- A−北西エリア 13.舎人公園1周コース2
- コース 踏破記
- 今日は足立区の「A−北西エリア 13.舎人公園1周コース2」を歩きます。最初に歩いたのは2022年7月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年11月に改めて歩きました。
スタート地点:舎人公園駅東口
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1.舎人公園
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2.古千谷さくら公園
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3.古千谷氷川神社
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4.見沼代親水公園
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5.見沼代親水公園駅
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6.神領堀親水緑道
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7.入谷中央公園
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8.鳩ケ谷街道
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9.コナカ
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10.イイダ
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11.谷在家公園
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12.舎人公園
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ゴール地点:舎人公園駅西口
スタート地点の舎人公園駅東口から歩き始めます。
- ポイント1.舎人公園
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舎人公園は、公園中央で十字に交わる道路(尾久橋通り・舎人公園通り)で4区画に分けられています。西側敷地(A・D地区)に陸上競技場(3種公認)・テニスコート・野球場などのスポーツ施設、東側(B・C地区)には水鳥が見られる大池や親水広場などの自然と親しむスペースやキャンプ場が設けられています。また、南東部にはバードサンクチュアリの施設もあります。バードサンクチュアリーとは、野鳥たちだけの住処で、巣作りに適したガマやアシ、そして雑木林などの環境管理を行ない、観察舎からは様々な野鳥たちを観察できます。公園の面積は、都立公園の中で3番目の広さを誇り、東京ドーム約14個分の64.96ヘクタールあります。23区内の都立公園としては3番目の規模(1位:水元公園、2位葛西臨海公園)になっています。
舎人公園には噴水広場が2ケ所あります。公園入口の小さな噴水広場と大池近くの大きな噴水広場で、両側に高木が立ち並ぶ水路によって結ばれています。
大池では釣りも楽しめます。
お花見広場を中心に、ソメイヨシノ・カンヒザクラ・ギョイコウなど24品種・約千本の桜が植えられ、長い期間お花見が楽しめます。毎年、3月下旬には「舎人公園千本桜まつり」が開催され、ステージイベントの他に物産展なども出店され、大勢の花見客で賑わいます。
ソリ専用の人工芝でのソリ遊びが楽しめるソリゲレンデは、通年楽しめる舎人公園の人気アクティビティです。巾が44m・最大斜度16度のAゲレンデと最大斜度20度のBゲレンデがあり、3〜12歳がまでの子どもが無料で利用できます。
舎人公園は駅前の入口から北に向かって傾斜がついています。なので、北側の出口付近はかなりの高さがあります。一番高いところに「朝日の広場」があります。
朝日の広場からの眺望
「朝日の広場」は、日暮里舎人線車庫の上部に盛土をして公園として整備したものです。標高は約17.5mあり、足立区内の地表面では、一番高い場所です。天気の良い日には、遠くの景色も見ることができます。(図中の表示は、大体の方向を示しています。)
広場の東端からは、赤と白が斑になった足立清掃工場の煙突が眺められます。煙突は、2025年に竣工したシティタワー千住大橋に次ぐ高さを誇っています。
今日はお休みのようですが、舎人公園北通りに面した交差点の角に「TipTop coffee(ティップトップコーヒーカフェ)」というお店があります。ただの喫茶店ではなく、月1回(第3土曜日)の「お絵描き教室」・2ヶ月に1回の「デジタルお絵描き教室」・毎月1回(日曜日)のネイル教室・不定期の「工作教室」・その他のインベントが開催されています。コーヒーやジュースのお値段はもうちょっと値段を高くしてもいいのでは?
右側の写真は、以前撮ったものです。
- ポイント2.古千谷さくら公園
