A−北西エリア 06.舎人公園・都市農業公園コース  



コース 踏破記  

今日は足立区の「A−北西エリア 06.舎人公園・都市農業公園コース」を歩きます。最初に歩いたのは2022年6月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年11月に改めて歩きました。

スタート地点:舎人公園駅西口

 1.舎人公園

 2.レーガン桜

 3.江北北部緑道公園

 4.皿沼公園

 5.谷在家公園

 6.上沼田北公園

 7.北鹿浜公園

 8.都市農業公園

ゴール地点:都市農業公園バス停


スタート地点の舎人公園駅西口から歩き始めます。



ポイント1.舎人公園

舎人公園は、公園中央で十字に交わる道路(尾久橋通り・舎人公園通り)で4区画に分けられています。西側敷地(A・D地区)に陸上競技場(3種公認)・テニスコート・野球場などのスポーツ施設、東側(B・C地区)には水鳥が見られる大池や親水広場などの自然と親しむスペースやキャンプ場が設けられています。また、南東部にはバードサンクチュアリの施設もあります。バードサンクチュアリーとは、野鳥たちだけの住処で、巣作りに適したガマやアシ、そして雑木林などの環境管理を行ない、観察舎からは様々な野鳥たちを観察できる施設です。公園の面積は、東京ドーム約14個分の64.96ヘクタールで、23区内の都立公園としては3番目の規模(1位:水元公園、2位葛西臨海公園)になっています。


マップを左に90度回転すると上が北方向になります。


ポイント2.レーガン桜

黄色に色づいた銀杏の並木道を抜けた左手の広場の奥に、アメリカ合衆国のナンシー・レーガン元大統領夫人から贈られた「レーガン桜」が植えられています。



レーガン桜は、昭和五十六年(1981年)にアメリカ合衆国のナンシー・レーガン元大統領夫人から日米親善の印として日本に贈られたソメイヨシノです。翌年11月に舎人公園に植えられました。明治時代、足立区を流れる荒川の土手に様々な品種のサクラの苗が植えられ、「荒川堤の桜」や「江北の五色桜」と呼ばれる名所となりました。アメリカ合衆国では、紀行作家のエリザ・R・シドモア女史の作品などをきっかけに、日本のサクラの人気が高まり、明治四十五年(1912年)に当時の東京市から3、000本のサクラが贈られ、首都ワシントンのポトマック公園に植えられました。この時のサクラの穂木は、荒川土手のサクラから採取されました。また当時のヘレン・タフト大統領夫人がその中から1本のソメイヨシノを植え、「タフト桜」と名づけられました。その後、荒川土手のサクラは工場の煙害や荒川放水路の工事の影 響などによって衰退し、第二次世界大戦後の燃料難の時代に全て切られてしまいました。足立区では、区政施行50年の記念事業のひとつとして、ワシントンのサクラの里帰りを計画しました。昭和五十六年(1981年)にポトマック公園において3、000本の穂木を採取し、日本に運びました。そしてこれらのサクラと共に、かつてタフト大統領夫人が植えた「タフト桜」の枝から穂木を取った苗がレーガン元大統領夫人から贈られ、「レーガン桜」と名付けられました。

