04.小松川境川親水公園  

小松川境川親水公園

小松川境川親水公園は、古川親水公園に続き、区内で2番目に出来た親水公園です。昭和五十七年(1982年)4月1日から順次開園し、総延長は3、930メートルあります。江戸川区は三方を水辺に囲まれる水の豊かな土地ですが、かつて農村だった地域も都市化の進展に伴って環境が悪化しました。その課題を打開すべく、失われた緑を回復し、自然性豊な生活環境を創り出して行くことを目的に、区民と行政とが一体となった緑化運動が展開され、その結果生まれた親水公園のひとつが小松川境川親水公園です。

コース 踏破記  

今日は江戸川区の「04.小松川境川親水公園」を歩きます。菅原橋交差点から小松川境川親水公園の遊歩道を進み、都道450号線交点まで歩きます。

スタート地点:菅原橋交差点

ゴール地点:都道450号線交点


スタート地点の菅原橋交差点から歩き始めます。



菅原橋交差点は、南西から北東方向に千葉街道・北西から南東方向に鹿骨(ししぼね)通りが交わり、その合間を縫うように同潤会通り・仲井堀通りなども交わり、大小7本もの道が交差点に合流し、総勢11の道が交差するといわれる交差点です。5本以上の道路が集まる交差点を「多叉路」といいます。5叉路・6叉路くらいは珍しくないかもしれませんが、「菅原橋交差点」は、なんと11叉路なのです。もともと江戸時代からあった街道は千葉街道だけでした。その他、交差点付近で2本の用水路が交差し、交差点の名前はその用水路を跨いでいた橋名に由来します。やがて、田んぼのなかに鹿骨街道が整備され、更に同潤会通りや、街区を造成する時にできた小道が接続し、用水路の大部分も埋め立てられて道になり、現在の形になりました。



遊歩道の起点には水路に水を流すための小滝が設けられています。公園を流れる清流は、新中川の水を大杉浄水場で浄化したものだそうです。



水路沿いの植栽は手入れが行き届いています。小松川境川親水公園を「愛する会」が結成されていて、清掃活動やイベントの実施などが積極的に行われているとのことです。



小松川境川親水公園に隣接した中央森林公園は、公園全体が美しい緑に囲まれ、夏には水遊びをすることができます。公園内には遊具やアスレチックが充実していて、一日中楽しむことができます。



小松川境川親水公園の全体マップがあります。公園の起点は、国道14号/千葉街道沿いの菅原橋交差点とその北西の新小岩四丁目バス停付近の交差点で、そこから2つの流れが合流してひとつになり、都道450号線交点まで、Yの字を横に倒したような形になっています。



公園は、滝に始まり、「湧水のゾーン」・「せせらぎのゾーン」・「水の庭園のゾーン」・「水しぶきのゾーン」・「たゆたいのゾーン」と5つの区間に分かれ、江戸川区役所近くでは、せせらぎ・水しぶき・飛び石・釣り橋に冒険船などがあり、変化に富んでいます。水遊びができない季節でも、ウオーキングをしたりアスレチックで遊んだり四季を通じて楽しむことができます。また、遊歩道の沿道は桜の名所でもあります。付帯施設として、シャワー・更衣室(中央森林公園と東小松川公園の2ヵ所:夏季のみ利用可)が備わっています。バリアフリー対応として、車椅子用手洗所が5ケ所設置されています。



江戸川区では、ウォーキングや散策などが気軽に楽しめるように、親水公園を始め江戸川の堤防上などを「健康の道」として整備しています。小松川境川親水公園の健康の道もそのひとつです。



公園のもう一方の入口から入った先に、「小松川境川の由来」と題した案内板が立っています。殆ど文字が判別つきません。

小松川境川の由来

小松川境川は、東小松川村と西小松川村の境を流れていたことでこの名が付きました。上小松川(現在の葛飾区東新小岩四丁目付近)から発し、蛇行しながら西小松川村と船堀村(現在の江戸川区東小松川付近)の境を通って新川に注いでいました。昭和三十年代に入ってから急速に流域の都市化が進み、家庭排水が流れ込んで水質も悪化しました。しかし、下水道の整備により排水路としての役割を終え、再び親水公園として蘇りました。




