- A−北西エリア 16.舎人公園から岩淵水門コース
- コース 踏破記
- 今日は足立区の「A−北西エリア 16.舎人公園から岩淵水門コース」を歩きます。最初に歩いたのは2022年8月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年12月に改めて歩きました。
スタート地点:舎人公園駅西口
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1.舎人公園
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2.江北北部緑道
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3.皿沼公園
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4.谷在家公園
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5.鳩ケ谷街道
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6.神領堀緑道
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7.堀之内公園
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8.あだち五色桜の散歩道
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9.鹿浜橋(江北橋は誤り)
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10.荒川土手右岸
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11.岩淵水門
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12.旧岩淵水門広場
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ゴール地点:赤羽岩淵駅出入口1
スタート地点の舎人公園駅西口から歩き始めます。
- ポイント1.舎人公園
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舎人公園は、公園中央で十字に交わる道路(尾久橋通り・舎人公園通り)で4区画に分けられています。西側敷地(A・D地区)に陸上競技場(3種公認)・テニスコート・野球場などのスポーツ施設、東側(B・C地区)には水鳥が見られる大池や親水広場などの自然と親しむスペースやキャンプ場が設けられています。また、南東部にはバードサンクチュアリの施設もあります。バードサンクチュアリーとは、野鳥たちだけの住処で、巣作りに適したガマやアシ、そして雑木林などの環境管理を行ない、観察舎からは様々な野鳥たちを観察できる施設です。公園の面積は、東京ドーム約14個分の64.96ヘクタールで、23区内の都立公園としては3番目の規模(1位:水元公園、2位葛西臨海公園)になっています。
マップを左に90度回転すると上が北方向になります。
黄色に色づいた銀杏の並木道を抜けた左手の広場の奥に、アメリカ合衆国のナンシー・レーガン元大統領夫人から贈られた「レーガン桜」が植えられています。
レーガン桜は、昭和五十六年(1981年)にアメリカ合衆国のナンシー・レーガン元大統領夫人から日米親善の印として日本に贈られたソメイヨシノです。翌年11月に舎人公園に植えられました。明治時代、足立区を流れる荒川の土手に様々な品種のサクラの苗が植えられ、「荒川堤の桜」や「江北の五色桜」と呼ばれる名所となりました。アメリカ合衆国では、紀行作家のエリザ・R・シドモア女史の作品などをきっかけに、日本のサクラの人気が高まり、明治四十五年(1912年)に当時の東京市から3、000本のサクラが贈られ、首都ワシントンのポトマック公園に植えられました。この時のサクラの穂木は、荒川土手のサクラから採取されました。また当時のヘレン・タフト大統領夫人がその中から1本のソメイヨシノを植え、「タフト桜」と名づけられました。その後、荒川土手のサクラは工場の煙害や荒川放水路の工事の影
響などによって衰退し、第二次世界大戦後の燃料難の時代に全て切られてしまいました。足立区では、区政施行50年の記念事業のひとつとして、ワシントンのサクラの里帰りを計画しました。昭和五十六年(1981年)にポトマック公園において3、000本の穂木を採取し、日本に運びました。そしてこれらのサクラと共に、かつてタフト大統領夫人が植えた「タフト桜」の枝から穂木を取った苗がレーガン元大統領夫人から贈られ、「レーガン桜」と名付けられました。
区制50周年記念レーガン桜の植樹について
レーガン桜は、昭和五十六年2月、日米友好の証として、アメリカ合衆国第40代大統領ロナルド・レーガン氏の妻、ナンシー・レーガン夫人から贈られたものです。これには次のいきさつがあります。現在の足立区江北の一帯は、昔「荒川の五色桜」と呼ばれた里桜の名所でした。明治四十五年、当時の東京市長尾崎行雄は、日本の桜の美しさに深い関心を寄せる米国民の要望にこたえ、日米友好の証として、12種3000本の五色桜の苗木を、首都ワシントンに贈りました。桜はホワイトハウスに近いポトマック河畔の公園に植えられることになり、植樹祭では、第27代大統領ウィリアム・タフト氏の妻、ヘレン・タフト夫人が、最初の1本を植樹しました。その後ポトマック公園は、桜を愛する米国の人々の努力により、世界的な桜の名所となり、贈った桜のうち700本あまりは、 桜植樹70周年記念祭にも美しく花を咲かせました。一方親元の五色桜は堤防工事や公害の影響で、残念なことに衰退してしまいました。足立区では昭和五十六年に、区制50周年記念事業として、「五色桜」を復活させるための「桜の里帰り」を企画したところ、ワシントン国立樹木園から3000本の接木用の枝の贈答があり、ポトマック河畔からの「桜の里帰り」が実現しました。同年、足立区民の桜を愛する心に感動したナンシー・レーガン大統領夫人から贈られた桜がレーガン桜です。レーガン桜は、タフト桜の枝を挿木した、いわばアメリカ生れの二世の桜で、品種はソメイヨシノです。名付親の鈴木都知事と育ての親の古性足立区長により、ここ舎人公園の地に定植されました。
案内板の後ろの中央の木がレーガン桜です。
桜植樹記念碑は柵内にあって碑文は読み取れませんが、次のような内容だそうです。
レーガン桜
日米両国の友好をしるした「レーガン桜」は、明治末頃、江北の荒川堤に咲き誇った五色桜に由来する。明治四十五年、尾崎東京市長は、五色桜をワシントンに贈った。時のタフト大統領夫人は、その桜をポトマック河畔にお手植えし、その後同河畔は桜の世界的名所となった。昭和五十六年2月、足立区は桜の名所復活を願い、桜の里帰りを実現させた。同年、桜を愛する心に感動されたレーガン大統領夫人は、「タフト桜」からのさし木苗を日本国民に贈られた。この桜を東京都知事鈴木俊一は「レーガン桜」と命名し、足立区長古性直と共に、区制50周年を記念してこの地に植樹した。
THE REAGAN SAKURA
THIS TREE NAMED REAGAN SAKURA BY GOVERNOR SUZUKI OF TOKYO WAS PRESENTED TO THE JAPANESE PEOPLE BY THE FIRST LADY NANCY REAGAN AS A GIFT OF FRIENDSHIP IN 1981.
