02.新中川


新中川

新中川は、葛飾区および江戸川区を流れる、全長7.84km・幅員143.5mの一級河川です(人工的に開削された放水路なので川幅は一定になっています)。以前は中川放水路と呼ばれていました。葛飾区高砂で中川より分かれ、中川と江戸川の間を平行するように南下し、江戸川区江戸川で旧江戸川に合流します。昭和十三年(1938年)7月に東京東部で起こった浸水家屋6万戸に及ぶ被害に対する反省から、翌年4月に中川開削・改修を目的に東京府中川改修事務所が設置されました。しかし戦争激化のため昭和二十年(1945年)4月に計画は一旦中止となり、事務所も廃止されました。昭和二十二年(1947年)9月、カスリーン台風によって東京東部が再度浸水したことにより、改めて中川改修が検討されました。昭和二十四年(1949年)11月に中川改修事務所は再開され、中川放水路(新中川)の開削が本格化しました。江戸川区などでは多くの家屋等が立退きを余儀なくされるなどの大工事の末、昭和三十八年(1963年)3月に中川放水路は完成しました。開削工事区間は約8キロメートルに及び、用地買収は32,818坪、今井水門と橋梁16橋の新設、鉄道線付替1箇所、工事費は約53億8千万円でした。昭和四十年(1965年)3月、中川放水路は一級河川に指定され、河川名が「新中川」に改称されました。
 

コース 踏破記  

今日は江戸川区の「02.新中川」を歩きます。スタート地点の奥戸新橋近くのマリーナースパイラルズ前から、新中川沿いに瑞穂大橋まで歩きます。

スタート地点:葛飾区境(マリーナースパイラルズ前)

ゴール地点:瑞穂大橋東詰


スタート地点の奥戸新橋近くのマリーナースパイラルズ前から歩き始めます。奥戸新橋は、昭和三十六年(1961年)に新中川掘削工事に伴い架橋され、東岸の葛飾区奥戸九丁目と西岸の奥戸六丁目を結び、都道60号線(奥戸街道)を通しています。



マリーナースパイラルズは、社名が「モーターボート スパイラルマリーン」というプレジャーボート関連の業務を行なう会社です。昭和三十六年に、中川に架かる平和橋近くで創業し、昭和四十一年に現在の新中川に架かる奥戸新橋袂に移転しました。都心からアクセスしやすく、日帰りクルージングも楽しめるマリーナです。家族連れに人気があり、免許教室やレンタルボートも提供されています。新中川の護岸下にはマリーナが併設されています。



奥戸新橋の直ぐ下流に、全長1、097メートルのトラス橋(桁の部材を三角形状、つまりトラス形状に組んだ構造形式の橋)が架かっています。JR金町線中川放水路橋梁で、新金貨物線が通っています。新金貨物線は、江戸川区にある小岩駅と葛飾区にある金町駅間8.9kmを結ぶ総武本線の貨物支線です。全線にわたり単線となっていますが、複線化するための用地と共に、複線用の橋梁の橋脚も当初から現在の橋梁の上流側に確保されています。単線の橋梁を見た時は、何故本体の架かっていない橋脚が橋梁の横に設置してあるのか理解できませんでした。確かに、将来の複線化を見込んで橋脚だけを用意しておくことは複線化時の費用の節約になるのかもしれませんが、長年のコンクリートの劣化を考えると果たしてそこまでするのが良かったのかどうか評価が分かれるところです。明治から大正時代の総武本線の東京側の終着駅は、隅田川に鉄道橋の架橋がなかなか行われなかったために両国橋駅となっていました。そのため、貨物列車は総武本線亀戸駅から東武線を経由して常磐線の北千住駅に向かうか、貨物を両国橋駅で荷馬車や船に積み替えて隅田川を渡るかして千葉県内外との連絡を図っていました。総武本線の貨物列車が隅田川を渡れないことは物流にとって非常に不便なことであり、千葉県の経済にも影響が大きかったため、総武本線新小岩信号場〜常磐線金町駅を結ぶ本貨物線が計画され、大正十五年(1926年)7月1日に開通しました。本貨物線の開業により、総武本線の貨物列車は本貨物線と常磐線を経由して隅田川西岸へ直通することができるようになりました。その後、両国橋駅止まりだった総武本線は関東大震災の復興計画として中央本線御茶ノ水駅まで延伸することになり、総武本線は隅田川西岸へと伸びることになりました。ただ、御茶ノ水駅〜秋葉原駅間が電車列車のみ通過することを前提として33%の急勾配で敷設されたため、その後も貨物列車は本貨物線経由で運転されました。平成十二年(2000年)12月2日から武蔵野線の南流山駅〜西船橋駅間と京葉線の西船橋駅〜蘇我駅間を経由して貨物列車が運行されるようになり、本貨物線を通過する貨物列車は大幅に減少しました。現在では、定期貨物列車が4往復・臨時貨物列車が1往復・回送列車などが運行するにとどまっています。