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古千谷さくら公園は、「TipTop coffee」の北方にある舎人保育園に隣接する区立の公園です。面積は1、443平方メートルの土の広場で、子どもたちは思い切り走りまわったり、キャッチボールやサッカーなどのボール遊びして楽しむことができます。広場を取り囲むように大きな木々が植栽されていて、遊び疲れたときには木陰でのんびりと一休みすることもできます。
注記:地図では、古千谷さくら公園は「古千谷本町三丁目公園」と表示されています。
足立区の公園でよく見かける里帰り桜の木が植えられています。
ワシントンからの「里帰り桜」
足立区江北の一帯は、昭和初期まで「荒川の五色桜」と呼ばれる桜の名所でした。様々な品種の桜が植えられていて、花の時期には、白や黄色、淡紅や濃紅色などに彩られ、五色の霞がたなびくように見えたところから。この名が付いたと言われています。明治四十五年、当時の東京市長、尾崎行雄は日米友好の証として「荒川の五色桜」の苗木十二品種三千本を、アメリカの首都ワシントンに贈りました。現在、市内のポトマック公園は、世界的な桜の名所となっています。しかし、本家の「荒川の五色桜」は堤防工事や戦争、公害等の影響で、残念ながら衰退してしまいました。足立区では「五色桜」を復活させるために、昭和五十六年二月、区政五十周年記念事業として、ポトマック公園の桜の枝三十五品種三千本の里帰りを実現しました。この枝から苗木を増やし、あわせて「荒川の五色桜」に由来する品種を集め、区内の公園や学校などに植えました。新しい桜の名所として「都市農業公園」や「荒川桜づつみ」などがうまれています。ここに植えられている桜は、これらの桜の一部です。貴重な、歴史的財産でもある「里帰り桜」を、招来にわたって大切に大きく守り育てていきましょう。
古千谷さくら公園の向かい側に、浄光寺があります(東伊興にも同名のお寺がありますが、関係はありません)。浄光寺は、享禄三年(1530年)に花井肥前守正義が開基となって創立されました。花井家は古千谷村の名家であり、墓地には開基の花井正義や花井家の祖で隣の全学寺の開基の真野梅敷の墓などがあります。真野梅敷の墓は元々は全学寺にありましたが、全学寺が荒廃した時期があり、その際に浄光寺に移されました。
浄光寺
浄土宗、普照山如意輪院浄光寺と号す。享禄三年(1530年)の創建で、開山は専誉、開基は古千谷開拓者の一人、花井肥前守正義といわれている。本尊は、阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)である。その内、木造阿弥陀如来坐像から二つの胎内銘が発見され、天文二十三年(1554年)十二月吉日に七条門中左京法眼康実がこの像を作成したことと、元文三年(1738年)に修復をしたことの二点が判明した。法眼康実は京都の七条仏所、すなわち運慶の流れをくむ慶派の仏師であり、京仏師の活動を示すものとして貴重なものである。同坐像は平成二十四年(2012年)十二月に足立区登録有形文化財となった。境内には、当寺の向かいにある全学寺の開基で旧家花井家の祖真野日向守梅敷の五輪塔、当寺開基の花井肥前守正義の唐破風笠付墓塔、「新編武蔵風土記」に徳川家康が鷹狩した折に、草加野より真菰(イネ科マコモ属の多年草)を苅出し献上したとある花井内蔵之助の宝篋印塔など花井一族の墓所がある。また、江戸期に盛んであった月山・湯殿山・羽黒山の修験霊場、西国・板東・秩父の百観音札所、成田山不動明王の参拝記念に造立した巡拝塔がある。土地改良事業の際出土した夜念仏供養阿弥陀一尊種子板碑は、昭和五十八年(1983年)十二月に足立区登録有形文化財となっている。
- ポイント3.古千谷氷川神社
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足立区を北西に貫く赤山街道は、元は綾瀬小菅御殿から旧赤山城(現在の埼玉県川口市)へと続く街道でした。赤山街道沿いには氷川神社が殊の外多く、合計20社ほどあり、古千谷氷川神社もそのうちの一社です。古千谷氷川神社は赤山街道の古千谷橋近くの古千谷最高部に位置し、村が一望できました。かつては80mほどの長い参道があり、鳥居は参道入口にありました。古千谷氷川神社の創建年代は不明ですが、古千谷村が開かれた際に創建され、古千谷の鎮守社でした。祭神は須佐之男命で、境内社として北野神社と諏訪神社を祀っています。明治七年に村社に列格しました。
境内社に菅原神社があります。菅原神社は北野天満宮から御霊分けをした神社です。諏訪神社は見当たりませんでした。
力石が奉納されています。60貫目は225kgに相当します。バーベルなら持ち上げられるかもしれませんが、丸い石は手がかりがなく大変だったでしょう。
古千谷橋交差点に着きました。古千谷は「こぢや」と読みます。古千谷という地名は、舎人地域の東(コチ)に位置していたことに由来します。かっては見沼代用水の水路に古千谷橋が架かっていたのでしょうけど、今は橋の痕跡を示すものは何もなく、交差点の名前に残っているだけです。
古千谷橋交差点は赤山街道に面しています。人家が殆どなかった江戸時代には、古千谷氷川神社も街道から眺められたことでしょう。
- ポイント4.見沼代親水公園
