A−北西エリア 08.舎人公園・五色堤公園コース  



コース 踏破記  

今日は足立区の「A−北西エリア 08.舎人公園・五色堤公園コース」を歩きます。最初に歩いたのは2022年7月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年12月に改めて歩きました。

スタート地点:舎人公園駅東口

 1.舎人公園(噴水広場)

 2.野球場

 3.鹿浜第一小学校

 4.谷在家公園

 5.上沼田小学校(平成二十七年4月1日に鹿浜五色桜小学校に統合され、廃校)

 6.鹿浜小学校(平成二十七年4月1日に鹿浜五色桜小学校に校名変更)

 7.鳥椛屋公園

 8.都市農業公園

 9.荒川河川敷

10.荒川堤桜並木

11.堀之内公園

12.五色堤公園

ゴール地点:荒川土手バス停


スタート地点の舎人公園駅東口から歩き始めます。



ポイント1.舎人公園(噴水広場)

舎人公園は、公園中央で十字に交わる道路(尾久橋通り・舎人公園通り)で4区画に分けられています。西側敷地(A・D地区)に陸上競技場(3種公認)・テニスコート・野球場などのスポーツ施設、東側(B・C地区)には水鳥が見られる大池や親水広場などの自然と親しむスペースやキャンプ場が設けられています。また、南東部にはバードサンクチュアリの施設もあります。バードサンクチュアリーとは、野鳥たちだけの住処で、巣作りに適したガマやアシ、そして雑木林などの環境管理を行ない、観察舎からは様々な野鳥たちを観察できます。公園の面積は、都立公園の中で3番目の広さを誇り、東京ドーム約14個分の64.96ヘクタールあります。23区内の都立公園としては3番目の規模(1位:水元公園、2位葛西臨海公園)になっています。



舎人公園には噴水広場が2ケ所あります。公園入口の小さな噴水広場と大池近くの大きな噴水広場で、両側に高木が立ち並ぶ水路によって結ばれています。何回か舎人公園を訪れましたが、水路に水が流れているのを見たことがありません。こちらは公園の入口にある噴水広場です。



こちらは大池近くの噴水広場です。コースマップを見ると、大池近くの噴水広場がスタート地点のようなので、ここから今日の歩きを始めます。舎人公園通りと尾久橋通りが交差する舎人公園交差点まで戻り、舎人公園通りに沿ってD地区の北側を西方向に進みます。



ポイント2.野球場

D地区は舎人公園の4つの区画で最も小さく、三角形の形をしています。D地区の主要な施設は野球場とその西に広がる草地広場です。舎人公園野球場は2面あり、ナイター設備も完備されていますので夜間でも練習が可能です。外野は芝、内野は土で、本格的な練習にも対応できます。舎人公園は東京都の公園ですので、舎人公園野球場も都が管理しています。



第一野球場のライトフィールドの先から1本の道路が皿沼地区と谷在家地区を貫いて南方向に延びています。「皿沼」の地名ですが、「皿」は開墾地や乾地を意味し、「沼」は沼沢地や湿地帯を指します。このことから、皿沼は開墾された沼地や湿地帯であったと考えられます。「谷在家」の地名の由来には諸説あり定かでありませんが、一説によれば、この地域はかつて存在していた「谷田川」の流路跡の「谷」に開拓期に植民した人々が家を構え(在家)、このことが発端となり「谷在家」の地名が付けられたといわれています。



ポイント3.鹿浜第一小学校

谷在家公園に隣接して鹿浜第一小学校があります。鹿浜第一小学校は、昭和四十一年(1966年)4月1日に、鹿浜小学校から独立して開校しました。開校当初は12学級・児童数383名の規模でしたが、昭和四十六年(1971年)9月には、学区域の変更もあって25学級・児童数999名になりました。令和七年(2025年)5月時点では、22学級・児童数529名となっています。学級数はそんなに変わりませんが、学級当たりの児童数は40名から24名に減っています。如何に少子化が進んでいるか分かります。



鹿浜第一小学校の校章のモチーフは、桜と鹿です。校章は、当時の図工の先生が図案を考えました。元になったのは鹿一小学校の本校である鹿浜小学校の校章で、真中の桜の花は荒川土手の五色桜、その五色桜を取り囲んで鹿浜の地名にもなっている鹿の角がおかれています。ちなみに、鹿浜小学校の校章は「桜」でした。なお、鹿浜小学校は平成二十七年(2015年)に上沼田小学校と統合され、現在は鹿浜五色桜小学校になっています。



ポイント4.谷在家公園

谷在家公園の広大な敷地には、砂地の広場に芝生エリアや遊具エリアと遊ぶところが盛りだくさんです。園内をぐるりと一周できる遊歩道を通って散歩をすると周りの自然に癒されます。春には見事な桜が見られ、ベンチでお花見を楽しむ人の姿も見られます。遊具はすべり台・ブランコ・砂場と定番のものが揃っています。



公園の東側の端に記念碑が建っています。

完成記念碑

谷在家町土地区画整理組合地域は谷在家町の大部分と、西新井町・上沼田町・北鹿浜町押部・北堀之内町・北宮城町・高野町の各一部を包含した面積約五拾八萬平方米より成る。古くより農事を業として来た静かなこの村落を昭和弐拾年終戦後の急激な人口の流人で雑然とした住宅地に変りはじめ、土地区画整理法にもとづく市街地形成は時代の要求する急務であつた。すゝんでその任に当るべく地区有志は相諮って準備委員会を結成し、昭和参拾九年貳月拾壹日設立認可を得て当組合は発足した。以来幾多の困難に遭いながらも、関係官公庁の指導、組合員及び役員の和合と努力と忍耐によってこれを克服し今日の完成となった。こゝに将来の発展を希い、碑石に刻して後世に伝える。




公園の広場は、雨水の貯留と浸透の機能を持っています。

雨水貯留・浸透施設

公園に降った雨水が、すぐに外の道路に出て、水害を引き起こすことがないように、この公園には、図のような施設があります。雨水は、まず透水管で地下に浸み込ま せます。浸み込まなかった残りの水は、一時的に自由広場の中に貯めて、その後ゆっくりと公園の外に出るようになっています。このような理由で、強い雨の後、公園内に水が貯まっていて、御不便をおかけすることがあります。水害防止のためですので、御理解をお願いします。




谷在家公園の南側入口から綺麗な遊歩道が延びています。「江北ふれあいの道」は、総延長410m・道路幅員22m〜24mの遊歩道で、平成七年(1995年)3月に竣工しました。



「江北ふれあいの道」は、江北北部緑道公園の延長線上にありますので、その一部といった位置付けになるようです。



遊歩道は、春の小川・夏の小川・秋の小川・冬の小川とゾーニングされ、それぞれの季節に合わせたデザインのモザイクタイルが敷かれています。春の小川は「桜」がモチーフのようです。



夏の小川は何をモチーフにしているのかな?



