- 07.旧江戸川
旧江戸川
旧江戸川は、千葉県と東京都の境界を流れる一級河川で、かつての江戸川本流になります。千葉県市川市稲荷木と江戸川区篠崎町の境界付近にある江戸川の江戸川水閘門から分岐し、江戸川区江戸川付近で新中川を合わせ、都立葛西臨海公園の東側で東京湾に合流しています。旧江戸川は、全区間に亘って千葉県と東京都の境界に位置しています。大正八年(1919年)に江戸川放水路が開削され、それ以降は放水路側が本流とされています。さらに、昭和十三年(1938年)7月に東京東部で発生した浸水戸数6万戸に及ぶ被害の対策として、昭和十八年(1943年)に放水路との分派点に江戸川水門が設けられました。その結果、昭和四十年(1965年)以降は「旧江戸川」という名称となりました。
コース 踏破記
今日は江戸川区の「07.旧江戸川」を歩きます。篠崎水門から旧江戸川の堤防上の遊歩道を進み、瑞穂大橋東詰まで歩きます。途中、遊歩道を外れる区間もあります。
スタート地点:篠崎水門(江戸川水閘門)
↓
ゴール地点:瑞穂大橋東詰
スタート地点の江戸川水閘門(篠崎水門)から歩き始めます。江戸川水閘門は、旧江戸川を仕切る水門で、江戸川区東篠崎町と千葉県市川市河原の間に位置しています。船が通るための閘門を併設しているため「水閘門」の名が付いていますが、一般には単に江戸川水門、あるいは地元の地名をとって篠崎水門などと通称されます。すぐ上流には、江戸川本川である江戸川放水路との分岐点があります。江戸川水閘門は、昭和十一年(1936年)に着工し、昭和十八年(1943年)3月に竣工しました。
江戸川水閘門施設概要
- 設置場所
- 東京都江戸川区東篠崎地先(旧江戸川河口より上流約9.3km)
- 工期
- 昭和十一年(1936年)6月〜昭和十八年(1943年)3月
- 役割
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- 洪水時に1000立方メートル/Sを旧江戸川に分派させること。
- 異常渇水時に塩分遡上を防止すること。
- 堰上流の水位を確保して、都市用水を安定供給すること。
- 平常時における下流の流量を確保すること。
- 船運の確保をすること。
- 施設概要
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- 水門
- 鋼製全溶接ローラーゲート幅10.6m(純径間10m)扉高5mx5門
5馬力巻上機2基ずつ(昇降速度1m/min)
- 閘門
- 鋼製全溶接ローラーゲート幅13.4m(純径間11m)扉高6.5mx2門
閘室長さ100m 幅16m 巻上機50馬力電動機(昇降速度0.1m/sec)
- その他
- 昭和四十五年〜四十七年に地盤沈下及びゲートの腐食などに対処するため、ゲート及び操作室の改造を行ないました。この改造により5門とも同じ高さまで捲き上げが可能となりました。また3門については従来通り1枚扉でもくり流出放流ですが、2門については2枚扉で越流放流も可能になっています。昭和五十五年の計画の変更により、洪水時の旧江戸川への分派は0となりましたが、行徳可動堰の改築が終了までの間は、暫定運用として旧江戸川にも分派させています。
今回設定されている「江戸川」は、江戸川水閘門(篠崎水門)から下流に向かって進み、新中川との合流地点に架かる瑞穂大橋東詰までのコースです。
突端の東側を流れるのが江戸川放水路(江戸川本流)、西側に分岐するのが旧江戸川になります。
旧江戸川には2ケ所の水門が並んでいます。奥の水門が写真に表示してある@の江戸川水閘門(篠崎水門)です。「水閘門」って聞き慣れない言葉ですね。ネットで調べてみますと、「水閘門」と「閘門」には違いはなさそうです。ちなみに、「水閘門」とは、「水位差のある水面間に、船舶を通行させるための工作物」と定義されています。私の地図では、江戸川水閘門を「江戸川水門」と表記されています。「水門」の定義は、「潮の逆流防止・洪水など被害をもたらす水の排除・舟運などのために堤防を切り開いて設けられるゲート」だそうです。ちなみに、江戸川水閘門はすぐ先の下流側で隣り合った水門を通ってきた流れと繋がっているように見えて高低差は生じないように思えるのですけど。。。