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江戸時代初期には利根川と荒川は現在の越谷付近で合流していて、氾濫を繰り返していました。この両川を引き離し、その跡を一大水田地帯にする大土木事業が行われました。利根川は文禄二年(1594年)から60年をかけて流れを少しずつ東に移していく工事が行われました。これを利根川東遷といいます。この工事により、それまで東京湾に流れ込んでいた利根川は銚子で太平洋に注ぐようになりました。荒川は寛永六年(1629年)に熊谷の久下で元荒川を締め切り、流れを西に移して入間川と隅田川を通じて江戸湾に注ぐ流路に変えられました。これを荒川西遷といいます。これらの工事によって、大河川が遠のいた跡の池沼地帯では耕地を広げるために池沼の水を排水する落川や農業用水を貯めておく溜井が幾つも造成されました。これらの大土木事業を行ったのは、伊奈備前守忠次を始めとする伊奈一族です。忠次の次男半十郎忠治は、荒川を付け替えた同年に現在のさいたま市東部に広がっていた見沼の東岸と西岸が最も近づく附島(緑区)と木曽呂(川口市)の間に約8町の長さから「 八丁堤」と呼ばれる堤を築き、見沼へ流れ込む水を貯留しました。これが、「見沼溜井」です。見沼溜井から水を引く「見沼用水」のお陰で周辺の新田開発が進みました。しかし次第に見沼溜井だけでは水が不足するようになりました。その後享保十二年(1727年)に徳川吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛為永が新たに利根川から用水を引き、見沼溜井は干拓して新田開発し、排水路として中落悪水路(現芝川)を掘削する工事を行いました。見沼たんぼの誕生です。利根川から引かれた水は、見沼に代わる用水なので「見沼代用水」と呼ばれました。見沼代用水は、取水口の利根川から見沼まで全長60kmで、そこからかつての見沼用水に繋げましたので、末端は現在の東京都足立区までの84.5kmにも及びました。その見沼用水路跡の足立区内に昭和五十九年(1984年)3月に憩いの場として誕生したのが見沼代親水公園です。
(注)悪水路とは、主に農業排水や生活排水を流すために作られた水路のことです。一般的な河川とは異なり、主に余分な水を排出する役割を担っています。
見沼代親水公園は、20年程前に「歴史と文化の散歩道」と「武蔵野の路」でも訪れました。案内板の保存状態がいいですね。地元の方々の民度の高さが見て取れます。
今回のコースには、見沼代親水公園と神領掘親水緑道が含まれています。
遊歩道には休息所も設けられています。晩秋には鴨もやってきます。
見沼代親水公園の中程に休息所があります。畳敷きの休息所は初めて見ました。
「せせらぎゾーン」には、じゃぶじゃぶ池があります。じゃぶじゃぶ池は半円型のプールで、底面には沢山のリスが描かれています。斜面から水が流れてくる仕組みになっていて、子ども達に大人気です。親水水路が隣接しているため、プールで遊んだ後は生物観察もできます。
以前は、ここは水車池公園と呼ばれ、水車池はじゃぶじゃぶ池の向かいの岩山の下にありました。
いつの頃か分かりませんが(多分、じゃぶじゃぶ池が出来た頃?)、水車は撤去され、現在は埋め立てられて更地になっています。
かつて、農業用水として足立区の農業を支えていた見沼用水は、その役割を終えた後、昭和五十九年4月に憩いの場としての親水公園となりました。親水路の長さは、約1、700mあり、水路沿いに約70本の桜の木が植えられました。
公園から少し離れた住宅地の中に西門寺があります。
西門寺
当寺は浄土宗で、菩提山龍宝院西門寺と号す。本尊は阿弥陀如来である。草創は南北朝時代の永和三年(1377年)。開山は三蓮社宝誉上人脱然大和尚で応永九年(1402年)に寂した。以来、舎人の中心寺院として六百年にわたる法燈を受け継いできた古刹である。当寺には、鎌倉時代から戦国時代の板碑四基(足立区登録有形文化財)をはじめ、元禄十五年(1702年)銘の庚申塔(足立区登録有形民俗文化財)などの石造物が多く保存されている。また、延宝五年(1677年)銘の阿弥陀如来像や天保年間(1830年〜1844年)の脇侍仏、万延元年(1860年)の薬師如来と眷属十二神将像などの古仏を安置している。「徳川実記」には、二代将軍秀忠や三代将軍家光が舎人へ鷹狩に訪れたと記録されており、当寺も徳川将軍家とのゆかりが深く、三代将軍家光の位牌が伝わっている。また、山門は立派な赤門で、赤門は徳川家と関係の深い寺しか建てることのできなかったものである。元禄十三年(1700年)鋳造の西間寺半鐘は、江戸神田の鋳物師小沼播磨守が鋳造したもので、江戸時代の形式を良く伝えている。この半鐘は戦時中に供出され、その後行方不明となっていたが、幸運にも西門寺に復帰し、足立区登録有形文化財となった。
注記:眷属十二神将とは、薬師如来が従える12人の武装した守護神。
西門寺の半鐘は、戦争中に供出されましたが、溶解を免れ、多くの人の手を経て、新潟県糸魚川の善導寺に保存されていました。その後、文化財調査が縁で昭和四十四年(1969年)に西門寺に返還されたという数奇な運命を秘めています。
見沼代親水公園の広場には遊具も設置されています。
広場に面して、小さな神社が建っています。
舎人諏訪神社には、かって夫婦杉と呼ばれた2本の杉の木がありましたが、見沼代用水を開削した際に2本の杉の間に溝を通したため、土地の人達は祟りを畏れ、婚礼の時は前を通らないようにしたという伝説があります。
天保七年(1836年)に建てられた本殿は、立川重蔵の作で、江戸末期の神社建築の作風を表しています。本堂は建屋に保存されています。
舎人諏訪神社本殿
