立ち寄って、その後まもなく征夷大将軍に就いたことから、「出世大黒」あるいは「日出大黒」と呼ばれるようになりました。新門辰五郎は、江戸時代後期の町火消・鳶頭・任侠で、「浅草寺」の門番を務めた任侠です。任侠の中でも図抜けた資金力を誇り、江戸庶民の娯楽の場であった浅草で名を馳せた任侠ということもあり、没後は多くの題材となり人気を博しました。

大國神社について

一、由緒
天明三年(1783年)に、当大島家の先祖が、現在の地におまつりしたもので、明治十二年(1879年)、当時の大総代細川潤次郎男爵の協力を得て神社としての体裁を整え、現在に至っています。
二、祭神
大己貴命(おおなむちのみこと)
(大國主命 おおくにぬしのみこと)
一般には、「だいこくさま」
三、神徳
@人生に食物を供給してくださいます。
A労働を教えてくださいます。
B病気をはらってくださいます。
C知恵を授けてくださいます。
四、祭祀
甲子祭(きのえねさい 干支が「きのえ ね」の日(六十日ごと))
開運千人講祈祷祭 毎月一日
五、授与神符
木札 開運守 肌守(災難除け) 交通安全守 金運守 健康守 学業成就守 開運絵馬
六、その他
江戸時代より、信仰者は徳川第十一代将軍家斉公をはじめ、武家・町家・農家を問わず広く各層にわたり、幕末には侠客として名を馳せた新門辰五郎、明治に入って前記の細川潤次郎文学博士など著名人の名も見えます。

昭和二十年四月十三日の戦災により本殿以下五棟が焼失、戦後まもなく本殿・拝殿・鳥居・神灯門が建てられましたが、老朽化に伴い平成二十一年より社殿・社務所の新築ならびに境内整備工事を進め、平成二十三年末に完成しました。




明治十二年(1879年)に、当時の大総代細川潤次郎男爵の協力を得て神社としての体裁を整え、現在に至っています。細川潤次郎は、幕末に土佐藩士として藩政に参加し、明治維新後は法律起草のエキスパートとして法制学者・教育者として活躍しました。平民に苗字を許す規定を提案した人物としても知られています。日本の近代法導入の功績が高く評価され、男爵を授けられました。境内に細川潤次郎男爵が揮毫した石碑が建っています。


読み取り断念。。。


JR駒込駅前から女子栄養大学入口付近までの間の本郷通り(旧鎌倉街道)を妙義坂といいます。逆「く」の字型に緩やかにカーブした長さ約260mの坂です。坂名は、近くに妙義神社があることに由来します。坂上の駒込駅前(駒込駅を出て本郷通りを挟んで向かい側)に東京都が設置した標識が建っています。

妙義坂

坂の西方駒込三丁目にある妙義神社が坂名の由来であり、「大日本名所図会」に「妙義神社は駒込妙義坂下にあり、道路の西に、「これよりみょうぎみち、やしろまで半丁」と記せし石標を建つ。(中略)当社の祭神は日本武尊にして、左に高産霊神、右に神功皇后、応仁天皇を奉祀す。社伝に「日本武尊東征の際此地その陣営となりたれば後に一社を建て白鳥社と号す」と記されている。




妙義坂の右手に子育地蔵尊が建っています。

駒込妙義坂子育地蔵尊

この地蔵尊は、日光御成道(本郷通り)の妙義坂の途中に祀られています。地蔵尊の由来は古文書に次のように記されています。

「寛文八戌申年十月、旧邸ノ南丘陵ノ地へ間口二間、奥行三間ノ堂宇ヲ建設シ、地蔵尊像(石造丈二尺三寸)一体ヲ造立、同堂二安置シ子孫繁栄ヲ誓願ス。爾来有志ノ老若男女、毎月此堂二集シ念仏供養ヲ営ム。此地ハ今井家始祖ノ墳墓ノ旧跡地ト云傳。又堂宇ノ西拾間余地小丘アリテ三ッ塚ト称スル塚アリ。是ハ南北朝ノ官兵戦死者及び新田、今井ノ両家ノ諸士戦死ヲ合祀セシ地ト云傳」

これによれば、寛文八年(1668年)に駒込の今井家が子孫繁栄を祈願して地蔵尊とお堂を建立し、以来地元有志によって毎月念仏供養が営まれたことがわかります。戦前は七十坪ほどの境内に多くの供養石像が並列し、節分には豆まきが盛大に行われ、二十四日の縁日には夜店が立ち並び、大変賑わいました。昭和二十年四月に大空襲でお堂が焼失し、戦後ここに駒込診療所が開設し、その一角に祀られました。現在は城官寺(北区上中里)の境外地蔵尊として祀られています。地蔵堂内に、おかっぱ頭のセーラー服姿の童女が片手に宝珠を持ち、もう一人は錫杖を持って手をつないでいる供養碑があります。これは昭和八年にこの近くで交通事故にあって亡くなった十一歳の仲良しの少女を供養するために建てられたもので、以後子育地蔵尊とともに地域の安全を見守り続けています。平成十八年四月、駒込駅前通り商店街振興組合創立五十周年および駒込二丁目親和会戦後六十周年の記念事業として、新地蔵堂の建立と境内改修が行なわれました。




江戸時代から続く地蔵尊ですが、昭和初期に起きた交通事故で亡くなった仲良し少女の像も祀られています。



妙義坂下で本郷通りから左手の小路に入った右手に、女子栄養学園という名称で昭和十二年(1937年)創立の女子栄養大学短期大学部のキャンパスがあります。国内で最初に認可された短期大学149校の1校として、昭和二十五年(1950年)に1学科体制で開学しました。開学当初から栄養士を養成する学科が設置され、過去には全国の短大でも唯一の食物栄養学科U部(夜間)が設けられていました。尚、女子栄養大学短期大学部は令和八年度(2026年)から男女共学となり、新たな大学名「日本栄養大学」に改称されることになっています。



ポイント3 妙義神社

女子栄養大学と道路を挟んだ反対側に豊島区最古の神社とされる妙義神社があります。かつて日本武尊が東征の際に当地に陣を敷いたといわれ、白雉二年(651年)に日本武尊を祀る神社が創建され、古くは「白鳥社」と称していました。文明三年(1471年)に太田道灌は古川公方・足利成氏との合戦に出陣し、妙義神社に神馬・宝剣を奉納し戦勝祈願を行いました。その際、道灌とその家臣の樋口兼信が神前に供えたと伝わる歌が遺されています。

   雲払ふこの神垣の風の音   道灌
   草をも木をも吹きしほり行  兼信

足利成氏との合戦に勝利した道灌は、凱旋した際に妙義神社に社領十五貫文を寄進しています。文明九年(1477年)には豊島勘解由左衛門との戦いでも戦勝祈願して勝利し、文明十一年(1479年)には千葉孝胤との境根原合戦の際にも、戦勝祈願をして勝利しました。道灌は30回以上もの合戦を戦い抜いて勝利を収め、ほぼ独力で主君扇谷上杉家の危機を救いました。太田道灌が戦勝祈願をして崇敬したことから、「戦勝の宮」・「勝軍宮」・「勝負の神様」として崇敬を集め、境内社には太田道灌を祀る末社も鎮座しています。現在は狛猫がいる神社としても人気を博しています。

妙義神社

御祭神
日本武尊・高御産霊神・神功皇后・応神天皇

由緒
文化・文政期(1804年〜1829年)に編纂された「新編武蔵風土記稿」には、日本武尊が東征の時に此地に陣営をしき、白雉二年(651年)五月には社を建てて白鳥社と号した、と記されている。これによれば、区内最古の神社ということになる。一方、「妙義坂之神社縁起」の記述によると、新田義貞の大叔父今井惟氏の裔孫、今井茂義が永享の乱(1438年)の折に関東管領上杉憲実へ味方し、その忠功から駒込の地を興えられたという。茂義は、翌年(1439年)八月、本拠地だった上野(群馬県)新田神明邑の神明宮に勧請し、荒廃していた此地に宮廟を造営して当所に祀ったと縁起に記されている。また文明三年(1471年)には、上杉定正の家臣太田道灌より、今井茂義に檀所の跡を宮所とするよう要請があり、その年の五月、道灌が足利成氏との戦の前に当社へ参詣して、神馬・宝剣を捧げ戦勝祈願している。その際、「雲払ふ 此神垣の 風の音」と連歌を詠み、この戦で成氏を敗走させた。道灌はさらに文明九年(1477年)豊島勘解由左衛門との戦の折に、そして同十一年(1479年)千葉孝胤の攻略の折にも、当社へ戦勝祈願のため参詣している。こうした古事から「戦勝の宮」とも呼ばれ、信仰を大いに集めた。天正年間(1573年〜1592年)になると、松田尾張守康秀の計りごととして神領ことごとく没収されたが、寛永八年(1631年)二月に今井庸義と源政隆が、荒れ果てた此地に宮殿を造営し小社を建てて宮地に遷したと縁起に記されている。天明六年(1786年)になると、豊後国(大分県)府内藩藩主から、今井家邸地と地続きの妙義社裏地計五千百二十余坪を下屋敷として抱地にしたい旨申し出があり、十代藩主松平左衛門尉近説(松平定信の孫)の代に至るまで、藩の庇護を受けた。明治維新(1868年)後は、版籍奉還と廃藩置県により府内藩から土地が返還された。その後は、大正十二年(1923年)九月、関東大震災で大きな被害を受けたものの、今井三枝子・扶により社殿が再建、地元の方々の協力も得て、昭和五年(1930年)九月に社務所が建てられた。残念ながら昭和二十年(1945年)四月の空襲で全て灰燼に帰したが、空襲後ただちに地元の罹災者五百五十名を、当社を含む今井邸にて収容し、救助救援にあたったことが「豊島区史 通史編二」に記されている。戦後は、氏子崇敬者の協力によって、昭和四十年(1965年)に社殿が、翌年には社務所が再建された。今般、災害発生時の避難所としての役割を兼ね備えるため進めてきた当社造営事業が、令和二年(2020年)に氏子崇敬者総奉賛のもと、めでたく成し遂げられた。




