01.旧中川


旧中川

江戸時代以前の中川(現在の旧中川)は、古利根川を上流として途中で元荒川と合流し、水元・新宿・奥戸・平井を通り、綾瀬川・堅川・小名木川と通じながら、江戸川に注いでいました。江戸時代に入り、八代将軍徳川吉宗が水害から村を守るために、享保十年(1725年)から14年かけて散在していた池や沼を利用してひとつの流れをつくりました。そのため、「九十九曲り」をよばれる屈曲の激しい川となりました。この川が中川と呼ばれたのは、隅田川と江戸川の間を流れるからといわれています。1924年に荒川放水路に放水を開始したことによって分断された中川の下流部分が現在の旧中川になりました。旧中川は江戸川区と墨田区と江東区の境界を流れ、全長が6.68kmの荒川水系の一級河川になっています。江戸川区平井の木下川水門で荒川放水路(荒川本流)から分水し、大きく蛇行しながら南へ流れ、江戸川区小松川の荒川ロックゲートから再び荒川へ合流します。小名木川の扇橋閘門以東に位置するため、水位が荒川より1m低くなっています。川の東側はすべて江戸川区、西側は北十間川との合流地点までは墨田区、それより南の荒川ロックゲートまでは江東区となっています。川岸には東京都ボート協会が高架下を利用した艇庫を所有していて、ボートを練習する社会人や学生が増えています。各種ボートの乗艇が体験できる江戸川区主催のボートフェスティバルも開催されています。江戸時代には歌川広重の名所江戸百景「逆井の渡し」や江戸名所図会の「平井聖天」、新編武藏風土記稿の「逆井渡船場図」などで情緒豊かな川であったことが知られていて、川沿いに史跡が残っています。1945年3月10日の東京大空襲では、猛火を逃れようと川に入った3000人以上が犠牲となりました。その犠牲者の慰霊のために、1999年に「旧中川灯籠流し」が始まり、以来毎年8月15日に行われています。平常時は両端の水門を締め切って荒川へ排水しているため水は流れていませんが、灯篭流しの時だけは木下川水門より取水して荒川ロックゲート側から排水することにより水流を発生させ、灯篭が流れるように工夫しています。
 

コース 踏破記  

今日は江戸川区の「01.旧中川」を歩きます。中川大橋をスタート地点として、旧中川左岸沿いに木下川水門まで歩きます。2022年5月に歩いた時は、間違えて荒川右岸沿いに歩きましたので、2025年10月に改めて歩き直しました。なので、踏破記は主に2025年10月当時の内容になっています。

スタート地点:中川大橋

ゴール地点:木下川水門


スタート地点の中川大橋から歩き始めます。江戸川区が設定した「健康の道」のコースマップでは、中川大橋を起点にして旧中川沿いを木下川水門まで進む「旧中川コース」と、木下川水門から荒川右岸沿いに南下して中川大橋に戻ってくる「荒川コース」が一緒になった周回コースになっています。何でコース名が「旧中川」になっているのに、荒川コースを歩いたのか自分でも分かりません。ちなみに、河川の右岸・左岸の定義は、川の上流側から下流側を見て、
・右側に見える岸が「右岸」、
・左側に見える岸が「左岸」
となっています。



スタート地点は、中川大橋の袂に位置する河川敷です。



都営新宿線は旧中川を跨ぐ格好で駅舎が造られています。川の両側に高層住宅が建ち並んでいますので、回り道することなく右岸と左岸にある改札口を利用できます。おそらく、川を跨いで駅舎が造られたのは日本では唯一ではないでしょうか?



