A−北西エリア 04.竹の塚名所巡りコース  



コース 踏破記  

今日は足立区の「A−北西エリア 04.竹の塚名所巡りコース」を歩きます。最初に歩いたのは2022年6月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年11月に改めて歩きました。

スタート地点:東武スカイツリーライン竹ノ塚駅東口

 1.竹の塚第七公園

 2.炎天寺

 3.栗六公園

 4.大境公園

 5.赤山街道

 6.はんの木公園

 7.保木間堀親水水路

 8.伊興遺跡公園

 9.寺町

10.白旗塚史蹟公園

11.竹北公園

12.竹の塚第七公園

ゴール地点:東武スカイツリーライン竹ノ塚駅東口


スタート地点の東武スカイツリーライン竹ノ塚駅東口から歩き始めます。



ポイント1.竹の塚第七公園

竹の塚エリアには、第一公園から第九公園まで、家族連れや子供たちが楽しめる魅力的な公園が点在しています。それぞれの公園には、ユニークな遊具やリラックスできるスペースがあり、憩いの場となっています。竹の塚第七公園は、竹ノ塚駅東口から駅前広場の南側に沿って進み、竹の塚けやき大通りの最初の信号を右折し、商店の続く通りで左折すると、突き当たりに公園が見えてきます。公園内には、雲梯(うんてい)や鉄棒が複合されたカラフルな遊具・恐竜のスプリング遊具や小さい子供向けのブランコ・フェンスで囲われた砂場などが設置されていて、幅広い年齢の子供たちが楽しめる公園です。

(注)雲梯:金属パイプ製のはしごを横方向にほぼ水平に設置し、ぶら下がりながら手を伸ばして移動する遊具のこと。



ポイント2.炎天寺

炎天寺とは何とも変わった寺名ですが、そこには此の地の歴史が関係しています。炎天寺は、今から千余年前の天喜年間(1053年〜1058年)に開山した真言宗豊山派の寺院で、幡勝山成就院炎天寺と号します。平安中期の武人である源頼義と八幡太郎こと源義家父子の軍勢が前九年の役出征のためにこの地を通った際、奥州の安倍一族に遭遇して苦戦しましたが、八幡神に戦勝を祈願したところ、見事勝利を得ることができました。その後、義家らは戦勝を祝して当地に八幡神社と寺院を建立しましたが、それが旧暦六月の炎暑の最中であったことから、村名を六月村、源氏の旗(幡)が勝ったことから山号を「幡勝山」、祈願が成就したことから院号を「成就院」、炎天続きだったことから寺名を「炎天寺」と命名したといわれています。本尊は阿弥陀如来坐像で、両脇に観音菩薩・勢至菩薩を配しています。他に、薬師如来像と不動明王像が安置されています。

炎天寺

天喜年間(1053年〜1058年)源頼義・義家父子が奥州の安倍一族征討のおり、当寺付近で苦戦したところ、京都の石清水八幡宮の方を向いて祈願すると勝利を収めたので、八幡社ならびに本寺を建立したという。その縁起は八幡社の応神祠碑(亀田鵬斎・その子綾瀬撰書)に詳述されている。堂内には、本尊阿弥陀如来のほか、薬師如来・不動明王像が祀られ、境内には庚申供養塔・阿弥陀如来・馬頭観音・五輪塔・六地蔵・おこり神など当時の人々の哀歓をたぐる各種石造物が数多くみられる。また江戸後期の俳人小林一茶が「蝉鳴くや 六月村の 炎天寺」「むら雨や 六月村の 炎天寺」「やせ蛙 負けるな一茶 是にあり」などを当地でよんだといわれており、池のほとりに一茶関係の記念碑がある。この由縁から、例年十一月二十三日、本寺で「一茶まつり」を催し、当日は一茶忌法要・奉納蛙相撲などが行われている。




源頼義は、八幡神を祀るために炎天寺の北側に接して六月八幡神社を創建しました。八幡神社は六月村の鎮守で、江戸時代には炎天寺が別当を勤めていました。そういう経緯もあって、炎天寺と八幡神社の入口は別々ですが、境内は一体化しています。八幡神社の境内には、「旗掛の松」があります。

「旗掛の松」の由来

天喜四年(1056年)鎮守府将軍源頼義その子八幡太郎義家と共に勅を奉じ、奥州阿部一族征討の途次この地に於て賊と戦う。時に陰暦六月(今の八月)にして炎熱灼くが如く官軍苦戦す、義家遥かに西望して神助を祷り旗幟を建て、士気を鼓舞し、軍を整えて勇戦遂に之を潰滅す、依て旗を建てたところに壇を設け、応神天皇を祀り、凱歌を唱えと云う。奥羽平定の帰途この地に社祠を建立す、これ即ち六月八幡神社にしてその傍に寺を置き、別当とし、土地の名を六月村、寺を幡勝山炎天寺とした。古云い伝うるところ、この地周囲を望む小高い丘にして義家軍源氏の白幡(旗)を建て掛けたる松の大木ありと云う。「旗掛の松」と伝承され、歴史は移り変われども村人達によりその松の木は植え継がれて今日に及んでいる。




竹ノ塚駅から竹の塚第七公園に行く途中に、「小林一茶と炎天寺」というタイトルの案内板が立っています。

小林一茶と炎天寺

炎天寺には江戸時代後期の俳人、小林一茶の“やせ蛙”を応援する心温まる話があります。小林一茶は、長野県に生まれ、不遇な中で育ちました。そのためか、一茶の句には弱い者をいたわるものが数多くあります。彼は、俳諧の道で名をなそうと江戸へ出て来ましたが、なかなか思うようにならず江戸と郷里の間を数度に渡って往復していました。千住関屋の建部巣兆、竹塚村の竹塚東子という文人達とも深い交わりを結んでいて足立にも何度か足を運んだようです。当時の竹塚村は、水田地帯で初夏の田植えの時季になるとあちこちでカワズが鳴き合い“蛙合戦”で江戸中に知れわたっていました。竹塚村を訪れるたびにこうした光景に接した一茶は、やがてこの蛙合戦の模様を見て、

   やせがえる 負けるな一茶 是にあり

という一句を詠んでいます。この句には、「武州竹塚というに蛙戦いありける見にまかる」という前書きが記されています。その他にも

   輝鳴くや 六月村の 炎天寺
   むら雨や 六月村の 炎天寺

の句があります。昭和三十七年に炎天寺境内に2メートルほどの“一茶句碑”が建てられ、以来11月23日に地元の有志によって“一茶まつり”を行っています。その日には、付近の小中学生も多数参加して一茶に負けない名句を作っています。




