A−北西エリア 17.竹の塚第七公園から西新井さかえ公園コース  



コース 踏破記  

今日は足立区の「A−北西エリア 17.竹の塚第七公園から西新井さかえ公園コース」を歩きます。最初に歩いたのは2022年9月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年11月に改めて歩きました。

スタート地点:竹ノ塚駅東口

 1.竹の塚第七公園

 2.竹の塚地域学習センター

 3.白旗塚史蹟公園

 4.應現寺

 5.伊興四丁目

 6.実相院

 7.七曲り道

 8.源正寺

 9.諏訪木東公園

10.西新井大師

11.西新井本町

12.アリオ

13.西新井さかえ公園

ゴール地点:西新井駅西口


スタート地点の竹ノ塚駅東口から歩き始めます。



ポイント1.竹の塚第七公園

竹の塚エリアには、第一公園から第九公園まで、家族連れや子供たちが楽しめる魅力的な公園が点在しています。それぞれの公園には、ユニークな遊具やリラックスできるスペースがあり、憩いの場となっています。竹の塚第七公園は、竹ノ塚駅東口から駅前広場の南側に沿って進み、竹の塚けやき大通りの最初の信号を右折し、商店の続く通りで左折すると、突き当たりに公園が見えてきます。公園内には、雲梯(うんてい)や鉄棒が複合されたカラフルな遊具・恐竜のスプリング遊具や小さい子供向けのブランコ・フェンスで囲われた砂場などが設置されていて、幅広い年齢の子供たちが楽しめる公園です。

(注)雲梯:金属パイプ製のはしごを横方向にほぼ水平に設置し、ぶら下がりながら手を伸ばして移動する遊具のこと。



ポイント2.竹の塚地域学習センター

竹の塚センター通りに出て北方向に進みます。竹の塚センター前交差点の角に、竹の塚地域学習センターがあります。竹の塚地域学習センターは、文化活動・体験や研修など様々な学習の機会を提供し、サークル等の自主的な活動を支援する生涯学習のための施設です。部屋の貸出・多様な講座の開催・図書館の利用など、様々な事業の他、特色としてコンサートの開催なども行っています。



3階には、足立区立図書館があります。幅広い分野にわたって資料を収集・保存し、それらを地域の人々に読書をはじめとする情報サービスとして提供することで、人々の知識や教養・研究やレクリエーションなどの支援になることを目的とした施設です。4階には、発表会や講演会などに利用できる舞台と306名分の座席を備えた大ホールがあります。



交差点の先に、竹の塚六丁目児童遊園があります。小さな公園ですが、公園の敷地は道路より少し高くなっていて、見通しの良い場所になっています。遊具は、すべり台・ブランコがあり、フェンスで囲まれた砂場もあります。大きなモニュメントのような滑り台は公園の真ん中で大きな存在感を放っています。モニュメントは恐竜をイメージしたもののようです。



ドンキ竹の塚店と小路を隔てて竹塚神社があります。入口は竹の塚センター通りから交差点を左折したところにあります。竹塚神社は、天元年間(978年〜983年)に伊勢神宮を勧請して創建されました。天喜四年(1056年)に源頼義が奥州征討に出征する際、ここに陣を構え、松を植えたといわれています。この松は、嘉永二年(1849年)に雷が落ちて枯死してしまいました。その後、松の木は神社の改築時に用材の一部にしたと伝えられています。明治七年に村社に列格しました。

竹塚神社由緒

祭神  天照大御神
例祭  九月十七日

人皇六十四代 圓融天皇の御宇、天元年間、伊勢皇大神宮を遷し茲に祭る。後、天喜四年源頼義公奥州東征の折、當社境内に宿陣相成り、明治年間に至るまで境域に環濠が存し、本営の舊跡と傅へられる。頼義公お手植の大樹松有り、凡そ八百年星霜隔てる嘉永二年六月六日、雷火の為に枯れるに依りて、延慶二年以来の社殿造替の用材と為せり。明治七年村社に列せらる。明治以降氏子崇敬者よく神徳發揚、社地整備を図り面目一新す。




明治になるまで、神社の境内は堀に囲まれていました。源頼義の本陣の跡と伝えられています。



足立清掃工場は、東京二十三区清掃一部事務組合の清掃工場で、人口約70万人を擁する足立区内のごみ処理を行っています。足立区でのごみ処理は足立塵芥焼却場(昭和十一年)が起源で、埼玉県との都県境にほど近い竹ノ塚地区にあります。発生した余熱はスイムスポーツセンター(うきうき館)で利用されています。昭和三十九年(1964年)に日本初の大規模連続焼却炉である初代の工場が竣工し、昭和五十二年(1977年)に250tの焼却炉が4炉ある二代目の工場が竣工し、三代目の現在の清掃工場は平成十七年(2005年)に完成しました。煙突の高さは130mで、赤と白が斑になった足立清掃工場の煙突は、令和七年(2025年)に竣工したシティタワー千住大橋に次ぐ高さを誇っています。



ポイント3.白旗塚史蹟公園

東武スカイツリーラインの高架下を抜けた先に、白旗塚史蹟公園があります。白旗塚古墳は、古墳時代後期初頭の6世紀前半頃のものと推定されています。江戸時代後半の「日光道中分間延絵図」には、甲塚・摺鉢塚と共に二本松塚として示され、名称未記載のものを含むと合計8基の古墳が並ぶ姿が描かれています。このことから、相当数の古墳からなる伊興古墳群(または白旗塚古墳群ともいわれます)を構成していたことが推定できます。その後、土地の開墾や都市開発などに伴って消滅が進み、昭和三十九年(1964年)の土地改良事業による都市開発の過程で他の古墳は全て取り壊され、現存しているのは白旗塚古墳のみとなっています。「新編武蔵風土記稿」によれば、源義家が奥州征伐の際にこの地で白旗をなびかせて戦ったとの逸話から、白旗塚と呼ばれるようになったといわれています。昭和五十年(1975年)2月6日に東京都指定史跡に指定されたことを受けて、足立区は昭和六十二年(1987年)に白旗塚古墳を含む敷地を史跡公園として整備しました。



公園の入口に案内板が立っています。

東京都指定史跡
白旗塚古墳(しらはたづかこふん)

この付近の毛長川南岸の自然堤防上には、擂鉢塚古墳、甲塚古墳、白旗塚古墳など七基からなる白旗塚古墳群が形成されていたとされますが、現存するのは白旗塚古墳のみです。足立区教育委員会が擂鉢山古墳や甲塚古墳の推定地域を調査していますが、確認までには至っていません。擂鉢塚古墳から出土したとされる馬形・円筒埴輪から、白旗塚古墳群の築造は六世紀と推定されます。白旗塚古墳は直径12メートル、高さ約2.5メートルの円墳ですが、未調査のため主体部の構造や古墳の年代はわかっていません。白旗塚という名の由来は、源頼義、義家父子が、奥州安倍氏の反乱(前九年の役)の鎮圧にむかう途上に、この地に白旗を立てたためと言われています。

Historic Site
Shirahataduka kofun

In this area, on the natural levee along the south bank of the Kenaga river, there were Shirahataduka-Kofungun (mounded tomb groups) consist of seven mounded tombs about Suribachiduka-Kofun, Kabutoduka-Kofun, Shirahataduka-Kofun etc. But a remaining tomb is only Shirahataduka-Kofun. The tombs have not been discovered though it is being excavated the area presumed that Suribachiduka-kofun and Kabutoduka-Kofun by the board of education, Adachi ward. According to the horse shaped, and cylindrical haniwa which was told to find in Suribachiduka-kofun, Shirahataduka-Kofungun were built in the 6th century. Shirahataduka-Kofun is a round mound and the diameter is 12 meters, height is about 2.5 meters. There are no excavation about this tomb, so the main burial facility of a mounded tomb and the building age are not known. The origin of the name of Shirahataduka, it is told that Minamoto-no-Yoriyoshi and his son Minamoto-no-Yoshiie put up the white flag in this place on the way to repress the rebellion of the Abe family in the Tohoku distrit (zenkunen-no-eki).




