- 16.古川親水公園
古川親水公園
かって、江戸川の旧河道である古川は行徳の塩を江戸に運ぶ水路として活用されてきました。しかし、昭和三十年代後半になると工場や生活排水が流れ込んでドブ川と化し、苦情が絶えませんでした。当初は川を埋め立てて土地を利用する計画でしたが、川を残してほしいとの住民の強い要望があり、江戸川区は河川を再生する計画へ転換し、昭和四十八年に全長1、200メートルの国内初の親水公園である古川親水公園が誕生しました。都会の中では回復不可能と思われていた清流が蘇り、昭和四十九年5月には、全日本建設技術協会から建設界の最高栄誉である「全建賞」を受賞しました。また、昭和五十七年5月には、ナイロビで開催された「国連人間環境会議」で紹介されるなど、国内はもとより世界各国で大きな反響を呼びました。子どもたちの水遊びやお花見・散歩など、四季を通じて楽しまれています。
コース 踏破記
今日は江戸川区の「16.古川親水公園」を歩きます。江戸川六丁目2番地から古川親水公園の遊歩道を進み、古川橋まで歩きます。
スタート地点:江戸川六丁目2番地
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ゴール地点:古川橋
旧江戸川は瑞穂大橋の先で新中川を合わせて東京湾に注ぎ込んでいますが、この区間には3本の水路がありました。現在、それらの水路跡は整備され、古川親水公園・新川・左近川親水緑道となっています。ちなみに、江戸時代に行徳塩田から江戸へ塩を運ぶために掘られた船堀川は、後に水運ルートが南側へと変更となった際、新しい運河を新川とし、旧船堀川を古川と呼ぶようになりました。古川親水公園は、瑞穂大橋から都道450号新荒川葛西堤防線を南方向に進み、最初の信号を右折して住宅地の中を進んだ、軽費老人ホーム優貴苑前の江戸川六丁目2番地付近から始まっています。
新緑が美しい遊歩道が延びています。ベンチを備えた休息所もあって、お散歩の途中でも一休みできます。
遊歩道の脇にはせせらぎが流れています。旧江戸川から取水した水なのでしょう。
植え込みの中に、高さ67センチメートル・胴回り152センチメートルの丸い石標が置かれています。読み取りにくいですが、正面に「是ヨリ左り行徳道」・左面に「田中孫右衛門」と書かれています。元々は、現在地より西へ約30メートル離れた突留橋の左袂に置かれていたそうです。
古川親水公園の案内図が立っています。古川親水公園の水路の水源は旧江戸川で、取水管を通して引き入れられています。
案内図の隣には、古川の歴史を記した案内板も建っています。
古川の歴史
古川はその昔、船堀川と呼ばれていました。天正十八年(1590年)家康の江戸入府により、行徳の塩などを江戸に運ぶ重要な水路として利用されました。その後、寛永六年(1629年)、現在の三角付近から東へ新たな水路が掘られ、水運の役目はそちらに移りました。この新たな水路と三角付近から西の船堀川を合わせて新川と呼ぶようになり、北関東や東北地方からの物資を運ぶ大動脈として江戸を支えました。これにより、三角付近から東の船堀川は古川と呼ばれるようになりました。時は明治となり、新川には蒸気船が就航するなど大いに賑わいました。一方、古川は地元の産物などを運ぶ身近な川として地域の生活を支えました。しかし、鉄道の発達による水運の衰退、戦後の経済成長にともなう都市化の波により、雑排水による汚濁の漂う水路と化しました。このような状況のもと、地域の人々と江戸川区は「古川の清流を再び取り戻そう」と決意し、昭和四十九年(1974年)3月全国初の親水公園として古川を甦らせました。そして同年6月には地域の人々により「古川を愛する会」が結成され、古川は新たな歴史を歩むこととなりました。吉川親水公園は「親水」という新しい概念に基づき川を再生させた全国初の先進的な事業として、国内はもとより海外からも高い評価を得ることとなり、歴史にその名を刻んでいます。
古川親水公園が美しいのは、沿線の景観に配慮が加えられているからです。
古川親水公園沿線地区 景観まちづくり
●古川親水公園は、昭和四十九年3月に完成した日本初の親水公園です。
●当時、古川は下水道の整備と共に埋め立てられる予定でしたが、川を残してほしいという地域の声により、水の流れる公園として再生されました。
●親水公園の豊かなみどりや水辺は、古川沿線にある保護樹や屋敷林、寺社と調和し、歴史や文化を感じる落ち着いたまち並みを形成しています。
●そこで江戸川区では、今後も水とみどりが調和した落ち着きのある環境を維持するとともに、より一層大切にされる古川親水公園を目指し、古川親水公園沿線を景観地区に定めました。
