A−北西エリア 11.毛長川・新芝川巡りコース  



コース 踏破記  

今日は足立区の「A−北西エリア 11.毛長川・新芝川巡りコース」を歩きます。最初に歩いたのは2022年8月でしたが、記憶が薄れてきましたので2026年1月に改めて歩きました。

スタート地点:舎人公園駅東口

 1.舎人公園

 2.見沼代親水公園駅

 3.毛長緑道

 4.砂小子橋公園(砂子橋公園は誤り)

 5.毛長川遊歩道

 6.舎人第一公園

 7.入谷中丸公園

 8.入谷八丁目公園

 9.南平大橋

10.新芝川遊歩道(新芝川橋〜花の木橋〜稲荷橋)

11.領家橋

12.江北公園

13.都市農業公園

ゴール地点:鹿浜都市農業公園バス停


スタート地点の舎人公園駅東口から歩き始めます。



ポイント1.舎人公園

舎人公園は、公園中央で十字に交わる道路(尾久橋通り・舎人公園通り)で4区画に分けられています。西側敷地(A・D地区)に陸上競技場(3種公認)・テニスコート・野球場などのスポーツ施設、東側(B・C地区)には水鳥が見られる大池や親水広場などの自然と親しむスペースやキャンプ場が設けられています。また、南東部にはバードサンクチュアリの施設もあります。バードサンクチュアリーとは、野鳥たちだけの住処で、巣作りに適したガマやアシ、そして雑木林などの環境管理を行ない、観察舎からは様々な野鳥たちを観察できます。公園の面積は、都立公園の中で3番目の広さを誇り、東京ドーム約14個分の64.96ヘクタールあります。23区内の都立公園としては3番目の規模(1位:水元公園、2位葛西臨海公園)になっています。



舎人公園には噴水広場が2ケ所あります。公園入口の小さな噴水広場と大池近くの大きな噴水広場で、両側に高木が立ち並ぶ水路によって結ばれています。何回か舎人公園を訪れましたが、水路に水が流れているのを見たことがありません。こちらは公園の入口にある噴水広場です。



こちらは大池近くの噴水広場です。



噴水広場の近くには大池もあり、釣りが楽しめます。



お花見広場を中心に、ソメイヨシノ・カンヒザクラ・ギョイコウなど24品種・約千本の桜が植えられ、長い期間お花見が楽しめます。毎年、3月下旬には「舎人公園千本桜まつり」が開催され、ステージイベントの他に物産展なども出店され、大勢の花見客で賑わいます。植樹は一般からの寄贈でも行なわれているようで、そういった木々にはプレートが付けられています。この木は植樹されてから20年近く経っているようです。大木に成長しましたね。



舎人公園の北西角の階段を下ります。



尾久橋通りを北上して舎人駅を通過します。舎人駅は、建設時の仮称名称も舎人駅でしたが、正式な駅名を決めるに際して公募が行われました。その結果第一位は720票の「足立入谷)」駅で、第二位の舎人駅は254票と圧倒的な差をつけられました。入谷とは、舎人駅の西側の地名で、古くからある名前であり、首都高速川口線の出入口名(足立入谷出入口)にもなっています。しかし、駅所在地が舎人一丁目であることなどから、足立区は仮称通りの「舎人」駅を推薦順位第1位とし、2006年11月13日に正式決定されました。なお、「舎人」とは、古代の律令制度に於て、天皇や皇族に仕える下級官吏を指していました。この官吏は、警備や雑用などを担当していて、7世紀後期にはすでに舎人の制度が確立されていました。足立区の「舎人」という地名は古代の官吏や舎人親王に由来するという説があり、歴史的背景が豊かです。舎人の地名の由来については、幾つかの説があります。主な説は次の通りです。
舎人親王説:
舎人親王(天武天皇の皇子)に由来するという説。
古代官吏説:
古代の宮廷に仕えた舎人が住んでいたことから名付けられたという説。
アイヌ語説:
アイヌ語の「トネ・イリ」(石の転がる平地)に由来するという説。
聖徳太子命名説:
聖徳太子が名付けたという説。




