A−北西エリア 10.見沼通船堀公園コース  



コース 踏破記  

今日は足立区の「A−北西エリア 10.見沼通船堀公園コース」を歩きます。最初に歩いたのは2022年7月でしたが、通船掘西縁が工事中のために立ち寄れませんでしたので、2026年1月に見沼通船堀公園の区間を改めて歩きました。

スタート地点:舎人公園駅東口

 1.舎人公園

 2.見沼代親水公園駅

 3.砂小橋(砂子橋は誤り)

 4.自然の森

 5.グリーンセンター

 6.神根公園

 7.通船掘東縁

 8.通船掘遺構

 9.鈴木家住宅

10.通船掘西縁

11.通船掘遺構

12.通船掘公園

ゴール地点:JR武蔵野線東浦和駅


スタート地点の舎人公園駅東口から歩き始めます。



ポイント1.舎人公園

舎人公園は、公園中央で十字に交わる道路(尾久橋通り・舎人公園通り)で4区画に分けられています。西側敷地(A・D地区)に陸上競技場(3種公認)・テニスコート・野球場などのスポーツ施設、東側(B・C地区)には水鳥が見られる大池や親水広場などの自然と親しむスペースやキャンプ場が設けられています。また、南東部にはバードサンクチュアリの施設もあります。バードサンクチュアリーとは、野鳥たちだけの住処で、巣作りに適したガマやアシ、そして雑木林などの環境管理を行ない、観察舎からは様々な野鳥たちを観察できます。公園の面積は、都立公園の中で3番目の広さを誇り、東京ドーム約14個分の64.96ヘクタールあります。23区内の都立公園としては3番目の規模(1位:水元公園、2位葛西臨海公園)になっています。



舎人公園には噴水広場が2ケ所あります。公園入口の小さな噴水広場と大池近くの大きな噴水広場で、両側に高木が立ち並ぶ水路によって結ばれています。何回か舎人公園を訪れましたが、水路に水が流れているのを見たことがありません。こちらは公園の入口にある噴水広場です。



こちらは大池近くの噴水広場です。



噴水広場の近くには大池もあり、釣りが楽しめます。



お花見広場を中心に、ソメイヨシノ・カンヒザクラ・ギョイコウなど24品種・約千本の桜が植えられ、長い期間お花見が楽しめます。毎年、3月下旬には「舎人公園千本桜まつり」が開催され、ステージイベントの他に物産展なども出店され、大勢の花見客で賑わいます。



舎人公園の北西角の階段を下ります。



ポイント2.見沼代親水公園駅

尾久橋通りを北上し、見沼代親水公園駅に着きます。見沼代親水公園駅は、2008年に開業した都営日暮里・舎人ライナーの終着駅(始発駅)です。足立区と東京23区内の最北端の駅で、東京都交通局が管理する駅の中でも最北端に位置しています。駅名は、駅の北側にある見沼代親水公園から名付けられました。「見沼」は、かって埼玉県さいたま市と川口市にあった沼です。駅や公園の所在地は「舎人」であり、駅名を決める際に足立区が行った公募では、1位が482票の「舎人駅」で、2位の「見沼代親水公園」駅は156票と大差がつきました。しかし、足立区の指針として、同公園を「快適な居住環境をつくる重要な施設」と位置付けていることを踏まえ、区は「見沼代親水公園駅」を推薦順位第1位とし、2006年11月13日に正式決定しました。見沼代親水公園駅は、島式ホーム1面2線を有する高架駅で、車両基地のある舎人公園駅との間に、出入庫を兼ねた区間列車(営業列車)と回送列車が設定されています。



日暮里・舎人ライナーは東京都交通局が運行していることもあり、終点の見沼代親水公園駅で軌道が途切れています。埼玉県まで延びていないものの、一応は延伸も視野に入れた形になっています。見沼代親水公園駅から都道58号線を北へ約350m歩くと、埼玉県草加市になりますので、駅は都内にありますが、埼玉県民の利用者が多いのも事実です。しかし、現状では東京都による埼玉県への延伸計画はありません。



尾久橋通りは、見沼代親水公園駅付近で見沼代親水公園と交差しています(水路は地下にあるようですが)。江戸時代初期には利根川と荒川は現在の越谷付近で合流していて、氾濫を繰り返していました。この両川を引き離し、その跡を一大水田地帯にする大土木事業が行われました。利根川は文禄二年(1594年)から60年をかけて流れを少しずつ東に移していく工事が行われました。これを利根川東遷といいます。この工事により、それまで東京湾に流れ込んでいた利根川は銚子で太平洋に注ぐようになりました。荒川は寛永六年(1629年)に熊谷の久下で元荒川を締め切り、流れを西に移して入間川と隅田川を通じて江戸湾に注ぐ流路に変えられました。これを荒川西遷といいます。これらの工事によって、大河川が遠のいた跡の池沼地帯では耕地を広げるために池沼の水を排水する落川や農業用水を貯めておく溜井が幾つも造成されました。これらの大土木事業を行ったのは、伊奈備前守忠次を始めとする伊奈一族です。忠次の次男半十郎忠治は、荒川を付け替えた同年に現在のさいたま市東部に広がっていた見沼の東岸と西岸が最も近づく附島(緑区)と木曽呂(川口市)の間に約8町の長さから「 八丁堤」と呼ばれる堤を築き、見沼へ流れ込む水を貯留しました。これが、「見沼溜井」です。見沼溜井から水を引く「見沼用水」のお陰で周辺の新田開発が進みました。しかし次第に見沼溜井だけでは水が不足するようになりました。その後享保十二年(1727年)に徳川吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛為永が新たに利根川から用水を引き、見沼溜井は干拓して新田開発し、排水路として中落悪水路(現芝川)を掘削する工事を行いました。見沼たんぼの誕生です。利根川から引かれた水は、見沼に代わる用水なので「見沼代用水」と呼ばれました。見沼代用水は、取水口の利根川から見沼まで全長60kmで、そこからかつての見沼用水に繋げましたので、末端は現在の東京都足立区までの84.5kmにも及びました。その見沼用水路跡の足立区内に昭和五十九年(1984年)3月に憩いの場として誕生したのが見沼代親水公園です。

(注)悪水路とは、主に農業排水や生活排水を流すために作られた水路のことです。一般的な河川とは異なり、主に余分な水を排出する役割を担っています。



見沼代親水公園は、いくつかのゾーンに分かれています。尾久橋通りを渡ると、見沼代親水公園は左にカーブしながら延びていて、この区間は水生植物園ゾーンになります。



水生植物園ゾーンには、多くの種類の水草が植えられています。

水生植物園ゾーンに植えられている水草

ハナショウブ アヤメ科
Iris ensata Thurb, var hortensis Mak, et Nemoto.
ノハナショウブを日本で改良した園芸品(種)で、多くの品種がある。ここに植えられているものは、イタコ、シオサイ、オトメユメ、ハクチョウ等である。
カキツバタ アヤメ科
Iris laevigata Fischer.
水湿地に生える多年草。5〜6月頃先に青紫色(稀に白色)で、径12cm内外の花を次々と2〜3個つける。
〔分布〕温帯:北海道〜九州・朝鮮・東シベリア
セキショウ サトイモ科
Acorus gramineus Soland.
林中の小川に沿って生える多年草。花期は3〜5月。
〔分布〕温帯、暖帯:本州〜九州.ヒマラヤ
クロモ トチカガミ科
Hydrilla verticillata Casp. (L.f.) Casp.
池や沼や流水中に生える多年草。花は8〜9月。水面に浮かんで開花する。
〔分布〕温帯−熱帯:北海道(稀)〜九州.マレーシア、オーストラリア、マダガスカル、ヨーロッパ(稀)
ヒツジグサ スイレン科
Nymphaea tetragona Georgi
池や沼に生える多年草。花は6〜9月。長柄の頂に花をつけ、夜間は閉じる。
〔分布〕温帯。暖帯:北海道〜九州・ シベリア、ヨーロッパ、中国、インド北部
トクサ トクサ科
Equisetum hiemal
やや涼しい地方の山間谷川辺に自生し、また観賞用として植えられている多年生草本。
〔分布〕本州、中部以北.
セキショウモ トチカガミ科
Vallisneria asiatica Miki
淡水中に生育する多年草。花は8〜10月。雌雄異種。雌花は花茎が細長く、水上に浮かべる。雄花は円錐状の花床につき、水上に浮かぶ。
〔分布〕温帯−熱帯:北海道〜九州。東亜?
ミズオオバコ トチカガミ科
Ottelia japonica Miquel
沼や溝中等に沈水してはえる一年生無茎草本。花は8〜10月。両性。
〔分布〕温帯。暖帯:本州〜九州。