妙義神社は、江戸時代には「戦勝の宮」・「勝負の神様」として崇敬を集めていました。令和二年(2020年)に竣工した妙義神社の新社殿の扁額には「勝軍宮」と記され、拝殿には昇龍の彫刻と降龍の彫刻が施されています。



ポイント4 旧丹羽家門と蔵

駒込小学校に隣接して「門と蔵のある広場」があります。駒込(染井)は、江戸時代から植木の一大生産地として知られ、植木職人が多く集住した地域でした。丹羽家は天明年間(1780年代)から明治時代末期まで染井を代表する植木屋として活躍し、染井地域の地主としても知られている旧家でした。丹羽家の旧屋敷地は、染井通りのほぼ中央に位置し、平成十八年(2006年)から豊島区の広場として整備が進められ、北角の蔵と西隅の門が区の所有となって現地保存することになりました。旧丹羽家住宅蔵は、国の登録有形文化財に指定されています。



イベント時には一般開放され、蔵内のスペースを利用して、地域ゆかりの写真などを展示しています。

国登録有形文化財
旧丹羽家住宅藏

この蔵は、丹羽家に残されていた記録から、昭和十一年(1936年)の建築であることがわかっています。もとは主屋の北側に木造二階建ての蔵が建っていましたが、八代目茂右衛門が、九代目の結婚の際に主屋の増改築とあわせて、鉄筋コンクリート造りのこの蔵に建て直しました。蔵は出入口を東面に設け、増築した六畳間と廊下で主屋とつながっていました。出入口の観音開きの鉄製扉の内側に家紋(五三桐)が付いています。また扉上部と両脇の柱に大理石が貼られるなど、装飾に気を使っている点が注目されます。外壁は、昭和初期の土蔵や店舗などに多く用いられた工法である、モルタル下地に大理石の砕石粒洗出し仕上げになっています。また外壁の腰巻、水切り、雨押え、鉢巻などの細部や、窓の庇の銅板葺きなどに職人の丁寧な仕事ぶりがうかがえます。蔵の内部は、地下に収納庫を設け、床板には檜板を用い、壁はモルタル下地に漆喰塗りで仕上げています。特に一階の天井や梁(はり)化粧面取りなどに当時の左官技術がよく表れており、意匠的にも優れています。このように、旧丹羽家蔵は、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造でありながらも、細部には職人の技術や建築主のこだわりが見られます。建築後七十年以上が経過していますが、昭和初期の建築当時の姿を残しています。これらの点が評価され、平成二十年(2008年)三月七日に国の登録有形文化財建造物になりました。




旧丹羽家の門は腕木門という形式で、簡素な構造となっていますが、格式のある門です。建築年代は不明ですが、当初材である親柱には和釘が使用されていることや、親柱・冠木・扉などの風蝕の様子、根継部の「弘化四年未年九月十二日継」という墨書、都内の類例との比較などから、江戸時代末期の建築と推定されています。屋根や部材にかなり傷んでいる部分があるため、豊島区の指定文化財になったことに伴って、平成十九年10月から保存修復工事が行なわれ、平成二十年3月に竣工しました。

豊島区指定有形文化財
旧丹羽家腕木門

旧丹羽家の門は、腕木と呼ばれる梁で屋根を支える腕木門と呼ばれる形式で、簡素な構造ですが格式のある門です。この門の建築年代を明らかにする記録はありませんが、言い伝えによれば、染井通りをはさんで向かい側にあった津藩藤堂家下屋敷の裏門を移築したといわれています。当初の部材と考えられる親柱には和釘が使用され、風蝕もかなり進んで木目が深く浮き出ています。また、都内の類例と比較して大名家の裏門として使われても不思議はない規模と構造といえます。解体工事の過程で墨書が発見され、弘化四年(1847年)、嘉永六年(1853年)、安政六年(1859年)の三回修理が行われていたことが判明しました。少なくとも建築年代は弘化四年以前ということになります。この門が丹羽家の所有になった年代ははっきりしていませんが、当時は、染井通りに面して建っており、丹羽邸内に移築した時と、染井通り側にマンションを建てるため現在地に曳家(建物を解体しないで、そのまま場所を移動させること)した時の少なくとも二回移動しています。また昭和十年(1935年)の主屋の増改築とあわせて門の屋根を、柿葺き(こけらぶき)(薄い木片を重ねて敷きつめた屋根)から瓦葺きに葺き替えたといわれています。一方、親柱、冠木、袖戸、両開き扉などは杉で当初からの部材と考えられ、板扉に見られる技法から、建築当時の姿を概ね残しているといえます。江戸時代の腕木門としては区内で唯一の事例であり、植木の里・駒込の歴史を物語るシンボル的存在として長年地域の人々に親しまれています。このように、染井の植木屋として活躍した旧家の遺構である旧丹羽家腕木門は、豊島区における貴重な文化遺産であることから、平成十九年八月三日、豊島区指定有形文化財になりました。




園内に「染井植木の里」の石碑が建っています。

染井植木の里

豊島区駒込三・六・七丁目付近は、昔、染井村と呼ばれており、江戸時代から植木の一大生産地として知られていました。嘉永七年(1854年)に発行された「江戸切絵図」に「此辺染井村植木屋多シ」と書かれるなど、植木職人が数多く住んでいた地域です。万延元年(1860年)に来日したイギリスの植物学者ロバート・フォーチュンは、この辺りの様子について、「交互に樹々は庭、恰好よく刈り込んだ生け垣がつづいている、公園のような景色に来だとき、随行の役人が桑井村にやっと着いた、と報せた。そこの村全体が多くの苗樹園で網羅され、それらを連絡する一直線の道が一マイル(約1.6km)以上も続いている。私は世界のどこへ行っても、こんなに大規模に、売り物の植物を栽培しているのを見たことがない。(「江戸と北京」)」と述べています。この土地のもとの所有者である丹羽家は、天明年間(1780年代)から明治後期まで、この染井を代表する植木屋として活躍していました。代々「茂右衛門」を襲名して、造り菊、石菖、蘭、ツツジなどを得意とした植木屋です。津藩藤堂家や尾張藩などの大名屋敷にも出入りするなど、武家にも信用を得ていました。八代目茂右衛門(明治二十九年生)の代で植木屋をやめましたが、当地域の旧家として知られています。敷地内にある門は、江戸時代後期の創建で、豊島区の指定有形文化財となっており、昭和十一年に建てられた蔵は国の登録有形文化財になっています。




「染井よしの」発祥の地であることを解説した案内板が立っています。

染井よしの
(ソメイヨシノ、染井吉野)

この公園の周辺は、江戸時代に染井村と呼ばれ、多くの植木屋が軒を並べ、菊やつつじなど四季折々の花々を楽しめる名所地として有名でした。「染井よしの」は、オオシマザクラとエドヒガンの品種を改良してつくられたといわれ、幕末期から明治初期に「染井」から全国に広まっていきました。ここ駒込の地が、「染井よしの」の発祥地であることを、新たに誕生した公園から、全国に、そして世界に発信していきます。なお、「染井よしの」桜は、昭和四十八年「豊島区の木」に、昭和五十九年「東京都の花」に指定されています。




ワシントンから里帰りしたソメイヨシノも植えられています。

ワシントンDCから里帰りした
ソメイヨシノ
生誕の地駒込(旧染井村)に植える




染井坂は、豊島区駒込三丁目と六丁目の間、駒込小学校と西福寺墓地の間の坂道で、長さ約65mほどの短い緩やかな坂道です。西福寺墓地のブロック塀に「染井坂 そめいざか」と刻まれた石板が埋め込まれています。坂名はこの付近の旧地名「染井村」に由来します。