秋の小川のモチーフは?う〜〜〜ん。。。



冬の小川は反対側の遊歩道にあります。こちらもう〜〜〜ん。。。



遊歩道には、花水木(ハナミズキ)が植えられています。



中央部の車道の真ん中に花壇を設けた分離帯があり、高圧線の塔と時計台が建っています。


時計台は写真の右手にありますが、写し損ねました。


その他にふれあいコーナーも設けられています。案内図の位置とはズレていますが、銅像の置いてあるところかな?



ポイント5.上沼田小学校

江北ふれあいの道の終端に面して上沼田小学校があります(ありました)。上沼田小学校は、平成十九年度以降は学校全体で6学級の状況が続いていました。学区域内の就学前居住人数(0歳から5歳)は、全ての年代が20人台であり、将来に亘って単学級規模の人数が続くことが見込まれました。また、近隣の鹿浜小学校も学区域内の就学前居住人数が多くの年代で40人台となっていて、今後も大幅な児童数の増加は見込めませんでした。更に、鹿浜小学校の最も古い校舎の耐用年数も迫っていたことを踏まえて、上沼田小学校と鹿浜小学校は平成二十七年(2015年)4月1日に統合されました。統合後の学校名は「鹿浜五色桜小学校」と決まり、鹿浜小学校の敷地に新しい校舎が完成するまでは、引き続き上沼田小学校の校舎が使用されました。2022年に訪れた時は、既に上沼田小学校の校舎と施設は解体されて更地になっていました。



上沼田小学校の跡地は、隣接していた上沼田東公園の拡張工事に伴ってその一部となりました。跡地に盛り土をする必要があったため、他の工事で発生した土砂を再利用しています。



2025年に再訪した時には上沼田東公園の改修工事は終わっていて、上沼田小学校の跡地は真新しい公園に生まれ変わっていました。入口の門柱は鉛筆の形をしていて、かってこの地に学校があったことを伝えています。



遊具は色鮮やかで、新品ピッカピカです。



上沼田東公園から真西に進みますと、都営上沼田第3アパートの先に足立区立鹿浜菜の花中学校があります。鹿浜菜の花中学校は、上沼田小学校と同様な状況であった足立区立鹿浜中学校と足立区立第八中学校を統合して平成二十八年(2016年)に開校しました。新校舎は第八中学校の跡地に建設され、平成三十年(2018年)4月1日に現在の校舎に移転しました。



ポイント6.鹿浜小学校

鹿浜菜の花中学校の直ぐ先に鹿浜五色桜小学校の真新しい校舎が建っています。鹿浜小学校は学区域内の就学児童数の増加が見込めず、更に、鹿浜小学校の最も古い校舎の耐用年数も迫っていたことを踏まえて、旧上沼田小学校と平成二十七年(2015年)4月に統合されました。鹿浜小学校の名前は消滅し、統合後の校名は「鹿浜五色桜小学校」となりました。統合された2校の内、鹿浜小学校の「鹿浜」は残りましたが、上沼田小学校の「上沼田」は残らず、代わりに「五色桜」が充てられました。鹿浜小学校の校舎は建て直され、旧上沼田小学校の仮校舎に間借りしていた児童は平成二十九年(2017年)4月1日に新校舎に移転しました。



鹿浜五色桜小学校から更に西に向かいますと、左手に校趾公園「こうしこうえん」があります。この地にはかって「鹿浜尋常小学校」があり、その跡地にできた公園ということで、「校(学校の)趾(跡地)公園」という名前になったそうです。



公園内をぐるりと囲うように、ウォーキングやジョギングに最適なゴム製コースが設置されています。足に負担もかけにくく、歩き始めの子どもも安心して利用できます。また、すべり台・クライミング・雲梯が一体化した複合遊具や砂場・スプリング遊具・すべり台・健康遊具などが設置されています。テーブル付きのベンチも設置されていますので、食事しながらゆっくり休憩することもできます。



公園内にフェンスで囲われた広大な一画があります。校趾公園には、かって区営のプールがあり、地域では「10円プール」と呼ばれて有名でした。施設の老朽化に伴い、公園全体をリニューアルして改めて平成二十五年(2013年)5月に開園した際にプールは埋め立てられて遊具広場になったとのことです。フェンスの脇にプールを建設した時の記念碑が建っています。プールは江北西部土地区画整理組合が企業者となり、昭和四十八年(1973年)7月に完成し、総工費は1億8千万円かかったそうです。

鹿浜プール建設について

このプールは当組合地域内の組合員の要望により組合員の記念事業として、青少年健全育成の一環として東京都及び足立区役所の同意を得て組合にて建設し足立区に寄贈したものである。