IT WAS A ROOTED CUTTING FROM THE TREE SENT TO THE CITY OF WASHINGTON IN 1912 BY THE THEN MAYOR OZAKI OF TOKYO AND PLANTED IN POTMAC PARK BY THE THEN FIRST LADY HELEN TAFT. GOVERNOR SUZUKI AND MAYOR FURUSHO OF THE ADACHI WARD PLANTED IT ON THIS SITE TO COMMEMORATE THE 30TH ANNIVERSARY OF THE WARD.
- ポイント2.江北北部緑道
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舎人公園を出て、北足立市場北交差点から谷在家公園まで南北に連なる長〜〜〜い江北北部緑道公園に入ります。
ここも足立区のウオーキングコースになっています。
公園内に遊具などはありませんが、約1キロメートルにわたり、10種類・200本の桜が植えられています。
ワシントンからの「里帰り桜」
足立区江北の一帯は、昭和初期まで「荒川の五色桜」と呼ばれる桜の名所でした。様々な品種の桜が植えられていて、花の時期には、白や黄色、淡紅や濃紅色などに彩られ、五色の霞がたなびくように見えたところから。この名が付いたと言われています。明治四十五年、当時の東京市長、尾崎行雄は日米友好の証として「荒川の五色桜」の苗木十二品種三千本を、アメリカの首都ワシントンに贈りました。現在、市内のポトマック公園は、世界的な桜の名所となっています。しかし、本家の「荒川の五色桜」は堤防工事や戦争、公害等の影響で、残念ながら衰退してしまいました。足立区では「五色桜」を復活させるために、昭和五十六年二月、区政五十周年記念事業として、ポトマック公園の桜の枝三十五品種三千本の里帰りを実現しました。この枝から苗木を増やし、あわせて「荒川の五色桜」に由来する品種を集め、区内の公園や学校などに植えました。新しい桜の名所として「都市農業公園」や「荒川桜づつみ」などがうまれています。ここに植えられている桜は、これらの桜の一部です。貴重な、歴史的財産でもある「里帰り桜」を、招来にわたって大切に大きく守り育てていきましょう。
交差する道路で公園は何カ所も分断されていますが、公園には色々な花が植えられていて、「花の散歩路」になっています。
江北北部緑道公園には、約200本の桜の木が植えられていますが、このうち約100本は晩秋に咲く桜のひとつの「十月桜」という品種で、秋から春にかけて、断続的に開花します。十月桜は春と秋に開花する珍しい桜として、地域の人たちによって大切に見守られています。十月桜の他、春に咲くソメイヨシノやカンザンなどの品種も植えられていて、春は4月中旬頃まで花を楽しめます。
緑道の右手に、皿沼小学校があります。この辺り一帯の地名「皿沼」ですが、「皿」は開墾地や乾地を意味し、「沼」は沼沢地や湿地帯を指します。このことから、皿沼は開墾された沼地や湿地帯であったと考えられます。
- ポイント3.皿沼公園
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皿沼公園は皿沼小学校に隣接し、面積は6、234平方メートルあります。緑の芝生の広場が整備され、周囲には樹や花が植えられています。広場を囲むように、すべり台やブランコ・コンビネーション遊具などの様々な遊具が点在し、どの遊具もカラフルな色彩をしていて、子ども達が元気に遊んでいます。
公園の隅に巨大な石碑が建っています。
皿沼公園
この公園は、江北北部土地区画整理組合事業として、組合員の土地提供により造成したものである。此の地が施工地域のほぼ中央に位置するので、事業完成記念碑を建立する。なお、皿沼町の地名をとり、皿沼公園と銘名す。
公園の北側の奥にも、厳重な囲いの中に巨大な碑が建っています。石碑の上に並べられた丸い球には意味があります。
江北北部土地区画整理事業完成記念碑
- 二十一世紀へ
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昭和二十年戦後、四十数年ほどの激動期はそれ以前の日本の数百年あるいは、見方によっては、有史以来の転変ぶりに匹敵するのではないか。現代はものすごいスピードで疾走する、ジェットコースターに乗って居る様なものだ。総てが目まぐるしく変っていくので実体を正確につかむことは、むずかしい。近頃の一年は、かっての十年、いや百年に匹敵するかも知れない。この地域においても、明治の廃藩置県以来百年、明治四十三年の大水害、大正十二年の関東大震災、更には悲惨な太平洋戦争等で、打ちのめされても、打ちのめされても立ち上がったので、水田地帯は変らず、又交通機関は、東武鉄道、鳩ヶ谷街道に、バスが一時間間隔に走る東京の孤島と言われる処であった。メダカ、フナを追った小川、稲穂波打つ水田、貧しくとも平和な農村地帯に、昭和三十年代より、都市化の波がハイスピードで押し寄せ、スプロール化が目立った。これを見かねた押部、加賀、皿沼、谷在家各地域の先駆者が相寄り、郷土の開発と、住民の明と豊を考えた時、街造りの基幹である区画整理以外にないとの結論に達し、一致協力し、日夜東西奔走して住民の協力を得て、江北北部土地区画整理組合を発足した。此処に四半世紀の間、云ひ知れぬ心血を注ぎ難関を突破し、強固な団結と不屈の精神により、事業の完成を見た。顧り見れば事業中半にして他界された幾多の同志の意志を継ぎ、スプロール化を防ぎ住む人を尊重する環境が整備された。二十一世紀へ先導的役割を果したと確信する。江北北部地区が永遠の生涯と希望に輝く街たらんことを念願して人の球(和)を入れ、記念碑を建立する。尚、組合役員、評価員、総代及び貢献者の氏名を記して後生に伝えるものである。