舎人諏訪神社の由来は詳らかでない。しかし、本殿は、内部に残る棟札によって、天保七年(1836年)十一月、立川重蔵を棟梁として建立されたことが判明している。一間社、流造千鳥破風付、向拝正面に軒唐破風がつく社殿形式で、屋根は総(こけら)葺である。現在は覆舎によって囲われている。本殿の特徴は、壁などに彫られた見事な彫刻で、龍や獅子、牡丹などが彫られている。本社の近隣にある舎人氷川神社(舎人5−21−34)も同様に見事な彫剣が施されており、これらの彫刻は、宿場町として栄えた舎人地域の経済的・文化的豊かさを示している。当社は伝説の多い神社であり、特に毛長姫の伝説が有名である。毛長姫は新里村(埼玉県草加市)から舎人に嫁いできたが、姑との折り合いが悪く、現在の毛長川に身投げをしたといい、女神として毛長神社(埼玉県草加市)に祀られている。一方、当社は夫を男神として祀っているとされ、鳥居が毛長神社の方を向いて建っている。夫婦の霊を慰めるためと伝わる。平成二年(1990年)一月、足立区登録有形文化財(建造物)となった。
見事な彫刻が施されています。
公園の終端に着きました。
- ポイント5.見沼代親水公園駅
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見沼代親水公園駅は、2008年に開業した都営日暮里・舎人ライナーの終着駅(始発駅)です。足立区と東京23区内の最北端の駅で、東京都交通局が管理する駅の中でも最北端に位置しています。駅名は、駅の北側にある見沼代親水公園から名付けられました。「見沼」は、かって埼玉県さいたま市と川口市にあった沼です。駅や公園の所在地は「舎人」であり、駅名を決める際に足立区が行った公募では、1位が482票の「舎人駅」で、2位の「見沼代親水公園」駅は156票と大差がつきました。しかし、足立区の指針として、同公園を「快適な居住環境をつくる重要な施設」と位置付けていることを踏まえ、区は「見沼代親水公園駅」を推薦順位第1位とし、2006年11月13日に正式決定しました。見沼代親水公園駅は、島式ホーム1面2線を有する高架駅で、車両基地のある舎人公園駅との間に、出入庫を兼ねた区間列車(営業列車)と回送列車が設定されています。
日暮里・舎人ライナーは東京都交通局が運行していることもあり、終点の見沼代親水公園駅で軌道が途切れています。埼玉県まで延びていないものの、一応は延伸も視野に入れた形になっています。見沼代親水公園駅から都道58号線を北へ約350m歩くと、埼玉県草加市になりますので、駅は都内にありますが、埼玉県民の利用者が多いのも事実です。しかし、現状では東京都による埼玉県への延伸計画はありません。
尾久橋通りを渡ると、見沼代親水公園は左にカーブしながら延びています。
この区間は水生植物園ゾーンになります。
水生植物園ゾーンに植えられている水草
- ハナショウブ アヤメ科
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Iris ensata Thurb, var hortensis Mak, et Nemoto.
ノハナショウブを日本で改良した園芸品(種)で、多くの品種がある。ここに植えられているものは、イタコ、シオサイ、オトメユメ、ハクチョウ等である。
- カキツバタ アヤメ科
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Iris laevigata Fischer.
水湿地に生える多年草。5〜6月頃先に青紫色(稀に白色)で、径12cm内外の花を次々と2〜3個つける。
〔分布〕温帯:北海道〜九州・朝鮮・東シベリア
- セキショウ サトイモ科
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Acorus gramineus Soland.
林中の小川に沿って生える多年草。花期は3〜5月。
〔分布〕温帯、暖帯:本州〜九州.ヒマラヤ
- クロモ トチカガミ科
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Hydrilla verticillata Casp. (L.f.) Casp.
池や沼や流水中に生える多年草。花は8〜9月。水面に浮かんで開花する。
〔分布〕温帯−熱帯:北海道(稀)〜九州.マレーシア、オーストラリア、マダガスカル、ヨーロッパ(稀)
- ヒツジグサ スイレン科
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Nymphaea tetragona Georgi
池や沼に生える多年草。花は6〜9月。長柄の頂に花をつけ、夜間は閉じる。
〔分布〕温帯。暖帯:北海道〜九州・ シベリア、ヨーロッパ、中国、インド北部
- トクサ トクサ科
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Equisetum hiemal
やや涼しい地方の山間谷川辺に自生し、また観賞用として植えられている多年生草本。
〔分布〕本州、中部以北.
- セキショウモ トチカガミ科
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Vallisneria asiatica Miki
淡水中に生育する多年草。花は8〜10月。雌雄異種。雌花は花茎が細長く、水上に浮かべる。雄花は円錐状の花床につき、水上に浮かぶ。
〔分布〕温帯−熱帯:北海道〜九州。東亜?