舎人駅の直ぐ左手に、舎人氷川神社があります。正治二年(1200年)に創建され、舎人村の鎮守でした。



舎人氷川神社の社殿は総欅造りで、柾目の素材を集めて造営されています。精巧な彫刻が施されていて、社殿は足立区の登録文化財に登録されています。

舍人氷川神社

当社の創建は古く、鎌倉時代初期の正治二年(1200年)に、大宮(埼玉県さいたま市)の氷川神社を勧請したと伝えられている。現在の社殿は、天保七年(1836年)の建築で、総欅造り、柾目の素材を集めて造営されている。唐様破風流れ造りの屋根が大きく社殿を覆っている。この社殿の特徴は、一面に施された彫刻美にある。屋根の中央が前方に張り出した向拝の両柱の昇竜・降竜、正面扉の唐獅子や牡丹、左側面の八岐大蛇退治、裏面には天の岩戸開き、右側面には天孫降臨の様子が浮彫にされている。さらに、奥の両袖の懸崖には親子の唐獅子が彫り抜かれている。獅子は子を千尋の谷へつき落し、子は自力で谷間から這い上がるという図柄である。こうした社殿の価値は高く、昭和五十七年(1982年)十二月に足立区登録有形文化財となった。他にも当社には、十四・十五世紀頃のものとみられる懸仏(足立区登録有形文化財)や、江戸時代に舎人町・入谷村・遊馬村(埼玉県草加市)の3か町村が舎人氷川神社の神位授与を吉田卜部家に願った舎人氷川神社文書(足立区登録有形文化財)が残されている。舎人は江戸時代には赤山街道の宿場として栄え、「ごぼうの市」に代表される市場町としてもにぎわったところである。こうした文化的・経済的な背景が舎人氷川神社の文化財の形成につながった。




境内に、ひょうたん型の小さな池があります。

弁天池の由来

この池の名前は弁財天を奉ったことにちなんで弁天池と呼ばれていました。大きさは現在の三倍位あり、魚の形をしておりました。今日ではこの池にまつわる話が二つほど語り継がれております。

一つは弁天様のお使いといわれる白蛇伝説です。
昔この辺りに、白蛇が棲んでいました。たまにその姿を道路や田のあぜに現しては「あっ白蛇様だ。」と村民に珍しがられていました。ところがたまにその姿を現した後には決まって嵐などの天災に見舞われました。そこで、村内のどこかで白蛇の姿を見かけると「白蛇様がお現れになったぞ。」とお互い知らせ合い、雨戸を打ち付けたり天災に備えるようになりました。おかげで舎人村では天災による被害は最小限に留められた様です。これも白蛇様のお告げによるものと白蛇に感謝し、弁財天のお使いとして大事に扱ったということです。

もう一つは池に棲んでいた鯉と亀の話です。
昔、村の子供たちが遊んでいるうちに、弁天池の鯉と亀を獲ろうということになり、何匹かの鯉と亀を捕まえました。獲ってみろとあまりに大きく美しいので、家にもって帰った所、数日の内に家の人々が原因不明の病にかかってしまいました。そこで、「弁天様のたたりだ。」という噂が村中に広がり、名主様の計らいで鯉と亀を池に戻した所、村人達はみるみる元気になったそうです。その後、弁天様の亀を区別するために甲羅に目印をつけ、台風などで池から出ていった時は村人達によって弁天池に戻されました。弁天様の御加護によって舎人村には病人が出ることはなかったそうです。

昭和三十五年に土地改良事業が始まり、農業用水が減ることによって池のみずの循環が行われなくなると鯉や亀は凄めなくなってしまいました。そこで、この度地域の皆さんの御協力と、公益信託あだちまちづくりトラストからの援助によって、素晴らしい弁天池が蘇りました。これからも弁天池を大切に守っていきたいものです。




舎人氷川神社の脇に「喫茶アジェンデ&カレーシャ」というお店があります。木・金・土・日・祝日・祝前日・祝後日と夏期期間はお休みという変則営業となっています。何故か、キューバンサンドイッチが看板に載っています。キューバンサンドイッチは、キューバンブレッド(キューバパン)に、ハム・ローストポーク・スイスのチーズ・ピクルス・マスタードそして時にはサラミで作られるそうです。元々はフロリダに昔から存在している2つの移民のコミュニティーであるキーウェストとタンパのイーボーシティでキューバ人労働者に提供されていたものですが、その後、キューバ人亡命者や国外移住者たちがマイアミに持ち込み、今も人気があるとのことです。