見沼代親水公園の終端から、左手に神領掘親水緑道が始まっています。



神領堀は、足立区北西部の舎人五丁目の見沼代用水から分岐し、南西部の江北二丁目まで全長6kmの水路でした。このうち環七以南の約1.1kmが平成十五年から平成二十五年までの10年間をかけて整備され、神領堀緑道となりました。平成二十一年〜二十二年にはふるさと桜のオーナーを募集し、神領堀沿いに里桜が植樹されました。桜の季節は江北地域学習センター脇から荒川土手までの緑道で様々な里桜を楽しむことができます。

神領堀親水緑道

御神領堀
御神領堀は綾瀬川から西の足立区域を潤した見沼代用水支流の用水です。江戸時代には流域の伊興・鹿浜・加賀皿沼・堀内・沼田・高野・舎人などの村々によって用水組合が作られ、地域の人々によって管理・運営された歴史的に重要な用水です。




ポイント3.砂小橋

見沼代親水公園の終端の右手には、毛長川に架かる砂小(すなこ)橋があります。



毛長川は、埼玉県川口市・草加市と東京都足立区の境界を流れて綾瀬川に合流し、流路延長は約9.7キロメートル・流域面積は約20.2平方キロメートルの一級河川です。ちなみに、「毛長川」の川名の由来には幾つか説があります。草加市の「そうか昔話」には次のように書かれています。

昭和に改修された足立区と草加市の境を流れる毛長川は、かつては新里地域の沼地をくねって流れていました。今ではもう形をとどめていませんが、この一帯は人々に毛長沼と呼ばれてきました。ある時、足立区側の舎人村から新里村へ供を従えて長者がやってきました。かねてより頭を痛めていた治水のための話し合いと兼ねて、肥沃な土地を持つ新里村の農作物の様子を見たいと訪れたのでした。供の者の中には長者の息子も加わっていました。幾つもの作物蔵を見て回り、さて帰ろうと一行が沼を渡る舟に今し乗り込もうとしていた時、ふと振り返った若者の目を捉えたのは、沼の畔に一人立って蓮の花を見やる娘の姿でした。色白の面立ち、なびく黒髪、「あれは女神様の化身だろうか」若者は呟くのでした。やがて若者はその折の女性が新里の長者の娘と知り、村長に頼んで縁談を申し入れました。その結果、両家の親と娘は申し入れに応じて二人はめでたく結ばれる運びになりました。娘が嫁ぐ日も近づいた丁度その頃、新里の村に疫病が入り込んできました。疫病は猛威を振るい始め、床に伏す人が村中に出てくる有様でした。こうした噂は沼を隔てた村々にも伝わり、祟りが及ぶと恐れた舎人の村人達は長者に二人の破談を迫りました。疫病は一向に収まらず、そうこうしているうち両長者とも縁組を諦める事態になってしまいました。新里村では、命を落す者も出始め、そんな中で娘は舎人の若者が破談をひどく嘆いていることを伝え聞くに及んで心痛も極まってしまいました。何日かたった大嵐の夜、娘はちぎれんばかりに髪を乱しながら沼へ身を沈めてしまいました。嵐が去り、疫病も収まったある日、舎人の岸辺に長い黒髪が流れ着きました。村人達はこれが身投げをした新里の娘の髪だと悟ると、大いに悲しみました。一方、新里の村人達も長者の娘をいとおしみ、社を建ててここに娘の髪をご神体として祀り、毛長神社と名づけました。今では、毛長川の水はあの嵐の夜の悲しい出来事など知る由もなく、帰路を急ぐ通勤客を乗せた電車の灯を映しながら静かに流れています。

もうひとつの説は、

昔、新里に住んでいた女性が舎人に住む男性と結婚しました。その後、男性の実家と折りが合わず新里の実家に帰る途中に沼(川)に身を投げました。何年か後に長い髪の毛が川に浮かび上がりました。村人はこれを新里の神社に祀り、現在の毛長神社となりました。以来、この川を毛長川と呼ぶようになりました。

というものです。




毛長川には、砂小橋と平行に舎人橋が架かっています。



橋を渡った直ぐ先には一本橋があります。丁度、コの字型に3つの橋が近接しているのです。



砂小橋と舎人橋の橋名板の文字は地元の小学生が揮毫したそうです。

「舎人橋」「砂小橋」架橋記念

ここは、見沼代用水と毛長川との合流地点です。見沼代用水には「一本橋」が、毛長川には「舎人橋」(上流側)と「砂小橋」(下流側)が架けられています。このたび、毛長川改修工事にあわせて架け替えられた「舎人橋」と「砂小橋」の橋名板の文字を、舎人第一小学校の児童の皆さんに書いていただきました。両橋が地域のシンボルとして愛され、末永く安全・安心して暮らせるまちとなることを祈念します。




一本橋は、見沼代用水東縁(ひがしべり)用水路の管理終点に架けられています。現在、見沼代用水土地改良区が管理するのはここまでで、かつては見沼代用水東縁が毛長川を懸樋(かけひ)で越えていました。



現在は、見沼代用水東縁は砂小橋の先で毛長川に合流しています。



見沼代用水東縁に沿って、上流方向に進みます。



見沼代用水路について解説された掲示板が立っています。



見沼代用水路の歴史について記されています。

見沼代用水路の歴史

見沼代用水は江戸時代の享保十二年(1727年)に掘られた、お米を作るための水を流す農業用水路(かんがい用農業用水路)です。江戸時代、お米はお金の代わりとして利用されていました。当時の江戸の人口は、1600年頃の約13万人から1700年頃には約100万人まで増え、江戸幕府は食料不足・財政難という問題をかかえていたことから、新田開発を行いお米を作る田んぼを増やす必要があったのです。見沼代用水は、見沼ため井の水を使い米作りをしていた田んぼと、見沼ため井を干拓して新たに開発された田んぼで使用する水を供給するために見沼ため井に代わる用水として作られました。また、見沼通船堀が掘られたことで見沼代用水路は舟運にも利用され、江戸へ年貢米や野菜などを運び、江戸から肥料(屎尿)や日用品などを運びました。舟運は昭和六年まで約200年続けられました。




見沼代用水の工事を指揮したのは、井澤弥惣兵衛為永でした。井澤弥惣兵衛は、江戸時代の治水家・旗本・美濃郡代で、為永は諱(いみな:実名・名乗・名などの呼称があり、実名を避ける風習に基づいて「忌み名」とも表記されることがあります)です。紀伊国那賀郡溝ノ口村(現在の和歌山県海南市野上新)の豪農の出身で、元禄三年(1690年)に徳川光貞に召し出され、紀州藩の勘定方に就任し、紀州藩主であった徳川吉宗(後の第八代将軍)の命を受け、紀の川流域の新田開発を行いました。その後、享保期に全国で新田開発が進み、享保七年(1722年)に将軍となっていた吉宗の命により灌漑や新田開発といった事業に尽力しました。主な事業に、武蔵国の見沼干拓・見沼代用水開削・多摩川改修・下総国の手賀沼の新田開発・木曽三川の改修計画・鴻沼の干拓・小合溜井の整備などがあります。

〜見沼代用水の生みの親〜井澤弥惣兵衛為永 1663年〜1738年(寛文三年〜元文三年)

江戸時代「農業土木技術の天才」と呼ばれた井澤弥惣兵衛為永は、全国で紀州流土木技術により、新田開発や治水事業を行い、見沼代用水や通船堀を完成させ江戸の繁栄の基礎をつくりました。




