05.一之江境川親水公園  

一之江境川親水公園

一之江境川親水公園は、多くの区民からの「自然に近い水辺を」という声に応えたもので、季節の移り変わりを楽しめ、豊かな自然を満喫できます。ここは、自然とのふれあいを味わえる親水公園です。魚や昆虫、水生植物が生息できるように、新中川の自然水を流しています。また、小さな子ども達が、夏季に水遊びを楽しめる水の広場が3ケ所あり、本流の流れを迂回させ水道水を循環利用しています。平成七年4月1日から順次開園し、全長は3、200メートルあります。

コース 踏破記  

今日は江戸川区の「05.一之江境川親水公園」を歩きます。陣屋橋交差点から一之江境川親水公園の遊歩道を進み、一之江一丁目2番11号まで歩きます。

スタート地点:陣屋橋交差点

ゴール地点:一之江一丁目2番11号


スタート地点の陣屋橋交差点から歩き始めます。



公園の入口に、公園の元になったかっての一之江境川の解説を記した案内板が建っています。「一之江境川」という名前は、東一之江村と西一之江村との境を流れる川ということに由来します。案内板の後ろに建つ公園名を記した塔の下のガラス箱の中には、かっての一之江境川を通行したであろう通運丸の模型が展示されています。蒸気船でしょうか、外輪が付いています。

一之江境川親水公園地誌

舟の往来
江戸時代の一之江境川は水深も深く、農耕のための用水ばかりでなく、舟の往来にも用いられました。一之江新田の記録の中に、川床があがって舟の通行にさしつかえるので、川浚いをしたいという願書があります。一之江境川のそそぎ込む新川は、江戸川と中川を結ぶ水路で、江戸と行徳の間を往復した行徳船の航路としてもにぎわいました。行徳船は、江戸から成田詣でに行く人びとを多く運んだといわれ、にぎやかな船旅が想像されます。明治になってからの新川は、蒸気船の航路で、おおぜいの人や大量の物資輸送に大きな役割を果たしました。




一之江境川親水公園は、一之江境川を利用した親水公園で、「野川の再生」をテーマとし、全長は3.2kmあります。平成八年には、地域住民により「一之江境川親水公園を愛する会」が発足し、平成二十年度(2008年度)に「第19回みどりの愛護」功労者国土交通大臣表彰を受賞し、平成二十三年度(2011年)には「手づくり郷土賞」(一般部門)を受賞しました。公園内には夏に小さな子供が遊べる水の広場が3か所あり、毎年10月には「中央・一之江ふるさとまつり」が開催されることでも知られています。



一之江境川親水公園の沿線の景観を維持するために、江戸川区では様々な取り組みがなされています。

一之江境川親水公園沿線の景観地区

一之江境川親水公園沿線では、個性豊かで魅力あるまちなみを保全するとともに、水と緑豊かな良好な都市環境の創出を図るため、景観地区を定めました。景観地区内では、建築物について色彩や高さ、壁面位置の後退、敷地面積の最低限度などの建て方のルールや、屋外広告物の制限などを定めています。また、親水公園沿線では、地域のみなさんが沿線の景観形成に協働して取り組んでいくものとして、建築のルールとあわせ、暮らし方・住まい方のルールである景観まちづくり運動を推進しています。

一之江境川親水公園景観まちづくり運動
○ 自然豊かな環境を創出するため、緑豊かなまちをつくります。
○ 人々が集える魅力と賑わいのあるまちをつくります。
○ 歴史や文化の感じられる、落ち着きのあるまちをつくります。
○ 散策する人にたのしいまちをつくります。




一之江境川親水公園は自然に近い水辺を目指して整備され、魚や昆虫・水生植物が生息できるように新中川の自然水を流しています。ハゼ・スズキ・テナガエビなども見られ、冬から春にはカモが飛来し、豊かな自然と触れ合える親水公園となっています。また公園内には、約2800本の樹木が植えられ、ソメイヨシノ・サツキ・アジサイなどが季節毎に花を咲かせます。



船堀日枝神社は、慶長十九年(1614年)に船堀新田開発の際に守護神として山王権現を祀ったのが始まりで、旧船堀村東組の鎮守でした。祭神は国常立尊で、左右相殿に春日大明神と稲荷大明神を祀っています。別当は隣接の光明寺で、明治六年(1873年)に日枝神社と改称しました。