カシミールカレー5辛・マトンカリー6辛など辛さが選べるようです。6辛はちょっと中途半端ですね。どうせなら10辛とか20辛があっても。。。



ポイント2.見沼代親水公園駅

更に尾久橋通りを北上し、見沼代親水公園駅に着きます。見沼代親水公園駅は、2008年に開業した都営日暮里・舎人ライナーの終着駅(始発駅)です。足立区と東京23区内の最北端の駅で、東京都交通局が管理する駅の中でも最北端に位置しています。駅名は、駅の北側にある見沼代親水公園から名付けられました。「見沼」は、かって埼玉県さいたま市と川口市にあった沼です。駅や公園の所在地は「舎人」であり、駅名を決める際に足立区が行った公募では、1位が482票の「舎人駅」で、2位の「見沼代親水公園」駅は156票と大差がつきました。しかし、足立区の指針として、同公園を「快適な居住環境をつくる重要な施設」と位置付けていることを踏まえ、区は「見沼代親水公園駅」を推薦順位第1位とし、2006年11月13日に正式決定しました。見沼代親水公園駅は、島式ホーム1面2線を有する高架駅で、車両基地のある舎人公園駅との間に、出入庫を兼ねた区間列車(営業列車)と回送列車が設定されています。



日暮里・舎人ライナーは東京都交通局が運行していることもあり、終点の見沼代親水公園駅で軌道が途切れています。埼玉県まで延びていないものの、一応は延伸も視野に入れた形になっています。見沼代親水公園駅から都道58号線を北へ約350m歩くと、埼玉県草加市になりますので、駅は都内にありますが、埼玉県民の利用者が多いのも事実です。しかし、現状では東京都による埼玉県への延伸計画はありません。



ポイント3.毛長緑道

尾久橋通りと見沼代親水公園の水路が交差する交差点から毛長緑道に入ります。交差点の手前から延びる短い緑道です。



現在は毛長川が尾久橋通りと交差する地点に架けられた橋が舎人二ツ橋ですが、これには由来があるそうです。

舎人二ツ橋の由来

舎人二ツ橋のうち上の橋は、享保十三年、三沼の干拓で利根川から取水する見沼代用水が完成したときに造られました。また、下の橋は、文化文政の頃、毛長悪水落堀普請の際にできたものと伝えられています。この頃からこの地一帯は二ツ橋と呼ばれてきました。橋は赤山街道に接し、下肥の荷揚げ地があり、近年まで重要な役割をはたしてきました。しかし、昭和四十三年の毛長川改修により下の橋は北に移動し、その跡は毛長緑道となって残っています。また、昭和五十九年に開園した見沼代親水公園により、上の橋の使命も終わりました。この度、放射11号線架橋に伴い、橋名を「舎人二つ橋」と命名し、碑を建て、二ツ橋の由来をとどめるものです。




緑道の終点には、ふれあい橋という名前の人道橋が毛長川に架かっています。今時珍しい木製の橋です。



毛長川は、埼玉県川口市・草加市と東京都足立区の境界を流れて綾瀬川に合流し、流路延長は約9.7キロメートル・流域面積は約20.2平方キロメートルの一級河川です。ちなみに、「毛長川」の川名の由来には幾つか説があります。草加市の「そうか昔話」には次のように書かれています。

昭和に改修された足立区と草加市の境を流れる毛長川は、かつては新里地域の沼地をくねって流れていました。今ではもう形をとどめていませんが、この一帯は人々に毛長沼と呼ばれてきました。ある時、足立区側の舎人村から新里村へ供を従えて長者がやってきました。かねてより頭を痛めていた治水のための話し合いと兼ねて、肥沃な土地を持つ新里村の農作物の様子を見たいと訪れたのでした。供の者の中には長者の息子も加わっていました。幾つもの作物蔵を見て回り、さて帰ろうと一行が沼を渡る舟に今し乗り込もうとしていた時、ふと振り返った若者の目を捉えたのは、沼の畔に一人立って蓮の花を見やる娘の姿でした。色白の面立ち、なびく黒髪、「あれは女神様の化身だろうか」若者は呟くのでした。やがて若者はその折の女性が新里の長者の娘と知り、村長に頼んで縁談を申し入れました。その結果、両家の親と娘は申し入れに応じて二人はめでたく結ばれる運びになりました。娘が嫁ぐ日も近づいた丁度その頃、新里の村に疫病が入り込んできました。疫病は猛威を振るい始め、床に伏す人が村中に出てくる有様でした。こうした噂は沼を隔てた村々にも伝わり、祟りが及ぶと恐れた舎人の村人達は長者に二人の破談を迫りました。疫病は一向に収まらず、そうこうしているうち両長者とも縁組を諦める事態になってしまいました。新里村では、命を落す者も出始め、そんな中で娘は舎人の若者が破談をひどく嘆いていることを伝え聞くに及んで心痛も極まってしまいました。何日かたった大嵐の夜、娘はちぎれんばかりに髪を乱しながら沼へ身を沈めてしまいました。嵐が去り、疫病も収まったある日、舎人の岸辺に長い黒髪が流れ着きました。村人達はこれが身投げをした新里の娘の髪だと悟ると、大いに悲しみました。一方、新里の村人達も長者の娘をいとおしみ、社を建ててここに娘の髪をご神体として祀り、毛長神社と名づけました。今では、毛長川の水はあの嵐の夜の悲しい出来事など知る由もなく、帰路を急ぐ通勤客を乗せた電車の灯を映しながら静かに流れています。