運が良ければ、旧中川を疾走するスカイダック(水陸両用車)を見ることができます。



河川敷の所々に花壇が設けられています。地元のボランティアによって手入れされているようです。

江戸川区アダプト制度
旧中川河川敷ボランティア花畑

■緑のボランティアはやぶさ会が活動しています。
 緑色のバンダナを身につけて活動しています。
 活動に参加してみたい方は、声をかけてください。

■ 花畑づくりで目指すもの
旧中川河川敷を散歩する人たちが憩えるよう、四季を通じて花が楽しめるよう、花畑の統一感や景観に配慮しつつ、多様な草花を配置します。そして、訪れる人の会話が弾み、賑わえるような花畑としていくことで、つくる人も、みる人も楽しい花畑づくりを目指しています。




大島小松川公園の小松川中央地区(自由の広場)と西側の大島北地区(スポーツ広場)を繋いで、旧中川を跨ぐ巨大な連絡橋が2本架かっています。歩行者専用の橋で、上流側が「もみじ大橋」、下流側が「さくら大橋」です。嬌名は、地元の小学生によって名付けられました。自由の広場の周囲には、ソメイヨシノと大島桜を中心に、大山桜・御衣黄・エドヒガン・八重紅枝垂・関山などの340本の桜の木が植えられ、3月中旬から4月の上旬にかけて長く桜が楽しめます。



江戸川カヌークラブは江戸川区に艇庫を置き、カヌーで遊ぶことが好きなメンバーで構成されるクラブです。リバーカヤック(流水)を活動の中心として、御岳(多摩川)や長瀞(荒川)などの上流域でダウンリバーを楽しんでいます。湖や海で漕いだり、泊まりがけで地方の川に行くこともあります。艇庫は江戸川区内を流れる旧中川の河川敷にあり、すぐ川に出られます。そこから東京スカイツリーの下まで漕いだり、閘門(ロックゲート)を通って荒川や隅田川まで行くこともできます。東京オリンピック会場にもなった葛西スラロームセンターも区内にあり、練習環境に恵まれています。メンバーはアウトドア好きが多く、遠征するときはテント泊やロッジに雑魚寝で、キャンプ料理と酒になることが通常です。クラブは江戸川区カヌー協会の構成団体になっていて、江戸川区で開催されるカヌー行事やイベントにも協力しています。



カヌーは常に川の中に係留されている訳ではありませんので、地上に置かれているときは舵(ラダー)が邪魔になります。なので、舵は回転させて収納するようになっています。方向を変える時は、左右の操舵線(ラダーケーブル)をコックピットから操作することになります。全て人力で動くようになっているんですね。ちなみに、長いカヌーでは、船首の艇指揮の指示によって最後尾の操舵者が舵を操作します。



旧中川に幅の広い人道橋が架かっています。テレビドラマのロケにも使われた「虹の大橋」は、江戸川区小松川地区と江東区大島・亀戸地区とを結び、幅が約30mもあります。災害が発生した際に、大勢の住民が江東区側から江戸川区側の広域避難場所へ移動するために、このように幅広の人道橋となりました。江戸川区も決して安全とはいえないと思うのですが。。。



遊歩道の上空に高速道路が通っています。首都高7号小松川線は、両国ジャンクションを起点とし、江戸川区で京葉道路に接続しています。全区間が高架または橋梁構造となっていて、両国ジャンクションから荒川付近にかけての約5kmは竪川の上部を高架で通っています。この付近で竪川は旧中川に繋がっているため(実際には埋め立てられて水は流れていませんが)、高架は大きく彎曲して荒川を渡る荒川大橋に向かっています。



