Cレトロに浸る。街道筋をゆくコース(巣鴨方面)  

コース 踏破記  

今日は豊島区の「Cレトロに浸る。街道筋をゆくコース(巣鴨方面)」を歩きます。都営三田線巣鴨駅から江戸六地蔵のひとつである眞性寺に詣で、かっての乙女達が闊歩する巣鴨地蔵通り商店街を散策し、高岩寺のとげぬき地蔵尊をゴシゴシ洗う参拝者を眺め、巣鴨の裏通りを巡って西巣鴨駅に至ります。最初に歩いたのは2022年の5月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年10月に改めて歩きました。

スタート地点:都営三田線巣鴨駅出入口A2
ポイント 1 眞性寺 (しんしょうじ)
1706年、深川の僧侶・地蔵坊正元(じぞうぼう しょうげん)が15年かけて、青銅の座像を街道口6ヶ所に造った、江戸六地蔵。そのひとつが、かつての中山道口にあたる眞性寺にあります。中山道を旅する人は道中の無事を祈るため必ず参拝したと言われています。毎年、6月24日には「百万遍大念珠供養」が行われます。災いを免れるよう願をかけ、参詣者が境内に広げた16メートル程の大数珠を手で順々に回していくといった行事です。
ポイント 2 高岩寺・とげぬき地蔵尊
テレビなどでもよく紹介され、全国的に有名となった巣鴨地蔵通り商店街。その途中には、病や心の刺を抜くということで、多くの参詣者が訪れる、高岩寺のとげぬき地蔵があります。江戸の侍・田付又四郎が、夢枕に立った僧のお告げどおりに地蔵の印を紙に写し川に流したところ、妻の大病が快復したという言い伝えがあり、今も御影(おみかげ)を求めて、遠方から訪ねる人も少なくないようです。病気の快復を祈り身体の悪い所を洗う、洗い観音もあります。
ポイント 3 庚申塚・猿田彦大神
入口の三猿が目印の巣鴨の庚申塚は、安藤広重の「巣鴨庚申の図」にも描かれているほど有名。江戸時代は、板橋宿に入る前の旅人たちの休憩スポットでもありました。今も、庚申の日には参拝者で賑わいます。
ポイント 4 明治女学校跡
現在、東大学生寮と区老人施設のあるこの地には、かつて、スコットランド風の西洋館、「明治女学校」がありました。明治十八年に木村熊二・澄子夫妻らによって開校された、キリスト教主義の女学校で、自由で独創的な発想を重んじた教育を目指しました。島崎藤村、北村透谷らを教授陣に迎え、野上弥生子や羽仁もと子ら著名人を輩出。明治四十年に廃校し、建物は昭和二十年に戦災で焼失。記念碑が西巣鴨幼稚園の一角に建てられています。
ポイント 5 大日堂 (だいにちどう)
徳川秀忠と徳子夫人の菩提を弔うため、春海和尚が1653年に創建し、石造大日如来坐像を安置。明治三十八年、仏教改革を目指した宗教家・伊藤証信がこの地で無我愛運動を実践していました。
ポイント 6 種子屋(たねや)
江戸時代から巣鴨⇔滝野川の中山道沿いには、野菜の種を商う種子屋が軒を連ねていました。幕末に滝野川から分家した榎本家がここに店を構え種子屋を営んでいました。現在も昔の面影を残しています。
ポイント 7 大都映画巣鴨撮影所跡
旧朝日中学校跡地には、映画の撮影所がありました。大正八年の当時の言葉で言うと、天然色活動写真撮影所。その後、国際活映→河合映画→大都映画と変遷。その頃、近衛十四郎、阿部九州男らのスターが誕生し、大都は数々の娯楽映画を量産。昭和十七年の「宮本武蔵決戦般若坂」が最後の作品となり、大映に吸収されました。
ポイント 8 にしすがも創造舎舞台芸術アーカイブ
大正八年に設立された大都映画巣鴨撮影所跡にある、にしすがも創造舎(旧朝日中学校)に、演劇関係の書籍やポスターなどの資料を集めた舞台芸術アーカイブが、2006年9月25日に開設されました。アーカイブでは、劇場から収集した舞台芸術に関する書籍や、区内の演劇人から寄贈を受けた演劇雑誌などの閲覧、演劇に関するビデオが視聴できます。開館は、月曜日から金曜日。午前11時から午後6時(要予約)。

注記:にしすがも創造舎舞台芸術アーカイブは、2016年12月をもって全ての事業を終了し、閉鎖されました。
寄り道 千川上水公園
昭和十五年に開園した、区内で最も古い公園。千川上水は、かつてこの地にあった掘割を経て、分水が六義園や本郷・湯島方向へ流れていました。現在も、地下には水流を調節するために設置された分水堰が残っています。

ゴール地点:都営三田線西巣鴨駅出入口A4


スタート地点の都営三田線巣鴨駅出入口A2から歩き始めます。



ポイント1 眞性寺

とげぬき地蔵通り商店街の入口に眞性寺というお寺があります。江戸六地蔵のひとつとして知られる眞性寺の創建年代は不詳ですが、聖武天皇(在位:724年〜749年)の勅願により、行基菩薩が開いたと伝えられています。「地誌御調査上」によれば、今から380年前の元和年間(1615年〜1624年)に祐遍法印により中興開基(一度哀運にあったものを再建)が行われたとの記録が残っています。本尊は薬師如来です。



門前に眞性寺の由緒書が掲示されています。

眞性寺由緒沿革

当寺は、醫王山東光院眞性寺と称し、真言宗豊山派に属し、奈良県桜井市初瀬にある總本山長谷寺の末寺であります。当寺の開基は、聖武天皇動願行基菩薩開基と伝えられています。中興開基は元和元年(西暦1615年)祐遍法印であります。御本尊は薬師如来でありまして、古来より秘佛として一切開扉されて来ておりません。当寺は、江戸時代より弘法大師御府内八十八ヶ所第三十三番札所・江戸六地蔵参り第三番となっています。巣鴨は中山道の江戸への入り口に当たり、八代将軍徳川吉宗公が度々狩りに来られ、当寺が御膳所とされていました。

江戸六地蔵尊 第三番 縁起
当寺境内に安置されております江戸六地蔵尊第三番の尊像は、地蔵坊正元が発願主となって、宝永三年(西暦1705年)造立の願を発してから、享保五年(西暦1720年)に至る十五年間に、江戸御府内の多くの人々より寄進を集め造立された六体の大地蔵尊の一体で、正徳四年(西暦1714年)に完成されました。発願主の地蔵坊正元は、若い頃に大病を患い、両親が地蔵菩薩に一心に祈願を込められている姿を見て、自らも御利益が得られたならば、世の中の人々に地蔵菩薩の御利益を勧め、多くの尊像を造立して人々に帰依することを勧めたいと地蔵菩薩に誓ったところ、不思議な霊験があって難病から本復したことにより、誓いの通り地蔵菩薩像を江戸の出入り口にある六ケ寺に造立されたのであります。




