- A−北西エリア 05.伊興・毛長川コース
- コース 踏破記
- 今日は足立区の「A−北西エリア 05.伊興・毛長川コース」を歩きます。最初に歩いたのは2022年6月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年12月に改めて歩きました。
スタート地点:東武スカイツリーライン竹ノ塚駅東口
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1.竹の塚第七公園
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2.竹の塚駅前交番
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3.竹の塚自動車学校
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4.白旗塚史蹟公園
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5.伊興遺跡公園
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6.毛長橋
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7.遊歩道
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8.武蔵野の路
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9.毛長公園
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10.花畑大橋
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11.大鷲神社
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12.浅間第一公園
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13.花畑公園(桜花亭)
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ゴール地点:花畑五丁目バス停
スタート地点の東武スカイツリーライン竹ノ塚駅東口から歩き始めます。
- ポイント1.竹の塚第七公園
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竹の塚エリアには、第一公園から第九公園まで、家族連れや子供たちが楽しめる魅力的な公園が点在しています。それぞれの公園には、ユニークな遊具やリラックスできるスペースがあり、憩いの場となっています。竹の塚第七公園は、竹ノ塚駅東口から駅前広場の南側に沿って進み、竹の塚けやき大通りの最初の信号を右折し、商店の続く通りで左折すると、突き当たりに公園が見えてきます。公園内には、雲梯(うんてい)や鉄棒が複合されたカラフルな遊具・恐竜のスプリング遊具や小さい子供向けのブランコ・フェンスで囲われた砂場などが設置されていて、幅広い年齢の子供たちが楽しめる公園です。
(注)雲梯:金属パイプ製のはしごを横方向にほぼ水平に設置し、ぶら下がりながら手を伸ばして移動する遊具のこと。
- ポイント2.竹の塚駅前交番
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竹の塚駅前交番は、竹ノ塚駅東口駅前広場から直ぐの竹の塚けやき大通りに面し、付近は飲食店や小売店・スーパーなどで賑わっていて、道案内や落し物の相談を始め、交番の取扱い業務は多岐にわたっています。小学生の社会科見学にも対応していますね。ところで、「竹の塚」と「竹の塚」はどう違うのでしょうか?地名・駅名・施設名などで表記が違う例は全国に無数にあり、関東だけでも「四谷」と「四ツ谷」、「溝口」と「溝の口」、「越谷」と「越ヶ谷」、「春日部」と「粕壁」、「御茶ノ水」と「お茶の水」など幾つもあります。歴史的に自然にそうなったものや、他の地域や何かとの混同を避けたであろうなど、理由はいろいろあって一口で言えませんが、地名や施設名には「の」が使われ、駅名には「ノ」が多く使われているように感じます。ちなみにちなみに、「竹ノ塚駅」は伊興村に開設されましたが、隣村の「たけのつか」名がついたのは、駅名を喚呼する時のことばの響きが良いという理由からだそうです。「竹の塚」の地名の由来は、この地に白旗塚を始め、甲塚・擂鉢塚・聖塚など沢山の塚があり、それらが年月が経つにつれ荒れ果てて熊笹や竹薮がはびこったためといわれています。
- ポイント3.竹の塚自動車学校
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駅前の団地群の中を抜けた高架の脇に、タクシー会社の富士交通グループが運営する東京都公安委員会公認の竹の塚自動車学校(竹の塚モータースクール)があります。
竹ノ塚駅から徒歩圏内にありますが、敷地はかなり広く、コースも綺麗です。
竹の塚自動車学校から高架沿いに進みますと、正面に足立清掃工場の煙突が聳えています。足立清掃工場は、東京二十三区清掃一部事務組合の清掃工場で、人口約70万人を擁する足立区内のごみ処理を行っています。足立区でのごみ処理は足立塵芥焼却場(昭和十一年)が起源で、埼玉県との都県境にほど近い竹の塚地区にあります。発生した余熱はスイムスポーツセンター(うきうき館)で利用されています。昭和三十九年(1964年)に日本初の大規模連続焼却炉である初代の工場が竣工し、昭和五十二年(1977年)に250tの焼却炉が4炉ある二代目の工場が竣工し、三代目の現在の清掃工場は平成十七年(2005年)に完成しました。煙突の高さは130mで、赤と白が斑になった足立清掃工場の煙突は、令和七年(2025年)に竣工したシティタワー千住大橋に次ぐ高さを誇っています。
- ポイント4.白旗塚史蹟公園
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高架下の歩行者用通路を抜けた先に、白旗塚史蹟公園があります。白旗塚古墳は、古墳時代後期初頭の6世紀前半頃のものと推定されています。江戸時代後半の「日光道中分間延絵図」には、甲塚・摺鉢塚と共に二本松塚として示され、名称未記載のものを含むと合計8基の古墳が並ぶ姿が描かれています。このことから、相当数の古墳からなる伊興古墳群(または白旗塚古墳群ともいわれます)を構成していたことが推定できます。その後、土地の開墾や都市開発などに伴って消滅が進み、昭和三十九年(1964年)の土地改良事業による都市開発の過程で他の古墳は全て取り壊され、現存しているのは白旗塚古墳のみとなっています。「新編武蔵風土記稿」によれば、源義家が奥州征伐の際にこの地で白旗をなびかせて戦ったとの逸話から、白旗塚と呼ばれるようになったといわれています。昭和五十年(1975年)2月6日に東京都指定史跡に指定されたことを受けて、足立区は昭和六十二年(1987年)に白旗塚古墳を含む敷地を史跡公園として整備しました。
公園の入口に案内板が立っています。
東京都指定史跡
白旗塚古墳(しらはたづかこふん)
この付近の毛長川南岸の自然堤防上には、擂鉢塚古墳、甲塚古墳、白旗塚古墳など七基からなる白旗塚古墳群が形成されていたとされますが、現存するのは白旗塚古墳のみです。足立区教育委員会が擂鉢山古墳や甲塚古墳の推定地域を調査していますが、確認までには至っていません。擂鉢塚古墳から出土したとされる馬形・円筒埴輪から、白旗塚古墳群の築造は六世紀と推定されます。白旗塚古墳は直径12メートル、高さ約2.5メートルの円墳ですが、未調査のため主体部の構造や古墳の年代はわかっていません。白旗塚という名の由来は、源頼義、義家父子が、奥州安倍氏の反乱(前九年の役)の鎮圧にむかう途上に、この地に白旗を立てたためと言われています。
Historic Site
Shirahataduka kofun
In this area, on the natural levee along the south bank of the Kenaga river, there were Shirahataduka-Kofungun (mounded tomb groups) consist of seven mounded tombs about Suribachiduka-Kofun, Kabutoduka-Kofun, Shirahataduka-Kofun etc. But a remaining tomb is only Shirahataduka-Kofun. The tombs have not been discovered though it is being excavated the area presumed that Suribachiduka-kofun and Kabutoduka-Kofun by the board of education, Adachi ward. According to the horse shaped, and cylindrical haniwa which was told to find in Suribachiduka-kofun, Shirahataduka-Kofungun were built in the 6th century. Shirahataduka-Kofun is a round mound and the diameter is 12 meters, height is about 2.5 meters. There are no excavation about this tomb, so the main burial facility of a mounded tomb and the building age are not known. The origin of the name of Shirahataduka, it is told that Minamoto-no-Yoriyoshi and his son Minamoto-no-Yoshiie put up the white flag in this place on the way to repress the rebellion of the Abe family in the Tohoku distrit (zenkunen-no-eki).