首都高のすぐ脇に逆井橋が架かっています。



この地点には、かって「逆井の渡し」がありました。

逆井の渡し跡

中川をわたる逆井の渡しは、「新編武蔵風土記稿」に「元逆井村にありし渡しなるを以て、今も逆井の渡しとよべり」とあるように、もとは北隣りの逆井村にあったものが、その後西小松川村(現在の逆井橋付近)に移転したもののようです。ここに江戸と房総をむすぶ街道がひらかれたからでした。この街道を元佐倉道といい、区内を北東にほぼ直線で横切って、小岩市川の渡しを渡り、市川から佐倉、成田へ向かいました。明治に入って千葉街道とよばれるようになりました。逆井の渡し付近は風景も良く安藤広重が「名所江戸百景」のひとつに描いています。明治十二年(1879年)、渡し跡に橋が架けられて、逆井の渡しは廃止されました。架橋当時は村費による架橋費を補うために通行料(橋銭)を徴収する賃取橋でした。明治二十七年(1894年)に橋銭徴収は終わり、三十一年(1898年)に、東京府によって架けかえられています。昭和四十三年(1968年)には、江戸川・江東両区の協力で鉄橋になっています。その後、旧中川沿岸の景観整備や、虹の大橋やもみじ大橋・さくら大橋がかけられて、現在のすがたになりました。




逆井橋の脇に小松川神社があります。階段脇にも「逆井の渡し跡」の案内板が立っています。

江戸川区登録史跡
逆井の渡し跡

江戸時代、幕府は防衛上の理由から近郷の川には容易に橋を架けませんでした。そのため中川を渡るには、常に渡船によって越えなければならなかったのです。逆井の渡しは、江戸から亀戸村(現亀戸七丁目)を経て、下総国(千葉県)の佐倉へ通じる街道の中川に設けられた渡し場でした。この渡し場について「新編武蔵國風土記稿」西小松川村の項に「中川 村の西を流る、幅四十間許、対岸は亀戸村なり、ここに渡船場あり、元逆井村にありし渡しなるをもて、今も逆井の渡しとよべり、船二艘あり、一は亀戸村の持、一当村の持」と記されています。また、この付近は風景に勝れ、歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれています




小松川神社は、昭和十二年(1937年)に創建されました。小松川の地は、かつては武蔵国葛飾郡西小松川村の一部で、地理的にも同一の村を形成していました。ところが大正期の荒川放水路の開削により、旧西小松川村の他地域とは地理的に分断されることになりました。そのため、旧西小松川村の鎮守だった新小岩香取神社と西小松川天祖神社に参拝することが困難になり、両神社の分霊を勧請して新しい神社を創建することになりました。当初は、明治七年に廃寺になった「稲荷山西光寺」跡地に建てられ、その際に西光寺境内に鎮座していた浅間神社と水神社、および西小松川村の一部の家で祀られていた御嶽神社が境内末社に加えられました。

小松川神社

この辺りは、かつて西小松川村に属していました。しかし大正元年(1912年)の荒川開さくにより西小松川町と分離し、同三年(1914年)には新たに小松川町となりました。そのため、もとの氏神であった堂ヶ島の香取神社と下之庭の天祖神社に参拝するのが不便になったため、両社の分霊を小松川の西光寺境内の稲荷神社に奉安して祀ったのです。昭和十一年(1936年)に神殿を建立すると共に、東篠崎の水神社を合祀して、翌年六月四日に遷宮祭を行いました。また、平成の市街地再開発事業により、平成九年(1997年)に現在地に移転し、同十二年(2000年)に遷座祭が行われました。かつて当神社に安置していた獅子頭には伝説がありました。昔、祭礼に担ぎ出した若衆連が、酒代を得ようとこの獅子頭を質入れしました。ところが質蔵の中の獅子頭が毎夜唸り出すので、恐れた家人が賃金はいらぬから引き取ってくれと頼み、再び神社に納められたそうです。残念ながら、現在する獅子頭との関係は不明です。




逆井橋のすぐ上流に「亀小橋」が架かっています。



亀小橋の袂の歩道には、かっての都電25系統の電車を描いたタイル絵が貼られています。50年以上も前に姿を消した都電25系統は、日比谷から西荒川までを結び、その路線は主に日比谷通り・本郷通り・靖国通り・京葉道路・都道477号亀戸葛西橋線、そして亀戸浅間通りから先の荒川西岸までの区間は専用軌道を通っていました。路線の全長は10.4kmで、昭和43年9月29日に廃止となりました。