小林一茶ゆかりの炎天寺は俳句寺という愛称で呼ばれています。小林一茶の銅像が建っています(座っていますが)。

炎天寺と一茶まつり

   蝉なくや 六月村の 炎天寺
   やせ蛙 まけるな一茶 是にあり

江戸時代後期の俳人小林一茶が詠んだ炎天寺や竹の塚にちなむ句が縁で、昭和三十七年、三十八年にそれぞれの句碑が炎天寺境内に建立されて「一茶まつり」が始められた。「一茶まつり」は、炎天寺の檀徒をはじめ地域の人びどの支援や俳人の協力、熱意があって実行委員会が組織され、十一月十九日に没した一茶の命日に近い毎年十一 月二十三日、勤労感謝の日に開催されている。一茶に対する文学的評価や個人評伝は多様であるが、農民詩人、生活詩人、童謡詩人としての作品は平易で一般の共感を得ている。特に、童謡詩人としての作品が少年期の情操教育に適するところから、学童の俳句運動に発展し、一茶まつりに併行して全国小中学生俳句大会が行われ、国内及び海外から毎年二十万句に及ぶ作品が投されるまでになった。全国小中学生俳句大会は、令和三年(2021年)を最後にその役目を終えたが、投句された中から入選した数多くの作品は、わが国の文学史上、少年少女の名句として長く後世に伝えられるであろう。




境内には、約60年続き、令和三年に幕を閉じた全国小中学生俳句大会の特選句から抽出された俳句が掲示されています。

特選タイムマシーン

一茶と炎天寺

   やせ蛙 負けるな一茶 是にあり

この句は「むさしの國竹の塚といふに蛙たゝかひありけるに見にまかる四月廿日也けり」と前書のある湯本希杖版のものと、「むさしの國竹の塚」が抜けているものがあります。一茶は存命中に出版した本は少なく、この句がある「しだら」は、一茶没後、弟子たちが手分けして写したものの中にあるといいます。湯本希杖は一茶が故郷に帰ってからの庇護者であり、有力な弟子で最も交流のあった存在であることを考えると「むさしの國竹の塚」と前書があるものが原句に近いと考えることが出来ます。さらには、一茶の俳諧仲間の竹塚東子が炎天寺近くの増田橋に住んでいて、二人でよくこの界隈を発句づくりに歩いていたと想像することもできます。一茶の句には炎天寺の名を詠んだ「蝉鳴くや 六月村の 炎天寺」という句と「村雨や 六月村の 炎天寺」という句が残っています。

炎天寺と一茶まつり

昭和三十年代中頃、日大の建築学部の学生野澤氏が「やせ蛙 負けるな一茶 是にあり」の句に出会います。その句には湯本希杖による前書が記されていました。野澤氏は寺の隣町の西新井に住んでいたこともあり、湯本希杖版の「むさしの國竹の塚」が非常に気になり調査に乗り出します。古本屋をめぐり見つけた一茶の句集に「蝉鳴くや 六月村の 炎天寺」「村雨や 六月村の 炎天寺」という句を探し出し、当時の炎天寺の住職だった堅清和尚を尋ねます。「一茶の詠んだ句の炎天寺とはこの寺のことですか」。炎天寺は極めて小さな寺で、堅清和尚がここに居を構えるまで近隣のご住職方が事あるごとに支えてくれるような無住の寺でした。そんな寺に古くからの記録も残っているはずもなく、戦後に引っ越してきた堅清和尚も一茶に対する知見はありませんでした。野澤氏は当時一茶研究の第一人者だった荻原井泉水教授に手紙を出し質問します。「やせ蛙・・・の句が詠まれた場所は足立区の竹の塚ではないでしょうか」。一学生の質問に大教授は返事をしませんでした。一方で堅清和尚は「蝉鳴くや 六月村の 炎天寺」の句碑を建立しようと決意するのです。半年後、読売新聞の江東版に「炎天寺に一茶の句碑、学生の考証でゆかりの地とわかる」と4段抜きの記事が出るのです。その記事には「学生が痩せ蛙の句が詠まれた場所を探しているうちに炎天寺を詠んだ一茶の句を見つけた」という内容になっており、荻原井泉水教授は「炎天寺は竹の塚との町境。当時、無住だった炎天寺に立ち寄ったことは十分考えられる」。とコメントを出したのです。そこで堅清和尚は「蝉鳴くや 六月村の 炎天寺」の句碑を大勢の方の協力を得て建立。読売新聞江東支社を後援につけ、石田波郷氏を選者に招き、俳句会を境内で開きます。これが一茶まつりの始まりです。翌年、やせ蛙の句碑も建立。前年同様、石田波郷氏を迎えて句会をと考えていたところ、氏の体調は極めて悪く、代わりに楠本憲吉氏を紹介されます。そこに「うちのクラスの子どもたちの俳句を見て」と小学校の先生より要望があったのですが、憲吉氏は「大勢の子どもの俳句なら審査はできるが・・・」と注文をつけます。そこで当時、副住職だった孟彦和尚が住職とともにあちこちの小中学校に作品提供を頼み、300句を集め、小中学生俳句大会が始まるのです。ちなみに大人の俳句大会は昭和五十七年より名前を「青葉まつり記念俳句大会」と変え、開催日を六月に移し今に続いています。また、一茶まつり全国小中学生俳句大会は一茶まつり60回を期に終了しました。堅清和尚が19年、孟彦和尚が21年、現住職秀彦(和尚)が20年、子ども俳句に携わり、この情報過多の時代の中、寺の体力的にもやり切ったと判断しました。現在、一茶まつりは初期の頃より続いている奉納蛙相撲、一茶忌法要と俳句穴埋め想像力クイズ、誰でも一句俳句大会表彰式を中心に開催しています。




境内には蛙の置物が多いことから、蛙のお寺ともいわれています。



蛙七福神もあります。究極の1ケ所七福神ですね。



「やせ蛙 まけるな一茶 是にあり」の句碑が建っています。蛙相撲を模した小さな像も小池の中に再現されています。



ポイント3.栗六公園

東武スカイツリーラインの線路沿いに位置する栗六公園は、全身を使った遊びや運動がしやすい足立区の公園で、園内には幅の広いコンクリート製のすべり台をはじめ、ブランコ・鉄棒・シーソー・砂場・スプリング遊具など、いろいろな設備が揃っています。ブランコは、お尻をカバーしてくれる幼児向けのものもあります。カバやカメ・ワニのオブジェもあり、こちらは幼児が乗ったりして遊べます。また、大人用の健康器具やジョギングコースもあり、老若男女問わず運動しやすい公園です。



すべり台の上部は一段高くなっていて、広場になっています。敷地内には少年野球専用のグラウンドを備えていて、ベンチや水道・トイレも完備されています。



2層になった園内にはそれぞれにパーゴラが設けられ、夏期には日差しを避けながら一休みすることができます。



公園の敷地は、区画整理事業によって生み出されました。その記念碑が園内に建っています。

栗六公園

この公園は栗原六月町土地区画整理事業「組合員の減歩の一部を公園敷地に提供」により、整地造成し、足立区が児童公園として整備したものである。周辺は地味の豊な農耕地であり、栗原町・六月町に接する処に位置するので、両地域の発展の為に栗六公園と命名す。




ポイント4.大境公園

東武スカイツリーラインは、栗六公園の西側が車両基地になっています。かっては、線路は道路と平面交差していましたが、立体交差になったことで線路の東側から西側に抜けるのに長い距離を回り道をしなくてはならなくなりました。逆に、竹ノ塚駅駅近くまで進み、高架の下を潜って反対側に出れることで安全にはなりましたが。大境公園は面積が6、446平方メートルの足立区立の公園です。小路を挟んで南北に分かれていて、南側には広場があります。



