C−南西エリア 36.梅田・関原・荒川コース  



コース 踏破記  

今日は足立区の「C−南西エリア 36.梅田・関原・荒川コース」を歩きます。最初に歩いたのは2022年5月でしたが、記憶が薄れてきましたので2026年1月に改めて歩きました。

スタート地点:東武スカイツリーライン西新井駅東口

 1.ベルモント公園

 2.エル・ソフィア

 3.西新井さかえ公園

 4.関原不動

 5.関原銀座商店街

 6.西新井橋

 7.荒川河川敷

 8.虹の広場

ゴール地点:北千住駅西口


スタート地点の東武スカイツリーライン西新井駅東口から歩き始めます。



ポイント1.ベルモント公園

旧日光街道の梅島二丁目交差点から住宅地に入った先にベルモント公園があります。



ベルモント公園は、足立区とオーストラリアのベルモント市との姉妹都市提携を記念して造られたオーストラリアの文化に触れることのできる公園です。ベルモント市の紋章には、西オーストラリア州の象徴であるブラックスワン(黒鳥)が使われています。

ベルモント公園について

ベルモント市は、オーストラリアの首都キャンベラから西へ約3、000km、西オーストラリア州の州都パース市に隣接する、面積約40ku(足立区の約4分の3)の都市で、1984年10月1日に足立区と姉妹都市になりました。この公園は、足立区とベルモント市の友好交流を記念し、区制60周年記念事業の一環として1993年に整備されました。ベルモント市内にも日本をイメージした「足立パーク」があり、市民の憩いの場となっています。




道路を挟んで北側には遊具が設置された広場があります。2026年1月に再訪した際には、案内板の内容が一部書き換えられていました。

この公園は、1984年10月1日に足立区と姉妹都市になった、オーストラリアのベルモント市との友好交流を記念してつくられました。ベルモント市は、オーストラリアの首都キャンベラから西へ約3、000km、西オーストラリア州都パース市に隣接しています。面積は、約40kuと足立区の約4分の3です(2022年当時の記述では、「面積は、31、96kmと足立区の約5分の3、人口は約3万2、000人です」となっています)。市の中には、西オーストラリア州最大のパース空港があり、西オーストラリアの玄関口ともなっています。



南側には、洋風の建物と広い庭園があります。芝生には、羊のモニュメントが置かれています。オーストラリアでは、羊は主に羊毛と羊肉の生産のために飼育されていて、羊の飼育において世界で二番目に多い国です。かつては1億7000万頭も飼育されていましたが、現在は約6800万頭になっています。広大な土地と乾燥した気候が羊の飼育に適していて、全て内陸部や半乾燥地帯に放牧されていています。



公園の正門の奥に、オーストラリアの工芸品などを展示している入館無料の赤レンガの陳列館があります。

オーストラリアの人たちの生活や文化に触れてみませんか

オーストラリアの民芸品、日用品のほか、ベルモント市より寄贈された工芸品などを展示しています。入館は無料ですので、ご自由にお入り下さい。

展示内容
1Fーオーストラリアの日用品、工具、アボリジニ(原住民)の狩猟用具など
2F−ベルモント市より寄贈された工芸品等
(特別展示等のため展示内容が変更となる場合があります)

BELMONT PARK GALLERY

This gallery exhibits various articles from Australia. Please feel free to come inside and look around.




ベルモント市を紹介した案内板があります。スワン川の上流には、西オーストラリアで最も古いワイン産地として名高いスワンバレーがあります。スワンバレーには、家族経営のワイナリーから大規模なワイナリーまでたくさんのワイナリーがあります。パースからスワン川をクルーズしながらワイナリーを訪ねたり、フード&ワイン街道を行けば150軒以上のワイナリー・レストラン・カフェ・ショップなどが建ち並んでいます。私も一度訪れましたが、ワイナリー以上にクルーズ船上でもドンチャン騒ぎが思い出に残っています。

ベルモント市の紹介

「可能性に満ちた街」ベルモント市は、西オーストラリアの中でも他にはない魅力を持っています。ベルモント市では、すべてがパース市街から6キロ圏内に位置しており、整ったインフラや土地の活用、快適な住環境があります。また、これらの土地は、市内を11キロに渡って流れる自然豊かなスワン川の川辺にあり、手ごろな価格で手に入ります。このように、ベルモント市は誰もがうらやむ街になっています。ベルモント市には、パース空港や競馬場、工業地帯、大きな商業地域があり、住宅街も増えてきています。美しいスワン川が市境の一部を流れるベルモント市は、まさに「リバーサイドシティ」と呼ぶに相応しい街です。

There is no other city in Western Australia like the City of Belmont - the City of Opportunity. Its unique mix of land use, amenity and infrastructure - all within 6km from the Perth Central Business District - together with 11km of pristine Swan River frontage and affordable pricing, makes the City the envy of many. The City is home to the Perth Airport, as well as the horse racing industry, a prime industrial area, and a commercial centre encompassing major shopping and retail activity, along with a growing residential community. With the beautiful Swan River forming one of the City's main boundaries, the City of Belmont is a truly a riverside City.