ポイント5 西福寺

西福寺の創建年代は不明ですが、少なくとも江戸時代初期には存在していたものと推測されます。江戸時代は津藩藤堂家の江戸下屋敷に近かったこともあり、祈願所として栄えました。しかし、明治時代の廃藩置県で津藩関係者が去ったことで寺運衰微し、一時期は住職不在の期間が30年も続いたということです。西福寺の墓所には、園芸家の伊藤伊兵衛正武のお墓があります。



西福寺の案内板が立っています。

西福寺

真言宗豊山派の寺院で、藤林山歓喜院と号し、西ヶ原無量寺の末寺である。本尊は、徳一大師の作といわれている木造阿弥陀如来立像である。創建の年代は明らかでないが、「江戸切絵図」や「江戸名所図会」・「新編武蔵風土記稿」などにも記事があり、駒込に江戸時代から続く寺院である。この寺が位置する染井地域は、江戸時代、大名屋敷が多くあり、近くに津藩藤堂家の下屋敷があったことから、その祈願寺となっていた。また、近隣には植木屋も集住しており、その菩提寺ともなっていた。かつての境内地は、非常に広大であったが、明治維新後に縮小されたといわれている。境内には、明暦元年(1655年)に造られた六地蔵がある。これは「六道」すなわち地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道について教えを説くための六体の地蔵が刻まれたものであり、豊島区内では最古のものである。墓地には、徳川将軍家の御用を務めた植木屋として名高かった伊藤伊兵衛政武(四代目、宝暦七年【1757年】没)の墓がある。政武は樹仙と号し、「増補地錦抄」などを著わした、江戸時代の先駆的な植木屋である。この墓所は、東京都史跡に指定されている。




山門の右手に供養塚があり、石碑に六地蔵が彫られています。明歴元年(1655年)11月8日と記され、豊島区最古の六地蔵です。この世に生をうけたものは、自ら作った業によって生死を繰り返す6つの世界、すなわち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人道・天道があるといわれます。これらの世界で悩み苦しむものに救いの手をさしのべ、浄土へ導いて下さるお地蔵さんを表しています。



八代将軍徳川吉宗の時代に江戸城内の庭師を務めていた伊藤伊兵衛政武の墓は墓所の中ほどにあり、東京都の史跡になっています。伊藤伊兵衛政武は染井村で数代に渡って園芸を営んだ人物で、一家は造園・栽培についての見識技量に優れ、園芸植物の種類を図説記載した「花壇大全」・「草木絵全集」・「地錦抄」・「百花紅葉集」など32冊の著作を書き残しています。これらの書物は、西福寺に蔵書として保管されています。伊藤伊兵衛政武は1757年に亡くなり、戒名を樹仙浄観信士と記されています。中央の墓石が伊藤政武の墓と思われます。元々は農村であった染井村でしたが、伊藤伊兵衛を代表するように、造園師や植木職人によって形成された集落となりました。村全体が花園とも云える程で、江戸町民だけでなく、歴代の徳川将軍が遊覧に訪れる程の名所となりました。

東京都指定史跡
伊藤政武墓

江戸時代中期の園芸家。政武は江戸の北、染井村(現在の豊島区駒込六、七丁目付近)の伊藤三之丞の子として延宝四年(1676年)に生まれた。号を樹仙という。伊藤家は代々伊兵衛を名乗り、近くの伊勢津藩藤堂家の下屋敷に出入りして、庭の世話をしているうちに植木屋となり、江戸第一の種苗商となった。その種苗目録を「地錦抄」という。四代目の政武は江戸城にも出入りして将軍吉宗の御用植木師となり、城内の植木を管理していた。日本の園芸が独自に発達したのは江戸時代であり、キク・ツバキ・カエデ・ツツジ類・アサガオなどの園芸植物が改良され、また、朝鮮や中国をはじめ外国からも多くの植物が輸入されている。政武は特にカエデを好み、深山楓に舶来の楓を接き木することに成功した。写実的な絵画を得意とし、園芸植物に関する著書に「草花絵前集」・「増補地錦抄」・「広益地錦抄」・「地錦抄附録」などがある。宝暦七年(1757年)十月二日八十一歳で死去した。




ポイント6 染井稲荷神社

西福寺の脇に、染井稲荷神社があります。染井稲荷神社の創建年代は不詳ですが、社伝によると延宝二年(1674年)以前と伝わっていて、江戸時代前期と見られています。旧社格は無格社で、江戸時代には旧駒込村の枝郷・染井村の鎮守として崇敬されました。枝郷(えだごう)とは、新田開発によって元の村から分出した集落をいいます。駒込村が上駒込村と下駒込村に分村すると、上駒込村に組み込ました。かつては、隣接する「西福寺」の境内社でした。江戸時代の染井村は造園師や植木職人などが集落を作っていたことで知られ、桜の代表格である品種「ソメイヨシノ」がこの染井村で育成され売り出されたため、染井稲荷神社はソメイヨシノ発祥の地の鎮守となりました。ちなみに、染井の地名の由来は、染井稲荷神社の境内にあったという染井と呼ばれた泉に因んでいます。延宝二年(1674年)に、現存する御神体(十一面観音石像)が伊藤伊兵衛によって奉納されました。



拝殿の壁に由緒書が掲げられています。

染井稲荷神社の由来

一、ずっと昔からあった染井村
いまのそめいよしの町会のあたりで三百五十年前にその名を刻んだ石像がある。
一、建てられたのは三百年以上も前
関東大震災や戦災にも拝殿・本殿はもえなかった。火防の神。
一、ご神体は二体
保食命と三百二十年前に御霊入れされた十一面観音の石像が安置されている。
一、珍しい大切な宝もの
葵のご紋入り瓶子(お酒を飲む道具)一対や、奉納舞につかわれた古い締太鼓と胴長鼓が保存されている、「カンシンの股くぐり」の額も貴重なものです。
一、初午祭=二月・秋季大祭(祭礼)九月十五日・十六日。




扁額は、伊藤博文が揮毫したようです。「カンシンの股くぐり」の額もあります。



染井稲荷神社のはす向かいに「染井よしの桜の公園」があります。



染井といえば、日本の桜の代表的品種のソメイヨシノですね。染井よしの桜の公園の中に、ソメイヨシノの桜の木が植えられていて、その前に案内板が置かれています。

染井よしの(ソメイヨシノ・染井吉野)

この公園の周辺は、江戸時代に染井村と呼ばれ、多くの植木屋が軒を並べ、菊やつつじなど四季折々の花々を楽しめる名所地として有名でした。「染井よしの」は、オオシマザクラとエドヒガンの品種を改良してつくられたといわれ、幕末期から明治初期に「染井」から全国に広まっていきました。ここ駒込の地が、「染井よしの」の発祥地であることを、新たに誕生した公園から、全国に、そして世界に発信していきます。なお、「染井よしの」桜は、昭和四十八年「豊島区の木」に、昭和五十九年「東京都の花」に指定されています。




和風スパの東京染井温泉SAKURAは、成分豊富な温泉に加え、サウナ・エステ・タイ健式マッサージなどの施設も充実し、レストランでは和・洋・中と季節の味が楽しめ、都心にいながら高級旅館を訪れたような気分になれます。



ポイント7 十二地蔵

染井霊園の入口手前の追分の角に舟型光背型の一石一二地蔵尊が建っています。享保十五年(1730年)の大火の犠牲者を供養するため、江戸中期の頃に造立されたという説もありますが文字がないので詳細は不明です。1.7メートルほどの大きな石碑に六地蔵尊が縦に2対彫られているのは大変珍しく、ひとつの石碑に六体が二段に並んでいるので「一石十二地蔵」といいます。一石十二地蔵は、都内ではここ以外には数体しか発見されていないとのことです。



石碑の上部に何やら模様が彫られていますが、染井に因んで桜の花びらが描かれているという説と、地蔵の建立の趣旨が大火で亡くなった犠牲者を弔うということから焔や煙を描いているという説があります。後者の方が妥当なような気がします。



ポイント8 専修院

染井霊園の右手に専修院があります。

専修院

専修院は、元和三年(1617年)に(一説に慶長二年【1597年】)、開山である得蓮社業誉上人迎阿弁教和尚が江戸の浅草新寺町(現台東区松が谷一丁目)に創立した浄土宗の寺院であり、正式には正業山専修院迎接寺という。本尊は阿弥陀如来である。その後、東京府による市区改正事業のため、明治四十一年(1908年)に浅草区北松山町61番地から北豊島郡巣鴨町大字上駒込字染井888番地(現在地)に移転し、現在に至っている。この土地は、江戸時代に多数の植木屋が集住していた上駒込村染井を代表する伊藤伊兵衛の屋敷跡と考えられ、平成九年(1997年)四月から六月にかけて実施された埋蔵文化財発掘調査では、おもに植木屋が繁栄した江戸時代後半の遺構が発見された。建物の礎石や地下室のほか、溝や生け垣を何度も作り直した跡などがあり、広い敷地の中を区切って利用していた様子がうかがえる。さらに、縄文土器も出土しており、周辺に縄文時代の遺跡が広がっていることも確認された。境内には、伊兵衛に関係するとみられる寛永十八年(1641年)造立の宝篋印塔をはじめ、乾元二年(1303年)造立の板碑、富士構先達の元祖である藤原角行や浄瑠璃の富本節家元である富本豊前掾代々の墓など、多くの貴重な文化財が残されている。