- ミズオオバコ トチカガミ科
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Ottelia japonica Miquel
沼や溝中等に沈水してはえる一年生無茎草本。花は8〜10月。両性。
〔分布〕温帯。暖帯:本州〜九州。
水路は途中で地下に潜り、遊歩道が終端まで延びています。
- ポイント6.神領堀親水緑道
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見沼代親水公園の終端から左手に神領掘親水緑道が始まります。
神領堀は、足立区北西部の舎人五丁目の見沼代用水から分岐し、南西部の江北二丁目まで全長6kmの水路でした。このうち環七以南の約1.1kmが平成十五年から平成二十五年までの10年間をかけて整備され、神領堀緑道となりました。平成二十一年〜二十二年にはふるさと桜のオーナーを募集し、神領堀沿いに里桜が植樹されました。桜の季節は江北地域学習センター脇から荒川土手までの緑道で様々な里桜を楽しむことができます。
神領堀親水緑道
- 御神領堀
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御神領堀は綾瀬川から西の足立区域を潤した見沼代用水支流の用水です。江戸時代には流域の伊興・鹿浜・加賀皿沼・堀内・沼田・高野・舎人などの村々によって用水組合が作られ、地域の人々によって管理・運営された歴史的に重要な用水です。
緑道自体は真っ直ぐですが、蛇行した水路が設けられ、見た目に変化を感じさせるように工夫されています。
緑道はダスキン入谷支店の手前で終端となります。
ダスキン入谷支店の角で右折し、入谷大橋通りを進みます。道路の脇から長く延びた参道の先に立派な石造りの鳥居が建っています。入谷氷川神社の創建年代は不明ですが、豊臣秀吉の関東攻めの際に白幡を立てたことから白幡八幡と呼ばれるようになったといわれ、戦国時代後期には八幡社であったことが分かります。江戸幕府昌平坂学問所が編纂した「新編武蔵風土記稿」にも、「八幡社」という神社が既にあったとされています。明治七年(1874年)に舎人の氷川神社から須佐之男命を分祀し、「氷川神社」に改称しました。
入谷氷川神社は入谷村の鎮守で、「入谷古墳」という古墳の上に建てられています。境内には、足立区が建てた「入谷古墳跡」の碑があります。
史跡 入谷古墳跡(入谷氷川神社)
入谷古墳については、文政五年(1822年)徳川幕府が各地の村などを調査して作成した「新編武蔵風土記」入谷村の記録に「八幡社 塚上ニアリ。土人白幡八幡卜称ス。古岩槻攻ノ時、当所二幡ヲ立シヨリ、カク称セリト云」とある。この地域は東京東部低地(足立区・葛飾区・江戸川区・北区・荒川区・墨田区)の北辺にあたり、足立区内でも最も早い時代(四世紀頃)に古代の人々の集団生活がはじまった場所の一つである。毛長川沿岸には舎人遺跡・伊興遺跡・花畑遺跡などの多くの古墳時代の遺跡が確認されており、これらの遺跡とともに多数の古墳が過去に存在したことが知られている。昭和四十九年、当地の区画整理事業に当り、予定ではこの塚の半分以上が削られるところであったが、地元住民の熱意によりこの塚が保存されることになった。入谷氷川神社氏子総代が中心となり、計画を変更し保存に協力したのである。現在、区内に残されている古墳は東伊興の白旗塚古墳一基のみとなってしまっている。古墳の可能性の高いこの塚が保存されることは、きわめて有意義なことである。
中保
参道の脇に庚申塔を祀った祠が建っています。
庚申さまについて
この塔は庚申塔と言います。庚申供養のため庚申講の人達により建てられました。六手の青面金剛像と鬼や三猿等が彫られています。庚申信仰は、中国から伝わってきた道教信仰で、十干十二支の庚申(かのえさる)の日に行われ、初めは宮中や貴族の信仰でしたが、その後は武士階級に広がり、江戸時代になると民間にも庚申信仰が広がりました。初めは信仰行事でしたが、娯楽が少ない時代のため集会や親睦となり、村人が結衆するための講中が作られ、六十日ごとの庚申の日に講が行われ、講員が一巡し結衆の証として庚申塔を建立しました。庚申塔は、村の入口付近にあるため道祖神や道しるべの役目もあり、疫病や泥棒除けとも言われました。特に、庚申さまの付近では、不思議に子供が事故から救われる事が多かったので、何時の頃からか子守り庚申さま・子育て庚申さまと呼ばれるようになり、村人から厚い信仰を受けるようになりました。
この塔の右側 入谷村講中三十八人
左側 享保十七壬子年十月吉日(1732年)
以前は神領堀から仲郷堀に分岐する入谷町四三五番地先の新井橋にありました。昭和五十七年十月、東京都の区画整理事業により当地に移設されました。平成十八年、足立区登録有形文化財(民俗資料)になりました。
拝殿前の階段の脇に黄色く色づいた銀杏の大木が聳えています。
足立区指定 保存樹林 第20号
入谷氷川神社の樹林は、昭和三十五年ごろまで一面田畑の広がる風景でした。現在は住宅街の中にあって緑の砦となっています。新緑、緑陰、木々がゆする木枯らしの風情も感じられます。この景観を末永く守り続け、歴史を刻んでいきたいと思います。
狛犬の後方には何故か招き猫が。
- ポイント7.入谷中央公園
