- A−北西エリア 12.舎人公園から飛鳥山公園コース
- コース 踏破記
- 今日は足立区の「A−北西エリア 12.舎人公園から飛鳥山公園コース」を歩きます。最初に歩いたのは2022年7月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年12月に改めて歩きました。
スタート地点:舎人公園駅東口
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1.舎人公園
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2.江北北部緑道公園
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3.皿沼公園
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4.谷在家公園
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5.上沼田北公園
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6.北鹿浜公園
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7.都市農業公園
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8.鹿浜橋
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9.新田公園
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10.新田橋
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11.北豊島郵便局(廃局で更地になっていた)
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12.サミットストア
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13.王子消防署
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14.王子四丁目公園
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15.南大橋
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16.名主の滝公園
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17.王子神社
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18.音無親水公園
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19.飛鳥山公園
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ゴール地点:王子駅中央口
スタート地点の舎人公園駅東口から歩き始めます。
- ポイント1.舎人公園
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舎人公園は、公園中央で十字に交わる道路(尾久橋通り・舎人公園通り)で4区画に分けられています。西側敷地(A・D地区)に陸上競技場(3種公認)・テニスコート・野球場などのスポーツ施設、東側(B・C地区)には水鳥が見られる大池や親水広場などの自然と親しむスペースやキャンプ場が設けられています。また、南東部にはバードサンクチュアリの施設もあります。バードサンクチュアリーとは、野鳥たちだけの住処で、巣作りに適したガマやアシ、そして雑木林などの環境管理を行ない、観察舎からは様々な野鳥たちを観察できます。公園の面積は、都立公園の中で3番目の広さを誇り、東京ドーム約14個分の64.96ヘクタールあります。23区内の都立公園としては3番目の規模(1位:水元公園、2位葛西臨海公園)になっています。
舎人公園には噴水広場が2ケ所あります。公園入口の小さな噴水広場と大池近くの大きな噴水広場で、両側に高木が立ち並ぶ水路によって結ばれています。何回か舎人公園を訪れましたが、水路に水が流れているのを見たことがありません。こちらは公園の入口にある噴水広場です。
こちらは大池近くの噴水広場です。コースマップを見ると、大池近くの噴水広場がスタート地点のようなので、ここから今日の歩きを始めます。
お花見広場を中心に、ソメイヨシノ・カンヒザクラ・ギョイコウなど24品種・約千本の桜が植えられ、長い期間お花見が楽しめます。毎年、3月下旬には「舎人公園千本桜まつり」が開催され、ステージイベントの他に物産展なども出店され、大勢の花見客で賑わいます。
舎人公園の北西角の階段を下ります。
舎人公園の敷地は、元々は高低差のない平地でしたが、東京都交通局の日暮里・舎人ライナーの車両を格納する基地を建設する際に土地の掘削は殆ど行わず、舎人公園内北東部の未開園部分(面積約1.1ha)の地上面に構造物を構築後、その構造物全体を土で覆い、上部は公園として供用する半地下方式の車両基地にしました。車両基地は、鉄筋コンクリート構造で、全長533m・幅84.5m・高さ5.4m〜12.3m・床面積約40、000uの規模で、上床版の上には約2mの覆土を行い、舎人公園の一部として整備しました。そのため、公園の北東部分が盛り上がった丘のような形状になりました。車両基地の入口は階段の脇に設けられていて、車両の出し入れに使用する巨大なシャッターが並んでいます。
尾久橋通りと舎人公園北通りとの交差点を左折します。道路の左手には、北足立市場があります。北足立市場は、青果物と花き部を併設した東京都中央卸売市場のひとつで、足立区北東部における青果及び花き流通の拠点市場となっています。首都高速川口線「足立入谷」インターから近く、日暮里・舎人ライナー「舎人公園」駅からも徒歩10分とアクセス良好な市場です。毎年秋には「市場まつり」が開催され多くの人々で賑わいます。青果部は、千住にある足立市場の取扱量増加に伴う狭隘化を解消するため、青果部のみを移設する形で昭和五十四年9月17日に開場しました。花き部は、周辺の花き地方卸売市場5市場を統合し、昭和六十三年4月25日に東京都中央卸売市場としては初の花き部として開場しました。市場内には巨大な倉庫が並んでいます。
北足立市場と道路を隔てた向かい側には、東西に細長く延びた入谷緑地公園があります。入谷緑地公園は、樹木が生い茂り、緑が一杯の気持ちの良い公園です。
園内に遊具などはありませんが、広々した敷地に曲がりくねった遊歩道が作られ、散策できるようになっています。初夏は新緑を、夏はまぶしいくらいの緑を、そして、秋は赤や黄色に色づく紅葉を楽しめるのが魅力です。紅葉の季節は、遊歩道に落ち葉が敷き詰められます。園内にはベンチがあちこちに置かれ、のんびり休憩するのにもぴったりです。モニュメントタイプの時計塔、野鳥の巣箱などもあります。
初冬の風景です。
公園の終端から交差点を渡ると、南の方向に向かって緑地が延びています。江北北部緑道公園と繋がっているためにその一部のように見えますが、緑地には公園らしき施設は何もなく、単なる緑地みたいです。
長大な看板が連なっています。看板のせいか、緑地内にはゴミひとつ落ちていません。
- ポイント2.江北北部緑道公園
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北足立市場北交差点から谷在家公園まで、南北に連なる長〜〜〜い江北北部緑道公園が延びています。
ここも足立区のウオーキングコースになっています。
公園内に遊具などはありませんが、約1キロメートルにわたり、10種類・200本の桜が植えられています。
ワシントンからの「里帰り桜」
足立区江北の一帯は、昭和初期まで「荒川の五色桜」と呼ばれる桜の名所でした。様々な品種の桜が植えられていて、花の時期には、白や黄色、淡紅や濃紅色などに彩られ、五色の霞がたなびくように見えたところから。この名が付いたと言われています。明治四十五年、当時の東京市長、尾崎行雄は日米友好の証として「荒川の五色桜」の苗木十二品種三千本を、アメリカの首都ワシントンに贈りました。現在、市内のポトマック公園は、世界的な桜の名所となっています。しかし、本家の「荒川の五色桜」は堤防工事や戦争、公害等の影響で、残念ながら衰退してしまいました。足立区では「五色桜」を復活させるために、昭和五十六年二月、区政五十周年記念事業として、ポトマック公園の桜の枝三十五品種三千本の里帰りを実現しました。この枝から苗木を増やし、あわせて「荒川の五色桜」に由来する品種を集め、区内の公園や学校などに植えました。新しい桜の名所として「都市農業公園」や「荒川桜づつみ」などがうまれています。ここに植えられている桜は、これらの桜の一部です。貴重な、歴史的財産でもある「里帰り桜」を、招来にわたって大切に大きく守り育てていきましょう。
江北北部緑道公園には、約200本の桜の木が植えられていますが、このうち約100本は晩秋に咲く桜のひとつの「十月桜」という品種で、秋から春にかけて、断続的に開花します。十月桜は春と秋に開花する珍しい桜として、地域の人たちによって大切に見守られています。十月桜の他、春に咲くソメイヨシノやカンザンなどの品種も植えられていて、春は4月中旬頃まで花を楽しめます。
2025年12月に再訪したときは、満開の桜並木になっていました。
緑道の右手に、皿沼小学校があります。この辺り一帯の地名「皿沼」ですが、「皿」は開墾地や乾地を意味し、「沼」は沼沢地や湿地帯を指します。このことから、皿沼は開墾された沼地や湿地帯であったと考えられます。
- ポイント3.皿沼公園
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皿沼公園は皿沼小学校に隣接し、面積は6、234平方メートルあります。緑の芝生の広場が整備され、周囲には樹や花が植えられています。
広場を囲むように、すべり台やブランコ・コンビネーション遊具などの様々な遊具が点在し、どの遊具もカラフルな色彩をしていて、子ども達が元気に遊んでいます。
公園の隅に巨大な石碑が建っています。
皿沼公園
この公園は、江北北部土地区画整理組合事業として、組合員の土地提供により造成したものである。此の地が施工地域のほぼ中央に位置するので、事業完成記念碑を建立する。なお、皿沼町の地名をとり、皿沼公園と銘名す。
公園の北側の奥にも、厳重な囲いの中に巨大な碑が建っています。石碑の上に並べられた丸い球には意味があります。
江北北部土地区画整理事業完成記念碑
- 二十一世紀へ
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昭和二十年戦後、四十数年ほどの激動期はそれ以前の日本の数百年あるいは、見方によっては、有史以来の転変ぶりに匹敵するのではないか。現代はものすごいスピードで疾走する、ジェットコースターに乗って居る様なものだ。総てが目まぐるしく変っていくので実体を正確につかむことは、むずかしい。近頃の一年は、かっての十年、いや百年に匹敵するかも知れない。この地域においても、明治の廃藩置県以来百年、明治四十三年の大水害、大正十二年の関東大震災、更には悲惨な太平洋戦争等で、打ちのめされても、打ちのめされても立ち上がったので、水田地帯は変らず、又交通機関は、東武鉄道、鳩ヶ谷街道に、バスが一時間間隔に走る東京の孤島と言われる処であった。メダカ、フナを追った小川、稲穂波打つ水田、貧しくとも平和な農村地帯に、昭和三十年代より、都市化の波がハイスピードで押し寄せ、スプロール化が目立った。これを見かねた押部、加賀、皿沼、谷在家各地域の先駆者が相寄り、郷土の開発と、住民の明と豊を考えた時、街造りの基幹である区画整理以外にないとの結論に達し、一致協力し、日夜東西奔走して住民の協力を得て、江北北部土地区画整理組合を発足した。此処に四半世紀の間、云ひ知れぬ心血を注ぎ難関を突破し、強固な団結と不屈の精神により、事業の完成を見た。顧り見れば事業中半にして他界された幾多の同志の意志を継ぎ、スプロール化を防ぎ住む人を尊重する環境が整備された。二十一世紀へ先導的役割を果したと確信する。江北北部地区が永遠の生涯と希望に輝く街たらんことを念願して人の球(和)を入れ、記念碑を建立する。尚、組合役員、評価員、総代及び貢献者の氏名を記して後生に伝えるものである。
記念碑の左手には関係者の氏名を記した石碑、右手には区画整理の対象となった地域の図を記した石碑が建っています。総面積は、152.06ヘクタールに及んでいます。ちなみに、1ヘクタールは10、000平方メートルに相当し、これは100mX100mの正方形の面積と同じです。身近な例では、東京ドームの約2.1個分に匹敵する広さです。つまり、東京ドームが320個収まる計算になります。
谷在家北公園は、足立区立鹿浜第一小学校に近接する区立の公園です。江北北部土地区画整理事業によって公園が整備されました。面積2062平方メートルの敷地内には、数多くのサクラが植栽されています。例年3月下旬から4月上旬のシーズンには、公園は一面サクラ色に彩られます。地域の代表的なお花見スポットとして、満開のときには大勢の花見客で賑わいます。
谷在家北公園
この公園は、江北北部土地区画整理組合事業として組合員の土地提供により造成したものである。谷在家地域の北に位置するところから、谷在家北公園と銘名す。
- ポイント4.谷在家公園
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谷在家公園の広大な敷地には、砂地の広場に芝生エリアや遊具エリアと遊ぶところが盛りだくさんです。園内をぐるりと一周できる遊歩道を通って散歩をすると周りの自然に癒されます。春には見事な桜が見られ、ベンチでお花見を楽しむ人の姿も見られます。遊具はすべり台・ブランコ・砂場と定番のものが揃っています。
ちなみに、「谷在家」の地名の由来には諸説あり定かでありませんが、一説によれば、この地域はかつて存在していた「谷田川」の流路跡の「谷」に開拓期に植民した人々が家を構え(在家)、このことが発端となり「谷在家」の地名が付けられたといわれています。