遊歩道の整備について説明されています。

「川のまるごと再生プロジェクト」事業での遊歩道整備

当該区間は整備前、雑草やゴミの不法投棄などがあり、また、一部区間は通学路となっているものの、歩道もなく非常に利用しにくい状態でした。そこで、埼玉県事業の「川のまるごと再生プロジェクト」を活用し、平成二十五年度から平成二十七年度の3箇年で全長1.2kmの区間を整備しました。整備内容や整備後の利活用や維持管理の検討について地域住民と川口市が一体となって事業を行い、官民協働で「川の再生」に取り組んだ事業です。




川口市内の見沼代用水路東縁の整備について説明されています。

見沼代用水路東縁(川口市内の特徴)

●水路沿いには川口自然公園やグリーンセンター等の自然に親しむ施設が整備されている。
●日本三大農業用水で、疎水百選にも選ばれている。
●遊歩道は上流部が水と緑のヘルシーロードとして整備され、下流部は市事業で整備されている。
●桜並木は水辺の癒し空間となっている。




都道・埼玉県道58号台東川口線には、石御堂橋が架かっています。この道路は、都内では尾久橋通りになっています。見沼代用水路は埼玉県道58号線の地下を横断して北上を続けます。



石御堂橋で左折し、見沼代用水路から一旦離れて埼玉県道58号線を進みます。蓮沼歩道橋交差点で右折し、首都高川口線に沿って北上します。



見沼代用水路は、首都高川口線と交差する辰井橋交差点の地下を抜けて、北西から西向きに流れを変えています。水路の制御施設でしょうか、機械が並んでいます。



稲荷橋の先にも見沼代用水路が延びています。



木々が茂った小高い丘の上に赤と白に塗り分けられた鉄塔が建っています。今では都内で殆ど見かけなくなったラジオの送信塔なのだそうです。

文化放送 送信所
JOQR 1134kHz

ここは文化放送のラジオ電波を発射するところです。構内は全て放送施設であり、あき地や公園ではありませんので無断で立入らないで下さい。アンテナやそれを支えている支線に近づいたり触れると大変キケンです。

コールサイン   JOQR
送信周波数    1134kHz
送信出力     100kw
送信空中線    鋼管柱三方八段支線式
高さ(地上高)  136.69M
鋼管径      50cm
位置 緯度    35度49分20秒
   経度    139度45分30秒

株式会社 文化放送 川口送信所




ポイント4.自然の森

文化放送の送信所の裏手に、新郷自然の森公園があります。



鬱蒼とした森林に覆われた公園で、遊具は殆どありませんが、森林浴には最高の場所です。青少年のキャンプや野外の集会ができる施設です。



赤山街道から見沼代用水路に戻る交差点角に氷川神社があります。

氷川神社

当社は化政期(1804年〜1830年)の「風土記稿」に「飛鳥山権現社春日白山の二座合祀す、村の鎮守なり」と見え、当時は飛鳥山権現社と称していた。熊野三神が降臨した最初の本宮とされる和歌山県新宮市に鎮座する、飛鳥神社を勧請したものと思われる。その後、弘化元年(1844年)に名主の平野家が大宮より氷川大明神を分祀し社名を氷川社に改めたと伝える。主祭神は素盞鳴尊で、明治四十年の合祀により天照大御神(字谷下の神明社)・倉稲魂命(字谷田の稲荷社)・菊理姫命・伊弉諾尊・伊弉冉尊(大字前野宿字上野の白山神社)が合祠神として祀られており、当社の氏子区域は、大字赤井と、合祀以後氏子となった大字前野宿からなる。尚、村名の赤井の名は、村内曹洞宗円通寺にあった「星の井」という仏に供える浄水(閼伽水)を汲む特別な井戸にちなんだとされる。

注記:化政期とは、江戸時代後期の文化・文政年間を指し、この時期に栄えた町人文化を化政文化と呼びます。化政文化は、江戸を中心に発展し、浮世絵・滑稽本・歌舞伎・川柳などが全盛期を迎えました。




狛犬は、どちらも子犬をあやしています。



拝殿の壁に縁起書が貼られています。

氷川社 御由緒

□ 御縁起(歴史)
当地は川口市の東部に位置し、北側は大宮台地南端の台地部とそこに入り組んだ谷からなり、南側は谷から広がる低地となっている。こうした地形は谷田と呼ばれ、台地を流れ出る天水を利用した。この谷田では、古くから稲作が行われてきた。この谷沿いの台地からは弥生時代の住居跡が数多く検出されている。村名の赤井の名は、村内曹洞宗円通寺にあった「星の井」という仏に供える浄水(閼伽水)を汲む特別な井戸にちなんだとされる。当社は化政期(1804年〜1830年)の「風土記稿」に「飛鳥山権現社 春日・白山の二座を合祀す、村の鎮守なり、聖動寺持、末社、天神社」と見え、当時は飛鳥山権現社と称していた。社蔵の寛文九年(1669年)の棟札には「飛鳥白山神明三社」と見え、「別当明音寺」が社務を司っていたようである。その後、弘化元年(1844年)に名主の平野家が大宮より氷川大明神を分祀し社名を氷川社に改めたと伝える。棟札に見える明音寺は、「風土記稿」当時においても既に見られないが、境内地の社殿西側の小高くなった場所から、板碑の破片が出土しており、ここに寺院があったと伝えている。主祭神は須佐之男命で、明治四十年の合祀により天照大御神(字谷下の神明社)・倉稲魂命(字谷田の稲荷社)・菊理姫命・伊弉諾尊・伊弉冉尊(大字前野宿字上野の白山神社)が合祀神として祀られている。

□ 御祭神 須佐之男命・・・災難除け、安産・縁結び、家内安全




氷川神社から見沼遊歩道に戻ります。用水路の両側には並木が続き、緑に覆われた遊歩道になっています。



吹上橋で日光御成道と交差します。この場所には鳩ヶ谷宿がありました。日光御成街道は中世以来の鎌倉街道を前身とし、将軍が徳川家康公の命日(四月十七日)に日光東照宮へ社参する際に利用した日光街道の脇街道として江戸時代に整備されました。本郷追分(文京区弥生一丁目)で中山道から分岐し、幸手宿で日光街道と合流します。大手門から幸手宿までの距離は13里30町(約51km)で、岩淵宿・川口宿・鳩ヶ谷宿・大門宿・岩槻宿・幸手宿の6宿がおかれました。岩槻藩の参勤交代に使われたことから「岩槻街道」とも呼ばれています。



案内板が立っています。

日光御成道と鳩ヶ谷宿

現在地は、鳩ヶ谷宿の下宿で、左の吹上橋を渡って坂を上ると宿の中心・中宿です。日光御成道の前身は、鎌倉時代の鳩ヶ谷を通り奥州へ向かう幹線道路の鎌倉中道です。慶長五年(1600年)に、徳川家康は会津の上杉景勝を攻めようとこの中道を北上して鳩ヶ谷に泊り、小山に至った時、石田三成の挙兵を知りました。すぐさま引返して関ヶ原の戦いで勝利し、江戸幕府を開きました。家康は遺言により日光東照宮に祀られましたが、間もなく、将軍家は、この道を縁起のよい道として整備し鳩ヶ谷宿もできました。以来、将軍が日光社参に利用したので、その名があります。日光御成道は、江戸の本郷追分(文京区)で中山道から分かれ、幸手宿の手前で日光街道に合流するまでの12里30町(約50km)の街道です。その宿場町・鳩ヶ谷宿は、江戸から4里30町(約19km)にあり、北から上・中・下の宿に分かれた家並みは4町20間(470m)、天明六年(1786年)の記録では、家198軒・人口821人でした。鳩ヶ谷宿は、周辺の商業や文化の中心地として栄え、特に江戸時代の中頃に始まった三八市は、出店が並びたいそう賑わい、市の神を祀る市神社は、今も、当時の面影を伝えています。また、旅人のための榎を植えた一里塚が、吹上橋の北袂の両側にありました。この前方の坂を上った宿の中心地・中宿にあたる本町商店街は、江戸時代の町割をほぼ残しています。

昔の見沼代用水

見沼代用水は、江戸時代中頃の享保十三年(1728年)に完成した農業用水で、行田市の下中条で利根川から水を引き込み、各地の水田を潤しながら鳩ヶ谷に至っています。この吹上橋の袂からは、平柳用水が南に分流して、小渕村や中居村などに水を供給していました。