●景観地区内では、建築物の建て方(色彩や高さ、壁面の位置など)のルールとともに、建築物の用途や屋外広告物設置の制限などを定めました。
●地域の方が一体となり、古川親水公園の環境を守るだけではなく、一人ひとりが工夫し取り組む暮らし方・住まい方のルールを守ることで、古川親水公園をより魅力ある、後世まで残したい景観として育てていきましょう。
江戸川区立二之江コミュニティ会館は、古川親水公園に接しているコミュニティセンターです。周辺の景色がよく見えるように壁面がガラス張りになった建物で、館内には、バドミントン・卓球・エアロビクス・体操などができるスポーツルーム、会議や文化系サークル活動に利用できる集会室、軽運動に利用できる集会室などがあります。和室も備えられていて、茶道や華道や着付けなどに利用することができます。スポーツルームは土・日に一般開放されていて、卓球とバドミントンをすることができます。
二之江コミュニティ会館と古川親水公園を挟んだ向かい側に妙勝寺があります。妙勝寺は、徳治二年(1307年)に成就院日尚により開山されました。寺院を生かした地域活性事業を行う一般社団法人「寺子屋ブッダ」が運営する「まちのお寺の学校」に登録していて、寺内でヨガ教室を行っています。「まちのお寺の学校」は、寺というスペースと様々な分野の講師をマッチングするプロジェクトで、各地の寺院に講師を派遣し様々な講座を開いています。また、妙勝寺は「仕事旅行」サイトにも登録し、僧侶の1日の職業を体験する催しも開いています。先進的なお寺ですね。
妙勝寺
日蓮宗で本覚山成就院と号し、中山法華経寺の中本寺として十四か寺の末寺を抱えていました。土地の人から「じょうじん」(成就院)とか「黒門寺」と呼ばれ親しまれています。寺伝によると、弘安七年(1284年)堀江の浦(葛西沖)に漂着した難破船に残っていた少年を、二之江村の漁師が救い上げました。少年は平家の末裔で、中山法華経寺の二世日高上人の弟子となり、のちに成就院日尚と号して古川べりの妙見社のかたわらに小堂を建てました。これが本寺の始まりで、徳治二年(1307年)三月のことといわれます。
■紙本墨書大曼荼羅(区登録有形文化財)
天保十四年(1843年)三十二世日信の代に、小島(現・西葛西)に住む控丼権右衛門が寺に寄進したと記録されています。日信はその鑑定を法華経寺百一世日道(〜1850年)に依頼し、二幅とも日高、日祐上人の真筆であると認めた証文が残っています。
古川親水公園は、コースの中程に位置する二之江小学校の先で環七と交差しています。勿論、水路は環七の地下を通っています。
遊歩道も途切れますので、歩道橋を渡ります。
再び水路にせせらぎが現れます。水路の流れを維持するために、所々でポンプで水を吸い上げて高低差を設けています。
懐かしの「歴史と文化の散歩道」の案内板が建っています。20年位前に通りましたが、案内板は今も綺麗な形で残っています。地元の方々が大切に見守っているのでしょう。
古川せせらぎ散歩
古川せせらぎ散歩は、西葛西四丁目から新中川に架かる瑞穂大橋までの約4.1kmのみちのりです。かつて水上輸送路であった葛西親水四季の道、旧江戸川の河道であった古川親水公園など、せせらぎ沿いの水と緑を楽しむ散歩道です。
古川と新川
古川は、江戸川から中川へと通じる昔の流路です。天正十八年(1590年)家康の江戸入府後、行徳の塩を江戸へと運ぶ重要な水路でしたが、寛永六年(1629年)、現在の三角付近から東へ新たな水路が掘られ、通運の役目はそちらに移りました。これが今の新川で、北関東や東北からの物資を運ぶルートとして、明治時代には蒸気船が就航するなど、内陸水運網の大動脈として賑わいました。その後時代の変遷と共に、古川は生活排水などで汚染され、川としての命を失いかけていました。この古川を水と緑に親しめる公園として残すべく、昭和四十九年(1974年)に完成したのが、全長1.2kmの古川親水公園です。
FURUKAWA-SESERAGI WALK
Furukawa, Canal & Shinkawa Canal
The Furukawa Canal flows from the, Edogawa River into the Nakagawa River and was an important waterway for carrying salt to the city of Edo. In 1629 the Shinkawa Canal was opened, taking over this role for larger transport vessels.
