13.旧江戸川
 

旧江戸川

旧江戸川は千葉県と東京都の境界を流れる一級河川で、かつては江戸川の本流でした。江戸川は、江戸川区篠崎町と千葉県市川市の間に架かる江戸川大橋の下流で二手に分かれ、旧江戸川と江戸川放水路(本流)に分派しています。旧江戸川は、江戸川区江戸川付近で新中川を合わせ、東京ディズニーランドの西側で東京湾へ注いでいます。全区間にわたり、東京都と千葉県の境界に位置しています。利根川は江戸時代初期まで埼玉平野で枝分かれして東京湾に注いでいて、江戸川下流はその支川のひとつで太日川と呼ばれていました。明治四十四年(1911年)の江戸川改修工事の計画で新たな水路の開削が決定され、大正八年(1919年)に江戸川放水路が開削されました。江戸川放水路を本流とし、元の川の名称を「旧江戸川」としたのは昭和四十年(1965年)のことです。

コース 踏破記  

今日は江戸川区の「13.旧江戸川」を歩きます。瑞穂大橋西詰をスタート地点として、河口に向かって旧江戸川沿いに舞浜大橋西詰まで歩きます。

スタート地点:瑞穂大橋西詰

ゴール地点:舞浜大橋西詰


スタート地点の瑞穂大橋西詰から歩き始めます。橋名の下には魚釣りをしている人の様子が描かれています。



瑞穂大橋は、旧江戸川と新中川が合流する地点に架けられていますが、新中川には今井水門が設置されています。本来は門扉は7門あるのですが、現在は4門が稼働中です。残りの3門は耐震補強工事のために建て直し中となっています。すでに巻上機室は取り外され、堰柱の補強工事に入っているようです。今井水門は昭和三十七年に造られましたが、耐震補強工事を施してより頑丈な水門にするということのようです。水門は地震でダメージを受けるとうまく閉まらなくなってしまい、水門本来の役目である水の堰き止めができなくなるのです。確かにそうなってしまっては高潮・津波は防げませんからね。この水門、実は東京都内で最大級なのだそうです。



今回のコースは、瑞穂大橋から旧江戸川の堤防上の遊歩道を歩いて舞浜大橋まで南下するように設定されています。ただ、案内板では直線で表示されていますが、新川との合流地点など多少迂回する場所もあります。



瑞穂大橋から10分ほど歩きますと、新川東水門があります。新川東水門は堂々とした偉容を誇っていますが、旧江戸川と中川の水位差を考えると、これくらいの施設は必要なのかもしれません。



新川は旧江戸川と中川を結ぶ人工河川です。旧江戸川に面して新川東水門、中川に面して新川西水門が設けられています。どちらが上流かというと、旧江戸川から水を取り入れて新川に流し、中川に排水しているということなので、新川東水門が上流側ということになります。新川は、江戸時代には船堀川や行徳川とも呼ばれていました。当初の目的は行徳塩田の塩を江戸に運ぶことでしたが、寛永九年(1632年)からは貨客船の「行徳船」が就航し、近郊の農村の野菜や成田参詣の客なども運ぶようになりました。その後、利根川を経由する航路が整備され、新川を経由して小名木川を通り、江戸に向かうルートは東北地方の年貢米などが運ばれる水運の大動脈になりました。

新川

新川は、天正十八年(1590年)に江戸城に入った徳川家康が千葉県の行徳までの塩の船路開削を命じ、道三堀・小名木川と同時に開削されました。以来、新川は江戸市中に様々な物資を運ぶ水路となり、特に行徳の塩を運ぶ「塩の道」として多くの人に利用されるとともに、沿川には味噌や醤油を売る店や料理店などが立ち並び賑わいを見せていました。現在では鉄道や車などの移動手段が変化したことや、水門で区切られたことで船の就航はなくなりましたが、都市空間の中の貴重な水辺として活用されています。また、平成六年から平成十九年まで護岸の耐震や環境整備を東京都が実施し、新川橋から東水門までを除く約2キロメートルを整備しました。その後江戸川区が都の未整備箇所の整備をするとともに、新川の両岸の遊歩道に桜を植樹し、江戸情緒あふれる街並みとして整備する「新川千本桜計画」を平成十九年4月からスタートさせました。平成二十三年度に計画の一部見直しを行い、平成二十六年度には、耐震護岸整備及び遊歩道整備が全川3キロメートルにわたり完了しました。春には20種・718本の桜が遊歩道を行き交う人々の目を楽しませています。