吹上橋の両側には一里塚もありました。

一里塚跡

吹上橋の両側にあり、塚には複が植えてありました。




埼玉県立川口高等学校は、諏訪山という山の上に学校が建てられています。通称は「川高(かわたか)」で、以前は男子校でしたが、平成九年(1997年)4月1日に男女共学になりました。卒業生には、「さよなら人類」のヒット曲で知られる「たま」のメンバー知久寿焼さんがいます。



用水路の両側には、整備された遊歩道が木陰を作っています。



見沼遊歩道の整備計画を記した案内板が立っています。かなり古い内容なので、既に整備は終わっているものと思われます。

見沼遊歩道整備計画

見沼代用水は享保十二年(1727年)、見沼に代る用水路として利根川に取入口を設け開削された歴史的な大用水です。群馬県境の行田市下中条地内から東京都境の川口市東本郷地内までの約60kmにわたり県東部の地域を縦断しています。鳩ヶ谷市内においては、北西から南東に蛇行しながら約2.6km流れています。市では、埼玉合口二期事業(三面整備)の進捗にともない昭和五十八年度から昭和六十一年度まで埼玉県の協力により、高木1、000本、低木2、000株余の植栽工事を施工し、また、三面整備が昭和六十年度に完了(当市内)したことから昭和六十三年度からは県の補助制度である「水と緑のプロムナード21整備事業」にそって主に施設整備を西暦2000年までの予定で施工しています。

<埼玉合口二期事業>
昭和五十四年、用水路の老朽化に対応して、通水機能の充実と余剰水の都市用水への転換を図るための水利用の合理化を目的とする埼玉合□二期事業が施行されることになり、従来の素堀りがほぼ全面的に三面コンクリートに改修され、これによって新たに用水縁に余剰地が生み出されるなど、見沼用水は、大きな歴史的変貌をとげることになりました。鳩ヶ谷市内では、昭和五十六年度から施工され、昭和六十年度で完了しています。

<水と緑のプロムナード21整備事業>
埼玉合口二期事業によって生じた余剰地を有効に利用し、豊かな水と緑の中で、都市と農村との調和ある快適な環境づくり(アメニティ)の創出を図り、広く県民にレクリエーション等の多様な活動の場を提供するために「水と緑のプロムナード21整備事業全体計画」におりこまれている事業を推進する。
   ●事業内容 花木の植栽、遊歩道、ベンチ、照明
         事業予定期間 昭和六十三年度〜平成十一年度




ポイント5.グリーンセンター

川口市立グリーンセンターは、「都市農業の振興」・「緑地の保全」・「市民のレクリエーションの場の提供」を設置目的として、昭和四十二年(1967年)11月1日に「グリーンセンター川口市立花木植物園」として開園し、昭和五十四年(1979年)に現名称に変更しました。約15万8uの園内においては、大芝生広場・つつじ山・花壇・ロックガーデン・菖蒲園などの施設に様々なバラエティーに富んだ植物が展示されていて、川口市安行地区で栽培された植木の展示や販売も行われています。開園間もない頃からテレビドラマや映画のロケ撮影に頻繁に使われ、スーパー戦隊シリーズ・メタルヒーローシリーズ・仮面ライダーシリーズ・東映不思議コメディーシリーズ・ガールズ×戦士シリーズでは長年にわたりロケ地として敷地内の各所が使われました。日本の都市公園100選に選定されています。園内には、滝・噴水・大芝生・パーゴラ花壇・ツツジ山・椿園・花菖蒲園・ボタン園・ホタルの里・ハーブ園・山野草園・バラ園・温室などで多くの植物を管理している他、自然林を活かした設計となっていて、四季を通じて色とりどりの花が咲き、家族で楽しめる施設になっています。温室では南国の植物が咲き誇り、白鳥の池には野鳥が飛んでくることもあります。全22種類のフィールドアスレチック遊具がある「冒険の森」や水辺や森のデッキで生きものたちの観察を楽しむことができる「昆虫の森」など、魅力が盛り沢山です。また、全長600mのミニ鉄道や展望すべり台や大型総合遊具「夢ふうせん」などを備えたわんぱく広場は、子供達に大人気です。



第二産業道路を挟んだ向かい側には、かって屋外プール場が存在していました。夏季は通常のプール(流水プール)として、冬季はプールの水を凍結させることによってスケートリンク(アイススケート場)としての営業を行っていました。しかし、流水プール場は老朽化と利用者の減少に伴い、2021年度に廃止されました。跡地はい駐車場になっています。



大温室は、「熱帯温室」・「水生温室」・「サボテン温室」の3つの温室があり、四季を通じて様々な植物を観賞することができます。



園内には入りませんでしたが、フェンス越しに巨大な建物が見えます。左はシャトー赤芝、右は緑の展示館かな?



見沼代用水や支線水路の改修によって生み出された用地を利用して、埼玉県ではウオーキングやサイクリングのための専用道路を整備しています。



案内板には、名所旧跡の紹介もされています。

緑のヘルシーロード・水と緑のふれあいロードについて

見沼代用水は江戸時代に幕府の命により井澤弥惣兵衛為永によってつくられた歴史ある用水です。両ロードは見沼代用水と支線水路の改修によりできた余剰地を有効利用し、サイクリングや散策が楽しめる自転車・歩行者専用道路です。

   緑のヘルシーロード    平成二年完成   延長56.5km
   水と緑のふれあいロード  平成十二年完成  延長42.0km




見沼代用水路の流路はこの先でU字型に大回りして第二産業道路と交差し、その先で東京外環自動車道の高架下を北に向かいます。



外環道の脇に、子ども広場があります。



公園でなく、広場という名称なのか遊具は見当たりません。避難場所として確保されているみたいです。子どもにとっては、走り回れる広場の方がいいかも。



遊歩道は段々と細くなっていきます。この区間も、緑のヘルシーロードになっています。



ポイント6.神根公園

外環道を越えて更に北上した左手に神根公園があります。大きなグランドに4面の野球場があり、軟式の野球ができます。遊具は、ブランコと小さなシーソー、それに砂場がある位ですが、子どもたちは走り回って遊べます。春には桜が咲き、お花見もできます。



埼玉学園大学は平成十三年(2001年)に開学し(創立は1972年)、人間学部と経済経営学部からなる私立大学です。多彩な教授陣の手厚い研究指導による大学院も設置されています。



用水路に沿って更に北上します。



木曾呂西交差点から住宅地を入った先に富士塚があります。木曽呂の富士塚は、地元で「ふじやま」・「木曽呂浅間」と称され、寛政十二年(1800年)に富士講の一派である丸参講の信者の蓮見知重の発願により見沼代用水東縁と見沼通船堀の連絡点の崖上に築造されたものです。現存する県内最古の富士塚で、高さ(盛土部)が5.4m・直径は20mあります。塚全体が盛土で築かれていて、火口・お中道・胎内めぐりの穴などが設置され、富士講築造の富士塚としては県内最古のものです。



富士塚は高木に覆われ、遠くから見ると小山のようになっています。

国指定重要有形民俗文化財
木曽呂の富士塚

富士塚は、富士山を模して築造した塚で、江戸高田の行者藤四郎が、老若男女だれでも心やすく富士に登山できるようにと安永九年(1780年)高田水稲荷(みずいなり)の境内にこれを築いたのが始まりである。木曽呂の富士塚は、地元で”ふじやま”または”木曽呂浅間”と呼ばれ、寛政十二年(1800年)に富士講の一派である丸参講(まるさんこう)の信者蓮見知重(はすみともしげ)の発願によって、見沼代用水と通船堀(つうせんぼり)の連結点の縁に築造されたもので、高さ5.4m・直径約20m、塚全体が盛土で築かれている。頂上には、お鉢めぐりができるよう火口が掘ってあり、又、塚を貫いて胎内くぐりの穴を設けている。富士塚の麓には、文化二年(1805年)造立の蓮行知道居士(蓮見知重)の碑があり、富士塚築造の由緒が刻まれている。この他、塚ならびに周囲には、享和四年(1804年)の石燈籠、天保四年(1833年)の石鳥居等丸、参講によって造立された石造物が多く残されている。富士塚の中でも古い築造で、特に富士講が築造した埼玉県下のものでは最も古く、庶民信仰の様相を示すもので、貴重である。




富士塚には3ケ所の登山道があります。



社殿は山頂にあるのではなく、富士塚の脇に建っています。



山麓には多くの石碑が建っています。富士山に33回も登った人もいるんですね。



登山道は結構急な傾斜をしていて、滑りやすく掴まる手すりはありません。やっと登頂すると、山頂には剥き肌の円形の地面があるだけです。結構な高さがありますね。登ってきた登山道は転げ落ちそうで怖いし、どうやって下りようかと思案していたら、反対側にコンクリートの階段がありました。こちらは手すりがなくても何とか下りれました。これで富士塚登頂何座目かな?