公園前の道路を背にして巨大な石碑が建っています。表面に「江北西部区画整理記念之碑」と題された碑文、裏面には関係者の氏名が記されています。

江北西部区画整理記念之碑

当組合は、足立区の西北端に住する北鹿濱町の60%、北堀之内町の40%、上沼田町・加賀皿沼町の各一部から成る面積およそ148万平方米の区域である地区一帯は緑地地域が大部分を占める農耕地であり、道路?員九米が最も広いもので、その他は1乃至二米の曲折した農道が数条存在し、水路も農業用水??であり、?悪水??で狭少なるものが数条あり、降雨期には?ま冠水を受ける低湿地帯もあった。昭和三十年前後より住宅の急激な増加に伴い、交通環境・衛生等に支障を来しはじめ、不良住宅地化??ある状況を放置できず、昭和三十三年十月頃地元有志により準備委員会を結成し、以後四年有余の準備期間を経て昭和三十六年十二月二十七日、組合員総数九百余人の内、大多数の同意を得て、本土地区画整理組合が設立を認可され、発足したものである昭和三十七年九月に公共施設の築造工事に着手し、以来十年有余にわたる区画整理事業の間、工事・補償・換地等、幾多の障害や困難にしたのであるが組合員一同の和合と努力と忍耐により、これらを克服し、道路・水路・公園の整備をはじめ、都水道及び瓦斯の導入、教育施設、社會福祉施設の拡充等公共施設を新設し、立派な市街地の造成を見ることが出来たのである。これは諸関係官庁担当官の御指導・御援助はもとより組合員一同の多大なる理解と協力の賜であると共に、測量設計事務所並に建設業者のたゆまざる努力にも依ることである。茲に土地区画整理事業完成の記念碑を建設し、事業の経緯を略記すると共に、その概要を記して後に伝えるものである。




校趾公園から更に西に進むと、左手に足立区立鹿浜西小学校があります(2022年当時)。鹿浜西小学校は、令和五年(2023年)4月に北鹿浜小学校と統合し、旧鹿浜中学校跡地に完成した新校舎へ移転し、鹿浜未来小学校として開校しました。足立区の小中学校の統廃合は凄い規模ですね。



しかし、2025年に再訪したときは校舎は取り壊され、跡地には複合商業施設の「鹿西テラス」が令和八年(2026年)春に開業するそうです。2階には私の大好きなスーパーベルクス足立鹿浜店が入るとのことです。



旧鹿浜西小学校の直ぐ北側に島氷川神社があります。島氷川神社は、素戔嗚尊を御祭神とし、鹿浜村小名嶋の鎮守社でした。詳しい創建年代は不明ですが、明暦二年(1656年)に起きた洪水の際に、荒川(現在の隅田川)に氷川のお宮が漂着し、明治以前まで神社近くに建っていた慈眼寺に祀られていました。その後、元禄四年(1691年)に現在地に社殿を造り、現在に至ると伝えられています。



社殿が現在地に造られたのと同時に、「輪くぐり」と「人形」の神事も行うようになりました。輪くぐりは、旧暦六月晦日の夏の終わりの節目に、来るべき新しい季節に備えて輪をくぐって身を清める行事のことです。こうした行事は全国で見られ、たいていは茅で作られ「茅の輪くぐり」と称されますが、島氷川神社ではマコモで作られます。これは、氷川のお宮がマコモの中に流れ着いたという言い伝えに由来しています。島氷川神社は、境内・境外に多くの摂社・末社を持っていました。現在は、境内に3つの神社を祀っていて、鳥居の右手には江北村がレンガ産業の地だったことを伝えるように、煉瓦造りの稲荷社があります。

令和四年に足立区有形文化財に登録された煉瓦造りの稲荷社です。



境内には、足立区指定の保存樹が3本あり、歴史を感じさせる神社です。

足立区指定第362号〜364号
保存樹木 いちょう・むくのき・すだじい

当社には、イチョウ・ムクノキ・スダジイの保存樹があります。都会では大木が少なくなってきているので、大切にしています。落ち葉の時期などにはお世話をかけることもあるかと思いますが、皆様のご協力をお願いします。





ポイント7.鳥椛屋公園

鳥椛屋公園はボール遊びをすることができる公園で、子ども達は広々とした園内でのびのびと遊べます。園内施設には、遊具コーナー・グラウンド・健康器具などがあります。



島糀屋公園は、ブランコや通常のすべり台・砂場の他、飛び石・コンクリート製の大きな滑り台・ターザンロープ・プレイウォールなどの珍しい遊具が豊富にあります。



この飛び石は難度が高そう。



ポイント8.都市農業公園

島糀屋公園から首都高の高架下を進んだ先に都市農業公園があります。都市農業公園は、昭和五十九年(1984年)に開園し、平成七年(1995年)にニューアルオープンしました。入園は無料で、早朝夜間と年末年始などは休園となります。埼玉県との境界を流れる芝川が荒川に注ぐ河口付近に位置し、南側は荒川河川敷緑地に面しています。全国各地に作られている農業公園のひとつで、自然とのふれあい・植物栽培・園芸・農業への理解と教育、市民の憩いのために作られました。



入口の正面には、都市農業交流館があります。



館内には園内施設の紹介や農業に関する資料が掲示されています。



都市農業交流館前の広場には藤棚が設けられ、暑い時期には日陰の休息所になります。



園内の中央には円形の芝生広場があり、周囲を桜並木が取り囲んでいます。

江北五色桜

昔、荒川堤の五色桜は東京でも有数の桜の名所として親しまれていました。五色桜とは品種の名前ではなく、染井吉野のほかに八重桜などの品種が混植されて白や黄緑、淡紅色、濃紅色、紅色などに彩られ五色の雲がたなびくように見えたためといわれています。ここには当時の風景を再現するために里帰り桜の中から約30品種80本の桜が植えてあります。




芝川沿いには梅林もあります。

生きものとの共生 梅林

かつてこの梅林は「タマカタカイガラムシ」という害虫により大変な被害にあっていました。そこで平成十七年ころから、梅の木の下に公園周辺でみられる野草(カラスノエンドウやムラサキツメクサなど)を移植して、植物とそこにやってくる昆虫類との共生を図りました。その結果、カイガラムシの天敵である「アカホシテントウ」がみられるようになり、同時にチョウやバッタなどのさまざまな昆虫類が増え、梅の害虫はほとんど姿を消しました。以後、この梅林では野草を一定の高さで刈り残すという手法で昆虫類の生息環境を残した管理をしています。この公園では、こうした生きものとの共生を大切にした植物管理を行っています。