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入谷三丁目交差点を右折した先に入谷中央公園があります。足立区役所では、古くなった公園の再整備に際し、単独の公園だけで考えるのではなく、エリアごとの公園を見渡して近い距離の公園同士で似たような施設ばかりにならないように公園ごとにテーマを持たせるようにしています。こうすることで、エリア全体に個性ある公園が散らばって存在できるような「パークイノベーション」という取り組みを進めています。入谷中央公園は、このエリアでは大きな公園として、賑わいと安らぎの役割を担う「5つの広場とグランドの公園」として位置付けられています。入谷中央公園は、大きな滑り台と広いグラウンドのある公園です。面積16、517平方メートルの広々とした敷地内には、多目的グラウンドと遊具広場が設けられています。子ども達が思い切り走りまわったり、キャッチボールやサッカーなどのボール遊びをして楽しむことができます。
入谷中央公園
5つの広場とグランドの公園〜にぎわい・やすらぎ〜
イカをモチーフにした遊具のある広場、子ども広場、日時計のある太陽の広場、風向計のある風の広場、健康遊具のある自由広場、お好きな広場を見つけてください。
遊具広場には昔懐かしい感じのコンクリートのコンビネーション遊具の他に、すべり台・ジャングルジム・ブランコなども設けられています。また、入谷町内会の盆踊り会場にも使用されています。
「子ども広場」が隣り合った「イカをモチーフにした遊具のある広場」には、イカを題材にしたコンクリート製の滑り台が設置されています。どう見ても只の動物の骨にしか見えませんが。
「日時計のある太陽の広場」にある日時計は、凹面形状をしていて、影を落とすグノモンが2つあり、午前・午後で使わけるという特殊タイプです。
区画整理事業の記念彫像「家族」があります。区画整理事業の記念には巨大な石碑が建てられることが一般的ですが、家族像をモチーフにしているのは珍しいですね。
首都高川口線の高架下を通る都道239号線に出ます。ジュピターコーヒー(株)は、昭和四十六年(1971年)5月に創業し、「ジュピター」の店舗名でコーヒー豆を主力に、輸入食品・菓子・調理済食品・酒類などを販売し、リーズナブルな価格設定で顧客獲得につなげてきました。しかし、コーヒー豆相場や食品価格の高騰により、2026年1月に閉店となりました。他にはない珍しい輸入植品が揃っていたのに残念です。
- ポイント8.鳩ケ谷街道
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都道239号線は入谷七丁目交差点で鳩ケ谷街道を分岐し、鹿浜方向に向きを変えます。鳩ヶ谷街道は、足立区江北の荒川沿いの高速川口線が上を通る都道107号線の江北氷川神社前交差点から足立区入谷の埼玉県境に至る延長4kmの南北方向の都道です。環七通りの南側は往復1車線の一方通行路で、高速川口線が上を通る都道239号線との重複区間は6車線、その前後は2車線の道路です。鳩ヶ谷街道の道路名は、足立区が平成四年(1992年)の足立区制60周年記念で愛称として定め、平成二十六年(2014年)に東京都の通称道路名になりました。
- ポイント9.コナカ
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コナカは、青森県から静岡県までの東日本エリアに出店し、紳士服量販店「紳士服コナカ」などを展開する企業です。最近は業務レンタカーモ行なっているようです。
- ポイント10.イイダ
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コナカの角の交差点で鳩ヶ谷街道から別れ、谷在家公園に向かいます。公園の手前にコモディイイダのお店があります。2022年に訪れた時は店舗は建て直し中で、工事用の仕切りに囲まれていましたが、2025年に再訪した時は真新しい建物になっていました。
- ポイント11.谷在家公園
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谷在家公園の広大な敷地には、砂地の広場に芝生エリアや遊具エリアと遊ぶところが盛りだくさんです。園内をぐるりと一周できる遊歩道を通って散歩をすると周りの自然に癒されます。春には見事な桜が見られ、ベンチでお花見を楽しむ人の姿も見られます。遊具はすべり台・ブランコ・砂場と定番のものが揃っています。
ちなみに、「谷在家」の地名の由来には諸説あり定かでありませんが、一説によれば、この地域はかつて存在していた「谷田川」の流路跡の「谷」に開拓期に植民した人々が家を構え(在家)、このことが発端となり「谷在家」の地名が付けられたといわれています。
公園の東側の端に記念碑が建っています。
完成記念碑
谷在家町土地区画整理組合地域は谷在家町の大部分と、西新井町・上沼田町・北鹿浜町押部・北堀之内町・北宮城町・高野町の各一部を包含した面積約五拾八萬平方米より成る。古くより農事を業として来た静かなこの村落を昭和弐拾年終戦後の急激な人口の流人で雑然とした住宅地に変りはじめ、土地区画整理法にもとづく市街地形成は時代の要求する急務であつた。すゝんでその任に当るべく地区有志は相諮って準備委員会を結成し、昭和参拾九年貳月拾壹日設立認可を得て当組合は発足した。以来幾多の困難に遭いながらも、関係官公庁の指導、組合員及び役員の和合と努力と忍耐によってこれを克服し今日の完成となった。こゝに将来の発展を希い、碑石に刻して後世に伝える。
公園の広場は、雨水の貯留と浸透の機能を持っています。
雨水貯留・浸透施設
公園に降った雨水が、すぐに外の道路に出て、水害を引き起こすことがないように、この公園には、図のような施設があります。雨水は、まず透水管で地下に浸み込ま