見沼代用水は更に北上を続けますが、ここでお別れします。見沼代用水路に架かる山口橋の脇に稲荷神社があります。



山口橋の嬌名は、新田開発に功労のあった鯉屋の姓に由来するとのことです。

稲荷社 御由緒

□ 御縁起(歴史)
当地は、江戸中期に開発された見沼新田の内の一つである。「風土記稿」下山口新田村の項に「女体権現御旅所跡 土人の話に此開発の以前、沼中に祭竹と号せるものを立て、三室女体の御旅所とせり、(以下略)」と載るように、まだ沼地であったころには、三室女体神社が隔年の九月八日に行ったという御船祭の御旅所が置かれていた。それを示す祭竹や古銭・磁器片が発掘調査でも数多く発見されている。当地の開発は、享保十三年(1728年)に江戸小田原町鯉屋藤左衛門が入り、六十年余りの難工事の末にようやく成し遂げられたものである。新田名はその功により鯉屋の姓である山口を当てたという。本殿内には稲荷大明神像のほかに、勧請の添簡も残されており、それには、寛政三年(1791年)初春吉辰に関平八・沼口以兵衛両名をはじめとした氏子中の願いにより、京都伏見大社から正一位稲荷大明神を分霊することの許しを受けた旨が記されている。当地が悪水の集まり易い土地であったため、その開発が難航を極めたことから、ようやく農作も安定し始めたと思われる同年に村の繁栄を願い奉斎したものであろう。当社は「風土記稿」に「稲荷社 鎮守なり、村民の持、地蔵堂」と載り、やがて明治六年に村社に列した。

□ 御祭神と御神徳
  ・倉稲魂命・・・五穀豊穣、商売繁盛




道標に刻まれた「足立郡」は、かつて武蔵国の東部に位置した郡で、現在の東京都と埼玉県にまたがる広大な地域でした。明治時代に東京府南足立郡と埼玉県北足立郡に分割され、それぞれが現在の足立区やさいたま市などの基礎となりました。



見沼代用水と見沼通船と見沼通船堀と通船掘東縁・通船掘西縁、それに通船掘遺構の関係がよく分かりませんので整理してみます。

埼玉県を流れる芝川周辺の低地は、縄文時代前期(約6000年前)には地球の気候温暖化により、陸地の雪や氷が融けて海面が上昇し、海水が深く入り込んできました。その後、気候の寒冷化によって海水は次第に退いていきますが、水が溜まったままのところができ、そこは沼地となりました。この沼地が「見沼」です。この沼地は溜井となり、下流の村々のための農業用水源となっていました。江戸時代初期に、関東郡代であった伊奈忠治は荒川下流の治水や新田開発を目的として、現在の元荒川を流れていた荒川を入間川へ付け替える工事を行いました。これと同時期に、利根川も流路を太平洋へと付け替える利根川東遷事業が行われていて、これらの川の付け替えにより元の流域周辺の水不足を招く恐れがありました。そこで、周囲の灌漑用水を確保するため、寛永六年(1629年)に、伊奈忠治は天領浦和領内の川筋(現在の芝川)を堰き止める方法で長さ約870メートル(八町)の八丁堤(八町堤とも書きます)と呼ばれる堤防を築き、見沼溜井(三沼・箕沼溜井とも書きます)を造りました。この時に開発された新田が現在の見沼たんぼです。徳川吉宗が八代将軍として紀州藩から江戸に入ると享保の改革が始まり、幕府の財政建て直しのための増収策として、享保七年(1722年)に新田開発奨励策が示され、新田開発が本格化しました。幕府のお膝元であった武蔵国でも新田の開発が活発化し、武蔵国の東部(現在のさいたま市東部辺り)にあった見沼溜井を始め、多くの灌漑用の溜井を新田として開拓することが決められました。また見沼の代わりとなる農業用水を利根川から供給することになり、吉宗に従って紀州藩士から幕臣になって勘定吟味役格の職が与えられた井沢弥惣兵衛為永に対して、享保十年(1725年)に見沼溜井の干拓の検討が命じられました。水路の開削は享保十二年(1727年)9月から始まり、現在の埼玉県行田市付近の利根川から取水され、瓦葺村(現在の上尾市)で懸渡井(木製水道橋のことで、懸樋とも呼ばれ、木で造った樋を支柱で支えて交差する川を跨いで水を送る仕組み)により綾瀬川を越え、そこから流路は見沼代用水東縁と見沼代用水西縁の二手に分かれました。東縁代用水路は、見沼のあった東側の台地(鳩ヶ谷支台)の縁を沿うように東側へ進んで八丁堤まで達し、そこで旧来の見沼溜井に繋がっていた足立区の谷古田・舎人などへの農業水路に接続されました。西縁代用水路は、東縁と同様に見沼のあった西側の台地(浦和大宮支台)の縁を沿うように南下し、八丁堤まで達し、そこで旧来の見沼溜井に接続されていた浦和・戸田・笹目などの領地を灌漑する水路へ付け替えられました。これだけの大規模工事にもかかわらず、用水路の完成は着工から約5ヶ月後の享保十三年(1728年)2月で、3月には利根川から水を流し込んで用水路の利用が始まりました。見沼代用水は、「代」の名前の通り、灌漑用溜池だった見沼溜井の代替用水路で、埼玉・東京の葛西用水路、愛知県の明治用水と並び、日本三大農業用水と称されています。疏水百選にも選定され、灌漑施設遺産にも登録されています。

見沼通船は、江戸時代から昭和初期まで農業用水路の見沼代用水を主に使用した内陸水運(見沼通船)のことです。見沼代用水は水田などの灌漑目的でしたが、利根川と荒川の間を流れていたため、年貢米などを江戸に運ぶ水路としても有用でした。

見沼代用水路は江戸まで直接繋がっていなかったため、江戸市中を流れていた隅田川に注ぐ芝川と代用水とを結ぶ必要性がありました。一方、東縁と西縁の2本の用水路は芝川から1キロメートル程度しか離れていませんが、標高で約3メートルほど高い位置を流れていて、直接運河を掘っても水流によって船を通すことが困難でした。このため、閘門式の運河が必要となり、見沼代用水の建設にあたった勘定吟味役の井沢弥惣兵衛為永が普請を指揮して通船堀の開削が行われました。見沼通船堀は、八丁堤と呼ばれた場所に設けられました。この付近の見沼代用水は、芝川を挟むようにして見沼代用水東縁と見沼代用水西縁の2本が流れ、芝川からそれぞれに対して通船堀東縁と通船堀西縁が開削されました。2本とも構造的には差異は殆どなく、東西とも2つの閘門(「一の関」と「二の関」)が設置されました。閘門のことを関と呼び、芝川に近い関を一の関、代用水側に近い関を二の関と呼称しました。東縁から西縁までの堀の全長は約1キロメートル程度です。閘門式運河は、運河を結ぶ2点間の水位が異なる場合、途中に水門を設け、そこで水位を調整して船を通過させる方式です。この方式は、太平洋と大西洋を結ぶパナマ運河が有名です。閘門式運河の歴史は古く、中国では14世紀頃の元朝時代に作られ、ヨーロッパでは15世紀頃から存在していました。見沼通船堀は、技術的にはそれらと比べても遜色の無いものでした。見沼通船堀は享保十六年(1731年)に完成し、堀全体で4つの関(閘門)を持ち、閘門式運河では日本最古の部類に入ります。見沼通船堀の開通により、江戸との舟運が可能となり、見沼で収穫した米や籾などが江戸に運ばれ、江戸からは肥料や荒物(あらもの:ほうきや笊などの日用品のこと)などが運ばれました。見沼通船堀は昭和初期にその役割を終えましたが、江戸時代中期の土木技術の高さと流通経済を知る上で貴重な史跡として、昭和五十七年(1982年)に国の史跡に指定されました。