江戸時代 【開削・拡張と船運の開始】
天正十八年(1590年)、行徳の塩を江戸へ廻送するため舟運が始まりました。かつて船堀川とよばれていた新川は、当初現在の新川橋付近までで、そこから古川(現在の古川親水公園)を通って江戸川と繋がっていました。寛永六年(1629年)、幕府は船堀川の三角渡し(現在の三角橋)以東を掘り拡げ、三角から東の江戸川までは新たに陸地を一直線に開削しました。もとの川を古川、新しい川を新川と呼ぶようになったのです。寛永九年(1632年)には幕府直轄の客船「長渡船」が就航しました。

明治・大正時代 【蒸気船運航】
明治時代になると、利根運河が完成し、蒸気船が運航を開始しました。最初に登場したのは長距離路線で、東京〜銚子間を結び、成田参詣の客に人気となりました。総武鉄道の運行と共に短距離路線へと移り変わり、「通船」と呼ばれる小型の乗合蒸気船が運航を始め、浦安と江東区の高橋の間を往復していました。

昭和時代 【運河から憩いの水辺へ】
昭和に入ると荒川放水路が完成し、昭和三年(1928年)には葛西橋、昭和十五年(1940年)には浦安橋が架橋されました。時代は徐々に陸上交通に移っていき、東に大きく流れを変えた中川と荒川の合流部には船堀閘門が設けられました。新川は東西の両端を水門で閉鎖し、東水門から導水して西水門から排水することで水位を低下させ一定に保つようになりました。新川は船の就航は行われなくなり、昭和五十四年(1979年)に船堀閘門も閉鎖されましたが、都市空間の中の貴重な水辺として親しまれてきました。

平成時代 【新しい集いと憩いの川辺づくり「新川千本桜計画」】
平成四年(1992年)から東京都による護岸工事・耐震工事が始められ、新川の地下には日本初の河川地下駐車場である新川地下駐車場が造られました。歴史あふれる新川を地域の人々の心の故郷・誇りとしていつまでも慈しんでもらえるよう『新川千本桜計画』が開始され、新川の全長約3キロメートルの両岸に桜を植え、新しい桜の名所として潤いと賑わいのある街の創出のため江戸情緒あふれる川辺づくりや、南北地域の和が一層広がるよう人道橋並びに広場橋の架設など、歴史や文化を継承する空間の創出が図られています。




水門は立派ですが、その周辺は雑草が生茂っていて、新川の流れも細くてよく見えません。水門のすぐ手前には新川口橋が架かっています。橋の周辺の道路もボロボロです。



新川の成り立ちと新川千本桜を解説した案内板が立っています。

新川千本桜


新川

かって、江戸川から古川の流れを経て、三角で新川に入り、西へ至る流路がありました。天正十八年(1590年)の徳川家康江戸入城後、その命により、この流路を含め、行徳までの航路として、道三堀・小名木川と共に開削が計画され、実行されました。寛永六年(1629年)には、現在の新川橋辺りから東側が新たに開削され、今では全体が新川と呼ばれるようになりました。以来、新川は、江戸市中に様々な物資を運ぶ水路、行コの塩を運ぶ「塩の道」として多くの人に利用されてきました。また、沿川には味噌や醤油を売る店や料理店などが立ち並び賑わいを見せていました。新川は、江戸時代から明治・大正に至るまで、利根川・江戸川を経由して、東日本からの様々な物資を運び、客船が行きかう重要な水路として発展し、地域の人々の生活に深く関わっててきました。しかし、昭和に入り荒川放水路の完成や東西の水門の閉鎖等により、船の就航も行われなくなりました。さらに、高度経済成長期には、地下水の汲み上げによる地盤沈下により、新川との間に何回も嵩上げされた高い護岸が整備され、人々の生活から遠い存在となってしまいました。その後、平成五年より耐震護岸整備、親水河川化や新川千本桜整備が進められ、都市空間の中の貴重な水辺として生まれ変わり、親しまれています。

新川千本桜

平成十九年四月から、新川の両岸の遊歩道に桜を植樹し、江戸情緒あふれる街並みとして整備する「新川千本桜計画」が始まりました。新川の全長約三キ口メー卜ルの両岸に桜を植え、新しい桜の名所とし、潤いと賑わいのある街の創出のため江戸情緒あふれる川辺づくりや、南北地域の和が一層広がるよう人道橋並びに広場橋の架設など、歴史や文化を継承する空間を創出しました。




案内板には「塩の道」というタイトルで新川の全体像が描かれています。かっての古川との分岐点であった三角橋や、東京都が行なった耐震環境整備の東端である新川橋の位置関係がよく分りますね。また、江戸幕府によって開削された三角橋から新川東水門までの水路が真っ直ぐに延びているのも見て取れます。