記念碑の左手には関係者の氏名を記した石碑、右手には区画整理の対象となった地域の図を記した石碑が建っています。総面積は、152.06ヘクタールに及んでいます。ちなみに、1ヘクタールは10、000平方メートルに相当し、これは100mX100mの正方形の面積と同じです。身近な例では、東京ドームの約2.1個分に匹敵する広さです。つまり、東京ドームが320個収まる計算になります。
谷在家北公園は、足立区立鹿浜第一小学校に近接する区立の公園です。江北北部土地区画整理事業によって公園が整備されました。面積2062平方メートルの敷地内には、数多くのサクラが植栽されています。例年3月下旬から4月上旬のシーズンには、公園は一面サクラ色に彩られます。地域の代表的なお花見スポットとして、満開のときには大勢の花見客で賑わいます。
谷在家北公園
この公園は、江北北部土地区画整理組合事業として組合員の土地提供により造成したものである。谷在家地域の北に位置するところから、谷在家北公園と銘名す。
- ポイント4.谷在家公園
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谷在家公園の広大な敷地には、砂地の広場に芝生エリアや遊具エリアと遊ぶところが盛りだくさんです。園内をぐるりと一周できる遊歩道を通って散歩をすると周りの自然に癒されます。春には見事な桜が見られ、ベンチでお花見を楽しむ人の姿も見られます。遊具はすべり台・ブランコ・砂場と定番のものが揃っています。
ちなみに、「谷在家」の地名の由来には諸説あり定かでありませんが、一説によれば、この地域はかつて存在していた「谷田川」の流路跡の「谷」に開拓期に植民した人々が家を構え(在家)、このことが発端となり「谷在家」の地名が付けられたといわれています。
公園の東側の端に記念碑が建っています。
完成記念碑
谷在家町土地区画整理組合地域は谷在家町の大部分と、西新井町・上沼田町・北鹿浜町押部・北堀之内町・北宮城町・高野町の各一部を包含した面積約五拾八萬平方米より成る。古くより農事を業として来た静かなこの村落を昭和弐拾年終戦後の急激な人口の流人で雑然とした住宅地に変りはじめ、土地区画整理法にもとづく市街地形成は時代の要求する急務であつた。すゝんでその任に当るべく地区有志は相諮って準備委員会を結成し、昭和参拾九年貳月拾壹日設立認可を得て当組合は発足した。以来幾多の困難に遭いながらも、関係官公庁の指導、組合員及び役員の和合と努力と忍耐によってこれを克服し今日の完成となった。こゝに将来の発展を希い、碑石に刻して後世に伝える。
公園の広場は、雨水の貯留と浸透の機能を持っています。
雨水貯留・浸透施設
公園に降った雨水が、すぐに外の道路に出て、水害を引き起こすことがないように、この公園には、図のような施設があります。雨水は、まず透水管で地下に浸み込ま
せます。浸み込まなかった残りの水は、一時的に自由広場の中に貯めて、その後ゆっくりと公園の外に出るようになっています。このような理由で、強い雨の後、公園内に水が貯まっていて、御不便をおかけすることがあります。水害防止のためですので、御理解をお願いします。
谷在家公園から環七北通りに出ます。環七北通りに面して、鹿浜村小名押部の鎮守社として祀られていた押部八幡神社があります。祭神は譽田別尊で、寛延元年(1748年)に横田源右衛門政信という人物の発案で勧請されたと伝えられています。押部八幡神社には、明治四十一年(1908年)に鯨を生け捕りにした珍しい絵馬が残されています。その絵馬には「明治四十一年3月28日の午前7時頃、吉田勘治郎が船で下流に漕いでいたところ、千住大橋の上流の深瀬に水を吹き上げながら鯨が現れました。人を飲み込もうとする程に大口を開ける鯨に驚き、竹棹で格闘の末に生け捕りに成功し、千住大橋際に引き揚げられた鯨は長さ1丈9身6尺あったそうです。各新聞社も駆けつけ、5日間人々に見せた後に佃浜へと贈った」といった内容が記されていて、歴史を感じさせる貴重な絵馬です。この絵馬は、8月下旬に行われる祭礼日の際に社殿の扉が開かれ、その時に見ることができます。
環七通りを鹿浜四丁目交差点で左折して鳩ヶ谷通りに入ります。
鳩ヶ谷通りに面して、「和飲屋 ISHIZAKI」という看板が出ています。一見すると普通の酒屋さんのように思えるのですが、ワインも飲める角打ちお店だそうです。店内にはカウンター席とテーブル席があり、一人でもグループでも飲めるようになっています。お刺身や揚げ物や季節の一品料理など、店主の手料理による本格的なおつまみが頂けます。
- ポイント5.鳩ケ谷街道
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鳩ヶ谷街道は、足立区江北の荒川沿いの高速川口線が上を通る都道107号線の江北氷川神社前交差点から足立区入谷の埼玉県境に至る延長4kmの南北方向の都道です。環七通りの南側は往復1車線の一方通行路で、高速川口線が上を通る都道239号線との重複区間は6車線、その前後は2車線の道路です。鳩ヶ谷街道の道路名は、足立区が平成四年(1992年)の足立区制60周年記念で愛称として定め、平成二十六年(2014年)に東京都の通称道路名になりました。