2025年に再訪した時は12月の初旬でしたが、早くも翌年の開花に向けて蕾が赤く色づいていました。



子ども達が果実か何かを採ろうとしていますね。昔だったら何処でも見られた風景です。



首都高の高架下に面した公園の東側にはひょうたん型の小さな池があります。


この池は雨が降ると公園内の雨水がたまるようにできています。ためた水はろ過機(右隣りの建物内)によってろ過されて池に戻されます。こうしてろ過された池の水はポンプで送られ、流れの水や水田、畑などの灌水に使われています。また大雨のときには川の増水を少しでもおさえるため、川への排水をとめて池とコミュニティ広場(芝生広場)に雨水をためるという雨水流出抑制の役割もあります。




池の先には、「人と自然の共生館」があります。

人と自然の共生館

「自然と遊ぶ、自然に学ぶ、自然と共に生きる」をテーマにしている都市農業公園。足立区でかつてひろがっていた農の風景を思い起こさせる田んぼや畑で、無農薬やコンパニオンプランツなど、自然の仕組みを活かした有機的な栽培に取り組んでいます。

人と自然の共生館では
無農薬であるために、都市農業公園の田んぼや畑では様々な生きものを発見することができます。それらは、誰かがわざわざ連れてきたわけではありません。くらしやすい環境ができることで集まった生きものたちが、お互いにかかわり合いながら一緒に生きています。人と自然の共生館ではそんな生きものや植物の身近な関係やしくみを、楽しみながら多くの人に知ってもらいたいと考えています。レクチャールーム内や田んぼ、畑での展示をはじめ、温室やハーブ園に育つ植物、そしてスタッフと一緒に行う生きもの探しや葉っぱ遊びといった自然体験など、様々な方法でお伝えしています。「花の名前が知りたい」「つかまえた虫の名前を知りたい」といった質問だけでなく、みなさんが公園の中で見つけた面白いもの、素敵だと思うものがあったらぜひ共生館のスタッフまで教えてくださいね!




人と自然の共生館には、温室が付属しています。

都市農業公園の温室

この温室では熱帯〜亜熱帯原産の植物を中心に栽培しています。中でもフルーツとして食べる植物や、スパイスとして利用する植物、加工品の原材料になる植物など、私たちの豊かな生活につながりの深い植物も取り入れています。お店に並ぶ前には、どんな花や葉をつけているのでしょうか。知っている名前があれば、よく観察してみてください。

●バナナ(バショウ科)
1.5m以上の大きな葉をつけます。多年生の草本植物のため1度しか花と実をつけませんが、この温室では多い時で1株から150本ほどのバナナができます。

●スターフルーツ(カタバミ科)
6月〜8月頃盛んにピンク色の可愛らしい花をつけ、その名の通り、断面が星の形をした実が見られます。夏は野外で、冬は温室内で管理しています。

●イランイラン(バンレイシ科)
花は精油や香水の原料になります。「イランイラン」という名前は、タガログ語(フィリピンの言語の1つ)で 「花の中の花」という意味を持ちます。原産国では10mを超える高木になるため、この温室では鉢植えでの管理をしています。

●カルダモン(ショウガ科)
カレーやチャイなどに使うスパイスとして名前が知られています。上品で強い香りから「スパイスの女王」と呼ばれ、インド料理では欠かせないスパイスです。種子をスパイスとして利用しますが、葉を触ると甘い香りがします。




建物の外にはハーブ園があります。



田んぼもあります。お米作りの段階を説明したパネルが立っています。今月は収穫した後の脱穀から精米までの工程が図示されています。隣には、イナゴの佃煮の料理法が解説されています。都会ではなかなかイナゴを食べることはありませんね。



畑には大根が育っています。



足立区内から移築した長屋門や古民家も保存・展示されています。長屋門は明治中期に建てられたものを移築したものです(2025年に再訪した時は立ち入り禁止になっていました。)。

旧増野製作所長屋門

現在の足立区谷中周辺は、江戸時代初期に開発された谷中新田である。谷中新田には北の浅野久右衛門の開発地と南の吉野長左衛門の開発地があり、それぞれ上谷中、下谷中という呼称もあった。元禄年間(1688年〜1704年)にこの上下の谷中は分村し、それぞれ開発者の名前を冠して久右衛門新田、長左衛門新田となった。旧上谷中の浅野久右衛門家は、地名と名前から各一字をとり「谷久様」と呼ばれていた。この長屋門は明治三十年(1897年)頃の建築で間口17.5メートル、奥行4.8メートル、高さ3.9メートル、屋根は入母屋造りの桟瓦葺で、浅野家の正門として「谷久門」と称されていた。その後、昭和十一年(1936年)に増野製作所の創業者増野清香氏が現青井五丁目に新工場を建設する際に譲り受け、これを補修し多年にわたり工場の門として利用された。昭和五十年(1975年)に同工場が茨城県へ移転する際、後継者である増野鋼四郎氏が保存を決意し、防護柵を施す等保護に尽力された。平成十二年(2000年)都道補助140号線の建設にともない区が寄贈を受け、東京都建設局の協力を得て当地に移築復元した。




裏から見るとこんな感じです。



高台には古民家が移築・保存されています。

旧和井田家住宅(母屋) 一棟

この住宅は江戸時代後期の建築で、間口八間、奥行五間、屋根は寄棟造りの茅葺きである。もと花畑二丁目にあった和井田家邸で、伝えによれば安永二年(1773年)頃に生まれた四代目当主の代に建てられたという。間取りは典型的な田の字型の古民家で、正面右手の大戸から入ると「ドマ」がある。「ドマ」の手前の一画には、籾や米を貯えた「コメビツ」、奥には「カマド」を備えた台所である「カッテ」がある。さらにその奥には「ミソベヤ」がある。左手には家族の居間である「イタノマ」、寝室に使われた「ヘヤ」、平書院と床の間を備えた「ザシキ」や「オク」と呼ばれる部屋などがある。「イタノマ」と「ヘヤ」が根太天井であるのに対し、「ザシキ」と「オク」は棹縁天井であり、二部屋の間には、欄間も設けられている。「イタノマ」と「ヘヤ」は日常生活の場であり、「ザシキ」と「オク」は格式を備えた空間となっている。天井裏には、「ドマ」から梯子で昇り降りし、物置として使用された。安政大地震(安政二年・1855年)を経てきたというこの家屋は、台所をはじめ、南側瓦葺きの庇、西側廊下と便所など、増改築の跡をうかがうことができる。東側壁面は、竹を細かく割って土真壁を覆う「しぎ竹」という工夫も見られる。また「ドマ」や軒先に敷き詰められた煉瓦は、明治時代の花又帝国煉瓦の工場で造られた製品である。この住宅は貴重な江戸時代の農家建築として区に寄贈され、昭和五十八年十二月に足立区指定有形民俗文化財となった。翌年に掛けて足立区都市農業公園に移築保存され、一般公開されている。