この案内板は同じ内容で何ケ所か設置されているのですが、その場所を代表する写真や絵がそれぞれに挿入されています。この場所には歌川広重が描いた利根川(現在の旧江戸川)の様子が添えられています。誇張した投げ網の描き方がいかにも広重の浮世絵っぽいですね。

名所江戸百景 利根川ばらばら松 歌川広重

この利根川は、現在の江戸川(旧江戸川)です。場所は、新川東水門付近か妙見島あたりといわれています。帆舟や筏が通航し、松が風趣を添えていました。大きく投綱が描かれています。




水門の袂に案内板が立っています。新川にも曳舟と呼ばれる航法があったんですね。新川は人工の運河として開削されたので、水深が極めて浅く、通常の艪で漕ぐ方法では航行できませんでした。そこで、曳舟と呼ばれる方法が用いられました。1人が前方の川岸で縄を使って船を引き、もう1人が船の横の川岸に立って竿で船を押します。これにより浅い箇所もソリのように引くことが可能になったのです。

雷不動明王石造道標の跡

真蔵院(東葛西4−38−9)の本尊、木造不動明王立像は「波切不動」あるいは「雷不動」と呼ばれ、多くの参詣者を集めました。この地に「雷不動」を示す道しるべがありましたが、平成三年四月に倒壊したため修復して真蔵院の境内に移設しました。道標は雷不動を信仰する「御蔵前」講中によって文政元年(1818年)に建立(再建)されたものです。新川の曳船のとも網をかけた跡が残っています。




妙見島は旧江戸川の島(中州)です。南北の幅は約700メートル・東西の幅は約200メートルあり、江戸川区の一部で、すぐ東側は千葉県との境界になっています。東京23区内で唯一の自然島とされます。島の周囲は昭和五十四年(1979年)以降、すべて壁のようにコンクリート護岸で囲まれて軍艦のような外観になっています。護岸工事が行われるまでは「流れる島」として知られ、川の流れで北端が削られて南端に土砂が堆積して徐々に下流へと移動していました。明治初期の地図上では、島は現在の位置よりも約80メートル上流にありました。



現在は、産業廃棄物業者の工場やマリーナなどが十数軒建ち並び、社員寮などで暮らす数十人が生活しています。島へは浦安橋から渡ることができます。



妙見島の下流側に東西線の鉄橋が架かっています。鉄橋を渡った先は千葉県の浦安市になります。



生憎と、雷公園の辺りで遊歩道は工事のために通行止めになっています。仕方がないので、旧江戸川を離れて川沿いの道路を歩きます。



なぎさポニーランドがあります。なぎさポニーランドは、江戸川区葛西地区にある総合レクリェーション公園のなぎさ公園の中にあり、四季折々、花や緑と楽しめる公園として多くの人に親しまれています。小学生以下の子どもが無料で体験できるポニー乗馬は大好評で、休みの日には長蛇の列ができるほどです。園内にはパノラマシャトルも走っていて、なぎさ公園・富士公園・フラワーガーデン間の移動に利用できます。



再び堤防上の遊歩道に戻ります。ここは武蔵野の路の「葛西コース」でも通りましたね。



旧江戸川の河口に、赤茶色に錆付いたような色合いの長大な橋が架かっています。舞浜大橋は、旧江戸川の最下流に架かる首都高速湾岸線と東京湾岸道路(国道357号線)の橋で、江戸川区と千葉県浦安市を結んでいます。中央に昭和五十三年(1978年)に開通した首都高速湾岸線、その上流側に昭和五十九年(1984年)に開通した湾岸道路東行き(千葉方面)、下流側に平成二年(1990年)に開通した湾岸道路西行き(東京方面)の橋が並行して走っています。湾岸道路の橋には歩道も併設されています。西行きの橋は旧江戸川の道路橋としては最も河口側に位置し、さらにその海側にはJR京葉線のトラス橋が架かっています。舞浜は浦安市の地名で、大型レジャー施設の東京ディズニーリゾートがあります。その影響により、しばしば渋滞したことから、オリエンタルランド社の負担によって、ディズニーリゾート地区から首都高速湾岸線東京方面に直結する舞浜入口が平成十三年(2001年)に新設されました。



江戸川区側の舞浜大橋からは対岸のディズニーランドの施設がよく見えます。あのドーム屋根はスペースマウンテン?ホテルの外観はニースにあるネグレスコみたいですね。



ゴール地点の舞浜大橋西詰に着きました。



ということで、江戸川区で十三番目のコースである「13.旧江戸川」を歩き終えました。次は江戸川区で十四番目のコースである「14.葛西親水四季の道」を歩きます。




戻る