通船掘東縁・通船掘西縁は、芝川を挟むようにした見沼代用水の東縁用水路と西縁用水路をいいます。

通船掘遺構は、見沼通船堀に設けられた関(閘門)の跡です。

ポイント7.通船掘東縁

通船掘東縁が見沼代用水東縁に合流する地点に標柱が立っています。



通船掘東縁の水路の脇には「歴史の道 見沼通船堀」という遊歩道が整備されています。



遊歩道の入口には、見沼通船堀の巨大なジオラマが展示されています。



ジオラマの向かい側には休息所があり、トイレも完備しています。休息所の壁に2枚の案内板が掲示されています。



左側の案内板には、「見沼通船と通船堀」の解説が記されています。

見沼通船と通船堀

享保十六年(1731年)幕府から通船の許可が出されると新田開発に功績のあった高田・鈴木両家が通船堀差配役に任じられ、通船権を与えられました。江戸に通船屋敷を設け、差配を行い、出張所にあたる通船会社が川口宿や八丁堤など6ヵ所におかれ、また荷物の積みおろし場が川口宿から東西両代用水路沿いに59ヵ所設けられました。通船の経営は、初め江戸の通船屋敷で行われていましたが、文政年間(1818年〜1826年)になると八丁の会所に自ら出向き事務をとるようになったといわれています。現在でも鈴木家には江戸時代後期の建物群が残っています。明治時代になっても、明治七年に設立された見沼通船会社によって経営が行われ、八丁河岸に本社事務所がおかれました。明治二十六年には株式会社となりましたが、陸上交通の発達などによって徐々に衰退し、やがて昭和六年の通船期限満期に伴い、その幕を閉じました。




もう一枚の案内板には、「見沼干拓と見沼代用水路」の解説が記されています。

見沼干拓と見沼代用水路

見沼は埼玉県東南部に広がる広大な沼沢地で、武蔵国一宮である氷川女体神社(浦和市宮本所在)とも関わりが深く、その中で御船祭なども行われていました。江戸時代初めの寛永六年(1629年)関東郡代伊奈半十郎忠治によって八丁堤が築かれ見沼溜井がつくられました。この溜井の完成によって、溜井の南側の新田開発は進みましたが、見沼沿岸の地域では水没田が生じたこと、上流がないために恒常的な水不足とたび重なる溢水などいろいろな問題がでてきました。江戸時代の中頃になると徳川吉宗は幕府財政建て直しのため各地で新田開発を押し進め、見沼も開発されることとなりました。この工事は幕府勘定方(後に勘定吟味役)井沢弥惣兵衛為永により行われ、まず八丁堤を切り、中央にある芝川の旧河道を使って排水を進め、新田造成を行いました。新たな用水として、利根川から水をひくこととし、延べ60kmにわたる用水路を完成させました。これは在来の見沼に代わる用水という意味で、見沼代用水と呼ばれています。こうした一連の工事は、翌享保十三年(1728年)の春に完成し、その年から新田に植え付けが行われました。なお新田造成工事は村請けや町人請けという方法で進められ、代用水縁辺の各村に新田が割り当てられました。




休息所の隣には、遊歩道に面して一軒家の和風な「花あかり」という喫茶店があります。珈琲は注文を受けてから豆を挽き、淹れているそうです。季節によって変わる手作りのスイーツと一緒に味わうといいですね。



ポイント8.通船掘遺構

喫茶店の向かい側に、「見沼通船堀」の案内板が立っています。

見沼通船堀

見沼通船堀は、享保十六年(1731年)に幕府勘定吟味役井沢弥惣兵衛為永によってつくられた我が国最古とされる閘門式運河です。通船掘は代用水路縁辺の村々から江戸へ、主に年貢米を輸送することを目的として、東西の代用水路と芝川を結ぶ方式で八丁堤の北側につくられたものです。東縁側が約390m、西縁側が約654mありますが、代用水路と芝川との間に水位差が約3mもあったため、それぞれ関を設け、水位を調節して船を上下させました。関と関との間が閘室となり、これが閘門式運河と呼ばれる理由です。この閘門を持つことが見沼通船堀の大きな特徴となっており、技術的にも高く評価されています。通船堀を通って江戸に運ばれたものは、年貢米の他に、野菜・薪炭・酒・柿渋など代用水縁辺の村々の生産物で、江戸からは肥料、塩、魚類、醤油、荒物などが運ばれました。通船を行うのは、田に水を使わない時期で、初め秋の彼岸から春の彼岸まででしたが、後に冬場の2ヶ月程と短くなりました。通船は明治時代にも盛んに行われましたが、陸上交通の発達などによって廃れ、大正時代の終わり頃には行われなくなり、昭和六年の通船許可の期限切れとともに幕を下ろしました。見沼通船堀は、江戸時代中期の土木技術や流通経済を知る上で貴重な史跡として国の史跡に指定されています。また通船差配(船割役)の鈴木家住宅も併せて指定され、保存されています。




通船掘の遺構として、「一の関」と「二の関」の閘門が再現されていて、通船掘の遺構となっています。見沼通船堀の関の構造はどれも殆ど同じでした。関の設置された場所の底面には松の丸太が地中に深く打ち込まれ、その上に角材が根太として渡され、板が全面に貼り付けられていました。側面も板と杭で全面が囲まれていました。閘門の中心には鳥居柱と呼ばれたケヤキの角材が門柱として設置され、この門柱の上流側(見沼代用水側)に角落板とよばれる平板を積み上げて水を溜めたり、板を抜いて排水したりして水位調節を行いました。角落板の大きさは幅が約18センチメートル(6寸)・長さ約3.3メートル(1間5尺)・厚さ約6センチメートル(2寸)だったといわれています。角落板は各関で10枚から12枚程度が使用され、角落板は約18センチメートルの幅であるため、水位を1.8メートルから2.1メートル程度まで上げることができました。関の中の水位を下げる時は、この角落板を両側から鈎のついた長い棒で1枚ずつ引き上げて関から抜き取っていました。この作業は枠抜きと呼ばれ、熟練を要しました。角落板は、鳥居柱の門柱に水圧で押し付けて固定されましたが、大きな板が使われなかったのは、水圧により少人数での取り扱いが難しくなるためでした。通船堀の船の運行は、江戸期には秋の彼岸から翌年の春の彼岸までと定められ、明治期以降は12月から2月までの冬の農閑期だけでした。冬に通船堀を使用する期間には、代用水から通船堀側に水が流れるように、代用水を仮締め切りで封鎖しました。逆に、通船堀を使用しない農繁期においては、通船堀に水が流れないように通船堀を仮締め切りで封鎖しました。それぞれの仮締め切りは、土俵を積み上げることによって行なわれました。船が一の関に入ると、一の関の角落板が嵌め込まれ、関内に水を溜めて水位を二の関が通過できるようになるまで上昇させました。同時に二の関の角落板が外されて、船を二の関の中に引き入れました。船が二の関に入ると、二の関の角落板が入れられて水位が上がり、見沼代用水へと船を引き入れました。代用水側から江戸へ向かう船は、逆に二の関から一の関の順に角落板を一枚ずつ外して水位を下げて芝川へ向いました。一の関と二の関の中間には舟溜りと呼ばれる場所があり、ここで上りと下りの船の行き違いや、関の開閉や水位の調整のための待機が行われました。ひとつの関で水をためるのに40分から50分程度かかり、1艘の船が通船堀を通過するのに1時間半から2時間程度を要したといわれています。また、江戸から見沼通船堀までは3日程度かかったそうです。平成六年(1994年)から平成九年(1997年)にかけて第一次史跡整備工事として関の復元が行われ、東縁は一の関と二の関、西縁は一の関のみが復元されました(西縁の二の関は復元を行わず、「二の関跡」としてその遺構が残っています)。復元から20年が経ち、堤塘の崩落や整備個所の劣化が進んできたため、平成二十八年(2016年)から再整備工事が開始され、令和元年(2019年)に東縁の工事を終了しました。西縁は令和三年(2021年)から再整備工事に入り、2026年1月現在も工事が続いています。現在、年に一度(例年8月下旬)に、関の角落板を使用して往時の通船の様子を再現する水位調整の実演が東縁で公開されています。