黒鳥の剥製が展示されています。この黒鳥はかってベルモント公園で飼育されていましたが、深夜何者かによって頭部を殴打されて死んだとのことです。ひどいことをする人もいるもんです。

黒鳥(ブラックスワン)

黒鳥は西オーストラリアの州鳥であり、ベルモント市の北側を流れるスワン川にも多数生息しています。この黒鳥はベルモント市との友好の証として、ベルモント公園の池で飼育されていました。




最近、ベルモント市から寄贈されたワライカワセミの絵画も展示されています。

ワライカワセミの絵画

オーストラリアでは、ワライカワセミは“喜びと幸せ”の象徴として知られており、ベルモント市と足立区のこれまでの交流・喜び・友情を分かち合う証と言われています。

2024年1月11日 ベルモント市よりいただく

In Australia, the Kookaburra is known as a symbol of "joy and happiness" and is said to be a sign of shared exchange, joy, and friendship between Belmont City and Adachi Ward.




公園内には、ユーカリの木やブラシノキやアカシアなどの植物が植えられていて、オーストラリアの自然が感じられるようになっています。

ユーカリ Eucalyptus フトモモ科

植林などに多用される成長の早い常緑樹。ふつう幼葉と成葉とでは形が異なります。




ブラシノキは常緑の小高木で、別名カリステモン・ハナマキ(花槙)・キンポウジュ(金宝樹)とも呼ばれます。オーストラリア原産で、観賞用に栽培され、5月から6月頃に開花し、花弁は緑で小さくて目立ちませんが、赤(ときに白)く長い花糸が目立ちます。穂状花序をなし、花序全体がブラシのように見え、花序の先から枝が伸びるという珍しい特徴を持っています。



通路の脇にはバラ園もあります。



パーゴラも設置されています。パーゴラは、ベンチや屋外卓などの休養施設の上部に設置される修景施設のことで、日陰棚とも呼ばれます。藤棚が代表的なものです。



かっては、公園の中央にある池にブラックスワンが飼われていたようですが、今はいないようです。



公園の南西側の隅には「幼児用ひろば」があり、ブランコなどの遊具が置かれています。子ども連れでも楽しめる公園です。



旧日光街道に出た先に、道路を跨ぐようにして東武スカイツリーラインの梅島駅があります。梅島駅は、大正十三年(1924年)10月1日に開設され、当初は相対式ホーム2面2線を有し、駅舎が上下ホームで独立していました。昭和四十三年(1968年)3月に高架・複々線化された際、用地幅が狭かったことから営業線直上に高架橋を建設する方式が取られ、北千住寄りに上りホーム・西新井寄りに下りホームが一直線に配置された変則タイプとなり、緩行線にのみホームが設置され、その外側を急行線が走る配置となりました。駅名の由来は、町村統合の折りに梅田村の「梅」と島根村の「島」が合わさって村名となったことから、駅名にも命名されました。



ポイント2.エル・ソフィア

「L・ソフィア」は、梅田センターの愛称です。エル・ソフィアは、足立区梅田地域学習センター・図書館として知られ、地域の文化活動や学習の中心となっています。「エル・ソフィア」と命名された経緯は不明ですが、「エル:L」はLearning、「ソフィア:Sophia」はギリシャ語に由来して知恵・賢さを意味することから、学びを通して賢く成長するようにとの意味が込められているのではないかと思います。



梅田地域学習センターは、教養・文化・スポーツを通して地域交流を図るために様々な学習の機会を提供し、サークル等の自主的な活動を支援する生涯学習のための施設です。施設としては、体育館・舞台付ホール(レクホール)・学習室・会議室の他に教養室(和室)・工作室・料理室などがあります。男女参画プラザは、男女共同参画社会(性別に関係なく、家庭・地域・仕事の場でお互いを認め合って生きていく社会)の実現を目指し、区民・事業者及び区民団体の男女共同参画への取り組みを総合的に推進するための拠点となっています。



エル・ソフィア前交差点を右折し、環七南通りを進みます。少し先で、亀田トレイン通りに入ります。大正十三年10月に完成した荒川放水路の開削に合わせて、東武線の線路は荒川放水路に対して垂直に架ける必要があり、大幅に走行ルートが変更されました。かって線路があった場所は道路になり、現在は「亀田トレイン通り」という愛称が付けられています。



「リライズガーデン西新井カイレジデンス」は、かつて東武鉄道の西新井車輌工場があった跡地を再開発して、2004年の工場廃止後の2009年に建てられた総戸数738戸の大規模マンションです。