地盤沈下による水害が多かった旧中川は、人工的に水位を地盤面より下げる整備により、水辺に親しめる安全で快適な河川に生まれ変わりました。現在は、ソメイヨシノ・オオカンザクラ・カワヅザクラなど、区内で有数のさくらの名所となっています。旧中川に架かる「ふれあい橋」は、江戸川区と江東区とを結ぶ人と自転車のための橋です。両地域の交流が一段と深まるようにとの願いをこめて命名されました。夜には、LED照明で美しくライトアップされます。色彩は季節によって8パターンに変化し、旧中川を彩る光景は抜群の見ごたえです。



橋の袂に「平和の祈り」と題した石碑が建っています。

平和の祈り

昭和二十年(1945年)3月9日夜半から10日未明にかけての東京大空襲の際、米国のB29爆撃機から投下された数百発の焼夷弾により、10万人の犠牲者が出たと言われています。又、当日の強風に煽られて下町一帯が焼け野原となり、熱風に耐えかねた人々が旧中川に次々と飛び込み、3、000人余りの命が失われたと記録されています。年々、当時を体験した人が少なくなる中、悲惨な戦争体験を次世代に語り継ぎ、太平洋戦争での犠牲者の鎮魂と永久なる平和を末永く忘れることのないように、この「平和の祈り」の記念碑を建立しました。




岸辺には多くの生き物が暮らしています。鳥の名前には全く知識はありませんが、ダイサギ(?)でしょうか?



アジサイが群生しています。これは、セイヨウアジサイ(西洋紫陽花)という園芸品種で、花は枝先の大きな花序に付きます。

旧中川水辺のアジサイ

アジサイ 学名:Hydrangea macrophylla f.macrophylla
梅雨の時期を代表する花です。装飾花という「かざりの花」が、手まりのように集まって咲きます。花の色は土の性質によって変わり、酸性なら青っぽく、アルカリ性なら赤っぽくなります。

セイヨウアジサイ 学名: Hydrangea macrophylla f.hortensia
アジサイのうち、ヨーロッパで品種改良されて日本へ里帰りしたものをこのように呼びます。手まり状に咲くものと、額縁のように囲むものがあります。

ガクアジサイ 学名:Hydrangea macrophylla f.normalis
小さな花が真ん中にまとまって咲き、そのまわりを装飾花が額縁のように囲みます。葉には厚みとつやがあります。野生のものは房総半島などの海辺でみられます。

ヤマアジサイ 学名:Hydrangea serrata var.serrata
関東より西の山地で見られ、装飾花が額縁のように囲みます。葉は薄くて小さくつやがないため、ガクアジサイと見分けることができます。

アナベル 学名:Hydrangea arborescens ’Annabelle’
アメリカノリノキの園芸品種で、白色の装飾花が特徴です。つぼみのときは緑色で、花の数が多く、大きな花穂になります。葉は薄くて大きく、つやはありません。

カシワバアジサイ 学名:Hydrangea quercifolia
葉の形をカシワの葉に例えて、この名がつきました。装飾花は白色で、枝の先に円錐〜ピラミッド形に集まります。葉のふちは大きく切れ込み、表面にはしわがあり、秋に紅葉します。




平井地域では、旧中川は「中川」と呼ばれています。



旧中川に架かるJR総武線の鉄橋の先に、都立亀戸中央公園があります。都立亀戸中央公園は日立製作所の亀戸工場跡地を整備したもので、A・B・Cの3地区に分かれています。A地区には中央広場に時計塔や遊具が設置され、子供たちの格好の遊び場になっています。B地区には人工池や流れがあり、周囲は憩いの広場となっています。C地区は運動広場として整備され、多目的球技広場やテニスコートの他、児童コーナーがあり、ターザンロープ等の遊具は子供たちの人気を集めています。またこの公園は「サザンカの名所」として親しまれています。