区制50周年記念レーガン桜の植樹について

レーガン桜は、昭和五十六年2月、日米友好の証として、アメリカ合衆国第40代大統領ロナルド・レーガン氏の妻、ナンシー・レーガン夫人から贈られたものです。これには次のいきさつがあります。現在の足立区江北の一帯は、昔「荒川の五色桜」と呼ばれた里桜の名所でした。明治四十五年、当時の東京市長尾崎行雄は、日本の桜の美しさに深い関心を寄せる米国民の要望にこたえ、日米友好の証として、12種3000本の五色桜の苗木を、首都ワシントンに贈りました。桜はホワイトハウスに近いポトマック河畔の公園に植えられることになり、植樹祭では、第27代大統領ウィリアム・タフト氏の妻、ヘレン・タフト夫人が、最初の1本を植樹しました。その後ポトマック公園は、桜を愛する米国の人々の努力により、世界的な桜の名所となり、贈った桜のうち700本あまりは、 桜植樹70周年記念祭にも美しく花を咲かせました。一方親元の五色桜は堤防工事や公害の影響で、残念なことに衰退してしまいました。足立区では昭和五十六年に、区制50周年記念事業として、「五色桜」を復活させるための「桜の里帰り」を企画したところ、ワシントン国立樹木園から3000本の接木用の枝の贈答があり、ポトマック河畔からの「桜の里帰り」が実現しました。同年、足立区民の桜を愛する心に感動したナンシー・レーガン大統領夫人から贈られた桜がレーガン桜です。レーガン桜は、タフト桜の枝を挿木した、いわばアメリカ生れの二世の桜で、品種はソメイヨシノです。名付親の鈴木都知事と育ての親の古性足立区長により、ここ舎人公園の地に定植されました。



案内板の後ろの中央の木がレーガン桜です。


桜植樹記念碑は柵内にあって碑文は読み取れませんが、次のような内容だそうです。

レーガン桜

日米両国の友好をしるした「レーガン桜」は、明治末頃、江北の荒川堤に咲き誇った五色桜に由来する。明治四十五年、尾崎東京市長は、五色桜をワシントンに贈った。時のタフト大統領夫人は、その桜をポトマック河畔にお手植えし、その後同河畔は桜の世界的名所となった。昭和五十六年2月、足立区は桜の名所復活を願い、桜の里帰りを実現させた。同年、桜を愛する心に感動されたレーガン大統領夫人は、「タフト桜」からのさし木苗を日本国民に贈られた。この桜を東京都知事鈴木俊一は「レーガン桜」と命名し、足立区長古性直と共に、区制50周年を記念してこの地に植樹した。

THE REAGAN SAKURA

THIS TREE NAMED REAGAN SAKURA BY GOVERNOR SUZUKI OF TOKYO WAS PRESENTED TO THE JAPANESE PEOPLE BY THE FIRST LADY NANCY REAGAN AS A GIFT OF FRIENDSHIP IN 1981. IT WAS A ROOTED CUTTING FROM THE TREE SENT TO THE CITY OF WASHINGTON IN 1912 BY THE THEN MAYOR OZAKI OF TOKYO AND PLANTED IN POTMAC PARK BY THE THEN FIRST LADY HELEN TAFT. GOVERNOR SUZUKI AND MAYOR FURUSHO OF THE ADACHI WARD PLANTED IT ON THIS SITE TO COMMEMORATE THE 30TH ANNIVERSARY OF THE WARD.




ポイント3.江北北部緑道公園

舎人公園を出て、北足立市場北交差点から谷在家公園まで南北に連なる長〜〜〜い江北北部緑道公園に入ります。



ここも足立区のウオーキングコースになっています。



公園内に遊具などはありませんが、約1キロメートルにわたり、10種類・200本の桜が植えられています。

ワシントンからの「里帰り桜」

足立区江北の一帯は、昭和初期まで「荒川の五色桜」と呼ばれる桜の名所でした。様々な品種の桜が植えられていて、花の時期には、白や黄色、淡紅や濃紅色などに彩られ、五色の霞がたなびくように見えたところから。この名が付いたと言われています。明治四十五年、当時の東京市長、尾崎行雄は日米友好の証として「荒川の五色桜」の苗木十二品種三千本を、アメリカの首都ワシントンに贈りました。現在、市内のポトマック公園は、世界的な桜の名所となっています。しかし、本家の「荒川の五色桜」は堤防工事や戦争、公害等の影響で、残念ながら衰退してしまいました。足立区では「五色桜」を復活させるために、昭和五十六年二月、区政五十周年記念事業として、ポトマック公園の桜の枝三十五品種三千本の里帰りを実現しました。この枝から苗木を増やし、あわせて「荒川の五色桜」に由来する品種を集め、区内の公園や学校などに植えました。新しい桜の名所として「都市農業公園」や「荒川桜づつみ」などがうまれています。ここに植えられている桜は、これらの桜の一部です。貴重な、歴史的財産でもある「里帰り桜」を、招来にわたって大切に大きく守り育てていきましょう。