周囲に堀を巡らした円墳があります。5〜6世紀頃に築造されたと推定される直径12m・高さ2.5mの円墳の上には小さな祠が建っています。
公園内には白旗塚にまつわる「新編武蔵風土記稿」を引用した石碑が建っています。
表面が新編武蔵風土記稿の足立編抜粋、裏面が現代語訳文になっています。
新編武蔵風土記稿
白幡塚(伊興村)東ノ方ニアリ、此塚アルヲ以テ白幡耕地ト字セリ、塚ノ除地二十二歩百姓持ナリ、上代八幡太郎義家奥州征伐ノ時、此所ニ旗ヲナビカシ、軍勝利アリトテ此名ヲ傳ヘシ由、元来社地ニシテ祠モアリシナレト、此塚ニ近寄ハ咎アリトテ、村民畏レテ近ツカザルニヨリテ、祠ハ廃絶ニ及ベリ、又塚上ニ古松アリシカ、後年立枯テ大風ニ吹倒サレ、根下ヨリ兵器共數多出タリ、時ニ村民来リ見テ件ノ兵器ノ中ヨリ、未ダ鐵性ヲ失ハザル太刀ヲ持帰テ家ニ蔵セシガ、彼祟ニヤアリケン、家擧リテ大病ヲナヤメリ、畏レテ元ノ如ク塚下ヘ埋メ、シルシノ松ヲ植継シ由、今塚上ノ両株是ナリト云、今土人コノ松ヲ二本松ト號ス、太サ一囲半許。
白旗塚(現代訳文)
「伊興村の東の方にあり、この塚があるために、このあたりを白旗耕地と名づけている。塚の免税地二十二歩(約七十二平方メートル)は村人の所有である。むかし、八幡太郎源義家か奥州征伐の時、この所に白旗をなびかせて、戦いに勝ったことがあるということでこの名を伝えたという。もともと神社地で祠もあったが、この塚に近寄ると良くないことが起るといって村人はおそれて近寄らなかったために、祠はすたれてなくなってしまった。また、塚の上に古い松の木があったが、のちに立枯れて大風に吹き倒され、根の下から兵器などが数多く出た。その時村人が何事かと見て、その兵器の中からまだ鉄性を失っていない刀剣を持ち帰って家にしまったが、このための祟りであろうか一家がみな大病にかかって苦しんだので、おそれをなして元のとおり塚下へ埋めて、印に松を植え継ぎしたという。塚の上の二株がこれだという。いま土地の人は、この松を二本松と呼んでいる。太さ一かこい半ばかりてある。」
文中にある二本松は枯れ、六木杉となり、また松の木八本に植えかえられて今日に至っている。昭和五十年二月六日東京都史跡に指定された。
園内には、東西南北の古代文字が書かれた石のオブジェもあります。漢字が日本に入ってくる前の時代ですが、どうやって解読したのでしょうか?
園内には、埴輪像などが設置されています。
園内には多くの樹木が植えられています。それぞれの木には万葉集の和歌が添えられています。馬酔木(アセビ)は常緑性の低木で、葉にグラヤノトキシンなどの有毒成分が含まれることから、ウマが葉を食べると毒に当たって苦しみ、酔うが如くにふらつくようになる木というところからその名が付いたとされれいます。和歌の意味は、「あなたのことを恋い焦がれている私の気持は、刈り取っても刈り取っても生えてくる奥山の馬酔木の花のように真っ盛りなのです」といった感じです。「背子(せこ・せこう)」とは、古代日本において主に若い男性や男児を指す言葉でした。この呼称の由来ですが、「背子」の「背(せ)」は「兄(せ)」に由来するとされ、年長の男性や兄を意味する言葉でした。これに「子(こ)」という接尾語が付いて「背子」となり、若い男性を敬い親しみを込めて呼ぶ言葉となりました。「背子」は、恋愛の対象となる若い男性を指す言葉としても使われていました。
あしび ●現代名 アセビ 【つつじ科】
わが背子に わが恋ふらくは
奥山の 馬酔木の花の
今盛りなり
(10・一九○三)作者不伝
どの木が馬酔木なのか分かりません。
2025年に再訪した時は初冬の季節で、紅葉は殆ど散っていました。もみじは紅葉する植物の総称をいいます。モミジに該当する植物としては、「かへるで」といった場合のカエデ(かへるて:蝦手・加流敝弖)属のイロハモミジ(タカオカエデ)やオオモミジなどやウルシの仲間を指します。葉の形のユニークさといい赤や黄色といい、庭園には欠かせない樹木となっている樹木です。「もみじ」は、華麗な花をつけるわけではないのですが、秋山を美しく彩ることから、万葉集には多くの歌に詠み込まれています。現在では「もみじ」というと、一般には紅葉を指しますが、万葉時代はほとんど「黄葉」と記されていました。これは、秋の深まりとともに葉の色が変わっていくことを「黄変つ(もみつ)」という動詞で表現したからで、別段万葉人が赤色と黄色の違いを識別していなかった訳ではありません。この歌でも葉が紅葉していく様子が「黄変つ」で表されています。歌の「妹」・「恋」は男女間恋愛を詠んだものではなく、姉が文字通り妹を慕って贈ったものです。作者の大伴田村大嬢(おほをとめ)は、大伴旅人の弟である宿奈麻呂の娘で、異母妹の坂上大嬢に親愛の情を抱いていました。それは、田村大嬢が、万葉集に残した八首の歌のすべてが妹の坂上大嬢に贈ったものであるということからもわかります。現代語訳では、「私の家に黄葉するかえでを見るたびに、あなたを心にかけて恋しく思わぬ日はありません。」となります。
かへるで ●現代名 カエデ
わが屋戸に 黄変つかへるで
見るごとに 妹をかけつつ
恋ひぬ日はなし
(8・一六二三)大伴田村大嬢
高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が旅先で詠んだ八首の歌のうちの一首です。「山城(やましろ)の高)」は京都府綴喜郡井手町多賀のことで、「槻(つき)」は「けやき」で、神聖な木を意味します。歌の内容は「もっと早く来て見ればよかったものを、山城の多賀の槻の木々は葉を落としてしまってるなあ。」と、多賀の槻の木々の葉が散る前にもっと早くに来ればよかったとの後悔を詠った内容となっています。これは、あるいは旅先からの帰りの歌で、もっと早く帰ってくればよかったとの意味だったのかも知れません。葉が生い茂った神聖な槻の木々の生命力を授かりたかったとの思いがよく表れている一首のように思われます。
つき ●現代名 ケヤキ 【にれ科】
とく来ても 見てましものを
山城の 高の槻群
散りにけるかも
(3・二七七)高市黒人
大伴家持の部下の尾張少咋(おわりのおくい)という史生(ししょう:ヒラの事務官)は、都に妻がいながら左夫流児(さぶるこ)という名の遊行婦女(うかれめ:宴会場などにいる接待係の女性)に夢中になってしまいました。そこで家持が少咋に注意して諭すために詠んだ歌です。「紅(くれない)染め」は紅花の花びら染めのことで、花やかな紅色に染まりますが直ぐに退色するので、浮気相手の女性に例えています。それに対して「橡(つるばみ)染め」は、黒や茶色の地味な色ですが変色しません。「慣れ親しんだ妻は、橡染めの布のようなもので絶対に叶わないよ」という意味です。
つるばみ ●現代名 クヌギ 【ぶな科】
紅は 移ろふものぞ
橡の なれにし衣に
なほしかめやも
(18・四一○九)大伴家持
「あしひきの」は「山」の枕詞、「白橿(しらかし)」は橿の一種でブナ科の常緑高木です。葉の裏が灰白色だからとも、材が白色だからともいわれます。「とををに」は、たわみしなうほどにの意味です。「とをを」は「たわたわ」の略「たわわ」の交替形です。和歌の意味は、「白橿の枝もたわわになるほどに雪が降っているので、どこが山道なのかも分かりません」ということのようです。作者の柿本人麻呂は飛鳥時代の歌人で、三十六歌仙の一人です。7世紀中頃に芸能・門付の家に生まれたという説があります。持統天皇に重用され、宮廷の公事の歌を多数詠みました。枕詞を多用したダイナミックな長歌と簡潔な短歌が特徴です。その後の消息は不明ですが、8世紀初めに石見で死去したとされています。
しらかし ●現代名 シラカシ 【ぶな科】
あしひきの 山道も知らず
白檀の 枝もとををに
雪の降れれば
(10・二三一五)柿本人麻呂
榎は、人里に近いところに見られる落葉高木で、樹高20m以上に生長します。花は春に咲き、同株に雄花と雌花を付け、秋には赤味を帯びた褐色の実をつけます。エノキの実は甘味があって食用にもされますが、高い場所になるので野鳥が集まります。そのために、榎には霊力が満ちていると考えられていたようです。この和歌は、榎の霊力を讃えて慕わしく思う人を呼び寄せようと、「鳥は集まってくるが恋しいあなたの訪れはない」と詠っています。
え ●現代名 エノキ 【にれ科】
わが門の 榎の実もり契む
百千鳥 千鳥は来れど
君そ来まさぬ
(16・三八七二)作者不伝
弓削皇子は、若くして亡くなった天武天皇の皇子です。この歌は吉野に僥倖したときに詠まれました。初夏の陽光にあふれ、山河は青々と輝いていて、ふと顔を上げると、先程からホトトギスらしき声が聞こえている。街路樹はすっかり青葉になり、はや夏も近くなった。ホトトギスは昔を恋うる鳥といわれていて、天武天皇ありし昔を恋焦がれていると、時の移りゆく早さを詠っています。「御井(みい)」とは、泉などをいいます。