公園の入口に時計台が設置されていて、台石に公園の由来を記したプレートが貼られています。

大境公園誌

この地はかつて大境耕地と呼ばれた沃野で白鷺が舞い遊ぶのどかな田園地帯であった。昭和二十八年、戦後の住宅難解消の一環として木造都営住宅が建設された。その後老朽化に伴い、昭和五十二年高層不燃化住宅に建替えることとなつた。この建替えにあたり、地元伊興町自治会は未来への街造りの観点から避難広場をかねた公園の設置を足立区に請願し採択された。以来、六年余にわたり都・区・自治会三者の協議が重ねられ、幾多の難関障害を克服し、新しい理念のもとに行政と地域住民の融和を図るため、この公園を造ることとなった。昭和五十八年度に東京都がこの公園の造成を終え、「大境公園」と名づけて足立区に移管するに際し、由来を園誌に刻し、永く後世に伝えるものである。




北側の敷地は足立区立第十四中学校の校庭に面しています。略称は「十四中」で、東京23区内の公立中学校で生徒数が多い学校のひとつになっています。



北側の公園の敷地内には、足立区野外彫刻コンクールの入賞作品が展示されています。遠藤幹彦氏の「遼」、小林一雄氏の「絆」などを公園の木々の緑に包まれる中で鑑賞することができます。遠藤幹彦氏の「遼」です。


タイトル:遼
制作年: 平成二年
作者:  遠藤幹彦
メモ:  第1回足立区野外彫刻コンクール 1989年 入賞作品




小林一雄氏の「絆」です。


タイトル:絆
制作年: 平成二年
作者:  小林一雄
メモ:  第1回足立区野外彫刻コンクール 1989年 入賞作品




宮澤清日子氏の「いつくしみ」です。


テーマ:    すこやか
作品名:    いつくしみ
制作年:    平成五年
作者:     宮澤清日子
メモ:     第4回足立区野外彫刻コンクール 1993年 入賞作品
作者のことば: ・すこやかに育つことを願う愛
        ・母と子の絆




また園内には数多くのサクラが植栽されていて、例年3月下旬から4月上旬には季節の彩りをそえます。



ポイント5.赤山街道

赤山街道は、江戸時代に関東郡代として関東地方の開発にあたった伊奈氏が土木工事を推進する中で、拠点とした赤山陣屋(現在の川口市赤山)と現地との連絡や物資の輸送を目的として設けた道をいいます。道筋として、大宮道・越谷道・千住道の3つがあります。その中のひとつが「千住道」で、赤山陣屋から足立区へ向かい、葛飾区小菅の小菅御殿までの道筋です。竹の塚地域では、竹ノ塚駅の高架下を北西から南東に真っ直ぐに延びています。



ポイント6.はんの木公園

はんの木公園は足立区立古千谷小学校の南東に近接する区立の公園で、面積は1、239平方メートルあります。敷地内にはブランコや乗物遊具などが点在していて、どの遊具もカラフルな色彩に塗り分けられています。また広場の周囲には、ビワ・クワ・ツワブキ・ドクダミなどの様々な木々が植えられていて、運がよければ季節の味覚に出会うこともできます。自由に食べていいかどうかは知りませんが。



ちなみに、公園名が「はんの木:榛」になっているので、どこかに植わっているのかと思いましたが、特に表示もなく分かりませんでした。花言葉は、「忍耐」・「剛勇」で、樹皮や球果からタンニンや染料が採られます。

ハンノキ Alnus japonica Steud.

カバノキ科 ハンノキ属
分布=日本〜中国東北部〜
湿地に生える
田の畦の稲架に利用



このはんの木は、公園の外に植わっていたものです。


はんの木橋交差点の脇から小路が延びています。ここには、かって本木堀(もときぼり)と呼ばれた水路があったようです。かつてこの辺りは淵江郷と呼ばれた湿地帯で、室町時代に下総一帯に勢力を誇った千葉氏の内部抗争に敗れて逃げ落ちた千葉自胤がこの地に淵江城を築き、川から水を牽いて堀を巡らせたのが本木堀の元になったといわれています。



はんの木橋交差点はいろんな水路が交わっていたようで、かっての用水路の標識が建っています。足立区にあった水路網は、現在はすべて暗渠になったり埋め立てられたりして道路と一体化し、消滅しています。寛永六年(1629年)、代官伊奈忠治の主導で芝川水系の見沼(現在のさいたま市)に八丁堤を築き、見沼溜井が造成され、見沼用水東縁・見沼用水西縁が成立しました。綾瀬川以西の足立区域は見沼用水東縁の流末に位置していました。見沼代用水は、それまで水源としていた見沼溜井の干拓・新田開発にともない、享保十二年(1727年)に開削されました。元圦は利根川右岸下中条村(現在の埼玉県行田市)に設置されました。見沼代用水は足立区に入ると、舎人の砂子路橋で神領堀が分かれ、さらに伊興のはんの木橋付近で西新井堀・本木堀・梅田井堀・千住堀・竹塚堀・保木間堀といった幹線水路から更に網の目のように水路が分かれ、水田を潤していました。



ポイント7.保木間堀親水水路

約250年位前のこと、保木間の付近の農民たちは毎年のように起こる利根川や荒川の洪水に悩まされていました。その頃日本を治めていた江戸幕府は、沢山の米が取れるようにするために、川の流れを変えたり堤防を造ったりして大水を防ぎました。元々保木間辺りの水田では、利根川や荒川が大水の時に溢れて溜った見沼(埼玉県)の水を使っていましたが、洪水が起こらなくなったために見沼の水は少なくなり、下流の保木間まで届かなくなってしまいました。そこで、幕府は遙か遠くの利根川から見沼に代わる用水として見沼代用水路を造りました。見沼代用水路に入ると、神領堀・西新井堀・本木堀・千住堀・竹の塚堀・保木間堀の六つの堀に分かれていました。保木間堀はこの辺りの水田に水を引く大切な用水路だったのです。



現在は、はんの木橋交差点の先から人工の保木間掘親水水路が現れ、歩道脇に沿って寺町方向に水が流れています。



水路は、交差する道路付近では地下に潜り、その先で再び現れます。



ポイント8.伊興遺跡公園

保木間掘親水水路に沿って寺町方向に進みますと、まもなく右手に伊興遺跡公園が現れます。伊興遺跡公園には、中心にある芝生の広場(820坪)・復元住居・展示館等があります。伊興は足立区の中でも早くから人が住み始めたところで、東伊興二丁目にある氷川神社付近を中心に、弥生時代後期から古墳時代に至る土器や祭祀遺物・住居跡などが出土しています。