交差する道路で公園は何カ所も分断されていますが、公園には色々な花が植えられていて、「花の散歩路」になっています。



江北北部緑道公園には、約200本の桜の木が植えられていますが、このうち約100本は晩秋に咲く桜のひとつの「十月桜」という品種で、秋から春にかけて、断続的に開花します。十月桜は春と秋に開花する珍しい桜として、地域の人たちによって大切に見守られています。十月桜の他、春に咲くソメイヨシノやカンザンなどの品種も植えられていて、春は4月中旬頃まで花を楽しめます。



緑道の右手に、皿沼小学校があります。この辺り一帯の地名「皿沼」ですが、「皿」は開墾地や乾地を意味し、「沼」は沼沢地や湿地帯を指します。このことから、皿沼は開墾された沼地や湿地帯であったと考えられます。



ポイント4.皿沼公園

皿沼公園は皿沼小学校に隣接し、面積は6、234平方メートルあります。緑の芝生の広場が整備され、周囲には樹や花が植えられています。広場を囲むように、すべり台やブランコ・コンビネーション遊具などの様々な遊具が点在し、どの遊具もカラフルな色彩をしていて、子ども達が元気に遊んでいます。



公園の隅に巨大な石碑が建っています。

皿沼公園

この公園は、江北北部土地区画整理組合事業として、組合員の土地提供により造成したものである。此の地が施工地域のほぼ中央に位置するので、事業完成記念碑を建立する。なお、皿沼町の地名をとり、皿沼公園と銘名す。




公園の北側の奥にも、厳重な囲いの中に巨大な碑が建っています。石碑の上に並べられた丸い球には意味があります。

江北北部土地区画整理事業完成記念碑

二十一世紀へ
昭和二十年戦後、四十数年ほどの激動期はそれ以前の日本の数百年あるいは、見方によっては、有史以来の転変ぶりに匹敵するのではないか。現代はものすごいスピードで疾走する、ジェットコースターに乗って居る様なものだ。総てが目まぐるしく変っていくので実体を正確につかむことは、むずかしい。近頃の一年は、かっての十年、いや百年に匹敵するかも知れない。この地域においても、明治の廃藩置県以来百年、明治四十三年の大水害、大正十二年の関東大震災、更には悲惨な太平洋戦争等で、打ちのめされても、打ちのめされても立ち上がったので、水田地帯は変らず、又交通機関は、東武鉄道、鳩ヶ谷街道に、バスが一時間間隔に走る東京の孤島と言われる処であった。メダカ、フナを追った小川、稲穂波打つ水田、貧しくとも平和な農村地帯に、昭和三十年代より、都市化の波がハイスピードで押し寄せ、スプロール化が目立った。これを見かねた押部、加賀、皿沼、谷在家各地域の先駆者が相寄り、郷土の開発と、住民の明と豊を考えた時、街造りの基幹である区画整理以外にないとの結論に達し、一致協力し、日夜東西奔走して住民の協力を得て、江北北部土地区画整理組合を発足した。此処に四半世紀の間、云ひ知れぬ心血を注ぎ難関を突破し、強固な団結と不屈の精神により、事業の完成を見た。顧り見れば事業中半にして他界された幾多の同志の意志を継ぎ、スプロール化を防ぎ住む人を尊重する環境が整備された。二十一世紀へ先導的役割を果したと確信する。江北北部地区が永遠の生涯と希望に輝く街たらんことを念願して人の球(和)を入れ、記念碑を建立する。尚、組合役員、評価員、総代及び貢献者の氏名を記して後生に伝えるものである。