ゆづるは ●現代名 ユズリハ 【とうだいぐさ科】
古に 恋ふる鳥かも
弓絃葉の 御井の上より
鳴き渡り行く
(2・一一一)弓削皇子
「つまま」は、クスノキ科の常緑高木の椨(たぶのき)のことです。主に沿岸部に生育し、奈良の都では見ない樹です。海辺の岩の上のつままを見ると、根を長く張っていて、年を重ねているらしい。巌の上に生えている生命力溢れる神聖なつままを讃美し、それを見ると見る者の生命力をも強くするといった意味です。「神さびにける」とは、神々しく尊いことをいいます。
つまま ●現代名 タブノキ 【くすのき科】
磯の上の 都万麻を見れば
根を延へて 年深からし
神さびにける
(19・四一五九)大伴家持
私の単純な理解では、この和歌は「家にいると器によそうご飯を、今は旅の途中なので椎の葉に盛ります。」としか思えません。有間皇子は、大化の改新で活躍した中大兄皇子と同じ時代の人物です。有間皇子は中大兄皇子と不仲で、謀反をたくらんでいました。しかし一緒に計画をしていたはずの蘇我赤兄に裏切られ、計画がばれて捕まってしまいます。この和歌に詠まれている「旅」とは、捕まったあと護送されているときのことで、彼の運命に対する悲しみや無力感が込められています。捕らわれて護送される途中で、満足な食器もなく、葉っぱに飯を盛っている状況を詠んでいます。彼の不遇な境遇と、家に残してきた人々への思いを反映しています。
しひ ●現代名 シイノキ 【ぶな科】
家にあれば 笥に盛る飯を
草枕 旅にしあれば
椎の葉に盛る
(2・一四二)有間皇子
公園内には秋の七草の植物も植えられています。秋の七草の一覧には、それぞれに関連する和歌が掲示されています。春の七草が食用あるいは薬草とする植物を選んだものであるのに対し、秋の七草は万葉の時代に山野に多く自生していた若しくは栽培されていた植物を選んだもので「日本の秋の景を代表する植物」とされています。山上憶良が詠んだ万葉集に収められた次の2首の歌がその由来とされています。
・秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり) かき数ふれば 七種(ななくさ)の花 (葉集・巻八 1537)
・萩の花 尾花 葛花 瞿麦(なでしこ)の花 姫部志(をみなへし) また藤袴 朝貌の花 (万葉集・巻八 1538)
秋の七草
はぎ 百済野の 萩の古枝に 春待つと 居りし鶯 鳴きにけむかも 山部赤人
現代語訳 百済野の萩の古枝に春の到来を待っていた鴬は、もう鳴き始めただろうかなあ。
をばな 人皆は 萩を秋と言ふ よしわれは 尾花が 末を秋とは言はむ 作者不詳
現代名 ススキ
現代語訳 人は皆、萩のよさを秋だという。たとえそうでも、私は尾花の穂先のよさをこそ、秋といおう。
をみなへし 女郎花 咲きたる野辺を 行きめぐり 君を思い出 たもとほり来ぬ
大伴池主
現代語訳 女郎花の咲いている野辺をめぐり歩きながら、あなたを思い出してはあちこちと女郎花を求めてさまよって来ました。
なでしこ 野邊見れば 撫子の花 咲きにけり わが待つ秋は 近づくらしも 作者不詳
現代語訳 野べを見ると撫子の花が咲いていたことだ。わが待ちのぞむ秋は近づいているらしいよ。
くず 雁がねの 寒く鳴きしゆ 水茎の 岡の葛葉は 色づきにけり 作者不詳
現代語訳 雁が寒々と鳴き渡って以来、水茎の丘の葛の葉は黄葉しつづけたことだ。
ふぢばかま 萩の花 尾花葛花 なでしこが花 女郎花 また藤袴 あさがほが花 山上憶良
現代語訳 萩の花、すすき、葛の花、なでしこの花、おみなえし、藤袴、朝貌の花。
あさがほ 朝顔は 朝露負ひて 咲くといへど 夕影にこそ 咲きまさりけれ
作者不詳
現代名 キキョウ
現代語訳 朝顔の花は朝露にぬれて咲くというけれど、夕方の光の中にこそ、一層美しく咲くことだった。
そのまま読むと、「秋の野に咲いている秋萩が秋の風になびいている上に秋の露がのっている」ということになります。技法的には、「秋」の音を4回使い、「秋の野」から「秋萩」、そこへ吹く「秋風」ヘ、更に花の上に乗る「秋の露」ヘと、まるでズームカメラのように焦点を狭めています。「秋風に靡く萩の上の露」ですが、萩という植物は枝が細く殆どが枝垂れて花を咲かせます。その上に秋露がのり、更に秋風が吹いているというのですからかなり不安定な状況です。露を落とすまいとしている萩に感動したのか、萩にしがみつくように留まる秋露に感動したのかわかりませんが、当時の大伴家持自身の心境も歌に盛り込まれているのかもしれません。歌が詠まれた時代は政治権力の陰謀渦巻く天平時代です。代々朝廷の舎人だった大伴氏は権力闘争において不利な状況に追い込まれていました。父の旅人の死後、一族の長となった家持は「万葉集」の編集者といわれているにもかかわらず、地方を転々とする役人になっていました。そんな不安定さを風に靡く萩や、かろうじて萩に留まる秋露に我が身を例えたのかも知れません。
はぎ ●現代名 ハギ 【まめ科】
秋の野に 咲ける秋萩
秋風に 靡ける上に
秋の露置けり
(8・一五九七)大伴家持
天平勝宝六年(754年)7月に、大伴家持がひとりで天の川を仰ぎ見て詠んだ歌のひとつです。「秋になって初めて穂の出た尾花、彼女はその尾花のように見える。天の川に隔てられているからだろうか、この一年の長い日々」といった意味です。「年の緒」とは、年の長く続くことを緒に例え、逢瀬までの月日を指します。
をばな ●現代名 ススキ 【いね科】
初尾花 花に見むとし
天の河 隔りにけらし
年の緒長く
(20・四三〇八)大伴家持
「女郎花の生える沢のほとりの葛の原よ、その葛を何時か手ぐり採って私の衣として着たいものだ」という意味です。「女郎花(おみなえし)」は女性の寓意、「繰りて」は「糸を繰る」すなわち「織って」、「わが衣に着む」は「女性をわがものにしたい」という歌です。
くず ●現代名 クズ
女郎花 生ふる沢辺の
真田葛原 何時かも絡りて
わが衣に着む
(7・一三四六)作者未詳
- ポイント5.伊興遺跡公園
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尾竹橋通りを越えて住宅地の中を進みますと、保木間掘親水水路に面して伊興遺跡公園があります。伊興遺跡公園には、中心にある芝生の広場(820坪)・復元住居・展示館等があります。伊興は足立区の中でも早くから人が住み始めたところで、東伊興二丁目にある氷川神社付近を中心に、弥生時代後期から古墳時代に至る土器や祭祀遺物・住居跡などが出土しています。
伊興遺跡
伊興遺跡は、当公園ととなり合う氷川神社を北限とし、南へ660m・東西690mの広がりをもつ、都内でも屈指の古墳時代遺跡である。以前から多数の遺物が出土していることから、地元の人々や一部の考古学研究者の間では知られていたが、昭和三十年代に入り、国学院大学の故大場磐雄教授が学界へ紹介したことにより、世に知られることになった。大場教授は郷土史家の故西垣隆雄氏の収集品の中から、他ではあまり出土例のない子持勾玉と古式須恵器を発見し、古代祭祀との強い関連を考える立場から、伊興遺跡を祭祀遺跡として全国的に紹介した。その後、数回の調査が行われたが、広い遺跡範囲にくらべ小規模な調査であったため、遺跡全体のすがたを明らかにするまでに至らなかった。平成に入り、大規模な調査が公園地内で行われた。調査の結果、 多くの住居址があったことを推定させる溝跡やピット(小穴)、方形周溝墓、祭祀に用いられたらしいおびただしい土師器、石製品、玉類、須恵器などが発見された。この地点は、伊興遺跡でもその中心部にあたる。出土品や確認される遺構が増えるにつれて、祭祀遺跡ばかりではなく、古墳時代における毛長川流域の政治、経済の中心地的な役割を果たした遺跡であったことも考えられるようになった。
園内には、古代の竪穴式住居が復原されています。竪穴式住居は縄文時代から続いた住居ですが、貴族や武士が高床式や平地式の住まいだったのに対し、一般庶民の間には古墳時代でも使用されていました。半地下式の竪穴式住居は夏は涼しく冬は暖かく、温度変化の影響を受けにくいため長く利用されていたとのことですが、水はけが悪いことや、採光しにくいなどの欠点もありました。
竪穴式住居