江東新橋の先で、北十間川が旧中川に合流しています。ここは墨田区・江東区・江戸川区の3つの区の境界点になるところで、旧中川の右岸(西側)の北側は墨田区、南側は江東区、旧中川の左岸(東側)は江戸川区になっています。



土手越しに見えるホームズホームセンターには、今話題の爆盛り惣菜で話題のロピアが入っています。



水はありませんが、ビオトープみたいな池だそうです。ビオトープは生物群集の生息空間を示す言葉で、生物空間とか生物生息空間の意味です。都市化や産業活動によって生物が住みにくくなった場所において、周辺地域から区画して動植物の生息環境を人為的に再構成した環境という意味でも用いられています。

いろいろな生き物がすむ池づくり

旧中川の水は、主に隅田川の水のため、少し海水(塩分)が混ざっています。この池は、昔から雨が降ると水溜りとなる場所であったため、旧中川の整備にあわせて淡水の池をつくりました。淡水に生息するトンボのヤゴや水辺にいる昆虫などが棲みつくことで、さまざまな生物が生息するビオトープを目指して、つくりましたので大事にしてください。

淡水池のくふうとしくみ
@ 雨水が溜まることで、淡水に棲むヤゴなどの生物が棲み付く
A いろいろな昆虫や小動物が生息できる石の隙間
B 堤防に降った雨水を川に引き込む隠し水路
C 淡水が溜まったときには川に排水




カワセミが住めるような工夫もされています。ワンド(湾処・わんど)とは、川の本流と繋がっているが、河川構造物などに囲まれて池のようになっている地形のことです。魚類などの水生生物に安定した棲み処を与えるとともに、様々な植生が繁殖する場ともなっています。近年では、河川にビオトープを形成する手段として、人工的に作られるケースが増えています。

カワセミが生息する川づくり

カワセミは、河川や海岸などの水辺に生息する貴重な生物です。ワンド内の島には、カワセミが巣をつくれるよう、コンクリートの壁に小さな穴をあけています。さまざまな生物が生息する旧中川になることを目指して、つくりましたので大事にしてください。

カワセミ
和名 ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ
学名 CORACIIFORMES Alcedinidae Alcedo atthis
全国に分布し、平地から山地の水辺に生息します。全長約17cm前後。頭と嘴が大きいのにくらべて、尾が短いのが特徴。杭に止まったり、空中でホバリングしながら餌の小魚を探します。英名は、kingfisher(魚捕りの王者)。土手等に1m近い横穴を掘って巣作りをします。




旧中川に造られたかさ上げ護岸の一部が保存されています。



かさあげ護岸の歴史を記したプレートが貼られています。

旧中川「かさ上げ護岸」の歴史

旧中川が流れるこの地域は、乱流する荒川(現隅田川)や中川、利根川(現江戸川)の河口部に堆積した三角州を埋め立て、江戸の市街地として発達してきたことからもともと低地であり、過去幾度となく高潮や洪水の被害を受けてきました。更に明治末期からの工業地帯としての発展に伴う地下水の過剰な汲みあげにより地盤沈下が進行し、現在の荒川と隅田川に囲まれた江東三角地帯は、東京湾の満潮水位以下となってしまいゼロメートル地帯とも呼ばれております。地盤沈下を防止・軽減するため、地下水揚水規制や水溶性天然ガスの採取停止などを実施した結果、昭和四十八年頃から沈下は急速に減少し、現在ほぼ停止しております。地盤沈下が続いた町を水害から守るため、旧中川を始めとする江東内部河川(江東三角地帯を流れる河川の総称)の護岸は、かさ上げを余儀なくされました。しかし護岸は、応急対策としての度重なるかさ上げにより、まちと川が分断されるとともに構造的に脆弱化し、大地震が発生した際の護岸崩壊による水害の危険性が心配されてきました。東京都はこの地震水害から地域を守るため、昭和四十六年より江東内部河川整備事業に着手し、北十間川樋門及び扇橋閘門より東側を流れる江東内部河川については荒川など周辺河川から締め切り、平常時の水位を周辺地盤より低く保つ「水位低下対策」を平成五年三月に完了させました。その後、旧中川は水位低下に伴い不要となった「かさ上げ護岸」の上部を切り取り、広い高水敷と緩傾斜堤防を整備し、安全で潤いのある親水空間を創出してまいりました。ここに残された旧中川のかさ上げ護岸は、緩傾斜堤防の整備が完了したことを記念し、これまで水害から地域を守ってきた「かさ上げ護岸」の歴史を後世に伝えるとともに、低地帯に住む都民の皆様に水害に対する防災意識を継続していただくため、その一部を保存するものであります。