公園の広場は、雨水の貯留と浸透の機能を持っています。
雨水貯留・浸透施設
公園に降った雨水が、すぐに外の道路に出て、水害を引き起こすことがないように、この公園には、図のような施設があります。雨水は、まず透水管で地下に浸み込ま
せます。浸み込まなかった残りの水は、一時的に自由広場の中に貯めて、その後ゆっくりと公園の外に出るようになっています。このような理由で、強い雨の後、公園内に水が貯まっていて、御不便をおかけすることがあります。水害防止のためですので、御理解をお願いします。
公園の東側の端に記念碑が建っています。
完成記念碑
谷在家町土地区画整理組合地域は谷在家町の大部分と、西新井町・上沼田町・北鹿浜町押部・北堀之内町・北宮城町・高野町の各一部を包含した面積約五拾八萬平方米より成る。古くより農事を業として来た静かなこの村落を昭和弐拾年終戦後の急激な人口の流人で雑然とした住宅地に変りはじめ、土地区画整理法にもとづく市街地形成は時代の要求する急務であつた。すゝんでその任に当るべく地区有志は相諮って準備委員会を結成し、昭和参拾九年貳月拾壹日設立認可を得て当組合は発足した。以来幾多の困難に遭いながらも、関係官公庁の指導、組合員及び役員の和合と努力と忍耐によってこれを克服し今日の完成となった。こゝに将来の発展を希い、碑石に刻して後世に伝える。
- ポイント5.上沼田北公園
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谷在家公園から江北六丁目交差点を渡り、環七北通りのひとつ南側の小路に入ります。住宅街の中に上沼田北公園があります。
雨水貯留・浸透機能を持つ円形の広場には巨大なタコの滑り台があります。足立区にはタコの滑り台を備えた公園は沢山ありますが、上沼田北公園のタコの周囲には大小色々な大きさで形も様々のタコツボが置かれています。滑り台で遊ぶだけでなく、隠れんぼもできます。他にも、鉄棒や砂場などが揃い、ボール遊びができるフェンスで囲まれたエリアもあり、様々な遊びが楽しめる公園です。
民家の前に富士塚があります。山腹に黒ボク石(溶岩)は使われていないようですが、登山道も付いた本格的なものです。山頂には浅間神社を模した祠も建っています。
- ポイント6.北鹿浜公園
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北鹿浜公園は、遊びながら交通ルールが学べるいわゆる交通公園ですが、足踏みゴーカートや自転車やバッテリーカーに乗る以外にも楽しいことが色々揃っています。公園管理室の隣は展示室と読書室になっていて、展示室には鉄道模型があり、ボタンを押すと列車が走る仕組みになっているのでプラレール好きの子どもに好評です。
入口広場の奥には、現在修理中で中に入ることは出来ませんが、蒸気機関車が保存・展示されています。
C5075
(中距離用小型テンダ機関車)
ここに展示されている蒸気機関車は、昭和四年(1929年)に製造されました。昭和四十六年(1971年)に引退して足立区に来るまで、旅客・貨物用機関車として約200万km(キロメートル)も走り続けました。
園内に展示してある消防車ですが。こちらはもちろん本物で、運転席に乗ることもできます。まるで消防車を運転しているかのような気分が味わえ、子ども達も大興奮です。
消防車(ポンプ車)
ここに展示されている消防車は、ポンプで水を吸いあげ、放水して消火活動をするポンプ車です。昭和六十一年から平成十二年まで、おもに足立区の西部地区で、みなさんの大切な命や家を守ってきました。ポンプ車には、ポンプ・ホースのほか、さまざまな道具をつんでいます。下の絵は、火災や救助に出動するときの、全ての器具を装備したときのものです。(ハンマー・とび口・やり・のこぎり・スコップなどもつまれています。)展示車輌は、なるべくたくさんの器具や部品をのこしてありますが、安全のため一部をはずしてあります。
園内を一周するミニ列車は、運行は木・金・土・日と祝祭日、それに区民の日である10月1日のみですが、駅や切符売り場まで用意されているという徹底ぶりです。小学生なら「初めて一人で電車に乗ってお出かけする」という想定で、切符を買うところからすべて子ども一人でやらせるのもいい体験になるでしょう。ミニ列車は有料ですが、数十円程度で楽しめます。
他にも一輪車の練習場があり、入園料は一輪車・自転車・足踏みゴーカートなどのレンタル料が無料です。
定番のタコの滑り台もあります。公園の中には、ピクニックが楽しめる桜の広場があり、さらに夏にはジャブジャブ池もオープンします。
北鹿浜公園の敷地は区画整理によって生み出されたようで、入口の横には記念碑が建てられています。
- ポイント7.都市農業公園
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環七北通りに出て都市農業公園に向かいます。都市農業公園は、昭和五十九年(1984年)に開園し、平成七年(1995年)にニューアルオープンしました。入園は無料で、早朝夜間と年末年始などは休園となります。埼玉県との境界を流れる芝川が荒川に注ぐ河口付近に位置し、南側は荒川河川敷緑地に面しています。全国各地に作られている農業公園のひとつで、自然とのふれあい・植物栽培・園芸・農業への理解と教育、市民の憩いのために作られました。
入口の正面には、都市農業交流館があります。
館内には園内施設の紹介や農業に関する資料が掲示されています。
園内の中央には円形の芝生広場があり、周囲を桜並木が取り囲んでいます。
江北五色桜
昔、荒川堤の五色桜は東京でも有数の桜の名所として親しまれていました。五色桜とは品種の名前ではなく、染井吉野のほかに八重桜などの品種が混植されて白や黄緑、淡紅色、濃紅色、紅色などに彩られ五色の雲がたなびくように見えたためといわれています。ここには当時の風景を再現するために里帰り桜の中から約30品種80本の桜が植えてあります。
芝川沿いには梅林もあります。
生きものとの共生 梅林
かつてこの梅林は「タマカタカイガラムシ」という害虫により大変な被害にあっていました。そこで平成十七年ころから、梅の木の下に公園周辺でみられる野草(カラスノエンドウやムラサキツメクサなど)を移植して、植物とそこにやってくる昆虫類との共生を図りました。その結果、カイガラムシの天敵である「アカホシテントウ」がみられるようになり、同時にチョウやバッタなどのさまざまな昆虫類が増え、梅の害虫はほとんど姿を消しました。以後、この梅林では野草を一定の高さで刈り残すという手法で昆虫類の生息環境を残した管理をしています。この公園では、こうした生きものとの共生を大切にした植物管理を行っています。
2025年に再訪した時は12月の初旬でしたが、早くも翌年の開花に向けて蕾が赤く色づいていました。
子ども達が果実か何かを採ろうとしていますね。昔だったら何処でも見られた風景です。
園内には、田畑・果樹園・温室など、東京郊外で行われていた農業を伝える目的の施設があります。
芽が出たばかりの野菜畑もあります。
足立区内から移築した長屋門や古民家も保存・展示されています。長屋門は明治中期に建てられたものを移築したものです(2025年に再訪した時は立ち入り禁止になっていました。)。
旧増野製作所長屋門
現在の足立区谷中周辺は、江戸時代初期に開発された谷中新田である。谷中新田には北の浅野久右衛門の開発地と南の吉野長左衛門の開発地があり、それぞれ上谷中、下谷中という呼称もあった。元禄年間(1688年〜1704年)にこの上下の谷中は分村し、それぞれ開発者の名前を冠して久右衛門新田、長左衛門新田となった。旧上谷中の浅野久右衛門家は、地名と名前から各一字をとり「谷久様」と呼ばれていた。この長屋門は明治三十年(1897年)頃の建築で間口17.5メートル、奥行4.8メートル、高さ3.9メートル、屋根は入母屋造りの桟瓦葺で、浅野家の正門として「谷久門」と称されていた。その後、昭和十一年(1936年)に増野製作所の創業者増野清香氏が現青井五丁目に新工場を建設する際に譲り受け、これを補修し多年にわたり工場の門として利用された。昭和五十年(1975年)に同工場が茨城県へ移転する際、後継者である増野鋼四郎氏が保存を決意し、防護柵を施す等保護に尽力された。平成十二年(2000年)都道補助140号線の建設にともない区が寄贈を受け、東京都建設局の協力を得て当地に移築復元した。
裏から見るとこんな感じです。
高台には古民家が移築・保存されています。
旧和井田家住宅(母屋) 一棟
この住宅は江戸時代後期の建築で、間口八間、奥行五間、屋根は寄棟造りの茅葺きである。もと花畑二丁目にあった和井田家邸で、伝えによれば安永二年(1773年)頃に生まれた四代目当主の代に建てられたという。間取りは典型的な田の字型の古民家で、正面右手の大戸から入ると「ドマ」がある。「ドマ」の手前の一画には、籾や米を貯えた「コメビツ」、奥には「カマド」を備えた台所である「カッテ」がある。さらにその奥には「ミソベヤ」がある。左手には家族の居間である「イタノマ」、寝室に使われた「ヘヤ」、平書院と床の間を備えた「ザシキ」や「オク」と呼ばれる部屋などがある。「イタノマ」と「ヘヤ」が根太天井であるのに対し、「ザシキ」と「オク」は棹縁天井であり、二部屋の間には、欄間も設けられている。「イタノマ」と「ヘヤ」は日常生活の場であり、「ザシキ」と「オク」は格式を備えた空間となっている。天井裏には、「ドマ」から梯子で昇り降りし、物置として使用された。安政大地震(安政二年・1855年)を経てきたというこの家屋は、台所をはじめ、南側瓦葺きの庇、西側廊下と便所など、増改築の跡をうかがうことができる。東側壁面は、竹を細かく割って土真壁を覆う「しぎ竹」という工夫も見られる。また「ドマ」や軒先に敷き詰められた煉瓦は、明治時代の花又帝国煉瓦の工場で造られた製品である。この住宅は貴重な江戸時代の農家建築として区に寄贈され、昭和五十八年十二月に足立区指定有形民俗文化財となった。翌年に掛けて足立区都市農業公園に移築保存され、一般公開されている。
今は殆ど見かけなくなった郵便ポストも置かれています。郵便物を投函しても届くことはないでしょうけど。
間取りが詳しく説明されています。
足立区指定有形民俗文化財
旧和井田家住宅
概要
旧和井田家住宅は江戸時代後期に建てられた茅葺きの家屋で、足立区の古い農家建築の典型的な特徴を備えています。もともと足立区花畑にあった住宅を、1983年〜1984年に都市農業公園に移築し保存したものです(足立区指定有形民俗文化財)。
間取り
入口を入ると「ドマ(土間)」があります。住居の空間は、「イタノマ(板の間)」「ヘヤ(部屋)」「オク(奥)」「ザシキ(座敷)」という、4部屋の並びが漢字の「田」に似た典型的な「田の字型(四つ間取り)」で構成されています。
- 【カミコウカ】
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トイレをカミコウカと呼んでいました。移築前は屋外にもトイレがありました。写真の屋内トイレは家長(当主)のみが使えるもので、唐草模様があしらわれた特注品です。他の家族は屋外のトイレを使ったそうです。
- 【イタノマ@】
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イタノマは@・A共に家族の日常生活の場でした。隣接するヘヤは若夫婦の寝室として使われていました。
- 【イタノマA】
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小さな囲炉裏があり、食事や農作業の合間の休憩に使われていました。
- 【オク・ザシキ】
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これらは格式のある、あらたまった部屋です。特にザシキは家で一番あらたまった部屋のため、トコや平書院という装飾があります。客人の接待などに使われていました。また、冠婚葬祭の際はふすまを外し、この2部屋を主に使っていたそうです。
- 【カッテ】
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現在でいう台所にあたります。コンクリート製ですが、古い形を残したカマドがあります。カマド上方に煙集めの囲いと、煙出し窓がついています。当時カマドの周囲の壁や天井は、煙で燻されて黒く煤けていました。現在はカマド上部にだけ、黒い状態が残っています。
- 【コメビツ】
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米を貯えておく場所です。「コクビツ」「ココビツ」とも呼ばれました。いたずら等をすると、中に閉じ込められたそうです。
- 【レンガ】
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移築時の当主である和井田栄一氏の祖父健次郎氏が当主であった時期に、大きな改築がなされ、ドマや庇の下など、ふんだんに煉瓦が敷き詰められていました。現在はドマの一部に煉瓦が残っています。
- 【井戸】
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足立区の古い民家では、前庭に井戸がある家が多かったようです。旧和井田家住宅も移築前には、門を入ったすぐ右手にお風呂が併設された井戸があり、その周辺にトイレもありました。
母屋と長屋門の間に井戸が見えます。
旧和井田家住宅の歴史
- 1855年
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安政江戸地震が起きる。旧和井田家住宅は家主の半兵衛氏がこの地震より前に建てたとされる。
- 1868年
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後に花又帝国煉瓦株式会社の役員となる和井田健次郎氏が生まれる。健次郎氏の時代、煉瓦をあしらうなどの大きな改修が行われ、旧和井田家住宅の現況がつくられた。
- 1923年
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関東大震災が起きる。倒壊を免れるが、地震により住宅が傾いたとされる(口伝)。
- 1945年
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東京大空襲の爆撃を受けるが、戦火を免れる。近隣に落ちた爆弾の爆風で関東大震災時の傾きが戻ったとの言い伝えも残っている。