記念碑の左手には関係者の氏名を記した石碑、右手には区画整理の対象となった地域の図を記した石碑が建っています。総面積は、152.06ヘクタールに及んでいます。ちなみに、1ヘクタールは10、000平方メートルに相当し、これは100mX100mの正方形の面積と同じです。身近な例では、東京ドームの約2.1個分に匹敵する広さです。つまり、東京ドームが320個収まる計算になります。



谷在家北公園は、足立区立鹿浜第一小学校に近接する区立の公園です。江北北部土地区画整理事業によって公園が整備されました。面積2062平方メートルの敷地内には、数多くのサクラが植栽されています。例年3月下旬から4月上旬のシーズンには、公園は一面サクラ色に彩られます。地域の代表的なお花見スポットとして、満開のときには大勢の花見客で賑わいます。

谷在家北公園

この公園は、江北北部土地区画整理組合事業として組合員の土地提供により造成したものである。谷在家地域の北に位置するところから、谷在家北公園と銘名す。




ポイント5.谷在家公園

谷在家公園の広大な敷地には、砂地の広場に芝生エリアや遊具エリアと遊ぶところが盛りだくさんです。園内をぐるりと一周できる遊歩道を通って散歩をすると周りの自然に癒されます。春には見事な桜が見られ、ベンチでお花見を楽しむ人の姿も見られます。遊具はすべり台・ブランコ・砂場と定番のものが揃っています。



ちなみに、「谷在家」の地名の由来には諸説あり定かでありませんが、一説によれば、この地域はかつて存在していた「谷田川」の流路跡の「谷」に開拓期に植民した人々が家を構え(在家)、このことが発端となり「谷在家」の地名が付けられたといわれています。



公園の東側の端に記念碑が建っています。

完成記念碑

谷在家町土地区画整理組合地域は谷在家町の大部分と、西新井町・上沼田町・北鹿浜町押部・北堀之内町・北宮城町・高野町の各一部を包含した面積約五拾八萬平方米より成る。古くより農事を業として来た静かなこの村落を昭和弐拾年終戦後の急激な人口の流人で雑然とした住宅地に変りはじめ、土地区画整理法にもとづく市街地形成は時代の要求する急務であつた。すゝんでその任に当るべく地区有志は相諮って準備委員会を結成し、昭和参拾九年貳月拾壹日設立認可を得て当組合は発足した。以来幾多の困難に遭いながらも、関係官公庁の指導、組合員及び役員の和合と努力と忍耐によってこれを克服し今日の完成となった。こゝに将来の発展を希い、碑石に刻して後世に伝える。




公園の広場は、雨水の貯留と浸透の機能を持っています。

雨水貯留・浸透施設

公園に降った雨水が、すぐに外の道路に出て、水害を引き起こすことがないように、この公園には、図のような施設があります。雨水は、まず透水管で地下に浸み込ま せます。浸み込まなかった残りの水は、一時的に自由広場の中に貯めて、その後ゆっくりと公園の外に出るようになっています。このような理由で、強い雨の後、公園内に水が貯まっていて、御不便をおかけすることがあります。水害防止のためですので、御理解をお願いします。




ポイント6.上沼田北公園

谷在家公園から江北六丁目交差点を渡り、環七北通りのひとつ南側の小路に入ります。住宅街の中に上沼田北公園があります。



雨水貯留・浸透機能を持つ円形の広場には巨大なタコの滑り台があります。足立区にはタコの滑り台を備えた公園は沢山ありますが、上沼田北公園のタコの周囲には大小色々な大きさで形も様々のタコツボが置かれています。滑り台で遊ぶだけでなく、隠れんぼもできます。他にも、鉄棒や砂場などが揃い、ボール遊びができるフェンスで囲まれたエリアもあり、様々な遊びが楽しめる公園です。