日枝神社

旧船堀村東組の鎮守です。祭神は国常立尊で春日大神と稲荷大神を合祀しています。慶長十九年(1614年)、船堀新田開発の際に守護神として山王権現を祀ったのが始まりといわれ、江戸時代、隣接の光明寺が別当をつとめていました。明治六年に日枝神社と改称しました。

■船堀の富士塚   昭和五十八年(1983年)三月登録
          区登録有形民俗文化財・民俗資料
明治二十五年(1892年)、「登山講」によって築造されたものです。椀状に盛土され、ボク石(溶岩)に覆われています。登り口に「登山講」、中腹には「小御嶽神社」の石碑があります。「登山講」は明治時代に解散したといわれています。

■乾海苔創業記念碑
海苔はかつて江戸川区の特産でした。この碑は明治三十年(1897年)に建立され、明治の中頃、鈴木紋四郎をはじめとする船堀村の有志が海苔養殖の創業に尽力したことを後世に伝えています。

■力石       平成二十二年(2010年)三月登録
          区登録有形民俗文化財・民俗資料
江戸時代から近代にかけて、若者たちが力試しに持ち上げた石です。かつて日枝神社では、力試しの催しがさかんでした。十四基の力石と、力試しの記念碑である「力持ちの碑」(明治二十三年銘)が境内入口に集められています。




公園の植え込みの中に、富士塚を解説したプレートを嵌め込んだ石碑が置かれています。

一之江境川親水公園地誌

富士塚
火山のもつ激しさを自然の脅威の象徴とみて、富士の山霊信仰が生まれたと考えられます。江戸時代中期に食行身禄という行者があらわれて庶民にこれを広め、やがて冨士講という集団が各地に生まれて、富士信仰の飛躍的な発展をみました。そうした富士信仰の一形態に、富士山を模した人工の山を礼拝するものがあります。富士塚とよばれる小さな築山で、ここに登れば富士参拝と同じ霊験が得られるといいます。江戸末期から明治時代にかけて関東各地で築かれ、江戸川区では特に盛んでした。日枝神社境内にある「船堀の富士塚」(江戸川区登録有形民俗文化財)は、明治二十五年に地元の登山講によって築造されています。




拝殿前の狛犬も溶岩の台座の上に鎮座しています。



境内には江戸川区の登録有形民俗文化財がふたつ有り、ひとつは明治二十五年(1892年)に富士登山講により造られた富士塚で、2基の石碑が建っています。この富士塚は他とは違って盛土の形が独特な椀状をしていて、全山ボク石に覆われています。しかし、登山講は明治時代に廃絶しました。

船堀の富士塚

     昭和五十八年(1983年)三月登録
     江戸川区登録有形民俗文化財・民俗資料

富士塚は、富士信仰の団体である富士講の人たちが、富士山の容姿をかたちどって築きあげた小高い塚です。富士山に登ったのと同じ霊験が得られるようにと願って築かれました。船堀の富士塚は、旧船堀村の登山講の人たちが、明治二十五年(1892年)に築きました。高さは約2メートルです。盛土された面積は広く、山肌はボク石(溶岩)で覆われ、登山道は「く」の字型に作られています。頂上には浅間神社をまつり、五合目には浅間神社の石碑があります。体裁よく整えられた富士塚です。




山頂には石造りの浅間神社の祠が建っています。



もうひとつの文化財は15基の力石群です。日枝神社は江戸川区域では代表的な力くらべが行われた神社で、明治二十三年(1890年)建立の力持ちの碑が残っています。どう見ても14基しかありませんが。。。



力石群の脇には、明治三十年(1897年)に建立された乾海苔創業記念碑もあり、かつて海苔が江戸川区の特産だった事を伝えています。



稲香山横道院光明寺は、慶長十九年(1614年)に覚仙が開山した真言宗豊山派の寺院です。雲切不動尊を勧請して、天下泰平・五穀豊穣・病災消除の護摩修行を行ったのが始まりです。門前の道が横丁に入る通路となっていたことから「横道の不動様」とも呼ばれました。光明寺の不動明王は眼病に御利益があるとされ、深川から成田山へ向かう旅人も必ず立ち寄ったといわれています。

光明寺

真言宗豊山派で、稻香山横道院と号します。開山は覚仙上人で、慶長十九年(1614年)、本尊に不動明王(雲切不動尊)を祀り、ここに一寺を建立しました。門前の道が横丁に入る通路となっていたことから、俗に「横道の不動様」とも呼ばれ、眼病に御利益があるといい、深川から成田山に旅する人も少なからず立ち寄って参詣しました。当寺は、天明二年(1782年)の火災、大正十二年の闢倦蜷k災などの災禍にみまわれました。現在の本堂は昭和四十九年に建築されたものです。