周囲に堀を巡らした円墳があります。5〜6世紀頃に築造されたと推定される直径12m・高さ2.5mの円墳の上には小さな祠が建っています。



公園内には白旗塚にまつわる「新編武蔵風土記稿」を引用した石碑が建っています。



表面が新編武蔵風土記稿の足立編抜粋、裏面が現代語訳文になっています。

新編武蔵風土記稿

白幡塚(伊興村)東ノ方ニアリ、此塚アルヲ以テ白幡耕地ト字セリ、塚ノ除地二十二歩百姓持ナリ、上代八幡太郎義家奥州征伐ノ時、此所ニ旗ヲナビカシ、軍勝利アリトテ此名ヲ傳ヘシ由、元来社地ニシテ祠モアリシナレト、此塚ニ近寄ハ咎アリトテ、村民畏レテ近ツカザルニヨリテ、祠ハ廃絶ニ及ベリ、又塚上ニ古松アリシカ、後年立枯テ大風ニ吹倒サレ、根下ヨリ兵器共數多出タリ、時ニ村民来リ見テ件ノ兵器ノ中ヨリ、未ダ鐵性ヲ失ハザル太刀ヲ持帰テ家ニ蔵セシガ、彼祟ニヤアリケン、家擧リテ大病ヲナヤメリ、畏レテ元ノ如ク塚下ヘ埋メ、シルシノ松ヲ植継シ由、今塚上ノ両株是ナリト云、今土人コノ松ヲ二本松ト號ス、太サ一囲半許。

白旗塚(現代訳文)

「伊興村の東の方にあり、この塚があるために、このあたりを白旗耕地と名づけている。塚の免税地二十二歩(約七十二平方メートル)は村人の所有である。むかし、八幡太郎源義家か奥州征伐の時、この所に白旗をなびかせて、戦いに勝ったことがあるということでこの名を伝えたという。もともと神社地で祠もあったが、この塚に近寄ると良くないことが起るといって村人はおそれて近寄らなかったために、祠はすたれてなくなってしまった。また、塚の上に古い松の木があったが、のちに立枯れて大風に吹き倒され、根の下から兵器などが数多く出た。その時村人が何事かと見て、その兵器の中からまだ鉄性を失っていない刀剣を持ち帰って家にしまったが、このための祟りであろうか一家がみな大病にかかって苦しんだので、おそれをなして元のとおり塚下へ埋めて、印に松を植え継ぎしたという。塚の上の二株がこれだという。いま土地の人は、この松を二本松と呼んでいる。太さ一かこい半ばかりてある。」

文中にある二本松は枯れ、六木杉となり、また松の木八本に植えかえられて今日に至っている。昭和五十年二月六日東京都史跡に指定された。




園内には、東西南北の古代文字が書かれた石のオブジェもあります。漢字が日本に入ってくる前の時代ですが、どうやって解読したのでしょうか?



園内には、埴輪像などが設置されています。



園内には多くの樹木が植えられています。それぞれの木には万葉集の和歌が添えられています。私の単純な理解では、この和歌は「家にいると器によそうご飯を、今は旅の途中なので椎の葉に盛ります。」としか思えません。有間皇子は、大化の改新で活躍した中大兄皇子と同じ時代の人物です。有間皇子は中大兄皇子と不仲で、謀反をたくらんでいました。しかし一緒に計画をしていたはずの蘇我赤兄に裏切られ、計画がばれて捕まってしまいます。この和歌に詠まれている「旅」とは、捕まったあと護送されているときのことで、彼の運命に対する悲しみや無力感が込められています。捕らわれて護送される途中で、満足な食器もなく、葉っぱに飯を盛っている状況を詠んでいます。彼の不遇な境遇と、家に残してきた人々への思いを反映しています。

しひ ●現代名 シイノキ 【ぶな科】

   家にあれば 笥に盛る飯を
      草枕 旅にしあれば
         椎の葉に盛る
            (2・一四二)有間皇子




馬酔木(アセビ)は常緑性の低木で、葉にグラヤノトキシンなどの有毒成分が含まれることから、ウマが葉を食べると毒に当たって苦しみ、酔うが如くにふらつくようになる木というところからその名が付いたとされれいます。和歌の意味は、「あなたのことを恋い焦がれている私の気持は、刈り取っても刈り取っても生えてくる奥山の馬酔木の花のように真っ盛りなのです」といった感じです。「背子(せこ・せこう)」とは、古代日本において主に若い男性や男児を指す言葉でした。この呼称の由来ですが、「背子」の「背(せ)」は「兄(せ)」に由来するとされ、年長の男性や兄を意味する言葉でした。これに「子(こ)」という接尾語が付いて「背子」となり、若い男性を敬い親しみを込めて呼ぶ言葉となりました。「背子」は、恋愛の対象となる若い男性を指す言葉としても使われていました。

あしび ●現代名 アセビ 【つつじ科】

   わが背子に わが恋ふらくは
      奥山の 馬酔木の花の
         今盛りなり
            (10・一九○三)作者不伝



どの木が馬酔木なのか分かりません。


2025年に再訪した時は晩秋の季節で、紅葉真っ盛りでした。もみじは紅葉する植物の総称をいいます。モミジに該当する植物としては、「かへるで」といった場合のカエデ(かへるて:蝦手・加流敝弖)属のイロハモミジ(タカオカエデ)やオオモミジなどやウルシの仲間を指します。葉の形のユニークさといい赤や黄色といい、庭園には欠かせない樹木となっている樹木です。「もみじ」は、華麗な花をつけるわけではないのですが、秋山を美しく彩ることから、万葉集には多くの歌に詠み込まれています。現在では「もみじ」というと、一般には紅葉を指しますが、万葉時代はほとんど「黄葉」と記されていました。これは、秋の深まりとともに葉の色が変わっていくことを「黄変つ(もみつ)」という動詞で表現したからで、別段万葉人が赤色と黄色の違いを識別していなかった訳ではありません。この歌でも葉が紅葉していく様子が「黄変つ」で表されています。歌の「妹」・「恋」は男女間恋愛を詠んだものではなく、姉が文字通り妹を慕って贈ったものです。作者の大伴田村大嬢(おほをとめ)は、大伴旅人の弟である宿奈麻呂の娘で、異母妹の坂上大嬢に親愛の情を抱いていました。それは、田村大嬢が、万葉集に残した八首の歌のすべてが妹の坂上大嬢に贈ったものであるということからもわかります。現代語訳では、「私の家に黄葉するかえでを見るたびに、あなたを心にかけて恋しく思わぬ日はありません。」となります。