今は殆ど見かけなくなった郵便ポストも置かれています。郵便物を投函しても届くことはないでしょうけど。



間取りが詳しく説明されています。

足立区指定有形民俗文化財
旧和井田家住宅

概要
旧和井田家住宅は江戸時代後期に建てられた茅葺きの家屋で、足立区の古い農家建築の典型的な特徴を備えています。もともと足立区花畑にあった住宅を、1983年〜1984年に都市農業公園に移築し保存したものです(足立区指定有形民俗文化財)。

間取り
入口を入ると「ドマ(土間)」があります。住居の空間は、「イタノマ(板の間)」「ヘヤ(部屋)」「オク(奥)」「ザシキ(座敷)」という、4部屋の並びが漢字の「田」に似た典型的な「田の字型(四つ間取り)」で構成されています。


【カミコウカ】
トイレをカミコウカと呼んでいました。移築前は屋外にもトイレがありました。写真の屋内トイレは家長(当主)のみが使えるもので、唐草模様があしらわれた特注品です。他の家族は屋外のトイレを使ったそうです。
【イタノマ@】
イタノマは@・A共に家族の日常生活の場でした。隣接するヘヤは若夫婦の寝室として使われていました。
【イタノマA】
小さな囲炉裏があり、食事や農作業の合間の休憩に使われていました。
【オク・ザシキ】
これらは格式のある、あらたまった部屋です。特にザシキは家で一番あらたまった部屋のため、トコや平書院という装飾があります。客人の接待などに使われていました。また、冠婚葬祭の際はふすまを外し、この2部屋を主に使っていたそうです。
【カッテ】
現在でいう台所にあたります。コンクリート製ですが、古い形を残したカマドがあります。カマド上方に煙集めの囲いと、煙出し窓がついています。当時カマドの周囲の壁や天井は、煙で燻されて黒く煤けていました。現在はカマド上部にだけ、黒い状態が残っています。
【コメビツ】
米を貯えておく場所です。「コクビツ」「ココビツ」とも呼ばれました。いたずら等をすると、中に閉じ込められたそうです。
【レンガ】
移築時の当主である和井田栄一氏の祖父健次郎氏が当主であった時期に、大きな改築がなされ、ドマや庇の下など、ふんだんに煉瓦が敷き詰められていました。現在はドマの一部に煉瓦が残っています。
【井戸】
足立区の古い民家では、前庭に井戸がある家が多かったようです。旧和井田家住宅も移築前には、門を入ったすぐ右手にお風呂が併設された井戸があり、その周辺にトイレもありました。


母屋と長屋門の間に井戸が見えます。

旧和井田家住宅の歴史
1855年
安政江戸地震が起きる。旧和井田家住宅は家主の半兵衛氏がこの地震より前に建てたとされる。
1868年
後に花又帝国煉瓦株式会社の役員となる和井田健次郎氏が生まれる。健次郎氏の時代、煉瓦をあしらうなどの大きな改修が行われ、旧和井田家住宅の現況がつくられた。
1923年
関東大震災が起きる。倒壊を免れるが、地震により住宅が傾いたとされる(口伝)。
1945年
東京大空襲の爆撃を受けるが、戦火を免れる。近隣に落ちた爆弾の爆風で関東大震災時の傾きが戻ったとの言い伝えも残っている。
1965年頃
茅葺き屋根の一部を葺き替えた記録がある。時代の変遷により、この頃すでに屋根の材料である茅の入手がとても困難となっていた。
1980年頃
居住者がいなくなるが、住宅は親族の手入れによって良好な状態に保たれる。
1983年
足立区による調査で高い価値が認められ、「足立区指定有形民俗文化財」となる。同時に足立区都市農業公園へ移築され、復元工事が開始される。
1984年
都市農業公園に竣工、展示が始まる。屋根も葺き替えられて新しくなる。
2007年
移築後2回目となる屋根の葺き替え作業が行われる。




夏期にはタマネギ、晩秋には稲と、季節毎に作物が天日干しにされています。



荒川土手側入口にはレストハウスがあり、荒川の河川敷道路から芝川自転車道が分岐する地点として、サイクリング愛好者の休憩ポイントとなっています。



芝川は足立区と埼玉県川口市の境界を流れる一級河川です。荒川との合流部には芝川水門橋が設置されています。



冬の快晴の日には、足立区内からも富士山の姿を見ることができます。夕日が富士山の山頂付近に沈み、あたかもダイヤモンドが台の上で輝くように見える現象は「ダイヤモンド富士」と呼ばれています。この現象が観察できるのは、足立区内では11月と1月で、これまで足立区役所庁舎や都市農業公園などで観察されています。また、富士山への良好な眺望が得られる地点を選出した、国土交通省の「関東の富士見百景」では、都市農業公園など荒川下流の5地点が選ばれ、紹介されています。

関東の富士見100景
富士山の見えるまちづくり

地点名 荒川下流からの富士




荒川堤は、かって江北五色桜として有名でした。

荒川堤五色桜碑 一基

五色桜は、明治十九年(1886年)三月、後の江北村村長清水謙吾の主導で、地元民が資金を出し合い、七十八品種3225本の桜を荒川堤上約6kmに植えたのがはじまりである。苗木は駒込(豊島区)の桜専門業高木孫右衛門が栽培した逸品で、花の色が数種あったので、五色桜の名で呼ばれるようになった。当時は、荒川(現隅田川)に多くの乗合船が出て、定期航路が臨時便を江北まで延長するなど、多くの花見客で賑わった。明治四十五年(1912年)には、当時の東京市長尾崎行雄がアメリカ合衆国の首都ワシントンに五色桜の接穂を贈呈し、ポトマック河畔に植えられた。大正十三年(1924年)十二月、内務大臣により国の史蹟名勝天然記念物に指定されるほどの名所となっていた。そのことを示すのがこの石碑である。石碑は、江北二丁目の都バス荒川土手バス停付近の荒川堤防脇に設置されていたが、補助第113号線道路建設工事の支障となり、教育委員会に保管されていたものを現在地に移転し、今に至っている。近代東京有数の名所のひとつであった荒川堤五色桜は、昭和二十年代に姿を消したが、昭和五十六年(1981年)二月に、当時のナンシー・レーガン大統領夫人が足立区に桜を送り、舎人公園に植樹され(レーガン桜)、同年にはポトマック河畔から桜の里帰りも実現し、区内各地の公園・学校などに植えられ、五色桜を現代に伝えている。