伊興遺跡

伊興遺跡は、当公園ととなり合う氷川神社を北限とし、南へ660m・東西690mの広がりをもつ、都内でも屈指の古墳時代遺跡である。以前から多数の遺物が出土していることから、地元の人々や一部の考古学研究者の間では知られていたが、昭和三十年代に入り、国学院大学の故大場磐雄教授が学界へ紹介したことにより、世に知られることになった。大場教授は郷土史家の故西垣隆雄氏の収集品の中から、他ではあまり出土例のない子持勾玉と古式須恵器を発見し、古代祭祀との強い関連を考える立場から、伊興遺跡を祭祀遺跡として全国的に紹介した。その後、数回の調査が行われたが、広い遺跡範囲にくらべ小規模な調査であったため、遺跡全体のすがたを明らかにするまでに至らなかった。平成に入り、大規模な調査が公園地内で行われた。調査の結果、 多くの住居址があったことを推定させる溝跡やピット(小穴)、方形周溝墓、祭祀に用いられたらしいおびただしい土師器、石製品、玉類、須恵器などが発見された。この地点は、伊興遺跡でもその中心部にあたる。出土品や確認される遺構が増えるにつれて、祭祀遺跡ばかりではなく、古墳時代における毛長川流域の政治、経済の中心地的な役割を果たした遺跡であったことも考えられるようになった。




園内には、古代の竪穴式住居が復原されています。竪穴式住居は縄文時代から続いた住居ですが、貴族や武士が高床式や平地式の住まいだったのに対し、一般庶民の間には古墳時代でも使用されていました。半地下式の竪穴式住居は夏は涼しく冬は暖かく、温度変化の影響を受けにくいため長く利用されていたとのことですが、水はけが悪いことや、採光しにくいなどの欠点もありました。

竪穴式住居

竪穴式住居は縄文時代から続いた住居の形で、貴族や武士が瓦葺きや板葺きの高床や、地面に建てた平地式の家屋に住むようになっても、一般庶民のあいだでは10世紀頃まで利用されていた。長く利用されたのは、半地下式なので温度変化を受けにくく、夏は涼しく冬は暖かく感じられたことによるらしい。しかし、水はけがわるく、採光の点でも不便だったようである。古墳時代の竪穴式住居の最大の特徴は、それまで楕円形に掘り込んでいるのに対し方形となり、炉にかわり竈(カマド)が造り付けられたことにある。炉が竈に変わったのは古墳時代の中頃(5〜6世紀)とされるが、伊興遺跡ではこの頃の住居が最も多く見つかっている。




復原された古墳時代(6世紀)の竪穴式住居内部の様子はガラス越しに見ることができます。



土器や木製の容器を編んでつくったカゴには、周辺で取れた食べ物が入れられています。

古墳時代(6世紀)の「竪穴式住居」内部のようす

土器や木製の容器を編んでつくったカゴには、お米をはじめ周辺で取れた食べ物が並んでいます。川ではコイ・カラス貝など、海ではサバ・スズキなど、川と海の両方の魚や貝を捕ることができました。川辺近くに広がる池や沼地では、蓮の実・レンコン・ヒシの実が、シカやイノシシのいる森からは、クリ・キノコ・ヤマイモなどが採れました。またヤマモモ・カキなどの果物の種も見つかっています。




方形周溝墓は、古墳の前身をなす弥生時代に出現した墓で、伊興遺跡で見つかったものは、出土した遺物から古墳時代前期に構築されたことが分かっています。周囲を溝で区切り、なだらかな墳墓もあったとされています。稲作農耕の発展に伴い、村々で力をつけた有力者の墓であり、数体の遺体を埋めた場合もありました。やがて村々は統合されて国になり、強大な権力のもとに古墳が造られるようになりました。しかし、方形周溝墓そのものは古墳時代にも造り続けられました。有力者の間でも階級差が発生し、古墳を造り出すことの出来ない地位の低い有力者の墓と考えられています。遺跡公園で見つかった方形周溝墓も、この頃造られたものと考えられています。

方形周溝墓

古墳の前身をなす弥生時代に出現した墓である。周囲を溝で区切りなだらかな墳墓もあったとされている。稲作農耕の発展に伴いムラムラで力をつけた有力者の墓であり、数体の遺体を埋めた場合もあった。やがてムラムラは統合されて国になり、強大な権力のもとに古墳が造られるようになった。しかし、方形周溝墓そのものは古墳時代になっても造り続けられた。有力者の間でも階級差が発生し、古墳を造りだすことのできない地位の低い有力者の墓と考えられている。遺跡公園で見つかった方形周溝墓もこの頃造られた。




土器出土状況レプリカには、様々な土器の破片が展示されています。

土器出土状況レプリカ

遺跡公園南側の黒褐色をした土中から土器が見つかった状態を復元したものである。土師器、須恵器、玉類が集中的に出土している。出土土器には形が完全なものや大型破片のものが多く、東京湾と毛野地方(埼玉県、群馬県)を結ぶ毛長川の水運の安全や、あるいは五穀豊穣を祈願する「まつり」に関連したものと思われ、まつりが終った後に、それらは意識的に捨てられたらしい。このように、多量の遺物が出土していることは、まつりの規模が大きなものであり、しかも繰り返し行われたと思われ、古代の人々のカミへの祈りのさまがうかがえる。




伊興遺跡公園の西側には、伊興遺跡の出土品やパネルを展示した展示館があります。入館料無料で、大きい展示施設ではありませんが伊興遺跡についてざっくり学ぶことができます。



伊興遺跡公園と道路を挟んだ反対側に、こんもりと大木に覆い囲まれ、伊興古墳の北限といわれる氷川神社があります。

足立区指定第17号 保存樹林

当神社は伊興の北に存在し、昔は伊興村・竹の塚村・保木間村の鎮守でした。古い鳥居には文化改元と刻まれています。ケヤキ・イチョウ・クス・コウヤマキ等を主体にした樹林を地域の皆さんと一緒に大切に守って行きたいと思います。




かっては、この周辺は淵が入りくんでいたところから「淵の宮」と呼ばれ、また区内一帯の呼称として淵江郷・淵江領が生じました。

氷川神社(淵の宮)

   祭神 須佐之男命 大己貴命 櫛稲田姫命
   末社 浅間社 稲荷社 熱田社 白旗社 三峰社

当社は足立区内最古の氷川社で、往古、淵江領の総鎮守であった。江戸期に村々の開発がすすむと共に、各地にも鎮守が祀られ、この社は伊興、竹塚、保木間三村の鎮守となり、明治五年(1872年)からは伊興村の村社となった。奥東京湾の海中にあった足立区が、陸地化していく過程で、この付近が最も早く陸地となり、大宮台地あたりからの移住者が、武蔵国一の宮である大宮(埼玉県さいたま市)の氷川社から分霊を勧請したものと考えられている。当時はまだこの周辺は淵が入りくんでいたところから「淵の宮」と呼ばれ、また区内一帯の呼称として、淵江郷、淵江領が生じたものであろう。付近一帯は古代遺跡で、弥生式土器、土師器、須恵器、また鏡・勾玉・管玉・臼玉などの祭祀遺物や漁具として土垂、さらに住居址、井戸跡など生活遺構がたくさん出土しており、伊興遺跡といわれる埋蔵文化財包蔵地を形成している。昭和五十七年(1982年)十二月、足立区登録記念物とした。