かへるで ●現代名 カエデ

   わが屋戸に 黄変つかへるで
      見るごとに 妹をかけつつ
         恋ひぬ日はなし
            (8・一六二三)大伴田村大嬢




高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が旅先で詠んだ八首の歌のうちの一首です。「山城(やましろ)の高)」は京都府綴喜郡井手町多賀のことで、「槻(つき)」は「けやき」で、神聖な木を意味します。歌の内容は「もっと早く来て見ればよかったものを、山城の多賀の槻の木々は葉を落としてしまってるなあ。」と、多賀の槻の木々の葉が散る前にもっと早くに来ればよかったとの後悔を詠った内容となっています。これは、あるいは旅先からの帰りの歌で、もっと早く帰ってくればよかったとの意味だったのかも知れません。葉が生い茂った神聖な槻の木々の生命力を授かりたかったとの思いがよく表れている一首のように思われます。

つき ●現代名 ケヤキ 【にれ科】

   とく来ても 見てましものを
      山城の 高の槻群
         散りにけるかも
            (3・二七七)高市黒人




大伴家持の部下の尾張少咋(おわりのおくい)という史生(ししょう:ヒラの事務官)は、都に妻がいながら左夫流児(さぶるこ)という名の遊行婦女(うかれめ:宴会場などにいる接待係の女性)に夢中になってしまいました。そこで家持が少咋に注意して諭すために詠んだ歌です。「紅(くれない)染め」は紅花の花びら染めのことで、花やかな紅色に染まりますが直ぐに退色するので、浮気相手の女性に例えています。それに対して「橡(つるばみ)染め」は、黒や茶色の地味な色ですが変色しません。「慣れ親しんだ妻は、橡染めの布のようなもので絶対に叶わないよ」という意味です。

つるばみ ●現代名 クヌギ 【ぶな科】

   紅は 移ろふものぞ
      橡の なれにし衣に
         なほしかめやも
            (18・四一○九)大伴家持




「あしひきの」は「山」の枕詞、「白橿(しらかし)」は橿の一種でブナ科の常緑高木です。葉の裏が灰白色だからとも、材が白色だからともいわれます。「とををに」は、たわみしなうほどにの意味です。「とをを」は「たわたわ」の略「たわわ」の交替形です。和歌の意味は、「白橿の枝もたわわになるほどに雪が降っているので、どこが山道なのかも分かりません」ということのようです。作者の柿本人麻呂は飛鳥時代の歌人で、三十六歌仙の一人です。7世紀中頃に芸能・門付の家に生まれたという説があります。持統天皇に重用され、宮廷の公事の歌を多数詠みました。枕詞を多用したダイナミックな長歌と簡潔な短歌が特徴です。その後の消息は不明ですが、8世紀初めに石見で死去したとされています。

しらかし ●現代名 シラカシ 【ぶな科】

   あしひきの 山道も知らず
      白檀の 枝もとををに
         雪の降れれば
            (10・二三一五)柿本人麻呂




榎は、人里に近いところに見られる落葉高木で、樹高20m以上に生長します。花は春に咲き、同株に雄花と雌花を付け、秋には赤味を帯びた褐色の実をつけます。エノキの実は甘味があって食用にもされますが、高い場所になるので野鳥が集まります。そのために、榎には霊力が満ちていると考えられていたようです。この和歌は、榎の霊力を讃えて慕わしく思う人を呼び寄せようと、「鳥は集まってくるが恋しいあなたの訪れはない」と詠っています。

え ●現代名 エノキ 【にれ科】

   わが門の 榎の実もり契む
      百千鳥  千鳥は来れど
         君そ来まさぬ
            (16・三八七二)作者不伝




弓削皇子は、若くして亡くなった天武天皇の皇子です。この歌は吉野に僥倖したときに詠まれました。初夏の陽光にあふれ、山河は青々と輝いていて、ふと顔を上げると、先程からホトトギスらしき声が聞こえている。街路樹はすっかり青葉になり、はや夏も近くなった。ホトトギスは昔を恋うる鳥といわれていて、天武天皇ありし昔を恋焦がれていると、時の移りゆく早さを詠っています。「御井(みい)」とは、泉などをいいます。

ゆづるは ●現代名 ユズリハ 【とうだいぐさ科】

   古に 恋ふる鳥かも
      弓絃葉の 御井の上より
         鳴き渡り行く
            (2・一一一)弓削皇子




「つまま」は、クスノキ科の常緑高木の椨(たぶのき)のことです。主に沿岸部に生育し、奈良の都では見ない樹です。海辺の岩の上のつままを見ると、根を長く張っていて、年を重ねているらしい。巌の上に生えている生命力溢れる神聖なつままを讃美し、それを見ると見る者の生命力をも強くするといった意味です。「神さびにける」とは、神々しく尊いことをいいます。

つまま ●現代名 タブノキ 【くすのき科】

   磯の上の 都万麻を見れば
      根を延へて 年深からし
         神さびにける
            (19・四一五九)大伴家持




公園内には秋の七草の植物も植えられています。秋の七草の一覧には、それぞれに関連する和歌が掲示されています。春の七草が食用あるいは薬草とする植物を選んだものであるのに対し、秋の七草は万葉の時代に山野に多く自生していた若しくは栽培されていた植物を選んだもので「日本の秋の景を代表する植物」とされています。山上憶良が詠んだ万葉集に収められた次の2首の歌がその由来とされています。

・秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり) かき数ふれば 七種(ななくさ)の花 (葉集・巻八 1537)

・萩の花 尾花 葛花 瞿麦(なでしこ)の花 姫部志(をみなへし) また藤袴 朝貌の花 (万葉集・巻八 1538)

秋の七草

はぎ      百済野の 萩の古枝に 春待つと 居りし鶯 鳴きにけむかも    山部赤人
現代語訳    百済野の萩の古枝に春の到来を待っていた鴬は、もう鳴き始めただろうかなあ。

をばな     人皆は 萩を秋と言ふ よしわれは 尾花が 末を秋とは言はむ   作者不詳
現代名 ススキ
現代語訳    人は皆、萩のよさを秋だという。たとえそうでも、私は尾花の穂先のよさをこそ、秋といおう。

をみなへし   女郎花 咲きたる野辺を 行きめぐり 君を思い出 たもとほり来ぬ  大伴池主
現代語訳    女郎花の咲いている野辺をめぐり歩きながら、あなたを思い出してはあちこちと女郎花を求めてさまよって来ました。

なでしこ    野邊見れば 撫子の花 咲きにけり わが待つ秋は 近づくらしも  作者不詳
現代語訳    野べを見ると撫子の花が咲いていたことだ。わが待ちのぞむ秋は近づいているらしいよ。

くず      雁がねの 寒く鳴きしゆ 水茎の 岡の葛葉は 色づきにけり    作者不詳
現代語訳    雁が寒々と鳴き渡って以来、水茎の丘の葛の葉は黄葉しつづけたことだ。

ふぢばかま   萩の花 尾花葛花 なでしこが花 女郎花 また藤袴 あさがほが花 山上憶良
現代語訳    萩の花、すすき、葛の花、なでしこの花、おみなえし、藤袴、朝貌の花。

あさがほ    朝顔は 朝露負ひて 咲くといへど 夕影にこそ 咲きまさりけれ   作者不詳
現代名 キキョウ
現代語訳    朝顔の花は朝露にぬれて咲くというけれど、夕方の光の中にこそ、一層美しく咲くことだった。