1974年当時の写真が添えられています。護岸スレスレまで水面がきていますね。



護岸には、かさ上げした年度によって生じた境界線がはっきりと見て取れます。「AP」とは、高さを表す数値で、潮位が上昇し水門を閉鎖する際に水門の閉鎖基準として使用されます。「Arakawa Peil」の略で、荒川工事基準面と言います。「Peil」は、オランダ語で基準面を意味します。



旧中川の整備完了を祝って、大島桜・染井吉野・榛の木が植樹されました。



陸上版のビオトープが造られています。

いろいろな生き物がいる川づくり

水辺には、魚にくわえて昆虫や鳥など、さまざまな生物が棲み、豊かな生態系が成り立っています。この石の山は、旧中川の整備にあわせて、小さな生物や隙間を好む昆虫などが生息できることを考えてつくりました。さまざまな生物が生息するビオトープを目指して、つくりましたので大事にしてください。

石の山のくふうとしくみ
@ 石の隙間に、多くの昆虫などが生息
A 昆虫を捕食する鳥などが飛来
B 茂みができると小動物の隠れ場所となる





美しい!



蝶の集まる花壇も整備されています。

バタフライガーデンの植物

バタフライガーデンとは、チョウが好む食草や吸蜜植物を植え、自然のチョウを観察し楽しむことを目的としています。




初代の平井橋は明治三十二年(1899年)に架けられましたが、それまでは「平井の渡し」が中川を往復していました。平井の渡しは、中川(旧中川)を渡る行徳道の渡し場で、平井聖天への参詣路としても賑わいました。平井の渡しから四股で元佐倉道と交差し、東小松川村・西一之江村・東一之江村を経て今井の渡しに達する道筋を行徳道と呼んでいました。いつ頃できたものかは不明ですが、古くは行徳塩の輸送路のひとつであったと考えられています。庶民はこの道を成田山参詣路に利用し、江戸方面へは平井の渡しを渡って浅草の観音さま(浅草寺)への参詣にも利用されていました。



平井橋の上流側に、平行して電気用の専用橋(手前)と水道橋(奥)が架かっています。電線を渡す橋は初めて見ました。



対岸に釣り人が見えます。釣果は如何?



スカイツリーと墨田清掃工場の煙突の競演です。



墨田清掃工場の煙突は楽器のたて笛をイメージしてデザインされ、高さが150mあります。東京スカイツリーは墨田区のランドマークですが、墨田清掃工場の煙突ももうひとつの墨田区のランドマーク的な存在です。



ゆりのき橋を越えると、木下川(きねがわ)水門までもう少しです。



木下川排水機場は昭和五十二年度に竣工し、木下川排水機場サイフォンから荒川の河川水を流入させ、小名木川排水機場から排水を行うことで旧中川の水を浄化しています。



荒川の堤防上に造られた道路に出て荒川の対岸を眺めますと、印象的な形状の橋と水門らしきものが見えます。かつしかハープ橋と隣接する上平井水門です。上平井水門がかつしかハープ橋よりも先に造られたため、このような橋の形状を採用せざるを得なかったのでしょう。