- 1965年頃
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茅葺き屋根の一部を葺き替えた記録がある。時代の変遷により、この頃すでに屋根の材料である茅の入手がとても困難となっていた。
- 1980年頃
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居住者がいなくなるが、住宅は親族の手入れによって良好な状態に保たれる。
- 1983年
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足立区による調査で高い価値が認められ、「足立区指定有形民俗文化財」となる。同時に足立区都市農業公園へ移築され、復元工事が開始される。
1984年
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都市農業公園に竣工、展示が始まる。屋根も葺き替えられて新しくなる。
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- 2007年
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移築後2回目となる屋根の葺き替え作業が行われる。
夏期にはタマネギ、晩秋には稲と、季節毎に作物が天日干しにされています。
荒川土手側入口にはレストハウスがあり、荒川の河川敷道路から芝川自転車道が分岐する地点として、サイクリング愛好者の休憩ポイントとなっています。
芝川は足立区と埼玉県川口市の境界を流れる一級河川です。荒川との合流部には芝川水門橋が設置されています。
冬の快晴の日には、足立区内からも富士山の姿を見ることができます。夕日が富士山の山頂付近に沈み、あたかもダイヤモンドが台の上で輝くように見える現象は「ダイヤモンド富士」と呼ばれています。この現象が観察できるのは、足立区内では11月と1月で、これまで足立区役所庁舎や都市農業公園などで観察されています。また、富士山への良好な眺望が得られる地点を選出した、国土交通省の「関東の富士見百景」では、都市農業公園など荒川下流の5地点が選ばれ、紹介されています。
関東の富士見100景
富士山の見えるまちづくり
地点名 荒川下流からの富士
荒川堤は、かって江北五色桜として有名でした。
荒川堤五色桜碑 一基
五色桜は、明治十九年(1886年)三月、後の江北村村長清水謙吾の主導で、地元民が資金を出し合い、七十八品種3225本の桜を荒川堤上約6kmに植えたのがはじまりである。苗木は駒込(豊島区)の桜専門業高木孫右衛門が栽培した逸品で、花の色が数種あったので、五色桜の名で呼ばれるようになった。当時は、荒川(現隅田川)に多くの乗合船が出て、定期航路が臨時便を江北まで延長するなど、多くの花見客で賑わった。明治四十五年(1912年)には、当時の東京市長尾崎行雄がアメリカ合衆国の首都ワシントンに五色桜の接穂を贈呈し、ポトマック河畔に植えられた。大正十三年(1924年)十二月、内務大臣により国の史蹟名勝天然記念物に指定されるほどの名所となっていた。そのことを示すのがこの石碑である。石碑は、江北二丁目の都バス荒川土手バス停付近の荒川堤防脇に設置されていたが、補助第113号線道路建設工事の支障となり、教育委員会に保管されていたものを現在地に移転し、今に至っている。近代東京有数の名所のひとつであった荒川堤五色桜は、昭和二十年代に姿を消したが、昭和五十六年(1981年)二月に、当時のナンシー・レーガン大統領夫人が足立区に桜を送り、舎人公園に植樹され(レーガン桜)、同年にはポトマック河畔から桜の里帰りも実現し、区内各地の公園・学校などに植えられ、五色桜を現代に伝えている。
- ポイント8.鹿浜橋
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鹿浜橋は、荒川(荒川放水路)に架かる都道318号環状七号線(通称:環七通り)の水道道路併用橋です。
鹿浜橋は、大正十三年(1924年)に開削された荒川放水路に架かる橋では最上流に位置し、荒川の河口から18.75kmの地点に架かっています。完成したのは昭和四十年(1965年)で、総延長は922.0メートル・橋長は451.3メートルです。本橋部を挟むように右岸側に長さ244.6メートル・左岸側に長さ226.1メートルの取り付け道路を有しています。また、水道道路併用橋でもあり、橋桁に付帯設備として内径1.2メートルの水道管を4本(送水本管2本・工業用水道管2本)を併設し、荒川を横断する水道橋の役割も持ちあわせています。首都高速道路川口線の鹿浜橋出入口とも接続し、南岸の足立区新田一・二丁目と北岸の鹿浜一・二丁目を繋いでいます。橋名は旧足立郡の鹿浜村・鹿浜新田に因んでいます。鹿浜の地名の由来は諸説ありますが、鹿浜は江戸時代に「シシハマ」と呼ばれていました。「鹿(シシ)」の語源は危険な獣の総称、「浜(ハマ)」は水を含んだ土地のことです。この辺りは獣が住む湿地で、後に「シシ」が「シカ」に変化して「鹿浜(シカハマ)」になったという説が有力です。
左が荒川の上流側、右が下流側です。
鹿浜橋周辺の河川敷は、ゴルフ場やグラウンドなどのレクリエーション施設として利用されています。
鹿浜橋を渡って新田地区に入ります。新田一丁目交差点を左折し、新田学園通りを進みます。
- ポイント9.新田公園
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新田公園は、住宅街の中にある中くらいの広さの公園です。
子どもたちに人気なのが長いすべり台で、すべる部分が放射状に2本ついていて、長い分迫力があります。他にポールをよじ登って遊ぶ遊具もユニークで、子どもの体力作りに役だっています。園内は日当たりが良く、気持ちの良い空間になっています。地面は砂場になっていて、ベビーカーが通りやすいのも魅力です。多くはないものの、樹木が植えられて自然観察もできます。あちこちにベンチが置かれ、ちょっと休憩するのにお勧めです。
この公園にも、「ワシントンからの里帰り桜」の木が植えられています。
- ポイント10.新田橋
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新田橋(しんでんばし)は隅田川に架かる橋で、北岸の足立区新田三丁目と南岸の北区豊島八丁目を繋いでいます。橋名は足立区の新田の地名に因んでいます。現在の橋は、橋長114.0m・幅員9.0mで、昭和三十六年(1961年)3月に竣工しました。この地には、かって「野新田(やしんでん)の渡し(馬場の渡しとも)」という農業渡船があり、荒川放水路開削に伴って中州状に孤立した付近の交通路として利用されていました。昭和十四年(1939年)に最初の木橋が木造下路ハウトラス橋として架けられた後、トラス部分の改装を経て現在の橋に架け替えられました。珍しいA字型をした橋脚は木橋時代の橋脚を模したものです。
2025年に再訪した時は、新田橋の架け替えに向けた工事が始まっていました。橋の架け替えには、準備期間を含めて20年近くかかるんですね。
新田橋架替整備事業について
事業概要
現在、新田橋の架け替えにあたり、仮橋へのライフライン移設工事を進めています。仮橋については、現在の予定では令和九年度の開通となる見込みです。仮橋の開通後、本橋の架替工事が始まります。本橋は工事着手後、概ね10年後の完成を目指しています。
今までの経過
令和元年度 新田橋仮橋架設工事 着手
令和二年度 新田橋仮橋架設工事 一部完了
令和三年度 スロープ部分の用地取得
令和四年度 スロープ(斜路付階段)設計
令和五年度 スロープ等設置工事
今後の計画
令和六〜八年度 仮橋へのライフライン(電力、水道管等)移設工事及びスロープ等設置工事
令和九年度〜 本橋架替工事
- ポイント11.北豊島郵便局
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新田橋を渡って道なりに進んだT字路の角に北豊島郵便局があります(ありました)。2022年に訪れた時は、郵便局の建物は取り壊されて更地になっていました。2025年に再訪した時は、跡地に鍼灸院が建っていました。
左が2022年に訪れた時の様子、右が2025年に再訪した時の様子です。
- ポイント12.サミットストア
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T字路を右折した先で左折すると、紀州通りに面してサミットストア王子店を核としたモールがあります。「紀州通り」の愛称名は、地元で「紀州さま」と呼ばれ親しまれている紀州神社に由来します。紀州神社は、鎌倉時代後期の1320年〜1324年の頃に、紀州熊野(現在の和歌山県)にある伊太木曽神社を王子村に勧請したのが始まりです。荒川が近いこともあり、水の神様として知られています。天正年間(1573年〜1592年)に豊島村と王子村との水争いが原因で紀州神社は豊島村内(現在の豊島六丁目)に遷座しました。しかし、この地は王子村に近いため御神体を取り返されてはいけないということで、別の場所(現在の王子五丁目)に再遷座しました。言い伝えによると、豊島村の中心から西の外れの寂しい場所に移されてしまったため、紀州神社の御祭神が村人の夢枕に立って「もっと賑やかなところへ行きたい」と告げたそうです。何人もの村人が同じ夢を見たので、現在の豊島七丁目へ遷座し、今に至っています。
サミットストアの脇に、小さな白龍神社があります。白龍神社は、白羊鉛筆の創業者である小林直喜の父が滋賀県から北海道へ移る際に、屋敷神として祀っていたものを持参してきた社で、昭和二十五年に白羊鉛筆が設立された際に会社の敷地中央に祀られました。平成五年に白羊鉛筆を閉じてベネフォームへ移行する際、社を現在地に遷して外部に開放しました。
白龍神社御由緒
一、御祭神 白龍大明神
黄龍明神
青龍明神
大山大神
一位大神
一、例祭日 九月十日
一、御由緒
守護神として先祖が奉斎してきた神社で、北海道斜里郡清里町緑に小林直喜が木工場を興し、戦後現在地に移って鉛筆の製造を手掛け、白羊鉛筆株式会社(現、株式会社ベネフォーム)の邸内社として祀り、平成五年ここに現社殿を修復・新装した。
一、御神徳
一位の木は別名アララギとも呼ばれ古くから笏(しゃく:束帯の着用の際に右手に持つ細長い板)の材料として用いられ、鉛筆の素材でもあった。家業の励みに日夜一位の神に感謝し、一位の自生する深山の神の御恩を仰いだ。山は白龍大明神(西方)青龍明神(東方)黄龍明神(中央)の水神によって水源を護り、その水によって木は栄え、木は山の湧水を豊かにする。すべて神恩である。日夜御祭神に報恩感謝して努め励むことにより幸え給いて開運に導く神々である。
- ポイント13.王子消防署
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北本通りの交差点の角に古風な外観の王子消防署があります。王子消防署の始まりは、今から遡ること約130年前の明治二十七年12月に勅令及び消防組規則が制定されたことによります。当時管轄していた区域は北豊島郡王子村で、とび職約1、100名で王子消防組が組織されました。昭和二十年1月には、本署・赤羽・袋町・志茂町・十条の各出張所と稲付・豊島の各機関員派出所となり、戦時下で最大規模の消防力でした。昭和二十三年の消防組織法の施行により、23区内を管轄区域とする東京消防庁が誕生し、それまで警視庁消防部の管理のもとにあった王子消防署は、東京消防庁管理下の消防署として新発足しました。昭和二十四年4月には、化学工場などの危険物火災に対応するための化学車が配置となり、泡状の消火剤を放水するための消火剤や資器材が積載されました。昭和二十九年10月に赤羽消防署が新設されたため、志茂町・袋町・稲付の各出張所は赤羽消防署の所属となり、王子消防署の出張所は十条出張所のみとなりました。十条出張所は昭和十九年に新設され、昭和四十四年2月28日に現在の場所に移設されました。当時はポンプ車2台の配置でしたが昭和四十五年5月15日に救急車1台が配置され、合計3台の車両で運用しています。また、平成十六年12月には東京消防庁に20隊しかない(現在は66隊)特別消火中隊として発隊しました。東十条出張所は昭和三十七年5月10日に新設され、50年以上経過した現在でもその構造はほとんど変わっていません。当初はポンプ車1台の配置でしたが、現在はポンプ車2台で運用しています。
- ポイント14.王子四丁目公園
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王子四丁目公園は、緩やかにカーブした道路沿いに整備された公園で、細長い敷地になっています。スプリング遊具などの遊具も設置されていて、お散歩コースの途中に立ち寄りながらちょっと遊べるスポットです。
敷地が細長く、弧を描いてカーブしているのは、廃線跡を利用した公園だからです。かって、田端操車場から王子駅を経て須賀駅(すかえき)まで、貨物線の須賀線が走っていました。王子四丁目公園は、昭和四十六年3月1日に廃止された須賀線廃線跡の一部を公園に転用したものです。須賀線は、大日本人造肥料(現在の日産化学工業)王子工場の専用線として大正十五年9月22日に開通し、昭和二年12月20日に国有化された貨物線です。北区豊島五丁目のUR都市機構豊島五丁目団地が王子工場のあった場所で、戦後になり北区役所は須賀線への国電乗り入れ構想を検討しましたが実現せず、公害などの問題から王子工場は千葉県へ移転し、昭和四十五年に工場撤去が完了しました。跡地は道路などに転用されましたが、カーブする部分の道路がかつての須賀線の廃線跡で、須賀線跡沿いの東京成徳大学一帯は戦前は陸軍造兵廠火工廠王子火薬製造所(後の東京第一陸軍造兵廠王子工場)でした。陸軍の火薬製造工場があったため、蒸気機関車では火の粉が散る危険性があり、電気機関車だと架線とパンタグラフの間に生じたスパークによる引火の危険性も懸念されるため、あえて蓄電池機関車AB10形が導入されました。
公園は、ちょうど引き込み線が二股に分かれた真ん中にある為に三角形の形をしていて、三角形の先端部分と底辺部分とに分かれています。三角形の頂点部分は芝生やベンチが配置され、休憩ができるスペースになっています。三角形の底辺部分は、子供たちも遊べるように広場になっていて、多少遊具も配置されています。