■葛西大師まいり、(区登録無形民俗文化財)
江戸川区の人々は、古くから弘法大師霊場巡りをさかんにおこなっています。当寺も葛西大師まいり(船堀・宇喜田・小島組)の霊場の一つです。




一之江境川に架かっていた橋の跡を示す標識があります。水路には黄金の亀が甲羅を干しています。



休息所も設けられています。棚の緑によって日陰ができ、涼しそうですね。



江戸川区は、日本の中でもトップクラスの金魚の生産地です。その歴史を記したプレートを嵌め込んだ石碑が置かれています。

一之江境川親水公園地誌

金魚の生産
昭和二十四年(1949年)10月に東京都淡水魚養殖漁業協同組合が設立されました。翌年末に江戸川区の船堀七丁目に用地を購入して組合事務所が置かれ、昭和二十六年4月からはせり市も組合でおこなわれるようになりました。当時の組合事務所周辺は一面の蓮田であったといいます。昭和二十年代には東京の金魚生産の中心が江戸川区に移りました。全国の金魚生産の指導的立場にたち、東京の金魚生産の3分の2が江戸川区にあったといいます。以来この地は、品質・数量ともに東京の金魚生産の中心地となりました。




二之江さくら公園は、その名の通り、春には桜が大変美しい公園です。地域の人達のお花見スポットとしても人気ですが、大型の遊具もあるので季節を問わず多くの子供たちで賑わいます。砂場やスプリング遊具もあり、幼児向けの遊具も揃っています。夏には水遊びができるエリアもありますので、涼やかに遊ぶこともできます。



藤棚が付いた休息所があります。せせらぎを眺めながら、日陰で一休みできますね。問題文は番号の後に置いた方がいいかも。

グリーン アドベンチャー この木 なんの木? 第23問

答え フジ

1.秋に葉が落ちる、つる性の木です。
2.春には紫色の花が房になって、垂れ下がります。
3.つるは強く、なわの代わりになったり、編みかごの材料になります。




その歴史を記したプレートを嵌め込んだ石碑が置かれています。石碑の後ろのガラス箱には、川辺で何かを捕っている子どもの彫像が展示されています。

一之江境川親水公園地誌

一之江境川の清流
親水公園になる前の一之江境川は、昭和三十年代までは清流が岸を洗い、ウナギやナマズがとれ、手長エビやコイが群れていたといいます。この水を飲用にしていた家も多く、冬菜を漬けるときにはここで菜を洗ったのでした。満潮になると水が乗っ込んでフナやタナゴが手づかみにできたそうです。春には青々とした岸辺でよめ菜や餅草を摘み、夏には川いっぱいにカミソリ藻がはえて舟が動けなくなったこと、日照りが続くと潮がさして作物が赤枯れしたこと、秋にはコウロギが鳴きイナゴが跳び交っていたことなど、清流の思い出は今も語り継がれています。
[参考:「月映雑記」第六号法龍寺つきかげ会・昭和五十四年]




遊歩道の脇に彫像が建っています(子どもは座っていますが)。女の子2人が鳩と戯れている様子を「やすらぎ」という題で、中学生がデザインしたのだそうです。プロ級のレベルですね。この他にも、近隣の中学生がデザインした彫像が2体公園内に建っているそうです。



江戸川区と金魚の歴史を記したプレートを嵌め込んだ石碑がもうひとつ置かれています。

一之江境川親水公園地誌

江戸川区と金魚
江戸川区の金魚養殖の多くは、本所・深川あるいは砂町・大島・亀戸あたりから移ってきたものです。明治の末頃からみられるようになり、大正十二年の震災以降さかんになりました。戦争中は食料増産のため、真鯉の稚魚を生産していました。戦後の再開後も連続する台風の打撃を受けましたが、生産者の努力と熱意によって、しだいに活況を呈し、日本三大産地のひとつに数えられるようになりました。その後は都市化の波に洗われて近県への移転や転廃業もみられますが、一之江境川の東側流域には江戸川の金魚の伝統が生き続けています。




巨木が天を突いています。クスノキでしょうか?