そのまま読むと、「秋の野に咲いている秋萩が秋の風になびいている上に秋の露がのっている」ということになります。技法的には、「秋」の音を4回使い、「秋の野」から「秋萩」、そこへ吹く「秋風」ヘ、更に花の上に乗る「秋の露」ヘと、まるでズームカメラのように焦点を狭めています。「秋風に靡く萩の上の露」ですが、萩という植物は枝が細く殆どが枝垂れて花を咲かせます。その上に秋露がのり、更に秋風が吹いているというのですからかなり不安定な状況です。露を落とすまいとしている萩に感動したのか、萩にしがみつくように留まる秋露に感動したのかわかりませんが、当時の大伴家持自身の心境も歌に盛り込まれているのかもしれません。歌が詠まれた時代は政治権力の陰謀渦巻く天平時代です。代々朝廷の舎人だった大伴氏は権力闘争において不利な状況に追い込まれていました。父の旅人の死後、一族の長となった家持は「万葉集」の編集者といわれているにもかかわらず、地方を転々とする役人になっていました。そんな不安定さを風に靡く萩や、かろうじて萩に留まる秋露に我が身を例えたのかも知れません。

はぎ ●現代名 ハギ 【まめ科】

   秋の野に 咲ける秋萩
      秋風に 靡ける上に
         秋の露置けり
            (8・一五九七)大伴家持




天平勝宝六年(754年)7月に、大伴家持がひとりで天の川を仰ぎ見て詠んだ歌のひとつです。「秋になって初めて穂の出た尾花、彼女はその尾花のように見える。天の川に隔てられているからだろうか、この一年の長い日々」といった意味です。「年の緒」とは、年の長く続くことを緒に例え、逢瀬までの月日を指します。

をばな ●現代名 ススキ 【いね科】

   初尾花 花に見むとし
      天の河 隔りにけらし
         年の緒長く
            (20・四三〇八)大伴家持




「女郎花の生える沢のほとりの葛の原よ、その葛を何時か手ぐり採って私の衣として着たいものだ」という意味です。「女郎花(おみなえし)」は女性の寓意、「繰りて」は「糸を繰る」すなわち「織って」、「わが衣に着む」は「女性をわがものにしたい」という歌です。

くず ●現代名 クズ

   女郎花 生ふる沢辺の
      真田葛原 何時かも絡りて
         わが衣に着む
            (7・一三四六)作者未詳




尾竹橋通りを横断し、舎人公園北通りに入ります。



ポイント4.應現寺

一つ目の信号を左折した先の右手に応現寺があります。

応現寺

応現時(寺?)は時宗を宗旨とし、西嶋山煎雲院と称し、阿弥陀如来立像を本尊とする。「新編武蔵風土記」によれば、当初は天台宗であったが、遊行二祖他阿真教上人により時宗に改められたと伝わる伊興地区の古刹である。「応現寺過去帳」(足立区登録有形文化財)には、山門は、寛永十四年(1637年)、十七代住職学円代の建立と記されている。流破風桟瓦葺の四脚門で、後世の補修も加えられているが、江戸時代初期の山門建築の特徴を示しており貴重である。また、山門前の石灯籠二基(足立区登録有形文化財)は、承応三年(1654年)七月に、常田彦左衛門光能が父母のために寄進したものである。二基とも保存状態がよく、建立年次も明らかなもので、区内では古い遺構例として重要である。寺内には時宗に深く関連する、天文七年(1538年)銘以下四基の六字名号板碑(足立区登録有形文化財)、享保十三年(1728年)銘庚申塔(足立区登録有形民俗文化財)等の石造物が保存されている。




時宗のお寺は多くはありませんが、時宗は鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派の日本仏教で、総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)です。開祖とされる一遍には新たな宗派を立宗しようという意図はなく、その教団・成員も「時衆」と呼ばれました。時衆とは、善導の「観経疏」の一節「道俗時衆等、各發無上心」からきていて、一日を6分割して不断念仏する集団(ないし成員)を指します。時宗(時衆)の語源は、念仏を中国から伝えた善導大師が時間ごとに交代して念仏する弟子たちを「時衆」と呼んだ事が起源とされています。



山門の前には、足立区の保護樹林に指定されている黒松が聳えています。

足立区指定第745号
保存樹木 くろまつ

カラスや毛虫や落ち葉など周辺の家々にはご迷惑をかけておりますが、地球環境を守るための「みどり」として大切にしてきました。「みどり」の無いまちは、潤いも安らぎも無くなります。これからも大切に育てていきます。




山門は、流破風桟瓦葺の四脚門でになっています。四脚門(しきゃくもん)とは、日本の門の建築様式のひとつで、門柱の前後に控柱を2本ずつ、左右合わせて4本立てたものです。この門形は重要文化財として残る日本の門の中で最も多く見られ、格式の高い門とされています。四脚門は、平安時代には大臣級の貴族の屋敷に、鎌倉時代以降は将軍家の正門や寺院の正門などに使用されました。



山門前の石灯籠二基は、足立区の登録有形文化財になっています。



本堂の前に2本の銀杏の木があります。晩秋で葉は落としていますが、数百年の樹齢を重ねたお寺のシンボルのような木です。

足立区指定第376・377号
保存樹木 いちょう

地球環境に欠かせない緑として大切に育てています。春の新緑・夏の緑陰・秋の紅葉・冬の陽だまりを、静かにご覧になって、お楽しみ下さい。二本の銀杏は数百年に渡る変遷の中で、遠い昔を物語りたげに佇んでいます。




一遍は、延応元年(1239年)に生まれ、十歳の時に仏門に入り、建長三年(1251年)からは太宰府の聖達上人の元で浄土教を学びました。文永十一年(1274年)に全ての財産を捨てて一族とも別れ、16年間の遊行の旅に出ました。熊野本宮大社に着いた時、夢の中に白髪の山伏の姿をした熊野権現(阿弥陀如来)が現れ、「一切衆生の往生は、阿弥陀仏によってすでに決定されているので、あなたは信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配らなければなりません。」とのお告げを受けて歓喜し、この時から一遍と称して諸国遊行を続けました。弘安二年(1279年)からは、信濃国佐久郡(長野県佐久市)で一遍が尊敬してやまない平安時代の僧侶空也が始めた輪になって念仏をとなえながら踊る、踊り念仏を始めました。一遍は著書を残すこともなく、信徒を組織化して教団を作ることもしませんでしたが、弟子の他阿弥陀仏が時宗の教団化を行うことで再興しました。「一遍」の「一」は一如・「遍」は遍満を表し、一遍は「一にして、しかも遍く(あまねく)」の意味です。



赤山街道を横断します。赤山街道は、江戸時代に関東郡代として関東地方の開発にあたった伊奈氏が土木工事を推進する中で、拠点とした赤山陣屋(現在の川口市赤山)と現地との連絡や物資の輸送を目的として設けた道をいいます。道筋として、大宮道・越谷道・千住道の3つがあります。その中のひとつが「千住道」で、赤山陣屋から足立区へ向かい、葛飾区小菅の小菅御殿までの道筋です。竹の塚地域では、竹ノ塚駅の高架下を北西から南東に真っ直ぐに延びています。



ポイント5.伊興四丁目

住宅地の中を抜けて、「七曲がり」に出ます。「七曲がり」は、赤山街道の伊興町前沼交差点から環七通りの西新井大師前交差点まで続く道路の愛称です。七曲がりの起点の電柱には「七曲がり 伊興4−1」のプレートが貼られ、その下には「七曲がり」・「この道路愛称名は公募によって選ばれました 足立区 28.1」と表示されています。「七曲がり」とは、道路や坂などが幾重にも折れ曲がっていることを表しています。数えてはいませんが曲がっている箇所は七つどころではありません。