境内社に浅間神社があります。境内には伊興富士があるとのことですが、見当たりませんでした。ひょっとして、階段の付いた高台が伊興富士で、その上(頂上)に祠が建っているというイメージかも。



拝殿に上がる階段の横と浅間神社の脇に巨大な切り株が残されています。どちらも幹には大きな空洞があり、中に紙が貼ってあります。「伊興氷川神社の大きな(枯木)保存70年」という見出しが見えますが、内容は読み取れません。樹齢何百年という、かってのご神木だったのかもしれません。



旅順攻囲戦を指揮し、日露戦争を勝利に導いた乃木希典陸軍大将の揮毫による石碑が建っています。

乃木大将の遺徳を偲びて

乃木大将の記念碑は、日露戦争が大勝利に終ったので、それを記念すべく記念碑を建立しようと全村一丸となり、基金を募り当時としては大金(参百伍拾六円八拾銭)を集めることができました。その旨、乃木大将に伝えると、快諾されて自ら揮毫して呉れたとの事です。記念碑が出来ますと、出征軍人はもとより戦死者の遺族の方々も大喜びで、村中一つになって、提灯行列をして御祝いしたそうです。但し、終戦後は占領軍の指示により「解体後、廃棄する様に」と厳命が有りましたが当時の神社総代、役員一同、一丸となり何としても記念碑を残す様考えて、費用が乏しいの一点張りで、拒否をしている内に、朝鮮戦争が始まり進駐軍も撤退したので、その儘不問になりこの立派な記念碑が有り、今日に至っております。この表示板は、日露戦争終結後百周年に充たり氷川神社総代一同により建立されました。




「伊興町土地改良区之誌」の巨大な石碑も建っています。

竣工祈念碑
伊興町土地改良区之誌

農は国の大本である。武蔵野の中央に位置する伊興の里は縄文弥生の古えより先住民の生活した沃野であった。東に筑波西に富士の霊峰を仰ぎ広漠たる平野に朝な夕な農耕に励み大和奈良鎌倉江戸の各時代を経て今日に至ったのである。吾等の父祖が明治大正時代に於て当地の農耕地の整理改良の企図はあったのだが諸般の事情で実現し得なかったのである。時移り世変わって昭和に至り有史以来の変遷に遇い終戦の結果農地改革自作農創設民主化政治の下、整理改良事業が出来得る態勢となったのである。?に於て足立区農業委員横田久次郎氏を中心に伊興土地改良区の発足を見たのである。今ここに其の概要を示す

一、昭和廿五年十二月三日  設立準備総会
一、昭和廿六年十二月五日  設立認可
一、  同  十二月十一日 設立総会
一、組合員数        四七九名
一、総地積         百六拾三町六反歩(1638ヘクタール)
一、総工費         金六億円也
一、昭和四十四年十月六日  解散総会

以上の如く本事業が設立より完遂迄の過程に於ては幾多の難関障害があったが役員以下組合員一致協力?くその困難を克服し以て我が伊興有史以来の大偉業を完成したのである。各関係者の絶大なる協力に対し深く感銘すると共に吾等の子孫に永久に伝うべきものである。




ポイント9.寺町

保木間掘親水水路に面してお寺が連なっています。伊興町挟間地区には、大正十二年(1923年)の関東大震災後に、都心及び各地から13の寺院(長安寺・善久寺・浄光寺・法受寺・栄寿院・正楽寺・専念寺・正安寺・東陽寺・本行寺・常福寺・易行院・蓮念寺)が移転し、寺町を形成しています。



浄土真宗本願寺派寺院の長安寺は龍華山と号し、江戸時代初期の1600年代に釋宗保によって創建されましたが、度々の災禍によって記録が焼失しているためにはっきりしたことは分かっていません。築地御坊(築地本願寺)の寺中58ヶ寺の1寺として約270年ほど築地に所在していました。大正十二年の関東大震災で罹災し、築地御坊は勿論、寺中寺院もことごとく灰燼に帰しました。暫くは焼跡に仮御堂を建てていましたが、東京府の復興計画が進捗するに及んで東京の郊外に移転しなければならなくなり、幾つかの候補地の中から寺域を移すこととなり、昭和の初期(昭和三年〜四年頃)に伊興に移転しました。



浄土真宗本願寺派寺院の善久寺は馬頭山と号し、江戸開府に伴い善宗寺良乗が岡崎より上京して、善宗寺良乗とその子了信が浜町御坊に善久寺を創建したといわれています。浜町御坊の築地移転に伴って築地に移転し、大正十二年の関東大震災に罹災して昭和二年に伊興に移転しました。



浄光寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、元和二年(1616年)に浄元によって開山されました。元々は武蔵国入間郡赤坂(現在の埼玉県所沢市附近)に位置し、山号の「赤坂山」はこれに由来しています。元和七年(1621年)に浜町御坊(後の築地本願寺)の寺中に入り、昭和初期までは築地本願寺と共に歴史を歩みました。大将十二年(1923年)の関東大震災で焼失し、築地本願寺から分かれて伊興に移転しました。本尊の阿弥陀如来像は明暦の大火や関東大震災の難を免れ、そのために「火除けの阿弥陀さま」とも呼ばれています。



境内には、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人の像が建っています。

親鸞聖人 旅姿の像

この尊像は親鸞聖人がお念仏をひろめに関東をお歩きになられた当時のお姿をうつしたものです。聖人は承安三年(1173年)ご誕生になり九歳の春に得度されました。その後二十年に渡って比叡山で仏教を学ばれましたが真実の仏道にめぐり合うことはかないませんでした。二十九歳の時比叡山を下り法然上人をたずねられ念仏の教えに帰依されましたが、時の政府の念仏停止の宣旨により越後(新潟県)に流罪となられるのです。流罪赦免の後に関東の各地をお歩きになりお念仏の教えをひろめられました。六十歳を越えられてから京都に戻られると浄土真宗の根本となる「教行信証」をはじめとする種々の執筆をされました。そして弘長二年(1262年)九十歳の時に念仏一筋の生涯を閉じられたのです。当寺は開山三百七十年法要を記念して聖人のご苦労をしのび浄土真宗の教えにつつまれた喜びの感謝を込めて、ここに親鸞聖人像を建立いたしました。




法受寺は徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院の菩提寺で、正暦三年(992年)に恵心僧都源信によって開山されました。本尊の阿弥陀如来は源信の作といわれています。元々は武蔵国豊島郡下尾久(現在の荒川区尾久)に位置していて、天台宗の寺院でした。その後、文永元年(1264年)に浄土宗に転宗し、宝暦三年(1753年)に谷中(現在の台東区谷中)に移転しました。昭和十年(1935年)に浅草の安養寺と合併し、現在地に移転しました。寺宝として、寄せ木造りの後深草法皇の尊像と位牌があります。