水遊びができるところにはシャワーの設備も整っています。



水路の上には、かって一之江境川に架かっていた鉄橋の一部が置かれています。その脇の石碑に貼られたプレートには、城東電車の歴史が書かれています。

一之江境川親水公園地誌

城東電車
城東電車は私営の路面電車で、明治四十四年(1911年)3月、当時の本所区錦糸町と瑞江村大字上今井の間に敷設の許可がおり、大正六年(1917年)12月に錦糸堀〜小松川間が開通、大正十年1月には水神森〜大島間が開通しました。そして、大正十四年12月に東荒川〜今井橋間が開通し、翌大正十五年3月には小松川から西荒川までが延長されて、東荒川との間には連絡バスがはしりました。昭和十七年(1942年)に東京市の市電となり、翌年の都制施行によって都電とよばれましたが、昭和二十七年に東荒川〜今井橋間は廃止され、上野公園〜今井間を走った都内初のトロリーバスにかわりました。この路線は、昭和四十三年から都営バス路線として今も運行されています。




鉄橋の前に、その経緯を記した案内板が立っています。

城東電車とトロリーバス

城東電車は大正二年に創立し、江戸川線は大正十四年に東荒川〜今井間で開通しました。車両が一両で「マッチ箱電車」と呼ばれたり、発車合図のベルの音から「チンチン電車」と呼ばれ、昭和二十七年まで運行していました。城東電車廃止の翌日より、無軌軸電車(トロリーバス)が走り、昭和四十三年までの約17年間運行されていました。トロリーバスはレールのない電車で、屋根についた集電装置で架線から電力を得て走っていました。




城東電車の車両の模型を収めたガラス箱の台座に「一之江境川親水公園地誌」と書かれた銅板のプレートが貼られています。車両の説明かと思ったのですが、内容は今井街道の沿革について記されているだけです。

一之江境川親水公園地誌

今井街道
中川(旧中川)の平井の渡しから南東に進み、東小松川村・西一之江村・東一之江村を経て今井の渡しに達する道筋を行徳道とよんでいました。今井から渡し舟で行徳へ渡り、成田参詣に向かう人びとでにぎわったようです。同じ道筋を江戸へ向かうときは、浅草の観音様への参詣路になりました。中川の平井の渡しに平井橋が架けられたのが明治二十二年(1889年)、江戸川の今井橋(当時は下江戸川橋)は明治四十五年で、千葉街道とともに東西を結ぶ幹線道路となりました。平成六年春、沿道にハナミズキが植えられ、地元では「はなみずきロード」ともよばれています。




「清流よ永遠なれ」と大書された石碑の形がちょっと歪ですね。これは漢字の「江」を模したものだそうです。石碑の脇に置かれた小さなプレートにその経緯が書かれています。

一之江境川親水公園

この記念碑は、一之江境川の源流・利根川流域の石を江戸川区の「江」の字にデザインしたものです。「江」は松江(?)の「江」一之江の「江」でもあり、私たちのまちのシンボルにふさわしいものであります。この川がいつまでもこの地を訪れる人びとに親しまれることを願ってやみません。
題字は江戸川区長中里喜一氏の揮毫によるものです。

ICHINOE SAKAIGAWA RIVER SHINSUI PARK

May our dreams flow with this stream.




石碑の背面には区長による由来記が記されています。

由来

悠久の川の流れは、歴史を語ります。一之江境川は東西一之江村の境を流れ、船堀村を経て新川に注いでいました。古くから農業用水路としてこの地に豊穣の恵みをもたらし、舟運路にも用いられて人びとに親しまれてきました。しかし、都市化の進展とともにその役割を終え、しだいに汚れ、澱み、時として悪臭を放つ水路に変わってしまいました。江戸川区は、早くから区内の川の再生を計画し、世界に先駆けて水と親しむ公園−親水公園を誕生させてきました。一之江境川も、平成四年十一月に着工し、平成七年春に一部開園、そして平成八年三月、ここにその全線の工事が完了し、我々の期待以上の素晴らしい清流によみがえりました。我々は、この川がふたたびこの地に恵みをもたらし、香り高い文化と爽やかなふれあいを育み、嬉々とした活気に満ち溢れるであろうことを確信しております。我々は、この川の再生に携われたすべての人びとに深い感謝を捧げるとともに、この川を愛し慈しむことを固く心に銘じ、そしてこの清流が子々孫々に受け継がれていくことを願い、この記念碑を建立し心からこう叫びます。
「清流よ永遠なれ」