竪穴式住居は縄文時代から続いた住居の形で、貴族や武士が瓦葺きや板葺きの高床や、地面に建てた平地式の家屋に住むようになっても、一般庶民のあいだでは10世紀頃まで利用されていた。長く利用されたのは、半地下式なので温度変化を受けにくく、夏は涼しく冬は暖かく感じられたことによるらしい。しかし、水はけがわるく、採光の点でも不便だったようである。古墳時代の竪穴式住居の最大の特徴は、それまで楕円形に掘り込んでいるのに対し方形となり、炉にかわり竈(カマド)が造り付けられたことにある。炉が竈に変わったのは古墳時代の中頃(5〜6世紀)とされるが、伊興遺跡ではこの頃の住居が最も多く見つかっている。
復原された古墳時代(6世紀)の竪穴式住居内部の様子はガラス越しに見ることができます。
土器や木製の容器を編んでつくったカゴには、周辺で取れた食べ物が入れられています。
古墳時代(6世紀)の「竪穴式住居」内部のようす
土器や木製の容器を編んでつくったカゴには、お米をはじめ周辺で取れた食べ物が並んでいます。川ではコイ・カラス貝など、海ではサバ・スズキなど、川と海の両方の魚や貝を捕ることができました。川辺近くに広がる池や沼地では、蓮の実・レンコン・ヒシの実が、シカやイノシシのいる森からは、クリ・キノコ・ヤマイモなどが採れました。またヤマモモ・カキなどの果物の種も見つかっています。
方形周溝墓は、古墳の前身をなす弥生時代に出現した墓で、伊興遺跡で見つかったものは、出土した遺物から古墳時代前期に構築されたことが分かっています。周囲を溝で区切り、なだらかな墳墓もあったとされています。稲作農耕の発展に伴い、村々で力をつけた有力者の墓であり、数体の遺体を埋めた場合もありました。やがて村々は統合されて国になり、強大な権力のもとに古墳が造られるようになりました。しかし、方形周溝墓そのものは古墳時代にも造り続けられました。有力者の間でも階級差が発生し、古墳を造り出すことの出来ない地位の低い有力者の墓と考えられています。遺跡公園で見つかった方形周溝墓も、この頃造られたものと考えられています。
方形周溝墓
古墳の前身をなす弥生時代に出現した墓である。周囲を溝で区切りなだらかな墳墓もあったとされている。稲作農耕の発展に伴いムラムラで力をつけた有力者の墓であり、数体の遺体を埋めた場合もあった。やがてムラムラは統合されて国になり、強大な権力のもとに古墳が造られるようになった。しかし、方形周溝墓そのものは古墳時代になっても造り続けられた。有力者の間でも階級差が発生し、古墳を造りだすことのできない地位の低い有力者の墓と考えられている。遺跡公園で見つかった方形周溝墓もこの頃造られた。
土器出土状況レプリカには、様々な土器の破片が展示されています。
土器出土状況レプリカ
遺跡公園南側の黒褐色をした土中から土器が見つかった状態を復元したものである。土師器、須恵器、玉類が集中的に出土している。出土土器には形が完全なものや大型破片のものが多く、東京湾と毛野地方(埼玉県、群馬県)を結ぶ毛長川の水運の安全や、あるいは五穀豊穣を祈願する「まつり」に関連したものと思われ、まつりが終った後に、それらは意識的に捨てられたらしい。このように、多量の遺物が出土していることは、まつりの規模が大きなものであり、しかも繰り返し行われたと思われ、古代の人々のカミへの祈りのさまがうかがえる。
伊興遺跡公園の西側には、伊興遺跡の出土品やパネルを展示した展示館があります。入館料無料で、大きい展示施設ではありませんが、1階と2階に様々な遺物が展示され、伊興遺跡についてざっくり学ぶことができます。
水辺の祭祀と伊興遺跡
伊興遺跡は多くの土器や玉製品が出土する遺跡として古くから有名であり、数々の学者に興味をもたれていた。昭和二十五年に至り、國学院大学教授大場磐雄氏は地元の郷土史家西垣隆雄氏の収集品の中から、多数の祭祀遺物を見い出され、伊興遺跡を古墳時代の祭祀遺跡として紹介、以後全国的に知られるようになった。古墳時代において、毛長川流域の中心であり、まさに足立区を代表する遺跡である。
展示室の正面に、毛長川と伊興遺跡のジオラマがあります。
毛長川と伊興遺跡
古墳時代(1500年前)の伊興遺跡をイメージしているジオラマである。当時の毛長川は利根川の下流であり、東海地方など、西日本の物資は伊興遺跡を中継して上流へさかのぼり、大古墳地帯に運ばれた。伊興遺跡の繁栄は、この水運によってもたらされたと考えられている。ジオラマ内の巫女を中心として行なっている祭祀は、水運の安全を祈願している様子である。
原始時代の足立区について
@〜縄文時代〜
東京低地は、東京都の中でも標高が低い地域のことです。東京低地に該当している地域は、約6000年〜500年前の気候が温暖だった縄文海進の時期には、ほとんどの場所が東京湾の海中にあったとされています。この時期の縄文時代の遺跡は区内では発見されていません。
A〜弥生時代〜
縄文海進のピーク後、ゆっくりと気候が寒冷化していったことで陸地化が進んだとされており、約3000年〜2000年前が寒冷期のピークだったとされ、東京湾の海岸線は現在よりも南に広がっていました。足立区内も陸地化していたはずですが、近隣地域などでも遺跡が減少傾向にあったとされており、そのため、区内にも集落の形成がみられなかったと考えられ、弥生時代の遺跡も区内では現在のところは発見されていません。
B〜古墳時代〜
約1700年前の古墳時代になる頃には、足立区東部を流れる中川の周辺に汽水域があったとされ、舟で東京湾へ出るのに利便性の高い土地(で)だったため、足立区内では、古墳時代から集落の形成が盛んに行われたと考えられています。海路を経て西日本や朝鮮半島からも区内の遺跡に物が入ってきていたことが発掘調査から判明しています。
ガラス棚には多くの土器が展示されています。
土器とは?
土器は、昔の人が粘土を焼いて作ったうつわのことです。土器が発明される前は、食べものを生で食べたり、火であぶったりして食べたりしていました。しかし土器が登場すると、食べものを煮たり、炊いたりすることができるようになり、いままで食べられなかったものを食べられるようになりました。最初は食べものを煮るために使われた土器ですが、しだいにさまざまな使いみちが考えられました。
古墳時代前期の土器が展示されています。
古墳時代前期
伊興遺跡が形成された時期である。古墳文化の影響を受けるが、弥生時代の伝統も残る土師器が使用される時代である。食物を煮炊きした弥生時代から使用された台付甕、神々への供物を盛り付けた坩やその台である器台などがこの時期の特徴的な土器である。関東地方で五領式と呼ばれる土器群である。伊興遺跡はこの時期の後半から、遺物・遺構が増加し始める。なお、この時期の東海地方から直接運ばれた土師器も確認されている。
古墳時代中期の土器が展示されています。
古墳時代中期
伊興遺跡が隆盛を迎え、和泉式と呼ばれる土器群が用いられた時期である。祭祀もこの時期に最も活発化する。わんや皿の用途に使われた坏が出現し、高坏が最も発達する。伊興遺跡出土の高坏は短い脚部を特徴とする。これら土師器の他に、この時期の最大の特徴は朝鮮半島から製法が伝来した須恵器の出現である。伊興遺跡はこの出現期の須恵器が多数出土したことで有名になった。公園地区では多くの土師器とともに、主に祭祀遺構から確認されている。
古墳時代後期の土器が展示されています。
古墳時代後期
伊興遺跡が衰退に向かう時期である。鬼高式と呼ばれる一群の土師器が使用された。縄文時代以来の囲炉裏に変わり、カマドが住居内に取り付けられた時期である。カマドにはめ込むように甕がつくられたため、細長い形態に変化する。また須恵器を模倣した段をもつ杯が現われ、須恵器の窯が関東地方でも出現し始める。この時期の初期までが伊興遺跡のピークの時期にあたり、これ以後急激に衰退する。
白旗塚古墳群の解説があります。
白旗塚古墳群は白旗塚古墳・摺鉢塚古墳・甲塚古墳の総称で、足立区埋蔵文化財包蔵地に指定されています。「新編武蔵風土記(1828年)」によると、伊興一帯には摺鉢塚・甲塚・聖塚・船山塚などの古墳が記されており、古墳群が形成されていたことがうかがえます。また「日光道中分間延絵図(1806年)」では、伊興地区に8つの塚(古墳を含む)があることが示されていますが、そのほとんどが地域開発のため削平され、現存するのは白旗塚古墳のみです。白旗塚古墳は東部伊勢崎線の西側に位置し、直径12m、高さ2.5mの円墳です。塚には昭和の初めまで六本の杉が植えられ、地元の人々は「六本杉」と呼んでいました。昭和十年ごろまでに杉は枯れ果ててしまい、現在の松になりました。また「新編武蔵風土記」には、塚の出土品を持ち出し、祟りにあった人が出土品を塚に返した際、のちに「二本松」と呼ばれる松を植えたとの記載があり、現在の景観に至るまでに樹木の移り変わりがあったようです。平成三年〜四年度にかけて白旗塚古墳群の発掘調査が行われ、須恵器や銅製耳飾が出土しました。また摺鉢塚古墳があったとされる地点では、人物埴輪や円筒埴輪が西垣隆雄氏によって採集され、摺鉢塚に伴ったものではないかと考えられています。昭和五十年に都の指定史跡となり、保存のため昭和六十二年に史跡公園として開園しました。祠には誉田別命が祀られ、地元では白旗大神の名で親しまれています。