鳩ヶ谷街道に面して、鹿浜五色桜小学校の真新しい校舎が建っています。鹿浜小学校は学区域内の就学児童数の増加が見込めず、更に、鹿浜小学校の最も古い校舎の耐用年数も迫っていたことを踏まえて、旧上沼田小学校と平成二十七年(2015年)4月に統合されました。鹿浜小学校の名前は消滅し、統合後の校名は「鹿浜五色桜小学校」となりました。統合された2校の内、鹿浜小学校の「鹿浜」は残りましたが、上沼田小学校の「上沼田」は残らず、代わりに「五色桜」が充てられました。鹿浜小学校の校舎は建て直され、旧上沼田小学校の仮校舎に間借りしていた児童は平成二十九年(2017年)4月1日に新校舎に移転しました。
椿一丁目交差点で環七と交差します。
- ポイント6.神領堀緑道
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交差点の直ぐ先から、鳩ヶ谷街道から分岐して南西方向に緑道が延びています。神領堀は、足立区北西部に位置する舎人五丁目の見沼代用水から分岐し、南西部の江北二丁目まで全長6kmの水路でした。このうち環七以南の約1.1kmが平成十五年から平成二十五年まで10年をかけて整備され、神領堀緑道となりました。平成二十一年〜二十二年には、ふるさと桜のオーナーを募集し、神領堀沿いに里桜が植樹されました。桜の季節には江北地域学習センター脇から荒川土手までの緑道で様々な里桜を楽しむことができます。
神領堀に架かっていた橋も再現されています。ちょっとしたテラスも設けられています。
- ポイント7.堀之内公園
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都下水道局熊の木ポンプ場の西側に堀之内公園があります。
堀之内公園は、植栽豊かな公園で、春には桜が有名です。桜は薄墨(うすずみ)・関山(かんざん)・御衣黄(ぎょいこう)など、20種以上の品種のものが植えられ、地名から名をとった江北匂(こうほくにおい)という珍しい品種もあります。
堀之内公園では、初夏にハス(蓮)が開花します。園内にある約300平方メートルのハス池では、推定約2000年前のハスの実から開花した大賀ハスを見ることができます。大賀ハスは、昭和二十六年(1951年)3月に千葉県の検見川で、故大賀一郎博士らの手によって発見された古いハスの実を発芽させ開花に成功したもので、発見者にちなみ「大賀ハス」と命名されました。平成九年(1997年)に千葉公園(千葉市)から寄贈・分植されたものです。例年6月上旬から7月下旬の早朝に咲き始め、午前中から午後にかけて閉じていきます。
大賀ハス
昭和二十六年(1951年)、千葉市検見川の東京大学厚生農場(現在の東大検見川総合運動場)で、大賀一郎博士らの手により推定2000年以前のハスの実が三粒発掘され、その内の一粒が翌年七月十八日見事に花を咲かせました。この花は「大賀蓮」と名付けられ、昭和二十九年(1954年)に「検見川の大賀蓮」として千葉県の天然記念物となりました。足立区では、平成九年(1997年)に「千葉公園」よりこの大賀ハスの寄贈・分植を受け、大切に育てゝいます。
◇開花時期:6月下旬〜8月下旬頃
◇特 徴:淡いピンクの清楚で可憐な花が咲きます
ハスの葉は大きいので、池全体を覆い尽くしています。
ハスの花と実です。ハスの実は、ハスの花が枯れた後、花托(かたく)の中にできる実のことです。皮を剥いで出てきた実を茹でたり、あるいは生のまま食べるとビールのつまみになります。昔は夏祭りの屋台などでよく売られていましたが、最近では滅多に見かけません。食べれるということを知っている人も殆どいないのではないでしょうか?
足立区には多くの氷川神社がありますが、堀之内氷川神社もその1社です。堀之内氷川神社の創建年代は不明ですが、堀之内村が宮城村から分村した江戸時代に村の鎮守社として創建したものと推定されています。
堀之内氷川神社に隣接して不動院があります。不動院の創建年代は不明ですが、寺伝によれば、行基が付近の民家で1泊した時に氷川神と山王神が夢の中に現れ、「自分たちを祀れば招福除災のご利益が得られる」と告げたため、村人と共に神社(堀之内氷川神社)を創建し、不動院も設けたといわれています。
境内にはもの凄い数の石仏が並んでいます。
- ポイント8.あだち五色桜の散歩道
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荒川土手に上がります。遊歩道沿いには、復活した五色桜の並木が続いています。
一般から寄贈された桜の木には寄贈者の氏名が記されています。
五色桜の由来と復活した経緯が記されています。
荒川の五色桜
五色桜の由来
足立区地先の荒川は、昔、「荒川の五色桜」と呼ばれた桜の名所でした。この桜は明治十九年、地元の方々の奉仕によって植えられ、育てられました。当時、多くの桜の品種が混植されていました。白や黄色、淡紅色や濃紅色など、花色がいろいろとあったので「五色桜」の名がつけられたと言われています。花の見頃には、色とりどりの桜が人々の目を楽しませ、広い並木道には人があふれるほど賑わいました。ワシントン市の有名なポトマック公園の桜は、この五色桜を当時の尾崎行雄東京市長が贈ったものです。しかし、この地の五色桜は自動車の排気ガスなどの影響で残念ながらほとんどなくなってしまいました。
五色桜の復活