もう一枚の案内板があります。今は人工のせせらぎが流れるだけですが、かっては川船が行き交う大きな水路でした。

小松川境川の水運

小松川境川は、農業用水路として活用され、さらに農作物や肥料の運搬などの舟運路にも利用されていました。東江戸の町が発展し人口が増えてくると、大量の野菜が消費され、鶯菜(いまの小松菜)の生産地であったこの地からも舟で、江戸市街地に運ばれました。江戸への経路は、小松川境川を下り江東区の小名木川や竪川をとおって江戸の堀割に入りました。舟は道路が整備され自動車が普及するまでは重要な輸送手段だったのです。




2本の水路が合流して1本の水路となり、中川まで流れていきます。



遊歩道には、ベンチを備えた休息スペースもあります。小松川境川親水公園の水路を流れる水は、濾過した自然水が使用されています。綺麗な水が岩山から滝となって流れ落ちています。



吊り橋もあります。格好は吊り橋ですが、実際はそれっぽく見せた普通の橋のようです。滑り台の出口は水路です。ダイブするような気分でしょうね。



江戸川区総合文化センターは、老朽化した江戸川区公会堂の後継施設として、昭和五十八年(1983年)に小松川境川親水公園「水の庭園ゾーン」付近に完成しました。大ホール(客席数:1、497席)・小ホール(客席数:502席)、その他に研修室・会議室・レストランなどが備わっています。



木陰の散歩道が続きます。



小松川境川親水公園は、昭和六十一年(1986年)には、建設省(現在の国土交通省)の「手づくり郷土賞」や「国際交通安全学会賞」を受賞しました。



東小松川公園には海賊船があります。じゃぶじゃぶ池からもはしごが設置され、水陸両方で遊べる大きな海賊船が子どもたちに大人気です。



岩山から水が流れ落ちる大きな滝もあります。外部からの水ではなく、水路の水を循環させているのでしょうか?



首都高速7号線を越えますと、中川はすぐ先です。



水路の突端には中川への排水溝があります。



ゴール地点の都道450号線交点に着きました。



都道450号線を渡った先は中川の堤防になっています。



周辺には多くの寺社仏閣があります。善照寺は、室町時代後期に隆範によって開山されました。その後、江戸時代初期に頼玄によって中興されました。善照寺は「相撲寺」と呼ばれています。初代横綱の明石志賀之助(下野国宇都宮出身)の引退試合が善照寺で行われたことがきっかけで、毎年9月に草相撲大会が行われていました。最盛期には参加力士は250人、見物者は区外(東京府・千葉県)からも集まっていました。しかし昭和十八年(1943年)に中止され、戦後の昭和二十九年(1954年)に一度復活しましたが、それ以降は行われなくなりました。

善照寺

真言宗豊山派に属し、医王山薬王院と号します。本尊は大日如来です。起立の年月は不詳ですが、開山は隆範上人で大永二年(1522年)に入寂、万治三年(1660年)入寂の頼玄上人が中興したといわれています。慶安元年(1648年)三代将軍家光より六石の御朱印地を受けた名刹で、古くから浮洲浅間神社の別当をつとめました。文政十年(1827年)寺普請の時に地中から発見されたという銅碑墓版を所蔵し、それについては「成田参詣記」などにも記載されています。この寺は通称「相撲寺」といわれていますが、横綱明石志賀之助が元禄十二年(1699年)に境内で引退相撲を行なったのをきっかけに、以来毎年不動尊の縁日には草相撲が行なわれていたことによります。

■旧葛西学校跡
        昭和六十二年(1989年)二月登録
        区登録史跡
江戸川区最初の公立小学校「葛西学校」は、この善照寺を教場として、明治九年十月に開校しました。校舎を新築し、移転する明治十四年十一月までここを教場としていました。




白髭神社の創建年代は不明ですが、元々は「白髭明神社」と称していて、東小松川村の鎮守でした。明治以降の近代社格制度では村社に列格し、後に荒川放水路の開削により移転を迫られた浮洲浅間神社を合祀しました。浮洲浅間神社の創建年代は不明ですが、「天平十一年(739年)」の銘が入った鏡があることから、かなりの歴史を有する神社であったと推測されます。東小松川村の飛び地の鎮守で、善照寺が別当寺でした。慶安元年(1648年)には、江戸幕府第三代将軍徳川家光から社領6石を賜りました。白髭神社に合祀後も摂末社の形式で残されています。