民家の前に富士塚があります。山腹に黒ボク石(溶岩)は使われていないようですが、登山道も付いた本格的なものです。山頂には浅間神社を模した祠も建っています。



ポイント7.北鹿浜公園

北鹿浜公園は、遊びながら交通ルールが学べるいわゆる交通公園ですが、足踏みゴーカートや自転車やバッテリーカーに乗る以外にも楽しいことが色々揃っています。公園管理室の隣は展示室と読書室になっていて、展示室には鉄道模型があり、ボタンを押すと列車が走る仕組みになっているのでプラレール好きの子どもに好評です。



入口広場の奥には、現在修理中で中に入ることは出来ませんが、蒸気機関車が保存・展示されています。

C5075
(中距離用小型テンダ機関車)

ここに展示されている蒸気機関車は、昭和四年(1929年)に製造されました。昭和四十六年(1971年)に引退して足立区に来るまで、旅客・貨物用機関車として約200万km(キロメートル)も走り続けました。




園内に展示してある消防車ですが。こちらはもちろん本物で、運転席に乗ることもできます。まるで消防車を運転しているかのような気分が味わえ、子ども達も大興奮です。



園内を一周するミニ列車は、運行は木・金・土・日と祝祭日、それに区民の日である10月1日のみですが、駅や切符売り場まで用意されているという徹底ぶりです。小学生なら「初めて一人で電車に乗ってお出かけする」という想定で、切符を買うところからすべて子ども一人でやらせるのもいい体験になるでしょう。ミニ列車は有料ですが、数十円程度で楽しめます。



他にも一輪車の練習場があり、入園料は一輪車・自転車・足踏みゴーカートなどのレンタル料が無料です。



定番のタコの滑り台もあります。公園の中には、ピクニックが楽しめる桜の広場があり、さらに夏にはジャブジャブ池もオープンします。



北鹿浜公園の敷地は区画整理によって生み出されたようで、入口の横には記念碑が建てられています。



ポイント8.都市農業公園

環七北通りに出てゴール地点の都市農業公園に向かいます。都市農業公園は、昭和五十九年(1984年)に開園し、平成七年(1995年)にニューアルオープンしました。入園は無料で、早朝夜間と年末年始などは休園となります。埼玉県との境界を流れる芝川が荒川に注ぐ河口付近に位置し、南側は荒川河川敷緑地に面しています。全国各地に作られている農業公園のひとつで、自然とのふれあい・植物栽培・園芸・農業への理解と教育、市民の憩いのために作られました。



入口の正面には、都市農業交流館があります。



館内には園内施設の紹介や農業に関する資料が掲示されています。



都市農業交流館前の広場には藤棚が設けられ、暑い時期には日陰の休息所になります。



園内の中央には円形の芝生広場があり、周囲を桜並木が取り囲んでいます。

江北五色桜

昔、荒川堤の五色桜は東京でも有数の桜の名所として親しまれていました。五色桜とは品種の名前ではなく、染井吉野のほかに八重桜などの品種が混植されて白や黄緑、淡紅色、濃紅色、紅色などに彩られ五色の雲がたなびくように見えたためといわれています。ここには当時の風景を再現するために里帰り桜の中から約30品種80本の桜が植えてあります。




芝川沿いには梅林もあります。

生きものとの共生 梅林

かつてこの梅林は「タマカタカイガラムシ」という害虫により大変な被害にあっていました。そこで平成十七年ころから、梅の木の下に公園周辺でみられる野草(カラスノエンドウやムラサキツメクサなど)を移植して、植物とそこにやってくる昆虫類との共生を図りました。その結果、カイガラムシの天敵である「アカホシテントウ」がみられるようになり、同時にチョウやバッタなどのさまざまな昆虫類が増え、梅の害虫はほとんど姿を消しました。以後、この梅林では野草を一定の高さで刈り残すという手法で昆虫類の生息環境を残した管理をしています。この公園では、こうした生きものとの共生を大切にした植物管理を行っています。