境内には、伊兵衛に関係するとみられる寛永十八年(1641年)造立の宝篋印塔を始め、乾元二年(1303年)造立の板碑や富士講先達の元祖である藤原角行の墓・浄瑠璃の富本節家元である富本豊前掾代々の墓・法学者穂積八束の墓など、多くの貴重な文化財が残されています。



ポイント9 染井霊園

染井霊園は都営の霊園で、旧称の染井墓地で呼ばれることもあります。面積は67、911平方メートルで、およそ5、500基の墓があり、8ヶ所ある都営霊園の中では最も規模が小さい霊園です。染井霊園のある区画には、元々林田藩建部家の下屋敷がありましたが、明治五年(1872年)から神葬墓地となりました。明治七年(1874年)6月に「東京府下墓地取扱規則」が告示され、これによって朱引内(江戸幕府が定めた江戸の範囲で、地図上に朱色の線を使って示しました)の墓地における埋葬が禁じられ、その代わりに染井・雑司ヶ谷・青山・渋谷・谷中・亀戸に共葬墓地を発足させることとなりました。これを受けて明治七年(1874年)9月1日に東京府が神葬墓地を改称して「染井墓地」を開設しました。明治二十二年(1889年)に東京市に移管され、昭和十年(1935年)5月に染井霊園に改称されました。

染井霊園案内図

染井霊園は、もと上駒込の建部邸跡地を東京府が引き継ぎ、明治七年9月1日、染井墓地として開設した、その後明治二十二年東京市に移管、昭和十年5月には名称を染井霊園と改め、現在に至っている。都営霊園の中では最も規模が小さく、ほぼ平たんな地に桜の古木が点在する中に墓地が設けられている。霊園の附近には幹線道路がないことから、区内霊園としては、静寂な地となっている。




英語版の案内図もあります。特に著名な偉人については解説文も添えられています。

Somei Cemetery Map

Somei Cemetery, which was originally the land of the Takebe family of the Hayashida clan, is the smallest of the metropolitan cemeteries and located among a sporadic population of cherry trees. The Honmyouji and Jigenji temples are located on the west side of the peaceful cemetery, owing to the vast grave of the Iwasaki family adjacent to the cemetery. The cemetery opened in 1874 and has an area of approximately 7 hectares. Someiyoshino is famous as a cherry blossom viewing flower, but the name Somei comes from the name of this area during the Edo Period. At the time, there were many gardeners in this area who, during the end of the Edo period, are said to have sold their local variety of cherry trees under the name of Yoshino, which became known as someiyoshino. They are planted along the cemetery and in springtime, it is alive with people coming to view the beautiful cherry blossoms.

Loduska J. Wirick (1856-1914)
ローデスカ・ワイリック(外人墓地)

Christian missionary. She is best remembered for providing care to many Japanese soldiers wounded in the war with Russia. For this work she became known as the "Nightingale of the Orient."

Takamura Koun (1852-1934)
Takamura Kotaro (1883-1956)
Takamura Chieko (1886-1938) (1種ロ6号1側)

Takamura Koun was a sculptor. Among his better known works is a bronze statue of Saigo Takamori, completed in 1898, that stands in Ueno Park in Tokyo. Takamura Kotaro was a sculptor and poet, son of Takamura Koun. He is famous for his 1941 collection Chieko sho (Chieko's Sky, 1978), a collection of poems about his wife Takamura Chieko, a painter and a member of the Japanese feminist movement Seitosha.

Iwamoto Yoshiharu (1863-1942) 厳本善治
Wakamatsu Shizuko (1864-1896) 若松賤子 (1種イ4号13側)

Iwamoto Yoshiharu was an educator and served as the president of the Meiji Girl's School. He was the editor in chief of the influential woman's magazine Jogaku zasshi. He married Wakamatsu Shizuko, translator and author. Shi is best known for her translation of F. E. Burnett's Little Load Fauntleroy (1890-92).

Okakura Tenshin (1862-1913) 岡倉天心 (1種イ4号14側)

Real name Okakura Kakuzo; Art critic, philosopher, and interpreter of the East to the Western world. He contributed to protect and restore traditional Japanese art forms. He is the author of The book of Tea (1906).

Futabatei Shimei (1864-1909) 二葉亭四迷 (1種イ5号37側)

Real name Hasegawa Tatsunosuke ; author, translator, and literary critic. His works are in the realist style popular in the mid-to late-19th century. His work Ukigumo (Floating Clouds, 1887) is widely hailed as Japan's first modern novel. He translated the work of Ivan Turgenev and other Russian realists into Japanese.

Mizuhara Shuoshi (1892-1981) 水原秋桜子 (1種イ3号1側)

Haiku poet. Real name Mizuhara Yutaka. He studied poetry under Takahama Kyoshi, the leader of the coterie that produced the magazine Hototogisu. He founded the haiku magazine Ashibi in 1928 and joined the shinko haiku (new haiku) movement.

Kuga Katsunan (1857-1907) 陸羯南 (1種イ8号10側)

Real name Nakata Minoru ; journalist. He founded the newspaper Nihon (Japan) in 1889 and called for a nationalism based on the united will of the Japanese people (kokumin shugi).




園内には約100本のソメイヨシノが植えられ、遊歩道の一部は桜並木になっていて桜の名所として親しまれています。



染井霊園には多くの著名人のお墓があり、高村光雲・高村光太郎・智恵子、芸大の創始者岡倉天心、二葉亭四迷、若槻礼次郎などの歴史上の人物が数多く眠っています。案内板には、著名人の墓所の場所と業績が記されています。