戦後、世の中が落ちついてくると華やかだった五色桜をしのぶ気運も次第に高まり、昭和五十六年にアメリカの協力を得て、ワシントン市から「桜の里帰り」を実現しました。この里帰り桜からつぎ木をしてその数を増やし一部はすでに区内の各公園に植えられています。そして、往時の五色桜の復活をと念願する多くの方々の熱心な働きかけと、国土交通省をはじめとして関係団体の協力によりこの里帰り桜は「桜づつみモデル事業」として、ふるさとであるこの荒川堤に再び根をおろすことになりました。国境を越え時間を越えて長い旅をして帰ってきたこの桜を今度は私たちが大事に育てていきましょう。
桜並木の遊歩道は「あだち五色桜の散歩みち」と名付けられ、遊歩道の脇には和歌や俳句が書かれた掲示板が立っています。
万葉集の中から桜の花をおりこんだ代表的な秋を紹介します。古事からの桜に寄せる情緒がしのばれます。
見渡せば春日の野辺に霞立ち
咲き匂へるは桜花かも (巻十−一八七二)
青丹よし奈良の都は咲く花の
にほふが如く今盛りなり 小野老 (巻三−三二八)
鶯の鳴き散すらむ春の花
何時しか君と手折りかざさむ 大伴家持(巻十七−三九六六)
万葉集・・・・現存する最古の歌集。759年までの400余年間の
長歌、短歌、漢詩などを収録したもの
俳句もあります。
俳句の中から桜の花をおりこんだものを紹介します。
花の雲鐘は上野か浅草か 芭蕉
木のもとに汁も鱠も桜かな 芭蕉
さまざまの事おもひ出す桜かな 芭蕉
花の山歌よむ人や踊る人 友尚
八重桜製菓工場に咲けば菓子 山口誓子
- ポイント9.鹿浜橋
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鹿浜橋は、荒川(荒川放水路)に架かる都道318号環状七号線(通称:環七通り)の水道道路併用橋です。
鹿浜橋は、大正十三年(1924年)に開削された荒川放水路に架かる橋では最上流に位置し、荒川の河口から18.75kmの地点に架かっています。完成したのは昭和四十年(1965年)で、総延長は922.0メートル・橋長は451.3メートルです。本橋部を挟むように右岸側に長さ244.6メートル・左岸側に長さ226.1メートルの取り付け道路を有しています。また、水道道路併用橋でもあり、橋桁に付帯設備として内径1.2メートルの水道管を4本(送水本管2本・工業用水道管2本)を併設し、荒川を横断する水道橋の役割も持ちあわせています。首都高速道路川口線の鹿浜橋出入口とも接続し、南岸の足立区新田一・二丁目と北岸の鹿浜一・二丁目を繋いでいます。橋名は旧足立郡の鹿浜村・鹿浜新田に因んでいます。鹿浜の地名の由来は諸説ありますが、鹿浜は江戸時代に「シシハマ」と呼ばれていました。「鹿(シシ)」の語源は危険な獣の総称、「浜(ハマ)」は水を含んだ土地のことです。この辺りは獣が住む湿地で、後に「シシ」が「シカ」に変化して「鹿浜(シカハマ)」になったという説が有力です。
鹿浜橋周辺の河川敷は、ゴルフ場やグラウンドなどのレクリエーション施設として利用されています。
- ポイント10.荒川土手右岸
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鹿浜橋を渡り、荒川土手右岸の遊歩道に入ります。河川敷にはゴルフ場が広がっています。新東京都民ゴルフ場は、日本のセント・アンドリュースと言われ、河川敷ゴルフ場の発祥の地とされています。都心に最も近い場所の荒川沿いに位置していて、年間を通して手頃な料金で楽しむことができるミニゴルフ場です。このコースは河川敷にあり、平坦ながらも自然の地形を生かしたアンジュレーションに加え、点在する柳と池や土手、そして河川特有の風が楽しめる9ホールのゴルフ場です。ビギナーからベテランまで、子どもからシニアまで、エンジョイ志向から競技志向まで楽しめる「都会の穴場」です。
土手の直ぐ傍まで隅田川が迫っています。ここには隅田川唯一の渡し船が現役で運航されています。但し、日本化薬株式会社が運営している社内用会社専用の渡し船で、一般の人は乗船できません。北区志茂の日本化薬研究所と対岸の足立区新田の日本化薬東京工場を結び、同グループの社員だけが乗船できる専用航路なのです。
- ポイント11.岩淵水門
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新河岸川が隅田川に合流する地点に、荒川と隅田川を仕切る岩淵水門(青水門)があります。
かって「荒川放水路」と呼ばれた人工河川は現在では荒川と呼ばれ、この水門より下流の名前だった荒川は「隅田川」と呼ばれるようになりました。岩淵水門(青水門)は、現在の荒川と隅田川の分岐点になります。
岩淵水門
増水時に、荒川の水が隅田川へ流入することを防ぎます。岩淵水門は、大正十三年に完成した旧岩淵水門の老朽化、地盤沈下による高さの不足のため、昭和五十七年に旧水門の下流約300mに建設されました。平常時は、水門を開放し船の通行を確保するとともに、隅田川の水質を浄化するために荒川の水を流下させています。増水時には水門をしめて隅田川への流入をくい止め、首都東京を水害から守る大切な役割を担っています。
■岩淵水門のやくわり
平常時
●全門開放されていて、荒川の流量の約3割を隅田川に流し、隅田川の水質浄化の効用を果たしています。
●舟運に支障がないように全門開放されています。
増水時
●水門を閉め、荒川の水を隅田川に流さないようにしています。
水門前の土手上に沢山のテトラポットが備蓄されています。消波ブロックは、海岸や河川などの護岸の水制を目的に設置するコンクリートブロックです。消波根固ブロック・波消しブロックと呼ばれることもあります。日本では、消波ブロックの代表的なものとして「テトラポッド」が挙げられます。