道路を挟んだ反対側には、「亀田トレイン公園」があります。ここも西新井車輌工場の跡地の一部を再開発して、2010年4月に区立公園として整備されました。春になると園内の桜並木がきれいに花を咲かせ、地域の人たちを楽しませてくれます。面積1、785平方メートルの広い敷地内には、車両工場をイメージした車輪のモニュメントや災害時の防火貯水槽・かまどベンチの他に、ブランコや鉄棒や健康遊具も設置されています。公園は、子どもから大人まで集う憩いの場としてだけではなく、防災とまちづくりの役割も担っています。道路に面した歩道の脇には、電車に因んで駅の看板を模した「かめだトレイン公園」と書かれた看板が立っています。



西新井駅に戻って、西口広場からバス通り(さくら参道)を進みます。西新井駅の南西側には、大正七年(1918年)に東京紡績西新井工場(後の日清紡東京工場)が完成し、平成十四年(2002年)まで操業しました。その跡地は、UR都市機構を中心に“西新井ヌーヴェル”の名称で再開発が進められ、平成十九年(2007年)にアリオ西新井がオープンしました。その名残で、道路名には「ぼうせき通り」といった愛称が付けられています。



「せんぷ通り」は、”染布(布地に色を付ける技術)”から名付けられたと思われますが、せんぷ通りと尾竹橋通りの間の広大な敷地にアリオ西新井があります。アリオ西新井は、都市再生機構が開発主体として進めた、14.5haに及ぶ日清紡東京工場跡地再開発事業「西新井ヌーヴェル」のひとつとして、平成十九年(2007年)11月9日にグランドオープンしました。イトーヨーカ堂が新業態「アリオ」として運営する大型ショッピングセンターとしては、全国で6店舗目(都内ではアリオ亀有に次ぐ2店目)で、イトーヨーカドーとしては176店舗目になります。東武スカイツリーライン西新井駅西口近くの環七通りと尾竹橋通りの交わる場所に位置していて、商業施設としての立地環境に優れています。また既存アリオの川口と亀有から何れも直線距離で十数キロメートルしか離れておらず、アリオとしてドミナントを形成しています。そうした立地特性もあり、モール型SCとしては狭く、1550台分の駐車場も地下・4階・5階・屋上に設置され(売場は1〜3階)、都市部のSCならではの構造となっています。店舗面積は3層構造で31、000uあります。

「アリオ西新井」は、イトーヨーカドー西新井店をメイン施設にして、100を超える専門店が集うショッピングモールです。地域の特性に合わせて、親子だけでなく、おじいちゃん・おばあちゃんまで三世代で楽しめるやさしい施設設計が特徴です。専門店は、マタニティから育児用品が揃うアカチャンホンポを始め、ベビードールなどの人気ブランドのショップ、かわいい衣装が揃うスタジオキャラット、ユニクロやGU(ジーユー)、無印良品など、ファッションから生活サービスが揃うほか、TOHOシネマズも併設していて、最新の映像・音響設備で迫力ある映画を楽しめます。赤ちゃん休憩室には、調乳専用温水器・授乳室・子ども専用トイレ・おむつ交換台・ベビーキープ・乳幼児用の計測機器・絵本コーナーなどを完備し、無料のマタニティ・育児相談室も設けています。ママがお買い物をしている間にパパと子どもが過ごす場所として使える「なかよしひろば」や、子どもも掴める高低差のある「2段手すり」など工夫のある設計が好評です。



ポイント3.西新井さかえ公園

アリオ西新井と「せんぷ通り」を挟んで西新井さかえ公園があります。西新井さかえ公園は、日清紡東京工場が建てられていた跡地を再開発し、その一画に公園が整備されました。隣接街区との一体的な街路景観を形成しながら、路地空間や街角広場を創り出しています。いぶし瓦や陶板を採用し、手作り感・素材感・地域性を反映した景観を呈しています。ベンチが沢山設置されていますので、ゆっくり寛ぐにももってこいです。トイレも清潔で、オムツ換え台が設置されていますので、小さなお子さん連れでも安心です。



公園には高木が林立し、周囲の高層住宅の住民の憩いの場になっています。



遊具も揃っています。



大人用の健康遊具もあります。



地区の歴史を解説した案内板が貼られています。



「のどかな時代」です。

のどかな時代

西新井大師は、江戸時代には、多くの参拝人で賑わいましたが、参道を外れれば、のどかな景色が広がっていました。明治三十二年(1899年)に、東武鉄道西新井停車場ができ、西新井大師までの沿道に少しずつ市街地が広がりました。昭和三年(1928年)頃にできた西新井音頭にその当時の風物が歌われています。