境内に長大な看板が設置されています。2022年に訪れた時と、2025年に再訪した時で内容が異なっています。以下は2022年版です。

醫王山東光院眞性寺鎮座(東京都有形文化財)
江戸六地蔵尊開眼三百年祭

このお地蔵さまは、高さが2.7メートル、台座を含めるとおよそ3.5メートルの大きな唐銅製の座像です。右手に錫杖、左手には宝珠を持って蓮台に趺坐しています。これを称して江戸六地蔵尊といい、江戸御府内に六カ所造立された地蔵尊の一つです。各所の地蔵菩薩像六体は江戸深川の地蔵坊正元が願主となり宝永三年に願を発し、十四年間に六体の地蔵菩薩を造立しました。眞性寺の一体は、三百年前の正徳四年九月に四番目として完成しました。地蔵尊造立にあたり、地蔵坊正元は「江戸六地蔵建立之略縁起」という勧化書を作って人々の寄進を募り、莫大な寄進額が記録されています。造立由緒については「当国六地蔵造立之意趣」に詳しく述べられていますが、当時の時代背景を考えると、元禄末から宝永年間の相次ぐ地震や大噴火などで社会不安が増したこともあり江戸庶民の神仏に対する切実なる願いが込められていることが推察されます。また、中山道を今日まで連綿と行き交う人々の願いや地域の人々の敬虔な願いがお地蔵様には込められてまいりました。ここに2011年東日本大震災犠牲者のご冥福をお祈りすると共に、未来三百年の平安を御祈願いたします。

江戸六地蔵尊百萬遍大念珠供養 毎年六月二十四日午後厳修

百萬遍大念珠供養は「災い回避の御祈願」として毎年六月二十四日の午後五時より厳かに行われます。眞性寺境内に沢山の老若男女が、災いの回避を願い、直径三寸五分の大玉と二寸の小玉が連なった(全部で五百四十粒)長さ九間の大念珠を、お念仏を唱え廻します。境内の「陰光地蔵尊石碑」によると、其の大念珠供養は天保十年に始まり連綿と続けられておりましたが、先の大戦により中断し戦後昭和四十六年に地内の江戸六地蔵供養会により復活しました。現在は「江戸六地蔵尊奉賛会」の方々により運営され、どなたでも参加いただけます。また、子供用の大念珠も用意され、地域のお子様が大念珠を廻しております。ご奉仕参加の皆様には奉賛会よりお供物が振る舞われます。

江戸六地蔵尊略年表

元和元年(1615年)      眞性寺中興さる 祐遍法印・元和偃武(大阪夏の陣)
元禄十六年(1703年)     元禄大地震(関東地方中心)
宝永三年(1706年)      深川の地蔵坊正元が願主となり、京都の六地蔵に習い発願する
宝永五年(1708年)      江戸六地蔵第一番 東海道品川寺に造立
宝永七年(1710年)      江戸六地蔵第四番 奥州街道東禅寺に造立
正徳二年(1712年)      江戸六地蔵第二番 甲州街道太宗寺に造立
正コ四年(1714年)六月    眞性寺第六世盛弁法印入寂 第七世意正法印
正徳四年(1714年)九月    江戸六地蔵第三番 中山道眞性寺に造立
享保二年(1718年)      江戸六地蔵第五番 水戸街道霊厳寺に造立
享保五年(1721年)      江戸六地蔵尊第六番 千葉街道永代寺に造立
天保十年(1839年)      眞性寺にて百萬遍大念珠供養が始まる(安政の大地震)
文久三年(1863年)      地蔵尊宝珠再造
大正十二年(1923年)     関東大震災にて台座蓮弁二枚再造
                 第二次世界大戦 戦火に遭うも現存するが大念珠等消失
昭和四十六年(1971年)    百萬遍大念珠供養が復活 今日へ至る
平成二十年(2008年)八月   六地蔵修復のため京都へ
平成二十二年(2010年)六月  修復完成 還着開眼法要

江戸六地蔵尊巡拝について

江戸六地蔵尊第一番  品川寺
江戸六地蔵尊第二番  太宗寺
江戸六地蔵尊第三番  眞性寺
江戸六地蔵尊第四番  東禅寺
江戸六地蔵尊第五番  霊厳寺
江戸六地蔵尊第六番  永代寺 第六番地蔵尊は現存せず(碑が深川公園内 寺の名は再興)




境内の左手に、高さ2m68cm、蓮花台を含めると3m45cmの大きなお地蔵様が蓮座に趺座しています。これを称して江戸六地蔵尊といい、江戸御府内に六箇所造立されている地蔵尊のひとつです。眞性寺の地蔵尊は、江戸深川に住んでいた地蔵坊正元が願主となって、宝永三年(1706年)に造立の願を発してから14年間の間に大凡同型の地蔵尊菩薩像六体を造立した中の一体で、4番目(巡拝では3番目)に作られた唐銅製の座像です。眞性寺の地蔵尊が完成したのは正徳四年(1714年)9月でした。その他の六地蔵は、東海道の尊像として品川寺(第一番)、奥州街道沿いの東禅寺(第二番)、甲州街道沿いの江戸三大閻魔の寺として有名な太宗寺(第三番)、水戸街道沿いの霊巌寺(第五番)にあります。第六寺は廃寺となり消滅した千葉街道沿いの永代寺にありました。頭部は前後に、体部は15個の部材に分けて鋳造し、鋳掛けや鋲止めなどで接合されました。このように別々に鋳造した部材同士を組み上げる技法は江戸時代の大型像によく見られ、像の制作や運搬の労力を減らすことが出来る合理的で優れた技法です。毎年6月24日には、江戸六地蔵の供養のために「百万遍大数珠供養」が行われます。

東京都指定有形文化財(彫刻)
銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵の一)

江戸六地蔵の由来は、その一つ太宗寺の像内にあった刊本「江戸六地蔵建立之略縁起」によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って、宝永三年(1706年)造立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中六か所に地蔵菩薩をそれぞれ一躯ずつ造立したと伝えられています。各像の全身及び蓮台には、勧進者、その造立年代などが陰刻されており、神田鍋町鋳物師太田駿河守正義によって鋳造されたことがわかります。六地蔵のうち、深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第六番)は、廃仏毀釈で取り壊され、五躯が残っています。六地蔵のうち、眞性寺の地蔵は第四番目で、正徳四年(1714年)に造立されました。平成二十年度〜二十二年度(2008年〜2010年)の修理の際に胎内から銅造地蔵菩薩坐像四躯と銅札、木札等が多数発見されました。それらは修理完了時に再び胎内に戻され、大切に保存されています。像高は、268cmあり、かつては鍍金が施されていました。江戸時代中期の鋳造像としては大作であり、かつ遺例の少ないものであることから文化財に指定されました。

Tangible Cultural Properties (Sculpture)
Dozo Jizo Bosatsu Zazo (Edo Roku Jizo no Hitotsu)

According to "publication of the brief history of the erection of the statues of Edo Six Jizoes, "which was dedicated inside the statue, the origin of the Edo Six Jizoes is as follows. Jizo Monk Shogen who resided in Fukagawa, Edo, had been struck by incurable disease. After praying with his parents for cure of the disease to Jizo Bosatsu, Shogen was healed. After the fashion of six Jizoes in Kyoto, a petition for the construction of statues of six Jizoes was commenced in 1706 to collect public donations. Then a statue of Jizo Bosatsu was erected at each of six locations in Edo. The body and the lotus-shaped pedestal of each statue were incised with the names of solicitors and the year of construction. The statues were cast by Caster Ota Suruganokami Masayoshi in Kandanabe town. Anti-Buddhist movement at the beginning of the Meiji period destroyed the sixth Jizo Bosatsu at Eitaiji Temple in Fukagawa. Currently there are 5 remaining statues. The statue of jizo at Shinshoji Temple was erected in 1714 as the fourth statue. During its restoration from 2008 to 2010, four copper statues of seated Jizo Bosatsu and many copper tablets and wooden tablets were found inside the body of the statue. After the restoration was completed, those found objects were put back inside the statue. The height is 268cm. The statue used to be gold-plated. The statue was designated as cultural properties because the statue was rather elaborate for copper statues in the mid-Edo period and there are only a few previous cases as such.