馬場八幡宮は、明治の地図では字名の「馬場」に「ばんば」とふりがなが振ってあったそうです。

一之江境川親水公園地誌

八幡宮のいわれ
八幡信仰は、古代九州の宇佐信仰にはじまり、平安時代には関東にも広がって、鎌倉時代は武家の守り神でもありました。旧東一之江村の入幡宮は、江戸時代後期の地誌「新編武蔵風土記稿」に「八幡社」と記載されています。創建は不明ですが、江戸時代後半には、村の「八幡さま」として、この一之江境川のほとりに祀られていました。石の小さな祠だったそうですが、昭和四十九年(1974年)に地元の方々の協賛によって境内が整備されました。




カンタンの里は、原っぱを再現したような広場です。虫たちを守るために整備され、案内板には思いやりを持って観察するように記されています。毎年9月に地域の子供たちなどが参加する虫の音の鑑賞会が催されています。カンタン(邯鄲)は、極東に分布するバッタ目(直翅目)コオロギ科に分類される昆虫の一種です。カンタンの名は明治時代の文献に見えます。中国の古都邯鄲の字をあてているのは当て字で、鳴き声から名がついたものといわれています。夏の終わり頃から晩秋までの約2ヶ月近くその音色を聞くことが出来ますが、個体としての成虫の寿命は短いです。

野の川の再生「一之江境川親水公園」 カンタンの里

カンタンの里にはたくさんの生き物が住んでいます。地面や草の間、木の上など、虫によって生活する場所は様々です。カンタンの里は、虫たちを守るために整備した広場です。草花を大切にし、思いやりを持って観察してください。また、9月には鳴く虫の観察会が行われます。秋に虫たちの素敵な歌声が聴けるよう、大切にしましょう。




樹木の生い茂る屋敷があります。



一之江抹香亭は、江戸時代から抹香を作っていた旧東一之江村の旧家の抹香屋田澤家跡を庭園風に整備した公園です。庭園では春に紅白の梅や枝垂桜の花が、秋には紅葉が見られます。「えどがわ百景32」に選定されています。

一之江抹香亭のご案内

一之江抹香亭は、古くから抹香屋と呼ばれ抹香づくりを生業としてきました。抹香屋の屋敷林は区指定の保護樹タブノキをはじめ、かっての一之江境川のおもかげを残しています。この景観を保全し、一之江境川親水公園沿線における水と緑のネットワークの拠点として活用しています。

開園時間:午前9時〜午後5時
休園日: 年末年始の12月29日〜1月3日




園内の庭には樹齢750年以上のタブノキがあり、抹香作りの際にタブノキの葉を乾燥させて石臼で挽いて抹香に加えていました。

抹香屋のタブ

正面のタブノキは、樹齢七百五十年以上と言われ、通称「抹香屋のタブ」と呼ばれています。かつて抹香つくりを生業としていた旧田澤家が、抹香の原料としてタブノキの葉や皮を使っていたと言われています。タブノキは本州から九州の海に近い地域に 多く、江戸川区にも多く生育しており、「抹香屋のタブ」は区の保護樹に指定されて います。




園内では、園芸植物展も開かれ季節ごとに春の七草・サクラソウ・サツキ・アジサイ・菊花などが鑑賞できます。今は、「江戸園芸植物展示」会が開催されています。

一之江抹香亭
〜江戸園芸植物展示〜 サクラソウ展

サクラソウとは
世界中に500種あるといわれる“プリムラ“の一種です。サクラソウは日本原産のサクラソウ科サクラソウ属の多年草で、花が桜に似ることから名付けられました。学名を Primula sieboldii (プリムラ・シーボルディ)と言い、日本近代医学の父と呼ばれた医師であり、博物学者でもあるシーボルトにより日本からヨーロッパに伝えられたとされています。日本には四国と沖縄を除いて全国の湿地帯などに自生していますが、現在環境省のレッドリストにおいて「絶滅危惧類」に指定されています。

荒川流域のサクラソウ
江戸時代、荒川流域はサクラソウの名勝地として知られており、田島ヶ原、浮間ヶ原、尾久の原等が有名で、大群落を作っていました。元は秩父山中などから流れ着き、繁殖したものと考えられており、江戸時代、大規模な荒川の改修によって広大な原野ができ、毎春の野焼きと洪水等の増水による泥土の堆積が大繁殖を促したとされます。近年、更なる荒川の改修により繁殖に必要な洪水が起きなくなったことでサクラソウが減少、また開発により自生地が失われました。現在、田島ヶ原が「国の特別天然記念物」として保護されている唯一の自生地です。