新金貨物線の鉄橋の近くに、東京シューレ江戸川小学校があります。東京シューレ江戸川小学校は、令和二年(2020年)4月に開校した定員70名の私立小学校です。平成十九年(2007年)に葛飾区の協力の下で東京シューレ葛飾中学校が誕生しました。その後、小学校もつくってほしいという声が親から上がり、江戸川区や東京都・国と協力して、東京シューレ江戸川小学校が誕生しました。不登校の児童のための小学校で、一人一人の児童に寄り添った教育を行ない、仲間と共にいる楽しさや、皆で何かを作りあげる喜びを体験できる教育内容になっています。子どもたちの個性を大切にしながら学習や活動ができるように配慮され、学習の進度も個人によって違いがありますので個別に学習できる時間をとるなどの対応がされています。授業に参加しにくいときも、学校の中に居場所ができるように工夫されています。



東京シューレ江戸川小学校の南隣に上一色天祖神社があります。上一色天祖神社の創建年代は不詳ですが、神明鹿島香取合社と称し、旧上一色村の鎮守であったといいます。鳥居の前には、幹が直角に曲がった松の木が笠のような形で枝を伸ばしています。奇跡の松の木ですね。

天祖神社

旧上一色村の鎮守で、もとは神明社と称しました。祭神は天照大神、経津主命、武甕槌命を祀っています。創建年代は不詳です。この神社では昔、盛大な裸祭りが行われていました。天保年間(1830年〜1843年)江戸に疾病が流行した時、病気退散のため始めたと言われています。その様子を伝える板絵額が神社内に奉納されています。

■板絵額(区指定有形民俗文化財)
神社拝殿の中に八枚掲げられています。「裸参り図」は二枚あり、一枚は歌川国得筆、もう一枚の作者は不明ですが、どちらも行事の様子をよく伝えています。そのほか「楠公父子の図」(勝川春樹筆)、「伊勢参り図」、「加藤清正朝鮮の役の図」(文政三年奉納)、「行旅の図」(国得筆)、「天照大神図」、「兵士等伊勢参り図」(葛飾北俊筆・明治二十八年)があります。通常は公開されていませんが、例祭日(十月十五日)など拝殿が開く日に拝観できます。




上一色中橋の先に総武線の鉄橋が架かっています。JR金町線中川放水路橋梁と同じくトラス形状の総武本線中川放水路橋梁です。こちらは最初から複線になっています。「一色」という地名ですが、その由来は荘園制度からきたものだそうです。平安時代(794年から鎌倉幕府の成立まで)には大きな寺社や貴族の荘園が各地にでき、農民は荘園領主(土地を所有する地方の豪族)に、年貢や公事(くじ:糸・布・炭・野菜などの手工業製品や採取物)、夫役(ぶやく:労働で納める税)を納めました。年貢と公事が免除されて夫役だけが徴収されるところが「一色」(一つの種類・同じ種類の意味)と言われていました。また、中世(鎌倉時代・室町時代)の荘園では年貢・公事の両方を負担するのを「名田(みょうでん)」といい、年貢のみを負担する地種を「一色田(いっしきでん)」と呼んでいました。これらから、「一色」という地名は、荘園制度の下で一種類の税だけが徴収されていた地区のことを指すものであることが分かります。



総武線の鉄橋の先に美しいアーチ型の橋が架かっています。辰巳新橋は、東岸の江戸川区南小岩六丁目と西岸の上一色二丁目を結び、昭和三十一年(1956年)に架橋されました。その後、橋の老朽化や幅員が狭いことから、江戸川区の新中川橋梁整備計画の第二弾として平成五年(1993年)に現在の橋に架け替えられました。「街との語らい」を基本テーマに、小岩地域のランドマークに相応しく、人々が集う場所として軽快な印象を与え、水辺を包み込むようなイメージになるようアーチをモチーフにして軽快さを演出しています。アーチの天井が繋がっていて、そこから左右の橋桁にケーブルが延びています。しかも、そのケーブルが網の目のように交差しているところがユニークなところです。広い歩道には植栽やベンチが設置され、四季折々の草花を楽しめるほか、夏季には夕涼みや江戸川の花火見物、また土手を散策する人々の憩いの場ともなっています。 テレビドラマのTBS系「ビューティフルライフ」や「白い影」、フジテレビ系「ドク」や「マルモのおきて」など、数々ロケにも使用されています。