従来のテトラポットとは形状が異なる根固ブロックも置かれ始めました。
環境にも優しいとのことです。
荒川下流河川事務所のGX(グリーントランスフォーメーション)の取り組み
環境負荷軽減の材料を使用した根固めブロックの製作・備蓄
荒川下流河川事務所では洪水などから河川の護岸を守るため「根固めブロック」を備蓄しています。この根固めブロックは、東京理科大学と東急建設(株)が開発したハイプロダクリート(Highーproducrete)を使用したもので、CO2排出量の削減と製造時の作業負担の軽減を実現し、地球温暖化対策と生産性の向上に貢献します。
材料 製造 備蓄
CO2排出量の少ない材料を使用 これまでより少ない時間・ 災害に備えながらCO2を
少ない人数で製造 吸収して環境貢献
荒川下流河川事務所のカーボンニュートラル実現へ向けた取り組み
環境にやさしい根固めブロック
荒川下流河川事務所では洪水などから河川の護岸を守るため「根固めブロック」を備蓄しています。この根固めブロックは、大成建設(株)、日建工学(株)の技術を用いたもので、製造→備蓄→供用の各段階でCO2を吸収し脱炭素社会の実現に貢献します。
ブロック製造時 備蓄時 供用時
CO2を固定した材料を混ぜて 大気からCO2を吸収 パネルに藻が繁茂して
コンクリートブロックを製造 CO2を吸収
災害時に備えて、ヘリポートも設けられています。
ヘリポート Heliport
●ヘリポートとは
ヘリポートはヘリコプターが使用するための「飛行場」で、航空機の離発着する飛行場の一種とされています。飛行機が離発着する空港と違い、長い滑走路を必要としないのが特徴です。消防組織法では消防責任を市町村が負うこととしており、政令指定都市の消防機関の一部は自ら消防活動や急病人を搬送するためのヘリコプターを保有・運航をしています。東京都の場合は、市町村から委託を受けて東京消防庁が保有・運航をしています。
●設置の目的
ヘリポートはドクターヘリ、消防ヘリ、防災ヘリなどが緊急時に救援要員や物資の搬送をすることを目的としています。国土交通省では、災害発生直後の被害状況の把握や応急復旧活動に素早く広い範囲に対応できる対策の一部として、各地方整備局に専用ヘリコプターの導入を進めています。
災害時に物資の輸送の拠点となる「リバーステーション」、その物資の輸送路となる「緊急用河川敷道路」、ヘリコプターの離着陸などに必要な「ヘリポート」など、荒川下流域では災害発生に備え河川の輸送ネットワークの整備を進めています。
荒川を解説した案内板が立っています。
@荒川知水資料館(amoa)
荒川放水路と隅田川の分岐点近くに位置し、自然豊かな荒川にもっと親しんでもらうための活動と交流の拠点として、平成十年(1998年)3月にオープンしました。荒川の洪水リスク、氷害の歴史や自然環境等の情報発信をしているほか、学校を対象に館内の説明や様々な学習支援を行っています。
◆青山士と荒川放水路
荒川下流の改修工事に深い関わりを持った技術者の一人に青山士[1878年〜1963年]がいます。青山は、恩師・内村鑑三らの薫陶をうけ、広く世のためになる仕事を、と土木の道を邁進した技術者です。大学卒業後、自費でパナマ運河工事に唯一の日本人として参加し、世界最先端の土木技術を学んだ後、日本に戻り、荒川放水路と旧岩淵水門の工事責任者に任命されました。特に旧岩淵水門の基礎工事にあたっては青山の力量が発揮され、工事の途中、関東大震災が起こりましたが、旧岩淵水門はびくともしませんでした。
A旧岩淵水門
旧岩淵水門は、岩淵水門の300mほど上流に位置しています。この水門は、荒川の洪水が隅田川に流下する流量を調節し、かつ、通常時は舟航に支障を与えないよう設けられたもので、大正十三年(1924年)に完成しました。水門には、幅約9mのゲートが5門ついており、一番右岸側が通航門となっていました。長年、洪水の脅威から東京の下町を守ってきましたが、老朽化及び水門の高さ不足のため、役割は岩淵水門にうつりました。
B岩淵水門
岩淵水門は、旧岩淵水門より300mほど下流にあり、隅田川の起点に位置しています。旧岩淵水門が、大正十三年(1924年)に完成してから60年余りを経て老朽化が進んだこともあり、昭和五十七年(1982年)に新しく岩淵水門が建設されました。岩淵水門の役割は、荒川の洪水が隅田川へ流入するのを防止すること、平常時には浄化のための水を隅田川へ流すこと、および舟運の確保などです。なお、岩淵水門は青水門、旧水門は赤水門と呼ばれています。
岩淵水門から上流方向を見ますと、旧岩淵水門(赤水門)の脇に荒川からの取水路があり、現在はこちらから荒川の水を取り込んでいます。一方、下流方向を見ますと、岩淵水門の先で新河岸川が合流していて、荒川からの分水を併せて現在の隅田川を形成しています。
- ポイント12.旧岩淵水門広場
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岩淵水門(青水門)から、直ぐ上流にある旧岩淵水門(赤水門)に向かいます。旧岩淵水門(赤水門)は、その色から通称「赤水門」と呼ばれています。大正五年(1916年)に着工し、大正十三年(1924年)10月に完成しました。RC造(一部S造)で、9メートル幅のゲート5門で構成されています。昭和三十五年(1960年)3月には、通船のために5番ゲートが改造されました。完成以来、最大2メートル以上にもおよぶ地盤沈下や、左右岸の不等沈下が発生するなどの問題に悩まされ、新水門完成に伴ってその役割を終えましたが、地元の人などから惜しまれ保存されることになりました。水門上は歩行者自転車専用橋として開放され、川に囲まれた中之島(水門公園)に渡ることができます。