江戸川水閘門の直ぐ下流に面して、江戸川区スポーツランドがあります。江戸川区スポーツランドには、都内23区で唯一の区営スケート場があります。入場料や貸し靴料金もお手頃で、気軽にスケートが楽しめるスポットです。国際規格を満たしたリンクは広々としていて気持ちよく滑走することができます。スケート教室は年中さんからを対象とした初心者コースのほか、親子で参加できるコースも完備しています。また、夏の期間は50メートルの大プールなどになります。この他、トレーニングルームやテニスコート(兼フットサルコート)が併設されていますので思う存分体を動かせます。
造船所は海沿いにあるものと思っておられる方が多いと思いますが、川沿いにも小規模ですけど造船所が見かけられます。山陽造船企業は、小型造船業を主体とし、修繕部門では5tクラスから200tクラスの作業船・観光船・FRPボート・浚渫船から官庁船に至るまで、多種多様な船舶の検査整備と船体の補修及び塗装まで幅広く行っています。また新造部門では、19トンクラスの押船・曳船・交通艇・作業船などの小型鋼船の建造を得意とし、作業船のリース業務も行っています。
イズミマリーン(IZUMI MARINE)は、プレジャーボートを販売している他、マリーナとボートヤードも併設しています。マリーナの桟橋は、旧江戸川に面し篠崎水門のすぐ下流側に位置しています。マリーナボートヤードでの保管は総て陸置なので、艇が痛みません。デッキテラスでバーベキューも出来ます。
川幅の拡がったところに運動施設があります。「水辺のスポーツガーデン」は、旧江戸川河川敷に整備されたスポーツ施設です。旧江戸川沿いに延びる敷地内には、多目的広場・テニスコート・野球場・ローラーコートなど様々な施設が揃っています。
なかでもローラーコートはバンクのある一周200メートルのコースと、フェンスで囲まれた平坦な箇所があります。ローラースケートのみならず、一輪車競技にも利用できる都内一の規模と使用です。敷地内にある売店では飲食物の販売と用具のレンタルを行っています。
篠崎ポンプ所は、江戸川区東篠崎に位置する下水道施設です。雨水を川に放流するためのゲートがあり、汚泥やゴミを処理する沈砂池も備わっています。篠崎ポンプ所の脇では、これから歩く篠田堀親水緑道と東井堀親水緑道が合流しています。ちなみに、この先でも宿川親水緑道と鎌田川親水緑道が合流しています。江戸川から取水した水が多くの用水路に流れていたことが分かります。
コースのほぼ中間点です。
ポイントにもよりますが、旧江戸川では、シーバス・黒鯛・ウナギ・カレイ・ハゼなどが釣れるそうです。
現在、江戸川清掃工場は建替中です。令和二年9月30日から工事が始まり、完成は令和九年5月31日の予定です。ちなみに、解体中の煙突の高さは150mあり、江戸川区で一番高い建造物だそうです。
東部交通公園は、東京都のスーパー堤防整備事業に合わせて、今井児童交通公園から機能を移転した区内唯一の交通公園です。園内では延長約300メートルの道路を自転車や足踏み式ゴーカートに乗って走行したり、交通イベントを通じて幅広い年代の方が楽しみながら交通知識や交通ルールを学ぶことができます。また、この公園はスーパー堤防上の高台にあり、水害時や震災時には一時集合場所になります。園内のコースには、信号機や交通標識が設置されていて、自転車やゴーカートに乗って楽しみながら交通ルールを学ぶことができます。また、交通広場ではペダルレスバイクや三輪車に乗ったり、遊具広場では滑り台やロッキング遊具もありますので、小さな子どもでも安心して遊ぶことができます。乗物は全て無料で、子どもから熟年者までを対象とした交通安全に関するイベントなども開催しています。
上今井八雲神社の創建年代は不詳ですが、永禄七年(1564年)に創建した香取神社(上今井香取神社)と並んで、この地周辺で尊崇されたといわれています。昔は江戸川を航行する舟人たちの信仰が厚く、七月の大祭には多数の舟人が講社をつくって参拝に来たといわれています。大祭は通例七月の満月の晩に執行され、参拝者には「笹団子」という小笹に団子をつけた神符が授けられますが、この団子を食べると万病に効くといわれ、珍しい風習として現在も続いています。