江戸川区では、親水公園や新中川の堤防上などに距離表示板を設置し、ウオーキングや散策などが気軽に親しめるように「健康の道」づくりを進めています。遊歩道上には靴をモチーフにしたプレートが埋め込まれています。



土手下に、江戸川区内で最初の親水緑道となった「下小岩親水緑道」が見えます。この辺りは明治の初め頃まで下小岩村と呼ばれていて、農業が盛んに行われ、小川には魚が泳ぎ、鳥の遊ぶのどかな田園風景が広がっていました。やがて、村は町になり、町は都市にと変わり、かつての用水路は地域の排水路として利用されてきました。その後、下水道の整備によって不要となった水路跡地を利用し、水との触れ合いを大切にする願いを込めて、緑とせせらぎの小径が再現されました。現在は、子どもをモチーフにした彫刻を設置し、楽しい散歩道となっています。



ひときわレトロな親柱の小岩大橋にやってきました。15年ほど前に「街道を歩く:東金街道コース」で通った橋です。案内板には、江戸時代はこの橋を通る道は「元佐倉道」と呼ばれていたと書いてあります(新中川が開削される遙か前ですから、現在の小岩大橋はなく当然地続きでした)。古くは日本武尊がこの街道筋の現在の船橋市に上陸し、行基菩薩作の仏像もこの街道筋の寺院に残っています。更級日記の作者藤原孝標の娘一行や源頼朝公・日蓮聖人・連歌師柴屋軒宗長もこの道を通ったことでしょう。戦国時代には安房里見氏を始め多くの武将が闊歩し、徳川家康が鷹狩に行く道として船橋以東を御成り街道として整備しています。歴史上の有名人が通り、多くの足跡や万葉集はじめ多くの文学に詠まれ名所がこの道に残っています。小林一茶・松尾芭蕉・十返舎一九など江戸時代を代表する歌人や文人、正岡子規・伊藤佐千夫・高濱虚子も元佐倉道を通り、それぞれの時代の風景を記しています。橋の案内板には、「元佐倉道は将軍鷹狩の道として交通の便を最優先させ、村落や耕地を無視して造ったため、今も直線道路としてその名残をとどめています」と書いてあります。ちなみに、小岩大橋の灯具の上には鷹をモチーフにした像が配置されています。鷹を見上げて東金街道との関係を思い浮かべる人はいるのでしょうか?

小岩大橋と千葉街道

現在の千葉街道は、江戸時代元佐倉道とよばれていました。元佐倉道は、房総の諸大名の参勤交代路であると同時に、江戸中期以降は庶民の往来でにぎわった道でもありました。また本道は将軍鷹狩りの道として交通の便を最優先させ、村落や耕地を無視して造ったため、今も直線道路としてそのなごりをとどめています。現在の新中川は、中川の洪水があまりにも大きな被害をもたらすことから、昭和十六年から幾多の障害を乗り越え、昭和三十八年に出来た放水路です。この川と千葉街道が交差するところに架かる橋が小岩大橋です。このたび、小岩大橋を整備するに際し、昔日のおもかげを偲ぶ意味から、灯具の上に鷹を配し、高欄には自生している「葦」をデザインしたパネルを設置しました。




新中川は直接海に流れ出している訳ではありませんが、川岸のところどころにマリーナ(小型船舶の係留施設)が設けられています。中には不法に設置してあるものもあるようで、河川管理上の問題から撤去されることもあるとか。船舶は小型といえども簡単には処分できませんので、維持できなくなったオーナーに放棄される船もあるのでしょう。



大杉橋を越えた左手に日枝神社があります。新堀日枝神社は、葛飾の正福寺空鏡法印が寛永二年(1625年)霜月十五日に山王地主権現を勧請し、当時の名主八武崎隼人・仁助らの発願によって社殿が建立されたといわれ、山王社又は山王地主権現と呼ばれていましたが、明治になって日枝神社と改称しました。旧新堀村の鎮守社でした。

新堀日枝神社社殿造営記念碑

当、日枝神社は寛永二??年霜月十五日、名主八武崎隼仁助を始め、氏予一同発願。導師空鏡師によって山王地主権現を勧請建立。明治初年迄、山王社と稱さるなり。「新堀村日枝神社 村の鎮守なり もと山王社と云う。一新後社号改む。社地百坪を有す。新堀の守護神として祀られ 村の北西に位置し鎮座す」と数々の記録にあるものなり。明治六年一月太政官布告「府下諸神社ノ内漫々狼藉セル。神社稱号有ルハ甚ダ不都合。早々、社号改正云々」により 日枝神社と改名せり。御祭神は大山咋命を鎮祭され、現新小岩香取神社神官の神勤の社となり崇められる。大正七年氏子数四十七戸の改築後六十有余年の風霜に堪え老朽甚だしく神威を畏み、昭和五十五十一月氏子一同神徳を奉賛し、建設委員会を組織し、浄財を募りここに造営せり。折りしも新堀土地区画整理の大事業も完遂し、この記念事業として一層の念を加うるものなり。総工費金八阡余萬圓也を費やし、社殿と共に境内建造物の全面的築造の完成を見るは、神慮の垂示と氏子の敬神の観念に依るところにして、茲に碑を建て永く記録に留むる次第なり。