道路脇の一段高くなったところに、宝永二年(1705年)銘の六万部経塚(題目塚)碑があります。敷地には、平成三年(1991年)に塚が整備された時に建てられた「南無妙法蓮華経」と刻まれた宝塔が建っています。

六万部経塚(題目塚)

六万部とは法華経二十八品を繰り返し六万回にわたって唱える意味で「六万部経塚」の名の由来もここにある。寿福山長勝寺の第一世智性院日座聖人は千七百五年(宝永二年)国土の平和と、皇室の行く末の平安とこの土地の住民並に檀信徒の末長き幸せを祈願し小石に題目を書写してこの土地に埋めたとされる。日座聖人と聖人が始めた題目講の信徒は、昼夜の別なく法華経を読誦しその法聲は周囲に響き渡って、多くのものの信仰を集めることになったという。以来土地の者は、この地を「六万部」と称し、諸願の達成を願うところとなった。古くからある塚碑には、「宝永二年霜月十三日立」とある。平成三年長勝寺第四十二世・慈海院日和上人の時代にこの経塚を整備再建し「南無妙法蓮華経」の題目を書写した法塔が建立されることとなり、改めて世界平和、国土安穏、法華経弘通、参詣者の諸縁吉祥、心願満足が祈念された。「南無妙法蓮華経」とは天地一切を貫く「真理」であり、万物の母なるものである。この前に一切の宗派なく、われも他人もともに絶対平等の命を現すことが出来る。この法塔の功徳が万人に至ることを祈るものである。この一大事業が成し得たことは母なる妙法と父なる釈尊の加護と感謝し、またこの再建に助力を寄せた多くの方々に厚く御礼の意を表しその名を法塔の基盤に永く記すものである。




路地の入口に「千葉次郎勝胤の墓」の石碑が建っています。



中世の足立区には、武蔵千葉氏と呼ばれる一族がいました。千葉氏は、下総国を拠点とする名門でしたが、室町時代に下総千葉氏と武蔵千葉氏に分裂しました。武蔵千葉氏は、足立区内の中曽根城(足立区登録記念物〈史跡〉)を拠点のひとつにしていたため、足立区には千葉氏の一族・家臣だったと伝わる家が多く残っています。千葉勝胤は、下総本佐倉城の城主だった人物で、享禄五年(1532年)5月21日に死去しました。一説には戦死したともいわれています。

千葉次郎勝胤の墓

下総国千葉庄(現在の千葉県千葉市付近)を本拠地とした武士団千葉氏は、鎌倉幕府の開設にも重要な役割を果たし、中世を通じて房総地方に勢力を誇った。十五世紀のなかばに関東で起こった享徳の乱により千葉氏一族は内部分裂し、嫡流は武蔵東南部に拠点を移した。これを武蔵千葉氏という。後に戦国大名小田原北条氏の家臣に組み入れられた。永禄二年(1552年)に北条氏が、家臣の果たすべき負担を当時の貫高に所領地名を付けて表わした「北条氏所領役帳」には、千葉氏は足立周辺で淵江、伊興、保木間、沼田、千住、三俣などを領していたことが記されている。千葉勝胤は武蔵千葉氏の系図にはその名は見えず、この墓の造立年月日も不明であるが嫡流あるいは伊興を領有していた一族と思われる。宮城、市原、常田氏等の伊興の旧家の名も銘記されており、中世の武蔵千葉氏の存を伝える貴重な歴史資料である。




墓所は長勝寺に移されました。

「千葉次郎勝胤の墓」移転のお知らせ

足立区登録有形文化財「千葉次郎勝胤の墓」は、現在地から平成十九年十二月を以って、伊興三丁目十一番十九号の長勝寺境内に移転しました。長勝寺は、現在地から東南に直線で約250メートルのところにあります。徒歩で約五分ほどです。お訪ねの方は、左の地図を参考にして下さい。




墓石は移されましたが、代わりに石碑が置かれています。

千葉次郎勝胤公旧史跡

当地に建立されていた千葉次郎勝胤公の墓は、中世後半以降、足立区周辺を領有していた下総国千葉荘に由来をもつ武蔵千葉氏一族と思われる武将のものである。史料の少ない戦国時代の郷土の歴史をしのぶ重要な史跡として、昭和五十七年十二月に足立区登録有形文化財(歴史資料)になって現在に至っている。江戸時代後期、徳川幕府が編纂した「新編武蔵風土記」伊興村の項は、「千葉勝胤墓」という見出しを設け、「村ノ中央???沼の内長勝寺ノ免田ノ傍ニアリ」と記録しており、???旧伊興村の中心であるこの場所に安置され、供養されていたことがわかる。しかしながら、周辺の都市化により当地での回向が徐々に困難になってきたことを考慮し、平成十九年十一月三日に????た脱霊供養後、菩提寺である伊興長勝寺境内に御霊と共に??を移安し、将来にわたり供養、保存されることとなった。ここに千葉次郎勝胤公の墓旧跡の歴史と由緒を後世に語り継ぐため碑文を以って銘し遺すものである。




ポイント6.実相院

実相院は、奈良時代に行基によって開山されたといわれています。康平六年(1063年)に源頼義・義家父子が前九年の役の勝利に感謝して寺領を寄進して以降、次第に寺運興隆していきました。かつては現在よりも大規模な寺院で、寛保四年(1744年)に紀州藩世子徳川宗将から両界曼荼羅の寄進を受けています。しかし、安政二年(1855年)の大地震で大破し、現本尊の聖観世音菩薩を安置していた横沼観音堂に寺院機能を集約して現在に至っています。このような歴史的経緯もあり、山門から入って正面に見える仏堂は旧横沼観音堂であり、横にも仏堂があります。この仏堂が実質的な本堂となっています。

子育観音 實相院

本寺は天平年間行基によって草創され、源頼義父子が奥州征伐のおり宿願し帰途の際、十有三町の土地を寄進したといわれている。寺寶としては平安時代後期の作と推定される等身大の本尊聖観世音菩薩像をはじめ鎌倉時代の作風をあらわす不動明王、毘沙門天造と延慶二年(1309年)の板碑がある。なを江戸時代のものとしては寶暦八年(1758年)に改作された本尊略縁起版木、母乳祈願のお禮として、紀伊宰相宗将が奉納した両界曼荼羅、仁王像、六地蔵、寶筐印塔、石灯籠武蔵三十三ケ所選などの石造物、幕末動乱の様相を物語る浪人征伐横死萬霊の碑などがある。また百萬遍供養碑など他人の信仰形態をあらわす念佛講と現世利益先亡追善のため春秋の彼岸に摺佛を墓碑などに貼る宗教的行事が現在でも行われている。このように本寺には都の重寶に指定されている聖観世音菩薩像、本尊略縁起版木のほか郷土の往古を偲ぶ価値のある文化財がきわめて豊富である。




實相院は、伊興七福神巡りの大黒天・弁財天・毘沙門天の3神を安置しています。



門前の仁王像は、ちょっとユーモラスな表情をしています。



鐘撞堂の前には力石が並んでいます。



山門を入った正面に観音堂があります。實相院の本堂はその右手の建物です。



實相院は、お乳が出るようにと、女性の命とも言うべき髪の毛(一房)を奉納し願うと瞬く間にお乳が出るようになるということで、「お乳の観音様」を経て「子育観音」と呼ばれるようになったとのことです。江戸時代には、その霊験を聞いた紀伊宰相宗将公(徳川宗将)の奥方が参詣し、無事に嫡男をもうける事が出来たということで、宗将公から両界曼荼羅と直筆の覚書が寄進されました。