せます。浸み込まなかった残りの水は、一時的に自由広場の中に貯めて、その後ゆっくりと公園の外に出るようになっています。このような理由で、強い雨の後、公園内に水が貯まっていて、御不便をおかけすることがあります。水害防止のためですので、御理解をお願いします。
谷在家公園から北足立市場北交差点まで長〜〜〜く延びる江北北部緑道公園に入ります。
公園内に遊具などはありませんが、約1キロメートルにわたり、10種類・200本の桜が植えられています。このうち約100本は晩秋に咲く桜のひとつの「十月桜」という品種で、秋から春にかけて、断続的に開花します。十月桜は春と秋に開花する珍しい桜として、地域の人たちによって大切に見守られています。十月桜の他、春に咲くソメイヨシノやカンザンなどの品種も植えられていて、春は4月中旬頃まで花を楽しめます。
江北北部緑道公園の一部は谷在家北公園になっています。谷在家北公園は、足立区立鹿浜第一小学校に近接する区立の公園です。江北北部土地区画整理事業によって公園が整備されました。面積2062平方メートルの敷地内には、数多くのサクラが植栽されています。例年3月下旬から4月上旬のシーズンには、公園は一面サクラ色に彩られます。地域の代表的なお花見スポットとして、満開のときには大勢の花見客で賑わいます。
谷在家北公園
この公園は、江北北部土地区画整理組合事業として組合員の土地提供により造成したものである。谷在家地域の北に位置するところから、谷在家北公園と銘名す。
緑道の左手に、皿沼小学校があります。この辺り一帯の地名「皿沼」ですが、「皿」は開墾地や乾地を意味し、「沼」は沼沢地や湿地帯を指します。このことから、皿沼は開墾された沼地や湿地帯であったと考えられます。
皿沼公園は皿沼小学校に隣接し、面積は6、234平方メートルあります。緑の芝生の広場が整備され、周囲には樹や花が植えられています。広場を囲むように、すべり台やブランコ・コンビネーション遊具などの様々な遊具が点在し、どの遊具もカラフルな色彩をしていて、子ども達が元気に遊んでいます。
公園の隅に巨大な石碑が建っています。
皿沼公園
この公園は、江北北部土地区画整理組合事業として、組合員の土地提供により造成したものである。此の地が施工地域のほぼ中央に位置するので、事業完成記念碑を建立する。なお、皿沼町の地名をとり、皿沼公園と銘名す。
公園の北側の奥にも、厳重な囲いの中に巨大な碑が建っています。石碑の上に並べられた丸い球には意味があります。
江北北部土地区画整理事業完成記念碑
- 二十一世紀へ
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昭和二十年戦後、四十数年ほどの激動期はそれ以前の日本の数百年あるいは、見方によっては、有史以来の転変ぶりに匹敵するのではないか。現代はものすごいスピードで疾走する、ジェットコースターに乗って居る様なものだ。総てが目まぐるしく変っていくので実体を正確につかむことは、むずかしい。近頃の一年は、かっての十年、いや百年に匹敵するかも知れない。この地域においても、明治の廃藩置県以来百年、明治四十三年の大水害、大正十二年の関東大震災、更には悲惨な太平洋戦争等で、打ちのめされても、打ちのめされても立ち上がったので、水田地帯は変らず、又交通機関は、東武鉄道、鳩ヶ谷街道に、バスが一時間間隔に走る東京の孤島と言われる処であった。メダカ、フナを追った小川、稲穂波打つ水田、貧しくとも平和な農村地帯に、昭和三十年代より、都市化の波がハイスピードで押し寄せ、スプロール化が目立った。これを見かねた押部、加賀、皿沼、谷在家各地域の先駆者が相寄り、郷土の開発と、住民の明と豊を考えた時、街造りの基幹である区画整理以外にないとの結論に達し、一致協力し、日夜東西奔走して住民の協力を得て、江北北部土地区画整理組合を発足した。此処に四半世紀の間、云ひ知れぬ心血を注ぎ難関を突破し、強固な団結と不屈の精神により、事業の完成を見た。顧り見れば事業中半にして他界された幾多の同志の意志を継ぎ、スプロール化を防ぎ住む人を尊重する環境が整備された。二十一世紀へ先導的役割を果したと確信する。江北北部地区が永遠の生涯と希望に輝く街たらんことを念願して人の球(和)を入れ、記念碑を建立する。尚、組合役員、評価員、総代及び貢献者の氏名を記して後生に伝えるものである。
記念碑の左手には関係者の氏名を記した石碑、右手には区画整理の対象となった地域の図を記した石碑が建っています。総面積は、152.06ヘクタールに及んでいます。ちなみに、1ヘクタールは10、000平方メートルに相当し、これは100mX100mの正方形の面積と同じです。身近な例では、東京ドームの約2.1個分に匹敵する広さです。つまり、東京ドームが320個収まる計算になります。
北足立市場の手前で右折します。北足立市場は、青果物と花き部を併設した東京都中央卸売市場のひとつで、足立区北東部における青果及び花き流通の拠点市場となっています。首都高速川口線「足立入谷」インターから近く、日暮里・舎人ライナー「舎人公園」駅からも徒歩10分とアクセス良好な市場です。毎年秋には「市場まつり」が開催され多くの人々で賑わいます。青果部は、千住にある足立市場の取扱量増加に伴う狭隘化を解消するため、青果部のみを移設する形で昭和五十四年9月17日に開場しました。花き部は、周辺の花き地方卸売市場5市場を統合し、昭和六十三年4月25日に東京都中央卸売市場としては初の花き部として開場しました。市場内には巨大な倉庫が並んでいます。
- ポイント12.舎人公園