伊興遺跡公園と道路を挟んだはす向かいに、こんもりと大木に覆い囲まれ、伊興古墳の北限といわれる氷川神社があります。
足立区指定第17号 保存樹林
当神社は伊興の北に存在し、昔は伊興村・竹の塚村・保木間村の鎮守でした。古い鳥居には文化改元と刻まれています。ケヤキ・イチョウ・クス・コウヤマキ等を主体にした樹林を地域の皆さんと一緒に大切に守って行きたいと思います。
かっては、この周辺は淵が入りくんでいたところから「淵の宮」と呼ばれ、また区内一帯の呼称として淵江郷・淵江領が生じました。
氷川神社(淵の宮)
祭神 須佐之男命 大己貴命 櫛稲田姫命
末社 浅間社 稲荷社 熱田社 白旗社 三峰社
当社は足立区内最古の氷川社で、往古、淵江領の総鎮守であった。江戸期に村々の開発がすすむと共に、各地にも鎮守が祀られ、この社は伊興、竹塚、保木間三村の鎮守となり、明治五年(1872年)からは伊興村の村社となった。奥東京湾の海中にあった足立区が、陸地化していく過程で、この付近が最も早く陸地となり、大宮台地あたりからの移住者が、武蔵国一の宮である大宮(埼玉県さいたま市)の氷川社から分霊を勧請したものと考えられている。当時はまだこの周辺は淵が入りくんでいたところから「淵の宮」と呼ばれ、また区内一帯の呼称として、淵江郷、淵江領が生じたものであろう。付近一帯は古代遺跡で、弥生式土器、土師器、須恵器、また鏡・勾玉・管玉・臼玉などの祭祀遺物や漁具として土垂、さらに住居址、井戸跡など生活遺構がたくさん出土しており、伊興遺跡といわれる埋蔵文化財包蔵地を形成している。昭和五十七年(1982年)十二月、足立区登録記念物とした。
境内社に浅間神社があります。境内には伊興富士があるとのことですが、見当たりませんでした。神社名を記した社号標の足下には、溶岩石のようないびつな石が並べられています。ひょっとして、階段の付いた高台が伊興富士で、その上(頂上)に祠が建っているというイメージかも。
拝殿に上がる階段の横と浅間神社の脇に、大きな空洞がある巨大な切り株が残されています。枯れた切り口のてっぺんに金属板をかぶせ、腐らないようにして雨・風から70年以上守っています。
浅間神社の脇の切り株の空洞の中には紙が貼ってあります。
伊興氷川神社の大きな(枯木)保存70年
●大木と信仰、枯れた木も大切に<伊興氷川神社>
天高く枝をのばし、のびのびと空を(突)くような高い木。広げた枝葉が?い木影をつくる古い木。その木の下にゆくと不思議な気持ちになるような大木は、どんな動物よりも長い期間を生きてきました。人々はそんな大木に神を見たことでしょう、木を信仰してきました(樹神信仰)。伊興氷川神社(東伊興2−12)には24本もの保存樹があり、古い歴史を物語っています。ここには何十年も前に枯れた幹に空洞のあるスギの保存(が)されています。
以下、読み取れず。
旅順攻囲戦を指揮し、日露戦争を勝利に導いた乃木希典陸軍大将の揮毫による石碑が建っています。
乃木大将の遺徳を偲びて
乃木大将の記念碑は、日露戦争が大勝利に終ったので、それを記念すべく記念碑を建立しようと全村一丸となり、基金を募り当時としては大金(参百伍拾六円八拾銭)を集めることができました。その旨、乃木大将に伝えると、快諾されて自ら揮毫して呉れたとの事です。記念碑が出来ますと、出征軍人はもとより戦死者の遺族の方々も大喜びで、村中一つになって、提灯行列をして御祝いしたそうです。但し、終戦後は占領軍の指示により「解体後、廃棄する様に」と厳命が有りましたが当時の神社総代、役員一同、一丸となり何としても記念碑を残す様考えて、費用が乏しいの一点張りで、拒否をしている内に、朝鮮戦争が始まり進駐軍も撤退したので、その儘不問になりこの立派な記念碑が有り、今日に至っております。この表示板は、日露戦争終結後百周年に充たり氷川神社総代一同により建立されました。
「伊興町土地改良区之誌」の巨大な石碑も建っています。
竣工祈念碑
伊興町土地改良区之誌
農は国の大本である。武蔵野の中央に位置する伊興の里は縄文弥生の古えより先住民の生活した沃野であった。東に筑波西に富士の霊峰を仰ぎ広漠たる平野に朝な夕な農耕に励み大和奈良鎌倉江戸の各時代を経て今日に至ったのである。吾等の父祖が明治大正時代に於て当地の農耕地の整理改良の企図はあったのだが諸般の事情で実現し得なかったのである。時移り世変わって昭和に至り有史以来の変遷に遇い終戦の結果農地改革自作農創設民主化政治の下、整理改良事業が出来得る態勢となったのである。茲に於て足立区農業委員横田久次郎氏を中心に伊興土地改良区の発足を見たのである。今ここに其の概要を示す
一、昭和廿五年十二月三日 設立準備総会
一、昭和廿六年十二月五日 設立認可
一、 同 十二月十一日 設立総会
一、組合員数 四七九名
一、総地積 百六拾三町六反歩(1638ヘクタール)
一、総工費 金六億円也
一、昭和四十四年十月六日 解散総会
以上の如く本事業が設立より完遂迄の過程に於ては幾多の難関障害があったが役員以下組合員一致協力能(よ)くその困難を克服し以て我が伊興有史以来の大偉業を完成したのである。各関係者の絶大なる協力に対し深く感銘すると共に吾等の子孫に永久に伝うべきものである。
- ポイント6.毛長橋
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毛長川沿いの道路に出ます。コースは毛長川の右岸(足立区側)と左岸(埼玉県草加市側)のどちらを歩くのかはっきりしません。右岸沿いの足立区側の道路には遊歩道がないので、恐らく左岸の草加市側に整備された遊歩道を歩くことになっているのでしょう。なので、毛長橋を渡ります。
毛長川は、埼玉県川口市・草加市と東京都足立区の境界を流れて綾瀬川に合流し、流路延長は約9.7キロメートル・流域面積は約20.2平方キロメートルの一級河川です。
ちなみに、「毛長川」の川名の由来には幾つか説があります。草加市の「そうか昔話」には次のように書かれています。
昭和に改修された足立区と草加市の境を流れる毛長川は、かつては新里地域の沼地をくねって流れていました。今ではもう形をとどめていませんが、この一帯は人々に毛長沼と呼ばれてきました。ある時、足立区側の舎人村から新里村へ供を従えて長者がやってきました。かねてより頭を痛めていた治水のための話し合いと兼ねて、肥沃な土地を持つ新里村の農作物の様子を見たいと訪れたのでした。供の者の中には長者の息子も加わっていました。幾つもの作物蔵を見て回り、さて帰ろうと一行が沼を渡る舟に今し乗り込もうとしていた時、ふと振り返った若者の目を捉えたのは、沼の畔に一人立って蓮の花を見やる娘の姿でした。色白の面立ち、なびく黒髪、「あれは女神様の化身だろうか」若者は呟くのでした。やがて若者はその折の女性が新里の長者の娘と知り、村長に頼んで縁談を申し入れました。その結果、両家の親と娘は申し入れに応じて二人はめでたく結ばれる運びになりました。娘が嫁ぐ日も近づいた丁度その頃、新里の村に疫病が入り込んできました。疫病は猛威を振るい始め、床に伏す人が村中に出てくる有様でした。こうした噂は沼を隔てた村々にも伝わり、祟りが及ぶと恐れた舎人の村人達は長者に二人の破談を迫りました。疫病は一向に収まらず、そうこうしているうち両長者とも縁組を諦める事態になってしまいました。新里村では、命を落す者も出始め、そんな中で娘は舎人の若者が破談をひどく嘆いていることを伝え聞くに及んで心痛も極まってしまいました。何日かたった大嵐の夜、娘はちぎれんばかりに髪を乱しながら沼へ身を沈めてしまいました。嵐が去り、疫病も収まったある日、舎人の岸辺に長い黒髪が流れ着きました。村人達はこれが身投げをした新里の娘の髪だと悟ると、大いに悲しみました。一方、新里の村人達も長者の娘をいとおしみ、社を建ててここに娘の髪をご神体として祀り、毛長神社と名づけました。今では、毛長川の水はあの嵐の夜の悲しい出来事など知る由もなく、帰路を急ぐ通勤客を乗せた電車の灯を映しながら静かに流れています。
もうひとつの説は、
昔、新里に住んでいた女性が舎人に住む男性と結婚しました。その後、男性の実家と折りが合わず新里の実家に帰る途中に沼(川)に身を投げました。何年か後に長い髪の毛が川に浮かび上がりました。村人はこれを新里の神社に祀り、現在の毛長神社となりました。以来、この川を毛長川と呼ぶようになりました。