旧岩淵水門
旧岩淵水門のあらまし
昔、荒川下流部分は現在の隅田川の部分を流れていましたが、川幅がせまく、堤防も低かったので大雨や台風の洪水被害をたびたび受けていました。そのため、明治四十四年から昭和五年にかけて新しく河口までの約22kmの区間に人工的に掘られた川(放水路)を造り、洪水をこの幅の広い放水路(現在の荒川)から流すことにしました。現在の荒川と隅田川の分かれる地点に、大正五年から大正十三年にかけて造られたのがこの旧岩淵水門(赤水門)です。その後旧岩淵水門の老朽化などにともない、昭和五十年から新しい水門(旧岩淵水門の下流に造られた青い水門)の工事が進められ、昭和五十七年に完成し、旧岩淵水門の役割は新しい岩淵水門(青水門)に引き継がれました。長年、流域の人々を洪水から守り、地元の人たちに親しまれた旧岩淵水門は現在子どもたちの学習の場や、人々の憩いの場として保存されています。
近代化産業遺産
近代化産業遺産の価値を顕在化させ、地域活性化に役立てることを目的として経済産業省は平成十九年度に国や地域の発展において貢献してきた建造物、機械、文書などを対象に「近代産業遺産群33」を取りまとめました。平成二十年度には、その中の「国土の安全を高め都市生活や産業発展の礎となった治水・防砂の歩みを物語る近代化産業遺産群」において「旧岩淵水門及び荒川放水路」が認定されました。このほかにも旧岩淵水門は「日本の近代土木遺産」「東京都選定歴史的建造物」「北区景観百選」に認定されています。
近くから見上げると、今でも大迫力です。
東京都選定歴史的建造物
旧岩淵水門
旧岩淵水門は、明治四十三年(1910年)東京下町を襲った大洪水を契機に、内務省が荒川放水路事業の一部として隅田川とこの分派点に設けた。水門は、ローラーゲート構造で、幅約9メートルの五つの門扉からなっており、袖壁部も含めた長さは約103メートルの大型構造物となっている。本体は、レンガ構造では力学的に対応が困難であったことから、当時では珍しい鉄筋コンクリート造として、大正五年(1916年)に着工し、同十三年(1924年)に竣工した。昭和二十二年(1947年)のカスリーン台風や昭和三十三年(1958年)の狩野川台風の大出水の際も、機能を十分に果たしてきたが、昭和二十年代後半からの東京東部地域一体(帯?)における広域的な地盤沈下により、本水門も沈下したため、昭和三十五年(1960年)に門扉の継ぎ足しが行われたほか、開閉装置の改修などが施され、現在の旧岩淵水門(赤水門)となった。その後、昭和四十八年(1973年)に荒川の基本計画が改訂されたことに伴い、水門の高さに不足が生じたことから、昭和五十七年(1982年)に約300メートル下流に新たな岩淵水門(青水門)が整備され、旧岩淵水門はその役目を終えることとなった。
陸続きになっている荒川赤水門緑地に渡ります。
奇妙な塔が荒川を見下ろすように建っています。
月を射る
青野正
材質 リバーテン鋼
平成八年度 荒川リバーアートコンテスト特賞受賞作品
受賞者の言葉
この作品は、無垢の鉄棒を溶断し、一本づつ積み上げて製作しています。私は、形あるものの消えゆく時間、造られたものが風化され「風になる」という遥かなことに、思いを巡らせています。
「月を射る」では、古代の人々が憧れたであろう、天・月・川面に映った世界、果てのない世界観を想像してみました。満月のときの明るい夜空に、水の上に、何か見えるとよいのですが。
荒川リバーアートコンテストは、荒川クリエーション実行委員会主催により行われ、荒川の広々とした空間に映る美的造型物として、河川敷に設置することを条件に公募したものです。
巨大な石碑が建っています。戦前、此の地において「全日本草刈選手権大会」が開催されたのだそうです。
由来記
草刈は日本農民の昔ながらの美風で農民魂の訓練であり発露である。金肥の流行につれて草刈が衰へ始めたので有畜農業の普及は却って益々草刈の必要を認めたから草刈奨励の為の有志相図り幾多の曲折を経て漸く男女青年團農学校壮年團と四組に分ち全国に亘って町村大會郡大會都道府県大會と選手を選抜し最後に全日本草刈選手権大會を昭和十三年八月より此の地に前後六箇年開いた。鎌を競う選手四万餘名熱戦各二時間に亘り両岸に観衆溢れ旗指物なひいて一世の壮親であった。大東亜戦のため止むなく中止したが草刈魂を永遠に傅ふるため農業團体其他篤志家の寄付を仰ぎ茲に草刈の碑を建立した。蓋し農は國の大本草刈堆肥は土を作る農業の根本だからである。
旧岩淵水門が完成して通水した際に、昭和天皇がこの場所から視察されたそうです。
摂政宮殿下御野立之跡
大正十三年 十月廿五日
(大正十三年10月25日に荒川放水路通水後の様子を摂政宮殿下(昭和天皇)がこの場所から視察された。)
旧岩淵水門から土手下に降りたところに「荒川知水資料館(amoa)」があります。荒川知水資料館は、荒川に関するさまざまな情報をわかりやすく展示した資料館で、荒川をもっと親しむための活動と交流のスペースとなっています。
資料館の入口の脇に、荒川放水路完成記念碑が置かれています。荒川放水路は、岩淵水門から江東区・江戸川区の区境の中川河口まで開削された人工河川です。全長22km・川幅約500mで、大正二年(1913年)から昭和五年(1930年)までの17年がかりの難工事でした。この工事では30名近くの犠牲者が出て、記念碑には犠牲者を悼む言葉がプレートに記されています。工事を指揮したのは内務省土木技官の青山士で、青山士は日本人で唯一パナマ運河建設工事に携わった技術者でした。