ポイント9.荒川河川敷

荒川河川敷に入ります。荒川河川敷は、雄大な荒川沿いに広がり、開放感のある整備された遊歩道はウオーキングやサイクリングに最適です。



荒川河川敷の魅力は他にも沢山あり、大人から子どもまで様々に楽しめるスポットが集中しています。



ポイント10.荒川堤桜並木

荒川土手に戻ります。遊歩道沿いには、復活した五色桜の並木が続いています。

荒川の五色桜

五色桜の由来
足立区地先の荒川は、昔、「荒川の五色桜」と呼ばれた桜の名所でした。この桜は明治十九年、地元の方々の奉仕によって植えられ、育てられました。当時、多くの桜の品種が混植されていました。白や黄色、淡紅色や濃紅色など、花色がいろいろとあったので「五色桜」の名がつけられたと言われています。花の見頃には、色とりどりの桜が人々の目を楽しませ、広い並木道には人があふれるほど賑わいました。ワシントン市の有名なポトマック公園の桜は、この五色桜を当時の尾崎行雄東京市長が贈ったものです。しかし、この地の五色桜は自動車の排気ガスなどの影響で残念ながらほとんどなくなってしまいました。

五色桜の復活
戦後、世の中が落ちついてくると華やかだった五色桜をしのぶ気運も次第に高まり、昭和五十六年にアメリカの協力を得て、ワシントン市から「桜の里帰り」を実現しました。この里帰り桜からつぎ木をしてその数を増やし一部はすでに区内の各公園に植えられています。そして、往時の五色桜の復活をと念願する多くの方々の熱心な働きかけと、国土交通省をはじめとして関係団体の協力によりこの里帰り桜は「桜づつみモデル事業」として、ふるさとであるこの荒川堤に再び根をおろすことになりました。国境を越え時間を越えて長い旅をして帰ってきたこの桜を今度は私たちが大事に育てていきましょう。




桜並木の遊歩道は「あだち五色桜の散歩みち」と名付けられ、遊歩道の脇には和歌や俳句が書かれた掲示板が立っています。

万葉集の中から桜の花をおりこんだ代表的な秋を紹介します。古事からの桜に寄せる情緒がしのばれます。

   見渡せば春日の野辺に霞立ち
      咲き匂へるは桜花かも        (巻十−一八七二)

   青丹よし奈良の都は咲く花の
      にほふが如く今盛りなり   小野老 (巻三−三二八)

   鶯の鳴き散すらむ春の花
      何時しか君と手折りかざさむ 大伴家持(巻十七−三九六六)

万葉集・・・・現存する最古の歌集。759年までの400余年間の
       長歌、短歌、漢詩などを収録したもの




俳句もあります。

俳句の中から桜の花をおりこんだものを紹介します。

   花の雲鐘は上野か浅草か      芭蕉
   木のもとに汁も鱠も桜かな     芭蕉
   さまざまの事おもひ出す桜かな   芭蕉
   花の山歌よむ人や踊る人      友尚
   八重桜製菓工場に咲けば菓子    山口誓子




ポイント11.堀之内公園

荒川護岸から延びる五色桜通りの先に堀之内公園があります。



堀之内公園は、下水道局熊の木ポンプ場の西側に位置する植栽豊かな公園で、春には桜が有名です。桜は薄墨(うすずみ)・関山(かんざん)・御衣黄(ぎょいこう)など、20種以上の品種のものが植えられ、地名から名をとった江北匂(こうほくにおい)という珍しい品種もあります。



堀之内公園では、初夏にハス(蓮)が開花します。園内にある約300平方メートルのハス池では、推定約2000年前のハスの実から開花した大賀ハスを見ることができます。大賀ハスは、昭和二十六年(1951年)3月に千葉県の検見川で、故大賀一郎博士らの手によって発見された古いハスの実を発芽させ開花に成功したもので、発見者にちなみ「大賀ハス」と命名されました。平成九年(1997年)に千葉公園(千葉市)から寄贈・分植されたものです。例年6月上旬から7月下旬の早朝に咲き始め、午前中から午後にかけて閉じていきます。

大賀ハス

昭和二十六年(1951年)、千葉市検見川の東京大学厚生農場(現在の東大検見川総合運動場)で、大賀一郎博士らの手により推定2000年以前のハスの実が三粒発掘され、その内の一粒が翌年七月十八日見事に花を咲かせました。この花は「大賀蓮」と名付けられ、昭和二十九年(1954年)に「検見川の大賀蓮」として千葉県の天然記念物となりました。足立区では、平成九年(1997年)に「千葉公園」よりこの大賀ハスの寄贈・分植を受け、大切に育てゝいます。

◇開花時期:6月下旬〜8月下旬頃
◇特  徴:淡いピンクの清楚で可憐な花が咲きます




ハスの葉は大きいので、池全体を覆い尽くしています。



ハスの花と実です。ハスの実は、ハスの花が枯れた後、花托(かたく)の中にできる実のことです。皮を剥いで出てきた実を茹でたり、あるいは生のまま食べるとビールのつまみになります。昔は夏祭りの屋台などでよく売られていましたが、最近では滅多に見かけません。食べれるということを知っている人も殆どいないのではないでしょうか?