一つとせ 一番電車に乗り込んで 浅草停車場発車して 目ざす名所は西新井
二つとせ 二、三十分足らずで駅につき 降れば自動車の備えあり 西も東も花畑
三つとせ 見わたす限り花園で 春夏秋のながめあり 色香あらそい乱れ咲き




「進む市街化」です。

進む市街化

大正七年(1918年)この地に東京紡績(株)(大正十三年に合併して日清紡績(株))が進出し、この地の市街化のきっかけとなりました。その後、昭和五年(1930年)に荒川放水路が完成したことで水害も少なくなり、徐々に市街化が進み始めました。昭和三十年以降の経済の高度成長期に、ほぼ今の市街地がかたちづくられました。




「工場が移転して」です。

工場が移転して

平成十年(1998年)、日清紡績(株)東京工場移転の決定を機に、足立区は日清紡績や地域住民の協力を得て、UR都市機構とともに新たなまちづくりに取り組んできました。この公園は、日々の憩いの場となりながら、防災公園として住民とまちを守っていく機能を担っています。今後も、この地の発展を見守っていくことでしょう。




西新井さかえ公園を出て、「せきえい通り」を進みますと、T字路に突き当たります。



突き当たりを南北に延びるタイル貼りの道路が関原通りです。



「関原」という地名は、現在の関原二丁目にある「関原不動院大聖寺」に由来しています。関原不動の由来伝説によりますと、小宮光徳という関守が桂花老人から“関の原”と呼ばれた土地にある良辨という聖者が作った不動明王を与えると告げられました。光徳は老人の言葉に従って足立へ来訪し、八幡宮の傍らに草庵を結び不動明王を祀りました。これが関原の地名の由来とされています。



ポイント4.関原不動

関原山不動院大聖寺は、宝徳元年(1449年)開山と伝えられる寺院で、本山は奈良県桜井市にある長谷寺です。不動院の名の通り、本尊は不動明王で、良弁の作と伝えられています。



一際目立つ木造の本堂は、足立区内最大の大きさを誇ります。度々火災に遭いましたが、現在の本堂は嘉永元年(1848年)5月に深川木場の講中が材木その他を寄進し、8年の歳月を掛けて再建されたものです。外陣の格天井の欅板98枚には彫刻が施され、欄間にはボタンに唐獅子の彫刻がはめ込まれています。龍の巻き柱や襖絵も圧巻です。また浅草山谷講中が寄進した大賽銭箱(安政四年【1857年】銘)には銅の鋲がふんだんに打ち込まれています。このように、本堂の大きさのみならず、装飾にも大聖寺の隆盛を見て取ることができます。本堂の再建や大賽銭箱の寄進の他にも、眼病平癒のお礼に大提灯を八代目市川団十郎が寄進したという話が伝えられています。これらの江戸末期を中心とした事柄から、関原不動は広範な下町庶民の信仰を集めていたと考えられます。



石碑と石像が並んだ横に案内板が立っています。

大聖寺

本寺は寺蹟によると、応永年間(1394年〜1428年)に小宮光徳が関原の地に草堂を建て、不動明王を安置し、その後、天正十三年(1583年)に再建成就して、名を関原山不動院大聖寺と定めたという。江戸時代には、江戸の庶民の熱い信仰を受けた。現在の本堂(足立区登録有形文化財)は、嘉永元年(1848年)の建立で、区内随一の木造伽藍であるが、これは深川木場の講中が材木その他を寄進して再建されたものである。本堂中央の中の間の天井には九十九枚の彫刻がある。欅の木目を美しく生かし、彫りも深く、美麗精巧な美術品である。また、八代目市川團十郎奉納木造提灯扁額(足立区登録有形文化財)は、提灯本体に大きく「八代目」と記され、奉納の目的を父の寿海老人白猿(七代目市川團十郎)が記しており、著名な歌舞伎役者の家である市川家が大聖寺を信仰していたことを伝えている。本寺草創の由来を刻んだ関原不動尊略縁起、世に鉄眼版の名で知られる大般若経六百巻、文明年間(1469年〜1487年)の板碑二基なども蔵し、いずれも足立区登録文化財となっている。その他、本尊の不動明王(秘仏)を中心に八大童子像や百体の小観音像などがある。




ポイント5.関原銀座商店街

関原通りに入った先で、関三通りと交差します。この界隈は関原三丁目の町域になり、「関原銀座会」・「関三通り」・「関原イーストロード」と三つの名前が付いた下町情緒豊かな商店街が連なっていて、生活感のある日常風景を見せています。



惣菜天国と称される十条銀座商店街にも店舗を構える「惣菜みやはら」など、各種惣菜を扱う専門店がしのぎを削っていて、夕飯時を前に激安惣菜求めて周辺の主婦が行列を作っています。それに加えて多いのが西新井という土地柄、韓国食材店や韓国料理焼肉店が目立ち、荒川区の三河島エリアと双璧を成す都内屈指のオールドコリアタウンを形成しています。