八雲神社
祭神は素盞鳴尊で、旧上今井村では香取神社と並んで、人びとから尊崇された鎮守である。創建年月は不詳だが、昔は特に水路の神として信仰され、舟人たちが江戸川を航行して神社の前を通るときは、帆を下げて舟路の安全を祈ったといわれる。神紋は祇園守紋で、形が胡瓜を輪切りにしたようにみえることから、土地の人たちには胡瓜の初物を神にそなえてから食する習わしがあった。
■笹団子行事 江戸川区登録無形民俗文化財・風俗慣習
七月の満月の夜の大祭では、参詣者に笹の枝に団子と神符をつけた「笹団子」を授け、無病息災を祈った。この行事は、今も受け継がれている。
上今井香取神社は永禄七年(1564年)8月15日に武州葛西領上今井村一帯(上今井村)の鎮守として創建されたといわれています。昭和四十一年に上今井八雲神社を合併しています。本地仏として十一面観音が奉安されています。社殿は昭和四十九年(1974年)に再建されました。
香取神社
旧上今井村の総鎮守で、経津主命を祀り、別当は地元円照寺でした。永禄七年(1564年)の創建といわれています。本地仏として十一面観音が奉安されています。社殿は昭和四十九年(1974年)に再建されました。
■今井の富士塚
昭和五十八年(1983年)三月登録
江戸川区登録有形民俗文化財・民俗資料
境内北側に富士塚と富士講の記念碑が建っています。今井の富士塚は、旧上今井村の上今井割菱八行講によって、昭和五年に築造されました。高さ約2.5メートルで、頂上に石祠をまつり、登山道の途中に「浅間神社」と刻んだ碑があります。そのほか、「元祖食行身禄」の碑や烏帽子岩、力石などを配しています。また富士塚のふもとには寛延四年(1751年)建立の庚申塔(青面金剛)があります。
江戸の東の玄関口で、江戸川の物流拠点だった今井の渡し場の跡があります。大正元年まで、この場所に今井の渡し場が置かれました。豊臣秀吉の小田原征伐後、徳川家康は江戸に移り、東金に鷹狩に行く際はこの今井の渡し付近から行徳に入り、権現道を通ったと伝えられています。二代将軍秀忠や大多喜城主も今井の渡しを使ったと、葛飾誌略に記されています。また、この渡し場は室町時代後期の連歌師宗長の「東土産」にも登場することから、江戸時代以前からこの付近にあったと考えられています。江戸時代には、近在の者のみの利用が許されていました。この渡し場から富士山も見え、江戸に荷を運ぶたくさんの舟が川を行き来する風光明媚な渡し場だったそうです。明治になり、この風景に蒸気船も加わって、江戸川はたくさんの人と船で賑わっていました。今井の渡し旧跡は、鉄道や自動車の発達する以前、江戸の盛んな水運の歴史を今に伝えています。
今井の渡し跡
今井の渡しが、いつ頃できたか定かではありませんが、連歌師柴屋軒宗長が永正六年(1509年)に著した紀行文「東路のつと」に、「今井の津」という名前が記されています。そのことから、当時の今井にはすでに船着き場があったと思われます。江戸時代に入ると、徳川幕府は江戸を防衛する目的から付近の河川に橋をかけず、さらに渡船についても厳しい取り締まりを行いました。今井の渡しは一般の旅人は通行できず、農耕などのための川越えは許されましたが、それにも代官への届け出を必要としました。明治時代になると、渡船は自由となり、地元の人々や成田参詣の人たちにさかんに利用されるようになりました。明治四十五年、ここに下江戸川橋(のちに今井橋と改称)が架けられるまで続きました。
ゴール地点の瑞穂大橋東詰に着きました。橋名の下には稲穂のイラストが添えられています。人口密集地帯の橋に稲穂はちょっとそぐいませんね。橋の上流側には今井水門(今井橋は旧江戸川に架かる橋、新今井橋は新中川に架かる橋、今井水門は新中川河口に設けられています。ややこしいですね。)があります。現在は7門あるうちの4門が稼働中で、残り3門が改修工事のまっただ中です。
ということで、江戸川区で七番目のコースである「07.旧江戸川」を歩き終えました。次は江戸川区で八番目のコースである「08.篠田堀親水緑道」を歩きます。
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