王子四丁目公園の先に、東北・上越新幹線が通るJRの高架下まで遊び場が広がっている東十条南児童遊園があります。
狭い土地をうまく整備した公園内には複合遊具やブランコが設置されています。遊具は全体的に青で統一されていて、落ち着いた雰囲気の遊び場です。子ども達に人気なのは、すべり台や大玉そろばんがついている幼児向けのコンビネーション遊具です。日差しが強い日でも熱くなりにくいプラスチック製のすべり台は、滑った先が踏ん張りやすい形で安心です。すべり台の他にも、らせん状の登り棒やくぐって移動できるパーツもあり、遊具の数自体は少なめですが体をたくさん使って遊べます。
公園の入り口脇の植え込みの中に若木が植えられています。木の前には和歌が記された掲示板と案内板が立っています。
藤原保昌(ふじわらのやすまさ)は、平安時代中期の貴族です。官位は正四位下で、摂津守となって平井に住したことから平井保昌とも呼ばれます。平井保昌は武勇に秀で、源頼信・平維衡・平致頼らと共に道長四天王と称されました。後に、藤原道長・頼通父子の家司も務めたことから、道長の薦めもあり女流歌人和泉式部と結婚しました。和泉式部に紫宸殿の梅を手折って欲しいと請われ、警護の北面武士に弓を射掛けられるもなんとか一枝を得て愛を射止めたという逸話があり、京都の祇園祭の保昌山のモチーフにもなっています。保昌自身も歌人で、「後拾遺和歌集」に和歌作品1首が採録されています。中世文学の中で、坂上田村麻呂・藤原利仁・源頼光とともに中世の伝説的な武人4人組の1人といわれています。
和泉式部(いずみのしきぶ)は、越前守大江雅致(おおえまさむね)の娘で、最初の夫が和泉守・橘道貞(たちばなのみちさだ)だったので、和泉式部の名前で呼ばれるようになりました。このとき生んだ娘が、百人一首にも登場する小式部内侍です。和泉式部は平安時代中期の代表的歌人で、百人一首の歌人であり、中古三十六歌仙そして女房三十六歌仙の一人でもあります。自分の恋愛遍歴を記した「和泉式部日記」は時代を代表する日記文学となっています。和泉式部は恋多き女性で、道貞と数年後に破局した後、為尊(ためたか)親王、その弟の敦道(あつみち)親王と結ばれ、さらに2人の死後、一条天皇の中宮彰子に仕えて藤原保昌とも結婚しました。晩年は消息不明になっています。
平井保昌と和泉式部の梅の由来
今から千年前、源頼光等四天王と共に当地で昼食を取ろうとした保昌は杉の小枝を箸の代わりに使用し、「源氏が末長く栄えるなら枝葉を付けて繁茂せよ」と念じて地に挿したところ、のちに王子の二本杉と言われる大木となりました。明治四十三年の台風で倒れてしまいましたが、その杉で作った「扁額」は飛鳥山博物館に保管されています。保昌は後に出世して丹後の守となり、恋多き才女和泉式部と結ばれて丹後へ赴任しております。式部がこよなく梅を愛で、御所紫宸殿の中庭の紅梅を所望している事を知った保昌がその紅梅を献じ、愛を射止めた逸話は有名です。又謡曲「東北」に出てくる軒端の梅にも有るように式部は生涯梅を愛し続けました。
かたがたの 親の親どち 祝ふめり
子この子の千代を 思こそやれ 平井(藤原)保昌 (後拾遺和歌448番)
あらざ覧 この世のほかの 思い出に
いまひとたびの 逢ふこともがな 和泉式部 (後拾遺和歌集763番)
二人の歌を、ここに掲載し千年前の二人のロマンに夢をはせこの地で少憩した緑と歴史の深さを後世に繋げたく思い「開運夢の杉箸」を製作し商店街結成五十周年を機に植樹して記念にしたいと思います。
平成十三年11月吉日 東京都北区役所
王子保健所通り商店街
平井保昌の和歌は、子の袴着をした際に、父方母方の祖父が出席して詠んだ歌です。「父方母方の親の親同士が孫の袴着を祝っているようです。子の子(孫)が輝かしく長生きする事を私も心から願っています。」といった意味です。「袴着」とは、男子が五歳または七歳の時に行った初めて袴を着ける儀式のことです。「かたがたの」は「方々の・双方の」、「おやのおやどち」は「親の親同士」、「いはふ」は「祝う」、「この子」は「この子」と「子の子」を掛けた言葉、「ちよ」は「千代・千年・非常に長い月」をいいます。
和泉式部の和歌は、病気で死の床に就いている時に、心残りを歌に託して男の元に贈ったということを詠っています。「老いさらばえて私は死の床にあります。もうすぐ私は死ぬでしょう。あの世へもっていく思い出に、もう一度だけ貴方にお逢いして、愛して頂けたらと思うばかりです。」といった意味になります。「あらざらむ」は「生きていないであろう」、「この世のほかの」は「現世の外の世界、つまり死後の世界」、「思ひ出に」は「来世での思い出になるように」、「今ひとたびの」は「もう一度」、「逢ふこともがな」は「男女が逢って一夜を過ごすことが難しいが、そうであったらなあ」という希望を込めています。
- ポイント15.南大橋
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南大橋は、低地の王子三丁目方面(JR線東側・北本通りが通る)と武蔵野台地の北東端に位置する十条台の高台(日光御成道・岩槻街道が通る)を繋ぐ本郷赤羽線の跨線橋(正確には、JR線の手前までのようですので陸橋かもしれません)です。橋長は約450mあり、低地から高台に向かうために平均斜度が4%あります。
左は低地から高台方向を眺めた様子、右は高台から低地方向を眺めた様子です。
JR線は地上を走り、東北・上越新幹線は3階建ての高架を走り、その間を南大橋が通っています。
JR線は、湘南新宿ライン・上野東京ライン・京浜東北線の3路線が並んでいます。鉄道ファンにとっては格好の撮影ポイントです。
南大橋から長い階段を下りると、正面に「ちんちん山児童遊園」という小さな公園があります。この公園は、かつてこの場所に「ちんちん山」があったことを知らせる公園で、南大橋建設のために崩されたちんちん山の遺構が保存展示されています。ちんちん山にはその側面に、南北に貫くちんちん山くぐり抜け用のトンネルが設けられていました。そのトンネルを形作っていたアーチが、ちんちん山児童遊園に展示されている石組みアーチです。アーチの上部にはお団子を重ねたような東京砲兵工廠のマークがあります。このあたりの解説は、遊園内にある「産業考古学探索路」という案内板に記されています。
産業考古学探索路
王子周辺にはかつて、20世紀初頭の殖産興業を支えた工場が多く存在していました。「産業考古学探索路」は、区民のみなさんや北区を訪れたみなさんに当時の工場関連施設の跡地をめぐりながら、当時この地域が担っていた役割と雰囲気を実感していただくために整備したものです。
ちんちん山のトンネル
明治時代から昭和にかけて、北区とその周辺には、陸軍の関連施設が数多く点在していました。その当時、これらの施設は、物資や人間を運搬するための軍用鉄道と呼ばれる専用軌道で結ばれていました。この辺りでは、板橋、十条の火薬製造工場と王子の火薬製造工場を結ぶ軍用電車が、チンチンと鐘の音を鳴らしながら、盛土の上を走っていたそうです。そのため、付近の住民は、この盛土を俗に「ちんちん山」という愛称で呼んでいました。かつて、この場所には、ちんちん山の下をくぐる石積みのトンネルがありました。このトンネルの上部には、3個のだんごを三角形の形に並べ、その上に、もう1つだんごを乗せたような珍しいマーク(当時の東京砲兵工廠のマーク)が刻まれていました。現在、このマークを含め、トンネルの石積みの一部が園内でモニュメントとして使われています。
名主の滝公園の北西側の塀に沿って坂が上がっています。三平坂は長さが約100mほどの曲がりくねったやや急な坂です。坂名の由来は、江戸時代にこの辺りが「三平村」と呼ばれていたためとか、室町時代に「十条郷作人三平」という人がいたためとか、諸説があります。坂下に案内柱が立っています。
三平坂
名主の滝公園の北端に沿って台地へ登る曲がりくねった坂道である。坂名の由来は、江戸時代の絵図にある三平村の名からとも、室町時代の古文書にある十条郷作人三平の名からともいわれている。農家の人が水田へ下る通路であったが、名主の滝への道としても利用されたようである。
- ポイント16.名主の滝公園
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名主の滝公園は、江戸時代に王子村の名主であった畑野孫八が屋敷内に滝を開き、茶を栽培して避暑のために一般に開放したのが始まりで、公園名の「名主」はそこに由来します。戦災で一時荒れ果てていましたが、東京都が土地の買収と橋や東屋などの修理を進め、昭和三十五年(1980年)に都の有料公園として開園しました。その後、昭和五十年(1975年)に北区に移管されました。
名主の滝
名主の滝は、王子村の名主畑野家が、その屋敷内に滝を開き、茶を栽培して、一般の人々が利用できる避暑のための施設としたことにはじまるもので、名称もそれに由来しています。この時期はさだかではありませんが、嘉永三年(1850年)の安藤広重による「絵本江戸土産」に描かれた「女滝男滝」が名主の滝にあたると思われますので、それ以前のことと考えられます。明治の中頃、畑野家から貿易商である垣内徳三郎の所有となり、氏は、好んでいた塩原(栃木県)の景に模して、庭石を入れ、楓を植え、渓流をつくり、奥深い谷の趣のある庭園として一般の利用に供しました。昭和七年の文献に、開園期間は四月一日から十一月三十日まで、新緑と納涼と紅葉を生命としていると記されています。昭和十三年、垣内家から株式会社精養軒へ所有が移ってその経営する一般利用の施設になり、プールが新たに設けられました。昭和三十三年、東京都は名主の滝を都市計画公園として計画決定し、翌年これを買収、同三十五年十一月から都立公園として公開されるにいたりました。昭和五十年四月一日、東京都から北区に移管。北区立の公園となり、同六十一年十月から一年半、大規模な改修がなされました。
園内は回遊式の庭園となっていて、男滝・女滝・独鈷の滝・湧玉の滝の4つの滝が復元されています。これらの滝は地下水をポンプで汲み上げて水を流していて、滝から流れた水は小川となって園内を巡り大小の池に注ぐ仕組みになっています。
男滝(左)は流量豊富ですが、女滝(右)には現在は水は流れていません。
王子稲荷神社の辺りは武蔵野台地の縁になるので、急坂が多くあります。王子稲荷神社が面している坂は「王子稲荷の坂」と呼ばれています。
王子稲荷の坂
この坂は、王子稲荷神社の南側に沿って東から西に登る坂で、神社名から名前がつけられています。また江戸時代には、この坂を登ると日光御成道があり、それを北へ少し進むとさらに北西に続く道がありました。この道は姥ヶ橋を経て、蓮沼村(現板橋区清水町)まで続き、そこで中山道につながっていました。この道は稲荷道と呼ばれ、中山道から来る王子稲荷神社への参詣者に利用されていました。
王子稲荷神社は東国三十三国稲荷総司との伝承を持つと共に、狐火の名所とされています。「王子の狐火(きつねび)」とは、江戸時代に郊外だった王子に現れた狐火にまつわる民話の伝承です。かって王子周辺が一面の田園地帯だった頃、路傍に「装束榎」と呼ばれた一本の大きな榎の木がありました。毎年大晦日の夜になると関八州(関東全域)の狐たちが松明を点してこの榎の木の下に集まり、正装を整えた後に官位を求めて王子稲荷へ参殿しました。狐火の行列は壮観で、近在の農民はその数を数えて翌年の豊凶を占ったと伝えられています。現在は、大晦日の夜に地元の人々によって狐の行列が催されています。
表門の脇に、王子稲荷神社に所蔵されている国認定重要美術品の「額面著色鬼女図」の案内板が立っています。
国認定重要美術品 額面著色鬼女國
日本画家・蒔絵師として著名な柴田是真作の額面著色鬼女図は、天保十一年(1840年)二月初午に、江戸住吉の砂糖商人の同業組合である明徳講が、商権の拡大を願って奉納した絵馬です。絵馬は、凡そ縦190cm、横245cmの大きさで、画面いっぱいには、酒呑童子の家来茨木童子が化けた鬼女の姿が描かれています。源頼光の家臣渡辺綱は、女に化けた茨木童子の退治に出かけ、その女の片腕を切り取ってしまいました。六日後のこと、鬼女は、切り取られた腕を取り返すべく、渡辺綱の伯母に化けて、綱の屋敷を訪れます。鬼女は、腕を取り返すや否や、伯母から変じて目を怒らせ、口を開き、疾風のごとく空中に飛び去りました。この画の麗美な衣装とグロテスクな面貌との対照が場面の凄みを高め、人々を慄然とさせ、是真の名を世に知らしめる契機となったと伝えられます。
王子大坂は長さが約190mほどのやや急な坂です。別名を「宇都布坂・うつり坂・地蔵坂」といいます。坂名は、かってこの道が東北方面への幹線道であったことに因みます。
王子大坂
飛鳥山に沿って東におりた岩槻街道は、石神井川を渡って左に曲がり、現在の森下通りを抜け、上郷用水に架かっていた三本杉橋の石の親柱の位置から北西に台地を登る。この坂が王子大坂である。岩槻街道は江戸時代、徳川将軍の日光社参の道で日光御成道と呼ばれた。登り口に子育地蔵があったので地蔵坂とも呼ばれ、昔は縁日でにぎわった。また、坂の地形が、海鳥の善知鳥(うとう)の嘴(くちばし)のようなので「うとう坂」の名もある。
民家の車庫奥に子育地蔵尊があります。子育地蔵尊とは、文字通り「乳児を病魔・災難から守り、健全に育てる地蔵尊」ですが、この地蔵尊は子育の他にも商売繁盛や縁結びなどにもご利益があるとされています。お地蔵様にお参りするときの作法は、両手を合わせ「おん かかか びさんまえい そわか」という「真言」を3回唱えます。真言とはサンスクリット語でマントラと呼ばれる言葉で、「真実の言葉・秘密の言葉」を意味します。「おん」は「崇拝する」、「かかか」は「地蔵菩薩を表す言葉」、「びさんまえい」は「素晴らしい」、「そかわ」は「成就あれ」という意味だそうです。つまり、「すばらしいお地蔵さまを拝ましていただきます」ということになります。
王子子育地蔵尊
王子の子育地蔵尊は、安山岩系の石を丸彫した、像の高さ122cmの石造地蔵菩薩立像です。釈迦如来が没してから弥勒菩薩が出現するまでを、仏教では無仏時代といいますが、地蔵菩薩は、この時代に人々を救済する菩薩と信じられてきました。当地蔵尊は、昭和二十年(1945年)四月十三・十四日の空襲によって火を浴び、像の表面が剥落しているため、造立した年代や造立者はわかりません。昭和三年(1928年)十二月に出版された「王子町誌」によれば、子育地蔵尊は、同所にあった山本家の祖先が誓願して室町時代の末期、天文元年(1532年)に建立安置し、当時の堂宇は元禄二年(1689年)に改築したものだと記されています。現存の像の造立年代を判断するには資料が不足していますが、同所で古くから地蔵尊が祀られていたことが推測されます。また、その信仰については、「古来子育及商売繁昌の地蔵尊として信仰せられ、毎月四の日の縁日には参拝する者実に夥しく、縁日商人の露店を張るものも頗る多いので、その賑ひ真に筆紙の及ぶところでない」とあり、近代には子育地蔵として信仰を集めていたことが知られます。