神輿庫の由来

旧神輿庫は、昭和十五年(1940年)三部落三町会合併に伴ない、旧渡し場の神輿庫を移設し、大型(大江川・現第二部)中型(入之庭・現第一部)小型及び獅子頭一対(渡し場・現第三部)の神輿三体等共に収納するようになり、移動したため大型中型二体の神輿は、空襲の戦火により危うく焼失を免れることができた極めて由緒ある建物であった。カサリン、キティ台風等による、たび重なる水害のため、かさあげ補修工事を施工したが、木造建築の耐用限界を遥に超え老朽化が進み、他方神輿も部分的修理は施したものの、漆塗、金具の欠落が目立ち、心棒の割れも又甚だしきに至る。昭和六十三年(1988年)翌年が大祭年、神輿作成七十周年(三体平均)に当るため記念事業として神輿庫建替、神輿等完全修復を発意し、諸準備推進中奇しくも平成元年と改元された。表記の人々の浄財により、多年の懸案がすべて解消し、ここに、建坪、設備等当初計画を超えた新神輿庫の完成をみることができた。特記すべきは、浅子神輿(行徳)へ修理のための移送日、引取日、大祭渡御日と季節外れを含め三度台風に遭遇、しかも、二日間の大祭夜間行事時には、奇跡的に晴れたことであり関係者一同、苦労の末購入された先人の大きな喜びのあかしを感ぜざるを得ない。願わくは、風雪に耐え、後人、地域の宝として、永久に保存されんことを。




源法寺は、天正四年(1576年)に故嶽によって開山されました。その後、江戸時代初期に観智国師や信蓮社覚誉によって中興されました。源法寺は「堀まき寺」と呼ばれています。寛政九年(1797年)の火事で寺宝を失ってしまったため、防火用として堀を巡らしたことに由来します(現在は堀は埋め立てられ存在しません)。

源法寺

浄土宗に属し、壽覚山無量院と号します。天正元年(1573年)に普光觀智國師が開山しました。三代将軍家光公から御朱印地六石を授かった名刹です。また、宇喜新田を開拓した宇田川喜兵衛定氏の菩提寺でもあります。防火用に周囲に堀を巡らしたので、「堀まき寺」といわれました。

■青面金剛像庚申塔
   昭和五十九年(1984年)二月登録
   江戸川区登録有形民俗文化財・民俗資料
高さ127センチの舟形で、上部に青面金剛像と下部に三猿が彫られています。寛文三年(1663年)の銘があります。

■福森久助の墓
   平成元年(1989年)二月登録
   江戸川区登録史跡
狂言作者初代福森久助は明和四年(1767年)江戸本所に生まれました。「男山娘源氏」で初めてその名があらわれ、市村座の立作者となりました。世話物の脚本を得意とし、常磐津、長唄にも優れた作詞を残しました。文政元年(1818年)に五十二歳で没し、本寺に葬られました。




源法寺と道ひとつ隔てたT字路角に中之庭地蔵堂があります。今は立派な瓦葺きのお堂に収められていますが、かっては地蔵菩薩像は露地に立っていたそうです。

中之庭地蔵堂の由来

堅牢な御堂に奉安された石造の本尊は、延命地蔵菩薩と敬称され、現在でも信仰の香花が絶えない。古くから、病気平癒や、さまざまな悩みに応え、霊験ありと伝えられている。本尊の造像の詳しい年代は不明だが、銘文によれば、六道の衆生の最後の一人迄も救うという地蔵の誓願と、現実の疫病や災厄を除く庚申供養とが一体となった願意で造立されたようだ。伝承によれば、天保九年(1838年)に当地の太田家の先祖が霊夢を感じて、現在の境川親水公園辺りの河底を捜したところ、出現したといわれている。当地に祭祀される以前のことは、一切分からないが、台座の銘文によれば、太田清右ェ門・太田勝太郎・保土田弥左ェ門・野間傳兵衛の四名を中心とした村民の講中によって、手厚く奉祭された。昭和五十五年までは百万遍溝が信仰し、地蔵菩薩の小像を近在中に渡御して念仏して廻ったといわれる。昭和八年には、それまで露仏であった石像を、敬して堂を建てて鎮め祀り、同二十六年には、盛り土して、現在の姿となった。毎月四日、十四日、二十四日を縁日とし、正月、五月、九月の二十四日に大祭が行われています。




ということで、江戸川区で四番目のコースである「04.小松川境川親水公園」を歩き終えました。次は江戸川区で五番目のコースである「05.一之江境川親水公園」を歩きます。




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