「スワヤ」は、商店街で一際賑わう激安青果店で、豊富な品揃えとお得な商品で地元の方に大人気です。安く売る秘訣は、社長の話によると「創業以来50年間で培った情報網と、産地を特定せずその日の安い野菜を調達することで激安価格を実現し、コストを抑えるためにチラシや広告は一切出していない」とのことです。


社長さん(?)がTV番組のインタビューを受けています。


商店街には銭湯もあります。堀田湯は昭和十七年に当地で開業し、80年後の令和四年に改装オープンしました。新しい設備を導入しつつも、宮造りの建物を活かした温故知新な改装は歴史を感じながら現代のスタイルに溶け込みます。堀田湯の象徴といえる「葛飾北斎の桜花と富士のタイル絵」はそのままに、先代から変わらないやさしいお湯でほっとするひとときを過ごせます。



いろんなお湯が日替わりで楽しめるようです。



関原通りには、肉屋・魚屋・八百屋といった生鮮食品の店のほか、洋服店・酒屋・本屋など、多様な個人商店が軒を連ねています。中には90歳を超える女将さんがいる食料品店や、遠方からお客が訪れる青果店など、地域に根差したお店も多くあります。



呉服店の看板が半分写っていますが、これは「ライオン看板」と呼ばれる戦後の商店街で流行したものです。当時の繁栄を窺い知ることができます。2022年に訪れた時は、そんなに貴重な看板だと思わなかったので、たまたま撮った写真の中に看板の半分が映り込んでいました。ネットに全景を撮った写真がありましたのでお借りします。



2026年に再訪した時には、お店は取り壊され、跡地に住宅が建つようで、工事が始まっていました。左は、同じアングルの写真です。



呉服店のあった場所の隣には「大衆天国食堂」という年季の入ったお店があります。元々は食堂でしたが、長らくシャッターが降りたきりの空き店舗になっていました。一時期、店頭販売を始めたのだそうですが、今は食堂もやっているのかな?ちなみに、「天国」は「てんくに」と読むらしいです。



関原通りに面して、関原八幡神社が鎮座しています。関原八幡神社の謂れですが、そもそもは大聖寺の守護神として創建されましたが、明治の神仏分離令によって明治三年(1870年)に現在の地に移転したとのことです。



境内の欅の木は足立区の保存樹林に指定されています。

足立区指定第558号
保存樹木 けやき

当神社は、小宮光徳が不動明王を安置したことを起源としており、このケヤキは、嘉永元年(1848年)頃に現在の奉殿が新築された際、敷地の境に左右に植樹されたと伝えられている内の一本です。これからも、大切に見守っていきたいと思います。




関原通りと江北通りの交差点の右手に、「関原の森」と書かれた標柱が立っています。



関原の森は、貸し会議室・レンタルスペース・イベントスペースを兼ね備えた都市生活者の小さなステージで、街やモノをデザインする工房空間です。広場には、大きな椎の木が聳えています。



広場に面して、「愛恵まちづくり記念館」が建っています。

足立区愛恵まちづくり記念館

愛恵まちづくり記念館の沿革

愛恵学園は明治十六年(1883年)にキリスト教の日本メソヂスト教会の社会福祉施設として台東区に設立した、美以美(みいみ)尋常小学校が前身。この施設は、大正十二年(1923年)9月1日の関東大震災で焼失、別の地域での活動を余儀なくされた。そこでこの関原の地で再建し、昭和五年(1930年)から平成二年(1990年)まで、地域に親しみ社会福祉事業を行ってきた。60年間に渡る「愛恵学園」の活動が、その使命を終えたことから、足立区は土地と建物を取得し、愛恵学園の功績を残すとともに、関原地区のまちづくりのシンボルとして、愛恵学園にあった3棟の洋式園舎建築物(愛の家、恵の家、光の家)のうち最も古い「愛の家」を「愛恵まちづくり記念館」として保存整備した。