お唱えする言葉
「おん かかか びさんまえい そわか」
権現坂は長さが約180mほどのやや急な坂です。王子神社の先で右手に直角に曲がっています。坂名の由来は、かって王子神社が「王子権現社」と呼ばれていたことに因みます。
権現坂
権現坂とは、坂の下の交差点から王子神社の鳥居付近まで登っていく坂道をいいます。権現という坂の名称は、王子神社が、明治初年の神仏分離令以前は王子権現と呼ばれていたことに由来しています。坂の下の交差点付近は、江戸幕府の将軍が日光東照宮に参拝するための日光御成道と接しており、三本杉橋という橋が架かっていました。三本杉橋は橋の近くに三本の杉があったのでつけられた名称といわれています。
- ポイント17.王子神社
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権現坂をクランク状に折れた先に王子神社が鎮座しています。
王子神社はこの辺り一帯の「王子」という地名の由来となった神社で、かっては「王子権現」と呼ばれていました。王子神社の創建年代は不明ですが、平安時代の康平年間(1058年〜1065年)に源義家が奥州征伐に向かった際に此の地で武運を祈願し、勝利して帰途の途中に再び立寄って甲冑を奉納したのが起源とされています。鎌倉時代末期の文保年間(1317年〜1319年)と元弘年間(1331年〜1334年)には、此の地の領主であった豊島氏が社殿を再興し、熊野新宮の浜王子より「若一王子宮」を改めて勧請・奉斎して王子神社となりました。明治初期には准勅祭社に指定され、現在でも東京十社のひとつとなっています。
王子神社(由来)
元亨二年(1322年)、豊島郡を支配していた豊島氏が、熊野の方向を望む石神井川沿いの高台に、紀州熊野三社権現から王子大神を勧請し、若一王子宮として祀られるようになりました。これにより、村名が岸村から王子村に改められ、王子という地名の由来となりました。また、石神井川がこの地域では音無川と呼ばれているのも紀州の地名に擬したとの説があります。王子神社は、豊島氏に続いて領主となった小田原北条氏からも寄進をうけ、江戸時代には、徳川家康が社領として二百石を寄進しました。これは、王子村の村高の三分の二にあたります。別当寺は、王子神社に隣接していた禅夷山金輪寺で、将軍が日光社参や鷹狩の際に休息する御膳所となっていました。将軍家の祈願所として定められた王子神社は将軍家と関係が深く、三代将軍家光は社殿を新造し、林羅山に命じて「若一王子縁起」絵巻三巻を作らせて奉納しました。家光の乳母である春日局も祈願に訪れ、その後も、五代綱吉、十代家治、十一代家斉が社殿の造営修繕をし、境内には神門、舞殿などをそなえ、摂末社も十七社を数えました。紀州徳川家の出であった八代吉宗は、紀州ゆかりの王子をたびたび訪れ、飛鳥山に桜を植樹して寄進しました。この後、花見の名所となった飛鳥山や王子神社周辺は、江戸近郊の名所として多くの人が訪れるようになります。特に、七月十三日に行われた王子神社の祭礼は「槍祭」ともよばれ、小さな槍を買い求める人や田楽躍を見物する多くの人でにぎわったことが見物記などからうかがえます。明治時代にはいると明治元年(1868年)、准勅祭社となり、東京十社に選ばれ東京北方の守護とされました。戦前の境内は「太田道灌雨宿りの椎」と呼ばれた神木をはじめ、多くの樹木が茂っていましたが、戦災で焼失したため、境内に現存する東京都指定天然記念物の大イチョウは、戦災を逃れた貴重な文化財です。戦後は、氏子一同により権現造の社殿が再建され、現在の景観に至っています。
王子田楽は王子神社に伝承された民俗芸能で、始まりは中世の頃といわれています。江戸時代には、旧暦の7月13日に境内の舞台で花笠を被り、衣装を着けた躍り手が十二番の演目を奉納したことが当時の地誌などに記されています。戦争で長らく中断していた王子田楽でしたが、地域の人々の努力により昭和五十八年に復興を果たしました。現在は毎年8月に、王子神社の例大祭最終日の午後、境内の仮設舞台で地域の子供たちが躍り手となって王子田楽が執り行われています。
東京都北区指定無形民俗文化財
王子田楽
王子田楽は、豊かな実りと無事を祈って、毎年8月、王子神社の例祭で、神前に奉納される伝統芸能です。花笠をつけ、鼓・筰・太鼓方が笛に合わせて躍る、全国でも数少ない芸能です。しばらく絶えていましたが復元され、王子田楽衆と王子田楽式保存会によって保存・伝承されています。
王子神社から階段を下りて音無親水公園に向かう参道の中ほどに銀杏の大木が聳えています。
大銀杏の木は樹齢600年近いとのことです。
東京都指定天然記念物
王子神社のイチョウ
音無川(石神井川)左岸崖線の肩の部分に一際高くそびえ立つ大イチョウです。幹囲5.2m、樹幹の先端部は欠損していますが、高さは24.2mあり、全体的にはほぼ角樹形を保っています。王子神社の創初については、飛鳥山公園内にある「飛鳥山碑」(都指定有形文化財・古文書)に書かれています。それによれば、元亨(げんこう)年間(1321年〜1324年)に豊島氏が勧請したことが始まりとされていますので、その頃にこのイチョウが植えられたとすると、600年近い樹齢と考えられます。戦災によって王子神社の社殿や太田道灌が雨宿りをしたという伝説を持つシイの大木など多くのものが失われた中で、このイチョウは生き延び、今も高台から東京の街の移り変わりを静かに見つめています。
Natural Monument (Plant)
Oji Jinja no Icho
This is a giant ginkgo tree, Ginkgo biloba L., standing on a hill of the left bank of
the Otonashi river (Syakujii river). Although the top part of the trunk is damaged,
the trunk circumference is 5.2 m, the height is 24.2 m and it has a natural form.
Asukayamanohi (description on a stone, designated a tangible cultural heritage of
Tokyo) in Asukayama park tells the origin of Oji shrine. According to the
description, Toyoshima contributed to found the shrine between 1321 and 1324. It
is not certain but if this Icyou was planted at that time, it would be almost 600 years old. Due to wars, many things including the shrine building and a big castanopsis tree, (it is believed that Doukan Oota took shelter under it during rain) were destroyed. However, this ginkgo has survived and stands on the hill as if it calmly watched the transition of Tokyo.
- ポイント18.音無親水公園
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音無親水公園は王子駅前を流れる石神井川を整備して造られた公園です。木橋・東屋・行灯・水車など純和風のつくりが特長で、春には桜が咲き誇り、夏は水遊びが楽しめ、秋には紅葉が綺麗です。公園の上空には優雅な曲線美を誇る3つのアーチ型の音無橋が架かり、夜はライトアップされて昼間とはまた違った趣を見せます。石神井川は昭和三十三年9月の狩野川台風で一帯の渓谷が破壊されたことを受け、飛鳥山公園の下に2本の通水トンネルを掘って川の流れを変える工事が行なわれました。その後、残された旧石神井川の流路の跡に音無親水公園が造られたのです。石神井川はこの辺りでは「音無川」と呼ばれていたことから、公園名も川の名前に因んで名付けられました。
音無親水公園
音無川のこのあたりは、古くから名所として知られていました。江戸時代の天保七年に完成した「江戸名所図会」や、嘉永五年の近吾堂板江戸切絵図、また、安藤広重による錦絵など多くの資料に弁天の滝、不動の滝、石堰から落ちる王子の大滝などが見られ、広く親しまれていたことがわかります。「江戸名所花暦」「遊歴雑記」などには、一歩ごとにながめがかわり、投網や釣りもできれば泳ぐこともできる、夕焼けがひときわ見事で川の水でたてた茶はおいしいと書かれており、江戸幕府による地誌、「新編武蔵風土記稿」には、このあたりの高台からの眺めについて、飛鳥山が手にとるように見え、眼の下には音無川が勢いよく流れ、石堰にあたる水の音が響き、谷間の樹木は見事で、実にすぐれていると記されています。こうした恵まれた自然条件をいまに再生し、後世に伝えることを願って、昭和六十三年、北区は、この音無親水公園を整備しました。
たきらせの 絶ぬ流れの末遠く
すむ水きよし 夕日さす影
飛鳥山十二景のうち滝野川夕照より
「日本の都市公園100選」や「手づくり郷土賞」に選ばれたこの公園は、春には満開の桜、夏には水辺の涼を求める人々で賑わいます。
- ポイント19.飛鳥山公園
-
飛鳥山公園は、北区の区立公園で、都内の桜の名所のひとつです。江戸時代の享保年間に行楽地として整備され、明治六年(1873年)3月に日本最初の公園のひとつに指定されました。公園内に旧渋沢家飛鳥山邸があり、晩香廬と青淵文庫の建物は国の重要文化財に指定されています。江戸幕府八代将軍徳川吉宗が享保の改革の一環として整備・造成を行った公園として知られています。吉宗の治世当時は江戸近辺の桜の名所は寛永寺程度しかなく、花見の時期は風紀が乱れていました。このため、庶民が安心して花見ができる場所を求めたということです。開放時には、吉宗自らが飛鳥山に宴席を設け、名所としてアピールを行いました。1720年から翌年にかけて1270本の桜が植えられ、現在もソメイヨシノを中心に約650本の桜が植えられています。
飛鳥山公園の北側は崖になっています。その崖に沿ってモノレールが設置されています。飛鳥山公園モノレールは、飛鳥山公園山頂(山ではありませんが)と王子駅横の飛鳥山公園入口とを結ぶスロープカーです。愛称は、施設名があすかパークレール、車両名がアスカルゴとなっています。車両名は、ゆっくり上がる様子がエスカルゴ(カタツムリ)に似ていることから、飛鳥山公園と組み合わせて付けられました。飛鳥山公園入口からの高低差は約18m、レール延長は48mとなっており、片道約2分です。世界最短のモノレールとしてギネスブックに載ってもいいくらいの短さです。2009年7月17日から運行が始まり、高齢者・障害者・小さなお子様連れなど、誰もが飛鳥山公園を利用しやすくなりました。無料で乗車できることもあり、たちまち大人気になりました。冷暖房も完備され、車イス・ベビーカーにも対応しています。
佐久間象山書の桜の賦の石碑が建っています。「桜の賦(ふ)」は、後に西洋の学問を学び進歩的考えを唱え、明治維新前後の日本に大きな影響を与えた松代藩士で儒者でもあった佐久間象山の作です。この賦で象山は、桜の花が陽春のうららかな野山に爛漫と光り輝き人々の心を動かし、日本の全土に壮観を呈し、その名声は印度や中国にまで響き、清く美しいさまは他に比類がないと云い、当時象山は門弟吉田松陰の密出国の企てに連座して松代に蟄居中であったので、深山幽閉中で訪れ来る人もないが自ら愛国の志は堅く、この名華の薫香のように遠くに聞こえると結んでいます。この賦は象山50歳(万延元年【1860年】)の作と云われ、2年後の文久二年(1862年)孝明天皇の宸賞を賜りました。象山は蟄居赦免となり、翌年京に上って皇武合体開国論を主張してやまなかったのですが、一徹な尊皇攘夷論者によって刺され、元治元年(1864年)7月11日54歳の生涯を閉じました。この碑は遺墨をもとに門弟勝海舟の意によって同門北沢正誠が文を書き、日下部鳴鶴が書しました。明治十四年(1881年)11月15日と刻まれています。この碑の下に、挿袋石室が埋蔵されています。
「象山先生櫻賦」の碑
表面に佐久間象山作・書による「櫻賦」が、裏面に象山の門弟たちによる碑建立の経緯が記されています。信濃国松代藩士であった佐久間象山(1811年〜1864年)は、幕末の志士たちに影響を与えた儒者でした。桜賊は、象山が門弟吉田松陰の密出国の企てに連座、松代に蟄居中の万延元年(1860年)に作られたといわれます。賦とは、古代中国の韻文の文体の一つで、都城の賛美に多く使われました。「皇国の名華あり、九陽の霊和を集む」と始まる桜賦は、日本の名華、桜が陽春のなかで光り輝く様を描写し、桜の花は見る人がいなくても芳香をただよわせる、と結んでいます。蟄居中だった象山が勤王の志を桜に託した詩と考えられています。明治十四年(1881年)、門弟の勝海舟、北沢正誠、小松彰らによって碑が建立されました。表面の桜賦は、顔真卿の書風による象山の遺墨によっています。表面上部の扁額および裏面の碑文は、名筆家として知られた日下部東作(鳴鶴)、刻字は、やはり名工といわれた廣群鶴によるものです。碑は、初め飛鳥山の西北端の頂き(地主山)に建っていましたが、同所へ展望塔スカイラウンジ(飛鳥山タワー)を建てるにあたり、昭和四十一年に現在地へ移転されました。その際、都立王子工業高校の考古クラブの発掘によって、象山が暗殺された際の血染めの挿袋を納めた石室が発見されました。石室もともに移設され、現在の碑の下に埋設されています。
飛鳥山の歴史を記した石碑も建っています。
飛鳥山の歴史