通船掘東縁は芝川で終端となります。



芝川の護岸上に八丁堤の案内板が立っています。

八丁堤

八丁堤は、関東郡代の伊奈半十郎忠治が築いた人工の堤(で)ある。この堤は、長さが八町(約870メートル)ほどあるのでその名がつけらた。徳川家康の関東入国後、伊奈氏は累代治水事業に力を尽し、利根川や荒川の流路を替えたり灌漑用水池をつくるなど関東地方の治川事業を次々に完成させた。見沼溜井もその一つである。寛永六年(1629年)、伊奈忠治は、両岸の台地が最も接する旧浦和市大間木の附島と川口市木曽呂の間に八丁堤を築き灌漑用水池をつくった。その面積は1200ヘクタールに及ぶ広大な溜井であった。この溜井は、下流地域221か村の灌漑用水として使われたが、大雨が続くと氾らんしたり、早ばつのときは、水が足りなくなったりするなどいろいろ不都合が出て、享保十二年(1727年)、八代将軍吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛為永によって干拓されるに至った。また、この八丁堤は、寛永六年に伊奈忠治が陣屋を構えた赤山に通ずる「赤山街道」の一部でもある。




見沼通船堀は舟運に使われたため、輸送に携わる人たちの安全を願って水神社が建立されました。

水神社

水神社は、見沼通船堀が開通した翌年の享保十七年(1732年)六月の創建と伝わります。祭神は、水の神である罔象姫命をお祀りしています。享保十六年、井沢弥惣兵衛為永によって開削された見沼通船堀が開通し、江戸と見沼代用水路縁辺の村々との物資輸送が可能になりました。船は、代用水路縁辺の河岸で荷物(江戸時代においては年貢米が主でした)を積んで江戸へ行き、帰りは肥料、塩、酒などの商品を積んできました。荷物の積みおろしをする河岸場は、芝川と東西の用水路沿いに五十九カ所あり、ここ八丁にも河岸場がありました。八丁河岸周辺には、河川輸送に携わる人たちが住んでおり、水神社は、そのような仕事につく人たちが、水難防止を祈願して祀ったものです。なお、本殿は大正十二年九月一日の大地震により全壊し、同十三年に再建されたものです。また、境内は国の史跡「見沼通船堀」の一部になっています。




ポイント9.鈴木家住宅

県道103号線に面して、古風な鈴木家住宅が建っています。鈴木家は、新田の打ち出しの貢献により、高田家と共に通船差配権が与えられた家柄です。

鈴木家住宅

享保十二年(1727年)、鈴木家は高田家とともに井沢弥惣兵衛為永に従って、見沼干拓事業に参加しました。享保十六年の見沼通船堀の完成と同時に鈴木・高田両家は幕府から差配役に任じられ、江戸の通船屋敷で通船業務をつかさどり、八丁堤などには通船会所を持っていました。鈴木家は、各船に対する積荷や船頭の割り振りなどの船割りを行い、文政年間以降は八丁会所において船割りにあたり、住まいも八丁に移しました。現在残る鈴木家住宅は、この頃の建立となり、見沼通船の船割り業務を担っていた役宅として貴重な建物です。




鈴木家住宅には、当時使われていた(平田)船が保存されていて、毎週土・日には一般に公開されているそうです。(平田)船は和船の一種で、主に内水面を航行するために使われた平底の船です。江戸時代には米や雑貨、明治時代以降は石炭などの運搬に活躍しました。



ポイント10.通船掘西縁

芝川を挟んで、通船掘東縁と筋違いに通船掘西縁が見沼代西縁に向かって伸びています。



ポイント11.通船掘遺構

2022年7月に訪れた時も、2026年1月に再訪した時も、通船掘西縁の遊歩道は途中から工事のために通行止めになっていました。通行止めになっている橋上から眺めますと、一の関らしき構造物が見えます。残念ながら確かめられませんでしたが。



遊歩道から県道103号線に出ます。ここにも稲荷社があります。

稲荷社 御由緒

□ 御縁起(歴史)
八代将軍徳川吉宗の命により、見沼干拓のために紀州から呼び寄せられた伊沢弥惣兵衛為永は、この難事業を享保十二年(1727年)に成し遂げた。この事業によって失われた見沼溜井に代わる用水として開削されたのが見沼代用水で、その竣工は享保十六年(1731年)である。見沼代用水は、農業用水として利用されただけでなく、舟運にも利用され、陸上交通が発達する昭和初期まで、江戸(東京)と用水縁辺の村々との間の物資の輸送に重要な役割を果たしてきた。当社の鎮座する八丁は、この見沼通船の会所が設けられ、重要な荷揚げ場となっていた所で、船頭など舟運にかかわる人々も多く居住し、まさに見沼通船の基地であった。「明細帳」には、当社の由緒について「創立享保十六亥年九月其他不詳」と記されているが、この創立年から、当社は、見沼干拓による新田開発に伴ってこの地に住み着いた人々が勧請した神社であると思われ、本殿には勧請の際に受けた神璽などを納めていたものらしき筥が残っている。また、境内には天保二年(1831年)三月大吉日に氏子中が幟立を奉納していることや、天保六年(1835年)二月初午に氏子の鈴木粂之助が手水鉢を奉納していることから、このころ境内の整備が図られたことが推測される。更に、拝殿内の額から、明治二十八年に参道の敷石や幟竿及び幟竿置場の奉納があったことがわかる。

□ 御祭神と御神徳
倉稲魂命・・・五穀豊穣、商売繁盛




県道103号線から一段高くなったところに女体神社があります。何とも艶めかしい神社名ですね。

氷川女体社 御由緒

□ 御縁起(歴史)
かつて、東京湾が大宮台地の辺りまであったころ、当社の北側の崖の下は入り江であったと伝えられる。附島という地名も、こうした太古の海の名残の一つで、江戸時代には一村であったが、規模が小さかったことから明治九年に大間木新田と共に大間木村に合併され、その一小字となった。この附島の地に、氷川女体神社が祀られるようになったのは、恐らく三室村(現・緑区宮本)に鎮座する氷川女体神社の社領が村内にあったことに関連するものと思われる。見沼溜井の造成によって水没した三室村内の氷川女体神社の社領20石分の替地が、附島村内に与えられたのは寛永六年(1629年)以降のことであるから、当社の創建は、その時期よりやや降るころと推測される。「風土記稿」によれば、当社は江戸後期には「女体明神社」と呼ばれ、村民の持ちであったとされている。附島は、元来は吉田一家(一族)の集落であったといわれ、今でも住民の三分の一は吉田姓であるが、その本家とされるのが吉田喜蔵家である。したがって、ここでいう「村民」とは、現在の吉田喜蔵家の先祖のことと思われる。なお、江戸時代の中ごろに同家の当主で会った治郎左衛門は修験者で、明和年間(1764年〜1772年)から安永二年(1773年)にかけて東北から四国に至る諸国を巡礼しており、その納経帳が現存している。

□ 御祭神
・奇稲田姫命・・・五穀豊穣、縁結び、夫婦和合




本殿は簡素な造りですが、江戸時代初期に建てられたと推定されています。豕扠首って、どの部分を言うのかな?

市指定有形文化財(建造物)
附島氷川女体社本殿 一棟

一間社流造りの小本殿です。身舎の間口が69.0cm、奥行きが61.0cm、向拝の出が51.0cmあります。土台上に建ち、身舎柱は円柱で、長押で固められています。柱上は舟肘木造出しの桁がのります。妻飾りは豕扠首(いのこさす:寺社建築の妻飾りとして合掌形に組まれる2本の斜材)です。向拝柱は角柱の大面取りで、柱上は出三斗で桁を受けています。身舎とは繋虹梁で結ばれていますが、左右の向拝柱を結ぶ虹梁は省略されています。身舎の正面は板唐戸で、縁板は正面のみに向拝柱まで張られていて、「見世棚造り」となっています。木階はその前面につきます。軒は二重繁垂木で、屋根はこけら葺きとなっています。この建物には建立年代を伝えるものは残っていませんが、江戸時代初期と考えられます。




どうもサイズが合わないなと思ったら、こちらが本殿のようです。鳥居の奥の建物は拝殿かな?