もうひとつの説は、

昔、新里に住んでいた女性が舎人に住む男性と結婚しました。その後、男性の実家と折りが合わず新里の実家に帰る途中に沼(川)に身を投げました。何年か後に長い髪の毛が川に浮かび上がりました。村人はこれを新里の神社に祀り、現在の毛長神社となりました。以来、この川を毛長川と呼ぶようになりました。

というものです。



ふれあい橋の上流側に境川部屋があります。境川部屋は、日本相撲協会に所属する出羽海一門の相撲部屋です。平成四年(1992年)12月に現役を引退して以降、出羽海部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていた年寄の12代中立(元小結両国)が、平成十年(1998年)5月に2人の内弟子と同郷の先輩である12代大鳴戸(元幕内吉の谷)を連れ、出羽海部屋から分家独立して中立部屋を創設しました。12代中立の師匠である12代境川(元横綱佐田の山)が停年(定年)退職を迎える直前の平成十五年(2003年)1月に、互いの年寄名跡を交換する形で12代中立は13代境川を襲名し、部屋の名称を境川部屋に変更しました。学生相撲出身者を積極的に迎え入れていて、平成十四年(2002年)3月場所に新十両へ昇進した岩木山を最初として、現在までに9人の関取を輩出しています。平成二十二年(2010年)9月場所では当時在籍していた7人の現役関取が全員十両に在位して話題となりました。平成二十六年(2014年)7月場所後には豪栄道が中立部屋時代を通じて部屋から初めての大関に昇進し、平成二十八年(2016年)9月場所では豪栄道が同じく初の幕内最高優勝を果たしました。13代境川は、この他に関脇妙義龍らを育成しています。



稽古が終わったのでしょうか、廻しが干してあります。随分と幅広で長いですね。



ポイント4.砂小橋公園

砂小橋公園は、広場とバスケット型のブランコ、それに小さな遊具があるだけの公園です。公園名を記した標識も案内板もありません。しかし、トイレだけは煉瓦貼りの立派な造りです。



砂小橋公園と道路を挟んだ向かい側に、毛長川に架かる砂小橋があります。



毛長川には、砂小橋と平行に舎人橋が架かっています。



橋を渡った直ぐ先には一本橋があります。丁度、コの字型に3つの橋が近接しているのです。一本橋は、見沼代用水東縁(ひがしべり)用水路の管理終点に架けられています。現在、見沼代用水土地改良区が管理するのはここまでで、かつては見沼代用水東縁が毛長川を懸樋(かけひ)で越えていました。舎人橋・砂小橋・一本橋と3つの橋で囲まれたところには「舎人堰水門」があります。



現在は、見沼代用水東縁は砂小橋の先でほとんどの水が毛長川に放流されています(ごく少量の水は毛長川の下をサイフォン方式で通過して神領掘親水緑道へ流れています)。



砂小橋と舎人橋の橋名板の文字は地元の小学生が揮毫したそうです。

「舎人橋」「砂小橋」架橋記念

ここは、見沼代用水と毛長川との合流地点です。見沼代用水には「一本橋」が、毛長川には「舎人橋」(上流側)と「砂小橋」(下流側)が架けられています。このたび、毛長川改修工事にあわせて架け替えられた「舎人橋」と「砂小橋」の橋名板の文字を、舎人第一小学校の児童の皆さんに書いていただきました。両橋が地域のシンボルとして愛され、末永く安全・安心して暮らせるまちとなることを祈念します。




ポイント5.毛長川遊歩道

舎人橋の袂から、綺麗に整備された毛長川遊歩道が都境まで延びています。



現在、毛長川では護岸工事が行なわれています。従来の鉄製の護岸に代えてコンクリート製の止水壁になっています。



新砂子路橋(しんしゃごじばし)は、毛長川に架かる橋で、足立区と草加市を結び、昭和六十一年3月に竣工しました。



草加市側の北詰には、「ゆうゆう歩道」という散策路があります。

ゆうゆう歩道について

この緑地帯公園は、長さ1、798m、幅13m、総面積24、300平方m、近隣の環境を保護するために、昭和四十五年川口新郷工業団地協同組合創立と同時に造成され、平成十四年「遊歩道」を整備完成し、「ゆうゆう歩道」と命名され近隣住民の散歩道として愛されております。私共は、みなさまと一緒に、この「ゆうゆう歩道」を美しく守り育てていきたいとおもいます。