2025年に再訪した時は11月の末でしたが、早くも翌年の開花に向けて蕾が赤く色づいていました。



子ども達が果実か何かを採ろうとしていますね。昔だったら何処でも見られた風景です。



園内には、田畑・果樹園・温室など、東京郊外で行われていた農業を伝える目的の施設があります。



芽が出たばかりの野菜畑もあります。



足立区内から移築した長屋門や古民家も保存・展示されています。長屋門は明治中期に建てられたものを移築したものです(2025年に再訪した時は立ち入り禁止になっていました。)。

旧増野製作所長屋門

現在の足立区谷中周辺は、江戸時代初期に開発された谷中新田である。谷中新田には北の浅野久右衛門の開発地と南の吉野長左衛門の開発地があり、それぞれ上谷中、下谷中という呼称もあった。元禄年間(1688年〜1704年)にこの上下の谷中は分村し、それぞれ開発者の名前を冠して久右衛門新田、長左衛門新田となった。旧上谷中の浅野久右衛門家は、地名と名前から各一字をとり「谷久様」と呼ばれていた。この長屋門は明治三十年(1897年)頃の建築で間口17.5メートル、奥行4.8メートル、高さ3.9メートル、屋根は入母屋造りの桟瓦葺で、浅野家の正門として「谷久門」と称されていた。その後、昭和十一年(1936年)に増野製作所の創業者増野清香氏が現青井五丁目に新工場を建設する際に譲り受け、これを補修し多年にわたり工場の門として利用された。昭和五十年(1975年)に同工場が茨城県へ移転する際、後継者である増野鋼四郎氏が保存を決意し、防護柵を施す等保護に尽力された。平成十二年(2000年)都道補助140号線の建設にともない区が寄贈を受け、東京都建設局の協力を得て当地に移築復元した。




裏から見るとこんな感じです。



高台には古民家が移築・保存されています。

旧和井田家住宅(母屋) 一棟

この住宅は江戸時代後期の建築で、間口八間、奥行五間、屋根は寄棟造りの茅葺きである。もと花畑二丁目にあった和井田家邸で、伝えによれば安永二年(1773年)頃に生まれた四代目当主の代に建てられたという。間取りは典型的な田の字型の古民家で、正面右手の大戸から入ると「ドマ」がある。「ドマ」の手前の一画には、籾や米を貯えた「コメビツ」、奥には「カマド」を備えた台所である「カッテ」がある。さらにその奥には「ミソベヤ」がある。左手には家族の居間である「イタノマ」、寝室に使われた「ヘヤ」、平書院と床の間を備えた「ザシキ」や「オク」と呼ばれる部屋などがある。「イタノマ」と「ヘヤ」が根太天井であるのに対し、「ザシキ」と「オク」は棹縁天井であり、二部屋の間には、欄間も設けられている。「イタノマ」と「ヘヤ」は日常生活の場であり、「ザシキ」と「オク」は格式を備えた空間となっている。天井裏には、「ドマ」から梯子で昇り降りし、物置として使用された。安政大地震(安政二年・1855年)を経てきたというこの家屋は、台所をはじめ、南側瓦葺きの庇、西側廊下と便所など、増改築の跡をうかがうことができる。東側壁面は、竹を細かく割って土真壁を覆う「しぎ竹」という工夫も見られる。また「ドマ」や軒先に敷き詰められた煉瓦は、明治時代の花又帝国煉瓦の工場で造られた製品である。この住宅は貴重な江戸時代の農家建築として区に寄贈され、昭和五十八年十二月に足立区指定有形民俗文化財となった。翌年に掛けて足立区都市農業公園に移築保存され、一般公開されている。




今は殆ど見かけなくなった郵便ポストも置かれています。郵便物を投函しても届くことはないでしょうけど。



間取りが詳しく説明されています。

足立区指定有形民俗文化財
旧和井田家住宅

概要
旧和井田家住宅は江戸時代後期に建てられた茅葺きの家屋で、足立区の古い農家建築の典型的な特徴を備えています。もともと足立区花畑にあった住宅を、1983年〜1984年に都市農業公園に移築し保存したものです(足立区指定有形民俗文化財)。