飛鳥山公園は、明治六年に定められたわが国最初の公園の一つです。この公園のある台地は、上野の山から日暮里、田端、上中里と続いている丘陵の一部です。このあたりは古くから人が住んでいたらしく、先土器時代(日本で最も古い時代)、縄文時代、弥生時代の人々の生活の跡が発見されています。ここを飛鳥山と呼ぶようになったのは、昔この丘の地主山(現在の展望台の所)に飛鳥明神の祠が祀られていたからと伝えられています。江戸時代の中ごろ元二年(1737年)、徳川八代将軍吉宗がこの地を王子権現に寄進し、荒地を整備してたくさんの桜や松、楓などを植えたのでそれからは桜の名所として有名になり、附近に茶屋などもできました。その説明は右手の大きな石碑に詳しく刻まれていますが、この文章がとても難しく、すでにその当時から読み難い石碑の代表になっていました。飛鳥山のお花見は向島とともに仮装が許されていたので、まるで落語にでてくるような仇討の趣向や変装などのためにたいへんな賑いでした。また、東側の崖からはカワラケ投げも行われ、土皿を風にのせて遠くまで飛ばす遊びも盛んでしたが、明治の末になって危険防止のために禁止されました。この山は、東から西へのなだらかな斜面でしたが、道路拡張のためにせばめられ、さきに中央部につくられていた広場の跡地に噴水ができ、夜は五色の光に輝いています。
飛鳥山碑は、元文二年(1737年)に建立され、飛鳥山の由来を記しています。あまりに難解な漢文であるため、江戸時代は読めない碑として知られていました。
東京都指定有形文化財(古文書)
飛鳥山碑
八代将軍徳川吉宗は飛鳥山を整備し、遊園として一般庶民に開放した。これを記念して、王子権現社別当金輪寺の住職宥衛が、元文二年(1737年)に碑を建立した。石材は、紀州から献上されて江戸城内滝見亭にあったものである。碑文は、幕府の儒臣成島道筑(錦江)によるものである。篆額は、尾張の医者山田宗純の書である。建立にいたる経緯については、道筑の子和鼎(かずさだ)(龍洲)の「飛鳥山碑始末」に詳しい。碑文の文体は、中国の五経の一つである尚書の文体を意識して格調高く書かれている。吉宗の治政が行き届いて太平の世であることを喧伝したものと考えられる。碑は、総高218.5cm、幅215cm、厚さ34.5cm。元亨年中(1321年〜1324年)に豊島氏が王子権現(現在の王子神社)を勧請したことが記されている。続いて、王子・飛鳥山・音無川の地名の由来や、土地の人々が王子権現を祀り続けてきたことが記される。最後に、吉宗が飛鳥山花木の植樹を行い、王子権現社に寄進した経緯などが記される。異体字や古字を用い、石材の傷を避けて文字を斜めにするなど難解であるが、飛鳥山の変遷を理解する上で重要な資料である。
Tangible cultural property (ancient documents)
Asukayama no Hi
The 8th shogun Tokugawa Yoshimune developed Mt.Asuka and made the park open to the public. Monk Yuei at Kinrinji Temple in Ohji Gongen Shrine erected the monument in 1737 to commemorate the opening. The stone had been stored in Takimitei in Edo Castle after being presented from Kishu region. The inscription was composed by Narushima Douchiku (kinkou), who was a confucian vassal of the shogunate. Tengaku (title of the inscription, engraving calligraphy) was made by Yamada Sojun, who was a calligrapher and a doctor in Owari region. The history of the monument erection is detailed in
"Asukayama no Hi no Shimatsu (record of Asukayama no Hi)" written by Kazusada (Ryoushu), son of Douchiku. The writing style of the inscription is elegant in fashion of Shousho, one of the five classic texts of Confucianism. The inscription is considered to have trumpeted the peaceful society under the rule of Tokugawa Yoshimune. The monument is 218.5cm in total height, 215cm in width and 34.5cm in thickness. This inscription tells the history of Kanjo (ceremonial transfer of a divided tutelary deity to a new location) of Ohji Gongen (current Ohji Shrine) by the Toshima, the origins of the names of Ohji, Mt. Asuka, Otonashi River and that the people took care of Ohji Gongen with their cordinal belief. The end of the inscription tells that Tokugawa Yoshimune planted trees and flowers in Mt. Asuka, and had contributed to Ohji Gongen Shrine. This inscription is difficult to read, because letters were written by using Kanji variants and ancient writing, also slanted to avoid scars on the stone. But it is an important material to understand the
history of Mt. Asuka.
都電の車両も展示・開放されています。車両は、戦後の都電の主力車両として290両が製造された6000型ですが、昭和四十年代の都電廃止撤去の進行に合わせて大半が廃車となり、荒川線存続時に生き残ったのは、わずか13両のみとなっていました。6080号はそのうちの一両で、昭和五十三年の廃車後に北区へ譲渡され、飛鳥山公園に設置されました。以来、子供たちに親しまれる公園のシンボルとなっていましたが、雨ざらしの状態で損傷が進んだことから、平成十七年に大掛かりな整備が行われ、現在はすっかり化粧直しのされた美しい外観に甦っています。保管場所に屋根は付いていますが、横殴りに雨には無防備な状態ですね。
都電6080について
この都電6080は、昭和五十三年4月まで飛鳥山公園脇の荒川線を走っていた車両です。荒川線の前身は「王子電気軌道株式会社」といい、通称「王電」の名で親しまれた私営の郊外電車でした。明治四十四年8月、大塚⇔飛鳥山上間2.45kmの開業がはじまりで、その後王子を中心に早稲田・三の輪・赤羽を結ぶ路線が完成し、昭和十七年当時の東京市に譲渡されたのです。この車両は6000型と呼ばれており、戦後はじめての新造車で昭和二十四年に製造されたものです。青山・大久保・駒込の各車庫を経て昭和四十六年3月荒川車庫の配属となり、現役を退くまで都民の足として活躍していました。北区では都電のワンマン化を機会に交通局から譲り受け、子供たちの施設として設置したものです。
飛鳥山公園内にはD51も展示されています。この機関車は戦時中の昭和十八年8月31日に製造され、各地の機関区で活躍しましたが、昭和四十七年6月14日に廃車となりました。やはり花形機関車の迫力は違いますね。
多彩な遊具も揃っています。
飛鳥山公園には3つの博物館があります。「紙の博物館」は、55、000点の資料と図書を展示公開する世界でも数少ない紙専門の総合博物館です。和紙・洋紙を問わず、古今東西の紙に関する資料を幅広く収集・保存・展示しています。1950年に日本の洋紙発祥の地である王子に開設されましたが、首都高速の建設に伴い、1998年に現在の飛鳥山公園内へ移転しました。多くの紙関係会社の支援によって運営されています。常設展示では、紙の製造工程・種類や用途・紙の歴史・紙の工芸品・歴史的資料や生活用品などを展示しています。また紙に関する書籍約1万5千点を有し、図書室で一般にも公開しています。年間を通じて企画展を開催すると同時に、紙を素材としたバラエティー豊かなイベントも実施しています。毎週土・日曜日に行われる「紙すき教室」は、牛乳パックの再生原料から手すきのハガキを作る催しで、年齢を問わず大変人気があります。
エントランスの扉の横に、紙の原料となるパピルスの鉢が置いてあります。
パピルス 学名: Cyperus papyrus L.
カヤツリグサ科の多年生植物。和名カミガヤツリ。高さは2m以上にも達し、茎は三角形である。紀元前3000年頃から古代エジプトでは、この茎の髄を薄くはいで、縦横に並べ、圧縮して乾燥させてシートを作り、 書写材料として広く使用した。紙(ペーパー)の語源となっている。
館内の壁には多くの説明用のパネルが貼られ、資料も展示されています。
貴重な製紙用の機械遺産も展示されています。抄紙機がどういう風に動作するのか、想像できませんね。
世界最初の抄紙機(模型)
フランス人のルイ・ロベールは1798年、それまで1枚1枚手ですいていた紙を連続的につくる「抄紙機」を世界で初めて発明した。紙の大量生産・大量消費を可能にした、重要な発明品であり、これはその縮尺1/2模型。繊維をシート状にする網(ワイヤー)の両端を輪につないで回転させることで、連続的に紙をつくることができる。この抄紙機が改良され、現在も広く使用される長網抄紙機として実用化された。
この機械は、木を擂り潰すんだとか。大根おろしの原理ですかね。
ポケット グラインダー
明治二十年代以降、紙の原料は木材(針葉樹)が主流となっていく。グラインダーは、回転する砥石(グラインダーストーン)に木材(丸太)を押し付けてすりつぶし、パルプをつくる装置で、ポケット型、マガジン型などの型がある。戦後、高度成長期頃までは、針葉樹をすりつぶしパルプ化したものが紙の主原料だったが、更なる需要増から原料不足となり、広葉樹が利用されるようになると、グラインダーは他の機械に置き換わっていった。
紙プラントの模型もあります。製紙業はもはや装置産業ですね。
連続蒸解釜(模型)
蒸解釜とは、木材チップを薬液で煮てパルプを作る装置で、連続蒸解釜はチップと薬液が連続的に釜の中に送り込まれ、煮上がったパルプから順次出てくる仕組みになっている。この模型は1/25模型で、実物は高さ42mほどにもなる。連続蒸解釜はクラフトパルプ製造の主流として、現在も世界中で導入されており、パルプ製造工場の象徴的な設備の一つである。
段ボール製造機もあります。明治四十二年に開発されたそうです。動作方法がイマイチ分かりません。
段ボール製造機(復元)
三盛會(現レンゴー)の創業者・井上貞治郎が日本で初めて段ボールを製造した機械を復元したもの。井上は明治四十二年(1909年)に綿繰り機をヒントに、ボール紙に波形の段をつける機械を自ら考案、製造に成功し、「段ボール」と命名した。この製品は電球や化粧品など割れやすい商品の緩衝材として使われた。段ボール箱を手がけるのは、大正三年(1914年)である。
「紙の博物館」の隣に「北区飛鳥山博物館」があります。北区飛鳥山博物館は、北区のことがなんでもわかる博物館です。地域の郷土風土博物館として、北区の歴史・自然・文化などに関する展示や調査研究などの活動を幅広く行なっています。1階の常設展示室では、「大地・水・人」をコンセプトに、1つの象徴展示と14のテーマ展示を展開しています。武蔵野台地と東京低地の境にある北区の成り立ちから、古代人のくらし、江戸時代の名所の発展、さらには荒川の生態系まで、実物資料はもちろん複製資料(レプリカ)、映像、復原家屋などを通して、地域の風土とともに連綿と営まれてきた人々の暮らしぶりが実感できる展示となっています。2階には企画展や特別展覧会、スポット展示などを開催する特別展示室のほか、図録や各種オリジナルグッズを取り揃えたミュージアムショップがあります。3階の飛鳥山アートギャラリーでは北区ゆかりの美術伝統工芸品を鑑賞することができます。また、1年を通して、さまざまな講座や見学会なども行なわれています。
入口を入った左手に高床式の建物が造られています。徴収した米を蓄える倉庫とのことです。
豊島郡衙の、とある風景
時は奈良時代、現代の北区は武蔵国の豊島郡に属していました。東京都には都庁があり、北区には北区役所があるように、古代でもその地方や地域を管轄する役所がありました。その豊島郡の役所、豊島郡衙がここ北区の地にあったのです。郡衙の仕事は今の役所と同じです。税の徴収やそのための戸籍作りなどです。現代は税をお金で納めていますが、当時は「租・庸・調」といって、稲・布・特産物を納めていました。その徴収した稲を収納したのが、この「正倉」という建物です。正倉の前には稲を運び入れている村人がいます。まだ米俵がなかった時代です。叺で運び、倉の中に直接稲籾を入れていました。それを指示しているのが郡衙の役人である「郡司」です。稲の収穫が終わった秋の、とある一日。きっとこんな光景があったのでしょう。
常設展示室は入口フロアの下の階にあります(入口フロアは2階に当たるらしい)。エレベータで降りていきますと、弥生時代の竪穴式住居が復元されています。それだけならなんということもないのですが、当時の日常生活を再現したビデオが流されています。食料を盗もうとする隣人とそれを阻止しようとする住人が争っていて、かなりリアルな映像です。
北区の歴史を解説したパネルが並んでいます。豊島郡は、荏原郡や多麻郡と並んで、現在の東京都を構成する武蔵国の主要な郡でした。正倉は郡衙の中でも重要な建物だったようです。税として徴収した米(稲籾)を保管するところですからね。古代東海道の道筋は、現在の本郷通りでしょうか?