新中川を斜めに横断している橋が明和橋です。今井街道から川沿いに北上した道路を明和橋通りに繋げるのが明和橋です。新中川が開削される前は今井街道から真っ直ぐに道路が延びていたのでしょう。

明和橋完成記念碑

明和橋は、新中川の開削(昭和十六年から昭和三十八年)にあわせて、昭和三十四年に完成しましたが、車道・歩道とも幅員が狭く、また老朽化が進んで来たため平成元年十月より架け替えに着手し、平成四年六月、完成しました。江戸川区は、新中川橋梁の整備に当たり、「水とみどりのネットワーク」づくりの一環として、「水辺と橋の織りなすコミュニティ回廊」の形成を目指してきました。この中で、今後一層の都市化が進む新中川下流域において、明和橋は「ゆとりと賑わい」をテーマに街並みに映える風格ある橋として整備しました。橋名のとおり、「人々が明るく和やかに集える橋」として、地域の交通はもとより、コミュニティの場としても広く利用されることでしょう。ここに本橋の完成を託念し、永く後世に伝えるためにこれを誌す。




新中川にはもう一本鉄道が通っています。といっても、橋梁ではなく、河底の下にトンネルが通っているのです。都営新宿線の一之江駅の直ぐ先が新中川の河底の下のトンネルに繋がっている訳です。この区間はずっと地下を走っているので気がつきませんが。ちなみに、都営新宿線のこの区間が開業したのは昭和六十一年(1986年)で、新中川が完成してからずっと後のことです。



瑞江大橋の袂に石碑が建っています。一部が煉瓦で覆われていて、大きな石板には何やら文字が書いてあります。何が書いてあるか確かめないまま、何かの標識だろうと思ってシャッターを切りました。家に帰って写真を拡大してみますと、「瑞江葬儀所 ← 入口」と読み取れます。こんなところに葬儀所が?とネットで調べてみましたら、瑞江葬儀所は東京都の公営火葬場なのだそうです。都内には葬儀のみ行なう斎場は多くありますが、殆どは火葬場を併設していません。ちなみに、都内の火葬場は23区内では公営2ケ所(臨海斎場と瑞江葬儀所)と民営の7ケ所、23区外では公営8ケ所と民営の1ケ所となっているそうです。瑞江葬儀所には葬儀用の式場はなく、火葬設備のみ設置されています。1938年に使用が開始され、開設当初から他の模範となりうる理想的な火葬場として運営されてきた近代火葬施設の草分け的存在でもあります。1975年には新施設が運用を開始し、火葬場の特徴であった煙突をなくし、設備の無公害化・燃料のガス化・控室の個室化・火葬受付件数の設定を行いました。私もいつの日かお世話になるかもしれません。



瑞江大橋は今井街道が通る橋ですが、旧江戸川との合流点手前に架かるのは瑞穂大橋です。何だか紛らわしいですね。瑞江大橋の袂には魚釣りの格好をした少年の像が立っています。ご機嫌な顔をしていますが、釣果はあったのでしょうか?



瑞穂大橋の手前に新中川をまたぐように今井水門が設置されています。本来は門扉は7門あるのですが、現在は4門が稼働中です。残りの3門は耐震補強工事のために建て直し中となっています。すでに巻上機室は取り外され、堰柱の補強工事に入っているようです。今井水門は昭和三十七年に造られましたが、耐震補強工事を施してより頑丈な水門にするということのようです。水門は地震でダメージを受けるとうまく閉まらなくなってしまい、水門本来の役目である水の堰き止めができなくなるのです。確かにそうなってしまっては高潮・津波は防げませんからね。この水門、実は東京都内で最大級なのだそうです。



ゴール地点の新中川と旧江戸川の合流地点に架かる瑞穂大橋東詰に着きました。橋名の下には魚釣りをしている人の様子が描かれています。さきほど見た少年に似てますね。



ということで、江戸川区で二番目のコースである「02.新中川」を歩き終えました。次は江戸川区で三番目のコースである「03.仲居堀通り」を歩きます。





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