境内には芭蕉の句碑が建っています。この句碑は、寛政五年(1793年)の芭蕉の百年忌に彩茶庵梅人とその社中によって建てられたものです。この句は、元禄六年(1693年)秋、芭蕉が杉山杉風の別邸採茶庵に咲く萩を見て呼んだ句といわれています。萩は秋の七草のひとつで、「白露を一杯溜めた萩の花が風に吹かれて大きくうねってもその露を落とさずに揺らめいている」という意味です。「白露」とは、萩の露が月明かりに美しく見えた様を表しています。月を背景にして、ひとかたまりの萩の花がその小さく危うい露の玉をこぼすことなく、細い枝々に揺らめいている。それは萩の気品であるが、同時に秋風の配慮でもあると詠んでいます。

芭蕉翁

白露も
   こほれぬ萩の
      うねりかな




塀の前に、「旧中山道はタネ屋街道」の解説板があります。旧中山道を通る旅人の中には農家の縁側を借りて弁当を食べる人がいて、見慣れない野菜を見かけると国元で栽培しようとタネを欲しがったそうです。やがて農家の副業としてタネの販売が盛んになり、長さ6kmにわたってタネ屋問屋や小売店が並び、タネ屋街道と呼ばれるようになったのだとか。「おばあちゃんの原宿」の前身がタネ屋街道とは知りませんでした。

江戸・東京の農業 旧中山道はタネ屋街道

旧中山道を通る旅人の中には弁当を食べるため、街道沿いの農家に立ち寄り、縁側を使わせてもらう人などもいました。旅人は、 農家の庭先や土間で見慣れない野菜を見かけると、国元で栽培しようと、タネを欲しがる人も多く、やがては農家の副業としてタネを販売するようになりました。その後、江戸・東京が生んだ滝野川ゴボウ、滝野川ニンジンなど優れた野菜が出現するとタネを扱う専門店ができ、明治の中期には巣鴨のとげぬき地蔵から板橋区清水町にいたる約6kmの間にタネ屋問屋が9戸、小売店が20戸も立ち並びさながら、タネ屋街道になっていました。寛永二十年(1643年)の代官所に申告した書き付けに、長野県諏訪からきたタネの行商人が榎本種苗店(豊島区西巣鴨)に仕入れにきた模様が記されています。馬12〜13頭をひいてタネを仕入れ、帰り道「萬種物」の旗を立てて街道のタネ問屋に卸していったり、農家に販売して歩くなど、さながら富山の薬売りと同じようにタネも行商により商われていました。

THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
The Old Nakasendo, a Seed Dealers' Highway

People travelling along the old Nakasendo used to drop in the farmers' house to eat their own lunches. When they saw a vegetable new to them in farmer's premises, they often asked for some seeds to take home to grow them. Eventually, farmers began to sell seeds as their side job. Then, by the year 1890, there were 9 wholesalers and 20 retailers of seeds within the span of 6 km along the Nakasendo between Togenuki-Jizo in Sugamo and Shimizu-cho in Itabashi ward. The old Nakasendo looked like a Seed Dealers' Highway in those days.




眞性寺の先から白山通りと分岐して斜め左に延びる巣鴨地蔵通り商店街の入口があります。巣鴨地蔵通りは旧中山道の道筋になっています。巣鴨地蔵通り商店街の名前は、高岩寺の「とげぬき地蔵尊」と眞性寺の「江戸六地蔵尊」のふたつのお地蔵様と巣鴨庚申塚を併せたものです。



巣鴨地蔵通り商店街には、特に女性の高齢者が多く訪れることから、「おばあちゃんの原宿」とも呼ばれています。おばあちゃん好みの塩大福や、還暦祝いの定番になっている赤パンツなど、多彩なお店が並んでいます。巣鴨地蔵通りは江戸の中期から現在にいたるまで商業や信仰の場として栄えてきました。通りには、小さなお店や露店が連なる古き良き日本の風景が残っていて、お年寄りを中心に若い方々にも親しまれています。ちなみに、巣鴨には年間900万人が訪れるそうです。



ポイント2 高岩寺・とげぬき地蔵尊

高岩寺は、一般にはとげぬき地蔵の通称で知られています。高岩寺は扶岳太助が開祖となって慶長元年(1596年)に江戸神田湯島に創建されました。その後、下谷屏風坂(現在の岩倉高等学校)に移り、更に明治の十四年(1891年)に巣鴨に移転しました。

とげぬき地蔵尊御縁起

正徳三年五月(徳川七代将軍家継の治世)、江戸小石川に住む田村氏の妻、常に地蔵尊を信仰していたが、一人の男児を出産後重い病気に見舞われて床に臥した。諸々の医者が手をつくしたが、病気は悪化の一途。彼女は生家に宿る怨霊によって女はみな二十五才までしか生きられないという父母の話を夫に伝えた。田村氏は悲しみの中に、この上は妻が日頃信仰する地蔵尊におすがりするほかはないと毎日一心に祈願を続けた。ある日のこと田村氏の夢枕に一人の僧が立ち「自分の形を一寸三分に彫って河水に浮かべよ」という。田竹氏が「急には彫り難い」と答えると「お前に印像をあたえよう」といわれ、夢がさめた。不思議な夢と枕元をみると、木のふしのようなものが置いてあり、平らな部分に地蔵菩薩のお姿があった。田村氏は夢にあった通りと不思議に思いつつも、地蔵尊の宝号を唱えながら形を印肉にしめして一万体の「御影」をつくり、両国橋から隅田川に浮かべ、一心に祈った。その日の夜午前二時頃、田村氏は妻の呼ぶ声にいってみると「今夢うつつの中に男があらわれ、長い棒と籠のようなものを持って枕上に立ちました。すると香染の袈裟をつけた一人の僧が出て来て蚊帳の外に引き出し、次の間で錫杖で背中をついて追い出してしまいました」といった。このことがあって以来田村夫人の病気はしだいに快方に向かい、十一月中旬には床をはなれ、以後無病になった。田村氏がこの霊験を山高氏の家で話していると、一座の中に西順という僧がいて、その御影をほしいといわれ、二枚をあたえた。西順は毛利家に出入りしていたが、ある時同家の女中が口にくわえていた針を飲みこんで大いに苦しんだ。西順が持っていた地蔵尊の御影一枚を飲ませると、腹中のものを吐き、御影を洗ってみると、飲みこんだ針がささって出て来た。(享保十三年七月十七日=八代将軍吉宗の治世、田村氏が自ら記して高岩寺に納された「霊験記」より)