番号氏名墓石の位置歿年月日事績
@饗庭篁村2種ハ8号16側大正十一年6月20日(68才)作家。江戸時代から明治への過渡期に、橋渡しの役割をした。
A淡島寒月1種イ8号10側大正十五年2月23日(68才)元禄期の文学伊原西鶴を紹介した。
B石川倉次1種ロ13号4側昭和十九年12月23日(86才)日本点字の創始者である。
C石川一郎1種イ10号4側昭和四十五年1月20日(84才)化学工業界の第一人者。日本経済団体連合会長になった。
D伊藤道郎1種イ4号2側昭和三十六年11月6日(69才)三浦環に声楽を学んだが、アメリカで舞踊家として活躍した。
E井上範1種イ12号2側昭和七年6月24日(56才)若松港および神戸港を築くことに功績があった。
F嚴本善治1種イ4号13側昭和十七年10月6日(79才)明治二十年明治女学校教頭、同二十五年校長に就任した。
G嚴本真理1種イ4号13側昭和五十四年5月11日(53才)ヴァイオリンを学び、早くから独奏者として活躍した。
H海野勝a1種イ6号1側大正四年10月6日(72才)彫金界の第一人者であった。
I大田黒元雄1種イ4号4側昭和五十四年1月23日(86才)日本の楽壇における評論活動の先 駆者であった。
J岡倉天心1種イ4号14側大正二年9月2日(52才)日本文化を世界へ紹介した。
K奥宮健之1種イ12号2側明治四十四年1月24日(55才)大逆事件で死刑となった。旧自由 党員であった。
L小河一敏1種ロ1号4側明治十九年1月30日(74才)尊王攘夷激派の志士。「王政復古義拳録」を残した。
O勝沼精蔵1種イ4号19側昭和三十八年11月10日(78才)内科医学者。血液学では国際血液学会長も勤めた。
P樺山資紀1種イ3号12側大正十一年2月8日(86才)海軍大将。 台湾総督になった。
Q川田小一郎1種イ4号17の2側明治二十九年11月7日(61才)三菱の発展に力をつくした。明治二十二年日本銀行総裁となった。
R陸羯南1種イ8号10側明治四十年9月2日(51才)新聞「日本」を創刊し、官僚・藩閥を常に攻撃した。
S熊谷直彦1種ロ6号4側大正二年3月8日(86才)明治十七年絵画展覧会に優賞、同三十七年帝室技芸員となった。
21高良斎1種イ3号1側弘化三年(1846年)9月13日(48才)幕末の眼科医。シーボルトについて学んだ。
22後藤美代子1種イ8号3側昭和五十三年4月15日(79才)歌人。歌集に「暖流」「丘の上」などがある。
23阪本四方太1種ロ13号4側大正六年5月10日(45才)俳誌「ホトトギス」で活躍した。
24笹川臨風1種ロ10号7側昭和二十四年4月13日(80才)新しい俳句誕生に貢献した。美術 史の研究と評論も行った。
25幣原喜重郎1種イ4号20側昭和二十六年3月10日(79才)昭和初期に協調外交を行い、戦後 首相として新憲法を制定した。
26下岡蓮杖1種ロ6号5側大正三年3月3日(92才)日本における営業写真館を最初に開いた。
27下條康麿1種ロ2号4側昭和四十一年4月25日(81才)政治家・統計学者、吉田内閣の文相を勤めた。
28下瀬雅允1種イ12号2側明治四十四年9月6日(53才)下瀬火薬を発明した、日露戦争でこの火薬が威力を発揮した。
29末弘厳太郎1種イ8号4側昭和二十六年9月11日(63才)日本における労働法学の開拓者であった。
30杉亨二1種イ6号11側大正六年12月4日(89才)統計学者。日本最初の近代的な人口調査を実施した。
31関根正直1種イ4号14側昭和七年5月26日(73才)国文学者。「古事類苑」の編さんに参画した。
32高田早笛1種イ3号23側昭和十三年12月3日(79才)大隈内閣の文相に就任。早稲田大学総長を勤めた。
33高嶺秀夫1種イ3号7側明治四十三年2月22日(57才)東京師範学校長になる。教育法の革新をはかった。
34高村光雲
光太郎・智恵子
1種ロ6号1側光雲−昭和九年(83才)
光太郎−昭和三十一年(73才)
光雲−彫刻家。光太郎−詩集「道程」「智恵子抄」などがある。
35高安月郊1種イ10号1側昭和十九年2月26日(79才)戯曲作家。代表作に「江戸城明渡」「桜時雨」がある。
36多田北烏1種イ1号20側昭和二十三年1月1日(58才)戦後における講談社のさし絵画家であった。
37田村直臣1種ロ10号7側昭和九年1月7日(79才)苦学生のために「自営館」を開いた。
38坪井誠軒1種イ8号6側嘉永元年(1848年)11月8日(54才)蘭方医学の先覚者。門人は緒方洪庵など多数いた。
39坪井信良1種イ8号6側明治三十七年11月9日(82才)坪井誠軒の養子。元治元年(1864年)将軍奥医師になった。
40坪井正五郎1種イ8号6側大正二年5月26日(51才)人類学に業績を残し、コロボックル説をとなえた。
41寺本義久1種イ3号5側明治九年10月30日(30才)警視庁警部補。明治九年10月の思案橋事件で殉職3号となった。
42藤堂高猷1種ロ4号8〜12側明治二十八年2月9日(80才)伊勢津藩主。備考−(墓石の)総高500cm
43長瀬富郎1種イ5号36側明治四十四年10月26日(48才)明治時代の実業家。花王石けんの創業者となった。
44長田秀雄1種イ8号5側昭和二十四年5月5日(64才)小山内薫らの新劇運動に入り、史劇を発表した。
45野村文夫1種イ5号35側明治二十四年10月26日(56才)「団団珍聞」を創刊し、週刊誌発行の草分けとなった。
46萩野由之2種ハ6号39・44側
(区道沿い、大神宮墓地内)
大正十三年2月2日(65才)従来の和歌−桂園派を攻撃し、和歌の改良をめざした。
47波多野精一1種イ6号6側昭和二十五年1月17日(73才)哲学者。ギリシャ哲学の原典研究の道をひらいた。
48浜尾新1種イ4号1側大正十四年9月25日(77才)明治二十六年東京帝国大学総長。大正十三年枢密院議長になった。
49浜尾四郎1種イ4号1側昭和十年10月29日(40才)浜尾新の息子。多くは探偵小説を書いた。
50土方久元1種ロ6号12側大正七年11月4日(86才)明治維新の功労者。薩長連合の運動につとめた。
51土方与志1種ロ6号12側昭和三十四年6月4日(59才)小山内薫とともに築地小劇場を建 設した。演出家。
52平田銕胤2種ハ6号39・44側明治十三年10月25日(82才)国学者。明治二年に天皇の侍講になった。
53福岡孝弟1種イ8号3側大正八年3月7日(85才)五箇条御誓文の草案を起草した。
54福田英子1種イ4号11側昭和二年5月2日(63才)日本における婦人解放運動家、自叙伝「妾の半生涯」がある。
55藤岡作太郎1種イ11号3側明治四十三年2月3日(40才)近代的国文学の礎を作った。
56二葉亭四迷1種イ5号37側明治四十二年5月10日(46才)小説家。言文一致体を主張し、「浮雲」を著した。
57松浦武四郎1種ロ10号2側明治二十一年2月10日(71才)明治政府のもとで、「北海道」の名付け親となった。
58三上参次1種イ13号1側昭和十四年6月7日(75才)歴史学者。国文学史の開拓者としての功績も大きい。
59水原秋桜子1種イ3号1側昭和五十六年7月17日(88才)俳人、俳誌「ホトトギス」で活躍し、のち「馬酔木」を主宰した。
60宮武外骨1種イ3号21側昭和三十年7月28日(90才)個人雑誌のはじまりをつくる。「頓智協会雑誌」で不敬罪になった。
61山田文應1種イ2号3側明治三十二年5月21日(70才)染井霊園の開設の祖、僧侶。
62山由美妙1種ロ10号9側明治四十三年10月24日(43才)言文一致の文学を主張して「武蔵野」を発表した。
63安岡正篤1種ロ6号14側昭和五十八年12月13日(86才)東洋哲学者。金鶏学院日本農学校を創立。全国師友協会会長。
64結城素明1種ロ6号12側昭和三十二年3月24日(82才)日本画家。 自然主義をとなえた。
65ローデスカ・ワイリック外人墓地大正三年4月30日(57才)アメリカの宣教師。ハンセン病患者や、日露戦争の負傷兵の看護にあたり、「東洋のナイチンゲール」と呼ばれた。
66若槻礼次郎1種イ8号1側昭和二十四年11月20日(84才)大正末期から昭和初期の政治家。首相、民政党総裁を勤めた。
67若松賎子1種イ4号13側明治二十九年2月10日(31才)作家。翻訳の作品にすぐれていた。巌本善治の妻であった。




高村光雲・高村光太郎・高村智恵子の墓は、南そめいよしの通りから1区画西側に入ったところにあります。広く、立派な墓所です。

1種ロ6号1側24、25番

高村 光雲
 彫刻家
 嘉永五年〜昭和九年
 代表作に「老猿」「西郷隆盛像」がある。

高村 光太郎
 芸術家・彫刻家・詩人
 明治十六年〜昭和三十一年
 代表作に「道程」「智恵子抄」がある。

高村 智恵子
 洋画家・紙絵作家
 明治十九年〜昭和十三年
 高村光太郎妻。

Takamura Kouun
- a sculptor

Takamura Koutarou
- an artist
- a sculptor
- a poet

Takamura Chieko
- an oil painter
- a papercut artist




著名人リストには掲載されていませんが、案内板が立っています。

正木退蔵墓所

萩の藩士正木家に生まれ、13歳の安政五年(1858年)松下村塾に入り、吉田松陰に学ぶ。藩校明倫館では優秀な成績を修めた。19歳の元治元年(1864年)藩主世子毛利元徳の小姓役となる。慶応元年(1865年)藩内戦のさい、武力衝突を回避するため萩城下に結集した鎮静会議員に、飯田俊徳らとともに加わる。その後、大村益次郎の三兵学科塾で蘭学・洋式兵学を学び、三田尻海軍学校で英学を修める。明治四年(1871年)英国に留学、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジで化学を学ぶ。明治九年、海外留学生の監督として再び渡英し、化学や物理学などのお雇い外国人教師を日本へ紹介する。滞英中に文豪R.L.スティーヴンスンに会い、師松陰についての情報を提供、スティーヴンスンが著した”YOSHIDA−TORAJIRO”(1880年発表)は世界最初の松陰伝となった。明治十四年に帰国、東京職工学校(現在の東京工業大学)の初代校長となる。明治二十三年、外務省に転じ、翌年ハワイ総領事となった。
木梨信一の従弟。弘化三年(1846年)〜明治二十九年(1896年) 享年51歳




染井霊園に隣接して本妙寺と慈眼寺があります。こちらにも著名人の墓所が多くあります。本妙寺の山号は徳栄山で、徳川家康の家臣らのうち、三河国額田郡の海雲山長福寺という古刹の檀家で徳川家に仕えた久世広宣・大久保忠勝・大久保康忠・阿倍忠政らが家康が岡崎から遠州曳馬(現在の浜松市)への入城に際し、智存院日慶上人にお願いして元亀二年(1572年)に創建されたお寺です。天正十八年(1590年)に徳川家康が江戸城に入った際に江戸城清水御門内礫川町に移り、その後幾多の移転を繰り返し、最終的に本郷丸山(文京区本郷五丁目)に移りました。立地条件も良く、明治の終わりまでの約270年間はこの地を離れなかったので、異称を「丸山様」といわれるようになりました。明暦三年(1657年)1月18日から20日にかけて江戸中を焼き尽くした明暦の大火(振袖火事)の火元は本妙寺とされていますが、振袖火事説の振袖物語はあくまでも伝承であり、様々な説があって実際の火元は不明のままです。本堂の裏手には、安政の大地震の供養塔と共に明暦の大火の供養塔が建っています。明治四十一年(1908年)から3年をかけて現在の豊島区巣鴨五丁目の地へ移転しました。当時の本妙寺周辺は見渡す限り大根畑だったということです。