遊歩道の上に休息所が設けられています。珍しいですね。
ゴール地点の古川橋に着きました。水路は古川橋の手前で行き止まりになっています。ここから先は地下水路を伝って新川に流れ出しているのでしょう。
古川橋から新川の間には広場があります。小さな水路はありますが、これは人工的な飾りのようなものなのでしょう。
古川親水公園の末端が古川橋なのか、新川橋なのかは明確ではありません。古川親水公園は古川橋で終端となり、古川の流れは新川に注ぎ込む新川橋までというのが妥当なところだと思います。新川は旧江戸川と中川を結ぶ人工河川です。旧江戸川に面して新川東水門、中川に面して新川西水門が設けられています。どちらが上流かというと、旧江戸川から水を取り入れて新川に流し、中川に排水しているということなので、新川東水門が上流側ということになります。新川は、江戸時代には船堀川や行徳川とも呼ばれていました。当初の目的は行徳塩田の塩を江戸に運ぶことでしたが、寛永九年(1632年)からは貨客船の「行徳船」が就航し、近郊の農村の野菜や成田参詣の客なども運ぶようになりました。その後、利根川を経由する航路が整備され、新川を経由して小名木川を通り、江戸に向かうルートは東北地方の年貢米などが運ばれる水運の大動脈になりました。
新川
新川は、天正十八年(1590年)に江戸城に入った徳川家康が千葉県の行徳までの塩の船路開削を命じ、道三堀・小名木川と同時に開削されました。以来、新川は江戸市中に様々な物資を運ぶ水路となり、特に行徳の塩を運ぶ「塩の道」として多くの人に利用されるとともに、沿川には味噌や醤油を売る店や料理店などが立ち並び賑わいを見せていました。現在では鉄道や車などの移動手段が変化したことや、水門で区切られたことで船の就航はなくなりましたが、都市空間の中の貴重な水辺として活用されています。また、平成六年から平成十九年まで護岸の耐震や環境整備を東京都が実施し、新川橋から東水門までを除く約2キロメートルを整備しました。その後江戸川区が都の未整備箇所の整備をするとともに、新川の両岸の遊歩道に桜を植樹し、江戸情緒あふれる街並みとして整備する「新川千本桜計画」を平成十九年4月からスタートさせました。平成二十三年度に計画の一部見直しを行い、平成二十六年度には、耐震護岸整備及び遊歩道整備が全川3キロメートルにわたり完了しました。春には20種・718本の桜が遊歩道を行き交う人々の目を楽しませています。
江戸時代 【開削・拡張と船運の開始】
天正十八年(1590年)、行徳の塩を江戸へ廻送するため舟運が始まりました。かつて船堀川とよばれていた新川は、当初現在の新川橋付近までで、そこから古川(現在の古川親水公園)を通って江戸川と繋がっていました。寛永六年(1629年)、幕府は船堀川の三角渡し(現在の三角橋)以東を掘り拡げ、三角から東の江戸川までは新たに陸地を一直線に開削しました。もとの川を古川、新しい川を新川と呼ぶようになったのです。寛永九年(1632年)には幕府直轄の客船「長渡船」が就航しました。
明治・大正時代 【蒸気船運航】
明治時代になると、利根運河が完成し、蒸気船が運航を開始しました。最初に登場したのは長距離路線で、東京〜銚子間を結び、成田参詣の客に人気となりました。総武鉄道の運行と共に短距離路線へと移り変わり、「通船」と呼ばれる小型の乗合蒸気船が運航を始め、浦安と江東区の高橋の間を往復していました。