「とげぬき」とは病気のトゲを抜く、すなわち病気を治す意味です。その昔、田村某という男の妻が病となり、その平癒を地蔵尊に祈ったところ、夢枕に現れた僧に地蔵の御影を一万体書き写して川へ流せと告げられ、目覚めると枕元に小さな木彫りの地蔵が置かれていました。田村某がお告げの通りその御影を書き写して川へ流すと、妻の病は全快し、後にその地蔵尊を高岩寺に奉納したところ、御影をいただくと病気が治るという噂が広まり、とげぬき地蔵として広く知られるようになったといわれます。そこから他の病気の治癒改善にもご利益があるとされ、現在に到るまでその利益を求めて高齢者を中心に参拝者が絶えません。境内左手に身代わり地蔵が置かれ、患部と同じ場所を水で洗って病気の平癒を祈願する人が絶え間なく列を成しています。



旧本堂は昭和二十年(1945年)の東京大空襲で建物を全焼し、現在の本堂は昭和三十二年(1957年)に再建されました。



「巣鴨地域文化創造館」は、愛称が「中山道待夢」で、近隣住民同士が交流を深めたり、余暇を楽しむための文化活動や学習活動ができる地域のスポットです。建物入り口の瓦屋根がかつてこの通りが中山道であったことを示唆しています。設備は、会議室や多目的ホール(いずれも利用は有料)・自主グループ等の作品展示コーナーなどが設けられています。カセットデッキやCDデッキ・マイクといった備品の貸し出しもありますので、発表会や学習会などの利用にも最適です。講座・ワークショップ・文化カレッジが定期的に開催されていて、親子参加型のテーマも用意されています。



入口脇に時計が置かれています。

「中山道待夢(たいむ)シンボルモニュメント」

平成四年(1992年)に生涯学習施設「中山道待夢」の開館とともに、過去から未来へ時(Time)を刻む象徴として、このからくり時計が設置されました。長い間「お江戸日本橋」のメロディとともに、地域の方々に親しまれてきた「からくり人形」は、残念ながら平成二十八年(2016年)に機器の経年劣化のため、動作を止めることになりました。平成三十年(2018年)、館のリニューアルオープンを記念してこの時計をモニュメントとして甦らせました。これからも皆様を見守りながら時を刻み続けてくれることでしょう。




「すがもん」は、巣鴨地蔵通り商店街の公式マスコットキャラクターです。鴨の国からやってきた12才の男の子という設定です。商店街のおもてなし委員長として商店街でお手伝いをしています。「巣鴨から日本の商店街を元気にしたいがも〜」という想いでがんばっています。 「おしりを触ると恋が実る」という都市伝説があり、恋愛成就キャラとしても活躍しています。すがもんのおしりが展示されています。



ポイント3 庚申塚・猿田彦大神

巣鴨地蔵通り商店街の外れに、猿田彦大神庚申堂があります。中山道が交通の要であった江戸時代に茶屋も併設していた巣鴨庚申塚は、人足や旅人が駕籠や馬をとめて休憩した立場として賑わっていました。合祀されている猿田彦大神は日本神話に登場する神様で、旅人の神として親しまれてきました。

巣鴨猿田彦大神庚申堂 由来記

江戸時代に書かれた紀行文の「遊歴雑記」に当庚申塚を次のように書いている。「武州豊島郡巣鴨庚申塚は江戸より板橋の駅に入る立場なり、よしず囲いの茶店あり、団子茶屋と称す。石碑を見るに明歴三年と彫られ、又、古老からの聞き書きとして文亀二年(1502年)に塔を建立、高さ八尺なり、然るに明歴三年正月世にいう振袖火事の大火おこり、江戸市中九分通りを焼き払う、復興資材をひさぐものひきもきらず、たまたま当庚申塔に立懸けたる竹木倒れ、石碑四つ五つに砕けたり、故に村中相談し丈を縮めて今の塔を再建し、文亀二年の碑を嫁の下に埋めたりと言い伝えを物語る、されば巣鴨庚申塚というは文化十二年(遊歴雑記発行年)に至りて三百十四年に及ぶ、故に庚申塚とてその名高し」と書かれている。又、長谷川雪目の描いた江戸とその近郊の入り地誌「江戸名所図会」には、この庚申塚に中山道の立場があり、旅人が茶屋で休息している様子が描かれている。広重の浮世絵にも当地の描写があり、付近の賑いが見られる。庚申様を神として祭ったのがいつの頃か判然としないけれども、神社としては伊勢皇太神宮の一角に大きな区画を占めて猿田彦神社があり、神宮は猿田彦の先導により開かれたと称されている。このへんから道租神との関連も結びつくようである。神道による庚申信仰も相当の歴史をもって受け継がれて来たのであり、当「巣鴨猿田彦大神庚申堂」もその好例であろう。前述のように文亀二年(1502年)に建てた「庚申待供養板碑」は破損し、明歴三年(1653年)に作り直したものが現在御本殿に祭る「庚申塔」である。戦前は町会事務所なども合築された堂字であったが戦災で焼失、その為この石碑の文字も判読しにくいが、江戸時代の庶民信仰と地域の歴史を知る上で大切なものとして豊島区の登録文化財にもなっている。ところで、庶民の間に庚申講が盛んになった頃、「庚申待ち」という集まりが行われ、庚申の日に夜を徹して来世の幸福を願って天帝に祈り酒食を持ち寄って賑やかに過す、という祭りが流行した、今はすだれたけれども当庚申堂にもその名残りが偲ばれる。昭和四十六年に本堂を再建し、以後四十九年には御水舎、平成三年には山門も形を整え、荘厳さを増して、参拝の方々に喜ばれている。年に六〜七回、庚申の日にはお祭りをして多くの信仰者を迎えている。




細長い境内の奥に庚申堂があります。今日は庚申堂の扉は閉ざされています。堂内には明暦三年(1657年)に再建された庚申塔が祀られているとのことです。中国から伝来した道教に由来する庚申信仰に基づく庚申待(庚申講)とは、人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)という虫が、庚申の日の夜の寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされていることから、それを避けるためとして庚申の日の夜は夜通し眠らないで天帝や猿田彦神や馬頭観音や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習です。堂内には日本神話に登場し、旅人の神として親しまれてきた猿田彦大神も合祀されているとのことです。

庚申塚

庚申信仰の起源は、中国から伝わった道教の三尸説に求めることができる。それによれば、人の身体にいる三尸という虫が、六十日に一度訪れる庚申の日の夜に人の罪状を天帝に告げに行くため、人々はこの晩は寝ずに過ごし、命が縮められるのを防ぐというものである。こうしたことから、室町時代の中頃から庚申待が行われるようになり、さらに僧侶や修験者の指導によって講集団が組織され、江戸時代になると各地に庚申講がつくられ、その供養のため庚申塔が造立されるようになった。さて、江戸時代の文化年間(1804年〜1817年)に出された地誌「遊歴雑記」によると、祠内に納められている庚申塔は明暦三年(1657年)一月の江戸の大火後に造られ、その際文亀二年(1502年)造立の高さ八尺の碑は、その下に埋められたとされている。この庚申塚は、旧中山道(現・地蔵通り)沿いに展開した巣鴨町の北東端、すなわち旧中山道と折戸通りの交差地に位置し、天保年間(1830年〜1843年)に刊行された「江戸名所図会」では、中山道板橋宿に入る前の立場(休憩所)として描かれている。現在も都電の庚申塚停留所を下車して参拝する人や、とげぬき地蔵(高岩寺)の参拝帰りに立ち寄る人が跡を絶たない。