というものです。
毛長橋の直ぐ近くにある毛長神社は、毛長沼に入水した毛長姫の髪の毛を祀る神社です。
毛長神社
新里町は新里村と称し、往古は谷古田領に属す。天正十八年(西暦1590年)徳川家康入府の後、天領となる。元禄十五年(西暦1702年)東叡山、寛永寺となり、明治四年(西暦1871年)埼玉県管轄となる。毛長神社の創建は詳びらかでないが、「地誌材料稿」新里編に、「奉修造毛長大明神宮一字氏子繁昌諸人快楽攸、享保十乙巳九月廿一日別当御幣山泉蔵院法印融儀」という棟札の写しが記録されている。享保時における修造と泉蔵院との別当関係が理解できる。御神体は女性の髪の毛であることは、諸記録・土地の伝承によって、これを知ることができる。髪は素戔鳴尊の妹姫のものとも、村の長者の娘のものとも云われている。神体の髪に関する伝承は数説あって一様でないが、「女の長い髪」であることは一致する。髪の毛を神体する神社は全国でも稀らしい。本県では、おそらくこの毛長神社一社だけではなかろうか。その意味でこの神社の存在とその伝説の継承されていることは、貴重なものといえる。鳥居は白小目御影石造りのもので、社殿に比してやや上等である。この鳥居はもとは水戸家の屋敷内の神社にあったが、出入の商人尾張屋兵助なる者が、譲り受け、更に当社の氏子代表が特に懇請して買い受けたものである。その輸送は舟によって、隅田川から綾瀬川を経て毛長川をさかのぼって、新里村に入り、境内地に建立されたという(長堀家文書)。
鳥居は白の御影石造で、水戸徳川家の江戸屋敷から移設したものです。船によって、隅田川から綾瀬川を経て毛長川を遡って境内地に建立されたといわれています。華表には「明治十四年四月吉日」と刻まれています。
社殿にある毛長神社の由緒書には次のように書かれているそうです。この説にはロマンがないですね。
毛長神社 御由緒
□御縁起(歴史)
当社の名に由来する毛長川は、かつての入間川の流路に当たり、新里はこの自然堤防に発達した集落である。当社が鎮座する字毛長沼外瓦は、低地ながら縄文時代から各時代の遺跡が発掘されており、開発の古さを物語る。当社の創建年代は不詳であるが、明治期に記された「新里村毛長神社由緒」及び「地誌材料稿」(草加市住吉・染谷家蔵)によると、当社の社地は、もと万郷又は万石長者の屋敷で、ある時、急に黒雲が起こり、天地が鳴動し、つむじ風が起き、長者の屋敷と家族は巻き上げられ、毛長沼に飛ばされ沈んでしまった。跡には大神宮の御祓が一本残されただけで、これを悼んで里人は、この御祓を長者が祀っていた稲荷の祠に合祀した。しばらくして、この祠の前の毛長沼の岸に数尺の毛髪が漂い、どうしても流れて行かないため、これは長者の若い娘の髪であろうということになり、拾い上げて箱に納め、前の祠へ合祀して毛長三社大明神と号した。いつのころか泉蔵院の僧が、神体とする毛髪を鎌倉へ持って行ってしまった。それで、今も鎌倉の某所に毛長神社があるという。その後、文政年中(1818年〜1830年)に京都(神祇管領)から改めて毛長神社と定められ、この神は稲穂の神なので毛長沼に面する村々は鎮守同様に守るように言われた。よって当社は、新里村・市右衛門新田・彦右衛門新田の三か村の鎮守とした。
□主祭神 毛長姫命
□御祭神 大己貴命 倉稲魂神 別雷槌神
- ポイント7.遊歩道
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毛長川沿いの遊歩道は簡易なアスファルト舗装ですが、両側には地元の方が手入れしているであろう花々が植えられています。
遊歩道脇の農園には葡萄の棚もあります。
- ポイント8.武蔵野の路
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谷塚橋を渡って足立区側に整備された武蔵野の路を歩きます。
武蔵野の路は、身近な自然に親しみ、歴史や文化に触れ、合わせて気軽にハイキングやサイクリングなどのスポーツを楽しむことのできるよう、既存の道路や堤防等を利用しながら、公園・緑地・文化財・スポーツ施設などを連結する野外レクリエーション施設として、東京都および関連自治体が整備を進めているのが総延長277.7kmに及ぶ「武蔵野の路」です(既に武蔵野の路の整備は終了し、現在では維持・管理・広報も行なわれていません。)。海・川・森・山のそれぞれの特徴をもった21のコースに分かれ、地域の自然や風景、歴史などを楽しみながら東京を周回できる遊歩道となっています。
毛長川沿いの遊歩道を含む「舎人コース」は、荒川鹿浜橋を起点にして、葛飾区の大場川水門に至る16.4kmのコースです。荒川・毛長川・桁川・中川を結び、それら河川沿いには、親水公園などのレクリエーション施設が点在しています。様々な河川景観を楽しみながら散策することができます。
遊歩道の脇には彫像やベンチが設置されています。彫像は、1990年度の第二回足立区野外彫刻コンクールの入賞作品で、タイトルは「せせらぎ 子供の詩」、作者は金森秀禎氏です。子供像が表に7体、裏に3体で構成されています。横にあるベンチは毛長川を向いていますが、「子供の詩」は毛長川を背に建っています。
彫刻は遊歩道に背を向けています。
足立区は武蔵野の路に力をいれていたようで、他のコースでは見られないような施設も設けられています。草加バイパスの高架と交差するところには、立派なゲートが建っています。
遊歩道は道路を挟んで続いていますが、道路は交通量が多いので遠回りして交差点の横断歩道を渡らなければなりません。
道路の反対側に出ますと、小さな公園があり、古代ローマ遺跡を想わせる煉瓦塀の手前には「武蔵野の路」と書かれた石碑が置かれています。
小さな遊具もあって児童遊園のようにも見えます。園内には、奇妙な形をした彫刻や、「魚とりの少年」と題した彫像が展示されています。
コリントスの柱が囲んでいるような円形の小広場には、武蔵野の路の案内板が立っています。舎人コースは16.4kmと距離が長いので、この公園は歩き疲れた時の休息ポイントになりますね。
毛長川と旧日光街道が交差する地点に架けられた水神橋を渡ります。
橋の北側は埼玉県草加市、南側は東京都足立区になります。
旧日光街道から路地を抜けた先に、文教大学があります。文教大学は、学校教員の養成に力を入れている大学で、公立学校の教員採用人数は全国一位となっています。令和三年(2021年)4月に開設された東京あだちキャンパスには国際学部と経営学部があり、約1、800人の学生が学んでいます。大学の敷地(4.7ヘクタール)は、かって住宅公団(現在のUR)の花畑団地のA及びB街区でした。
文教大学の開設に合わせて、毛長川の大改修が行なわれました。以前は足立区の中でも有数のドブ川だったのですが、水質の向上と護岸のコンクリート化が行なわれ、今では見違えるように綺麗になっています。ただし、大学の周辺だけですが。
以前は水神橋と花畑大橋の間には橋が架かっていなかったのですが、大学の正面入口に、対岸の草加市との間に新しい橋(人道橋)が架けられました。橋の名前の「花瀬橋」は、足立区花畑地区と草加市瀬崎地区の各1文字をとり、東京都と埼玉県を結ぶ地域密着型の橋として親しまれるようにという思いがこもっています。
- ポイント9.毛長公園
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昔の毛長公園は、毛長川と花畑団地に挟まれて細長く続く緑地帯でした。しかし、文教大学の誘致に合わせて大規模な改修が行なわれ、未だ工事中の箇所もありますが、今では見違えるように整備されています。
毛長公園には多くの石碑が建っています。毛長公園は、花畑町の土地区画整理組合を記念して造られ、公園内には区画毎に記念碑が建てられました。碑文はありませんが、裏面には、制作した石材店の名前と日付、それに使用した石材が書かれています。
昭和五十五年三月吉日建之
神奈川県根府川石
根府川石は、江戸城築城にも使われた徳川家康縁の石です。赤ボサ石と同じく、小松石の表層で産出されます。表面が滑らかで光沢があるため、古来にへげ石ブームを起こしたほど人気のある神奈川県の銘石です。板状摂理の為、ペリペリと表面がはがれる「へげ石」の一種で、箱根の火山が約40万年前に噴火し、海に流れた溶岩が急冷されてできた石です。
令和五年度にリニューアル整備された施設が一部オープンしています。令和五年3月31日には、文教大学東京あだちキャンパスのすぐ北側に、毛長公園親水テラスが整備されました。毛長川を眺めながらゆったりと休憩できる場所で、地域の方や学生の憩いの場となっています。野外劇場にもなりそうなテラスで、小規模なイベントにも使えそうです。