法受寺

当寺は寺伝によれば、正暦三年(992年)恵心僧都が、豊島郡下尾久に、天台宗恵心院法住寺として開創、文永元年(1264年)浄土宗に改宗、宝暦三年(1753年)豊島郡谷中に移り、新幡随院法住寺と称した。関東大震災後、谷中三崎町法住寺と浅草安養寺が合併して、昭和十年(1935年)に現在地に移転し法受寺となる。本尊木造阿弥陀三尊像は、中尊である阿弥陀如来立像が平安時代末期から鎌倉時代、脇侍の観世音菩薩立像・勢至菩薩立像が鎌倉時代末期の制作であり、足立区登録有形文化財(彫刻)となっている。当寺には像主が後深草法皇と伝わり、正応三年(1290年)の年号を刻んだ位牌を伴う木造僧形坐像(足立区登録有形文化財[彫刻])がある。境内には桂昌院の墓がある。桂昌院は五代将軍綱吉生母として大奥に絶大な権勢を振い、女性として最高の位階従一位を生前贈られている。本庄家墓域には、桂昌院の弟常陸国笠間藩主本庄宗資の墓塔もある。他に著名人としては、柔術家関口弥太郎墓、書家澤村墨庵墓等がある。




法受寺は、伊興七福神の布袋尊を祀っています。



墓地には、浅草の旧安養寺から移設した桂昌院のお墓があります。桂昌院は、江戸幕府三代将軍徳川家光の側室で、五代将軍綱吉の生母です。桂昌院は、寛永十六年(1639年)に部屋子として家光の側室だったお万の方に仕え、後に春日局の目にとまり、「秋野」という候名で局の指導を受けるようになりました。長じて将軍付き御中臈となり、家光に見初められて側室となり、正保三年(1646年)1月に綱吉を産みました。慶安四年(1651年)に家光が亡くなると落飾して大奥を離れ、筑波山知足院に入りました。四代将軍家綱の死後、延宝八年(1680年)に綱吉が将軍職に就くと、江戸城三の丸へ入りました。貞享元年(1684年)11月に従三位を、元禄十五年(1702年)2月には女性最高位の従一位の官位と、藤原光子(または宗子)という名前を賜りました。宝永二年(1705年)6月に79歳で没しました。



尾竹橋通りに面した門の脇に「牡丹灯籠」の石碑が建っています。明治時代の三遊亭圓朝の手になる作品で、主人公のカップルが葬られたのが谷中にあった法受寺のという設定になっています。圓朝は二人の菩提を弔うため「濡れ仏」を建立したと伝えられますが現存はしていません。この碑は平成七年に記念碑として建てられたものです。寺町通りに面した門から入ると、怪談・牡丹燈籠の台詞の一節が刻まれた石碑が建っています。「牡丹灯籠」の話は元々中国の明で作られた「牡丹燈記」という話が基になっています。明治時代に落語の神様とされている三遊亭圓朝がこの話を落語の怪談噺に仕立て評判を取ってから有名になりました。そのあらすじは次の通りです。

新三郎とお露の出会い
根津の清水谷に、萩原新三郎という内気な浪人が暮らしていました。ある日、新三郎は医者の山本志丈に誘われ、山本の知り合いである飯島平左衛門の別荘を訪れます。別荘には美しい娘・お露と、その女中・お米がいました。そこで出会った新三郎とお露は、互いに惹かれ合います。新三郎は帰り際、お露から「また来て下さらないなら、私は死んでしまいますよ」と声を掛けられました。しかし彼は内気なため、会いに行く勇気が出ませんでした。数ヶ月後、新三郎は山本から、お露が新三郎に恋い焦がれた末に亡くなったと伝えられます。また、女中のお米も看病に疲れ、お露の後を追って亡くなったというのです。悲しんだ新三郎は、お露を想いながら念仏を唱える日々を送りました。盆の十三日の夜、月を眺めていた新三郎の耳に「カランコロン、カランコロン」と下駄の音が響いて来ます。外を見ると、牡丹の絵柄の灯籠を持つお米、そしてその背後にはお露が歩いていたのです。新三郎は亡くなったと思っていた2人に驚きながらも、再会を喜びました。翌日から毎晩、お露は新三郎の家を訪れて、愛を深め合うようになります。

毎晩訪れるお露の正体
新三郎の使用人・伴蔵は、主人の家に毎晩お露が訪れていることを知り、家の中を覗いてみます。すると、骨と皮だけで腰から下がないお露が、新三郎の首に食らいついていたのです。あまりの恐ろしさに、伴蔵は占い師の白翁堂勇斎に相談します。勇斎は新三郎の家に赴き、このままでは彼が幽霊に殺されてしまうと告げました。新三郎はお露が幽霊だった事実を知り、お寺の和尚に除霊のお札と海音如来像を借ります。お札を家の周りに貼り付け、さらに海音如来像を身に着けて、お経を読みました。その夜、お露の幽霊はお札のせいで、新三郎の家に上がることができませんでした。

伴蔵の裏切り
新三郎の家に上がることができなくなったお露とお米は伴蔵の家を訪れ、新三郎に会いたいのでお札を剥がしてほしい、と頼みます。伴蔵と妻のお峰は幽霊を恐ろしがったものの、お露からお金を受け取ることができるのならば、と承諾してしまいます。そして次の日、伴蔵はこっそりと新三郎の家の海音如来像を粘土の仏像にすり替え、お札を剥がしました。夜明け頃、新三郎を裏切ったことに後ろめたさを感じた伴蔵は、新三郎の様子を確認しに行きます。しかし、家の戸を叩いても返事がありません。不審に思い中に入ると、新三郎は首筋を髑髏に齧りつかれ、恐怖に歪んだなんとも恐ろしい顔つきで死んでいたのでした。




ポイント10.白旗塚史蹟公園

尾竹橋通りを渡った先に白旗塚史蹟公園があります。白旗塚古墳は、古墳時代後期初頭の6世紀前半頃のものと推定されています。江戸時代後半の「日光道中分間延絵図」には、甲塚・摺鉢塚と共に二本松塚として示され、名称未記載のものを含むと合計8基の古墳が並ぶ姿が描かれています。このことから、相当数の古墳からなる伊興古墳群(または白旗塚古墳群ともいわれます)を構成していたことが推定できます。その後、土地の開墾や都市開発などに伴って消滅が進み、昭和三十九年(1964年)の土地改良事業による都市開発の過程で他の古墳は全て取り壊され、現存しているのは白旗塚古墳のみとなっています。「新編武蔵風土記稿」によれば、源義家が奥州征伐の際にこの地で白旗をなびかせて戦ったとの逸話から、白旗塚と呼ばれるようになったといわれています。昭和五十年(1975年)2月6日に東京都指定史跡に指定されたことを受けて、足立区は昭和六十二年(1987年)に白旗塚古墳を含む敷地を史跡公園として整備しました。



公園の入口に案内板が立っています。

東京都指定史跡
白旗塚古墳(しらはたづかこふん)