昭和時代 【運河から憩いの水辺へ】
昭和に入ると荒川放水路が完成し、昭和三年(1928年)には葛西橋、昭和十五年(1940年)には浦安橋が架橋されました。時代は徐々に陸上交通に移っていき、東に大きく流れを変えた中川と荒川の合流部には船堀閘門が設けられました。新川は東西の両端を水門で閉鎖し、東水門から導水して西水門から排水することで水位を低下させ一定に保つようになりました。新川は船の就航は行われなくなり、昭和五十四年(1979年)に船堀閘門も閉鎖されましたが、都市空間の中の貴重な水辺として親しまれてきました。
平成時代 【新しい集いと憩いの川辺づくり「新川千本桜計画」】
平成四年(1992年)から東京都による護岸工事・耐震工事が始められ、新川の地下には日本初の河川地下駐車場である新川地下駐車場が造られました。歴史あふれる新川を地域の人々の心の故郷・誇りとしていつまでも慈しんでもらえるよう『新川千本桜計画』が開始され、新川の全長約3キロメートルの両岸に桜を植え、新しい桜の名所として潤いと賑わいのある街の創出のため江戸情緒あふれる川辺づくりや、南北地域の和が一層広がるよう人道橋並びに広場橋の架設など、歴史や文化を継承する空間の創出が図られています。
新川の成り立ちと新川千本桜を解説した案内板が立っています。
新川千本桜
新川
かって、江戸川から古川の流れを経て、三角で新川に入り、西へ至る流路がありました。天正十八年(1590年)の徳川家康江戸入城後、その命により、この流路を含め、行徳までの航路として、道三堀・小名木川と共に開削が計画され、実行されました。寛永六年(1629年)には、現在の新川橋辺りから東側が新たに開削され、今では全体が新川と呼ばれるようになりました。以来、新川は、江戸市中に様々な物資を運ぶ水路、行コの塩を運ぶ「塩の道」として多くの人に利用されてきました。また、沿川には味噌や醤油を売る店や料理店などが立ち並び賑わいを見せていました。新川は、江戸時代から明治・大正に至るまで、利根川・江戸川を経由して、東日本からの様々な物資を運び、客船が行きかう重要な水路として発展し、地域の人々の生活に深く関わっててきました。しかし、昭和に入り荒川放水路の完成や東西の水門の閉鎖等により、船の就航も行われなくなりました。さらに、高度経済成長期には、地下水の汲み上げによる地盤沈下により、新川との間に何回も嵩上げされた高い護岸が整備され、人々の生活から遠い存在となってしまいました。その後、平成五年より耐震護岸整備、親水河川化や新川千本桜整備が進められ、都市空間の中の貴重な水辺として生まれ変わり、親しまれています。
新川千本桜
平成十九年四月から、新川の両岸の遊歩道に桜を植樹し、江戸情緒あふれる街並みとして整備する「新川千本桜計画」が始まりました。新川の全長約三キ口メー卜ルの両岸に桜を植え、新しい桜の名所とし、潤いと賑わいのある街の創出のため江戸情緒あふれる川辺づくりや、南北地域の和が一層広がるよう人道橋並びに広場橋の架設など、歴史や文化を継承する空間を創出しました。
ということで、江戸川区で十六番目のコースである「16.古川親水公園」を歩き終えました。次は江戸川区で十七番目のコースである「17.江戸川」を歩きます。
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