奈良時代〜平安時代
律令社会と豊島郡衙
奈良に都が造られた律令の時代、中央政府は地方行政を合理的に管理するために行政区画を設け、地方を分割しました。その行政単位は国・郡・里(郷)で、北区の地は“武蔵国豊島郡”に属します。国や郡には行政実務を行う、現代でいう役所が置かれました。郡に置かれた古代の役所を”郡衙”あるいは”郡家”といいます。北区の地から豊島郡の役所である”豊島郡衙”が発見されました。北区は古代において豊島郡の中心地だったのです。
武蔵国豊島郡衙
武蔵国は現在の埼玉県と東京都、神奈川県の横浜市や川崎市を含んだ広い範囲です。その中心は国の役所である”武蔵国府”で、現在の東京都府中市にありました。武蔵国は21の郡(最初は19の郡)に分割されていました。現在の北区はその中の豊島郡に含まれます。その範囲は北区・板橋区・豊島区・荒川区・台東区・文京区・練馬区がほぼ該当します。各郡には役所として”郡衙”が置かれていました。豊島郡の中心である”豊島郡衙”は北区の西ヶ原にありました。
豊島郡衙の構造
古代の役所”豊島郡衙”は郡庁院と正倉院に大きく分けられます。郡庁院には行政の事務的な仕事を行う中心施設の”正殿”があります。その他、宿泊施設である”館”や食料の保管や調理を行う”厨家”などの建物群が周辺にあります。郡庁院の西にある正倉院には租税として徴収した稲籾を納める”正倉”や大型の倉の”法倉”などがあります。これらは中央の広場を囲むように数棟が列になって建てられていました。正倉院全体は大きな溝で取り囲まれていました。
古代東海道と豊島郡衙
律令社会においては、中央からの命令を地方に、地方の状況を中央にいち早く伝達することを目的に道路を整備しました。地方の各国はそれぞれ七つの”道”というブロックにくくられ、その各国府を中継するように直線道路を造りました。武蔵国は宝亀二年(771年)に、それまでの東山道から東海道に編入され、相模国府から武蔵国府、そして下総国府へと向かう道路としての東海道が確立されました。豊島郡衙は武蔵国から下総国へ行く最短距離のルート上に位置しており、古代東海道がここを通っていました。
豊島氏は鎌倉幕府の成立にも大きく寄与しました。吾妻鏡には、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて豊島郡を領有した豊島清元に対し、源頼朝から参陣を促す書状が送られたとの記述があります。
鎌倉御家人・豊島氏の全国展開
この文書は元暦元年(1184年)、後白河法皇が武士による紀伊国(和歌山県)高野山領への課税の停止を、紀伊国守護人の豊島有経に命じたものです。鎌倉御家人・豊島氏一族は源頼朝に信頼され、紀伊国や土佐国(高知県)守護に任じられました。なお紀伊氏を名乗り京都に基盤をもつ豊島有経の一族は、後に幕府の禁令に触れて「豊島庄犬食名」(荒川区尾久と推定)を没収され失脚した本家の豊島時光に代わって、家を継いだ可能性が指摘されています。
源頼朝と豊島氏
諸国の武士たちが平氏への不満を強めるなか、治承四年(1180年)、源頼朝は平氏政権を倒す決意をしました。いったんは石橋山の合戦で破れた頼朝でしたが、房総半島に渡り関東の武士を配下に兵力を増やし武蔵国へと向かいました。武蔵国豊島郡を本拠とする豊島氏と同族の下総国葛飾郡の武士団・葛西氏はいち早く頼朝に味方し、頼朝の武蔵入国を助けたことが、「吾妻鏡」に記されています。頼朝は豊島氏の勢力地である「豊島御庄滝ノ河」にも陣を張ったと伝えられます。やがて鎌倉を拠点とする武家政権への第一歩が築かれました。
武士の起こりと秩父平氏
桓武天皇の子孫・平将常は武蔵国秩父郡に定着し、秩父氏を名乗る武士団を形作り、やがて荒川・入間川・多摩川などの大きな川沿いに一族を広げました。前九年の役(1051年〜1062年)・後三年の役(1083年〜1087年)で中央から派遣された源頼義とその子義家は、関東の武士を率いて戦い、秩父氏の一族豊島氏もこれに従いました。「平塚明神并別当城官寺縁起絵巻」には、後三年の役から帰る途中、豊島氏の館に泊まった源義家が鎧と十一面観音を豊島氏に与える場面が描かれ、中央の武士団のかしらである源氏と、豊島氏との結びつきが知られます。
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて豊島氏の勢力は拡大していきます。
国人領主・豊島氏
江戸時代中期の旗本・豊島泰盈は、中世武士団豊島氏の子孫であることに誇りを持ち、中世古文書「豊島・宮城文書」をもとに豊島氏系図を作りました。この「泰盈本豊島氏系図」に記された古文書を見ると、豊島宗朝は南北朝時代、北朝方の足利氏に従い、(イ)豊島修理亮(景則)も鎌倉公方足利基氏に味方しています。(ロ)また豊島範泰の古文書によると、鎌倉公方足利持氏と上杉禅秀との戦いで豊島氏は持氏の配下になっています。(ハ)さらに豊島泰次の代に書き入れられた足利成氏の古文書には、豊島氏には「三河守」(ニ)と「勘解由左衛門」(ホ)を名乗る2つの系統の家があり、勢力をふるっていたことが分かります。
石神井川をさかのぼった豊島氏
鎌倉時代後期、石神井郷(練馬区)の地頭・宇多重弘には、男性の跡取りがなく3人の娘たちに領地が譲られることになりました。南北朝時代頃までは女性に財産権があり、やがてそれらの領地は結婚した相手先の家に伝わり、宮城政業の妻「箱伊豆」の領地は豊島宗朝が継ぎました。その結果、豊島氏は石神井川水源に近い三宝寺池周辺に石神井城を築き、拠点を移したのでした。
時は戦国時代に移ります。
北区の戦国時代
室町時代後期〜戦国時代
戦乱の続く室町時代、関東ではさまざまな勢力がしのぎを削り、新旧の武家が争いました。15世紀の末期になると平安時代から続く豊島氏は太田道灌に敗れ、その道灌も主君扇谷上杉氏によって討たれて、時代は戦国の世を迎えました。16世紀になると上杉氏から自立を目指した道灌の孫、江戸太田氏の資高は北条氏綱と結びました。その結果、北条氏は武蔵を手中に収めることに成功し、江戸太田氏は戦国大名北条氏の勢力下に入りました。
関東公方足利持氏と豊島氏
東国の行政機関の要であった鎌倉公方足利持氏は、新たに室町幕府六代将軍になった足利義教と対立し、代替わりで正長二年(1429年)を改元し「永享元年」としたことを認めず、正長元号を使い続けました。国人領主豊島氏の支配領域にあった北区堀船の福性寺には、この正長三年(1430年)銘の板碑があり、豊島氏が足利持氏の勢力下にあったことがうかがえます。南北朝時代から室町時代の戦乱の中で河越氏や江戸氏などの多くの伝統的な秩父平氏が滅びるなかで秩父平氏・豊島氏はたくみに関東の中世社会の中で命脈を保っていったのです。
戦国時代の北区の村
豊島氏を滅亡に追い込んだ太田道灌でしたが、その勢力を恐れた主君の扇谷上杉定正は、文明十八年(1486年)、道灌を暗殺しました。その後、上杉氏に代わり武蔵国で勢力を広げたのは戦国大名北条氏です。大永四年(1524年)、北条氏綱は兵を武蔵国南部に動かし、道灌の孫・太田資高は北条氏に味方しました。「小田原衆所領役帳」には、資高の子・康資の持っていた豊島郡の領地が記されています。北条氏は家臣に領地を与える時、領地の規模を銭の単位の「貫」で表示しました。これは家臣の所領高であり、また北条氏に仕える軍役高を意味しました。
豊島氏の滅亡と太田道灌
文明八年(1476年)、山内上杉氏内部の主導権をめぐって不満を持った長尾景春は、主君の山内上杉顕定に対して反乱を起こしました。景春に味方した豊島氏は、平塚城(北区)・練馬城・石神井城(練馬区)を中心に、江戸城と川越城を拠点とした太田道灌と対立しました。「太田道灌状」には、文明九年(1477年)の江古田・沼袋(中野区)合戦で豊島氏が道灌に敗れ平塚城・石神井城は落城、翌十年、当主の豊島勘解由左衛門尉は再挙を図ったものの、再び平塚城で道灌に敗れたことが記されています。
江戸時代に入ると、北区には将軍が日光東照宮に参詣するための日光御成道が整備されました。現在の本郷通りから都道460号中十条赤羽線を経て荒川を渡る道筋です。
日光御成道の風景
江戸時代
本郷通りの駒込・飛鳥山間、王子から中十条を経て赤羽へと続く道は昭和の初めまで一続きの道でした。もともとこの道は、徳川家康を祀っている日光東照宮に、命日の旧暦4月17日に江戸幕府歴代の将軍が参詣するために整備された街道でした。神田橋御門・本郷追分を通った後、駒込・西ヶ原一里塚・飛鳥山・稲付一里塚を経て岩淵宿に出ます。荒川を渡ると、川口宿・鳩ヶ谷宿・大門宿・岩槻宿を経て幸手宿の手前で千住宿からの日光街道に合流しました。
日光山道中図絵
江戸城から神田橋御門を経て日光東照宮に至る御成道筋を描いた鳥瞰図的な見取図です。「東照宮宝物誌」によれば、制作時期は安永から天保年間(1772年〜1843年)とされています。図中には御泊・御昼休・御小休・御供飲水置場・御馬口洗場の場所が印されてあることから将軍家社参に用いられた絵図であると推察できます。寺社、屋敷地、民家、道標、高札場、用水、橋、樹木(針葉樹・広葉樹・竹林・草地)などが非常に細かく描かれており、当時の街道筋の様子がよく分かります。展示に用いた部分は、第1帖の駒込地蔵堂から川口善光寺までの12折分です。
北区飛鳥山博物館には様々な民俗資料も展示されています。豪華なお花見弁当もあります。こんなにお御馳走を詰め込んだら、花見どころではありませんね。
「北区飛鳥山博物館」の隣に「渋沢資料館」があります。渋沢資料館は、渋沢栄一の活動を広く紹介する博物館として、1982年にかって渋沢栄一が住んでいた旧渋沢邸跡に開館しました。渋沢栄一の生涯と事績に関する資料を収蔵・展示し、関連イベントなども随時開催しています。旧渋沢庭園に残る大正期の2棟の建築「晩香廬」と「青淵文庫」の内部公開も行っています。
渋沢栄一とは
1840年、現在の埼玉県深谷市に生まれました。農業・商業を営む実家を手伝うかたわら、尊王攘夷思想に傾倒しましたが、緑あって一橋慶喜の知遇を得て家臣となりました。1867年パリ万博で文明に触れ、感銘を受けました。帰国してからはその経験を活かし、民間の立場から約500社にのぼる株式会社・銀行などの設立、経営指導に尽力し、民間経済外交・社会公共事業に取り組み近代日本の経済社会の基礎を作りました。
渋沢史料館
渋沢栄一の活動を広く紹介する博物館として、1982年に開館しました。かつて栄一が住んでいた旧渋沢邸跡に建ち、公益財団法人渋沢栄一記念財団が運営しています。栄一の生涯と事績に関する資料を展示し、それにまつわるイベントなども随時開催しています。
晩香廬
落成:1917年 国指定重要文化財
1917年に栄一の喜寿(77歳)を祝って清水組(現・清水建設株式会社)より贈られた洋風茶室です。青淵文庫とともに、建築家・田辺淳吉の代表作です。渋沢邸を訪れた賓客をもてなすために利用されました。
青淵文庫
竣工:1925年 国指定重要文化財
栄一の傘寿(80歳)と子爵に昇格したお祝いを兼ねて、1925年に竜門社(現・公益財団法人渋沢栄一記念財団)が贈呈しました。ステンドグラスや装飾タイルなどが書庫に彩りを与えています。書庫として建設されたことから全体的に堅牢で、鋼製の書棚などにも十二分にこだわった建築となっています。
博物館入口の脇には、渋沢栄一の石像が置かれています。
渋沢栄一像 小倉右一郎 年未詳
当財団の所有であった旧渋沢家飛鳥山邸の丸芝(現・東京都北区・飛鳥山公園旧渋沢庭園内)の縁に置かれていた石像。平成九年(1997年)の渋沢史料館本館新築時に現在地に移動、設置されました。制作年代、経緯は不明ながらも、晩年の栄一の面影をよく伝える作品です。小倉右一郎(1881年〜1962年)は香川県出身の彫刻家。東京美術学校彫刻家本科を卒業後、東京で活動しました。作域は、歴史的人物から肖像彫刻にまで至る人物像で、大正から昭和初期にかけて高い評価を得ます。また、ブロンズだけでなく大理石、花崗岩、セメントを素材とし、日本初のセメント彫刻である日本工業倶楽部正面に掲げられた「坑夫と織女の像」は、現在もなおその姿をとどめています。大正五年(1916年)、小倉は、新築の東京銀行集会所に長年同所会長を務めた栄一の喜寿祝いとして建立するためのブロンズ製栄一胸像を制作。さらに大正十四年には長年にわたる東京市養育院に対する功労を記念して建立されたブロンズ製栄一座像の原型を手掛けました。
館内には、渋沢栄一の生涯を解説した夥しい数のパネルが展示されています。あまりの業績の多さにとても紹介しきれません。
「飛鳥山公園」の東側の入り口横に渋沢栄一が住んだ邸宅の案内板が立っています。
旧渋沢家飛鳥山邸
飛鳥山公園の南側一帯には、日本の近代経済社会の基礎を築いた、渋沢栄一の自邸が所在していました。現在、敷地は飛鳥山公園の一部になっていますが、旧邸の庭園であった所は「旧渋沢庭園」として公開されています。渋沢栄一は明治三十四年から昭和六年に亡くなるまでの三十年余りをこの自邸で過ごしました。当時の渋沢邸は、現在の本郷通りから「飛烏山3つの博物館」に向かうスロープを上がった付近に出入り口となる門があり、邸内には、和館と洋館からなる本邸の他、茶室や山形亭などの建物がありました。残念ながらこれらの建物は昭和二十年の空襲で焼失してしまい、大正六年竣工の「晩香廬」と大正十四年竣工の「青淵文庫」、この二棟の建物のみ「旧渋沢庭園」内に現存しています。「晩香廬」は、渋沢栄一の喜寿の祝いとして、「青淵文庫」は傘寿と子爵への昇格の祝いとしてそれぞれ贈呈されたものです。どちらの建物も大正期を代表する建築家の一人で、清水組(現清水建設)の技師長を務めた田辺淳吉が設計監督Lています。当時の世界的なデザイン・美術の運動の影響を受けた建築であることが評価され、平成十七年、「旧渋沢家飛鳥山邸(晩香廬・青淵文庫)」として二棟が重要文化財(建造物)に指定されました。
「晩香廬」は、国内外の賓客を迎えるレセプションルームとして使用された重要文化財で、渋沢栄一の喜寿の祝いとして贈られたものです。お祝いとしては破格の品ですね。
国指定重要文化財 旧渋沢家飛鳥山邸 晩香廬
近代日本の大実業家のひとり渋沢栄一の喜寿を祝い、合資会社清水組(現・清水建設梶jの清水満之助が長年の厚誼を謝して贈った小亭である。建物は応接部分と厨房、化粧室部分をエントランスで繋いだ構成で、構造材には栗の木が用いられている。外壁は隅部に茶褐色のタイルがコーナー・ストーン状に張られ、壁は淡いクリーム色の西京壁で落ち着いた渋い表現となっている。応接室の空間は勾配の付いた舟底状の天井、腰羽目の秩茎の立簾、暖炉左右の淡貝を使った小窓など、建築家田辺淳吉のきめこまかな意匠の冴えを見ることができる。なお晩香廬の名は、バンガローの音に当てはめ、渋沢自作の詩「菊花晩節香」から採ったといわれる。
室内には豪華な調度品が置かれています。
渋沢栄一が暮らした地
栄一は1879年、飛鳥山の地に賓客接待用の別邸をかまえました。以後、庭園内を整備し、日本館、西洋館、茶室、文庫などを建設しました。1901年からは飛鳥山の邸宅に移り住み、1931年に、91歳で亡くなるまで本邸として使用しました。その後、1945年4月の空襲により、建物の多くを焼失しましたが、晩香廬、青淵文庫など一部は現存します。
暖炉の上には、渋沢栄一と最初の妻である千代との間に生まれた長女で歌人の穂積歌子が記した撰文を篆刻した額が掲げられています。撰文は、清水組と渋沢栄一の関係を録したものです。歌子は、宇和島藩士族の穂積陳重に嫁ぎ、長男穂積重遠を始めとする4男3女を産み育て、「良妻賢母の鑑」といわれたました。
ここが見どころ!