公園の脇を神領堀緑道が通っています。神領堀は、足立区北西部の舎人五丁目の見沼代用水から分岐し、南西部の江北二丁目まで全長6kmの水路でした。このうち環七以南の約1.1kmが平成十五年から平成二十五年までの10年間をかけて整備され、神領堀緑道となりました。平成二十一年〜二十二年に、ふるさと桜のオーナーを募集し、神領堀沿いに里桜が植樹されました。桜の季節は江北地域学習センター脇から荒川土手までの緑道で、様々な里桜を楽しむことができます。



緑道の終端に案内板が立っています。

「熊之木」地名と六阿弥陀伝説

江戸時代中期から昭和初期にかけて、江戸・東京東部で盛んだった習俗に江戸六阿弥陀詣がある。主に女性が春秋の彼岸に、隅田川下流地域にあった六ないし八カ所の寺院を参詣するものであった。その起源はある悲劇女性の伝説に由来する。荒川(現在の隅田川)を挟んで足立郡と豊島郡の豪族同士(寺院縁起により苗字に諸説あり)が婚姻を結んだ。しかし嫁ぎ先との折り合いが悪くなった女性が実家に帰される途中、世をはかなみ荒川に身を投げた。女性の冥福を祈るため、父親は紀伊国(和歌山県)熊野山に詣でた。その山中で光輝く一本の霊木を得て、熊野灘に流すと不思議なことに東国まで漂流し、荒川をさかのぼって漂着した場所が旧沼田村のこの付近であったという。熊野産の木がたどりついた奇縁により、「熊之木」地名が付いたと伝わる。その後、霊木からは、女性の父親に依頼された僧行基によって六駆(一説に八駆)の阿弥陀如来像等が彫刻され、近隣の六ないし八カ寺に安置され女性の菩提がとむらわれた。各寺院は後に江戸六阿弥陀詣札所になったという。十九世紀前半に著された地誌「遊歴雜記」等には、霊木が着いた場所を「熊野木」とする記述が見える。また文政五年(1822年)に六阿弥陀四番与楽寺が刊行した「武州江戸六阿弥陀巡拝之図」には、「熊の木」の位置が明示され江戸六阿弥陀詣参詣路の名所となっていた様子がうかがえる。旧沼田村の「熊之木」地名は近代以降、熊之木橋・熊之木圦・熊之木排水場等に残り、六阿弥陀伝説をしのぶよすがとなっている。




熊の木広場に、神領堀が再現されています。

神領堀緑道 熊の木ひろば

かつてこの場所に神領堀が流れ、熊之木圦を通って旧荒川(現隅田川)へ注いでいました。旧荒川堤の江北一帯には、桜が咲き、多くの人々を楽しませてきました。当時の神領堀を一部復元いたしました。




熊之木橋は、アーチ型の石橋で、水面に映るとめがねのような形になるので、「めがね橋」と呼ばれました。一度解体した後、今回約40m南側のこの場所に復元しました。

この熊之木橋は、江北五色桜の繁栄を祈念し、首都高速道路株式会社様並びに、株式会社デック様のご寄附により復元築造されたものです。



熊之木圦も復元されました。

熊之木圦

熊之木圦とは、水の出入りを調節する水門のことです。戦後、神領堀の護岸工事で埋められてしまいましたが、今回の整備で当時の形で掘り起こして復元しました。




神領堀の明治期と現在の様子が図示されています。かっての荒川(現在の隅田川)に流れ込んでいた神領堀の水路がよく分かりますね。

明治期の様子

神領堀の水は、熊之木圦から旧荒川(現隅田川)に落としていました。旧荒川の堤には、「五色桜」が咲いていました。

平成二十五年の様子

埋め戻した神領堀には、ふるさと桜を植え、緑道として整備しました。熊の木ひろばには、熊之木圦や熊之木橋も整備しました。




江北氷川神社は荒川流域に位置し、治水守護神の須佐之男命を祭神とする古くからの神社です。明治以降の近代社格制度では村社に列せられ、旧江北村(沼田・鹿浜・鹿浜新田・加賀皿沼・高野・谷在家・宮城・小台・堀之内)の九ヵ村の総鎮守でした。江北氷川神社の創建年代は不明ですが、元禄十二年(1699年)に奉納された手水石があることから、少なくとも江戸時代初期には既に存在していたと推測されます。



石造りの鳥居は昭和二年に再建されたそうです。

石の鳥居

鳥居とは、神域と人間が住む俗界を分けるもの(結界)であり、神域への入口を示すものです。当社の鳥居は石造りの「明神鳥居」です。柱には「昭和二年九月中浣(中旬の意)再建 氏子中(氏子一同の意)」とあります。境内には他に「慶應二丙寅歳正月吉祥日」と記された石柱も現存します。




江北氷川神社のすぐ裏手には昔の荒川堤があり、明治大正時代には「江北の五色桜堤」といわれた桜の景勝地でした。その素晴らしかったことは広く世間に知られ、「皇族の行啓」があったほどです。しかし、その後戦争の供出材として伐採されるなどで、現在その姿はありません。境内の桜は、この五色桜の末裔として残っている貴重なものです。

幻のさくら 江北匂(こうほくにおい)

「江北匂(こうほくにおい)」は幻の桜と言われ、かつて江北村の堤に「五色桜(ごしきざくら)」のひとつとして植えられていたが、五色桜の衰退と共に絶滅したと思われていた。しかし、近年都立小金井公園にて、その存在が確認され、接ぎ穂を分けてもらい、数十年ぶりに江北のふるさとに里帰りした。山桜の仲間でほのかな香りがあり、4月中頃に可憐な花を咲かせている。




境内には多くの掲示板が立っています。

地口絵紙(じぐちえがみ)

地口絵紙(じぐちえがみ)とはダジャレの一種である言葉遊びで、ことわざや芝居の台詞、格言等を似た音に置き換えた地口を作り、滑稽な画を描いたものです。江戸時代に始まり、地口絵紙を貼った角型の行灯(地口行灯・じぐちあんどん)を祭りの際に奉納し、神社の参道や鳥居等に飾りました。文化・文政期(1804年から1830年)に流行し、地口のネタ本等も出版されました。俳句や川柳と同じ江戸時代から続く庶民の文芸活動といえるでしょう。