遊歩道は、道路よりも一段高くなった護岸の上に延びています。遊歩道の脇には桜の古木が続いています。所によっては遊歩道の真ん中にも。



中居橋の真上には首都高川口線が通っています。



遊歩道は、東京都と埼玉県の境界で「The End」となります。



ポイント6.舎人第一公園

倉庫街を抜け、鳩ヶ谷街道を横断した先の住宅地の中に、舎人一号公園があります。



広々とした公園内には所々にベンチが設置されていて、遊具はありませんが、ボールや縄跳びやバトミントンなどの遊具を持参して思い切り身体を使って遊べます。



ポイント7.入谷中丸公園

舎人一号公園の先に、入谷中丸公園があります。舎人一号公園もそうですが、入谷中丸公園も広い公園の割にはトイレが設けられていません。なので、必要なら入谷八丁目公園に行くしかありません。



面積9、250平方メートルの敷地内には芝生が整備され、緑の絨毯が敷き詰められています。また公園の中には、アンズ・ビワ・ザクロ・ウメ・クワ・クリ・ヤマモモ・イヌマキ・イチョウなどが様々な木々が植栽されていて、運が良ければ季節の味覚に出会うことができます。採っていいかどうかは分かりませんが。



果樹があれば野鳥や昆虫が寄ってきます。

入谷中丸公園−野鳥や昆虫のすみか

この公園は都市化の進行とともに急速にすみかを失いつつある野鳥や昆虫たちの生息場所を提供する場所になっています。きれいに整備された公園とは違い、ここでは落葉や雑草はそのまま残してあります。さくらの木に毛虫が発生しても殺虫剤の散布はおこないません。野鳥や昆虫たちのすみかということを理解していただいてご了承いただければと思います。




遊具はあまり見当たりませんが、本格的なターザンロープが設置されています。



ポイント8.入谷八丁目公園

入谷八丁目公園は、新芝川の東にある区立の公園です。



面積3、500平方メートルの土の広場で、子ども達は思い切り走りまわったり、キャッチボールやサッカーなどのボール遊びして楽しむことができます。広場の周囲にはカラフルな色彩のすべり台などの遊具の他、パーゴラを備えています。パーゴラのベンチに腰をかけて、のんびりと過ごすことができます。



ポイント9.南平大橋

南平大橋は新芝川に架かる橋で、埼玉県道・都道104号川口草加線を通しています。



芝川は、埼玉県桶川市末広二丁目を発する流れと上尾市菅谷を発する湧水が芝川の源流とされ、この2本の流れが上尾市本町の一本杉橋の北側で合流し、南に流れて芝川になっています。その後、芝川は東に流れを変えながらさいたま市の通称見沼田圃の沖積平地のほぼ中央を流れています。加田屋川と合流して再び南に流れ、その後は川口市に入って青木水門で芝川と新芝川(芝川放水路)に分かれます。川口市南端の領家水門で新芝川と再合流し、芝川水門で荒川(荒川放水路)に注いでいます。新芝川は芝川の派川で、度重なる洪水被害に対する治水事業により放水路として開削された河川です。



南平大橋の袂から新芝川遊歩道に入ります。簡易アスファルト舗装ですが、歩きやすいですね。芝川サイクリングロードは、さいたま市緑区大間木の八丁橋から足立区の都市農業公園までの新芝川沿いの12.4kmの歩行者・自転車の専用コースですが、新芝川サイクリングロードは都市農業公園までとなっているものの、始点が定まりません。とにかく、南平大橋から都市農業公園までの区間は新芝川サイクリングロードの一部で間違いないでしょう。



ポイント10.新芝川遊歩道(新芝川橋〜花の木橋〜稲荷橋)

南平大橋の下流に新芝川橋があります。芝川橋は、当然のことながら芝川に架かっています。



新芝川橋の袂から遊歩道の歩きを再開しますが、夏と冬の時期では遊歩道の状況は一変します。遊歩道は舗装がされていないので、夏の時期は車が通った轍のように草が生い茂った地面に青草が生えまくっています。一方、冬の時期は草が枯れて土がむき出しになっています。夏草はズボンに絡まってとても歩き辛くなります。なので、このコースを歩くには冬の季節がお勧めです。川風は冷たいですが。