かつしかハープ橋

かつしかハープ橋は葛飾区の綾瀬川に架かる橋で、昭和六十二年(1987年)に開通しました。綾瀬川と中川の合流地点に位置し、首都高速中央環状線を通しています。世界初の曲線斜張橋であり、さらにその曲線はS字を描き、路面には勾配もあるため、複雑な立体構造をしています。2本の主塔は高さがそれぞれ65m・29mと異なる特殊な橋です。その曲線と48本のワイヤーが織り成す姿は美しく、楽器のハープに見立てて公募によりその名がつけられました。橋の形状がS字型になっているのは、首都高速中央環状線が綾瀬川の左岸沿いに下って来ると隣接する上平井水門にぶつかるため、S字に曲げられました。その後、首都高は中川を渡って、荒川の背割堤を南下し、河口で首都高湾岸道路に合流します。

上平井水門

上平井水門は、昭和四十四年(1969年)に竣工し、中川と綾瀬川への高潮遡上を防ぐ役目を担う重要な水門です。他の水門より大きな門扉と巻上げ機を持っています。平成二十三年(2011年)の東北地方太平洋沖地震では、津波を堰き止めために閉鎖されました。




植え込みの中に案内板が立っています。江戸時代には荒川(放水路)は存在していませんでしたので、この場所には梅屋敷がありました。

平井梅屋敷跡

江戸時代から明治・大正にかけ、平井七丁目の荒川べりの木下川水門付近から旧下木下川村(墨田区)にかけて梅屋敷があり、約三百株の梅樹が植えられていました。昭和十年代までは、梅屋敷の形をとどめていましたが、現在面影は全くありません。敷地はおよそ一町一反(約11、000u)余りあって、大きなわらぶきの二階建ての建物が二棟と、長屋や煉瓦造りの建物などがありました。江戸時代には徳川家が所有し、木下川村の名主村越家が留守居役として取り仕切っていました。安永・天明(1772年〜1789年)の頃から梅見行楽の名勝地になったといわれています。大正二年、荒川放水路の開削のため河川敷にかかり、旧墨田区吾嬬町東八丁目六十四番地と、旧中川の南側平井の地に三反歩ばかりが残りました。この平井の地は、昭和四十二年一月一日、江戸川区に編入されました。




ゴール地点の木下川水門(木下川排水機場排水樋管ゲート)に着きました。木下川水門は、旧中川が荒川から分流する地点に位置しています。荒川の開削により、旧中川が中川上流部と分断されたため、従来中川を利用して行われていた水運の経路を確保するために設置されました。荒川を挟んだ対岸に同じ目的で設置された中川水門があります。現在は荒川と旧中川の水位が異なるため、樋門されて船舶の運航はできなくなっています。隣接する木下川排水機場と共に、旧中川の水質管理や水位維持に用いられています。ちなみに、木下川は、昔は「木毛河」とか「木毛川」と呼ばれていました。木下川の町に皮革工場ができたのは明治の中頃で、浅草から移されたことに始まります。昭和の初めには、再び移転を迫られますが、住民の力で押し返し、全国の豚皮の8〜9割をなめす木下川の町が現在に引き継がれています。



かっては、水門を舟が出入りしていました。

木下川水門(きねがわすいもん)

木下川水門は、大正十年(1921年)に着工し、同十三年(1924年)に完成しました。当初は、平常時には水門の開放により荒川と旧中川を連絡するほか、対岸に設置された中川水門と連携して、荒川より新旧中川への舟運に利用されました。また、洪水時は、旧中川への水の流入を遮断し、下流の小名木川閘門および小松川閘門とともに、旧中川周辺に及ぼす水害を防止する役割を果たしました。現在では、木下川排水機場と連携して、内部河川の水位の維持を行っています。




ということで、江戸川区で最初のコースである「01.旧中川」を歩き終えました。次は江戸川区で二番目のコースである「02.新中川」を歩きます。




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