子育観音縁起

往昔、當町は沼地で今尚一帯の地名を横沼と言ふ。天平年間(約千二百年前)行基菩薩が諸國行脚の砌、此の地に錫を止めて池中に浮ぶ霊木を拾い上げ、自から大悲の尊像を刻んで一宇を創立し、此の尊像を奉安した。康平年間(約九百年前)、源ョ義・八幡太郎義家が安部貞任追討の朝命を奉して當地に陳し、朝敵降服並に戦捷を祈誓し、乱(前九年の役)平定後十有三町の地を寄附して境内とし、相次で武蔵守藤原成實も亦巨額の浄資を投じて荘厳なる堂塔を建立せられたが、数十世を径て、文永元年五月十七日(約七百年前)火災にて焼失。現在の御堂は文永の末年、當山の中輿良盛法印の再建になったのを明治廿二年更に改築修繕したものです。赤子育の由来は、母乳の不足に悩む人が富山の御供米を戴き、皆御利益を賜はったので、又開運の御佛でもあり、所願成就せざるなきあらたかな観音として一般の信仰を集めています。




八幡太郎義家公に因んで、白馬像を祀った白馬堂があります。



實相院のはす向かいに福寿院があります。福寿院は、天和三年(1683年)に法印慶宥によって開山されました。実相院住職の兼務だったり、無住(住職不在)の時期が長く、専任住職になったのは近年になってからということです。本堂は昭和二十年(1945年)の空襲で焼失しましたが、昭和五十三年(1978年)に再建されました。



福寿院は、伊興七福神巡りの寿老人と福禄寿の二神を安置しています。



ポイント7.七曲り道

七曲がり道を進みます。直線区間が全くないですね。「七曲がり」という道路名から受ける印象は、七か所のカーブがある曲がりくねった歴史ある古道を想像しますが、その実態は用水路沿いの道だったらしいです。足立区のホームページには、2015年に区内47路線の道路に愛称名を付けたことが公開されています。その一覧表の32番目に、愛称名:七曲がり(ななまがり)・起点:伊興四丁目1番・終点:栗原三丁目10番として掲載されています。



ポイント8.源正寺

真言宗豊山派寺院の源正寺は無量山と号し、創建年代は不詳ながら、かつて延徳三年辛亥六月三日相阿弥陀佛と刻した古碑があったといい、鎌倉時代に時宗玄性寺として創建したといわれています。天文二十年(1551年)に真言宗に改宗し、源正寺と改号しました。伊興七福神の恵比寿神を祀っています。



ポイント9.諏訪木東公園

源正寺の墓地の裏側に諏訪木東公園があります。諏訪木東公園は諏訪木西公園に隣接し、遊具にはすべり台やシーソー・砂場・スプリング遊具があります。なかでもカラフルな柵を組み合わせたような遊具が特徴で、まるで分解したジャングルジムのようです。色々な体の動作ができて、鬼ごっこなども楽しめそうです。その他に球技場を備えていて、各種球技に利用されています。



尾竹橋通りに出る手前の住宅地の中に雷神社があります。江戸時代の中期(1713年)にこの地方は度重なる落雷に襲われ、田畑は荒れ果て草木は枯れて荒れ地と化し、そこに享保の大飢饉も重なり、長い歳月が流れていきました。村人たちは寄り合い、雷の大神を建立し氏神様として祀り、神社の境内中央にご神木として椎の木(スダジイ)を植樹し、村人たちの安泰五穀豊穣を祈願したと伝えられています。月に何度か(土・日曜日・祝日)には社務所で御朱印を受け付けていて、雷神社専用の御朱印帳が販売されています。

雷神社故事来歴

由緒

  • 江戸時代の中期正徳三年(1713年)、この地方は度び重なる落雷に襲われ、田畑は荒れ果て、草木は枯れて荒地と化し、旱魃は続いて享保の飢饉となって長い歳月は流れていった
  • 徳川八代将軍吉宗の復興を奨励する享保の改革もあって、新田の開発も行われ、治水も進むなかで、村人達は寄り合い協議の上、雷なりの大神を建立し氏神様として祀り、神社の境内中央に御神木として椎の木(スダジイ)を植樹し、郷人達の安泰五穀豊穣を祈願したと伝えられる。
  • 建立した当神社の御神体は石造坐像で、碑高一尺二寸・碑巾八寸五分あって、当神社に安置されている座像の台座には享保十八年(1733年)丑の九月吉日西新井村中と銘刻されてある御神体建立は、今から二百六十年前のことである。
  • 大正四年卯の四月大正天皇の即位を記念して神社の改築及び整地を行ない、数十本の植樹をして奉納した。
  • 昭和五年(1930年)、現在の社殿を木造流れ造りに造営する。
  • 平成四年(1992年)有志により雷神社玉垣奉賛会を結成し、神社聖域の玉垣を建立し、併せて狛犬一対の献納をして現在に至っている。




拝殿前には、奉納された狛犬が鎮座しています。



境内の中央には、スダジイの巨木が聳えています。

足立区指定第265号
保存樹木 すだじい

当雷神社には、この御神木の「スダジイ」以外にも約20本の木々があります。隣接の「いかづち」公園の樹木と共に、春は新緑を楽しみ、夏は木陰となって地域住民の憩いの場となっています。今後も大切に見守りたいと思います。




栗原立体交差は、区道補助258号線と尾竹橋通りを結び、東武スカイツリーラインをアンダーパスで交差しています。平成二年(1990年)3月に開通しました。



ポイント10.西新井大師

西新井大師に着きました。環七から続く長い参道の先に山門があります。

足立の名所・西新井大師

西新井大師は、正式名称を五智山遍照院総持寺という新義真言宗豊山派の寺院である。寺の伝えでは平安時代初め、全国で天災や疫病がはやったとき、この土地を通りかかった弘法大師が十一面観世音菩薩のお告げでその仏像を刻み、災いがおさまることを祈った。その効果があって災いは去り、この地の人々はお堂を建てて大師作の十一面観世音菩薩像と大師像をまつったという。西新井の地名は、弘法大師が祈祷する際、仏に備える水がないので大地に向かって祈ると新しい井戸がわき出たという伝説にちなんだものと言われる。本尊は、過去数回の大火でも無事であったため、「火伏せの大師」とも称された。やがて利益の期待は、防火から厄除け全般に広がった。江戸時代後期、江戸周辺の名所を紹介した地誌類には、普段の参詣客も多いが、特に毎月21日の縁日には本尊の開帳があって大変なにぎわいであると書かれている。かつて足立区周辺には、西新井大師に向かって「大師道」といわれるいく筋もの参詣路があった。弘法大師伝説にちなむ寺と地名がはじまりと伝わる西新井大師は、江戸から東京を通じて、足立有数の名所として今に至っている。




歴史と文化の散歩道の案内板が建っています。

西新井大師

正しくは五智山遍照院総持寺。天長三年(826年)弘法大師の創建によるといわれています。古くから厄除け開運の霊場として名高く、人々の信仰を集めてきました。本堂は江戸中期の再建といわれ、十四間四方、総欅つくり、入母屋破風造りで壮厳な偉容を誇っていましたが、昭和四十一年火災により消失。現在の本堂は昭和四十六年に完成したものです。従来の山門、三匝堂、宝照殿講堂、光明殿などとともに、大伽藍を形成しています。また文化・文政(1804年〜1829年)の頃よりぼたんの名所としても知られています。境内5箇所のぼたん園には4、500株余りが植えられ、4月から5月の花の季節には絢爛たる美しさで訪れる参詣者の目を楽しませてくれます。

Nishiarai Daishi

Believed to have been established in 826 by the saint Kobo Daishi, this temple has for centuries been renowned for its powers to ward off ill fortune. It is also known for its peony flowers, over 4,500 of which are growing in the grounds.