新芝川橋の下流に花の木橋が架かっています。車道の両側に並んだ柱が独特の景観を醸し出しています。



花の木橋の下流に稲荷橋が架かっています。斜張橋の主塔だけでなく、欄干や親柱の特殊な装飾が目立ちます。横から見た時点でも何となく帆を思わせるような造りが分かりますが、親柱に当たる部分はヨットの帆みたいに見えます。橋の中腹には踊り場があり、屋根の形状も帆っぽい感じです。ポールの天辺にはカモメの形の装飾がついています。主塔は帆船のマストのようですね。ちなみに、稲荷橋の橋名は、首都高川口線の脇にある加賀稲荷神社に由来しているように思えます。



稲荷橋の下流に、順信橋という人道橋が架かっています。



橋の袂に、橋の名前の由来が記されています。

順信橋の由来

芝川放水路堀川工事は昭和三拾年十月着工、同四拾年に完成。当順信橋も稲荷橋同一の橋を架設する事でしたが、種々な事情に依り現在の橋が架設されました。当橋の直下に領家地区の恩師河原順信先生の住宅があり、架橋用敷地の為取壊すの止むなきに至りました事は誠に感慨無量に耐えません。先生は御年十七才の時(文久三年十一月)幕末の儒者安井息軒先生の門に入り、専ら漢学を学び、明治五年学制発布以来五十有余年間児童教育に専念され、領家町に生を受けし児童は殆ど先生の教育を受けざる者なく、終始一貫全生涯を教育に?粋された人格者でありました。大正十一年三月二十七日病の為逝去されました。其の偉徳を永遠に伝えん為順信橋と命名す。




まだまだ青草の生い茂った遊歩道は続きます。中央の細い通路は、人の足で踏み固められた通路でしょうか?それでもズボンの裾には雑草がまとわりつきますが。



ポイント11.領家橋

領家橋は、都道・埼玉県道107号東京川口線を通しています。「領家」というのは、平安時代後期から鎌倉時代に存在した身分で、土地を開発した後に開発者から寄進を受けて貴族や寺社などが領主となったものをいいます。



ポイント12.江北公園

領家橋から首都高川口線下の道路を都市農業公園に向かって歩きます。左手に細長く続く江北公園があります。



江北公園は、首都高川口線沿いにある広々とした公園で、グラウンドやテニスコート、それに遊歩道が揃っています。ナイター設備も備えた3面のテニスコートの利用は申請が必要ですが、練習用のボードはいつでも利用が可能です。周囲にはきちんとフェンスが張り巡らされているのでボールが外に出る心配がなく、思い切り練習できます。遊歩道には木々が生い茂り、春夏は新緑、秋には紅葉が楽しめます。



健康遊具も設置されています。

らくらく健康器具 1208
ユッタリステップ

ステップを昇り降りしてみましょう。膝の曲げのばし運動が行えます。何度も往復したり、上段での足踏みは土踏まずを刺激し、より効果的です。

らくらく健康器具 67108
ソロソロ平均台

バランスをとりながら歩く運動です。手すりがついていますので安心して運動ができますがなるべく手すりにつかまらずに歩いてみましょう。




腰の回転運動はギックリ腰の予防に役立ちます。

ストレッチ器具 K−171
ツイストボード

バーにつかまり円盤の上に立ち体を左右にゆっくりひねりましょう。腰部のストレッチに役立てましょう。




ポイント13.都市農業公園

江北公園の先に都市農業公園があります。都市農業公園は、昭和五十九年(1984年)に開園し、平成七年(1995年)にニューアルオープンしました。入園は無料で、早朝夜間と年末年始などは休園となります。埼玉県との境界を流れる芝川が荒川に注ぐ河口付近に位置し、南側は荒川河川敷緑地に面しています。全国各地に作られている農業公園のひとつで、自然とのふれあい・植物栽培・園芸・農業への理解と教育、市民の憩いのために作られました。



入口の正面には、都市農業交流館があります。



館内には園内施設の紹介や農業に関する資料が掲示されています。



園内の中央には円形の芝生広場があり、周囲を桜並木が取り囲んでいます。

江北五色桜

昔、荒川堤の五色桜は東京でも有数の桜の名所として親しまれていました。五色桜とは品種の名前ではなく、染井吉野のほかに八重桜などの品種が混植されて白や黄緑、淡紅色、濃紅色、紅色などに彩られ五色の雲がたなびくように見えたためといわれています。ここには当時の風景を再現するために里帰り桜の中から約30品種80本の桜が植えてあります。