間取り
入口を入ると「ドマ(土間)」があります。住居の空間は、「イタノマ(板の間)」「ヘヤ(部屋)」「オク(奥)」「ザシキ(座敷)」という、4部屋の並びが漢字の「田」に似た典型的な「田の字型(四つ間取り)」で構成されています。


【カミコウカ】
トイレをカミコウカと呼んでいました。移築前は屋外にもトイレがありました。写真の屋内トイレは家長(当主)のみが使えるもので、唐草模様があしらわれた特注品です。他の家族は屋外のトイレを使ったそうです。
【イタノマ@】
イタノマは@・A共に家族の日常生活の場でした。隣接するヘヤは若夫婦の寝室として使われていました。
【イタノマA】
小さな囲炉裏があり、食事や農作業の合間の休憩に使われていました。
【オク・ザシキ】
これらは格式のある、あらたまった部屋です。特にザシキは家で一番あらたまった部屋のため、トコや平書院という装飾があります。客人の接待などに使われていました。また、冠婚葬祭の際はふすまを外し、この2部屋を主に使っていたそうです。
【カッテ】
現在でいう台所にあたります。コンクリート製ですが、古い形を残したカマドがあります。カマド上方に煙集めの囲いと、煙出し窓がついています。当時カマドの周囲の壁や天井は、煙で燻されて黒く煤けていました。現在はカマド上部にだけ、黒い状態が残っています。
【コメビツ】
米を貯えておく場所です。「コクビツ」「ココビツ」とも呼ばれました。いたずら等をすると、中に閉じ込められたそうです。
【レンガ】
移築時の当主である和井田栄一氏の祖父健次郎氏が当主であった時期に、大きな改築がなされ、ドマや庇の下など、ふんだんに煉瓦が敷き詰められていました。現在はドマの一部に煉瓦が残っています。
【井戸】
足立区の古い民家では、前庭に井戸がある家が多かったようです。旧和井田家住宅も移築前には、門を入ったすぐ右手にお風呂が併設された井戸があり、その周辺にトイレもありました。


母屋と長屋門の間に井戸が見えます。

旧和井田家住宅の歴史
1855年
安政江戸地震が起きる。旧和井田家住宅は家主の半兵衛氏がこの地震より前に建てたとされる。
1868年
後に花又帝国煉瓦株式会社の役員となる和井田健次郎氏が生まれる。健次郎氏の時代、煉瓦をあしらうなどの大きな改修が行われ、旧和井田家住宅の現況がつくられた。
1923年
関東大震災が起きる。倒壊を免れるが、地震により住宅が傾いたとされる(口伝)。
1945年
東京大空襲の爆撃を受けるが、戦火を免れる。近隣に落ちた爆弾の爆風で関東大震災時の傾きが戻ったとの言い伝えも残っている。
1965年頃
茅葺き屋根の一部を葺き替えた記録がある。時代の変遷により、この頃すでに屋根の材料である茅の入手がとても困難となっていた。
1980年頃
居住者がいなくなるが、住宅は親族の手入れによって良好な状態に保たれる。
1983年
足立区による調査で高い価値が認められ、「足立区指定有形民俗文化財」となる。同時に足立区都市農業公園へ移築され、復元工事が開始される。
1984年
都市農業公園に竣工、展示が始まる。屋根も葺き替えられて新しくなる。
2007年
移築後2回目となる屋根の葺き替え作業が行われる。




夏期にはタマネギ、晩秋には稲と、季節毎に作物が天日干しにされています。



荒川土手側入口にはレストハウスがあり、荒川の河川敷道路から芝川自転車道が分岐する地点として、サイクリング愛好者の休憩ポイントとなっています。



ゴール地点の都市農業公園バス停に着きました。



ということで、足立区で六番目のコースとなる「A−北西エリア 06.舎人公園・都市農業公園コース」を歩き終えました。次は足立区で七番目のコースとなる「A−北西エリア 07.竹の塚第五公園・元渕江公園コース」を歩きます。




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