今回リニューアルオープンされた毛長公園には、3種類の健康遊具が設置されました。一番手前の「ローボード」は、座面をスライドさせ手漕ぎボートのように腕や足の筋力アップをする器具です。毛長川沿いの毛長公園でボートに乗った気分で気持ちよく運動できます。中程の「前屈ボード」は、シートに座り、両手を伸ばし前屈運動して上半身のストレッチをする器具です。目盛りが付いているので、目標を決めてストレッチできます。一番奥の「ぶらさがり」は、自分の身長にあったバーにぶらさがり背中のストレッチをする器具です。背中の柔軟性を高め、きれいな姿勢を保つことができます。
毛長公園に背を向けるようにして小さな神社が祀られています。花畑浅間神社には足立区の登録有形民俗文化財になっている富士塚があり、その頂上に石の祠が鎮座しています。1960年〜1970年代までは見渡す限りの田んぼの中に小さな塚があり、その上に石造祠の浅間社があることから「野良浅間(のらせんげん)」と呼ばれていました。江戸時代、花又村(現在の花畑)には浅間神社が2社ありましたが、明治四年(1871年)に合併されて1社になりました。祭神は、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)です。享保二十年(1735年)に建立され、たびたび修復・維持されてきた鳥居には、旧花又村の會組・前通・堤根・仲組のヨズシ(4つの集落内生活共同組織)名が刻まれ、ヨズシの人びとによって信仰され、守り継がれてきたことがうかがえます。
鳥居の扁額は、御影石に金色の枠をはめ、社名も元々は金色だったようです。
花畑浅間神社は社殿を持たず、富士塚の頂上に祀る浅間社をそのまま社名とし、「野浅間」ともいわれています。昭和の三十年代迄は、見渡す限りの田んぼの中に小さな塚がありました。石柱で囲まれたた小高い丘の上に富士塚が聳えていますが、これは富士講の二代目教主伊藤参行を講祖とする丸参講によって築造されました。丸参講は千住神社や保木間氷川神社にも富士塚を築造しています。石鳥居の年代や伝承などから、この富士塚は明治初期に築造されたものと推測されています。
花畑浅間神社富士塚
富士塚とは、富士山を信仰する人々の集団である富士講によって築造された塚である。富士山の溶岩石を使用して小山を築き、頂上に浅間神社の祠を祀り、烏帽子岩、小御嶽社をはじめ、実物の富士山と同様に各名所を配すのが一般的であり、登山して参拝できるようになっている。富士山信仰は、文化・文政年間(1804年〜1829年)に江戸を中心として爆発的に広まり、多くの講中が結ばれ、講の発達に伴い富士塚の築造も盛んに行われるようになった。この富士塚は、千住神社、保木間氷川神社の富士塚と同じく伊藤参行を講祖とする丸参講による築造である。築造年代は明らかではないが、石鳥居の年代や伝承より明治初年(1872年)と考えられている。また、花畑大鷲神社には、この講中により明治五年の紀年のある富士登山絵馬が奉納されている。花畑浅間神社は社殿を持たず、富士塚の頂上に祀る浅間神社をそのまま社名とし、「野浅間」といわれている。神社の北側を流れる毛長川流域には、多くの古墳や遺跡の存在が確認されており、この神社もその形態から古墳を利用したものと考えられており興味深い。昭和五十九年(1984年)十一月、足立区登録有形民俗文化財とした。
富士塚は、背後もしっかりボク石で固められ、登山道が幾つか走っています。烏帽子岩・小御嶽社・天狗岩を始め、実物の富士山と同様に各名所を配しています。登山道を登って参拝できるようになっています。手すりがなく、尖った岩に掴まりながらの登山となりますので気を抜けません。
- ポイント10.花畑大橋
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花畑大橋は、足立区と草加市の境を流れている毛長川に架かる橋です。「大橋」となっていますが、実際は橋長30mもないでしょう。花畑大橋から四家交差点まで南方向に真っ直ぐに延びる道路には、「花畑大橋通り」という愛称名が付けられています。この通りは、かつて「道海道(どうかいどう・どうけどう)」と呼ばれ、旧日光街道が整備される前の奥州街道の道筋でした。ちなみに、花畑という土地は、1907年から1935年まで操業したレンガ工場を除き、1964年の花畑団地誕生まで、ほぼ純然たる農村地域でした。「花畑」という地名は、明治二十二年(1889年)の市制町村制施行に伴って近隣8か村が合併し、近代行政村として成立した際に名付けられました。正平七年(1352年)の古文書に「花俣(はなまた)」として登場する都区内屈指の古村で、その後「花又」と表記されるようになり、江戸時代は一貫して御料所(天領:将軍の直轄地)でした。明治期の合併に際し、8か村のうち最大だった花又の名に基づき「花畑」(村)が誕生しました。これは「花又」の美称地名であると同時に、花又村のままでは合併した諸村が従属的立場となり好ましくないとの配慮から付けられたものです。後三年の役で奥州へ向かう途中の源義光がここを通りかかった際に木の根元に光るものがありました。取り出してみると大鷲の背に釈迦仏が乗った鷲明神の尊像でした。そのとき傍らの川が源氏の白旗のように「花また綾に」光り、そこで村を「花又」・傍らの川を「綾瀬」と名付けたといわれています。
花畑大橋の手前に広場が付属した毛長公園があり、「毛長公園」の名称の由来を記した記念碑が建っています。文章がイマイチですね。
銘名について
この公園名は、北側に流れている川を毛長堀と称し、都県境界をなす。川巾は約参間にて、今より約七十年前明治四十年頃は舎人村(舎人・入谷・古千谷)及び埼玉県側(草加町・谷塚村(草加市))の村民は当時化学肥料がなく、人糞だけが肥料として農家の貴重な資源で、遠く浅草(台東区)向島(墨田区)方面まで汲取りに行き、舟にて隅田川より綾瀬川を上り、毛長堀との合流点より堀を五十米位上ると枠が有り、その近くに舟をつけ、艀(はしけ)舟に人糞を積替え舎人村の二ツ橋まで運び、この堀を利用した枠は、桑袋耕地(桑袋小学校 都住)に灌漑用水として伝右川に木枠の樋をかけ、悪水(雨水)を再利用して来た。都経済局農林部農地課が幹線水路改修工事を昭和四十八年四月に一級河川毛長川となり、川の名を取り毛長公園と命名す。
- ポイント11.大鷲神社
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大鷲神社は花畑地区の産土神とされる神社で、花畑大鷲神社とも称されます。古木や巨木に囲まれた静かな環境の中にあり、四季折々に様々な植物や昆虫・野鳥などが見られます。普段は静寂ですが、正月の初詣、11月の七五三などの時期は参拝客で賑わいます。大鷲神社の門前市は、各地で行われる「酉の市」の発祥といわれ、酉の市の夜には花火が打ち上げられます。
江戸時代後期には、周辺各地の和算家から算額が奉納された記録があり、その一部は現存しています。天保四年(1833年)4月に花又村(現在の花畑)の住人金杉清常の門人たちが清常81才の記念に奉納した算額は、「花畑大鷲神社算額」として足立区登録有形文化財になっています。清常は木挽を業としつつ、数学を江戸の関孝和流第五伝の神谷定令に学び、多くの門人を育てました。算額は、数学の問題を木製の額に書き、神社仏閣に掲げたものです。門人ら66名の名前と住所が記載されていて、その範囲は花又村を始め、内匠・千住・保木間や、現在の八潮市・草加市・三郷市等の近郷近在に及んでいます。ちなみに、算額に書かれた問題は以下の通りです。
大鷲神社の創建は宝治年間(1247年〜1249年)とされ、平安時代後期の武将源義光が後三年の役で兄の源義家を助けるために東北地方へ向かう途中、この地で戦勝を祈願した際に見かけた鷲を祀ったのが神社の縁起とされています。古くは鷲明神と称されていましたが、明治以降に鷲神社と改められ、その後大鷲神社を正式名称としました。
大鷲神社
大鷲神社の創建は古く、祭神は日本武尊である。日本武尊は、第十二代景行天皇の皇子で、景行天皇に東征を命じられ、その帰途に当社に立ち寄ったという。また、平安時代には、源義家の弟である新羅三郎義光が奥州の役に赴く途中、社前に戦勝を祈願