山門は江戸後期に建立され、両脇に金剛力士像を祀っています。足立区の指定文化財です。



大本堂は昭和四十六年に再建され、堂内には十一面観音(秘仏)・空海自刻と伝える弘法大師像(秘仏)の他、四天王像・阿弥陀三尊像(旧三匝堂安置)を祀っていて、護摩祈祷が毎日行われています。また、毎年10月の第一土曜日には、北斎会として、紙本着色弘法大師修法図が公開されます。縦150センチメートル・横240センチメートルの大作で、現存する葛飾北斎の最大級の肉筆画であり、弘法大師空海が祈祷をしている様子が描かれています。



境内には様々な堂や像が建っています。山門を潜った右手には塩地蔵を祀った堂が建っています。塩地蔵は、全身に塩をかぶっていて、その塩をイボにつけると取れるという霊験があります。返礼として、頂いた倍量の塩を納めるしきたりになっています。

塩地藏

ここに安置の地蔵菩薩は、江戸時代より特にいぼ取りその他に霊験ありと伝えられ、御堂内の塩をいただきその功徳ある時、倍の塩をお返しするところから塩地蔵と申し諸人の信仰盛んなり。

真言
おんかーかーかびさんまえいそわか




空海は平安時代初期の僧で、真言宗の宗祖です。西新井大師は、空海(弘法大師)が関東巡錫の途中で西新井を通った際、本尊である観音菩薩の霊託を聞き、本尊の十一面観音を彫り、天長三年(826年)に寺院を建立したことに始まるとされています。江戸時代中期に建立された本堂は、昭和四十一年(1966年)に火災によって焼亡しましたが、本尊は難を逃れました。本堂は昭和四十六年(1971年)に再建]されました。川崎大師などと共に「関東三大師」のひとつに数えられ、毎年の正月には初詣の参拝客で賑わいます。境内には、弘法大師によってもたらされたとされる加持水の井戸があります。この井戸が本堂の西側に所在することが当地の地名である西新井の名の由来とされています。中野区にある新井薬師と同じ真言宗豊山派の寺院です。境内に、空海の銅像が建っています。

弘法大師立像

真言宗の開祖、讃岐の人、名は空海、勤操大徳に従って出家し、求聞持法を受け延暦十四年(795年)東大寺戒壇に登って授戒、同二十三年(804年)五月入唐、長安青龍寺に於いて恵果阿闍梨より悉く密教を伝授した。大同元年(806年)帰朝の後は真言密教を弘め、承和二年(835年)三月二十一日高野山で入定され、醍醐天 皇より弘法大師の諡名を賜った。この立像は、開宗千百年の記念に東京千住睦講により諸国巡錫の御影を現したものである。




塩地藏の左手に、紅殻色の唐風の三重塔が建っています。三匝堂(さんそうどう)は、明治十七年に建立され、足立区の指定文化財になっています。都内に残る唯一の栄螺堂で、古くは登ることができましたが現在は内部は非公開になっています。

三匝堂(栄螺堂)

この堂は一見三重の塔に見えるが、江戸時代に流行した三匝堂(さんそうどう)で、俗に栄螺堂(さざえどう)と言われる仏堂の一形式である。江戸中期本所の羅漢寺に建てられたものをはじめとして、関東以北の寺院に相当建てられたらしい か、今に残る遺構は非常に少ない。都内では明治十七年改築とはいえこの堂のみで、貴重な建築物である。堂の内部には、初層に本尊の阿弥陀如来と八十八祖像、二層に十三仏、三層に五智如来と二十五菩薩を祀ってある。現在は本尊が新本堂に移されている。昔は、ここに参れば一時に諸国の霊場、諸仏を巡拝したのと同じご利益があるとされ、さざえの殻の中のような堂内を初層から三層まで巡拝した。




境内の奥まったところに水子供養の地蔵堂が建っています。

地藏尊 水子供養

地蔵菩薩は釈尊入滅後、弥勒菩薩出世までの間無仏の五濁悪世の救済を仏よりゆだねられ、さまざまに姿を変え六道を化導し、三途の川の賽の河原に在っても子供たちの迷いを除き能く救うとされます。御供養となる五輪塔婆を献ずることは地蔵菩薩建立の意味を成し、大慈悲の功徳によって精霊を擁護し安らか成らしめます。

ご真言
おんかーかーかびさんまえいそわか




不動堂が建っています。

不動堂

本尊不動明王は、不動尊又は無動尊とも云い、大日如来か済度し難い衆生に対し、右手に剣、左手に索を持ち、大火焔を放ち、忿怒の相に現じ、一切煩悩を調伏し、遵法せしめ給う尊である。堅固不動の浄菩提心の尊なれば、諸願成就は勿勿、悪毒、災害を除き、延寿除病等効能広し。堂内には不動明王を中央に、右に制迦、左に矜羯羅の二童子を祀り、當山修行の道場である。

ご真言
のうまくさまんだばざらだん せんだまかろし やだそわたや うんたらたかんまん




境内の奥に十三重塔が建っています。

十三重宝塔

この塔は、高祖弘法大師報恩謝徳の為に建立されました十二重の塔です。塔身には高祖大師の御影を謹刻し、内には恵果阿闍梨より受け継がれた仏舎利一粒が納められ、さらに高祖大師ゆかりの聖地より白砂聖石を蒐め埋納されております。塔は卒都婆(ストゥーパ)と言われ、お釈迦様の仏舎利を奉安されるために建造されたのが始まりです。密教では卒塔婆鈔に「大日遍照の一身十方諸仏の具体」と説かれております。造立供養の功徳は無辺にして、量り難く十種の功徳を被るといわれます。




中島に弁天堂が建っています。

弁天堂

本尊の弁財天は音楽、弁才、財福などを司る女神で妙音天、美音天ともいう。もと印度の河神で、のち学問、芸術の守護神となる。当社の建立は詳らかではないが、江戸期の古書にも記されて、現在、芸道達成、学業成就、航海安全等の祈願成就を願う人々が少なくない。

ご真言
のうまくさまんだぼだのう そらそばていえいそわか




一段高くなった所に権現堂が建っています。

権現堂

権現堂の由来は、遠く当山建立の砌り、山内の、地鎮のために権現像をまつることに始まる。その後数度の修復を経て今日に至る。権現とは、衆生済度の為に仏が神に化身して、我が国に現れた御影を申し上げる。




如意輪堂は、境内の裏手にひっそりと建っています。

如意輪堂(女人堂)

本尊如意輪観音は、法輪を転じて苦しみを受ける一切有情に宝財を施し、あるいは如意珠より福智二徳を出生し、衆生の苦を除き楽を与える観音菩薩である。當山では、何時の頃からか、特に女人の諸願成就に霊験ありとされ、その功徳多き故に女人堂と伝えられ、衆生の帰依と共に今日に至る。

ご真言
おんはんどま しんだまに じんばらうん




奥の院が建っています。奥の院は、高野山奥の院を江戸後期に勧請したもので、弘法大師を祀っています。

奥の院

今にまします弘法大師様高野山奥の院を関東に奉迎して当地にまつりました。かつてこの御堂の前に御霊屋影見の井戸あり、かかるところから当山は関東の高野と称され高野山の代拝所として江戸の昔より今日まで善男善女の参する者が多い。