本妙寺には多くの著名人の墓所があります。

史跡

振袖火事        明暦大火供養塔
関宿藩主        久世大和守歴代の墓
江戸後期の北町奉行   遠山金四郎景元の墓
江戸後期の剣聖     千葉周作の墓
囲碁家元        本因坊歴代の墓
江戸後期の将棋棋聖   天野宗歩の墓
日本最初の通訳     森山多吉郎の墓




門前には、東京都指定旧跡になっている遠山景元墓(江戸町奉行。TV時代劇ドラマ「遠山の金さん」のモデル)の案内板が立っています。

東京都指定旧跡
遠山景元墓

遠山景元(1793年〜1855年)は、江戸時代後期に長崎奉行を務めた遠山景晋の子として生まれ、通称を金四郎といいます。小目付、小納戸頭取、小普請奉行、作事奉行、勘定奉行などを歴任した後、天保十一年(1840年)、北町奉行に任ぜられ、天保十四年(1843年)天保の改革の進行中に大目付に転じた後、弘化二年(1845年)、南町奉行となり、以後七年間にわたり務めました。下情に通じた屈指の名奉行として、さまざまな伝説が伝わっています。景元の功績として、例えば、天保の改革の際、芝居町の取り壊し策を場所の移転でとどめ、芝居を存続させたことがあります。嘉永五年(1852年)の隠居後は、悠々自適の生活を送っていましたが、安政二年(1855年)に病没、本郷丸山の本妙寺に葬られました。その後、明治時代に寺の移転に伴い、現在の場所に改葬されました。

Historic Places
Toyama Kagemoto Haka (The grave of Toyama Kagemoto)

Toyama Kagemoto (1793-1855) commonly known by Toyama Kinshiro, was born to Toyama Kagemichi who filled a post of Nagasaki Bugyo (magistrate). He was appointed to Kitamachi Bugyo in 1840 after filling the various posts, such as Kometsuke, Konando Kumigashira, Kobushin Bugyo, Saji Bugyo and Kanjo Bugyo. Shifting to an Ometsuke (supervisor of Daimyo and vassals) in 1843, he had filled a post of Minamimachi Bugyo for seven years from 1845. He is one of the most outstanding Bugyo, who was quite familiar with the lives and feelings of ordinary people; many legends about him have come down. For example, he saved theaters from abolition in the Tenpo Reforms, only moving them to the other place. After his retirement he spent the rest of his days in comfort. He died of illness in 1855 and was buried at Honmyoji Temple in Hongo Maruyama. His grave was reburied here in the Meiji period because of moving the temple.




遠山景元の墓所です。



久世家は戦国時代に松平氏(徳川氏)に仕え、江戸時代には譜代大名の下総国関宿藩主家、維新後には華族の子爵家となった家系です。三河国額田郡に居住していた小野十郎高広の子高長が、母方の姓を称して久世と名乗るようになったのに始まるといわれています。広長の代に松平清康・広忠に仕え、その孫広宣は徳川家康に仕えて戦功を挙げました。広宣の三男で初代当主の広之が徳川秀忠・家光に近侍して出世し、慶安元年(1648年)に1万石に達して譜代大名となり、寛文九年(1669年)に下総国関宿藩5万石の藩主となり、若年寄や老中を歴職しました。幕末期の広周は老中首座として公武合体を進めて和宮降嫁に関与しましたが、文久二年(1862年)に失脚し、蟄居となりました。その息子の広文の代に江戸幕府滅亡と王政復古を迎えましたが、明治元年(1868年)に徳川脱走兵が上野に結集した際に関宿藩士も関与したため、辞職が命ぜられました。弟の広業が相続を許されましたが、王師に抗した罪により5000石減封となりました。明治二年(1869年)の藩籍奉還によって関宿藩知事に任じられ、明治四年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めました。明治二年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると久世家も大名家として華族に列しました。明治十七年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事として広業が子爵に列せられました。



千葉周作は、伝統的な剣術に革新をもたらし、剣道の発展に大きく貢献した江戸時代後期の剣術家です。北辰一刀流の創始者で、合理的な教授法で知られ、現代剣道の基礎を築きました。周作は通称で、諱(いみな)は成政です。江戸に「玄武館」を開き、「江戸三大道場」のひとつとして隆盛を極め、坂本龍馬や渋沢栄一なども北辰一刀流を学びました。また、水戸藩など、30以上の藩で師範を務めました。漫画「赤胴鈴ノ助」のモデルにもなりました。



本因坊家は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑に仕えた日海(一世本因坊算砂)を開祖とする家系のことです。「本因坊」の名は、算砂が住職を務めた寂光寺の塔頭のひとつに由来します。「本因坊」はもとは連声して「ほんにんぼう」と読んでいましたが、囲碁の普及に伴って「ほんいんぼう」と読まれるようになりました。以降、5人の名人を含めて名棋士を輩出し、江戸期を通じて囲碁四家元と将棋方三家の中で絶えず筆頭の地位にありました。中でも、道策・丈和・秀和・秀策・秀栄などは高名です。明治以後にもその権威は受け継がれますが、昭和十三年(1938年)に二十一世本因坊秀哉が引退した際、その名跡を日本棋院に譲渡し、家元制から実力制に移行することとなりました。昭和十六年(1941年)に第1期本因坊戦が開催され、現在まで続いています。

本因坊歴代の墓

「本因坊」の由来
囲碁の本因坊家は江戸時代に成立した四家元の一つ(他には井上、安井、林の各家)です。また「本因坊」の名称は、京都・寂光寺の塔頭の一つ本因坊において、日海(後の算砂)が居住していたことに由来します。算砂は本因坊家の初代頭領として興隆への道を切り開き、囲碁界最高の栄誉である「名人・本因坊」に叙せられ、また慶長八年(1603年)江戸幕府から初代の「碁所」に任ぜられました。「碁所」とは、江戸城において将軍の御前で対局をする「御城碁」の棋士の手合いを差配したり、棋士の段位を定めたり、免状の発行権をもつなど、囲碁界最高の地位を保障された棋士です。碁所をめぐって四家はしばしば熾烈な争いを展開しましたが、その中で頂点に立ったのが本因坊家であり、庶民への広まりも含めた碁界の隆盛に貢献しました。その理由に実子相続を前提とする世襲制ではなく、弟子のなかで優れたものが相続する実力制だったことが挙げられます。本妙寺は創立後何度も場所をかえ、明治四十三年(1910年)現在地へ移転しましたが、その時に墓所の配置はほぼ現在の形となり、四世本因坊道策より二十一世本因坊秀哉に至るまで、本因坊代々の棋士と縁の人々が祀られております。

「秀哉忌」について
「最後の名人」二十一世本因坊秀哉は、昭和十二年(1937年)引退を決意し、本因坊の名跡を日本棋院に譲ります。そして木谷實七段との「名人引退碁」が最後の対局となり、昭和十五年(1940年)1月18日療養先の熱海で病没、享年66歳でした。翌年の一周忌までに墓碑が完成し法要が営まれました。それ以来、門人らの集まりである「秀哉会」により毎睦月18日に「秀哉忌」が執り行われてきました。現在は日本棋院が主宰し、その年の「本因坊」のタイトルを持つ棋士が祭主を務め法要が行われております。




棋聖は、囲碁・将棋において優れた才能を示した者を尊ぶ呼称で、囲碁では本因坊道策・本因坊丈和・本因坊秀策の三人を指し、将棋では天野宗歩を指します。現在では、囲碁・将棋それぞれの棋戦優勝者の称号(タイトル)のひとつになっています。天野宗歩(文化十三年【1816年】11月〜安政六年【1859年】5月13日)は、江戸時代末期の将棋指しです。十一代大橋宗桂門下で、時の名人は十世の六代伊藤宗看でした。大橋本家・大橋分家・伊藤家といった将棋三家の出ではなかったために、当時世襲制だった名人には推挙されず、段位も七段までしか上がりませんでした。しかし、「実力十三段」と言われ、後に棋聖と呼ばれるようになります。十三世名人関根金次郎によって棋聖の称号が公式に認められ、現在のタイトルのひとつである「棋聖戦」はこれに由来します。



森山多吉郎(または栄之助)は、江戸時代に活躍した日本の通詞(通訳)で、創設した英語塾の門下生から幕末や明治政府で活躍した外交官や通訳を多くを輩出しました。森山多吉郎は文政三年(1820年)に長崎で生まれ、家系は代々阿蘭陀通詞(オランダ通詞)を務めていました。英語が話せたことから、嘉永元年(1848年)に偽装漂着のアメリカ捕鯨船船員のラナルド・マクドナルドの取り調べに当たり、英語の母語話者であるマクドナルドから本格的に英語を学び、蘭・英2カ国語を使いこなせる通詞として活躍しました。嘉永三年(1850年)には「エゲレス語和解」の編集に従事し、嘉永六年(1853年)のプチャーチン来航の際は川路聖謨の通詞として活躍しました。同年にマシュー・ペリー率いる4隻のアメリカ東インド艦隊が来航した際には幕府から江戸に呼ばれたものの、江戸に到着した時はペリー艦隊は日本を去った後でした。翌年にペリーが再来航した際には通訳を務め、その後江戸で英語塾を開きました。塾は小石川の金剛寺坂上にあった自宅に開設し、門下生として津田仙・福地源一郎・須藤時一郎・沼間守一(須藤時一郎の弟)・富永冬樹(矢野二郎の実兄)などが学びました。福澤諭吉も森山の英語指導を求めて鉄砲洲の中津藩屋敷から歩いて日参し、短期間ではありましたが学んでいます。尚、津田仙は女子英学塾(現在の津田塾大学)を創設した津田梅子の父です。