サクラソウ栽培の歴史が解説されています。

サクラソウ栽培の歴史

サクラソウは野生の状態で同じ種子から育てても色や形が容易に変化する植物であり、江戸時代初期、自生地では原種の他にも色変わりのもの(色素欠損の白、濃い紅、斑入りなど)が採取されました。江戸時代中期になると種子をまいて、人為的に新しい品種が作り出され始めました。その後武士の間で「連」と呼ばれる愛好家集団ができ、品評会などが開かれるようになりました。江戸時代後期になると更に優れた品種が続出し、「櫻草作傳法」という専門書が著され、「桜草花壇」なども作られましたが、優良品を外部へ分譲しない“門外不出”の習慣も存在しました。明治時代以降になり、サクラソウの栽培は武士から華族や資産家の楽しみとなりました。その後、戦争等でそれまでの品種が多く失われましたが、現在では全国の愛好家の中で保護・継承され、八重咲など新しい品種も作られています。

江戸川区とサクラソウ

サクラソウと言えば、1月下旬から咲き始める“西洋サクラソウ”(プリムラ・マラコイデスなど)を指すことがありますが、これらは中国などが原産の種で、欧米や日本で改良されて普及し、江戸川区にも多くの愛好家がいます。また、現在江戸川区内では自生するサクラソウは見られませんが、以前は野に生える植物として身近であったようです。鹿骨小学校の校章はサクラソウがモチーフとなっています。(西洋サクラソウではなく、サクラソウ)




サクラソウの品種についても解説されています。

サクラソウの品種名

サクラソウは現在300種類ほどが園芸品種として認定されており、時代により名付けの由来が変化してきました。江戸時代の品種名の主流は能や謡(うたい)に関するものが多く、元は和歌や中国の漢籍に由来します(「青葉の笛」「松の位」など)。明治時代には日露戦争に出撃した軍艦の名前(「朝日」「浅間」など)が付けられました。大正から昭和にかけては日本国の体制を反映した「戦勝」「国の光」などの名が付けられました。




一之江抹香亭では、箏の鑑賞会や茶席、雛人形や五月人形の展示など、様々な催しが行われています。



水路には抹香屋橋が架かっています。マップに表示されていないところを見ると、モニュメント的なものだと思われます。



一之江境川親水公園は、環七と首都高7号小松川線が交差する一之江ランプ交差点で一旦途切れ、交差点の向かい側の脇から短い区間復活します。



交差点の手前に、一之江境川の由来を記した案内板が建っています。

一之江境川親水公園地誌

一之江境川の由来
東一之江と西一之江の境を流れることから、一之江境川とよばれるようになりました。応永五年(1398年)の「葛西御厨注文」という古文書に「東一江」「西一江」の地名が見られます。自然の河川ですが、江戸時代中期に中井堀が整備されてその分流となりました。用水として利用されるだけでなく舟運路でもあり、東一之江・西一之江・新堀・鹿骨・一之江新田の五か村で組合をつくって藻刈りや川浚いに力を合わせていました。昭和三十年代以降急速な流域の都市化がすすみ、家庭排水が流れ 込むようにより、水質も悪化しました。しかし、下水道の整備により排水路としての役割も終え、再び親水公園として蘇りました。




少しの区間ですが、一之江境川親水公園が復活します。



かって、この付近に一之江分教場がありました。

一之江境川親水公園地誌

一之江分教場跡
この地誌の左向かいに、かって一之江分教場がありました。明治十六年(1883年)以降、この地域にあった一之江尋常小学校をはじめ6つの小学校は幾つかの変遷を経て、大正二年(1918年)4月、一之江村と瑞穂村が合併して瑞江村が誕生したのを機に、瑞江尋常小学校と瑞穂尋常高等小学校に統合されました。その後、この両校は大正九年(1920年)に再統合され、瑞江尋常高等小学校となり、同十二年8月東一之江の新校舎に移転しました。しかし、その直後の関東大震災で校舎が損傷を受け、一之江地区の低学年児童のため、旧校舎は一之江分教場として存続することになりました。この分教場は、昭和三十三年(1958年)椿分校が新設されるまで、地域の学校として親しまれました。




水路に蛇が!!!と思ったら、ナント鰻でした。蒲焼きにされそう。



ゴール地点の一之江一丁目2番11号に着きました。



ということで、江戸川区で五番目のコースである「05.一之江境川親水公園」を歩き終えました。次は江戸川区で六番目のコースである「06.前堰通り」を歩きます。




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