復原したカーテンとロールスクリーン
晩香廬に取り付けられているカーテンとロールスクリーンは、復原製作をしたものです。では創建時、どのようなものが掛けられていたのでしょうか?当館に残る資料には、カーテンについて以下のように記されていました。
一、窓掛 麻琥珀地艸花紋様無雙仕立 壱ヶ所
麻琥珀地艸花紋様窓用 壱ヶ所
そして、創建時の写真を見ると談話室・南面の出入口の窓には麻地のような薄手のカーテンとロールスクリーンやカーテンレールなどがはっきり写っています。カーテンやロールスクリーンの復原製作にあたっては、創建時の写真や資料の記述が大きなヒントとなりました。たとえば、談話室南面の大きな窓のカーテンの裂地は、資料によると「麻琥珀地艸花紋様無雙仕立」とあるように、薄手の麻の無地の裂地を無双=リバーシブルで仕立てていたことがわかります。また色調は、談話室の雰囲気にふさわしい琥珀色が選ばれていました。さらに写真を見ると、裂地の左右の端に蔓草(つるくさ)の連続模様が施されていることもわかります。このように現存するわずかな資料を丁寧に分析し、カーテンの復原を行いました。一方のロールスクリーンも復原したものです。当時のロールスクリーンの裂地は綿製で、アメリカから輸入したことが判っています。カーテンと同様に室内に差し込む直射日光を遮る日除けとして使用されましたが、裂地の劣化が著しく、また軸部のスプリングに狂いが生じていることから、古写真に倣って復原をしています。
出窓から庭園を眺めますと、渋沢栄一の銅像が見えます。
晩香廬を見渡すように、北区に残る唯一の渋沢栄一の銅像が建っています。この銅像は頭取栄一翁の還暦を祝って第一銀行行員一同が建てたものです。明治三十五年に第一銀行の中庭に設置されましたが、大正十二年の関東大震災で第一銀行本店が羅災し、世田谷清和園という保養施設に移され、その後、昭和三十一年に現在地に移されました。銅像の高さは151cmで、等身大とのことです。意外と小柄だったんですね。
第一銀行頭取男爵渋澤栄一・・・(以下判読できず)
晩香廬の脇に山形亭跡があります。「亭」は「あずまや」とも読みます。渋澤栄一は、庭の散策の折に立寄って一休みしたのでしょう。
山形亭跡
丸芝をはさんで本邸・西洋館と対した築山にあった亭です。「六角堂」とも呼ばれていました。この亭の名前は、六角形の土台の上に自然木を巧みに組んだ柱で、山形をした帽子のような屋根を支えでいたところから付けられたようです。西洋館の書斎でくつろぐ栄一が、窓越しにぼんやりと見える山形亭を遠望する写真も残されています。
「青淵文庫(せいえんぶんこ)」は、渋沢栄一の傘寿(80歳)のお祝いと、男爵から子爵に昇格した祝いを兼ねて、竜門社(渋沢栄一記念財団の前身)が寄贈した煉瓦および鉄筋コンクリート造の建物です。大正十四年(1925年)に竣工し、渋沢栄一の書庫として、また接客の場としても使用されました。渋沢家の家紋「丸に違い柏」に因んで、柏の葉をデザインしたステンドグラスやタイルが非常に美しい洋館です。当初収蔵されていた「論語」をはじめ多くの漢籍は昭和三十八年(1963年)に渋沢家から都立日比谷図書館に寄贈され、現在は都立中央図書館に所蔵されています。
国指定重要文化財 旧渋沢家飛鳥山邸 青淵文庫
渋沢栄一(号・青淵)の80歳と子爵に昇爵した祝いに、門下生の団体「竜門社」より寄贈された。渋沢の収集した「論語」関係の書籍(関東大震災で焼失)の収蔵と閲覧を目的とした小規模な建築である。外壁には月出石(伊豆天城産の白色安山岩)を貼り、列柱を持つ中央開口部には、色付けした陶板が用いられている。上部の窓には渋沢家の家紋「違い柏」と祝意を表す「寿」、竜門社を示す「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれ、色鮮やかな壁面が構成されている。内部には1階に閲覧室、記念品陳列室、2階に書庫があり、床のモザイクや植物紋様をあしらった装飾が随所に見られ、照明器具を含めて華麗な空間が表現されている。
雫真由美氏が制作したステンドグラスのレプリカが展示されています。
青淵文庫ステンドグラス複製
雫 真由美
平成十五年
【製作者 雫 真由美氏のメッセージ】
「青淵文庫」のステンドグラスレプリカを製作させて頂き、光栄に思っております。大正ロマンあふれる作品ですので、いざ製作にとりかかりますと、精緻なデザイン、色使いの巧みさ、80年前の時代に手作業でよく行ったものだと、当時の技術力の高さに感心いたしました。渋沢栄一先生の活躍された時代に思いを馳せながら、楽しく、時には技術的な面で悩みつつも、製作を終えることができました。
応接室には立派な調度品が揃えられ、渋沢栄一の日常の様子を記したパネルが貼られています。
栄一の日常
栄一が自らの日常について語った文章から、その皹を垣間見る。
凡そ多忙といふ点に就いては、余は大抵の人に劣らぬであらう。
朝は普通六時に起き、夜は十二時頃に寝ることにしてあるけれども、仕事の都合で十二時過ぎになることも珍しくない。起床後は必ず直に湯に這入るが、入浴すれば精神爽快にして元気頓に加はるの思がする。次に庭園を散歩すれば、澄んだ空気を呼吸し、心身を養ふことが出来て非常によいのであるが、殆どそれの出来ないのは遺憾である。新聞も一と通り見ねばならぬ。朝飯も喰はねばならぬ。殊に毎朝来る手紙は如何に少い日でも必ず三四通はあるので、それにも一一返書を認めねばならぬから、庭園の散歩などは仕度くても殆ど其の暇が無い。
其の中に二三の来客が見える。来れば必ず逢うて語る。余の主義として時間の許す限り客を辞したことがない。病中とか精神不快の場合、人に逢ふのが辛いと感ずる時は仕方もないが、病中でも尚客と語るを楽として居る。併し金を強請されるなどは際限もないことであるし、また揮毫の催促などは余が面会しなくとも用が弁ぜられるが、其の他の人は貴賤貧富を問はず、必ず面会して、相手の意見なり、希望なりを聞き、応じ得ることなら相談にも与り微力をも致して居る。
毎日の用事の予約は塗板に認めてあるから、約束の時間が来れば外出する。通常十一時頃には兜町の事務所へ出る。事務所にも既に客が待つて居る。又引続いて来る者もあるといふ風で、独座して緩りと書物を読むやうなことは、月に一回あるか無しである。斯くて少し客が絶えた時は、日々接手する幾十通の手紙に返書を認めるが、手紙の返事は多く自分で作って代筆させることは少い。といふのは、一言一句不穏当の辞があつても先方の誤解を起す基となるから、仮令忙しくとも、字句を丁寧に文言を優美に書くことを努めて居る。
夜は宴会、相談等の為に十時過までかゝることが多く、一家団欒して食事を共にすることは、月の中に五六日しかない。外の用事が済んで帰邸してからは、或は新聞雑誌を読んだり、或は人に読ませて傾聴したりする。これは一と通り社会の風潮を知つて置かなければならぬからである。拙筆ではあるが揮毫を依頼されたものが常に三四百枚はあつて、時々催促を受けるのであるが、紙に臨めば精神も落着き、愉快を感ずるのであるけれども、其の時間さへない。こんな風で毎日寸暇もなく追ひ廻されて居る。
青淵文庫の奥に庭園があります。
ようこそ旧渋沢庭園へ
渋沢史料館
日本の近代経済社会の礎を築いた実業家・渋沢栄一の生涯と事績と思想を紹介する博物館。大正建築の晩香廬、青淵文庫(いずれも国指定重要文化財)の内部公開も行っています。
曖依村莊跡
曖依村荘は渋沢栄一の飛鳥山邸の名称で、陶淵明の詩の一節から名付けられました。栄一は、明治十二年(1879年)から別邸として、明治三十四年(1901年)からは本邸として飛鳥山に居を構え、昭和六年(1931年)にこの地で生涯を終えました。昭和二十年(1945年)4月の空襲で、日本館と西洋館から成る母屋など多くの建物が焼失しましたが、大正時代に建てられた晩香廬、青淵文庫が現存しています。
茶席門は、無心庵への入口にありました。
茶席門跡
茶席「無心庵」へ向かう途中に設けられたいくつかの茶席門の一つです。この門をくぐってすぐに水の流れがありました。流れに架かる石橋を渡り、飛び石をたどっていくと、途中左手に「茶席待合」、さらにその奥に「無心庵」がありました。これらは、昭和二十年(1945年)の空襲で焼失してしまいましたが、当時の跡をたどることができます。
「無心庵」に行く途中に、茶席待合がありました。
茶席待合跡
茶席「無心庵」への途中にあった待合です。腰を下ろすだけの簡素なものですが、気持ちを落ちつけ、茶席へ誘う重要な役割を担っていました。現在は、軒下の踏石をはじめとして、礎石などがほとんど当時の形で残されています。
無心庵も礎石だけが残っています。
無心庵跡
茶席「無心庵」
設計は茶人としても有名な益田孝の弟、克徳と柏木貨一郎と言われています。京都裏千家の茶室などを参考にして明治三十二年(1899年)に建てられました。栄一は、徳川慶喜の名誉回復を図るため、慶喜と伊藤博文等をこの茶室で対面させたという逸話が残されています。無心庵には茶室のほかに広間も設けられ、伝統的なものの中に、新しい時代の茶席をも感じさせるものがあったようです。縁先には石製の手水鉢が置かれていましたが、こうした静かなたたずまいも昭和二十年(1945年)4月13日の空襲で焼失してしまいました。
邀月台
無心庵の東側に切り立つ崖の斜面には、月見台がしつらえてありました。当時、ここからは、栄一が誘致した王子製紙の工場が眼下に見え、荒川方面まで続く田んぼの先には、遠く国府台の台地や、さらにその北には、筑波山の勇姿を望むこともできたといいます。
兜稲荷社跡は、旧渋沢庭園の東側の端にあります。兜稲荷社は、三井組の為替座(明治初年の銀行の名称)として新築され、元々は日本橋兜町の渋沢が創設した日本最初の銀行である第一銀行の本店の構内にありましたが、第一銀行が改築された際に現在地に移築されました。その後、破損が激しく危険ということもあって取り壊されましたが、基壇部分や灯籠などは現在まで残されています。
兜稲荷社跡
日本橋兜町の第一銀行構内にあった洋風の珍しい社です。明治三十年(1897年)の第一銀行改築時に現在地に移築されました。その後、昭和四十一年(1966年)に破損が激しく、危険ということもあって取り壊されましたが、基壇部分や灯籠等は現在まで残されています。この社は、最初、三井組の為換座として新築された時、三井の守護神である向島の三囲神社から分霊を勧請し、兜社と名付けられたものでした。その後兜社は、為換座の建物と共に第一国立銀行に引き継がれたのです。
ゴール地点のJR京浜東北線王子駅中央口に着きました。
ということで、足立区で十二番目のコースとなる「A−北西エリア 12.舎人公園から飛鳥山公園コース」を歩き終えました。次は足立区で十三番目のコースとなる「A−北西エリア 13.舎人公園1周コース2」を歩きます。
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