慈眼寺にも多くの著名人の墓所があります。慈眼寺は、安土桃山時代から江戸時代初期に了現院日盛によって開山されました。元々は深川六間掘猿子橋(現在の江東区新大橋)にあり、元和元年(1615年)に日盛の弟子の慈眼院日遼によって寺院化されました。その後、元禄六年(1693年)に本所猿江(現在の江東区猿江)に移転しましたが、明治四十年(1907年)と明治四十三年(1910年)の水害により壊滅的打撃を受け、明治四十五年(1912年)に谷中にあった妙伝寺と合併して現在の地に移転しました。

慈眼寺

司馬江漢の墓(イ之九側)
  江戸時代の画家
  日本初の銅版画作成

斎藤鶴磯の墓(イ之七側)
  江戸時代の儒者
  各地を歩き名著「武蔵野話」を刊行

小林平八郎の墓(司馬江漢の墓右隣)
  江戸時代の侍
  演劇・映画「忠臣蔵」で有名な吉良方の侍

芥川龍之介の墓(ハ之三側)
  大正時代から昭和初期の小説家
  代表作「羅生門」「蜘蛛の糸」等がある
  その業績を記念して芥川賞が創設された

谷崎潤一郎の墓(ハ之三側)
  明治末期から昭和中期の小説家
  代表作「刺青」「春琴抄」等がある
  京都鹿ヶ谷法然院に墓があり、菩提寺である当山に分骨

比翼塚(慈眼寺境内)
  新内「明烏夢泡雪」のモデルとなった浦里(吉原遊女の美吉野)時次郎(礼差伊勢屋の若旦那伊之助)の墓




司馬江漢は江戸時代の絵師・蘭学者で、青年時代は浮世絵師の鈴木春信門下で鈴木春重と名乗り、中国(清)から伝わった南蘋派の写生画法や西洋絵画を学んで作品として発表し、日本で初めて腐蝕銅版画を制作しました。さらに版画を生かした刊行物で世界地図や地動説など西洋の自然科学を紹介しました。

東京都指定旧跡
司馬江漢墓

江戸時代後期の洋風画家で蘭学者。安藤氏の子として延享四年(1747年)江戸四谷に生まれた。名は安藤吉次郎という。のち唐風に姓を司馬、名を峻に改めた。字は君嶽、江漢は号である。はじめ狩野派に学んだが飽きたらず、浮世絵師鈴木春信に師事して、春重の名で「夏月図」などを発表した。明和七年(1770年)春信没後春信の偽物を描くが長続きせず、二世鈴木春信を気取って鈴木春重と称して美人画を多く描いた。同時に平賀源内の紹介で南蘋派の宋紫石に学んで漢画を取得した。安永年間秋田蘭画の指導者小田野直武から洋風画の教えを受け、天明三年(1783年)腐触銅版画(エッチング)の創製に成功した。晩年は老荘の思想に親しみ、文政元年(1818年)十月二十一日七二歳で死去した。本所猿江町にあった慈眼寺に葬られたが寺院の移転により改葬された。著書には「西洋画談」「春波楼筆記」「和蘭通舶」などがある。法名桃言院快詠寿延居士。墓標は生前に建てられた(文化七年)寿塔である。

Historic Places
Shiba Kokan Haka (The grave of Shiba Kokan)

Shiba Kokan (1747 or 1738-1818) is a Western-style artist and a Dutch scholar in the late Edo period. His real name was Ando Kichijiro and his pseudonym was Katsusaburo, and later he had another Tang-style pseudonym Shiba Shun. He learned painting in Kano School, and drew Bijinga (portraits of woman). Kokan succeeded in copperplate printing in association with Odano Naotake and Satake Shozan (both are artists of Akita-Ranga, which is a school of Dutch-style painting) as well as Hiraga Gen-nai. Kokan was buried at Jigenji Temple in Honjo-Saruecho. When Jigenji Temple was merged with Myodenji Temple of Yanaka and moved to the current place in 1912, Kokan's gravestone was rebuilt.




司馬江漢の墓の右隣に、小林平八郎の墓があります。小林平八郎は、高家吉良家の家老で、「平八郎」は通称であり、諱(実名)は央通(こばやしひさみち)です。赤穂浪士の吉良邸討ち入りの際に吉良側として戦い、討ち死にしました。吉良家では最上の150石取りで、名の央通の「央」の字も主君の吉良義央から与えられたものとみられます。忠臣蔵などの創作物では、女装をして打ち掛けをかむり、朱鞘の大刀を提げて馳せつけたとして、二刀流の達人になっています。赤穂方の落合与左衛門(瑤泉院付き用人)の書といわれる「江赤見聞記」には、「小林平八は槍を引っさげて激しく戦い、上野介をよく守ったが、大勢の赤穂浪士と戦ってついに討ち取られた」と記されています。一方、「大河原文書」によれば、平八郎は逃げようとしたところを赤穂浪士達に捕らえられ、「上野介(義央)はどこか?」と聞かれたのに対して、「下々の者なので知らない」と答えるも、「下々が絹の衣服を着ているはずがない」と言われ、首を落とされたと書かれています。小林平八郎には娘がいたとされ、その娘が後に鏡師中島伊勢へ嫁ぎ、その子が葛飾北斎という伝承があります。そのため、北斎は平八郎の曾孫に当たるとされています。



斎藤鶴磯(さいとうかっき)は江戸時代後期の儒学者・地誌研究家で、宝暦二年(1752年)水戸藩士の子として江戸に生まれました。通称は宇八郎、諱(いみな)は敬夫、字は之休、鶴磯は号です。寛政八年〜九年(1796年〜1797年)から文化十三年(1816年)頃までの約20年間は江戸から離れて所沢に住み、鈴木牧之(秋月庵)の「北越雪譜」や赤松宗旦(義和)の「利根川図誌」と並ぶ江戸時代の地誌「武蔵野話初編」を文化十二年(1815年)に完成させました。翌年筆禍事件により所沢を去って江戸に移り、続編は門人の校訂によって文政十年に刊行されました。他の著作に「女孝経補注」や「干支考」「琢玉斎漫筆」などがあります。文政十一年(1828年)2月7日77歳で死去し、深川猿江町にあった慈眼寺に葬られましたが、寺院の移転により改葬されました。

東京都指定旧跡
斎藤鶴磯墓

斎藤鶴磯(1752年〜1828年)は、水戸藩士の子として江戸に生まれました。江戸時代中期の儒学者、地誌研究家として知られています。通称を宇八郎、名を敬夫といい、鶴磯は号になります。武蔵国所沢に住み、江戸時代の有名な地誌である「武蔵野話初編」を文化十二年(1815年)に完成させ、翌年江戸に戻りました。他に「女孝経補注」や「干支考」などの著作も知られています。文政十一年(1828年)に亡くなり、本所猿江町の慈眼寺に葬られましたが、のちに寺の移転に伴い改葬されました。

Historic Places
Saito Kakki Haka (The grave of Saito Kakki)

Saito Kakki (1752-1828) is a Confucian and a topographer in the middle Edo period. Kakki was born to a retainer of Mito Domain. He lived in Tokorozawa, Musashi Province (currently Saitama Prefecture), and in 1815 completed "Musashiyawa Shohen" that is a famous book of topography at the time. In the ensuing year, he went back to Edo. His publications "Onna Kokyo Hochu" and "Kanshiko" is also well known. He died in 1828 and was buried in Jigenji Temple in Honjo Saruecho (currently K0to Ward). Later on, his grave was moved to the current place due to the relocation of the temple.