年代事柄
創設者と当時の状況
昭和五年(1930年)
アメリカ人宣教師のミス・M・A・ペイン先生
【愛恵学園の創設者で昭和三十七年(1962年)まで園長】が再建を任された。
当時この地区は、過酷な生活の中で未就学児童が多く社会福祉施設がないことを知り、
子供達の生活改善のため一生を捧げることを決意し、この地に愛恵学園を創設した。
昭和五年(1930年)「愛の家」が完成し開園。
乳児を預かるナースリースクールと乳幼児健康相談事業を開始。
昭和八年(1933年)「恵の家」が完成し、幼稚園を開設。
昭和十二年(1937年)「光の家」が完成し、 貧しい家庭に生まれ戸籍もなく学校へ行けない子供達を集め、
勉強や昼食を食べさせ生活習慣を身につけさせるという事業を開始した。
平成二年(1990年)当時の西田園長の意を受け愛恵学園の建物と跡地は、昭和六十二年(1987年)から始まった
関原地区のまちづくり(密集事業)に引き継がれた。
地元住民と区により構成される「まちづくり協議会」で検討した結果、
愛恵学園の活動の社会的意義を残し活かしていくために、
まちづくりの発祥の地であり足立区のまちづくりの拠点として整備することとなった。
平成六年(1994年)4月「関原の森」と名付け、「愛の家」を歴史資料展示や集会施設などを備えた
「愛恵まちづくり記念館」として保存、さらに、「まちづくり工房」や「住区センター」が建設され、
敷地は、広場として地域に開し、防火水槽などを備えた防災の拠点として整備された。


その後、まちづくり協議会は、この愛恵まちづくり記念館を拠点とし、密集事業による道路や公園などの公共施設整備に関する検討、まちづくりの普及・啓発や地域の活性化に向けたさまざまな取り組みを続けている。愛恵学園が灯し続けてきた愛と恵みの灯火は、形を変えながら、現在でも地域の人々に受け継がれ続けている。なお、この標示板は、2007年3月にまちづくり協議会が100回開催されたことを記念し、設置するものである。




愛恵まちづくり記念館の入口の脇に石碑が置かれています。

愛恵まちづくり記念館

この建物は(財)愛恵学園の園舎として昭和五年に建てられたものですが、関原一丁目地区コミュニティ住環境整備事業により地域に開かれた施設として生まれ変わりました。




現代的な「まちづくり工房館」は、区民の街造り活動の拠点として、区民相互の交流の場として利用できます。



ポイント6.西新井橋

西新井橋は荒川に架かり、尾竹橋通りを通しています。西新井橋の橋長は444.6メートル・総幅員15.7メートル・有効幅員15.0メートル・最大支間長76.2メートルの13径間の単純鋼鈑桁橋(主径間の3径間は連続鋼鈑桁橋)の橋です。歩道は橋の両側に2メートル幅で設けられています。最初の橋は、大正十三年(1924年)に通水を開始した荒川放水路の掘削に先立ち、大正十一年(1922年)3月に現在の橋の上流80メートルの場所に木桁橋として開通しました。「お化け煙突」として有名だった千住火力発電所の袂にあり、煙突を良く見渡せる場所として写真記録にその姿が残っています。橋の名前の由来は、西新井大師への経路に因んでいます。現在の西新井橋は、交通量が増大したことと経年による橋の老朽化のために、昭和三十五年(1960年)に架け替えられました。



スカイツリーが紅白に塗り分けられています。



ポイント7.荒川河川敷

西新井橋南詰から荒川右岸の河川敷に下りていきます。西新井橋から千住新橋までの千住新橋緑地は、例年「足立の花火」の会場になります。足立の花火は、明治時代に千住大橋の落成を祝って花火を打上げたのが始まりといわれています。大正十三年(1924年)には、千住新橋の開通を記念して「千住の花火」が行なわれました。その後、戦争や河川改修等により一時中断がありましたが、昭和五十四年(1979年)に復活しました。今では河川敷を生かした仕掛け花火が有名です。荒川の土手の一部は階段護岸や緩傾斜堤防になっていて、そこでゆったりと花火を楽しむことができます。河川敷と土手に観覧席が設けられるのですが、花火がよく見える場所は、殆ど有料席になっています。2024年は7月に予定されていましたが、開演20分前に落雷の発生があり、安全な花火大会の開催に支障をきたす恐れが出たため急遽中止となりました。2025年は天候による中止や熱中症の対策として5月31日に開催日が変更されましたが、強風の影響で2年連続の中止となりました。2026年は5月30日に決まりましたが、どうなりますかね。ちなみに、花火が打ち上げられる時間は1時間で、合計13、000発 が夜空に大輪の花を咲かせます。



広大な河川敷には、野球場やサッカー場が設けられています。休日には、少年野球大会があちこちで開催されます。



千住新橋の橋脚の下を通り抜けます。千住新橋は密接した2本の橋で国道4号(日光街道)を通し、橋長446メートル・幅員15.75メートル・最大支間長120メートルの鋼連続箱桁橋です。初代の橋は大正十三年(1924年)に開通し、老朽化に伴って昭和五十八年(1983年)に現在の橋に架け替えられました。