でも本殿にしてはヘンだな?ひょっとして、境内社なのかな?拝殿の中を覗き込むと何やら小さな社殿が収められているような。。。これが本殿なのかも。



ポイント通船掘公園

見沼通船掘公園に着きました。公園といえば、入口の奥に広場があるのが普通ですが、広場どころか入口も見当たりません。案内板を見ますと、見沼通船堀に面したところに広場があるみたいです。



見沼通船堀公園は、平成元年3月に開園し、敷地面積は6、600uあります。自然の竹林を活かして造られ、竹林内には木道が整備されています。日本の歴史公園百選に選ばれています。



案内板の左手に、竹林に囲まれた遊歩道のようなものが見えます。ここが公園の入口のようです。



それにしても凄い数の竹が密集しています。竹林の規模では関東一かも。当然、春には竹の子が生える筈。でも、採っちゃダメですよ。



竹林の遊歩道を抜けた先に広場があります。ちょっとした休息スペースはありますが、遊具は見当たりません。そもそも子どもが遊ぶような公園ではないようです。



広場の奥には、見沼通船堀沿いに遊歩道が延びています。



遊歩道の脇に案内板が立っています。

歴史の道 見沼通船堀

見沼通船堀は、享保十六年(1731年)に幕府勘定吟味役井沢弥惣兵衛為永によってつくられた我が国最古の閘門式運河です。通船堀は代用水付近の村々から江戸へ、主に年貢米を輸送することを目的として、東西の代用水路と芝川を結ぶかたちで八丁堤の北側につくられたものです。東縁側が約390m、西縁側が約645mもありますが、代用水と芝川との間に水位差が3mもあったため、それそれ関を設けて、水位を調節し船を上下させました。関と関の間が閘室となり、これが閘門式運河と呼ばれる理由です。この閘門をもつことが見沼通船堀の大きな特徴となっており、技術的にも高く評価されています。通船堀を利用して江戸に運ばれたものは、年貢米の他野菜、薪炭、酒、柿渋などの代用水付近の村々の生産物で、江戸からは肥料、塩、魚類、醤油、荒物などが運ばれました。船を通すのは、田に水を使わない時期で、初め秋の彼岸から春の彼岸まででしたが、後に冬場の二ヶ月程と短くなりました。通船は、明治時代にも盛んに行われましたが、陸上交通の発達などによってすたれ、大正時代の終わり頃には利用がなくなり、昭和六年の通船許可の期限切れとともに幕をおろしました。見沼通船堀は、江戸時代中期の土木技術や流通経済を知る上で貴重な文化財なため国の史跡に指定されています。また通船差配(船割役)の鈴木家住宅もあわせて指定され、保存されています。




案内板の地図を見ますと、西縁の二の関跡が直ぐ近くにあるようですが、遊歩道が工事中でそれらしき標識は見つかりませんでした。



見沼代用水西縁に出ます。橋の欄干には、船運の絵が架けられています。



見沼代用水西縁とは繋がっていないようですが、公園の淵に沿って見沼通船堀西縁の水路が延びています。



見沼通船堀西縁の北側には遊歩道が設けられています(2022年に訪れた時は工事で入れませんでしたが、2025年に再訪したときは一部が通れるようになっていました)。案内板の内容は同じようなものでしたが、イラストで見沼たんぼの歴史が解説されています。

国指定史跡
見沼通船堀

見沼通船堀は、江戸時代中頃に築造された閘門式運河です。徳川幕府の命を受けて、見沼の新田開発を行った幕府勘定方井沢弥惣兵衛為永によって、享保十六年(1731年)、東西の見沼代用水路(農業用水路)と排水路である芝川の間に開かれたのが見沼通船堀です。見沼代用水路と芝川の間の、三メートルの水位差を調整するために、東西とも二か所ずつの閘門が設けられていました。通船堀の開通によって、江戸からの船が見沼代用水路縁辺の村々へ、また見沼代用水路縁辺の村々から江戸へと舟運が発達しました。この運河は、大正末年に使われなくなりましたが、その遺構は、我が国の土木技術や産業交通の発達を知る上で、極めて貴重なものといえます。




見沼通船堀で、閘門を操作する人たちの絵が描かれています。



見沼たんぼが「海の入り江の時代」です。

縄文時代

2万年前の氷期最盛期の海面は現在よりも120m低かったと言われています。その後の急な海面上昇(縄文海進)により、海面は現在よりも3m〜5m高くなりました。その頃、現在の見沼たんぼの場所は東京湾の海水が入り込む入江で、この時に堆積した土砂(沖積層)により見沼たんぼの低地は形成されました。

Jomon Period

About 20,000 years ago, during the height of the last ice-age, sea-level was 120 meters below its present level. With the end of the ice age, the sea rapidly rose to between three and five meters above the present day level (this rise is referred to as the Jomon Marine Transgression). Around that time, the area currently known as the Minuma Tambo was an inlet fed with seawater from the Tokyo Bay. The sediments (alluvium) deposited in this process formed the bottomlands upon which the current Minuma Tambo fields were developed.




見沼たんぼが「沼・湿地の時代」です。

弥生時代〜1628年

約6、000年前を境に入江が後退し、荒川の下流が土砂で次第に高くなり東京湾と分離した沼や湿地となりました。

From the Yayoi Period to 1628

About 6,000 years ago, the water began to recede while the end of the Arakawa River rose on gathering sediment, resulting in part of the bay becoming swamp and marshland.




見沼たんぼが「溜井の時代」です。

1629年〜1727年

徳川家光は、幕府の財政的基盤としての水田確保のため、伊奈半十郎忠治に見沼を灌漑用水池とするように命じ、八丁堤によりせき止め、平均水深約1mの満井が完成しました。

1629 to 1727

As the key to their financial power was the procuring of rice lands, the Tokugawa Shogunate ordered Tadaharu Hanjuro Ina to develop the Minuma into an agricultural irrigation source. Thus, the Hatcho Dike was built to dam up the Minuma, thereby forming a large holding lake for irrigation water that averaged one meter in depth.




見沼たんぼが「田んぼの時代」になりました。

1728年〜現在

八代将軍吉宗は、幕府の財政改革(亨保の改革)のため、井沢弥惣兵衛為永に見沼溜井の新田開発を命じました。これにより、見沼は田んぼとして生まれ変わりました。

1728 to the present

As part of the 8th Tokugaiva Shogun, Yoshimune's, economic reforms (the Kyoho Reforms). Yasobe-Tamenaga Izawa was ordered to develop Minuma's holding lake into rice fields. Thus, the Minuma Tambo were born.




「見沼の笛」という伝説の案内板が立っています。

見沼の笛 見沼の伝説

昔、このあたりの見沼が、まだ満々と水をたたえていたころのこと。夕暮れになると、沼のほとりのどこからか、美しい笛の音が流れてきます。そしてその笛の音に誘われるかのように、村の若い男たちが一人、また一人と沼のほとりから消えてゆきました。村の若者は、だんだん少なくなって、お百姓もできなくなるほどになりました。困った村人たちは、これはきっと見沼の主が、なにかを怒ってなされるにちがいない、見沼の主の心を鎮め、いなくなった若者たちを慰めるため供養塔を建てることにしました。そして大きな石の塔を建て、ねんごろに供養しました。それ以後は、不思議な笛の音は、ぴたりとやんで、行方不明になる若者もなくなり、再び村は平和に なったということです。




ゴール地点のJR武蔵野線東浦和駅に着きました。



ということで、足立区で十番目のコースとなる「A−北西エリア 10.見沼通船堀公園コース」を歩き終えました。次は足立区で十一番目のコースとなる「A−北西エリア 11.毛長川・新芝川巡りコース」を歩きます。




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