境内の石碑に書かれた内容によれば、江戸時代には庚申塔だけが存在し、猿田彦大神は明治時代に入ってから合祀されたとのことです。

江戸の名所

巣鴨の中山道沿いにある庚申塚は、江戸時代から近郷近在に聞こえた名所でした。江戸と板橋宿との間にあり、行き交う旅人たちで賑わっていたと伝えられ、その様子は「江戸名所図会」にも描かれています。現在では、特に庚申の日ともなると、近くの「とげぬき地蔵(高岩寺)」の縁日(毎月四の日)と同様に多くの参拝者があります。庚申塚では町内会の人たちが、参拝者に対し、季節ごとに趣向をこらした食事を作ってもてなしています。「江戸名所図会」のなかの茶店の屋根の葭簀(よしず)の上に見える石塔は、庚申塚のいわれを裏付けるものです。現在、この石塔は当地の小さな社に鎮座し、その銘文によれば明暦三年(1657年)に造立されたものということがわかります。これより以前、文亀二年(1502年)に造立されたといわれる石碑がありましたが今はなく、「遊暦雑記」では、この塚の下に埋められていると伝えています。また、この庚申塚には、お猿さんが祀られているというようにいわれていますが、これは、この巣鴨近辺の有志が、明治初期、千葉県銚子市にある猿田神社から猿田彦大神を分祀したという歴史的事実によるものです。




庚申堂の前には、大滝教会から寄贈された2体の猿神が鎮座していて、申は干支で猿に例えられることから、台石には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が彫られています。



2022年に訪れた時には、手書きの庚申塚由来記が掲示されていました。庚申塚の地は中山道の立場だったところで、よしず囲いの茶屋がありました。茶屋店では、藤の花をきれいに咲かせていたのが評判で、小林一茶も訪れて句を詠んでいます。

庚申塚由来記

全国的に有名な巣鴨の庚申塚にあった庚申塔は高さ八尺で文亀二年(1502年)造立、現存していれば区内最古の石碑。昔巣鴨の庚申塚は中山道の本街道であり、板橋宿の一つ手前の立場として上り下りの旅人の往来が激しく、休息所として賑わい、簡単な茶店も在り、人足や馬の世話もした。広重の絵にも描かれ江戸名所図会で見ると、茶店に人が休み人足の奪い合いをしている旅人もいて賑やかである。ここに団子などを売る茶店もできて、藤の花をきれいに咲かせていたのが評判で、花の頃は、小林一茶も訪れて

   ふじ棚に
      寝て見てもまたお江戸かな

の句もある




都電荒川線庚申塚電停の先で左折して路地に入ります。左手に東大豊島国際学生宿舎の建物があります。名前からして外国人留学生専用の宿舎かと思いましたが、日本人学生も入居できるようです。A棟200室・B棟300室からなり、ワンルーム形式ですが、リビング・キッチン・トイレ・シャワーブース・洗濯機・乾燥機・エアコンが完備したコモンルームも設置されています。費用も格安で、地方出身者は安心して勉学に励めます。



ポイント4 明治女学校跡

東大豊島国際学生宿舎の先で右折した区民ひろば西巣鴨第二の前に記念碑が建っています。



巣鴨地蔵通り商店街の照明灯に貼られていた明治女学校跡の案内板には、次のように書かれています。

明治女学校跡

明治女学校は、キリスト教精神に基づく日本人による女子高等教育を目指し、明治十八年に木村熊二・鐙夫婦によって創立された学校です。熊二は、12年にも及ぶ米国 留学で、進んだ女子教育を目にし、帰国後妻とともに女子教育に心血を注ぎました。校舎の火災などで明治三十年に巣鴨に移転し教育にあたりましたが、明治四十一年に廃校となりました。その活動は短期間でしたが、因習にとらわれることなく自らの考えで行動する女性を多く輩出しました。




卒業生の相馬黒光は新宿中村屋の創業者、仙台市旧屋敷町の士族・星家に生れました。幼名を菱といい、長じて良と名乗ります。宮城女学校(現宮城学院)を経て、横浜フェリス女学校に入学しました。明治女学校の講師・星野天知と知り合ったことがきっかけで同校に転学します。同校在学中に東京専門学校(現早稲田大学)を卒業。北海道を遊歴し、相馬愛蔵を知りました。明治三十年(1897年)に明治女学校を卒業し、翌年に穂高白金の相馬家に嫁入りました。家事の暇に、東京の「女学雑誌」に寄稿しました。黒光は苦労の末に東京本郷赤門前のパン屋中村屋を譲り受け、やがて新宿に移転した中村屋を夫の愛蔵とともに努力を重ね、商才を発揮して発展させました。また、印度の志士ボース等の保護に当ると共に、芸術家等文化人が集う中村屋サロンの中心的存在でした。60歳の頃に作家活動を再開し、「黙移」等を著しました。「黒光」の号は、明治女学校の恩師であった巌本善治が名付けたもので、「溢れる才気を少し黒で隠しなさい」という意味が込められていたといいます。

明治女学校跡

明治女学校は、明治十八年(1885年)に、麹町区飯田町(現千代田区)に、女子の「自覚と自立」の高等教育を目指して、木村熊二・鐙子夫妻、巖本善治、田口卯吉、植村正久、島田三郎らによって設立されました。教師には、津田梅子、島崎藤村、北村透谷などが名を連ねていました。明治二十九年(1896年)に、校舎が焼失し、翌三十年、巣鴨村大字巣鴨660番地(現在の西巣鴨二丁目十四・二十九〜三十一番)に移転してきました。移転時の校長である巖本善治は、女学校での実践教育の一方、「女学雑誌」で啓蒙活動を行いました。この雑誌から「文学界」が生まれ、浪漫主義文学を牽引していきました。卒業生には、新宿中村屋の創業者の相馬黒光、自由学園の創始者羽仁もと子、作家の野上弥生子などがおり、日本の近代史に名を残す多くの人材を輩出しました。しかし、巣鴨移転後の経営は苦しく、生徒数の減少もあって、財政状況が悪化し、明治四十一年(1908年)に閉校することになります。閉校後、時代がくだると、明治女学校設立の意義を後世に伝える活動が行われるようになり、昭和三十七年(1962年)に、巖本善治の生誕百年を記念して巖本記念会が設立され、地元の熱い要望を受けて、昭和五十六年十月十八日に記念碑が建立されました。




ポイント5 大日堂

区民ひろば西巣鴨第二の角を左折した右手の広場の奥に、周辺の住宅とそぐわない大日堂が建っています。



巣鴨地蔵通り商店街の照明灯に貼られていた大日堂の案内板には、次のように書かれています。

大日堂

二代将軍秀忠とその夫人に仕えた春海和尚により、承応二年(1653年)に建立された寺で、堂内には像高約1mの石造大日如来坐像が安置されています。春海和尚は、湯島天神下にあった平等山真如寺宝性院の開山で、もとは俗名久自助右衛門を名乗り「下男組頭役」として将軍夫妻に仕えていました。秀忠夫妻の没後「新葬」の際に、春海和尚が石像大日如来坐像を安置するために、与えられたお布施を使って巣鴨に大日堂を建立したといわれています。