千住新橋の脇に、足立区生涯学習センターがあります。この建物の4階にある「荒川ビジターセンター(学びピア21)は、川に親しんでもらうことを目的として作られた施設で、荒川とその水系を中心とした自然や歴史、文化など、荒川に関する様々な 情報を発信しています。館内には解説員が常駐する他、荒川に住む生き物や植物や川の変遷・人々の営みなどが分かりやすく写真やパネルで展示されています。また、月に数回、荒川の身近な自然を観察したり、荒川への関心が高まるようなイベントも行われています。



ポイント8.虹の広場

荒川河川敷の荒川千住新橋緑地にある「虹の広場」は、7色のカラーブロックを使って舗装した広場です。中央には荒川で見られる野鳥や魚、昆虫などが描かれた絵タイル103枚が敷かれ、花壇には季節の花が色とりどりに咲きます。また、河川敷を訪れる車椅子利用者や高齢者の方でも気軽に利用できる「だれでもトイレ」もあります。虹の広場周辺には野球場などが多数整備されていて、広々とした空間でスポーツを楽しむことができます。虹の広場では四季折々の花が楽しめる、特に春は約14、000本のチューリップとパンジーが圧巻的な美しさを誇ります。満開になる5月に土手の上から眺めますと、広場の虹の絵を繋ぐようにチューリップが花壇を彩ります。チューリップの色は虹と同じ7色あります。春以外にも、夏にはカンナが見頃となり、夜空には花火が咲きます。秋は区民まつりの会場として訪れる人を楽しませます。



イベントがあると、多数のテントが立ち並びます。



トイレの壁には、足立区のマスコットキャラクターのひとつビュー坊が描かれています。



土手を下りた先に、江戸時代から骨接ぎで名を馳せた名倉医院があります。

千住名倉医院

骨接ぎといえば名倉、名倉といえば骨接ぎの代名詞になるほど、名倉医院は関東一円に有名である。下妻道に面し、日光道中や水戸街道分岐点を間近にして便がよかったため、駕籠や車で運ばれてくる患者がひしめいていたという。門前の広場は、これらの駕籠や大八車などの溜り場であった。名倉家は、秩父の畠山氏の末裔で、享保年中(1716年〜1736年)に千住へ移り、明和七年(1770年)に業祖名倉直賢が接骨医を開業したと伝わる。三代尚壽が嘉永元年(1848年)に将軍家御成のために創建した母屋や、長屋門が現存し、昭和五十七年十二月に足立区登録記念物(史跡)となった。名倉家当主は、業祖直賢以来代々「素朴」を号し、俳諧などの文芸を嗜み様々な人々と交流した。特に四代彌一の交流は幅広く、松方正義、橋本雅邦、菱田春草、横山大観といった当時を代表する人々から還暦を祝う書や画の色紙を贈られている。彌一と子の謙蔵は千住に住んでいた文豪・森鴎外や美術家・岡倉天心、千住の琳派絵師・村越向栄と親交し美術や文化の遺産を伝えた。千住名倉医院は、たたずまいと文化と美術を今に伝える史跡である。




広場の奥には、立派な長屋門と蔵が残っています。



名倉医院の直ぐ先に、下妻街道の標柱が立っています。10年前にこれを見て下妻街道の旅に出たのでした。



その先の四つ角の脇に、水戸・佐倉街道の標柱が立っています。10年前にこれを見て水戸街道と佐倉街道の旅に出たのでした。



四つ角の向かいに、昭和十三年築のお屋敷を改装した「和食 板垣」があります。江戸時代から千住に住んでいた旧家の板垣家は、大正時代には農家として現在の荒川の中に位置していましたが(川田耕地)、大正二年の荒川放水路掘削にあたり、現在の千住五丁目に転居しました。その後は荒物屋を開業し、商売を営んでいました。現在の建物は、東京市議会議員を務めた板垣信春氏が昭和十三年に住宅として建てたもので、旧日光街道と旧水戸街道が分岐する位置に現存します。板垣信春氏は、新道の建設に注力し実現に導いたことから、板垣家が面する道は地元では“板垣通り”と呼ばれています。大正期から昭和初期にかけて、和風住宅の一部に洋風の応接間のついた住宅が全国的に建てられましたが、旧板垣家住宅にもその典型的な建築様式が見られます。玄関の格天井や床の間の違い棚・欄間や建具などに繊細な細工がなされ、当時の当主と大工のこだわりが感じられます。令和二年、当時の当主である板垣稔氏が板垣家の相続に際し、建物を残して活用してくれる方への売却を希望しました。幼少の頃から板垣邸を見て育った近藤温思さんが土地・建物を購入し、令和二年(2020年)11月から「和食 板垣」として営業しています。



その隣に、2021年にオープンしたかき氷の「TSUJI」があります。季節の食材やお茶を使った美しいかき氷が話題の人気店です。お店の魅力は、季節によって変わる豊富なメニューで、夏はシャインマスカット・葡萄やメロン・桃・無花果など贅沢で魅力的なメニューが揃っています。