此ノ工事ノ完成ニアタリ多大ナル犠牲ト労役トヲ拂(はらう)ヒタル我等ノ仲間ヲ記憶センガ為ニ
荒川放水路完成記念碑
この碑は荒川放水路の完成を記念して建てられたものである。荒川下流改修事務所主任技師(現工事事務所長)であった青山士(あきら)および工事関係者一同が工事の爆牲者を弔うために資金を出し合ったものである。台座は富士川の転石を、銘板の模様は当時の河川敷を埋め尽くした桜草があしらわれている。この工事の最高責任者であり功労者でもある青山士の名前は刻まれていない。巨大な土木事業は関係者全員で造り上げていくものであるという青山主任技師の精神が簡潔に記されているとして著名である。
資料館の脇に巨大な石の構造物が展示されています。閘門とは、水面に高低差ある河川や運河の間で船の行き来をおこなう場合に設置する施設です。
船堀閘門頭頂部
荒川には、放水路開削前から隅田川から小名木川・新川(船堀川)を通じて江戸川に至る舟運ルートがあり、江戸の発展、沿岸の産業や物資輸送に寄与してきました。そのルートが荒川放水路開削により、左右岸の堤防で遮られてしまうため、荒川と綾瀬川、中川、小名木川が接する部分には、従来からの舟運を確保し、洪水時に逆流を防止するため、右岸側に小名木川閘門・小松川閘門を、左岸側に新川水門・船堀閘門を設置しました。荒川と中川を隔てる背割堤上にある船堀閘門は、高水時に両川の水位が異なる場合、これを船で連絡するためにつくられたものです。
資料館の左手に柵で囲われた一画があり、コンクリートで固めた石積みの上に小さな祠のようなものが建っています。京成押上線荒川橋梁は、京成押上線の八広駅−四ツ木駅間にあり(約448m)、大正十二年に荒川放水路掘削に伴って架設されました。この松杭は、約75年間、橋を支える基礎として地中に埋まっていたものです。
京成押上線旧荒川橋梁基礎杭
京成電気軌道株式会社施工の工事は、向島・四ツ木間2、224.9mの線路変更工事で、その荒川及び綾瀬川橋梁は杭打基礎に支持された4橋台、25橋脚の上に鋼板桁54連を架設し、向島、四ツ木方面に向かって、線路の盛土をしたものでした。この橋は元々放水路に通水する前に、短いスパンで低い橋脚を並べた構造であった上、昭和三十年代の高度成長期に、荒川周辺において大量の地下水を使用したことで起こった地盤沈下でさらに約1.7m下がり、さらに戦後の堤防嵩上げの際にも線路部分だけは低いまま存置されるなど、水運、水防上のネックになっていました。そのため50年代から掛け替え計画が策定されていましたが、平成三年1月の橋桁へのタンカー衝突事故を契機に一気に計画が進み、ついに平成十一年9月4日には上下とも新橋梁への切り替えが終了しました。
歴史と文化の散歩道でも訪れましたね。
日光御成道散歩
日光御成道散歩は、飛鳥山公園から岩淵水門までの約5.5kmのみちのりです。別名日光御成道と呼ばれた岩槻街道をたどり、赤羽駅から、一路荒川をめざし、下流域の水害を防ぐ為に建設された荒川放水路沿いを行く散歩道です。
荒川と岩淵水門
荒川はその名の通り昔から氾濫を繰り返した川でした。特に明治四十三年(1910年)八月の大洪水の時は、水は岩淵町から志村に沿うところで二丈七尺(約8m)に達したと伝えられています。これを契機に、荒川沿いの町を洪水災害から守るため、政府は荒川放水路造成を計画し、新たな川の開削と水門工事を実施しました。これらは難関を極めて困難でしたが、蒸気掘削機など当時の最新技術を使ったり主任技師はパナマ運河建設に従事して研究するなどの努力により、水門は大正十三年(1924年)十月に完成しました。この岩淵水門は五つのゲートを持つ水門で、そのゲートの一つは後に常に船が通れるように改修されました。
The Arakawa, River & Iwabuchi Sluice Gate
The flood-prone Arakawa River was finally tamed in 1924 with the completion of the Iwabuchi Sluice Gate and the Arakawa Canal. This ended the ever-present threat of flooding to the low-lying areas downstream. Construction of the gate and canal required considerable technological expertise, and the chief engineer for the project used his hands-on experience gained while on a visit to the Panama Canal
Construction Project as a guide.
資料館には、荒川に関する様々な資料が展示されています。
防災活動についても解説されています。
新志茂橋を渡ってゴール地点の東京メトロ南北線赤羽岩淵駅出入口1に着きました。
ということで、足立区で十六番目のコースとなる「A−北西エリア 16.舎人公園から岩淵水門コース」を歩き終えました。次は足立区で「A−北西コース」の最後となる十七番目のコースである「A−北西エリア 17.竹の塚第七公園から西新井さかえ公園コース」を歩きます。
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