この付近の毛長川南岸の自然堤防上には、擂鉢塚古墳、甲塚古墳、白旗塚古墳など七基からなる白旗塚古墳群が形成されていたとされますが、現存するのは白旗塚古墳のみです。足立区教育委員会が擂鉢山古墳や甲塚古墳の推定地域を調査していますが、確認までには至っていません。擂鉢塚古墳から出土したとされる馬形・円筒埴輪から、白旗塚古墳群の築造は六世紀と推定されます。白旗塚古墳は直径12メートル、高さ約2.5メートルの円墳ですが、未調査のため主体部の構造や古墳の年代はわかっていません。白旗塚という名の由来は、源頼義、義家父子が、奥州安倍氏の反乱(前九年の役)の鎮圧にむかう途上に、この地に白旗を立てたためと言われています。

Historic Site
Shirahataduka kofun

In this area, on the natural levee along the south bank of the Kenaga river, there were Shirahataduka-Kofungun (mounded tomb groups) consist of seven mounded tombs about Suribachiduka-Kofun, Kabutoduka-Kofun, Shirahataduka-Kofun etc. But a remaining tomb is only Shirahataduka-Kofun. The tombs have not been discovered though it is being excavated the area presumed that Suribachiduka-kofun and Kabutoduka-Kofun by the board of education, Adachi ward. According to the horse shaped, and cylindrical haniwa which was told to find in Suribachiduka-kofun, Shirahataduka-Kofungun were built in the 6th century. Shirahataduka-Kofun is a round mound and the diameter is 12 meters, height is about 2.5 meters. There are no excavation about this tomb, so the main burial facility of a mounded tomb and the building age are not known. The origin of the name of Shirahataduka, it is told that Minamoto-no-Yoriyoshi and his son Minamoto-no-Yoshiie put up the white flag in this place on the way to repress the rebellion of the Abe family in the Tohoku distrit (zenkunen-no-eki).




公園内には白旗塚にまつわる「新編武蔵風土記稿」を引用した石碑が建っています。



表面が新編武蔵風土記稿の足立編抜粋、裏面が現代語訳文になっています。

新編武蔵風土記稿

白幡塚(伊興村)東ノ方ニアリ、此塚アルヲ以テ白幡耕地ト字セリ、塚ノ除地二十二歩百姓持ナリ、上代八幡太郎義家奥州征伐ノ時、此所ニ旗ヲナビカシ、軍勝利アリトテ此名ヲ傳ヘシ由、元来社地ニシテ祠モアリシナレト、此塚ニ近寄ハ咎アリトテ、村民畏レテ近ツカザルニヨリテ、祠ハ廃絶ニ及ベリ、又塚上ニ古松アリシカ、後年立枯テ大風ニ吹倒サレ、根下ヨリ兵器共數多出タリ、時ニ村民来リ見テ件ノ兵器ノ中ヨリ、未ダ鐵性ヲ失ハザル太刀ヲ持帰テ家ニ蔵セシガ、彼祟ニヤアリケン、家擧リテ大病ヲナヤメリ、畏レテ元ノ如ク塚下ヘ埋メ、シルシノ松ヲ植継シ由、今塚上ノ両株是ナリト云、今土人コノ松ヲ二本松ト號ス、太サ一囲半許。

白旗塚(現代訳文)

「伊興村の東の方にあり、この塚があるために、このあたりを白旗耕地と名づけている。塚の免税地二十二歩(約七十二平方メートル)は村人の所有である。むかし、八幡太郎源義家か奥州征伐の時、この所に白旗をなびかせて、戦いに勝ったことがあるということでこの名を伝えたという。もともと神社地で祠もあったが、この塚に近寄ると良くないことが起るといって村人はおそれて近寄らなかったために、祠はすたれてなくなってしまった。また、塚の上に古い松の木があったが、のちに立枯れて大風に吹き倒され、根の下から兵器などが数多く出た。その時村人が何事かと見て、その兵器の中からまだ鉄性を失っていない刀剣を持ち帰って家にしまったが、このための祟りであろうか一家がみな大病にかかって苦しんだので、おそれをなして元のとおり塚下へ埋めて、印に松を植え継ぎしたという。塚の上の二株がこれだという。いま土地の人は、この松を二本松と呼んでいる。太さ一かこい半ばかりてある。」

文中にある二本松は枯れ、六木杉となり、また松の木八本に植えかえられて今日に至っている。昭和五十年二月六日東京都史跡に指定された。




園内には、埴輪像などが設置されています。



周囲に堀を巡らした円墳があります。5〜6世紀頃に築造されたと推定される直径12m・高さ2.5mの円墳の上には小さな祠が建っています。



園内には多くの樹木が植えられています。それぞれの木には万葉集の和歌が添えられています。榎は、人里に近いところに見られる落葉高木で、樹高20m以上に生長します。花は春に咲き、同株に雄花と雌花を付け、秋には赤味を帯びた褐色の実をつけます。エノキの実は甘味があって食用にもされますが、高い場所になるので野鳥が集まります。そのために、榎には霊力が満ちていると考えられていたようです。この和歌は、榎の霊力を讃えて慕わしく思う人を呼び寄せようと、「鳥は集まってくるが恋しいあなたの訪れはない」と詠っています。

え ●現代名 エノキ 【にれ科】

   わが門の 榎の実もり契む
      百千鳥  千鳥は来れど
         君そ来まさぬ
            (16・三八七二)作者不伝




私の単純な理解では、この和歌は「家にいると器によそうご飯を、今は旅の途中なので椎の葉に盛ります。」としか思えません。有間皇子は、大化の改新で活躍した中大兄皇子と同じ時代の人物です。有間皇子は中大兄皇子と不仲で、謀反をたくらんでいました。しかし一緒に計画をしていたはずの蘇我赤兄に裏切られ、計画がばれて捕まってしまいます。この和歌に詠まれている「旅」とは、捕まったあと護送されているときのことで、彼の運命に対する悲しみや無力感が込められています。捕らわれて護送される途中で、満足な食器もなく、葉っぱに飯を盛っている状況を詠んでいます。彼の不遇な境遇と、家に残してきた人々への思いを反映しています。

しひ ●現代名 シイノキ 【ぶな科】

   家にあれば 笥に盛る飯を
      草枕 旅にしあれば
         椎の葉に盛る
            (2・一四二)有間皇子




2025年に再訪した時は晩秋の季節で、紅葉が真っ赤に紅葉していました。もみじは紅葉する植物の総称をいいます。モミジに該当する植物としては、「かへるで」といった場合のカエデ(かへるて:蝦手・加流敝弖)属のイロハモミジ(タカオカエデ)やオオモミジなどやウルシの仲間を指します。葉の形のユニークさといい赤や黄色といい、庭園には欠かせない樹木となっている樹木です。「もみじ」は、華麗な花をつけるわけではないのですが、秋山を美しく彩ることから、万葉集には多くの歌に詠み込まれています。現在では「もみじ」というと、一般には紅葉を指しますが、万葉時代はほとんど「黄葉」と記されていました。これは、秋の深まりとともに葉の色が変わっていくことを「黄変つ(もみつ)」という動詞で表現したからで、別段万葉人が赤色と黄色の違いを識別していなかった訳ではありません。この歌でも葉が紅葉していく様子が「黄変つ」で表されています。歌の「妹」・「恋」は男女間恋愛を詠んだものではなく、姉が文字通り妹を慕って贈ったものです。作者の大伴田村大嬢(おほをとめ)は、大伴旅人の弟である宿奈麻呂の娘で、異母妹の坂上大嬢に親愛の情を抱いていました。それは、田村大嬢が、万葉集に残した八首の歌のすべてが妹の坂上大嬢に贈ったものであるということからもわかります。現代語訳では、「私の家に黄葉するかえでを見るたびに、あなたを心にかけて恋しく思わぬ日はありません。」となります。