宿場通りに入ります。右手に「かどやの槍かけだんご」のお店があります。「槍」の字が書かれた藍色の日除け暖簾が目印のお店は、昭和二十三年(1948年)創業という北千住の名店で、看板商品の団子は、最上級の米粉や北海道産の小豆や雑味が少ないザラメといったこだわりの素材を使用しています。みたらしやあんこを絡めやすくするための平らな形もポイントです。昔から変わらぬ味を求めて、遠方からもファンが通います。水戸光圀公のご家来が近くの清亮寺の松の木に槍を立て掛けて団子を食べたという言い伝えが店名の由来とされています。



宿場通りには、歴史ある家屋が何軒か残されています。絵馬とは、神社やお寺に願い事やお礼を書いて奉納する木製の板のことです。古くは生きた馬を神に捧げていましたが、時代とともに木馬や土馬、そして絵に描いた馬へと変化し、現在の絵馬の形になりました。

千住絵馬屋・吉田家

吉田家は、江戸中期より代々絵馬をはじめ地口行灯や凧などを描いてきた際物問屋である。代々東斎を名乗っている。手書きで描く絵馬は都内にほとんど見掛けなくなって、稀少な存在となった。当代の絵馬師は八代目で、先代からの独特の絵柄とその手法を踏襲し伝統を守り続けており、昭和五十八年(1983年)十二月、千住絵馬づくりが足立区登録無形民俗文化財となった。絵馬は、縁取りした経木に、胡粉と美しい色どりの泥絵具で描く小絵馬で、千住絵馬と呼ばれる。絵柄は、安産子育、病気平癒、願掛成就、商売繁盛など祈願する神仏によって構図が決っており、三十数種ある。これらの代表的絵馬は、吉田家絵馬資料として足立区登録有形民俗文化財となっている。地口は江戸時代に流行したダジャレの一種である。ことわざや芝居の台詞、格言等を似た音に置き換えたものを地口といい、滑稽な画を描いて角型の行灯にしたものが地口行灯である。地口行灯は、元来、稲荷神社の初午の祭礼に奉納されていたが、現在は九月に千住の各宮で開催される秋祭りの際に飾られ、千住の街を灯している。




吉田家の向かいに、横山家住宅があります。

横山家住宅

横山家住宅(足立区登録有形民俗文化財)は、宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝えている。伝馬は、人や物資の輸送のために、各宿場に馬を負担させた江戸幕府の制度で、伝馬を負担した者には伝馬屋敷が与えられ、年貢なども免除された。横山家は、江戸時代から続く富裕な商家で、伝馬を負担していた。屋号は「松屋」で、今でいう再生紙を取り扱う地漉紙問屋であった。横山家住宅は戸口が街道から一段下がっており、上にいる客を下から迎える形となる。これは、お客様をお迎えする心がけの現れという。また、横山家の敷地は、間口が十三間(約23.5メートル)、奥行が五十六間(約102メートル)で鰻の寝床のように長い。現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和十一年(1936年)に改修が行われている。間口が九間(約16メートル)、奥行が十五間(約27メートル)あり、大きくてどっしりとした桟瓦葺の二階建である。広い土間、商家の書院造りと言われる帳場、二階の大きな格子窓などに、一種独特の風格を感じる。上野で新政府軍に敗れ、敗走してきた彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷跡や、戦時中に焼夷弾が貫いた屋根なども残っており、風雪に耐えてきた百数十年の歴史を語る住居である。




蔵の造りが図解されています。

横山家の蔵(非公開です)

江戸時代に地漉き紙問屋を営んだ横山家(屋号:松屋)には、外蔵2棟と、内蔵、紙蔵、米蔵の、5つの蔵がありました。現在敷地内に残るのは外蔵1棟です。横山家に向かって右側の道沿いに見ることができます。火災のときには扉や窓を閉め、隙間を 埋めて火が入らないように目張りするための壁土を常備し、固くならないようにときどきこねて、いつでも使えるようにしてありました。また、もし火事があったら、1週間はあけてはいけないと言われていました。

天井に、明治九年(1876年)と書かれた棟札があり、この蔵がつくられた年が わかります。

外側の窓には、以前は、観音開きの防火扉がついていました。

外壁の折れ釘は、補修作業のときにはしごを固定する際、縄をかけるためなどに使われます。デザイン的にもポイントになっています。

腰巻部分には煉瓦が使われています。

入口の扉は二重になっています。内側が引き戸、外側が観音開きの防火扉です。




ゴール地点の北千住駅西口に着きました。



ということで、足立区で三十六番目のコースとなる「C−南西エリア 36.梅田・関原・荒川コース」を歩き終えました。次は足立区で三十七番目のコースとなる「C−南西エリア 37.さかえ公園から都市農業公園コース」を歩きます。




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