案内板が立っています。

大日堂

この大日堂は、徳川幕府二代将軍秀忠(法名台徳院殿)とその夫人穂子(法名崇源院殿)に仕えた春海和尚により、承応二年(1653年)に建立されたものであり、堂内には像高約1メートルの石造大日如来坐像が安置されている。「御府内寺社備考」によれば、春海和尚は湯島天神下に所在した平等山真如寺宝性院(現台東区池之端一丁目)の開山であり、もとは俗名久目助右衛門を名乗り「下男組頭役」として将軍夫妻に仕えた。秀忠と徳子の没後「新葬」の際に、宝性院は納経を行ったが、その時に与えられた布施で豊島郡巣鴨村内のこの地に土地を求め、石造大日如来坐像を安置するために大日堂を建立したという。この像の台座には、秀忠と徳子の菩提を弔うために本像が造立された旨が、造立年月日の承応二年二月二十八日の日付とともに刻まれていた。明治三十八年(1905年)、無我愛運動の提唱者伊藤証信は、機関誌「無我の愛」を発行するとともに、大日堂を「無我苑」と称し九箇月にわたって同志とともに自炊生活を営んだ。証信の提唱した無我愛とは、一つの宗教や思想にとらわれず、あらゆる宗教・思想の根源を究め、宇宙の絶対真理すなわち無我の愛を活動の根本にするものである。証信は昭和三十八年(1963年)に死去するまでの約六十年間この精神運動を続けるが、この大日堂での生活はその出発点となったのである。昭和二十年四月十三日の空襲により石造大日如来坐像は大きく欠損したが、のちに頭部と両腕は補われた。現在大日堂は、地元の大日坊奉賛会の方々により大切に管理されている。




大日如来とは、宇宙を治める絶対王者で、あらゆる仏(如来・菩薩・明王・天部)の頂点に立つ最も偉大な仏さまです。大日という名前には、「大いなる太陽」という意味があります。その名が示すように、大日如来は偉大な光で世界のすべてを照らします。



大日堂から路地を巡った先に、延命地蔵尊を含む多くの石像が祀られた地蔵堂があります。



案内板が立っています。

延命地蔵堂の石造物群

江戸時代の中山道巣鴨庚申塚付近には、巣鴨町近辺で行き倒れた人馬の共同墓地があった。その墓標として延命地蔵が建立された。以来、さまざまな供養塔が集まった。かつてこれらの像は、現在の都電庚申塚駅の場所にあったが、明治四十四年(1911年)、王子電気軌道(現都電荒川線)の停車場建設により移転された。その後、現位置に再移動し、大正期に参道と堂が整備された。昭和二十年(1945年)四月十三日の空襲により、延命地蔵堂のすべての石造物が大きな被害をうけた。終戦後、土地の守り地蔵尊として信仰されている延命地蔵を再興するため、同三十五年に地元住民による奉賛会が発足し、毎年八月二十四日に法要が行われている。平成二十四年(2012年)十一月、地域の民間信仰を示すものとしての重要性が評価され、豊島区登録有形民俗文化財となった。

徳本名号塔(文政十一年再建)
徳本は諸国を巡錫して各地に徳本念仏と呼ばれる念仏講を創成した僧である。独特な筆跡による名号と、徳本銘・花押が四面に刻まれている。

題目塔
中央に「南無妙法蓮華経」、その左右に「大摩利支尊天」「北辰妙見大菩薩」を配置する三尊形式をとっている。塔の正面に「加越能住人」「為道中安全」とあることから、北陸と江戸を結ぶ街道として中山道を往来した者が建立したのであろう。

延命地藏塔
延命地蔵堂の中心となる地蔵尊である。角柱型の安山岩に、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ半跏座像(両足を前で組んで坐す像を結跏趺坐【けっかふざ】像と呼ぶのに対し、片足を垂下させて坐す像を半跏像と呼びます)の地蔵が浮彫されている。現在は傷みが激しく、建立年代等を知ることはできないが、地蔵像の形式などから、江戸時代初期のものであろうと推定される。

地蔵像庚申塔
この庚申塔については、かつては上部に日月があり、中央に地蔵菩薩立像、その下に三猿が描かれていたという明治期の記録がある。それによると、地蔵像の右に「是より小石川おたんす町之ミち」、左に「元禄拾一年戊寅四月十六日 諸願成就」の銘があった。

馬頭観音塔
台座前面の銘は一部欠損しているが、もとは「馬頭観世音」とあったとみられる。側面には「巣鴨」「願主 馬口 藤三郎」とあり、巣鴨の住民が建立したものである。



左側の写真の石塔が「徳本名号塔」です。


中心となる延命地藏塔を解説した石碑が建っています。

由緒

当延命地蔵尊は今から約百五十年前(文政年間)に建之(けんし)され、当所に移築されましたのは今から約六十年前の事であります。当時江戸五街道の一つである中仙道を通行する多くの旅人が比所で必ず一休みされ、更に永い旅路の為つかれはてゝ当地で死亡した人馬の霊を供養する為に建之されたものです。以後毎年八月十四日を命日として全人類の平和と幸福を願ひ宗表して居ります。




右側の石塔が「題目塔」です。



左側の石塔が「馬頭観音塔」、右側の石塔が「地蔵像庚申塔」です。



ポイント6 種子屋

江戸時代、旧中山道の巣鴨から滝野川あたりまで「種子屋街道」と呼ばれ、往来する人々に野菜などの種を売っていました。3軒あった種子屋の大店の1軒が「榎本留吉商店」で、後に「東京種苗(株)」となります。京町家風の建物は、令和五年6月に豊島区有形文化財に指定されました。「榎本留吉商店」は江戸末期の弘化元年(1884年)の創業で、初代の榎本留吉は滝野川三軒家「榎本重左衛門」の三男が分家して種子屋となり、「カネト」という屋号で160年間にわたりこの地で種子の卸問屋を営んでいました。



立正大学南門の脇に種子屋街道に関する案内板が立っています。

日本農業を支えた種子屋街道

大正大学南門の前を走る道路は、江戸時代初期に建設された中山道です。日本橋から約6kmに位置するこの地域は、江戸への野菜の供給地として知られていました。江戸時代半ば以降、庚申塚から板橋宿へと続くこの街道沿いに、野菜の種子を通行人等に販売する種子屋(たねや)が店を構えるようなります。近代に入り、農業生産が飛躍的に高まると、種子屋は経営規模を拡大していきます。また交通・通信機関を利用 して、国内外から良質な種子を仕入れて広く販売する卸売業者へと成長します。やがて西巣鴨・滝野川には日本有数の種子屋が軒を連ね、「種子屋通り」と呼ばれるようになりました。このように、中山道の種子屋は日本農業の発展を下支えしていました。

Where Seed Vending Once Thrived

The street beside Taisho University's South Gate is part of the Nakasendo, an inland route built in the 17th century between Edo (Tokyo) and Kyoto. Farmers around the present site of the university grew vegetables for marketing in Edo and to travelers on the Nakasendo. Some of the travelers sought seeds for the delectable vegetables to grow at home, and vending seeds became a lucrative side business for the farmers. Seeds later became an important commodity in their own right amid the modernization and rapid growth of Japanese agriculture. Entrepreneurs built large businesses in this vicinity that purchased quality seeds from domestic and overseas suppliers and sold them to Japanese farmers. So robust was the commerce that this stretch of the Nakasendo became known as Seed Shop Road.