本殿は天保四年(1833年)、拝殿は明治八年(1875年)に再建されました。昭和五十九年(1984年)に「昭和の大改修工事」が行われました。

御本殿

御祭神がお鎮まりになる内陣、総欅作り、檜皮葺の御本殿です。周囲には、御祭神の素戔嗚尊の故事にちなみ 「龍」の彫刻がほどこされ、柱を支える木組みなども幾重にも精巧に造られており、荘厳な姿を残しております。昭和の大改修の際、本殿の基礎石に「天保四年(1833年)再建」の刻印が発見され、その周囲には多くの寛永通宝(御賽銭と思われます)が埋まっており、古くから深い信仰があったことがうかがわれます。




天水桶とは、雨水を溜める桶のことです。

天水桶

明治三十四年に奉納された、鉄製の天水桶(雨水を溜める為の桶)です。当社は東京の北部にあたり、映画「キューポラのある町」で有名な鋳物の町「川口」が近くにあります。この天水桶は、この川口で鋳造された物で「武州川口」の銘も見られます。




境内社に「諏訪神社」があります。

諏訪神社

御祭神  建御名方命
御利益  五穀豊穣(雨風を司る)
     怪力の神様(悪人退治)

諏訪神社は、信州諏訪大社から勧請されてきたお社です。御神体は「大石」であり、珍しく一般の方々でも自由に見ることが出来ます。古代の人々は、「大きな木」や「大きな石」などに神様が宿ると信じておりました。その昔の信仰形態を残す貴重なお社です。




ポイント12.五色堤公園

五色堤公園は、首都高江北JCT近くにある公園です。ワシントンに贈られた五色桜から枝を採取した第一次里帰り桜(昭和二十七年実施)が植えられた公園です。



公園の由来を記した石碑が置かれています。

五色堤公園の由来

明治時代の末頃、このあたりの土手の桜は「荒川の五色桜」と呼ばれ、世界的に有名な桜の名所でした。ワシントンのポトマック公園の桜も、明治四十五年に当時の東京市長尾崎行雄が、江北の後を贈ったものです。その後、この五色桜は土手の改修工事などで伐られたりして衰え始め、終戦後の昭和二十二年頃には全滅してしまいました。足立区では昭和二十七年、ワシントンからもらった桜を中心に復活をはかりましたが、障害が多くあまり成功しませんでした。今般の高速道路工事のため、その桜は大部分が当公園に移植されました。公園名は荒川堤の五色桜にちなみ「五色堤」と名 付け、区では昭和五十七年、区政五十周年を記念して第二回目の里帰りをした桜も、この公園に植えることにしました。どうか皆さんこの歴史ある桜を愛し、大切に育ててください。




公園内には栽桜記碑と呼ばれる五色桜の植樹経緯を記した碑があります。この碑は江北作楽会という地域の五色桜の保全活動や文化活動を行う団体が、創立15周年記念に建立しました。文章は、五色桜植樹に尽力した清水謙吾の文章を記しています。

栽櫻記碑について

この石碑は、東京都市計画道路補助線街路第113号線築造工事に支障となり江北二丁目五十七番地先よりこの場所に移転されたものです。なお、この栽櫻記の訳文は、次のとおりです。

(表訳文)

栽櫻記
武州荒川堤ハ、熊谷二起コリ千住二至ル。延亘スルコト十数里、俚俗謂ク所ノ熊谷堤ナリ。其ノ江北西新井ノ二村ニ係ルモノハ、堤路凹凸、行歩スルコト甚ダ艱シ。予甞ツテ之ヲ修メント欲シテ當路ニ?言シタレドモ報イラレズ。明治十八年九月、東京府知事渡邊洪基君、管内ヲ巡視スルノ次、子ノ家二憩フ。乃懇請スルニ企?スル所ヲ以テス。君其ノ請ヲ充セリ。越エテ明年工ヲ起コス。工竣ル。乃謂ラク、櫻樹ヲ堤上二種レバ、春ル則チ花ヲ賞シ、夏ハ則チ暑ヲ避ク。未ダ必ズシモ世ニ裨益スルコト無シトセズト。乃チ之ヲ郡長尾崎斑象氏二謀ル。氏、稱賛シテ措カズ。因リテ同志ノ者ト胥議り、?金シテ其ノ費二充ツ。遂二數十種ノ櫻三千餘株ヲ植エ。實ニ十九年三月ナリ。爾来五裘葛ヲ經テ、ハ梢長ズ。夫レ、櫻花ノ勝タル、西ニ芳野嵐山アリ、東二東台墨陀アリ。然ウシテ彼ハ則チ昔時帝都ノ在ル所、此ハ則チ今日帝都ノ在ル所、安ンゾ此ヲシテ彼ニ遜色アラシムベケヤ。衆ノ此ノ擧アル、亦タ徒爾ナラザルナリ。鳴呼、修堤ノ業ハ渡邊君ノ採納ニ成り、栽櫻ノ功ハ尾崎氏ノ賛襄ニ由ル。而シテ有志ノ者ノカ亦タ興ッテ少ナカラズ。今ヤ、?テ東都ノ勝ノ彼二過グルト曰フハ、蓋溢美ニ非ルナリ。況ンヤ數十年後、春風駘蕩ノ日ニ方リテ、芳雲爛漫謂ク所ノ白銀世界ナルモノ、必ズ期スベキカ。乃チ之ヲ記ス。

(裏訳文)
栽櫻記ハ、淡如清水翁ノ甞テ自ラ荒川堤ノ栽櫻ノ事歴ヲ識ス所ナリ。信ヲ取ルコト焉ニ過グルモノ莫シ。大正十四年六月、里人胥識り、比ヲ石ニ刻ミ以テ不朽ヲ謀ル。蓋シ必ズシモ文ヲ傳ヘントスルニハ非ズ、其ノ實ヲ傅ヘント欲スルナリ。




ゴール地点の荒川土手バス停に着きました。



ということで、足立区で八番目のコースとなる「A−北西エリア 08.舎人公園・五色堤公園コース」を歩き終えました。次は足立区で九番目のコースとなる「A−北西エリア 09.竹の塚公園巡りコース」を歩きます。




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