したと伝えられる。当社は応永年間(1394年〜1428年)頃から日本武尊の命日とされる十一月の酉の日に例祭が行われるようになり、大変なにぎわいを呈し、世にこれを「西のまち」といった。江戸中期にはじまり七月十五日(現在は七月の第三日曜日)の祭事として奉納されている「花畑大鷲神社獅子舞」は歴史と伝統を持つ古式ゆかしいものである。現在の本殿は嘉永七年(1854年)に上棟、明治八年(1875年)竣工、総欅、三間四方の唐破風造りである。正面左右に浮彫りされている「昇り龍」「降り龍」は建築彫刻の名作である。また拝殿は棟札の記録からみると寛永元年(1624年)の創建である。境内には、江戸時代に農家の若者衆が力くらべに使った「力石」が保存されていて農民生活の一面を物語っている。「花畑大鷲神社獅子舞」は足立区指定無形民俗文化財、「本殿」「力石」はそれぞれ足立区登録有形文化財と足立区登録有形民俗文化財になっている。
現在の祭神は明治以降に祭神とされた日本武尊ですが、実質的な祭神は源義光と考えられ、佐竹氏はじめ義光の後裔を称する大名や武家に崇敬されました。本殿は、源義光の子孫である秋田藩主佐竹氏が造営し、総欅造りで数知れぬ大小の彫刻が随所に散見できます。特に正面にある向拝柱に彫られた「昇り龍・降り龍」は荘厳で、左甚五郎の十三代目後藤与五郎の作です。昭和五十七年12月10日に足立区登録文化財に指定されました。
境内には巨木が林立しています。
足立区指定第8号 保存樹林
ここの鎮守の杜は、区内最大規模で大樹も50本以上有しています。「NPOちんじゅの森」の調査によれば、神苑全体からの酸素の年間供給量は、自動車223台分
になるそうです。大切な緑を後世に伝えていきたいものです。
熊手について解説があります。
かっこめについて
当神社のかっこめ(熊手)は鷲が獲物を取る時の足の形より始まったものとされ、運を「鷲づかみにする」「かき集める」と言われております。開運守護・家内安全・商売弥栄の御札としてお受けいただき、家族皆様の健康や幸せ、会社・店舗の益々の繁栄を祈念してお飾りください。
猫ちゃんが所在なげに休んでいます。
- ポイント12.浅間第一公園
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浅間第一公園は、花畑八千代幼稚園の北西にある区立の公園です。面積は14、146平方メートルあり、遊具は設置されていませんが、広々とした敷地内には芝生が植えられ、開放感に満ち溢れています。緑の絨毯の上で、子ども達は思い切り走りまわったり、キャッチボールやサッカーなどのボール遊びをして楽しむことができます。また園内には、山地の尾根から山腹、渓流沿いに育つ日本固有種の落葉高木「シナノキ」などの木々も育っています。
浅間第一公園は区画整理事業によって造成されたようで、公園の北側の一角に記念碑が建っています。「両地」とは、猿田彦大神を指す言葉で、神社名としても使われています。ここでは、浅間社を意味しています。
銘名について
この公園は、私達が行う土地区画整理事業に於る公園です。古老の話では大鷲神社の北約百米位の場所に浅間社がありましたが、現在の場所に大鷲神社を遷宮なされましたので浅間社の移転先を西方富士の方に引越しなされたと云う事を聞いています。浅間社跡地の碑があり、第二次世界大戦中には照空燈の陣地となり、終戦後まもなく都立聾唖学校となる両地が見える所なので浅間第一公園と銘銘す。
昭和五十四年九月吉日建立
新潟県北浦原郡安田町産 桜草水御影石
「花畑団地」は、昭和三十九年(1964年)に入居が開始された都内でも有数の大規模団地です。東西に伸びる敷地内には、ゆとりのある間隔で住棟が並び、緑豊かな広場やプレイロットや遊歩道が整備されています。各所には、住民が丹精を込めて育てている花壇や、気軽にひと休みできるベンチなども設けられ、誰もが落ち着いて過ごせる空気が流れています。以前は1号棟から80号棟まであったのですが、1号棟から22号棟までが取り壊され、跡地には文教大学が開校しました。
団地には日々の生活に欠かせない施設も揃っています。団地の中央にできたショッピングモール「ベルクスモール足立花畑」には、スーパーマーケットを始め、飲食店・美容院・本屋・100円ショップ・衣料店などが並び、客足は途絶えることがありません。
ちなみに、ベルクス陸上部は元旦に開催されるニューイヤー駅伝の常連出場チームです。
荒川堤の江北五色桜は有名ですが、花畑団地には七色桜が植えられているそうです。
花畑七色桜
明治期に、現在の足立区内に様々な品種の桜が植えられ、江北五色桜として名所
になりました。それにちなみ、花畑団地の東西通りに「花畑七色桜」として七種類の桜を植えました。
ウコンザクラ
花期:4月上旬〜中旬
花の色が淡黄緑色の品種。欧米でも好まれている。ウコンを使って染めた色に似ていることから、この名がついた。
カンザン
花期:4月中旬〜下旬
花やつぼみの色は濃い桜色の八重咲きである。荒川堤に栽培されていた品種。
カンヒザクラ
花期:3月上旬〜中旬
花の色は濃紅色。早春の寒いころから開花し花色が濃いのでカンヒザクラの名がついた。
シロタエ
花期:4月中旬
花は八重咲きの大輪で白色。樹勢が強く大きくなりやすい。荒川堤に栽培されていた品種。
ギョイコウ
花期:4月中旬〜下旬
花の色は淡緑色で変わった花色の桜。古くから荒川堤で栽培されて知られていた品種。
ウスズミザクラ
花期:4月上旬〜中旬
花の色は白色で全体にしわ状のうねりがある。荒川堤に栽培されていた品種。
フゲンソウ
花期:4月中旬
花の色は淡紅色〜白色。荒川堤にあった品種で室町時代からあったといわれている。
団地内ではこの他に、ソメイヨシノ・シダレザクラなどの桜が見られます。
- ポイント13.花畑公園(桜花亭)
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花畑公園は、昭和五十九年(1984年)に開園した区立公園です。
園内には大きな広場の他、じゃぶじゃぶ池や遊具などが整っていて、近隣住民などに利用されています。
また広場周辺は約120本の桜の木で囲まれていて、花見のシーズンには多くの花見客で賑わいます。
花畑公園の西側には、足立区制定50周年を記念して造成された「花畑記念庭園」という回遊式の日本庭園があります。
園内には滝・池・小川・築山などが設けられ、庭園巡りが出来るようになっています。
【花畑記念庭園 】
@雪見灯籠(ゆきみどうろう)
庭園入口に鎮座する大きな笠が特徴的な石灯籠。雪化粧した姿はさらに雅趣に富む。
A四阿(あずまや)
庭園全体を一望できる日本庭園ならではの添景。散策の足を休めるくつろぎの空間。
B大滝(おおたき)
三波石を自然な趣で積んだ「崩れ石積」の滝。三段落としの水流が涼やか。
C洲浜と岬灯籠(すはまとみさきどうろう)
石を敷き詰め海岸や砂浜と岬の灯台を表現。日本庭園には珍しい海の情景。
D待合(まちあい)
深山の渓流を感じさせる心地よい水音と眺め。足を止めひと息つける腰掛待合。
E春日灯籠(かすがどうろう)
春日大社に由来し鹿の彫刻が特徴的。周りの木々とも調和し紅葉期の景観は特に優美。
庭園の由来を記した石碑が建っています。
花畑記念庭園
昔、このあたりは緑と水豊かな農村風景がひらけ、武蔵国足立郡花又村と呼ばれていました。その後、東京府南足立郡となり、昭和七年、東京市に編入され、足立区が誕生しました。昭和五十七年、足立区は区制五十周年を記念し、花畑町土地区画整理組合の協力を得て、この庭園の建設に着手しました。区民の皆さんの憩の場として緑と水豊かなこの庭園を大切にし、後世に伝えていきましょう。
庭園は無料で入れます。門を潜ると、左手にはお城の濠のような水面が広がっています。
岩の上に巨大な雪見灯籠が建っています。
文字通りの枯滝です。
池の正面には桜花亭があります。桜花亭は集会施設で、日本庭園を眺めながら茶道や琴・生け花などの日本の伝統文化を感じられるような集いを開く事もでき、近隣住民の集会やサークル活動などに広く利用されています。
四阿(あずまや・しあ)とは、庭園などに眺望や休憩などの目的で設置される簡素な建屋をいいます。「四阿」の「阿」は軒の意味で、四方に軒を下ろした寄棟や宝形造などの屋根を持つ建造物を意味します。唐風に「亭」(ちん)とも呼ばれます。和語の東屋(あずまや)は、東国風の鄙俗な建屋を意味します。
大滝には水が流れ落ちています。かなりの落差ですね。手前には、洲浜と岬灯籠があります。
ゴール地点の花畑五丁目バス停に着きました。
ということで、足立区で五番目のコースとなる「A−北西エリア 05.伊興・毛長川コース」を歩き終えました。次は足立区で六番目のコースとなる「A−北西エリア 06.舎人公園・都市農業公園コース」を歩きます。
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