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舎人公園に戻ってきました。公園の西側敷地(D地区)の広場の奥に、アメリカ合衆国のナンシー・レーガン元大統領夫人から贈られた「レーガン桜」が植えられています。
レーガン桜は、昭和五十六年(1981年)にアメリカ合衆国のナンシー・レーガン元大統領夫人から日米親善の印として日本に贈られたソメイヨシノです。翌年11月に舎人公園に植えられました。明治時代、足立区を流れる荒川の土手に様々な品種のサクラの苗が植えられ、「荒川堤の桜」や「江北の五色桜」と呼ばれる名所となりました。アメリカ合衆国では、紀行作家のエリザ・R・シドモア女史の作品などをきっかけに、日本のサクラの人気が高まり、明治四十五年(1912年)に当時の東京市から3、000本のサクラが贈られ、首都ワシントンのポトマック公園に植えられました。この時のサクラの穂木は、荒川土手のサクラから採取されました。また当時のヘレン・タフト大統領夫人がその中から1本のソメイヨシノを植え、「タフト桜」と名づけられました。その後、荒川土手のサクラは工場の煙害や荒川放水路の工事の影
響などによって衰退し、第二次世界大戦後の燃料難の時代に全て切られてしまいました。足立区では、区政施行50年の記念事業のひとつとして、ワシントンのサクラの里帰りを計画しました。昭和五十六年(1981年)にポトマック公園において3、000本の穂木を採取し、日本に運びました。そしてこれらのサクラと共に、かつてタフト大統領夫人が植えた「タフト桜」の枝から穂木を取った苗がレーガン元大統領夫人から贈られ、「レーガン桜」と名付けられました。
区制50周年記念レーガン桜の植樹について
レーガン桜は、昭和五十六年2月、日米友好の証として、アメリカ合衆国第40代大統領ロナルド・レーガン氏の妻、ナンシー・レーガン夫人から贈られたものです。これには次のいきさつがあります。現在の足立区江北の一帯は、昔「荒川の五色桜」と呼ばれた里桜の名所でした。明治四十五年、当時の東京市長尾崎行雄は、日本の桜の美しさに深い関心を寄せる米国民の要望にこたえ、日米友好の証として、12種3000本の五色桜の苗木を、首都ワシントンに贈りました。桜はホワイトハウスに近いポトマック河畔の公園に植えられることになり、植樹祭では、第27代大統領ウィリアム・タフト氏の妻、ヘレン・タフト夫人が、最初の1本を植樹しました。その後ポトマック公園は、桜を愛する米国の人々の努力により、世界的な桜の名所となり、贈った桜のうち700本あまりは、 桜植樹70周年記念祭にも美しく花を咲かせました。一方親元の五色桜は堤防工事や公害の影響で、残念なことに衰退してしまいました。足立区では昭和五十六年に、区制50周年記念事業として、「五色桜」を復活させるための「桜の里帰り」を企画したところ、ワシントン国立樹木園から3000本の接木用の枝の贈答があり、ポトマック河畔からの「桜の里帰り」が実現しました。同年、足立区民の桜を愛する心に感動したナンシー・レーガン大統領夫人から贈られた桜がレーガン桜です。レーガン桜は、タフト桜の枝を挿木した、いわばアメリカ生れの二世の桜で、品種はソメイヨシノです。名付親の鈴木都知事と育ての親の古性足立区長により、ここ舎人公園の地に定植されました。
案内板の後の中央の木がレーガン桜です。
桜植樹記念碑は柵内にあって碑文は読み取れませんが、次のような内容だそうです。
レーガン桜
日米両国の友好をしるした「レーガン桜」は、明治末頃、江北の荒川堤に咲き誇った五色桜に由来する。明治四十五年、尾崎東京市長は、五色桜をワシントンに贈った。時のタフト大統領夫人は、その桜をポトマック河畔にお手植えし、その後同河畔は桜の世界的名所となった。昭和五十六年2月、足立区は桜の名所復活を願い、桜の里帰りを実現させた。同年、桜を愛する心に感動されたレーガン大統領夫人は、「タフト桜」からのさし木苗を日本国民に贈られた。この桜を東京都知事鈴木俊一は「レーガン桜」と命名し、足立区長古性直と共に、区制50周年を記念してこの地に植樹した。
THE REAGAN SAKURA
THIS TREE NAMED REAGAN SAKURA BY GOVERNOR SUZUKI OF TOKYO WAS PRESENTED TO THE JAPANESE PEOPLE BY THE FIRST LADY NANCY REAGAN AS A GIFT OF FRIENDSHIP IN 1981.
IT WAS A ROOTED CUTTING FROM THE TREE SENT TO THE CITY OF WASHINGTON IN 1912 BY THE THEN MAYOR OZAKI OF TOKYO AND PLANTED IN POTMAC PARK BY THE THEN FIRST LADY HELEN TAFT. GOVERNOR SUZUKI AND MAYOR FURUSHO OF THE ADACHI WARD PLANTED IT ON THIS SITE TO COMMEMORATE THE 30TH ANNIVERSARY OF THE WARD.
ゴール地点の舎人公園駅西口に着きました。
ということで、足立区で十三番目のコースとなる「A−北西エリア 13.舎人公園1周コース2」を歩き終えました。次は足立区で十四番目のコースとなる「A−北西エリア 14.赤山街道コース」を歩きます。
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