小さな建物には、「中山道の種子屋」と題した解説版が掲示されています。



解説版には、かっての種子屋の歴史について記されています。

中山道の種子屋

種子屋とは、農作物の種子を生産し、販売する商店のことです。江戸時代の半ば以降、この地域に種子屋が集まるようになります。当初は、農家が付近の畑で採種した野菜の種子を通行人等に販売していましたが、やがて品種改良や品質管理に優れた技術を持つ農業指導者たちが専門の種子販売業を始めるようになりました。明治・大正期には、種子屋は郊外の農家に採種を委託して経営規模を拡大する一方、鉄道や郵便などを駆使して、全国各地から優良な種子を集め販売する卸売業者となります。大正五年(1916年)には、中山道の種子屋が中心となって東京種子同業組合が発足し、江戸東京野菜のブランド化を図り、商品の信頼性を高めました。

大日本職業別明細図之内 滝野川町・巣鴨町・西巣鴨町 (部分)

緑色は種子屋。このほかにも、庚申塚から板橋駅にかけて約20もの種子屋が軒を連ね、「種子屋通り」と呼ばれていた。

枡屋本店と店員たち

この地域の種子屋の草分けとも言える滝野川三軒家の一つ、榎本孫八家は、屋号を「枡屋」と称した。榎本家は江戸時代から名主・村年寄などをつとめるかたわら、種子屋を営んだ。店先にはサンフランシスコ向けの輸出用種子箱が積まれている。

帝国種苗殖産株式会社の種子カタログ 昭和七年(1932年)

帝国種苗殖産株式会社は、大正九年(1920年)滝野川の越部浅五郎、榎本_太郎など5店が合併して誕生した、日本最大の種苗会社であった。

榎本留吉商店の種子カタログ 昭和十六年(1941年)

大正大学の南隣にあった榎本留吉商店(のち東京種苗)は、弘化元年(1844年)に開業した。屋号を「カネト」と称し、約150年間にわたり野菜種子の卸問屋を営んだ。




休息所のような建物もあります(2025年10月に再訪した時には案内板も休息所もなくなっていました)。



解説版には、江戸東京野菜について記されています。

江戸東京野菜

江戸の北郊にあたる豊島郡(後の北豊島郡)では、それぞれの土地条件にあった個性的な野菜が生産されていました。武蔵野台地の東端では根菜類・果菜類が、荒川沿岸の低湿地では葉茎菜類が盛んに栽培され、江戸の台所を支えていました。江戸時代の中頃になると、練馬大根・滝野川人参・滝野川牛蒡などが、この地域の特産品として好評を博すようになります。

明治・大正時代になると、北豊島郡の野菜の生産量・品目は拡大し、東京の近郊農村地帯となります。また中山道の滝野川付近は、良質な種子を集めて日本全国へ販売する種子屋が集まる街として知られました。昭和期に入り、近隣の市街地化などにより、江戸・東京の伝統野菜は姿を消していきます。しかし平成以後、これらを地域のブランドとして復活させる試みが続けられています。




練馬大根の解説もあります。

練馬蘿蔔(ネリマダイコン)

五代将軍綱吉の時代に、尾張大根と練馬の地大根との交配から選抜・改良されたものとされる。17世紀末〜18世紀初には練馬大根の名が定着していた。中ほどが太く、長さ約1mに及ぶ。主に沢庵漬として加工され、全国にその名を知られた。

金町小蕪(カナマチコカブ)

明治末に東金町の長谷碌之助が下千葉中生という品種を改良したとされている。また農商務省の三田育種場で栽培していたフランス産の蕪と地元産の蕪が自然交配してできたとの説もある。

滝野川人参(タキノガワニンジン)

享保年間(1716年〜1736年)に八代将軍吉宗が集めた野菜の1種で、その後滝野川付近で栽培されるようになった。根が約1mに及び、独特の赤紅色で、香りが強く、肉質がしまっている。

滝野川牛蒡(タキノガワゴボウ)

元禄年間(1688年〜1704年)に、鈴木源吾が滝野川で採種・販売を始めたとされる。根が長く、80cm〜100cmに及ぶ。国内で栽培されるゴボウの9割以上は、この品種を受け継ぐと言われる。




キュウリは、実の出来る雌花の付き方で分けると、節成(ふしなり)型と枝成(えだなり)型があります。節成型品種は節々に雌花が連続して咲き、雄花が咲かなくても実になっていき、生育初期から収穫が楽しめます。枝成型品種は最初は雄花が多く、子づる・孫づると進むにつれて雌花が多くなり、長期間収穫できる特長があります。

三河島菜(ミカワジマナ)

江戸時代初期から三河島や尾久周辺で栽培され、鷹狩りに訪れた将軍にも献上されたという。ハクサイに近いツケナの一種で、主に11月〜12月以降に収穫され、漬物に加工された。

豊島節成・枝成(トシマフシナリ・サスナリキュウリ)

キュウリは江戸時代の後期に西日本から持ち込まれたとされる。埼玉県の谷塚村より苗を取り寄せて尾久で栽培されたのが始まりという。馬込・高井戸なども産地として知られる。

早生・中生・晩生山茄子(ワセ・ナカテ・オクテヤマナス)

江戸時代の頃から、雑司ヶ谷・池袋・長崎などは茄子の産地であった。武蔵野台地は「西山」と呼ばれ、この地域で採れる茄子は「山茄子」と呼ばれた。




ポイント7 大都映画巣鴨撮影所跡

明治通りに出て、掘割交差点から王子方向に進みます。右手に、立正大学のレトロな正門が建っています。

正門の由来

この正門は、本学の前身である宗教大学「大正十五年(1926年)大正大学と改称」がこの地に設けた本館の正面車寄せをモデルとしています。明治四十一年(1908年)に建設された本館は、中央に高さ15mにもおよぶバロック風の角型ドーム屋根の講堂を置き、左右対称に教室をのばした、全長60mの壮大な洋風木造建築でした。校舎は昭和四十三年(1968年)解体されましたが、車寄せは、「登録有形文化財」として博物館明治村(愛知県犬山市)に移築保存され、往時の雰囲気を今につたえています。




西巣鴨交差点を右折して白山通りを少し巣鴨方向に戻った左手に古めかしいレンガ塀が目に入ります。



ここは昭和十七年に閉鎖された大都映画巣鴨撮影所の跡地で、その後は区立朝日中学校となっていました。レンガ塀を注意深く見ますと、撮影所時代を紹介するプレートが設置され、由緒などが記載されていることが分かります。最初のプレートです。

河合映画巣鴨撮影所(大都映画巣鴨撮影所前身) −現在朝日中学校−

大都映画

大正八年、天然色活動写真(天活)の仮設ステージから始まり、国際活動映画(国活)や河合商会による買収などを経て設立された大都映画は現在の朝日中学校がある所に巣鴨撮影所を特っていた。大都映画は昭和十七年に大映に吸収されるまで、「貞操」・「街の爆弾児」・「宮本武蔵」などを制作した。