2026年1月に再訪した時は、寒桜の花がほころび始めていました。

CerasusxKanzakura ’Praecox’
カンザクラ

寒桜。落葉小高木。花は2〜3個ずつつき、淡紅色の5弁花です。早咲で、暖地では年明けごろから咲き始めます。バラ科。




芝川沿いには梅林もあります。

生きものとの共生 梅林

かつてこの梅林は「タマカタカイガラムシ」という害虫により大変な被害にあっていました。そこで平成十七年ころから、梅の木の下に公園周辺でみられる野草(カラスノエンドウやムラサキツメクサなど)を移植して、植物とそこにやってくる昆虫類との共生を図りました。その結果、カイガラムシの天敵である「アカホシテントウ」がみられるようになり、同時にチョウやバッタなどのさまざまな昆虫類が増え、梅の害虫はほとんど姿を消しました。以後、この梅林では野草を一定の高さで刈り残すという手法で昆虫類の生息環境を残した管理をしています。この公園では、こうした生きものとの共生を大切にした植物管理を行っています。




2026年1月に再訪した時は、早くも梅のつぼみが開花し始めていました。



子ども達が果実か何かを採ろうとしていますね。昔だったら何処でも見られた風景です。



園内には、田畑・果樹園・温室など、東京郊外で行われていた農業を伝える目的の施設があります。



芽が出たばかりの野菜畑もあります。



足立区内から移築した長屋門や古民家も保存・展示されています。長屋門は明治中期に建てられたものを移築したものです(2026年に再訪した時は立ち入り禁止になっていました。)。

旧増野製作所長屋門

現在の足立区谷中周辺は、江戸時代初期に開発された谷中新田である。谷中新田には北の浅野久右衛門の開発地と南の吉野長左衛門の開発地があり、それぞれ上谷中、下谷中という呼称もあった。元禄年間(1688年〜1704年)にこの上下の谷中は分村し、それぞれ開発者の名前を冠して久右衛門新田、長左衛門新田となった。旧上谷中の浅野久右衛門家は、地名と名前から各一字をとり「谷久様」と呼ばれていた。この長屋門は明治三十年(1897年)頃の建築で間口17.5メートル、奥行4.8メートル、高さ3.9メートル、屋根は入母屋造りの桟瓦葺で、浅野家の正門として「谷久門」と称されていた。その後、昭和十一年(1936年)に増野製作所の創業者増野清香氏が現青井五丁目に新工場を建設する際に譲り受け、これを補修し多年にわたり工場の門として利用された。昭和五十年(1975年)に同工場が茨城県へ移転する際、後継者である増野鋼四郎氏が保存を決意し、防護柵を施す等保護に尽力された。平成十二年(2000年)都道補助140号線の建設にともない区が寄贈を受け、東京都建設局の協力を得て当地に移築復元した。




裏から見るとこんな感じです。



高台には古民家が移築・保存されています。

旧和井田家住宅(母屋) 一棟

この住宅は江戸時代後期の建築で、間口八間、奥行五間、屋根は寄棟造りの茅葺きである。もと花畑二丁目にあった和井田家邸で、伝えによれば安永二年(1773年)頃に生まれた四代目当主の代に建てられたという。間取りは典型的な田の字型の古民家で、正面右手の大戸から入ると「ドマ」がある。「ドマ」の手前の一画には、籾や米を貯えた「コメビツ」、奥には「カマド」を備えた台所である「カッテ」がある。さらにその奥には「ミソベヤ」がある。左手には家族の居間である「イタノマ」、寝室に使われた「ヘヤ」、平書院と床の間を備えた「ザシキ」や「オク」と呼ばれる部屋などがある。「イタノマ」と「ヘヤ」が根太天井であるのに対し、「ザシキ」と「オク」は棹縁天井であり、二部屋の間には、欄間も設けられている。「イタノマ」と「ヘヤ」は日常生活の場であり、「ザシキ」と「オク」は格式を備えた空間となっている。天井裏には、「ドマ」から梯子で昇り降りし、物置として使用された。安政大地震(安政二年・1855年)を経てきたというこの家屋は、台所をはじめ、南側瓦葺きの庇、西側廊下と便所など、増改築の跡をうかがうことができる。東側壁面は、竹を細かく割って土真壁を覆う「しぎ竹」という工夫も見られる。また「ドマ」や軒先に敷き詰められた煉瓦は、明治時代の花又帝国煉瓦の工場で造られた製品である。この住宅は貴重な江戸時代の農家建築として区に寄贈され、昭和五十八年十二月に足立区指定有形民俗文化財となった。翌年に掛けて足立区都市農業公園に移築保存され、一般公開されている。