《御遺告》
虚空尽き涅槃尽きなば吾が願いも尽きなん




1200年以上の歴史がある四国八十八ヶ所霊場巡りですが、昔は今のように交通の便も発達しておらず、遍路の旅を願いながらも様々な事情で叶える事ができない人が大勢いました。そこで約400年前に考えられたのが「お砂踏み」です。各霊場のご本尊様の写し仏をお祀りし、持ち帰った八十八ヶ所霊場のお砂を踏みながら礼拝することで、お四国を巡ったことと同じ功徳を得られると考えられてきました。この「お砂踏み」を用いた「写し霊場」は盛んに日本各地に設けられ、今でもお遍路に出掛けられない人々を迎えています。

四国八十八箇所霊場
同行二人お砂踏み巡礼所

厄除弘法大師のご利益と観音慈悲の功徳を一時に与えて下さる礼拝所。基壇の周囲、石板の下には、四国霊場と高野山の霊砂が順に敷かれております。

<礼拝尊像>
 十一面観世菩薩像 四国八十八所大師像
 高野山奥之院大師像 弘法大師父君母君像

<礼拝の心得>
 心穏かに保ち願いを込め南側正面より入場。
 正面にて合掌礼拝、「南無大師遍照金剛」をお唱えしながら左側から順に一周して下さい。
 前の方とは間隔をあけ一列にてお歩き下さい。
 最後に正面で合掌礼拝して退場。




菩提樹が植えられています。

菩提樹

お釈迦さまは、二十九歳で悟りを求めて出家をし、六年間にわたる難行苦行をつらぬきましたが苦行では悟りを得る事ができないことを知ったお釈迦さまは、菩提樹の下に座り、悟りを得るまではこの座を立たない事を誓い、数日を経てついに悟りを開かれたのです。時に十二月八日、お釈迦さま三十五歳のときでした。悟りを得ることを成道と呼び、また真理に目覚めた人を仏陀といいます。




その昔、牡丹は奈良の総本山長谷寺から移植され、西新井大師では文化・文政(1804年〜1830年)の頃より牡丹園が展開されました。「西の長谷寺・東の西新井」とは、牡丹の名所を表す言葉です。西新井大師に3ヵ所ある牡丹園のうち、最も大きいのは第2牡丹園です。遊歩道も整備され、大師駅前から東門へと誘うように配されています。趣のある山門とともに情景を生み出す第3牡丹園など、大小の園はそれぞれに特色ある魅力を表現します。境内の牡丹が満開になる頃、西新井大師の「花まつり」の賑わいは最盛を迎えます。



ポイント11.西新井本町

西新井大師を出て、環七を渡り、西新井大師道を尾竹橋通りに向かって進みます。



ポイント12.アリオ

アリオ西新井は、都市再生機構が開発主体として進めた、14.5haに及ぶ日清紡東京工場跡地再開発事業「西新井ヌーヴェル」のひとつとして、平成十九年(2007年)11月9日にグランドオープンしました。イトーヨーカ堂が新業態「アリオ」として運営する大型ショッピングセンターとしては、全国で6店舗目(都内ではアリオ亀有に次ぐ2店目)で、イトーヨーカドーとしては176店舗目になります。東武スカイツリーライン西新井駅西口近くの環七通りと尾竹橋通りの交わる場所に位置していて、商業施設としての立地環境に優れています。また既存アリオの川口と亀有から何れも直線距離で十数キロメートルしか離れておらず、アリオとしてドミナントを形成しています。そうした立地特性もあり、モール型SCとしては狭く、1550台分の駐車場も地下・4階・5階・屋上に設置され(売場は1〜3階)、都市部のSCならではの構造となっています。店舗面積は3層構造で31、000uあります。

「アリオ西新井」は、イトーヨーカドー西新井店をメイン施設にして、100を超える専門店が集うショッピングモールです。地域の特性に合わせて、親子だけでなく、おじいちゃん・おばあちゃんまで三世代で楽しめるやさしい施設設計が特徴です。専門店は、マタニティから育児用品が揃うアカチャンホンポを始め、ベビードールなどの人気ブランドのショップ、かわいい衣装が揃うスタジオキャラット、ユニクロやGU(ジーユー)、無印良品など、ファッションから生活サービスが揃うほか、TOHOシネマズも併設していて、最新の映像・音響設備で迫力ある映画を楽しめます。赤ちゃん休憩室には、調乳専用温水器・授乳室・子ども専用トイレ・おむつ交換台・ベビーキープ・乳幼児用の計測機器・絵本コーナーなどを完備し、無料のマタニティ・育児相談室も設けています。ママがお買い物をしている間にパパと子どもが過ごす場所として使える「なかよしひろば」や、子どもも掴める高低差のある「2段手すり」など工夫のある設計が好評です。



ポイント13.西新井さかえ公園

アリオ西新井と「せんぷ通り」を挟んで西新井さかえ公園があります。西新井さかえ公園は、日清紡東京工場が建てられていた跡地を再開発し、その一画に公園が整備されました。隣接街区との一体的な街路景観を形成しながら、路地空間や街角広場を創り出しています。いぶし瓦や陶板を採用し、手作り感・素材感・地域性を反映した景観を呈しています。ベンチが沢山設置されていますので、ゆっくり寛ぐにももってっこいです。トイレも清潔で、オムツ換え台が設置されていますので、小さなお子さん連れでも安心です。



公園には高木が林立し、周囲の高層住宅の住民の憩いの場になっています。



遊具も揃っています。



地区の歴史を解説した案内板が貼られています。



「のどかな時代」です。

のどかな時代

西新井大師は、江戸時代には、多くの参拝人で賑わいましたが、参道を外れれば、のどかな景色が広がっていました。明治三十二年(1899年)に、東武鉄道西新井停車場ができ、西新井大師までの沿道に少しずつ市街地が広がりました。昭和三年(1928年)頃にできた西新井音頭にその当時の風物が歌われています。

一つとせ 一番電車に乗り込んで 浅草停車場発車して 目ざす名所は西新井
二つとせ 二、三十分足らずで駅につき 降れば自動車の備えあり 西も東も花畑
三つとせ 見わたす限り花園で 春夏秋のながめあり 色香あらそい乱れ咲き




「進む市街化」です。

進む市街化

大正七年(1918年)この地に東京紡績(株)(大正十三年に合併して日清紡績(株))が進出し、この地の市街化のきっかけとなりました。その後、昭和五年(1930年)に荒川放水路が完成したことで水害も少なくなり、徐々に市街化が進み始めました。昭和三十年以降の経済の高度成長期に、ほぼ今の市街地がかたちづくられました。




「工場が移転して」です。

工場が移転して

平成十年(1998年)、日清紡績(株)東京工場移転の決定を機に、足立区は日清紡績や地域住民の協力を得て、UR都市機構とともに新たなまちづくりに取り組んできました。この公園は、日々の憩いの場となりながら、防災公園として住民とまちを守っていく機能を担っています。今後も、この地の発展を見守っていくことでしょう。




ゴール地点の東武スカイツリーライン西新井駅西口に着きました。



ということで、足立区で「A−北西コース」の最後となる十七番目の「A−北西エリア 17.竹の塚第七公園から西新井さかえ公園コース」を歩き終えました。次は足立区の「B−北東エリア」の最初となる十八番目のコースである「B−北東エリア 18.葛西用水・八か村落しコース」を歩きます。




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