二番目のプレートには、当時の建物の配置図が描かれています。撮影所は白山通りに面していて、市電(後の都電41系統)が走っていました。



三番目のプレートには、初期の撮影所の写真が添えられています。

大都映画巣鴨撮影所(初期のもの) −現在朝日中学校−

昭和二年に河合映面会社が設立され、昭和八年には大都映画(株)に発展した。昭和二年当時、廃屋同然だった旧国活会社の巣鴨撮影所を買収して以来、昭和十七年に大都映画の灯が消えるまでの15年間、この撮影所で映画の制作・配給が続けられた。戦前の日本映画界では製作本数最多を誇り、配給・興行の一貫体制を堅持し最も大衆に愛された映画会社であった。



写真の注記:「後に事務所は洋館になった」


ポイント8 にしすがも創造舎舞台芸術アーカイブ

区立朝日中学校は、平成十三年4月1日付けで旧大塚中学校と統合され、巣鴨北中学校が開校したことにより廃校となりました。その校舎を再利用して平成十六年(2004年)にできたのが様々なアートプロジェクトを行なうアートファクトリー「にしすがも創造舎舞台芸術アーカイブ」です。にしすがも創造舎は、様々なジャンルのアーティストと共に、子どもから大人までが気軽に楽しむことができるアートプロジェクトを実施してきました。しかし、朝日中学校の旧校舎は巣鴨北中学校の校舎建て替え期間中の仮校舎としての使用が決まり、にしすがも創造舎は平成二十八年(2016年)12月をもって12年間にわたる事業を終了しました。



寄り道 千川上水公園

明治通りに面した千川上水公園は、豊島区の中で最も古い公園で、その歴史は旧千川上水水路敷地を市民により旧東京市へ寄付された明治十三年(1880年)に遡ります。現在のような公園として開放されたのは昭和十五年(1940年)で、開園当初は都の公園でした。豊島区にとっては初めての公園であり、古くから区民に親しまれてきました。伝統的な公園に相応しく、ブランコや鉄棒などの遊具を備えています。



公園の地下には、現在でも水流を調節するために設けられた分水堰や、六義園に水路を引くために作られた由緒ある沈殿池が残っています。

千川上水調節池跡

千川上水は、元禄九年(1696年)、小石川白山御殿・湯島聖堂・上野寛永寺・浅草寺御殿と、下谷・浅草方面の江戸市民の飲料水を確保するために、玉川上水を分水した上水です。その後、近隣農村の農業用水としても利用されました。明治期以降は、紡績・製紙・製粉・伸銅工場などの産業用水として利用され、流域の地域や人々と密接に関わってきました。上水は、ここにつくられた溜池(沈殿池)で、砂やごみなどを沈殿させた後、木樋や竹樋の暗渠となって江戸市中へ給水されました。なお、この付近を「堀割」と呼んでいますが、これは、慶応元年(1865年)に、幕府が滝野川村に建設した反射炉の水車利用のため、王子方面への分水(王子分水)を開削する際に堀をつくったことに由来しています。明治十三年(1880年)、岩崎弥太郎らが設立した千川水道株式会社によって、本郷・小石川・下谷・神田方面への給水が再開されると、王子分水との分配堰が設けられました。明治通りの向かい側(北区滝野川六〜九)には、水利関係が刻まれた「千川上水分配堰」の碑(明治十五年建立)が残されています。一方、公園側には分配堰の落し口があり、沈殿槽からの水量調整を行なっていました。公園内には、駒込六義園方面への送水に使用していたバルブ(巻揚器)が現在も残っています。




千川上水は、かつてこの場所にあった堀割を経て、分水は六義園・本郷・湯島のあたりまで流れていました。千川上水は江戸時代に飲料にするために引いた水で、今の水道のことです。千川上水は元禄九年(1696年)に徳川五代将軍綱吉公の命により造られました。玉川上水から分水し、石神井・板橋を通り、巣鴨までの約20kmを流れて現在の千川上水まで来ると、ここから中山道の地下を木樋(水を導くための木製の水路)で江戸の中心まで給水していました。

千川上水流路図

この図は、享保(1715年〜)初め頃の絵図で、玉川上水・神田上水・千川上水・青山上水・三田上水の江戸五上水が描かれています。千川上水は江戸の町の北東側、神田上水と浅草川(現在の隅田川)に挟まれた地域に給水していた様子が読み取れます。白山御殿(現在の小石川植物園)にも給水されていましたが、この図の描かれた時点では御殿は廃止されていましたので、描かれていません。




公園の地下には「六義園給水用千川上水沈澱池」や「分水堰」があります。

千川上水沈殿

このフェンスで囲われたバルブ周りを中心に、公園の地面の下には左下図のような沈殿槽(池)があります。千川上水が上水としての利用が終わった後も、六義園に水路を引くために作られたものです。戦後までは左の写真のような沈殿池がありましたが、1973年頃に、図のような沈殿池に造り替えられました。現在は、東京都東部公園緑地事務所が管理しており、利用されていません。公園入口の「千川上水流路図(説明板)」および「千川上水沈殿池(説明板)」と明治通りを挟んで向かい側の「千川上水分配堰の碑(説明板)」も合わせて、ご覧ください。

千川上水の歴史と千川上水公園・沈殿池の成り立ち
「上水」とは、江戸時代、飲料にするため溝や管などで引いた水、今の「水道」のこと。

年号西暦出来事
江戸期
元禄九年
1696年千川上水は、徳川五代将軍綱吉の命により掘られ、小石川白山御殿(現、小石川植物園)・上野寛永寺・浅草寺御殿・湯島聖堂への給水を第一の目的とした。
元禄十五年1702年六義園へは元禄十五年の造営時から、千川上水が引き込まれた。
天明六年1786年江戸市民の飲料水として、また、農業用水として利用され、使用の中止と復活をくりかえし、給水事業は天明六年に廃止された。以後、農業用水のみに利用されて明治期を迎える。
明治期明治になって、千川上水に工業用水という役割が課せられた。
明治十三年1880年岩崎弥太郎(三菱の創始者)が発起人となり、千川水道(株)が設立される。本郷・小石川・下谷・神田方面に給水を開始する。
明治十三年1880年六義園には明治十三年からは千川水道(株)によって再び上水の水が引かれた。
明治期千川上水公園は、かつて東京市内へ給水する水を一時溜めておく沈殿池があった場所である。そのころの沈殿池の位置は、現在の淑徳高校付近と思われる。
千川上水が千川水道(株)によって再興されたときは、この先から中山道の下を暗渠にして通水させた。
昭和十五年1940年千川上水公園開園(豊島区では初めての公園)
昭和十六年1941年六義園へは千川上水公園内で水量を調節された上、送水されている。
戦後戦後になっても、その水は六義園をはじめ、都水道局、大蔵省印刷局抄紙部、王子製紙などに引かれていた。
昭和四十三年1968年地下鉄(都営三田線)工事が開始されたため、六義園への給水がストップした。
昭和四十五年1970年水道局が取水を中止。
昭和四十六年1971年大蔵省印刷局も工業用水に切り替えて、千川上水の利用の歴史は幕を閉じた。




フェンスで囲われたバルブ(導水門・排水門)を見ることができます。



ゴール地点の都営三田線西巣鴨駅に着きました。



ということで、豊島区で最後のコースである「Cレトロに浸る。街道筋をゆくコース(巣鴨方面)」を歩き終えました。次は江戸川区で最初のコースである「01.旧中川」を歩きます。




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