今は殆ど見かけなくなった郵便ポストも置かれています。郵便物を投函しても届くことはないでしょうけど。



間取りが詳しく説明されています。

足立区指定有形民俗文化財
旧和井田家住宅

概要
旧和井田家住宅は江戸時代後期に建てられた茅葺きの家屋で、足立区の古い農家建築の典型的な特徴を備えています。もともと足立区花畑にあった住宅を、1983年〜1984年に都市農業公園に移築し保存したものです(足立区指定有形民俗文化財)。

間取り
入口を入ると「ドマ(土間)」があります。住居の空間は、「イタノマ(板の間)」「ヘヤ(部屋)」「オク(奥)」「ザシキ(座敷)」という、4部屋の並びが漢字の「田」に似た典型的な「田の字型(四つ間取り)」で構成されています。


【カミコウカ】
トイレをカミコウカと呼んでいました。移築前は屋外にもトイレがありました。写真の屋内トイレは家長(当主)のみが使えるもので、唐草模様があしらわれた特注品です。他の家族は屋外のトイレを使ったそうです。
【イタノマ@】
イタノマは@・A共に家族の日常生活の場でした。隣接するヘヤは若夫婦の寝室として使われていました。
【イタノマA】
小さな囲炉裏があり、食事や農作業の合間の休憩に使われていました。
【オク・ザシキ】
これらは格式のある、あらたまった部屋です。特にザシキは家で一番あらたまった部屋のため、トコや平書院という装飾があります。客人の接待などに使われていました。また、冠婚葬祭の際はふすまを外し、この2部屋を主に使っていたそうです。
【カッテ】
現在でいう台所にあたります。コンクリート製ですが、古い形を残したカマドがあります。カマド上方に煙集めの囲いと、煙出し窓がついています。当時カマドの周囲の壁や天井は、煙で燻されて黒く煤けていました。現在はカマド上部にだけ、黒い状態が残っています。
【コメビツ】
米を貯えておく場所です。「コクビツ」「ココビツ」とも呼ばれました。いたずら等をすると、中に閉じ込められたそうです。
【レンガ】
移築時の当主である和井田栄一氏の祖父健次郎氏が当主であった時期に、大きな改築がなされ、ドマや庇の下など、ふんだんに煉瓦が敷き詰められていました。現在はドマの一部に煉瓦が残っています。
【井戸】
足立区の古い民家では、前庭に井戸がある家が多かったようです。旧和井田家住宅も移築前には、門を入ったすぐ右手にお風呂が併設された井戸があり、その周辺にトイレもありました。


母屋と長屋門の間に井戸が見えます。

旧和井田家住宅の歴史
1855年
安政江戸地震が起きる。旧和井田家住宅は家主の半兵衛氏がこの地震より前に建てたとされる。
1868年
後に花又帝国煉瓦株式会社の役員となる和井田健次郎氏が生まれる。健次郎氏の時代、煉瓦をあしらうなどの大きな改修が行われ、旧和井田家住宅の現況がつくられた。
1923年
関東大震災が起きる。倒壊を免れるが、地震により住宅が傾いたとされる(口伝)。
1945年
東京大空襲の爆撃を受けるが、戦火を免れる。近隣に落ちた爆弾の爆風で関東大震災時の傾きが戻ったとの言い伝えも残っている。
1965年頃
茅葺き屋根の一部を葺き替えた記録がある。時代の変遷により、この頃すでに屋根の材料である茅の入手がとても困難となっていた。
1980年頃
居住者がいなくなるが、住宅は親族の手入れによって良好な状態に保たれる。
1983年
足立区による調査で高い価値が認められ、「足立区指定有形民俗文化財」となる。同時に足立区都市農業公園へ移築され、復元工事が開始される。
1984年
都市農業公園に竣工、展示が始まる。屋根も葺き替えられて新しくなる。
2007年
移築後2回目となる屋根の葺き替え作業が行われる。




夏期にはタマネギ、晩秋には稲と、季節毎に作物が天日干しにされています。



荒川土手側入口にはレストハウスがあり、荒川の河川敷道路から芝川自転車道が分岐する地点として、サイクリング愛好者の休憩ポイントとなっています。



ゴール地点の鹿浜都市農業公園バス停に着きました。



ということで、足立区で十一番目のコースとなる「A−北西エリア 11.毛長川・新芝川巡りコース」を歩き終えました。次は足立区で十二番目のコースとなる「A−北西エリア 12.舎人公園から飛鳥山公園コース」を歩きます。




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