芥川龍之介は、牛乳製造販売業をしていた父新原敏三と母フクの間に長男として生まれました。しかし、龍之介が7ヶ月の頃に母のフクが精神に異常をきたしたため、母の実家の芥川家に預けられます。それから叔母のフキに育てられたのですが、母のフクは龍之介が11歳の時に亡くなってしまいました。そのため叔父の芥川通章の養子となり、そこから芥川の性を名乗るようになったのです。芥川家は旧家の氏族で、江戸時代は代々徳川家に仕えた奥坊主の家柄でした。龍之介は成績が優秀だったため、東京府立第三中学校を卒業の際に「多年成績優秀者」の賞状を受け、第一高等学校第一部乙類に入学しました。その頃は中学の成績優秀者は無試験で高等学校に入学できたのです。同期入学者には、久米正雄・菊池寛・井川恭(のちの後藤恭)などがいました。寄宿寮に入った龍之介は同室の井川と生涯の親友となります。高等学校を卒業し、1913年に東京帝国大学文科大学英文科へ進学しました。1914年に高校の同期だった久米正雄や菊池寛と同人誌「新思潮」を刊行しました。龍之介は「柳川隆之助」の名前でアナトール・フランスの「バルタザアル」やイエーツの「春の心臓」の和訳を寄稿し、処女小説「老年」を発表しています。これが作家活動の始まりでした。そして1915年10月、「羅生門」を「芥川龍之介」の名前で帝國文学に発表し、作家「芥川龍之介」が誕生しました。1916年に第4次「新思潮」の創刊号に掲載した「鼻」が夏目漱石に絶賛されています。東京帝国大学を20人中2番(1番は井川恭)で卒業した龍之介は海軍機関学校英語教官の嘱託教官となり、その傍らで執筆を続け1917年5月には初の短編集「羅生門」を刊行し、その後も意欲的に短編作品を書き続け、11月には「煙草と悪魔」を発刊しました。1919年に海軍機関学校を辞めて大阪毎日新聞社に入社し、創作に専念し子供にも分かりやすい「蜘蛛の糸」を書いています。1921年に中国へ行き、北京で中華民国の学者であり思想家である胡適と会い、検閲のことなどについて語り合い、帰国後に「上海遊記」などの紀行文を書いています。この旅行後から龍之介は心身が衰え始め、神経衰弱・腸カタルなどになりました。徐々に作品数が減っていきますが、私小説的な傾向の作品が現れ、これは晩年の「歯車」や「河童」などへと繋がっていきました。1920年に長男芥川比呂志が、1922年に次男芥川多加志、1925年には三男芥川也寸志が誕生しています。1926年に胃潰瘍や神経衰弱・不眠症が酷くなり、湯河原で療養しました。1927年7月24日未明に「続西方の人」を書き上げた後、斎藤茂吉からもらっていた睡眠薬を飲んで自殺しました。享年36年の短い生涯でした。



谷崎潤一郎は、明治末期から昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き終生旺盛な執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高く評価されました。日本芸術院会員・文化功労者・文化勲章受章者で、ノーベル文学賞の候補者にもなりました。初期は耽美主義の一派とされ、過剰なほどの女性愛やマゾヒズムなどのスキャンダラスな文脈で語られることが少なくありませんが、その作風や題材、文体・表現は生涯にわたって様々に変遷しました。漢語や雅語から俗語や方言までを使いこなす端麗な文章と、作品ごとにがらりと変わる巧みな語り口が特徴です。「痴人の愛」「春琴抄」「細雪」など、情痴や時代風俗などのテーマを扱う通俗性と、文体や形式における芸術性を高いレベルで融和させた純文学の秀作によって世評が高く、「文豪」「大谷崎」と称されました。その一方、今日のミステリー・サスペンスの先駆的作品や活劇的な歴史小説、口伝・説話調の幻想譚、果てはグロテスクなブラックユーモアなど、娯楽的なジャンルにおいても多く佳作を残しています。昭和四十年(1965年)に入院し、退院後の7月30日に腎不全に心不全を併発して死去しました。享年80歳でした。慈眼寺にある両親の墓に分骨され、芥川龍之介の墓と背中合わせになっています。



墓石が二つ並んで建てられている墓所は、浦里・時次郎の比翼塚です。新内「明烏夢の泡雪」や歌舞伎「明烏花濡衣」などのモデルで知られた悲恋物語の主人公のお墓で、左は吉原の遊女美吉野(心誠妙貞信女)、右は蔵前の札差伊勢屋の若旦那伊之助(意實淨貞信士)です。浦里というのは吉原の遊女の名前で、彼女は親の借金のかたに色里に身を落とされます。吉原で富豪の息子春日屋時次郎と深い仲になりますが、時次郎の両親は猛反対し、吉原に行くことを禁じて金も与えません。浦里を忘れられない時次郎は親の目を盗み、会いに行くものの金はありません。浦里はこっそりと時次郎を店に入れます。しかしそれが発覚し、時次郎は表にたたき出されます。浦里の方は雪の降る中、禿のみどりとともに立木に縛られて折檻を受けます。その後、助けに来た時次郎によって浦里とみどりの縄はほどかれ、3人共に逃げて行くのでした。



ポイント10 染井吉野の碑

巣鴨駅から白山通りを挟んだ向かい側に、山手線に沿って「すがも桜並木通り」が延びています。今は初夏の季節なので、「すがも葉桜通り」になっていますが。その入口に染井吉野の石碑が置かれています。



うっすらとした地図に、関八州の街道筋が描かれ、脇に染井吉野とだけかかれた石碑が並んでいるだけで、とくに説明はありません。地図のタイトルは「関八州全図」となっています。「関八州」とは、江戸時代に関東地方を指した言葉で、相模国・武蔵国・安房国・上総国・下総国・常陸国・上野国・下野国をいいます。これらの国は、現在の1都6県(茨城県・栃木県・群馬県・埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県)とほぼ一致します。



石碑の背面には寄贈者と思われる個人名や周辺の企業名が記されています。昭和五十五年(1980年)に近隣住民によって建立されたそうです。



ポイント11 徳川慶喜梅屋敷跡

染井吉野の碑から巣鴨橋を超えた先に、将軍退位後の徳川慶喜が住んでいた屋敷跡の案内板が立っています。屋敷の門は、巣鴨橋の南詰辺りにあったようです。

巣鴨に住んでいた徳川慶喜

徳川幕府十五代将軍徳川慶喜(天保八年【1837年】〜大正二年【1913年】)がこの巣鴨の地に移り住んだのは明治三十年(1897年)十一月、慶喜六十一歳のことであった。大政奉還後、静岡で長い謹慎生活を送った後のことである。翌年三月には皇居に参内、明治三十五年には公爵を授けられるなど復権への道を歩んだ。巣鴨邸は、中山道(現白山通り)に面して門があり、庭の奥は故郷水戸に因んだ梅林になっており、町の人からは、「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれ親しまれていたという。慶喜が巣鴨に居住していたのは明治三十四年十二月までの四年間で、その後小日向第六天町(現文京区小日向一・四丁目付近)に移った。その理由は、巣鴨邸のすぐ脇を鉄道(目白〜田端間の豊島線、現在のJR山手線)が通ることが決まり、その騒音を嫌ってのこととされている。




案内板の下には、江戸時代の巣鴨近辺の図もあります。勿論、当時は徳川慶喜は江戸城に住んでいた訳ですから屋敷の場所は図にはありませんが、図の右側中程の「巣鴨町下組」辺りに屋敷が建てられたようです。山手線が開通したのは明治時代になってからですから、跨線橋の巣鴨橋もありません。

江戸切絵図(染井王子巣鴨辺絵図)

嘉永七年(1854年)刊行。案内図として作成されたため実測とは異なるが、当時の様子をよくとらえている。図の下半分を斜めに通る道が中山道。徳川慶喜の屋敷は、当図において「巣鴨町下組」(明治五年に廃止。一部が巣鴨一丁目となる)の辺りに建てられた。




ミニチュアですが、当時の庭園の一部が再現されています。雪見灯籠もあります。雪見灯籠は高さが低くて小型なことから、墓地の区画の中などにも置かれる事があります。灯籠は周囲を照らす明かりとして作られたものですが、雪見灯籠はその中でも特に高さが低い灯籠です。雪見という名前は「浮見」が変化した語で、竿と中台が無くて高さが低く、主に水面を照らすために置きますので、笠の部分が大きく、水際に設置することが多くなっています。足は3本のものが主流で笠の丸い丸雪見と六角形の六角雪見があります。名前の由来については、笠の形が差した傘の上に雪が積もったように見えるから」・「笠に積もった雪を鑑賞して楽しむものだから」・「灯りを点した姿が近江八景の浮見堂に似ているため、そこから訛って雪見になった」など諸説があります。



徳川慶喜は水戸藩の出身であることから、水戸偕楽園に想いを馳せたのでしょうか、屋敷内には多くの梅の木が植えられていたとのことです。ミニチュア庭園には2種の梅の木が植えられています。手前が「冬至」です。

ウメ ’冬至’

冬至。ウメの野梅系園芸品種。花は白色の一重咲です。冬至の頃から咲き、正月用の盆栽に向きます。(バラ科)




ミニチュア池を挟んだ反対側には「八重寒紅」が植えられています。

ウメ ’八重寒紅’

八重寒紅。ウメの野梅系園芸品種。花は濃い紅色の八重咲、花弁が波打ちます。正月用切り花にされます。(バラ科)




ゴール地点のJR山手線巣鴨駅に着きました。



ということで、豊島区で三番目のコースである「B桜・ツツジの花香る町散策コース(駒込方面)」を歩き終えました。次は豊島区で最後のコースである「Cレトロに浸る。街道筋をゆくコース(巣鴨方面)」を歩きます。




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