かへるで ●現代名 カエデ

   わが屋戸に 黄変つかへるで
      見るごとに 妹をかけつつ
         恋ひぬ日はなし
            (8・一六二三)大伴田村大嬢




高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が旅先で詠んだ八首の歌のうちの一首です。「山城(やましろ)の高)」は京都府綴喜郡井手町多賀のことで、「槻(つき)」は「けやき」で、神聖な木を意味します。歌の内容は「もっと早く来て見ればよかったものを、山城の多賀の槻の木々は葉を落としてしまってるなあ。」と、多賀の槻の木々の葉が散る前にもっと早くに来ればよかったとの後悔を詠った内容となっています。これは、あるいは旅先からの帰りの歌で、もっと早く帰ってくればよかったとの意味だったのかも知れません。葉が生い茂った神聖な槻の木々の生命力を授かりたかったとの思いがよく表れている一首のように思われます。

つき ●現代名 ケヤキ 【にれ科】

   とく来ても 見てましものを
      山城の 高の槻群
         散りにけるかも
            (3・二七七)高市黒人




「あしひきの」は「山」の枕詞、「白橿(しらかし)」は橿の一種でブナ科の常緑高木です。葉の裏が灰白色だからとも、材が白色だからともいわれます。「とををに」は、たわみしなうほどにの意味です。「とをを」は「たわたわ」の略「たわわ」の交替形です。和歌の意味は、「白橿の枝もたわわになるほどに雪が降っているので、どこが山道なのかも分かりません」ということのようです。作者の柿本人麻呂は飛鳥時代の歌人で、三十六歌仙の一人です。7世紀中頃に芸能・門付の家に生まれたという説があります。持統天皇に重用され、宮廷の公事の歌を多数詠みました。枕詞を多用したダイナミックな長歌と簡潔な短歌が特徴です。その後の消息は不明ですが、8世紀初めに石見で死去したとされています。

しらかし ●現代名 シラカシ 【ぶな科】

   あしひきの 山道も知らず
      白檀の 枝もとををに
         雪の降れれば
            (10・二三一五)柿本人麻呂歌集




公園内には秋の七草の植物も植えられていて、それぞれに関連する和歌が掲示されています。春の七草が食用あるいは薬草とする植物を選んだものであるのに対し、秋の七草は万葉の時代に山野に多く自生していた若しくは栽培されていた植物を選んだもので「日本の秋の景を代表する植物」とされています。山上憶良が詠んだ万葉集に収められた次の2首の歌がその由来とされています。

・秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり) かき数ふれば 七種(ななくさ)の花 (葉集・巻八 1537)

・萩の花 尾花 葛花 瞿麦(なでしこ)の花 姫部志(をみなへし) また藤袴 朝貌の花 (万葉集・巻八 1538)

秋の七草

はぎ      百済野の 萩の古枝に 春待つと 居りし鶯 鳴きにけむかも    山部赤人
現代語訳    百済野の萩の古枝に春の到来を待っていた鴬は、もう鳴き始めただろうかなあ。

をばな     人皆は 萩を秋と言ふ よしわれは 尾花が 末を秋とは言はむ   作者不詳
現代名 ススキ
現代語訳    人は皆、萩のよさを秋だという。たとえそうでも、私は尾花の穂先のよさをこそ、秋といおう。

をみなへし   女郎花 咲きたる野辺を 行きめぐり 君を思い出 たもとほり来ぬ  大伴池主
現代語訳    女郎花の咲いている野辺をめぐり歩きながら、あなたを思い出してはあちこちと女郎花を求めてさまよって来ました。

なでしこ    野邊見れば 撫子の花 咲きにけり わが待つ秋は 近づくらしも  作者不詳
現代語訳    野べを見ると撫子の花が咲いていたことだ。わが待ちのぞむ秋は近づいているらしいよ。

くず      雁がねの 寒く鳴きしゆ 水茎の 岡の葛葉は 色づきにけり    作者不詳
現代語訳    雁が寒々と鳴き渡って以来、水茎の丘の葛の葉は黄葉しつづけたことだ。

ふぢばかま   萩の花 尾花葛花 なでしこが花 女郎花 また藤袴 あさがほが花 山上憶良
現代語訳    萩の花、すすき、葛の花、なでしこの花、おみなえし、藤袴、朝貌の花。

あさがほ    朝顔は 朝露負ひて 咲くといへど 夕影にこそ 咲きまさりけれ   作者不詳
現代名 キキョウ
現代語訳    朝顔の花は朝露にぬれて咲くというけれど、夕方の光の中にこそ、一層美しく咲くことだった。




ポイント11.竹北公園

東武スカイツリーラインの高架下を潜った先のT字路に面して竹北公園があります。竹北公園は、面積3、040平方メートルの土の広場の中に様々な遊具が点在しています。



中でも筒状のすべり台を備えたコンビネーション遊具が子ども達の人気を呼んでいます。他にもブランコ・シーソー・鉄棒など、どれもカラフルな色合いに塗られた遊具が並んでいて、子ども達の元気な歓声が響き渡っています。



ドンキ竹の塚店と小路を隔てて竹塚神社があります。入口は竹ノ塚センター通りから交差点を左折したところにあります。竹塚神社は、天元年間(978年〜983年)に伊勢神宮を勧請して創建されました。天喜四年(1056年)に源頼義が奥州征討に出征する際、ここに陣を構え、松を植えたといわれています。この松は、嘉永二年(1849年)に雷が落ちて枯死してしまいました。その後、松の木は神社の改築時に用材の一部にしたと伝えられています。明治七年に村社に列格しました。

竹塚神社由緒

祭神  天照大御神
例祭  九月十七日

人皇六十四代 圓融天皇の御宇、天元年間、伊勢皇大神宮を遷し茲に祭る。後、天喜四年源頼義公奥州東征の折、當社境内に宿陣相成り、明治年間に至るまで境域に環濠が存し、本営の舊跡と傅へられる。頼義公お手植の大樹松有り、凡そ八百年星霜隔てる嘉永二年六月六日、雷火の為に枯れるに依りて、延慶二年以来の社殿造替の用材と為せり。明治七年村社に列せらる。明治以降氏子崇敬者よく神徳發揚、社地整備を図り面目一新す。




ポイント12.竹の塚第七公園

竹の塚第七公園に戻ってきました。



ゴール地点の東武スカイツリーライン竹ノ塚駅に着きました。



ということで、足立区で四番目のコースとなる「A−北西エリア 04.竹の塚名所巡りコース」を歩き終えました。次は足立区で五番目のコースとなる「A−北西エリア 05.伊興・毛長川コース」を歩きます。




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